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----------検証「従軍慰安婦」と「 日本人捕虜尋問報告 第49号」-----------

下記
「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」『従軍慰安婦資料集』吉見義明編(大月書店)に入っている。この尋問報告は「慰安婦は公娼だった」「慰安婦は商行為を行っていたのである」「従軍慰安婦など存在しない」などと主張し、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、繰り返し利用しているものである。その内容は多くの「従軍慰安婦 」の証言とかけ離れたものであり、その資料的価値には、いろいろな面で疑問がある。その主なものについて考えたい。

 まず第1に、尋問の方法が不明であり、その記述方法が極めて曖昧なことがある。下記付録Aにあるように、<
尋問を受けたのは20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人>であるが、朝鮮人「慰安婦」の証言か、日本の民間人(業者)の証言かが明らかでない記述には、大きな問題があると言わざるを得ない。なぜなら、朝鮮人「慰安婦」の生活や労働条件等について、日本の民間人(業者)が、詳しく正確なことを話すとは考えにくいからである。軍の監督下にあり従属的であったとはいえ、朝鮮人「慰安婦」の立場からみれば、民間人(業者)も加害者側といえる。性交渉を強要された朝鮮人「慰安婦」の証言の中には、軍人はもちろん、「経営者にぶたれるのではないかといつも身をちぢこませて」いなければならなかった(李容洙)というような証言(「従軍慰安婦」吉見義明<岩波新書>)がそれを物語る。

 「日本人捕虜尋問報告 第49号」の次に『従軍慰安婦資料集』に収められている
「東南アジア翻訳センター 心理戦 尋問報告 第2号」では、「それぞれの項目に対して付された整理番号は情報提供者を示す」とある。センターの尋問官、アメリカ陸軍歩兵大佐アレンダー・スウィフトは、だれが話したかを明らかにしているのである。また「正確を期すために十全の努力が払われているが、この報告のなかの
情報は、他の諸情報によって確証されるまでは控え目に評価されるべきである
」とも記している。それに比して、この第49号の報告は、そうした配慮や慎重さがないのである。

 次に、「
性向」の項目では、朝鮮人「慰安婦」が、無教育、幼稚、気まぐれ、わがままで、美人ではなく、自己中心的であると書かれている。また、<見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが「女の手練手管を心得ている」>ともある。20人の朝鮮人「慰安婦」について、20日余りの尋問期間で、こんなことが尋問官に分かるとは思えない。また、見知らぬ尋問官の前で、朝鮮人「慰安婦」がそうした性格を丸出しにすることは考えにくい。当然のことながら、そういう判断の根拠は全く示されていない。さらには、「慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている」とあるが、会ったこともないと思われる中国兵やインド兵について、なぜそのような証言をしたのか不思議である。どのような問いかけに対しての誰の証言であるか、また、どのような体験があったのか、などを明らかにしないと、報告としては価値がないだろうと思う。

 「
生活および労働の状況」の項目には、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、しばしば引用する文章が書かれている。朝鮮人「慰安婦」たちが、いかに厚遇されていたかということばかりが書かれているのである。他の多くの朝鮮人「慰安婦」が証言しているような、怒りを感じたことや悔しかったこと、辛かったこと、困ったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、腹立たしかったことなどは全く書かれていない。したがって、誰にどんな問いかけをして得た証言なのか、を明らかにしないと、朝鮮人「慰安婦」の「生活および労働の状況」の報告としては、ほとんど価値がないと言わざるを得ない。逆に日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のために証言したと考えれば、いろいろな点で納得できる記述である。

 「
利用割り当て表」の項目には、唐突に「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」と出てくる。朝鮮人「慰安婦」が進んでこのようなことを言い出すとは考えにくい。また、彼女たちを「売春婦」と捉えている尋問官が、そのことを問ただしたとも思えない。性交渉を拒否したために暴行を受け、傷つけられたという多くの証言あることを考えると、やはりこれも日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のためにした証言ではないかと疑われる。

 兵士たちの反応の項目には慰問袋の話がでてくるが、<
彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした>というのである。戦地の兵士に「小さな人形、下駄」も不思議であるが、「口紅」などあり得ない話ではないかと思う。にもかかわらず、それをそのまま報告しているのである。

 「
軍事情勢に対する反応」項目では、「ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである」とある。しかしながら、「兵士たちの反応」の項目には「彼女たちが
口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか…
」とある。したがって、これも朝鮮人「慰安婦」の証言ではなく、日本の民間人(業者)の証言だろうと思われる。

 「
宣伝」の項目の記述<ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べた>というのも、報告書全体からを考えると朝鮮人「慰安婦」の証言ではないであろう。

 「
徴集」の項目の一部記述と、最後の「要望」の項目にある<「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである>という記述は、朝鮮人「慰安婦」の証言かどうかは不明であるが、朝鮮人「慰安婦」の立場を語るものとして受け取ることができるものである。

 多くの人たちが、「従軍慰安婦」の訴えを退けるために、この資料を都合よく利用しているが、以上のことから、この「
日本人捕虜尋問報告 第49号」を、当時の「従軍慰安婦」の実態を示す資料として、都合のよい所だけを引用して利用することは許されないと考えるのである。
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                   第13部  連合軍による調査報告・指令
1 ビルマ  99 アメリカ戦時情報局心理作戦班 
                  日本人捕虜尋問報告 第49号  1944年10月1日
                                         アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
                                         アメリカ戦時情報局心理作戦班 
                                         APO689
秘                 日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所レド捕虜収容所
尋問期間1944年8月20日 ~ 9月10日
報告年月日1944年10月1日
報告者T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日1944年8月10日
収容所到着年月日1944年8月15日

