-NO91~98-

-------------朝鮮戦争 原爆使用論 第1回ブレアハウス会議------------

 1950年6月25日(日曜日)早朝午前4時、朝鮮戦争が始まった。ワシントン時間(米東部夏時間)6月24日午後3時ごろのことである。翌日の米東部夏時間6月25日午後2時には国連安全保障理事会が開かれ「即時停戦」決議を採択している。朝鮮戦争開始からおよそ23時間後のことである。この素早い対応は、ソ連が安全保障理事会の中国代表の問題をめぐって、安全保障理事会をボイコットしていたため可能であったといわれている。そして、同日朝鮮戦争に対する米国の政策を決定に極めて重要な役割を果たした第1回ベレアハウス会議が開かれた。出席者は大統領以下14人である。以下
「朝鮮戦争の六日間<国連安保理と舞台裏>」瀬田宏(六興出版)からの抜粋である。
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                           第1回ブレアハウス会議

出席者
 トルーマン大統領
 アチソン国務長官
 ジョンソン国防長官
 フランシス・P・マシューズ海軍長官
 フランク・ペース陸軍長官
 トーマス・K・フィンタレー空軍長官
 ブラッドレー統合参謀本部議長
 フォレスト・P・シャーマン海軍作戦部長
 
ホイト・S・バンデンバーグ空軍参謀総長
 J・ロートン・コリンズ陸軍参謀総長
 ジェームス・ウェッブ国務次官
 ラスク極東担当国務次官補
 ヒッカーソン国連担当国務次官補
 フィリップ・ジェサップ無任所大使

 夕食が終わると、トルーマン大統領はアチソン国務長官に会議を始めるよう求めた。アチソン長官は、大統領が考慮すべきさまざまな問題点を提示し、要約して説明した
。……

・・・

 しかし、次に発言したバンデンバーグ空軍参謀総長は、仮定の話ではあったが、原爆の使用を取り上げている。バンデンバーグ参謀総長は、北朝鮮軍の進撃を食い止めなければならないという点に同意するが、ソ連が戦闘に加わらないとの想定を、米軍の行動の基礎とすべきではないと主張した。バンデンバーグ参謀総長によると、米空軍は、北朝鮮軍だけを相手にした場合には、北朝鮮軍の戦車を破壊することができる。しかし、ソ連のジェット戦闘機が行動を起こした場合には、話が違ってくるというのである。ソ連機はずっと近くの基地から出動することになり、こうしたことから、台湾をはじめ、すべての地点が相互に関連を持ってくる。台湾はその意味で重要だとの意見を、バンデンバーグ参謀総長は明らかにした。
 トルーマン大統領は、極東におけるソ連の空軍力について質問し、バンデンバーグ参謀総長は、相当数のソ連ジェット機が上海に配備されていること、その他の情報を提供した。トルーマン大統領が、極東のソ連空軍基地を破壊することが可能であるか尋ねたのに対し、
バンデンバーグ参謀総長は時間がかかると答え、原爆を使用すればできるだろうと語った。

・・・

 ウェッブ国務次官、ジェサップ無任所大使、ラスク、ヒッカーソン両国務次官補も発言したが、アチソン国務長官の言明を補足説明する にとどまった。
 ここで、トルーマン大統領は自らの決定を確認し、以下の命令を下すことを明らかにした。
 ①マッカーサー元帥は韓国に対し、提案された補給物資を送ること。
 ②マッカーサー元帥は韓国に調査団を派遣すること。 
 ③米艦隊の(中で)指示された部隊を日本に派遣すること。

 
④空軍は、極東のソ連空軍基地を一掃する計画を準備すること。
 ⑤ソ連が次に行動を起こす可能性のある場所について、慎重な計算を行うこと。国務、国防両省によって、完全な調査を行うこと。
 トルーマン大統領は、われわれは専ら国連のために行動しつつあることを強調、国連の命令(決議)が”愚弄”されないうちは、われわ れは新たな行動を差し控えるとの方針を示した。
……


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朝鮮戦争 日赤看護婦に「赤紙」招集令状--------------

 朝鮮戦争当時、日本はGHQの管理下にあった。しかしながら、すでに日本国憲法が施行されていた(日本国憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行)。したがって、さまざまな戦争協力が軍事機密とされたり、占領軍命令として法の外におかれた。
 そんな日本の戦争協力の一つに医療協力があった。日赤の看護婦が動員されたのである。確かに日赤は戦時に傷病者を救護するためにつくられ、日赤の看護学校を卒業した看護婦たちは、当初日本赤十字社への奉仕義務があった。しかし、朝鮮戦争当時にはすでに応召の義務はGHQ命令で廃止されていたという。にもかかわらず、応召を命ぜられたのである。それも、戦時中同様、赤紙の召集令状によって。
「史実で語る朝鮮戦争協力の全容」山崎静雄(本の泉社)より、日赤看護婦の動員に関わる部分を抜粋する。
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                      勤務中の看護婦を急派した福岡県支部

 朝鮮の前線では戦闘の激化で、米軍および「国連軍」兵士にぼう大な傷病兵が続出し、続々と日本に後送されてくるようになると、日本に駐留する米軍およびイギリスなどの連合軍はその対応に追われるようになりました。占領支配のために日本に駐留していた米軍あるいはイギリス連邦軍などは基本的には自前の病院をもっていました。といっても、日本の施設を接収して使用していた病院ですが、そこには自分たちの医師、看護婦を配置していました。……

・・・

   「25年(1950年)の12月5日、県労働部の職業安定課から、国連軍第141兵站病院(福岡市外西戸崎)へ赤十字
  看護婦派遣方 の要請があった。本社へ指示を請うとともに、在郷看護婦招集準備をした。ところが翌6日午後になる
  と派遣要請は急かつ切実なものであるので、本社指示を待たずに招集打電する。応急措置として、支部病院勤務中
  の看護婦を急派する。動乱の韓国と基地福岡の空路を飛び交う国連軍飛行機の爆音が、絶え間なく福岡の夜空を揺
  るがしていた。
   翌7日は応召者がかけつけ、そのうち6人が即日勤務につく。これに支部診療所、博多駅救護所勤務中の3人を加え
  9人を同日中に派遣できた。8日からさらに6人を追加する一方、熊本と佐賀の両支部に看護婦派遣の準備を連絡し
  た。病院側の要請は『速やかに100名、6日現在不足50名』とのこと、急速に増大の見込みであった。」

・・・以下略
                             (日本赤十字社福岡県支部1980年3月発行『赤十字福岡九十年史』)

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                      生きていた赤紙

 日本赤十字社佐賀県支部が発行した『百年のあゆみ』は、動員が日赤本社の指示によるものであったことを記述するとともに、毎日新聞社編「激動20年 佐賀県の戦後史」を引用する形をとりながらも、この日赤看護婦の戦争協力動員の指示が「生きていた赤紙」だったこと、日赤への義理からも拒否できなかったことなどを正直にのべています。……

