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 −−−−−−−−−−−−−沖縄の集団自決について −−−−−−−−−−−−−

 確かに、「自決はまだ早い」という意味で思い止まらせたり、今に友軍が必ず来ると信じて、「生き延びろ」と言った日本兵がいたことは、住民の証言から事実であったと思われます。でも、「軍命」があったのかなかったのかで大事なことは、いよいよ米軍が迫ってきたときに「投降すること」を軍が認めていたのかどうかだと私は思います。
 沖縄戦では、日本軍が根こそぎ動員で多くの住民を軍の作業につかせました。そして、壕の状況や兵士の数、武器の状況まで日本軍の状態が少なからず住民に知られ、「住民が米軍に捕縛された時にこうした軍事情報が漏れる」ことを恐れたため、日本軍は投降することを許さなかったのではないかと思います。
 それは、「大宜味村渡野喜屋で、山中に潜んでいた日本兵がアメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし虐殺した事件」や「鹿山正久米島守備隊長がアメリカ軍に拉致された住民3人を敵に寝返ったスパイとして処刑し、その家族までも内通者として処刑した鹿山事件」などの事実が証明しているのではないでしょうか。投降しようとした者はもちろん、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていただけで、スパイもしくは利敵行為であるとして処刑されたということもあったといいます。さらに、沖縄戦だけではなく、いろいろな戦場で、敵に投降しようとする日本兵が射殺された事実が記録されています。
 また、南風原陸軍壕では、米軍が迫り撤退する際「独歩患者だけを連れて行け」との軍命で、多くの患者を壕に残さざるを得なかったようですが、残された患者には青酸カリ入りのミルクが配られたといいます。捕虜になることを許さなかったからではないでしょうか。住民に手榴弾が配られた多くの証言とともに「自決」が軍命であったことを示していると思います。「自決はまだ早い」という指示は「自決」について「軍命がなかった」ということにはつながらないと思うのです。
 多くの証言や事実から学ぶことが、今とても大事であると思います。


−−−−−−−−−−−−−花岡事件・麻生炭鉱キン玉事件−−−−−−−−−−−−

 最近、戦争の史実から目を背けるだけでなく、むしろ過去の戦争を美化しようとする動きが気になり、「沖縄住民の集団自決に軍命がなかった」という掲示板の意見に上記反論を投稿して以来、様々な証言を読みあさっています。証言の中には、単なる思い違いや年月の経過による混乱、精神的な打撃がもとになった誇張、憎しみに基づく嘘などが含まれているかも知れません。だから、真実を知るためには、できるだけいろいろな立場の人の多くの証言にあたり、その時の社会状況や精神状況、価値観等を読み取って総合的に理解していかなければならないと思っています。戦争の真実を知るために必要と思われる文献に当たり、私なりに落とせないと思われる部分を抜粋し、簡単にまとめながら、今後も必要に応じて掲示板などに投稿していきたいと思います。

 先ず、戦争中いろいろ問題があったという炭鉱における証言にあたりました。
「消された朝鮮人強制連行の記録−関釜連絡船と火床の坑夫たち」林えいだい著
 この記録は、様々な立場の人達の証言を集めており、全体像をかなり正確につかむことができました。例えば、麻生炭鉱(前外務大臣麻生太郎氏の親族が経営)におけるキン玉事件や労働争議に至る経過を、炭砿労働者はもちろん、炭砿労働者を指揮した労務係、寮長、駐在所請願巡査、特高、死者が出たときに関わった寺の住職、関連組合の役員、その他住民の証言で、ほぼ矛盾なくその全体像をつかむことができたのです。炭砿労働者、特に朝鮮人労働者に対しての人権無視の状況がよく分かりました。
「花岡事件を見た二十人の証言」野添憲治著
 この証言集は鉱山労働力が不足した第二次世界大戦末期に、タコ部屋労働や中国人の徴用による強制労働が行われていた鹿島組の花岡鉱山で、過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日大隊長 耿諄 を中心に蜂起するに至る過程を矛盾なく明らかにしています。ここでも、炭鉱労働者、特に中国人労働者に対する著しい人権侵害があった事実が確認できました。また、自分たちにやさしく接してくれた関係者は巻き込むまいとして蜂起の日を変更するという極めて人間的な対応をしていることも分かりました。

−−−−−−−−−−−−−日本軍による人権侵害事件−−−−−−−−−−−−−

 に、アジアにおける人権侵害の状況を確認するため「50年目の証言−アジア太平洋戦争の傷跡を訪ねて−」(森 武麿)を読みました。下記は私の備忘録としての抜粋やまとめです。
マレーシア
クアラルンプール墓石職人龍金氏の証言−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1941年12月8日のマレー半島への日本軍侵入から軍政支配のなかでとくに中国系住民に対しては「抗日分子」や「ゲリラ」として厳しい処罰が行われた。龍金氏の証言は、夕方100人くらいの華人をクアラルンプール刑務所から連行し穴を掘らせて銃剣で突き刺したというものである。そこには現在「セランゴール華僑抗戦殉難記念碑が建っている。
蕭文虎氏の証言「パリティンギー村の悲劇」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「1942年3月16日クアラピラーから少し山に入ったパリティンギー村に日本軍が現れました。米やその他 の食べ物を配給してくれるというので、村人は全員集合したのです。私はその時7歳で、父に連れられて一 緒に行きました。」「日本の軍人は、ジャングルへ全員連れていきました。そこで全員を銃剣で刺し殺したの です。父と母、弟、妹が殺されるのを見ました。母はそのとき妊娠中で、おなかに子供がいたのです。その おなかを銃剣が突き抜けるのを見ました。腸が飛び出し、鮮血の海の中で、銃剣の傷を負ったのです。し かし、傷が浅かったために、命に別状はありませんでした。夜になると兵士は全員死んだか確かめに来ました。自分は息をひそめて隠れ、その後、逃げました。見ると村は焼き払われていました。」
 蕭の背中から横腹まで、5カ所の銃剣の傷跡が残っている。「港尾村荘蒙難華族同胞紀念碑」には675人の遺骨が納められているという。虐殺の理由は、この村が抗日分子の拠点であるらしいという不確かな情報からである。しかし、当時、村には抗日分子は存在しなかった。たとえいたとしても、多数の子供、そして、女性を含む一般住民の皆殺しの理由にはならない。この村の悲劇については、林瑞徳氏の証言も記録されている。

スンガイルイ村の村民虐殺−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
1942年7月31日368人の村民が全員虐殺された。その1ヶ月後に残った人々によって慰霊碑が建てられたが、その碑も村全滅のためにジャングルに埋もれてしまった。慰霊碑が掘り起こされたのは、日本の文部省検定で「侵略」が「進出」に書き換えられたことによって、アジアの激しい反発をもたらした1982年の教科書問題がきっかけであった。日本軍の侵略の証拠として発掘されたのである
知知町の虐殺−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
知知での虐殺はすさまじく、このあたりの死者としては最大の1474人と現地では記録されている。1942年3月18日、日本軍はこの町を襲い、農民、錫鉱夫、商人の住む平和な200戸の町を一瞬にして修羅場と変えてしまった。老若男女を問わず皆殺しにしたのである。   
葉雲氏の証言「文丁村の虐殺」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1942年2月6日、日本軍はここのゴム農園を襲い、200人あまりを殺したという。虐殺のきっかけは、村人の袋叩きにあった泥棒が、恨みに思って日本軍に「あの村は抗日のむらである」という嘘の告げ口をしたことによる。
 「銃剣で首を突き、死体は古井戸に投げ込みました。自分は恐ろしくて、うまく逃げましたが、2〜3日はここ に戻れませんでした。」
とのことである。
 

−−−−−−−捕虜や東南アジア労務者を酷使した泰緬鉄道建設工事−−−−−

 泰緬鉄道建設工事における捕虜や東南アジア人労務者の酷使には花岡鉱山や麻生鉱山と通じるものがあります。
 泰緬鉄道(タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロ)はビルマ経由の援蒋ルートの遮断とインド侵入のためのビルマ作戦を進めるため大本営が1942年6月に建設命令を出し、翌年10月に完成した鉄道です。この鉄道の建設工事は大本営の強い早期開通要求で、常識では考えられないような突貫工事になりました。
 当初は、東南アジアの占領地に職業紹介所を設置し、労務者を募集したようですが、労働条件の悪さが伝わり応募者が激減すると、役人に命じて集落に一定の人数を割り当てたり、いわゆる「ロームシャ狩り」や強制連行が行われたといいます。建設工事に動員された捕虜はおよそ6万5千人、労務者はビルマ18万人、マレー8万人、インドネシア4万5千人で、地元タイやその他を合わせると35万人を上回るといいます。
 この鉄道工事は難所が多く(架橋およそ300)また、悪性伝染病の地である上に、補給体制の不備で、食料はもちろん医薬品や靴、衣服などの補給が極めて少なく、「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出しました。犠牲者はイギリス、オーストラリア、オランダを中心とする連合国の捕虜1万2千、東南アジアの労務者およそ3万3千といわれています。(10万以上という説もありますが、実数は正確にはつかめないようです。Fフォースの捕虜の所属する中隊の記録には、
・「食料は定量の五分の一、ほとんどが下痢をしている」とか
・「朝、お粥と薄いスープ、昼、お粥とコーヒー半杯、夜、お粥。『捕虜が身の置き所がないぐらい空腹だ』という。増水、膝までの泥。」とか
・「捕虜560人中作業に出られる者60人。『骸骨が靴をはいている』。この日死者50人」などというようなことが書き留められているそうです。
 
