-NO556~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー史実と神話 津田左右吉 Ⅲーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本には、日本国憲法に基づく戦後の日本は本来の日本ではないため、先人がつくりあげた戦前・戦中の日本に思いを致し、「本来」の日本を取り戻そうと考えている人たちが少なからずいるように思います。そして、そういう人たちが、日本国憲法を「押し付け憲法」・「マッカーサー憲法」などといって変えようとしたり、歴史の見直しや歴史教育の修正を主張したりする動きの中心になっているのではないかと思います。

 「新しい歴史教科書をつくる会」設立人の一人で会長の西尾幹二氏は、「国民の歴史」(産経新聞社)の「6 神話と歴史」で
日本の古代史学者で、文字渡来以前の日本人の言語生活の豊かな可能性に思いをはせる者は、私の知るかぎり、ほとんどいない。だから文字渡来より以後のこの列島住人の、文字への不安と抵抗と嫌厭(ケンエン)とについて慎重に、深く考える者もいない。それは歴史学の領分の外だといわんばかりである。
と書いています。また、
 ”…現代日本の古代史家たちは、中国の史書に倭国に関する文字記述のあったときをもって、この列島の歴史の始まりとし、それ以前は考古学的時代として封印して、顧みない。ここにきわめてあさはかな合理主義がある。目に見えるものだけを信じる、知性の衰弱がある。”
とも書いています。
 私は、文学者である西尾氏の発想は、客観性を無視しては成立しない社会科学の一分野である歴史学の学者のそれとは決定的に異なるものであると思います。皇国史観の教祖といわれた平泉澄と同じように、社会科学を嫌い、『古事記』を神典のごとく絶対視するような姿勢を感じます。
 西尾氏の「国民の歴史」(産経新聞社)には、受け入れがたい文章がそこここにあるのですが、一つ二つあげると、
”…わが祖先の歴史の始源を古代中国文明のいわば附録のように扱う悪しき習慣は戦後に始まり、哀れにも今もって克服できない歴史学界の陥っている最大の宿痾の一つと考えてよいであろう。
 皇国史観の裏返しが、「自己本位」の精神までも失った自虐史観である悲劇は、古代史においてこそ頂点に達している。”
と書いていますが、私は、「自己本位」の精神に貫かれた皇国史観は、白人至上主義などと同じようなものではないかと思います。
 また、
いったいどこの国に外国文献中の蔑称「倭国」「倭人」をもって自国史の開幕を告げる歴史を常道とする国があるだろうか。わが国の場合、王権の始源が『古事記』や『日本書紀』の「神代紀」に深くつながっているので、戦後これをご承知の事情であわただしく否定したために、かわりに外国文献中のわが国に関する数少ない文字を拾い出し、そこに国の起源を見るあわただしい錯誤に陥ったまでだ。
 一国の迷いの姿をこれほど証している例はないだろう。なぜ神話を「非歴史」とし、外国の片言を「歴史」と信じるのか。どこに証拠があるのか。
とも書いているのですが、私は、これは事実を無視した、自分勝手でとても乱暴な受け止め方だと思います。神話を根拠もなく史実とすることができないのは当たり前のことで、戦後日本の歴史教育は”かわりに外国文献中のわが国に関する数少ない文字を拾い出し”などというようないい加減なものではないことは、下記の津田左右吉の文章が示しているのではないかと思います。

 西尾氏は、『古事記』の神話を史実とする証拠がないので、逆に「すべての歴史は神話である」などと言って、神話を史実とした皇国史観を復活させようとしているのではないかと想像します。そして、皇国史観によって、先人がつくりあげた戦前・戦中の日本を取り戻し、その意図を継承しようとしているように思います。

 西尾氏は、こうした考え方で子ども達が手にする教科書を作っているのでしょうが、見逃すことができないのは、同じような考え方をする人たちがその教科書採択を働きかける一方で、慰安婦問題に言及する歴史教科書を採択した学校には、抗議のはがきを大量に送るというような動きがあることです。
 
 「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾氏が、社会科学の一分野である歴史学の観点で、戦後日本の歴史教育を批判するのではなく、むしろ歴史学そのものさえ否定するようなかたちで、戦後日本の歴史教育を批判し、攻撃的ともいえる文章を書いていることが、とても心配です。日本の歴史教育を近隣諸国はもちろん、国際社会で受け入れられないような歴史教育にしてはならないと思います。

 下記は「津田左右吉歴史論集」今井修編(岩波文庫33-140-9)から抜粋したものですが、多くの文献を踏まえ、『古事記』や『日本書紀』を史料批判の観点から研究した津田左右吉は、その主著を発禁処分とされ、禁固刑の判決を下されました。法律も政治も教育も、すべてが皇国史観で貫かれていた時代なので当然かもしれませんが、その理由は学問的にどうということではなく、「皇室の尊厳」を冒涜したということだったようです。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       Ⅳ 建国の事情と万世一系の思想

              二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情

 ・・・
 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、このようにして歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであった。時勢は変り事態が変っても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。六世紀より後においてさえも、天皇はみずから政治の局には当られなかったので、いわゆる親政の行われたのは、極めて稀な例外とすべきである。タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、実は親政ではなかったのである。そうして事実上、政権をもっていたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり後のフジワラ(藤原)氏なりタイラ(平)氏なりミナモト(源)氏なりアシカガ(足利)氏なりトヨトミ(豊臣)氏なりトクガワ(徳川)氏なりであり、いわゆる院政としても天皇の親政ではなかった。政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷の内における摂政関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権をにぎっていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官でありあるいは武人であったが、天皇の親政でない点はみな同じであった。そうしてこういう権家の勢威は永続せず、次から次へと変っていったが、それは、ひとつの権家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを、示すものである。この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行われたなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪政をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。

