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「従軍慰安婦」と軍医 麻生徹男-----------------

 戦地で問題とされた性病は、当時「
花柳病(カリュウビョウ)」と呼ばれていたようである。かつて花柳界で蔓延したからだという。下記は「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」兵站病院の産婦人科医 麻生徹男(石風社)から抜粋したものであるが、「はじめに」と題して『「好人不當兵」私達日本人は中国にとって善き隣人ではなかった。我が国振りの国民皆兵を思い、又1937年の南京に想いを馳せるなら、一億の大和民族之れ皆戦犯である。…』、という麻生徹男本人が、タイプ印刷で出版した「戦線女人考など」の序文が入っている。こうした視点があったから出てきた資料であろうが、花柳病のみならず、「慰安婦」に対する当時の実態や考え方を知ることが出来る貴重な資料だと思う。

資料1 
 2の「
娼婦」の項目では、彼が調べた「半島婦人80名、内地婦人20余名」のうち朝鮮人(半島人)娼婦(従軍慰安婦)は皆若く花柳病は極めて少ないが、日本人の娼婦(従軍慰安婦)は、花柳病の「急性症状」こそないが、大部分が20歳を過ぎた経験者であり 「既往花柳病ノ烙印ヲオサレシ、アバズレ女ノ類ハ敢ヘテ一考ヲ与ヘタシ。此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何(イカガ)ハシキ物」であると非難している。そして、「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」というのである。そこに、多くの朝鮮人少女がその被害者となった理由が存在するといえる。

 なぜなら、それは、昭和13年2月23日内務省警保局長が「
各庁府県長官宛(除東京府知事)」に出した「支那渡航婦女ノ取扱ニ関ス ル件」(内務省発警第5号)で、「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ 花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ……外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト」としていたからである(「従軍慰安婦」政府・軍関係資料 NO1)。世論を配慮し、日本内地から海外に慰安婦を送る場合にのみ、国際条約に沿うかたちで、こような制限を加えていたのである。だから、それを「日本人女性の貞操を守るために、朝鮮人少女を身代わりにした」と指摘する論もある。

 3の「
検黴」(ケンバイ、梅毒=黴毒、その他の花柳病感染の有無を検査すること)の項目では、検黴とともに、「検黴ノ後ニ来ル治療ノ徹底」の重要性を主張している。また、「軍用特殊慰安所トシテ建造」され、「各室ニ洗滌所(アエンジョウジョ)ヲ有シ、切符発売所、出入口 其ノ他ノ諸設備」のある、統制下の「妓楼」は罹患率は極めて少ないと報告している。さらに、「検査、監督ノ位置ニアル者ノ個人的登楼或ヒハ接娼ノ如キハ一考ヲ要ス可キ問題ナリ。マシテ其ノ職権ヲ濫用シ其ノ間何事カ画策スル所アルハ遺憾千万ナリ」と、問題ある実情を指摘している。

 4の「
アルコール飲料」の項目の結論は、『小官ハ此ノ見地ヨリ軍隊内ニテ最小限度ノ酒ノ消費セラレン事ヲ切望スルモノナリ。増シテ 今日マデ軍隊内諸事故ノ大部分ガ所謂「酒ノ上カラ」ナル事実ハ此ノ確信ヲ益々強固ニスルモノナリ』であろうが、それに続けて「軍用特殊慰安所ハ享楽ノ場所ニ非ズシテ衛生的ナル共同便所ナル故…」という表現が出てくることを見逃すことが出来ない。

 6の「
花柳病ノ認識」では、「軍隊内ニ於ケル性教育ノ徹底ハ重且ツ大ナル問題ナリ」が結論ではないかと思う。「軍用慰安所ノ娼婦ハ 常ニ監督指導スルヲ必要トス」や「更ニ彼女等ノ用益者タル男子側ニ於テモ其レヨリモ一層ノ認識ヲ必要トス」というのである。

 8の「
患者ノ取扱」でも、「検黴」の項目と同じように問題ある現実を明らかにしつつ、理不尽な「花柳病士卒ノ特典」について「実ニイマイマシキ限リナリ」と怒りをあらわにしている。

資料2
 付録資料の「
陣中日誌」にも、下記のような、花柳病に関わる問題の指摘や講演の記述がある。

資料3
  なお、同書には『
麻生徹男「従軍慰安婦資料」をめぐって』と題する「天児 都」(著者軍医麻生徹男の二女)名の付録がついている。 そこに上記「半島婦人80名、内地婦人20余名」について、下記資料3のような重要な記述がある。
 
注:いくつか読み仮名(括弧内の半角カタカナ)をつけた。
資料1-------------------------------------------------

                                軍陣医学論文集
 一 花柳病ノ積極的豫防法

1、緒言 


2、娼婦
 昨年1月小官上海郊外勤務中、1日命令ニヨリ、新ニ奥地ヘ進出スル娼婦ノ検黴ヲ行ヒタリ。
コノ時ノ被験者ハ、半島婦人80名、内地婦人20余名ニシテ、半島人ノ内花柳病ノ疑ヒアル者ハ極メテ少数ナリシモ、内地人ノ大部分ハ現ニ急性症状コソナキモ、甚(ハナハ)ダ如何(イカガ)ハシキ者ノミニシテ、年齢モ殆ド20歳ヲ過ギ中ニハ40歳ニ、ナリナントスル者アリテ既往ニ売淫稼業ヲ数年経来シ者ノミナリキ。半島人ノ若年齢且ツ初心ナル者多キト興味アル対象ヲ為セリ。ソハ後者ノ内ニハ今次事変ニ際シ応募セシ、未教育補充トモ言フ可キガ交リ居リシ為メナラン。
 一般ニ娼婦ノ質ハ若年齢程良好ナルモノナリ。

 福岡県ニ於ケル年齢40歳マデノ調査ニテ、20歳以下ノ者ノ数ハ

 芸妓 56.3% 娼妓 29.1%   酌婦 44.6%  女給 46.5% 


 ヲ示セリ。即チ娼婦ノ約半数ハ年齢20歳以下ノ者ト言フヲ得ベシ。故ニ若年ノ娼婦ニ保護ヲ加ヘル事ガ重要ニシテ、意義アル事ナリ。サレバ戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス。而シテ小官某地ニテ検黴中屡々(シバシバ)見シ如キ両鼠蹊部(ソケイブ)ニ横痃(オウゲン)手術ノ瘢痕ヲ有シ明ラカニ既往花柳病ノ烙印ヲオサレシ、アバズレ女ノ類ハ敢ヘテ一考ヲ与ヘタシ。此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何ハシキ物ナレバナリ。如何ニ検黴ヲ行フトハ言ヘ。

 一応戦地ヘ送リ込ム娼婦ハ、内地最終ノ港湾ニ於イテ、充分ナル淘汰ヲ必要トス。マシテ内地ヲ喰ヒツメタガ如キ女ヲ戦地ヘ鞍変ヘサス如キハ、言語同断ノ沙汰ト言フ可シ。
 此レト類似セル問題トシテ現地支那ノ娼婦及ビ難民中ノ有病売淫者ヘノ黴毒性疾患ノ浸潤驚ク可キモノアルガ如シ。此レ等ニ対シテハ軍トシテ若シ必要ナラ軍用慰安所トシテ我ガ監督下ニ入ルゝカ、然カラザル者ニ対シテハ断乎トシテ処置ス可キナリ。独乙「ケルン市ノ守備兵間ニ一時花柳病ガ蔓延シ、特ニ厳重ナル検黴モ効果ナク、罹患者22%ト言フ高率ヲ示セリ。此レ即チ私娼ノ跋扈ニヨルモノナリキ。
此ノ為メ該市ニテハ英米ノ先例ニナラヒ女警官ヲ置キ、コノ粛正ニアタラシメ著効ヲ奏シタリト言フ。ココニ注意ス可キハ支那娼婦ノ内或ル者ハ予防法殊ニ「コンドーム」ノ使用ヲ忌避シ、其ノ甚シキハ之レヲ破棄スト。此レ敵ノ謀略ニヨリ戦力ノ消耗セラルゝト同一結果タリ。