 カンチャナブリー憲兵分隊勤務を命ぜられ、はじめて捕虜収容所の矢来を訪れた時の様子を、永瀬隆氏は次のように書いています。
 「屋根の無い小屋(?)が点在しているだけである。床は大きな青竹を真二つに割って、山形になったほう を上向きに並べ、壁は小竹をこれまた並べて立ててあるだけである。青く、切り口のくさい臭いのするごつごつした床の上に、びしょぬれになった毛布をそれぞれまとって、ブルブルふるえているのが病気の捕虜であった。身にまとった一枚の毛布はすり切れてケバ立ち、しみこんだ雨が動くたびに滲み出す。マラリア熱の発作で苦しんでいるのだ。そのような熱発患者が3人・4人と肩を寄せ合って、ガタガタと身をふるわせ、熱病患者特有の力のないうるんだ瞳で、絶望的に私に訴えかけている。捕虜の将校がやって来て、周囲 の状況を指し示しながら『どうにかならないか』と哀願する。かたわらの日本軍下士官は『連れて来てみたら、なんも設営の準備もしてなくて』と弁解していたが、日本軍の小屋には屋根はあった。捕虜将校は『一週間前からこの状態です。毎日雨ざらしになっているので、病人がどんどん増えて処置しです』・・・」
参考図書 ・− 「戦場にかける橋」のウソと真実−永瀬 隆
         ・泰緬鉄道と日本の戦争責任−捕虜とロームシャと朝鮮人と−
                内海 愛子、G・マコーマック、H・ネルソン(編著)
         ・50年目の証言−アジア太平洋戦争の傷跡を訪ねて− 森 武麿 


−−−−−−−−−−−緬鉄道建設に関わるBC級裁判の問題 −−−−−−−−−−

 戦後の泰緬鉄道建設にかかわるBC級戦争裁判で有罪の宣告を受けた人は111人、死刑は32人にのぼったが残された問題が二つある。
 一つは、この事件の裁判は、俘虜の虐待と虐待致死についてのみであり、東南アジアを中心とする人々のいわゆる「ロームシャ狩り」や強制連行、および10万ともいわれる虐待致死については裁かれていないしほとんど何の補償もされていないことである。
 もう一つは、裁かれた人の多くが捕虜に直接関わっていた収容所監視員で、その大部分が日本軍と捕虜の間におかれ捕虜によくしようとすれば日本軍に責められ日本軍に従順にしようとすれば捕虜に厳しくなるという朝鮮人軍属であったことだ。 その一人千葉光麟(千光麟)は、
 
「私は、捕虜監視員になりたくてなったのではありません。その年ごろの青年のひとりとして、日本の警察 に強制されてここに来たのです」
と減刑嘆願書の中に書いている。
 鉄道建設の命令やその期限の決定、捕虜を建設作業に従事させること、食料や医薬品その他の極めて不十分な補給、無理な行軍や作業現場付近および宿舎の不良・未整備などは監視員レベルの責任ではありえない。日本人に見下され、軽蔑され、残酷に扱われたていた朝人に捕虜の監視を命じたのは日本軍の上部組織であり高級将校である。しかしながら、当時日本軍の中で最も序列の低かった朝鮮人が、泰緬鉄道建設にかかわる戦争裁判では、上官よりずっと厳しく罰せらているのある。
 また、1945年8月20日戦犯裁判に対処するため、東京の俘虜収容所長から各収容所長へ
 「俘虜及び軍の抑留者を虐待し、或いは甚だしく悪感情を懐かれある職員は、此の際、速やかに他に転属 或いは行方を一斉に晦す如く処理するを可とす。又、敵に任ずるを不利とする書類も、秘密書類同様用済みの後は必ず廃棄のこと」
と緊急電報が送られている。
 さらに、陸軍大臣から関係部隊に「俘虜取扱関係連合側訊問に対する応答要領等に関する件達」なる通達を発しているが
 「国内に於ける労務、食糧、医療等の事情及国民の戦争各時期毎に於ける対俘虜感情(特に敵愾心)及彼我言語、風習、嗜好(特に食事)の差異等に関連して俘虜管理当事者の苦心、特に彼らの社会的軽視、誤解、迫害に対する隠忍等に至りては其の実情を充分公明にし且又俘 虜収容所の編制素質(特に台、鮮人)、教育等の実態を一般部隊等と関連対比して能く其の因って来る所以を明にす」
と虐待の一因が、台湾人や朝鮮人の存在にあるかのような内容になっているのである。
 1942年8月にタイ、マレー、ジャワに送られた捕虜監視要員の朝鮮人軍属は3千人で、台湾人軍属はおもに、ボルネオとフィリピンの収容所に送られたという。
       (「日本は捕虜をどのように管理したのか」内海 愛子

 朝鮮人捕虜監視員として、予想外の仕事をさせられ、監視以外にはほとんど何の権限も持たず、命令には絶対服従の立場に置かれたのに、絞首刑の判決を受けた李鶴来さんは、
 ・祖国が独立した歓喜に溢れているのに、捕虜を虐待した罪で死刑になるとは!!
 ・民族に対する申しわけなさと棄民になった寂しさ!!
 ・この凶報を聞いた親兄弟のかなしみ!!
 ・いったい、誰のために、なんのためにしんでいくのか!!

と悩み続けたといいます。日本人戦犯のような「お国のために死んでいく」という心のよりどころがなく悩み続けたというのです。幸い減刑され1956年に仮釈放されたけれど、対日協力者という民族的負い目が重くかさなり、生まれ育った祖国、愛する祖国に帰れず、仕方なく日本に住みついたそうです。
 そして、日本政府のきちんとした謝罪と国家補償がないだけでなく、日本国のための戦争にかり出され、戦犯にまでされた韓国、台湾出身戦犯者を、国籍条項により、いっさいの援護対象からも排除していることを絶対容認できないと訴えているのです。
(「加害者の一員として−朝鮮人元監視員の報告」 李 鶴来)

−−−−−−−−−南京だけではない日本軍による住民の虐殺−−−−−−−−−

 華僑虐殺−日本軍支配下のマレー半島−林博史(すずさわ書店)は、多くの生存者の証言や虐殺跡の調査、および橘丸事件のおかげで処分されず米軍に没収され、戦後の1958年に返還された陣中日誌その他関係書類を突き合わせ、日本軍による虐殺の事実を丁寧に辿っている。
 当時マラヤにあった第二五軍(司令官山下奉文中将)は、御前会議決定「大東亜攻略指導大綱」に基づきマラヤについて「将来帝国南方経略の軍事基地たらしむると共に経済的に帝国と緊密なる結合を図り以て帝国の南域に於ける自衛自給態勢の鎖鑰(さやく)たらしむるを経営の骨幹とす」と(第二五軍軍政実施要項)位置づけ、シンガポールを「昭南」と改めた。独立を認めない状況で作戦を遂行したのである。そして、華僑に対しては当初の協力同調を主眼とする誘引工作を転換し「積極的誘引工作は之を行わず」として「服従をを誓い協力を惜しまさるの動向を取る者に対しては其の生業を奪わず権益を認め 然からさる者に対しては断乎其の生存を認めさるものとす」と強硬な姿勢に転じていったのである。 
 その犠牲者数はシンガポールだけで四〜五万といわれ、シンガポールを含めたマラヤ全土では、一説では十万にのぼるという数字もあるこのマレー半島における華僑虐殺は、下記のような点で戦時国際法に反していると考えられています。
 1 マレー作戦は、1942年2月15日のシンガポール陥落によって終了した。しかし、戦闘終了後の一ヶ月を中心に集中的に華僑粛清が行われた。
 2 武装したゲリラではなく、非武装で無抵抗な人々を一方的に殺戮した。殺された人の中に女性や子どもや老人が非常に多く抗日運動など考えられない赤ん坊までもが殺されて いる。
 3 殺害の仕方が「現地処分」や「厳重処分」という方法で法的手続きなしに行われている。交戦中の射殺ではなく、捕らえた者や抵抗でき  ない者を法的手続きなしに射殺することは戦時国際法違反なのである。

