-NO562~566

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー旅順虐殺事件ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月、日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中、多数の一般市民をも虐殺したといわれる事件です。南京大虐殺事件といろいろな面で似かよっていると思います。したがってこの時、政府や軍が旅順虐殺事件にしっかり向き合っていれば、その後の日本は、また違った道を進んだのではないかと思います。
 当時、国内ではすでに陸軍省や軍が、軍機・軍略に関する記事を新聞や雑誌に掲載することを禁じ、また、日清戦争に関する「検閲内規」を定めていたため、旅順虐殺事件のような事実が国内で報道されることはなく、逆に挙国一致の姿勢で、軍や政府を後押しするような報道ばかりが続いていたようです。
 問題は海外の報道です。陸奥外相は事件を知るとすぐに、海外報道を抑えるために在外公使に至急連絡するよう、外務省に電報を打つ一方、工作資金の工面についても、大本営に掛け合ったようです。その結果、事件直後に旅順事件について知る日本人は、ほとんどなかったようですが、少し間をおいて、海外の報道が日本に入り始めるのです。

 資料1は、旅順虐殺事件について、英国「タイムス」の特派員トーマス・コーウェンから情報を得た陸奥外務大臣の対応と、その情報の概要を陸奥自身がまとめたものです。コーウェンが陸奥とのやりとりを短信にまとめ、会見の翌日広島から発信し、「タイムス」に取り上げられた記事の内容には、陸奥が敢えて触れなかった残虐な面も記されていたようです。
 陸奥の指示を受けて、各国駐在の公使もそれぞれ対応したようですが、特に工作資金に関するやりとりが含まれる在英臨時代理公使内田康哉の電文部分も合わせて抜粋しました。

 資料2は、事件の目撃者、クリールマンが横濱から米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」へ打電した記事の内容です。これが日米間の新条約締結に関わる大問題となったようです。

 資料3は、旅順虐殺事件の目撃者、クリールマンの記事が米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」に出て大きな問題になった後、陸奥が寄せた弁解の文章と、その米国側の受けとめ方に関する部分を「残心を以て其人口を殺戮したり」の中から抜粋したものです。陸奥の弁解の一文をもってして、「日本告白す」というのはちょっと違うような気がしますが、その海外報道を日本で取り上げる時、日本に都合の悪い部分を修正するような報道もいかがなものかと思います。

 資料4は、米国の報道関係工作資金に関する栗野米国公使とのやりとりの部分を抜粋しました。

 下記は、すべて「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。多くの漢字の読み仮名は省略しました。また、漢字の旧字体は一部を新字体に変更しています。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 戦捷後随分乱暴ナル挙動アリ
                      11月24日~12月6日
 1
 ・・・
 旅順虐殺事件とそれに続く日本政府の一連の慌しい反応は、第二軍に従軍していた外国人従軍記者が、日本に戻って来てから始まる。情報の操作と収集にぬかりのない陸奥にしても、この事件のその後の展開を予想していたであろうか。
 ・・・

 2
 英国「タイムス」の特派員トーマス・コーウェンは11月29日午前、広島・宇品港に着岸した長門丸から降り立ち、30日に運よく陸奥に会見することができた。それは夜になってからのことであったと思われる。ここで陸奥は初めて事件の概要を知ることになり、大いに驚き、同時に事の重大さを素早く感知した。会見を終えると直ちに、東京・外務省にいる事務官林薫(ハヤシタダス)(1850~1913)に宛て、英文の電報を打った。文面の冒頭には、在露公使を通じて在独公使、在英臨時代理公使、在仏公使、在米公使、在伊公使、在墺(オーストリア)臨時代理公使へ直接、以下の電文を送るようにと指示がなされていた。その内容の大意は、「旅順から帰還した欧州の新聞記者たちが、日本軍が同地を占領したのちに暴行を犯した、と申し立てているが、我々はこの件に関する公報を受け取っていない。
これを受け取ったならば、速やかに知らせるつもりだが、新聞で公になるかもしれぬこの件に関するどのような報道でも、まるごと打電せよ」というものであった。まず海外に手を打ってから、陸奥は今度は事の次第をより詳しく記し、やはり林宛てに暗号・至急電報を送った。これを陸奥が、「今日…」と買い出したときには、まだ11月のうちであったが、送信するときには12月1日を20分ほど回っていた。30分後に着信し外務省担当官の手で復元された電報は、次のようなものであった。

 今日タイムス通信記者一人旅順口ヨリ帰リタル者ニ面会セシニ日本軍ハ戦捷(センセウ))後随分乱暴ナル挙動アリ生捕(イケドリ)ヲ縛リタル儘(ママ)ニテ殺害シ若(モシ)クハ平民特ニ婦人迄ヲ殺シタルコトモ事実ナルカ如ク此事実ハ欧米各新聞社ガ目撃セシノミナラズ各国艦隊ノ士官特ニ英国海軍中将ナドモ実地ヲ見タリト云フ故ニ此新聞ハ東京横浜ノ間ニ広ガルベシ今日タイムス通信者ガ頻リニ日本政府カ取ルヘキ善後策如何ト尋ネタル故本大臣ハ之ニ答ヘ貴下ノ云フトコロ事実ナレバ実ニ痛嘆スベキコトナレトモ余ハ大山大将ヨリ公然ノ報告アルマデハ日本政府ノ意見ヲ云フ能ハズ而シテ日本兵隊ハ常ニ規律ヲ守ルモノンレハ若シ貴下ノ云フ如キ事実アルモ必ズ之ヲ起サシメタル原因アルベシ其原因ノ次第ニヨリ此ノ不幸ナル事実ヲ多少減少スヘキヲ信ズト云ヒ置キタリ閣下ハ此ノ本大臣ノ意見御了解ノ上若シ右ノ事実ガ顕ハレタルトキ何事モ(コミット)セザル様御話シ置キ降(クダ)サレタシ即(スナハチ)今日本政府カ如何ニ処分スベシト云ヒ若シ其処分出来ザルトキハ甚ダ不都合ナリ委細井上書記官帰京ノ上御聴取リアリタシ

 どこまでも慎重で冷静な陸奥であった。12月2日に陸奥は再度、林宛てに暗号・至急電報を送り、事件に関する在日各国公使らの談話や東京、横浜の内外新聞が事件を記事にしたときには、「御報知アリタシ」と念を押した。同じく2日の夜には、連合艦隊司令長官伊東祐亨(イトウユウコウ)(1843~1914)が、11月28日に大連湾から発した電報が大本営に届いた。しかしそれは、「旅順口占領後特ニ報告スヘキ程ノ事件ナシ」と書き始められていて、事実の確認には役に立たなかった。
 陸奥とのやりとりをコーウェンは短信にまとめ、会見の翌日、12月1日に広島から発信した。それが「タイムス」に報じられたのは、12月3日であった。その大筋は、陸奥が林に宛てた電報の内容と変わりはないが、事件の概要がわかる。

 清国軍は、最後まで抵抗した。清国兵が平服に武器を隠し持っているのを、私(=コーウェン)は目にしたし、爆裂弾を隠し持っているのも見つけた。
 民間人が戦闘に参加し、家々から発砲し、それゆえに彼らを根絶する必要があると判断した旨を日本軍は報告している。日本軍は、日本人捕虜の死体のうちの幾つかが生きたまま火焙りにされたり、手足を切断されたりしたのを目にし、より激昂したのであった。
 私が次ぐる4日間、市街では抵抗がないのを知っていた。日本兵は全市街を掠奪し、そこにいるほとんど全ての人々を殺戮した。ごく少数ではあるが、婦女子が誤って殺された。
 多数の清国人捕虜が、両手を縛られ、衣服を剥がされ、刃物で切り刻まれ、切り裂かれ、腸を取り出され、手足を切断されたことを、私はさらに陸奥子爵に伝えた。多くの死体は、部分的に焼かれた。

