-NO552~555

ーーーーーーーーーーーーーーー 平泉澄批判 永原教授、色川教授他ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 皇国史観」(岩波ブックレットNO20)の著者である永原慶二教授が、戦時中、東京帝国大学国史学科に入学した時、平泉澄は主任教授であったといいます。同書の平泉澄に関する部分の一部を抜粋しましたが(資料1)、まず、東京帝国大学国史学科で平泉澄の助手であった村尾次郎氏が、戦後、教科書調査官制度が発足したとき、最初の社会科主任調査官になったという指摘に驚きました。また、”学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる”という指摘が、的を射たものにちがいないと思いました。まさに、”天皇制的身分秩序をわきまえさせること”そして、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ”きことを学生に教えることが、自らの使命であると考えていたのだと思います。


 「歴史家の嘘と夢」(朝日選書8)の著者である色川大吉教授も、同じように戦時中に、東京帝国大学国史学科で平泉澄の講義を聞いています。そして、「Ⅱ わだつみの友へ」の中の「学徒出陣二十五年に」と題した文章で、平泉澄について語っています(資料2)。特に、出陣する学徒に向かって、最終講義で、”しばらくお別れです、いや永遠にお別れです”といって出ていった、という部分が、いかにも平泉澄らしいと思いました。平泉澄は、「我が子には散れと教へておのれまづあらしに向ふさくら井の里」などという歌を取り上げ、桜のような散り際の潔さを説いたり、「花は桜木、人は武士」というのが、日本人の精神であると説いて、”一旦緩急あれば直ちに剣を執って起ち、勇猛敢為、進むを知って退くを知らざる気象こそ、日本人の誇りなのだ”と教えるのでしょう。平泉澄が「永遠にお別れです」というのは、桜の花の散り際の潔さを見習い、「天皇の御為に」、君たちも潔く散っていかなければならないということなのでしょう。何とかして犠牲者を出さないようにしようとする人命尊重の発想はほとんどないのだろうと思います。

 「天皇と戦争と歴史家」(洋泉社)の著者、今谷明教授の”平泉の歴史学には幅広いしかも力強い実証主義的手法と、狭隘な神秘主義・精神主義とが初期の段階から同居している”という指摘も重要だと思います。今谷教授は、平泉澄の差別的言辞を取り上げていますが、私は、古事記の神話を史実とする平泉澄の考え方では、基本的に大衆蔑視や人種差別から逃れることができないのではないかと思います。その平泉澄の「歴史なき人種」などという差別的言辞に関わる部分を抜粋しました(資料3)。

 「神の国と超歴史家・平泉澄 東条・近衛を手玉にとった男」(雄山閣出版)著者、田々宮英太郎氏の平泉澄に対する指摘も見逃すことができません。田々宮英太郎氏は、平泉澄の考え方の本質に迫ろうと、戦時中の学徒、色川大吉や林勉の証言などを取り上げ考察していますが、平泉史学の「科学性」の問題に関する指摘は、最も重要だろうと思います。
 永原教授の”学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる”という指摘と重なるのです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         二 皇国史観とは何か

私の体験
 はじめに思い出話になって恐縮であるが、読者に皇国史観の支配した時代の雰囲気を感じとっていただくために私の体験を紹介しよう。私は1942(昭和17)年四月に当時の東京帝国大学国史学科に入学した。教授にどんな先生がいるのかなどということも考えず、歴史を勉強してみたいという気持ちだけで進学したのであった。入ってみると、主任教授は、戦後超国家主義皇国史観の代表的歴史家として位置づけられた平泉澄氏であった。もっとも当時の私は平泉教授がそのような存在であることさえよく知らなかったが、入学すると早々に助手の村尾次郎氏から平泉教授の演習に出ないと二年になれないと説明されたため、まずそれに出席した(この説明はウソであることがあとでわかった)。ついでにいえば、村尾次郎氏は戦後の1956年、教育の右旋回にともなって教科書調査官制度が発足したとき、社会科の最初の主任調査官となって今日の検定路線を打ちだした人物であることはよく知られているとおりである。
 演習は本居宣長(宣長のことは「先生」といわないと叱られた)の「うひ山ぶみ」であったが、さいしょの時間にテストがあった。示されたいくつかの事項について何らか知っていることを書けというものだったが、私はほとんど書けなかった。いまおぼえているところは、そのひとつに「佐久良東雄」という名前があった。これもそのときはまったく知らなかったが、あとでこの人物が平田国学派の志士・歌人であることを教えられた。
 この佐久良東雄は、じつは平泉教授の(『伝統』1940年刊、所収「真の日本人」)のなかでたいへんな評価を与えられている人物で、教授の著書さえ読んでいれば難なく答えられるはずだったのである(どうもこのテストは一種の思想調査だったらしい)。そしてその高い評価の根拠は、結局、この人が「君に親にあつくつかふる人の子のねざめはいかにきよくあるらむ」「すめろぎにつかまつれと我を生みし我が垂乳根は尊くありけり」などという歌を詠んだところにあったようである。
 歌の意味はかんたん明瞭であるが、ここでとくに重視されたのは、「忠」と「孝」という二つの、場合によってはたがいに矛盾する(「忠ナラント欲スレバ孝ナラズ」)価値が統合され、いわば孝が
忠に高められている点である。家と国家の一体化、「皇室は臣民の宗家」などが説かれ、日本は天皇を家長とする一大家族国家という国家イデオロギーが強調されていたこの時代からすると、 佐久良東雄は卓抜した先覚者だというわけである。

 当時、平泉氏の皇国史観はもっともはげしくもえあがっており、学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる。教授はわれわれ学生を「○○サン」とよび、けっして「○○クン」とはいわなかったし、学位同士でも「クン」よびはよくないといっていた。その意味は、「君」とは「上御一人(カミゴイチニン)(大君)」のことであるから「臣民」に「君」を使うのはたいへんなあやまちだというのである。学生たちに、このような天皇制的身分秩序をわきまえさせることが教授の使命であると考えていたのではなかろうか。
 こうして入学早々皇国史観による洗脳を受けたわけであるが、その後、これと関連してもうひとつの小事件があった。それはしばらくして私も、「国史」の学科の学生らしくなり、「十一日会」とよぶ学生の月例研究会で研究発表をした。そのとき、「うひ山ぶみ」がきっかけで国学の問題を報告したのであるが、私のタネ本は羽仁五郎の「国学の誕生」「国学の限界」という連作論文であった。当時私は思想的に羽仁氏に共鳴していたからというのではなく、ただ国学関係の論文を読みあさってゆくうちにゆきあたった羽仁論文がもっとも私の心をゆりうごかしたため、未熟な学生としてはそれによりかかるような報告をしただけのことであった。ところが同席した平泉教授は散会後ただちに私をよびとめ、あのような論文はよくないから読まぬ方がよいと厳粛な顔つきで私をいましめたのである。
 いささか私的経験をのべすぎたが、これによっておよそ当時の雰囲気は分かっていただけたと思う。そこで本題にもどって皇国史観とは何か、それにもとづく日本歴史像とはどんなものか、という問題に進もう。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            Ⅱ わだつみの友へ
 学徒出陣二十五年に
 忘れもしない昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場のスタンドで、私は降りしきる秋雨に濡れ、数万の学友たちの分列行進を見送っていた。かれらはいちように大人びた沈痛な顔をし、黒い制服にゲートルをまき、銃剣のついた三八式歩兵銃をかついで、東条首相の前を行進していった。
 スタンドは満員で、女子学生が多く、なかには急いで結婚した新妻たちの姿も見うけられた。そこに女たちの姿が多かったということが、かれらの心をいっそう悲壮なものにしていたであろう。
 かれらは日本の国難を救う、”民族の華”として称揚された。東条英機の「死して悠久の大義に生きよ」の叫びや、「天地正大の気、粋然として神州に鍾(アツ)まる」との藤田東湖の詩による訓示、文相の和歌の朗詠などがおこなわれ、”防人”のつもりの学徒を、葉隠れ武士の”出陣”の儀式に凝して壮行するという、まさに国をあげての日本浪漫派ぶりの演出であった。

