-NO99~108
----------------松代大本営 三角兵舎 崔小岩の証言---------------

 「『松代大本営と崔小岩』松代大本営を語り続けて逝ったある朝鮮人の証言」(松代大本営の保存をすすめる会編)
によると、崔小岩(チェ・ソアム)さんは、戦後も松代町に住み、朝鮮人の強制労働なしには考えられない松代大本営の巨大地下壕建設工事について語り続ける唯一の証人だったという。彼は、小学校に行くことさえできず、16才で慶尚南道陜川郡伽倻面伊川里を離れた。そして、日本各地の土木工事にたずさわり、松代に移り住んだ作業員であった。文章として残された証言と異なり、彼の語る言葉そのままの証言は、よく理解できない部分も多い。しかし彼の証言からは、再び戦争を繰り返さないために、曖昧な記憶や薄れつつある記憶をたどり、正直に事実を語り伝えようとする姿勢が伝わってくる。また、「私は日本が好きです。妻も日本人、悪いのは軍隊・戦争」という言葉に象徴されるように、思い出すのも辛い経験を、人間としての優しさを持って語る彼の人柄が感じられる。
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                     2 食べる物も着る物もない飯場生活

 
三角兵舎の飯場【証言 1991年2月16日】
──飯場の建物もやっぱり違うんですか、松代の方は。それまでの塩釜あたりの飯場とくらべて。
 崔  塩釜みたいとぜんぜん違いますね。私たちは、その他でいってるときなんか、自分たちが家建てますよ。山、行ってね。下から材料上げてもらったり、建てるのみんな自分で建てたり、板、打ちつけるのに自分でやったり、これ自分たちでやったから。えらいここみたいに、三角とかはなかったですね。三角のとこ入ったのはここ初めて。

・・・

 雨や雪が部屋まで吹き込む【証言 1976年8月16日】
──飯場の造りなんかは、2種類あったようですね。……三角兵舎っていう。
 崔  そうですね。ちょうどこういうふうになりまして、屋根かけて、たての壁みたいのない。板でぶっつけたり。……雨でも降れば、部屋の中へ雨吹き込んでくるような状態で。

  【証言 1987年8月31日】
 崔  そんでまあ、飯場だってみんなすき間だらけで、その、冬でも、雪でも降ったりするとね、すき間からみんな雪入ってきて、その、布団の先っちょなんかみんな真っ白になって。それだから、夜なんか本当にもう眠られないんです。人間っていうものは、足が冷たけりゃあ眠られないんです。

  【証言 1976年8月16日】
 崔  こういう(三角の)屋根にしちゃって、下なんかベトすれすれにもってきちゃうから。ただ、真ん中通路になっていて、両方に人寝るようになってる。頭合わせてね。真ん中の通路は1メートルあったかな。ないかもしれない。こっちで伸ばせば、足むこうへ届くんだから。

 暖房もないワラ布団生活【証言 1976年8月16日】
──飯場の中、暖房なんかなかったんですか。
 崔  暖房どころじゃない。布団だって、みん、なかワラだよ。ワラでもいいのあればいいけど、破けちゃって、ワラがぼろぼろ出てきちゃって、部屋の中だか、豚の小屋だかわからない。ワラのくずでもって。(掛け布団の)綿だっていまの綿じゃなくて、昔の、黒いような。あんなもの入れたって、1日2日はいいですよ。3日4日かぶれば、みんなはじっこへ寄って玉みたいになっちゃう。

 【証言 1987年8月31日】
 崔  飯場、その飯場の中の仕事が、寝泊まりが、これ、いちばんせつなかったですね。だって、敷き布団がワラです。ワラね。そいで、掛け布団……、その、あれ、なんていう綿っつうんですか。あれね、二月に一回は取り替えてくれるの。それ1日はもつんだ。けど、2日目なんかね、布団はみんなワラ、みんなボロボロ、ボロボロ、みんな切れちゃって、あっちでスースー、こっちでスースー。みんなこうやって玉になっちゃって、おなか掛けるとこなんか布1枚だけ。頭なんて、なんにもねえ。
 そいだから、もう、何ていうんですか、しもやけっていうんですか、なんていうの、この辺でも、かわいらしいのあるじゃないですか。あれはまあ、いちばん飯場の中じゃあせつなかったですね。

 錠前かっちゃう【証言 1976年8月16日】
 崔  夜寝てれば、野郎ども、たまに入ってきて……。みな仕事くたびれて帰ってくるでしょう。若い者なんか、寒いあったかい言ってらんない。眠いのが先だね。目覚めれば寒いとわかってるけど、本当に眠っちゃえば、寒いかわからない。……それでスーッと回ってくる。私たち知っているから、野郎また来やがったなと思って、寝たふりしてる。回ってきて、行くときは錠前かっちゃう。
──それじゃ便所へも行けない?
 崔  便所に行くときは声かけて。ただ、われわれが行くには、出ていっても……、いちばんここへ来て長いから、……徴用で来たんじゃないからね、顔見ればわかるんだけど。今度ほかの徴用で来た若者なんか、夜中にふっと起きて、出ていったもんなら……、なんでもなけりゃいいんだけど、もし運悪く、回っているのに当たれば、そこでひどい目にあうんだ(注─リンチを受ける)。
──徴用の飯場と、棟はすこしずれていたのですか。
 崔  全部一緒に寝かすんですよ。寝かして、寝る人間に責任を持たすわけだ。お前、この人間逃げたらお前もひどい目にあうぞ、と、こうなってくるわけだ。だからみんな警戒しちゃうわけだ。みんなが見張りみたいになっちゃうわけですよ。だから、逃げたくったって逃げられない。

 夜も見回りされる【証言 1987年8月31日】
 崔  飯場の生活ってものは、われわれ、なんか詳しい生活ってものを、これ知らないんです。知ることできないですよ。何でだってば、朝早くなら朝早く、出てっちまう。ぎりぎりまで帰ってこない。もう飯場なんか入ったって、その夜なら夜、布団なか入ってっちゃ、その布団なか入ればグー。いまみたいになんかやるとか、何かやるとき、そんな話をやるってことできないですよ。なんしろもう、布団んなか入っちゃうから。おとなしく寝なけりゃ、みんな見回りして歩いてるんだから。
 つまらない話やったもんなら、「ちょっと、お前来い」なんてことになっちゃう。そいで、話しても、それこそ小さい声で、本当に外に聞こえないくらいの話する。
 まあ、堂々と、もう朝だってこと、どうやってとか、ある仕事面白くないとか、うーん、なんか、こういう話っつのは、もう絶対だめだね。
あとはもう、まあ、内緒の話ってもんは、こりゃ絶対秘密でだめだし。えらい個人的に、ああ、向こうの飯場へ行ってちょっと休んでくるか、ってなことはなかった。ちょこちょこ歩くってこともいけないんだ。まあ、飯場はちょうど
ブタバコと同じなんですよねえ。


------------松代大本営 朝鮮人労務者の生活 崔小岩の証言------------

 松代大本営の地下壕工事現場で働いた崔小岩(チェ・ソアム)さんは、三角兵舎での寝起きの悲惨な体験の他にも、その生活についてもいろいろ証言している
。「『松代大本営と崔小岩』松代大本営を語り続けて逝ったある朝鮮人の証言」(松代大本営の保存をすすめる会編)からの一部抜粋である。
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                            2 食べ物も着る物もない飯場生活