 しかし皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかった。そこに皇室の精神的権威があったのでその権威はいかなるばあいにも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、即ち皇室に精神的権威があったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立して来たために生じたものである。

 それと共に、皇室は摂関の家に権威のある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威を保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。摂関政治の起こったのは起こるべき事情があったからであり、幕府政治が行われたのも行わるべき理由があったからであって、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士という非合法的のものが民間に起こってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた亡びるようになると共に、その武士によって封建制度が次第に形づくられて来たのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移って来たことを示すのであって、文化の中心が朝廷を離れて来たことと共に、日本民族史において極めて重要なことがらであり、時勢の大なる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことは、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室みずからにおいて確信せられていたからでもある。もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(承久)・ケンム(建武)の際のごとく幕府を覆そうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、またくりかえし行われたのでもなく、特に幕府に対しての行動は武士に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった。(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なれば。その存在が危うくなる。)ケンム以後ケンムのような企ては行われなかった。

 このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の下に存在し、そうしてそれが遠い昔から長く続いて来たにもかかわらず、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態が我が国には形づくられていたのである。もし普通の国家において、フジワラ氏もしくはトクガワ氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行われたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。

 けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。ただその統治のしごとを皇室みずから行われなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだという見解が世に行われ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的解釈に過ぎないことではあるものの、トクガワ氏のもっている法制上の官職が天皇の命令任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。これもまた一種の儀礼に過ぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行われたところに皇室の志向もトクガワ氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間つづいて来たということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考が、ますます固められ来たのである。というよりも、そういうことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。神代の物語の作られた時代においては、皇室の地位は永久性おいうことは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根柢ともなりそれを支持してもいる一般武士の思想ともなって来たので、それはかれらが政治的権力者となりまた政治的地位を有するようになったからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。

 ところで皇室の権威が考えられるのは、政治上の実権をもっている権家との関係においてのことであって、民衆との関係においてではない。皇室は、タイカの改新によって定められた耕地国有の制度がくずれ、それと共に権家の勢威がうち立てられてからは、新に設けられるようになった皇室の私有地民の外には、民衆とは直接の接触はなかった。いわゆる摂関政治までは、政治は天皇の名において行われたけれども天皇の親政ではなかったので、従ってまた皇室が権力を以て直接に民衆に臨まれることはなかった。後になって、皇室の一部の態度として、ショウキュウ・ケンムのばあいの如く、武力を以て武家の政府を覆えそうという企ての行われたことはあっても、民衆に対して武力的圧迫を加え、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、ただの一度もなかった。一般民衆は皇室について深い関心をもたなかったのであるが、これは一つは、民衆が政治的に何らの地位ももたず、それについての知識をももたなかった時代だからのことでもある。

 しかし政治的地位をもたなかったが知識をもっていた知識人においては、それぞれの知識に応じた皇室感を抱いていた。儒家の知識をもっていたものはそれにより、仏教の知識をもっていたものはまたそれによってである。そうしてその何れにおいても、皇室の永久であるべきことについて何の疑いをも容(イ)れなかった。儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかかわらず、極めて少数の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかった。そうしてそれは皇室の一系であることが厳然たる古来の事実であるからであると共に、文化が一般にひろがって、権力階級の外に知識層が形づくられ、そうしてその知識人が政治に関心をもつようになったからでもある。仏家は、権力階級に縁故が深かったためにそこからひきつがれた思想的傾向があったのと、その教理にはいかなる思想にも順応すべき側面をもっているのとのために、やはりこの事実を承認し、またそれを支持することにつとめた。

 しかし、神代の物語の作られたころと後世の間に、いくらかの違いが生じたことがらもあるので、その一つは「現つ神」というような称呼があまり用いられなくなり、よし儀礼的因習的に用いられるばあいがあるにしても、それに現実感が伴わないようになった、ということである。「天皇」という御称号は用いられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が祭祀を行われることは変わらなかったけれども、それと共にまたそれと同じように仏事をも営まれた。そうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機関である神祇官は、後になるといつのまにかその存在を失った。天皇の地位の宗教的性質は目にたたなくなったのである。文化の進歩と政治上の情勢とがそうさせたのである。その代り、儒教思想による聖天子の観念が天皇にあてはめられることになった。これは祭祀にすでにあらわれていることであるが、後になると、天皇みずからの君徳修養としてこのことが注意せられるようになった。その最も大せつなことは、君主は仁政を行い民を慈愛すべきである、ということである。天皇の親政がおこなわれないかぎり、それは政治上の上に実現せられないことではあった(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行われたにしても実現のむずかしいことでもあった)が、国民みずからの力によってその生活を安固にもし、高めてもゆくことを本旨とする現代の国家とはその精神の全く違っていたむかしの政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考えられたのは、意味のあることであったので、歴代の天皇が、単なる思想の上でのことながら、民衆にたいして仁義なれということを考えられ、そうしてそれが皇室の伝統的精神として次第に伝えられて来たということは重要な意味をもっている。そうしてこういう道徳的思想が儒教の経典の文字のままに、君徳の修養の指針とせられたのは、実は、天皇が親(ミズカ)ら政治をせられなかったところに、一つの理由があったのである。みずから政治をせられたならば、もっと現実的なことがらに主なる注意がむけられねばならなかったに違いないからである。