 1943年、その年は、日本軍の南方撤退からはじまって、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、日本軍のアッツ島での全滅、イタリアの降伏と、戦局は日ごとに悪化していた。そのため東条内閣は、不足した飛行要員の補充に、速成のきく大学生の動員を考え、九月二十二日、文化系学生の徴兵猶予を停止し、十二月一日をもっていっせいに入隊することを命じたのである。
 当時、東大文学部に入学したばかりの私には、これは青天の霹靂(ヘキレキ)であった。自分の人生が突如大ナタをふるって断ち切られた想いであり、その先には「死」しか見あたらなかった。私たちはまだ、はたちになったか、ならないかの少年なのに、もう老人のように”末期(マツゴ)の眼”で自分自身や周囲を見まわすようになっていた。翌年戦死した、ある法学部の戦友はこう語っている。
「一体私は陛下のために銃をとるのだろうか。あるいは祖国のために、又は肉親のために、つねに私の故郷であった日本の自然のために、銃をとるのであろうか。だがいまの私には、これらのために自己の死を賭するという事が解決されないのだ」と。
 この心の解決の問題が当時の学生たちを最も苦しめていた。この解決を求めて私たちは学び、もだえたのである。

 学徒出陣壮行会が行われる数日前、私は東大文学部の階段教室で、平泉澄教授の日本思想史の最終講義を聞いた。そのとき平泉澄が教壇で短刀を抜き放って、「国をおもひ眠られぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣(ツルギ)かな」と誦じ、終わって「しばらくお別れです」「いや永遠にお別れです」といって出てゆかれたのには、驚き、あきれた。私はまるで芝居を見ているような錯覚におちいっていた。そのあと、学生たちが何の反応も示さず、静かに何事もなかったかのように退席していったことが、いっそうの”演出”の印象をあざやかに記憶させてくれたのであろう。
 二十五年ぶりで、偶然、私はその同じ教壇に立ってみて、無期限スト中のだれもいない教室の空席を見回したとき、そこかしこの席にいたはずの帰らなかった友人たちの顔を想い浮かべて、感慨のあふれるのをおさえがたかった。あのときいっしょに入学した文学部四百余名の学友の約半数は、ついに卒業することができなかったのである。
 出征前にあわただしく結婚して、レイテ沖で死んだA君の未亡人は、いま四十代のなかばを越えて、どこでどのように生きているのだろう。ある学友は、海兵団への入団前夜、「僕と貴女とのことは神をのぞいて誰も知らないでしょう。それでよかった。それでこんなにも美しく悲しい想い出となることができたのです。……さようなら僕のローズ・マリー、ああもう永遠に逢うことはできないでしょう」と書き残している。

 若者は愛に飢えている。美にもろい。この特性を利用して、支配の意図を遂げようとする政治家は残酷である。それに力を貸す詩人や思想家も許しがたい。私はいまでも、あの時代をおおっていた一種名状しがたい悲痛な陶酔感といったもの、悲壮美といったものをありありと想い浮かべることができる。なにかといえば民族の危機を誇張し、民族の伝統や運命的な一体感を強調して、冷酷な殺し合いのための近代軍隊への入隊を”防人”の別れや、詩的な中世武士の”出陣”として幻覚させ、進んで若者を”死地におもむかしめた”人びとのことを想い浮かべる。
 
 その人びとはいまなお生きていて指導者の座にすわり、活発な発言をしているが、私はその人びとの罪は”万死に値する”と思う。非常の事態に国家が若者をどのようにあつかうか。どのように美的な演出が仕組まれるか、そして深く心情をまでとらえようとするかを、私たちは自己の体験を通して戦争を知らぬ世代に訴えたい。
 君たちのある者は、私たちより生き甲斐のない時代に生まれたと嘆いているかもしれない。しかし、その”生き甲斐”とは何か。いまでも私たちは、心の暗い海原で”死んでも死にきれない”霊の声を聞いているのだ。
「おれたちはなんのために死んだ? 大東亜の建設、日本の隆昌を信じて死んだ。その大東亜の建設が成らなかったらどうなるのだ。死んでも死にきれないではないか」(『きけわだつみのこえ』)
 大東亜の建設どころか、なんの罪もないアジアの民を数千万も殺して、平和の破壊者、虐殺者としての罪業を負った。「おれたちはなんとために死んだのだ!」
 その若い死霊の叫びが二十五年後の今日、もう全く君たちの魂に訴えるものをもたないとしたら、戦後の日本の歴史が虚妄であったのか、それとも君たちが成長しすぎてしまったのか。”繁栄”の中にある君たちのまえに私は疑問を投げかけたい。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       Ⅱ 超国家主義者・平泉澄と「皇国史観」
三、初期著作物の検討

 ・・・
 誤解がないように一言すれば、筆者は平泉の優れた実証能力まで否定してしまおうというのではない。平泉の歴史学には幅広いしかも力強い実証主義的手法と、狭隘な神秘主義・精神主義とが初期の段階から同居している点を強調したいのである。平泉の後年の矯激な言動との関連で注目される初期の述作では、1925年2月に発表された「『文化人類学』を読む」がある。これは早大教授西村真次『文化人類学』に対する書評であるが、西村が史学と人類学との融合接近を説くのに対し、平泉は二種の学問の混同として斥け、次のようにいう。

 試みに一つの点をあげて史学が人類学と截然として相違するを明示しやう。例はエスキモーでもいい台湾の生蕃でもいい。彼等は人である。それ故に人類学の対象になり得る。(中略)しかしながら彼等は今日のところ未だ嘗て歴史をもたざる人類である。歴史に目ざめず、従って未だ歴史の光に浴せざる人類である。(中略)しかもそれは山河鳥獣が何かの機縁によって文化人の歴史にあらはるると全然同じ性質のものである。いかんとするも彼らは歴史なき人種であり、史学の主題となるを得ざるものである。

 このように平泉は人類・民族を二つに大別し、片方を”歴史なき人種”として差別し蔑視し、次のように極論するのである。

 かくの如き野蛮人には、過去もなく将来もない。今日に生き、刹那に生きる。明かに歴史はない。それは猶犬や雀に歴史がないのと同じであらう。

 この平泉の民族(人種)差別感は、中村吉治が1928年に卒論題目を平泉に相談したとき投げ返された「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」なる暴論と同じ根をもつものであろう。北山茂夫が1934年、平泉の自宅において「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」と申し渡されたのも同様である。平泉の根深い大衆蔑視、人種差別は一貫しているといえよう。
 ・・・
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第五章 本土決戦と松代大本営

