-NO82~90-
------------731部隊 ハバロフスク裁判公判書類 証言------------

 下記は、
「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会編(晩聲社)に収録されている「細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」の一部抜粋である。
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           細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類

  緒言

 1949年12月25日より30に到る迄ハバロフスク市では、細菌兵器の準備及び使用の廉で起訴された元日本軍軍人12名の公判が行われた。
 裁判に付された者は、元日本関東軍司令官山田乙三大将、元同軍軍医部長梶塚隆二軍医中将、元同軍獣医部長高橋隆篤獣医中将、元第731細菌戦部隊部長川島清軍医少将、元第731部隊課長柄沢十三夫軍医少佐、元第731部隊部長西俊英軍医中佐、元第731部隊支部長尾上正男軍医少佐、元第五軍軍医部長佐藤俊二軍医少将、元第100細菌戦部隊研究員平桜全作中尉、元同部隊員三友一男軍曹、元第731部隊第643支部衛生兵・見習菊池則光上等兵及び元第731部隊第162支部衛生兵・実験手久留祐二、──以上の者であった。
(以下裁判長や判事、法務官、それぞれの被告の弁護士や細菌学及び医学上の諸問題に関し鑑定を下した鑑定委員会の成員の紹介が続くが省略)


 
起訴状(略)

 細菌戦ノ準備及ビ実行行為ノ特殊部隊ノ編成(略)


 生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験

・・・
 元満州国軍憲兵団日本人顧問証人橘猛男ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……被訊問者ノ中ニハ、私ガ担任シテイタ憲兵隊本部特高課関係デ処置サレルベキ部類ノ者ガアッタ。此ノ部類ニ該当
   シタ者ハ、パルチザン、在満日本当局ニ対シ極度ニ反感ヲ有スル者等デアッタ。斯ル囚ニ対シテハ、私達ハ、コレヲ処置
   スベク第731細菌戦部隊ニ送致シタ故、
裁判手続ハ行ワナカッタ……」(第6冊95頁)
 他ノ証人、元哈爾濱憲兵隊長木村ハ、本人立会ノ下ニ、第731部隊長石井中将ガ哈爾濱憲兵隊長春日馨トノ談話ニ於テ、今後モ、従来通リノ方法デノ「実験」用ノ被検挙人ヲ受領シ得ルコトヲ確信スル旨言明シタコトヲ訊問ニ於テ確認シタ(第2冊194頁)
 ソビエト軍ガ押収シタ在満日本当局ノ諸記録ノ中ニアッタ日本憲兵隊本部ノ公式書類ハ、1939年及ビ夫レ以後ニ囚人ノ所謂「特移扱」ガ行ワレテイタコトヲ重ネテ確証シテイル。就中、1939年、囚人30名ヲ「特移扱」ニヨり、石井部隊ニ送致スル事ニ関スル関東軍憲兵隊司令官白倉少将ノ命令第224号ガ発見サレタ(第17冊─38頁)
 囚人ノ大量殺戮ハ、被告
川島清ノ供述ニヨッテ立証サレテイル──
   「第731部隊ニハ、毎年、500─600名ノ囚人ガ送致サレタ。私ハ、同部隊第1部勤務員ガ憲兵隊ヨリ囚人ノ多人数ノ組
   ヲ受領シテイルノヲ見タ。」(第3冊59頁)
   「私ハ、部隊ニ於ケル 私ノ職務上承知スル資料ニ基キ、
第731部隊デハ、実験ノ結果、毎年少クトモ約600名ノ人間ガ
   死亡シタコトヲ言明シ得ル
」(第3冊146頁)
   (以下略)

 同様ノ犯罪ガ第100部隊ニ於テモ行ワレ、同部隊デハ第2部第6課ガ、生キタ人間ヲ使用スル実験ヲ専門ニ担当シテイタ。
 第100部隊実験手証人
畑木章ハ、同部隊ノ業務ヲ性格ズケテ、次ノ如ク述ベタ──
   「……関東軍第100部隊ハ、「軍馬防疫廠」ト称サレテイタガ、鼻疽菌、炭疽菌、牛疫菌、即チ獣疫ノ病原体ヲ培養シ、繁
   殖シテイタカラ、実際ニハ細菌戦部隊デアッタ。
第100部隊ニ於ケル細菌ノ効力試験ハ、家畜及ビ生キタ人間ヲ使用スル
   実験ニヨッテ行ワレタ
。是ガ為、同部隊ニハ、馬、牛及ビ其ノ他家畜ガ有リ、亦隔離所ニハ、人間ガ留置サレテイタ。私
   ハ、コレヲ直接見テ知ッテイル」(第13冊111頁)
 第100部隊ニ獣医トシテ勤務シタ他ノ証人
福住光由ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……第100部隊ハ、実験隊トシテ、細菌学者、化学者、獣医及ビ農業技師の如キ研究員ヲ擁シテイタ。該部隊ニ於ケ
   ル全業務ハ、ソビエト同盟ニ対スル謀略細菌戦ノ準備ヲ目的トシテイタ。
該部隊ノ勤務員及ビ其ノ各部員ハ、家畜及ビ
   人間ノ大量殺戮ノ為ノ細菌並ニ猛毒ノ大量用法ニ関スル研究ヲ行ッテイタ
」。
   「……
是等ノ毒薬ノ効力ヲ検定スル為、家畜及ビ生キタ人間ニ対スル実験ヲ行ッテ来タ……」(第13冊48頁)
   (以下略)


 ソ同盟ニ対スル細菌戦準備ノ積極化

 1941年、ソ同盟ニ対スルヒトラー・ドイツノ背信的攻撃ノ後、日本ノ軍国主義者共ハ、対ソ戦参加ノ好機ヲ待チ、細菌戦遂行ノ為ニ編成シタ細菌戦部隊及ビ其ノ支部ノ展開ト整備ヲ満州デ積極的ニ促進シタ。
 「関特演」(即チ、1941年夏ニ採用サレタ対ソ攻撃ノ為ノ日本関東軍ノ展開計画)ニ従イ、第731部隊及ビ第100部隊ハ、細菌兵器の用法ノ徹底及ビ其ノ使用ノ為、将校、下士官ノ特別教育ヲ組織シタ。
 元関東軍獣医部長
高橋隆篤中将ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……「関特演」ト称スル作戦計画書作後成得在満各軍司令部ニ「軍馬防疫」隊ヲ編成シ、第100部隊ヨリ派遣シタ獣
   医・細菌専門家ヲ各部隊ノ長トシタ……
   此等ノ部隊編成ハ、日本軍参謀本部第1作戦部ガ発案シタモノデアル……。
  
 「軍馬防疫」隊ノ任務ハ、ソビエト同盟ニ対スル細菌戦及ビ謀略ノ準備ト実行デアッタ……」(第11冊53─54頁)
 被告
川島ハ、1941年ニ於ケル日本ノ細菌戦準備強化ニ関シ供述シタ際、次ノ如ク述ベタ──
   「……1941年夏、独ソ戦開戦後、私ガ、石井中将ヲ訪レタ際、石井中将ハ、村上中佐及ビ太田章大佐──各部長出席ノ
   下ニ、部隊ノ活動強化ノ必要ナルコトニ就キ述ベ、細菌戦用兵器トシテノ、ペスト菌ノ研究ヲ促進スベシトノ日本軍参謀総
   長ノ命令ヲ私達ニ読聞カセタ。同命令ニハ、ペスト病ノ媒介体タル蚤ノ大量飼育ノ必要ニ関シ特記サレテアッタ。」
   (第3冊28─29頁)
 元第731部隊教育部長
西ハ、ヒトラー・ドイツ対ソ攻撃当時ニ於ケル──日本ノ細菌戦待機態勢ニ就キ次ノ如ク供述シタ──
   「……1941年、ドイツ対ソ同盟攻撃及ビ満州ニ於ケル関東軍ノ満ソ国境集結時ニ於テ、第731部隊ニ於ケル効果的細
   菌攻撃用兵器ノ製造ニ関スル研究業務ハ、大体ニ於テ完成サレ、
同部隊ノ爾後ノ業務ハ、細菌ノ大量生産過程及ビ細菌
   撒布方法ノ改良ニ関シテ実施サレタ。最モ有数ナ攻撃手段ハ、ペスト菌ナルコトガ判明シタ
」(第7冊124頁)