履物もせつなかった【証言 1983年9月】
 崔  履き物ね、昔の地下足袋は、買ってきてこうやるとポッキンと底が折れちゃう。ひと月一足くらいしか配給くれないんですよ。石に足カックンってやると、ポキンって折れちゃう。そうなると、あと配給くれないでしょう。足のところボロまいて、わらぞうり、あんなもんしか履いてなかったですよ。それで切れてしまえば、足から血が出ても、びっこひいてでも、結局、仕事でなくちゃならない。一番は食べ物がせつなかった。二番目は履物。三番目は自分の身体が自由にならなかったこと。

おかずは塩だけ【証言 1983年9月】
 崔  こんど食べ物の話するけど、食べ物といえば、いじきたないっていうか、そういう腹になるかもしれないけれど……。
 コウリャンってありますね、いまは豚とか牛のえさでしょう。そのコウリャン7分なら米3分、その上に大豆の豆、それでいくらか味つけるってわけで、大根を細かく切って、ご飯に入れて、おかずは何もない。ただ塩をかけて食べるだけ。
 配給は、その飯場で、人夫30人いるとして、ひと月30人食べるのに、三升(醤油?)くらいしか配給にならないのですよ。それじゃ、へたすれば、一日分にもならなくなってしまうのです。しようがないから、塩がいちばん安いので、塩をみんな買ってきて、水入れて、塩煮立てて、それに水何倍も入れて、薄い色しかない、たたの塩の味だけでね。

 栄養失調に【証言 1976年8月16日】
──栄養失調かなにか、病気になって亡くなる方もいたようですね。
 崔  そうですね。栄養失調になって、ここで、イ地区の中でもって、栄養失調になってフラフラしたり、死んだりした人間は、5,60人いたんじゃないですか。それは主に年寄りだけどね。栄養失調にもなるわけですよ。食事ですよ。

【証言 1987年8月31日】
 崔  それでまあ、おかずは何にもねえ。まあ、しょうがねえ。あれば何でもいいから、あの年は、なんか塩がいちばん安かったらしい んだよね。みんな塩、ご飯の上にかけて……。そいでその、みそ汁もみんな塩です。塩でいくらかしょっぱく味つけてあるけど、それでま あ、それずうーっと食べるようになって。私は体力あって、なんとかやれたけん、まあ、年寄りのような人は、ほとんど、栄養失調みたい で……。栄養失調になってくると、あれですね。ご飯も水も飲めなくなっちゃうんですね。水なんてはいちゃいますよ。 

蚤、虱、南京虫【証言 1991年2月16日】
 崔  はじめてこんなこと言うけど、まあ、恥ずかしいというか、あの当時の、ちょうど先生たち送ってくれる時、あそこの小林っていう角、ここからまっすぐ行って、橋渡って、私とこ入るとこの角あったでしょう。ここから行けば右側に昔お風呂あったですよ。銭湯。
 暑い時なんか、たまにお風呂入りたい。本当にこんな話、恥ずかしくて、まあ、言えない。こんな話、めったにやらない。はじめて言うんだけど、あの年なんか、服もきれば着っぱなし。お風呂なんか入らない。
 なんていうんですか、蚤、虱、南京虫っていうんですか。風呂、たまに行けば、本当みんな逃げちゃって。しまいには朝鮮人きりになったこともある。
いよいよ最後には「朝鮮人なんか来るな」。そいでお風呂にも行かれない。そんなこともあったけど。
──飯場には風呂ないんですか。
 崔  なかったです、全然。
──じゃあ、銭湯へ行くわけですよね。
 崔  銭湯へ行って、自分たちも出てきてみれば、服の上、虱がはって歩いてる。そんなの見れば日本人、一緒に入る気なんかないですよ。最後にゃ、お風呂に入りたくても入れない。夏場になれば、ちょうど私たちの前、川あって、そこでバケツで水かぶったり、頭洗ったりなんかして。
 それで(戦後)、松代の役場で、松代の町でそういう話があったんじゃないですか。そいで昔、ぼかぼかDDTあったですよね。それみんな渡してくれて、それ毎日こうやったとき、だんだん虱もいなくなったり、蚤もいなくなったりしたこともありました。
──日本人もいやがったんですね。
 崔  結局、それは、われわれだってああなれば、いやがる。虫がはって歩いているんだものね。それもいい虫がはってるんだったらい
いけれども。


                              3 朝鮮語で話したらリンチ

棒が早く飛んでくるくるもんね【証言 1987年8月31日】
・・・
朝鮮のことばしゃべったの誰だ!
 崔  わしも、そんなことまで知らないから、「それはわしが言いました」。あ、そうか。それじゃこっち来て、ちょっと待ってろや」 「それで朝鮮の言葉しゃべったの、誰だな」。それで、まあ、連中たちは、わしらより早く来てしっているから、言わない。言わない、言わないで黙っていると全部やられちゃうから、それでまあ、「私がいいました」って出ていった。それで、「お前仕事やれや、後で迎えにくるから」。30分くらいたったら迎えにきて、「ちょっと会社まで来いや」。
 その時、うちの飯場頭のおじいさんが、「催本さん、行ったらもう、何されても申し訳ありませんって謝れ。謝らなければへたすると、ここ、戻ってこないかも知れない」。「なんで」って言ったら、「いままでそうだ。ちょっと悪態をついた人間はいまだに戻って来ない」 。「戻ってこないって、どこへ行っちゃったの」。「それ、わからない。それだから、みんななんか、言いたいことあっても、必ずそうい う目にあうから、みな黙ってて。殴られても、こうやって仕事やるんだ。それだから催本さん、踏んだりけったり、かたわにされても、何しろ自分で声が出たら謝れや」、と。
 それで、すぐたったら、もう迎えにきて、「来いや」って言うから、それでまあ行って、2人でいったんだけど、一人はすーっと入っちゃって、それでわしも中へ入った。「さっき言ったこと、もういっぺん、言ってみろ」。「監督さん、さっき言ったこと、わし、覚えありません。忘れましたよ」。
 なーに、それからもう、はたかれちゃって、よくよくもう、最後、謝るも何も、声も出なくなるし。

仕込み杖で
・・・
(以下略)



-----------------松代大本営 合意なき建設工事?----------------

 
「松代大本営 歴史の証言 」青木孝寿(新日本出版)は、松代動座に関する天皇側近や天皇の言葉を取り上げている。下記はその一部抜粋である。読み進めると、多くの犠牲を伴った巨大な地下壕建設工事も、極秘工事とはいえ、陸軍中枢の一部の人間による独走に近い計画であったように思われる。また、昭和天皇の「無駄な穴」発言も、心からの言葉であったのではないかと想像される。
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                        2 「国体護持」と松代大本営     

松代動座に消極的な宮廷派など
 天皇は、松代動座をまったく考えていなかったとよくいわれる。東条首相に替わって首相になったばかりの小磯国昭が、1944年(昭和1 9年)7月25日、天皇に移動について言上したところ、天皇は、自分が帝都を離れれば都民に敗戦感を抱かせるので万止むを得ざる限りは帝都にとどまると答えている。そして、戦争の推移によっては大陸に移動を考える者もあるようだが、あくまで皇大神宮のある神州を死守すると述べた(『木戸幸一日記』下)。……(以下略)

