-NO159~167-

--------------スターリン極秘指令とシベリア抑留--------------

 日本が受諾した「ポツダム宣言」の第9項には「日本国軍隊ハ、完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ、平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」とあるという。にもかかわらずポツダム宣言署名国のソ連が、これを無視して、およそ64万人の日本人を捕虜としてシベリアなどへ連行し、苛酷な労働を強制した。異国の地での厳寒・飢餓・重労働に耐えられず命を落とした日本人犠牲者は6万人を超えるという。一説によると、シベリア抑留はトルーマンがソ連の北海道分割占領(釧路と留萌を結ぶ線の北側の占領)を認めなかったからであるというが、理由やきっかけはどうあれ、明らかに国際法に反し許し難いことである。下記は、その強制連行の「スターリン極秘指令」抜粋である。
 しかし、抑留されている日本人捕虜の間に
「スターリンへの感謝決議文」を送ろうという運動があったことも見逃すことはできない。まさにその運動は、関東軍をはじめとする日本軍組織がかかえていた様々な問題のあらわれであるといえるからである。「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)に資料として「スターリン極秘指令」全文が掲載されているが、その連行地の内訳部分の一部を除いた抜粋である。
---------------------------------------------------
                 スターリン極秘指令

  極秘     総司令官参謀部第8局に6日後に返却を要す
  複写禁ず
  1945年9月2日、22時30分 モスクワ発
  1945年9月3日、5時30分受信
  1945年9月3日、5時40分、赤軍参謀本部第8局受理
  ─────────────────────────────────────────────────
                                特重要

      大将ビノグラードフ同志へ
 1945年8月23日付国家防衛委員会決定 No9898ss からの抜粋を報告する。
 1、ソ連邦内務人民委員会のベリヤ同志とクリベンコ同志に、約50万人の日本人軍事捕虜を受け入れ、軍事捕虜収容所
   に送ることを義務づけること。
 2、各方面軍軍事ソビエトのメレツコフ同志、シュテイコフ同志(第1極東方面軍)、ブルカーエフ同志、レオーノフ同志(第2
   極東方面軍)、マリノフスキー同志、チェフチェンコフ同志(ザバイカル方面軍)に、ソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑
   留者総局の代表者たち(第1極東方面軍─パブロフ同志、第2極東方面軍─ラトウシン同志、ザバイカル方面軍─クリ
   ペンコ同志、ウォローノフ同志)と協力して、以下の措置の実行を義務づけること。 

 ア、日本軍の軍事捕虜のなかから、極東およびシベリアでの労働に肉体的に適している日本人を約50万人選抜すること。

 イ、ソ連邦へ送り出す前に、軍事捕虜を1000人ずつの建設大隊に組織すること。大隊と中隊の長として若い将校や下士官
   の軍事捕虜を指揮官に据えること。まず初めに、それらは工兵隊のなかから選ぶこと。各大隊には、軍事捕虜のなかか
   ら、2人の医療員を割り振ること。大隊には、仕事に必要な自動車、馬車を支給すること。大隊の全ての人員に、戦利品
   の中から冬用、夏用の軍装品、寝具、下着などを支給すること。(以下、欠落)

 ウ、ハバロフスク地方-56,000人。内訳:石炭産業人民委員部のライチホ、キブジンスク炭鉱に20,000人。非鉄金属人民委
   員部のヒンナンスク錫鉱山管理局に3,000人。国防人民委員部住宅開発局の兵舎建築現場に5,000人。石油産業人民
   委員部のサハリン石油と石油精製工場に5,000人。木材産業人民委員部の木材調達に3,000人。海洋輸送人民委員部
   と河川輸送人民委員部に3,000人。運輸人民委員部のアムール鉄道に2,000人。建設人民委員部のニコラエフスク港建
   設、アムール鉄鋼の建設、コムソモリスク市の No199 工場の建設に、15,000人。 

 エ、チチンスク州-40,000人。内訳:石炭産業人民委員部のブクブチャンスク、チェルノフスク炭鉱の採掘に10,000人。非鉄
   金属人民委員部のモリブデン、タングステン、錫企業に13,000人。木材産業人民委員部の木材調達に4,000人。国防人
   民委員部住宅開発局の兵舎建設現場に10,000人。運輸人民委員部のザバイカル鉄道に3,000人。

 オ、イルクーツク州-50,000人。内訳:石炭産業人民委員部のチェレムホフ炭坑に15,000人。国防人民委員部住宅開発局
   の兵舎建設現場に11,000人。木材産業人民委員部の木材調達7,000人。運輸人民委員部の東シベリア鉄道に5,000人。
   教育人民委員部のNo389工場2,000人。建設人民委員部と輸送機械製作人民委員部のクイブシェフ工場、No39工場、
   水素添加工場に10,000人。

 
以下は内訳略
 カ、ブリヤート・モンゴル自治共和国-16,000人。
 キ、クラスノヤルスク地方-20.000人。
 ク、アルタイ地方-14,000人
 ケ、カザフ共和国-50,000人。
 コ、ウズベク共和国-20,000人。

 6、国防人民委員部、ブルガーニン同志に、以下のことを義務づけること。
 ア、軍事捕虜収容所の組織化のために、1945年9月15日までに、前線勤務の将校4,500人、医療員1,000人、主計将校
   1,000人、赤軍兵士6,000人を選抜し、移送すること。
 イ、軍事捕虜収容所に毎月、追加的に1,000トンのガソリンを支給すること。

 7、国内商業人民委員部のミコヤン同志に、極東におけるソ連邦内務人民委員部に、軍事捕虜収容所用のトラックを支給
   するよう義務づける。(以下、欠落)

 8、赤軍軍事報道中央局ドミートリエフ同志、運輸人民委員部コワリョフ同志、海洋艦隊人民委員部シルショフ同志、河川
   艦隊人民委員部シャシコフ同志に、50万人の日本人軍事捕虜を、方面軍と内務人民委員部の要請に応じて鉄道、水
   路を使った輸送編隊によって、本年8月から10月の期間に移送することを義務づけること。

 9、国防人民委員部フルリョフ同志に、以下のことを義務づけること。
 ア、ソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者総局に、バイカル・アムール鉄道建設現場に日本人軍事捕虜を、一時的に
   配置するための3,000幕の大型テントと、15万人分の半外套、長靴を含めた冬季用軍装品を支給すること。
 イ、ソ連邦内務人民委員部の日本人軍事捕虜のために戦利品の日本軍軍装品のうちの必要量と日用品を支給すること。

10、国防人民委員部のブジョヌイ同志に、ソ連邦内務人民委員部日本人軍事捕虜収容所に、極東軍の物資のなかから
   戦利品の馬4,000頭を支給することを義務づけること。

11、ソ連邦保健人民委員部のミーチェレフ同志と国防人民委員部軍事衛生総局のスミルノフ同志に、日本人軍事捕虜の
   治療のための必要最小限の病院用ベッド(治療場所)を組織、保障するよう義務づけること。

12、国防人民委員部のボロビヨフ同志に、ソ連邦内務人民委員部に、日本人軍事捕虜収容所用の有刺鉄線800トンを供
   給するよう義務づけること。

13、ベリヤ同志に、当決定の遂行の監督を委ねること。


 国家国防委員会議長  I・スターリン
                1945・9・1 
 上記のものを、1945年8月31日付赤軍後方軍長指令の根拠として、報告する。
    No77122/sh                      ゴーリコフ


