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日本再軍備 旧軍人公職追放解除で採用--------------

 敗戦後、GHQ占領下の日本に、世界に誇るべき「平和憲法」がもたらされた。しかしながら、朝鮮戦争が勃発すると、いとも簡単に日本は再軍備されることになった。それも、警察予備隊を装い、戦車を「特車」などと呼称する欺瞞的な再軍備であった。また、ポツダム宣言で永久に追放されたはずの旧軍将校が、現実に再軍備が進むと追放解除され、次々に入隊することになった。文民統制を揺るがす数々の自衛隊の問題は、そうしたことと無関係ではなさそうである。「シリーズー戦後史の証言ー占領と講話ー⑧ 日本再軍備 米軍事顧問団幕僚長の記録」フランク・コワルスキー、勝山金次郎訳(中公文庫)「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から関係部分を取り出すかたちで抜粋した。

「日本再軍備」----------------------------------------------

 第6章 主導権抗争

 旧軍人追放


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 しかし世界はまだナチおよび日本の軍国主義の恐怖から立ち直っておらず、アメリカの熱狂的軍国主義者でも、最近敗残の憂目を見た日本軍人を抱擁できる人は数少なかったのである。
 占領軍が進駐後最初にやったことは日本軍を復員させることであった。日本の軍隊を粉砕し解散したのち、マッカーサー司令官は正規軍人士官
(122,235人)をいっさいの公職から追放した。これはポツダム宣言で協定され、米・英・中の三国から発表された日本の降伏条件に基づいてとられた処置である。ポツダム宣言の一部を紹介すると、次のように述べられている。
「無責任な軍国主義者が、世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および努力は永久に除去せられざるべからず」
 アメリカ政府もこの世界的意見を支持、1945年8月にマッカーサー元帥に対して日本の占領初期の政策として次のような指令を与えた。
「大本営、参謀本部の高官、政府内の陸海軍人、超国家主義・軍国主義団体の指導者および軍国主義や侵略の主唱者などは拘留し、将来の処置に備える。士官、下士官を含め、元職業軍人および他の軍国主義、超国家主義主唱者は監督職、教職より除外する」
 ポツダム宣言が追放の考えを吹き込んだものにしろ、上記の政策は日本国民にとっては革命的祝福であった。もし公職追放がなかったら、意義ある改革を行いえたかどうか疑わしい。
……(以下略)

「自衛隊の歴史」---------------------------------------------
                      Ⅰ 草創期──1950~1954

 2 警察予備隊発足


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 警察予備隊の一般隊員募集に関する発表は、マッカーサー書簡から1ヶ月たった8月9日に行われ、8月13日全国の警察署を窓口にしていっせいにはじまった。応募締切りが15日、試験開始17日、23日から訓練場(各管区警察学校)への集合を開始、10月12日に合格者集合を完了するものとする、とGHQからの命令は確定しており、これが朝鮮戦線への米軍移動の日程に調整されたものである以上抗弁や遅延は許されない。全国の警察署長に対し、「一般警察業務に優先して募集業務を実施する」通達がなされた。
「平和日本はあなたを求めている」──全国の駅、列車内、公共掲示板に張り出された警察予備隊員募集のポスターには、はばたく鳩の絵に配してこの標語がおどっていた。新聞、ラジオ、映画館でも募集呼び掛けが行われた。


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 短い予告、わずか3日の募集期間しかなかったにもかかわらず、75,000の定員に対し 382,003人の応募者をかぞえた。警察予備隊をむかえる世論にきわめて冷ややかなものが感じられるなかで、これほどの青年をごく短期間に吸引できたのは、ひとえに月給5,000円と退職金6万円の好条件にあったと考えるしかない。
 試験は8月17日より全国183ヵ所の警察署、警察学校を中心に行われ、試験合格者のうち所轄警察署長が身元を確実と認定したものについては、その場で即日合格者として発表、その他を仮合格者扱いにして、総計74,580人の採用を決定した。合格決定者に対しては直ちに集合日時と入隊場所が指示され、出頭した新隊員にとりあえず「二等警査」の階級が与えられた。軍隊でいえば二等兵、警察でなら巡査なので二等警査というわけだった。募集開始から第1回集合(8月23日)までわずか11日間の短時日であったが、日本の官僚組織は手ぎわよくこれをやってのけた。


 こうして「新国軍」の二等兵たちは目標通り充足できたとはいえ、これで軍組織としての能力が発揮できるものではない。最高指揮官(部隊中央本部長)が未任命だったし、なにより部隊指揮に責任を持つ将校層がまったくいない状態で警察予備隊づくりは進行していた。だから新入隊員が指定場所に出頭しても指揮をとるべき小隊長、大隊長は空席・不在ということになり、やむを得ず入隊者の管理を米軍側にゆだねる窮余の措置がとられた。『自衛隊十年史』(防衛庁編)には「この期間は米軍指揮官(CampCommander)が事実上人事の一部および管理、運用の命令権の大部を握る形となったため、キャンプによっては時として隊員との間に意思の疎通を欠き、感情のもつれをきたしたところもあった」と記している。ごく控え目に書いても、こうであった。この時期、米軍将校は顧問団(アドバイザー)でなく、警察予備隊の指揮官(コマンダー)そのものとして君臨した

