−NO19〜32−

−−−−−−−−−−−ババル島住民虐殺事件極秘資料の新聞報道 −−−−−−−−−−−−

 下記は1986年11月23日朝日新聞の記事である。
(十五年戦争極秘資料集Aババル島事件関係書類−武富登巳男−不二出版より抜粋)
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太平洋戦争末期の昭和十九年十一月南海の小島ババル島(現インドネシア領)を占領していた旧日本軍第五師団の部隊が住民400人以上を虐殺した事件があったことが、戦史研究家が入手した同師団参謀作成の極秘資料で明らかになった。
 書類では戦争犯罪人の追及を恐れてか、「虐殺」を「原住民の反乱」と言いくるめようと師団長宛の報告書を二回にわたって変更していく過程が克明に記録されている。・・・
 関係者は朝日新聞の取材に対して、「報告書を改ざんすることで、戦犯として訴追されることを免れた」と認めた。・・・

 ババル島はニューギニアとチモール島のほぼ中間にある小島でオーストラリアに隣接する当時の最前線。書類の最初にある昭和二十一年一月十七日付の報告書(歩兵四十二連隊、第二中隊長名で小堀金城第五師団長あて)によると一連の事件は十九年十月二十七日、同島のエムプラワス村にたばこを買いつけに行った海軍嘱託が口論のすえ村長を殴り、怒った村長に現地人の密偵とともに殺されたのがきっかけだった。
 村長らは後難を恐れて、島内の憲兵詰め所と海軍見張り所を襲って憲兵曹長と水兵一人を殺害したため、十一月三日同島に配備されていた陸海軍部隊が「討伐」「約百名ヲ銃殺及(および)捕ヘタ」。
 さらにその4日後、中隊主力があったタンニバル島から中隊長以下60人が「第二討伐」のため同島に派遣され、二十日村長以下四百人を帰順させたが、日本軍に対する反逆事件だから将来を戒めるため重罰に処すべきだとの理由で
「帰順セル土民約四百名ハ現地ニ於イテ銃殺」した、となっている。
 この報告書には、師団長らしい青鉛筆の文字で、「検討ヲ要ス」項目として。
「帰順セル者ニ対スル処置ハ誰ノ命令カ「婦女子マデ連座罰ヲ課セシ理由」など十三項目が書き込まれていた。 この指示にこたえるように「第二回検討」と書かれた憲兵少尉名の謄写版印刷の報告書では、帰順者の処置は、厳重訓戒のうえ釈放しようと全員休憩中、山中からの「叛徒」の逆襲を受けて応戦。この時、帰順者の約半数が「銃口を前に右往左往」したため、日本軍の弾丸と「叛徒」の弓矢に触れ死亡した、とした。 しかし、これでは合理的な説明にならないと判断したためか、陸軍用便せん十七枚、図一枚の最後の報告書では、事件名「『ババル』島住民蜂起事件」として、海軍嘱託殺害に始まる一連の事件を住民の「反乱」と決めつけた。そして、原住民四百人殺害は「婦女子ニ至ル迄・・・死ヲ賭シテ徹底抗戦ニ出デタルニ依リ止ムナク射撃」したところ、住民は無統制に陥って、自分たちの武器などよって大半が死傷したということになった
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 一連の報告書の改ざんについて事件の中心人物である中隊長らは、朝日新聞の取材に対し、住民「虐殺」があったことを認め、三つの報告書は戦後処理に当たったオランダ軍に報告するため、師団内で検討。結果的に戦犯訴追は避けられたと説明した。

 陸軍第五師団 第四十二連隊 第十二中隊長の元大尉は最初の報告書(改ざんされる前の報告書)の通りです、と認めた。・・・

 オランダ軍も少人数で十分な現地調査ができなかったらしい。


−−−−−−−−−−−−−ババル島住民虐殺事件極秘資料NO2−−−−−−−−−−−

  武富登巳男氏によって公にされたババル島住民虐殺事件極秘資料は、最初、第十二中隊長 田代敏郎大尉から師団長への報告書である。上部に師団長、参謀長、参謀のサインや印があり、右下には一月二十二日付け参謀部の受付印がある。

 ここでは、原因(背景)や経過を下記のように報告してる。(抜粋)

原因(背景)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

1 獰猛性ヲ有シアリタルコト
  事件発生セル「エムプラワス村」ハ獰猛性アリテ他部落民ヨリモ嫌忌セラレアリ同村通過時ハ足早ニ
  通過スト伝フ・・・・・一部落潰滅セシコトアリ

2 国軍ヲ侮リシコト
  当時駐留シアリタル兵力ハ陸軍四六名 海軍十五名極メテ僅少ナリシト
 
  当時マデ喧嘩ニ敗レタルコトナシノ自負心ト部落民ノ団結鞏固ナリシトニ依リ 日本軍ニ対シテモ不
  敗ヲ信シ態度亦横平ナリ

  海軍側密偵ヲ日本人ト同一視シ 其ノ態度ノ横平ナリシニ依リ 日本軍ニ対シテ 反感ヲ懐キアリ
  タルコト  

  セルマタ事件並ビニ聯合国側伝単ニ刺激セラレ機会ヲ伺イアリタルガ如シ


討伐に至レル経過
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 ・・・・ 
 海軍錦隊 篠原嘱託ハ(煙草)百本蒐集ヲ企図シ 土民密偵ヲ通ジ村長ニ交渉シタル所密偵ノ態度横平ナリシヲ以テ 村長ハ篠原嘱託ト直接交渉スベク 書信ニ依リ同嘱託ヲ招致セリ  篠原嘱託ハ密偵三ト共ニ交渉ニ赴キタルガ 口論ノ後 村長ヲ殴打セルヲ以テ 覚悟シアリタル村長ハ激昂ノ末 密偵共同氏ヲ殺害セリ 村長ハ同日迄二回ニ亘リ 部落会議ヲ開キ 殴打セバ殺害スル旨ノ決意ヲ披瀝シ、協力ヲ求メアリタルガ如シ

銃殺
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 逮捕土民ヲ利用シ 山中ニ逃避セル土民ヲ捜査セルモ成果ナキヲモッテ 土民ヲ逆用スルニ決シ 十五日 之ヲ放チタルニ逐次帰順ノ兆候アリ 又兵器ノ若干ヲ奪還シ得タルヲ以テ 之ニ力ヲ得アリシガ 二十日 拳銃一ヲ除ク兵器全部及ビ被服ノ大部ト共ニ 村長以下四百名帰順シ来リ
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  そして、日本軍に対する反逆事件だから、将来を戒めるため重罰にすべきだとの理由で「帰順セル土民約四百名ハ 現地ニ於イテ銃殺」したと報告しており、本来捕虜にすべき投降してきた無抵抗の住民を女子どもを含め虐殺したことが明らかにされている。また、同資料の別の報告書には下記のように記されており、煙草を買い付けに行った嘱託と密偵が殺害される事態は、日本軍が招いたことがうかがわれる。村長は「殴打セバ殺害スル旨ノ決意ヲ披瀝シ、協力ヲ求メ」住民は「日本人殺害ニ決議セルモノノ如シ」ということで、突発的に嘱託と密偵を殺害したのではないことが分かる。

住民感情−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 煙草ノ買イ上ゲニ関シ、廉価ヲ以テ 多是ノ供出ヲ強制シアリタルモノノ如シ 云々 為住民ノ日本人ニ対スル感情益々悪化シ、遂ニ住民・・・・日本人殺害ニ決議セルモノノ如シ
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(十五年戦争極秘資料集Aババル島事件関係書類−武富登巳男−不二出版より、(・・・・)の部分は手書きの草書体であるため、私には判読できなかった。


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日本軍のカニバリズム:人肉食事件−オーストラリア兵の証言−−−−−−−

 1943年、激戦地ニューギニアを訪れた豪州陸軍最高司令官ブレイミー将軍は、自軍の兵士たちを前にしたスピーチで
 「諸君らが戦っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあるといっていい。・・・」
 「ジャップは小さな野蛮人だ。われわれが相手にしているのは人間ではない。もっと原始的な相手だ。
 わが軍の日本人観は的を射たものだ。つまり奴らは害獣である、という見方だ・・・」

というようなことを言ったという。何故なのか。その根拠を知りたいと思う。
「知られざる戦争犯罪−日本人はオーストラリア人に何をしたか」(田中利幸)大月書店には下記のようなオーストラリア兵の証言が出ていたが・・。

証言1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ××部隊のC・ヒューゴ准尉は、以下の証言に間違いのないことを誓言いたします────

 ×月×日、午前九時、私はJ・グリフィン兵長ならびに故スウェル曹長とともに××における敵軍との交戦によって殺害された○○の身体を回収いたしました。われわれが発見した身体は以下のような状況にありました。───
 (一) 衣類は全部はがされていました。
 (二) 両腕が肩から削ぎ落とされていました。
 (三) 胃が切り取られており、心臓、肝臓、その他の内臓も抜き取られていました。
 (四) 肉の部分がすべて身体から切り落とされており、骨がむき出しになっていました。
 (五) 両腕、心臓、肝臓、その他の内臓を発見することはできませんでした。
 (六) 手が触れられていない身体の部分は頭部と(くるぶしから下の)足だけでした。
 