 次には、皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世ころまではつづいていたが、その後次第に変わって来て、文化の中心が武士と寺院とに移りそのはてには全く民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変り文化は進んで来たが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在をつづけていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられると共に、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。ただこうなっても、皇室とその周囲とにそのなごりをとどめている古い文化のおもかげが知識人の尚古思想の対象となり、皇室が雲の上の高いところにあって一般人の生活と遠くかけはなれていることと相応じて、人々にそれに対する一種のゆかしさを感ぜしめ、なお政治的権力関係においては実権をもっているものに対して弱者の地位にあられることに誘われた同情の念と、朝廷の何ごとも昔に比べて衰えているという感じから来る一種の感傷とも、それを助けて皇室を視るに一種の詩的感情を以てする傾向が知識人の間に生じた。そうしてそれが国民の皇室観の一面をなすことになった。このようにして、神代の物語の作られた時代の事情のうちには、後になってなくなったものもあるが、それに代わる新しい事情が生じて、それがまたおのずから皇室の永久性に対する信念を強めるはたらきをしたのである。
 
 ところが、十九世紀の中期に「おける世界の情勢は、日本に二重政体の存続することを許さなくなった。日本が列国の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれか一つでなくてはならぬことが明らかにせられた。メイジ(明治)維新はそこで行われたのである

 ・・・以下略

ーーーーーーーーーーーーーーー国定教科書と木口小平や靖国神社ーーーーーーーーーーーーーーーー

 明治のはじめ、日本では民撰議院設立建白書の提出を契機に、自由民権運動が始まったといわれます。当初は、明治政府に不満を抱いた士族が中心だったということですが、憲法の制定、議会の開設、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障に加えて、地租の軽減などの要求も掲げたため、しだいに運動は、不平士族のみならず農村にまで浸透し、全国民的なものとなっていったようです。

 そんな中で、自由民権運動を抑え込むようなかたちの教育政策が進められ、教科書は「国定制」に切り替えられたようです。

 そして、子どもたちが手にする「国定教科書」の修身に、下記、死んでもラッパを離さなかった木口小平(日清戦争)の話が登場することになるのです。でも、私はこうした軍国美談は、一部は真実だとしても、全部が真実であるかどうかは疑わしいと思います。木口小平をヒーローに仕立てることによって、政権に都合のよい教育を意図したのだろうと思うのです。
 そして、それは、下記のように、その目標が「勇気を起さしむるを以て本課の目的とす」から「忠義の心を振興せしめ…」に変わっていったことにあらわれているように思います。特に、軍事教材では、真実は脚色され、ねじ曲げられたり、様々な誇張や無視が入ったり、時には嘘さえもが盛り込まれてしまったりするのではないかと思います。

 「歴史教科書を格付けする」藤岡信勝編(徳間書店)に、”「国のおこり」は、神話によって感動的に物語られなければならない”といったような文章があったことも思い出します。

 また、「靖国神社」の文章にみられるような、”陛下の御めぐみの深いことを思い、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません”というような、皇国史観に基づく国定教科書で育てられた人たちが、日中戦争開始の頃に、日本の中心的存在であった歴史を忘れてはならないと思います。

 下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Ⅰ 軍事教材の誕生

   十七
 クグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ。

目標が変わった例
 つぎに、五期四十数年をへる間に、同じ軍国日本を称揚するものでありながら、重点のおき方に変化が生じ、その結果が個々の軍事教材の指導目標の変化となって教材の改廃へと連動していった例をあげておこう。これもじつは二つの種類がある。ひとつは、新しい目標にあわせて旧素材を解釈しなおして新教材をつくるばあいである。もうひとつは素材そのものを一新し、したがって旧素材は廃棄ということになるばあいである。カッコ内は教科書中の題名である。 

木口小平一等卒
(1) 第一期本(修身、二の二十四、ユーキ)
<目的>勇気を起さしむるを以て本課の目的とす(『尋常小学校修身巻一 教師用』1903年)
(2) 第二期本(修身、一の十七 チュウギ)
<目的>忠義の心を起さしむるを以て本課の目的とす。(『尋常小学校修身書巻一 教師用』1910年)
(3) 第四期本(修身、一の二十六 チュウギ)
<目的>忠義の心を振興せしめ、天皇陛下の御為には一身を捧げて尽くすよう心掛けしむるを以て本課の目的とす。(第三期本も同じ - 引用者注)

 なおこの第四期本の解説書には、〔注意〕として「戦場に出ない者でも、自分自分の職場を守って国の為に働くのが天皇陛下に忠義を尽くすことになる事を諭すこと」(『尋常小学校修身書巻一 教師用』)とある。

 陸軍歩兵一等卒木口小平の明治27、8年日清戦争成歓(ソンファン)の戦場での言行を素材にしてつくられたこの軍事教材の歴史は、岡山県川上郡成羽村出身の一職人兵士の同じ一つの行動が、時期により異なる目標のもとに教材化された例である。第一期本では「勇気を起こさにせる」というどこにでも通じる一般的な徳目だったのに、二期本以後では、これが天皇の国家にむけての勇気という枠のなかに閉じ込められて、、「忠義の心を起こさしむる」「天皇陛下の御為」となる。第四期本の〔注意〕はその頂点を示している。ところが木口小平は、こうして天皇の軍隊である皇軍の価値秩序にくみこまれて極点まで登りつめるとともに、突然消される。その背後には、じつは、さきにのべた軍事行動の近代化にともなう指導目標の大きい転換があった。そして、この転換が、あとにのべるように、第五期にいたって大量の新出軍事教材が誕生する原因となるのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Ⅱ 軍国美談と民衆
 