 幹部不在の事態となったのは、旧軍将校の大半が公職追放中の身にあり、GHQ、日本政府ともにこれら旧軍出身者を幹部に登用しない方針を決めたためである。この結果、指揮官なき部隊が米軍キャンプで米人教官から基礎訓練を受ける光景をみるようになった

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 もちろん日米双方ともにこのような指揮系統のあり方は不正常であると認識していたし、それ以上に、星条旗はためく米軍キャンプで米人教官から通訳を通じて命令を受ける「二等警査」たちの間の不満は日々増大する一方だった。あまりに屈辱的だと退職する隊員も出はじめた。
 旧軍将校の採用が見送られたので、指揮官充足のため、はじめ一般隊員の幹部登用を積極的に行い、各キャンプで米軍側によって選抜された隊員を、江田島にある米軍の教育訓練施設などに送り込み、4週間の小部隊指揮科程を経させた後、一等警察士(中尉相当)もしくは士補(下士官)に任命する方式がとられた。小隊長、分隊長ならばともかく、しかしこれではいぜん中堅・高級幹部の養成はおぼつかない。そこで旧軍将校を一切採用せずの原則に小さな修正が加えられ、旧満州国軍に所属していた日本人将校および公職追放に該当しなかった(軍学校出身者以外の)旧陸軍の大・中・少尉は応募できるようになった。これにより800人の中堅幹部を得ることができたが、なお幹部不足はつづき、この抜本的解決のため、追放解除による旧軍高級将校の導入にやがて踏み切ることとなる。

 ・・・(以下略)


「日本再軍備」----------------------------------------------
                   第2部 私は日本を再武装した──自衛隊誕生の秘密

 第13章 暗躍する旧軍人

 敵対する旧軍


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 ポツダム宣言は「永久」に公職から追放することを声明していたにもかかわらず、世界、ことに極東の新情勢はそれを許さず、逆コースの道を加速的に押し進まざるをえなかった。1951年の大量追放解除により数千の元陸海軍将校に自由が与えられた。1952年に日本が独立をかちえた頃には、追放リストにはわずか 5,000人の元軍人を残すのみとなっていた。

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 予備隊の文官指導者たちも、旧軍人を受け入れるについては慎重を期した。アメリカの教育方法を受け入れていた若い隊員は、旧軍人を迎えて複雑な気持ちであった。しかし公的には、これら旧軍人は予備隊で欠如している統率力と軍事知識を持ち込んでくれることが期待されていたのである。

 その頃、予備隊外に残された旧軍人は失望と不信感で沸きかえっていた。旧軍隊の高級将校たちは政府によって復役させられなかったことを不満とした。多数のものが右翼団体を組織したり入団したりして、現在に至るまで日本を悩ましている。彼ら自身で再軍備計画を左右できないと分かると、政府に鉾先を向け、アメリカを批判し、マスコミに軍国主義的声明を流し、若い予備隊員の士気を阻喪し、その人格を台なしにしようと努めた。

 ・・・(以下略)


---------------北朝鮮内部文書と朝鮮戦争の真実-------------

 「朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀」萩原遼(文藝春秋)は衝撃的な一冊である。著者の萩原遼は、1977年から情報公開法に基づいて一般公開されている「北朝鮮からの奪取文書」が入っている公文書館規格ボックス1300箱をすべて開き、2年半の歳月をかけて通覧したという。多数の極秘文書を含む、北朝鮮側の内部文書(およそ160万ページ)をもとに書き上げたというこの1冊は、今までベールにつつまれていた数々の疑惑を白日のもとに晒している。「朝鮮戦争は米韓の侵略戦争であった」という北朝鮮側の主張に反する事実が、皮肉にも様々な北朝鮮側文書で明らかにされているのである。様々なところへ取材にでかけ、確認する作業もなされており説得力がある。
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                  第1章 世紀のすりかえ劇

 ソ連軍の北朝鮮占領


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 チスチャコフ司令官は平壌入城後ただちにつぎのような布告をだした。

  朝鮮人民よ!ソ連軍と同盟国軍隊は朝鮮から日本掠奪者を駆逐した。朝鮮は自由の国となった。しかし、これはただ新朝鮮の歴史の1ページにすぎない。華麗なる果樹園は、人々の努力と苦心の結果である。(中略)
 朝鮮人たちよ! 幸福はあなたがたの手中にある。あなたがたは自由と独立を求めたが、いまはすべてのものがあなたがたのものとなった。ソ連軍隊は、朝鮮人民が自由に創造的努力を始めるに十分な条件をつくりあたえた。朝鮮人民じたいがかならずみずからの幸福を創造する者とならなければならない。(以下略)
(北朝鮮人民委員会外務局・朝ソ文化協会中央本部共同編纂『人民の国──ソ連』27ページ。1948年、平壌・朝ソ文化協会中央部発行)