二人の日本兵の死体の中間に横たわっていた○○の身体から四ないし五ヤード離れた場所に人肉と思われるものが入っている日本軍の飯盒が転がっていました。            
                                                C・ヒューゴ准尉署名
                                                兵士番号−SX8064


証言2−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
A・B・カーソン大尉(兵士番号−NX14764)は、以下の証言に間違いないことを誓言いたします──

 ○○、○○と○○(の三人)は×月×日の午後、敵陣地に攻撃をかけたさいに殺害されました。・・・・
 さらに探索を続けたところ、□□から明らかに○○の頭皮であると考えられるものを発見いたしました。内臓が薪木の上にばらばらに置かれており、そのそばには部分的にこげた肉片がいくつかありましたし、またわが軍兵士の持ち物である弾薬袋の中には肝臓と思われる細切れのものが入っておりました。あきらかに鋭い刃物で切り落とされた肉の形や血痕から、彼らの身体から肉が切り落とされ、内臓が抜き出され、頭皮がはがされたことは疑いようがありません。
 この地点から300ヤード離れた小屋の外で、こげた(くるぶしから下の)足にまだ新しい骨が付いているものを発見いたしました。小屋の中では、明らかに料理され、骨髄を折られた右太ももの骨が散らばっているのを発見しました。骨の大きさから考えて、背丈××フィートの人物のものであるところから、多分○○のものであると思われます。
 ここから100ヤード離れた別の小屋の外にも、足、太もも、肩の骨と一緒に、◇◇が付着した人間の肉がありました。
 またもう一つの小屋の外には○○の頭部があり、さらには頭皮をはがされた頭だけがなんとか残された身体があり、脊髄は地面に転がっていました。これらの残存部のそばには、焼けこげた手首と手が横たわっていました。・・・

 彼らの身体に残っている傷はわが軍の砲撃弾の炸裂によるものではなく、鉄砲によってつけられたものであります。わが部隊の軍医もこれらの身体残存部のいくつかを検証し、わたしの意見と一致しました。
 発見したこれらの身体の残存部は○○、○○と○○のものであるとわたしは確信いたしておりますし、残存部の埋葬を手伝ってくれた同僚たちの以下の証言もこれを裏付けております。
                                               A・B・カーソン大尉 署名



−−−−−−日本軍のカニバリズム:人肉食事件−死の島ニューギニア−−−−−−−−

 今度は、戦時ニューギニアで人間の耐えうる限界を超えたともいえる極限の体験をし生還した日本兵の人肉食事件に関する思いを
「死の島ニューギニア−極限のなかの人間」尾川正二光文社NF文庫から抜粋し、確認たい。

9 危うし人間−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ガリの転進ごろから、人間は狂いだした。時間にして言えば、上陸後一年を経過したころである。異常な神経が支配してきた。軍で刊行されたパンフレット、『熱地帯の栞』というのが手渡されていた。その中に、「温帯に生存するわれわれは、この熱地に一年も住めば相当優秀な頭脳も破壊される」とあった。学的にどこまで信をおけるものかは知らないが、われわれは漠然と一年くらいで還されるだろうという、そこはかとない期待があった。「相当優秀な頭脳」が、一年でばかになるとすれば、三年もおれば「超」の字もつこうというものである。常夏の国の気候・風土が、人間の脳におよぼす直接の影響については、そう自覚されるものではなかったが、飢餓と栄養失調は、記憶力を奪い、思考力を弱めた。さらに激しい熱病が脳を蝕んだ。正常な神経も、これだけは免れえなかった。
 連日連夜の砲爆撃は、いやおうなしに脳の組織をゆさぶった。条件は、異常な神経をつくるのに十分過ぎた。生きたとかげやいなごを、そのまま口に入れるのも、豚の肉を生のまま噛りつくのも、食欲からくる異常さである。そんなことが、平然とできるようになってしまったものを、正常な神経でもってははかりえない部分があったのだ。そこに、「人間」のぎりぎりの闘いがあった。人間として生きようとする願いと、生きようとする動物的本能との熾烈な闘いがあったのだ。自然と人為との、途方もないローラーに押しひしがれたものの、惨憺たる闘いである。
 ガリの転進を、おそらく史上稀にみる凄惨な行軍だったといったが、ここで恐ろしい事実を見たのである。行き倒れた兵隊の腿が、さっくりと抉り取られていたのである。キャプテン・クックの手記に、食人種のことが記されており、いまだにこんなことをするやつがいるのか、と思って見た。ところが、原住民の仕業ではなかったのだ。慄然とするような風評が流れてきた。この転進はそこまで人間を追いつめていたのである。
 Yと二人、山道を急いでいたら、見知らぬ部隊の四、五名に呼びとめられた。食事を終えたところらしく、飯盒が散乱している。「大きな蛇の肉があるんだが、食っていかないか」というのである。そのにやにやした面が、気に入らなかった。何かがある、と直感した。共犯者を強いる───そんな空気を感じたのは、思い過ごしであったろうか。その連中が、一斉に何かを待ち受けるような姿勢を見せたのは、ただごととは思えなかった。Yも同じものを感じたか、「おおきに、またごちそうになるわ」と言った。道々、妙な不安が追いかけてくるようだった。Yの表情にもそれがあった。それとなく警戒しながら、急いだ。小銃弾を浴びせられるかも知れぬという不安がひらめく。大分来てから、Yは、「やつら何をしていたんだろう。おかしい。蛇ならばくれるはずがない。良心にとがめるところがあって、おれたちも仲間に引き入れることによって、少しでも呵責からのがれようとしたのではないだろうか」などと憶測した。もちろん、何の根拠もないが、とっさに期せずして符合した感じは、何であったか。腿の肉を切り取られた死体の数は、一つや二つではなかったのだ。ついに全く光は消えた。ただ眩暈のうちに拠点を見失って、地底に転落していった。
 その夜、渓流の上に建てられた亭のような一軒を見つけ、二人は体を休めた。すばらしい自然に恵まれながら、この世ならぬさびしさに、心は沈むばかりだった。Yも同じ思いにとらわれたか、ついに一言も口をきかず、寝についた。渓流のせせらぎ、風の音が、なかなか眠らせなかった。
 山越えを終えて、海岸に出たときも、まるで中世の説話にでも出てくるような、怪異譚を聞いた。「数名ノツワモノ、部隊ヲ離脱シM岬ニコモリ、道行ク者ヲ襲ウ鬼トナル話」である。「餓鬼という鬼がでる。M岬を通るときは気をつけろ」と注意された。何かの幻影におびえてのことか、それともそれらしい事実があってのことか、その一団を、想像のうちに思い描くことはできる。われわれは、やはり白昼を選んで、そこを突き抜けなければならなかった。どこからか見られている、という意識を拭いきれなかった。
 戦争も末期になるにしたがって、白人黒人を、白豚黒豚と呼ぶようになってきた。生還が決定的に絶望となれば、瞬間の官能の満足に身をゆだねもしよう。人間であることも、善悪の範疇のなかに生きることも、無意味に思われもしよう。危ういかな人間、である。身の毛のよだつような風評も流れていた。猛獣への変身に耐えて、「人間」は喘いだ。自分でやるのは嫌だが、飯盒に入れてくれたら食うだろう、というのが生き残ったものの八、九割までの答えだった。限界を超える日が、来るのか。「動物」の飢渇のうめきなのだ。
 ある夜、国民兵のたった一人の生き残りである0兵長の告白をきいた。「人間て、つまらんもんですね。自分は気の弱い男だと思っています。何にもできはしません。だのに自分の心の内をさぐってみると、誰かが飯盒の中に入れてくれるものはないかと、ひそかに期待している気持ちがあるんです。こうして打ち明けて、自分を恥じてみても、明日もまた同じことを待っているように思われるんです。もう、なさけのうて……」というのである。160センチそこそこの短身、三つ年長だったが童顔そのもの、顔のつくりもすべてが円く、いかにも人のよさを全身に示しているような男だった。程度の差こそあれ、この苦悶が限界における
実相ではなかったか。牙をむき出すからだの渇き!幻覚!お釜の蓋くらいのビフテキ!
 皮膚は萎え、脂肪は切れてかさかさに乾く。眼窩は大きくくぼみ、首筋はかろうじて頭蓋を支える、頭上に襲いかかる幽鬼の爪。思いがけないところから、小銃弾を浴びせられる。白昼、薪を取りに行ったものが、そのまま姿を消してしまう。描けば、そのままこの世の地獄絵巻となろう。
 われわれが理性と名づけている、そのひからびたものは、どこまで耐えうるか。正義の女神はめしいて、人間は野獣と化して野に放たれたのか。だが、われわれ自身よって、無条件に要求される何ものかが残されているはずである。たとえ『善悪の彼岸』にあろうとも、自分が、自分自身であるための、何ものかである。




−−−−−−日本軍のカニバリズム:人肉食事件−「慮人日記」より−−−−−−−−−

 次はフィリピンのネグロス島で、敵軍だけではなく友軍の攻撃にも怯えながら飢餓や悪疫と闘い奇跡的に生還された
小松真人氏の「慮人日記」(ちくま学芸文庫)より抜粋する。