--------------スターリン感謝文と収容所の民主化運動---------------

 「スターリン感謝文」とは、「長さ約20メートル、幅約1メートルの絹地の旗に、4年間にわたる民主運動の経過を絵にして描き、その中に約1万3千文字のスターリン宛て感謝文を金糸で刺繍した立派なもの」であるという。そして「感謝決議文に賛同する66434人の日本人捕虜の署名」が別個に添えられていたという。ポツダム宣言に反する拉致・連行や苛酷な強制労働の加害責任者といえるスターリンに感謝文を送ろうとしたのである。
 元関東軍参謀草地貞吾は、
「スターリン感謝文」「世界的物笑いの種である」とバカにしている。11年半にわたる抑留生活から帰還してもなお、「今日、情けないことに、日本人の相当数は「承詔必謹」(天皇の詔をいただく際には、必ず謹んだ態度をとりなさいというような意味)の真の所在根源を忘れかけている。承詔必謹の本源は議会でもなければ、政府でもない。もとより強大な外国でもなければ、 有り難い教祖様でもない。それは天皇であり、日本の国体・皇位・皇統・皇道にほかならぬ」と、旧日本軍の思想を変わらず維持し、主張し続けた元参謀であれば、当然の評価である。また、確かに常識的には理解しがたい大変な矛盾を抱えている。しかしながら、その背景に、きわめて食糧事情が悪い中、作業を免除されている将校が食糧のピンハネを行い、ノルマの超過達成を暴力的に強制するという旧日本軍組織の差別的・暴力的体質があり、「反軍闘争」として燃え広がった民主化運動の流れの中で出てきた取り組みであるといわれれば、悲しいことではあるが理解できないことはない。「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。

-------------「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)--------------
                         第2部 地獄遍路(シベリア抑留記 )

                               第11章 スターリン感謝文

 世の中で、いろいろと感謝文なるものを見たことがあるが、人文歴史始まって以来、敵国の大元帥に俘虜の身でありながら感謝文を奉ったということを聞いたためしがない。ところが、この開闢以来の大傑作(?)を、入ソした日本人抑留者の多数(昭和24年極東にいた)がやったのであるから見ものである。
 この傑作は絶対強制力を持つソ側がやらしめたものか、或いはいわゆる日本側民主指導者の立案になれるものかは明らかでない。然しその何れにしても、或いはまたその合作であったとしても、
世界的物笑いの種であることには間違いない。なぜかと一言に言えば、それは完全な筋違いであるからである。やるべからざることをやったからである。やらすべからざることをやらせたからである。
 ・・・(以下略)
-----------「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)------------
                        第6章 民主運動 勝利と挫折

 天皇制軍隊の特質

 ・・・
 日本の軍隊は制度上、上級者が下級者に私的制裁を加えることを厳禁しているが、兵営の中ではそれが公然と破られ、暴力の反復行為によって条件反射的に服命する、兵士の粗製乱造が大手を振って、まかり通っていた。暴力こそ、軍隊とは無縁の一般社会で暮らしてきた地方人に「焼き」を入れて、筋金入りの天皇の兵隊に造り変える{魔法の杖」であった。
 日夕点呼(『軍隊内務書』に定められ、通常消灯時限前30分ないし1時間に行われる)が、終わった後の内務班は、古兵の天下となった。その日一日の落ち度を口実にして、初年兵は古兵からビンタをはじめとして私的制裁の雨を浴びせられるのであった。
 野間宏の『真空地帯』や大西巨人の『神聖喜劇』に登場する内務班の実態は、小説の形式をとっているが、日本の軍隊の実相をありのままに書いたまでで、誇張や虚飾はない。
 日本の大陸侵略の一環として、満州国に駐留した「外征軍」の関東軍は、同時に無敵を誇った「野戦軍」でもあった。このため、軍紀が厳しいことにかけては有名であった。斎藤六郎が満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の録事として勤務していたときのことだ。
上官の私的制裁を恐れて、満ソ国境を越え、ソ連へ逃亡する兵士が後を絶たなかった。日ソ間には中立条約があって、国際法上ソ連は日本の敵性国家ではなかったが、軍はソ連を仮想敵国視しており、ソ連から逃亡兵が送り返されてくると、軍法会議にかけて奔敵逃亡罪(陸軍刑法第77条)を適用して、死刑もしくは無期禁錮の厳罰に処した。兵隊が死刑を覚悟で兵営を逃げ出すのはよほどのことであって、軍紀維持のためにそれほどひどい私的制裁が関東軍にはのさばっていた、何よりの証拠であろう。
 斎藤は録事の職掌柄、軍法会議で死刑宣告を受けた逃亡兵の死刑執行命令書を何回も書き、その処刑現場にも立ち会った。……

 私が勤務していた満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の死体安置室に、処刑後引き取り手がなくて長く放置されていたソ連へ逃亡した兵士の遺骨があった。遺族は対面を恥じて一向に引き取りにやってこなかった。その気持ちは痛いほどよく分かった。だが、いつまでも放っとくわけにもいかない。出身地の役場に連絡して、引き取ってもらったことがある。
・・・(以下略)

  存続する軍隊組織

 日本が戦争に敗れて、「天皇の軍隊」はとっくの昔に解体されたはずであった。だが、シベリアをはじめとするソ連各地の日本人捕虜収容所では、旧軍の軍隊組織や階級制がそっくりそのまま生き残っていた。関東軍総司令部は無条件降伏の過程で、64万人の捕虜の権利を主張せず、唯々諾々と「棄兵・棄民」に甘んじただけではない。
ソ連軍に迎合して下級兵士の労務提供と引き換えに、旧軍組織の維持と将校の特権の温存を図ったからである。関東軍が満州で武装解除したとき、ソ連軍の命令で、旧来の日本軍の師団中心の編成に代わって、千人を1単位とする作業大隊に再編成して、一斉に入ソした。作業大隊の編成自体は旧日本軍の軍隊制度を引き継いだもので、通常は階級が大尉の大隊長をトップに戴き、その下にいくつかの中隊と小隊を配し、大尉より下級の中尉、少尉が中隊長、小隊長となって底辺を構成して、それぞれの所属兵士を統率するピラミッド型の組織を形成した。

・・・

 だがソ連側は収容所生活の指揮・命令権の一切を将校団に委ねた。このため、階級的な身分差別と将校の特権を温存した作業大隊制度は、下級兵士にとって、「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重の苦しみの淵にあえぐ非情なメカニズムと化した。…… 将校は旧軍時代と同様に、兵隊に対して宮城遙拝、軍人勅諭の奉唱、軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを強要、配給食糧のピンハネを行い、些細なことで私的制裁の雨を降らせた。あげくのはては帯剣の代わりに棍棒を持って、作業現場で兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督となったのであった。斎藤六郎は「将校は兵隊から蛇蝎の如く嫌われたのも、当然だった」といっている。ソ連各地の収容所は、天皇制軍隊の兵営と何ら変わることがなかったのだ。
 ……
入ソ1年目から2年目にかけては、とくに食糧事情が悪かったこともあって、苛酷な収容所生活にうまく適応できなかった下級兵士がばたばた死んでいった。91年4月、ソ連指導者として初めて来日したゴルバチョフ大統領が持参した、約3万8千人のシベリア抑留死亡者名簿は、斎藤によると、「その圧倒的多数が下級兵士によって占められていて、将校や下士官はごくわずか」であった。この一事を取ってみても、シベリア抑留の最大の犠牲者は下級兵士であったことが、客観的に裏付けられている。