 学徒出陣と教室風景
昭和十七年六月のミッドウェー海戦、十八年二月のガダルカナル撤退はいずれも惨憺の一語に尽きよう。ヨーロッパでもこの二月には、スターリングラードの独軍が殲滅され、枢軸側の敗勢は覆うべくもない。こうした背景のもとで実施されたのが昭和十八年十二月二日の学生、生徒の徴兵猶予停止の緊急勅令だった。文化系学生の一斉入営のことで、世にいう「学徒出陣」である。およそ十三万人の学徒兵が陸海軍に送り込まれた。
 ところで、この「学徒出陣」に関連した色川大吉氏の文章が問題にされている。その文章は、先に私も氏の『歴史家の嘘と夢』から引用しているが、同趣旨なので、ここでは氏の『ある昭和史』から引用することとする。

 十一月の送別講義のときであったと思う。文学部長の今井登志喜教授(西洋史)が「前途ある若き諸君を、今痛恨の思いをもって戦場に送る。今回の政府の措置は、まさに千載の痛恨事とせねばならぬ。願わくは諸君、命を大切に、生きてふたたびこの教室に会せんことを」と涙とともに訴えられた。また、同じ文学部の平泉澄教授(国史)は、教壇で短刀を抜きはなち、「国を想ひ眠られぬ夜の霜の色、ともしび寄せて見る剣かな」と誦し、淡々たる調子で「お別れです、永遠にお別れです」とつぶやいて去った。(色川大吉『ある昭和史』)
 ・・・
次に問題としたのは平泉教授の態度だが、今井教授にくらべていかにも冷淡な態度を暗示しており、それが平泉澄という人間像に不信感をいだかせるものだと非難しているのである。
 そこで、教室における平泉教授の生態を、色川氏の別の文章からも取上げて見よう。

 平泉教授は、日に十数回も手を洗う潔癖家で(話によると手先でミソギをしているつもりなのだそうだ)、痩身のひどく神経質そうな、冷たい感じをあたえる人間だった。教室に懐剣をもってやってきて、北畠親房だとか尊壌派の志士などの話ばかりして(いま思えば内容のない、まことにいいかげんな講義だった)、中途でキラリと抜いてみせ、「国を想いねられぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣かな」などと誦してみせたりした。
 「ホホウ、コレガトーキョー大学ノコーギトイウモノカ」と頬杖などついて感心していると、「無礼者!師に対してなんたる態度」と、チョークの箱が飛んでくる。
 ある演習(今のゼミ)の日のこと。「古事記を読んでどう思うか」と聞かれたから、「面白いと思います」と答えたところ、「なに!古事記を読んで面白いとは何事です・・・・・古事記は畏れ多くも文武天皇のおんみことのりとして・・・・」と怒られる。
 私たち二、三の学生は、「退席せよ」といわれるまでもなく、するどい沈黙の中を、ゆっくりとドアをあけて出ていった。(色川大吉『明治の精神』)

 かなり長い引用になったが、教授の人柄や教室の雰囲気がリアルに描かれていると思われるからである。
 そこでも見られるように、平泉教授の言動に暖かいものがあるとは思えない。ことに引っかかるのは『古事記』に対する接し方で、「面白いとは何事です」という一喝である。近代思想の洗礼を受け、知識欲に燃える青年学徒にとって、「面白い」とは言い得て妙である。「ご名答!」と言いたいところである。平泉教授の言葉として文武天皇とあるが、天武天皇の誤りだろう。また「おんみことのりとして」の後には「勅撰された古典」と続くのだろうが、学者としての硬直ぶりには呆れるほかない。

 戦時下とはいえ、その学問的レベルの低俗さに、呆れるほかない。『古事記』こそは、宇宙開闢から推古朝までの、まさに古代の物語りなのである。色川氏の取り上げた教室風景にも優って、それが「面白い」のは確かである。

 教室風景をもう一つ紹介するが、林勉という学徒のばあいである。

 忘れられない平泉教授の演習。「古事記はおもしろい」と答え、叱られて出て行った者もあった。「大日本史の三大特筆は?」と尋ねられた。第一南朝正統、第二に神功を除き弘文を入れたことをいっしょにした。第三に歴史を神武から始めた科学性、といったら、一喝された。次の時間から出なかった。戦後もらった成績表ではこれだけ「丙」だった。複雑な感情だった。(東大十八史会編『学徒出陣の記録』)
 「科学性」がお嫌いなところ、平泉教授の面目躍如たるものがある。これでは心ある学徒の信頼をつなぐことは難しかろう。

ーーーーーーーーーーーー「国体の本義」 文部省1937年(昭和12年) 一部ーーーーーーーーーーーーー

 1935年(昭和10年)2月の帝国議会で、美濃部達吉の天皇機関説が問題として取り上げられたのを受けて、文部省は「国体ノ本義」にそって、任務を達成するよう全国の教育機関に通達を出しています。そして、8月には岡田啓介内閣の松田源治文相が「国体明徴に関する声明」を発表しています。ところが、美濃部達吉の天皇機関説が「国体ノ本義ヲ愆(アヤマ)ル」ものであることを明らかにするだけでは不十分だとする軍部の要求によって、天皇機関説の「芟除」を盛り込んだ「第二次国体明徴声明」が発表され、その具体化のために「教学刷新評議会」が設置されました。そうした中で、「国体ノ本義」の編纂が行われていったのです。

 「昭和教育史 上」久保義三(三一書房)を読むと、この「国体ノ本義」の編纂にあたって、文部省は、多くの学者・研究者に編纂委員を委嘱し、また、学校教育の現場にある人々からも要望意見を聴取するなどして、かなり大掛かりで丁寧な作業をしたことが分かります。それは、編纂手続きそのものにもあらわれており、まず、「『国体の本義』内容(考)草案」を起草、それが検討され「『国体の本義』要項」となり、次に「『国体の本義』要綱」となり、さらに検討が重ねられて「『国体の本義』要綱草案」となって、編纂委員会に提示されていったということです。編纂委員からは、その都度細部にわたって個別に様々な発言・意見があり、また文書も寄せられ、それらを踏まえながら「国体ノ本義」編纂作業が進められていったようです。
 編纂委員の一人であった和辻哲郎は、次のような書翰を送ったことがあったといいます。

拝啓 国体の本義要綱草案に意見・記入御送附申し上ぐべきの処、簡単には記入致し難き問題多々有之、一切差控候 要はこれらの項目を如何に論述するかに有之、その仕方如何によって先日の会議に於て
御説明の目的を全然果し得ざるものとなる恐れ有之と存候、特に国体の概念の根本的規定等に於て現代のインテリゲンチャを納得せしめる様論述し得るか否かは相当重大なる問題と存候、この点特に御配慮願上候
                                  和辻哲郎 
  小川義章殿

 和辻哲郎が「国体の概念の根本的規定等に於て現代のインテリゲンチャを納得せしめる様論述し得るか否か」と問題にしたのは、具体的には、当時すでに津田左右吉が、『記・紀』の神代の物語には、天皇の地位の正当性を説明するため、多くの作為が含まれていることを明らかにしているので、そうした批判に堪えられる論述ができるかどうか、ということだったようです。でも、大掛かりで丁寧に進められた「国体の本義」の編纂も、和辻哲郎が指摘した重大問題は避けて進められ、津田左右吉の『神代史の研究』や『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』などの研究書は、美濃部達吉の著書同様、その後発禁処分となっているのです。
 私は、「国体ノ本義」編纂の関係者が、津田左右吉の学問的業績に対処できないので、それを無視するかたちで編纂を進めたことが、戦時における皇国日本の狂信性を生んだ側面があるのではないかと思います。
 