・・・

 第731部隊及ビ第100部隊並ニ其ノ各支部ニ於ケル、ソヴィエト同盟ニ対スル細菌戦ノ準備活動ガ、特ニ積極的ニナッテ来タ第2期 ハ1945年デアッタ。
 被告
西ハ、此ノ点ニ関シ、次ノ如ク供述シタ──
   「……1945年5月、私ガ直接、石井中将ニ報告シタ際、石井中将ハ、私ニ対シ、細菌材料、就中ペストニ関スルモノノ製
   造強化ノ必要ヲ特ニ強調シタ。石井ノ言ニヨルト、是ハ、当時、情勢ノ発展ガ、何時敵ニ対スル細菌攻撃ノ必要ガ生ズルカ
   モ知レナイ状態ニ有ッタ為デアル」(第7冊130頁)
 此ノ指令にヨリ、第731部隊ノ各支部ハ、蚤の繁殖ニ必要ナル齧歯類(二十日鼠)、鼠ノ大量捕捉、繁殖及ビ之ノペスト感染ニ関スル 業務ヲ強化シ、ソノ為各支部及ビ一般部隊ニモ特別班ヲ組織シタ(第10冊30,176,193,第2冊168頁)。此ノ時期ニ、実験業務ガ強化サレ、生産応力ヲ増大シ、細菌戦材料ヲ貯蔵スル為、設備ガ更ニ更新サレタ。
 元日本関東軍司令官山田大将ハ、彼ノ直轄部隊デアッタ細菌戦部隊ノ潜在生産応力ニ就キ訊問サレタ際、其レガ極メテ大ナルコトヲ確認シ「必要ノ場合ニハ、第731部隊ノミデモ、其ノ兵器デ、日本軍ノ細菌戦遂行ヲ確保シ得タ」ト述ベタ(第2冊6頁)

 ソヴィエト同盟及ビ其ノ軍事力ハ、帝国主義日本ノ支配閥ノ細菌戦開始ノ犯罪的企図ヲ挺折セシメタ。
 ソヴィエト軍ハ、満領ニ進出シ、敵ヲ痲痺サセル急速ナ打撃ヲ敵ニ与エ日本ノ主要ナ軍事力タル関東軍ヲ最短期間ニ撃破シ、帝国主義日本ヲ無条件降伏ノ余儀ナキニ至ラシメタ。
 被告
山田ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……ソヴィエト同盟ガ対日戦参加シ、
ソヴィエト軍ガ急速に満領内深ク進撃シ来ツタ為、吾々ハ、ソ同盟及ビ其ノ他ノ諸
   外国ニ対シテ細菌兵器ヲ使用スル機会ヲ奪ワレテ了ッタ
……」(第18冊133頁)


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731部隊 ハバロフスク裁判 凍傷実験の証言-------------

 下記は
「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)に収録されたハバロフスク裁判の「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」から、凍傷実験に関わる部分の一部を抜粋したものである。
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       細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類

 生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験

・・・

 虐殺サレタ者ノ死体ハ、第731部隊監獄ニ隣接スル特別ノ火葬場デ焼却サレタ。事件ニ関シ訊問サレタ証人及ビ被告ハ、拷問場タル第731部隊構内監獄ニ「被実験材料」トシテ投獄サレタスベテノ者ニ対スル非人道的拷問、暴行及ビ侮蔑行為ニ就キ供述シタ。
 証人
倉員ハ、次ノ如ク供述──
 「……各階ニハ、研究室用ノ数室ガアリ、中間ニハ、被実験者或ハ、田坂曹長ガ私ニ語ッタ如ク、部隊内デ丸太ト称シタ囚人ヲ収容スル監獄ガアッタ監獄ニ収容サレタ者ノ中ニハ、中国人ノ外ニ、ロシア人モ居タコトヲ私ハ確ニ 記憶シテイル。或監房ニ於テハ、私ハ、中国ヲ見タ……監房ニアッタ者ハスベテ、足枷ヲ嵌メラレテイル。
3人の中国人ハ手ノ指ヲ切リ取ラレ他ノ者ハ、指ノ骨ガ露出シテイタ。 吉村ハ、是レガ彼ノ実験シタ凍傷実験ノ結果デアルコトヲ私ニ説明シタ……」(第2冊371頁)
(以下略)

・・・

 囚人ニ対スルペストソノ他ノ急性流行病感染ノ犯罪的実験ノ外、第731部隊デハ、生キタ人間ノ手足ヲ凍傷ニ罹ラセル非人道的ナ実験ガ広範ニ実施サレテイタ。囚人ニ、其ノ手足ヲ、特別ノ水入リノ箱ニ入レシメ、手足ガ凍傷ニ罹ル迄、ソノ箱カラ出サセナカッタ。
 証人
古都ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……
毎回2名乃至16名ノ足枷ヲ嵌メラレタロシア人、満州人、中国人及ビ蒙古人ヲ、寒気ニ曝シ、武器ヲ以テ脅迫シ、裸手(時ニ ハ、片手、時ニハ同時ニ両手)ヲ水ヲ入レタ桶ニ漬ケシメ、然ル後、濡レ手ヲ、10分乃至2時間の間、寒気ニ曝サシメタ。曝ス時間ハ、 気温ニヨッテ異ナッタ。而シテ、彼等ガ凍傷に罹ルヤ、之ヲ監獄内ノ研究室ニ連レ込ンダ」(第5冊317頁)
 此等ノ犯罪的実験ノ結果ハ、多クノ場合、被験者ノ壌疽、四肢切断オヨビ死亡デアッタ。此等ノ実験ノ目的ハ計画サレタ対ソ戦闘行動 ノ際ニ於ケル四肢ノ凍傷予防ノ研究デアッタ。

(以下略)


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731部隊 ハルビン特務機関ロシア語通訳の証言------------

 731部隊の撤退は早かった。1945年8月8日ソ連の参戦の何ヶ月も前から家族持ちの部隊員に家族の帰国希望を聴取し、6月には すでに家族を帰国させていたという。そして、ソ連参戦直後の9日からすぐに証拠隠滅を中心とする撤退準備を開始し、七三一部隊は日本軍の他の部隊より一足早く撤退したのである。この時、多くの満州開拓団の人たちのことなど頭になかったのだろうか。そして、いち早く帰国した人たちは、その後の満州開拓団の人たちの悲劇をどのように感じているのであろうか。
 撤退準備の第一の課題は、人体実験の証拠を隠すことであったというが、信じがたいのは、そのときロ号棟中庭の七棟と八棟に実験目的で収監されていたいゆる「丸太」の殺害が行われたということである。また、家族を帰国させる手配をしながら、さらには、撤退準備をしながら実験目的の「丸太」は集め続けられていたことである。そして、その数がまた信じがたい。下記は
「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」常石敬一(講談社現代新書)からの一部抜粋である。
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 ハルビン特務機関ロシア語通訳で兵長の金城五郎は1947年7月18日、モスクワで次のように証言している。特務機関というのはス パイ機関で、敵の動静を探ることと、敵のスパイを摘発することが仕事だった。部隊で人体実験されたソ連人を送り込んだのも特務機関だった。「最後の送付は昭和20年8月13日あるいは14日にして其の数は30名以上なりき。尚其以前2~3名宛2回にわたり同部隊に 送付せる事実を余は承知せり」彼も「実験目的は知らざるも彼等が其の結果として死亡する事は承知」していた。


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731部隊 米軍の細菌戦 捕虜飛行士の証言-- -----------

 下記は、『アメリカ軍の細菌戦争』と題された国際科学委員会調査団の調査報告書に「付録37」として付けられたもので、朝鮮戦争で細菌戦を展開したという捕虜飛行士の供述書である。「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)から一部抜粋した。
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            アメリカ帝国主義者はどうして細菌戦をはじめたのかの真相(付録37)
                                           (1952年4月7日・捕虜ケニス・L・イノック供述書)

 1951年8月末の2週間、わたしは日本の岩国にいた。第3爆撃連隊は8月いっぱいかかって、朝鮮の群山に引っこしをやった。一番最後に引っこしたのは、地上学校であった。地上学校が群山にうつったのは、9月のはじめであった。わたしが岩国にいたときには、アメリカからやって来たての乗員が15人いて、みんな地上学校にかよっていた。
……