 「このままでは殺されてしまうぞ」。抑留から半年たった1946年4月。将校の圧制に敢然と反抗して、収容所内の民主化を求める「反軍闘争」の火の手があがった。極東のホール第17地区の本村作業大隊将兵一同が、ソ連に抑留中の関東軍将兵に対して、隊内の軍国主義分子の追放と民主的軍紀の確立のため、共闘を呼び掛ける檄文とスローガンを署名入りで発表。これが『日本新聞』に大きく載ったのだ。本村大隊のこのアピールは嵐のような反響を呼んだ。こうして反軍闘争がシベリアだけでなく、ソ連各地の収容所に燃え広がる大きなきっかけとなったのであった。

---------------
シベリア抑留と草地文書・朝枝文書---------------

 草地貞吾関東軍参謀(作戦班長)や朝枝繁春大本営参謀が、日本兵や満州居留民のシベリア抑留・強制労働を予想していたかどうかは分からない。しかしながら、草地文書にも朝枝文書にも「棄兵・棄民」と受け取れる表現がある。
「希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい」とか「貴軍の経営に協力させ」とか「貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」「『ソ』聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』聯側ニ依頼スルヲ可トス」、「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」などがそれである。
 さらに言えば、草地は、関東軍の作戦主任参謀としての苦労や敗戦までの関東軍の情況、また、ソ連での抑留生活について、事細かに回想録に書いているにもかかわらず、棄兵・棄民に関わる大事な部分は、
「その詳細については、現地に行った方々の発表によるのが至当であるから私は省略するが……」とかわしている。
 また、関東軍作戦主任参謀の草地が
「……作戦中は、直接の居留民保護はしたくもできなかったが、停戦ともなれば一時的にもせよ、最大限に居留民保護には努力しなければならない」などというのは、「責任逃れ」であると思う。戦線を拡大するときは「居留民保護」をお題目とし、いざ実際に保護が必要になったときには「……居留民保護はしたくもできなかったが、……」というのは通らないと思うのである。本当は居留民など眼中にない作戦の展開が、多くの犠牲者を出す結果となったことは明らかである。「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。
------------------「関東軍参謀草地貞吾回想録」--------------------

                              第1部 満洲終戦秘録
                               第2章 終戦始末


  
停戦梗概

 ・・・
 ……
作戦中は、直接の居留民保護はしたくもできなかったが、停戦ともなれば一時的にもせよ、最大限に居留民保護には努力しなければならない。
 ハルビンにいたソ連総領事一行は開戦とともにわが方に抑留し、15日新京に輸送してきたが、御放送の後、直ちに逆送して、日ソ両軍停戦交渉の仲介に利用した。
 ハルビン特務機関を通じてのソ側の申込みとかで、秦総参謀長は17日ハルビンに向かったが、この日はソ軍と連絡がとれず、要領を得ぬままで新京に帰ってきた。18日朝になると、またハルビン特務機関から連絡があり、秦総参謀長に出てきてもらいたいということだった。当然私が随行すべきところだったろうが、ちょうどこの日、隷下諸軍の参謀長会同を開くように示達準備中だったので、瀬島中佐(作戦)に、代わって行ってもらった。その他に、第2課の野原中佐(情報)、第4課の大前少佐(政務)等が随行し、ハルビン特務機関に落ちついたのち、同機関長の秋草少将と宮川ハルビン総領事(露語通訳)等を伴ってソ連当局と連絡しようとしたが、この日はうまく連絡がとれず、明けて8月19日、ソ軍飛行機で興凱湖西にあるジャリコーウォ戦闘司令所に行き、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と会見した。その詳細については、現地に行った方々の発表によるのが至当であるから私は省略するが、とにかく原則的には武装解除の要領、治安の維持、在留邦人の保護等について諒解が成立した。しかし、この交渉といっても、対等の交渉ではあり得ない。見ようによっては、マニラに赴いた河辺参謀次長の場合と同様に、単なる指令受領であった。
 このように、秦総参謀長一行がジャリコーウォでソ連首脳と会っている間に、それとは無縁のようにハルピン、新京、奉天、チチハル等には、戦闘機に掩護されて続々空中からソ連の軍使がやってきた。

-----------------ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡----------------
                  
            第12章 関東軍文書発見
    二つの関東軍文書


 ・・・
 その中で、斎藤の関心を最も強く引いた「関東軍文書」が二つあった。一つは関東軍総司令部の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」だ。もう一つは朝枝繁春大本営参謀の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」だった。
 
 前者は、満州に攻め込んだ極東ソ連軍の当時の最高司令官であるワシレフスキー元帥にあてた関東軍の陳情書だ。軍が作ったものなので、作成者の氏名や捺印はないが、元関東軍参謀(作戦班長)・大佐草地貞吾が数人の参謀と合議のうえまとめ、秦総参謀長、山田総司令官の決裁を受けて、ソ連側に提出した。93年7月5日から6日にかけて、この報告の内容が大々的に報道された直後、草地が自分が書いたものだと名乗り出た。文書の上欄には、「8月26日に受領」とロシア語で書き込みがある。そのあらましは、次の通り。


 一、3万人を超える入院患者は、冬季までに帰国させてほしい。長旅に耐えられない重病者は南満州にまとめてほしい。
 一、135万の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい。ただし
    老人、婦女子は内地か、元の居留地へ移動させて戴きたい。
 一、軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、その他は逐次内地に帰還させてほしい。
    帰還までに極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい。
 一、例えば撫順などの炭鉱で石炭を採掘するとか、満鉄、製鉄会社などで働かせてもらい、冬季の最大難問である石炭
    の取得にあたりたい。
 一、各地との通信が杜絶しているので速やかに、貴軍将校とともに要員を派遣して、今後の処理に関する資料収集につい
    て、ご配慮を得たい。
 一、本日は降伏者として厚かましい申し出をしたが、冬を控え速やかな措置が必要と考えたためで、他意はありません。日
    本人は貴国人と異なり、寒さに弱いので、特別の配慮をお願いしたい。


 一方、朝枝文書も草地文書と同様8月26日に、ソ連側に提出されており、「全般的ニ同意ナリ」とする秦総参謀長の「大本営参謀ノ報告ニ関スル所見」と一緒に発見された。かなり長文なので、必要事項だけ以下に抜粋する。

 1、一般方針
  内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於テハ在留邦人及武装解除後の軍人ハ
  「ソ」聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク「ソ」聯側ニ依頼スルヲ可トス
 2、方法
  1、患者及内地帰還希望者ヲ除ク外ハ速ヤカニ「ソ」聯ノ指名ニヨリ各々各自技能ニ応ズル定職ニ就カシム
  2、満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス
  3、以上満鮮ニ於ケル土着不可能ナル場合ニ於イテハ今入冬季前ニ少クモ先ヅ軍隊ハ400,000傷病兵30,000在留邦人
    300,000計730,000ヲ内地向輸送セサルヘカラス而シテ之カ輸送ハ船舶、鉄道ノ運用、輸送間ノ給養等厖大ナル仕事
    ニシテ一ツニ「ソ」側ヲシテ聯合側ニ依頼セザレバ不可能ナル問題ナリ