 しかしながら、元外交官で作家の佐藤優氏が、そんな「国体ノ本義」のテキストを高く評価し、「国体ノ本義」の考え方で、再び日本の社会と国家を強化しようと主張されていることに驚きました。「日本国家の神髄 ~禁書『国体の本義』を読み解く~」佐藤優(扶桑社新書 175)の新書版まえがきに次のようにあります。

 ”…大東亜戦争後、GHQ(占領軍司令部)によって禁書に指定された『国体の本義』は、天皇機関説批判、国体明徴運動を体現する非合理的で神憑り的なテキストであるという印象だけが独り歩きしている。しかし、このテキストを虚心坦懐に読めば、明治維新以降、急速に流入した西洋の思想をわれわれが消化し、土着化させるというテーマを掘り下げていることがわかる。<私は『国体の本義』の読み解きを通じて、読者を高天原に誘いたいと考えている。その意味で、本書は、アカデミックな研究と本質において性格を異にする。南北朝の動乱において、南朝の忠臣北畠親房卿が『神皇正統記』を著し、「大日本者神国也(オオヤマトハ「カミノクニナリ)」というわが国体を、復古の精神によって再発見した作業を私なりの言葉で反復しているのである。日本人にとって重要な教育は、われわれの根源、すなわち神の道を探求することである。その根源に欠けた形で、量的に知識を詰め込んでも、それが日本人の血となり、肉となることはないのである。>”

 私は、「本書は、アカデミックな研究と本質において性格を異にする」とあらかじめ断ることによって、アカデミックな研究を無視する「神話に基づく歴史」を若い人たちに教え込もうとしておられるように思います。優越感に訴え、選民意識を持たせることによって、日本社会や国家を強化しようとするものではないか、と恐れるのです。
 下記は、「国体の本義」(文部省)から、その一部を抜粋しましたが、「一、肇国」はあくまでも神話であり、これを史実とすることができるとは思えません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 緒言 ・・・略
                                第一 大日本国体
一、肇国 
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
 我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊瓊杵ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる。即ち古事記には、
 天地(アメつチ)の初発(ハジメ)の時高天原(タカマノハラ)に成りませる神の名(ミナ)は、天之御中主(アメノミナカヌシ)ノ神、次に高御産巣日ノ神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日(カミムスヒ)ノ神、この三柱の神はみな独神(ヒトリカミ)成りまして身(ミミ)を隠したまひき。
とあり、又日本書紀には、
天(アメ)先づ成りて地(つチ)後に定まる。然して後神聖(カミ)其の中に生(ア)れます。故(カ)れ曰く開闢之初洲壌(アメツチノワカルルハジメクニツチ)浮かれ漂へること譬へば猶游ぶ魚の水の上に浮けるがごとし。その時天地の中に一物(ヒトツノモノ)生(ナ)れり。状(カタチ)葦牙(アシケビ)の如し。便ち化為(ナ)りませる神を国常立(クニノトコタチ)ノ尊と号(マヲ)す。
とある。かゝる語事(カタリゴト)、伝承は古来の国家的信念であつて、我が国は、かゝる悠久なるところにその源を発してゐる。
 而して国常立(クニノトコタチ)ノ尊を初とする神代七代の終に、伊弉諾(イザナギ)ノ尊・伊弉冉(イザナミ)ノ尊二柱の神が成りましたのである。古事記によれば、二尊は天つ神諸々の命(ミコト)もちて、漂へる国の修理固成の大業を成就し給うた。即ち
 是に天つ神諸々の命(ミコト)以(モ)ちて伊邪那岐ノ命・伊邪那美ノ命二柱の神に、この漂へる国を修理(ツクリ)固成(カタメナ)せと詔(ノ)りごちて天の沼矛(ヌボコ)を賜ひてことよさしたまひき。
とある。かくて伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊は、先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、更にこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた。即ち古事記には、
 此の時伊邪那岐ノ命大(イタ)く歓喜(ヨロコ)ばして詔(ノ)りたまはく、吾(アレ)は子(ミコ)生み生みて生みの終(ハテ)に三貴子(ミハシラノウヅノミコ)得たりと詔りたまひて、即ち其の御頸珠(ミクビタマ)の玉の緒(ヲ)もゆらに取りゆらかして、天照大神に賜ひて詔りたまはく、汝(ナ)が命は高天原を知らせと、ことよさして賜ひき。
とあり、又日本書紀には
 伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊共に議(ハカリ)て曰(ノタマハ)く、吾(ア)れ巳に大八洲及び山川草木を生めり、何(イカ)にぞ天下(アメノシタ)の主(キミ)たるべき者(カミ)を生まざらめやと。是に共に日神(ヒノカミ)を生みまつります。大日孁貴(オオヒルメノムチ)と号(マヲ)す(一書に云く、天照大神一書に云く、天照大日孁ノ尊)。此の子(ミコ)光華明彩(ヒカリウルハ)しくして六合(アメツチ)の内に照徹(テリトホ)らせり。
とある。
 天照大神は日神又は大日孁貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御陵威は広大無辺であつて、万物を化育せられる。即ち天照大神は高天ノ原の神々を始め、二尊の生ませられた国土を愛護し、群品を撫育し、生成発展せしめ給ふのである。
 天照大神は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇国の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壤と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
 ・・・(以下略)

 二、聖徳 ・・・略
 
 三、臣節
 我等は既に広大無辺の聖徳を仰ぎ奉つた。この御仁慈の聖徳の光被するところ、臣民の道は自ら明らかなものがある。臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊(ニニギノミコト)の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕え奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

 我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民とは全くその本性を異にしている。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を誤り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。各々独立した個々の人間の集合である人民が、君主と対立し君主を擁立する如き場合に於ては、君主と人民の間には、これを一体ならしめる深い根源は存在しない。然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることはできない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれにこれに基づく。

 我が国は天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民すべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心として奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御陵威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。天皇と臣民との関係は、固より権力服従の人為的関係ではなく、また封建道徳に於ける主従の関係の如きものでもない。それは分を通じて本源に立ち、分を全うして本源を顕すのである。天皇と臣民との関係を、単に支配服従・権利義務の如き相対的関係と解する思想は、個人主義的思考に立脚して、すべてのものを対等な人格関係と見る合理主義的考へ方である。個人は、発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。

 我が国にあつては、伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊は自然と神々との祖神であり、天皇は二尊より生まれました皇祖の神裔であらせられる。皇祖と天皇とは御親子の関係にあらせられ、天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。この関係は、合理的義務的関係よりも更に根本的な本質関係であつて、こゝに忠の道の生ずる根拠がある。個人主義的人格関係からいへば、我が国の君臣の関係は、没人格的の関係と見えるであらう。併しそれは個人を至上とし、個人の思考を中心とした考、個人的抽象意識より生ずる誤りに外ならぬ。我が臣民の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失はないところの没我帰一の関係である。それは、個人主義的な考へ方を以てしては決して理解することの出来ないものである。我が国に於ては、肇国以来この大道が自ら発展してゐるのであつて、その臣民に於て現れた最も根源的なものが即ち忠の道である。こゝに忠の深遠な意義と尊き価値とが存する。近時、西洋の個人主義的思想の影響を受け、個人を本位とする考へ方が旺盛となつた。したがつてこれとその本質を異にする我が忠の道の本旨は必ずしも徹底してゐない。即ち現時我が国に於て忠を説き、愛国を説くのも、西洋の個人主義・合理主義に累せられ、動もすれば真の意味を逸してゐる。私を立て、我に執し、個人に執著するがために生ずる精神の汚濁、知識の陰翳を祓ひ去つて、よく我等臣民本来の清明な心境に立ち返り、以て忠の大義を体認しなければならぬ。
 ・・・(以下略)