生きていた赤紙

   「6月25日、朝鮮動乱が起こり国連軍が出動した。あれから6ヶ月、中共軍の参戦で戦況は楽観できなくなった。
  いま、国連軍側の病院に収容された兵士の救護班として、出動するみなさんは、人類博愛の精神を充分発揮して
  ほしい」
 佐賀市役所会議室で、野口能敬市長(故人)は濃紺のりりしい制服を着た16人の日赤看護婦たちを励ました。それはちょうど歴史の針が5年逆回転したような風景だった。彼女たちの服装は、あのころとちっともかわらなかった。飯ごうや水筒まで持っていた。救護班を代表した婦長、久保セツ(32)(一部略)の答辞も威勢のいいものだった。
  「命を受けたからには、博愛の精神を忘れず、日本人の真価をを発揮してきます」
 式場には、ちょっと悲壮な空気が流れた。戦争放棄の平和憲法は、3年前に施行されたばかり。看護学校を卒業して、12年間、日赤への奉仕の義務があるとはいえ、平和がよみがえったいま、よその国の戦争にまで駆り立てられるとは、みんな思っていなかったのだ。
  「福岡の陸軍病院らしい。だが、そこだけですむか。朝鮮へ送り出される心配はないのか。赤十字はそこまで手を
  伸ばさなければならないのか。相手は憲法より強い占領軍だ」
 16人の看護婦たちの胸に、不安がいっぱいあった。博愛という美しいことばは、だれかに利用されている気がしてならなかった。
 この16人のナースは、日赤佐賀支部に登録されていた国立佐賀病院、国立筑紫病院をはじめ学校勤務や在宅の看護婦たちだった。
 25年12月11日、午前11時から始まる予定の出発式は2時間も遅れた。来賓の大浜副知事らは、すっかりしびれを切らした。一個班(戦争編成)21人集まる予定が、さっぱりそろわなかったのだ。なんとなくあと味の悪い出発式は終わった。大義名分はりっぱなはずなのに、佐賀駅の見送りは地味なものだった。何かこそこそしている日赤関係者の動きも妙だった。それには理由があった。
出発直前になって、日赤副社長名で「看護婦派遣の件、外部に発表せざるよう、とくに注意されたい」との暗号電報が支部に入っていたのだった。新聞社や放送局の記者、カメラマンも呼んで盛大に壮行を祝うつもりだった支部の関係者があわてたのもむりもない。祝福さるべき16人の”白衣の天使”の壮途は、一瞬、日陰者の脱出みたいにみじめなものになった。……

 日赤佐賀支部に救護班派遣の要請があったのは、12月8日午後8時だった。3日後には送り出せという。日赤本社は初め国連軍病院からという表現を使っていたが、事実は日本を占領している連合軍総司令部の命令だった。支部の書だなに残っていた戦争中の赤紙(召集令状)をだれかが引っ張り出してきた。登録名簿から、要請どおり21人の看護婦を拾い上げ、召集令状に氏名を書き込んだ。「10日午後1時支部に出頭せよ」別紙には「連合軍総司令部命令に基づき、本社の指示により、召集令状によって応召せしむることになりました。すみやかに準備するとともに、令状の受領書返送相成りたし」
 もう、
昔話とおもいこんでいた赤紙は生きていた。21枚の召集令状は日赤看護婦の自宅に送られた。勤務先の学校、国立病院、市民課には「救護班編成につき、看護婦応召たのむ。あとふみ」の至急電が打たれた。

・・・

 日赤佐賀支部が記念誌にこの毎日新聞の記事を詳細に掲載した背景に戦争協力への自戒の念があったと思いたいのですが、それは別として、掲載された叙述は、①日赤看護婦の動員は占領軍の命令によるものであったこと、②日赤本社が占領軍の代行として召集令状を送りつけたこと、③赤紙を受け取った看護婦たちは泣いて反対したが拒否できなかったこと、④看護婦たちは恐怖のもとで兵士の手当に従事したこと、⑤国立病院や自治体病院、学校に勤務する看護婦、在宅の看護婦が日赤への奉仕義務をたてに動員対象にされたこと、⑥看護婦派遣の事実や国連軍病院での活動を機密とし、協力した看護婦に口外禁止の通達までおこなっていたこと、⑦戦争している一方の軍のための看護婦派遣に批判的考えがあったこと、など重要な事実をあきらかにしている点で非常に貴重な記録です。……

・・・以下略


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朝鮮戦争 海上保安庁艦艇の機雷掃海活動--------------

 朝鮮戦争当時日本はGHQの管理下にあった。しかしながら、すでに日本国憲法が施行されていた(日本国憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行)。したがって、さまざまな戦争協力が軍事機密とされたり、占領軍命令として法の外におかれた。それは、火薬運送規定適用外回答や「日本掃海艇ヲ朝鮮掃海ニ使用スル指令」に象徴される。
「史実で語る朝鮮戦争協力の全容」山崎静雄(本の泉社)より抜粋する。
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                               火薬運送規定適用外回答

 火薬類の運送については1946年の第三鉄道輸送司令部業務第28号が、「火薬類は標記トン数の三分の二を超えて積載することはできまい」と規定していました。朝鮮戦争勃発までは「日本における火薬類運送規定に抵触するような運送も行われなかった」(『鉄道終戦処理史』)といいます。ところが、朝鮮戦争勃発で大型爆弾の大量輸送が開始されるようになったために、当然、この火薬類運送規をどうするかが問題になりました。在日兵站司令部は全面改定で大型爆弾が輸送できるようにせよと圧力をかけてきました。『鉄道終戦処理史』はこの問題をつぎのようにのべています。
  「(1)火薬類は有がい車(筆者注 屋根つき貨車)使用を規定されているが、大型爆弾は有がい車に積むことは
     困難である。
   (2)一箇列車の連結軸数の制限があるがこれによるときは迅速大量の輸送が阻害される。
   (3)積載制限の規定があるが、これによれば使用車の増加を来たし輸送力の不足を生じる。
  等の理由から軍側はこれら制限の全面解除の要求をしてきた。然し、この制限は運輸省令によるもので、国鉄として直ちにこれに応ずることはできないが、占領軍貨物の特殊性と緊迫した事情を併せ考え、又、軍は国内法規の適用されない占領軍であること等を考慮して、主務大臣たる運輸大臣にその伺いを立てた。」
 日本国有鉄道総裁は50年11月17日に運輸大臣に対してつぎのような伺状を出しました。
  「連合軍の輸送命令による火薬類(ムーブメントオーダーによるもの)の運送に対しては、火薬類運送規則(昭和25年
   運輸省令第86号)の適用がないものとして取扱って差し支えないか右お伺いいたします。」
 運輸省は同日、運輸省鉄道監督局長名でつぎの回答書を出しました。
  「昭和25年11月17日営貨第465号により首題の件照会については
火薬類運送規則(昭和25年運輸省令第86号)
   によらなくてもさしつかえないものと認められるにつき右回答します


・・・以下略

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                     朝鮮上陸を保障した機雷掃海

 日本は、全面占領下という特別な状況の下でしたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争で、マッカーサー連合軍総司令官の命令 によって、海上保安庁保有の掃海艦艇が朝鮮半島に出動し、一隻が触雷・沈没し乗員一人が死亡、重軽傷者18名をだした悲惨な体験をもっています。50年10月12日から12月12日までの間に、延べ46隻の掃海艦艇と1200名の海上保安庁職員(旧海軍軍人)が、 元山(東岸)、海州、任川、郡山、鎮南浦(以上西岸)で、327キロメートルの水路と607平方キロメートルの泊地を掃海し、機雷27個を処分して、米軍の朝鮮上陸作戦成功に決定的な役割を果たしました。
 朝鮮戦線に日本の掃海艇を出動させた当時の初代海上保安庁長官大久保武雄氏が書いた『海鳴りの日々』と、E・M・フィラー米海軍退役少将が称賛したジェームズ・A・フィールド二世著『朝鮮 米海軍作戦史』は、日本掃海艇による機雷掃海作業が協力などというものではなく、まさに
戦争行為そのものであったことを語っています。

