-NO109~119

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陸軍中野学校 カリキュラムと謀略・諜報工作活動-------------

 下記は、
「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)より第1章の「終戦前後の動き」と題された部分の抜粋である。前半部分は実際に計画された謀略・諜報工作活動について、後半部分は主に陸軍中野学校のカリキュラムについて簡潔にまとめられている。
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終戦前後の動き

 櫻の記録にもあるように、陸軍中野学校は”Unseen War(見えない戦争)”を戦う秘密戦士を養成するために、7年間存在した日本陸軍 唯一の特殊学校であった。
 その”戦果”については戦後、関係者が断片的ではあるが手記や校友会誌に、あるいは小説の形式で発表してきた。また、校史にも若干ではあるが、終戦前後の中野学校の組織的な活動についての記述がある。
 例えば第1期生の4人が、陸軍次官秘書官だった中佐が計画した「
皇統護持工作」に参加している。これは、終戦で天皇家の直系が絶えた場合を想定して、北白川宮家の若宮道久王を東京から脱出させて新潟方面の山中に隠蔽する計画であった。1期生たちはアジト探しで各方面に行動を起こしたが、結局、この工作は陽の目を見なかった。
 また、天皇の玉音放送を阻止する
「玉音録音盤奪取工作」も存在した。これは、映画『日本の一番長い日』などで紹介されている宮城占拠事件と連動しており、尉官クラスの中野出身者が単独で計画した。NHK愛宕放送局を爆破して玉音盤を奪取する計画であったが、録音が複数箇所で行われるという情報が流れたため、工作は中止された。
 こうした謀略・諜報工作で、一部関係者ではあったが、諜報員たちは隠密裏に活動していた。
 これらの工作活動には、中野学校で徹底的に叩き込まれた実戦教育が役に立った。中野学校での実戦カリキュラムは、「潜入、潜行、偵察、候察、偽騙、謀略、宣伝、破壊、通信、暗号」などの訓練であった。それと、中野学校ならではの特殊な教育として、一般教養基礎学、専門教育座学が充実していた。
 学校のモットーは「謀略は誠なり」を実行するための「無私」と「誠」の精神を国体学と思想学で徹底的に教育され、外にも心理学や統 計学を学んでいる。また、兵器学や築城学、航空学、それに自動車、戦車、航空機の操縦法や長短波無線の操作まで学んでいた。
 さらに、諜報員として外国事情を知ることは必須になっていて、米国、英国、ソ連、中国、ドイツ、イタリア、フランス、東南アジアなど広範囲にわたる地域の文化や民情、歴史を学んでいる。当然、派遣先の国の言葉として、英語、ロシア語、中国語、マレー語、ペルシャ語などが教えられていた。
 また、語学のなかでは英語が必須科目で、中国語またはロシア語から1科目を選択することになっていた。なかでも英語教育には力が入れられており、学生全員に英文の日記を書いて提出することが義務づけられていた。ちなみに中国語の教材には当時市販されていた『急就篇』が用いられていた。
 専門学科では、諜報員に必要な秘密通信法、防諜技術、暗号解読、武器の取扱い、射撃などを学んでいた。なかでもユニークなカリキュラムとしては、忍法研究家による忍術講座や警察教官による犯罪学や法医学の講座までも用意されていたという。
 術科では銃剣道や合気道はもちろんのこと、諜報技術の一環として、ヨード法や赤外線還元法による文書の作成、超小型カメラによる盗写技術、あるいは郵便物の開緘法、開錠術、変装術なども映画撮影所で役者から直接学んでいた。これらの謀略・諜報器材は陸軍登戸研究所で試作、開発されていた。(拙著『謀略戦 陸軍登戸研究所』<学研M文庫>参照)。



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陸軍中野学校 英国総領事館襲撃計画/神戸事件------------

 下記は、
「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)の第2章、神戸事件と伊藤少佐および神戸事件と中野学校と題された部分からの一部抜粋である。
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神戸事件と伊藤少佐

 諜報員にとって破壊工作は重要な任務の一つで、陸軍中野学校では、敵地の工場や発電所、ダムなどに潜入して爆薬を仕掛けて破壊する破壊演習なども実際に行われていた。
 次に紹介するのは、未遂に終わったが、神戸の英国総領事館を襲撃する計画の全貌である。この事件は、中野学校の卒業生でもほんの一部しか知らない極秘の計画であった。
 今回、私は取材の過程で事件の全貌を記した手記を入手した。この手記を遺したのは第1期生の井崎喜代太で、「神戸事件」として聞き書きのスタイルで書いていた。事件に関わる重要な部分を紹介しておく。65年前の事件は、いかなる結末を迎えたのか
……

 「神戸事件」と称される事件が憲兵隊に未然に発覚したのは、昭和15年(1940)1月4日であった。事件の首謀者は当時、中野学校の教育主任を務めていた伊藤佐又少佐(陸士37期)だ。
 彼はかねてからの反英、反ユダヤ思想の持ち主で、当時の国家機密であった五相会議(昭和8年10月に5回、首相、外相、陸相、海相、蔵相が集まって日本の基本国策と軍拡に関する問題を討議した会議)の内容がイギリスに漏れていると確信し、その情報ソースが、なぜか東京から離れた神戸英国総領事館にあると信じていた。
 伊藤少佐は、中野を卒業して間もない1期生3名(中尉)と在学中の2期生5名(少尉)、それに1期生の下士官学生4名の総員12名を選抜して、総領事館を襲撃する計画を立てていた。

・・・

 伊藤が起こしたこの未遂事件について、井崎は上海に出張したおりに、事件に参加した民間人から情報を得ていた。そして、この民間人から神戸事件の背景も聞かされていた。

 <彼中村武彦に拠れば、伊藤が神戸総領事館から獲得した証拠書類を中村が東京へ運び、彼の親分(彼らの愛国運動の指導者)天野辰夫氏に渡し、天野氏は此を近衛文麿公に届け、近衛公は参内して天皇陛下に上奏、天皇の御意によって政治一新を図るという計画であったという。
 天野氏は東京帝国大学時代からの上杉慎吉門下で、早くより愛国運動の理論的指導者の一人として高名、昭和8年7月の神兵隊事件に於いてはその最高指導者となった。中村武彦は國學院大學予科在学中に事件に参加、その後天野氏に最も近い立場にあった。私とは大学入学当時から同じ松永材教授門下として親しい同志的間柄であった。>