 美しいことばである。ソ連軍による解放とはこうした気高い精神でおこなわれたのだと、御用文筆家たちはこぞって書きたてた。

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 だが、ソ連は1946年のはじめから占領目的をはっきりとさせてくる。スターリンの意図が貫徹しはじめるのである。その意図とは──。
 
 南朝鮮に反動勢力がいるかぎり朝鮮にはすぐに独立をあたえない、あたえれば朝鮮はふたたび極東における戦争の火種となる。朝鮮が真に民主主義国家になることはソ連にとって死活的利害をもっている──。

 1946年6月3日付のソ連共産党機関誌プラウダの論説はこうのべていたのである。
 朝鮮をソ連にとって安心できる国につくりかえること、つまり
ソ連の衛星国にするまでは独立はあたえない、というのがかれらの占領政策の本音であったのだ。北朝鮮民衆の不幸のはじまりであった。
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第2章 ソ連軍政下の北朝鮮

 ワシントンにあった1冊の本

 
朝鮮の統一をたなあげして北側に先に単独政権をつくる政策は「民主基地」路線とよばれている。統一に先だってまず北を民主主義の基地とし、その力で南に北からの風をふかせて北主導の統一を実現するという政策である。この路線の必然的な帰結として1950年6月25日の北側からの武力南進が行われた。その結果、惨憺たる失敗によって南北分断は決定的となった。
 南北分断の起源となったこの「民主基地」路線が、ソ連と金日成によっていつからとられたかということは朝鮮現代史をみるうえできわめて重要な問題である。これまで研究者は一様にその時期を1945年12月17日の北部朝鮮分局第三次拡大執行委員会としている。だが、これは事実誤認である。
 なぜ、研究者が皆そろって誤認したのか? 金日成による党決議の改ざんがみぬけなかったからである。研究者や朝鮮現代史家が依拠するのは、第三次拡大執行委での金日成の報告「われわれの課題」の冒頭部分である。

  現段階において北朝鮮におけるわが党の政治的総路線と実際の活動は、すべての民主主義諸政党、大衆団体との広範な連合の基礎のうえにわが国に統一民主主義政権を樹立し、北朝鮮を統一的民主独立国家建設のための強力な政治、経済、文化的民主基地とすることにあります。そのためにわれわれは、一方では北朝鮮の政治、経済、文化生活を急速に正常化するための闘争に都市と農村の勤労大衆を決起させつつ他方では民主主義政党、大衆団体との統一戦線をあらゆる面から強化しなければなりません。
(『金日成選集』1954年版第1巻 19~20ページ 朝鮮労働党出版発行)
 

 このなかに重大な改ざんがおこなわれていたのである。もとの金日成報告はつぎのようになっている。

 現段階において北朝鮮共産党の全般政治および実地活動は、あらゆる反日民主主義諸党と政治的諸団体の幅広い連合の基礎のうえにブルジョア民主主義政権を樹立することに援助をあたえなければならない。北朝鮮の政治および経済活動をすみやかに整頓する課題の実行へと都市と農村大衆の実地活動を向けながら反日民主主義党と諸団体との統一戦線をあらゆる面から強化しなければならない。
(『党の政治路線および党活動の総括と決定』党文献集(一) 9ページ。1946年8月13日、正路社出版部発行)


 みられるように、54年版の金日成報告にはもとの文章にない「北朝鮮を統一的民主独立国家建設のための強力な政治、経済、文化的民主基地とすることにあります」がつけ加えられている。「「ブルジョア民主主義政権を樹立する」が「統一民主主義政権を樹立」に書き替えられてもいる。
 この改ざんにだまされて「民主基地」路線が第三次拡大執行委員会ではじめて登場したとみな思ったわけだ。そのために朝鮮現代史のもっとも重要な問題について不正確に理解し、混乱をきたしている。

 ・・・(以下略)


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伝説的英雄”金日成”と金日成ことキム・ソンジュ------------

 「朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀」萩原遼(文藝春秋)には衝撃的な記述が多い。金日成「すりかえ」説もその一つである。朝鮮戦争時、米軍が北朝鮮から奪取した北朝鮮内部文書をもとに構成され、多くの取材に基づいて書かれているため説得力があるが、にわかには信じがたい記述である。抵抗なく受け入れるためには、私には少々時間が必要であるが、戦争がもたらした欺瞞のひとつなのだろうと思う。戦争とは、かくも醜く、惨たらしく、そして欺瞞に満ちたものなのだということを教えられたような気がした。
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                        第1章 世紀のすりかえ劇

 キム・ソンジュ青年

 ソ連の占領政策に使われたのが、ハバロフスクのソ連極東方面軍の下にあった第88旅団特別狙撃旅団にいた朝鮮人隊員キム・ソンジュであった。かれは1941年に日本軍の討伐部隊に追われて満州からソ連領に逃げこんでいらいこの旅団に属し、ソ連軍の大尉であった。
 
かれは、朝鮮が解放された1ヶ月後の1945年9月ソ連軍の船でひそかに元山を経て平壌に運ばれ、金日成将軍にすりかえられて民衆の前に姿をあらわす。現在の朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席その人である。