・・・

 こうして、米軍の朝鮮半島以上陸、とくに、北朝鮮のふところともいえる元山からの上陸作戦計画にとって、機雷掃海が不可欠の重要課題となったのです。マッカーサー元帥は西岸の仁川上陸作戦の成功につづいて、東岸の元山からの上陸作戦を敢行することを決定していました。9月27日、米統合参謀本部は元山上陸実施日を10月2日とすることを承認しました。問題は機雷です。機雷は上陸作戦の障害となりました。そこで米軍が直面した決定的な困難は山沖の東岸水域から元山港内の上陸地点までの水域の機雷掃海を実施する部隊の確保です。

 
しかし、当時、米軍には機雷掃海部隊は微弱なものになっていました。……


・・・

 ……
しかし、アメリカの掃海艇だけでは短期間の機雷掃海は不可能です。そこで、日本の掃海艇を動員することになったのです。
 元山上陸作戦は12月2日と決定されました。しかし、米軍の掃海作業は掃海艇の数が少ないこともあって、大幅に遅れる状況にありま した。そこで、マッカーサー連合軍最高司令官は日本の掃海艦艇の出動を命じました。以下は海上保安庁の初代長官であった大久保武雄氏が書いた『海鳴りの日々』に書かれていることです。
   「朝鮮戦争勃発に際し、北朝鮮軍は国連軍の上陸を阻止するため、多数のソ連製機雷を主要港に敷設していた。
   昭和25年9月、国連 軍は仁川につづいて元山上陸作戦を企図したが、当時極東における国連軍の掃海兵力が
   充分でなく、元山沖の敷設機雷掃海に手間取り上陸作戦が遅延していた。早く上陸作戦を行うためには、より多く
   の掃海部隊がぜひ必要であり、元山以外の主要港の掃海にも必要であった。掃海の熟練した技能をもち、かつす
   ぐ稼働できる部隊としては、当時第二次世界大戦終結いらい、日本および米軍の敷設した機雷を、掃海しつづけて
   いる占領下の日本の海上保安庁掃海隊しかなかった」
 50年10月2日、米軍極東海軍アーレイ・バーク少将は大久保長官を司令部に呼び、掃海艇の出動を命じました。その日のうちに、大 久保長官は「『米軍の指令により朝鮮海域の掃海を実施することになりたるにつき、下記により船艇を至急門司に集結せしめよ』との命令を発しました。『呉基地の駆特5隻、哨特1隻、母船1隻、下関基地の哨特1隻、大阪基地の駆特3隻、計掃海艇10隻、母船1隻を門司
に集結、6日(金)朝、釜山に向け出港させること』とし、また『小樽基地の哨特2隻、名古屋基地の駆特2隻、呉基地の駆特3隻、哨特
1隻、新潟基地の駆特1隻、計9隻を引きつづきすみやかに門司を出発釜山にむかわしめること』とした」のです。

 指令文書

 米極東海軍司令官発
  日本政府運輸大臣宛 1950年10月4日
  日本掃海艇ヲ朝鮮掃海ニ使用スル指令
1,日本政府ハ、20隻ノ掃海船、1隻ノ試航船、4隻ノ巡視船ヲ可及的速ヤカニ門司ニ集結セシムベシ、ナオコレラ船艇
  ノ掃海活動ニツイテハ今後指令ス。
2、右ノ掃海艇20隻ニ東京湾掃海中ノMS12,13、17ナラビニ佐世保湾掃海中ノMS22,25,26ハ含マレナイ。
 東京湾と佐世保の掃海作業に従事していた掃海艇を朝鮮動員からはずしたのは、両港湾が連合軍にとって重要であり、北朝鮮による機雷敷設から防衛するための措置でした。


----------松代大本営 巨大地下壕 複合移転 なぜ松代----------

 「大本営」は、戦争や事変の時に設置される軍の最高統帥機関で、大元帥である天皇が統帥した。すなわち大日本帝国陸軍と海軍を配下に置く天皇直属の最高統帥機関なのである。日本の敗色が濃厚となり、「絶対国防圏」が風前の灯となりつつあった太平洋戦争末期、その大本営の移転が計画され極秘裏に工事が進められた。その地が長野県の松代町を含む地域であったため、戦後、「松代大本営」と呼ばれるようになった。「松代団本営」は、長野市松代町の三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に善光寺平一帯にそれぞれ独立してつ作られた巨大地下壕などの大軍事施設群のことである。
 「松代大本営」に関わる事実を、いくつかの書物から抜粋する。先ず初めに、従来の説にはいくつかの誤謬が含まれていると指摘してい
る『隠された巨大地下壕「松代大本営」の真実』日垣隆(講談社現代新書)からである。
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複合移転
 では、松代大本営という呼称はどうであろうか。すでに定着したネーミングに、ここでけちをつけようというのではない。それはもっと 本質的な問としてある。
 松代の地下壕は、政府諸機関や日本放送協会などの一部移転としての
遷都計画、軍の中枢機関移動としての大本営要塞計画、これにとも なう通信網設置計画、宮城の緊急移築としての離宮計画、皇位継承者の疎開計画、そして三種の神器の防御計画、これらが複合していた点に注目したい。
 したがって「松代大本営」という呼称は、ともすれば一面しか見ない危険性が内在する。大戦末期に陸軍省の主導によって進められた工事ではあったけれども、首相も、運輸通信省、内務省、軍需省、のちには宮中関係者も、大元帥も、通信施設に関しては海軍省も、それぞれの思惑から松代への移転に合流した。あまりに隔たった思惑の中で、しかし一糸乱れず合意していたのはただ一点、明治以来の国体を護持することだった。


信州文化祭(「松代大本営」という名称のはじめ)
 「松代大本営」と最初に明記した新聞は、米国流フォト紙としてGHQの肝煎りで誕生し人気を得ていた日刊サン写真新聞、53年11月7日づけであった。長野県上田支局が発信し、全国に向けてその第一面全部を飾っている。松代大本営が「信州文化祭にちなんではじめて一般公開された」とある。
 信州文化祭は、長野県、県教育委員会、松代町の主催により53年11月3日から8日間の日程で開かれた。当初は単に、「文武学校百年祭」および「佐久間象山90年祭」として企画されたのだが、米軍占領下からの独立一周年であったことから話が大きくなり、総裁に林虎雄長野県知事が就任し、日本電信電話公社などが後援に馳せ参じることになった。こうして11種ものイベントが立案され、その筆頭に「松代大本営予定地の一般公開」が企画されたのである。