 まず天皇の考え方を、天皇の側近を通して見ると、当時の藤田尚徳侍従長は

  「侍従と宮内省の事務官が、松代に出かけてみることになったが、陛下には東京を離れられる気持ちは微塵もない。言葉
  にこそおだしにならぬが、皇居に最後まで残られるのは、強いご決心であった。私たち側近の者も、またそれは当然のこと
  と信じていた」(藤田『侍従長の回想』)
とのちに書いている。5月25日、皇居が空襲で炎上したあと6月初めごろのことを言っているのであろう。この記述は、藤田(退役海軍大将)が1944年8月から46年5月まで天皇の侍従長という立場にあったことと、この回想録が1961年に発行したものであることから、かなり批判的にとらえなければならないが、藤田は、”皇居は動かない”という理由を、次のように書く。
  「松代に移られ、大本営が設置されたとしても、穴にとじこめられた熊のようなもので本土での作戦の指揮はとれない。敵
  陣に橋梁を爆破され、通信設備を破壊されてしまえば、各地ごとに兵団が孤立するに過ぎない。本土を守護するのは、や
  はり東京が戦略的にもポイントである。しかも皇居に陛下がいますという国民の安心感は、なにものにもかえがたいもの
  だ。私たちは、このように信じていたが、陛下の御心もそこにあった。
   
断じて皇居は動かぬ、陛下も私たちも大内山に立て籠もる意気込みであったのだ松代大本営案は宮中では問題にさ
  れなかった」

というわけで、6月時点では皇居龍城の発想であったという。
……(以下略)

 当時の小出英経侍従も4月ごろ、侍従武官から信州の山奥に行在所を考えていると聞いて驚き、小倉侍従らが松代に調査に行ったあと、 「けれどわれわれとしては、陛下が御動座になるなんてことはあり得ないことと確信していたので、気にはしませんでしたがね」(『昭和史の天皇』3)と天皇の動座はあり得ないと確信していたと述べている。
 1936年(昭和11年)5月から45年6月まで宮内次官だった白根松助は、大本営移転プランを早くから軍より聞いていたが、宮内省としては、「本土決戦のために皇居を地方へ移転するなんてことは、頭から問題にしていなかった」と言い、ただし皇后・皇太后の疎開は念頭においていたという。(『昭和史の天皇』3)……(以下略)

 木戸幸一内大臣は天皇の側近中の側近であるが、戦後に、
 「わたしとしては、松代のことはちょいちょい聞いていたが、そこまで行っては(松代へ動座するようなことになっては)もうおしまい で、結局洞窟の中で自殺する以外なくなってしまう。そんなことは、わかりきっていた。それで国を全くほろぼしてしまったら大変なことだ 。だから、わたしは
はじめから洞窟入りは考えなかった。もっとも松代行きは一つの案で、もし、わたしたちがそのころやっていたこと(特使をソ連に派遣して和平工作の仲介を頼む)が時間的に立ち遅れてしまって、日本が潰滅することがあるかも知れない。その際の手段としてはやむを得ぬが、頭から松代へ行ってしまって、陛下以下が洞窟の中で自害するなんて愚の骨頂だ。だから、御動座についての話には 、ほとんど関心をもたなかったね」(『昭和史の天皇』3)
と藤田侍従長と共通した理由・感想を述べているのがおもしろい。ただ藤田と異なる点は、「そのころやっていたこと」すなわち近衛特使
のソビエト派遣による和平の仲介依頼などがだめになって土壇場に立たされた時は、松代行きもやむを得ないということである。やがてそれに近い現実がくる。
……(以下略)

……
木戸の内心では東京で皇居を死守するという思いと、どうしても駄目なときは一案として松代行きを考えるという思いが揺れ動いていたことがわかる。それは軍部の本土決戦強調との力関係、連合国軍の侵攻の度合い、ソ連の出方、連合国の方針と微妙にかかわっていた。
 天皇・宮廷側近が東京の皇居から松代へ動座することは考えてもみない、という方針は、政府にも共通していた。
 「抗戦派なるも、御上は絶対東京をお動き遊ばすことなき様との意見」(『細川日記』下・3月30日)の鈴木貫太郎首相は、6月6日の最高戦争指導者会議の席上、本土決戦指導の基本大綱の中に、帝都を固守する方針を明らかにする必要があると発言した。藤田侍従長も言ったように、天皇・大本営・政府を東京以外に移してしまえば、国民の心が解体して本土決戦はできないだろうということである。しか し陸軍は、東京から大本営や政府を移さなければ徹底的な本土決戦はできないという従来からの考えを主張し、基本大綱に帝都を固守することを明示できなかった。しかし翌7日、
鈴木首相は閣議に自説を持ち出し、閣議了解事項として帝都固守を決定した(『昭和史の天皇』3)。
 その翌日6月8日、「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」を決定され、そこから陸軍は既定のとおり大本営移動の方針を貫こうとしており、帝都死守派は、戦争終結の方向を模索していく。

 徹底抗戦か戦争終結か

 1945年2月14日、天皇上奏文を奉呈した近衛文麿はその中で、「国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に候」と述べ、「敗戦必至の前提より論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速やかに戦争終結方途を講ずべきものなりと確信仕候」と言っている。そして「戦争終結に対する最大の障害は(略)軍部内のかの一味の存在なりと存候」として、「戦争を終結せんとすれば先ず其の前提として、 此の一味の一掃が肝要に御座候」としている(『細川日記』下)。
 近衛の奏上がすむと天皇の下問があり、軍の再建について近衛が阿南惟幾・山下奉文両大将の起用も一案であると答えたあと、天皇は、「もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と言い戦争の継続を主張、近衛は、「そういう戦果があがれば、誠に結構か思われますが、そういう時期がございましょうか」と述べて暗に疑問を呈している(このとき立ち会った木戸内府のメモを藤田侍従長が再現したもの、藤田前掲書)
 天皇も期待をつなげていた沖縄戦の敗北が必至となった5月下旬、天皇は戦争終結に傾いてきた。木戸内府は近衛に、「最近御上(天皇)は、大分自分の按摩申し上げたる結果、戦争終結に御心を用ひさせらるることとなり、むしろこちらが困惑する位性急に、『その方がよいと決まれば、一日も早い方がよいではないか』と仰せ出される有様なり」と話しているほど変わってきた(『細川日記』下)。
 前に触れたように、6月8日御前会議であくまで本土決戦遂行を強調する「基本大綱」が決定された。秋永月三総合計画局長官より交通・重要生産・食糧などから国力を判断して戦争は不可能という報告も、徹底抗戦の陸軍の主張の前には認められなかった。こうした状態に強い不安を感じた木戸内大臣は6月8日、「時局収拾の対策試案」を起草し、戦争収拾のために、きわめて異例ではあるが天皇の勇断をお願いするという趣旨の文を起草し、具体的には天皇の親書を奉じてソ連を通じて「名誉ある講和」の交渉しようというものであった。木戸によれば、軍部がまず和平を提唱して政府がそれをうけて交渉するのが正道だが、今日の段階では不可能でありそれを待っていたらドイツの二の舞になり、「皇室の御安泰・国体の護持てふ至上の目的すら達し得ざる悲境に落つることを保障し得ざるべし」と述べている(『木戸幸一日記』下)


・・・

 黒崎中佐は1944年5月、井田少佐らと大本営の適地を探しに、信州に同行した一人であったが、種村大佐と共に近衛文麿に本土決戦が可能であることを説得し、阿南陸相ら陸軍の主張を伝えている。
種村・黒崎の本土決戦の戦術は、海岸線4,5キロメートルのところで戦うものでその内側に入られた時には敗戦という考え方であるという。この考えでいくと、松代大本営は無意味ということになる。