 行き倒れ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  蟹釣りに上流の方へ行くと大きな岩の上に髭だらけの男が寝ている。死臭がしている。死んでいるのかと近寄って見ればまだ息をして薄目を開けている。どうしているのかと問えば「小諸部隊の水夫だが糧秣がないので五、六人で食を求めてここまできたが飢えで動けなくなり、皆に置いてゆかれてこうしている」という。「何か食べるか」と問えば、「もう何も食べたくない、御慈悲ですから水を一杯くれ」と手を合わせて拝むので一杯飲ませると喜んでいた。もうどうせあと二、三日の命だ。名前を聞いて別れる。それから二日目に行ってみた時は意識もなくコンコンと寝続けていた。その晩大雨が降ったので多分死んだろうと思ったら、果たして死んでいた。
 山では行き倒れはいたる所にあり、皆互いに腹が空いているので穴を掘ってやる元気も体力もないので倒れたところで朽ちてゆくだけだ。山の登り口とか乗り越えねばならん大きな倒木、石等の所には必ずといって良い程死んでいた。
 死ねば、いや死なぬ内から、次に来る友軍に靴は取られ服ははがれ、天幕、飯盒等利用価値のある物はどんどん取り去られてのでボロ服を着た屍以外は裸に近い屍が多かった。


追いはぎ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 糧秣のない部隊は解散して各自食を求めだした。そして彼らの内、力のない者は餓死にし、強き者は山を下りて比人の畑を荒し、悪質の者は糧秣運搬の他の部隊の兵をおどしあげて追いぎをやったり、射殺したり切り殺して食っていた。糧秣運搬中の兵の行方不明になった者は大体彼等の犠牲となった者だ。もはや友軍同士の友情とか助け合い信頼というような事は零となり、友軍同士も警戒せねばならなくなった。

帰れぬ兵−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 河原に住んでいると糧秣を失った兵隊が食を求めてこの谷川づたいを下り、食糧地帯へ出ようとたくさん通過して行く。一人、二人の者、五人、十人と組んで行く者等様々だが、皆二日も三日も食べていないので足元はよろよろして、ころんでも良い所ではころげながら下って行く。悲惨なものだ。中には遺書を自分に託して行く者もいた。
 悲惨だったのは特攻隊の飛行士が夕方空の飯盒を持って我々の所に来て、銃でも刀でも質におくから一食分の米を貸してくれという。我々も人に貸す米等なかったが、余り気の毒なので籾糠を与えた。泣きながら近くの天幕へ帰って行った。
 彼等より川下の連中が近くに泊まった時は、いつ手榴弾が投げ込まれ、米と命が奪われるかわからんので警戒せざるを得なかった。
 後にこの谷川をどの辺まで下れば魚がいるかと調査に行った時、滝壺に行き当った。両側は絶壁でそれから下は下れん様になっていた。たくさんの行き倒れを見つけた。この川を下った者で助かった者はおそらく無かったと思う。


女を山へ連れ込む参謀−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 兵団の渡辺参謀は妾か専属ガールかしらないが、山の陣地へ女(日本人)を連れ込み、その女の沢山の荷物を兵隊に担がせ、不平を言う兵隊を殴り倒していた。兵団の最高幹部がこの様では士気も乱れるのが当然だ。又この参謀に一言も文句の言えぬ閣下も閣下だ。


 サンカルロスやレイテ、カランバン、オードネルとあちこちの収容所を移動させられた小松真人氏は収容所で聞いた話として、下記のような人肉食の事実を明らかにしている。

サアマール島から新たな投降兵−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 12月17日に、痩せ衰え、ややむくみを帯、真っ黒に日焼けして、若者とも老人ともつかず、目ばかり野獣の如く光った五百羅漢の群れが入所してきた(70名)軍規は厳正だ。サアマール島から来たという(塩なしの生活のレコード)。身体がすっかり衰弱しているので、小柄の人間ばかりのように思われた。山の生活は言語に絶するものがあったという。人間狩りをやって食べたという話さえした。投降がもう少し遅れたら、栄養失調で皆倒れただろうと言っていた。 
 
ホロ島の話−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 同じ幕舎にホロ島の生残者藤岡明義君(大阪商大出)がいた。ホロ島とはミンダナオの南の島(ニューギニアとの間で、ここには飛行場があり七千名近い陸海兵と、土民にはモロ族がいた。兵は米軍上陸以来山に追いあげられたが、島が小さいのでその大半は敵の砲弾で倒され、残りはマラリアと飢え死にと自殺とモロ族の襲撃で倒され、食糧がないので友軍同士その肉を食い合ったという。そして終戦後この島から生きて出たのはわずか七十名だけだったという。

ルソン島の話−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 我々はネグロスで、ルソンには山下兵団がいて相当武器もあるだろうから、そうおめおめと負けんだろうと思っていた。ところがここへ来てルソンの話を聞くと、初めは大分やったようだが、あとは逃げただけだったことが分かった。しかも山では食糧がないので友軍同士が殺し合い、敵より味方が危ない位で、部下に殺された連隊長、隊長などざらにあり、友軍の肉が盛んに食われたという。ここに至るまでに土民からの略奪、その他あらゆる犯罪が行われた事は土民の感情を見ても明らかだ。

ミンダナオ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここは全比島の内で一番食物に困った所で、友軍同士の撃ち合い、食い合いは常識的となっていた。行本君は友軍の手榴弾で足をやられ危なく食べられるところだったという。敵も友軍も皆自分の命を取りにくる思っていたという。友軍の方が身近にいるだけに危険も多く始末に困ったという。

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父島:人肉嗜食事件−−−−−−−−−−−−−−−−

 下記は。
「孤島の土となるとも−BC級戦犯裁判」(岩川隆)講談社からの人肉食事件関係の抜粋である。
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 極限状況にある戦時下では、常識では考えられないようなことが起きる。それは、戦争も末期に入った
昭和20年、小笠原諸島の父島で発生した。当時この島には陸軍の守備隊(第109師団第一混成旅団)と海軍の特別根拠地部隊が玉砕を覚悟で戦っていたが、あいつぐ空襲と砲撃によって土は掘りかえされ、島のかたちは変容し、食糧は窮乏の極に達した。末兵たちは、かじる草の根もなかった。それでも「日本本土に近い最後の戦闘地」を死守する軍として徹底抗戦の態勢をとるしかない。

「(昭和20年)2月23日から25日のあいだでした。師団司令部に行き、藤井十三師団長(中将=以下、関係者は仮名)に会って、俘虜の飛行士の一人は海軍のほうで処刑することになるでしょう”と報告した後、私は師団長から酒をごちそうになりました。話題はブーゲンビルやニューギニアで苦闘を続けている日本軍のことにおよび、”やはり食糧がなくなってくると人肉も食べなければならなくなるでしょう”という話になりました」

 と法廷で証言しているのは大隊長(独立歩兵308大隊)の望月新少佐(のち絞首刑)である。
 末兵が飢えに苦しんでいるとき酒宴を開くというのもおかしなことだが、二人は第307大隊の大隊長室木清次大佐からの電話を受け、室木大隊司令部に行ってあらためて飲もうとする。ここでも藤井師団長は酒や肴が少ないことに不満を漏らし、話題は人肉のことになっていったという。俘虜の肉はどうだろうと言われた望月大隊長は自分の大隊に電話して、”肉”を持ってこさせる。

 「
その肉は室木大隊長の部屋で調理され、その場に居合わせた数名の者たちがみな少しずつ味わった。一人として 旨いと言った者はいなかった」

  と望月は述べている。彼らはむろん、それが人肉であることをよく知っていた。それまでの師団司令部の会議でも師団長は、やがて自分たちは岩石をもって闘い、
戦友の肉を食うことを余儀なくされるだろう、敵兵の肉は食わねばならぬ、と発言していた。とにかく試してみよう、という気持ちは一同にもあった。
 海軍のほうも同じであった。この日、望月大隊長は帰る途中で海軍特別根拠地隊の司令官・林原松三中将に会い、
 「こちらに一人まわしてくれてありがとう」
と言われ、
 
「今度俘虜を処刑したら肝臓を持ってきてもらいたい」
と命じられている。その後、海軍の士官食堂では、
俘虜の人肉のスープを試食し、肝臓も食べたという。望月大隊長も部下に命じて死体から肝臓を切り取って持ってこさせ、空襲が激しく林原中将のもとに運ぶことができなかっのでそれを干しておいて、のちに食べた。
 自分たちの行為を正当化する気持ちからか、かつて日清戦争のころは人間の肝臓を薬用として食べたものだとか、胃の良薬であるなどと士官や将校たちは言い合ったようだ。望月大隊長個人の告白でも、第307大隊本部、第308大隊本部、海軍基地の三カ所で食べたとある。

 「1945年3月9日午前9時、大隊本部において俘虜ホール中尉の肉を食することを希望し、音津中尉、多田候補生(衛生隊)を呼んで同俘虜の肝臓と胆嚢を取り除いて持参することを命じるとともに、音津中尉にはほとんどの肉を大隊に配給するように命令した。この経過と事実は、その後、師団長にも報告した。以上のことは真実であり、私の自由意志によってここに記すものである。」
 