--------------シベリア抑留と「和平交渉の要綱」-----------------

 草地文書や朝枝文書が作成される前に、近衛の側近である酒井鎬次中将によって下記の「和平交渉の要綱」が書かれ、関係者の了解が得られていたとすれば、草地文書や朝枝文書の棄兵・棄民を臭わせる表現は、当然のこととして理解できる。近衛がスターリンと会談するときに提出される予定であった「和平交渉の要綱」に「賠償として、一部の労力を提供することには同意す」という内容があるからである。国体護持のための棄兵・棄民は、軍部中枢では合意されていたと考えて間違いないであろう。天皇の戦争終結の決断を受けて、関係者は、講和の仲介役を引き受けてもらうために、「ソ連に64万の日本人を差し出すことも止むを得ない」と考えたのではないか。下記の文面からは、そう考えても不思議はない状況であったことがうかがえる。「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。
---------------------------------------------------
                           第3章 国体護持の画策

   国体護持と和平工作

 ・・・
 天皇が遅まきながら戦争終結のイニシャティブを取ったのは、終戦が長びいてこれ以上犠牲が増えたら、日本民族が滅亡するという危機感にとらわれたことがあった。だが、それ以上に恐れたのは、米英から無条件降伏を押しつけられて、天皇制の国体の護持ができなくなるという絶望的な状況に立ち至ることであった。大日本帝国の根幹を成す万世一系の天皇制──。それはいざとなれれば、天皇としてわが身を犠牲にしてでも国体を護らなければならないものであった。天皇のそういう切羽詰まった気持ちが、戦争の終結を急がせる動機となったことは間違いないであろう。『昭和天皇独白録』の中には、天皇制を支える「日本神話」の妄想の恐ろしさを思い知らされるつぎのような一文があり、天皇の当時の心情が手に取るようにうかがえる。

  当時私の決心は第一に、このままでは日本民族はほろびてしまうふ、私は赤子(せきし)を保護する事が出来ない。
  第二は、国体護持のことで木戸も同意見であったが、敵が伊勢湾に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下
  に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身
  は犠牲にしても講話をせねばならぬと思った。

 米英との講和の仲介役に選ばれたのは、当時、日本とは外交的に中立関係にあったソ連であった。小国に和平斡旋を頼むと発言権が弱いため、逆に米英から無条件降伏の取次をさせられかねない心配がある。そこへ行くとソ連は大国で、日本と中立条約を締結している義理もある。ソ連なら、きっとその政治的力を発揮してうまく立ち回り、日本に有利な条件で講和の斡旋をしれくれるに違いないという思惑が働いたのだ。


 早速、以前からあった広田弘毅元首相とマリク駐日ソ連大使のパイプを使って、和平工作が始まった。だが、マリクは広田から外務省が作った満州の中立化など日本提案を仕入れると、それをモスクワへ送ったきり、日ソ交渉の扉をぴたっと閉ざしてしまった。このため、広田・マリク会談は中断に追い込まれた。そこで、モスクワと直接交渉を行う話が決まり、天皇が7月12日に近衛文麿を宮中に呼び、特使として訪ソするように命じた。近衛は、この大命に基づき、スターリンと会談するときに提出する「和平交渉の要綱」を作成した。近衛の側近である酒井鎬次中将が原案を書き、元内閣書記官長の冨田健治も加わって推敲し、正文ができあがった。矢部貞治編著『近衛文麿(下)』によると、この和平要綱の「方針」に基づく「条件」の全文は、次の通り。

 (一)国体及び国土
   (イ)国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること。
   (ロ)国土に就いては、なるべく他日の再起に便なることに努むるも、止むを得ざれば固有本土を以って満足す。
 (二)行政司法
   (イ)我国古来の伝統たる天皇を戴く、民本政治には我より進んで復帰するを約す。これが実行のため若干法規の改正、
      教育の革新にも亦同意す。
   (ロ)行政は右の趣旨に基き、帝国政府自らこれに当たるに努むるも、止むを得ざれば、若干期間監督を受くることに同
      意す。
   (ハ)司法は帝国司法権の自主に努むるも、戦争に関係ある事項の処理につき止むを得ざれば、戦争責任者たる臣下
      の処分はこれを認む。これが実行に関し止むを得ざれば、彼我協議の上一部の干渉を承諾す。
 (三)陸海空軍々備
   (イ)国内の治安確保に必要なる最小限の兵力は、これを保有することに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を
      現地に残留せしむることに同
      意す。
   (ロ)海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば当分その若干を現地に
      残留せしむることに同意す。
   (ハ)略 (ニ)略
 (四)賠償及び其他
   (イ)賠償として、一部の労力を提供することには同意す。
   (ロ)条約実施保障のための軍事占領は、成るべくこれを行わざることに努むるも、止むを得ざれば、一時若干の軍隊の
      駐留を認む。
 (五)国民生活
   (イ)窮迫せる刻下の国民生活保持のため、食糧の輸入、軽工業の再建等に関し、必要なる援助を得るに努む。
   (ロ)国土に比し人口の過剰なるに鑑み、これが是正のための必要なる条件の獲得に努む。

・・・(以下略)


-------------
シベリア抑留と停戦交渉八項目の「協定」-------------

 「沈黙のファイル 『瀬島龍三』とは何だったのか」共同通信社社会部編(新潮文庫)で注目したいことが二つある。その一つは、関係者の証言で、日本人が中国人や朝鮮人を抑圧していたことがはっきり分かることである。武装解除されると中国人や朝鮮人の仕返しが恐いので、武装解除の延期を陳情し、武装解除後はソ連軍に守ってもらいたいと要請せざるを得なかったのである。また、もう一つは、瀬島の文書改竄の理由である。近衛がスターリンとの会談の際に持参する予定であった「和平交渉の要綱」の中には「賠償として、一部の労力を提供することには同意す」とある。ソ連に講和の仲介役を引き受けてもらうために、秦総参謀長など関係者も「64万の日本人を差し出すことも止むを得ない」と考え、交渉に臨んだのではないかと疑われるのである。交渉に同席した瀬島が、そうした疑いをはらすために、ロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフの著書「シベリア抑留秘史」日本語訳の原稿を改竄したとすれば、いよいよ怪しいということになる。同書からの抜粋である。
---------------------------------------------------
                       スターリンの虜囚たち

 サムライの強気


・・・
 ソ連領ジャリコーワで午後3時半から始まった関東軍総参謀長、秦彦三郎と極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの「停戦交渉」。同席した方面軍司令官マリノフスキーはその模様を著書『関東軍壊滅す』に次のように書き残している。
「つい最近まで(大戦果)を夢見ていた彼らであったが、いま、彼らは困惑と憂慮の色を顔面に漂わせて、小屋に入り帽子を取ってソビエト軍代表に敬礼した。(中略)小屋内の会談は緊張していた。ワシレフスキー元帥は日本軍の降伏手続きを説明し、まだ抵抗を続ける日本軍部隊はただちに武器を捨てるべきだと警告した。会見後すぐ、特別な事情が分かった。日本軍の数部隊が武器を捨てない事情を、秦将軍は率直に次のように説明した。関東軍司令部は困っている。ソビエト軍進攻の二日目、関東軍司令部は各部隊の統制を失い、降伏命令を全部隊に徹底することができなかった。ソ連の戦車と歩兵の進撃は急だった。混乱が起こった。司令部は各部隊と連絡することができなかった……」