・・・

 ……
7月25日木戸内府は天皇に拝謁したが、このとき戦争終結について天皇がいろいろ話し、それに関連して、木戸は次のような要旨 の意見を言上した。

   「午前10時20分拝謁す。戦争終結につき種種御話ありたるを以て、右に関連し大要左の如く言上す。
   今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦機転換を唱え居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能わず。
  万一之に失敗せんか、敵は恐らく空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、斯くすることにより、チャンス次第
  にては大本営が捕虜となると云ふが如きことも必ずしも架空の論とは云へず。爰に真剣に考えざるべからざるは三種の
  神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統26百余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持し得ざるこ
  ととなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることを想到するとき、
難を陵んで和を講ずるは極めて緊急なる
  要務と信ず」
(『木戸幸一日記』下)
 この木戸内府の言上と7月31日の天皇の話を合わせてみると、松代大本営の目的・役割が最終段階に達したことを示している。

 
・・・

 このようにポツダム宣言とどう対応するか明確な方針を日本側が出せないまま、「黙殺」といったあやふやな態度でいたとき、天皇は25日の木戸内府の意見について一週間後の7月31日、木戸の答えた。そこで「三種の神器」をめぐり「国体護持」のために「信州」が出てきたのである。「木戸日記では7月31日の項に、「御文庫にて拝睨、伊勢大神宮、熱田神宮につき別紙の通り仰せありたり」と記して、つぎのようにある。
   「御召しにより午後1時20分、御前に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
   先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の
  身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重
  を要すると思ふ。自分の考へでは度々御移するのも如何かと思ふ故、信州の方へ御移することの心組で考へてはどうか
  と思ふ。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共
  にする外ないと思ふ。謹んで拝承、直に石渡宮内大臣を其室に訪ひ、右の思召を伝へ、協議す。宮内大臣は既に内務省
  側と協議を進め居る趣なりき」



------------松代大本営 天皇動座の特別装甲車準備--------------

 大戦末期、軍部は昼夜兼行の松代地下壕建設工事を進める一方、いよいよ動座という時、天皇を東京から松代へ運ぶ準備も進めていた。
「手さぐり松代大本営 計画から差別の根源まで」原山茂夫(銀河書房)には下記のようにある。
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                          天皇は特別装甲運搬車に乗って

 松代での工事と並行して、44年秋から天皇を松代へ護衛して移動する計画や準備もすすめられていました。天皇の護衛ですから当然担当は、宮城の護衛に当たっていた近衛第一師団です。そんなことから、松代大本営の話は近衛師団の中にはさっと広まり、45年春頃には海外にいた近衛兵の中にも知られていたというくらいでした。
 中村勝実氏の『松代大本営』によると、まず、44年秋に天皇・皇后の動座のための第一装甲車が2台造られました。しかし侍従武官た
ちが試乗したところ乗り心地があまりよくなかったので、第二号の製作にとりかかりました。
 第二号は中型戦車を改造した、大きさは第一号の2倍ほどの二重鋼板製で、速射砲弾ぐらいならはね返すだけの強度をもったものでした。戦車のようにキャタピラがつけられていて、時速40キロほど、外は黄色と緑のペンキで迷彩がほどこされていました。
 もちろん、空や陸からの敵の攻撃に備えて重機関銃も据え付けられていて、内部には足を切りとって背を低くしたソファやベッド用のマ
ットも置かれていました。
 この第二号車は45年2月に天皇用・皇后用の2台が完成し、他に皇太子用などの4台の計6台が製作されて、近衛騎兵隊に配属されました。 
 騎兵部隊といっても、もう馬で天皇を守る情勢ではなかったので特別に軽戦車16台をもった戦車部隊も加わって、敵がパラシュートで降りてきて囲まれたらどうするかなどと、東京から松代へ向かう作戦や訓練が毎晩のように行われました。
 この頃には、天皇だけでなく、敵が上陸してきた時に、避難する一般民衆の雑踏する中で、軍隊をどう移動させるかという問題は、軍部のなかではすでに研究されていました。
 そんな時には軍隊はどうするか?
 司馬遼太郎の『街道をゆく6』には次のように書かれています。
 「
そういう私の質問に対し、大本営からきた人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で──轢き殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望と、それに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか」
 沖縄に米軍が上陸した時、日本軍が沖縄の人たちに対しとった態度が、まさにそうでした。実はこれと似たことが松代でも起こったのです。

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 「松代大本営 歴史の証言」青木孝寿(新日本出版)によると、近衛騎兵連隊長伊東力が赤柴近衛第一師団長に呼ばれ、この特別装甲車の保管管理と松代動座の護衛計画を命ぜられたという。そしてその時、この特別装甲車を「マルゴ車」(○の中にゴ)と呼ぶことを告げられたという。



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松代大本営 朝鮮人労務者 帰国問題----------------

松代大本営地下壕工事における”人権を無視した朝鮮人労務者酷使”を象徴するような話が、敗戦後の彼らの帰国と関連して報告されて いる。”暴動”や”仕返し”の恐れなどである。
「図録 松代大本営 幻の大本営の秘密を探る」和田登編著(郷土出版社)からの一部抜粋である。
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                           五、 日本敗戦と朝鮮人の帰国

 舞鶴山(現気象庁地震観測所のあるところ)のイ号地下壕の壁面には、今も黒々とはっきり、 だれが書いたものやら、

   敗戦日
   八月十五日

と、書き記されたものが残っている。朝鮮人労務者達にとっては解放された日である。日本人とこれらの人々の立場は逆転した。
 その前の8月13日に、長野空襲があり、朝鮮人達は、星のマークのついた艦載機グラマンが上空を低く飛び、長野市街に突っ込んでいくのを目撃し、騒ぎ立て、日本人達がとりしまるのに懸命になったという話もある。その時点で、すでに解放の真近い
(ママ)ことを多くの 労務者は悟ったに違いない。
 