と望月は書き遺している。この筆記は米軍の検察側に採用されており、これが強要されたものかどうかはわたしの手もとにある記録資料をなおも詳細に検討しなければならないが、その他の証言をみても、幾度かにわたって幹部以下かなりの将兵が俘虜(主として米軍飛行士)の肉を食べたことは間違いない。

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 昭和22年9月24日、師団長藤井十三中将、海軍根拠地帯の司令官、望月大隊長、吉村通信隊司令の三名が絞首刑となり、林原松三中将は終身刑(ただし、別裁判で死刑判決)であった。  


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知られざる疎開船遭難事件:豊栄丸と晃和丸−−−−−−−−−

 下記は
「済州島、豊栄丸遭難事件」山辺慎吾(彩流社)より抜粋したものである。ほとんど知られていない事件であるが、日本の戦後責任を考えるとき、葬り去ってはいけない事件の一つであると思う。
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 昭和20年(1945)6月25日、沖縄が米軍に占領されるや、次の日米決戦場は済州島であると判断した日本軍は、大本営の指示もあって、急ぎ兵力を増強した。(約七万五千名)。朝鮮人島民を強制徴用して、全島に各種要塞、陣地を構築した。70才の老人までかり出されたという。
 人口23万。日米決戦が始まった時、島民が米軍に協調することを怖れた済州島守備軍は、先ず5万の島民を朝鮮半島本土に疎開させることとした。
 その第一回疎開軍用船「豊栄丸」は7月3日深夜、木浦沖で触雷沈没。約500名が行方不明となった。この遭難により、その後の疎開は中止となったが、不思議なことに、この遭難事件が済州島史から消えているのである。何故であろうか……。

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 上記の詳細は、敗戦の処理に当たった参謀の記録
「朝鮮に於ける戦争準備」(東京都目黒区防衛研究所戦史部)に、下記のような項目で明らかにされているとのことである。
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 (昭和21・2朝鮮軍残務整理部)
 済州島の防衛強化。決七号作戦。第九十六師団をを済州島へ派遣。第五十八軍司令部を新設。作戦思想の齟齬。沖縄玉砕の悲報。根こそぎ動員。敵の上陸判断。済州島における作戦指導に関する大本営の指示。第一回避難住民約五百名の遭難。玉砕を決意。敗戦。(第五十八軍配備概見図)(済州島部隊一覧表)
                                           防衛庁防衛研究所戦史部 
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 上記「玉砕を決意」の第四章第四節の部分を抜粋する。
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 済州島の兵力は今や急速に増強せられ、その給養兵額は数万に上り、同島の住民約二十三万と合する時は膨大な人口に上り、自活方面より憂慮されるのみならず、一度戦場化すると、住民処理は作戦上重大な問題となる故、総督府とも屡々折渉し、とりあえず五万の老幼婦女子を本土に退避させるため、六月以降、帰還空船を利用して輸送を開始し、その他は軍と作戦行動を取らせて、全島一致敵を撃砕することを決意した。
 しかるに第一回避難住民五百名の遭難に伴い、この輸送は中止することになった。

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 様々な資料を付き合わせると、この船が「豊栄丸」であると考えられるというのであるが、この船には済州南公立国民学校の小松虎兎丸校長が送り出した平川セツ先生と十四名の児童および校長の妻と二人の娘が乗船していたのである。
 そして、沈没後八日目に百余名の生存者の名簿が閲覧可能となり、二名の児童のみ生存が確認されたということである。
 しかしながら、上記「朝鮮に於ける戦争準備」には「豊栄丸」という船名が出ていないので、著者は済州島の出身者の集まりである耽羅研究会を訪ね、詳しい事情を知ろうとしたのであるが、
 
「済州島からの疎開船は晃和丸という船が、昭和二十年五月七日、米軍機の空襲で木浦沖で沈没していま す。行方不明者は五百名を超えています。あなたがおっしゃるのは、晃和丸の間違いではありませんか」
 と、とんでもない話を聞かされたのである。「耽羅」とは済州島の古代名称の一つであり、済州島について最も詳しいはずの耽羅研究会の人たちが「豊栄丸遭難事件」について全く知らなかったのである。そこで、さらに調べを進め、「豊栄丸遭難」の事実を
『日本商船隊戦時遭難史』『戦時船舶史』の記録の中に探し当てたのである。さらに、生存者の証言では、沈没原因は「触雷」ではなく二発の「魚雷」であるという。
 また、「豊栄丸遭難」のおよそ二ヶ月前の五月七日に「晃和丸遭難:原因空襲」「晃和丸被弾沈没」という記録が同じ『日本商船隊戦時遭難史』と『戦時船舶史』にあり、疎開船が二回にわたって遭難している事実が、著者の努力によってはじめて明らかにされたのである。概要は下記の通りである。
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 ○1945年5月7日月曜日、運命の朝を迎えました。
 ○当時、済州と木浦の間には、連絡船として晃和丸一つしかありませんでした。
 ○日本軍の疎開令によって、はじめて出航する船でした。
 ○定員は350名でしたが、その二倍の750名余りの人が乗りました。
 ○午前七時済州港を出航。楸子島入港直前、午前十時から十時半の間に、米軍戦闘機の第一回空
   襲。この時は人名の被害はありませんでした。
 ○楸子島出港後、午後一時ごろフェンガン島を通り抜ける時、米軍機の爆撃。
 ○撃沈されて四、五日後、数えきれないほどの死体が浮かんでいました。
  ・・・
 ○乗船人数700〜750人
 ○生存人数150〜180人
 ○死亡人数520〜600人

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 豊栄丸と合わせると実に1000名以上の人たちが犠牲になったことになる。しかしながら「豊栄丸遭難事件」は済州島の人たちにもほとんど知られていなかった。「豊栄丸遭難事件」が、歴史から消し去られようとしたのは、やはり日本軍の「全ての文書(学籍簿等にいたるまで)を焼却せよ」という強い命令の結果ではなかったのか。
 

−−−−−−−−−−ホロ島:大戦末期の日本軍の状況と人肉食事件−−−−−−−−−

 ほとんど制海権・制空権を失った大戦末期、日本軍は太平洋の島々はもちろん至る所で補給無き戦いを強いられた。どこの戦場でも食糧なく弾薬無き戦いが記録されている。戦没者の7割以上が餓死および病死であるという説も頷けるのである。その一例として、「敗残の記ー玉砕地ホロ島の記録」藤岡明義(中公文庫)から抜粋する。まず昭和19年8月22日の部分である。

八月二十二日」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
東海岸陣地構築状況視察の隊長を護衛す。行って見るとそこの戦友たちは、我々よりもさらに悪い給与で、しかも器具というものが一つもなく、岩を手で掘り起こしているという状態であった。
 サイパン玉砕、東条内閣崩壊と聞く今日、しかも米国は二年前から比島奪回を世界に約束しているのだ。敵上陸の公算最も大なる東海岸、デンガラン湾に円匙(スコップ)一つなき陣地構築だ。明日にもこの海岸に大機動部隊が現れ、上陸用舟艇が押し寄せて来るかも知れぬという時期に立ち至って、今から徒手で陣地を構築せよと言うのだ。「狂気の沙汰」としか思えないが、それが尤もらしく行われ、栄養不良の兵隊が、腹が減るのを気にしながら、一所懸命働いているのだ。
 六十名の兵隊が、二週間かかって造り得たものは、深さ1メートルの壕十坪切りである。もっとも陣地ができても、一門の砲、一丁の銃なしでは致し方あるまいというもの。こう言えば「お前達には、立派な竹槍があるではないか、必勝の信念は百門の砲に勝るのだぞ」と偉い方から御目玉頂戴だ。ひからびて皺のよった竹槍を小脇に抱え込み、隊長を護衛して歩いた

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 当時はどこでも食糧や弾薬を要求すると、「自給しろ」「敵弾敵食で戦え」などという答えが返ってきたのである。「
日本軍将兵六千人のうち生還した者はわずかに八十人。アメリカ軍との戦いに三分の一が死し、三分の一がマラリアに斃れ、残り三分の一がモロ族に殺害された」というフィリピン南部の玉砕地ホロ島での凄惨な記録の中から、さらに抜粋する。 私であれば一日で気が狂ってしまいそうな人間の極限状況の連日、「糧秣に関する部隊間の駆引や反目が起り、病人や負傷者の背嚢を強奪する等、忌まわしい争いが頻発」している中での記録である。

死に場所」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「自分は、もう死にそうです、最期の水を一杯恵んでください」
「馬鹿野郎。この水は命懸けで汲んできた水だ、貴様にやればこの俺が死んでしまうよ」
「お願いです、一口で結構です」
「うるさいね、お前は何隊だ、自分の隊へ行って貰え」
「……もう……歩け……ま……せ……ん」
 暫くすると瀕死の唸り声が聞こえて来た。

「おい、こら、そんなところで死んだら、後でこっちが臭くて堪らぬ。死ぬのなら向こうへ行ってしね」
「ウーン……ウーン」
「向こうへ行けと言ったら行かぬか、行かぬと蹴飛ばすぞ」  
「ウ──ン、ウ──ン、お願い……です」