 四、和と「まこと」 ・・・略

第二 国史に於ける国体の顕現
 一、国史を一貫する精神
 国史は、肇国の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退転の歴史である。歴史には、時代の変化推移と共にこれを一貫する精神が存する。我が歴史には、肇国の精神が厳然として存してゐて、それが弥々明らかにせられて行くのであるから、国史の発展は即ち肇国の精神の展開であり、永遠の生命の創造発展となつてゐる。然るに他の国家にあつては、革命や滅亡によつて国家の命脈は断たれ、建国の精神は中断消滅し、別の国家の歴史が発生する。それ故、建国の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存続するが如きことはない。従つて他の国家に於て歴史を貫くものを求める場合には、抽象的な理性の一般法則の如きものを立てるより外に道がない。これ、西洋に於ける歴史観が国家を超越して論ぜられてゐる所以である。我が国に於ては、肇国の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては理解せられない。北畠親房は、我が皇統の万邦無比なることを道破して、

 大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき日神ながく統を伝へ給ふ。我が国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。

と神皇正統記の冒頭に述べている。国史に於ては維新をみることが出来るが、革命は絶対になく、肇国の精神は、国史を貫いて連綿として今日に至り、而して更に明日を起す力となつてゐる。それ故我が国に於ては、国史は国体と始終し、国体の自己表現である。
 ・・・(以下略) 

 二、国土と国民生活 ・・・略
 三、国民性 ・・・略
 四、祭祀と道徳 ・・・略
 五、国民文化 ・・・略
 六、政治・経済・軍事
 ・・・
 我が憲法に祖述せられてある皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、万世一系の天皇の大御心であり、八百万ノ神の念願であると共に、一切国民の願である。
従つて知ると知らざるとに拘らず、現実に存在し規律する命法である。それは独り将来に向つての規範たるのみならず、肇国以来の一大事実である。憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、これを昭示し給うたものであり、第二条は皇位継承の資格並びに順位を昭かにし給ひ、第四条前半は元首・統治権等、明治維新以来採択せられた新しき概念を以て、第一条を更に紹術し給うたものである。天皇は統治権の主体であらせられるのであつて、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関にすぎないといふ説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神(アマツミカミ)として肇国以来の大義に随つて、この国をしろしめし給ふのであつて、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。
 尚、帝国憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政体法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英国流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは、肇国以来万世一系の天皇の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。

 帝国憲法の政体法の一切は、この御親政の原則の拡充紹術に外ならぬ。例へば臣民権利義務の規定の如きも、西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫滋養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大御心より出づるのである。政府・裁判所・議会の鼎立の如きも、外国に於ける三権分立の如くに、統治者の権力を掣肘せんがために、その統治権者より司法権と立法権とを奪ひ、行政権のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が国に於ては、分立は統治権者の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を弥々確実ならしめんとするものである。
議会の如きも、所謂民主国に於ては、名義上の主権者たる人民の代表機関であり、又君民共治の所謂
君主国に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機関である。我が帝国議会は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、国民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。
 我が国の法は、すべてこの典憲を基礎として成立する。個々の法典法規としては、直接御親政によつて定まるものもあれば、天皇の御委任によつてせいていせられるものもある。併しいづれも天皇の御陵威に淵源せざるものはないのである。その内容についても、これを具体化する分野及びその程度には、種々の品位階次の相違はあるが、結局に於ては、御祖訓紹術のみことのりたる典憲の具体化ならぬはない。従つて万法は天皇の御陵威に帰する。それ故に我が国の法は、すべて我が国体の表現である。
 ・・・
 我が国体の顕現は、軍事についても全く同様である。古来我が国に於ては、神の御魂を和魂(ニギミタマ)・荒魂(アラミタマ)に分かつてゐる。この両面の働の相協ふところ、万物は各々そのところに安んずると共に、弥々生成発展する。而して荒魂は、和魂と離れずして一体の働をなすものである。この働によつて天皇の御陵威にまつろはぬものを「ことむけやはす」ところに皇軍の使命があり、所謂神武とも称すべき尊き武の道がある。明治天皇の詔には「祖宗以来尚武ノ国体」と仰せられてある。天皇は明治六年徴兵令を布かせられ、国民皆兵の実を挙げさせ給ひ、同十五年一月四日には、陸海軍人に勅諭を賜つて、
 我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある。
と仰せ出され、又、
 朕は汝等軍人の大元帥そされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きて…。
 ・・・(以下略)

 結語・・・略 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー史実と神話 津田左右吉ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 しばらく前、国有地払い下げ問題で世間を騒がせた森友学園では、運営する塚本幼稚園で、園児に教育勅語を朗読させていました。その教育勅語について、稲田朋美前防衛大臣が、「教育勅語の核の部分は取り戻すべきだ」と発言したことも、物議を醸しました。

 さらに、その後、松野前文部科学大臣も「憲法や教育基本法に反しないように配慮して授業に活用することは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものであり、教師に一定の裁量が認められるのは当然」と発言し、さらに安倍政権が「勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定するに至りました。
 
私はそこに、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ…」(教育勅語)という神話に基づく「皇国」の日本を取り戻そうとする動きのようなものを感じます。
 そして、それは「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書における神話の扱いなどにも、現れているのではないかと思います。
 「新しい歴史教科書 市販本」(扶桑社)では、「⑥古墳の広まりと大和朝廷」の後に、「神武天皇の東征伝承」があり、その後に「⑦大和朝廷の外交政策」があります。また、「第3節 律令国家の成立、⑧聖徳太子の新政」、の前に「日本武尊と弟橘媛ー国内統一に献身した勇者の物語」が2ページにわたって入っています。そして、「⑫日本語の成立」の後には、コラムではなく「⑬日本の神話」として4ページわたって、古事記のいわゆる「肇国」に関する記述があります。意図的に神話が史実とつながるように配置されているような気がします。神話を神話としてまとめて取り上げるのではなく、あえて史実の間に挟んで取り上げると、子どもたちは史実と神話を峻別することが難しくて、混同するのではないでしょうか。

 「歴史教科書を格付けする」藤岡信勝編(徳間書店)には、資料1のような、とても気になる文章がありました。「国のおこり」は、神話によって感動的に物語られなければならないというのです。そして、象徴天皇や建国記念の日の意味などに思いをいたすことができるようにしなければならないというのです。再び津田左右吉の著書を発禁処分にしようとするのではないか、と思われるような主張です。