工事関係者の幹部は、解放を機にこれらの人々が暴動を起こすことを恐れて、長野憲兵隊や長野師管区に相談に行った事実もある。また、現場監督の上層部で任に当たっていたある者は、これらの人々の復讐を恐れて、一時北海道に逃げて行っていた。
 工事関係の上に立っていた人々は、このように
朝鮮人対策に最も苦慮する結果となった。そこで、平穏を保つために、特に強制連行組については、帰国の手配を急いだ。
 東部軍は、敗戦によって事実上解散したため、主にこれらの人々の帰国は建設会社にまかせた。西松組、鹿島組はそれを受けて帰国処理をする。西松組の矢野亨(当時同会社の理事)は、職員を新潟、下関、博多などへやって、ヤミ船まで手配し、ひとり当たり支度金を250円渡したと、『昭和史の天皇』で述べている。が、一方その事実を否定している同会社の元副隊長(事実上の監督)の証言もある。ヤミ船を手配したり、250円支給したことはなく、ひとり当たり旅費として5円を渡したというのである(朴慶植氏聞き取り)。
 帰国せず残留した者の話では、お金は1銭ももらわなかったという話まである。
 とにかく、証言が大変食い違っていることは、帰国問題に限らず、これまでに述べた労働状態についてもいえることであるが、それだけ に大本営工事はその計画の初めからして泥縄式のところがあり、秘密工事という内容もあって、あらゆることが判然としない。組織と組織の横の連絡も誠に不徹底。最近聞くところによれば、長野市安茂里には、陸軍に負けじと、海軍が500人ばかりを動員して地下壕を掘っていたという。
 また京都は京都で東山区に府庁の地下移転と天皇退避所を造る計画を極秘に進めていたことが、9年前に明るみにされたけれど、これと”マツシロ”との関係はどうなっていたのか。理解に苦しむような、まさに戦争末期の混乱が象徴されるような話が余りにも多く、それはそのもも戦後処理まで続いていく。
 話が横道にそれたが、強制連行組は出来るだけ早く帰す方針で、特別残留を希望する者を除き、ほとんどが敗戦の年の11月ごろから翌年2月頃までの間に帰国した。
 ”マツシロ”帰国問題に関しては、この敗戦直後のものと、1955年(昭和30年)代から60年代にかけてのものと二波があった。
 というのは、自主渡航組を中心として、象山のイ地区飯場に相当数が、家族を伴なったりして終結
(ママ)、残留していて、それが日朝協会や日本赤十字などによる帰国運動は高揚するにつれ、帰国に踏み切る者が多数出てきたためである。イ地区、つまり清野の飯場には、数十戸、百人ぐらいは残っていた模様である。
 残留者の生活は困窮を極めていた。
 以下は、評論家の寺尾五郎氏と、元帰国協力会長野県支部事務局長小林杜人氏(故人)が清野の飯場に入っての聞き取り記事である。1959年(昭和34年)5月25日付「在日朝鮮人帰国協力会ニュース」
 「やがて終戦となった。朝鮮に帰った者、他処かへ流れていった者、そしてどこへ行くすべもなかった者がそのままここに住みついた。しかし、田畑も、仕事もなかった。やむなくドブロク作りをやって何回か手入れもされた。今残るのは19戸82名。全く絶望的な生活をしている。その住居はバラックとさえ呼べるものではない。瓦はおろか、トタン屋根さえない。戸もない。壁もない。木と紙だけの小屋だ。この一帯は、千曲川の遊水地域みたいな低地である。小雨が降ってドロンコ。ちょっと降り続けば腰まで出水。とても人間の住むところではない。
 9戸、54名が生活保護を受けている。何の仕事にもありつけないので、今年の春、5月の節句のカシワ餅を包む葉、それを採りに行った。1貫目で25円だが、それを総出でとった。ところがそれだけ収入があるとみなされて、生活保護を打ち切られたり、減額されたりして しまった。『一体、われわれは働いた方がよいのですか、働かない方がよいのですか』と訴える朴さんの眼ざしは悲痛だ。
 こういう状態だから、ほとんど全員が帰国を希望している。」
 ここには、戦時下の重労働からは解放されたが、ゆるやかな餓死に追いつめられている姿があった。したがって、残留してなんとか日本で生活を切りぬけようと思っていたものの、一刻も早く日本を脱出したいと願ったのは当然であった。
 やがて、日朝協会や日本赤十字社などの事業により、”マツシロ”を離れることになる。
 ところで、これらの人々が帰国した時期は、すでに祖国は朝鮮戦争によって分断されており、政治的な理由から、帰国先は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)であった。南から来たものが多かったのにかかわらずである。



----------松代大本営 東条首相 地下壕設計図書き直し命令-----------

 大本営の移転地決定後、井田少佐は「どこに何を収容するか、大体の配置プランを決め其の設計を鎌田建技中佐に一任した」という。鎌田建技中佐は、すぐに設計に取り掛かったが、この仕事は、間もなく大学の後輩で陸軍省建築課の同僚伊藤節三建技少佐が引き継ぐことになった。そして、その伊藤少佐に対して東条首相は設計図の”書き直し”を命令したのである。伊藤少佐の証言を
「昭和史の天皇3」(読 売新聞社)から抜粋する。
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地下建設隊を組織

・・・

 「わたしは、たまたま大学(東京帝大工学部)が鎌田さんの2年後輩ということでお手伝いすることになりました。市ヶ谷台上の陸軍省 の玄関をはいって、広い廊下を真っすぐ行った右側、半地下になったところに建築課があり、そこで毎日、鎌田さんと作業しました。とこ ろが間もなく、鎌田さんは建築課の高級課員になった。これは課長代理のような仕事で雑用が多く、とても設計に専念できない。そこでわたしがあとえお引き継ぐことになったのです。最初の略設計図ができたのは7月中旬だと思う。まず大臣にお見せしよう、と
東条大将のところへ持っていったら、大きなカミナリが落ちましてね、
 『やり直せ!』といわれるんです」

 
ついにサイパンも落ち、わが絶対国防圏の一角がくずれ、B29により本格的な東京空襲がはじまろう、というとき、東条内閣への国内の風当たりは一段と高まっていた。いらいらしていたんだろう。

施工命令くだる

 伊藤節三少佐が書いた最初の松代大本営の設計図は、軍事課の井田正孝少佐があらかじめ決めた配置とは少し違っていた。井田案では、象山には大本営と政府機関を収容、ノロシ山は行在所だけという構想だった。しかし伊藤案はノロシ山に大本営が置かれ、象山は一応政府機関を収容することにはなっていたが、トンネルはわずか2本、つまり規模が小さかった。これは象山の地質が堅いので、工事が手間取ると考えたためだった。東条首相(兼陸相)がおこったのは、その狭さに理由があったらしい。
 伊藤節三氏の話
 「概略の設計図ができたので、まずわたしは大臣室へ持っていきました。大臣は図面を見、わたしの説明が一通り終わると、きびしい口 調で

 『君ッ、この図面には行在所と大本営は書いてるが、政府機関のはいるところがまるでないじゃないか。これはどういうことなんだ。そもそもこの移転計画は、単に軍機関の移動を目的とするもんじゃないんだ。日本の政府全体が松代に移ることを目的としているんだぞ。わが国は軍政下にあるわけじゃない!すぐ書き直したまえ』

 しかたがないので『ハイ』と答えて引き下がりました」
 東条大将の『軍政下ではない』という言葉は、当時の東条内閣への風当たりの強さの中では、なかなか含蓄があっておもしろい。実際、東条内閣はその数日後に”やめさせられる”結果になる。しかし、それは別の話。こうして2度目の設計図が書かれ、松代の地下施設は、ようやくその膨大な全容を現してくる。
 (イ)地区──これは象山を中心にしたところで、象山の胎内にはほぼ東西に20本の隧道(本坑)を掘り、これを5本の連絡
    坑で結び、ここに政府機関約1万人を収容する。
 (ロ)地区──象山の南東、ノロシ山の一部(地元の人たちが白鳥山と呼ぶところ)の胎内には、3─5本の本坑を南北に貫通
    させ、これを6本の連絡坑で結ぶ。ここに陸海軍統帥部を収容。隧道の奥深くは、御前会議用の部屋も造る。行在所
    は、この隧道群の東寄りの山腹にはめ込みし式に、一部を露出して三棟造り、いずれも地下道で連結する。収容人員
    は、宮内省、大本営関係合わせて約2千人の予定。
 (ハ)地区──白鳥山の東北方にある皆神山(すりばち型の死火山で、地盤は比較的弱い)の胎内には、東西に2本の本坑を
    貫通させ、利用目的は、一応皇族方をお迎えすると仮定。そのほか
 (ニ)、(ホ)地区──として松代町から北東へ20キロほど離れた雁田山、神田山の山麓に燃料基地。
 (ヘ)地区──として、前記二山と並ぶ臥竜山に軍通信隊のための隧道
 (ト)地区──として象山から西へ2キロの妻女山に、一般政府機関のものもふくめた通信センターのための隧道が、それぞ
    れ計画された。
 これらの用途、規模は、その後たびたび変更されるが、大綱は変わらず、この設計通りに工事が進められることになった。施工命令は、陸軍大臣杉山元元帥(小磯内閣に代わった直後)から東部軍司令官藤江恵輔大将に対して出された。
(以下略)


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松代大本営 司馬遼太郎 軍隊は軍隊を守る-------------