 伊藤少佐は愛国運動家らとも親交があり、神戸事件の背後には右翼との連携があったようだ。神戸事件の背後に愛国運動団体が存在していたことは、この聞き書きで初めて明かされる事実である。

 神戸事件と中野学校

 では、神戸事件は具体的にどのように計画されたものなのか。井崎は、同期の牧沢義夫中尉から次のような証言を得ていた。

 <実際行動についてやや細かく聞くことができた。彼(牧沢)によれば、参加者たちが畝傍御陵を拝して連判状に署名したが、伊藤少佐は実施計画については幹部と目される行き生達にさえ謀る(ママ)こともなく、武器の入手は、参加部隊はと質問されても明確性に欠け、 終始曖昧のまま押し通した模様である。姫路師団の1カ大隊が出動、実力を以て総領事館を包囲制圧する計画とか、東京組の武器は神戸高等商船学校の兵器庫から奪うとか打ち明けられたと云う>

 牧沢の証言によれば、伊藤少佐は襲撃計画で最も重要な部分の動員と兵器の調達については曖昧な答しかしなかったという。牧沢にしてみれば、上官とはいえ一少佐の計画で「兵が動く」などとは、信じられなかったのであろう。重大な軍規違反である。
 姫路師団(第十師団)の1個大隊の動員に関しては、後日、上海の支那総領事館に勤務していた2期生の若菜二郎が井崎に、こう語っている。

 <伊藤さんは、これからかねて自分の理解者である姫路十師団長の佐々木到一中将を説得して、師団の兵力を動員して貰うと云ってでかけた>

 伊藤少佐は自分を理解している姫路師団長を説得すると若菜に語ったというが、師団長の佐々木到一は伊藤より四階級も上の将官である。そのうえ、伊藤とは軍の組織や命令系統も異なり、上官と部下の関係でもない。二人の接点といえば、前述の開楽炭鉱爆破未遂事件で、当時北支那方面軍憲兵司令官の職にあった佐々木に、事件を内々に処理してもらったことだけである。
 その恩義ある佐々木中将に、私的に「兵を動かす」という反乱罪にも等しい決起行動を相談したとは、私にはとても思えないのだが… 。万に一つその事実があったとしても、憲兵司令官の職にあった佐々木は伊藤を叱咤して、計画の中止を迫ったのではないか。伊藤の計画が事前に憲兵隊に洩れていたのも、案外、佐々木の線からではなかったのかと想像する。

 ……以下略

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陸軍中野学校 米兵捕虜斬首公開処刑 油山事件------------

  下記は、陸軍中野学校の卒業生が関わった事件を
「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)から一部抜粋したものである。この事件の計画実行は、中野学校の教育とは直接関係があるわけではないと思われるが、関連事件として抜粋する。
 なお、九州地区では米軍捕虜を日本刀で処刑したのは、油山事件のほかにも、西部軍管区司令部の庭で12名を斬首した事件があるという。
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油山事件

 帰国後(櫻)はまたアメリカ班に勤務し、昭和19年8月に大尉に昇進。次いでアメリカ班を離れて昭和20年(1945)6月に、中野学校を卒業以来初めての部隊勤務となる。任地は九州の第16方面軍参謀部情報班であった。6月19日には福岡が米軍の空襲を受けて、司令部は灰燼に帰していた。
 翌20日、市内の福岡高等女学校(現福岡中央高校)の校庭では異常な光景が展開していた。それは第1回の捕虜になっていたB29搭乗員12名の集団処刑であった。それも、日本刀による斬首の公開処刑である。午後1時から始まった処刑には、一般市民や学生など見物に来た黒山の人だかりができた。処刑には4時間を要したという。
 第16方面軍(西部軍管区司令官兼任)司令官横山勇中将は空襲のあとに、司令部を福岡市の南方に位置する筑紫郡山家村(現筑紫野市)の洞窟に移してしまった。もちろん、司令部幕僚も司令官と一緒に洞窟司令部に移ったことはいうまでもない。
 櫻が東京から転勤してきた6月8日で、公開処刑が行われる前であった。また、櫻が赴任してきた頃、参本第8課が第4班に変わり、その第4班から先輩の1期生亀山六蔵少佐が先任将校として情報班に転属になっていた。
 「米軍捕虜の尋問をしたのは8月の暑い日だったことを覚えています。尋問したのは、敵航空勢力の実力と侵攻状況などについてでした。尋問が戦時国際法に反していたとは思っていません。それに、捕虜に対して拷問したことはありません。
 問題はそのあとのことです。私たちは、”油山事件”と呼んでいますが、捕虜を処刑したんです。このとこは、中野学校の一部の者が知 る程度で、学校史にもほんのわずか記述されているにすぎません」
 校史にはこうある。

 <西部軍には、米軍俘虜の処置に関し、後に戦犯事件になる問題が2件発生した。その一つは油山事件で、赴任したばかりの中野出身者がこのために苦労しなければならなかったのは、誠に気の毒であった>

 櫻が明かしてくれた油山事件とは、長崎に原爆が投下された8月9日に、福岡市郊外の油山と呼ばれていた市営火葬場近くの雑木林で、同じB29の搭乗員だった捕虜を処刑した2回目の事件であった。処刑の指揮官は西部軍参謀副長の友森清晴大佐(陸士34期)で、ほかにも憲兵少佐の江夏源治や第6航空軍参謀の伊丹少佐などが立ち会っていた。
 では、実際の処刑はどのように行われたのか。当時、方面軍報道班員だった上野文雄の著作を引用してみる。

 <死刑執行指揮官は、参謀見習の少佐射手園達夫であった。この日、刀を揮ったのはやはり腕自慢の法務大尉和光勇精大尉、法務中尉吉田寛二、少尉楢崎正彦、それに遊撃隊員も加わった。処刑者は8人であった。いずれも目隠しされて一ヵ所に座らされ、そこから一人ずつ、処刑場になっている緑の雑木林の奧に連れて行かれた。自分の順番を待つ間、彼らはもうりっぱに観念しているようで、騒ぐ者もいなかった。(中略)また剣道5段の楢崎少尉は、肩からはすかいにきれいなけさ切りで切った。>(『終戦秘録 九州8月15日』)