                          1 「強い教材」の精神的支柱

(1) 国家原理と教材目標
  靖国関係教材
教材「靖国神社」の指導目標を考えてみよう。
 靖国神社の原型は招魂社である。招魂とは死者の霊を天から招き降ろして鎮魂するの意である。その起源は古代にさかのぼるが、平安期に入るころから死者の怨念をはらすことを目的とする御霊(ゴリョウ)信仰ともまざりあいながら、戦国期になると、祟りなきよう戦争で死んだ敵味方を弔う習俗に発展した。靖国の思想も、神道ふうのこの招魂の思想をうけついでいるのであるが、両者の間には決定的なちがいがあった。戦国期の招魂の思想は、仏教の影響もあって、死ねば敵も味方もないという神道の立場からの一種のヒューマニズムに達していたのに対して、靖国の思想によれば、天皇に敵対したものは死後も未来永劫に「内外の国の荒振寇等(アラブルアダドモ)」つまり賊徒であり、逆に天皇に従うものは天皇のために死んだという一点の功によって生前のあらゆる犯罪、罪罰から放免され、神とあがめられる存在になるとされる。つまり、靖国は、天皇の力が、地上のあらゆる犯罪、道義上の悪を駆逐して、万民の解放を自らの意志によってなしとげる場である。教材「靖国神社」には、ここのところが簡潔に説かれている。靖国神社の威力は、この種の政治制度上のものに加えて、もうひとつ日本人の死生観に根を下しているところからもくる。
 神殿にたって柏手(カシワデ)をうてば、万里の彼方で死に、億万里彼方へ去った息子や夫たちの魂が瞬時に目前にかえってきて対話すら可能となる。いけるもののこの世と死せるものの霊界の間に断絶をみず、死を永遠の別離としない日本人の民族的死生観を、この国家制度は見事に活用して、現実には兵士とその家族たちを死の局面にさらしていたのである。靖国神社は、これまた、近代日本の国家機構を、国民感情の深部から支える巨大な精神的空間だったといわねばならない。そのゆえんを教えつづけることの国家指導者にとっての価値は、はかり知れないものがあったといえよう。

                              第三 靖国神社
 靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社(ヤシロ)には君のため国のために死んだ人々をまつってあります。春(4月30日)と秋(10月23日)の祭日には、勅使をつかわされ、臨時大際には天皇・皇后両陛下の行幸啓(ギョウコウケイ)になることもございます。君のため国のためにつくした人々をかように社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思い、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません。
                                                            (第三期修身 四の三)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー軍国美談 水兵の母ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 先日(2017年9月13日)、朝日新聞に”沖縄「集団自決」のガマ荒らされる”という記事が掲載されました。沖縄県読谷村の洞窟「チビリガマ」で、入口の説明板が引き抜かれたり、内部のつぼやガラス瓶などの遺品が粉々に割られたり、千羽鶴が引きちぎられたりしたというのです。私は、沖縄における「集団自決」の事実は、日本で継承されるべき歴史的事実であり、こうした行為は許されないことだと思います。

 また、先日、関東大震災の際に虐殺されたという朝鮮人の犠牲者を悼む行事に、小池百合子都知事は追悼文を送らなかった問題も報道されました。そして、すでに多くの証言や資料をもとに、歴史家が明らかにしている歴史的事実であるにもかかわらず、虐殺の有無について認識を問われると、「様々な見方があると捉えている」と回答し、「歴史家がひもとくものだ」とも述べたといいます。
 こうしたことは、下記の「慰安婦問題」における安倍政権の姿勢と、無関係ではないと思います。 
 2015年(平成27年)12月、慰安婦問題に関して、日韓が合意にいたりました。でも、その際、「日本軍の慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決する」合意である、というようなことが言われました。私は、「最終かつ不可逆的に解決する」というような言い方に引っかかるものを感じました。
 安倍総理は、

私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない。
 今回、その決意を実行に移すための合意でした。この問題を次の世代に決して引き継がせてはならない。最終的、不可逆的な解決を70年目の節目にすることができた。今を生きる世代の責任を果たすことができたと考えています。

というのですが、私はおかしいと思います。安倍総理は「元従軍慰安婦の人たちの主張を事実としては認められないが、10億円を支払って謝罪をするので、今後は慰安婦問題を持ち出さないでほしい」と考えているのではないでしょうか。そして、かつて日本を戦争へと導いた指導層や軍にとって不都合な慰安婦問題を教科書から削除し、なかったことにしようとしているように思えます。

 でも、「歴史に学ぶ」というのは、「負の歴史」も含めてでなければならないと思います。日本は、こうした「負の歴史」を記憶し、後世に伝えていく義務を負っているのではないでしょうか。河野談話を問題視するようなことをいいながら、慰安婦像の撤去を執拗にもとめる安倍政権の姿勢は、歴史を修正しようとするものであり、そうした姿勢が様々なところで、日本を戦争へと導いた指導層や軍にとって不都合な歴史的事実を、なかったことにしようとする動きをうみ出しているとさえ思えてなりません。