・・・

 1951年8月25日の午後1時、われわれは地上学校航空教室の秘密講義に出席した。わたしの記憶では、この講義に出席したのは、10人の操縦士と15人の航空士であった。操縦士のなかには、ブロートン中尉、シュミット中尉、レマク大尉がいたのをおぼえている。航空士のなかでは、ブラウン中尉、ハーディー中尉、ド・ゴー中尉、ジーリンスキー中尉、カーヴィン中尉、ラーソン中尉と、それにわたしがいたのをおぼえている。わたしは、ラングリー飛行場でいっしょに仕事をしたことのある操縦士や航空士をのぞいて、ほかの人は誰も知らなかった。われわれの教官は民間人のウィルソン氏であった。かれ以外の教官はこの講義にだれ一人参加しなかった。
 ウィルソン氏は、この講義が細菌戦に関するものであると語った。われわれの側では、いま細菌戦をやる計画はないが、いずれやるときがくるかも知れないのであるから、講義は秘密であって、その内容は誰にも洩らしてはならないし、仲間同士でもしゃべってはいけないと、かれはいった。
 ウィルソン氏の講義はおもに、細菌戦の兵器についてであった。かれは標本をもっては来なかったが、細菌をそのまままいたり、虫やけだものにつけてまいたりする細菌撒布のいろいろの方法を論じた。ウィルソン氏の講義の内容は、次のようなものである。
 細菌をそのまままく方法。(1)チリと細菌をまぜたものをつめた爆弾をおとす。この爆弾は空中でひらき細菌のついているチリを風でまきちらす。(2)噴撒装置によって、飛行機からじかにチリをまく。こうしてチリをまいた所では、どこでも空中に細菌がちらばる。(3)細菌とチリをいっぱいつめた容器をおとす。つまり水の中にはいると口をあける爆弾か、水にぬれると口をひらくボール紙製の容器を貯水池や湖の中に投下する。この水を人や獣がつかい、また昆虫がそれらの細菌をつけて伝播する。
 昆虫をおとす方法。(1)外形は普通の爆弾のように見えるが、中には細菌をつけた虫をいっぱいつめてあり、地面にふれると口がひら き、細菌をつけた虫が外へ出るようになっている爆弾をおとす。(2)地面にふれると口がひらいて、細菌をつけた虫がとび出すようになっている、ボール紙製の容器をおとす。(3)動物に虫をくっつけばらまく。
 動物にくっつけて細菌をまく方法。(1)地面にふれると、動物を外へ出すよういなっている落下傘容器で、ねずみ、うさぎその他の小動物をおとす。その小動物には、細菌のついた、のみやしらみがくっついている。(2)舟をつかって、このようなけだものを敵の後方の海岸から陸にはなす。
 細菌をまくその他の方法。(1)細菌のついたビラ、チリ紙、封筒その他、紙で出来たものをおとす。(2)細菌のついた石けん、衣類をおとす。(3)細菌の入っているインキを入れた万年筆をおとす。(4)細菌のついた食物を敵陣におとす。また、榴弾砲や迫撃砲を使って細菌をまくことができるが、前線からの距離がちかいので、この方法をつかうのは安全でない。
 まくことができる細菌の種類は、たくさんある。あまり知られていない特別の細菌のほかに、発疹チフス、チフス、コレラ、赤痢、ペスト、天然痘、マラリヤ、黄熱病など、よく知られている病気の細菌をつかうことができる。細菌をはこぶ虫の種類は多く、いちばん普通なのは、しらみ、のみ、はえ、蚊である。
……

・・・


 わたしの、次の飛行は、1952年1月6日であった。われわれは、緑八号ルート(平壌と沙里院の間)にそって飛行することになり、午前3時に出発した。搭乗員は、操縦士アモス大尉、航空士がわたし、砲手トレーシー軍曹であった。いつものように、アモス大尉とわたしは、出発一時間まえの午前2時に大隊訓練室と大隊作戦部へ報告にいった。いつもそこで、さいきんの天候と飛行任務についての通達を うけることになっていた。その夜、わたしの知らない当直将校の大尉から、黄州へ飛行し、そこで外翼の爆弾2個をおとし、それから他の 爆弾をできるだけ早く投下して、群山へかえれとの指令をうけとった。
 また、黄州では、高度500フィート、最高時速200マイルで投弾するように、かれは命令した。われわれは訓令によると500ポンド爆弾10個をつまねばならないので、高度が低すぎはしまいかと、かれに注意した。しかし、かれは、これは極秘だが細菌爆弾なのだから、この仕事については、誰にも話してはいけない、といった。かれは翼の爆弾はもう積込ずみで、われわれにかわって点検してあるから、心配はないし、かえってきた時は、不発弾として報告するように命じた。それから中隊作戦室へいった。そこで砲手にあった。かれは大隊には報告にいかなかったので、わたしの知っているかぎりでは、われわれの特殊任務のことは知っていなかった。外へでて飛行機のそばにゆくと、整備部から派遣された番兵がたっていて、翼の爆弾はもうしらべてある、とわれわれがもはや知っていることを、われわれにつげた。わたしは弾倉のなかの6個の爆弾を点検した。6個の爆弾は、普通の500ポンド爆弾であった。
 3時に黄州へむかって出発した。
……(以下略)  


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朝鮮戦争 細菌戦 第一海兵飛行大隊参謀長の証言------------

北朝鮮や中国が細菌戦の非難をはじめて以降、捕虜になったアメリカ空軍軍人の自供が朝鮮戦争終結まで続いた
。「現代朝鮮史第2巻」D・W・コンデ著陸井三郎監訳(太平出版社)によると、その数38人にのぼるというが、そのなかで、もっとも階級が高い将校の一人は5 2年7月8日に撃墜されたアメリカ海兵隊フランク・H・シュウァーブル大佐で、第一海兵飛行大隊参謀長の立場にあった人物であるという。下記はその証言の一部であるが、捕虜になった操縦士や飛行士に長時間の面接をした国際科学委員会の調査団は、「かれらは完全に正常で、申し分なく健康であるようにみえた。……したがって調査団は、飛行士の証言を真実で信頼できるものとして受けいれた。この証言は、すでに戦地で集められた厳密に科学的な観察による証拠を、実に多くの点で補完した。」と報告しているのである。
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                第一海兵飛行大隊参謀長フランク・H・シュウァーブル大佐の証言

 「朝鮮における一般の細菌戦計画は、1951年10月に統合参謀本部によって指令されたものである。この月に統合参謀本部は、極東軍総司令官(当時はリッジウェイ将軍)に指令を手わたした小規模な実験的段階から始まるが、しだいに規模を拡大して、朝鮮での細菌戦に着手するようつたえた。
 この指令は、東京の極東空軍総司令官ウェイランド将軍へわたされた。そこでウェイランド将軍は、朝鮮の第五空軍司令官エヴェレスト将軍ならびに沖縄の第十九爆撃大隊司令官をまねいて、個人的に会談した。……計画は……エヴェレスト将軍個人が口頭でひきうけ、朝鮮へ持ち帰った。なぜなら機密保護のため、この問題については文書にして捕獲されるかもしれないものはなにも朝鮮におかないことに、決定されていたからである。
 当時の基本目標は、実験場で細菌戦のさまざまな要素をテストし、得られた結果や朝鮮の情勢にもとずいて、のちに野戦実験を正規の戦闘作戦に拡大することであった。……各種の装置や容器が実験場でテストされ、各種の飛行機が、細菌爆弾の運搬手段としての適性をテストするために、使用されるはずであった。……とくに敵の反応は、利用できるあらゆる手段で、テストまたは観察をうけるはずであった。それは、敵の対抗措置はなんであるか、どのような宣伝措置をとるであろうか、敵の軍事作戦はこの種の戦争によってどの程度影響をうけるであろうかを、たしかめることであった。
 沖縄のB29は、1951年11月に細菌爆弾を使用そはじめた。それは、北朝鮮全土を対象にしたもので、無差別爆撃といえるようなものであった。……細菌爆弾作戦は、経済性と安全性の措置として、通常の夜間武装偵察と組んでおこなわれた。
 この計画における海軍の役割は、朝鮮東部海岸沖の航空母艦を使って、写真撮影とは別にF9F戦闘機(パンサー)、AD(スカイレー ダー)、スタンダードF2H(バンシー)によってはたされた。
 空軍もその作戦を拡大して、各種の飛行機の集団によって細菌戦をおこなうさまざまな方法や戦術を試みた。これが、わたくしが朝鮮に到着するまでの情勢であった。それにつづいて、つぎの主要な事件がおこった。」