はじめに

 この報告は、1994年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
 「慰安婦」とは、将兵のために、日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。


徴  集
 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの4つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は、「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。


性  向
 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は、25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。


生活および労働の状況
 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を配給されていなかったので、ミッチナでは「慰安所の楼主」から、彼が調達した食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は、多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音器をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度

 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1 兵    午前10~午後5時 1円50銭 20分~30分
2 下士官 午後5時~午後9時 3円    30分~40分
3 将校  午後9時~午前0時 5円    30分~40分


 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。

利用日割り当て表
 兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員2名が、隊員の確認のために、慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。


日曜日——第18師団司令部。
月曜日——騎兵隊
火曜日——工兵隊
水曜日——休業日、定例健康診断
木曜日——衛生隊
金曜日——山砲兵隊
土曜日——輜重隊

 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
 兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は、接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。


報酬および生活状態
 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
 さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちはあらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦は、すべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が実施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。


日本の軍人に対する反応
 慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に、丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応
 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
 しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。


軍事情勢に対する反応
 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」
 

 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。


退却および捕獲
 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。


宣  伝
 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。1人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちがたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。


要  望
 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されている投下に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

付録A

 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

    名  年齢   住 所
 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
 13 「C」 21歳 慶尚南(ナム)道慶山郡〔以下略〕
 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
 15 「Y」 31歳 平安南道平壌
 16 「O」 20歳 平安南道平壌
 17 「K」 20歳 京畿道京城
 18 「H」 21歳 京畿道京城
 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
 20 「K」 21歳 全羅南道光州

日本人民間人
 1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城

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「慰安婦」問題 「直言!」(櫻井よしこ)に対する5つの疑問---------

 「直言! 日本よ、のびやかなれ」櫻井よしこ(世界文化社)には「従軍慰安婦」問題に関わる記述がある。その記述に5つほど疑問を感じた(関係資料は別ページにした)。
 まず、
「直言!」には、「強制連行の事実はあったのか」と題して下記のような記述がある。

 強制連行だというイメージを定着させることになった発端は日本国政府のお詫びでした。政府が二度にわたり従軍慰安婦は強制的に連行されたものとの前提に立ってお詫びを表明しています。最初は、1992年1月16日、宮沢総理大臣が韓国を訪問した時です。その5日前に朝日新聞が、「日本帝国陸軍が従軍慰安婦の慰安所の設置と運営に関与していた」という内容の記事を一面で大きく取り上げました。そのことが恐らく、宮沢総理の足下を揺らがせたのでしょう。韓国で宮沢総理は、「従軍慰安婦の方々が筆舌に尽くしがたい思いをされたことは、誠に遺憾に思います」と言って、謝罪したのです。
 日本の総理大臣が謝ったため、韓国のマスコミも、一応沈静化の方向に向かいました。ただ、このような問題には、燃え上がっては沈静化し、沈静化しては燃え上がるという風にいくつもの波があるようです。翌年の93年8月、今度は河野洋平官房長官が謝る事態になりました。
 河野洋平官房長官は、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主としてこれにあたったが、その場合も、甘言、強圧によるなど、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり」などと述べて、謝罪しているのです。この官房長官談話は韓国では慰安婦が強制的に連行されたことを日本政府が正式に認めたものだと解釈されました。宮沢総理につづいて政府の顔である官房長官も謝ったのですから、そうとられても仕方がありません
。……

疑問1
 まず、一国の総理が「朝日新聞の記事に足下が揺らいで、謝罪した」というような理解が正しいのかどうか、という疑問である。宮沢総理が、二国間の重要問題であり、日本の国益に大きく関わる「慰安婦」問題で、事実に基づくことなく「朝日新聞の記事に足下が揺らいで、謝罪した」と主張するのであれば、何らかの根拠を示すべきではないか、と思う。個人的にそういう判断をすることが許されても、人前で講演し、著書を出版するということになれば、根拠を示さずそういう主張をすることには、問題があるのではないかと思うのである。

疑問2
 河野官房長官の談話(「従軍慰安婦」問題 資料NO1 日本政府の発表ーⅢ)の内容のどこが事実に反するのか、という疑問である。

 櫻井氏の
「慰安婦たちへの補償は民間でおこなうべき」には

 ……
宮澤総理や河野官房長官が、従軍慰安婦が官憲による強制連行であったと認め、日本を代表して謝罪することは、今現在、強制連行が歴史の事実であったと証明する資料が、吉田氏の著書以外に見あたらないならば、日本の歴史を歪めること以外のなにものでもありません。

 とある。河野官房長官の談話には「強制連行」という言葉は出て来ない。にもかかわらず、櫻井氏は一貫して「従軍慰安婦」問題イコール「強制連行」問題であるかのように置き換えて論じ、おまけに従軍慰安婦の証言については、全く触れられていない。元「従軍慰安婦」の証言には「騙されて慰安所に入れられた」というものもある。また「従軍慰安婦」問題は、たとえ強制連行でなく応募によるものであったとしても、慰安所に拘束され、自由な外出が許されず、性交渉を強制されたという事実があれば、重大な人権問題であることにかわりはない筈である。したがって奴隷狩りのような「強制連行」だけを取り上げて、「強制連行」を証明する資料が、吉田氏の著書以外に見あたらないから、河野官房長官の談話の内容は事実に反し、謝罪は必要ない、と主張できるのかという疑問である。