・・・

 信州文化祭では、最初は単なる「大本営予定地の公開」とされていたものが、企画の練りあげ段階で、
その名に松代を冠したらどうかと若い職員が提案し、そのまま町長の決裁を得る(松代町『当直日誌』)。松代町が「松代大本営」の名をデビューさせたのは、だから53 年11月3日、全国に報じられたのは11月7日が最初で、翌日から他紙も追いかけた。
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 なぜ松代が移転先に選ばれたのかということについて,、
「ガイドブック 松代大本営」松代大本営の保存をすすめる会編(新日本出版社 )は下記のようにまとめている。
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なぜ松代を選んだか
 それでは松代はどういう理由で大本営の適地だったのだろうか。発案者はその理由をいくつか挙げている。
1)東京から離れていて本州のもっとも幅広い地帯であり、近くに飛行場がある。
2)地質的に硬い岩盤で抗弾力に富み、10トン爆弾にも耐える。
3)山に囲まれた小盆地で、地下施設建設の面積が確保できる。
4)長野県は比較的労働力が豊富である。
5)長野県は人情が純朴で(防諜上適する)地域は天皇の移動にふさわしい風格があり、信州は神州に通ずる。
 これらのうち4)の労働力は必ずしも豊富ではなく、したがって多くの朝鮮人の労働力に頼ることになったし、5)はきわめて精神主義の神頼みの感が強い。
 大本営の建設は絶対秘密で、陸軍省の一部と東部軍の数人が知るだけであった。「松代倉庫」よいう工事名称で、地元民も、大きな防空壕ぐらいにしか思っていなかった。
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 上記と関連して、
「松代大本営歴史の証言」青木孝寿(新日本出版)より、松代を適地とした関係者の証言を一部抜粋する。
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大本営の適地を探す

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 そのとき冨永次官から、八王子案は東京から近いが狭くてだめだから、信州あたりに大本営の適地を探せという極秘の特命が出た。
井田少佐は、”5月初旬か中旬か時期は覚えていないが”としているが、信州に直行する。このとき井田少佐は軍事課長・西浦進にも内密で、適当な出張理由を考え、兵務局防衛課の黒崎貞朗少佐建築課の鎌田隆男建技中佐に同行を求めた。黒崎少佐は、陸士同期生の親友で、1943年ガダルカナルから本省に転じ、ガダルカナルの陥ちたその秋ごろ、作戦上皇居を安全な場所へ移さねばならないという話をしたことがあるように思う、と延べている。(『昭和史の天皇』3)
 このことについて、松代大本営工事の最高責任者だった加藤幸夫建技少佐(建設隊長)は冨永次官が「信州あたり」とした理由のなかに、防諜上の問題があったのではないかと私たちに語った。加藤少佐は、八王子・浅川あたりでは情報が洩れやすく、その例として加藤少佐の動向も市民やマスコミなどに知られていたという。加藤少佐は松代大本営(松代倉庫)と東部軍浅川倉庫の両方の建設隊長を兼ねていたのである。
 黒崎少佐は、井田少佐から信州行きを打ち明けられたときも驚かなかった。彼は国内防衛や戒厳主任参謀などとして、将来大本営移転にかかわることも考えられ、また憲兵隊の人事行政権も持っていた人物なので、井田少佐にとっても好都合と考えられた。もう一人、鎌田隆男建技中佐は建築の専門家であり、やはりどうしても必要であった。
 3人は背広姿で新宿から中央線に乗り、松本で下車し、松本の憲兵隊で代燃車(ガソリンに代わる薪などを燃料とした車)を借り、県内 を伊那ー諏訪盆地ー塩尻ー飯田ー松本ー上高地ー小諸ー善光寺と回ったが、地形、地質、広狭などからみて、適所がない(林えいだい『松代地下大本営』の井田証言)。一週間の予定がさらに3日を要してしまったとき、気を取りなおして松代(盆地)へ入り、最初に目にしたのが象山だった。井田少佐は言う。
 「松代盆地にはいって、わたしたちの目に最初に飛び込んだのは象山(注・松代町の南西)のガッシリした山容でした。山はだから大きな岩が露出している。いいぞ、と思って鎌田さんをふりかえると、同感だったらしく『これはいい』と声をあげました。それに象山から東へ連なる山々のかっこうもいい。5万分の1(注・参謀本部作製の地図)を取りだして山の名を調べてみたら、それはノロシ山、皆神山とある。変なことをかつぐようだが、皆神山というこの名も気に入ったのです。それに山合いには、建設工事に使うにふさわしいかなりの広さの平地もある。
わたしは一目みて、この松代盆地にしよう、と考えました。さっそく、頭の中で配置プランを考えてみた(後略)」 
(『昭和史の天皇』3)これが井田少佐たち3人が求めてい松代に来て、彼らが適地だと快哉をさけんだところの印象であった。
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 松代大本営の下記イ・ロ・ハ各号の総延長は約13キロメートル、面積は後楽園球場のおよそ4倍の巨大地下壕だというが、9ヶ月 ほどの期間で、80%近くまで完成させる苛酷な突貫工事であった。
「松代大本営歴史の証言」青木孝寿(新日本出版)と「ガイドブック 松代大本営」松代大本営の保存をすすめる会編(新日本出版社)より、それぞれ表の一部を取捨し抜粋する。
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松代大本営の倉庫名(工事名)・場所・用途・総延長ほか


    倉庫名  場所        用途            最初の案   実際の掘削   便所の数
 1 イ号倉庫 松代町象山    政府・N.H.K・中央電話局 7500m   5900m    4000名に応ずる数
 2 ロ号倉庫 西条村舞鶴山  大本営            2600m   2600m     500名に応ずる数
 3 ハ号倉庫 豊栄村皆神山  食料庫            2900m   1900m    1000名に応ずる数
 4 ニ号倉庫 須坂町鎌田山  送信施設
 5 ホ号倉庫 須坂町鎌田山  送信施設
 6 ヘ号倉庫 須坂町臥竜山  送信施設
 7 ト号倉庫 清野村妻女山  受信施設
 8 チ号倉庫 善白鉄道トンネル 皇太子・皇太后
 9 リ号倉庫 雨宮県村薬師山 印刷局
10 仮皇居  西条村筒井    天皇・皇后・宮内省
11 賢所   西条村弘法山   賢所
12 海軍壕  安茂里村小市  海軍省・軍令部


---------------松代大本営 移転直訴 井田少佐の証言--------------

 大本営の移転を陸軍次官冨永恭次中将に直訴したのは、陸軍軍務局軍事課の井田正孝少佐である。彼は陸軍省の組織を通すことをしなかった。そして、冨永次官の特命で極秘裏に大本営の移転地を探し回り、陸軍省建築課の鎌田中佐や憲兵関係の黒崎少佐とともに移転地を松代に決定したのも彼である(彼は当初候補地として八王子・浅川方面を考えていたが)。その井田正孝少佐の、いかにも血気盛んで無謀ともいえる陸軍将校らしい言動の証言を「松代地下大本営-証言が明かす朝鮮人強制労働の記録」林えいだい(明石書店)よりいくつか抜粋する。
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2・26事件