 ワシレフスキーは秦を机の上の地図のそばに呼び寄せ、関東軍各部隊がソ連軍に投降する日時や場所を指示した。秦はいらだたしげに肩ひもをまさぐり、眼鏡をふいた。「次のことはわすれないでください」とワシレフスキーが言った。
「日本軍は、将校とともに、秩序よく投降すること。また、最初の数日の兵士の食糧は日本軍将校が配慮すること。各部隊は食糧持参で投降すること……」
 秦は同意のしるしにうなずいた。

「細部の打ち合わせがはじまった。色々な問題が起こった。秦将軍は、ソビエト軍が到着するまで、満鮮各地区の日本軍の武装を許可するように申し入れた。『住民が不穏なので……』と彼はいった。日本人は彼らがかつてひどく抑圧した昨日までの召使いー中国人と朝鮮人ーを明らかに恐れている。南満に日本人が多数逃走し、避難民となっているから、このことをソビエト軍司令部は考慮されたいと、秦将軍はいう。ワシレフスキー元帥は、ソビエト軍司令部は、占領地域の完全な秩序維持を保証すると答えた」


・・・

 改竄された電文

 
「ワシレフスキー元帥から武装解除の具体的指示を受けた後で、関東軍総参謀長の秦彦三郎はこう言った。『満州では住民が日本軍に恨みを持っているから関東軍将兵の武器携帯を認めてほしい』と」(ワシレフッスキーの副官イワン・コワレンコ元共産党国際部副部長の日記を元にした証言)
 コワレンコの証言が続く。

 当時満州では中国人やソ連軍兵士による略奪が頻発していた。
「秦はその後『居留民が南に避難しているのでソ連軍に保護してもらいたい』と要望した。元帥はソ連軍の連絡用自動車を確保しておくことなどを指示した。それがジャリコーワの会談のすべてだよ」

 コワレンコによると、秦が要求したのは関東軍の武器携帯と居留民保護の二点だけだった。関東軍将兵のシベリア抑留や日本帰還の話は全く出なかった。
「捕虜をどうするかは戦勝国の権限だ。肉体労働をさせるか、帰還させるか、あるいは食べてしまうのか。決めるのは戦勝国であって敗者がとやかく言えることじゃない」
 この証言は秦の著書『苦難に耐えて』の記述と一致する。
「私は関東軍の一般状況を説明した後、日本軍の名誉を尊重されたいこと、および居留民の保護に万全を期せられたいことの二件を強く要請した。これに対し、ワシレフスキー元帥はわが方の要求を快く承諾し、特に日本人には階級章および帯刀(剣)を許し、将官には専属副官および当番を許すと言明した」


・・・

 ジャリコーワの停戦交渉から二日後、瀬島は大本営に「交渉」結果を打電した。

 関東軍総参謀長秦中将及ビ極東「ソ」軍最高司令官ワシレフスキー元帥トノ協定左ノ如シ
 (一)武装解除ニ当リテハ都市等ノ権力モ一切ソ連軍ニ引渡ス
 (二)前線後方共ニ軍隊、軍需品ノ移動ヲ行ハズ。但シ局地的ノモノハ差支ヘナシ
 (三)ソ連ハ日本軍隊ノ名誉ヲ重ンズ。之ガタメ将兵ノ帯刀ヲ許シ、又武装解除後ノ取扱ヲ極力丁寧ニス。解除後ノ将校ノ
    生活ハ成可ク今迄同様トス(食事並ニ当番ノ如キ)
 (四)治安ノ間隙ナカラシム。之ガタメ満州内要地等ニ於テハ、ソ連軍隊ガ進駐シ警備其ノ他ナシ得ルニ至リ全力ヲ日本
    軍ニ於テ実質的ニ武装解除ス。従テコノ間ノ警備ハ日本軍に於テ負担ス
 (五)関東軍司令部ノ解体ハ全力ノ武装解除後ニ於テコレヲ為ス。コノ間ノ通信機関、連絡用飛行機、自動車ノ使用差支
    へナク、日本軍ノ要求ニヨリソ連ニ於テモ飛行機ヲ差出ス
 (六)武装解除後ノ日本軍隊ノ給与ハ自隊ニ於テ之ヲ行ヒ、之ガ為食糧運搬ノ自動車ノ使用等ハ概ネ現在通リ実施ス。
    給与ノ定額ハ概ネ現在程度ナリ
 (七)鉄道ハ速ヤカニソ連ノ管理ニ移ス。食糧輸送ノタメ必要ナルトキハ日本軍ヨリ要求ス
 (八)満鮮、居留民ノ保護ニ就テハソ連ニ於テ充分留意ス


 八項目の「協定」の中に関東軍将兵の帰還や抑留についての記載はない。ワシレフスキーがモスクワに打った電文(8月20日付)も同じだ。

 「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。秦中将は、日本人、満州人、朝鮮人の関係が悪化していると述べた。また日本軍将官、将校兵士に対する然るべき取り扱い給養、医療を要請した。私は必要な指示を与えた」

 この電文はロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフが発見。著書『シベリア抑留秘史』(92年)でその存在を明らかにした。
 だが全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版された日本語訳の単行本には、原文にない
「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の16文字が「然るべき取り扱い給養、医療」の後に加筆されていた。
 あってはならない歴史的文書の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった。 ……(以下略)


------------シベリア抑留-棄兵・棄民と未払い賃金訴訟------------

理不尽に連行され、酷寒と飢餓と重労働といういわゆる”シベリア三重苦”によってその一割がのたれ死んだといわれるシベリア抑留は、国体護持のため、64万の日本人を賠償としてソ連に差し出す”棄兵・棄民”であったといわれる。そして、その労働に対する賃金はいまだに支払われていない。シベリア抑留者未払い賃金訴訟の経過をたどると、日本という国は、今なお、シベリア抑留という棄兵・棄民をよしとしているのではないかとさえ思われる。
 最初、シベリア抑留者による国家補償の請求に対して、日本の関係筋は労働証明書が存在しないとの理由によって補償金の支払いを拒否した。そこで、全抑協会長斎藤六郎氏は、様々な人々に支えられながら東奔西走して、必要とされる文書を取得するに至る(これは本来国の仕事であると思う)。しかし、日本の関係筋は、今度は、ロシアの関係筋のしかるべき提示のないそれらの文書の公的性格に問題があると指摘した。民間団体へのそうした文書は、ロシア中央公文書委員会の発行であっても、私文書であり公文書とは認められないというわけである。
 斎藤会長の東奔西走はさらに続いた。そして、ロシア外務省の公式覚書の手交に至る。それでもなお、日本の関係筋は請求を認めない。「労働証明書というような文書の交付は、まず第一に抑留を行った国である貴国(ロシア)の問題である。日本は、当文書を認知する認知しないという立場を取ることはできない」さらに「国際法の観点から言って、その市民が抑留された国である日本は、当文書に基づき彼らに賃金を支払う責任を負う必要はない」との見解をつけ加えているという。
 シベリア抑留者は、あたかも自分の意志でシベリアに行き、ただ働きしてきたかのような扱いである。信じがたい”棄兵・棄民”追認の論理ではないかと思う。「シベリアに架ける橋 斎藤六郎全抑協会長とともに」エレーナ・L・カタソノワ(恒文社)からの抜粋である。
----------------------------------------------------
                             第5章 労働証明書