 櫻は事件を回想する。
 「油山事件はいやな事件でした。私は直接、処刑に立ち会ったことはありませんが、自分が尋問した捕虜が処刑された。と後で聞いた時には憂鬱な気分でした。おそらくこの処刑を決定した上層部の判断には、報復的な意味が充分あったと思うんです。処刑の直前には福岡空襲、広島の原爆投下、そして、9日には近くの長崎に原爆が投下されていますから……」
 捕虜をケサ切りにしたとされる少尉は、後述する八丙出身の斎藤律平と同期の卒業生であった。楢崎にについて櫻は語る。
 「楢崎君はたしか、国士舘出の剣道の達人で戦後は最高位の範士九段を取りました。あの事件で巣鴨に長く入っていたはずですが、四年前(平成11年6月)亡くなりました。私の記憶では油山事件で戦犯に問われて処刑された人はいなかったと思います」
 処刑後、指揮官だった友森大佐は全員を集めて次のような訓辞をしていた。

 <本日の処刑は、国際法の定めるところによっておこなわれたものである。しかし、外部にはあまり口外しないように>(前掲書より)

 中野時代を詳細に語ってくれた櫻も、この油山事件に関してだけは口が重く、話したのは、今回が初めてだという。私は心境を問うてみた。
 「中野学校の卒業生が直接、間接に関わった歴史の表に出ない情報諜報活動はまだ他にもたくさんあると思います。しかし、私の信じるかぎり、中野の卒業生が自ら進んで無益な殺生をしたとは思っていません。おそらく楢崎君にしても、配属されていた西部軍の上官から命令されてやったことだと思うんです。
 巣鴨に入ったのも、その責任を問われての結果でしょうが、執行の指揮官だった友森大佐の処分がどうなったかが気掛かりな点です。私が今回あなたに話したのは、中野学校の諜報、謀略などの教育を受けてきた我々は、時と場合によって非合法な活動をすることもあるという、その事実を知ってもらいたかったからです。楢崎君のケースは、非合法な活動というよりも上官の命でやったことですから。それと、剣道の達人ということが指名の第1にあったと思うんです」

(以下略)

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陸軍中野学校 三島事件と関係者 -----------------

 
「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)によると、自衛隊の情報要員を養成する自衛隊調査学校(現小平学校)の2代目校長藤原岩市(陸士43期)は、陸軍中野学校の教官であり、副校長の山本舜勝(陸士52期)も、中野学校で情報戦術を教える研究部員兼任の教官であったという。その他にも、自衛隊調査学校には、中野学校の元教官や卒業生7名が確認され、中野学校の情報戦のノウハウが自衛隊に引き継がれたというのである。そして、三島事件の陰のプロデューサーといわれたのが、その中の一人、山本舜勝である。下記は、その三島事件に関する部分の一部抜粋である。
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三島由紀夫と山本舜勝

・・・
 昭和45年(1970)11月25日、水曜日──この日、三島は制服を着た「盾の会」会員4人を引きつれて、あらかじめ面会を取り付けていた益田兼利東部方面総監に会うために総監室に入った。その直後、会員らは持参した日本刀を抜いて総監を脅し総監室に立て籠もった。面会所に入った午前10時45分から、ほんの20分後のことであった。
 三島の目的は、総監を監禁にして自衛隊にクーデターを迫ることであった。決起を促す三島の演説は約10分間つづいたが、自衛隊は動かなかった。三島は「天皇陛下万歳」を三唱して総監室に戻ると、切腹の作法に則って持参の短刀で自決した。介錯は会員の森田必勝がおこなった。室内には鮮血が飛び散っていたという。
 自衛隊に共感していた三島がなぜ、反逆したのか。最後の作品『豊饒の海』(4部作)で書いた「決起」を、自ら実践しなければならなかったのだろうか。三島は生前、自衛官のなかで山本舜勝を最も信頼していたという。
 山本が三島と交流を始めたのは昭和40年(1965)情報教育課長に在職していたころで、紹介者は研究課長の平原一男一佐だった。平原は山本に、三島が書いた「祖国防衛隊はなぜ必要か」という冊子を見せて、彼に会うように勧めたという。
 山本が関心を持った三島の祖国防衛構想とは、自衛隊体験入隊を経て三島なりに到達した民間防衛論であった。その基本構想は大要、次のようなものだった。山本は自著『自衛隊「陰の部隊」』(講談社)のなかで、三島のこの民間防衛論の基本綱領を紹介している。

 <祖国防衛隊は、わが祖国・国民及びその文化を愛し、自由にして平和な市民生活の秩序と矜りと名誉を守らんとする市民による戦士共同体である。
 われら祖国防衛隊は、われらの矜と名誉の根源である人間の尊厳・文化の本質及びわが歴史の連続性を破壊する一切の脅威に対しては、剣を執って立ち上がることを以て、その任務とす>


・・・

 そして山本は、三島の自衛隊の最初の訓練について、こう書いていた。

 <私は、自衛隊での学生教育(引用者注・調査学校における対ゲリラ戦教育)の合間をぬって、三島と「祖国防衛隊」の中核要員(のちの「盾の会」会員)に対する訓練支援を開始することとなった。第1回の訓練は、43年5月上旬の土曜日の午後、郊外のある旅館で行った>


 ・・・

 
その点を市川宗明(自衛隊心理情報課程=CPI 課程卒業)が、自衛隊退官後に三島から直接聞かされた話として、三島のクーデター計画について雑誌に書いている。

 <三島と盾の会が自力で32連隊を動かしてクーデターを起こすことを決意し、その準備に入ったのは3月ごろ(引用者注・1970)であった。市ヶ谷駐屯実力部隊・普通科第32連隊を無断借用してクーデター計画をおこそうと企んでおり、クーデターは連隊長室に乱入し宮田一佐を日本刀で脅かして椅子に縛りつけてニセの命令を出させ、霞ヶ関官庁街を警備担当区域とする第32連隊を動かし、国会や首相官邸を占拠する計画であったと思われる。
 が、クーデター予定日に連隊長が不在だとわかり、急遽益田総監を標的にすることを決めたという>(「人と日本}1978年11月号)


・・・

 自衛隊と三島由起夫を結ぶ証が、盾の会の演習に使われていた陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地に残されている。その碑には「誠実」の二文字が彫られている。……
(以下略)