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 ソ連軍は朝鮮占領をスムーズにおこなうために、その手足となってはたらく朝鮮人指導者を必要とした。36年間も日本の植民地にされて独立を渇望していた朝鮮人民の指導者はなによりも抗日の闘士でなければならなかった。
 キム・ソンジュは1912年、北部朝鮮の平安南道大同郡の比較的裕福な小ブルジョアの家庭に生まれ、7歳のとき漢方医であった父親の仕事の都合で郷里をあとにして満州に渡り、中国人のなかで育ち、中国人学校に通い、朝鮮語よりも中国語が堪能であった。1931年、19歳とき、中国共産党に入党、同党の満州省委員会の指導下で抗日遊撃闘争をおこなった。遊撃隊時代には最盛時200人くらいのゲリラ隊員をひきいてたたかった経験もある。だがこれでは中隊長ていどの実績でしかない。新生朝鮮の指導者として押し出すには経歴が貧弱すぎる。

 そこで考えつかれたのがすりかえ劇であった。このキム・ソンジュ青年を、シベリアから北満、東満の曠野ににかけて白馬にまたがり長駆して日本軍を打ち破る伝説的な英雄金日成将軍として売りだし、新生朝鮮の首班として占領行政を推進させようと考えた智恵者が平壌のソ連軍司令部にいたのだろう
 88旅団のなかには他にも朝鮮人隊員はなん人もいたのになぜキム・ソンジュがその役を引きあてたのか。かれが満州時代から使っていた仮名がキム・イルソンであった。これは1920年代から朝鮮民衆のあいだに伝説的に語りつがれている抗日の英雄金日成将軍とたまたま音が同じである。漢字をあてると同音異義のため金一星とも金日星とも金一成とも金日成ともなる。そこに目をつけてある種の謀略的詐術が考えつかれたのではないだろうか。

 その詐術の背景説明として、朝鮮における”金日成将軍伝説”についてのべておく必要がある。
 1910年朝鮮は日本の完全な植民地に転落したが、その5年前の1905年、第二次日韓協約をおしつけた日本はすべての朝鮮軍を武装解除し解散させた。愛国的な軍人の多くは憤然として祖国をあとにし、北満、東満、はてはシベリアにまで根拠地を移して日本軍とのたたかいを続けた。そのなかで1920年代から一人の勇敢な抗日の闘士の名が遠雷のように国内にまできこえてきた。金日成将軍である。苦難に沈む植民地下の民衆にとって、その名は希望であり、光明であった。「いつか、金日成将軍が日本を打ち破って凱旋してくる」という祈りにも似た気持ちで待ち続けた。こうしてひとつの伝説が生まれ、人びとの心に刻まれていった。


 金日成将軍とは、かつて実在した抗日の闘士の一人であったし、また複数の闘士の集合名詞でもあった。事実と伝説がないまざって作られたひとつの像であった。それにあやかろうとしてみずからの名をキム・イルソンと称した者もいた。キム・ソンジュ青年もその一人であった。
 キム・ソンジュ青年が新生朝鮮の首班に選ばれたもう一つの理由は、1945年までの数年間88旅団でソ連軍人として服務した経験からである。ソ連軍当局者はこの間じっくりと観察する時間をもつことができた。かれは88旅団の第一大隊長をつとめており、スターリンとソ連共産党にたいする忠誠度もすでにためされていた。としも1945年には33歳であり、小まわりのきく若さと体力をもちあわせていた。カンもよくききわけもよかった。ソ連占領軍としては使いやすい存在であったのだ。他の同僚や先輩をさしおいてかれに白羽の矢がたてられた。


 歴史の証人・兪成哲(ユ・ソンチョル)

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 一方、朝鮮民主主義人民共和国は、現在の国家主席の金日成、実はキム・ソンジュが満州からソ連に逃げこんだことも、88旅団にいたことも、ソ連軍の大尉であったことも、さらにソ連船でソ連軍にかかえられて平壌にこっそり運ばれてきたこともすべてひた隠しにしている。
 それどころか、逆に史実をねじまげて、1945年8月9日にはついに日本にたいして最終攻撃命令を下し、無敵の関東軍を撃破して祖国を解放し、民衆の歓呼のなかを凱旋した──といっている(1983年、朝鮮労働党中央委員会党歴史研究所編『金日成主席革命活動史』)。

 満州に、終始ふみとどまっていたという以上、ハバロフスクの88旅団に勤務中の1942年に生まれた長男のキム・ジョンイル(金正日)も満州で生まれたことにしないとつじつまが合わない。そのため中国と朝鮮の国境にそびえる雄峰白頭山で生まれたことにし、密営のおかれたと称する白頭山の一角を正日峰と名づけ、念のいったことに、ここで生まれたと称してわざわざ丸太小屋までつくり、組織された見学者がひきもきらず訪れるしまつである

 こうした虚偽をあばき、ゆがめられた歴史をただす体験者の証言が、ソ連崩壊の2年ほど前からではじめた。重要なのは兪成哲氏である。氏は1917年、旧ソ連ウズベク共和国タシケント生まれの朝鮮族の三世である。ソ連軍人として88旅団に配属されて金日成のロシア語通訳をつとめた人。解放後、金日成とともに同じソ連船で帰国し平壌に入り、新生の金日成政権を支えた一人である。朝鮮戦争では朝鮮人民軍作戦局長(中将)として、南進計画を立案するなど軍の要職にあったが、1959年金日成の死に瀕する迫害を逃れて、生まれ故郷のタシケントに一家5人で亡命した。
 ・・・(以下略)