「向こうへ行ってくたばれ、この野郎」
「ウ………ン………」
「ああ、もう死にやがったな。この野郎、処置なしだ、人のところへ来て死にやがって。心臓が弱いと、俺のところが死に場所になってしまう」
 こんな会話を聞いても誰一人振り向きもしなかった。我々の周囲には、死体が点々と転がり、腫れ上がり、蛆がわき、悪臭に嘔吐を催した。
 誰も死体を埋むことをしなかった。親しい戦友の死体ですら、埋んである者は殆どいなかった。アバカの葉を切って来て覆ってやるのが、精一杯の餞であった。
 円匙(スコップ)もなく、土を掘る力もなかった

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 下記は、米軍に投降後、米軍と一緒に日本軍誘出に向かったときの記録の一部である。ここでも、人肉食事件があったことが分かる。

友軍誘出」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
そこで、米兵十名が我々と同行してくれることになった。その外に、日本語のよく分かるシナ少年が通訳として加わった。それは我々が毎晩徴発に来たあの開豁地の道であった。私はなお、胸に新たなるこの地獄の道を、無量の感慨に包まれて歩いた。モロが多数集まって来て、我々を日本兵と見るや、憎悪に満ちた眼でみらみつけ、今にも切りつけて来そうなので、私は恐ろしくなって、米軍将校に喰っ付いて歩いた。
 一人のモロが蕃刀に手を掛け、私たちを指し、「この日本兵はこの山におったのか」とシナ少年にきいた。シナ少年は気転をきかせて、「この山ではない、ツマンタンガス山におったのだ」と答えると「そうか、それならよいが、この山の日本軍は、私の十二歳になる子どもを殺して喰った、出て来れば皆殺しにしてやるのだ」といきり立った。
 私は、その男の持っている腕時計が、見覚えのある深尾軍曹のものであるのに、ぎくりとした

 数十名の日本兵の死体が、足の踏み場もなく転がっており、いずれも丸裸で、あるものは膨れ上がり、ある者は全身蛆に被われ、ある者は半ば白骨となり、甚だしきは土の中から発かれて、すさまじい形相で空を睨んでいた。その中で、あれは誰、これは誰と倒れている場所で想像のつくのがある。それは、我々がおった頃からある屍体や、転進の際残留した者が、そのままの場所で死んでいるものであった。
 文字通り足の踏み場もなかった。米兵は顔をそむけ、悪臭に堪えかねて鼻を被っていた。



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樺太朝鮮人虐殺事件(上敷香虐殺事件)−−−−−−−−−−−−
 
 下記は
「証言・樺太朝鮮人虐殺事件」林えいだい著(風媒社)からの抜粋である。崔主性がコルサコフでソ連軍関係の洋服の仕立て人をしている時に、共同生活をしていた姜という男から聞いた話であるという。(著者のその後の調査では、姜は崔主性が聞いた人の名前でまた聞きであって、正しくは姜ではなく、「辛正守」であることが分かったという。そして辛正守が北朝鮮へ帰国したということで、直接事件について本人から話を聞くには至らなかったということである)
 8月9日の早朝、ソ連軍は戦車を先頭に国境を越えて進攻して来たが、警備に当たっていた将校は、相手の兵隊はロシア人ばかりと考えていたためか、望遠鏡の中に見えた小柄な東洋系の兵士を見て、後方の師団司令部に対し、朝鮮人部隊が大挙して攻撃して来ると報告した。それまでも、朝鮮人に対しては様々な差別や虐待を繰り返していたわけであるが、報告のあったその瞬間から樺太の朝鮮人が、全て敵と通じてスパイしていると見なされるようになった。強制連行し、差別し、虐待をしてきた三万数千人の朝鮮人が仕返しをするのではないかという恐怖感が作用したのは間違いないであろう。「朝鮮人はすべてスパイ」というデマが、「朝鮮人は皆殺しにしろ」という結論に至る日本人の心理は、関東大震災時における朝鮮人虐殺の時のそれと同じであると思われる。かくして、下記のような虐殺が起きることとなったのであろう。
 
上敷香虐殺事件−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上敷香警察署に留置されていた朝鮮人の19人は、(終戦後の)8月18日昼頃一人ひとり呼び出され、憲兵と警官から銃を突きつけられて廊下に並ぶように命令された。姜は後ろから二番目にいて、その後に一人の老人がいた。彼を前に押しやった。警官の目を盗んで入り口近くの看守の監視室の下に潜り込んだ。そして、そこにあった毛布を頭から被った。ピストルで射殺する音と悲鳴が聞こえて来た。ガソリンの匂いがしたと同時に炎が上がり、煙が留置場のほうへ流れてきた。 一番奥の便所まで逃げると、便器を伝って下へ体を滑り込ませた。すると便壺の中に先の老人がいて、汲取口の蓋を両手で上げようとしていた。右肩を撃たれて出血がひどく、上に手を伸ばそうとするが体はすぐ落ちた。姜が先に出て手を掴んで上げようとしたが、取りすがる力もなく体ごと沈んでしまった。
 燃え続ける警察署の横に丘があり、姜はそこの藪に身を隠した。憲兵がピストルを持って建物の前で見張りをしていた。翌日も藪の中にいると、ソ連軍の戦車が南下して来て上敷香を占領した。そこへ姜は飛び出して両手を上げた。糞にまみれた彼を見たソ連軍の将校は、その強い悪臭に顔をそむけた。

 ・・・

 二人は通訳に呼び出され、基地の将校から訊問を受けた。北樺太から来たという朝鮮人通訳が朝鮮語でいろいろとたずね始めた。
 姜は警察署事件を話して、重傷の老人が便壺にいることを伝え、早く救出してくれと頼んだ。
 将校を連れて警察署留置場跡に行くと、頭髪が焼けて黒焦げの老人が便壺に浮いていた。
 建物の焼跡には、死体が重なるように転がっていた。
 その翌日、姜と林が呼び出されて現場にいくと、日本兵の捕虜が大勢集まっていた。
 「お前たち、この死体を全部穴を掘って埋めろ!建物の焼けた木材は道の横に積み重ねておけ!」
 ソ連軍の将校は通訳に言って、日本の将校に伝えた。
 「この黒焦げの死体は誰のものだ?」
 「知らない」
 日本の将校は答えた。
 「お前、この建物は、昔何だったか知っているか?」
 「昔は上敷香警察署だ」
 ソ連の将校はむっとした表情で姜を指さした。
 「この朝鮮人が留置場で殺されかかったんだ。便所から逃げて助かった。日本人はひどいことをする。首をはねているじゃないか、よく見ろよ」
 胴体と首が離れ、真っ黒い固まりがいくつも転がっていた。それを見た日本の将校は黙って下を向いていたという。

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 父親と長兄を朝鮮人スパイということで憲兵と警官に逮捕連行され、帰ってこない二人が心配で上敷香警察署に行った金景順は、この時、数人の日本の警官が建物にガソリンをかけて燃やしているところを目撃している。
 また、名好温泉の近くで
「貴様たち半島はみんなスパイだ!」
と戦闘義勇隊に七人の朝鮮人が首をはねられ殺されたという。
 さらに、計画が事前に洩れたため失敗に終わったが、知取で、
 
「日本人は第二と第三小学校に行け。朝鮮人は講堂で帰国の話があるから集まれ」
と朝鮮人を一カ所に集めて爆破する計画があったという。解放された朝鮮人が床下からスイッチ一つで爆破できるようになっているダイナマイト四本を見つけている。
 強引な連行も、極寒の地では考えられない身なりでの過酷な強制労働も、玉音放送後のこうした虐殺もにわかには信じがたいが、様々な証言の一致で、否定しようのないある事実であることが分かる。



−−−−−−−−−−−−−樺太朝鮮人虐殺事件(瑞穂虐殺事件)−−−−−−−−−−

 瑞穂事件は元ソ連軍政治部高級中尉「許鳳得」が1945年の末に内幌炭砿での講演の後、講演を聞いた人たちから、「瑞穂に住んでいた朝鮮人がみんな日本人に殺された。調べてくれ」と訴えられ、政治部の上司に調査するよう報告書を書いて提出したことによって、事実が公になった虐殺事件である。
 日本は8月15日に、すでに連合軍に降伏していたが、ソ連軍は戦闘を継続した。それで、それまで民間防衛体制に当たっていた警防団を義勇戦闘隊に組み入れ体制を整えたのであるが、モリシタヤスオ元曹長が「ソ連軍を半島が先導している」「山沢大佐から、瑞穂に住んでいる朝鮮人を殺せと命令があった」「ソ連軍はまもなくやって来るに違いない。此処に多くの朝鮮人が住んでいるが、必ず日本人を裏切るであろう。そして彼らはソ連のスパイである。ソ連軍がやって来ると、より多くのスパイ行為に走るだろう。彼らを殺さなければならぬ」と朝鮮人殺人計画を持ちかけ、27人の朝鮮人(乳幼児を含む)を虐殺したのである。
 1946年夏、ソ連軍の特務機関が瑞穂に現地調査に入り、KGB(国家保安部委員会)と軍隊合同の死体発掘が行われたという。そこには、加害者側の日本人関係者も立ち会った。医学鑑定委員は、遺体を綿密に臨検するとともに、解剖し、小さな傷跡まで調べ、被告全員の訊問がなされたのである。 
 下記は
「証言・樺太朝鮮人虐殺事件」林えいだい著(風媒社)から被告の証言や資料の一部を抜粋したものである。著者は、ソ連の『コミュニスト』(共産党機関誌)に「瑞穂の惨劇」と題して5回の連載記事を書いたガポニエンコ・コンスタンチン・エロフェエビッチから、三冊にまとめられた検事調書、死体発掘写真、死体鑑定書、判決文など虐殺事件関係の資料をもらい受けているという。