 また、神話を史実と結びつけるためでしょうが、新しい歴史教科書をつくる会の初代会長・西尾幹二氏は「すべての歴史は神話である」などと主張しています。

 『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる津田左右吉は、1940年、その著書『古事記及び日本書紀の研究』や『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』を発禁処分とされ、禁固刑の判決を下されています。でも、神話に関する 津田左右吉の指摘は、極めて科学的かつ論理的で、誰もが納得できるものではないかと思います。
 資料2は、「津田左右吉歴史論集」今井修編(岩波文庫33-140-9)から抜粋しました。
資料1-------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                第1章 無感動な日本の始まりー国土の統一と神話  
                                                                    斉藤武夫
1 「日本の建国」を教えない教科書
 ・・・
 「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て」(学習指導要領・第2章各教科・第2節社会・第1目標)るために、日本建国の歴史が重要であることはいうまでもない。今ここに生きて自分の国があることのありがたさがわかれば、その始まりに感動をもって物語るのは当然のことである。
 ・・・
 しかし、各社の教科書には、大和朝廷による国土の統一を「国のおこり」として印象深く伝えようという自覚がほとんど見られないのである。

 大和朝廷と渡来人のかつやく
 この巨大な古墳がつくられた4世紀から5世紀ごろ、大和・河内地方に勢いの強いくにができ、ほかのくにの王をしたがえながら、日本の国を統一しはじめました。その中心となった人物は、大王(オオキミ)(のちの天皇)とよばれ、大王のもとに、各地の王を政府の役人とする政治の仕組みが、しだいにととのえられていきました。この政府を、大和朝廷(大和王権)といいます。

 まことに素っ気ない記述である。「国のおこり」のような、建国を示唆する表現も皆無である。神武天皇や崇神天皇といった建国神話・伝承の英雄もいっさい登場していない。これでは現在の象徴天皇がここに始まることや、建国記念の日の意味などに思いをいたすことなどありえないといっていいだろう。国の誕生を心躍るできごととして学ぶことはできないのである。 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                             神代史の研究方法
  一 
 今日に伝わっている我が国の最古の史籍たる『古事記』と『日本書紀』の巻頭にはいわゆる神代の巻という部分がある。『古事記』は和銅五年(712A.D.)『日本書紀』は養老四年(720A.D.)に出来たもので、何れも八世紀に入ってからの編纂であるが、神代の巻などは、もっと古くから伝えられていた材料によったものである。ここにその詳しいことを書いている遑(イトマ)はないが、その材料は遅くとも六世紀には一と通り出来上がっていたらしい。さてその神代の巻は我が国の開闢以来の話だといわれ、そうしてそれが我が国の最古の史籍であるというためか、とかく世間ではそれに、我々の民族もしくは人種の由来などが説いてあると思い、従って神代の巻の記事を強いてそういう意味に解釈しようとする癖があるらしい。例えば高天原ということがあると、それは日本民族もしくはその要素をなしているものの古郷たる海外の何処かであると考え、天孫降臨ということがあると、それはその民族がいわゆる高天原の古郷から日本のどこかへ移住して来たことだと説き、そういう考えから天孫人種とか天孫民族とかいう名称さえ作られている。あるいは出雲の大国主神がその国を天孫に献上せられたという話があるところから、天孫民族に対して出雲民族というものがあったようにいう。そうして、そういうような考え方をもっと他にも及ぼし、土蜘蛛という名が上代の物語に出てくると、それは穴居をしていた異民族の名であるように説く人もある。何でも我が国の昔には種々雑多の異人種・異民族がいたように考えられている。

 それからまた民族や人種の問題とは少しく趣がちがうが、神代の物語を一々事実に引きなおして解釈することが行われている。海神(ワタツミ)の宮の話があると、それはどこかの地方的勢力、または、海中の島国のことであると考える。八股蛇(ヤマタノオロチ)の物語があるとそれは賊軍を征服せられたことだという。あるいは黄泉国(ヨミノクニ)という名が出ると、それは出雲国のことだと説く。あるいはまた八咫烏(ヤタガラス)が皇軍の道しるべをしたとあると、その八咫烏は人の名であると解釈する。伊弉諾・伊弉冉二神が大八島を生まれたという話は政治的に日本国を統治せられたことだという。要するに神々の物語は悉く歴史的事実たる人間の行為であって、畢竟神は人であるというのである。

 しかし、神代巻の本文を読むと、そんなことは少しも書いてない。天照大神は高天原にいられるとある。神々が高天原に上ったり高天原から下ったりせられるとある。けれども日本人種・日本民族が海外の故郷から日本に移住したとか、その故郷へ往来したとかいうようなことは何処にも書いてない。出雲の神の話はあるが、出雲の地方に別種の民族がいたとは何処にも記してない。あるいはまた海の底の海神の宮の話はあるが、それが海上の島国であるとは何処にも書いてない。本文をよめば八股蛇はどこまでも蛇であり、八咫烏はどこまでも烏であって、少しも人間らしい様子はない。然るに世間で上に述べたような解釈をしているのは甚だ不思議の至りである。これは何故であろうか。

 他でもない。神代の巻の種々の物語に我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多いからである。この不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとするから、上記のような説が出るのである。天上に世界があったり、そこと往来したりするのは、事実としてあるべからざることである。海の底に人の住むところのあるのもまたあるべからざる話である。けれども神代の巻にそういう話がある以上は、それに何かの事実が含まれていなければならぬ。と、こう考えたために、表面の話は不合理であるが、裏面に合理的な事実があるものと億断し、神代の巻が我が国のはじめを説いているというところから、それを日本民族の由来を記したものと考え、あるいは国家の創業に関する政事的経路の事実を述べたものと説くようになったのである。そうしてこの思想の根底には一種の浅薄なRationalism が伏在する。すべて価値あるものは合理的なもの、事実を認められるものでなくてはならぬ。然らざるものは荒唐不稽の談である。世にはお伽噺(オトギバナシ)というものがある。猿や兎がものをいったり桃から子供が生まれたりする。事実としてあるべからざる虚偽の談である。それは愚人小児の喜ぶところであっても、大人君子の見て陋(ロウ)とするところのものである。然るに崇厳なる神典にはかかる荒唐不稽の談のあることを許さぬ。だから、それには不合理の語を以て蔽(オオ)われている合理的の事柄がなくてはならぬ。こういう論理が存在するのである。

 然らば合理的の事実が如何にして不合理の物語として現われているかというと、一つの解釈は、それは譬喩だというのである。昔の新井白石の取ったところがそれであって、彼はその譬喩の言から真実の意味を見出そうとして神は人なりという仮定説を捻出し来(キタ)ったのである。それから今一つの解釈は、事実の物語が伝誦の間におのずからかかる色彩を帯びて来た、一口にいうと伝説化せられたというのであって、今日ではこういう考を有っている人が多いようである。しかし何故に事実をありのままに語らないで故(イタズ)らに譬喩の言を以て不合理な物語としたのであるか。これは白石一流の思想では解釈し難き問題である。また神代の巻物語、事実の伝説化せられたものとして、すべてが解釈せられるかどうか、例えば葦芽の如く萌えあがるものによって神がうまれたとあり、最初に天の御中主の神の如きがあるというようなことは、如何なる事実の伝説化せられたものであるか、というと、それは何とも説かれていない。しかしそれだけは事実の基礎がないというのならば、何故に他の物語に限って事実があるというのか。甚だ不徹底な考え方である。そうして譬喩であるというにしても、伝説化であるというにしても、その譬喩、その伝説が不合理な形において現れているとすれば、少なくとも人間の思想においてそういう不合理なことが現われること、あるいはそういう心理が人間に存することを許さなければならぬが、それならば、何故に不合理な話を不合理な話として許すことが出来ないのか。こう考えてくると、この種の浅薄なるRationalism が自家矛盾によって自滅しなければならぬことがわかろう。