 かつて、下記のような軍国美談が教材とされた事実や、実態をとらえて改作された同じ題名の教材があった事実なども、忘れてはならないと思います。
 「一命を捨てて君の御恩に報ゆる」ことを我が子に諭す母親が、感心な母親であり、立派な母親であると、当時の子どもたちは、国の方針に基づいて指導されたということですから。
 下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    Ⅱ 軍国美談と民衆  軍事教材改廃の歴史
 
 1 「強い教材」の精神的支柱
                (4) 「水兵の母」のねばり
「水兵の母」の由来 
 教材「水兵の母」の水兵は実在の人物で、じっさいあったかれの言行がその素材となっている。しかし、かれには、他の強い教材の場合のような皇室とのつながりなどはない。そのうえ、素材の適切さという点では深刻なキズを負っていた人物だった(後出)。それがなぜ強い教材なりえたか。
 素材は日清戦争の一挿話。第一期国語、高等小学校読本に「感心な母」の題名で登場して以来、第五期本まで連続登場し、「入営・兵役」ものと並んで、最長の記録をもつ。素材の提供者は、第一期教科用図書調査委員会の海軍側代表委員子爵小笠原長生であった。小笠原には『東郷平八郎伝』(1931年)、『忠烈爆弾三勇士』(1932年)など、他にも国定教材の原典や参考文献になったドキュメント類があるが、「水兵の母」のそれは、当時軍艦高千穂に乗り組んでいたかれが、日清戦争従軍中、手帳に書きとめていたものをあとで整理したドキュメント『海戦目録』(1896年)だといわれる。

ーーーーーーーーーー                   

                         第二十四 水兵の母

 明治二十七年戦役の時であった。或日我が軍艦高千穂の一水平が、女手の手紙を読みながら泣いていた。ふと通りかかった某大尉が之を見て、余りにめめしいふるまいと思って
 「こら、どうした。命が惜しくなったか、妻子がこいしくなったか。軍人となって、いくさに出たのを男子の面目とも思わず、其の有様は何事だ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」
と、言葉鋭くしかった。
 水兵は驚いて立上がって、しばらく大尉の顔を見つめていたが、(中略)
 「それは余りな御言葉です。私は妻も子も有りません。私も日本男子です。何で命を惜しみましょう。どうぞこれを御覧下さい。」
と言って、其の手紙を差出した。
 大尉はそれを取って見ると、次のような事が書いてあった。
 「聞けば、そなたは豊島沖の海戦にも出ず、又八月十日の威海衛攻撃とやらにも、かく別の働なかりきとのこと。母は如何にも残念に思い候。何の為にいくさには御出でなされ候ぞ。一命を捨てて君の御恩に報ゆる為には候わずや。村の方々は、朝に夕にいろいろとやさしく御世話下され、『一人の子が御国の為いくさに出でし事なれば、定めて不自由なる事もあらん。何にてもえんりょなく言え』と、親切におおせ下され候。母は其の方々の顔を見る毎に、そなたのふがいなき事が思い出されて、此の胸は張りさくるばかりにて候。母も人間なれば、我が子にくしとはつゆ思い申さず。如何ばかりの思にて此の手紙をしたためしか、よくよく御察し下されたく候。」
大尉は之を読んで、思わずも涙を落し、水兵の手を握って
 「わたしが悪かった。おかあさんの精神は感心の外はない。お前の残念がるのももっともだ。しかし今の戦争は昔と違って、一人で進んで功を立てるようなことは出来ない。将校も兵士も皆一つになって働かなければならない。総べて上官の命令を守って、自分の職務に精を出すのが第一だ。おかあさんは、『一命を捨てて君に報いよ』と言っていられるが、まだ其の折りに出会わないのだ。(後略)」
と言聞かせた。
 水兵は頭を下げて聞いていたが、やがて手をあげて敬礼して、にっこり笑って立去った。
                              (第三期 国語、九の二十四)

ーーーーーーーー

 水兵とその母が誰であるかについて、『海戦目録』は「余の部下」で「某が家は世々鹿児島の浜辺にありて見る蔭もなき漁民なり。早く父に別れて、兄弟もなく、年老いた母のみ家に留めて出陣」と記すだけで、詳細不明の状態がながくつづいた。貧しく、名もない母子家庭の老母とその息子。そんな母親でも「一人の子」を「お国」のためによろこんでさしだし、天皇のいくさに身を捧げるよう願っているという筋書き。これは、軍指導部にとって国民教化の絶好の素材たりえたであろう。第一期本「感心な母」はこの点をとりたてて強調する構成になっている。

 大尉はこれを読んで、思わず、涙を落した。しばらくして、水兵の手を取り、せなかをなでて、
 「あー。ゆるせ。わたしがわるかった。おまえはよい母をもっている。たぶん、おもえは、よい家柄に、うまれたものだろうな。」
といった。
 水兵は、頭をふって、
 「いえ、私は鹿児島のうみばたのりょーしの子です。父は、早く死んで、うちには、母ばかり、のこっています。(後略)」
といった。