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三島由紀夫 「檄」自衛隊の治安出動---------------

 1970年11月25日、三島由紀夫は「楯の会」のメンバー4人を伴い、陸上自衛隊東部方面総監部を訪問した。ドゴール将軍の軍服を意識し作らせたという会の制服姿であった。そして、総監・益田兼利陸将を縛り上げて監禁し、自衛官と詰めかけたマスコミ陣に対して30分間演説することを認めさせた後、バルコニーで自衛隊にクーデターを迫る演説をした。決起を促す三島の演説は約10分間続いたが、自衛官は全く動く気配を見せず、「バカヤロー、何を考えてんだー!」、「英雄気取りするなー!」、「頭を冷やせー!」などの反撥の声が上がる始末であったという。 三島は「天皇陛下万歳」を三唱して総監室に戻ると、切腹の作法に則って持参の短刀で自決した。学生長森田必勝および古賀浩靖が介錯したとのことであるが、彼の文学作品は、その時すでにヨーロッパやアメリカで高く評価され、ノーベル文学賞の候補にも上げられていたのである。なぜ、世界的に通用する思想や平和を追求せず、天皇中心の国家理念や武士道を至上のものとし、国粋主義的な言動に終始したのか理解できない。大戦末期、国民や兵士の地獄の如き苦しみには目もくれず、「本土決戦、一億玉砕」を叫んだ青年将校が思い出される。
 
『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)より、「檄」の一部を抜粋する。筆者は、「盾の会」の指導に当たった山本舜勝一佐(後に陸将補)で、自衛隊調査学校(現小平学校)の副校長であり、陸軍中野学校で情報戦術を教える研究部員兼任の教官であった人である。
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                                                          盾の会隊長 三島由紀夫

 われわれ盾の会は、自衛隊によって育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父であり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かえりみれば、私は4年、学生は3年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれ戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかった。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、ご都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は、敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 4年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には盾の会を結成した。盾の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあった。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、
治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がった大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。

 ・・・(中略)

 われわれは4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂はしんでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。


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三島由紀夫 盾の会隊長の命令書----------------

 「盾の会」の指導に当たった山本舜勝一佐(後に陸将補)は自衛隊調査学校(現小平学校)の副校長であり、陸軍中野学校で情報戦術を教える研究部員兼任の教官であった人であるが、その著
『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)で、「30年経った今、三島事件を改めて問い直そうという気運が見え始めたのは幸いである」と書いている。憲法改正の動きの中に、「生命尊重以上の価値、それは自由でも民主主義でもなく、天皇である」というような三島の思想があり、それが力を持ち始めているとすれば、見逃すわけにはいかないと思う。ここでは、同書の中から、盾の会会員への「命令書」を抜粋する。
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命令書

 小賀正義君 君は予の慫慂により、死を決して今回の行動に参加し、参加に際しては、予の命令に絶対服従を誓った。依ってここに命令する。君の任務は同志古賀浩靖君と共に人質を護送してこれを安全に引き渡したるのちいさぎよく縛につき、盾の会の精神を堂々と、法廷において陳述することである。
 今回の事件は、盾の会隊長たる三島が、計画、立案、命令し学生長森田必勝が参画したものである。三島の自刃は隊長として責任上、当然のことなるも、森田必勝の自刃は、自ら進んで盾の会全会員及び現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、自ら範を垂れて、青年の心意気を示さんとする、鬼神を哭かしむる凛冽の行為である。三島はともあれ、森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。
 しかしひとたび同志たる上は、たとひ生死相隔たるとも、その志に於いて変わりはない。むしろ死は易く、生は難い。敢て命じて君を艱苦の生に残すことは予としても忍び難いが、今や盾の会の精神が正しく伝わるか否かは君らの双肩にある。あらゆる苦難に耐え、忍び難きを忍び、決して挫けることなく、初一念を貫いて、
皇国日本の再建に邁進せよ。
                                                                  盾の会隊長
                                                                  三島由紀夫

 
昭和45年11月
 小賀 正義君


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三島由紀夫 切腹(三島事件)に至る思想--------------

 下記は、三島由紀夫が自刃3ヶ月前に伊豆下田のホテルから元自衛隊一佐山本舜勝(後陸将補)に宛てた手紙の中に同封されていたという書類の一つ、『武士道と軍国主義』からの一部抜粋である。
 
『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)によると、三島は、自刃の年の7月、当時の保利茂官房長官から、防衛に関する意見を求められたという。同封されていた書類は、三島の持論をタイプ印刷したもので、佐藤栄作総理大臣と官房長官が目を通した後、閣僚会議に提出されるはずだったが、公表されることはなかった。筆者によると、当時の中曽根康弘防衛庁長官が、閣僚会議に出すことを阻止したのではないかという。
 彼にとって過去の戦争の犠牲は何であったのか。繰り返すまいという思いはなかったのか。
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『武士道と軍国主義』

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 しかし、日本は、天皇という民族精神統一、その団結心の象徴というものを持っていながら、それを宝の持ち腐れにしてしまっている。さらに、我々は現代の新憲法下の国家において、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないということに、非常に苦しんでいる。それは、新憲法の制約が、あくまでも人命尊重以上の理念を日本人に持たせないように、縛りつけているからである。
 防衛問題の前提として、天皇の問題がある。ヒューマニズムを乗り越え、人命よりももっと尊いものがあるという理念を国家に持たなければ国家たり得ない。その理念が天皇である。我々がごく自然な形で団結心を生じさせる時の天皇、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統。この二つを持っていながら、これをタブー視したまま戦後体制を持続させて来たことが、共産圏・敵方に対する最大の理論的困難を招来させることになったのだ。この状態がずるずる続いていることに、非常な危機感を持つ。