 
「手さぐり 松代大本営 計画から差別の根源まで」原山茂夫(銀河書房)の第2章の「天皇は特別装甲車に乗って」というところに、司馬遼太郎の一文が引用されている。司馬遼太郎が「敵が本土に上陸してきた時に、避難する一般民衆の雑踏する中で、軍隊をどう移動するのか」ということについて質問したら”大本営からきた人”は「轢き殺してゆけ、といった」という部分である。少し長くなるが、「沖縄 ・先島への道 街道をゆく六」司馬遼太郎(朝日新聞社)から、その前後を含めて抜粋する。
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ホテルの食堂

 沖縄戦では、あれだけ惨憺たる状況だったにもかかわらず、県民は、いまからふりかえれば腹立たしいほどにけなげだった。それでも軍隊がときに住民を敵視し、加害者になったりした。
 「もともと沖縄人に対し、本土人に差別があったからでしょうか」
 と、かつてこの那覇にきたとき、町を案内してくれた沖縄タイムスの大湾さんが、べつに恨みをのべるふうでもなく、町内のうわさ話をしているような調子で、いった。大湾さんは、当時はたくましそうな体を黒いスーツに包んだ30代の好青年だったが、いまはおそらく、いい初老の紳士になっているであろう。


・・・

 私は、大湾さんの質問に答えねばならないが、それに対して答えられるほどの経験をもっていない。むろん答えにならないが、自分の中に、多分に仮定に近い経験だけはある。
 私は、以下のことは、以前どこかに書いた。大阪駅から東海道線に乗って名古屋を通過すると、大阪へ行くときには車窓から見えた名古屋城の天守閣が、栃木県へ帰るときには見えなかった。名古屋は一望の焼野原だった。そういう時期のことである。
 連隊に帰ってほどなく本土決戦についての寄り合い(軍隊用語ではないが)のようなものがあって、大本営からきた人が、いろいろ説明したような記憶がある。
 そのころ、私には素人くさい疑問があった。私どもの連隊は、すでにのべたように東京の背後地の栃木県にいる。敵が関東地方の沿岸に上陸したときに出動することになっているのだが、そのときの交通整理はどうなるのだろうかということである。
 敵の上陸に伴い、東京はじめ沿岸地方のひとびとが、おそらく家財道具を大八車に積んで関東の山地に逃げるために北上してくるであろう。当時の関東地方の道路というと東京都内をのぞけばほとんど非舗装で、二車線がせいいっぱいの路幅だった。その道路は、大八車で埋まるだろう。そこへ北方から私どもの連隊が目的地に急行すべく驀進してくれば、どうなるか、ということだった。
 そういう私の質問に対し、大本営からきた人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で──かれは温厚な 表情の人で、けっしてサディストではなかったように思う──
轢き殺してゆけといった。このときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに 何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか

 
しかし、その後、自分の考えが誤りであることに気づいた。軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。この軍隊の本質と摂理というものは、古今東西の軍隊を通じ、ほとんど希有の例外をのぞいてはすべての軍隊に通じるように思える。
 軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家もしくはキリスト教のためといったより崇高なものであって、具体的な国民ではない。たとえ国民のためという名目を使用してもそれは抽象化された国民で、崇高目的が抽象的でなければ軍隊は成立しないのではないか。
 さらに軍隊行動(作戦行動)の相手は単一である。敵の軍隊でしかない。従ってその組織と行動の目的も単一で、敵軍隊に勝とうという 以外にない。それ以外に軍隊の機能性もなく、さらにはそれ以外の思考法もあるべきはずがない。
 そのとき私が無知にも思ったように、軍隊が関東地方の住民を守るためにあるなら、やがて加えられるであろう圧倒的な敵の打撃に対し、非力な戦術的抵抗などせず、兵隊の一人一人が住民の上にかぶさってせめてもの弾よけになるしかない。私は戦車隊にいたから、大八車で北上してくる人々のうち何人でも乗せられるだけ乗せて、北関東の山地へゴロゴロと逃げてゆけばよいのである。唯一の例外かも知れない毛沢東のゲリラ軍の思想と行動法というのにはあるいはそういう面があったかと思える。
 私どもは、学校から兵隊にとられた素人兵であったが、何のために死ぬのかということでは、たいていの学生が悩んだ。ほとんどの学生は、父母の住む山河──そこには当然、人が住んでいる──を守るためだということを自分に言いきかせた。私の世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは、沖縄戦での特攻で死んだが、たいていの場合は、自分で抽象化した母国の住民群というイメージに自分の肉体を覆いかぶせて自分が弾よけになるというつもりであったはずである。

 軍隊というものの論理は、そういうものから超然としている。
 阿南惟幾(終戦時の陸軍大臣)という人は、そういう組織論理の中に属していなければ、人柄から察して別な思想と人格のもちぬしだったかと思えるが、それでも、終戦のとき降伏案に対し、かたくなに反対した。
 その理由は、日本陸軍はまだ本格的に戦っていない、というものなのである。あれほど島々で千単位、万単位の玉砕が相次ぎ、沖縄は県民ぐるみ全滅したという情報もあり、広島と長崎は原爆によって潰滅し、わずかな生残者も幽鬼のようになっているという事態のなかで、軍隊の論理でいえば「日本陸軍はまだ本格的に戦っていない」ということになるのである。
 島々の守備隊は、戦闘というよりただ潰されるがままに潰された。「本格的に戦っていない」というのはその意味なのである。であるから本土において、本土決戦用の兵力をひきい、心ゆくまで本格的に決戦すべきである、というのが阿南惟幾の思想と論理で、これが、軍隊の本質そのものといっていい。住民の生命財産のために戦うなどというのは、どうやら素人の思想であるらしい。


(以下略) 

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松代大本営 機密故の杜撰な泥縄式”マ工事” -------------

 松代大本営地下壕建設工事(軍の秘匿名”マ工事”)は、日本の通信のすべてに監督権をもっていたといわれる第11課長、仲野大佐が、松代工事の噂を聞きつけ、宮崎周一中将に文句を言いに行くまで、通信関係の工事には手がつけられていなかったようである。まさに”杜撰”としかいいようのない泥縄式の工事であったといえる。
「昭和史の天皇3」(読売新聞社)より、仲野好雄大佐の証言を中心に抜粋する。
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大がかりな通信隊

・・・
 …… 
もし、大本営が引っ越すとして、一番大事なのは、目であり、耳であり、神経である通信関係だ。これがしっかりしていないと大本営はオシでツンボ、どうにもならない。だから松代にがっしりした通信基地を作ることは、最初に井田少佐が”松代大本営”を提案したときから予定にはいっていた。ところがこれも最初は例の秘密主義で、通信関係者が松代工事の噂を聞き、こちらから言い出すまで、なんの指示も与えられなかった。
 参謀本部に第11課というのがあった。普通は通信課と呼ばれていたが、ここの課長は、課長という肩書きのほかに、大本営陸軍参謀、航空通信保安長官部参謀、運輸通信長官部参謀、野戦高等通信部長、野戦高等郵便部長という、合わせて6つの肩書きを同時に持っている。つまり、軍通信のすべてを掌握、その監督、立案、運営のほか、さらに、電波兵器の研究開発まで背負い込んでいる。また、当時の民間通信も、なんらかの形で軍通信と関連があったから、いうならば、第11課は日本の通信のすべてに監督権をもっていた、といってよい。だから、課には佐官参謀が11人もいる。もっとも、課員は、少佐を筆頭に文官まで入れて30人。ほかにタイピスト、女子挺身隊など、女の子が200人、といった頭でっかち、いや神経中枢であった。当時この11課長、仲野好雄大佐(現、手をつなぐ親の会専務理事)という人だった。