実相の露呈 
 中村紀久二の研究によれば、1929(昭和4)年になって、突如『肥後日日新聞』が水兵母子を「漸く探し当てた」と報じ、翌々年には野崎敬輔著『実話 水兵の母』が公刊され評判になる。さらに、32年2月には、当の文部省がこれを「社会教育ニ裨益アリ」と認定するにいたった。問題は、こうして公認となった現実の水兵母子のその後である。新聞が明らかにしたところによると、この母子は鹿児島県揖宿郡指宿村の有村おとげさとその次男善太郎であって、善太郎、つまりくだんの「水兵」は実は病気がち、教科書に載った挿話のあったあともはかばかしくなく、結局、1894年9月の黄海の海戦のはじまるまえに高千穂から下艦を命じられた。そして、母の住む村に帰郷し、3年後に病死していたのである。
 国定教材では、「てがら」をたてて故郷に錦をかざるはずの漁民兵士が、じっさいは手柄なくうらぶれた病兵であることがあらわになったことの軍指導層にとっての衝撃は軽くない。このようなとき、教材製作の直接の責任者である図書監修官は、後述するように、素材に加工するか、教材を廃棄するかしているが、「水兵の母」の場合いずれの処置もなくおし通した(通しえた)のはなぜか。それはこの教材の主人公が、善太郎「水兵」や小笠原「大尉」ではなく、現実にはその場に登場しない「母」だったのだと考えると、その理由がわかってくる。軍国の母像のフレーム・アップがこの教材の眼目である。まえに引用した教材解説書のいうように、そのめざすところは、理想の母像を提示することによる情操教育であって、関連教材一体となって「母親のわが子に対する真情の種々相を教材とし、これまで培われて来た児童の母に対する情感を一層深めて行くようになっている」のである。
 そうだとすると、「水兵の母」である有村おとげさに直接のキズがなければ、子の病弱は母性原理を介してかえってプラスに働くのであって、それがこの素材の適切さだと判断されたのではないか。もっともこれは、図書監修官やその上司たちの間になりたちえた判断のひとつであって、有村母子の実相が軍国の母像をフレーム・アップするうえでじっさいに適切な素材でありえていたということではない。わたくしにはこの点がなお疑問としてのこる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                              Ⅲ 軍事教材の転生
  1 変身する軍事教材
(1) 水面下の演出者
 教材の改廃理由を調べていくことによって、文部省のすすめた改廃作業の裏側に、じつは、近代日本の軍と学校をまきこんだ深刻な内部矛盾があったことがわかる。このことは、その矛盾の事態、事実を素材にして、国定教材とは目的も指導目標もちがう反官・反軍の軍事教材づくりが、同時代において可能だったことを物語っている。じっさい、軍国日本の内外の反対勢力が国定軍事教材に対しておこなった闘争じれいを調べてみると、「水兵の母」、「一太郎やあい」「三勇士」など、わが監修官たちをてこずらせ、悩ませた教材にかぎって、このもうひとつの教材づくりの試みは興味深い深まりをみせているのである。1920年代から30年代にかけての国際的なデモクラシーと社会主義運動、そして、国内在野運動の高揚期に、国定教科書の批判と新教材の製作および使用を試みたのは、新学校に拠った「自由教育」者たちであり、なかば非合法の教員の労働組合や労農少年団運動にとりくんでいた農民組合の青年たちであった。軍国日本の植民地・占領地であった朝鮮、中国等の抗日勢力も同様の試みをした。この章では、これら在野の活動家層にむけて、それぞれの関連団体が用意した「新学校」副教材や「プロレタリア教育の教材」「抗日教材」中の関連部分がどのようなものだったかをのべておくことにしよう。

新学校の副教材 ・・・略

プロレタリア児童文化 ・・・ 略
 
教師の集団 ・・・略

(2) 生まれ変わる美談の主
「水兵の母」のばあい
 代々の図書監修官たちの手になる国定軍事教材を、反軍国主義の立場からつくりかえる動きは、こうして1930年代にかけての無産大衆運動のなかではじまった。「プロレタリア教育の教材」は、学校教育の教科目全分野にわたっているが、ここでは、そのうち、軍事に素材をとった民間「軍事教材」とでもいうべきものに限って話をすすめることにする。
 新興教育研究所はコップ加盟後、精力的にピオニール関係の教科書を編輯発行したが、そのひとつ、
1932年8月3日付特輯『ピオニーロ夏休み帳』 で、最強の国定教材のひとつである「水兵の母」の素材をプロレタリア教育の立場からとりあげ、教科化した。以下はその一部である。

ーーーーーーー

                          水兵の母
 (前略)
 大尉(おこった顔)「こらっどうした命が惜しくなったか。妻子が恋しくなったか。軍人となって軍(イクサ)に出たのを男子の本懐と思わず其の有様はなんだ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」
水兵六(驚いて飛上がる。だんだん怒りの色をあらわす。黙って手紙を渡す!)
大尉(手紙を受け取る)「何だ是は(いやな顔をしながら)ふん。女の手紙だな。」(大きな声で読む)