 未払い労働賃金問題

 ・・・
 私の知っているところでは、軍事捕虜は元来、1907年の陸戦の法規慣例に関するハーグ条約に基づき、抑留国によって労働に使役されたとき、その対価である労働賃金の支給を受ける権利を認められている。労働賃金に関するこの捕虜の権利規定は、第1次、第2次両大戦の経験を踏まえて、捕虜の待遇に関する1929年ならびに1949年のジュネーブ条約に引き継がれ、労働賃金の未払い分は、抑留国が未払い相当額を計算した労働賃金計算カード(労働証明書)を発行、捕虜の帰国時に、所属国が決裁・補償せねばならないことが規定されている

 だが、ソ連はシベリアなどに抑留した日本人捕虜の処遇に当たって、このような国際慣行を無視して、本来、捕虜の所属国が負担すべき給養費を水増しして労働賃金から天引きしただけではない。労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国時に天引きされた未払い労働賃金を日本政府から支払ってもらえず、日本人捕虜は事実上ただ働きさせられてしまった。ソ連の国内法によれば、特定のある企業で働いた者は、自発的な退職であれ、解職であれ、自分の労働行為に関する必要な文書・書類を受け取ることができる。シベリアの厳しい自然の中で、日本人捕虜は何年間も強制労働を科せられたのに、ソ連政府からこの事実を証明する文書類も受け取っていないことを知って、「これは一体どういうことか」と、私は非常に驚かされたのであった。

 それから間もなくたって、私は事務局が保存している原本の資料を調べていて、次のような事実を知った。それは東南アジアなど南方地域で米国、英国、ニュージーランド軍などに抑留された日本人捕虜は全員、未払い労働賃金の計算カードをもらって、帰国時に日本政府からその支給を受けたことだ。シベリアと南方では抑留地域が異なるが、日本人捕虜であることの身分はまったく同じである。にもかかわらず、なぜこのような差別が生じたのか?捕虜の待遇に関して、公平を欠くことおびただしい。原因は、ソ連のみが日本人捕虜に対して未払い賃金に関する公式文書の発行の作業を怠り、日本人捕虜がそれを受け取る権利を否定し、その結果彼らをして守られるべき法の外へに置いたからであった。この事実を知った私の心は驚きと憤りで、一杯になった。

・・・

 戦後の日ソ国交回復の基礎となった1956年の「ソ日(日ソ)共同宣言」は、戦争で生じた一切の請求権を相互に放棄した。このため日本人捕虜の労働賃金は、事実上抑留国の給養費に充当されただけではない。未払い分についてもソ連は労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国後捕虜は日本政府に支給を求めることができなくなってしまった。しかし、兵士の給養は、どこの国でも官給、無償のものであって本来捕虜が自弁することはありえない。捕虜の待遇に関する1949年のジュネーブ条約や国際慣習法(国際慣習に基づく法で、大多数の国家間で法的拘束力を持つものとして暗黙のうちに認められている)によれば、給養費を差し引かれて残った未払い労働賃金は、捕虜の所属国(日本政府)に「自国民補償」の義務があるという主張である。

・・・

 (原告側<全抑協側>の請求棄却後)
 国際法に違反して、労働証明書を発行しなかったソ連や、国家動乱の最中にあった中国を引き合いに出して、自国民捕虜補償の否定の根拠にするのは、国際人道法に悖る間違った解釈で、会長や弁護団を承服させることはできなかった。彼らは南方で抑留された日本人捕虜には未払い労働賃金の国家補償を認めながら、シベリア抑留者の元日本人捕虜にはこれを否定する不公平極まりない一審判決に心底怒っていた。「こんな裁判は絶対に許せない」。そう思った会長は、「とことん争って、国の誤りを正してみせる」決意を固め、そのために必要な労働証明書の獲得に、全力をあげて取り組むことになったのである。


 ようやく交付された労働証明書だが……
 ・・・
 労働証明書交付式が行われたロシア中央公文書委員会のホールは、関係省庁をはじめ軍検察庁、国家保安委員会(KGB)などの幹部で、埋まった。内外のマスコミもこの歴史的なイベントを伝えようと、たくさんの取材記者を送り込んできた。ピホーヤは百通の労働証明書を斎藤会長に手渡すとき、次のような良い言葉を贈った。
「わが国は長い間人道主義の原則をなおざりにしてきたことをお詫びしたい。そしてこの措置がロ日両国民間の友好の発展に寄与することを信じたい」
 これに対して、会長はこう、返礼の言葉を述べた。
 「私の戦友たちがこの素晴らしい出来事を、どんなに首を長くして待ち望んでいたことか、私たちはこの大きな人道主義的好意に対し、ロシア政府に限りなく感謝しております」
 モスクワでの労働証明書交付式の模様は、日本のマスコミで大きく報道された。
……(以下略)


                          第6章 体を張った政治工作

 この日のために頑張ってきた

 ・・・
 エリツィンは会長に近づくと、右手を差し出し、握手を求めた。エリツィンは再度会長に、諸国民友好勲章が授与されたことのお祝いの言葉を述べるとともに、日本の実業界の代表者たちとの公式昼食会の席で、「ロシアを代表して日本国民に、元日本人軍事捕虜たちへ、スターリン体制が行った反人道的処遇に対して謝罪した」ことを伝えた。この行為は、言うまでもなく、ロシア大統領の大いなる精神力と勇気を必要とするものだった。というのも、これは、過去の誤りの、最初の公式的な認知であったからだ。……


--------------
憲法改正」と三島の決起呼びかけの演説--------------

 どれほどのものか定かではないけれども、憲法を変えようとする動きの中に、三島由紀夫の歴史観や思想と同じものがあり、かなりの力を持っているのではないかと不安に思う。「交戦権の放棄」を放棄し、自衛隊を国軍と認め、旧日本軍と変わることのない建軍の本義を得ようとする考え方があるのではないかと思うのである。
 敗戦をさかいに180度方向を変えたかに見える日本の再出発は、米ソの力関係や朝鮮戦争の勃発によって大いに歪められた。GHQの占領下、アメリカの都合で密かに理不尽な取り引きによる戦犯免責が行われ、公職追放解除なども行われた。その結果、「旧日本軍」が様々なかたちで戦後の日本に生き延びたことは間違いない。したがって、日本国憲法の基本的な部分を、三島由紀夫のように再び大日本帝国憲法へ逆戻りさせようと画策する動きがあっても不思議ではないと思うのである。
「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)より抜粋する。
---------------------------------------------------
                                事件と論争

 7 三島由紀夫と自衛隊

 70年11月25日、三島由紀夫は東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部・総監室バルコニーから、眼下に参集した自衛隊員に向かって決起呼びかけの演説を行った。三島生前最後の声であり、かつ自衛隊との断絶宣言ともなった。

「自衛隊にとって建軍の本義とは何だ! 日本を守ること、日本を守るとは何だ! 日本を守るとは天皇を中心とする、歴史と文化と伝統 を守るんだ!
 よく聞け!聞け、聞け、聞けい、静聴せい!男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ!いいか、いいか!
 おれがだ、いまの日本人がだ、ここでもって起ち上がらなければ、自衛隊が起ち上がらなければ、憲法改正というものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ!
 諸君は武士だろう。武士ならばだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ。自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。
 諸君の中には一人でもおれと一緒に起つやつはいないのか。一人もいないんだな。よし、おれは死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。
 それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。天皇陛下万歳!万歳!万歳!」。
 