3、検黴(ケンバイ) 
 花柳病(カリュウビョウ)蔓延、容易ナル伝染及ビ其ノ撲滅ノ困難ナル重大原因トシテハ淋疾ノ根治シ難キニアリ。シカモ此レガ一度ビ婦人ノ下腹諸臓器内ニ喰ヒ込ミシ場合ヲ考ヘンカ、思ヒ半バニ過ギルモノアラン。サレバ検黴ハ無効ノモノナランカ。今日マデノ文献ニ徴スルニ所謂検黴制度ヲ有スル公娼ト密淫売ヨリ受クル感染率ハ両者相伯仲(アイハクチュウ)シ、アタカモ検黴無用論ヲ証明セル如キ感アリ。サレバ小官ハ今此所ニ検黴ニツキ一考察ヲ与ヘ見ン。


 
・・・(4行略)
 
 然ルニ、1908年「ヘヒト」ハ其ノ売淫者ノ一小部分、即チ僅々(キンキン)5%、或ハ10%ニシカ及バザルガ如キ検黴ハ全ク無用ナリト唱ヘ出セリ。彼ノミナラズ今日ニテモ無用論ヲ唱ヘル者少シトセズ。彼等ハ登録娼婦数ハ売淫婦全体数ニ比シ全ク少数ナリト言ヘリ。数ノ判明セル、伯林、「ケルン」、巴里市等ニテハ、此レ等密淫者ハ公娼ノ7乃至(ナイシ)10倍ニ達セリト。恐ラク今日ノ日本内地ニテモ同様ナラン。然カモ今戦地ニテモ其レト類似セル現地密淫者ノ出没ヲ認メ得ルモ、大局ヨリ見
軍ハ其ノ統制下ニ置ク特殊慰安所ヲ設置スル故、此ノ検黴用論(ママ:検黴無用論)ハ全ク適用サレズ、且ツ最近ノ報告ニヨレバ「ニユルンベルヒ」及ビ「ボヘミヤ」ニテ、頻回ナル検黴ガ効ヲ挙ゲタリト言フ。而シテ検黴ガ有効ナリトテモ、其ノ当ヲ得ラズバ更ニ一歩進メル弊害ヲ生ム。即チ検黴効果ノ衛生的全幅的発揚ヲ望マバ其ノ後ニ来ル罹病者ノ隔離、治療コソ必須ノモノナレ。此レヲ伴ハザル検黴ハ全ク有名無実ノ甚ダシキモノナリ。小官ハ某地在勤中此ノ点痛切ニ感ゼシモノナリキ。此ノ頃マデハ軍ニハ此レニ対スル一定ノ方針無ク、唯出来得ル所ニテハ大都市ニアル地方人医院ニ治療ヲ依頼スルニ止マリ居レリ。其ノ後1年有半ハ過ギ小官モ該検査ヨリ遠ザカル事永キニ亘ルヲ以ツテ目下ノ状況ニハ詳(ツマビ)ラカナラザルモ、此ノ検黴ノ後ニ来ル治療ノ徹底無キトセンカ、ソモ検黴ハ何ノ為メゾ。宜シク軍ハ此ノ為メニモ一ツノ確タル統制ヲ必要トス。

 次ギニ有リ得ベカラザル事ナルガ検黴ノ弊害トシテ見逃セ得ザル一事アリ。即チソノ検査者ト営業者乃至被検査者間ノ情実問題ナリ。コノ有名ナル例トシテ欧州ニテハ「リール事件アリ。蓋(ケダ)シ闇ノ世界ノ背後ニ立ツ者ハ時ニ悔ル可カラザル権力ヲ有スル事アリ。少クトモ軍用特殊慰安所内ニテハ、カクノ如キ事実ハナシト思フモ、吾人ニハ之レヨリ教ヘラルゝル事ハ多々アリ。即チ検査、監督ノ位置ニアル者ノ個人的登楼或ヒハ接娼ノ如キハ一考ヲ要ス可キ問題ナリ。マシテ其ノ職権ヲ濫用シ其ノ間何事カ画策スル所アルハ遺憾千万ナリ。又単ニ好奇心ヲソソリ、其ノ道ニ全ク無定見ノ者、検査ヲ行フ如キハ言語道断ト言可シ。
更ニ娼婦ノ検査ト共ニ妓楼ノ検査モ必要トス。


 小官某地勤務中2ヶ所ノ妓楼ノ検査ヲ行ヒタルガ其ノ一ツハ新ニ軍用特殊慰安所トシテ建造セル、「バラック式家屋ニシテ各室ニ洗滌所(センジョウショ)ヲ有シ、切符発売所、出入口其ノ他ノ諸設備殆ンド理想ニ近ク、他ハ支那家屋ヲ利用セルモノニシテ其ノ室区分、洗滌所等ノ諸設意ノ如ク行カズ、果セル哉其ノ開設后両地ニテ罹患セリト称スル患者ハ極ク少数ナリトハ言ヘ、其ノ後者ニテ殆ンド占メラレアリシハ注目ニ値ス。斯クスル事ニヨリテ検黴ノ成績ハ統制下ニアル軍用妓楼ニ於テハ挙ゲ得ルモノナリ。
然レドモ其ノ成績ヲ過信シ、一般兵間ニ売淫ノ危険ヲ軽視サス可カラズ。


4、アルコール飲料
 
・・・(11行略)
 …軍隊ノ娯楽ヨリ「アルコール」ヲ遠ザケレバ、著シク花柳病ガ減少スルトハ英国ノ軍隊ノ統計ガ示セリ。…之ニヨレバ「アルコール」ニ因ル疾病ガ減少セバ、花柳病亦減少スルガ明白ナリ。又「ストツダート」ノ報告ニヨレバ、「マサツユセット州ニテハ禁酒令発布以来花柳病ノ数ハ低下セリト。「イクテマン」ノ報告ニヨレバ「レイニングラード」ノ花柳病伝染ノ25.0%ハ飲酒ノ結果ナリト。然ルニ一方米国ノ軍隊ニテ1900年以来酒保ニ於テ「アルコール飲料ヲ全ク厳禁シタル結果、士卒ハ止ムナク酒場ヤ、「カフェー」ニ行ク状態トナリ、却ツテ花柳病ノ増加ヲ見シト言フ、此ノ点細心熟慮セザレバ竜頭蛇尾ノ類トナル。何レニセヨ花柳病ノ伝播ニ「「アルコール」ハ重大ナル役割ヲ有スル事実ハ何人モ否(イナ)ムヲ得ズ。然カモ一旦花柳病ノ経過ニ及ボス「アルコール」ノ影響ヲ考へ見ルナラ、其ノ思ヒ半バニ過グルモノアラン。
小官ハ此ノ見地ヨリ、軍隊内ニテ最小限度ノ酒ノ消費セラレン事ヲ切望スルモノナリ。増シテ今日マデ軍隊内諸事故ノ大部分ガ所謂「酒ノ上カラ」ナル事実ハ此ノ確信ヲ益々強固ニスルモノナリ。

軍用特殊慰安所ハ享楽ノ場所ニ非ズシテ衛生的ナル共同便所ナル故
、軍ニ於テモ慰安所内ニテ酒類ノ禁止サレアルハ寧(ムシ)ロ当然ノ事ナリ。然レドモ小官慰安所監視中屡々酒類飲用ノ跡ヲ見シハ甚ダ遺憾トスル所ナリ。此ノ為メニモ営業者ノ監視、娼婦ノ監督、引イテハ之レ等ノ教育指導ヲ必要トスル。 