 
−−−−−−−−−−−−−−−泰緬鉄道俘虜収容所−−−−−−−−−−−−−−−−−

 元英国陸軍大尉アーネスト・ゴードンの「クワイ河収容所」(ちくま学芸文庫)は、地獄でさえこれほどひどくはないと思われるような状況の中で生を喪失した俘虜の世界に生を回復させ、人間の尊厳を取り戻す経緯をていねいに描いているが、一面では、泰緬鉄道敷設工事における日本軍の残虐行為を、意図するかしないかにかかわらず明らかにする一冊となっている。
 ゴードンはアカデミー賞映画「戦場にかける橋」の原作小説を読んで、収容所で起こったことを伝えたい衝動を感じたという。原作は根本的には娯楽小説だというのである。そして、異国の地で死んでいった戦友のために、彼が体験したことを公にする責任を感じたというのである。日本軍がいかに人権意識や法遵守の意識を欠いていたか思い知らされる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−虐殺・粛清−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 前掲の「華僑虐殺−日本軍支配下のマレー半島」林博史(すずさわ書店)には、大西覚憲兵中尉が責任者をしている検問所で、軍作戦主任参謀辻政信中佐が

 「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」

と憲兵隊を激励したという一文があります。そして、軍参謀の朝枝繁春少佐は憲兵隊本部に入ってきて軍刀を抜き、
 
「・・・軍の方針に従わぬ奴は憲兵といえどもぶった切ってやる」
と強引な指導をしたといいます。
 だから憲兵曹長として検問にたった中山三男氏は
 「・・・半分くらいは粛清せないかんのだ・・・」「半分もやるならちょっとくさいものもというわけで・・・」
というようなことを述べているというのです。俄には信じられないのですが、林博史氏は63人もの住民の証言で、日本軍の忌まわしく非道極まりない虐殺・粛清の実態を明らかにしています。そして、それは米軍の臨検を受け拿捕された病院船(偽装)「橘丸」で、日本軍の陣中日誌が没収され、処分されることなく後に返還されたことによって確認されることとなりました。公文書で粛清の命令や事実が裏付けられることとなったわけです。粛清が一九四二年三月の約一ヶ月に集中して、下記のように進められたことが分かりました。
 第一次粛清:レンバウ地域    第二次粛清:クアラピラ南部
 第三次粛清:クアラピラ北部   第四次粛清:ジェレブ地域
 第5次粛清:セレンバン県北部  第六次粛清・セレンバン市とマラッカ市


 かつて、高校用英語教科書に、戦争中のマレーシアのこととして日本兵が赤ん坊を空中に放り投げて銃剣で突き刺したという話が入っていたそうです。この教科書は、文部省の検定に合格していたにもかかわらず、自民党の圧力で出版社側が自主的に別の内容に差し替えるという問題が1988年秋に発生したといいます。自民党や一部マスコミは「そのような残虐行為をおこなったということは事実かどうか分からない」と主張したようですが、多くの住民の虐殺・粛清の証言内容と、上記のような赤ん坊の刺殺に関する何カ所かでの住民の目撃証言、および陣中日誌の粛清命令などを考え合わせると、間違いのない事実であると思われます。 

−−−−−−−−−−−−バターン「死の行進」を歩く−その1−−−−−−−−−−−

 1941年12月8日の太平洋戦争開戦と同時に、日本軍はフィリピンに航空撃滅戦を決行し、本間雅晴中将ひきいる一四軍がルソン島に上陸した。マニラに入城したのは翌年1月。このときすでにマッカーサーはコレヒドール島に司令部を移し、米比軍の主力はバターン半島にたてこもった。第一四軍はバターン半島の米比軍に総攻撃をかけ、米比軍は1942年4月9日に降伏する。
 バターン「死の行進」とは、米比軍が日本軍に降伏した後の4月10日、バターン半島の突端にあるマリベレスから、また翌日には南シナ海側のバガックから、米比軍捕虜と市民たちが炎天下を行進させられたことを指す。最も長くてつらい行進をしたのは、マリベレスからルソン島中部パンパンガ州のサン・フェルナンドまでの約100キロを歩かされ、そこからタルラック州のカパスまで列車で輸送されて、さらにオードネル収容所までの12キロを徒歩行進させられた者たちである。市民の多くは数日中に解放されている。
 行進に参加させられた数は、バターン半島の戦死者やコレヒドール島への逃避者やパンティンガン川で虐殺された例を除くと、アメリカ兵9,300名・フィリピン兵6万名で、市民は約41,000名いた。捕虜たちの移送にはトラックを使用する案もあったにもかかわらず、輸送力不足のために徒歩で行進させたのである。捕虜たちは行進中にマラリアや赤痢、あるいは栄養失調で倒れたり、日本軍監視兵に殺傷されたりした。オードネル収容所での統計によると行進中に死亡・逃亡した数は、合計約21,000名ほどになる。

          <バターン「死の行進」を歩く(筑摩書房)鷹沢のり子>より

 上記は、日本キリスト教水俣伝道所の菅原一夫牧師が「バターン『死の行進』の道のりを戦争責任を感じながら歩きたい」という発案で実施されることとなった「生の行進」に参加し、多くの住民や関係者の証言を聞き取り取材してまとめられたものであるが、バターン州都バランガ市の大学生に、高校ではどのように学んだかを聞いた。
 「私は生まれがマリベレスなので、ここから捕虜たちが歩かされて、多くの兵士たちが 死んだことは知っています。高校では、アメリカがスペインと日本からフィリピンを解 放したと教えられました」
など、考えさせられることや教えられることが多い。


−−−−−−−−−−−−−バターン「死の行進」を歩く−その2−−−−−−−−−−−

  同書の中から、いくつかを紹介したい。
 
5日間かかってオリオンに到着。兄が手配してくれた舟がくるのを港で待っていた。そこに日本兵がやって来て「男性はそのまま歩いていけ。女性は残れ」と命令された。ラオーラさんはギャザースカートをはき、ブラウスを着ていた。日本兵が片手でラオーラさんの胸にふれた。息が止まりそうだった。日本兵はさらに指をさげていった。胸につけていた十字架が大きかったので、ラオーラさんの胸のふくらみがほとんどないと思ったようだった。日本兵は次にルースという18才の女性の胸にさわった。きれいな娘だった。彼女だけが顔を汚していなかった。日本兵は彼女を連れ去ろうとした。彼女の父は、日本兵を殴って抵抗する。しかし、数人の日本兵が彼女を連れて行った。父親はその場に止められ、ラオーラさんたちは小舟でオリオンを去った。
 その後、ルースの父親に会ったとき、彼女は殺されたと聞いた。ラオーラさんは「アメリカ」を代表するマッカーサー司令官が帰ってくることを切に願った。
 下士官たちは日本兵からシャベルを渡され、長い溝を掘るよに指示された。溝掘りが済むと、日本兵は重病のフィリピン兵士たちを連れてくるように言い、まだ生きている彼らを溝の中に運び入れた。日本兵は下士官にフィリピン人兵士たちの意識がなくなるまで頭を殴れと命じた。拒むと、今度は下士官たちに溝に土をかぶせるように命令した。そむくこともできずに、10人のフィリピン人兵士たちに土をかぶせた。まだ体力が残っていたフィリピン人兵士が、溝の中から起き上がろうとした。下士官は土をかぶせることができなくなった。それを見た日本兵が日本刀を持ち出して、起き上がろうとするフィリピン人兵士を切りつけた。そして、下士官に土を埋めさせた。
 バランガにやっとたどり着いた捕虜たちに与えられたのは、「おにぎりが一つ」だった。それでは約40キロを歩いてきた捕虜たちには残酷である。隠していた金銭を取られずに持っていた捕虜たちは、収容所前にいたフィリピン市民から米を買った。「ここでコメを炊いてはいけない」と、日本軍から命令は出されていても、何人もがコメを炊いて食べた。前述のジェームス・バルダサレさんは、3カップ分のコメを買って炊いて食べた。運悪く、その中の2人が日本軍に見つかった。命令にそむいたという理由で彼らは生き埋めにされた。 バランガで生き埋めにされたのは、2人だけではなかった。
 バランガで一泊することになった捕虜たちが一番欲したものは「水と飲料」だった。バランガに着く前に水を求めて殺された兵士たちもいた。次のようなマニラ法廷での証言がある。
 「バランガに到着する前に橋があり、川には水が流れていました。捕虜たちは水が欲しかったんだと思います。長い間水を飲んでいなかったんです。6人ほどが橋を飛び降りました。彼らが水を飲もうとしたそのと きに、日本兵は射殺しました」。
 「昨9日正午、バタアン半島総指揮官キング少将は部下部隊を挙げて降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的な承諾を与えていない。それゆえ、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、、各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ」(辻政信参謀が口頭で伝達して歩いたらしい)