 元「従軍慰安婦」の方々の証言については、櫻井氏は全く取り上げていないのでどのように理解されているのか分からない。少なくても、河野官房長官の謝罪は、元「従軍慰安婦」の方々や関係者の方々の証言と、そうした証言に符合する様々な公文書や記録などに基づくものであることは
、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(龍渓書舎)でも明らかにされており、疑いない。日本政府の発表した「政 府・基金公表文書」の「2 いわゆる「従軍慰安婦問題について」平成5年8月4日 内閣官房内閣外政審議会室)には

……
政府は、平成3年12月より関係資料の調査を進めるかたわら、元軍人等関係者から幅広い聞き取り調査を行うとともに、去る7月26日から30日までの5日間、韓国ソウルにおいて、太平洋戦争犠牲者遺族会の協力も得て元従軍慰安婦の人たちから当時の状況を詳細に聴取した。また、調査の過程において、米国に担当官を派遣し、米国の公文書につき調査した他、沖縄においても、現地調査を行った。調査の具体的態様は以下の通りであり、調査の結果発見された資料の概要は別添えのである。……

とあるのである。
 しかしながら、櫻井氏は、そうした「証言」には全く触れず、文書資料だけで判断し、日本を代表する責任ある立場の人が、事実に基づくことなく、個人的見解で謝罪したというような受け止め方をされているように読み取れるのである。「従軍慰安婦」問題では、もちろん諸文書や記録との整合性も含まれるが、元「従軍慰安婦」の方々の証言の分析や検証に基づく理解が不可欠なはずである。それらを抜きに河野官房長官の謝罪を否定することはできないのではないかということである。

疑問3
 櫻井氏は
「政府の謝罪と外務省の資料との大きなギャップ」として内務省警保局長から各庁府県長官宛通牒『支那渡航婦女の取扱に関する件』(『「従軍慰安婦」問題 資料NO3 当時の文書』Ⅳ)を取り上げている。しかしその取り上げ方には疑問がある。この通牒が発せられたのは昭和13年2月23日付であるが、その前の昭和13年1月19日に群馬県知事から内務大臣や陸軍大臣のみならず、各庁府県長官宛に「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」という重要な文書(「従軍慰安婦」問題 資料NO3 当時の文書ーⅠ」)が送付されている。また、同じような内容の文書が、山形県(同ーⅡ)や高知県、和歌山県(同ーⅢ)、茨城県、宮城県から内務省警保局長宛てに発せられている。こうした文書に触れることなく、櫻井氏は

 この書類は、「最近支那(中国大陸)に渡る女性たちが増えているが、女性たちの募集や働き口を周旋する業者が、『あたかも軍当局の了解があるかのよう』に装うケースが増えていることに困っている」という書き出しで、以下の事を指示しています。……

 と言っている。困ったのは確かであろうが、
「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件(和歌山県知事)」(同ーⅢ)の文書の「四、関係方面照会状況」にあるようにこれは装いではなく、現実に軍の依頼に基づくものであった。政府や軍当局は秘かに集めるようにしてほしたかったのであろうが、業者は依頼を受けて集めたのである。警察の対応からもわかるように、それが広く知れわたると、大きな社会問題
に発展する可能性があり、政府は決断を迫られた、と考えられるのである。
さらに、

 役所が女性たちに身分証明書を発行するとき、彼女らに仕事の契約期間が満了したり、働かなくてもよい状態になったら、早く帰国するように勧めること、この種の仕事に就く女性は本人が警察に出向いて身分証明書をつくってもらうこと、警察はその場合、必ず女性の親か、または戸主の承認を得て身分証明書を出すことなどと書かれています。
 さらに(5)として「醜業を目的とする婦女に身分証明書を発給するときは、稼業契約その他各種の事情を調査し婦女売買または略取誘拐等の事実がないよう特に留意すること」と書かれています。
 売春の仕事に就かざるを得ない女性たちを、まかり間違っても本人の意志に反してそこに追い込んではならないとの思いが表れています
。…

 とも言っている。書かれていることは事実であるが、それを
「売春の仕事に就かざるを得ない女性たちを、まかり間違っても本人の意志に反してそこに追い込んではならないとの思いが表れています」と解釈するが、正しいのかどうか、当時の状況や前後に発せられた文書を読むと、疑問なのである。

 なぜなら、内務省警保局長が上記文書『支那渡航婦女の取扱に関する件』を発する前に、前述の群馬県知事から、(同ーⅠ)の文書にあるように
「公序良俗ニ反スルカ如キ募集ヲ公々然ト吹聴スルカ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方所轄前橋警察署長に対シ指揮致置候」と指摘されているのである。
 また、山形県知事は(同ーⅡ)
「所轄新庄警察署ニ於テ聞知シタルカ如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄カニ信シ難キノミナラス斯ル事案カ公然流布セラルルニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ホス悪影響尠カラス更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノトシテ所轄警察署長ニ於テ右ノ趣旨ヲ本人ニ懇諭シタルニ…」と指摘している。
 さらに和歌山県知事から内務省警保局長宛の文書(同ーⅢ)には
「酌婦ヲ呼ヒ酌セシメツツ上海行キヲ薦メツツアリテ交渉方法ニ付キ無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点軍隊ノミヲ相手慰問シ食料ハ軍隊ヨリ支給スル等誘拐ノ容疑アリタルヲ以テ被疑ヲ同行取締ヲ開始シタリ」と報告し、現状を批判しているのである。その他の社会状況もあり、政府(内務省)はむしろ追い詰められて、「二重基準」を決断し、国内向けには『支那渡航婦女の取扱に関する件』を発したと考えるべきではないか、といことである。