 聞けばお前は豊島沖の海戦にも八月十日の威海衛の攻撃にも別にけがもなかったちう清二の話じゃが「やれやれ安心しただ。お前が出たあとの村ちうものはそれはそれはひどいもんじゃ。お前の働いていた田には草が生え、お前の可愛がって居た兎は六匹とも死んじまった。すけどんちの三男坊は大砲の弾でとんじまったちうじゃねえか。
 俺は地主様の作男がわりにつかわれているだが、この年に無理な仕事で一日十五銭、是でどうして三人の倅を養って行けるだか、今に母も倅もヒボシさ。(中略)そんなようで家ばかりでねえだ。村中あっちでも夏の池の鮒みてえに、村人がアップアップしているだあ。じゃが母はお前の怪我もなく戦死もせず無事に帰るのをまっているだあ。例え上官の命令じゃとてもあぶない所へは行くな。お前ばかりでない。お前と一緒に働く水兵ちう者にも親も子もあるべえ。何とかうまくやって生きて帰って来てくれ一生のねがいだ。友だちの水兵様によろしく云っておいてくれ。書いているそばにはカタワの清二もお前を可愛がっている三人の弟もいるだ。皆やせこけているだあ。
大尉「こらっ不とどき者、何と云うことだ。」(水兵をなぐりつける)
第四景
水兵六なぐられてたおれて手紙を持ちながら泣いている。他の水兵登場。
水兵一「何だ何故泣いている。福田。」
水兵二「おい手紙を持っているぞ。」(水兵三、四、一、手紙のまわりに来る。そしてみんな読み合う)
水兵三「俺の嬶はどうしているだろう。俺の子供は」
水兵四「国のためだ何て云ってるが一つも俺達のためではないじゃないか。」
水兵三「そうだ。俺達は何のために戦してるんだろう。」
水兵六(泣きながら)「母の云うことは本当だ。お母さんの云う通りだ。俺達は自分のとくにならない上に支那の労働者や農民をやたらに殺すのはいやだ。」
水兵一、二、三、四、六、(声を揃えて)「そうだ!そうだ! 俺達は金持ちばかりの得になるばかばかしい戦争はマッピラだ。皆して戦争をやめよう!」

 改作「水兵の母」の裾野
 「水兵の母」有村おとげさにとっての問題は、図書監修官のいう軍国の母のふるまいといった立派なものではなく、息子が国定教科書の教えや「上官の命令」におどらされないで我が身大事と「うまくやり」、どうやって無事にムラへ帰ってくるかであり、それが農民兵士やその母たちすべての本音でもあったというもうひとつの軍国日本の母と兵士の現実が、ここではあからさまに形象化され、教材としての機能を国定版のばあいとは一変させている。この改作版もとらえているように、中堅労働力の根こそぎ召集にともなう家族の生活破壊や地域の荒廃は、戦争が長びくにつれてさまざまなかたちで深まりつつあった。…
 ・・・以下略

ーーーーーーーーーーーーーーーーー軍国美談 「一太郎やあい」ーーーーーーーーーーーーーーーーー

下記は「水兵の母」同様、「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ」などと言って、「一命を捨てて君の御恩に報ゆる」ことを我が子に求める、平和な世の中ではあり得ない母親を、理想の母親とした軍国日本の美談のひとつであり、子どもたちの教科書に掲載された文章です。

 でも、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)を読むと、軍国日本の国家原理と民衆心理(現実の母親の思いその他)との間には、当然のことながら、どうにもならないギャップがあり、せめぎ合いがあったことがわかります。軍国日本の国家原理にもとづいて、意図的に作られた側面のある美談であったから当然のことではないかと思います。かつて、こうした文章が子どもたちの教科書に掲載され、軍国少女、軍国少年が育てられた時代があったことを忘れてはならないと思います。

  沖縄県読谷村の洞窟「チビリガマ」を荒らしたとして、器物損壊容疑で逮捕されたのは、右翼ではなく沖縄の4人の少年であったという報道がありました。不都合な歴史的事実を、なかったことにしようとするような政治的背景はなかったようです。でも、語り継がれなければならない「集団自決」という歴史的事実を、沖縄の少年でさえ知らなかったというのであれば、それは日本の歴史教育の問題ではないかと思います。

下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      
Ⅱ 軍国美談と民衆 ー 軍事教材改廃の歴史

                        2 せめぎ合う国家原理と民衆心理
(1) 軍国の母と岸壁の母 (教材「一太郎やあい」)
一期だけの運命
 ・・・
 「一太郎やあい」は、発表当時、名作の定評があったのに、第三期(1918~32年)一期だけで命を終えた。廃棄されたのである。なにがあったのだろう。この教材の指導目標は、一読してわかるように、「水兵の母」と同じ軍国の母像である。目標の適合性や、無冠の平凡な母親が主人公という素材の適切さからいって、その民衆教育の教材としての適格性は疑うべくもない。「一太郎やあい」が教科書に載って全国に知られるようになると、一太郎に関するたくさんの伝記物、雑誌、新聞記事が巷間にあふれはじめた。橋本春陵著『一太郎物』(1921年)など、そのなかには、子どもむけの実話ものもあって興味深い。ひろい支持を国民各層からひき出すことに成功していたのに、文部省はなにゆえ、自らの手でこれを葬らなければならなかったか。目標に弱点はない。それは「水兵の母」同様、日本の国家原理と国民心性に深く根をおろしている。そうだとすると素材となったこの母子の実像の側に、有村母子以上の何か問題のあることが、国定教科書への掲載後に見つかったということだろう。

ーーーーーーーーーーー
             第十三 一太郎やあい  

 日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
 「ごめんなさい。ごめんなさい。」
といいいい、見送り人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあろうか、腰に小さなふろしきづつみをむすびつけている。御用船を見つけると、
 「一太郎やあい。其の船に乗っているなら、鉄砲を上げろ」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。おばあさんは又さけんだ。
 「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」
すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれやれ。」といって、其所へすわった。聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いで来たのだそうだ。郡長をはじめ、見送りの人々はみんな泣いたということである。
                              (第三期 国語、七の十三)
ーーーーーーーーーーーー