5、禁欲 

6、花柳病ノ認識
 凡(オヨ)ソ敵ヲ殲滅セント欲セバ敵ヲヨク知ラザル可カラズ。対花柳病戦ニ於テモ亦然リ。敵ノ兵力、毒力ニ無智ナル可カラズ。独リ軍隊内ニ於テノミナラズ娼婦ニ対シテモ充分ナル認識ヲ与フルヲ要ス。
「レツセル」ハ娼婦監督ノ改善ニ努メ、一法ヲ提案シ之レヲ売淫規律ト命名シ、之レヲ以ツテセバ娼婦ノ花柳病ヲ減少セシメ得ルトセリ。思フニ之レハ独リ娼婦ノ為メノミナラズ、彼女等ノ用益者達ニモ利スル所多大ナラン。即チ常ニ性交ノ冷静ナル目撃者ハ彼女等ヲ他ニシテハ決シテ求メ得ザルモノナリ。
此ノ意味ニ於テモ軍用慰安所ノ娼婦ハ常ニ監督指導スルヲ必要トス。
更ニ彼女等ノ用益者タル男子側ニ於テモ其レヨリモ一層ノ認識ヲ必要トス。俗ニ「カサ気ト色気無キ男ハ無シ」ト言ヒ、欧州諸国ニ於テモ16、7世紀頃ニハ黴毒タルヲ恥ジトセズ己ノ病気情事ニ就キ語ルヲ名誉ノ如ク心得居タリト。
慢性淋疾ノ如何ニ治療シ難キカ、一旦脳神経細胞中ニ喰ヒ入リシ「スピロヘータ」ノ如何ニ其ノ生命力ニ影響ヲ有スルカ、独リ個人ノ問題ノミナラズ、家庭、子孫、引イテハ民族ノ素質ノ低下ニマデ必ズ因果ヲ持ツモノナリ。思ヒヲ此所ニ致サバ吾々医学ヲ修メシ者ニ非ズトモ慄然タルモノアラン。
此ノ故ニ軍隊内ニ於ケル性教育ノ徹底ハ重且ツ大ナル問題ナリト言フヲ得ベシ。近時米国ノ軍隊ニ於テハ、コノ為メ宣伝ビラ、小冊子等ノ配布、及ビ写真、殊ニ活動写真ニヨリ著効ヲ収メツゝアリト言フ。此ノ花柳病ニ対スル啓蒙運動コソ、一ツニ隊附衛生部員ニ課セラレタル重大ナ任務トモ言フヲ得ベシ。


7、狭義ノ予防法 

8、患者ノ取扱
 一旦花柳病ニ罹リシナラバ可及的早ク早期治療ノ徹底ヲ遂行セザル可カラズ。小官在南京中、兵站病院外来患者治療時、屡々患者或ヒハ隊附衛生下士官ヨリ花柳病薬ヲ当方ノ治療ニ使用セシ量以外ニ余分ニ請求スル傾キアリ。此ノ原因ヲ探索セシムニ、一ツハ彼等ガ自己ノ疾病ヲ隊附軍医ニ知ラルルヲ恐レ、一ツハ軍医中ニモ自己監督ノ隊内ニテ斯クノ如キ薬物ノ消費セラルルヲ好マズ、引イテハ患者自身ガ自費ニテ薬物ヲ購入スルカ、或ヒハ前記ノ如キ傾向トナリテ現ハレタルモノナリキ。花柳病ノ治療ノ決定ハ常ニ困難ナル問題タリ
。…  

 此ノ際問題トナルハ所謂「花柳病士卒ノ特典」ト言フ事ナリ。則チ彼等ハ花柳病患者トシテ収容セラレ、一戦闘期間生命ノ安全ヲ保証セラル。
実ニイマイマシキ限リナリ。彼等ノ戦友ノ平素真面目ニシテ花柳病ノ汚レニ染マザル者ハ身ヲ弾丸雨飛ノ中ニ曝(サラ)セル間、彼等ハ「サルバルサン」ヤ「プロタルゴール」ヲ友トシ、安逸ナル病院生活ヲ為シ居レリ。然カモ彼等ノ病院内ニ於ケル起居動作ハ決シテ良好ナラズ。

・・・(以下4行略)


9、結言
 ・・・(4行略)
 小官ハ左記諸条目ヲ以テ結言ト為ス。即チ
1、軍隊内ニ於ケル花柳病ニ関スル教育  
   花柳病ノ何物タルカヲ認識スルコト必須ナリ。
2、個人的予防法ノ励行
3、局所的精密ナル身体検査  
   月例身体検査時特ニ注意スルヲ要ス。
4、アルコール飲料ノ制限  
   即チ
此レニ代ルモノトシテ、ヨリ高尚ナル娯楽施設ヲ必要トス。音楽、活動写真、図書或ヒハ運動ガ良イ。思フニ、
   16ミリ「トーキー」ニヨル映画位、少シク研究セバ、前線近クニテ行ニ左程困難ナラズ。娼楼ニ非ラザル軍用娯楽所
   ノ設立モ希望ス。斯クシテ兵員自ラ禁欲ヲ意トセザルノ良風ヲ成ス可キナリ。
5、検黴ハ的確ニシテ厳正ナル可シ  
   更ニ娼家、楼主ノ監督ヲ必要トス。罹患娼婦ノ治療、隔離ハ必ズ行フ可シ。此ノ為メ兵站地区内ニ於テハ特殊病院ヲ
   必要トシ、彼女等ニモ後送治療ノ可能ナル如ク全機関ヲ統一シタシ。
6、娼婦ノ質的向上及ビ選擇  
   同時ニ私娼ヘノ警戒ト伝染源ノ徹底的追及モ必要ナラン。
7、防疫軍紀ノ厳守
   前記各項ノ目的達成ハ実ニ軍紀ノ振作、防疫軍紀ノ高揚ニアリ。花柳病対策モ広義ノ防疫作業タル可ク、将来、兵站
   司令部ハ此ノ為メ更ニ自己ノ医療能力ヲ増進セシムルカ、或ヒハ他ノ有力ナル衛生、防疫機関ニ作業ノ一部ヲ譲渡ス
   可キナリ。
8、前記各方面ノ諸因子ノ全体的、統計的研究ハ対将来、対社会ノ問題トシテ重要ナル役割ヲ演ズルモノナリ。

                                                 昭和14年6月26日 以上
 
資料2-------------------------------------------------
                              上海より上海へ
一路平安

付録資料1  陣中日誌  昭和13年10月23日~昭和14年6月30日
昭和13年
11月4日(金)
 近時シバシバ私物注射薬(最モ多キハサルバルサン剤)ヲ持チ来リ、注射ヲ希望スル者アリ。彼ラハ何ラ軍医ノ診断ヲカツテ求メシニアラデ、
秘密治療ヲ為シツツアル者、及ビ単ナル好奇心ニヨル者ナリ。彼ラノ言ヨリオシテ兵間ニ相当ノ罹患者アリテ、彼ラハ其ノ上官ニ発覚セラルルヲ恐レテ、カクノ如キ挙ニ出ズルモノナリト。
 試ミテ或ハ隊員中ヨリ希望者5名ノ採血ヲナシ村田氏反応ニヨリタルニ、2名陽性ヲ示シ、内1名ハ最強陽性ナリキ。


12月6日(火)
 東部隊残置小部隊モ殆ド漢口ヘ前進ヲ完了セリ。コノ時ニアタリ患者中ヨリ薬剤コトニ花柳病薬ヲ余分ニ請求スル者多シ。1患者ノミナラズ、隊附衛生部員ヨリモコノ請求アリ。コノ原因ヲ案ズルニ、彼等ノ原隊ニハ軍医ノ配属アルニモカカハラズ、トカク、部隊内ニ於テ花柳病治療薬剤ノ消費サレルヲ好マズ、軍医自身モ患者ニ私物薬剤ノ購入ヲ暗ニ希望セルノ風アリ。カクシテ花柳病治療ノ最大目標点タル初治ノ完全ニ一ツノ暗影ヲ投ジツツアルハ寒心ス可キコトナリ。哉ニ唯ニ一軍医ノ「面子」ノ為メノミナランヤ。


昭和14年
6月30日(金)
 本日午后、吉村部隊講堂ニ於ケル九江軍医分団ノ研究会ニ出席シ「花柳病ノ対策」ニツキ35分間ニ渉リテ口述ヲ為セリ。
 娼婦、検梅、アルコール飲料、患者ノ取扱ヒ等ヲ東西ノ文献及ビ自己ノ経験ヨリ論ジ、軍ハ慰安所施設ノ改善ヲ必要トスルヲ述ベタリ。


資料3---------------------------------------------- 
 資料の位置づけ
 「父の資料は(1)慰安婦(2)慰安所(日本軍が1938年2月に開設したものと民営のもの両方)の写真10点とレポート一篇である。これらは日中戦争の中で起こった南京事件(1937年)の傍証となる歴史資料である。
1937年12月13日の南京陥落の折の捕虜虐殺と婦女暴行という日本軍の行動が国際問題となった。写真に写っているのはその対策として、日本国内の主に北九州地区で急遽支度金千円を払って集められた女性(朝鮮人80名、日本人20名)である。
 ・・・(以下略)
 