 2・26事件の時は高等科に在学していた。
あの決起した将校たちとは非常に仲が良く、政治改革の議論をしたことはあるが、その考え方が適当でないということで離反した。
 離反する者のほうが多かった。決起したことを知って、ついにやったかとショックは大きかった。それに反対したぼくたちだけが分かれたんですから、もしぼくも賛同していたら彼らと決起している。
 ぼくたちは東大教授で国史の平泉先生
(平泉澄<ひらいずみ きよし>[1895年ー1984年}、歴史学者、東京帝国大学教授、白山神社宮司)の教えを受けるため、青々塾というものをつくって、東大の学生とか一般の人とか軍人など、志を同じくするものが集まって教育を受けていた。
 平泉先生の門下として、日本精神を学んでいた。それで社会の仕組みなどがわかった、ぼくたちは2・26事件の将校たちと意見が合わなくなって分かれた。
 2・26事件が起こったとき、これはただごとではない、あの連中のやったことは決起ではなく反逆だと思った。天皇に対する反逆であるから討伐しなければならないという主旨で、ぼくたちは平泉先生を先頭に立て、彼らを説得に行こうと話がまとまって、いよいよ今夜決行という時に政府の腹が決まったんだ。
 それまでは反乱軍なのか決起なのかよくわからなかった。陸軍省としても迷っていたので、ぼくたちは反乱に決まっているではないか、政府も迷ってまごまごしているので、説得に行こうとね。その場合、彼らがぼくたちの説得に応じなければ、多数に無勢でやられるに決まっている。それでもやろうと27日夜に決めて、28日に彼らのところに乗り込むつもりだった。
 ぼく自身、信念というか血の気が多かったですからね。もし政府の決定が遅れていたら、平泉先生を先頭に行って切り死にしたかもしれなかった。政府が彼らを反乱軍であると判断を下した。もし説得に行けば、彼らも覚悟はしているのだし、友人といえどもトラブルは起こっていたでしょう。気は立っているし、彼らは武装した軍隊ですからね。
……
(以下略)
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陸軍次官へ直訴(組織改革案)

 ビルマ戦線から陸軍省に帰って見ていると、陸軍と海軍の仲がとても悪くてね。それじゃ戦争の遂行はできないと思った。鋼材とか石油などの物資の取り合いなど、軍需物資の配分について、朝から晩まで喧嘩ばかりしているんだ。最後は両者で折半、それぞれ真剣に考えると、喧嘩になるのは当たり前でね。
 組織が悪いんじゃなくて、陸軍と海軍が喧嘩をするようにできているんだから。天皇陛下が全部見るといっても、参謀本部と軍全部を統轄する人は誰もいない。この組織を変えないと、戦争はできないと思った。 
 陸軍の近くに次官の官舎があり、日曜日の昼頃、ぼくは軍服で冨永さんに会いにいった。
 初対面だったが、いきなり玄関で面会を求めた。名前をいえば、ビルマから新しく転任した井田少佐だとわかる。
 冨永次官は和服で応対した。
 先ず口頭でぼくの意見を述べて改革案を書いた文書を差し出した。
 陸軍と海軍が一緒になって協力しなければ、連合軍相手に戦争は不可能だと進言した。
 これをやれるのは東条首相しかいない。もし東条さんでもできない場合は、首相の職を辞してもらいたいと意見具申した。ぼく自身は見るに見かねての意見具申だから、飛ばされるのは覚悟の上だった。次官に意見具申というのは、当時としては切腹ものだった。
 陸軍内部で今までいろいろ改革意見を出した者はほとんど飛ばされている。
 冨永次官は、しばらくぼくの文書を読んでいた。
 「お前のいうことはその通りだ。実はわしも心配なんだ。今度陸軍省内部の会議があるから、そこで持論を述べてくれないか」
 ぼく自身が考えている改革案を、全員の前で提案しろといった。その会議のメンバーというは、陸軍省、参謀本部、陸軍総監部の課長以上で、月一回の定例会を持っていた。ぼくはもう飛ばされるのを覚悟で冨永次官を訪たのに、逆に励まされて恐縮してしまった。
 将軍や偉い人の前で改革案をやれというから、すっかり喜んじゃってね。
 みんなが集まっているところで、軍事課の一少佐が改革案を示すことは前代未聞のこと、みんなは驚くというよりあっけにとられとった。
 陸軍と海軍が手を合わせて一緒にやれないなら、この戦争はただちに止めてもらいたい。東条首相の責任においてもそれができないなら、職を辞して責任を取ってもらいたいと、冨永次官に話したと同じことを主張した。あの当時、東条首相といえば、総理、陸軍大臣、参謀総長のすべての権限を一手に握って、飛ぶ鳥も落とす勢いだからな。30分間演説をぶった。
 みんな腹の中で思っているが、決して口に出さない。それをぼくがいったから、みんな喜んでしまった。少佐の分際で、考えてみると若気のいたりだった。
……
(以下略)
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クーデター計画

 そこで陸軍としては、御前会議のようすを知って、これでは国体は護持できないと確信を深めた。
何とか兵力を使って、クーデターを決行して、善処しなければならないというので、陸軍大臣にまず意見具申をすることになった。
 13日の夜のこと、荒尾軍事課長と軍事課の竹下中佐、予算班長の稲葉中佐とぼく、内政班の畑中中佐、椎崎中佐が、陸軍大臣にクーデターの実行について、大臣室で詰め寄った。
 その時大臣は即答しなかった。
 「もうしばらく考えさせろ。明日の朝返事をする」
 14日の朝になって、陸軍大臣が参謀総長に相談した。梅津参謀総長だった。彼はそれはいかん、クーデターは絶対によくないと反対した。結局、陸軍大臣は参謀総長の反対にあった、クーデターの決行を取り止めることにした。参謀総長がノーといえば、陸軍の考え方が統一できていないことで、強行するわけにいかないんだ。
 その話はぼくには直接にはないけど、荒尾軍事課長を通じて知らされた。結局、クーデターは一応中止することになった。……
(以下略)


------------松代大本営 吉田建技大尉の証言と朝鮮人労務者------------

 戦時中の証言については、自分にとって不都合なことは過小評価したり隠そうとし、都合のよいことは過大評価したり、大げさに証言する可能性を、常に頭において理解する必要があると考える。また、場面によっては、戦争による緊張状態や混乱状態の中で、間違った解釈をしたり、記憶違いがおきたり、単なる思いこみであったりすることも「あり得る」と考えなければならない。さらに、意図的な責任転嫁や歪曲などもあるであろう。したがって、客観的な事実をつかむためには、いろいろな立場の人たちの証言に当たる必要があると思う。そうしたことを踏まえて、
「松代地下大本営-証言が明かす朝鮮人強制労働の記録」林えいだい(明石書店)から抜粋する。(吉田建技大尉の証言にも、異なる証言があるが、様々な点で貴重な証言である)
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                  吉田栄一 元東部軍経理部建技大尉

防諜

 特に私に命令されたことは
地下壕工事が秘密工事であること、それをわからないようにやれといわれました。
 あの当時、あれだけの大工事で、大勢の労務者、厖大な資材、ダイナマイトの爆発音、それだけでもまともな工事じゃないことは、誰だってわかりますよ。
 私たちは直接工事をしないで、運輸通信省に委託していた。そこ
西松組に請け負わせ、さらに下請けに出したんです。

・・・
 
 最初、飯場工事を始めたのは、昭和19年9月20日前後です。その後からいよいよ工事に入ったのですよ。その前に、陸軍省の3人が現地調査をして、そこに軍属とか事務屋さんがいて、役場と交渉して土地を買収して、そこに縄を張って桑の木を切っているところに、われわれが行って建物を建てた。11月11日に第1回目の発破をかける予定なので、もう急がなくてはならない。1万数千人の労務者を入れるための建物だから突貫工事で大変でした。(別のところでは、「全体の朝鮮人労務者は7000人で、その家族を入れると1万人以上はいたでしょう」とある)
 全体で410棟、3ヵ所に建てました。徴用工の大工とか勤報隊を100人のところを150人もらったので、予想外に早く建物ができました。2ヶ月の予定が、45日でできあがりました。そこへ朝鮮人労務者がどっと入ってきてくれて、11月11日に発破がかけられたんです。 