  二
 こういう考え方に反して昔の本居宣長は神代の巻の話をそのまま文字通りに事実だと信じた。人間の浅智から見れば不合理であるが、神は人智を以て測るべからざるもの、神の代は人の代ではないから、天上に世界があっても、海底に宮殿があっても、神が島を生まれても、草や木がものをいっても、それは事実であったというのである。けれども、こういう考が今人の賛同し難きところであることはいうまでもない。そうして宣長は神代の巻の物語をそのまま事実と見、白石などはその裏面に事実があると見た違(チガイ)はあるが、何れも事実をそこに認めようとしたことは同じである。が、何故に不合理な、事実らしくない話を強いて合理的に解釈してそれを事実と見、あるいはそこに何らかの事実を索(モト)めなければならぬのか。一体、人間は不合理なこと事実でないことを語らぬものであろうか。広い世界を見渡して、多くの民族、多くの国民に民間説話があり神話があることを知るものは何人も然りとはいうまい。然らば我々は如何様にそれを取扱うべきであろうか。

 別にむずかしいことでもない。第一に、人の思想は文化の発達の程度によって決して一様でない。上代人の思想と今人の思想との間には大なる逕庭(ケイテイ)があってそれはあたかも今日の小児の心理と大人との間に差異があると同じことである。民間説話などはそういう上代の思想によって作られたものであるから、今日の思想から見れば不合理なことが多いが、しかし上代人の心理においてはそれが合理的と考えられていた。鳥や獣や草や木がものをいうというのは、今日のひとに取っては極めて不合理であるが、上代人の心理には合理であったのである。けれどもそれは上代人の心理上の事実であって、実際上の事実ではない。上代でも草や木が物をいう事実はあり得ない。ただ上代人がそう思っていたということが事実である。だから我々はそういう話をきいて、そこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうして如何なる心理においてそういう観念が生じたかを研究すべきである。然るにそれを考えずして草木のものをいうとある民衆の騒擾(ソウジョウ)することだというように解釈するのは、上代人の心理を知らないため、強いて今人の思想でそれを合理的に取り扱おうとするのであって、上代人の思想から生まれた物語を正当に理解する所以ではあるまい。

 第二に、人の思想はその時代の風習、社会上の種々状態によって作り出される。従ってそういう風習、そういう状態のなくなった後世において、上代の思想、またその思想から作り出された物語を見ると、不思議に思われ、不合理と考えられる。蛇が毎年処女をとりに来るという話がある。処女を犠牲として神に供えるという風習のなくなった時代または民族から見ると、この話は了解し難いが、それが行われていた社会の話として見れば別に不思議はない。だから我々は歴史の伝わっていない悠遠なる昔の風習や社会状態を研究し、それによって古い物語の精神を理解すべきである。我が神代の巻にも、その神代の巻が記述せられた時代には既になくなっている風俗が実際存在していた遠い昔に作られた話が伝わっていて、それが神代の巻に現れているということも有り得べき事情である。ところがそれを理解しないで蛇とは異民族のことだとか賊軍だとかいうのは、全然見当ちがいの観察ではあるまいか。
 
 第三には、人智の発達した後において生じた詩的想像の産物が古い物語には少なくないことを注意しなければならぬ。神話というものには多かれ少なかれこの分子が含まれている。天上の世界とか地下の国土とかの話は、その根柢に宗教思想なども潜在しているであろうが、それが物語になって現れるのはこの種の想像の力によるのである。事実としてはあり得べからざる、日常経験から見れば不合理な、空想世界がこうして造り出されることは、後世とても同様であって、普通にロオマンスというものにはすべてこの性質がある。それを一々事実と見て高天原という天上の世界は実は海外の某地方のことだなどと考えるのが無意味であることはいうまでもなかろう。蓬莱山が熊野だとかいうような考え方もこれと同様である。何人も浦島太郎の噺(ハナシ)も竜宮を実際の土地とは考えまいが、それにもかかわらず、但馬守(タジマモリ)の行ったという常世国が南方支那だとか、神代の巻の海神の宮が琉球だとか博多地方だとか説くのは不思議である。


 以上は神話や民間説話の一々についてのことであるが、もしそういうような物語が一つの大きな組織に編み上げられている場合には、そこに何らかの意図がはたらいていることを看取しなければならぬ。支那の尭舜(ギョウシュン)から禹湯文武(ウトウブンブ)に至る長い物語は支那人の政治道徳の理想によって構成せられているから、それがために事実とは考えられないことが多く現れている。それを思わずしてあの古代史を一々事実と見ようとすれば牽強附会に陥ることはいうまでもない。我が神代の巻はそれと同様にみるべきものではないかも知らぬが、それに事実らしくない不合理なことが含まれているとすれば、我々は、その語るところに如何なる歴史的事実が潜んでいるかというよりは、寧ろそこに如何なる思想が現れているかを研究すべきではなかろうか。この思想そのものが国民の歴史に取っては重大な事実である。

 談はやや抽象的になって来たが、神代の巻を一読すれば、このことは自然にわかろう。しかし今日こういう観察を神代の巻に加えるのは、広く世界諸民族の神話や古くから伝わっている民間説話やまた上代史などの性質が我々に知られ、また近時の諸種の学術的研究によって上代人・未開人の風俗や習慣や思想や彼等の心理状態やが知られて来たからである。説話そのものにおいても、神代の巻、及びその他『古事記』や『日本書紀』に見えるものと同じような物語が、人種も全く違い、交通もなく関係もない他の多くの民族に存在することがわかっていて、そういう説話の起源や由来も西洋の学者によって種々に研究せられている。幾多の人類学者・宗教学者、おるいは心理学者によって行われた最近ニ、三十年間の研究はこの方面に大いなる進歩を促したので、日本の神代の物語を解釈するにも幾多の重要なる暗示がそれによって与えられる。彼らの説が悉く正鵠に中(アタ)っているとはいい難く、彼らの間にも種々意見を異にしている点が少なくなく、特に彼らの考察に日本とか支那とかいう東洋諸国民についての材料が乏しいために我々から見れば種々の不満足を感ずることもあるが、そもかくもその研究の方法は我々が学ばなければならぬものである。

 こう考えて来ると、昔の白石などが、上代人の心理状態を解することが出来ないために、それを強いて後世の思想で解釈しようとしたのも、不合理な話を合理的に見ようとし、事実らしくない話に事実を求めようとしたのも、無理のないことである。彼らは多分神代の巻に見えるような不思議な話は日本ばかりのことと思ったのであろう。そうしてこんな不思議な話はそのまま事実とは信ぜられないから、その裏面に何か事実が潜んでいるものと考えたのである。もとよりそれには、一種の尚古思想、一種の支那式Rationalism があるのであるが、ああいう物語が世界到るところにあることを知ったならば、もっと他に考えようもあったのであろう。