 すりかえの日

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 さきの兪成哲氏もこのとき会場にいた。かれは平壌入りをして憲兵司令部に配属された。当日は会場の警備をかねながら世論収集とよぶ人心の把握を命じられている。 
「私(兪成哲氏)は会場をまわりながら民衆の反応をさぐったのですが、金日成の演説がはじまると、人びとは
『にせ者だ』『ロスケの手先だ』『ありゃ子どもじゃないか。何が金日成将軍なもんか』と口ぐちにいいだしたのです。そのまま会場から出て行く人たちもいた。 というのも、かれがあまりにも若すぎるのと、かれの朝鮮語がたどたどしかったからです。」
 

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北朝鮮内部文書と武力南進計画 朝鮮戦争---------------

 「朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀」(文藝春秋)の著者萩原遼によると、北朝鮮が南進を計画的に進めていたことは疑いようがないということであるが(下記抜粋部分もその証拠の一つ)、驚くべきことに、アメリカはそれを百も承知であったということである。GHQ情報局のウィロビー少将は、K.L.O.(Korean Liaison Offce)というスパイ機関をソウルにつくり、多くのスパイを北朝鮮に送り込んでいた(100人にのぼると見られている)。著者は、北に潜入したスパイから送られてきた情報のうち57点をマッカーサー記念図書館で閲覧したことを明らかにしているが、なかには、民族保衛省内部や、人民軍総参謀部、各師団司令部にいる人間でしか知り得ない情報も含まれているとのことである。アメリカは間違いなく北の南進計画を詳細につかんでいたのである。巨大軍需産業が生き延びられるように、また、強固な反共の砦を築くために、アメリカが北の南進を知りつつ”知らぬふり”をきめこんだとすれば、許せないことであると思う。
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                            第7章 第6師団の南進

 「絶対秘密」と記されて

 私の発見した文書のなかでも最大のものは、第6師団文化部(政治部のこと)が1950年6月13日にだした詳細な南進計画書「戦時政治文化事業」である。
 この文書は、B6版大のガリ版12ページの小冊子であり、北朝鮮の最高機密を意味する「絶対秘密」と記されている。押収した米軍も最高機密文書を意味するコンフィデンシャル(Confidencial)のハンをおしている。
 この文書は、集結区域と称する38度線近くの臨時駐屯地への移動にはじまり、南進命令の接受から進攻、占領地での活動にいたるまで、政治部のおこなうべき行動を5つの段階にわけて詳細にのべている。
 南進にいたる5段階とはつぎのようになっている。

 第1段階 集結地域に到着するまでの行動
 歳2段階 戦闘命令をうける前の集結区域において
 第3段階 戦闘命令をうけてから攻撃開始まで
 第4段階 攻撃戦闘開始から結束まで
 第5段階 戦闘結束後の占領政策


 朝鮮人民軍はこの5つの段階をふんで計画的に南進したことがこの文書によってはじめて手にとるようにわかった。
 この文書のだされた6月13日といえば、このころまでに民族保衛省から各師団にたいして38度線近くへの南下指示が下され、各紙団がいっせいに移動しはじめる時期である。したがって、厳密にいえば、北の南進は1950年6月25日の早暁ではなく、この南への移動からはじまったというべきであろう。38度線をこえて南に突入するのは、その延長線にすぎなかったともいえる。南下の開始からすべてが秘密のうちにおこなわれ、秘密防止策が徹底してとられた。

 
 この「戦時政治文化事業」も緊迫したふんい気を反映してきわめて緊張した筆づかいで書かれている。第1段階の行軍時から逃亡者や投降者の防止に腐心している。いよいよ南に突入するという段階になって兵士のあいだにも動揺が高まり、戦闘忌避現象もすくなからずあったことをうかがわせている。つぎのように書かれている。

 規定どおり秘密保持を厳格におこなうために昼間は偽装を徹底的におこなうこと(人員、馬匹、各種の重武器およびその他いっさいの装備にたいして)。とくに夜間行軍時には、軍事的秘密に属する防音、防光を徹底的におこなうこと。行軍中敵機来襲などいったん有事のさいには指揮に絶対服従するよう保障するすること。また行軍中は秘密性をおびた軍事上の話を厳禁すること。(中略)
 休息時間、とくに夜間の暗闇を利用してこころみられる逃走事件を未然に防止するためにあらかじめ配置された熱誠分子を動かして、休息時と出発時においてとくに責任をもって人員を綿密に調査し、掌握すること。


 第2段階(略)