 まずその仲野氏の話を聞いてみよう。
 「19年の秋ごろ、どこからか松代大本営の噂を聞いた。それがほんとうなら、
一番肝心な通信の担当課長であるわたしのところへ連絡 があってしかるべきだと思い、第1(作戦)部長の宮崎周一中将のところへ文句を言いに行った。中将は中学の先輩だからズケズケものが言える。
 『通信なしで、全軍の指揮をどうしてやる。松代に大本営を移すということは、軍機には違いないが、秘密保持もほどほどにしてもらい たい。こちらは移るとなっても、荷物をフロシキに包んでかついで行けばいい、というものじゃあない。いろいろと仕掛けもやらねばならぬ』 中将は怒りもせず
『それは悪かった。すぐ松代へ行ってくれ』
 という。それですぐ参謀1人を連れて出かけた。まだそのころは大っぴらに軍服では行けないので、背広で行った。開戦直前までロンド ンで武官補佐官をしていたので、当時作ったパリッとした背広で行ったことを覚えている」
 仲野大佐は帰って班長(課長補佐)の平岡与一郎中佐に大体の地形などを説明、細かい基地設営の作戦を立てるように命ずる。平岡与一郎氏(現、沖電気工業顧問)の話。
 「課長から命令をもらったのは、20年1月だと思う。2月に現地へ行ったら、象山、白鳥山、皆神山の工事は進んでいたが、特に通信 隊のための壕はまだなかったので、あちこち歩き回り、結局、須坂町の東南方に丘陵に囲まれた平地を見つけ、このあたりを送信所ときめ、ここに壕を掘ってもらうよう、現地の作業隊に頼んでかえった」
 そこは白鳥山から20キロほど離れた鎌田山地区で、運輸省の松代建設隊が第2期工事として予定していたところである。
 「2ヶ月ほどしてもう一度行ったらコの字型の地下壕ができており、中に入ると、コの字の縦の線の部分に2本の横穴が掘ってあった」 ところが、ちょうどこのころ、相次ぐB29の猛爆によって、有線がズタズタにされつつあったので、傍受される危険はあっても、たち切られるおそれのない無電を主体とした通信手段の再編成、大本営で採りあげられ、新たに大本営陸軍部通信隊司令部(略称大陸通)が置 かれることになり、その司令官に、サイゴンの南方総軍司令部にいた佐々木省三少将(現、株式会社ヤシカ秘書室長)が迎えられた。 


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松代大本営 ”アリ輸送”中止の独断----------------

 昭和20年4月中旬、大本営移転準備命令が発せられた。にもかかわらず、小林四男治中佐は移転にそなえる輸送を中止した。梅津参謀総長や阿南陸軍大臣から、関係部署に命令が発せられているにもかかわらず、陸軍省次級副官兼大本営参謀であったとはいえ、小林中佐は独断で輸送を中止したというのである。帝国陸軍において、大本営の行く末にかかわる軍命がそれほど軽いものであったとは考えにくい。なぜ、何の進言や相談もなく命令を無視できたのか、一部に合意があったのか、あるいは、大戦末期、それぞれが独断で行動するしかないほど混乱していたということなのか、疑問が残る。下記は「昭和史の天皇 3」(読売新聞社)から小林四男治中佐の証言を中心とする部分の抜粋である。
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”アリ輸送”を中止

 大本営移転にともなう通信基地の設置は大前提であり、常識であるが、いよいよ御本尊の大本営そのものの移転準備命令が出たのは20年4月の中旬だった。この命令は、阿南陸相から陸軍省の副官部に伝えられた。そして、ほとんど同時に、梅津参謀総長から参謀本部総務課にも同じ命令が出された。陸軍省は軍政面、参謀本部は軍略面を担当していたからである。
 小林四男治氏(当時、陸軍省次級副官兼大本営参謀、中佐、現は略)の話
 「阿南陸相から高級副官を通じてだったと思うが、大本営移転命令を受けたのは、確か4月の中旬だった。わたしは、杉山陸相のときか ら副官をしていたが、小磯内閣が桂冠、杉山元帥も第一総軍司令官に出られ、わたしも4月から次級副官になっていた。
 命令の内容は、20年7月中旬(確か15日だと思う)から移転を開始し、1ヶ月後の8月15日までに完了させるというもので、その最後の15日には、両陛下も松代の行在所にお移しするという計画だった。ともかく松代へ行って様子を見ることだが、その前に、食糧などの物資を集めるのがうまくて、しかも、現地の官民に顔のきく助手が1人ほしいと思った。というのは、大本営が松代に移るとなると、要員は相当の人数になる。これらの人たちの食糧や日用品は、できるだけ現地で調達自給した方がよいと考えたからだ。
 当時、軍は相当の物資を確保していた。東京周辺にもかなり集積していた。国内で、しかも近いんだから、そんなものは東京から送ればいいと思うかもしれないが、戦況はすでに東京ー松代間さえ遠いものにしていた。そのころ、わが軍の暗号はほとんど敵に解読されていたし、飛行機による偵察も行き届いている。そんな中での”大移動”は、何らかの手段で敵に知られ、途中でねらい打ちの空襲をうけるに決まっている。鉄道やトラックを使っても、碓氷峠を無事こせるかどうかが危ぶまれるほどの状況だった。だから、東京からの物資輸送は最小限にとどめ、できる限り現地自給体制を整えようと考えたのだ。
 わたしは、どうもそんな工作は不得手なので、だれかいないかと、あれこれ知り合いの顔を浮かべていたら、そのころ陸相官邸に料理を入れていた、東洋軒の社長の金子信男(故人)という人が浮かんだ。長野県諏訪の出身、長野の知事も知っているし、仕事の関係で大蔵省の人たちともつき合いがある。気っぷもいい、顔も広い。そこで金子さんを呼んで事情を話したら、『決死の覚悟でご奉公しましょう』という。
 そこでわたしは金子さんを佐官待遇の軍属に採用、4月下旬、彼を連れて長野へ行った。その足で長野師管区司令官平林中将をたずね、金子さんとその任務を紹介、物資調達とその輸送に協力してほしいとお願いした。もちろん平林中将は『全力をあげてやろう』といってくれた。金子さんはすぐ腹案として、米や野菜、魚、薪炭は裏日本の富山、新潟、石川方面から集める考えだというようなことを説明していた。帰りに2人で松代の工事現場をひと通り見てきた。そして5月になって、もう一度工事の進みぐあいを見に行った。