・・・

 故に、(核ではなく)在来兵器の戦略上の価値をもう一度復活させるべきだと考える。つまり日本刀の復活である。むろん、これは比喩であり、核にあらざる兵器は、日本刀と同じであるという意味である。
 その意味で、武士と武器 本姿と魂を結びつけることこそが、日本の防衛体制の根本問題だとするのである。
 ここに、武士とは何かという問題が出て来る。
 自衛隊が、武士道精神を忘れて、コンピューターに頼り、新しい武器の開発、新しい兵器体系などという玩具に飛びつくようになったら、非常な欠点を持たざるを得なくなる。軍の官僚化、軍の宣伝機関化、軍の技術集団化だ。特に、技術者化が著しくなれば、もはや民間会社の技術者と、精神において何ら変わらなくなる。また官僚化が進めば、軍の秩序維持にのみ頭脳を使い、軍の体質が、野戦の部隊長というものを生み出し得なくなる。こうして精神を失って単なる戦争技術集団と化す。この空隙をついて、共産勢力は自由にその力を軍内部に伸ばして来ることになる。
 では、武士道とは何か。
 自己尊敬、自己犠牲、自己責任、この3つが結びついたものが武士道である。このうち自己犠牲こそが武士道の特長で、もし、他の2つのみであれば、下手をするとナチスに使われた捕虜収容所の所長の如くになるかもしれない。しかし、身を殺して仁をなす、という自己犠牲の精神を持つ者においては、そのようにはなりようがない。故に、侵略主義や軍国主義と、武士道とは初めから無縁のものである。この自己犠牲の最後の花が、特攻隊であった。
 戦後の自衛隊は、ついに自己尊敬の観念は生まれなかったし、自己犠牲の精神に至っては、教えられることすらなかった。人命尊重第一主義が幅をきかしていたためだ。
 日本の軍国主義なるものは、日本の近代化、工業化などと同様に、すべて外国から学んだものであり、日本本来のものではなかった。さらに、この軍国主義の進展と同時に、日本の戦略、戦術面から、アジア的特質が失われてしまった。
 日本に軍国主義を復活させよ、などと主張しているのではない。武士道の復活によって日本の魂を正し、日本の防衛問題の最も基本的問題を述べようとしているのだ。日本と西洋社会の問題、日本文化と西洋のシヴィライゼーションの対決の問題が、底にひそんでいるのだ。


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三島由紀夫 「反革命宣言」をめぐる論争--------------

 元自衛隊陸将補山本舜勝は、旧陸軍時代の同期生Mを三島に会わせた。彼は、三島の「反革命宣言」を読んで、その思想に共鳴していたが、具体的な部分におおきな誤りがあると言ってきたという。そして、三島ほどの人物がその誤りに気づかず進むのはいかにも惜しいので、ぜひ会って議論したいと申し入れてきたというのである。その議論の一部を
『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)から抜粋する。
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三島を理解しなかった自衛隊

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 私は初め躊躇した。熱心なMの要請を聞いているうちに、議論によっては、三島の民間防衛構想に、あるいは自衛隊の治安出動時の協力に関連して、何か新しい展開への糸口が見つかるかもしれない、と思い始めた。二人の議論を聞くことで、三島の当面の情勢判断を客観的に評価できるのではないか、という私自身のちょっとした願望も働いて、私は彼らを会わせることにした。私は三島が拙宅を訪れることになっていたその日、Mを招いた。
 Mは、「反革命宣言」に対するいくつかの質問を用意していた。そして議論は、「行動原理における有効性」の問題に集中した。それは同論文で次のように述べられていた部分である


 ……自らを最後の者とした行動原理こそ、
神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は「あとに続く者あるを信ず」という遺書を残した。
 
「あとに続く者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとに続く者」とは、これもまた、自らを最後の者と思い定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。

 Mは初めから鋭く切り込んだ。
 「有効性を問題にしない運動とはいったいどのようなものですか?それではただの言葉上の遊び、いや、思想をもてあそんでいるだけ、と言われても仕方ないんじゃないですか?」
 「それは違う。言葉の遊びや思想上の問題などではない。実際に、自らの命を賭けて斬り死にすること、その行為がまた、あとに続く者を作り出すんだ!」
 「真に日本の変革を目指すのであれば、そのための行動であれば、行動する以上勝たなければ意味がないじゃないですか。だとすれば、敵に勝る武器が、戦車であれミサイルであれ、必要になってくるはずです。あなたのおっしゃる精神論ももちろん必要ですが、手段に裏づけられない精神論など、絵に描いた餅ですよ!」
 「違う。それは問題の立て方がまるで違うんだ。己の肉体を賭けて文化を守るのがわれわれの目標である以上、
武器は日本刀で十分なんだ!」
 議論は最後まで平行線をたどり、交わることがなかった。現代という歴史の時間軸の中では、即時的有効性よりも最終的な成果こそ重視さるべきであるという三島の論理は、Mの考える戦闘における勝利の概念を突き崩すことはできなかった。
 もちろん、武器戦法の優劣に立った行動の具体的有効性に依拠するMが、三島の歴史性や精神性の考え方に少しでも動揺を与えることもなかったのである。とはいえ、自ら信ずることの埒外について眼中にない論者は、三島のように相手を理解しつつ、 自分を理解させようと考える論者を圧倒してしまうものである。
 この強硬な論者は三島を手こずらせたばかりでなく、深く傷つけることとなった。


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 3月に入ると、「盾の会」第3期生の訓練が富士で行われた。訓練が終わって間もなく、その訓練に関わった若い自衛官から電話がかかってきた。
 「三島先生は、どうもあなたが最近妙な人物に会わせるが、とおっしゃっています。もしあなたが心が変わったのなら、われわれも黙ってはおりませんから、どうかそのつもりでいてください」
 「私に心変わりなどあるはずがない。よけいな心配をするな」
 私は電話を切ったが、内心、三島が自衛隊内部に深く浸透し始めている事実に舌を巻いていた。彼は富士の訓練などを通して、若い自衛隊幹部の中に協力者を見つけ出す努力を重ねていた。その成果がここまで来ている



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陸軍中野学校 真珠湾奇襲の暗号解読と大統領選------------

  アメリカ同時多発テロ事件にはショッキングな陰謀説がある。「ブッシュ政権は、アフガニスタンとイラクに対する戦争を正当化する目的で、事前に攻撃の事実を知っていたのに、その事実を隠蔽し放置した」とか、「『偽の旗作戦』(敵の攻撃を自作自演する作戦ーfalse flag attack)を企画し、それを9・11事件の世界貿易センターとペンタゴンの襲撃として実行した。」などである。現段階では、私には真実は分からない。しかし、同様にショッキングな事実が
「秘録陸軍中野学校」畠山清行[著]保阪正康[編](新潮文庫)に書かれている。米国民の戦意を高揚させ、莫大な戦時予算を獲得し、戦争を有利に展開させるため、また、大統領選も有利に展開するため、日本軍の真珠湾奇襲計画を知りながら、その事実を隠蔽したというのである。「破れなかった紫暗号」と題された部分の一部を抜粋する。
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破れなかった紫暗号