 第3段階は、戦闘命令をうけてから攻撃開始までの行動がしめされている。動員大会を開き、部隊旗の前で勝利を決意する宣誓をおこなう。塹壕のなかでは敵愾心を高めるための話しあいをおこなう。大隊や中隊単位で党員総会や民青同盟員総会をそれぞれ開き、思想動員をおこなう。
 いよいよ攻撃開始1時間前となる。こうのべている。
 攻撃開始1時間前に軍務者会議を中隊、小隊単位で招集する。中心スローガンを示し、上級から下達された激励文によって、高度の愛国的思想と革命的英雄主義、および三猛戦闘作風へと鼓舞激発させること。
 三猛とは猛打撃、猛突撃、猛追撃のことである。中国人民解放軍の用語である。


 第4段階、ついに攻撃は開始された。猛烈な砲撃がはじまる。相手側も反撃の火ぶたを切る。中隊政治委員の文化副隊長が前面にでてきて叫ぶ。
「ソミョルハラ(消滅せよ)!、ソミョルハラ!ソミョルハラ!」
 こうした適切なスローガンを唱和させてすべての戦闘員を鼓舞激励すること、と記している。

 また、「敵の猛火力のもとでわが軍部隊が前進をはばまれたり、敵の不意打ちにあったとき」には、中隊、大隊、連隊の文化活動家を派遣したり、責任者みずから出ていって局面を打開せよとのべている。
 捕虜のとりあつかいについても指示している。


 敵を捕虜にしたときには、個別に、または、代表などから敵情について材料を集め、指揮に協力しながら一定の人員を配置し、後送または地方に安置させること。捕虜たちの生命や人格にたいして侮蔑してはならず、所持品についてはいささかもこれを損なってはならない。

 第5段階
(略)

 ・・・(以下略)


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朝鮮戦争 休戦交渉を嫌う腹黒い計略---------------

 「秘史 朝鮮戦争」I・F・ストーン著:内山敏訳(新評論社)には、原著者はしがきに「1952年3月15日」とある。休戦交渉が続いていた当時の出版のようである。この時すでに著者I・F・ストーンが鋭く朝鮮戦争の真実を暴いていたことに驚く。「朝鮮戦争は『挑発されざる侵略の明瞭な一事例である』どころか、極東における戦争に利益をもつ人たちによる故意の腹黒い計略の結果」であるというのである。出版業者は「危なくて手がでない」と、ストーンの原稿の出版を拒否したため、ストーンは「出版業者をみつける希望を放棄し、原稿を棚上げしていた」と「原著刊行者の言葉」にある。読み進めると「危ない」一冊であることがよく分かる。
 I・F・ストーンは、アメリカ政府、国防省や国務省の発表(声明)、アメリカ議会の質疑、国連軍司令部の発表や命令、従軍記者や現地特派員からの報告、関係者の証言、報道機関の報道内容などを詳細に検討し、その根拠や背景の確認を進めながら、矛盾はどこまでも追求するという姿勢で朝鮮戦争の真実に迫っている。それは、アメリカ側の情報に基づく朝鮮戦争論といえるが、結果的にアメリカ側関係者を告発する内容となている。単なる憶測や想像ではなく、頷かざるを得ない事実をもって書かれているために、「危ない」のであろう。
 この書は、「
朝鮮戦争は、北朝鮮側の南進計画を知りながらワナにはめた、マッカーサーの陰謀であった」という説が、単なる流言蜚語でないことを公にしたといえるが、マッカーサー(アメリカ)の戦略に利用された朝鮮戦争で、多くの人が命を落としたことや、南北対立を今に残すことになった事実を忘れることはできない。
 戦争のくだらなさや野蛮さを知るための学習に生かされるべき一冊であると思う。結論に当たる部分の一部を抜粋する。
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                          第1部 開戦の真相

 第7章 お膳立はできた

 それはちょうど上手な職人が、腕によりをかけて、お膳立をこしらえたようなものだった。戦争の直前には、朝鮮が米国の防衛環外にあるという米国政府の決定に対し、マッカーサーとマッカーサー派のひとびとが異議をとなえている様子はぜんぜんなかった。どんな点からみても、北鮮の南鮮に対する攻撃は不可避とされており、それはなげかわしいけれども、米国としては重大な関心をもってはいなかったかのようだった。ジョン・フォスター・ダレスの朝鮮訪問、それにつづく東京でのマッカーサー、ダレス、ジョンソン、ブラッドレーの四者会談は、南鮮攻撃について共産主義諸国の警告の言葉を発するようなこともなく、またそれまで過去数週間にわたる38度線以北の継続的な兵力集結を報じた諜報網の報告に、米本国の世論の注意を喚起する声明をだすようなこともしなかった。5月11日以降は、まるでしめしあわせたかのように、韓国政府もこのような危険と自己の装備の不足とについて、沈黙をまもった。韓国軍は防衛態勢の布陣をとっていた。国連朝鮮委員会は現地視察員を派遣したが、彼らはのちに、右のように攻撃的企図のないことについて証言した。戦争開始の前日に、これらの視察員が提出した報告によれば、韓国軍の司令官たちにあたえられていた指令は「攻撃されたばあい、あらかじめ準備された陣地に退却せよ」との範囲をでなかった。北鮮からみれば南鮮は、とくに5月30日の選挙で李承晩が敗北して以後は、さわれば落ちる熟柿のように見えたかもしれない