 ここでシュウァーブル大佐が報告したところによると、52年5月下旬に、第一海兵飛行大隊の新指揮官ジェローム将軍が、第五空軍司 令部によばれて、細菌作戦を拡大せよという指令をうけた。指令はついで第五空軍の新指揮官バーカス将軍に、個人的に口頭で伝達された。5月25日に、参謀長のシュウァーブルや第一海兵大隊のほかの参謀部員は、バーカス将軍から指令をうけとった。この指令は、その朝から伝達され、かれらはそれについて検討したが、それは次のようなものだった──

 「朝鮮を横断する感染地帯を設け、差し止め計画を効果的にして、敵の補給品が前線に届くのを阻止する。海兵隊は、新安州と郡隅里の両地域および両地域の中間とその周辺地域をふくむこの地帯の左岸を担当する。この地帯の残り部分は、空軍が中央部を、海軍が東部すなわち右翼をひきうける。
 これらの地域はすくなくとも10日おきに汚染しなおされるはずであった。作戦は、コレラ爆弾をもちいて、6月の第一週に開始された。その後黄熱病、ついでチフスによる汚染が計画された。敵の領土上空での安全をつよめるために、細菌爆弾の投下後まで、ナパーム爆弾を機上に残しておくはずだった。これは、飛行機が墜落した場合に、ほとんど確実に証拠をいんめつするためであった。……あらゆる指示は、それが軍事機密であるだけでなくて、国家政策の問題でもあることを強調するはずであった。」

 要するにシュウァーブルの自供は、その結果が「それにともなった努力、危険、不正にいきらかでも見合うものであるという見方は聞いたこともない。全体の結果についてわたくしにいえることは失望的で無益だったということだ」というものだった。かれはつづいて述べた──

 「つぎのことは、わたくしをふくめてだれかを弁護するためにいうのではない。わたくしは、まったく直接の見聞にもとずいて、こう報告せざるをえない。アメリカが細菌兵器を使用しようとしていると最初に知らされたとき、どんな将校でも衝撃をうけ、恥ずかしい思いもする。われわれはすべて、国民や政府に忠実な将校として、そして、われわれがつねに細菌戦について聞かされていたこと──それは、第三次世界大戦で報復に使うためにのみ開発されている──を信じて、朝鮮へやってきたものとわたくしは思う。
 将校達は、朝鮮へやってくると、自分達の政府が、細菌戦をおこなっていないと世界に宣言しておきながら、自分達を完全にあざむいていたことを発見するが、そのため、政府が一般の戦争について、とくに朝鮮について言明しているその他のすべてのことを心中で疑うことになる。」

 52年の4~7月にかけて捕虜になったアメリカの空軍将校は、いずれも長文の調書をとられているが、それには共通して、細菌爆弾は日本から持ちこまれたこと、公式報告でふれる場合には、「不発弾」と呼ばれること、細菌戦を始める決定は、「1951年秋の初め」になされたこと、そりわけ、問題そのものが最高機密であることなどの点が出てくる。以前にマクアーサー将軍が望んだものとおなじような朝鮮を横断する「感染地帯」をつくる目標についても、のべられていた。飛行士は、搭乗員同士のあいだでも、この問題を口にすることを禁止されていた。そしてやがて、秘密を守る宣誓書に署名を強制された。誓約に違反すれば、軍法会議はまちがいなかった。けっきょく、細菌戦にたずさわっていた飛行士の士気は、ひじょうにひくかった。かれらは基地へ帰投すると、ナパームや細菌投下の任務を忘れようとして、大酒を飲んだ。しかしかれらの気分の底流をなすものは、無慈悲な軍命令であった。「命令は命令だ」、かれらはこういっていた。


---------------朝鮮戦争 国際婦人調査団報告---------------

 下記は、朝鮮戦争に於ける朝鮮民衆の体験をつぶさに調査し、いち早くその犯罪性を告発した国際民主婦人連盟の17カ国
の代表からなる調査団の報告書である。この報告書は24カ国語に翻訳され世界中に衝撃を与えたのみならず、この報告書
を受けて「国際民主法律家協会」が調査団を組織し、調査に乗り出したということでも、重要な役割を果たしたといえる。また、
それがさらに「国際科学委員会」の調査団派遣へと続き、朝鮮戦争において原爆使用を辞さずと宣言していた米国などの動き
を抑制し、朝鮮戦争の停戦を求める国際世論を高揚させる上で果たした役割は計り知れないといわれる。
「国連軍の犯罪(民
衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)
から の抜粋である。(旧字体は新字体にした)
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                             アメリカ軍の残虐行為(付録)
                                                           国際婦人調査団報告

          国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書
      
 国際民主婦人連盟の招きをうけて、さまざまな婦人団体──国際民主婦人連盟やその他の婦人団体──から派遣された代表
として、わたしたちは朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍のやった残虐行為を調べるために、国際婦人調査団に参加しました。わ
たしたちはヨーロッパ、 アメリカ、アジアそれにアフリカの17カ国を代表しています。調査団のメンバーは、次のような人たちで
す。団長ノラ・ロツド(カナダ)副団長リウ・チンヤン(中国)同イダ・バツハマン(デンマーク)書記ミルセ・スヴァトソヴァ(チェコス
ロヴアキア)副書記トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)
……以下略

・・・

 各民族の、さまざまな宗教や政治的見解をもっているわたしたち婦人──その中には種々な政党員もいるいし、政党に関係
のない人もいる──は、目のまえに一つの共通の仕事をもったのです。つまり、この調査団にわたしたちを派遣した婦人たち
や、全世界の平和を愛する人たちにたいして、わたしたちが見たままの事実を、良心的に正しく伝えるという仕事です。

(……以下略)

第一章

 調査団は、朝鮮と中国の国境の一都市シニジュ(新義洲)をおとずれた。この町は、ほとんど完全に破壊されていた。残っ
た建物はひどくこわれていた。町はいく度も爆撃されたが、被害のほとんど全部は、1950年11月8日の夜3回にわたる空
襲と、11月10日、11日の空襲によるものであった。調査団がシニジュ(新義洲)をおとずれた日には、3回警報がでた。
 シニジュ(新義洲)市人民委員会の公式発表によれば、この町は1950年7月には1万4千戸に12万6千人の住民が住ん
で、働いていた。調査団は、この町にはすこしでも軍需生産に役だつような工業はなかったということをきかされた。町には軽
工業があっただけであ る。つまり、大豆、豆腐(大豆製品)の加工、靴、マッチ、塩、箸の製造である。1950年11月8日この
町は、朝鮮にいるいわゆる国連軍に属する空軍百機の爆撃をうけた。この時、総計3017あった国の家と市の建物のうち
2100が破壊され、住宅11000余戸のう ち6800戸がこわされた。5000人あまりの住民が殺され、そのうちほぼ4000人
は婦人と子供であった。17の小学校のうち16は破壊され町の19の中学校のうち12が焼夷弾で焼かれた。各派17の教会
のうち残ったのはたった2つだけであった。二つの市立病院は国際慣習の規定通りそれぞれ屋根に大きな赤十字をつけてい
たのに、焼夷弾で焼かれた。調査団のメンバーは、残った屋根にこれらの赤十字の跡があるのを見うけた。ある病院では、
26人の患者が焼夷弾の焔で焼け死んだ。調査団は、大きなプロテスタント教会が直撃弾をうけた時、250人の人たちが死
んだということをきいた。調査団が耳にした他のエピソードの中には、市営食堂の爆撃後避難しようとしている間に、30人の
母親と子供が殺されたという話があった。人口の密集している市場地区では2500人の人々が死傷した。11月8日のシニジ
ュ(新義洲)市の負傷者の総数は3155人であった。調査団のメンバーはガラクタの中から掘り出された爆弾の破片をしら
べ、次の記号を書きとめた。Amm.Lot RN-14-29 shell MJ For M 2 a MF MEL 1 Lot-GL-2-116 1944 MJBCA 2 ACT464


(一部略)