・・・

 私は東京に帰ると空襲が激しくなったので、高射砲陣地をつくる計画を立てました。私は陸軍省の本部にいたから、作業中隊を督励したり、請負師を使ってこれも突貫工事でね。
 帝都を守る高射砲陣地ですよ。
 その作業を現地で指揮していると、東大の先輩から陸軍省に呼ばれました。
 「お前、松代のことをよく知っているから、すぐに松代にいってくれないか」
と いわれました。
 その時、はじめて陛下がお見えになると正式に聞き、大本営の移転計画の全体を知りました。ロ地区の地図を示され、鉛筆で場所を書いたが、目の前ですぐ消されてしまった。
 「これはお前だけに話すが、実はこういうことだ」
 それまでにもう計画書はできていたんですよ。表面上は松代倉庫ということで、材料は発注する。セメント何俵、檜がどれくらい必要かと概算して、そこで請負師を決めなくてはならない。
 請負師を何人か陸軍省に呼んで、結局
鹿島組がやりましょうということになった入札したわけじゃなくて、確か天皇の御座所は150万円位じゃなかったかと思います。
 陛下の御座所になると、専門の建築屋がいるので、私よりも東大の建築学科で7年先輩の、関野助教授にお願いすることになりました。
 とにかく急を要することだし、労務者をどうして集めるか困り果てました。
 「鹿島のほうで何とかあつめられないだろうか?」
 私は頼んだ。
 「とにかく集めてみましょう。墜道工事専門の朝鮮人労務者なら、うちの工事現場で何とかなるでしょう」
 八ヶ岳か御嶽山でダム工事をしていた。そこに機械を借りに行った。
鹿島組の朝鮮人労務者を集めて、3月24日なのか、それで天皇の御座所の工事が始まった。私が松代に行ったのが20日前後でしたから。
 東部軍から長野県へ交渉して、各郡から何名と徴用をかけて、毎日100人位送られてきました。私が彼らを受けて鹿島組に渡し、うちの連中がそれぞれの現場を監督しました。

 
天皇の御座所は知られてはまずいと、防諜のために付近の住民は立ち退きをさせました。

焼却命令


・・・

 天皇の御座所の関係の180人が、突然いなくなったとよく質問を受けるんですが、そんな数の朝鮮人はいません。1ヵ所を両方から掘ったとしても、180人も必要ありませんから。
 松代の朝鮮人は、みんな終戦までいて、鉄道省と私たちが面倒を見て、貨物列車を仕立てて仙崎に、あるいは博多まで送らせました。9月の終わりから10月いっぱいかけてね。天皇の御座所を掘った鹿島組の朝鮮人は、西松組の7000人以上の朝鮮人とは、まったく別に帰国したんです。
 それらの
鹿島組の朝鮮人は、御座所を掘ったということで消されたといっていますが、それは、うがった見方なんです。あの当時、人手が足りずに困っている時に、消してしまうなんて考えられないことです。殺したという人がいますが、そんなことは絶対にないですよ。実際に終戦までそこの飯場にいたわけですから、秘密工事をしたから殺すということはありえないことです。まるで私たちを罪人扱いにすることは問題ですね。それがどうのこうのといっても、私がいえばいいわけになりますからね。何でお前は知らないかといわれると、知る立場にある場合とない場合では違いますからね。
 私は松代大本営工事を、戦場みたいな扱いをすることは感心しません。私は朝鮮人を犠牲にした覚えはないんだよ。もうすこし歴史的な観点として見てもらいたい。地下壕をつくるのに私たちはどんなに苦労したことか。
 朝鮮は日本の植民地といっても、別に植民地の朝鮮人だから、無理に強制労働をさせたわけではなく、日本人の徴用とか勤労報告隊と同じ状況ですからね。

 
朝鮮人ばかりを強制労働させたといわれると、私自身としては心外だよ。今までどこでも働いてきたけど、朝鮮人の中には終戦後泣き別れた人もいるしね。そんなに植民地だからというのではなく、日本の当時の政策としてやったわけだから、その責任をどうのこうのいわれる筋合いじゃないですよ。
 
あの頃は松代に限ったことではなく、日本全体がそうだったわけだから、朝鮮人問題を私の責任のように追及しないでほしいですね。
 そこのところは穏便にしてください。松代だけがそうだといわれると心外でね。
 朝鮮人が事故死したり苦労したといっても、あの松代大本営の工事というのは、誰も苦労していますよ。もう、あの当時というのは日本の末期症状で、それでもいいものをつくらなければということもありましてね。


------------松代大本営 田中憲兵隊長の証言と朝鮮人労務者------------

 今回は、長野憲兵隊長の証言の一部を
「松代地下大本営-証言が明かす朝鮮人強制労働の記録」林えいだい(明石書店)から抜粋する。抵抗運動が起こらないように、徹底した調査が行い、様々な取り組みをしていたことが分かる。 
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 田中宗久元長野憲兵隊長の証言

秘密防衛

 昭和20年3月30日でした。長野憲兵隊長といえば相当の権限があるわけで、普通なら中佐級なんです。それを少佐の私に行けという し、私の使命は大本営工事の秘密防衛の任務だと直観しました。隊長の副官は中尉がつき、本隊は長野市で管轄下の憲兵は、300人から400人、松本、諏訪、上田、軽井沢に分隊と分遣隊がありました。松本だけでも憲兵が40人いましたから。
 長野県下で朝鮮人は26042人いて、戸数としては2624戸です。御嶽山の発電所工事に8000人でしたから。
 私が長野に赴任してきた時は、もう工事をどんどんやっていました。私どもはいわば警備専門の憲兵でした。
 流言飛語が飛び交いましてね。それを防止するために「特殊秘密兵器の基地をつくるんだ」と
逆宣伝をしました。

・・・

 
私たちの任務は、警備している軍隊の動向とか状況は一応見ましたが、重点は朝鮮人対策ですよ。それと重要なのは、天皇のご動座を考えて、精神病患者と思想関係を徹底的に調査しました。

・・・

 共産主義者とか、思想関係についてはこんなことがあります。共産主義者で厳重注意は「共甲」です。次が「共乙」思想注意者は「思注」というのです。朝鮮人で一番恐いのが「鮮甲」次に「鮮乙」ですね。何かあると憲兵と警察が、「鮮甲」「鮮乙」を直ちに検挙する手はずになっていました。松代を中心として、「鮮甲」はいませんでした。