クリスノボル陳述−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 「はい、私は紺部さんの飯場に住む九人の男と一人の女の子を殺しました。
  8月23日、早朝の四時近く、私は起きてナガイアキオの家へ向かいました。刃渡り三十センチから四十センチほどの日本刀を持って、朝五時か六時頃、飯場に到着しました。
  モリシタが指揮をとりました。最初に飯場を取り巻きました。窓から朝鮮人たちが見ていました。モリシタは飯場の中に突入しました。家の中はごった返し、叫び声をあげて、朝鮮人たちは窓へ向かって走り出しました。
  日本人たちはそれを斬り殺しました。私自身、チバの銃で負傷した、二十五,六歳の朝鮮人を殺しました。私は彼の喉と胸を何回か突き刺しました。」

 
ハシモトスミヨシ陳述−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 「私は死人の背を刃物で切り、死体を弄びました。私は負傷したヤマモトを二度か三度、短剣で襲い止めを刺しました。上空にソ連機が飛来してきたので逃げました。」
 ・・・
  「もし、この殺人行為に私が参加しなかったとしたら、部落の人たちは私を日本人の癖に臆病者であり、裏切り者と決めつけるでしょう。そして朝鮮人びいきだと受け止めるに違いないと思いました。
  朝鮮人ヤマモトは苦しんでおり、彼が苦しまないように私は心臓の辺りを短剣で二度突き刺して殺しました」
 
ホソカワタケシの陳述−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 「道から五メートルくらいのところで、私はマルヤマの女房の背中を日本刀で三度切りつけて殺しました。 娘はチバモイチが刺しました。──

チバマサシの陳述−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  私は瑞穂に住み、ソ連軍侵攻前の1945年8月21日、ホソカワヒロシのテログループに誘われ、瑞穂に住む朝鮮人たちを大量虐殺に加わったことを、悪いことをしたと認めます。私の参加した過程で、17人の朝鮮人を殺しました」

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サハリン州ホルムスク郡清水村瑞穂 1946年7月19日、21日、23日 
極東管区主鑑査省 主法医鑑査役グドユーフ・エ・エムの立会委員会
瑞穂住民の被害状況


穴NO1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
部落の中心から二キロ、日本家屋より250メートル、留多加川左岸17メートルの位置。
 穴の回りは、若い落葉樹の繁りと、沼の葦とバラの灌木がある。 鑑定結果深さ30センチ。
       鋭い刃物による頭切断
       胴の第五腰背骨付近が斬傷。
       肋骨右側多数骨折


穴NO3−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本家屋から30メートル。
       ・上部に横たわった死体には、頭部が本体から切断
       頭蓋骨後頭部に穿穴有す……。
       肋骨の左右に多数の骨折個所。
       ・第二の死体には、頭部に二個所の穿、骨折
       胸骨に貫通穴傷、槍突き、肋骨の左に多数の骨折。
       ・第三の死体には、死体の右手切断。
       左下肢に多数の骨折
       ・第四の死体には、鼻及び下あご部分切断。
       後頭部に斬傷、上部肢骨と肋骨の左右に多数の骨折。



KGBシベリア公文書保管所[軍事裁判 判決書]−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ◎死刑(銃殺刑) ─── 7人
     ホソカワヒロシ  キヨスケダイスケ クリスノボル チバマサシ ホソカワタケシ チバモイチ ナガイコウタロウ
     (生年月日など略)
 ◎禁固刑(10年)─── 11人 (略)

 1946年12月10日 極東管区軍事裁判

                  ソ連最高裁軍法協議会   ウィリップ 署名

 
極東管区軍事裁判長
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 1947年2月26日ウラジオストック市に於いて死刑執行とある。虐殺の指揮官ともいうべきモリシタヤスオの名前がない理由は不明である。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−樺太棄民朝鮮人の証言−−−−−−−−−−−−−−
 極寒の地”樺太”(現サハリン)で6万から7万といわれる朝鮮人が炭砿や軍事施設・道路建設などの過酷な労働を強いられた。そして、皇国臣民として強制連行された多くの人たちが、日本の敗戦とともに「あなた方は日本人ではないので、引き揚げの対象ではない」と帰国の機会を与えられなかった。30万人の日本人は数百人を残しほぼ全員引き揚げたが、4万3千人の朝鮮人は千人弱が引き揚げたのみで、サハリンに置き去りにされたのである。ソ連国籍を得なかった人たちは無国籍となった。韓国で夫の帰りを待ち続ける妻や家族、また、家族を樺太に呼び寄せたが、敗戦直前、石炭船の回航が困難になったため「樺太転換坑夫」として配転を命ぜられ(約2万人)、再び離散を強いられた家族、62年が経過しても、サハリン、韓国、日本のそれぞれ地で苦難の日々を送る人たち。
写真記録 樺太棄民 残された韓国・朝鮮人の証言 伊藤孝司著 高木健一解説(ほるぷ出版)は、こうした97名の貴重な写真入り証言集である。下記は、その中から5人の証言を抜粋したものである。

金 正極(キム・ジョングク)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 1920年3月4日生まれ ソ連国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住

 樺太に行くまでの朝鮮での生活は大変でした。お父さんは農業をしていましたが、食べる物はありませんでした。戦争中でしたから、畑を耕しても全部供出させられてしまい、配給も満足に貰えませんでした。貧乏だったので、学校にも行けず、おじさんに漢字を教えてもらいました。
 名目は「募集」だけれども、「徴用」と同じ事でした。「募集」に来たのは、日本人の指令で来た朝鮮の役人でした。「今、世界は戦争をしているから、石炭を掘るために樺太に行かなければならない」と、応じさせられたのです。行かなかったら警察に捕まるんですから。
 樺太での仕事は、炭坑で石炭を乗せたトロッコを押す仕事でした。飯場には、同じ地方からの朝鮮人がいました。飯場では布団や枕に草を入れても、寒くてたまりませんでした。朝、起きると、口や布団の上に氷がついているほどです。なぜ、人間がこんな布団に寝なくてはいけないのか、私たちは人間ではないのかと、その時は思いました。
 契約では、8時間労働で8円払うという事になっていましたが、行ってみると一律3円50銭でした。その内から、食事、布団代と物品代を除くと、何ぼも残らないのです。それでも、10円くらいたまったら、朝鮮に送金しました。
 1943年の11月に樺太に着いたので、2年間の徴用期間が終わらない内に、戦争が終わったんです。8月15日の仕事は、三番方だったんで、飯場にいました。そこには、ラジオは1台しかなかったんですが、昼の12時頃、天皇陛下さんの発表を聞きました。その時は、日本が勝った方が良かったと思ったんです。朝鮮人も「皇国臣民」だといって、教育されていましたからね。
 本国と連絡できなくなり、お金もないので、労働者たちは会社の預けてあった貯金を払ってくれと、日本の親方に詰め寄りました。危なくなったその日本人たちは、みんな逃げてしまいました。
 朝鮮から一緒に来た78人の内、みんな死んでしまって、今まで生き残っているのは5人だけです。韓国には妻と娘がいますが、娘が小さい時に樺太に来てしまったので、私の顔を覚えていません。樺太で、私はずっと1人で暮らしてきました。なぜ、ここで結婚しなかったかというと、明日には、来年には帰国できると信じていたので、40年が過ぎてしまったんです。

金 泰鳳(キム・デボン)
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1915年生まれ、 1990年1月18日、 ソ連サハリン州アニワ地区より永住帰国、 韓国大邱市在住

 村の区長が「徴用」の通知を持って来たので逃げたが、捕まってしまいました。行き先も知らされないまま、同じ密陽(ミリャン)郡の350人と一緒に、サハリンへ連れて行かれたのです。着いた所は、内幌炭砿でした。1944年9月の事です。戦後は床屋・時計の行商・警備員をやり、後は自分で農業をしてきました。
 私は死ぬ前にやっと帰れましたが、サハリンで再婚し、30年一緒に生活した妻を連れてこられませんでした。妻は北朝鮮国籍だからです。
 妻は大邱の出身ですが、北朝鮮からサハリンへ漁業のために派遣された労働者でした。バザールでジャガイモなどを売って、1人で暮らしをしています。
 日本が私たちを異国へ連れて行ったのだから、残っている人たちが早く帰れるように何とかしてほしいです。



辛 相根(シン・サングン)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1918年生まれ 1990年1月14日、ソ連サハリン州ホルムスク市より、妻の李 達任(イ・ダリム)と共に永住帰国  韓国国慶尚南道固城(コソン)郡在住