 6月25日に北鮮軍が挑発されないのに攻撃したのか、あるいはまた南鮮から攻撃があってから攻撃に転じたのか、そのいずれにしても、この熟柿をとろうとするこころみは、反共のがわにおける多くの政治的問題を解決した。この結果、2日をいでずして、蒋介石は中国大陸からの侵略に対する米国の保護を保障された。また対日全面講和の問題は棚あげとなり、占領軍の撤退および在日米軍基地の放棄 は延期となった。ひさしく国務省から厄介者あつかいされていた李承晩は、急に威厳をとりもどし、、6月19日の新議会招集によって、彼の韓国内の支配力が終わりを告げるかとおもわれたときに、米国と国連のあたらしい支持をえたのであった。
 逆にまた、この攻撃は共産主義のがわにとっていくつかのあたらしい問題をつくりだした。
中共は公約どおり台湾の占領に乗り出すには、米国との正式な紛争を覚悟しなければならなくなった。ウラジオストックに非常にちかい日本の爆撃機基地は、米国が無期限に保有することになった。はじめての自由選挙の圧力によって、南鮮の政権が崩壊するかもしれぬという希望、北鮮の統一要求、「解放」をめ ざしての38度線からの容易な南進の可能性──、これらすべてはことごとく消え失せてしまった。

 さらにいっそうひろい国際的視野からいっても、反響はモスクワにとって不利であった。一方では、平和を「全面外交」の名でもみけそうとする敵意あるワシントンと、他方では、あまり不安なようすをみせたがらない猜疑心のつよいモスクワのあいだを、なんとかとりもとうとするリー国連事務総長のひとりぼっちの巡礼に、とつぜん終止符がうたれた。米ソ両国直接の平和交渉をもとめるリーの要請は、朝鮮戦争のかなしいしらせをのせた同じ日の新聞紙中に埋没してしまった。モスクワがいちばんおそれていた、日独両国の再軍備をねらう運動が、ワシントンで急に力をえてきた。さいごに、米国の巨大な工業力の戦争のための動員が開始され、従来よりもいっそうきびしい「封じ込め政策」が大西洋から太平洋にも延長された。それが蒋介石とマッカーサーがずっとまえから要求していたことであった。
・・・(以下略)
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 第12章 国連の総崩れ

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 最後の仕上げは「国際連合軍」部隊をマッカーサー元帥の指揮下におき、しかもマッカーサー元帥を国際連合の指揮下におかないようにすることであった。これは7月7日、英仏の共同決議案において実現した。これは普通、国連軍司令部を設置した決議とみられている。しかし、決してそのようなものではなかった。それは国際連合旗を使用する権限をあたえられていたが、決して国際連合の命令には拘束されぬ「統一司令部」を設置したのだ。このことは、決議の正文について見れば明らかであろう。決議は、朝鮮にかんする安全保障理事会の諸決議にしたがって、「軍隊その他の援助を提供するすべての加盟国は」「かかる軍隊その他の援助を米国の指揮下にある統一司令部に提供」すべしと勧告した。決議は「このような軍隊の司令官を任命する」ことを米国に要請し、これらの軍隊に国際連合旗を使用する権限をあたえた。これらの軍隊にたいし国際連合がいくらかでも監督権を保持していることを示した唯一の条項は、国際連合が「米国にたいし統一司令部のもとでとられた行動の経過につき、適宜に報告を安全保障理事会に提出するように」要請したことを漠然とのべた最終条項だけであった。
 「統一司令部」は、定期的にあるいはその他の形で、国際連合と協議したり、国際連合に報告したりする義務はなかった。決議は「安全保障理事会内に、マッカーサー元帥にたいする援助申し入れを受理・伝達する委員会を設けることについて言及するのを削除」さえした。サー・グラドウィン・ジェブ英国連代表は、「少なくとも現在のところ、このような機関の必要は実際上ない」と信ずる旨を述べた。国際連合はマッカーサー元帥に白紙委任状を手渡したのだ。
 その後の事態はまもなく、「国際連合」の軍事行動が、突発事件計画的事件によって、「国際連合」と中国あるいはソ連またはその双方との間に戦争をひきおこしかねない情勢のもとで、マッカーサー元帥に白紙委任状を手渡したことが、いかに危険だったかを証明することになった。英仏両国は、じきにどちらも後悔することになる行動を、どうして決定することにしたのだろうか?……(以下略)
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                            第5部 枯尾花戦争

 第32章 再び京城を放棄


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 マッカーサー司令部からでる「情報」の性質については、英国新聞から一せいに非難の声があがった。『デーリー・ミラー』は「朝鮮からのおとぎばなし」と書いた。『サンデー・ビクトリアル』は大きな赤活字を使って「これは個人の戦争か?」と疑問を提出した。ビーヴァブルック卿の『サンデー・エクスプレス』は、いったいマッカーサーの諜報部長であるチャールズ・ウィロービー中将は、12月26日のとんでもないコミュニケで発表したように、どうして敵軍部隊を何十何人と最後の1人まで数えることができたのか知りたいものだ、と書いた。1月9日、東京の司令部はこれに対する回答として、突然第二次大戦中にもみられなかったほどの、厳重な検閲をしいた。ロンドンの『デリー・エクスプレス』の東京特派員のセルカーク・パントンは、この厳重な検閲の理由を推論することさえも禁止されていると報じた。 「しかし」とかれは、真相を伝えるため最後の必死の努力をするかのようにつけ加えた「これだけは確実にいえる……前線の戦闘に中共の『大軍』が加わっている徴候は全然ない」。
 ・・・(以下略)