 ・・・

 しかし、新聞で公になるかもしれぬと陸奥が各国公使に書き送る以前に、海外の新聞にはすでに事件を匂わせるような記事が掲載されていた。例えば、米国ニューヨークで発行されていた「ワールド」には、11月29日付紙面に12月28日清国・芝罘(チーフー)発の記事があり、これが「清国人避難民」の語った旅順の様子を伝えている。その大意は「日本軍は老若誰であろうと射殺し、掠奪と殺戮は三日間で極に達した。死者は手足を切断され、手や鼻、耳まで切り落とされ、もっとひどいことも行われた。住民は無抵抗であったにもかかわらず、日本兵はこの地域をあらし尽くし、清国人とみれば全てを殺害した。旅順の全市街と港湾は死体でいっぱいになっている」。また、同日付紙面の別記事は、米国軍巡洋艦ボルチモアからの報告が、虐殺の話を裏付けていると伝えていた。また、これより前に、「タイスム」の11月26日付紙面には、たった一行ではあるが、旅順で「大虐殺(グレート・スローター)が起きたことが報告されている」と記されていた。
 陸奥が各国公使に通達するように林薫に指示した11月30日夜、サンクト・ペテルブルグを経由して、在英臨時代理公使内田康哉(ウチダコウサイ)(1865~1936)の電報(電受代1111号)が外務省へ向かっていた。入れ違いのように12月1日に届いたこの電報は、英文の電文と訳文とが一組にされて、林の手で広島にいた陸奥のもとへ改めて発信された。それは、陸奥が危惧していたことが、ロンドンの新聞紙上に現れていたことを示していた。しかし、「不當ナル記事當地ノ新聞紙上ニ顕ハルヽ毎ニ中央通信社ハ常ニ之ヲ辯駁ス」と内田の報告がそこには記されており、「タイムス」(11月28日付)が「日本兵暴(ミダ)リニ清国人民二百余名を虐殺せり」としたのを、「中央通信社」が否定の報道を(「タイムス」11月29日付)をした旨を伝えている。さらに続けて内田自身が言う。
”又旅順口ニ於テ日本兵ハ頗ル野蠻的ノ惨害ヲ行ヒタリト云フ上海發ルーター通信ハ本官之ヲ差止メタリ”
電報の原文には、翻訳はされなかったが、実はまだ文章が残っていた。
Cannot you grant money I have requested. I have no money from the beginning for press purpose.(=お願いした金員をお授けいただけませんか。最初から新聞用の金員は所持しておりません。)

 3
 ・・・
 それは、買収工作の結果であった。英国における新聞、通信界への工作は、1894(明治27年)年秋頃から活発化する。セントラル・ニューズは11月初旬あたりから、内田康哉、つまり日本政府の意に沿った通信を流し始める。時期は第二軍の行動と重なりあう。買収の効果が現れたということであろう。一例をあげれば、セントラル・ニューズは先の「タイムス」(11月28日付)の記事に対して、「戦時正當ノ殺傷ノ外清国人ハ壹名(イチメイ)モ殺害セラレタルモノナシ(電受第1111号電報訳文)と極めて乱暴な記事を流すのである。当時の新聞にはしばしば、様々なルートから来る正反対の内容を持つ記事が同時に掲載されることがあった。これが戦争という局面では、、なおさらに極端な形で表れたことであろう。内田は買収の効果に気をよくし、11月半ばに陸奥に宛ててセントラル・ニューズの動向を報告し、末尾には、「Allow me some money to acknowledge its past and future service. 」(=同社の以前以後の尽力に感謝するため幾許かのお金をお与えあれ)と記す。12月1日着の電文であった「money I have requested」とは、このことを指していた。
 内田の電文をみるや陸奥は折り返し(12月1日午後3時12分)外務省にいた林薫に宛て、必要な金額を「御見計(オミハカラ)ヒノ上御送金」するよう指示を出した。事件らしきものが起きてしまった以上、少なくとも協力的な通信社をさらに懐柔し味方につけるしかないと陸奥は判断し、大本営にも了承を取りつけた上で、翌2日にも再度、林薫に暗号・至急電報を打った。それは、内田へ「例ノ豫備金(ヨビキン)」のなかから二千円ほど送るように指示したもので、もし「豫備金ノ餘分(ヨブン)」が少なければ、大本営から支出してもらう許可を得ている、と申し添えていた。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 残心を以て其人口を殺戮したり 
                      12月12日~12月18日
 1
 12月11日、クリールマンは横濱から米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」へ、短文を打電した。事件の目撃者による初めてのより具体的な記事であった。栗野が12月2日に外務省に宛て公信にあるように、これまで「清國人ノ野蠻的ノ行為ハ日本二対スル米國ノ好感淸ヲ好クスルノ傾キ」があったが、それは未だ事件を知らぬ時点でのことであって、12日付「ワールド」第一面に載った、わずか百一語からなるクリールマンの署名記事は、ニューヨークやワシントンを中心に”激震”を引き起こした。
 記事には、「日本軍大虐殺」と大見出しがつき、続いて「ワールド戦争特派員、旅順での虐殺を報告す」と中見出しが入り、「三日間にわたる殺人(マーダー)」「無防備で非武装の住民、住居内で殺戮(スローダード)さる」「死体、口にできぬほど切断(ミュークレイテイド)さる」「恐ろしい残虐行為(アトロシティ)に戦(オノノ)き外国特派員、全員一団となって日本軍を離脱す」と、小見出しが記事の要点を語っていた。クリールマンのこの記事は、その衝撃的な内容を強調するためか、他の記事よりも行間を余計に取って組まれていた。記事には、「1894年、プレス・パブリッシング・カンパニー(ニューヨーク・ワールド)による」と著作権が明示され、その下には「ワールドへの特電」と入っていた。特電は12月11日に横濱から発信されていた。記事の末尾には、クリールマンの名があった。のちに「萬朝報」は1895(明治28)年1月5日付紙面に「見よ外國新聞の通信者が如何に我軍を誹毀(ヒキ)するかを」と題し、途中に記者の弁駁を交えながら、クリールマンの記事を引用した。また「自由新聞」(同1月6日付)も「日米条約と米國上院」のなかで、これを掲載した。「日本」も同1月13日付紙面に「不埒なる記者の虚報」と題し、クリールマンを猛烈に罵倒する非難の一文を掲載したが、ここには記事の全文が翻訳されて引用された。

 日本軍は11月21日旅順に入り冷々たる残心を以て悉く其人口を殺戮したり
 防禦もなく武器をも有せざる住民は各々其家に於て屠殺せられたり屍体の惨状は言語の能く盡す所にあらず虐殺の無制限的に行はれたること三日にして全市悉く日軍の暴行に侵されざるなし是れ實に日本の文明を汚したる第一の血痕なり日本は此場合に於て再び野蠻に逆戻りしたり此暴行を為すに至りたるは事淸止むを得ざる所あるに由(ヨ)ると強弁するものあるも是れ虚妄なり信ずるに足たらず文明社会は此詳報を得ると共に唯だ戦慄するあらんのみ
外国通信者は此惨状を見るに忍びず一團となりて同軍を辞し去れり

 ・・・
 「ワールド」は12日付紙面に続き、13日付紙面にも事件に関する記事を掲載し、のみならず社説も事件について述べたものであった。もはや日清戦争のことではなく、事件についてであった。社説は「日本軍の残虐行為(ジャパニーズ・アトロシティーズ)」との題であった。従軍記者(目撃者)が事件について書いたものといえば、コーウェンの記事(「タイムス」12月3日付)が最初であったが、ここでは何故か、クリールマンの記事を「欧米の新聞中、残虐行為についても最初の信頼すべき記事」と自賛していた。日本政府が何よりも気にしていた新条約についても触れられ、日本はまもなく文明化するであろうが、そのときが来るまで正義と人道に悖る国に、我々の市民を守る権利を放棄する条約を締結するべきではない、と痛いところを突いていた。…
 ・・・
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 3 
 ・・・
 「ワールド」宛にハウスの手によって送られた陸奥の電報は(弁解の声明文)はニューヨークに15日深夜から翌未明にかけて届き、同紙編集室を狂喜させた。12月17日月曜日の朝、仕事に出かけるニューヨークの人々は、売店に置かれた「ワールド」第一面の左端、つまりトップ・ニュースの見出しに「日本告白す」という文字を見つけた。続いて「日本政府、ワールド紙に公式声明す」「国家的な自責の念を表明」「旅順における虐殺についてのクリールマン報道を裏付ける」「ありのままの真実が語られよう」「責任を問い、国家の名誉挽回の措置を講ず」「ワシントンニュースに驚愕す」「日本政府、戦争に関する通信を初めて送る」との中見出しや小見出しが、かなりのスペースを割いて割り付けられ、いやでも人目を引いた。12日付同紙のクリールマンの報告以来、米国政府でさえ「ワールド」の報道に並々ならぬ関心を寄せていたのである。「ワールド」の社主ジョセフ・ピューリツツァー(1847~1911)は、時の大統領スティーブン・G・クリーヴランド(1837~1908)を支持していた。クリーヴランドは第二十二代大統領(在任1885~1889)を務め、さらにベンジャミン・ハリソン(1833~1901)のあとをうけ、前年の1893年に第二十四代大統領に就任したところであった。このような背景によって、「ワールド」の記事はなおのこと政府筋に歓迎されたことと思われる。
 「12月16日、日本・東京発ーー以下の声明はワールド紙に発表することを、日本国外務大臣陸奥氏によって認可されている」という冒頭部分に続き、陸奥の声明文が始まる。のちに「時事新報」(1895年1月18日付)は、この声明を「所謂旅順の虐殺に付き」と題して翻訳転載し、また、「日本」(同1月30日付)も抄訳し転載した。前者で声明文は次のように訳されている。