−−−−−−−−−−−−キャンプ・オードネル(捕虜収容所)−−−−−−−−−−−

 バターン死の行進の様子は鷹沢のり子著「バターン『死の行進』を歩く」でおよそ確認できた。次に、サン・フェルナンドからカパスまでの列車輸送の様子と捕虜収容所「キャンプ・オードネル」内での様子をテオドロ・A・アゴンシリョの「運命の歳月 第一巻(フィリピンにおける日本の冒険1941〜1945)訳:二村 健」井村文化事業社発行・勁草書房発売で確認したい。
 翌日、捕虜たちは鉄道駅に連れて行かれた。高さ7フィート(2.1m)幅8フィート(2.4m)、長さ33フィート(10.1m)の有蓋貨車数両が駅にあった。これらは、捕虜たちをカパスへ運ぶものであった。貨車一両は通常55人乗りであったが、それぞれに、100人から150人の捕虜が詰め込まれた。男たちを乗せると、扉が閉じられ、外から鍵が掛けられた。貨車の中は極めて暑く、捕虜たちは息が詰まった。赤痢を患い、未だわずかに命脈を保っていた者は、便意をもよおすと所構わず排便した。そのため、車内の環境をさらに悪化させた。多くの者が気を失った。身体的衰弱状態にあったことから、立ったまま、あるいは、座ったままで死に絶える者もあった。自由に動ける隙間もなかった。一度体の位置を取ると、もはやその位置を変えることはできなかった。・・・

 日本軍の監視兵は、カパスまでの3時間の道のりの間、それぞれの停車駅で、不意に思い出したかのように貨車の扉を開け、捕虜たちに車外の新鮮な空気を吸い込む機会を与えた。そうした停車駅では、フィリピン人の民たちが、彼らに食糧と水を差入れた。・・・

 カパス駅では、フィリピン人市民たちが、互いに先を争って、食べ物の入った袋を捕虜たちに投げたり、水の入ったバケツを手渡したりした。日本軍警備兵の中には、捕虜たちに与えられた食料を投げ捨て、貴重な水を地面にこぼす者もいた。市民らのすることにまだ我慢のできた、多少人間味のある日本兵もいた。こうした日本兵は、この痛ましい光景を目にしながら、ただ動かずじっと立っていた。
 キャンプ・オードネルでの最初の二週間は、非常に苦しいものであった。食糧の配給は情けないほど不十分で、一回の食事は、少量の飯と一摘みの塩であった。捕虜に与えられる米は、実際、「精米所の床から掃き集められたもの」で、炊飯すると色が紫色に変わった。たまに、さつまいもが食事に添えられた。しかし、ほとんどが腐ったもので、人間の消耗を補うには不適切なものであった。さうまいもが少しでも与えられると、皮のまま大きな鍋に放り込まれた。包丁が一本も支給されていなかったからである。
 食事がこれだけ不十分であったため、男たちは、人間というよりも骸骨にずっと近く見えた。肋骨がくっきりと浮き上がり、見た目に数えることができた。尻の肉はたるんで垂れ下がり、腕の皮はしまりがなくだらんとしていた。ほとんどの捕虜たちは、眠っているときは生きているようには見えず、むしろ死んでいるかのように見えた。場合によっては、その人は、本当に死んでいた。仲間の知らないうちに息を引き取っていたというのが実際の話であった。朝が夜になり、また、次の朝がやってくると、埋葬される順番を待っている多数の死体が見られた。マラリア、赤痢、デング熱、栄養失調が犠牲者を増やした。次から次へと兵士が死んでいくので、生き残った者は、戦友のための墓掘り作業を止めることができなかった。

 アメリカ人の間では、死亡者数が日毎に増加し、1日20人から58人にまで達した。フィリピン人の死亡者は、アメリカ人よりも高く、最高で350人が死んだ。


−−−−−−−アンボン島捕虜および労務者の虐待・虐殺−NO1−−−−−−−

 泥沼の青春時代を送った著者禾晴道氏は「時の経過とともに、汚い戦争を美化し、正当化しようとする意識的な動きすらでてきています。」と<海軍特別警察隊−アンボン島BC級戦犯の手記−(太平出版社)>の中で警告しています。そして、誰も知らないようなインドネシアのバンダ海に浮かぶ”けしつぶ”ほどの小さな島でも、日本軍による虐待・虐殺があったこと、また、自ら関わったことを明らかにしつつ、その戦争体験を直視し、様々な事実とその時々の心の内を正直に報告しています。
 私は、この著書から学ぶことがたくさんあったのですが、忘れてはならないと思うことのいくつかを書き出しておきたいと思います。
 海軍特別警察隊(特警隊)へは、軍の宿舎とか食糧庫に侵入した現地人は現地人警察で捕らえた者も送られてきていたし、特警隊でも捕らえていた。各部隊でも連れてくるので、取り調べがたいへんだった。・・・ 
 考えてみれば、日本軍そのものが石油がないので石油資源のある南方地域を占領しているのだから、この食糧どろぼうとは問題にならないほどの大どろぼうとして侵入していたわけだった。その侵入者であり大どろぼうがわれわれであることにはだれも気づいていなかった。・・・
 ある日、司令部の先任参謀から電話がかかってきた。
 「ジャワ島から来ている現地人の労務者(ジャワ苦力と呼ばれていた)が宿舎を離れて、 焼跡の町なかや、部隊の兵舎のまわりをうろついている。食糧がほしいあまりに、兵器庫などに侵入されたり、どこに侵入するかわからないので非常に危険になってきている。 トラックをだして町中のやつらをかたっぱしから捕らえて、分からないように処分せよ」。
という命令だった。わたしもこの命令にはドキッとした。
 たしかに警備上からだけ考えれば、先任参謀のいうような危険は考えられないことはないが、飢えて、病気になり、ふらついているかれらを虫けらのように殺すことができるだろうか。
 人口過剰と食糧不足は、日本軍の侵入でジャワ島にも起きていた。
 


−−−−−−−アンボン島捕虜および労務者の虐待・虐殺−NO2−−−−−−−
  

 第2次世界大戦当時すでにハーグ条約やジュネーブ条約などを通して、戦時捕虜の取り扱いについて様々な国際的定めがあった。
 しかしながら日本は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」というような戦陣訓のもと、
「日本軍人たる者は、いかなる状態であれ、敵に捕まることは、最大の恥とされ、捕まる前にどこであろうと、いつであろうと、だれであっても、力の続く限り敵と戦って死ぬことが要求されていた。動けない病人には自決が要求された。一度でも意識不明のためとか負傷のために捕虜になり、逃げ帰って、捕虜になっていたことがわかれば、軍事裁判で銃殺が決定していたほどきびしかった」という状況にあったので、敵の捕虜についても人道的に扱うという姿勢はほとんどなかったということである。
 したがって、にわかには信じがたい数字の下記の記述も頷ける。
 日本がアンボン島を占領していころ、オランダ軍・オーストラリア軍などの捕虜が訳1,200人ほどいた。そのうち、占領と同時に上陸作戦で多くの犠牲者を出した日本軍は、敵の捕虜200人あまり、激戦のあったラハ飛行場の近くの塹壕の中に殺害して埋めてしまった。残った1,000人のうち、約500人が後方占領地に送られ、残り約500人がアンボン島の捕虜収容所に収容され、1945年に入って築城作業の重労働と食糧不足・病気などで死亡し、敗戦時はわずか約130人になっていた。・・

 「アメリカ機搭乗員の殺害」の項では、3人のアメリカ機搭乗員をどのような経過で、どのように殺害したのか詳しく書かれている。下記は、そのごく一部の抜粋である。
 ・・6月上旬セラム島空襲にきた敵爆撃機編隊の一機が、低空飛行をやりすぎて、急上昇できず小高い山に衝突し、大破し、3人のアメリカ機搭乗員がふしぎにも無傷で生き残り、他は全員死んでしまう事件が起こった。セラム島派遣警備隊に捕らえられて、司令部の指示で特警隊に連行されてきた。
 「3人のアメリカ軍捕虜は重要な情報をとるために、取り調べる必要があるので、それがすむまで特警隊の留置所に留置し、逃げないように警戒するとともに、決して無茶な扱いはしないように注意してくれ」。
司令部の指示だった。・・・

 宮崎大尉からの命令だった。
 「3人の搭乗員の調査もすんだので、あまり長くそのままにしておくこともどうかと思う。明日にでも処置してくれ、作業員と警戒兵はガララの捕虜収容所の警戒隊から出す。 時間は収容所と打合わせてやってくれ」。 
 「わかりました。では、明日処置します」。
現地では「殺害せよ」とはいわなかった。「処置するように」ということばが「殺害せ よ」ということで常識化していた。
 3人のアメリカ軍人を殺害する命令を受けたわたしは、一回くらい自分でもやってみようか、という気が起きていた。・・・