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「従軍慰安婦」 軍医麻生徹男「戦線女人考」(写真集)より---------

 「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」(石風社)の著者で、元陸軍軍医であった麻生徹男は、戦後写真集『戦線女人考』を編集し、印刷するばかりのところで亡くなったという。「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」(石風社)は、その写真集をそのまま「第1部」とするかたちをとり、「上海から上海へ」と題した回想記を第2部、「麻生徹男軍陣医学論文集」を第3部として、彼の死後に出版されたものである。写真集の中の写真は、彼が「1300枚ほどの写真の中から、戦争中の女達に焦点を当てて、看護婦、付添婦、慰安婦、中国現地の女性、上海のバー、カフェの女給やダンサー、軍の慰問に訪れる芸人(日本人と中国人)、芸者」などを撮ったものをまとめた62点で、それぞれに彼自身が丁寧な説明をつけているのである。したがって、「従軍慰安婦」の問題に関して も、当時の実態を知る上で貴重な資料といえる。

 その説明の中に、軍と慰安所に関わる重要な記述があるので、それらを抜粋した。まず「兵站司令部の経営」で慰安所が開業したという記述である。慰安所は民間の業者が経営するものだけではなかったということがわかる。また、「慰安所規定」は、軍直営でないとあり得ないような内容である。
 さらに、「楊家宅慰安所」の記述「一人の慰安婦が脱走して軍工路の立哨に捕らえられ、その身柄引取に、命により麻生は現地に赴いた」は、多くの「従軍慰安婦」であった女性が証言している通り、自由でなかったことを物語っており、「金儲けの商売をしていた」などと言えるものではなかったことがわかる。

 憲兵隊に関する記述も重要であると思い抜粋した。明らかに人道に反する拷問が行われていたことがわかる。
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 陸軍慰安所の立て札
 楊樹浦路のはずれ、呉淞に向かう工路の土手を、新市街敷地の方へ下ると、楊家宅と云った部落の跡があった。この地に
陸軍慰安所が、兵站司令部の経営で開業した。その立て札。

 昭和13年3月11日、楊家宅慰安所より慰安婦8人来訪し、次の事を訴える、今回老人の軍医見習士官が来て慰安所の管理は自分がする、検診は週1回とする旨、そして麻生は手を引いてくれ、と。かの女等の言外の意味は現在の兵站業務の多忙に乗じた彼の私物命令らしく、現に彼はこの数日慰安所に居続を決め込んでいて、慰安所を私物化している。甚だ迷惑と。即ち監督医師の個人的登楼にて、リール事件そのもので事重大。


 慰安所規定
 昭和13年1月の検診に次いで2月7日、第2回目の検診が、江湾鎮と楊家宅にて行われた。楊家宅にては立派な建物が軍の手で建てられ、この様な慰安所規定が掲げられてあった。一方江湾鎮では既設の民家その物を利用した。

一、
本慰安所ニハ陸軍々人軍属(軍夫ヲ除ク)ノ外入場ヲ許サズ。入場者ハ慰安所外出証ヲ所持スルコト。
一、入場者ハ必ズ受付ニオイテ料金ヲ支払ヒ之ト引替ニ入場券及「サック」一個ヲ受取ルコト。
一、入場券ノ料金左ノ如シ下士官・兵・軍属金弐円
一、入場券ヲ買ヒ求メタル者ハ、指定セラレタル番号ノ室ニ入ルコト、但シ、時間ハ30分トス。
一、用済ミノ上ハ直チニ退室スルコト(以下略)
                  (この部分は『「陸軍娯楽所」ノ開設ト私』より抜粋)


 楊家宅慰安所
 上海より呉淞に向かう軍江路に近く、地理的にも、自由に上海に行ける所であった。慰安所開設後間もない2月24日夜、
一人の慰安婦が脱走して軍工路の立哨に捕らえられ、その身柄引取に、命により麻生は現地に赴いた。


 慰安所入口
 楊家宅慰安所入口に立っている河合軍医見習士官(松山市出身)と上海在住、軍に協力した看護婦二人である。写真の中に在る切符売り場の壁に、例の慰安所規定が掲げてあった。



 民営の軍慰安所
 これは江湾鎮、北四川路の奥にある民営の軍慰安所である。無人となった民家を慰安所として使用したのか、前から在ったこの種の建物を利用したのか判らない。3人の女性は現地雇いの看護婦であり前列の兵は衛生兵、奥に居る人は河合軍医。



 武昌憲兵隊
 昭和16年3月中旬、私は武漢の地を去る事となった。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる
訊問の大声、悲鳴、水攻め。死者を甦らせよ、もう一事聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある

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「従軍慰安婦」とクマラスワミ報告書---------------

 ラディカ・クマラスワミ氏は、国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者である。このクマラスワミの報告書は、政府、条約機関、女性団体を含むNGO(非政府組織)などから、女性に対する暴力に関する情報を収受し、女性に対する暴力、及びその原因を撤廃し、暴力の結果を救済するための国内的、地域的、国際的手段・方法を勧告することを求められ、それに応えるためにまとめられたものである。
 このクマラスワミ報告書には、日本軍の「従軍慰安婦」問題(報告書では「軍事的性奴隷問題」とされている)についての問題解決のための勧告が含まれている。

 この問題の調査研究については、下記「特別報告者の作業方法と活動」の45にその研究方法や内容の概略が示されているが、調査団は事前に「豊富な情報と資料を受け取り」、「注意深く検討」した後、ピョンヤンで4人の元「軍事的性奴隷」の証言を得、ソウルでは13人の元「慰安婦」と会い、東京で在日の元「慰安婦」や日本帝国陸軍の元兵士の証言を得て報告書を作成したという。それが、1996年2月に国連人権委員会に提出され、公表されたのである。
 同委員会は、「軍事的性奴隷問題」を含むクマラスワミ報告書について、この活動を歓迎し、この報告に留意するとの決議案を無投票全会一致で採択したという。

 ただし、その後下記29の吉田清治の証言部分については、彼が奴隷狩りをしたとされる地元の『済州新聞』が、取材結果をもとにその事実を否定し、日本の歴史家も証言の基本的な部分が確認できないため歴史証言としては採用できないとしたため、その部分の修正が求めらるが、多くの証言や資料に基づいたこの報告書を全否定できるものではないことは明らかであり、勧告は受け入れるべきであると思う。「問われる女性の人権」日本弁護士連合会・編(こうち書房)よりの抜粋である。
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                    戦時における軍事的性奴隷問題に関する
                朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への
                       訪問調査に基づく報告書
Ⅱ 歴史的背景
 B 徴集
23. 第2次世界大戦直前および戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも感じる側面は、実際に徴集が行われたプロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。「慰安婦」の徴集に関する証拠のほとんどすべてが、被害者自身の口頭証言から得られている。このことは、多くの人が被害者の証言を秘話の類とし、あるいは本来私的で、したがって民間が運営する売春制度である事柄に政府をまきこむための創作とまでいってのけることを容易にしてきた。それでも徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。


29. いっそう多くの女性が必要になった場合には、日本軍は暴力やむきだしの武力、人狩りに訴えた。そのうちには娘の誘拐を阻止しようとした家族の殺害が含まれていた。国家総動員法が強化されたことで、これらの手段をとることは容易になった。この法律は1938年公布されたが、1942年からは朝鮮人の強制徴用に適用された。多くの軍「慰安婦」たちの証言は、徴集に際して広範に暴力と強制が
用いられたことを証明している。さらに、戦時中行われた人狩りの実行者であった
吉田清治は、著書のなかで、国家総動員法の一部として労務報国会のもとで自ら奴隷狩りに加わり、その他の朝鮮人とともに1000人もの女性たちを「慰安婦」任務のために獲得したと告白している。