 同文書の
「婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ、実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルルモ…」の表現に表れているように、軍は慰安婦を求めており、それを否定するわけにはいかない状況にあった。
 したがって、世の批判をかわすために、日本国内から慰安婦を送る場合は、徹底して国際条約を遵守することにした、と捉えべきではないかと考える。
 その根拠は、同じ年の昭和13年3月4日には、陸軍省兵務局兵務課起案の
「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」という文書が「副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒」(「従軍慰安婦」問題 資料NO3 当時の文書ーⅤ)として発せられているからである。この「通牒」には「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」で定められていた、慰安婦を募集し送り出すための7つの制限項目がないことが重要である。まさに、「軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様」「関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ」て、朝鮮などから若い女性を慰安婦として集める「二重基準」政策を取ることにしたと考えられるのである。

 そして、こうした文書が発せられて以降、
「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」「従軍慰安婦」問題 資料NO4 婦女売買関係条約と報道)調印時に、日本が設定した「留保宣言」を利用して、現実に朝鮮を中心とする植民地や占領地から、多くの若い女性が慰安婦として集められることになった、ということである。櫻井氏のように、『支那渡航婦女の取扱に関する件』を、その前に発せられている文書や、その後に発せられた文書と切り離しては、その歴史的意味を理解することはできないのではないかと思う。資料の単なる文章理解で歴史を語ることには疑問がある。
 
疑問4
 また、櫻井氏は
「政府の謝罪と外務省の資料との大きなギャップ」の中で、 

 ただし、……慎重な配慮は中国に渡る日本人女性にだけ向けられたもので、朝鮮や中国、その他の国々の女性への取り扱いは全く異なっていたのではないかと疑うこともできます。

 と言っておきながら、元「従軍慰安婦」の聞き取りや証言に基づくことなく、
「渡支取締方ノ件」という台北州知事から警務局長などに宛てた文書を取り上げている。「渡航身分証明書並外国旅券発給状況」を表にした毎月の報告書である。確かに櫻井氏が指摘するとおり、1月の報告には「南支方面」の欄に、「内地人59、朝鮮人8、本島人8、計75」という数字が読み取れる。でも、分かるのはその数だけである。年齢も、売春婦であるかどうかも、親族や戸主の承認を得ているかも、何も分からない。内務省警保局長が発した各庁府県長官宛文書、「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」で制限した「1、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト」を含む7つの項目が、きちんと守られているかどうかは、この文書からは全く分からないのである。でも櫻井氏は

 日本人女性59名と共に朝鮮人女性と台湾人女性、各々8名ずつに、中国南部に渡るための身分証明書と旅券を発行したという記述です。このことから判るのは朝鮮人女性も台湾人女性も日本人女性と同様の手続きを経て中国大陸に渡ったということです。少なくてもこのケースからは日本人女性と非日本人女性との差別は見えてきません。

と言っている。もともと身分証明書と旅券の発行数の報告書から どうして「差別が見える」と考えるのか、まったく理解できない。それでは、兵站病院の軍医、麻生徹男の軍陣医学論文集(昭和14年6月26日)(「従軍慰安婦と兵站病院の軍医麻生徹男)の

「……
コノ時ノ被験者ハ半島婦人80名、内地婦人20余名ニシテ、半島人ノ内花柳病ノ疑ヒアル者ハ極メテ少数ナリシモ、内地人ノ大部分ハ現ニ急性症状コソナキモ、甚ダ如何ハシキ者ノミニシテ、年齢モ殆ド20歳ヲ過ギ中ニハ40歳ニ、ナリナントスル者アリテ既往ニ売淫稼業ヲ数年経来シ者ノミナリキ。半島人ノ若年齢且ツ初心ナル者多キト興味アル対象ヲ為セリ」

 という記述は、どのように理解すべきか、説明を求めたい。私は、これは差別の一端を示すものと捉えて間違いないと思う。ここでも元「従軍慰安婦」の方々の聞き取り調査は欠かせないものであり、そうした方々の証言を抜きに「渡航身分証明書並外国旅券発給状況」の報告書のみから、差別がなかった、という結論を引き出すことには、もともと無理があると言わざるを得ないのである。

 したがって、櫻井氏の

 それだけに、河野官房長官が慰安婦の募集等は「甘言・強圧によるなど、本人たちの意志に反して行われた」または「旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」と断言したのは資料の内容とはかなり異なると感じるのです。

との受け止め方も、当時「従軍慰安婦」がどのような状況にあったのかを理解した上での言葉とは考えられないのである。

疑問5
 さらに、櫻井氏は
「開設二ヶ月で閉鎖された慰安所」と題して、ジャワ島セマランの慰安所が閉鎖されたことを、日本軍が強制連行や強要を認めていなかった証拠として下記のように述べている。