・・・

 長野県全体で見ると、「共甲」と「鮮甲」はかなりいました。その人物の親とか兄弟、さらに親戚友人まで徹底的にその動向を調べます。長野県というところは教育県だし、主義者が非常に多かった。思想的団体が120団体、非合法だから、決して表面には出てきません。 「共甲」とか「共乙」のような青年が入隊すると、憲兵隊長が共産党の連中だから子どもでも注意しろと、連隊長に一筆書いてよこす。 そういう意味では、憲兵は横暴なところがあった。
 それで、共産党関係のリストは、憲兵隊にはすごい量のリストがありました。それも明治時代からのものが、家系図のように整理してありました。
 特高資料だけでなく、憲兵隊独自の調査網を持っていましたから。憲兵は民間の思想的取り締まりも法的にできた。
 憲兵隊長になると「共甲」、「鮮甲」の名前は暗記している。いざという時に検挙しなければならない。予備検挙といって、予防検束もしましたから。
 松代周辺の共産主義者、かつて思想犯だった者、農民運動をした経歴のある者、現在はどういう思想的傾向にあるとか、それは綿密に調べてある。
 名古屋合同労組で逮捕された趙仁済くらいの人物であれば、それは「鮮甲」に該当するでしょう。
 私が調査した範囲では、どうしたわけか松代警察署の特高リストには上がっていませんでした。それが労務者として工事に入り、しかも西松組の労務係をしていたとは驚きです。
 趙仁済自身が、表だった工作をしていなかったんだと思います。工作で動き出したらわかりますからね。だが、公平に見ましたら、長野憲兵隊長として最大のミスでございます。
 大本営のおひざもとの心臓部に、そんな大物が潜入していたとは知らずに、違った方向で松代周辺には、そうした危険人物はおりませんと、私が報告していたわけですからね。


民族のこわさ

 憲兵としては朝鮮独立運動とか、朝鮮人の思想問題を重視していました。特に日本に対する反国家的な言動ですね。第一、北朝鮮のダム工事関係の労務者も相当きていましたから、抗日パルチザンの分子を送り込もうとすれば容易ですからね。日本に対する抵抗運動には、本当に手を焼いていましたからね。
 民族が違ったら駄目ですね。表面は日本的で、愛国心があるように見せても、内心では何を思っているか全然わかりません。
 日本人に親しく見せても内心はね。そこに民族の恐ろしさがあるんです。それは世界のどの民族だって同じように民族意識は根強くて、それは朝鮮人だけに限りませんから。
 考えてみると、見本が朝鮮をあれだけ痛めつけているんですからね。日韓併合以来の植民地支配を見ればわかります。

 
六奪といって土地、生命、金銭、言葉、名前、資源などありとあらゆるものを収奪しつくしたから、心の底から支配者の日本を怨む
のは当たり前のことですね
。……(以下略)


補助憲兵

 松代大本営の地下工事では、憲兵の正装をして、穴の中に入って直接労務者を監視したりすることは一切ありません。長野県下360人の憲兵のうち 、大体、
40人が松代大本営工事担当で、わざと松代には憲兵分隊を置かなかったのです。ほとんどが私服で、隠れてこっそり情報を収集しましたから、手のうちは絶対に見せません。
 私が長野憲兵隊長になってから後
2人の朝鮮人の補助憲兵を大本営工事に潜入させました。……

・・・

 憲兵補という身分で、2人とも東京の私立大学出身で22~23才の上等兵、日本語はペラペラでした。あくまで秘密に運び、憲兵隊の
中でも一切知らせませんでした。工事が進むにつれて確かに宮中がご動座するとか、大本営移転の噂があって、結局は隠せないからわかることなんだけど、そうした噂の出所はどこかを調べさせるためです。
 労務者の主体は朝鮮人で、サボタージュしたり、反国家的な言動があって動揺すると、期日までに完工できなくなる。そうした朝鮮人の
日頃の会話を注意する。
 朝鮮語で話すから、どんな朝鮮語でもわからないと、重要な情報をつかむことはできない。2人の補助憲兵には、特捜義務を持たせました。


・・・

 補助憲兵が潜入に成功すると、今度は私が労務者に変装して穴に入り、彼らとの間で暗号で情報を受けとった。朝鮮飯場から町の銭湯に行く場合も、そこで誰に接触するのか、道中とか風呂の中でどういう会話をしているかをチェックさせた。暴動のような状況が出ると、早速手を打たなければならないからね。

・・・

 あれだけ大勢の朝鮮人が暴動を起こして、工事現場のダイナマイトを使って破壊されると、本土決戦はおろか大本営移転計画は吹き飛んでしまいますからね。……(以下略)


女の情報

 私が情報収集で使った女はたくさんいます。


・・・

 松代にしても、朝鮮人の補助憲兵を潜入させていたから、朝鮮人の動向がすべて把握できたわけです。憲兵としてもう一つ、女をどのように利用して情報をつかむかにかかっている。芸者とかカフェの女給、仲居、女子挺身隊、一般の主婦、売春婦ですね。そういう女性たちをうまく使った憲兵ほど情報戦には勝つんです。

・・・

 私は長野憲兵隊長になると、部下を集めて慰安婦をまずつかめと訓示しました。松代担当の憲兵に、西条にある西松組の慰安所に網を張らせて、逐一報告させましたから。


朝鮮人抹殺


・・・

 ある日、朝鮮人の脱走兵を警備兵が追って、数人を射殺してしまった。軍隊の脱走は重罪で、軍法会議によって陸軍刑務所に入れられる。警備兵が勝手に射殺したからややこしくなった。 
 憲兵の場合は射殺することは認められていた。射殺しても軍隊内では、書類上は病死したと処理すればいいわけですからね。朝鮮人の5人や10人殺したって、何ということはない雰囲気がありましたから。殺しておいて後はどうにでも処理はできる。そんな立場にあったことは申し上げられると思います。

・・・

 大体、秘密工事をやった人間を、秘密がバレるという理由で消してしまうのは、徳川時代からありましたからね。築城すると、本丸とか 地下室、逃げ口など秘密があるので、その工事をした職人を皆殺しにした。内部構造そのものを敵に知られると困るわけで、満州(中国東北部)では関東軍が平気で殺した。
 ロ地区の天皇の御座所の工事をした朝鮮人を虐殺した話は、私の知る限りではそういう事実はございません。殺したとすれば、戦時中といえども大問題になりますからね。


・・・ 

 もしそこから消えたということは、他の地区に配転したとしか考えられません。鹿島組にしても今まで他でやっていた工事を中止して、トンネル工事の技術者をロ地区の工事に投入したのですから、工事がすむともとの場所へ返す必要がありますからね。高級な技術者を、しかも労働力が少ない時に鹿島組とか軍が殺すわけがありません。しかし、そういう朝鮮人が虐殺された噂が、今日まで根強く残っているとすれば、それは鹿島組自体で真相を世間に発表するしか、これらの疑問に答えることはできないでしょう。
 

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松代大本営 元西松組社員”金錫智”の証言---------------

 下記は、宮守発電所のダム建設工事で土木機械の専門技術者として仕事をしていたが、突然松代の巨大地下壕工事に移転させられた元西松組社員、金錫智の証言の一部である。
「松代地下大本営-証言が明かす朝鮮人強制労働の記録」林えいだい(明石書店)からの抜粋である。
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                               半日本人
                                            金錫智 韓国全羅南道木浦市 元西松組社員
西松組入社