 3回にわたる大空襲が、おもに多数の焼夷弾によってやられたことは明らかであった。だが、団員たちは、なぜ被害がこの
ように広くお よんだのか、はじめはわからなかった。たまたま、わたしたちと話しあうために集まった市の、吏員や公衆の人
たちから話をきいて、やっとその理由がわかった。わたしたちと話しあった人たちは、すべて次のようにいっていた。焼夷弾の
最初の波が落とされた時、火を消そうとして街路に飛び出したものは、低く飛んできた飛行機に故意に銃撃された。市が大規
模に焼失したのは、火を消そうとしていた市民を、故意に銃撃したことに原因があった。
 市の一婦人チャン・ユンチャ(張潤子)は、彼女の父親と夫は、焼夷弾で燃え上がった自分たちの家の火を消すために水を
取ってこようとしている時、低空飛行の銃撃で殺されたといった。他の婦人キム・インタン(金仁丹)は11月8日の空襲で3人の
孫と娘をなくしたと 語った。子供たちは、かれらの燃えている家から走ってでる時、低空飛行の銃撃によって殺されたのであ
る。娘は、自分の末っ子を火の中から引きづり出したところを射たれた。キム・ホンユン(金洪潤)は、かれの妻は焼夷弾で燃
え上がった家から走り出したところを、機銃掃射で殺されたと話した。
 シニジュ(新義洲)から平壌へゆく途中で、調査団は、通過した町や村のすべてが、完全にあるいはほとんど完全に破壊され
ているのを見た。それらの町はナムシ(南市)、チェンチュ(定州)、アンジュ(安州)、スクチェン(順川)それにスンアン(順安)で
ある。大部分の村は廃墟同然であった。
                                     以上には1951年5月18日調査団の全員が署名した。



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朝鮮戦争 国際婦人調査団報告 第二章---------------

 下記は、朝鮮戦争に於ける朝鮮民衆の体験をつぶさに調査し、いち早くその犯罪性を告発した国際婦人調査団の報告第二章の一部抜粋である。(第一章の一部抜粋はすでにアップロード済み)
「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)より抜粋。(旧字体は新字体にした)
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                             アメリカ軍の残虐行為(付録)
                                                           国際婦人調査団報告

          国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書


 
  第二章

 調査団は、朝鮮人民共和国の臨時首都平壌をおとずれた。
 戦前、平壌は40万の人口をもっていた。煉瓦造りや鉄筋コンクリートの、大きな近代建築物がたくさんあった。またたくさんの
近代的なアパートがあったが、それらはかつては、近代式な暖房設備や衛生設備を完全にそなえていたことが、その残骸から
わかった。
 市にはまた非常に多くの工場があった。主な工業は織物、靴、種種の食料品、煙草、酒、ビール、それに肥料の製造であっ
た。 
 平壌にあった主な建物は、一つのオペラ・ハウス、、九つの劇場、二十の映画館、1945年以後に建造され、設備された一つ
の近代的な総合大学、七十三の小学校、二十の中学校、六つの専門学校、四つの工業大学であった。また二十の夜間成人
学校と、戦争勃発当時ほとんど完成されていた。一つの大きな工芸講習所もあった。
 市内は、いまはまったくの廃墟である。市内の旧地域の大部分では、たおれた家の壁だけが、灰とガラクタの山の中に、あち
こちそそりたっている。……(一部略)いままで述べた建物のほかに、多くの教会や市立病院がみんな破壊された。団員たち
は、市内でいちばん大きな小学校の廃墟を調査した。外側の壁の一つには「第七十七野砲隊用」とチョークで書いてあった。
調査団のえた証拠によれば、市内の80%はアメリカ軍が市内から退却する時に破壊した。(アメリカ軍が戦わないで退却し、
市を故意に、計画的に破壊したことは注目すべき大切な事柄である)。破壊は、今日事実上100%にたっしている。それでも
爆撃はやはりつづいている。調査団が市内でまる一日すごすうちに、5回の警報が鳴り、その同じ日に約一週間まえに落とさ
れた時限爆弾が三つ、調査団のメンバーと地方組織の代表者が話し合っていた場所のすぐ近くで爆発した。


(一部略)

 1月3日と4日に破壊された建物のなかには、市内の病院の大部分が含まれていた これらの病院は平らな屋根をもち、6千メートルないし八千メートルの高度からわかるように、どれにも大きな赤十字のしるしがついていた。これらの病院は、少なくとも1個づつの直撃弾をうけた。調査団のメンバーは地方病院の残骸を見学し、三つの大きな爆弾穴をしらべたが、そのうちの二つは深さが約4メートル、一つは7メートルもあった。市立中央病院は30メートルの高度まで降下してきた急降下爆撃機に破壊されたといわれている。
 市の建物ぜんぶが爆撃だけで破壊されたものでないことは、先に延べた通りである。事実、多くのアメリカ軍が退却するとき、爆薬で破壊したか、放火したのである。こうして破壊された建物のうちには、キム・イルセン(金日成)大学、男子中学校、オペラ・ハウス、市の諸施設、多くの食糧工場とすべての政府施設がある。アメリカ軍がこの市から退却する時、かれらは故意に市電んぽ全部に火をつけ、いくつかの橋や水道を爆破したことについても、調査団は報告を受けた。
 市を外れたところで、調査団は、河を見はらす岡の上に立つ有名な仏寺イエンムエン・サ(延命寺)の残骸を見た。二千年の間朝鮮人民の崇敬の的であったこの寺も、爆撃でこわされたのである。広々とした田圃の中にある位置から判断して、爆撃機がなにか他の目標をねらっていたと信ずることはできない。目撃者の証言によると、アメリカ軍が1950年12月平壌を退却した時、寺は無事であった。しかし、1951年1月3日にアメリカ機が多数の強力爆弾、焼夷弾、それに焼夷薬のつまった容器をこの寺にあびせたのである。
 調査団のメンバーはまた、市の有名な博物館をおとずれた。それは破壊をまぬがれたが、2千余年を経ているという有名な二つの仏像もまじえて、その宝物は盗まれていた。有名な考古学者リー・イエセン(李如星)氏は、掠奪された品物の長いリストを、団員たちに見せた。かれはまた、アメリカ軍が博物館に残したものは、北鮮の30の古墳で発見された貴重な壁画の手摺りの模造品だけだったと説明した。これらの古墳のうち6つは、朝鮮婦人を拷問するためにつかわれ、手榴弾で古墳が爆破されたときに、壁画はこわれた。
 調査団がくりかえしきかされたのは、空から市民にむけて機銃掃射をやった例であった。(調査団のメンバー自身も、防備のない田舎のまっ只中で、低空をとぶ飛行機から機銃掃射をうけて、壕に避難せねばならないことがあった。これは、農民が働いているだたっぴろい野良に機銃火をふきかけたわけであるが、前線から数百キロメートル、また市街や軍事目標物からはるかに遠くはなれたところでおこったことである。)
……

(一部略)

 団員たちはまた、「強力爆弾GB5143」としるされた爆弾ケースを発見した。この爆弾は、モラン・ボン(牡丹峰)にある殿堂を破壊した爆弾の一つであった。平壌の生残りの住民たちは、原始的ではあるがなんとか工夫した壕や、自分自身で工夫をこらして穴を改造した避難所や、または爆撃された建物の残った壁の内側に住んでいる。それぞれの目的にしたがって4つのグループにわかれた団員たちは4時間近くの間、市のさまざまなところを訪れたが、その間誰一人として、四方の壁と屋根のある家を一軒も見なかった。そして、団員たちは、ガラクタの堆積の中に住んでいる多数の生き残りの家族に出あった。たとえば、カン・ボクセン(姜福善)一家は3才と8ヶ月の子供をまじえた5人家族で、平壌民主婦人同盟のこわれた本部の下の壕に住んでいた。この壕はほぼ1メートルと2メートルの広さで、家族たちは唯一の住家であるこの避難所に行くために、3メートルも深い狭い穴を這ってゆかねばならなかった。土の壁が低すぎて、大人は真直ぐに立てないのである。(以下略)
                                     以上には、1951年5月21日調査団の全員が署名した。



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朝鮮戦争 国際婦人調査団報告 第三章から結論------------