 こうして国際法違反の捕虜の殺害が行われたのである。
         
−−−−−−−−−−−アンボン島における日本軍−NO3−−−−−−−−−−
  
 アンボン島における日本軍の問題で忘れてはならないのは、虐待・虐殺の事実とともに慰安所設置の問題である。「慰安婦はいたけれど、従軍慰安婦はいなかった」というようなことが、最近いろいろな場面で(著作物を含め)主張されるようになってきているが、下記を読めば、アンボン島でも軍が深く関わり、軍が主導していることは明らかであると思う。
 それまでも、毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議というのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とちがって、島の民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするかとか、民政関係からみて警備隊はこの点とくに注意してもらいたいとか、本質的に対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとする会議だった。
 出席者は各警備隊の司令・副長、民生部は当時政務隊となって成良司令官が政務隊長として出席し、民政警察の木村司令官も顔をだしていた。セラム新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木村元記者、宗教関係からはキリスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令部からは、参謀長、先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた。・・・
 その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のような慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのために、慰安婦を集めることと治安上起きるかも知れない民衆の反感について討議されることとなった。・・・

 このアンボン島の周辺の小島から、多くの慰安婦を集めようとすれば、慰安婦志望者だけでは少ないだろうし、多少強制でもすれば住民の反日感情を高めて治安上おもしろくないことが起きはしないだろうかという心配の点が中心になるだろうと思われた。
 そして、慰安婦を集める作業はどこがやるのか、各隊はそれにどのように、どの程度まで協力するかが討議されなければならなかった。問題は現地人を、どううまくごまかすかが会議の本当の議題でしかなかった。それは一つの謀議でもあった。

 副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現して、
「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのため には、宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元 の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってくる女には、当分の間、うまい食事を 腹いっぱい食べさせて共同生活させる。その間に、来てよかったという空気をつくらせ てうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりのの女性から、慰安婦とし て働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしていま す。」

 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。
 「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告 されていた娘を集め て強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘た ちが住んでいた部落の住民が、ぞくぞく 港に集まってきて、娘を返せ!!娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住 民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出してもゾーッとしますよ。 敗れた 日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ。」
わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。特警隊からも売春容疑者を捕らえて、収容所に送って協力していた。それは犯罪容疑者として捕らえていた。



−−−−−−−−−−ビルマ慰安所経営者の証言−−−−−−−−−−−−−−
  
 従軍慰安婦と15年戦争<ビルマ慰安所経営者の証言>西野留美子(明石書店)を読んだ。今までに何度か従軍慰安婦の証言は読んだことがあったが慰安所経営者の証言はあまり読んだことがなかったからである。慰安所の経営にも、慰安婦の集め方同様いろいろあったことが分かった。それにしても、この本の書き出しが衝撃的だった。
 「慰安所経営者だったと証言してから、わたしは公職のすべてを離れましたよ」
 中国で日本人、朝鮮人女性を買いそろえ、軍の指示によりビルマで慰安所経営をしたという香月さんを訪ねた日、彼はまっ先にそう告げた。
 「証言なさったことを後悔されているんですか?」
おそるおそる尋ねる私に、彼は苦笑いしながら首を横にふった。
 「私が話さにゃ、本当のことは分からんでしょう」

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 「今さら過去を蒸し返すな」「国益に反することをするな」という力が今なお働いていることに注目しないわけにはいかない。

 この本には「『従軍慰安婦』と日本軍」と題して行われた元日本兵(中国帰還者連絡会の方々)の座談会の発言が含まれており、個人差はあっても、当時の日本兵の慰安婦(慰安所)に対する考え方や状況がだいたいつかめる。
 
 また、慰安婦の集め方は、朝鮮人慰安婦に限らず、元五十九師団軍曹絵鳩さんがいう下記の3通りの方法があったこともほぼ間違いないと思うようになった。
 1 お金をもらって連れて行かれた。
 2 工場や食堂などでいい仕事があると甘言で騙されて 連れて行かれた。
 3 日本の官憲によって、明らかに強制的に連れて行かれた。
 
−−−−−−−−−−ビルマ慰安所経営者の証言−NO2−−−−−−−−

 下記は、気さくでものおじしない陽気な人柄に目をつけられ慰安所の経営をやってほしいと陸軍参謀に頼まれたため、ビルマに渡って慰安所経営者となった「幸江」の証言である。
 「わたしは、この商売を本気でやってましたよ。お国のために命をかけている兵隊さんのために、できるだけ心を慰めてやりたいと思うてました。あの人たちは、セックスだけが目的だったんじゃないですよ。人間と人間の触れあいに飢えていたんですよ。慰安所は、心の安らぎの場だった。わたしは、そういう気持ちであの商売をやってましたよ。 その気持ちは、あの商売にたいするわたしの使命感でした」

 こういう経営者だけに、下記のような証言は重みを持っていると思う。
 「軍の命令がたびたびくるんですよ。今度はメイミョウの部隊に○○人ほど女を連れて行きたいから用意してくれとかいう具合にね。移動するときは、軍のトラックですよ。軍のトラックが指定した日に迎えにくるんです。いやだなんてとても言えませんでしたよ。問答無用。・・・」

 「・・・慰安所を経営していたからといって、なんぼも儲かりゃしませんよ。第一、石炭缶に入るほどの軍票があったけれど、そんなもん一文の価値ものうなっとりましたからね。・・・」

 「・・・慰安所の経営者が、まるで悪者のように言われますが、軍の命令だったんです よ。けっきょく私らも、戦争では置き去りにされたようなもんです。使い捨てっていう か・・・」



−−−−−−−−−−−−−虐待ではなく日本軍なみ−−−−−−−−−−

 泰緬鉄道建設工事に従事させられていた元捕虜の証言の中に、
 「日本軍は捕虜に対して極めて残虐・残忍であると思っていたが、敗戦で引き上げてくる多くの骸骨のようにやせ細り何の手当もされていない傷だらけの日本軍兵士を見て、自国の兵士をさえこのような状況に追い込む日本軍にとっては、特に捕虜を虐待をしたということではなかったのかも知れない」
というよう内容の証言があったことを覚えている。

 山本七平の「下級将校が見た帝国陸軍」(文春文庫)の中に、「バターン死の行進」について、次のような一節があり思い出したのである。
 だが、収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本軍の行軍は、こんな生やさしいものではなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そして、これは単に行軍だけではなく他の面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った。
 「卒業までに、お前らの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。
 こういう背景から出てくる本間中将処刑の受け取り方は、次のような言葉になった。
 「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」
 「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への 罪”で全部死刑だな」。



−−−−−−−−−−「石をもって追われた」日本軍の撤退−−−−−−−−−−−

 「下級将校は見た帝国陸軍」山本七平(文春文庫)の中に重要な指摘がある。かつて、多くの人たちが口にした「ピリ公なんざぁアジア人じゃネェ」(ピリ公フィリピン人への蔑称)という言葉やこれに類した言葉、また逆に「アメリカはアジアの心を知らなかった」という言葉の中の「アジアの心」とは何なのか。「全アジアを経めぐった上で形成された概念なのか?」というような問いである。
 30年前、何百万という人が、入れかわり立ちかわり、東アジアの各地へ行った。私もその一人だった。そして、現地で会った人びとが、自分がもっているアジア人という概念に適合しなかったとき、
 「こりゃ、われわれの”見ずして思い込んでいるアジア人という概念”が誤っているの ではないか、否、この 広大なユーラシア大陸の大部分を占める地に、”アジアといった 共通の像”があると一方的にきめてしまうのは誤りで、単なる一人よがりの思いこみではなかったのか?」
と反省することができたなら、日本のおかした過ちはもっと軽いものであったろう、と私は思う。 
 そして、私が忘れてはならないと思うのが、下記のような歴史的事実である。
 米海兵隊によるベトナムからの米軍引揚げ作戦の報道は私を憂鬱にした。何万という難民がそのあとについて脱出していくが、石を投げる者はいない。その記事の一つ一つは、しまいには、読むのが苦痛になった。形は変わるが30年前われわれも比島から撤退した。だれか、われわれのあとについて来たであろうか。もちろん事情は違う。私が言うのは本当について来てほしいということではない。だれかが、「日本軍のあとについて脱出したい、しかしそれは現実にはできない」と内心で思ってくれたであろうか、ということである。
 もちろん何事にも例外はある。しかしわれわれは、アメリカ軍と違って、字義通りに「石をもって追われた」のであった。人間は失意のときに、国家・民族はその敗退のときに、虚飾なき姿を露呈してしまうのなら、自己の体験と彼らの敗退ぶりとの対比は、まるでわれわれの弱点が遠慮なく、えぐり出されるようで苦しかった。そして、その苦痛をだれも感じていないらしいのが不思議であった。というのはそれは30年前の、マニラ埠頭の罵声と石の雨を、昨日のことのように思い出させたからである。
 私も同じ体験を記したことがあるが、ここではまずその時点の正確な記述である故小松真一氏の『虜人日記』から、引用させていただこう。
 「・・・『バカ野郎』『ドロボー』『コラー』『コノヤロウ』『人殺し』『イカホ・パ ッチョン(お前なんぞ死んじまえ)』  憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。 隣の人の頭に石が当たり、 血がでた・・・」
これは21年4月、戦後8ヶ月目の記録であり、従って投石・罵声にもやや落ち着きがあるが、これが20年9月ごろだと、異様な憎悪の熱気のようなものが群衆の中に充満しており、その中をひかれて行くと、今にも左右から全員が殺到して来て、八つ裂きのリンチにあうのではないかと思われるほどであった。だが、サイゴンの市民は、「アジアの心をしらない」米軍に、1個でも、石をなげたであろうか。
 護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた。考えてみればわれわれは「護送」において常にここまではしていない。内地でも重傷を負ったB29搭乗員捕虜を、軍が住民のリンチに委ねた例がある。だが、私とて、もし、「親のカタキだ、1回でよいから撲らせてくれ」などと言われたら、威嚇射撃でこれに答えることは、できそうにない。だがこの1回が恐るべき状態への導火線になりうる。そしてこれが、後述する日本的中途半端なのである。
 私は幸運だったのだろう。だがすべての日本兵がそのように幸運だったわけではない。戦争末期、特にレイテ戦の後で、小舟でレイテを脱出して付近の島に流れ着いた、戦闘能力なき日本軍小部隊への集団リンチの記録は、すさまじい。
 これらについては、もちろん日本側には一切資料はなく、戦争直後に、比島の新聞・週刊誌等に挿絵入りで連載された「日本軍殲滅記」から推定する以外にない。