 太平洋戦争前に、日本の暗号が米国側に解読されていたことは、昭和31年の米議会で『その模造は絶対に不可能』とされていた日本海軍技術研究所製作の暗号機械を模造した、元米海軍諜報局日本班員(海軍大佐待遇)のウイリアム・F・フリードマンに、十万ドル(邦貨3600万円)の功労金を贈る議決がなされてから、米国でもほとんど公然の秘密となって、新聞、雑誌、ラジオにもたびたび紹介されたが、まだまだ暗号解読の疑問は完全に解けたわけではない。
 というのは、議会の議決があって数日後、ニューヨーク・タイムス紙に掲載された、元ニューヨーク暗号協会会長の、フリードマンに対 する讃辞にしても、
 『フリードマン氏は、日本のもっとも手ごわい暗号、いわゆる「紫暗号」の解読に貢献した。この暗号は、一年以上にわたって、陸海軍暗号解読メンバーを手こずらせていた。フリードマン氏は、その同僚とともに偉大な天才ぶりを発揮し、「紫暗号」を分析し、このような複雑な暗号をつくりだす機械の構造をみぬいた。そして、ひどく苦労したあげくに、日本の暗号とまったく同じ結果をもたらす装置をつくりあげた』
 とあるだけで、どの暗号機をどんなふうにしてつくりあげたか、具体的な説明はなにもないからである。米国側では、解読したこの日本の暗号を、ただ単に、『紫暗号』あるいは『マジック(魔法)』と呼んでいるが、日本の暗号も、また暗号機械も、一種類や二種類ではなかった。
 だいたい、暗号というものは、英、米、ソ、独、その他いずれの国をたずねても、硬度の強いものから弱いものまで、幾種類かある。日本の陸海軍にしても同様で、航海中の艦と艦が連絡したり、前線で部隊同士が連絡する、硬度の弱いものから、複雑な乱数の組み合わせの艦隊司令部や大本営との交信用のものまで、少なくとも6,7種類はあった。外務省の暗号にしてもその通り、政府と各国駐在大公使館の連絡用の硬度の高いものから、大公使館相互の連絡用、出先外交官が旅先から交信する、ごく弱いものまで入れれば、これまた相当な数となるのだ。暗号機にしても九一式、九七式一型、二型、三型機から、携帯用の小型機まである。
 フリードマンの模造した機械が、何式の何型であるか。また解読した暗号も、数あるうちのどれであるか、米国側の公式発表がない限り (おそらく永久に発表はしないであろうが)正確にはわからない。しかし、ニューヨーク暗号協会会長の讃辞のごとく『紫暗号』であるとすれば、海軍用の『九七式一型』あるいは『二型』ではなく、外務省用の紫暗号『九七式三型』俗に『九七式欧文印字機』と呼ばれるものではないかと思える。この外務省用の『欧文印字機』だとすれば、ニューヨーク暗号協会会長のいう『日本のもっとも手ごわい暗号』は少々言葉がすぎていて、同じ『紫暗号』でも、もっとも手ごわい暗号は海軍の『九七式一型』及び『二型』だったのだ。
 これは、いろはの仮名文字と、ローマ字のアルファベットの字数をくらべてもわかることで、外務省用三型のアルファベットは26文字。海軍用一型、二型の仮名文字の方は50字でできていた。文字数も約倍ある上に、電路が全く違う仕組みになっていたので、この世界的発明をなしとげた元海軍技術研究所の勅任技師田辺一雄氏も、
 「暗号機は、たとえその現物が敵の手に渡っても、使い方がわからないように造ってなければ意味がない。外務省用のアルファベットの方はわかっても、仮名文字の方は、より複雑になっている。構造だけはわかっても、解読機械がなければ読めないから、海軍暗号は盗まれなかった筈だ。それは、アメリカ軍が進駐当時、しきりに統計を問題にしてしつっこくきいていたのをみてもわかるし、もし盗読していたならば、戦術上でも日本の裏をかいていい筈である。あんな、小沢艦隊に引き回されるようなへまはやらない筈だから、やはり盗読していたのは欧文の外務省暗号『九七式三型』だけだろう」
と語っている。結局、海軍暗号は、比較的硬度の弱い前線用のものだけが解読でき、もっとも、機密度の高い『紫』は最後まで米側にも解読できなかったというのが真実のようである。

(著者注略)
 外務省暗号が、戦前すでに盗まれていたことは、当時の国務長官だったコーデル・ハルの、
 『実のところわれわれは、日米関係が決裂するだいぶ前から、松岡洋右外相と野村吉三郎駐米大使の間で交換される電報の内容を知っていた。われわれの暗号専門家が、おどろくべき手腕ををみせて、日本の外交暗号電報を傍受解読していたからである。この解読情報はマジックと呼ばれ、日米交渉の最後の段階でおおきな役割を演じた』
 という『回想録』の一節をみてもわかるし、アメリカ議会の『真珠湾調査合同委員会』の記録をみても明らかだ。この記録によれば、日本の外務省と駐米大使館の間で往復された、開戦までの重要電報の解読されたものは180~190通にのぼっている。これをみても、米国側でいう『紫暗号』とは外務省暗号で、『マジック』とは、この外務省暗号をも含めた日本側の暗号解読によって得たすべての情報をさしているものと思えるが、それではこの暗号が、どこでM、どんな方法で盗まれたのかとなると、いまのところまだまったくわかっていない。