Ⅲ 特別報告者の作業方法と活動

45. 第2次世界大戦中のアジア地域における軍事的性奴隷の問題に関して、特別報告者は、政府および非政府組織の情報源から豊富な情報と資料を受け取った。そこには被害女性たちの証言記録がふくまれていたが、それらは調査団の出発前に注意深く検討された。本問題についての調査団の主要な目的は、特別報告者がすでに得ている情報を確かめ、すべての関係者と会い、さらにそのような完全な情報に基づいて国内的、地域的、国際的レベルにおける女性に対する暴力の現状、その理由と結果の改善に関して結論と勧告とを提出することであった。その勧告は、訪問先の国において直面する状況を特定したものになるかもしれず、あるいはグローバルなレベルで女性に対する暴力の克服を目指すもっと一般的な性格のものになるかもせれない。


46. 調査団の活動中、特別報告者がとくに心がけたのは、元「慰安婦」の要求を明確にすることと、現在の日本政府が本件の解決のためにどんな救済策を提案しつつあるのかを理解することであった。
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Ⅸ 勧告

136. 本特別報告者は、当政府との協力の精神に基づいて任務を果たし、かつ女性に対する暴力と、その原因および結果のより広範な枠組みのなかで、戦時の軍事的性奴隷の現象を理解するよう試みる目的のために以下のとおり勧告したい。特別報告者は、特別報告者との討議において率直であり、かつ日本帝国軍によって行われた軍事的性奴隷制の少数の生存女性被害者に対して正義にかなった行動をとる意欲をすでに示した日本政府に対し、協力を強く期待する。


                          A 国家レベルで

137. 日本政府は、以下を行うべきである。
 (a)第2次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下で その義務に違反したことを承認し、
   かつその違反の法的責任を受諾すること
 (b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権および基本的自由の重大侵害被害者の原状回復、賠償および
   更正への権利に関する差別防止少数者保護小委員会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支
   払うこと。多くの被害者がきわめて高齢なので、この目的のために特別の行政的審査会を短期間内に設置する
   こと。
 (c)第2次大戦中の日本帝国軍の慰安所および他の関連する活動に関し、日本政府が所持するすべての文書およ
   び資料の完全な開示を確実なものにすること。
 (d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される女性個々人に対し、書面による公的
   謝罪ををなすこと。
 (e)歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること。
 (f)第2次大戦中に、慰安所への募集および収容に関与した犯行者をできる限り特定し、かつ処罰すること。


                          B 国際的レベルで

138. 国際的レベルで活動している非政府組織・NGOは、これらの問題を国連機構内に提起し続けるべきである。国際司法裁判所または常設仲裁裁判所の勧告的意見を求める試みもなされるべきである。

139. 朝鮮民主主義人民共和国および大韓民国は、「慰安婦」に対する賠償の責任および支払いに関する法的問題の解決をうながすよう国際司法裁判所に請求することができる。 

140. 特別報告者は、生存女性が高齢であること、および1995年が第2次大戦終了後50周年であるという事実に留意し、日本政府に対し、ことに上記勧告を考慮に入れて、できる限り速やかに行動を取ることを強く求める。特別報告者は、戦後50年が過ぎ行くのを座視することがなく、多大の被害を被ったこれらの女性の尊厳を回復すべきときであると考える。


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「従軍慰安婦」問題 マクドゥーガル報告書--------------

 日本の「従軍慰安婦」問題に対する世界の眼は、「女性の人権」意識の高揚と、それに反する日本政府の責任回避の姿勢を反映して、ますます厳しいものになってきているようである。それは、マクドゥーガル報告がクマラスワミ報告よりもさらに踏み込んで、日本軍や日本政府の加害責任を追及し、損害賠償や補償だけではなく、関係者の処罰やその報告さえ厳しく求めていることなどにあらわれているのではないかと思う。VAWW-NETJapan の松井やより代表によると、国連人権委員会の評価も、クマラスワミ報告の「留意」するが、マクドゥーガル報告では「歓迎」するに進んだという。その辺の事情を記述した部分を「戦時性暴力をどう裁くか」国連マクドゥーガル報告全訳(凱風社)「序にかえて」から抜粋した。

 また、マクドゥーガル報告からは、日本軍「従軍慰安婦」問題に関わるユス・コーゲンス(強行規範)の考え方に関する部分、および日本政府の「国際刑法の最近の研究成果は、過去の行為に遡及適用できない」とする主張や「”慰安婦”個々人には損害賠償請求権がなく」、「戦後締結された平和条約や国際協定によって、完全に解決済みである」とする主張に対する批判部分を中心に抜粋した。

 なぜなら「従軍慰安婦」問題にかかわらず、東京裁判でもニュルンベルク裁判でも「人道に対する罪」の適用が問題となったようであるが、「人道に対する罪」の適用については「”人道に対する罪”という新しい用語を使っているが、実際には新しい法を創り出し、適用したわけではない」したがって、新しい法を「過去の行為に遡及適用したものではない」という考え方や、「ユス・コーゲンス(強行規範)」の指摘が重要であると思うからである。

 さらに、この問題は「戦後締結された平和条約や国際協定によって、完全に解決済みである」と繰り返す日本政府の主張に対し、「条約が作成された時点では、強かん収容所(レイプ・キャンプ)の設置への日本の直接関与は隠されていた。これは、日本が責任を免れるためにこれらの条約を援用しようとしても、正義衡平法の原則から許されない」という指摘は厳しいが、そのとおりではないかと思う。
 だから、真摯な姿勢でこれらの報告を受け止め、一日も早く完全解決の道筋をつけるべきではないかと思うのである。

 なお、マクドゥーガルの4項目の勧告には厳しいものがあるが、④以外は項目のみを抜粋した。 
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国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会
第50回期暫定議題6 奴隷制の現代的諸形態

        武力紛争下の組織的強かん、
        性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する最終報告書
        (E/CN.4/Sub.2/1998/13 1998年6月22日受理)

 第3章 性奴隷制および性暴力(強かんを含む)を国際法の下で訴追するための法的枠組み

◆36
 性奴隷制と性暴力が、武力紛争中に行われた場合、一定の条件下では、ユス・コーゲンス規範の慣習法的違反と性格づけられうる。条約法に関するウイーン条約は、第53条でユス・コーゲンスを「
いかなる逸脱も許されない規範で、かつまた同一内容の一般国際法の規範の変更でしか修正できない規範であって、国際社会が全体として受け入れ、かつ認めた」規範と定義している。これに加えて、ユス・コーゲンス規範(違反?)は、国際社会全体の普遍的利益に対する不法行為と認められている。このため、たとえ加害者又は被害者にその国の国籍がなくても、また、犯罪の実行がその国の領土でなされたものでなくても、普遍的裁判管轄権に基づけば、すべての国家がユス・コーゲンス違反を適正に訴追できる。

◆37
 こうしたユス・コーゲンス規範の違反に相当する国際犯罪には、奴隷制、人道に対する罪、ジェノサイド、一定の戦争犯罪、拷問が含まれる。これらの犯罪は、国際慣習法に基づいて、
普遍的裁判管轄権の対象とされ、大半の場合訴追に対する時効はない。前政府を引き継いだ政府を含めて各国家は、これらの違反行為を犯した者を不処罰にせず、その国家内で訴追するか、別の国家で訴追するために引き渡して裁判にかける責務がある。戦争犯罪はその定義上、武力紛争と関連性があることが必要だが、奴隷制、人道に対する罪、ジェノサイド、拷問の各禁止は、すべての武力紛争、内紛、平時などあらゆる状況に適用される。
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 序にかえて
 マクドゥーガル報告は戦時・性暴力と闘う世界の女性たちの強力な拠り所に
         
            「慰安婦」問題で日本政府の責任を問い責任者の処罰と国家賠償を勧告
                                        VAWW-NET Japan代表 松井やより
 「慰安婦」が問い始めた女性への戦争犯罪
 
  ・・・ 
 「クマラスワミ報告」、の日本政府の賠償責任を強調

 翌96年、ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力」特別報告者がジュネーブでの国連人権委員会に提出した「戦時下軍隊・性奴隷制に関する報告」は、日本政府に法的責任をとることを求め、とくに被害者個人への賠償責任が日本政府にあることを強調した点で、画期的な国連文書であった。ただ、責任者の刑事責任については、日本政府に訴追する義務があるとしているものの、「時間の経過と情報の不足のため、訴追は困難だろうが、できる限り試みる義務がある」という表現にとどまっており、6項目の勧告の中でも最後の第6項に「犯行者をできるだけ特定し、処罰すべきだ」とあるだけで、その具体的実施方法などについては書かれていない。