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日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたが、ミンダナオでは、9月3日原田師団長が師団将兵に降伏命令を出した。そして、半信半疑ながら、米軍機より撒かれた投降命令にしたがって投降した広瀬繁治氏は、「嗚呼・ミンダナオ戦−生死をわかつ我が青春」の中で、収容所に送られる時の様子を、次のように書いている。

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 我々は元陸軍の飛行場に造られた、ダリアオン収容所にむかったのである。道路の両側には、沢山のフィリピン人が立ち並んでいる。その列のなかからは、我々に向かって、手で首をちょん切るまねをしたり、片言の日本語で、バカヤロー、ドロボウ、という罵声が飛ぶ。その声に刺激されてか、石を投げる者もいる。当たれば傷をする。
 しかし、こうされるのも、当然かも知れない。自分たちの愛する土地を戦場にされ、農作物は荒らされ、家は焼かれ、肉親、知人に沢山の犠牲者を出しているのだ。
 日本軍が抵抗できない、と知れば、仕返しに石でも投げたくなるだろう。だが我々ペイペイの兵隊も、来たくて来たわけではない。
 ただし、投石は護送する米兵にとっても危険である。投石があると空に向けて威嚇射撃をする。
 幸い我々は無事、収容所へ到着した。


−−−−−−−−−−− 生存率0,24%のサンダカン捕虜収容所−−−−−−−−−

 サンダカン(Sandakan)は、カリマンタン島(ボルネオ島)の北部に位置するマレーシア・サバ州の都市で、州都コタキナバルに次ぐ第二の商業都市である。戦時中は、ボルネオ島東海岸部の油田ブニュー、タラカン、サンガサンガやバリックパパンと日本を繋ぐ重要な連絡地であったという。そこに、生存率0,24%の問題の捕虜収容所があったのである。
 サンダカン捕虜収容所には1943年9月時点では約1800名のオーストラリア軍捕虜と700名のイギリス軍捕虜が収容されていたが、戦後まで生き延びたのはこのうちたった6名であったというのである。あの悪名高いアンボン捕虜収容所でさえ、528名の捕虜のうち123名が戦後まで生き延び、生存率は23%であり、過酷な強制労働で知られている泰緬鉄道建設工事に従事させられたオーストラリア軍捕虜は総数9500名のうち死亡者は2646名で生存率は72%であったというのである。
 この捕虜収容所で何があったのかは後に回すとして、生存率0,24%のこの捕虜収容所のことがほとんど知られていない主な理由は、「知られざる戦争犯罪(日本軍はオーストラリア人に何をしたか)田中利幸著<大月書店>」によると、一般的な無関心にくわえて、次の3つがあるという。
 1 一部の上級人員を除いて、監視員のほとんどが台湾人であったため、直接経験者としてこの問題に言及できる証言者がきわめて少な いこと。
 2 敗戦直前に日本軍が収容所に火をつけたため証拠となるような関係書類を焼失してしまっていること。
 3 生存者が少ない上に、精神的傷痕があまりに深くて、他人に語ったり、文章にしたりすることがきわめて困難であったこと。(語り始めた のは1980年代に入ってからであるという)
 

−−−−−−−サンダカン捕虜収容所−NO2−食糧配給制限−−−−−−−
         
 サンダカン捕虜収容所の捕虜全員死亡に限りなく近い高い死亡率の一因である食糧配給の制限状況を「知られざる戦争犯罪−日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著−大月書店からいくつか抜粋したい。
1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 捕虜収容所開設当時は、重労働に従事した捕虜には一人あたり750グラムの米とこの地域でとれるカンコンと呼ばれる菜っ葉を中心に600グラムの野菜が、重労働に従事しない捕虜には一人あたり550グラムの米と400グラムの野菜が毎日支給された。肉や魚の支給はたまにしかなかったようであるが、しかしすでに述べたように最初のうちは賃金が払われており、所内で売店を開くことが許可されていたので売店があげた利益でヤク牛を数頭買いその肉を捕虜全員に分配したことがときたまあったという。また売店では亀の卵やバナナなども入手できたので、食料は豊富とはいえないが不十分なものではなかった。しかしすでに述べたように1943年なかばには売店も閉鎖され、1944年6月には米の配給が重労働者には1日400グラムに、重労働に従事できない病人には300グラムに削減されている。減らされた米の代用タピオカやさつま芋などが使われたようであるが、それもたいした量ではなかった。
2−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1945年1月には米の配給は労働従事者には1日あたり300グラム病人には200グラムにまで削減したということであるが、生き残った捕虜の証言では米は100グラム少々で、あとはタピオカ、さつま芋、野菜が少々供給されただけだったという。
 したがって、食糧供給が大幅に削減された1944年6月以降からは栄養失調と病気による捕虜死亡者数が急激に増加し始め、それまでは死亡者には形なりにも棺桶をこしらえて葬っていたが、棺桶を作るのが間に合わなくなるほど毎日死亡者が続出したため、これ以降死亡した者は裸の状態で土葬されている

3−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
・・・4月1日からは、サンダカン捕虜収容所の捕虜への米の配給を完全に停止させた。
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 食糧配給の削減には、サンダカン事件や戦況の悪化、捕虜処分の方針などが関係していると考えられる。 
           
−−−−−−−−サンダカン捕虜収容所−NO3−死の行進第一団−−−−−−−−
     
 簡単に比較することはできないが、サンダカンの捕虜や日本兵がバターン死の行進に優るとも劣らない悲惨な「死の行進」によって亡くなっている。ボルネオ島のサンダカンからラナウの約260キロの行進であるが、鬱蒼としたジャングルや湿地帯でおおわれており、また雨期でであったため、時には20cmのぬかるみの中を2日間も行進しなければならなかったという。したがって、ほとんどの捕虜が素足での行進を余儀なくされ、熱帯性潰瘍に冒されていた捕虜は潰瘍をさらに悪化させたわけである。また、ジャングルの中にはコブラやトカゲがおり、沼地にはワニもいたというのであるが、特に茶色の大きなヒルが生息しており悩まされたということである。
 「知られざる戦争犯罪−日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著−大月書店によると死の行進の概要は下記のようなことである。
戦況悪化−−−−−− −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 連合軍によるサンダカンへの引き続く空襲のために、飛行場が使いものにならなくなり、1945年1月10日、日本軍は修復工事をあきらめ、捕虜の強制労働も停止させた。そして、連合軍の上陸が予想される西海岸の防備を強化することを決定し、兵力の移動とともに、体力の残っている捕虜500名を軍の物資輸送に利用しながら移動させることにしたのである。(捕虜500名を山本部隊に引き渡すよう命令された捕虜収容所の星島所長はなぜか470名しか引き渡していないという。)
 山本は470名の捕虜を9班に分け、各班を50名前後の捕虜で構成し、各班の護送責任者として士官を一人、下士官を一人ないし二人ずつ割り当て、さらに各班に40人前後の兵卒を護衛としてつけた。