 日本政府は旅順口のことを隠蔽せんと欲せざるのみならず却(カヘ)つて事実の確かなる所を取調べ國の尊厳を保つために必要なる所置(ショチ)を為さんことを欲せり元来戦争の始めより政府は何事に寄らず法外の處置(ショチ)なき様常に注意したるに此度(コノタビ)に限り其注意の充分功を奏せざるご如き赴きあるは実に文武諸官の最も遺憾とする所なり今日までに取調べたる所を以てすれば日本軍は
 第一同僚の残酷に殺されたるを見聞して憤慨に堪へず遂に堪忍袋を破りしものゝ如し
 第二逃亡の支那兵は皆平服に姿を変へて潜匿(セントク)し以て日本軍の眼(マナコ)を暗(クラ)まさんとしたるが故に見当たり次第彼等を捕へたるものゝ如し
 第三既に同僚の残酷に殺されたるを見聞して憤慨措(オ)く能はざる上にその證跡(ショウセキ)毎日顕はれ而(シ)かも次第に其甚(ハナハダ)しきことを知りたるが為に益々憤慨に堪へざりしものゝ如し
日本政府は既往(キオウ)より将来に至るまで常に文明の主義に従はんと欲するものにして偶然にも其常道を外れたるが如き趣あるは遺憾に堪へざる所なれど併(シカ)し不都合なる観察を下し不公平なる見解を以て皇張誇大(クワチヤウコダイ)に説くものに向つて駁撃(ハクゲキ)を加へせざるを得ず日軍の為に殺されたるは大概(タイガイ)皆兵卒にして彼等は平人(ヘイジン)の衣服を奪ひ取りて形を変じたること其奪はれたる平人は皆疾(ト)くに隊を為して逃走したれども日本軍占領の後は追々(オイオイ)に帰り来りて各々(オノオノ)職業に安(ヤス)んじ日軍に向つて誠実を表(ヒョウ)し日軍の仁慈(ジンジ)に感ずること是皆間違ひもなき事実なり日本政府は実際起りしことを聊(イササ)かたりとも蔽(オホ)はんとの心なく実際兵卒以外の市民に害を加へんとの所存は毛頭なし左(サ)れば事実は成るべく速に報道さるゝも宜敷(ヨロシク)けれど極端なことを報じて与論を動かさんとするが如きは差控へられんことを希望す云々

「時事新報」掲載のこの記事には「云々」とあって、このあとにも文が続く印象を読者に与えるが、陸奥の声明文は以上であった。この文は広島で掲示されたものかどうかは不明である。「日本」に掲載されたものは、一段七行ほどの抄訳、抄訳というよりは要旨のみであったから比較の上、検証することはできない。それよりも、政府の声明でありながら、政府にとって都合の悪い部分、例えば第二の理由は、清国兵が民間人になりすまし大規模に逃亡しようとしたことになお一層いきりたち日本兵は無差別に報復を加えた、という訳が内容的にはより正しいのだが、そういった部分は検閲の際に手を入れられ改竄(カイザン)されたようだ。あるいは「時事新報」の自主規制なのか。
 ・・・
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  4
 ・・・
 …9月17日には栗野から陸奥宛に、6000ドルので日本政府が望むサービス、つまり日本に有利になる記事を掲載してくれることを同紙が了解した旨の電報が届く。陸奥はあれこれ一ヶ月以上考えた末に、無号・親展の公信を10月26日に栗野に宛てて送った。

 ワシントンポスト新聞ハ金六千圓(ロクセンエン)ヲ以テ我ニ利益ナル新聞ヲ掲載セシムルコトヲ得ヘキ旨過般(カハン)電信ヲ以テ御申越(オモウシコシ)相成リタルモ其金高過当ト存候(ゾンジソウロウ)ニ付其次第返電致置キタルニ其後金千五百弗(ドル)ヲ以テ当分ノ間同新聞ヲ使用シ得ヘキ旨御申越之趣(オモムキ)承知致候然ルニ頃日(ケイジツ)接到(セットウ)シタル客月十九日及四月二十八日付スチーブンス氏私翰ノ趣ニ依レ者(ヨレバ)当初新聞利用之義ニ関シ本大臣ノ発シタル訓令ヲ誤解シ或(アルイワ)新聞紙ヲ専(モッパ)ラ我カ為メニ利用スル義ト解シタルモノト相見エ候本大臣ノ意ハ決テ左ニアラス

 このような次第で結局は「ポストに関する交渉ハ御見合せ可相成候」となったものの「尤(モット)もスチーブンスヨリ申越者若干ノ金ヲ公使館ニ備ヘ便宜新聞掲載ノ報酬又新聞記者饗応(キョウオウ)ノ費用ニ充ツル義ハ至極有用ノ事ト存候」ということになり、千円の為替が送られた。
 ・・・

ーーーーーーーーーーーーーー旅順虐殺事件 従軍外国人記者の記事ーーーーーーーーーーーーーーー

旅順虐殺事件が世界に知られることになったのは、第二軍に従軍した外国人新聞記者による記事でした。でも、それは事件直後ではなく、しばらく経過して記者が戦地を離れてからであったようです。何故なら、外国人記者が従軍するにあたっては、日本軍の「外国人新聞記者従軍心得」に従う必要があり、またその取材には様々な制限があった上、発送する通信文は日本人将校の検閲を受けなければならなかったからです。

 旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月の日清戦争における旅順攻略の際の事件ですが、アメリカのニューヨークやワシントンで大騒ぎになったのは、「ワールド」(12月12日付)第一面に「日本軍大虐殺」の大見出しで掲載された戦争特派員・クリールマンのわずか百一語の署名記事であったといいます。
 当時外務大臣であった陸奥宗光は、事件の報道を知り米国人情報工作者エドワード・H・ハウスを通してワールド宛てに弁解の声明文を送ります。その声明文は「日本政府は旅順口のことを隠蔽せんと欲せざるのみならず、却(カヘ)って事実の確かなる所を”取調べ”国の尊厳を保つに必要なる所置(ショチ)を為さんことを欲せり」と始まっています。
 日清戦争に法律顧問として従軍した有賀長雄によれば、事件の報道後、大本営からの使者が、第二軍司令官大山巌宛の参謀総長有栖川宮熾仁(アリスガワノミヤタルヒト)からの書状を持参し、回答を求めたということですが、それが陸奥のいう”取調べ”だと考えられています。そして、第二軍司令官大村巌とともにいたであろう有賀長雄が、司令官が「其ノ事実ノ信ナルヲ承認」したと書いていることは見逃せません。その回答は「事件ニ関スル公然ノ解釈」で「日本軍隊ノ見解ヲ代表スルモノ」だというのです。
 でも、次のような四つの理由をあげて、虐殺の事実を認めたということだったようです。

左記ノ事実ヲ以テ推究セハ二十一日ニ於テ市街ノ兵士人民ヲ混一(コンイツ)シテ殺戮シタルコトハ実ニ免レ難キ実況ナルヲ知ルヘシ。
 一、旅順口ハ敵ノ軍港ニシテ市街ハ多クノ兵員職工ヨリ成立セシコト
 二、敗餘(ハイヨ)ノ敵兵家屋内ヨリ発砲セシ事
 三、毎戸ニ兵器弾薬ヲ遺棄シアリシ事
 四、我兵ノ同市ニ進入セシハ薄暮ナリシ事
 
 被害を受けた側からすれば、こうした理由は受け入れ難いものであろうと思います。そして、下記の外国人記者の記事が、それさえ事実に反することを明らかにしているのではないかと思います。
 外務大臣陸奥宗光の声明文の言葉に反し、時の政府が、きちんと虐殺事件に向き合わず言い訳や隠蔽工作に終始したこと、そして、そうした姿勢がその後の政府にも受け継がれていったことを、残念に思います。
 下記は「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
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                市街の兵士人民ヲ混一シテ殺戮  12月21日

  3
 歩兵第二連隊を主力とする将兵が旅順に突入してからの一部始終を、市街がよく見渡せる白玉山の山頂に立って、外国人従軍記者たちが見ていた。そこで各人が目にしたものは、のちにそれぞれの新聞に記事となって掲載された。
 ジェームズ・クリールマンは、「ワールド」(12月20日付)に書いた。