 98年にクマラスワミ特別報告者が国連人権委員会に提出した「武力紛争下の女性への暴力に関する報告」では、「慰安婦」問題について二つのパラグラフが含まれているが、「日本政府が”慰安婦”問題で積極的な努力をしていることを歓迎する」と「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)設置を評価しているため、韓国、フィリピンなど被害国の女性たちは、日本政府から圧力があったため後退したのではないかと、失望したのだった。この報告書でもさすがに「日本政府は法的責任をとっていない」と指摘しているが、「日本政府は6つの”慰安婦”裁判の判決を待っているのだろう」と傍観者的に述べているだけで、加害者の刑事責任追及にはまったくふれていない。

 マクドゥーガル報告、日本政府は受け入れを拒否

 その数ヶ月後にマクドゥーガル報告が提出されたわけで、その内容は、被害者・支援団体から見て大きく前進したものだった。それだからこそ、日本政府はジュネーブで必死に採択阻止を試み、読売新聞はそれに歩調を合わせるかのように、わざわざマクドゥーガル報告非難の社説まで掲載した。右翼的な学者なども彼女をしきりにやり玉にあげている。しかし、小委員会はこの報告書を採択し、国際社会が支持する正式国連文書となった。96年のクマラスワミ報告が国連人権委員会で
「留意」する形での採択だったのに対して、このマクドゥーガル報告は小委員会で、「歓迎」するかたちで採択された。戦時・性暴力に対する国際社会の認識がそれだけ進んだことを示している。

 以下略
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                       マクドゥーガル報告書 附属文書
             
 第2次大戦中設置された「慰安所」に関する日本政府の法的責任の分析 

はじめに
◆1
 1932年から第2次大戦終結までに、日本政府と日本帝国軍隊は、20万人を越える女性たちを強制的に、アジア全域にわたる
強かん所(レイプ・センター)で性奴隷にした。これらの強かん所はふつう、「慰安所」と呼ばれた。許し難い婉曲表現である。これらの「慰安婦」たちの多くは朝鮮半島出身者であったが、中国、インドネシア、フィリピンなど、日本占領下の他のアジア諸国から連行された者も多かった。この10年間に、徐々に、これら残虐行為の被害女性たちが名乗り出て、救済を求めるようになってきた。この付属文書は、第2次大戦中の強かん所の設置・監督・運営に対する日本軍当局の関与について、日本政府が行った調査で確定した事実のみに基づいている。日本政府が確認したこれらの事実に基づいてこの付属文書は、第2次大戦中に「慰安所」で行われた女性たちの奴隷化と強かんについて、日本政府が現在どのような法的責任を負っているか、を判定しようとするものである。責任を問う根拠はいろいろありうるが、この報告書は特に、奴隷制、人道に対する罪、戦争犯罪という最も重大な国際犯罪に対する責任に焦点をあてる。この付属文書はまた、国際刑法の法的枠組みを明らかにし、被害者がどのような賠償請求を提起できるか検証する。

 第1章 日本政府の立場

◆2
 日本政府は、第2次大戦中強かん所の設置・監督に日本軍が直接どの程度関与したかについて長年にわたって否定してきたが、1993年8月4日に内閣官房外政審議室が発表した「戦時『慰安婦』問題について」と題する公式調査と、同日の内閣官房長官談話で、「慰安所」設置に政府の関与があったことをやっと認めた。この調査は、戦時中の記録資料の調査と、軍関係者と元「慰安婦」双方に対する聞き取り調査が含まれていた。本論で以下に論じるとおり、1993年の政府調査では、「慰安婦」に人格と性の自己決定権が認められていなかったことや、女性たちがまるで所有物のように健康を管理されていたことが浮き彫りになっている。


◆4
 こうした謝罪や事実の確認にもかかわらず日本政府は、慰安所の「設置と運営」にかかわる日本軍の行為に対する法的責任を否定し続けている。特に、人権委員会のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力」特別報告者による報告書に対し、日本政府はいくつもの実体的根拠をあげて法的責任を強く否定した。これらの根拠のうち最も重要なものは以下である。
(a) 国際刑法の最近の研究成果は、過去の行為に遡及適用できない。
(b)奴隷制犯罪規定は、「慰安所」によってできた仕組みにそのまま適用できるものではないし、また奴隷制の禁止は、
  第2次大戦の時点で適用可能な国際法の下(モト)での慣習規範としてはいずれにしても確立していなかった。
(c) 武力紛争下の強かん行為は、1907年のハーグ第4条約付属書〔以下ハーグ陸戦規則〕によっても、あるいは第2
  次大戦時に有効であった国際法の適用可能な慣習的規範によっても、禁止されていなかった。
(d) いずれにせよ、戦争法規は敵国民に対して日本軍が行った行為にのみ適用されるものであり、したがって、日本国
  民や第2次大戦当時日本に併合されていた朝鮮半島の住民には適用されない。

 
◆6
 法的な損害賠償請求にかんして日本政府は、「慰安婦」個々人には損害賠償の法的権利がないと主張する。あったとしても日本政府は、これらの女性の損害賠償請求権はすべて、日本とアジア各国との間で戦後締結された平和条約や国際協定によって、完全に解決済みであると主張する。最後に日本政府は、第2次大戦中の強かん所に関する訴訟は民事であれ刑事であれ、すべて時効が適用されるため、現在では提訴期限が過ぎていて審理不可能であるとする。


 第3章 実体的国際慣習法における優越的規範

◆12
 「慰安所」が創設されるはるか以前から、奴隷制と奴隷売買が禁止されていたことに疑いの余地はない。第2次大戦後のニュルンベルク裁判は、「国際法に明記されていなくとも、たとえば……民間人を絶滅させたり、奴隷化したり、国外追放することは国際法違反であるという暗黙の了解がそれ以前からあったこと……を明文化してはっきり示した」にすぎない。実際、特に奴隷制の禁止は明らかにユス・コーゲン(強行規範)だと位置づけられている。したがって、第2次大戦中の日本軍のアジア全域にわたる女性の奴隷化は、当時でさえも、奴隷制を禁止する国際慣習法の明確な違反だったのである。


◆13
 19世紀初頭には、多くの国々が、既に奴隷の輸入を禁止していた。これに伴い、多くの国が奴隷制と奴隷売買を終結しようといくつもの国際協定を締結した。1855年の国際的裁定の事例ですでに、奴隷売買は「すべての文明国により禁じられており、国際法に背(ソム)くものである」としている。1900年までには、基本的な形の奴隷制は、大半の国々でほとんど根絶されていた。とりわけ日本は、1872年の段階で既に、ペルー人貿易業者たちを奴隷制犯罪を理由に敗訴としており、日本が歴史のなかで奴隷売買を禁じていると明言しているのは注目に値する。


◆14
 1932年以前に、奴隷売買・奴隷制、あるいは奴隷制関連の慣行を禁止する国際協定が少なくとも20締結されていた。さらに、1944年当時の国際社会を代表する国々を見ると、日本を含むほとんどすべての国家が自国の国内法で奴隷制を禁止していた。第2次大戦前には奴隷制に対する国際的非難が高まり、国際連盟で討議された1926年の奴隷条約は、奴隷制を「ある人に対して、所有権に伴う権能の一部または全部が行使される場合の、その人の地位、または状況」と定義した。したがってこの条約は明らかに、遅くとも第2次大戦前には国際慣習法になっていた。


◆15
 奴隷制禁止が慣習法であることは、戦争法規の中での民間人の取り扱いを定めた一連の法体系でも、等しく明白である。今世紀に採択された戦争法規のうちでも最も基本的な国際文書の一つである1907年のハーグ陸戦条約では、民間人と交戦者を奴隷化と強制労働から守るという重要な保護規定を組み入れた。そのうえ、第2次大戦後のニュルンベルク裁判でナチス戦犯に対して下された判決で、ハーグ陸戦条約は明らかに第2次大戦までに国際慣習法として確立していたと確認された。