 これは日本が戦いに敗れたあとの1947年12月22日に下された「戦争裁判の判決」の記録です。被告は9名、陸軍軍人5名、陸軍に雇われた民間人4名です。下された刑はいずれも重く1人が死刑を執行されています。残り8名は懲役20年から7年の実刑です。

 ・・・

 ここで、私の注意をひいたのは、女性に売春を強要するのは日本軍部の方針ではなかったという点です。たしかに1944年2月末に、オランダ人女性らを強要する形で慰安所が開設されたわけです。しかし「(女性が)自発的に慰安所で働くという軍本部の許可条件」が満たされていないために、この施設は開設2ヶ月になるかならないかで、軍本部の気付くところとなって閉鎖されているのです。
 言いかえれば、この慰安所に限って言えば、軍の規律に従わなかった不心得の将校や兵隊がオランダ人女性らに慰安行為を強要して企んだものだったことが、軍本部に伝わったとき、軍本部は施設を閉めさせて、それ以上女性が強制的に働かせることをやめさせていたという事実があるということです。つまり、このケースから考えると、日本軍は強制連行や強要による慰安婦を認めていなかったということになります。
 ただし、忘れてはならないのは、規律も規則も無視した悪どい兵がいたという事実です。彼等が女性を無理に働かせ売春させたことは許されません。だからこそ、彼らは戦後死刑にもなり長期間刑務所につながれたのです。ですが、彼らなりに己の罪の償いはすでにさせられているわけです。


 ここでの疑問は、では、なぜ日本軍部は、国際法違反及び軍の規律違反を犯した不心得の将校や兵隊を処罰しなかったのかということである。櫻井氏が
「戦争裁判の判決の記録」として取り上げたのは、日本軍部の軍法会議のものではない。注意深く読まないと、あたかも日本軍部が処罰したかのように誤読してしまうのあるが、櫻井氏は、「規律も規則も無視した悪どい兵」を、なぜ日本軍部が放置したのかについては触れていない。「だからこそ、彼らは戦後死刑にもなり長期間刑務所につながれたのです」ということが、日本軍部によるものなら、「日本軍は強制連行や、強要による慰安婦を認めていなかったということになります」は理解できる。しかし、慰安所は閉鎖したけれど、関係者を何の処罰もしなかったことから、事実は「国際世論の反発を恐れた陸軍省や軍司令部は、やむなく2ヶ月でこの慰安所を閉鎖せざるを得なかった」と理解すべきだと考えるのである。

-------------従軍慰安婦」問題 資料NO1 日本政府の発表-----------

ここには、『「慰安婦」問題 櫻井よしこの「直言!」に対する5つの疑問』で論じたことに関わる資料を、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』からとり

Ⅰとして「政府・基金公表文書」「1、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題      について」
Ⅱとして「いわゆる従軍慰安婦問題について」
     平成5年8月4日内閣官房内閣外政審議会室の文書を
Ⅲとして「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」 
     平成5年8月4日

の3つを入れた。
 特に、Ⅰの調査の期間や方法とともに、Ⅱの「調査の経緯」の記述が見逃せないものであると考える。”まだ不十分だ”という声も聞かれるが、幅広い調査が行われことが分かる。また、櫻井氏が批判した河野官房長官談話が、この政府の「慰安婦関係調査結果」の発表と同時に行われていることも踏まえる必要があると思う。謝罪は、こうした政府の「慰安婦関係調査結果」をもとにしたものであり、個人的見解によるものではないからである。

Ⅰ--------------------------------------------------
                         政府・基金公表文書

1、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題について 

 政府としては、12月より朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に政府が関与していたかどうかについて、関係資料が保管されている可能性のある省庁において関連資料の調査を行っていたところであるが、現在までの調査結果を下記の通りまとめたので発表する。なお、政府としては、今後とも新たな資料が発見された場合には、これを公表してまいりたい。


                            記
1 調査期間

 平成3年12月~平成4年6月

2、調査を行った省庁と調査方法 
  警察庁…①警察庁所管資料を調査。
      ②各都道府県の本部長に対して調査を依頼。
  防衛庁…防衛研究所を始め、陸上、海上及び航空の各自衛隊、防衛大学校等の防衛庁関係の各機関において戦史資料を中心に        調査。
  外務省…外交史料館等において、外交資料を中心に調査。
  文部省…①各国公私立大学附属図書館に対し調査を依頼。
      ②各都道府県教育委員会(公立図書館関係)及び私立図書館に対し調査を依頼。
  厚生省…復員関係資料及び軍人・軍属名簿を中心に調査
  労働省…本省関係部局及び関係機関並びに地方職業安定期間に「おいて調査。

3、調査結果 

(1) 各省庁から発見された資料の件数 

警察庁……0件   防衛庁……70件   外務省……52件   厚生省……4件労働省……0件

(2) 今回の調査で発見された資料を整理すると、次のとおり。(詳細は別紙のとおり、括弧内の件数は重複しているものもある。)
 ①慰安所の設置に関するもの(4件) 
 ②慰安婦の募集に当たる者の取締りに関するもの(4件) 
 ③慰安施設の築造・増強に関するもの(9件)
 ④慰安所の経営・監督に関するもの(35件)
 ⑤慰安所・慰安婦の衛生管理にお関するもの(24件)
 ⑥慰安所関係者への身分証明書等の発給に関するもの(28件)
 ⑦その他(慰安所、慰安婦に関する記述一般等)(34件) 