「捕虜処分」の許可−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「落伍者を出すな」という命令とともに、サンダカンからラナウまで捕虜を移動させる命令を受けた山本大尉は、任務遂行はきわめて困難と考え、行程期間の延長や医薬品の増加、休憩地点を増やすことなどいくつかの要望を司令部に出した。しかし、受け入れてもらえず、「落伍者を出すな」という司令部からの命令を「落伍者は処分してよい」というかたちで、最後尾の班の責任者に命令せざるを得なかったようである。ラナウへの移動 第一団−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1945年1月29日早朝6時、総責任者である山本大尉、それに第1班のオーストラリア軍捕虜55人が40人の日本兵に付き添われてサンダカンを出発した。その後毎日各班が前の班を追うかたちで出発し、最後の9班がサンダカンをでたのは2月6日であった。前述したように、出発時に米や乾し魚、少量の塩、ビスケットなど4日分の食料を与えられ、途中のムアナッド、ボト、パパン、ムリル、パギナタンの5カ所の各食糧補給地点で、次の数日分の米や野菜の供給を受けることになっていた。ところが・・・、
 結局第1班は2月12日午後4時にラナウに到着したが、55人の捕虜のうち15人が死亡。
 第2班は17日の行進でラナウに到着した捕虜は30人であった。(出発当初50人)さらに10名の日本兵が病死している。
 最後尾の9班の捕虜50人(全員英国兵)は2月6日にサンダカンを出発、最後の食糧補給地点であるパギタナンに21日に到着している。この間18人の捕虜と7人の日本兵が死亡している。
 
第6班から第9班、パギタナンで行進中止−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 かくして、食糧準備不足のために、すでに述べたように後列の班になるほど状況が悪化し、捕虜たちはカタツムリやカエル、しだの葉っぱなどとにかく食べられるものは何でも口に入れて飢えをしのぎながら行進しなければならあなかった。しかしあまりにも衰弱が激しかったため、捕虜と日本兵両方の体力回復をはかるために、第6班から第9班までの4つの班の行進を最後の食糧供給地点であるパギタナンでいったん中止させている。この4つの班はパギタナンに2月17日から21日の間に到着したが、合計200人近くいた捕虜のうち40名ほどが途中で「落伍」していた。さらに、ここまでたどりついた160名も極端に衰弱しほとんどの捕虜が熱帯病に冒されていたため、毎日何人も死んでいった。結局彼らは ラナウから運ばれてくる米の補給にたよりながら1ヶ月ほど留まったが、この間に100名ほどが死亡した。
捕虜による物資運搬中止−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一方、第1班から第5班はラナウに2月12日から19日にかけて到着したが、もともと270名ほどいた捕虜のうちラナウに到着したのは200名弱であった。しかし彼らの多くもまた苛酷な行進のため体力を消耗しきっており、そのほとんどが脚気やマラリアに冒されていた。これ以上の行進はまったく不可能であった。第37軍司令部は、捕虜の中にあまりにも多くの死亡者が出たため捕虜を軍の物資運搬にこれ以上利用することをあきらめたのか、命令を変更して捕虜をそのまま留めることを決定した。
 
 ラナウに残された200名たらずの捕虜は2週間ほどの休息を与えられたが、食糧配給事情は相変わらず悪く、医薬品の供給もまったくなかったため、この間に数多くが死んでいった。
 第二陣の行進でサンダカンから連れてこられた捕虜たちがラナウに到着したとき、生き残っていた捕虜は(470人中)たった6人だけであった。



−−−−−−−−−−−−−−−「死の行進」第二団−−−−−−−−−−−−−−−

 470人捕虜が9班に分けられ、サンダカンからラナウへ向かった第一団の死の行進に続いて、第二団536人の捕虜が11班に分けられ、5月29日夜7時にラナウに向け出発した。その死の行進の概要を引き続き「知られざる戦争犯罪−日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著−大月書店によって確認したい。
 1945年5月17日、新たにサンダカン捕虜収容所の所長に任命された高桑大尉は、5月20日に第37軍司令部よりサンダカン捕虜収容所を閉鎖して捕虜ならびに監視員全員をラナウに移転すべしとの命令を受け第二団を出発させたのである。ただし、第一団が出発した直後はサンダカンに1300名近い捕虜が残っていたはずであるが、5月末には830名に減少しており、歩ける者はオーストラリア人439名、英国人97名の536名であったため、第二団は536名だったのである。第二団にも取り残された捕虜については、後程確認したい。
闇夜の行進開始−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 夜の暗闇にもかかわらず行進を開始したのは、おそらく高桑が連合軍の上陸が間近に迫っているとかんがえ、できるかぎりサンダカンから遠く離れた所までなるべく早く行きたいと考えたからであろう。・・・
 捕虜たちが行進を開始するや、ごく一部の建物を残して収容所の日本軍要員の宿舎やその他の建物にも火がつけられた。

食糧補給−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 夜11時ごろ、収容所から 約7キロ離れた地点に到着したとき、各班につき45キログラム入りの米袋が二つずつ配られた。つまり捕虜一人あたり約1,8キログラムが、最初の食糧補給地点であるムアナッドまでの10日分の食糧として配給されたわけである。実はこの地点には日本軍の米50トンほどが集積されていたが、この米は連合軍が上陸してきて戦闘状態になったときのことを考えて、警備隊のためにサンダカンの近辺のあちこち密かに備蓄されていたものの一部である。行進は夜通し続けられ、翌朝2時間ほどの休憩をとっただけで行進が再会され、午後3時になってやっとその日の行進が終わった。
 しかし、ほとんどの捕虜が行進を開始する前から病気で相当衰弱していたため、収容所から米を配給された地点までの約7キロの間ですでに落伍者が出ており、たとえば戦後まで生き残った捕虜の一人スティップ・ウィッチが捕虜班長を務めた第2班などは早くも6人を失っている。

落伍した捕虜は処分せよ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 病弱のためどうしても足が遅くなる捕虜を、監視員がこん棒や銃床でなぐりつけながら追いたてるようにして行進しなければならなかったため、最初から行進の先頭と最後尾の間隔が大幅に空いてしまい、5月30日午後3時に休息についた第一、第二グループに第三グループが追いついたのはその日の夜であった。(第一グループは第1班から4班、第二グループは第5班から8班、第三グループは第9班から11班)
 その間、監視員になぐりつけられますます体力を失った捕虜たちは、道路からジャングルの中に追いたてられ銃殺されるかなぐり殺された。逃亡する者はもちろんのこと、落伍した捕虜も処分せよという高桑の命令が今回は初めから日本軍兵員や監視員に出されていたのである。たとえば、5月30日の夕方、第三グループの監視にあたっていた日本兵の一人、片山伍長は、二人の監視員とともに、ほとんど動けなくなった捕虜7人を足で蹴ったりなぐりつけながらジャングルの中に追いたてて、全員を銃殺している。


−−+−−−−−−−−−−− 「死の行進」第三団−−−−−−−−−−−−−−
  

 第二団にも取り残された捕虜についてその概要を引き続き「知られざる戦争犯罪−日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著−大月書店によって確認したい。
意図的な捕虜の抹殺−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラナウへの行進の第二団がサンダカンを離れたあと、収容所には288名の捕虜が残されたが、そのほとんどは衰弱しきって動けない状態にあった。しかし、その中には比較的体力が残っていたにもかかわらず、仲間の捕虜の世話をするために行進に参加せずに収容所に残った者が少数名いたようである。建物をすべて焼き払われたため、彼らは近くに生えていた木や葉っぱを集めてきて雨よけを作り、その下に仲間の捕虜たちを横たえた。・・・
 捕虜たちは相変わらず医薬品も食糧も与えられず放置された状態におかれたため、沼地に生えている野生植物の根や茎を主食とし、たまに収容所要員が腐って食べられなくなり捨てた魚や肉を口にしてなんとか生きながらえた。
 第二団行進がサンダカンを離れた三日後の6月1日、ケマシン行って10日間ほど留守にしていた森竹中尉がサンダカン収容所に戻ってきた。・・・
 ケマシンで彼は、「捕虜をなんとしてもラナウに移転させよ」という司令部の命令を受けてサンダカンに戻ってきたのであろう。6月9日、森竹はこの時点で生き残っていた260名の捕虜のうち75名を選びだし、岡山部隊から出向いてきた37名の日本兵を指揮する岩下少尉に引き渡し、ラナウに向けて出発させた。しかしほとんど立って歩けない捕虜たちを260キロも離れたラナウまで行進させようなどという考えは、捕虜抹殺の意図をもって命令しているとしか言いようがない。この第三団の行進では、捕虜だけではなく岩下少尉以下37名の日本兵のうち一人の兵をのぞいて全員がジャングルの中で全滅している。