 ・・・

 また1944年(昭和19年)の大統領選挙戦に、ルーズベルトの対抗馬として共和党からニューヨーク知事トーマス・デューイが出馬したとき、真珠湾の日本の奇襲を呼号して、米国民の戦意をかりたてたルーズベルトのもっとも恐れたのは、アメリカが開戦前、すでに日本の暗号を解読していた事実をばくろされることであった。それはルーズベルトが、わざと日本軍に攻撃させ、数千人の米市民を真珠湾で殺したことになり、選挙戦が不利になるばかりでなく、日本側がすぐ暗号を変更して、せっかく保っていた米側の優位をすてることになる。そこで、マーシャル参謀総長は、カーター・W・クラーク陸軍大佐を使いとして、全国遊説中のデューイに対し、
 『暗号解読の秘密を公表しないように』
 と懇請の手紙を送っているが、その一節に、
 『英国機関の援助によって、日本およびドイツの暗号解読に成功した』
 とあり、さらに米側が九七式の模造に成功したとき、最初の一台を英国に贈った事実を思えば、おそらく欧州方面の大公使館で、わが暗号機の写真を盗みどりしたものが、英国機関の諜報部員だったのではないか。とも考えられる。さらにまた、もう一歩つっこんだ想像が許されるならば、欧州方面の大公使館員の中に、英国人あるいは英諜報員の手先となっていた第三国人へ、暗号機械の秘密をもらしたものがいたのではないかということも考えられるのである。

 
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陸軍中野学校 真珠湾奇襲の暗号解読事実の隠蔽-----------

 
「秘録陸軍中野学校」畠山清行[著]保阪正康[編](新潮文庫)の中で、畠山清行氏は「政治の最も安易な景気回復策は、軍備拡張と、それにつながる戦争だ。これは世界の歴史をたずねてみればわかることで、無能な政治家が、万策つきた時に必ず用いる手がそれなのである」と書いている。そして、ルーズベルトが日本に戦争を仕掛けさせるよう追い込み、真珠湾攻撃計画をしっかり把握していながら、「奇襲攻撃」を装って反撃に出たというのである。日本を刺激するルーズベルトの対応は、1939年の日米通商条約の廃棄通告を皮切りに、1940年の航空燃料、屑鉄、工作機械の輸出禁止、1941年5月のフィリピンからの戦時物資輸出禁止、同年7月には日本資産凍結、対日貿易の停止と強化されていった。さらに、近衛首相の会見申込を受諾するかにみせておいて、土壇場に会談延期の通告をし、日本を追い込んだというのである。近衛首相は両国首脳会談で局面の打開をしようとしていたが、ルーズベルトは外務省暗号の盗読で日本の対応の裏の裏まで知り尽くして「奇襲攻撃」を装ったというわけである。「真珠湾に吹いた神風」と題された文章の一部を抜粋する。
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真珠湾に吹いた神風

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 解読された日本の外務省暗号が、どの程度に読まれていたかは、すでに幾多の新聞や雑誌にも発表されたから、多少蛇足のきらいはあるが、日本の九七式三型機(外務省の暗号機)をフリードマンが模造した暗号機械は、米海軍通信局通信保安課通信諜報班が操作していたのだ。ローレンス・サフォード中佐が課長で、アルビン・クレイマー少佐が班長である。解読には、陸軍側の通信諜報班も協力し、重複をさけるために奇数日の傍受電報は海軍、偶数日は陸軍が解読翻訳、14部のコピーがとられることになっていた。そしてその配布先は、
 ルーズベルト大統領
 ハル国務長官
 ノックス海軍長官
 スターク海軍作戦部長
 海軍通信局長ノイズ少将
 海軍作戦部作戦部長ターナー少将
 海軍諜報局T・S・ウイルキンソン大佐
 海軍諜報局極東課長アーサー・マコラム少佐
 スチムソン陸軍長官
 マーシャル参謀総長
 参謀本部作戦部長ジロー代将
 陸軍諜報局長マイルズ代将
 諜報局極東課長ブラットン陸軍大佐
 の13人で、配布責任者は海軍がクレイマー少佐。陸軍はブラットン大佐であった。そして、書類は鍵のかかった革製小型かばんに入れて持ちはこばれ、合い鍵は受領者、またはその指名する正式代理人だけが持っている。配布責任者は、相手が読み終るのを待っていて、鞄に入れてもち帰り、保存用の一通だけを残し、ほかの13通は即座に焼却するという、あくまでも日本の暗号を盗読していることを、関係者以外には知られないための、厳重な処置がとられていたのであった。

 この九七式三型模造機による、日本の暗号盗読諜報は別として、日本に真珠湾奇襲攻撃計画のあることが最初に米側へもれたのは、1941年(昭和16年)の1月である。山本五十六大将が、真珠湾攻撃構想をたてたとき、彼はごく少数の限られた人物にしか腹案をもらしていないのに、どこから流れたものか在日ペルー公使リカルド・リベラ・シュリーベル博士の耳にはいったのだ。1月27日、シュリーベ ル博士は、友人の在日アメリカ大使館一等書記官エドワード・S・クロッカーに、このことを耳うちしたのである。クロッカー書記官の報告で、グルー駐日アメリカ大使は、ただちに米本国の国務省へ、
 『ペルー国公使は、わが大使館員に対して、日米間に紛争が発生した場合、日本はその全装備をあげて真珠湾攻撃の意向である旨、日本人をふくむ多数の情報源から接受した由を告げてきた。ペルー公使は、このような噂は根拠がないと考えたが、しかし、わが大使館員に一応伝えるだけの重要性があるものと認めたものである』
 という電報をうった。そしてそのことを、自分個人の日記にも書きとめておいたのである。


・・・

 ……
この吉川(山口多聞大佐の命令で諜者として真珠湾に潜入した吉川猛夫、当時29歳、秘匿名 森村正)のさぐり出した諜報、わけても、真珠湾攻撃の5日前、12月3日に喜多総領事が東京宛に送った電報には、真珠湾のアメリカ艦隊の動静がはっきり報告されている。これは、6日朝にワシントンで解読されていて、もはや日本の攻撃目標が真珠湾であることも、米首脳部は知っていたが、真珠湾のキンメルにもショート中将にもなんの注意も送らなかったのである。ホノルルの日本総領事館に、外務書記生の仮面をかぶった諜者のいることも知っていたが、FBIにも通告しなかったのだ。それの検挙されることによって、米首脳部の待ち望んでいる日本の攻撃が『不法なる奇襲攻撃』になりそこなうのを恐れたからであった。
 そして、たとえなんの警告をあたえなくとも、真珠湾は軍港だから、哨戒機もあれば重爆機もいる。砲台もあれば軍艦もいる。まあ、被害をうけても、たかだか軍艦の一隻か二隻が沈められることによって、80パーセントにおよぶ米国民の戦争反対を、いっきょに参戦へ切り替えることができたならば、これほど安い代償はない、と、ルーズベルトもハル長官も考えていたのである。