 三島の演説に営庭集められた制服自衛官ははげしい野次でこたえた。「降りてこい」、「引きずり降ろせ」、「気狂い」、「銃で撃て」などの言葉が録音されている。総監監禁さるの報は、隊員たちに敵意を燃え上がらせるに十分だった。自衛隊と三島の関係は、蜜月から破局へ、劇的に変わった。

・・・(以下略)


--------------
「憲法改正の歌」、中曽根康弘と三島由紀夫------------

 すでに「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)より、三島由紀夫の「」および「武士道と軍国主義」の一部を、また、「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)より三島の「決起呼びかけの演説」を抜粋したが、ここでは同じ「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から、憲法について、三島と同じような思いを表現している、中曽根康弘の「憲法改正の歌」を抜粋する。
 中曽根康弘は、三島事件当時、防衛庁長官という立場にあった。したがって、立場上、「直接行動は容認できない」と主張せざるを得なかったようであるが、「その思想の純粋性は理解できる」と自らの思いを告白している。三島も中曽根も、現在の日本国憲法を占領憲法として受け入れず、戦死したり、自決したり、また処刑されたりした「帝国軍人」(陛下の赤子)の意志を受け継ごうとしている点で共通であるように思われる。「憲法改正の歌」のような考え方が、現実の「憲法改正の動き」を陰で支える力だとすれば恐ろしいと思う。二度と戦争を繰り返してはならないと思うからである。
 下段2は、元第五区隊長 村内村雄大尉が、陸軍省陸運部長中村肇少将とともに阿南陸軍大臣自刃の連絡を受けて大臣官邸に駆けつけたときの様子を書いたものの一部抜粋である。阿南陸軍大臣の自刃を批判的に受け止めることができなければ、日本国憲法を受け入れることも難しいのではないかと思われる。
1--------------------------------------------------
                       Ⅱ 発展───1955~1974

12 中曽根防衛庁長官

 ・・・
 政治家・中曽根康弘が、保守政治家のなかでもひときわ調子の高い改憲論者として聞こえていた。吉田茂によって形成された親米「保守本流」との間に一線を画し、保守合同後もとくに防衛・安保政策に関して改進党時代以来の主張を改めようとはしなかった。1956年に「憲法改正の歌」を作詞し発表しているが、当時にあってもそれはかなり時代がかった印象を人々に与えた。占領期間中、「国家の死」に服喪する意味をこめて黒いネクタイを外したことがなかったという青年政治家・中曽根康弘の心情吐露ともいえる

 一、嗚呼戦いに打ち破れ
   敵の軍隊進駐す
   平和民主の名の下に
   占領憲法強制し
   祖国の解体計りたり
   時は終戦六ヶ月

 二、占領軍は命令す
   若しこの憲法用いずば
   天皇の地位請け合わず
   涙をのんで国民は
   国の前途を憂いつつ
   マック憲法迎えたり

 五、この憲法のある限り
   無条件降伏つづくなり
   マック憲法守れるは
   マ元帥の下僕なり
   祖国の運命拓く者
   興国の意気挙げなばや


 心中にこのような思いを抱く中曽根にとって、保守本流の安保政策や自衛隊の位置づけはいかにも微温的なものとうつったにちがいない。彼は一時、日本独自核武装論を展開し、日米安保体制に批判的な立場をとって安保条約採決の衆議院本会議にも欠席、棄権したほど、この分野における政治姿勢をきわだたせていた。のちに書いた「私の政治生活」と題する英文版の文書で、この時期の言動をつぎのように説明している。
「私は占領下でも、日本がみずから統治し防衛でき、他国の安全と福祉に何らかの形で貢献できるようになって初めて日本の独立が達成できると信じ、独立に伴って直ちに憲法を改正すること、文民統制にもとづく独自の防衛組織を作ることを要求していた。今でもこれらの主張が全く理にかなったことだと思っている。しかし、アメリカ人は私を過激な国家主義にかぶれた危険人物とみなした」


 このような再軍備積極論の持ち主を吉田茂の後継者たる佐藤栄作が防衛庁長官に登用したことじたい不可解に思えてくるが、佐藤にしてみれば、党人派閥・河野派を引き継ぎ非主流の立場を守る中曽根派を手元に引き寄せるには、中曽根の望む防衛庁長官の椅子を差し出すのが政権運営のうえから得策と計算したのであろう。それに、えてして人間得意の分野でつまづくものだ──「首相の度胸」をうんぬんする新長官就任の弁を聞いて、「人事の佐藤」は心中そうつぶやいていたのかもしれない。
・・・(以下略)
2-----------------------------
床の間には切腹のとき短刀をまいた和紙が置かれ、ベットリと血がにじんでいて、毛筆で、
「一死以て大罪を謝し奉る
       昭和二十年八月十四日夜
               陸軍大臣 阿南惟幾  花押」
と書かれていた。

もう一枚の和紙には
「大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すべき片言もなし
       八月十四日夜陸軍大将 惟幾」
鮮烈な文字が読みとれた。


・・・

 私達が弔問したのは、大臣絶命後二時間位たってのことであったろうか。
 その日、この大臣の自決の報が伝わると、全陸軍の血が引いた。陛下のお言葉に従えよ、決して暴走してはならぬぞ、と。死はこの陸軍大臣一人でいいのだ、日本の国体の存続を歯をくいしばって守れよ、との大臣のご意志は陸軍軍人全員に直感的に理解された。そしてその為に大過なく終戦の幕は引かれた。尊く偉大なる大臣の自決だった。



-------------
日本再軍備担当幕僚長 コワルスキー大佐の証言-----------

戦争放棄・戦力の不保持をうたった日本国憲法は、GHQの占領下、1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。その日本国憲法が、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発によって、いとも簡単に踏みにじられることになった。戦力としての日本軍4個師団の編制が、警察予備隊としてカムフラージュされスタートしたのである。GHQ民事局長シェパード少将の下で、在日米軍事顧問団幕僚長として日本軍4個師団の編制を担当した著者のコワルスキーは、日本再軍備の動機や経過を米軍自らの対応の拙さも含め、正直かつ正確に書き記している。「シリーズー戦後史の証言ー占領と講話ー⑧ 日本再軍備 米軍事顧問団幕僚長の記録」フランク・コワルスキー、勝山金次郎訳(中公文庫)からの抜粋である。
 下段は、マカーサー元帥名の「日本警察力の増強に関する吉田首相への書簡」(1950年7月8日付)を「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から抜粋したものであるが、朝鮮に出動した米軍4個師団に取って代わる警察予備隊を装った日本軍4個師団の編制を「許可する」というかたちで、命令しているものである。
1---------------------------------------------------
                  第1部 かくて再軍備は始まったーその動機と構想

 第1章 天恵と朝鮮動乱

 対日占領政策


 ・・・
 これらの指令や政策(連合国極東委員会から連合軍最高司令官マッカーサーに伝送されたもの)は、部分的には異常にきびしくまた制約的なところもあるが、総じて言えば、進歩的な近代民主主義国家を設立することを目的としており、これに基づいて、連合軍最高司令官マッカーサー元帥は世界史上未曾有の平時大革命を実行したのである。
 まず日本を完全に武装解除し、天皇を除く戦争責任者および戦争支持者を容赦なくパージした。パージリスト(追放者名簿)には、すべての正規軍人将校および戦時中強い影響力をふるい、勢力を誇った政界・財界・実業界の指導者の名が含まれていた。また天皇を神格より格に引きおろし、婦人に参政権を与え、軍隊および戦力保持を永久に禁ずる超民主的な憲法を無理押しに制定発布させた。