(3) 今回発見された資料の主な記述を上記分野に従って整理すると次の通り
 ①慰安所の設置については、当時の前線における軍占領地域内の日本軍人による住民に対する強姦等の不法な行為により反日感情が醸成され、治安回復が進まないため、軍人個人の行為を厳重に取り締まるとともに、速やかに慰安設備を整える必要があるとの趣旨の通牒の発出があったこと、また、慰安施設は士気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の予防等に対する影響が大きいため、慰安の諸施設に留意する必要があるとの趣旨の教育指導参考資料の送付が軍内部であったこと。


 ②慰安婦の募集に当たる者の取締りについては、軍の威信を保持し、社会問題を惹起させないために、慰安婦の募集に当たる者の人選を適切に行うようにとの趣旨の通牒の発出が軍内部であったこと。

 ③慰安施設の築造・増強については、慰安施設の築造・増強のために兵員を差し出すようにとの趣旨の命令の発出があったこと。

 ④慰安所の経営・監督については、部隊毎の慰安所利用日時の指定、慰安所利用料金、慰安所利用にあたっての注意事項等を規定した「慰安所規定」が作成されていたこと。

 ⑤慰安所・慰安婦の衛生管理については、「慰安所規定」に慰安所利用の際は避妊具を使用することを規定したり、慰安所で働く従業婦性病検査を軍医等が定期的に行い、不健康な従業具においては就業させることを禁じる等の措置があったこと。

 ⑥慰安所関係者への身分証明等の発給については、慰安所開設のため渡航する者に対しては軍の証明書により渡航させる必要があるとする文書の発出があったこと

 ⑦その他、業者が内地で準備した女子が船舶で輸送される予定であることを通知する電報の発出があったこと。


以上のようにいわゆる従軍慰安婦問題に政府の関与があったことが認められた。   
Ⅱ------------------------------------------------
2 いわゆる「従軍慰安婦問題について
                                              平成5年8月4日
                                              内閣官房内閣外政審議会室
1 調査の経緯

 いわゆる従軍慰安婦問題については、当事者による我が国における訴訟の提起、我が国国会における議論等を通じ、内外の注目を集めて来た。また、この問題は、昨年1月宮澤総理の訪韓の際、盧泰愚大統領(当時)との会談においても取り上げられ、韓国側より、実態の解明につき強い要請が寄せられた。この他、他の関係諸国、地域からも本問題について強い関心が表明されている。

 このような状況の下、政府は、平成3年12月より関係資料の調査を進めるかたわら、元軍人等関係者から幅広い聞き取り調査を行うとともに、去る7月26日から30日までの5日間、韓国ソウルにおいて、太平洋戦争犠牲者遺族会の協力も得て元従軍慰安婦の人たちから当時の状況を詳細に聴取した。また、調査の過程において、米国に担当官を派遣し、米国の公文書につき調査した他、沖縄においても、現地調査を行った。調査の具体的態様は以下の通りであり、調査の結果発見された資料の概要は別添えのである。


 調査対象機関  警察庁、防衛庁、法務省、外務省、文部省、厚生省、労働省、国立公文書館、国立国会図書館、 
            米国国立公文書館
 関係者からの聞き取り
         元従軍慰安婦、元軍人、元朝鮮総督府関係者、元慰安所経営者、慰安所付近の居住者、歴史研究家等
 参考とした国内外文書及び出版物
         韓国政府が作成した調査報告書、韓国挺身隊問題対策協議会、
         太平洋戦争犠牲者遺族会など関係団体が作成した元慰安婦の証言集等。 
        なお、本問題についての本邦における出版物は数多いがそのほぼすべてを渉猟した。
 本問題については、政府は、すでに昨年7月6日、それまでの調査の結果について発表したところであるが、その後の調査もふまえ、本問題についてとりまとめたところを以下に発表することにした。


2、いわゆる従軍慰安婦問題の実態について

 上記の資料調査及び関係者からの聞き取りの結果、並びに参考にした各種資料を総合的に分析、検討した結果、以下の点が明らかになった。
(1) 慰安所設置の経緯
  各地における慰安所の開設は当時の軍当局の要請によるものであるが、当時の政府部内資料によれば、旧日本軍占領地内において日本軍人が住民に対し強姦の不法な行為を行い、その結果反日感情が醸成されることを防止する必要があったこと、性病等の病気による兵力低下を防ぐ必要があったこと、防諜の必要があったことなどが慰安所設置の理由とされている。
(2) 慰安所が設置された時期
  昭和7年にいわゆる上海事変が勃発したころ同地の駐屯部隊のために慰安所が設置された旨の資料があり、そのころから終戦まで慰安所が存在していたものとみられるが、その規模、地域的範囲は戦争の拡大とともに広がりをみせた。
(3) 慰安所が存在していた地域
  今次調査の結果慰安所の存在が確認できた国又は地域は、日本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、タイ、、ビルマ(当時)ニューギニア(当時)、香港、マカオ及び仏領インドシナ(当時)である。
(4) 慰安婦の総数
  発見された資料には慰安婦の総数を示すものはなく、また、これを推認させに足りる資料もないので、慰安婦総数を確定するのは困難である。しかし、上記のように、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したものと認められる。
(5) 慰安婦の出身地
  今次調査の結果慰安婦の出身地として確認できた国又は地域は、日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、及びオラ  ンダである。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本人を除けば朝鮮半島出身者が多い。
(6) 慰安所の経営及び管理
  慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営したケースもあった。民間業者が経営した場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の私設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項などを定めた慰安所規定を作成するなど、旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した。
 