 日本軍が旅順になだれ込んだとき、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐で吊されているのを見た。また、表通りには、血のしたたる日本人の首で飾られた、恐ろしい門があった。その後、大規模な殺戮が起こった。激怒した兵士たちは、見るもの全てを殺した。
 自分のこの目で見た証人として私は、憐れな旅順の人々は、侵略者に対して如何なる抵抗をも試みなかったと断言できる。いま日本人は、窓や戸口から発砲されたと述べているが、その供述はまったくのでたらめである。
 捕虜にするということはなかった。
 兵士に跪き慈悲を乞うていた男が、銃剣で地面に刺し通され、刀で首を切られたのを、私は見た。
 別の清国人の男は、隅で竦んでいたが、兵士の一分隊が喜んで撃った。
 道に跪いていた老人は、ほぼ真っ二つに切られた。
 また、別の気の毒な人は、屋根の上で撃たれた。もう一人は道に倒れ、銃剣で背中を何十回も疲れた。
 ちょうど私の足元には、赤十字旗が翻る病院があったが、日本兵はその戸口から出て来た武器を持たない人たちに発砲した。
 毛皮の帽子を被った商人は、跪き懇願して手を上に挙げていた。兵士たちが彼を撃ったとき、彼は手で顔を覆った。翌日、私が彼の死体を見たとき、それは見分けがつかぬほど滅多切りにされていた。
 女性と子どもたちは、彼らを庇ってくれる人とともに丘に逃げるとき、追跡され、そして撃たれた。
 市街は端から端まで掠奪され、住民たちは自分たちの家で殺された。
 仔馬、驢馬、駱駝の群が、恐怖に慄く多数の男と子どもとともに旅順の西側から出て行った。逃げ出した人たちは、氷のように冷たい風のなかで震え、そしてよろけながら浅い入江を渡ったが、弾丸は標的に命中しなかった。
 最後に入江を渡ったのは二人の男であった。そのうちの一人は、二人の小さな子どもを連れていた。彼らがよろよろと対岸に着くと、騎兵中隊が駆けつけて来て、一人の男がサーベルで切られた。もう一人の男と子どもたちは海の方へ退き、そして犬のように撃たれた
 道沿いにずっと、命乞いをしている小売商人たちが撃たれ、サーベルで切られているのを、私は見ることができた。戸は破られ、窓は引っ剥がされた。全ての家は侵入され、掠奪された。
 第二連隊の第一線が黄金山砲台に到達すると、そこは見捨てられているのがわかった。それから彼らは逃げる人でいっぱいのジャンクを見つけた。一小隊が埠頭の端までひろがり、男や女、それに子どもたちを一人残らず殺すまでジャンクに発砲した。海にいる水雷艇は、恐怖に打ちのめされた人々を満載したジャンク十隻をすでに沈めていた。
 五時頃、退却する敵を追って行った乃木以外の全ての将軍が、陸軍大将とともに集まった操練場に音楽が流れた。何と機嫌良く、何と手を握りあっていたことか! 楽隊から流れる旋律の何と荘重なことか! 
 その間ずっと、私たちは通りでの一斉射撃の響きを聞くことができ、市街にいる無力な人々が、冷血に殺戮され、その家々が掠奪されているのを知ることができた。

 クリールマンのこの文の前に、「旅順占領の物語は、歴史の最も暗い頁のひとつになるだろう」と憂え、日本に対し、「東洋の暗闇のなかで、目下のところかくも穏やかな光を放っていた、アジアの光明が消えるのを見るのは辛いことだ」と記した。
 
フレデリック・ヴィリアースは21日午後目撃したことを「スタンダード」(1月 7日付)で、クリールマンと同じく吊された生首について触れたあと、続けていう。

 一時半に、砲兵三中隊と歩兵の大軍勢が、市街地以上に港を見渡せる丘の頂上に移動した。四時十五分前には、今や連隊長伊瀬知大佐の率いる西旅団第二連隊が市街に向かって進軍した。清国軍の縦列が移動するときは常に援護していた偉大なる黄金山砲台は、現在は伊瀬知大佐の率いる地の方へ、二、三発の砲弾を落とし、ほんのわずかな効果をあげているだけであった。そして砲台は突然に砲撃を止め、日本軍は市街に通ずる小さな鉄の橋を渡った。進軍中の歩兵たちは、十八日に敵の手中に落ちた戦友の首が道沿いの一ないし二本の立木の枝に吊されているという、激怒を誘うような光景を目にした。もっと先には、家屋の低い軒に唇を紐で貫かれて吊されている、身の毛もよだつもう二つの生首があった。将兵は堪忍袋の緒が切れ、家屋に潜む敗兵の捜索に射撃隊が分遣された。
 まもなく、彼らが出合う全てのものに対し発砲が始まった。山地中将のかたわらに控え、清国兵の進撃をくい止める一方で、エシオ山(どの山をさすのか不明)でいつもながらの矢面に立ち昂ぶっていた第二連隊は、血の気の失せた、切断された、死んだ戦友顔の見世物に激怒し、出会うところの命あるものは何でも射殺しつつ、銃剣で突き殺しつつ、通りに殺到していった。犬、猫、それに迷子の騾馬までもが切り倒された。大山大将の頼りになる声明の効力を恃(タノ)みにしていた商人、店主、住民らは、アジア人の敵に叩頭する用意をして立っていた。彼らは西洋風の洗練された軍用マントを着用していたと思われる。侵略者(インヴェ゙ーダーズ)が国に隊伍を組んでやって来たとき、民間人の顔に歓迎の臆病な笑みが浮かぶのを私はよく目にした。これらの哀れな民間人たち-年老いた白髪まじりの男たち、青年たち、壮年の男たち-は、それぞれの家の戸口に立っていて切り倒された。村田銃の銃声に対し、この行き過ぎた行為の弁明を正当化する応射は、市街のどこからもなかった。軍隊が船渠
(ドック)に到着したとき、作業場や鉄の索具のかげから二、三発が発射され、近くに兵士がいることを警告したに過ぎなかった。四人の英国人が、市街を見渡せる丘から旅順への進撃と通りでの残酷な所業を見ていた。しかし、日本兵は自分たちがしたことの多くに対して、あらゆる弁明があった。彼らの眼前にぶら下がっていた身み毛のよだつような生首の姿は、最も人情あるヨーロッパの軍隊の胸中にも野蛮さをかき立てるのに十分であった。 十一月二十一日午後はこのようなものであった。

 「タイムス」(1月8日付)に、コーウェンが書いた記事もみなくてはなるまい。先に触れたように、この記事の原稿は1894(明治27)年12月3日に神戸で書き上げられたものであった。

 二十一日午後二時を少しまわったころ、日本軍が旅順に入ったとき、清国軍は市街の街外(マチハズ)れの建物の間に戻るまで、遮蔽物から遮蔽物へと移動しながらゆっくり退却し、最後まで死物狂いで抵抗した。そしてついに、全ての抵抗が止んだ。彼らは完全に敗北し、なし得る最善のこととして、隠れるか、国内を東から西へと逃げるかしながら、通りを潰走していった。私は「ホワイト・ボウルダー」(白い玉石)、日本語で白玉山と呼ばれていた険しい丘の崖縁(ガケップチ)に立っていた。西港が背後に、テーブル・マウンテン(案子山を指すと思われる)砲台が左側に、黄金山砲台と海が右側に、東の砲台が市街越しの前方はるかかなたにと、足元に市街全体の光景を間近に見渡すことができた。私は、日本軍が進撃し、通りや家のなかに繰り出し、進路を横切る全ての生きているものを追跡し殺害するのをみて、その原因を懸命に捜した。私は実際に発砲されるのを目にしたが、日本兵以外からのものは何もなかったと疑いもなく誓って言える。多くの清国人が隠れ場所から狩り出され、射ち倒され、切り刻まれるのを目にした。ひとりとして戦おうとはしていなかった。皆、平服を着ていたが、それは無意味であった。何故なら、死にたくない清国兵は、彼ら流に制服を脱いでしまっていたからだ。多くの者が跪き、叩頭の格好で頭を大地に曲げ哀願していた。そのようない姿勢のまま、彼らは征服軍に無慈悲にも虐殺されたのであった。逃げ遅れた者は跡を追われ、遅かれ早かれ殺された。私の目にした限りでは、家屋からは一発の発砲もなかった。私はモニュメント(1666年に起きたロンドン大火の記念塔)の天辺(テッペン)からロンドン・ブリッジをみるように、小さな市街のあらゆる場所がみて取れた。私は自分の目を信じることができなかった。何故なら、私の通信が示しているように、私を温和な日本人に対する称賛の気持ちで一杯にしてくれたということは、それまでの日本軍の行動に議論の余地がないという証拠であった。そこで私は、これには何らかの理由があるはずだと確信して、必死になってほんのわずかのしるしも注意深く見ていた。しかし、何も見出せなかった。仮りに私の目が自分を欺いていたのであれば、他の人々も同じ状態にあったことであろう。英国と米国の公使館付き陸軍武官もボウルダー・ヒルにいて、同様に驚き、かつ戦慄していた。彼らが断言したように、それは蛮行のむやみな噴出であり、偽りのやさしさの胸を悪くさせるような放棄であったのだ。
 背後での射撃は、私たちの注意をひろい潟へとつながる北の入江へ向けさせた。そこでは、攻囲された市街に遅くまで留まり過ぎたパニック状態の逃亡者、つまり男や女や子どもたちを通常の二倍も乗せたボートの群れが、西へと移動していた。士官に率いられた日本軍騎兵部隊が入江の上手にいて海の方向に発砲し、その射程内の者全てを殺戮した。年老いた男と十歳か十二歳くらいの二人の子どもが入江を渡り始めていた。騎兵が水の中へ乗り込み、刀で彼らを何十回となく滅多切りにした。その光景は、手に何も持たず、私たちと家々の間の、海の方向に流れる、丘の裾にある小川が干上がった川床に沿って農夫の身形をした男が走っていくのが見えた。二十ないし三十発の銃弾が男の跡を追っていった。一度、男は倒れたが、すぐさま起き上がり、命からがら逃げ出した。日本兵は十分に狙いを定めるには興奮し過ぎていた。男は見えなくなった。だが、最終的に男が倒れたのは、九分九厘確実であった。
 別の哀れで不運な男は、侵略者が無差別に発砲しながら正面の扉から入ってくると、家の裏に飛び出した。路地に入った一瞬ののち、男は自分が二つの銃火の間に追い詰められているのに気付いた。私たちには、男が三回土埃りのなかに頭を垂れてから十五分間にわたりその悲鳴が聞こえた。三回目には、男はもう立ち上がらなかった。大いに吹聴されていた日本人の慈悲に縋(スガ)る形で二つ折れになり、男は横向きに倒れていた。日本兵は男から十歩離れた所に立って、狂喜して男に銃を向け弾丸を注いだ。
 さらに、多くのこれら哀れな死を、私たちは殺人者の手を止め得ないまま、目にした。もっともっと多く、人が話せる以上に多く、言葉をもって語れることの及ぶところではないほどに、気分が悪くなり悲しくなるまでに目にしたのだ。(中略) 私たちが目にしてきたようなことをすることのできる人々のなかに留まらねばならないのは、ほとんど拷問に近かった