 ・・・(以下略)

 マッカーサー元帥の決断

 ・・・ 
 ……こうして朝鮮戦争勃発より3週間後には日本国内に残されていたのは第7師団と若干の陸軍管理部隊と空軍部隊のみとなり、その第7師団も出動態勢をとるよう指令されていた。
 この危機に臨み、アメリカは共産軍の侵略を阻止するに必要な兵力はもはや日本には存在しないと認識した。更にいろいろ検討を加えた結果、本国からの増援は少なくともここ数ヶ月は期待できないことが分かった。われわれには原子爆弾はあったが、地上予備軍はなかったのである。第7師団が朝鮮に出動すれば、海外からの攻撃は言うに及ばず、国内の反乱からも日本政府やわれわれの基地を守ってくれる地上部隊はいなくなってしまう。9000万の日本はその時までには完全に武装解除を終わっていた。その時持っていた軍艦、航空機、戦車、軍用車、火砲、機関銃、小銃などはすべて屑山と化した。日本将校の身につけていた軍刀までも米国へ帰る米軍人・軍属などが記念品として荷物の中に入れて運び去ってしまっていた。日本は完全な無防備状態にあった。


・・・

 彼(マッカーサー)はポツダムにおける国際協定に反し、極東委員会よりの訓令を冒し、日本国憲法にうたわせた崇高な精神をほごにし、本国政府よりほとんど助力を得ずして日本再軍備に踏み切ったのである。 
----------------------------------------------------

 第3章 忍び足の再軍備

 開戦下の総司令部


 ・・・
 オフィスに入ると彼は(GHQ民事局局長シェパード少将)、「ドアを閉めてかけたまえ」と命令した。私は胸の鼓動を感じながら、いわれる通り彼と向かい合ってすわった。少将は手を組み合わせて机の上に置き、深刻な面持ちで語り始めた。

「フランク、きみが連隊長の職を望む気持ちはよく分かるが、きみは朝鮮へは行けないよ。わしがきみを放せないんだ。2人で日本でしなければならぬ大役があるのだ。わしはマッカーサー元帥から、警察予備隊を組織する大役を仰せつかったんだ。警察予備隊というのは、さしあたり4個師団編制で、定員75,000の日本防衛隊のことだが、将来の日本陸軍の基礎になるものだ。きみはわしの幕僚長になるのだ。だから、朝鮮はあきらめろ」

 私の頭は少将の今言った事柄のもつ重大な意味をはかり知ろうとして渦を巻いている間に、彼は手さげ鞄をあけて、中から極秘の書類を取り出して私に渡しながら、「これが基本計画だ。きみは全文を暗記するまで何度も繰り返して読みたまえ」と命じた。私が日本軍隊のバイブルともなるべき「基本計画」をめくっているのを横目で身ながら、少将は話しを続けた。

 「朝鮮のみならず日本の事態も予断を許さないのだ。日本列島に配置してあるわれわれの4個師団は全部朝鮮へ出動する。2,3週間のちには、空軍部隊および少数の陸軍管理部隊を除いて、日本にいる米軍部隊はなくなる。われわれはこれら米軍部隊にとってかわる日本の4個師団を編制し訓練する仕事を与えられた。きみも知っている通り、日本には大部分女子供の25万の在留同胞がいるのだ」
----------------------------------------------------
 第7章 指揮する米軍顧問団

 やりがいのある仕事


 ・・・
「そこでだね、スティーブンス少佐(総司令部の命でコワルスキーのもとに来た少佐)」話はこれからが大切だと、私は語気を強めて言った。
「ここできみにやって貰わなくてはならん仕事はなまやさしいことではないんだよ。おそらくきみが陸軍に入隊以来、今までにやったことのないような、困難でスリルに満ちたほんとうの意味でやりがいのある仕事になるんじゃないかと思うんだ。
 きみは 日本の新しい軍隊の父になるんだ。日本の新陸軍の最初の歩兵大隊を編成し、収容し、管理し、装備し、訓練するんだ。しかもそれらの日本人将兵には、自分たちは警察大隊以外の何物でもないのだというふうに思い込ませるなければいけないんだよ」


・・・

「きみのキャンプの中で、いや、そのキャンプのある地方全域において、人多しといえどもきみが歩兵大隊を編制していることを知っているのはきみだけだよ。ほかのものはもちろん疑いはするだろうが、知らせてはBならない。たとえ県知事、警官、あるいは予備隊員であろうとすべて日本人が知るかぎりにおいては、きみは警察の予備隊を編制することになっているのだ。
 
日本の憲法は軍隊を持つことを禁止している。したがってきみは兵を兵隊と呼んだり、士官を軍隊の階級で呼んだりしてはならないのだ。兵は警査と呼び、士官は警察士とか警察正とか呼ぶのだ。もし戦車が見えたら、それは戦車ではなく特車だというのだ。トラックはトラックでよいがね。ぼくのい言わんとしているところが分かるかね」
「はい、分かります」


・・・
 
 焦点・北海道
 
 予備隊キャンプがつぎつぎに設置されていた頃、一方では米軍が急テンポで日本を離れていた。1950年7月以後は第7師団を残すのみとなり、それも朝鮮増援に赴くことを切望されていた。しかしわれわれが予備隊を編制し配置するまでは、第7師団は動けなっかった。
 朝鮮における戦況が悪化するに従い、第7師団への要求は高まり、ついに同師団が9月10日に離日することが約束された。この9月10日は予備隊にとっては遅れることの許されぬ絶対的な期限であり、われわれ顧問団はおかげで夜もろくろく眠れなかった。第7師団が離日したあとには、主として婦女子からなる留守家族など25万の在留米人は無防備状態におかれることになる。

 それよりも、もっとわれわれの心胆を寒からしめたことは、北海道の北端より目と鼻の先にあるソ連占領下の樺太には、日本人共産主義者によって編制された2個師団が展開されているという、恐ろしいうわさであった。
 これらのうわさの真偽のほどは、今になっても明らかにされていないが、当時はいろいろな情報がさかんに入ってきており、それによると、アジア大陸には、第2次大戦中の日本人捕虜を交えた数個師団のソ連軍が、配置されているということであった。樺太に配置されている部隊は装備もよく整い、完全に共産主義の洗脳をうけており、彼らの任務は、第7師団が朝鮮に向け出発した直後、北海道に侵入しこれを攻略することにあった。

 これらのうわさを額面通り受け取らない人も一部にはあったが、相手がソ連のことではあるし、やろうと思えば北海道くらいは簡単に攻略する能力を持っていることを十分知っているので、われわれはうわさだからと言って、むげにこれを無視することはできなかった。
2---------------------------------------------------
                        Ⅰ 草創 1950~1954

 1 「日本再軍備」命令


 ・・・
 この良好な状態を持続し、法の違反や平和をみだすことを常習とする不法な少数者によって乗じられるすきを与えないような対策を確保するために、日本の警察組織は民主主義社会で公安維持に必要とされる限度において、警察力を増大強化すべき段階に達したものと私は確信する。
 従って私は日本政府に対して7,500人からなる国家警察予備隊を設置するとともに、海上保安庁の現有海上保安力に8,000名を増員するよう必要な措置を講ずることを許可する」
と、「国家警察予備隊」の設立を命じていた。
……願い出もしない「許可」を吉田内閣は与えられたのである。


一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。



        記事一覧表へリンク
inserted by FC2 system