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陸軍中野学校 光機関と「ジフ」(JIF)------------------

 
「特務機関の謀略」山本武利(吉川弘文館)よると、OSS(アメリカ戦略諜報局。CIAの前身)のハーバート・S・リットル中佐は1943年12月30日付発行の光機関ビルマ支部「月報12月号」のマイクロコピー版をイギリス諜報機関より手に入れている。著者はこれは、アメリカ公文書館に保存されている数少ない日本語の光機関関係第1次資料であるという。そして、光機関の謀略の実体解明に活用しているのである。同書の中から、中野学校との関連について触れている部分と自由インド仮政府主席のボースとの関係に関する部分および光機関の評価に関する部分の一部を抜粋する。
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中野学校出身者

 中野学校の資料はアメリカ国立公文書館では不思議と少ない。日本の諜報機関にあれほど関心をもって追跡していたOSS)資料群にも、陸軍のこの諜報員養成所の歴史をまとめたリポートが見当たらない。実際には、リポートがあるけれども、国家秘密にかかわるものとして機密指定されたままであるのかもしれない。
なぜなら中野学校出身者が占領期にアメリカ軍の謀略活動に参加したともいわれているからだ。
 ともかくビルマ工作の
南機関やインドの光機関には、多数の中野学校出身者がいたことはたしかである。

 光機関にいた中野学校出身者の松元泰允によると、宣伝、政治学、外国語、無線のほか軍事訓練を将校は1年余り、下士官は6ヶ月受けた(尋問調査)。南機関の初期に活動した将校10名、下士官14名は全員中野学校出身者であった。かれらが建国ビルマの防諜業務についた。(『その名は南謀略機関』)

 中野学校出身者が作成した資料によれば
光機関の総人員500余名のうち、出身者は133名であった。(『陸軍中野学校』)。かれらは、インパール作戦前後からビルマに目立ち出し、諜報活動に従事した。かれらは当時、比較的若かったので、前線の将校としてスパイ工作などに従事していた。そして作戦終了後は、南方遊撃隊傘下の各特務機関にゲリラ戦士として参加したと考えられる。光機関の機能の変化もこれら人材の参加によって大きく左右されていた。  
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内容充実の光機関月報

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 リットル中佐はこの立派な「月報」を作った光機関についても、OSSやイギリス諜報機関と対等以上の活動をしているとの高い評価の言葉を記している。光機関は破壊・欺瞞・の多彩な方法を駆使し、ビルマ、インドで地下活動を展開している。またその宣伝でも、OSSがやりたくても実現していない「秘密放送局」をつくるなど、組織化された広範な活動を行っている。しかもOSSがもっている数倍の人員や設備を駆使しているとの驚嘆のメモを残した。空挺部隊に驚いた日本軍幹部のような感想である。


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ジフとは?

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したがって、連合軍側は、国民軍やボースを大東亜共栄圏成就のため日本軍の手足となって働くかいらいとしてのイメージを内外に浸透させようとしていた。イギリス軍やOSSの資料をみると、ジフ(JIF)とかジフス(JIFS)という言葉が目につく。OSS資料は
JIFSをJapanese Inspired Fifth Columnists の略号としている。(RG226E154B93F1757)。
ジフとは、日本軍の第5列とか、かいらい勢力として、連合軍側がボースやボース率いる独立連盟や国民軍をきめつけた蔑称である。たとえば、このOSS資料は「ジフは光機関のコマンドであって、軍人や私服もいる。それなのにスバス・チャンドラ・ボースの指揮下で『自由インド仮政府』軍と称している。私服のジフは光機関の将校に直接指揮された工作員にすぎない」と述べている。

黒子役の光機関

 光機関は日本軍とボース、インド独立運動体との橋渡しの役割を演じることになった。ボースの意向に沿って、光機関のリーダー達は独立連盟、国民軍が日本軍のかいらい色を印象づけないための演出に腐心した。実際には、日本軍は岩畔時代と同じくボースを軍事・政治工作の道具として使う意図に変わりはなかったが、誇り高いボースを傷つけない配慮から黒子の存在として、努めて表面にでないようにした。
 ボースの活動は光機関の支援を受けて、スムースに展開しだした。独立連盟と国民軍も、大物指導者の下でインド独立に向け両輪となって回転しだした。43年7月4日のシンガポールの独立連盟の東亜代表者会議で、自由インド仮政府擁立が議決され、主席にボースが選ばれた。日本政府は10月24日、自由インド仮政府を承認した。仮政府は翌日、英米に宣戦布告した。10月31日、ボースは大東亜会議に出席した際、日本軍が占領していたベンガル湾のアンダマン、ニコバル諸島の仮政府への譲渡を要請した。そして政府、大本営は11月6日、その要請を承諾する決定を下した。
 このようなボースの活発な活動と短期間での成果は光機関や日本軍の援助なくして不可能であった。そしてこの経過を冷徹に観察したイギリス側は、ボースや独立連盟、国民軍、さらには新設のインド仮政府をジフと揶揄したのである。


・・・以下略

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現地人軽視のしっぺ返し
 
 日本軍の司令官はインパール作戦で5万人以上の兵士を犬死にさせた。この平然ともいえる兵士の見殺し作戦は投降下級将校の文章が物語っている
(高級指揮官の欺瞞と裏切りに満ちた冷酷な命令を告発する手記が、17ページにわたって掲載されている)。この作戦は太平洋戦争の象徴的な戦いだったといえなくもない。これは軍や光機関の国民軍や現地人工作員扱いにも見られた。しかもイギリス将校に指摘されたように、日本軍は国民軍の扱いにおいても、前線での工作活動においても、原住民の性格や事情を無視しがちであった。そのため、かれらの本当の協力をえられなかった。それどころか傲慢な対応は戦局悪化で裏目に出た。日本側工作員だった原住民は平然と連合軍に寝返った。手塩にかけて育てたつもりだったビルマ軍にも見捨てられた。またインドへのスパイ工作も下手な鉄砲も数撃てば当たるという人海戦術をとったため、投入されるインド人スパイの心の不安感を解消するシステムの開発まで考えが及ばなかった。使い捨てのつもりで養成したスパイ工作員や原住民、さらにはかいらい勢力に、日本軍も光機関も最後は捨てられた。


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