ーーーーーーーーーーーーーーーーー旅順虐殺事件 捕虜殺戮・掠奪ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 日清戦争では日本が戦勝国であり、下関条約の調印によって、日本は清から遼東半島・台湾・澎湖列島などの領土を割譲され、多額の賠償金受領や通商・関税・航海などにおける最恵国待遇の権利を得ました。また、日清戦争当時は、捕虜に関する国際法も整っておらず、したがって、当然のことながら旅順虐殺事件が問題とされることはなく、裁かれることもありませんでした。

 しかしながら日清戦争でも、後の南京事件に関する裁判で、”日本軍が南京市各地区で大規模な虐殺、放火・強姦・略奪をおこなった”として関係者が裁かれた戦争犯罪と共通の犯罪行為が多々あった事実を忘れてはならないと思います。

 そうした事実は、日清戦争に法律顧問として従軍した有賀長雄が、本国へ虐殺事件の記事を送った外国人新聞記者のクリールマンやコーウェン、ヴィリアース等と交わした会話の中にも読み取ることが出来ます。
 そのときのやりとりは、クリールマンが、「ワールド」にヴィリアースが「ノース・アメリカン・レヴュー」に書いたようですが、事件を目撃した記者に、有賀長雄が”旅順の人々の殺害が「虐殺(マサカ)」と思うか”と直接聞いているのです。即答は躊躇ったようですが、記者は「虐殺」であると答えたといいます。そして、見逃すことが出来ないのは記者が 
有賀氏は、私たちが至急報のなかで、虐殺という単語を使わないようにさせようとしていた。
と書いていることです。法律顧問として従軍した有賀長雄でさえ、事実の報道を抑え込もうとしたということではないかと思います。
 また、記者は
 ”あなた方(日本軍)は捕虜を殺しているのではなく、つまりは、無力な住民たちを捕虜にしようとせずに、無差別に殺しているわけです。”
と指摘したのに対し、有賀長雄は
 ”私どもは(日本軍)は、平壌で数百名を捕虜にしましたが、彼らに食わせたり、監視したりするのは、とても高くつき、わずらわしいとわかったのです。実際、ここでは、捕虜にしていません。”と応じています。
 南京戦における中島師団長の日記の「捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシ……」という記述を思い出します。

 そこで、今回は「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から、南京戦と似かよった捕虜の扱いや掠奪の問題に関する部分を抜粋しました。

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                   諸半島占領ノ任務ヲ達シタリ  十一月二十三日

    
 ・・・
 有賀長雄が『日清戦役國際法論』のなかで言う旅順占領時における海外からの日本への批判三点のうち、第二点目は占領後の捕虜の扱いに対する問題であった。
 (ロ)日本軍ハ二十一日ノ一戦ヲ了(オハ)リ其ノ後ニ於テ此ニ戦闘力ヲ有セサル敵ノ兵士ヲ殺戮シタルコト。
 これに対する大山巌の回答、つまり日本軍の見解は次のようなものであった。
  (ロ)に対スル答弁
 二十二日以後ニ於テ捕虜中間ゝ(ホリョチュウママ)殺戮セラレタル者是アリタルモ此等ハ皆頑愚不覚(グアングフカク),或ハ抵抗シ或ハ逃亡等計リタル徒ヲ懲戒スル為万止ムヲ得サルニ出テタルノミ

 有賀自身も、二十二日~二十四日の三日間は、「稀(マ)レニ日本兵士カ縄ヲ以テ支那人ヲ三々五々連縛(レンバク)シテ」市内を引いてゆくのを目にしている。これが、「日本軍ニ向(ムカイ)テ数多(アマタ)犯ス所アリシニ因リ殺戮スル為」であったことも承知していた。そして、大山は第二点目についても、「其ノ事実タルコトヲ承認」したのであった。大山の言うところが事実であろうとなかろうと、抵抗の有無に関係なく、少なくとも第二軍は、捕虜を歓迎しなかったはずである。
 軍上層部がどう言葉を並べようと、兵士は正直である。先の伊東連之助はこのころ、雙臺溝に清国兵士五、六十名を追いつめ、十名の仲間とともに、「其過半(ソノカハン)」を斃した。そのときの様子は、友人宛ての手紙に詳細に書かれた。

 予(ヨ)は生来(ショウライ)初めて斬り味を試みたることゝて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽(シュウスイイッカシュシンタチマ)ち所を異にし、首三尺餘
(クビサンジャクヨ)の前方に飛び去り、間一髪鮮血天に向て斜めに逬騰(ホウトウ)し(中略)予は茲(ココ)に始めて実際的撃剣を試みしが、経験上人を斬るの法他なし只胆力如何に由(ヨリ)て存するのみ、故に斬るに従って益々巧妙となり胆力の動かざるに至るべし。

 これを読む限り伊東は、捕虜の首を刎ねる”据えもの斬り”をしたとしか思えない。みごとに首が飛ぶと、伊東に周囲から拍手喝采が湧いた。

 何の罪もない人々が、戦争中に殺されるということは、避け難いことである。私は、そのことだけで日本軍を責めはしない。清国兵は、農夫の身形をし、武器を持ち、変装を隠れ蓑として、可能なときに攻撃した。それゆえに、軍服を着ていようといまいと、全ての清国人を敵と見なすことは、ある程度許されることになる。その点では、日本軍はあきらかに正当化されている。しかし、清国人を敵と見なしたとしても、彼らを殺すことは、人道にかなったことではない。彼らは、生かして捕らえられるべきである。数百名の人が捕らえられ縛られたあと、殺されるのを私は見た。それはおそらく、野蛮な行為ではないのだろう。どうあろうと、それは真実なのだ。
 これまでの住民の殺戮に続く、捕虜の殺戮という新しい事態を目の当たりにし、コーウェンは、「タイムス」(1月8日付)にこう記した。