 朝鮮戦争が始まったのは1950年6月25日であるが、米国は同月27日に国連安全保障理事会を招集し、ソ連欠席の状況のまま、朝鮮民主主義人民共和国を侵略者と決議させるとともに、国連軍を組織して介入した。「国連軍の犯罪(民衆・女性から見た朝鮮戦争)」藤目ゆき編・解説(不二出版)によると、翌1951年年頭朝鮮女性同盟が国連軍の侵略を訴え、国連軍参加国の女性たちに夫や息子を朝鮮に送らないように連帯を求めるアピールを出したという。それに応えて国際民主婦人連盟は朝鮮戦争調査のための女性委員会を組織し調査団を送った。調査団は1951年5月に戦争最中の朝鮮に入り、身の危険を感じながら調査を開始したのである。下記は、その三章から六章と結論の一部抜粋であるが、三章から六章は、一・二章とは異なり、数人ずつのグループに分かれて、様々な場所に調査に入り、それぞれのグループの参加者が調査結果をまとめて署名するというかたちのものである。一・二章同様「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)からの抜粋である。
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                          アメリカ軍の残虐行為(付録)
                                                           国際婦人調査団報告
           国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書

 第三章

 調査団のメンバーは、ワンハイ(黄海)道にゆき、アナク(安岳)、シンチェン(信川)の町をおとずれた。この訪問に参加したのはエヴァ・ブリースター(オーストラリア)リ・ケン(中国)、カンデラリア・ロドリゲス(キューバ)ノラ・K・ロツド(カナダ)、マリア・オヴシヤンニコワ(ソ連)、モニカ・フエルトン(イギリス)であった。
 調査団は、ワンハイ(黄海)道の全域で12万人が占領軍に殺され、それに加えて多くの人々が空襲で殺されたということをはっきりとたしかめた。アナク(安岳)市では、19092人がアメリカ、イギリス、李承晩軍に殺されたということである。アナク(安岳)市では、調査団のメンバーは、戦前は農民銀行の倉庫であったが、アメリカ軍が牢獄に変えた建物をおとずれた。それは、、それぞれ、長さ4メートル、巾3メートルの5つの監房に区切られていた。証人たちは、これらの監房はいっぱいになって、すわることができなかったといった。
 スンサン・リ(崇山里)街194番地の一農婦ハン・ナクソン(韓洛善)は、かの女の夫キム・ボククアン(金奉寛)と義弟キム・ボククオン(金奉均)が1950年11月10日につかまり、この牢獄に投げこまれたと調査団に話した。この逮捕は二人のアメリカ人と4人の李承晩軍の兵隊によって行われた。かの女は逃げだしてかくれた。かの女は、また次のように話した。かの女の夫や義弟その他の4人は、みんな農民か労働者であり、どこかの役人であったり、労働党員であるものは一人もいなかった。多くの子供たち──その中には2才の子供もいた──が、母親といっしょにこの牢獄に入れられた。囚人たちは、15日間食物なしで監禁され、鉄棒でなぐられた。これらの殴打はアメリカ軍将校の命令で、李承晩軍の兵隊によって行われた。1951年11月25日、婦人や子供をまじえた囚人たちは、丘につれだされ、堀の中に生き埋めにされた。
 もう一人の証人キム・サンイエン(金相延)──かれはセサン・リ(世山里)街172番地に住んでいる──という年配の男は、次のように話した。かれの12人の家族は、息子、息子の妻、孫二人もまじえて全部つかまった。最初は、かれ自身が何が起こったのかわからなかった。後になってかれらは丘につれて行かれ、殺されたことを知った。市が解放されてから、かれは、かれらの死体をさがしに行き、息子と息子の妻がいっしょに縄でしばられている遺骸を見つけた。どの死体にも傷がないので、キム・サンイエン(金相延)は、かれらが生き埋めにされたのだと判断した。かれの息子は国営工場で働き、突撃労働者であったというので逮捕された。かれ自身も、10月18日につかまったが、同29日に釈放された。最後に、かれは団員たちに、かれ自身常日頃信仰ぶかい人間であったので、キリスト教徒であるアメリカ人の善行を期待しており、このような残虐行為をアメリカ人がやるなどとは、とても想像できなかったと語った。
 調査団のメンバーは、それからもう一つの監獄をおとずれた。ここでも、団員たちは、囚人がすわったり、横になったりする余地がなかったということをきかされた。囚人を殴るためにつかった道具を見せられたが、それらはアメリカ陸軍の野球用バットと同じ物であった。(このバットは証拠品としてもって帰った)。監房の外側の廊下には、血痕がはっきりと見られた。

 ……(以下略)
         
以上には、黄海道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
         1951年5月26日


 第四章

 平安南道南浦(日本帝国主義時代の鎮南浦)と、江西の調査報告。1951年5月22日──23日。
 参加者、ジレット・ジーグレル(フランス)、フアトマ・ベン・スリマン(チュニジア)、アバシシア・フオデイル(アルジェリア)、リ・チケ(ヴイエトナム)、イダ・バツハマン(デンマーク)、カーテ・フレロン・ヤコブセン(デンマーク、オブザーヴァー)。
 南浦は爆撃をうけるまえ、6万人の人口をもっていた。いまではほぼその半分が町から出ていった。
 われわれは、平安南道人民委員会委員長ソク・チヤンナム(石昌男)から、南浦にはぜんぜん軍需工業はなく、おもな工業はガラス、繊維、製陶、化学肥料であったという報告をきいた。もちろん、南浦には黄海に面する海港ではあるが、商業上でも、軍事上でも港としては重要でない。というのは、海が浅いからである。
 市には2万の建物があった。工業大学、農業大学、劇場が一つずつあったが、今ではみんなこわされてしまった。市の13の病院には、ぜんぶ赤十字の印をつけておいたが、焼夷弾でひどくこわされ、そのたった一つに修繕がきくだけである。26の学校のうち、つかえるのはたった2校しかのこらず、小っぽけな教会たった一つが、やっと破壊をまぬがれた。
 南浦のアメリカ軍選良は、1950年10月22日から12月5日までつづいた。その間に、たくさんの建物がやかれた。いっさいの食糧が破棄された。占領中、アメリカ軍は1151人の人を野獣的に殺した。そのうちの半分以上は、女子供であった。
 南浦はたえまなく爆撃されたが、一番ひどい爆撃は1951年5月6日のそれであった。わたしたちは市内を乗りまわし、また方々で車をとめて調査した。見わたすかぎり、ほとんどすべての家が完全にこわされて、地面の爆弾穴、ガラクタの山、いく本かの煙突が、以前そこに家のあったことをやっと示していた。残った建物はひどい被害をうけていた。わたしたちが立ち止まったところでは、どこでも、わたしたちのまわりに人々があつまって、かれらの最近の悲劇、かれらの近親の死亡と、家の焼失のことをわたしたちに話し、アメリカ軍に拷問されて、うけた傷を見せてくれた。
 市内のヨンドン・リ(永洞里)地区は、生存者の一人がいったように、墓場にかわってしまった。それぞれの家族ごとに、3─4人、ときには10人の家族をうしなった。一部が岡の上にあるこの地区では壁は一つものこっておらず、木々は黒焦げの幹がひかっているだけであった。一つの爆発穴のふちにたって、リ・タンエアウ(李東華─42才)という男はいった。「ここにわたしの家がありました。5月の爆撃のとき、家族の6人、家内に、2人の子供、3人の親類──をなくしました。わたしたち朝鮮人はわが国をまもります。どうか、国際婦人連盟は朝鮮のこの事業をまもって下さい。」キム・スヨン(金水永)というもう一人の男は、かれの家族10人をみんななくした。かれはいった。「朝鮮人はみんな一人のように団結しています。わたしは、わたしの感情をうまく表現できませんが、世界はきっとわかってくれるでしょう。」
 ほかの人たちは復讐をさけんでいた。
 この同じほかの地区では、わたしたちは、ひどい火傷の治療をする臨時病院をおとずれたが、それは深い地下につくってあった。それは、広さ1メートル半ばかりの低いむきだしの廊下で、岩をくりぬいて17台の寝台をおくだけの場所であった。

 ……(以下略)
       