◆17 
 奴隷制と同様、強かんと強制売春は戦争法規で禁止されていた。戦争法規に関する初期の権威ある法典で複数のものが戦時中の強かんや女性に対する虐待を禁じているが、そのなかでも最も傑出しているのは1863年のリーバー法である。さらに第2次大戦後、多くの者が強制売春や強かんの罪を含む犯罪で訴追され、このような行為の不法性がさらに明確になった。ハーグ陸戦規則はさらに、、「家族の名誉と権利は……尊重されなくてはならない」とした。既存の国際慣習法を成文化し、ハーグ陸戦条約にあった「家族の名誉」という用語をとり入れたとされるジュネーブ第4条約第27条は、まさに、「女性は、女性の名誉に対する侵害、特に強かん、強制売春その他のあらゆる形態のわいせつ攻撃から、特別に保護されるべきである」と明記している。強かんの性格づけが暴力犯罪としてではなく、女性の名誉に対する犯罪とされている点は残念であり、不正確だが、少なくとも「慰安所」が初めて設置された時期には、強かんと強制売春が国際慣習法で禁止されていたことは、十分に立証されている。


 第4章 実体法の適用

◆22
 「慰安婦」の処遇は、通常の意味での「奴隷制」と「奴隷売買」に相当し、「ある人に対して、所有権に伴う権能の一部または全部が行使される場合の、その人の地位または状況」とする1926年の奴隷条約の定義にあてはまる。前述のように、日本政府が自ら認めたところでも、これらの女性は「自由を奪われ」「意志に反して徴集された」。しかも、女性によっては金で買われており、したがって古典的な型の奴隷制に容易にあてはまる。しかし金銭のやりとりは、奴隷制の唯一の指標でもないし、最も重要な指標でもない。「慰安婦」はみな、自己決定権をほとんど奪われた体験があり、したがって、日本軍は彼女たちを所有物のように取り扱ったわけで、これらの犯罪行為に対しては実行者とその上官の双方に奴隷化の刑事責任があることは明らかである。繰り返すと、「慰安婦」の場合、日本政府の調査でも明らかになったように、女性たちは人格的自由を奪われ、軍隊や軍需物資とともに戦地との間を移動させられ、性的自己決定権を否定され、将兵を性感染症から守るために性と生殖に関わる健康を所有物のように取り扱う、おぞましい規則に従わされたのであった。


◆23
 日本政府は法解釈として奴隷制の定義が適用できないと主張する可能性のある少数の事例でさえも、「慰安婦」たちは明らかに、強かんされ、少なくとも「許される形態の強制労働」の定義にあてはまらない状態で戦地に拘束されていた。強制売春と強かんについて日本政府は、自国の行為は多くの女性たちの名誉と尊厳を深く傷つけたと認めている。女性たちに与えた損害は、明文では認めていないが、定期的な強かんなど性的行為の強制を含むことは明白である。したがってこうした行為は、戦争法規に違反する強かんと強制売春だと容易に位置づけられる。


◆24
 これらの犯罪が大規模に犯されたこと、これら強かん所の設置・監督・運営に日本軍が明らかに関与していたことから、「慰安所」に関与したり責任ある立場にあった日本軍将校に対しては、同様に、人道に対する罪の責任を問うことができる。その結果日本政府自身もまた、日本軍の行動によって苦しんだ女性や少女たちの受けた損害に対し、損害賠償を行う義務を負い続けている。


 第5章 日本政府の抗弁

 第1節 法の遡及適用

◆25
 ニュルンベルク裁判当時、被告側と一部研究者は、人道に対する罪はこの裁判の憲章で新たに定義された罪であり、したがって、被告人たちの行為は、行為の時点での国際法には違反していないため、人道に対する罪での訴追は合法性の原則(「法律がなければ犯罪なし」)に反すると異議を申し立てた。日本はアジア全域にわたって「慰安所」の奴隷化と強かんで国際慣習法に違反する行為を行ったとする元「慰安婦」たちの申し立てについて、日本政府も同様の主張をしてきた。


◆27
 奴隷制の国際慣習法による禁止は第2次大戦時までに明確に成立しており、第2次大戦後、刑事裁判の準備のために国際慣習法を明文化した東京・ニュルンベルク両裁判憲章に盛り込まれた。国際慣習法としての奴隷制の禁止は、戦争法規の下でも単独でも、武力紛争の性質のいかんにかかわらず、また武力紛争でない場合も、実体的違反行為を禁止する。


 第6章 救済措置

 第1節 個人の刑事責任

◆33 
 このような訴追の先例は古くからある。1946年インドネシアのバタビアでオランダ政府が開いた臨時軍事法廷では、9人の日本兵が、少女や女性たちを強制売春と強かんの目的で誘かいしたことで有罪となった。同様にフィリピン法廷も、日本軍将校1名を強かんで有罪とし、終身刑の判決を下した。ニュルンベルク・東京両裁判も国際慣習法を適用して、個々の将校や命令を下した上官、およびドイツと日本の政府に対し、戦争犯罪と人道に対する罪を犯した責任があるとした。国連総会は1946年12月11日の決議95(Ⅰ)号で、ニュルンベルク裁判憲章と東京裁判憲章に明示された国際法の原則は、国連加盟国があまねく認めた国際慣習法であると再確認した。


◆34
 そのうえサンフランシスコ講和条約第11条は、東京裁判と日本国内外の連合国戦犯法廷の判決を、日本は受け入れなければならないと規定している。これに加えてニュルンベルク裁判憲章では、「人道に対する罪」という新しい用語を使っているが、実際には新しい法を創り出したわけではないし、それ以前に国際慣習法で認められていた行為を新たに違法としたわけでもない。オッペンハイムによれば以下のとおりである。
 「戦争法規はすべて、その規定が国家を拘束するだけでなく、軍の構成員であるか否かを問わず、国民を拘束することを前提にしている。この点で、1945年8月8日の合意書に付属する憲章に新しい要素は何もない。というのは、ヨーロッパ枢軸国の主要な戦犯は、戦争犯罪そのものと、いわゆる憲章が人道に対する罪と呼んだ行為について、個人に責任があるという判決に従って処罰され……」
 こうした前例がある以上、将校個々人は明らかに、自己の犯罪について処罰されうるし、また処罰されるべきである。

 
 第2節 国家責任と賠償責任

 (3)請求の処理に関する協定

◆53
 日本政府は損害賠償の支払い義務を否定する一方、損害賠償請求権はいずれにしても、戦争終結直後に日本政府が諸外国と締結した平和条約の結果、解決または放棄されているとも反論している。大韓民国の国民については、1965年の日韓協定第2条を根拠とする。この条文で両国は「協定締結当事国およびその国民(法人を含む)の所有財産、権利、権益に関わる諸問題、ならびに当事国およびその国民の間の請求権は、完全かつ最終的に解決された」と合意している。

 

◆55
 日本政府はこれらの条約を利用して責任を免れようとするが、それは以下の2点で成立しない。
 (a) 条約が作成された時点では、強かん収容所(レイプ・キャンプ)の設置への日本の直接関与は隠されていた。これは、、
   日本が責任を免れるためにこれらの条約を援用しようとしても、正義衡平法の原則から許されないという、決定的
   な事実である。
 (b)条約を素直に解釈すれば、人権法や人道法に反する日本軍の行為で被害をこうむった個人に、その損害賠償請
  求の道を閉ざすものではないことがわかる。


◆57
 日本政府はこうした犯罪への関与を長期にわたって隠してきており、そのうえ法的責任を否定し続けてきた。したがって、戦後処理協定その他の諸条約は「慰安婦」に関連したあらゆる請求権を解決するものであったと日本政府が主張することは、不当である。条約調印国は、当時日本軍と直接関連すると見られていなかった行為に対する請求権まで含まれていると予見できたはずはない。


 第3節 勧告

①刑事訴追を保証するための仕組みの必要性

②損害賠償を実現するための法的枠組みの必要性

③損害賠償額の妥当性

④報告義務
◆67
 最後に、日本政府は、「慰安婦」を特定し、補償し、加害者を訴追する状況がどのくらい進んでいるかについての詳細な報告を、国連事務総長宛てに少なくとも年2回、提出するよう義務づけられるべきである。この報告書は、日本語とハングルで準備され、日本国内外で、とりわけ「慰安婦」自身に対し、また彼女たちが現在居住する国で、広く配布されるべきである。


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「従軍慰安婦」問題 慰安所使用規定--------------