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”天皇との会見”マッカーサーの回想----------------

 「マッカーサー回想記(下)」マッカーサー著:津島一夫訳(朝日新聞社)には、訳者あとがきに『しかし、本書は著者自身が完全な「歴史」とは考えていなかったものであり、読む方でも「歴史」として受け取るべきではない、ということを指摘せねばならない』とある。その通りであろうと思う。
 さらにいえば、自分自身(マッカーサー)に対するに感謝の言葉や讃辞を並べ、その感謝の言葉や讃辞の由って来る所以を事細かに説明し、証明するために過去をふり返って書かれた回想記である、といっても言い過ぎではないように思う。また、この「回想記」によってさらなる讃辞を得ようとするかのごとき姿勢さえ感じることがあった。
 この回想記を読めば、戦後日本の占領政策や朝鮮戦争における数々の疑惑について、何か分かることがあるのではないかという期待は、全くの期待はずれに終わった。下記のように、都合の悪いことは知らなかったことになっている。ただし、一日本人として読むと、疑わしい文章の中にも、一部見過ごしてはならない真実が含くまれている部分もあるように思われた。
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                              第5部 日本占領
 廃墟の日本

 1 終戦

 敵に対して使用される最初の原子爆弾が8月6日、「スーパーフォートレス」型米機によって軍事都市広島に投下され、かつてみたことのない恐るべき爆発力を発揮した。広島市はほとんどあますところなく、一面の廃墟と化した。このような核兵器が開発されていることは、広島攻撃の直前まで私には知らされていなかった。

 ・・・(以下略)

 占領の課題

 4 天皇との会見

 私が東京に着いて間もないころ、私の幕僚たちは、権力をしめすために、天皇を総司令部に招き寄せてはどうかと、私に強くすすめた。私はそういった申出をしりぞけた。「そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立てあげることになる。いや、私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いに来るだろう。いまの場合は西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さの方が、われわれの目的にいちばんかなっている」というのが私の説明だった。

 実際に、天皇は間もなく会見を求めてこられた。モーニングにシマのズボン、トップ・ハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向い合せに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をささげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた。


 天皇は落着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきりおもてに現していた。天皇の通訳官以外は、全部退席させたあと、私たちは長い迎賓館の端にある暖炉の前にすわった。
 私が米国製のタバコを差出すと、天皇は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかっていた。


 私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動がいかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。

 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。
 しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の決裁にゆだねるためおたずねした」


 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。

 天皇が去ったあと、私はその風貌を妻に話そうとしかけたが、妻はくつくつと笑ってそれをとめ「ええ、私も拝見しましたのよ。アーサー(マッカーサー夫妻の令息)と私は赤いカーテンのかげからのぞいていましたの」といった。まことに珍しいことの起る世界ではある。しかし、どう見ても、ほほえましい世界であることは間違いない。

 天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話合った。私はいつも、占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。
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                               第6部 朝鮮戦争
 2 戦乱突発

 1950年(昭和25年)6月25日、日曜日の早朝、東京米大使館の私の寝室で電話のベルが鳴った。その響きは、暗く静まりかえった部屋で鳴る電話の音特有のけたたましさだった。電話をかけてきたのは、総司令部の当直将校で「将軍、いまソウルからの電報で、けさ4時に北朝鮮の大部隊が38度線を越えて南へ攻撃してきた、と知らせてきました」といった。
 何万という北朝鮮軍がなだれをうって国境を越え、韓国軍の前線拠点を押しつぶし、立ち向かうもの一切をはらいのけるほどのスピードと兵力で、南へ向かって進撃しはじめたのだ。私は悪夢を見ているような奇妙な気分になった。ちょうど9年前のやはり日曜日の同じ時刻に、私はマニラ・ホテルの屋上の家で、これと同じけたたましい電話の音に起こされた。あの時の悲痛な戦いの声が、またもや私の耳にひびいている。
 そんなはずはない、と私は自分にいい聞かせた。私はまだ眠って夢をみているに違いない。二度あるはずがない。しかし、その時、私の優秀な参謀長ネッド・アーモンドのきびきびしたさわやかな声がひびいてきた──「将軍、何か命令は?」
 事態がこんな悲劇にまで発展するのを、米国はどうして許したのだろう、と私は自問した。


 ・・・

 ダレス(トルーマン大統領特使)は東京に帰り、国務長官へ次のような電報を送った。
「韓国が自力で攻撃を阻止ないし撃退できない場合、ソ連の反発をひき起こす危険をおかしても米軍を使用すべきだと考える。韓国が理由のない武力攻撃で席巻されるのを見過ごせば、世界大戦が起こることになる」

 ・・・(以下略)

 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は文の一部省略を示します。 

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