上記には、平安南道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。


 第五章

 1951年5月22日から24日まで、代表者の一団
 リウ・チニャン(中国)
 ジエルメン・アンネヴァル(ベルギー)
 エリザベエタ・ガロ(イタリア)
 ミルセ・スヴアトソヴア(チェッコスロバキア)
は、江原道文川郡のマズエン(万先)村(平壌から150キロ、元山から48キロ)と、おなじく江原道の元山港を視察した。
 代表団は平壌、江東、山東の諸郡を通過したが、これらはほとんどみんな焼けうせていた。また代表団は有名な温泉地陽徳を通過した。陽徳はいまではガラクタと廃墟のかたまりにすぎなくなっていて、その中には中学校の残骸もまじっていた。わたしたちは、夜農民が畑をたがやしているのをみた。というのは、ひる間たがやすと、アメリカ機が機銃攻撃をくわえるからである。畑はていねいにたがやされていた。
 マズエン・リ(万先里)では、農民たちは、夜しか仕事ができないのに、春の百姓仕事がふつうよりも早目におわったと、わたしたちに話した。
 マズエン・リのまわりで、代表団は、山や森や田畑や村におちてきたアメリカの焼夷弾で、ひろい山林地帯がやけてしまっているのを見た。
 マズエン・リの住民がわたしたちに話したところによると、5月23日の夜、アメリカ機が村に3つの爆弾をおとし、いく軒かの家をこわしたということである。
 キム・ソンイル(金松律)という農民は、つぎのような話をした。アメリカ軍は、1950年10月14日から12月5日まで、マズエン・リを占領していた。かれらは人民軍と5日間戦ったのち、村に侵入してきた。占領期間中、かれらは人民軍に包囲されていたので、自分たちの陣営を有利にするため、ふきんの村々をやきはらい、逃げなかった住民をつかまえ、マズエン・リにこしらえた仮監にぶちこんだ。数日してから、かれらはいく人かの婦人を釈放したが、かの女たちは山に逃げこむか、自分の家の廃墟のなかにかくれてしまった。みんなでおよそ5百人が投獄され、54人が殺され、76人が元山におくられ、いまだに行方がわからない。

……(以下略)
      
この章には、北江原道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。


 第六章

 調査団のつぎのメンバーからなる一団は、朝鮮北部を視察した。
 ヒルデ・カーン(ドイツ民主共和国)
 リリー・ヴェヒター(西ドイツ)
 バイ・ラン(中国)
 トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)
 旅行は平壌から介川、それから煕川、江界、満浦にゆき、平壌にひきかえした。
 平壌から介川にゆく途中、調査団のメンバーは4つの小さな町──それはほとんどかんぜんにこわされていた──と、その他たくさんの焼けうせた村や農民の住宅を見た。
 メンバーは、旅行の全行程で、こわれていない町は一つも見なかったし、被害をうけていない村もすくなかった。
 調査団のメンバーは6つの山火事をみたが、そのうち2つは自分らの面前で火がついた。
 ──一つは平壌と介川のあいだで、もう一つは煕川と介川のあいだで。両方の場合とも飛行機の音がきこえ、調査団のメンバーは、地面から火柱のたつのをみたが、そのすぐ後でもえさかる火が見え、それは突然急速にひろがりはじめた。メンバーは、火が木の枝にもえうつるのを見た。この旅行の途中、調査団のメンバーは、山火事で黒くなった山腹をたくさん見かけた。
……(以下略)
 この章には、介川、煕川、江界、満浦をおとずれた調査団のメンバーの全員が1951年5月27日署名した。



 
結論

 調査団のメンバーが、朝鮮の各地でいろいろの調査をしたのち、調査団は、つぎのような結論にたどりついた。
 朝鮮の人民は、アメリカ占領軍から、無慈悲で系統的な絶滅作戦をうけているが、これは人道の原則に反するばかりか、たとえばハーグやジュネーヴできめた戦争法規にも反するものである。それはつぎのような方法でやられている。
 (a)食糧、食糧貯蔵と食糧工場の系統的な破壊によって。森林や熟れた作物は焼夷弾で系統的にやかれ、果樹は切りたおされ、野良で家畜をつかって働いている農民は低空をとぶ飛行機から機銃掃射を浴びて殺されている。こういう方法で、朝鮮の人民ぜんたいが飢餓の運命にさらされている。
 (b)町から町を村から村を、つぎつぎに系統的にこわすことによって。これらの町や村の大多数は、どんなに想像をたくましくしても、軍事目標とは考えられないし、工業中心地とさえも考えられない。この系統的な破壊目的は、まず第一に朝鮮人の斗志をうちくだくこと、第二にかれらを肉体的に消耗させることであるのは明らかである。この止むことのない空襲で、住宅、病院、学校などが計画的にこわされている。灰のかたまりになってしまった町。生きのこった住民が防空壕のなかにすむほかない町にさえ、なお爆撃はつづいている。
 (c)国際法で禁止されている兵器を系統的につかうことによって。つまり焼夷弾、石油爆弾、ナパーム弾、時限爆弾、それに低空をとぶ飛行機から市民をたえず機銃掃射することによって。 
 (d)朝鮮人を残虐にみなごろしすることによって。アメリカ軍や李承晩軍が一時占領した地域では、占領期間中に、数十万の市民、老人から子供までまじえた家族のぜんぶが、拷問され、打ち殺され、焼かれ、生埋めにされた。そのほか数千数万人は、せりあうような監獄のなかで、飢えと寒さで死んでいった。これらの人びとは、何の罪もなければ、取り調べも、裁判も判決のいいわたしもなく、監獄にぶちこまれたのである。 
 これらの大衆的拷問と大衆的虐殺は、ヒトラー・ナチスが、その一時占領したヨーロッパでやったより以上のものである。
 質問をうけたすべての市民のした証言は、これらの犯罪のほとんど全部が、アメリカ軍の兵隊や将校がやったものであり、そうでない場合でもアメリカ軍将校の命令でやられたものであることを示している。だから、これらの残虐行為の全責任は、朝鮮のアメリカ軍総司令官、つまりマッカサー将軍、リッジウェイ将軍、そして自分のことを国連軍といっている侵略軍のその他の司令官が負うべきものである。これらの残虐行為は、前線の将校の命令によってなされたものであるが、その責任は、自分の軍隊を朝鮮におくり、その国連代表が朝鮮戦争にさんせいの投票をした政府にもある。
 調査団は、朝鮮にたいしてやった犯罪の責任者は、1943年の連合国宣言にきめてある、戦争犯罪のかどで告訴されねばならぬし、おなじ宣言に定めてあるように、世界の人民によって裁判されねばならぬと自分たちは確信をあきらかにする。

……(以下略)

 
この報告書は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語の5カ国語でつくった。


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朝鮮戦争 米外交文書(公電・訓電)と開戦の原因------------

 当然のことながら、朝鮮戦争開戦の原因については、南北それぞれ相手側の侵略で始まったと主張し対立しているわけであるが、すでに公表されている下記のようなアメリカの外交文書(生々しい公電・訓電のやり取り)を読むと、ある程度その真実に近づけるように思われる。もちろん、韓国の李承晩政権を”アメリカの傀儡政権”と位置づけていた北朝鮮の主張についてもいろいろな面から検討しなければな らないと思う。しかし、開戦の原因やその状況についてまとめた北朝鮮側の書物を探しているが、残念ながら未だ手に入れることができない。( 北朝鮮におけるアメリカ軍や国連軍の残虐行為については、すでに三つの調査団の報告を抜粋した)朝鮮戦争開戦に関わるアメリカの外交文書については
「朝鮮戦争の六日間<国連安保理と舞台裏>」瀬田宏(六興出版)からところどころを抜粋した。
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               公電(925号・926号)訓電(612号・613号)と開戦の原因


 開戦の第一報は、ワシントン時間(米東部夏時間)6月24日、土曜日の午後9時26分、受信されている。北朝鮮軍が火ぶたを切って から約6時間半後である。この公電925号の発信者は、ジョン・J・ムチオ駐韓米大使。受取人はW・ディーン・アチソン国務長官であった。「コンフィデンシャル(極秘)」となっていた。内容は以下の通りである。

「韓国軍の報告──その一部は在韓米軍事顧問団の報告によって確認されている──によると、北朝鮮軍はけさ(韓国時間6月25日朝) 数地点で韓国領内に侵入した。作戦行動は午前4時(米東部夏時間6月24日午後3時)ごろ開始され、甕津が北朝鮮軍の砲撃を受けた。6時頃、北朝鮮軍が甕津地区、開城地区、春川地区で38度線を越えたほか、東海岸のの江陵南方で上陸作戦が行われたと伝えられる。開城は、戦車約10両の加わった北朝鮮軍に午前9時占領されたと伝えられる。戦車を先頭にした北朝鮮軍は春川に接近中と伝えられる。江陵地区では、北朝鮮軍は国道を分断したようだが、戦闘の詳細は不明である。けさ、在韓米軍顧問、韓国当局者(いずれも複数)と協議中。開始された攻撃の性格と方法からみて、韓国に対する全面攻勢と思われる。
                                                                  ムチオ」