銃殺−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 75名がたどりつく見込もないままラナウへ向かった6月9日、サンダカンには185名の捕虜が生きながらえていた。しかし彼らは次々と死亡していき・・・1ヶ月あまりのちの7月12日には50名にまで減っている。この間おそらく森竹は、残りの捕虜が「自然死」するのを待っていたのであろう。「自然死」すればラナウまで移転させる必要はないし、自分たちの行進も楽になり途中で死亡する危険性がそれだけ少なくなる。しかし森竹はこの数日前、サンダカンをなるべく早く撤退し、撤退する途中で捕虜を処分せよという命令内容の手紙をラナウに駐留している高桑から受け取った。もうこの時点ではサンダカン地域に残っている部隊はほとんどなかったため、いつまでも要員を収容所においておくのは危険であった。そこで森竹は、放っておいてもごく近いうちに死亡するであろうと思われた27名はそのままにしておき、「自然死」するにはまだかなり時間がかかると思われる23名を選んで銃殺することにしたのである。
台湾人監視員に銃殺命令−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところが彼(森竹中尉)はこのときマラリアに冒されていたため、23名の捕虜銃殺場所を 飛行場建設現場にある防空壕と指定し、室住曹長にその命令実行の任務にあたらせた。・・・
 7月13日の夕方6時ごろ、室住は12名の台湾人監視員に23名の捕虜をそこまで連れ出させ、防空壕の前に一列に並べさせた。そして12名の監視員を捕虜の反対側に一列に並べさせ、全員に一斉射撃で捕虜を銃殺するように命じた。捕虜を飛行場建設現場に連れ出すように命じられた監視員の中にこの命令に躊躇した者がいたため、室住は「上官の命令に背く者は処刑する」と、彼らをなかば叱咤しなかば脅迫した。室住は自分のピストルを抜きとり、監視員から三歩ばかりうしろに下がってから銃殺命令を出しており、命令に従わない監視員をその場で銃殺する構えを見せたという。監視員たちは、命令に従い捕虜に向けて発砲せざるをえなかった。銃殺された捕虜の死体は、この後防空壕に投げ捨てられ埋められた。

生き残りはたった6名−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結局、サンダカン収容所の捕虜の中で生き残ったのはラナウから逃亡したこの4人(ボッテリル、モクサン、ショート、ステップウィッチ)と第二回行進中に別々に逃亡し、ジャングル内をさまよい歩くうちに現地住民に拾われて米軍に引き渡されたキャンベルとブレイスウェイトの二人、合計6人だけであった。あまりに信じがたい数字であるので、先にも述べたがあえて繰り返そう。サンダカン収容所にいた豪・英合わせて2500人の 捕虜のうち、戦後にまで生き延びたのは6名であった


−−−−−−−−−−−−−−−−バンカ島事件−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

バンカ島はシンガポールの南約400kmスマトラ島とカリマンタン島の間のカリマタ海峡南西部に位置する。西のスマトラ島とはバンカ海峡で隔てられている島である。
 この島でも捕虜となるべき英国兵やオーストラリア従軍看護婦の虐殺事件があった。
 当時マレー半島から急速に南進し迫り来る日本軍の攻撃で、危険な状況にあったが、シンガポールの従軍看護婦は多数の傷病兵の看護のため退去できず、退去命令が出たのはシンガポール陥落4日前であった。
 先にエンパイアー・スター号でシンガポールを出航したグループは日本軍の飛行機による攻撃を受けながらも無事にオーストラリアにたどり着いている。 しかし一日遅れで、多くの女性や子どもと65名の看護婦を乗せシンガポール港を出航したヴァイナー・ブルック号は、出航3日目に日本軍機の爆弾投下で沈没した。  沈没地点はバンカ海峡入り口付近であったが、波がかなり高く、海岸までは16〜17キロ離れていたため溺れ死ぬ者が続出したという。65名のうち12名の看護婦がこのとき溺死している。
 2月14日夜、2隻の救命ボートに乗った30数名の民間人(そのほとんどが女性とこども)のグループと一緒に22名のオーストラリア従軍看護婦がバンカ島にたどりついた。
 翌15日の晩、やはりバンカ海峡で日本軍の攻撃を受け沈没した船に乗っていた英国兵のうち20数名が、彼女たちが漂っている人たちがたどりつけるようにたいた大きな焚き火を目印に、救命ボートで海岸にたどりつき、彼女たちに合流した。しかし、多くのけが人や子どもがおり、手当を必要としている英国兵の負傷者もいたため、翌朝、島を占拠している日本軍に投降することで合意する。
 そして、ヴァイナー・ブルック号の船員を代表としてムントクの町まで派遣するとともに、足の遅い民間人女性と子どもだけを民間人の中国人医師の引率でムントクの町に向けて先に出発させたのである。
 その後の状況は「知られざる戦争犯罪−日本軍はオーストラリア人に何をしたか−田中利幸(大月書店)から抜粋する。
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  ラジー海岸には主に英国兵と豪州従軍看護婦だけが残され、日本軍の迎えを待った。このうちの10名ほどが負傷者で担架に横たわっていたというから、看護婦たちはこれらの負傷者の看護が目的で海岸に残ったものと考えられる。
 代表でムントクにでかけていった船員が、日本軍士官と15人の兵士とともに午前10時ごろ海岸に戻ってきた。英国兵や看護婦たちはこれでやっと医療手当を受けることができ、食糧や水も提供してもらえるとほっとしたにちがいない。ところが、まったく期待に反したことが起きたのである。・・・

 日本軍将兵は海岸に到着するや、男と女を別々にし、さらに担架に横たわっている者以外の男たちを二組に分けた。道案内をしてきたヴァイナー・ブルック号の船員が、自分たちは捕虜になるために投降したのであるから適正に取り扱うようにと要求したが、まったく無視された。
 まず一組の男たちが100メートルほど離れた、看護婦たちには見えない海岸の崖の向こう側に日本兵数人に連れていかれ、銃剣で刺し殺された。約10分後に日本兵たちは戻ってきて、もう一つのグループの男たちをやはり同じ場所に連れていった。今度は銃声が数発看護婦たちの耳に聞こえてきた。これはこのグループのうちの二人の男が逃亡をはかって海に飛び込んでいったため、日本兵が発砲したのであった。二組めの男たちもやはり銃剣で殺害した日本軍将兵は、今度は看護婦たちの前にやってきた。
 それからの状況を彼女(ヴィヴィアン・ブルヴィンケル)は以下のように述べている

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 証言内容は、次である。

−−−−−−−−−−バンカ島看護婦虐殺事件生存者の証言−−−−−−−−−−
 
 結局、ヴァイナー・ブルック号に乗ってシンガポール港を出航した65名の豪州従軍看護婦のうち12名は海岸にたどりつけず溺死し、ラジー海岸で21名が銃殺された。そして32名はスマトラ島のパレンバンに送られるまでムントクの抑留所に入れられたのである。下記は、バンカ島看護婦虐殺事件唯一の生存者であるヴィヴィアン・ブルヴィンケルさんの証言である。
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 兵士たちが戻ってきたとき私たちには男たちがどうなったのかすぐに想像がつきました・・・ 兵士たちは銃剣についた血をふき取りながら戻ってきたからです。私たちは今度は自分たちがどうなるのか悟りました。そのとき同僚の看護婦の一人が、自分が最も嫌いな二つは海と日本人、今その二つに挟まれてしまったわ、と言ったのを私は覚えています。私たちはそれまでずっと座っていましたが、立ち上がるように命令され、その次には海に向かって歩くように命令されました。私たちはしかたなく命令に従いました。私たちが腰の深さまで海に入ったときです。日本兵たちは機関銃を私たちの背後から撃ち始めました。私は腰の左端を撃たれました。銃弾が貫通しましたが、そのとき私はどこを撃たれたのかわかりませんでした。いったn撃たれたらもうそれでおしまいと思っていました。銃撃と波の両方の力で私は海水の中に打ち倒されました。打ち倒されたとき、海水をいやというほど飲み込んでしまいました。猛烈な吐き気をもよおして立ち上がり、まだ生きている自分に気がつきました。しかしすぐに日本兵が私が嘔吐しているのを見るかもしれないと気づき、吐くのをなんとかがまんして横になったままでいるようにしました。どのくらい長くそうしていたかわかりません。思い切って立ち上がってみたときは、もう誰もいませんでした。同僚はみんな波に流されてしまい、日本兵も海岸には一人もいませんでした。本当に誰もいなくなり、私だけでした。私は急いで海から上がり海岸を横切ってジャングルの中にひそみ入りました。
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 その後、ブルヴィンケルさんは銃剣に傷つきながらも一人だけ奇跡的に生き延びた英国兵キングスレー二等兵と遭遇し、傷の手当てをしながら10日あまりジャングルの中に隠れていた。しかし、そのままジャングルの中に隠れていることもできないと考え、生き残ったことを悟られないようにしながら、再度日本軍に投降したのである。「知られざる戦争犯罪−日本軍はオーストラリア人に何をしたか−田中利幸著(大月書店)より

 あまり知られていない戦争の事実をまとめているジョージ・ダンカン氏のホームページに(Sister Bullwinkle died in Perth, Western Australia, in 2000,aged 84)とあった。
 
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