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  4
 今や、清国人のほとんどいない市街と化した旅順 ─── そうなれば、そこで発生するのは、ほかならぬ「分捕(ブンドリ)」であった。「分捕る」とは、「戦場で敵の財物や物を奪い取る」ことである。ある地で敵に勝つとは、その地の敵のものが全て自国のものになることであった。個人の所有物であっても大きな軍事力を背景にしていれば、それが可能になった。まして旅順は、住民も敵兵もいない、といっていい状態である。「私は、兵士たちがひきつった死体を踏みつけながら、死者の家を掠奪するのを見た。凄まじい犯罪を隠そうともしていなかった。恥というものが、消え失せてしまっていた」と、クリールマンはこの日のことを「ワールド」(12月20日付)に記している。旅順では、人の命までもが分捕り品になっていた。また、「一方では、市街の全ての建物が完全に掠奪された。全ての戸が開け放たれ、全ての箱や箪笥、隅という隅をくまなく漁りまっくった。得る価値のあるものは掠奪され、残ったものは壊されるか、溝へ投げ捨てられた」と、コーウェンも「タイムス」(1月8日付)に報告している。
 分捕りは、国家の財産を増やすことである。平壌の戦いのあとには、例えば、「平壌分捕の金銀十六函(ジュウロクハコ)を大本営に廻致(クワイチ)し来りしことハ我特派員の電報に依りて已に記したたるが今目録に依り其種類を区分すれバ左の如し」(「東京朝日新聞」10月13日付)という記事が、「分捕金銀の種類」の題のもとに、第一面に掲載されもしたのである。記事はこれに続き箱ごとの詳細を記し、「金の総量 廿五貫三百五十目」「銀の総量 百十三貫九百十匁(モンメ)」「混合物四貫六百目「但通貨を除く」と結ばれている。金や銀ばかりでなく、米などの穀類はもちろん、分捕りの対象であった。平壌の戦いでは、「正米二千六百石」「小麦三百二十石」「玄米三百石」「黍百石」「粟八百二十石」「大豆千二百石」「鹽(シオ)五百俵」などを分捕った。
 国家が大規模に分捕りをするのなら、兵士は何を分捕ったらいいのか。美術品や小さな貴金属などから日用品に至るまで、上は金目のものから下は使えそうなものまで、さまざまであったと思われる。異国の記念品として持ち帰ったことであろう。洋画家黒田清輝(1866~1924)の場合、その日記(『黒田清輝日記』中央公論美術出版・1967年)によれば、従軍して12月4日 に大連湾に着き、翌日、「七憲兵の案内ニテ分取品をもらひニ行く」。おそらくは、美術品を選んだことであろう。

 生きているものも、分捕の対象となった。前日の二十二日、兵士橋爪武は清国兵営を捜索中に二頭の駱駝を発見し分捕り、これを山地元治に贈った。山地はこれに丹頂鶴を添えて、天皇に献上するため、橋爪にこれらを携えて帰国することを命じ、十一月二十九日に献上品は宇品港に陸揚げされた。番(ツガイ)の駱駝は、翌1895(明治28)年二月になって、皇太子からの下賜という形で、東京・上野動物園に寄贈され、飼育された。
 「国民新聞」(10月24日付)は、東京・九段の靖国神社境内にある遊就館に展示されている分捕品の見物に訪れる人の人数が、浅草や上野への行楽客よりも多いことを伝えている。そうした国内の盛り上がりから、ついには商品にも分捕と冠したものが現れるようになった。「擦り潰す支那人の生首」と題し、「時事新報」(10月23日付)は「分捕石鹸」が発売されたことを報じている。この石鹸は、「支那人の生首の形に造れる」もので、新聞広告には、あたかも旅順の惨劇のような絵柄が載った。これに限らず、同じような報告の絵柄は日清戦争の期間、よくみられた。

 住民の殺戮、捕虜の殺戮に続き、有賀のいう海外からの批判の第三番目は、分捕のことであった。
 (ハ)市街ノ民屋(ミンオク)ニ於テ財貨ヲ掠奪シタルコト。
 これに対する大山巌の回答は、前の二つと違い、真っ向から否定していた。
  (ハ)ニ対スル答弁
 人民ノ財貨ヲ掠奪シタル事実ハ全ク無根ナリ、但シ當夜同市ニ投宿シタル軍隊ノ其宿営用具、即チ机、腰掛、火鉢、茶碗、薪炭等ノ類ヲ徴用シタル事実ハ之レアルヘキモ財貨ノ掠奪ノイ至リテハ斷ジテ之レ無シ、已(スデ)ニ一二心得違ノ者ハ夫々(ソレゾレ)處分ヲ終ヘタリ


ーーーーーーーーーーー旅順虐殺事件 海外の記事・日本の記事 軍の対応ーーーーーーーーーーー

 旅順虐殺事件について考えさせられることの一つに、記事が国外で問題視されていることを知った日本の報道機関が、その事実をきちんと確かめることなく、クリールマンやヴィリアースなどの欧米従軍記者の放逐や取り締まりを要求する下記のような記事を掲載したことがあります。

”…斯かる煩累(ハンルイ)を我に及ぼすべき従軍者は吾軍断じて吾軍の之を放逐し又は拒絶するの至当なるを思う。居留地の外字新聞記者が域内に於て吾軍を讒(ザン)するが如く従軍の外国記者は域外に向ひて吾軍を誣(シ)ゆる皆同一の亡状なり”(「日本」12月22日付

我輩は欧米諸国人の決してクリールマン氏の如き杜撰なる通信に信を置くものにあらざるべきを疑わざると同時に、切に我政府の外国従軍記者に対し、厳重なる取締方を設けられむことを希望するに堪へざる也”(「二六新報」12月22日

 まさに旅順虐殺事件を隠蔽するのに手を貸したというべき内容だと思います。下記に抜粋したようなクリールマンやヴィリアースなどの欧米従軍記者の記事が事実に基づくものであったことは、検閲の対象ではなかった「従軍日記」や「手記」には書かれているのです。

此日旅順ノ市街及附近ヲ見ルニ、敵兵ノ死体極メテ多ク、毎戸必ズ三四(サンシ)以上アリ。道路海岸到ル所屍ヲ以テ埋ム。其状鈍筆ノ能ク及フ所ニアラス”  砲兵第一連隊第二中隊兵士片柳鯉之助

毎家多キハ十数名少キモ二三名ノ敵屍アリ白髯(ハクゼン)ノ老爺(ロウヤ)ハ嬰児ト共ニ斃(タフ)レ白髪ノ老婆ハ嫁娘ト共ニ手ヲ連ネテ横ハル其惨状実ニ名状スヘカラス(中略)海岸ニ出ツレハ我軍艦水雷艇数隻煙ヲ上ケテ碇泊波打際ニハ死屍(シシ)ノ漂着セルヲ散見セリ(中略)帰途ハ他路ヲ取ル何ソ計ラン途上死屍累々トシテ冬日モ尚ホ腥(ナマグサ)キヲ覚ユ”            砲兵第四中隊縦列兵士小野六蔵

 下記の文章は、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
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              此の者殺す可からず、何々隊  11月24日

  1
 明け方、クリールマンは、銃声で目が覚ました。外へ出てみると、上官に率いられた兵士の一群が、三人の清国人を追っているのが見えた。そのうちの一人は、裸の赤ん坊を抱いていた。逃げる最中に、この男は、赤ん坊を落としてしまった。クリールマンは、ヴィリアースを起こしに戻り、再び現場へ行った。二人の男は射殺されており、赤ん坊の父親は背中と首を銃剣で刺され、死んでいた。その温かい血は、凍てつく寒さの中で、まだ湯気をたてていた。赤ん坊のところへ行くと、赤ん坊はまだ生後二ヶ月くらいで、これも死んでいた。別の場所では、老人が後ろ手に縛られて立っており、そのそばでは三人の男が撃たれ、もがき苦しんでいた。クリールマンが近寄っていくと、兵士が老人を打った。兵士は、横たわった老人の胸についた銃創を確かめるために衣服を引き剥がし、そしてもう一度撃った。「私たちは、その場から立ち去った。これが戦闘後三日目であったことを記憶されたい」(「ワールド」12月20日付)

 ヴィリアースはこの日の午後、他と比較して、死体の少ない通りを歩いていた。そこで、酒に酔って手がつけられない状態の兵士三名と出くわした。兵士たちは、商店のなかですくんでいた清国人を射殺したばかりであった。この男は、21日以来、びくびくしながら隠れていたところを発見され、殺されたのであった。兵士は銃に弾丸を装填し、隣の店の戸を壊し始めた。ヴィリアースには、戸の隙間から、隅の方で母親が二人の子どもを庇っているのが見えた。兵士の足元では、老人が叩頭(コウトウ)していた。彼は観念しているようであった。ヴィリアースはこれを見てとり、兵士の背中を叩き、笑いながら一言二言、日本語を投げかけ、身振り手振りで兵士の注意を自分に向けさせた。兵士たちは、一瞬のうちにヴィリアースに関心を移し、老人のことを忘れた。ヴィリアースは、兵士たちをその場から引き離すのに成功し、話ながら別の場所へと誘導した。「とにかく、清国人とその家族は、別の射撃部隊がやってくるまで、死刑執行が延期されたのであった」(「ノースアメリカン・レビュー」同前)。
 市街地でのこのような情況は、旅順郊外でも同様であった。銃声は山野に谺(コダマ)していたのである。
 「東京朝日新聞」の特派員横川勇次(ヨコカワユウジ)(省三・1865~1904)は、この日老鐵山東麓から市街へ戻る途中、銃声を聞いた。兵士五、六人が、何者かを追っている様子なので、尋ねてみると、「敵兵一時逃散したるも多くハ皆服装を変じ近傍の村落に潜み土人に混じ居る故怪しき者と見れば之を銃殺するなり」(同紙12月2日付)と、兵士は答えた。
 今村落へ探知に行く所なりとて五六人宛(ゴロクニンヅツ)見当たり次第発砲銃殺しつつ行く様恰も兎狩りか犬狩りの如く一村挙げて蜘蛛の子を散らすが如く、山上に逃げて行く是ぞ実に天下の奇観なりし