 そのころ、参謀本部の総務課では、消耗品や毛布類を汽車やトラックでどんどん運び込んでいたが、そのうちに、わたしはどうも気が進まなくなってきた。命令を受け、移転準備の段取りは一応、整えたものの、空襲はますます激しく、結局、アリ輸送のようなことになる。しかもそれさえうまくいくかどうかわからない。それに肝心なことは、大本営が、敵が上陸してこないうちに、いきなり松代へ引っ込んで
しまったのでは、本土決戦なんてできない。敵がきたら大本営は戦況に合わせて適時、適当の場所にいないとほんとうの指揮はそれない。そう考えると、何でもかでも松代へいいものかどうか、決心がつかなくなってきたのだ」
 荏苒日が過ぎる。イライラしてきたのは、金子氏である。食糧をはじめ諸物資の手当をつけたから、できたものから松代へ運び込みたいのだが、やれという小林中佐からの指示がない。まだか、まだか、と催促するが、中佐は一向腰をあげない。とうとう7月にはいった。命令では7月15日から引っ越し開始になっているが、その7月も5日、10日と過ぎた。
 小林氏の話。
 「たしか、移転開始期日の15日だったと思うが、金子さんがこの日もヒザ詰めの催促にやってきた。
そこでわたしは、はじめて決心した。輸送を開始せよ、ということでなくて『輸送はやめる』ということだ金子さんは怒ったね。
 『移転完了目標の8月15日までにあと一月しかない。いま始めないと、間に合わない。どうするんです。』
 とくってかかる。しかし、
わたしはとうとう輸送はしなかった。処分されればされていい、と覚悟を決めていた。終戦後、金子さんが
 『さては、あなたは終戦を一月前から知っていたんだな』
 といったが、そんなこと知るわけがない。先にもいったように、わたしは敵もこないうちに、大本営が松代へ直行することに賛成じゃなかったからだ。本土決戦が始まったら、適宜、最重点のところへ大本営を移す方がよい。この考えからすれば、いきなり松代にすべての物 資を送り込んでしまうのは考えものだ、と思ったからやめたのだ。もっとも、わたしも大本営参謀を兼ねていたから、軍略的には、敵が本 土へ上陸した場合は、陛下と大本営の安全を図り、指揮、統帥に遺憾ないよう準備する責任は痛感していたが、実際問題として、この時点では松代へ、アリ輸送にしろ、物資を送れる状況ではなかったのだ」
 

 
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陸軍中野学校 秘密戦士(スパイ)養成学校------------

 昭和12年末、陸軍内部に密かに謀略を専門とする養成所が設けられ、20人を入所させた。それが、後方勤務要員養成所であり、後の陸軍中野学校である。後方勤務要員養成所創設の中心メンバーは、陸軍省軍務局の岩畔豪雄中佐、兵務局付の秋草俊中佐、福本亀治中佐の3人であったという。
「昭和史七つの謎」保阪正康(講談社)より、その創設当初の部分を抜粋する。
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謀略のスペシャリスト

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岩畔は、昭和31年に「準備された情報戦」というタイトルである雑誌に、中野学校創立時の意図を明かしているが、1930年代にはどの国も情報機関を整備していたといい、ソ連のんKGB(後のKGB)、ドイツのゲシュタポ、イギリスMI6などに比べると、日本は外事警察のような組織があるにせよ、それは「銭形平次の現代版」ていどにすぎなかったと記している。やっと昭和12年に兵務局付の組織として、牛込区若松町に木造の兵舎が建てられ、秋草をキャップとして、福本ら十数人の防諜要員が外国会館の盗聴を行うことになったというのである。この機関の中心人物が養成所創設の旗振り役を務めるが、日中戦争の謀略スタッフを本格的に養成することをねらいとしつつ、どのような学生を入学させるかについては頭を痛め、「結局、幹部候補生出身の将校中から適任者を選抜すること」にしたのだという。
 さらに岩畔によれば、筆記試験に合格した者は次いで口頭試問でよりわけるのだが、そのときは次のような問題をだしたのだという。
 「黒地の紙に墨で字が書いてあるが、どのようにすれば判読できるか」
 「野原に大小便のあとが残されている。それは男の者か、あるいは女のものか」
 「妙齢の婦人が歩いている。この女性と話をするきっかけはどうつくるか」
 「日露戦争時の明石元二郎大佐の活動をどう思うか」
 こうして20人を選んだのだという。そして当初は1カ年を教育期間としたが、その教育内容は「性格の陶冶、学科および術科の三大部 門に分かれ、性格の陶冶として秘密戦士に具えるべき気質、つまり積極性、不屈性、剛胆、細心、機敏などを訓練し、とくに物欲、名誉欲 、生への執着などの欲望から超脱して、縁の下の力持ちたることに甘んずる心境に到達することを目標」にしたという。その強い精神力を土台にスパイとしての特殊技術、語学実習、護身術などに力をいれたというのだ。

アッと驚く修了テスト
 第1期生20人は、ほとんどが高等専門学校や大学を卒業後、予備士官学校を出た者たちで、
彼らは入所と同時に本名を用いることは禁止され、防諜名を使用した。さらに、軍服は一切着ずに背広姿となり、頭髪も長髪とした。
 それだけではない。陸軍内部では、会話のなかでも天皇の名がでると誰もが姿勢を正すのであったが、この養成所ではそれがない。
天皇の名がでて姿勢を正すと軍人ということがわかるので、誰もが自然のままにしていたり、ときに「天皇」と呼び捨てにしたりもするのだという。ひとたび商人や商社員、あるいは中国人に化けてしまうと、「天皇」という語に姿勢を正すのは不自然だからである。
 第1期生が書き残している手記からは、天皇についてのタブーは一切なく、「天皇や国体について学生に自由に議論させました」との一 節を容易に見ることができる。表面上は皇国史観を排していたのである。
 第1期生20人(実際の卒業生は19人)のレベルがあまりにも高かったのが、この養成所が陸軍中野学校として拡充されていく契機に なった。そのレベルを知るエピソードがある。
 昭和14年8月、第1期生の修了時には驚くような修了テストが行われた。初代所長の秋草は、ある一日を限って、その日に陸軍軍務局や兵務局の重要書類を盗みだすよう命じたのである。むろんこのことは陸軍省の将校たちとてまったく知らないことだ。夕方の定められた時間までに19人の学生は、命じられた部局から重要書類をすべて盗みだし、秋草のもとに届けている。
 秋草からこの報告を受けた陸軍省の局長たちは唖然とした表情だったそうだ。この第1期生は大体が参謀本部の班員になったという。陸大卒業の将校と同じ扱いを受けたのである。
 こうした工作員をもっと大がかりに、体系立てて養成するために、養成所は昭和14年春に陸軍中野学校として組織替えがおこなわれることになる。東京・中野の電信隊の建物を改装し、設備も整えたうえに、しばらく参謀本部第2(情報)部長の隷下にあったが、やがて養成所は陸軍大臣直轄の学校にと変わった。
 第2期生(乙Ⅰ期)は昭和14年11月にこの新しい建物に入学したのだが、学生の選抜も正規将校(陸軍士官学校出身者)や下士官、それに一部の有能な兵士にまでその範囲を広げていった。学生数も百人、2百人と広がっていき、加えて教育内容もすべての科目を施すのではなく、専門別教育(盗聴なら盗聴の専門家、ゲリラ戦のためのゲリラ戦士、戦況がどうあれ敵地に潜入する工作員、敵地に住みついて情報を送ってくる残地諜者まど)に分かれていったというのである。その分だけ教育期間もまた短くなっていった。

諸官は一人で一個師団に相当する
 昭和20年8月15日までの間に、陸軍中野学校出身者はおよそ2500名を数えている(この数字も諸説あるが、昭和20年8月15日段階では、わずか1週間しか在学していない者もいた。彼らを含めるか否かで数字は変わってくる。ここでは含めておく)彼らの情報収集力、分析力、謀略工作の能力、それに精神的な強靱さは、太平洋戦争が始まってからは、重要な「戦力」であった。
 前述した「防諜記」のなかでも紹介されているのだが、
陸軍中野学校修了時の式には、杉山元参謀総長が臨席して必ず「諸官一人一人は、すなわち1個師団の兵員である。諸官ら優秀なる秘密戦士は、敵の何個師団もの兵力を壊滅せしめるだろう」と挨拶するのが常であったが、実際にこれらの工作員は中国各地で、東南アジアで、あるいはヨーロッパで、そして日本国内で意外なほど多くの謀略工作に携わったのだ。(以下略)


一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。


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