 私が「徴用」されたのは、21歳の時です。面(村)長から行くようにと、直接いわれました。父がいないので、私が「行きたくない」といったら、面の役人3人に、棒で力いっぱい殴られました。
 同じ郡からの66人が、馬山(マサン)までトラックに乗せられ、釜山(プサン)までは汽車で運ばれました。期限の2年が過ぎて帰って来たら復讐してやるという気持ちで、頭に包帯を巻いたまま、サハリンへ行っのです。
 着いたら、渡辺組のタコ部屋入れられて、馬群潭で道路工事をさせられました。
 戦争が終わってからは、ホルムスクで建築を、港で荷物運びや、道路建設をしたりしていました。
 その頃、今の妻と一緒になりました。子どもはいません。韓国に残して来た妻は、私を7年待ってから再婚したそうです。
 韓国に帰ることを考えて、今まで2人とも不利益を承知で、無国籍を通してきました。この事でずいぶん厭味や北朝鮮かソ連の国籍を取るようにいわれました。
 釜山に着いた時は、何ともいえない気分でした。死ぬのは韓国でと、思っていたからです。いくらソ連で年金を貰えても、やはり自分の国で暮らす方が良いと思います。


鄭 然寿(チョン・ヨンス)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
1915年6月20日生まれ 無国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住

 親戚の人に「徴用」が来たのですが、私は農業をしていたけど貧しかったので、金儲けができると思い代わったんです。その時、私は29歳で子どもが3人いました。
 国後島では、テント生活をしながら飛行場と塹壕建設をしました。それから、樺太の川上炭鉱へと回されましたが、契約の2年が過ぎたのに、そのまま働かされたんです。
 食事は1日4回、玄米を茶碗に1杯だけで、おかずもありませんでした。いつも空腹をかかえていました。タコ部屋に入れられてしまい、働いたお金も実際に見た事はありませんでした。すべて朝鮮に送っていると聞いていました。家族からの手紙も届きませんでした。
 戦後すぐに、一度だけ韓国から便りがありました。返事を出したのですが、その後、手紙が来ることはありませんでした。南北での戦争が始まって、連絡を取り合うのはあきらめました。
 この世でひとりぼっちになったと思い、ロシア人の女性と結婚しました。結婚は正式なものではありませんでした。この妻がものすごい酒飲みで、働いたお金をすべて使ってしまったのです。隠しておいても見つけ出して、酒に替えてしまいました。子供は女の子が1人生まれました。
 韓国に残した妻と3人の子どもたちは、私が韓国を出た日を命日にして10年間法事をしたそうですよ。私の近所に住んでいた人が韓国に行って、釜山にいる長男に会ってわかったのです。ここで再婚したロシア人の妻は亡くなってしまい、一人娘は永住帰国してもいいといってくれています。


朱 玉姫(チュ・オッキ)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
1926年12月28日生まれ 無国籍 ソ連サハリン州ポロナイスク市在住

 終戦の時は、東海岸の国境近くの遠内に住んでいました。子供を背負って逃げ、敷香に着いたら、街は火の海でした。憲兵の車に乗せてもらい、内路まで行き、列車に乗ったのです。
 その時、乗っていた男を、憲兵が銃で頭を叩いて降ろしてしまいました。日本人が「朝鮮人のために戦争に負けたから降ろせ」と言ったので、朝鮮人も次々と降りてしまったんです。
 豊原に着いて敷香からの組に入って、お寺に泊まりました。その晩にソ連の空襲がありました。ここでも、「ここには半島人がいるから殺さなければならない」という、日本人がいたんです。




−−−−−−−−−−−−−サハリン残留韓国・朝鮮人問題−−−−−−−−−−−−−−−

 大戦末期の日本は、物資の不足や人員の消耗が激しく、労働力の不足を補う必要に迫られた。そこで最初は「募集」の形式を取っていたが(募集方式の集団連行と呼ばれる)、とても間に合わず「官斡旋」「徴用」と公権力の暴力的行使に頼る方向に人員確保の方法を移行させながら連行を繰り返した。そして、多くの朝鮮人を樺太に送り込み、極寒の地で石炭生産や鉄道敷設、道路工事、製紙工場などの過酷な労働に従事させた。ところが日本人(皇国臣民)として連行し、自由を与えず強制労働をさせておきながら、戦後の引揚げの時には、「日本人とその配偶者および子どもに限る」として、およそ四万三千名の韓国・朝鮮人を引揚げ対象から外し、サハリンに放置したのである。国籍問題については、1987年4月28日付けで、ソ連赤十字社のベネディクトフ総裁が日本赤十字社社長に宛てた書簡の中に、次のような表現があるという。
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 1945年から1948年にかけて、日本国籍者の日本人は日本に引揚げて行きましたが、朝鮮人については、日本当局は、ポツダム宣言の条文を引用して、以後日本公民とみなさないように公式に要請してきました。その結果、朝鮮人は無国籍者として定住すべく残留しました。
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 ということは、「韓国籍に戻っていない人たちは、日韓条約による請求権放棄の対象ではない」ということで「補償」の対象であるはずであるが、それもなされていない。引き揚げの対象から外すだけではなく、無国籍となった韓国・朝鮮人を補償の対象からも外しており、まさに棄民である。サハリン残留韓国・朝鮮人の方々の怒りはいかばかりかと恐ろしくなる。
 このサハリン残留韓国・朝鮮人問題の本質は、この問題に取り組む高木健一弁護士の体験に象徴的に現れていると思われるので、
「サハリンと日本の戦後責任」高木健一(凱風社)より、ここに抜粋したい。

「父をかえせ」「夫をかえせ」−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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 私は、1981年以後毎年のように8月15日には、韓国・大邱市で開かれる中蘇離散家族会の総会に参席するようにしている。そこで、日本での問題の進展ぶりを報告するためにである。しかし、日本政府と日本人に対する非難と糾弾の叫びが渦巻く会場の中で、遅々とした問題の展開ぶりを 日本人の一人として報告せざるえを得ないのは、もとより覚悟しているとはいえ、辛いことである。もちろん、その場のほとんどの人々は、温かく迎えてくれ、当方の努力をそれなりに評価してくれている。とはいっても、毎年必ず一人か二人、身内の不幸や取り返しのつかない半生の鬱憤をぶつけてくる人が現れる。
 1984年12月、日弁連の桃尾弁護士と私が大韓弁護士協会からの招請によりソウルでサハリン残留韓国・朝鮮人問題について講演したことがあったのだが、その時のことである。講演に参加していた離散家族会の役員の一人が突然立ち上がり、「お前たち日本人は私の父を連行したまま返さない」「信用できない」と、口を極めて非難し始めた。司会役の韓国の弁護士会会長が、「この人たちは、その解決を図るために努力しているのだから」と取りなそうとしても、もうだめなのである。
 その翌年の離散家族会の総会で再会した際、本人は、この間は興奮して失礼なことをしたと、私に謝っていた。ところが、その後、同会の役員の一人として、李斗勲会長らと来日した際、東京の外人記者クラブで、「アジアにたいする戦後責任を考える会」の大沼保昭東大教授と私が記者会見している最中に、突然持参していたカミソリで自分の指を切り、白い布に「日本は私の父を返せ」とハングルで血書し、居合わせた多くの外国人記者を驚かせた。
 1987年の中蘇離散家族会総会では、ある中年の男性が、私の手を強く握りしめながら、自分の父は最近サハリンで死んでしまった、なぜ早く解決しなかったかと非難をし始めて、周囲の人が説得しても、私の手を強く握りしめて離さないのだ。
 88年の総会では、会場のすぐ外でそこにいた人たちからそれぞれ事情を聴取していたところ、一人の婦人が近寄ってきて、突然、「私の夫もきれいな背広を着た日本人に連れていかれた。お前もそんな背広を着て、きれいなことを言うが、日本人はみんな信用できない」「私の夫は死んでもう戻ってこない、どうしてくれるか」と、延々と追及を始めた。まさしく「恨み」を嘆く「身世打鈴(シンセーターリョン)」なのである。周囲の人たちもその話を聞くばかりで間に入ろうとしなかったし、私自身も下手な韓国語ではこちらの気持ちがわかってもらえると思わないから、何もできないで困惑するばかりなのであった。




−−−−−−−−−−−−−高島・端島・崎戸島の朝鮮人坑夫−−−−−−−−−−−−−−
 
 かつて一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島と怖れられた孤島の炭鉱における労働者の実態については、語られはしても記録がなく証拠がなかった。しかし、端島の桟橋に残る石造りの門は一生出られない”地獄門”と言われ崎戸島は”鬼ヶ島”、高島は”白骨島”と呼ばれて脱出不可能の孤島の存在が人々から怖れられてはいたのだという。
 ところが、1986年、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の会員が、閉山後無人島となった端島の高島町役場端島支所の廃墟で、1925年から1945年に至る20年間の「火葬認許証下附申請書」と「死亡診断書」の束を発見し、それがきっかけで、島における悲惨な労働者の実態が少しずつ明らかにされていった。
 その経過や聞き取り調査の内容は「死者への手紙−海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」林えいだい(明石書店)で明らかにされているが、ここにそのほんの一部を抜粋する。