  慰安婦の管理については、旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために、慰安所規定を設けて利用者に避妊具使用を義務付けたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行う等の措置をとった。慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて管理していたところもあった。いずれにせよ、慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍と共に行動させられており、自由もない痛ましい生活を強いられことは明らかである。

(7) 慰安婦の募集 
  慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性が高まり、そのような状況の下で、業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースが数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースもみられた。

(8) 慰安婦の輸送等
  慰安婦の輸送に関しては、業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際し、旧日本軍は彼女らを特別に軍属に準じた扱いにするなどしてその渡航申請に許可を与え、また日本政府は身分証明書等の発給を行うなどした。また、軍の船舶や車輌によって戦地に運ばれたケースも少なからずあった他、敗走という混乱した状況下で現地に置き去りにされた事例もあった。


Ⅲ--------------------------------------------------
3、慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話
                                                     平成5年8月4日
 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、1昨年12月より調査を進めてきたが、今般その結果がまとまったので発表することにした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦としての数多くの苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からのお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
 

-------------
「従軍慰安婦」問題 資料NO2 日本政府の発表-----------

ここには、、『「慰安婦」問題 櫻井よしこの「直言!」に対する5つの疑問』で論じたことに関わる資料を、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』から

Ⅳとして『「従軍慰安婦」にさせられた人々』 (1995年 10月25日発行 アジア女性基金パンフレットより)
Ⅴとして元従軍慰安婦の人たちに送られた「内閣総理大臣の手紙」
Ⅵとして同じように元従軍慰安婦の人たちに送られた「女性のためのアジア平和国民基金理事長の手紙」

を入れた。いずれも、日本国として「従軍慰安婦」問題における軍や政府の関与を認めた文書である。

 特に、Ⅳにある「最初は日本国内から集められた女性が多かったのですが、やがて当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から集められた女性がふえました。その人たちの多くは、16、7歳の少女もふくまれる若い女性たちで、性的奉仕をさせられるということを知らされずに、集められた人でした」の記述に注目したい。
 なぜなら、日本国内から戦地の慰安所に「慰安婦」を送る場合は、内務省警保局長が各庁府県長官宛(除東京府知事)に発した「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」の文書で
 1、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ……外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト
など、国際法に則って7つの制限項目を設けていたからである(この文書の全文は「325「従軍慰安婦」問題 資料NO3 内務省と軍の文書」のⅩに入れた)。
 朝鮮からの「慰安婦」に「16、7歳の少女もふくまれる若い女性たち」がいたという事実は、それが守られていなかった証拠であり、「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の調印時に日本がつけた留保宣言、『下記署名ノ日本「国」代表者ハ政府ノ名ニ於テ本条約第5条ノ確認ヲ延期スルノ権利ヲ留保シ且其ノ署名ハ朝鮮、台湾及関東租借地ヲ包含セサルコトヲ宣言ス』を適用した差別政策、すなわち「二重基準」の政策の結果なのである(同条約は「326<従軍慰安婦>問題 資料NO4 婦女売買関係条約と報道」ⅩⅡに入れた)。
      
Ⅳ--------------------------------------------------
                             政府・基金公表文書

 「従軍慰安婦」にさせられた人々

              ──1995年 10月25日発行 アジア女性基金パンフレットより──

 「従軍慰安婦」とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性のことです。
 慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。1931年(昭和6年)満州事変がはじまると、翌年には戦火は上海に拡大されます。この第1次上海事変によって派遣された日本の陸海軍が、最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、戦線の拡大とともに大きく増加します。

 当時の軍の当局は、占領地で頻発した日本軍人による中国人女性レイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることをおそれて、防止策をとることを考えました。また、将兵が性病にかかり、兵力が低下することをも防止しようと考えました。中国人の女性との接触から軍の機密がもれることもおそれられました。
 岡部直三郎北支那方面軍参謀長は1938年(昭和13年)6月に出した通牒で、次のように述べています。


「諸情報ニヨルニ、………強烈ナル反日意識ヲ激成セシメシ原因ハ………日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ………深刻ナル反日感情ヲ醸成セルニ在リト謂フ」「軍人個人ノ行為ヲ厳重ニ取締ルト共ニ、一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整ヘ、設備ノナキタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス」
 このような判断に立って、当時の軍は慰安所の設置を要請したのです。

 慰安所の多くは民間の業者によって経営されましたが、軍が直接経営したケースもありました。民間業者が経営する場合でも、日本軍は慰安所の設置や管理、女性の募集について関与し、「統制」を行いました。日本国内からの女性の募集について、1938年3月4日に出された中央の陸軍省副官の通牒には次のようにあります。
 「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ、或ハ………募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」


 最初は日本国内から集められた女性が多かったのですが、やがて当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から集められた女性がふえました。その人たちの多くは、16、7歳の少女もふくまれる若い女性たちで、性的奉仕をさせられるということを知らされずに、集められた人でした。