・・・

 西松組は幹部と事務員だけ十数人で、後は全部朝鮮人労務者ばかりで、日本人労務者はほとんどいない。下請けの親方の飯場に入れて、そのもとで働くことになる。約3500人収容した飯場が、ダム工事現場周辺にずらっと建ち並んでいた。所帯持ちの20組は親方に所属して、別の飯場に住んだ。
 西松組では矢野亨さんが全体の所長、畠山忠男さんが副所長だった。畠山さんは、機械と電気の責任者で、村井平八郎さんは労務の責任者だった。私はどちらかというと仕事の関係もあって、畠山副所長から特別に可愛がられた。
 所帯持ちの朝鮮人は早くから日本に渡航してきて、トンネル工事現場を転々としている者ばかりで、専門の技術を持っていた。独身者の1000人は、これもトンネル人夫専門に集められた労務者で、西松組の主力として働いた。
 後の2500人の朝鮮人労務者は、朝鮮総督府に依頼して、徴用で強制的にひっぱってきた人たちだった。
 私が直接朝鮮に行って徴用してきたわけではないが、かなり強制的だったと彼らは話していた。みんなが集まって賭博をしているところを襲い、そのまま警察にひっぱったという。
 朝鮮の農村に行って、酒を飲んだり共同作業をしているところを、警官がつかめて総督府でまとめ、西松組が受け取りに行ったんだ。彼らは農作業とか土方仕事をやっているので、労働仕事には向いていた。宮守のダム工事現場でトンネル工事をしているうちに、次第に慣れてきたんだ。トンネルの穴をくるのと違って、発破で出たズリを運び出したり、セメントや砂利の運搬とか単純労働をした。
 ダム工事現場の徴用の朝鮮人労務者のことを、西松組では”集団”と呼び、とっても荒い使い方をした。
 飯場というのは、ダムの工事が終わればもう必要ないので、掘っ立て小屋というか、柱を立てて板をはりつけただけのバラックだ。
 冬になると岩手県の山の中は雪も多く、隙間だらけだから雪が降り込んで寒くてしようがない。仮の作業小屋だから粗末なもんだ。
 飯場というのは寝るためにだけあるのであって、住家というもんじゃない。もちろんそこで働く朝鮮人はもう人間扱いじゃなくて、犬や猫以下の悲惨なものだった。所帯持ちの朝鮮人は日本語がわかるが、集団の人たちはほとんどが言葉を話せないのでくろうしとった。
 私は鉄道学校でトンネル掘りの専門的技術を習ったが、工事現場の労働者の生活というものをまったく知らず、宮守の発電所のダム工事にやってきて、朝鮮人労務者だけでやっている姿を見て驚いた。今のようなベルトコンベヤアなどの機械があるわけでなし、人間が蟻のように群がってやる人海戦術なんだ。
 西松組が政府の日本発送電から請け負って、それを下請けにおろし、その孫請けとだんだん下がるにつれて、労務者の賃金はピンハネされて少なくなるんだ。日本発送電から一日1人2円出ると、西松組、下請け飯場、孫請け飯場と下がるにつれて手取りが50銭、飯場の飯代、布団代を差し引くと労務者には金は残らない。
 そういう状態だから待遇がいいわけがなく、死なない程度の貧しい食事で、ヘトヘトになるまで働かされた。
 その時、宮守では日本人は朝鮮人に対して悪いことをしたですよ。現場監督が朝鮮人を殴るし、仕事を怠けるといって叩き殺しても平気だしね

 私は彼ら集団が どういう生活をしているか、飯場を見に行ったことがあるが、もう人間としては見られないほどひどいものだった。飯場 の食べ物も、人間が食べるようなものではなかった。風呂はもちろんないし、便所は屋根が少しあるだけの吹きさらしで、長い板が渡されていた。雀や燕が電線に留まっているように、みんな並んで用を足していた。3500人という大勢の人間が、短い時間にどっと押し寄せ るから足りない。近くの適当な場所で用を足すから、どこへ行っても糞だらけ、踏み散らしてそのまま飯場に帰るから不潔そのものだった。
 便所も汲み取りをしないから流れっ放し、悪臭が立ち込めて息もできない。飯場の中はノミとシラミの巣窟で、入ったと同時に私に襲い かかった。歩くだけで体中がかゆくなってしょうがない。それを見ると、人間の住むところじゃなく、まるで人間の地獄というか、目をそむけたくなった。それは朝鮮人そのものも悪いと、自分たちの国の人間がね。
 私が考えるに、朝鮮では最も貧しい人たちに徴用をかけ、強制的に宮守に連れてきている。そうした中には両班とか、大地主とか、知識階級の人はほとんどきていない。朝鮮でも住む家もないような階級の人が多かった。
 知識階級の人たちは、朝鮮支配した日本人を恨んでいる。ところが徴用されて宮守に強制的にひっぱられてきた人たちは水準以下で、何もわからないんだ。働けといわれると、牛馬のように命令どおりに働くしか方法はないし、殴られて殺されても運命としてあきらめるしかない。実に哀れな民族なんだ。境遇を変えようたって、自分の力ではどうにもならない。
 そこへ軍命令で松代行きが決まり、発電所工事を一時中止して、約3500人が集団移動することになった。宮守の発電所工事は戦後もずっとやって、完成したのは昭和35年だと私は聞いた。

 

 日本一の地下壕工事
 
 3500人が宮守から松代に集団移動となるとそれは大変で、村井平八郎さんが計画を立て、食糧とか布団、輸送する列車などの手配をした。米から味噌まで、3500人が当分食べるだけの食糧が必要だからね。
 私たち10人が先発隊として、昭和19年11月1日に松代に着いた。松代に行く時は、大本営移転のための工事とは一切知らされずに 、ただ、日本一大きい地下壕工事だといわれた。
 西松組の地下壕工事の隊長は宮守ダム工事現場の所長だった矢野亨さんで、イ地区の象山とロ地区の舞鶴山の責任者だった。畠山忠男さんは副隊長でハ地区の皆神山の責任者だった。村井平八郎さんは同じく副隊長で、朝鮮から徴用されてくる労務者の受け入れ、飯場への配置とか食糧などの支給とか、一般的な労務管理を担当した。
……(以下略)

・・・

 軍のというか国家的な秘密工事なので、もし私が朝鮮人だとわかればすぐに殺されるに決まっている。
 第一、そんな秘密工事の任務に、朝鮮人を使うことは当時としては考えられないからだ。それだから私は、矢野隊長、畠山、村井副隊長には恩がある。
 松代に着いた日に、私は矢野隊長から呼ばれた。
 「三原君、お前は、誰が何といっても朝鮮人だといってはならないぞ、いいか」
と、きびしい口調でいった。それまでに私が朝鮮人だということを、この3人を除いて誰も知らなかった。



650人の死者か?

 あの当時労務者の正確な数というのは、東部軍関係者かそれとも運輸通信省の幹部しか知らない。私の関係する西松組は6500人、それに鹿島組関係が500人、後は間組もいたから、朝鮮人労務者だけで、松代には8000人と私は推定している。
 西松組の場合、朝鮮人労務者は6500人で、事務所の労務係のところに9冊の台帳があった。一連番号が打たれて、最後が6500で 終わっていたのは、私が引き揚げのための帰国者名簿を渡された時に確認した。
 事故などで死亡すると、事務員の奥野が赤印で線を引いた。村井平八郎が、「今月は120人死んだ」と矢野隊長に報告しているところ を私は聞いた。
 私が朝鮮に帰国するために引率して松代を出る前日、旅費計算を終えて死者の数を確認すると、約650人の赤線がついていたんだ。釜山から故郷までの旅費計算に目を通すから、一人ひとりチェックしなければならない。西松組だけで死亡者は650人、鹿島組と間組は私にはわからない。3つあわせると、かなりの数になるのじゃなかろうか。
 一番多い時で3500人いたイ地区の清野の労務者が、解放の時に3000人になっていたことを知ったが、逃亡はまず考えられないか ら、500人減ということは不思議なこともあるものだ。
……(以下略)


○一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
○青字および赤字が書名や抜粋部分です。
○「・・・」は、文の省略を示します。


         
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