  2
 11月21日の夕刻以降、旅順では10月に大山の発した訓令はあってないに等しかった旅順攻略の祝宴を張ったからには、第二軍は元の状態に戻る必要があった。文明側の国家と自らを位置付けた以上、旅順周辺の清国人の根絶だけは、急いで避けなければならなかった。事実、前日23日に旅順に入ったある士官の手紙によれば、「市内は日本兵士を以て充満し支那人は死骸の外更に見当たらず此地方支那人の種子(タネ)は殆ど断絶せしか」(「中央新聞」12月27日付に転載)、また、もう一日前の22日には、「余の巡視せし時の如きハ市中僅かに六七十名余名の貧民を見しのみなり」(「万朝報」12月20日付・特派員杉山豊吉「旅順通信」)というほどまでになっていた。

 そこで、第二軍司令部は、生き残っている清国人を取り調べた上、刃向かう心配のない者には、安全を保障するものを与えることになった。それは、この24日以降のことと思われる。安全を保障するものとは、文字を墨で書き入れ検印を押した、一枚の白い布、7あるいは一片の紙であった。文面は統一されておらず、そこにこれが軍の緊急措置であったことを窺わせている。
  「順民を證す第二軍司令部」(「中央新聞」12月9日付)
  「商人なり害すべからず軍司令部」(「東京朝日新聞」12月7日付)
  「順民なり殺す勿(ナカ)れ」(「日本」12月9日付)
  「何大隊本部役夫(エキフ)」(同前)
  「此者殺すべからず」(「郵便報知新聞」12月7日付)
  「良民」(「郵便報知新聞」12月30日付)
  「此者不可殺(コノモノコロスベカラズ)」(「讀賣新聞」12月2日付)
  「此の者殺す可からず、何々隊」(「萬朝報」12月20日付)
  「順人なり殺す可からず、何々隊」(同前)
 生き残った清国人は、これらを胸に貼り、首に掛け、腕に巻き、日本人に出合ったら指し示し、殺害から免れるようにした。
 また、家々には兵士が押し入らぬよう、門柱に貼り紙がなされた。
  「この家人殺すべからず」(「東京朝日新聞」12月7日付)
  「此家男子六人あるも殺すべからず」(「日本」12月9日付) 
 住人が逃げ出して空になった家から、兵士や軍夫が分捕をしないよう、注意を促す貼り紙も憲兵の手によってなされた。
  「家人の外入るべからず」(「東京朝日新聞」12月9日付)
 日本軍によるだけではなく、生き残った清国人自身も貼り紙をし、さらなる難を逃れる努力を払った。そのなかには、赤い紙に墨書し正月に門口に貼る聯のようなものもあった。因みに、第二軍のその後の遠征先となった復州では、住民が戸に「大日本順民」と書き、難を逃れる措置をとっていたという(「二六新報」
 旅順ではその後清国人の胸の札はその職業を示すようになり、例えば造船所の職工は「造船部雇入(ヤトイイレ)」という札をつけていた。(「時事新報」1月27日付)有賀長雄の『日清戦争国際法論』には、有賀自身が旅順で目撃した「二三の事実」のなかに、これらのことが触れられている。それによれば、清国人が首に掛けているのは第二軍士官の名刺で、これに「此者ハ何々隊ニ於テ使役スル者ナリ殺スヘカラス」と書かれていたという。また、「此ノ家ニ居ル者殺ス可カラス」との札が門に掛けられているのは、戦闘後に市街に戻り食料酒類などを売る清国人の家であったことを記している。こうしたことについては、ヴィリアースも、「ノース・アメリカン・レヴュー」(同前)で触れている。というより、清国人の生命の象徴的なしるしとして、原稿の締めくくりに使っている。
これらの生き残った清国人は死んだ同胞の埋葬や軍隊の水運びとして使われた。彼らの生命は、  帽子につけた白い一片の紙きれによって守られていた。紙きれには、日本文字で次のような文が  記されていた。「此ノ者殺ス可カラズ」。
 このような措置の一方で、銃声が市街や周辺地域に響いていたのだから、犠牲者は増えこそすれ、減ることはなかった。新聞にみられる旅順の様子は、22日朝の状態と変わっていないのである。変わりようがない上に、さらに悪くなっていた。この日の旅順の様子を、「めさまし新聞」の特派員光永規一は、「新領地の光景」(12月8日付)のなかに記している。「満街の人民已(スデ)に離散し去(サッ)て街上唯到處(イタルトコロ)に屍を横へ、臭気は廓中鼻を劈(ツンザ)く計(バカ)り」であり、「碧血(ヘキケツ)處々(ショショ)に土沙(ドシャ)を染め出して殺気満街の天地に充々(ミチミチ)たり」。また、「石垣の崩頽(ホウタイ)せしもの亦た其處此處(ソコココ)に飛び散り、毀(コボ)ち放たれたる戸柵(トハイ)は無作業に散乱し、焼失せる数戸の家は家具
已(スデ)に焼き尽くして壁柱の猶ほ微かに火煙を帯びて屹立したる為体(テイタラク)中々惨状を極む」とあって、占領後の暴行は、小火(ボヤ)まで出していたようだ。

 旅順港では、水雷の撤去作業が続いていたが、同時に「沈滞物引揚げの如き後掃除」(「郵便報知新聞」12月6日付)も行われていた。「沈滞物」とは、21日以降に海で死んだ兵士や住民の死体、および船の残骸、破片などを指していると思われる。水雷は、前日夕方からこの日にかけて右岸側を掃海し水雷を十個ほど爆発させ、午後遅くなって港の出入りに支障がいない程度になった。死体もある程度は引き揚げられたと思われる。
市街の死体も、放置しておくわけにはいかなかった。これらは、誰が片付けたらいいのか。兵士か、軍夫か。もちろん彼らも、そうしたことであろう。軍司令部が出した結論は、清国人捕虜であった。先の鮑紹武や王宏照らは、これにあたったのである。
 ちょうどこの日、龜井茲明に同行していた龜井家家扶の宮崎幸麿らは、旅順北方の郊外に散乱する死体を埋葬する光景に出くわし、これを写真に収めた。この写真は、『明治二十七八年戦役冩眞帖』の一頁として入っているが、これをよく見ると、日本軍兵士に混って清国人がいる。いずれもその左腕には白い布が巻かれており、これが件の布きれではないかと思われる。
 夜には、水雷艇を水先として郵船長門丸が港内に入ってきた。そしてこの日、旅順占領の電報が転送を重ね、広島の大本営に達したのである


ーーーーーーーーーーー旅順虐殺事件 「萬忠墓」の歴史 清国商船入港拒否ーーーーーーーーーーーー

 日清戦争当時の海外報道記事や日本兵の「従軍日記」・「手記」、また、当時の外務大臣陸奥宗光の『蹇蹇録』などが「旅順虐殺事件」の事実を明らかにしていると思いますが、「萬忠墓」の石碑の歴史と大山巌の「清国商船入港拒否」の事実も、「旅順虐殺事件」が否定しようのない事実であることを示していると思います。

 日清戦争で勝利した日本は、1895年4月17日の下関条約によって、清国より遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲されますが、いわゆる国干渉によって遼東半島は清に返還することになり、日本軍は撤退します。日本軍撤退後、清国は日清戦争を振り返り、検証しつつ、それを形にしていったといいます。その一つが、顧元勲(コゲンクン)という提調官(官名)が、旅順で殉難した人々を弔うために、建てた石碑です。行政庁が死体を火葬した後に、遺灰を埋葬した場所に建てたと思われる「清国将士陣亡之墓」という木碑を取り去り、自ら筆を揮って「萬忠墓」の三文字を刻んだ石碑を建てたというのです。日本軍撤退後、清国人は、虐殺されたのは兵士ばかりではないので、木碑に墨書されている「清国将士陣亡之墓」というのは、世人を欺くものであるとして、そこを「萬人坑」と呼んでいたようですが、その思いを反映させたということだと思います。