発見された資料から−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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 端島炭鉱では、朝鮮人強制連行が始まった1939年(昭14)から1945年(昭20)まで、「変死」9人、「事故死」17人で、病死23人を上回っている。埋没に因する窒息死が14人とあり、朝鮮人の死因は不自然な変死に満ちているいることがわかった。孤島という密室で何が行われたのか、外傷や打撲の変死が多く、労務係や坑内係のリンチではないかという疑問が出てくる。1944年(昭19)と翌年の45年(昭20)になると、日本人に比較して朝鮮人の死亡率が高くなっている。朝鮮人は43年(昭18)に9人から、44年(昭19)になると23人、翌45年(昭20)には8ヶ月で19人死亡している。

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 著者は、上記の資料発見をきっかけに、あちこち資料を探し回り、崎戸町役場で埋火葬許認証交付簿を手にする。そこには、1940年(昭15)から45年(昭20)までの6年間、日本人、中国人捕虜、朝鮮人のものがあったという。死因についての部分を抜粋する。
不審な死に方−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 死因で目立つのは朝鮮人抗夫の死亡者130人中に、「変死」45人、「事故死」32人、「病死」が53人で、端島と同様、変死と事故死が病死を上回っていることだった。事故死を見ると、落盤によるものが32人中に19人と圧倒的に多いことがわかる。変死の中で注目に値するのは、頭蓋底骨骨折や内臓破裂などが約半数以上にのぼり、不審な死に方をしている。

・・・

 (これらは)炭鉱側の医師が検死した結果であることを念頭に置く必要がある。頭痛とか風邪、高熱を訴えても、骨折や外傷がない限り診断書を書いてくれなかったと、朝鮮人抗夫たちは証言している。リンチで殺されても、変死で片付けられる場合も当然ありうることである。警察は黙殺して事件にはしなかった。

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 著者林えいだい氏は、埋火葬認許証書かれている出身地の死者宛に下記のような手紙(一部抜粋)を出し、返事のあった人たちを訪ね、当時の連行の実態を探ったのである。
死者への手紙−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 拝啓、暑い夏を如何お過ごしでしょうか。突然このような失礼なお手紙を差し上げることをお許しください。
 私のことから先に書きますが、日本の朝鮮植民地時代のこと、特に第2次世界大戦中、韓国・朝鮮人を強制 徴用した歴史を調査記録して、日本政府と企業の責任を追及している者です。
 現在、北はサハリン、北海道から沖縄に至るまで、実態を調査して記録を残しています。九州の長崎県西彼杵郡 にあった、三菱崎戸炭鉱と端島炭鉱で亡くなった、韓国人の埋火葬認許証の中に 韓国人死亡者の名簿を発見しました。この人たちは、主に炭鉱で働いているうちに、事故や病気で亡くなった方々だと思います。
 戦後45年経ったこんにち、亡くなったことをお知らせすべきかどうか迷いましたが、もしもその事実を知らなかったとしたら大変不幸なことだと、失礼をかえりみず思い切って手紙をしたためました。本来ならば、ご家族様名でお出しすべきでありますが、お名前がわかりませんので、亡くなられた御本人宛にいたしましたことを、重ねてお詫びいたします。
 あなたのご家族○○○○様は、19○○年○○月○○日、○○炭鉱で病名は○○○○によって亡くなられたことが判明しましたのでお知らせします。
 お願いですが、もし、事情が許すならば、徴用された当時のこと、その後の御家族様の暮らしについておたずねいたします。
 お忙しいところ誠に恐れ入りますが、お返事いただければ幸いに思います。
 9月13日から韓国のソウルで、強制徴用の写真展を開催する計画で準備を進めています。崎戸炭鉱と端島炭鉱の戦時中と、現在の写真も展示することにしています。当日は会場にまいりますので、ご連絡いただければお会いすることもできると思います。どうかよろしくお願い申し上げます。

     1990年9月1日
                                                   林 えいだい 拝

    貴下

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 下記は、返事の中の一つである。
返事の一つ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  謹啓、
 先生のご健勝を心からお祝い申し上げますとともに、先生の愛国心と同胞愛には深く感謝いたします。
 まず、書面にてご返事を差し上げます。
 私は山本現默(死亡者)の実の兄に当たる者です。当時の状況は、現默が徴用で日本の炭鉱に行ったため、大変困難になりました。
 そのほかには特別なことはありませんでした。これで先生のご質問に不十分ではありますが、回答とさせていただき、先生の益々のご健闘をお祈り申し上げます。
   9月10日
                                                    兄 鄭 g默

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 著者林えいだい氏は、返事のあった人たちの住所を頼りに訪ねて行き、粘り強く聞き取り調査を進めていくのである。ほんとうに頭の下がる取り組みである。この返事には「大変困難になりました」と記されているだけであるが、聞き取り調査の内容(次回)は、大変なものである。

 

−−−−−−−−−−−−−−−働き手を連行された家族−−−−−−−−−−−−−−−−−
                    
 下記は、
「死者への手紙−海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」(明石書店)の著者「林えいだい氏」が「死者への手紙」の返事を書いた「鄭 g默さん」を訪ねた時の様子の一部である。
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・・・
 「鄭 g默さんはいますか?」
 ゆっくりガラス戸が開いて、一人の老人が私の前にぬっと顔を突き出した。酒臭い匂いがして、焼酎瓶が横に転がっていた。キムチの食べ残りの皿が、床に放り出されている。
 日本から訪ねてきたと説明すると、鄭さんは私が韓国に出した手紙を、枕元から持ってきた。何度も読み返したのか、手紙はしわくちゃになっていた。
 「体がうすごく悪いんだ。座っているだけでもきつい。これも働き過ぎ、弟の分まで働いたから体の全部が痛い。お前の手紙を見て、昔のことを思い出して気分が悪くなった」
 と鄭さんは吐き捨てるようにいった。それから突然口をつぐんでしまった。
 「今から45年前、弟は日帝時代に徴用された。その時のことを思い出すと、もう言葉にはならない……」
 涙をためて深い溜息をついた。
 弟の現默さんが1944年(昭19)強制連行された時は、柳谷里にはもう若い者はいなかった。鄭さんも徴用を逃れるために、ずっと山奥の洞窟に隠れていた。夜になると山から出て、暗い畑で農作業を済ませ、夜明け前に弁当を持って山へ引き返して行った。
 三菱から直接強制連行にきた労務係は、部落にやってきては働けそうな者を探し回り、捕まえると面事務所へ連れて行った。そこにはすでに戸籍抄本が用意され、拒否することは許されなかった。
 「家の宝物を連れていったんだからね、残されたアボジ(父親)は大変なものだ。新婚早々の女房は狂ったように なった。日本人のやることは人間じゃない。恨みの相手だ。
 生きて帰ってきたのならいいが、弟を殺してしまい、日本は仇だよ。弟は死ぬために日本へ行ったようなものだ。部落の人たちは、ただ可哀そうなことをしたというだけで、どうすることもできない。日帝時代のことで文句もいえなかった」
 弟が強制連行された二ヶ月後の7月26日、崎戸炭鉱から死亡の電報が届いた。どのような理由で死んだかわからないまま、鄭さんは借金をして旅費をつくり、関釜連絡船に乗って長崎へと向かった。
 崎戸炭鉱の親和寮で弟と対面したがすでに火葬が終わって遺骨になっていた。変わり果てた弟の姿に声もなく、本当に死んでしまったのかと、一夜遺骨を抱いて寝た。翌朝、弟と一緒に強制連行された同じ洛東面の三人に会わせてくれと、労務係に頼み込んだ。すると彼らは、「同郷の仲間の死を知らせると、戦意高揚に影響する」と、一言のことに鄭さんの願いをはねつけた。
 埋火葬認許証交付簿にある死因は、「左側湿性肋膜炎兼急性腸カタル」で、7月18日に発病して、26日に死亡している。鄭さんにとっては、健康であった弟がどうして死亡したのか、同郷の仲間に確かめたかったというのだ。
 鄭さんの話によると、弟の死亡補償金はもちろん、働いた賃金ももらわず、往復の旅費も炭鉱側は支払わなかったという。
 「遺骨だと渡されただけで、弟は日本のためにまるで犬死にだ。今もそのことを忘れることはない。弟の女房に会うのがつらかった。
 自分の主人が死んだんだから、補償金をもらって帰ってくるとばかり思っていたのに、死んで遺骨だけが帰ってきたのだからね」
 鄭さんは、弟の女房に説明がつかなかった。
 逆に補償金を自分のものにしたのではないかと疑われた。鄭さんの立場を考えると、女房が疑うはずである。たとえ植民地時代といえども、人間一人を死亡させた代償を払うのは当然なこと。それを炭鉱側は無視してきたわけであるから、鄭さんが心の底から怒りをぶつける気持ちはわかる。
 父親は十年後に、悲しみのうちに亡くなった。
 最期まで息子の死を信じようとせず、墓をつくっても一度も参ろうとはしなかった。
 「お前の手紙を見てからというもの、わしは朝から焼酎ばっかり飲んで、気分をまぎらわせている。どうだ一杯飲まないか」
 転がった焼酎瓶を這いながら手に取ると、飲みかけの茶碗を差し出した。
 鄭さんと会って、韓国での第一歩がこれでは大変な取材になると体がひきしまる思いがした。次の星州郡へ向かう間、韓国の遺族へ手紙をだしてよかったのかどうか考え直してみた。


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