 資料1と資料2は「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)から抜粋した。フィリピンのマステバ島とイロイロ島の慰安所使用規定である。
 資料3は『日本軍「慰安婦」関係資料集成』鈴木裕子、山下英愛、外村大編(明石書店)より抜粋したもので、中国常州の慰安所使用規定である。いずれも、軍によって細部まで定められ、完全に軍の監督下にあったことをうかがわせる。資料2をみると「慰安婦」は外出はおろか散歩さえ時間と範囲を限定されていたことが分かる。
 軍医麻生徹男の「戦線女人考」には、脱走した慰安婦を引き取りに行ったことが明かされていたが、「慰安婦」は、まさに自由を奪われた性奴隷であったといえる。「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」兵站病院の産婦人科医 麻生徹男(石風社)に取り上げられていた、上海の楊家宅にあった慰安所の使用規定は317で抜粋済みである。
資料1------------------------------------------------
マステバ島警備隊
                          軍人倶楽部規定                 1942年8月

一、軍人倶楽部ハ軍人(軍属含)ノ慰安ヲ求ムル所トス
二、使用配当日割左ノ如シ
   日曜日   大隊本部、行李
   月曜日   第11中隊
   火曜日   機関銃中隊、歩兵砲隊
   水曜日   衛生隊
   木曜日   工兵隊、輜重隊 無線
   金曜日   体育隊、通信、弾薬班
   土曜日   午前検査
三、使用時間ヲ左ノ通リ定ム
    兵    1000ー1630
   下士官  1700ー1930
四、慰安料左ノ如シ
   下士官 兵  1比50仙
   将    校  2比50仙
  但シ実施ハ一回トシ其時間ハ40分以内トス
  40分増ス毎ニ1比宛増額トス
五、倶楽部ニ於テ守ルベキ件左ノ如シ
 1、慰安ヲ求メントスルモノハ必ズ受付ニ於テ番号札ヲ受ケ其順序ヲ守リ料金ハ慰安婦ニ渡スコト
 2、規定ヲ厳守シ公徳ヲ重ンジ他人ニ迷惑ヲ及ボサザルコト
 3、「サック」及予防薬(一揃5銭)ハ之ヲ慰安婦ヨリ受領シ予防法ハ必ズ実行シ花柳病ニ罹ラザルコト
 4、不用意ノ言動ヲ慎ミ防諜ニ注意スルコト
 5、慰安所ニ於テハ飲酒ヲ禁ズ
 6、酩酊ノ上暴行等ノ行為アルベカラザルコト
 7、毎週土曜日昼間ハ健康診断休業トス
六、其ノ他
 1、倶楽部ニ到ル下士官兵ハ中隊長(独立小隊長「工兵隊ハ輜重小隊長」)ノ発行スル外出証ヲ携行スルモノトシ
   2人以上同行シ旦途中市内ヲ漫歩セザルコト
 2、服装ハ略装ニシテ帯剣シ脚絆ヲ穿ツ


資料2-----------------------------------------------
                      比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所

 慰安所(亜細亜会館 第1慰安所)規定

一、本規定ハ比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所管理地区内ニ於ケル慰安所実施ニ関スル事項ヲ規定ス
二、慰安所ノ監督指導ハ軍政監部之ヲ管掌ス
三、警備隊医官ハ衛生ニ関スル監督指導ヲ担任スルモノトス接客婦ノ検黴ハ毎週火曜日拾五時ヨリ行フ
四、本慰安所ヲ利用シ得ベキモノハ制服ヲ着用ノ軍人軍属ニ限ル
五、慰安所経管(営?)者ハ左記事項ヲ厳守スベシ
 1、家屋寝具ノ清潔並日光消毒
 2、洗浄消毒施設ノ完備
 3、「サック」使用セサル者ノ遊興巨止
 4、患婦接客禁止
 5、慰安婦外出ヲ厳重取締
 6、毎日入浴ノ実施
 7、規定外ノ遊興拒止
 8、営業者ハ毎日営業状態ヲ軍政監部ニ報告ノ事
六、慰安所ヲ利用セントスル者ハ左記事項ヲ厳守スヘシ
 1、防諜ノ絶対厳守
 2、慰安婦及楼主ニ対シ暴行脅迫行為ナキ事
 3、料金ハ軍票トシテ前払トス
 4、「サック」ヲ使用シ且洗浄ヲ確実ニ実行シ性病予防ニ万全ヲ期スコト
 5、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ
許可ナクシテ慰安婦ノ連出シハ堅ク禁ズ
七、
慰安婦散歩ハ毎日午前八時ヨリ午前10時マデトシ其ノ他ニアリテハ比島軍
   政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ許可ヲ受クベシ尚散歩区内ハ別表1ニ依ル

八、慰安所使用ハ外出許可証(亦ハ之ニ代ベキ証明書)携帯者ニ限ル
九、営業時間及料金ハ別紙2ニ依ル

 別表1 
公園ヲ中心トスル赤区界ノ範囲内トス (地図略)
 別表2
   区分      営業時間    遊興時間  料金 第1慰安所  亜細亜会館
   兵     自 9:00 至16:00  30分    1,00       1,50
下士官・軍属  自16:00 至19:00  30分    1,50       2,50
 見習士官   自19:00 至24:00  1時間    3,00       6,00


資料3-----------------------------------------------
                        常州駐屯間内務規定
                                             独立攻城重砲兵第2大隊
 常州駐屯間内務規定ヲ本書ノ通リ定ム
  昭和13年3月16日
                                                 大隊長 万波少佐
 〔第1章~第8章・略〕
第9章 慰安所使用規定

第59 方針
    緩和慰安ノ道ヲ講シテ軍紀粛正ノ一助トナサントスルニ在リ
第60 設備
    慰安所ハ日華会館南側囲壁内ニ設ケ、日華会館付属建物及下士官、兵棟ニ区分ス
    下士官、兵ノ出入口南側表門トス
    衛生上ニ関シ楼主ハ消毒設備ヲナシ置クモノトス
    各隊ノ使用日ヲ左ノ如ク定ム
      星 部隊  日 曜日
      栗岩部隊  月火曜日
      松村部隊  水木曜日
      成田部隊  土 曜日
      阿知波部隊 金 曜日
      村田部隊  日 曜日
    其他臨時駐屯部隊ノ使用ニ関シテハ別ニ示ス
第61 実施単価及時間
     1 下士官、兵営業時間ヲ午前9時ヨリ午後6時迄トス
     2 単価
      使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス
      支那人   1円00銭
      半島人   1円50銭
      内地人   2円00銭
     以上ハ下士官、兵トシ将校(准尉含ム)ハ倍額トス
     (防毒面ヲ付ス)
第62 検査
    毎週、月曜日及金曜日トシ金曜日ヲ定例検黴(ケンバイ)日トス
    検査時間ハ午前8時ヨリ午前10時迄トス
    検査主任官ハ第4野戦病院医官トシ兵站予備病院並各隊医官ハ之ヲ補助スルモノトス
    検査主任官ハ其ノ結果ヲ第3項部隊ニ通報スルモノトス
第63 慰安所使用ノ注意事項左ノ如シ
     1、慰安所内ニ於テ飲酒スルヲ禁ス
     2、金額支払及時間ヲ厳守ス
     3、女ハ総テ有毒者ト思惟シ防毒ニ関シ万全ヲ期スヘシ
     4、営業者ニ対シ粗暴ノ行為アルヘラカス
     5、酒気ヲ帯ヒタル者ノ出入ヲ禁ス
第64 雑件
     1、営業者ハ支那人ヲ客トシテ採ルコトヲ許サス
     2、営業者ハ酒肴茶菓ノ饗応ヲ禁ス
     3、営業者ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス
     4、営業者ハ総テ検黴ノ結果合格証ヲ所持スルモノニ限ル
第65 監督担任
     監督担任部隊ハ憲兵分遣隊トス
第65 付加事項
     1、部隊慰安日ハ木曜日トシ当日ハ各隊ヨリ使用時限ニ幹部ヲシテ巡察セシムルモノトス
     2、慰安所ニ至ルトキハ各隊毎ニ引率セシムヘシ
       但シ巻脚絆ヲ除クコトヲ得
     3、毎日15日ハ慰安所ノ公休日トス

 〔後略〕  

 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。一部旧字体は新字体に変えています。
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