 ところが、旅順は日露戦争後再び日本の統治下に入ります。すると「萬忠墓」の石碑が姿を消すのです。そして、墓碑のない墓となり、清明節には多くの人が集まっていた「萬忠墓」は次第に荒廃していったといいます。しかしながら、1922年旅順華商公議会の会長と清国時代の軍人が「萬忠墓」改修の募金活動をして、再び第二の石碑を建てるのです。旅順警察署は文字の一部をセメントで塗り潰させたといいますが、墓参に訪れる人は増え、春と秋には大祭も催されたとのことです。その後、軍の圧力や日中戦争の混乱によって再び荒廃し、大戦後に、第三の石碑が建てられ、盛大な式典が行われたということです。繰り返し、「萬忠墓」と刻んだ石碑を建て、旅順虐殺事件の死者を弔おとする中国の人たちの思いが、「虐殺」の事実を物語っているのではないかと思えます。

 また、下記の資料1の文章にあるように、大山巌が、国旗と赤十字旗、それに白旗を掲げた清国商船の旅順港入港を拒否したということも、「旅順虐殺事件」の事実を物語るものであると思います。

 陸奥宗光の『蹇蹇録』は、サーの称号を持つ英国オックスフォード大学国際法教授トーマス・E・ホランド(1835~1926)の論文「日清戦争ニ於ケル国際公法」を引用しています。ホランドは、「初ヨリ日本ノ行動ニ対シ毎事賛賞(サンショウ)ヲ惜マサリシ人」であると陸奥も認める人物であったにもかかわらず、旅順の事件については、資料2のように日本の将校並びに兵卒の残虐性を指摘したのです。
旅順虐殺事件を世界に知らしめたのも、不平等条約の改正に応じていたイギリスやまさに応じつつあったアメリカという日本に対して好意的な国の記者たちでした。だから、陸奥は外務大臣として国際的に苦境に立たされたことを、ホランドの文章を引いて「此事件カ当時如何ニ欧米各国ノ社会ヲ聳動(ショウドウ)セシヤヲ見ルヘキナリ」と訴えたかったのだと思います。

 旅順虐殺事件についても南京大虐殺同様、”日清戦争中、日本軍が旅順で虐殺事件を起こしたというデマ報道があった”という人たちがいます。”虐殺とは文字通り「残虐な殺害」または「理由なき大量殺戮」の意味だ。日本軍は旅順で捕虜となる資格のない中国軍お得意の便衣兵を処刑したにすぎず、旅順で戦死者は出たが、軍による組織的な虐殺など存在しなかったというのが「史実」だ”などというのですが、歴史の修正にほかならないのではないかと思います。なかには、米紙が”帝國陸軍が清帝國の非戦闘員・婦女子・幼児ら6万人を虐殺。逃げられたのは36人のみ”と、とんでもない捏造記事を報じたとして、、情報源のはっきりしない記事を取り上げ問題にしている人もいるようですが、「萬忠墓」には”官兵商民男女の難を被った者一萬八百余名”と記されているということです。

 下記は、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
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                 死骸を火葬せん事頗る苦心せし處  11月26日~4月中旬

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 何事も手続きが必要である。有賀長雄(法律顧問として従軍した法学者)は軍副官部が立案していた「屍體掃除手續」の諮問を受けた。有賀は仏、伊国をはじめその他の国の「戦場埋葬規則」を心得てはいたが、今回の場合、それらに則って行うには不可能なことが二点あると、まもなく気付いた。ひとつは清国人の身元の確定、所持品の収集、目録作成であり、他は、埋葬の穴を深くすることであった。前者については、清国軍兵士の多くは日給で雇われているに過ぎず、また同軍側に兵籍もなく、労力を費やして確認するだけの価値がないと判断し、後者については、衛生上の観点から埋葬の穴は深さ二メートル、一穴に死体十体までとの戦場埋葬規則を承知してはいたが、土地の気候ゆえに大地がそれを許さないほど凍結していたからで、いずれも不可能という結論になった。ともかくも、死体を埋めた格好、つまり先のとおり土砂をかけただけの埋葬になった。これは都合のいいことに、この地方の清国人は死体を火葬しない習慣にも沿っていた。それにはまた、別の理由もあった。「大連湾より當口(=旅順口)迄十餘里(ジュウヨリ)の間山丘重々(チョウチョウ)たれども総て是れ兀々(コツコツ)たる禿山(トクザン)のみにて一望数里に渉り樹木とては稀に河岸に柳の木抔(ナド)の疎々(ソソ)生長するを認むるのみに御座候(ゴザソウロウ)」(「中央新聞」12月27日付転載)と一士官の手紙にあるように、火葬しようにも燃料となる薪も不足していたのである。

 死体の始末に従事する者は、「掃除隊(ソウジョタイ)」と名付けられた。先の鮠紹武の証言によれば、清国人はそれを「擡屍隊(タイシタイ)」(=死体担ぎ隊)と呼んでいた。軍は生き残りの清国人を動員し、あるいは死体を片付けさせ、あるいは家々や道路に散乱するものを清掃させ、11月末頃には「街衢(ガイク)の光景頗る整頓したり」(「二六新報」12月27日付)といえるまでになっていたが、もちろんこれはその前と比較しての話だろう。見た目の市街は、僅かずつながらももとに戻っていった。だが、市街から外れた山野、路傍では事件の起こったままであった。それらの死体は硬直し、寒さのために腐敗せず、露はその外側全体を凍らせ、枯れ木のような姿のまま放置されていた。

 11月28日に清国商船が国旗と赤十字旗、それに白旗を掲げて旅順港に入港しようとした”出来事”があった。乗船していたのは天津の私立赤十字の人々で、公的な数々の証明書を携えており、なかには英国陸軍軍医らも混じっていた。入港の目的は、負傷した清国兵を引き取り、天津で治療したいというものであった。大山巌は、これを拒否した。このことは、一時的に陸奥をも巻き込むことになり、またのちに入港拒否の事実は欧米の新聞にも書き立てられることにもなった。大山は拒否せざるを得なかった。負傷した清国兵は存在しないのだし、市街にはまだ死者が残され片付けきれていない状態では、とても上陸を許可するわけにはいかなかった。このことは、第三者に見せられない死者があったことを傍証しているかもしれない。

 占領地の行政は、12月13日に「旅順口行政署行政管理規則」が公にされ、同16日から実施され本格的に始動した。旅順の行政庁は、李鴻章の設立になるという王成官(ギョクセイカン)と称する銀行とその隣にある大型の売薬店を庁舎にあてた。年末はここに任を命ぜられた文官、武官二百五十名が佐世保港から萬国丸で旅順に向かった。大本営はこれに先立ち、憲兵と軍夫を増員して旅順に送り込んだが、市街の跡片付けと無縁ではあるまい。
 管理体制はできても、管理する住民がいなくては話にならない。そこで行政管理規則とともに、「旅順口施米細則」が公にされ、これも12月16日から実施された。逃げ出した住民を、米の配給で呼び戻そうというわけである。市内の適当な場所に施米所を設け、30日の間、窮民に与え、その間に各自に自活を図らせるという計画であった。施米は一人一日四合であった。施米より先に給米はすでに実施されており、その助けを借りていたのはごく少数の生き残りの住民であった。行政庁は廓姓(カクショウ)、唐序五(トウジョゴ)という二人の清国人を使い、逃げ出した住民の帰来を促す仕事をさせた。
・・・(以下略)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 当時ニ於ケル日本人ノ將校竝ニ兵卒ノ行為ハ常度ノ外ニ逸出セリ假令(タトヒ)彼等ハ都門ノ入口ニ於テ割斷(カツダン)セラレタル同胞人ノ死屍(シシ)ヲ発見シタリト云フト雖モ斯ノ如キ残忍ノ行為スラモ尚ホ彼等カ為シタル暴行ノ辯解ト為スニ足ラス彼等ハ初日ヲ除キ其翌日ヨリ四日間ハ残酷ニモ非戦者、婦女、幼童(エウドウ)ヲ殺戮セリ現ニ従軍ノ歐羅巴(ヨーロッパ)軍人竝ニ特別通信員ハ此残虐ノ状況ヲ目撃シタリト雖モ之ヲ制止スルニ由(ヨシ)ナク空シク傍観シテ嘔吐ニ堪ヘサリシ由ナルカ此際(コノサイ)ニ殺戮ヲ免レタル者ハ全市内ヲ通シテ僅(ワズカ)ニ三十六人ニ過キサリシト云フ而シテ此三十六人ハ全ク同胞人ノ死屍ヲ埋葬スルノ使役ニ供スルカタメ救助セラレタル者ニシテ彼等ヲ保護スルカタメニハ其帽子ニ「此者殺スヘカラス」ト云ヘル標札ヲ附著(フチャク)シタリトノ事ナリ(1895年3月北米評論ニ據ル)




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