教材化されるまで ・・・略

美談の主探し
 「一太郎やあい」が、軍国の母もの「水兵の母」と同性格の教材とされている点に注意したい。「一太郎やあい」が国定教科書にのると、例によって地元では美談の主探しがはじまる。「水兵の母」のときと同じ民間のうねりも面白い。同じことは、あとでのべる「木口小平」や「三勇士」にも起こっているのである。「一太郎やあい」のばあい、結局、地元の小学校長が探しあてたのを大坂朝日がとりあげ、1921年10月1日の同紙に「物語の主人公は生存」と報じた。
 生存中の人物を国定教科書に偽名とはいえのせることは天皇家を除けば編纂例になかったことで、「生存」のニュースだけでも、関係者にはショックだったろう。ところが、生存中というだけならまだしもである。朝日新聞の記事は、こともあろうに、さらに小見出しとして、「今は廃兵の勇士が悲惨な生活」とつけ加え、軍国日本の暗い日常的側面を衆目にさらしたのである。明らかになったところによると、旅順攻撃に参戦した梶太郎は負傷して帰国し、善通寺予備病院で療養後、翌1905年再び同じ埠頭から出征する。このときも母かめは見送ろうとしたが巡視にとがめられ果たせなかった。このときの様子を、香川県の通牒は「カメ曰くよく巡査が此処で止めて呉れたこれから行ったら又第一回の出征の時の様な又悲しき別れをせねばならなかったと又曰く泣いて送るよりも泣かずに送るのが実に言うに言えぬ悲しいものだと」(「国語読本所載事項の原拠に関する香川県の通牒」『文部時報』五七号 1921年11月3日)と、のべている。
 ここには、八波監査官の説明になる「一太郎やあい」の老婆像とはすこしちがった母親像がみられる。「うちのことはしんぱいするな」と叫んだはずの軍国の母の像はここにはなく、夫に去られたあと一人息子までを戦争にとられて悲しむ、ごく人間的な母が姿をみせる。梶太郎は二度目の出征でも死なずに転戦したのち、丸亀に帰還。妻をむかえ、母子三人の、相変わらずの貧しい生活を送っていT。ところが、帰還後二年たったころから負傷あとの痛みがひどくなり、また職場でかかった凍傷も悪化して両手の指六本を切断してしまう。一時賜金150円は手術代に使いはたし、指もないので「家業の如きも一日として勤め得ずし麦の粥をすすりて病床に呻吟すること前後十有三年」(前出香川県通牒)、一家心中まで考えることになる。
 
 関係者のろうばい
 このような、文字通りの「今は廃兵の勇士」の「悲惨な生活」は、「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ」と国定教材の母である岡田かめに叫ばしめた天皇の軍隊の約束ごとにまっこうから背反する。事実が新聞スクープによってあらわになったとき、教材「一太郎やあい」づくりに関与した係官たちがろうばいしたことはいうまでもない。八波監査官は、その講演会速記録『読本中心国語の講習』(1926年)に「自分は東京朝日で此の記事を見てぎょっとした」と正直にのべている。つづけてかれは、こう弁解する。
 元来教科書には、現在生きている人の事は(天皇を除いて)成るだけ書かないことになっておる。で、此の文を草する時も、実は当人が生きているか否かを一応調査すべきであったかも知れない。しかし誰一人そんな事を考える遑はなかった。此の話を聞いたものは直ぐ起草した。此の文を見たものはすぐ採用した。確定し、発行して今日に及んだのである。」
 ・・・以下略

数々のびほう策 ・・・略

 軍国の母と岸壁の母
 多度津港西浜埠頭での岡田かめとその息子のやりとりの記録を、もう一度原典にさかのぼって読み直してみよう。国定教科書によれば、岡田かめは「うちのことは心配するな」云々と叫んだことになっている。ところが、問題の場面を最初に目撃し、これを記録した香川県第一部長の翌年一月時点での話はつぎのようになっている。(『文部時報』五十七号 前出<参考>欄収録文による)。
 突然後方より岡本と叫ぶものあり。顧みれば六十歳計りの一老嫗、今将に十数間岸を離るる端艇中にありし一兵士なる其子を呼びしなり。其老嫗は粗衣垢面、一見貧家の寡婦たるを知れるが、直立凝視猶其声を続けて曰く、
 「オカアは茲(ココ)に居る」
 「しっかり遣(ヤッ)て来いよ」
 「出征して帰れよ」(出征→出世?)
 「オカアは待っている居るぞよ」
と言いしに、天なる哉母の声の耳に入りしと見え其子は高く銃を上げれば母は大いに悦び、
 「御前の顔を見て安心したよ………もう一度銃を上げてくれ」

 県官側の記録でも、最初の素材提供者の口述では、現実の岡田かめは「うちのことは心配するな」などとはいっておらず、ひたすら息子の無事帰還を「待っている」岸壁のはではないか。国定軍事教材化されたものと比較していえることは、全国数十万の軍国の母たちの現実の心情は、必ずしも、官製の軍国の母像のつくり手が要求しているような指導目標を担いきることができるものばかりではないということである。軍国日本の教育性は、こうして、その底辺部を担う層に入ってゆくや、またもたてまえだおれにおわり、この心情の壁が、教材「一太郎やあい」の命とりになったことになる。軍国の母像の敷衍という指導目標は、前項でものべたように、日本の母性社会原理に根を下ろした重要目標であり、文部省はそれに異議ありとしたのではない。いや、この重要目標を守り、傷つけないためも、「一太郎やあい」は葬らなければならなかったのである



 記事一覧表へリンク 
inserted by FC2 system