 1941年(昭和16年)12月8日、日本は米英オランダに宣戦布告し、(太平洋戦争)、戦線は東南アジアに広がりました。それとともに慰安所も中国から東南アジア全域に拡大しました。そのほとんどの地域に朝鮮半島、さらには中国、台湾からも、多くの女性が送られました。旧日本軍は彼女たちに特別軍属に準じた扱いをおこない、渡航申請に許可をあたえ、日本政府は身分証明書の発給をおこなうなどしました。それと同時にフィリピン、インドネシアなど占領地の女性やオランダ女性が慰安所に集められました。この場合軍人が強制的手段をふくめ、直接関与したケースも認められます。


 慰安所では、女性たちは多数の将兵に性的な奉仕をさせられ、人間としての尊厳をふみにじられました。さらに、戦況の悪化とともに、生活はますます悲惨の度をくわえました。戦地では常時、軍とともに行動させられ、まったく自由のない生活でした。
 日本軍が東南アジアで敗走しはじめると、慰安所の女性たちは現地に置き去りされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました。

 一体どれほどの数の女性たちが日本軍の慰安所に集められたのか、今日でも事実調査は十分に「はできていません。1939年(昭和14年)広東周辺に駐屯していた第23軍司令部の報告では、警備隊長と憲兵隊監督のもとにつくられた慰安所にいる「従業婦女ノ数ハ概ネ千名内外ニシテ軍ノ統制セルモノ約850名、各部隊郷土ヨリ呼ビタルモノ約150名ト推定ス」とあります。第23軍だけで一千人だというのですから、日本軍全体では相当多数の女性がこの制度の犠牲者となったことはまちがいないでしょう。現在研究者の間では、5万人とか、20万人とかの推計がだされています。


 1945年(昭和20年)8月15日戦争が終わりました。だが、平和がきても、生き残った被害者たちにはやすらぎは訪れませんでした。ある人々は自分の境遇を恥じて、帰国することをあきらめ、異郷に漂い、そこで生涯を終えました。帰国した人々も傷ついた身体と残酷な過去の記憶をかかえ、苦しい生活を送りました。多くの人が結婚もできず、自分の子供を生むことも考えられませんでした。家庭ができても、自分の過去をかくさねばならず、心の中の苦しみを他人に訴えることができないということが、この人々の身体と精神をもっとも痛めつけたことでした。
 軍の慰安所で過ごした数年の経験の苦しみにおとらない苦しみの中に、この人々の戦後の半世紀を生きてきたのです。

 現在韓国では、政府に届けでた犠牲者は162名とのことです。フィリピン、インドネシア、台湾、オランダ、朝鮮民主主義共和国、中国などの国や地域からも名乗りでている方々がいます。しかし、いずれにしても多くの人がこの世を去ったか、名乗りでることをのぞんでおられないのです。このことも忘れてはならないでしょう。


Ⅴ-------------------------------------------------
                         内閣総理大臣の手紙

拝啓
 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
 いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として、改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
 我々は、過去の重みからも未来の責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。
 末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。
                       平成8(1996)年    
                       日本国内閣総理大臣  橋本龍太郎

Ⅵ-------------------------------------------------
         女性のためのアジア平和国民基金 理事長の手紙

 謹啓
 日本国政府と国民の協力によって生まれた「女性のためのアジア平和国民基金」は、かつて「従軍慰安婦」にさせられて、癒しがたい苦しみを経験された貴方に対して、ここに日本国民の償いの気持ちをお届けいたします。

 かつて戦争の時代に、旧日本軍の関与のもと、多数の慰安所が開設され、そこに多くの女性が集められ、将兵に対する「慰安婦」にさせられました。16、7歳の少女もふくまれる若い女性たちが、そうとも知らされずに集められたり、占領下では直接強制的な手段が用いられることもありました。貴方はそのような犠牲者のお一人だとうかがっています。
 
 これは、まことに女性の根源的な尊厳を踏みにじる残酷な行為でありました。貴女に加えられたこの行為に対する道義的な責任は、総理の手紙にも認められている通り、現在の政府と国民も負っております。われわれも貴女に対して、こころからお詫び申し上げる次第です。
 貴女は、戦争中に耐え難い苦しみを受けただけでなく、戦後も50年の長きにわたり、傷ついた身体と残酷な記憶をかかえて、苦しい生活を送ってこられたと拝察いたします。
 
 このような認識のもとに、「女性のためのアジア平和国民基金」は、政府とともに、国民に募金を呼びかけてきました。こころあるい国民が積極的にわれわれの呼びかけに応え、拠金してくれました。そうした拠金とともに送られてきた手紙は、日本国民の心からの謝罪と償いの気持ちを表しております。

 もとより謝罪の言葉や金銭的な支払によって、貴女の生涯の苦しみが償えるものとは毛頭思いません。しかしながら、このようなことを二度とくりかえさないという国民の決意の徴(シルシ)として、この償い金を受けとめて下さるようにお願いをいたします。
 「女性のためのアジア平和国民基金」はひきつづき日本政府とともに道義的責任を果たす「償いの事業」のひとつとして医療福祉支援事業の実施に着手いたします。さらに、「慰安婦」問題の真実を明かにし、歴史の教訓とするための資料調査研究事業も実施てまいります。

 貴女が申し出てくださり、私たちはあらためて過去について目をひらかれました。貴女の苦しみと貴女の勇気を、日本国民は忘れません。貴女のこれからの人生がいくらかでも安らかなものになるようにお祈り申し上げます。
                                                                 敬具
                                         平成8(1996)年
                                         財団法人 女性のためのアジア平和国民基金
                                                        理事長  原 文兵衛



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