 ワシントンでは、ムチオ大使からの公電と入れ違いに、アチソン国務長官が在韓米大使館あてに短い訓電612号を送っていた。発信時間は米東部夏時間6月24日午後10時。
 「UP(現在のUPI)至急報は今夜(米東部夏時間24日夜)北朝鮮軍が境界線を越えて全面攻撃を開始したと報じている。戦車多数が使われている。(韓国)陸軍第1師団は敗退中と伝えられる。ジャック・ジェームス(UP韓国特派員)の記事。至急協議せよ。
                                                                アチソン」

 国務省が、安保理開催に向けてフル回転し始めて間もなく、ムチオ大使から2本目の公電926号が入ってきた。宛先はアチソン長官。 受信時間は米東部夏時間6月24日午後11時47分。在韓米軍事顧問団の放送「WVTP」を通じて行われた。戦争発生と、その後の戦 況などについてのムチオ大使の米軍要員向け発表を報告してきたものであった。開戦直後の緊迫した空気が文面にあふれていた。
 「本日(韓国時間25日)午後1時軍事顧問団放送を通じて以下の発表が行われつつある。
 『特別発表があるのでまってほしい。
  WVTPは、次の発表を行うことを大使から認められた。
  けさ4時、北朝鮮軍部隊が北緯38度線ぞいの数カ所で韓国の防衛地点に対して、いわれのない攻撃を開始した。現在、戦闘が38度線ぞいの数地点で進行中である。
 韓国国防軍は用意された陣地につき、北側の侵略に抵抗しつつある。韓国政府と軍は、いずれも情勢を冷静に処理中である。しかし、今のところ、北側の共産主義者が全面戦争への突入を意図しているかどうか分からない。新しい情勢は、この放送局を通じて定期的にお伝えする。ダイヤルを引き続きWVTPに合わせておいてほしい。
 軍要員は、必要なもの以外、旅行はできるだけ控えるようにおすすめする。大使は軍要員に対し、自宅か自分の部署にとどまるよう要求している。次の発表は午後3時に放送する』
                                                                  ムチオ」

 午前2時、今度はワシントンからソウルに訓電613号が飛んだ。「コンフィデンシャル」扱いである。
 「6月25日付至急電925号、同926号受信。国連安保理の行動を計画中。引き続き細大漏らさず報告の要あり。米政府全機関は警戒態勢に入った。
                                                                 アチソン」 

 今でこそ、韓国軍は陸、海、空、海兵隊四軍合わせて正規軍の兵力60万1千人、このほか正規軍予備役152万2千人、現役除隊者による郷土予備軍330万人と、自由世界アジアでは最大の勢力を誇り、装備も戦車、ミサイル、戦闘機など、近代兵器を持っているが、36年前はその日の食糧にもこと欠く状態だった。北朝鮮軍が越境してきた6月25日は、前にも述べたように日曜日で、兵舎はもぬけの カラだったという。皆週末を家族と過ごすため、営外宿泊を認めていたからだった。韓国軍首脳部は、不足する食糧を少しでも節約しようと、苦肉の策を講じたのである。
 無論、こうした慣行は北朝鮮側に筒抜けになっていたに違いない。日曜日の朝を選んで攻撃を開始したのも、韓国軍の防衛ラインが手薄になるの知っていたからだろう。韓国軍側は、北朝鮮の侵攻など、夢にも考えていなかった。北朝鮮軍が大兵力を集結しているとの情報を事前につかんでいたら、兵舎を空にするようなことはしなかったはずである。常に有事に備えていなければならない最前線の指揮官白善燁陸軍大佐でさえ、北朝鮮軍の南下を全く予期せず、部下が息せき切って敵軍の接近を知らせてきた時、前夜、景気よくあおった焼酎のおかげで、頭も上がらぬ二日酔い状態だったという。
 
 ……北朝鮮軍は開戦4日目の6月28日ソウルを占領した。38度線からソウルまでは直線距離で約45キロしかないが、ヒトラーの電 撃戦に匹敵するスピードであった。


 北朝鮮軍の南進がスターリン書記長の意思によるものであったかどうかは別として、
北側に南への侵攻を決意させる誘因が、確かに存在していた。その一つは、米国の韓国向け援助の内容である。そのころ、米国の援助は、日本に対すると同様に、食糧に重点がおかれていた。軍事援助はタカが知れていた。米国議会は韓国向け援助には関心が薄く、特に下院外交委員会は、軍事援助に難色を示した。それは、米軍部が、韓国を防衛することはできないとの見方を持ち、議会でそう証言していたからでもあった。北から本格的な攻撃が行われた場合、朝鮮半島は戦略的に防衛不能であるというのである。このため、韓国国民に向けたさまざまな形の援助が大量に注ぎ込まれていたが、韓国軍に対しては、小火器と防衛用システムが供与されただけで、北朝鮮軍の航空機や戦車と対抗できる兵器は、何もあたえられなかった。こうした韓国軍の弱体ぶりは、北朝鮮軍は十分に承知していたし、北朝鮮軍を南進に駆り立てる誘因の一つとなったとされている。
 韓国側も米国に対して、防衛兵器を供与するよう特に強い要求は持ち出さなかった。「自由で独立した統一朝鮮の実現」というのが米国の政策であったし、李承晩大統領は、北朝鮮の国民が自分の到着を待ち望んであり、北に行けば熱狂的な歓迎を受け、朝鮮は統一されると信じ込んでいたという。朝鮮戦争に先立ち、38度線ぞいに頻発していた南北間の衝突について、米側では、韓国軍が北進するのではないかと、警戒さえしていた。
 北朝鮮軍南進の誘因となったと見られるもう一つの要素は、1950年1月12日のアチソン国務長官の演説があげられている。アチソ ン長官はこの日、ワシントンのナショナル・プレスクラブで、米国のアジア政策全般について、その方針をあきらかにしたもので、太平洋 における米国の防衛圏内に韓国と台湾は入らないことを示唆していた。全文ざっと7千語、おそらく1時間はたっぷりかかったと思われる 長い演説の中から、問題の箇所をを取り出してみよう。
 「太平洋地域の軍事的安全保障についての情勢はどうなっているか。また、この点に関するわれわれの政策はどうなっているか。第一に、日本の敗北と武装解除によって、われわれの安全保障のために、全太平洋地域の安全保障のために、特に、日本の安全保障のために必要とされる限り、米国が日本の軍事的防衛を引き受けなければならなくなった。私は、日本の防衛を放棄するとか、弱めるとかするつもりは毛頭ないこと、防衛は続けなければならないし、また続けられるであろうことを保証する」
 「この防衛圏は、アリューシャン列島から日本へ達し、次いで琉球諸島に伸びている。われわれは琉球諸島に重要な防衛陣地を維持しており、引き続き維持する。琉球諸島の住民のために、われわれはこれらの諸島を国連の信託統治の下におくよう適当な時期に提案するつもりである。しかし、これらの諸島は太平洋防衛圏の極めて重要な部分であり、これら諸島はいじされなければならないし、維持されるであろう」
 「この防衛圏は、琉球諸島からフィリピン群島に到達している。フィリピンとわれわれの関係、われわれの防衛に関する関係は、両国の 諸取り決めの中に含まれている」
 アチソン長官が、「米国の防衛圏」について述べた部分には「韓国」も「台湾」も出てこない。……

 
 もっとも、アチソン長官はその後で「日本に対しては、われわれは直接責任を負っており、機会があれば直ちに行動する。韓国についても、より小さい度合いで同様のことが言える」と明言しているが、こうした表現では、韓国は米国の太平洋防衛圏内に入っていないと受け 止める方が自然であろう。スターリン書記長は、この演説について知らされ、朝鮮半島で事を起こしても、米国は介入しないと判断したのではなかろうか。
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 アチソン長官の演説で「韓国」が「米国の防衛圏」入っていないことを知ったスターリンが、米国は介入しないと判断し、北朝鮮(金日成)に38度線を越えて南進することを許可したのではないかと考えられているのである。


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