 然るに今日においてもなお彼らと同じような考を以て神代の巻を見ているもののあるのは、我が国の学界において不思議な現象といわねばならぬ。彼らは神代の物語をそのままに上代史だと考えている。けれども民族のあるいは人類の、歴史的発達において、何処に神代という時代を置くことが出来ようか。連続している歴史的発達の径路においてどこに人の代ならぬ神の代があったとすることが出来ようか。神代というものが歴史上の事実でなくして思想面の所産であることは、これだけ考えて見てもすぐにわかることではなかろうか。歴史家は神代という観念の作られたことを思想史上の一現象として取扱うべきはずであって、神代と称せられる時代が歴史的に存在したと考えることの出来ないことは、今日の学術的智識においては明白なことではなかろうか。もとより神代の巻の物語には上代の歴史的事実がいくらか絡まっているかも知れぬ。しかしその事実の事実たることを知るには、別に方法がある。

 例えば仮に日本の人種や民族の由来が神代の巻の物語に伏在していはしないかと考えて見る。ところが人種や民族の異同などが文献上の微証を有たぬ場合には、それを推知するには明(アキラカ)に科学的方法が具わっている。即ち比較解剖学・比較言語学上の研究を主とし、それを補うにその民族に特殊なる生活上の根本条件、民族心理上の諸種の現象を以てすべきである。そういう研究によって我が国の上代に種々異なった民族のあったことが証明せられ、そうしてそれによって知られた各民族の分布や範囲や盛衰興亡の状態を以て、神代の巻の何かの物語に対照し、それが互いに符合するか、無理のない比定が出来るかという場合があるならば、その時始めて神代の巻にそういう分子の含まれているという仮説が、一つの解釈法として容認せられるのである。ただここに注意すべきことは、こういう研究は全然神代の巻から離れて独立にせられねばならぬということである。人種や民族の問題でなくとも、神代の巻に歴史的事実があるかどうか考えるには、全然その物語の外に立って、それには毫末の関係なく、あるいは確実なる史料(支那の史籍がその重要なる役目をつとめる)により、あるいは後世の事実から確実に推定せられる事柄により、またあるいは純粋なる考古学上の研究の助けをかりて、それを試みねばならぬ。初から神は人なりというような臆見成心を有っていて、それによって神代の物語を改作したり、その物語と遺跡や遺物との間に曖昧な妥協的結合を試みたりするのは、決して科学的研究ということは出来ぬ。このことについては、もっと具体的に説明しなければ自分の真意を読者に伝えることが出来ないかと思うが、談が余りに長くなったから、それはまたの機会をまつことにする。

  四
 之を要するに神代の巻の研究はそれがすぐに上代史の研究ではなく、また勿論民族や人種の研究ではない。その研究の方法は何より先ずそれに含まれている物語を文字のままありのままに読みとって、その物語の意味を考うべきである。高天原はどこまでも高天原であり、神はどこまでも島を生まれたのであり、海神の宮はどこまでも海底の別世界であり、草木がものをいうならばどこまでも草木がものをいうのである。ワニは話のままにワニであり、蛇や鳥は文字通りに蛇や鳥である。神は神であって人ではなく、神代は神代であって人の代ではない。こういうように読み取って而して後はじめて真の研究に入ることが出来るのである。

 ーーーーーーーーーーーーーーーー史実と神話 津田左右吉 Ⅱーーーーーーーーーーーーーーーーー

 最近、アメリカ南部バージニア州で白人至上主義などを掲げるグループと、これに抗議するグループの衝突があり、30人余りが死傷する事件がありました。そして、トランプ大統領の記者会見での発言が波紋を呼んで、その後も様々な報道が続いています。

 白人至上主義は、人種的な、あるいはまた民族的なエリート意識や選民意識に基づくもので、私は、戦前・戦中の教育勅語や軍人勅諭、国体の本義などで示された皇国史観も、似たような意識に基づくものものではないかと思います。

 北畠親房は、「神皇正統記」の冒頭に
大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき日神ながく統を伝へ給ふ。我が国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。
と書いていますが、津田左右吉の記紀研究を踏まえると、古事記の神話に基づき「大日本は神国なり」と主張することが、北畠親房の時代ならいざ知らず、科学の進んだ現在の日本や国際社会で通用するとは思えません。にもかかわらず、神話を史実とする歴史教育を復活させようとしたり、天皇を「現人神」とした皇国史観に基づく諸政策を擁護したり、また、日本は「神の国である」と発言したりする閣僚や政治家が多く存在することが、私には理解できません。

 時の政権の考え方に流されることなく、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めた明治憲法下の日本で、津田左右吉はあくまでも学者らしく近世徳川時代の学者の記紀研究を土台とし、欧米の先進的な種々の学問も踏まえて研究を重ね、それまでなかった記紀神話の研究書を世に出しました。
 津田左右吉が、王政復古によってもたらされた神話を史実とする記紀観に対し、不合理な物語の多い神代史を、史料批判の観点から研究した業績は正しく評価され、受け継がれなければならないと思います。
 また、近世徳川時代にすでに、神話を史実と見なさない考え方をとる学者も多く、”神代に見える歌は後世の作である”とする指摘や”神代史は後人の手になった部分がある”とする研究もあったという事実は、見逃すことができません。それらが、明治維新による王政復古によって、無視されることになったのでしょうが、日本で、今なお神話を史実として、日本が「神の国」であると主張する人たちが存在することは見逃すことができません。文字の存在しなかった時代から、皇室が絶えることなく続いていることは、確かに上記の北畠親房のことばにあるように、「我が国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし」かも知れません。しかしながら、それが日本が「神の国」であるということにはならないことは明らかだと思います。
 下記は「津田左右吉歴史論集」今井修編(岩波文庫33-140-9)から抜粋しましたが、皇室が長く続いた理由については、長文なので、結論部分のみにしました。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      Ⅳ 建国の事情と万世一系の思想

                      一 上代における国家統一の情勢
 ・・・
 皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国というきわだった事件が、或る時期、或年月、に起こったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられた時、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられた時を建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるとしても、たしかなことはやはりわからず、そうしてまたそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられて来たものであるから、特に建国というべき時はないとするのが、当っていよう。要するに皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれとも全くかけはなれたものであることは、なおさらいうまでもない。むかしは、いわゆる神代の説話にもとづいて、皇室は初から日本の全土を領有せられたように考え、皇室のはじめと日本全土の領有という意義での建国とが同じであるように思われていたし、近ごろはこの二つとこの島における日本民族のはじめとの三つさえも、何となく混雑して考えられているようであるが、それは上代の歴史的事実を明かにしないからのことである。

 さて、ここに述べたことには、それぞれ根拠があるが、今はそういう根拠の上に立つ建国史の過程を略述したのみであって、一々その根拠を示すことはさしひかえた。ところで、もしこの歴史的過程が事実に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東征の物語は決して歴史的事実を語ったものでないことが知られよう。それはヤマトの皇都の起源説話なのである。日本民族が皇室の下に一つの国家として統一せられてから、かなりの歳月を経た後、皇室の権威が次第に固まってきた時代、わたくしの考えではそれは六世紀のはじめのころ、において、一層それを固めるために、朝廷において皇室の由来を語る神代の物語が作られたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその
降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語が作られたのである。ヤマトに皇都はあったが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになったかも全く知られなくなっていたので、この物語はおのずからその皇都の起源説話となったのである。東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」をうけられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまた神武天皇によってヤマトに遷されたことを、語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によって作られたものである。だからそれを建国の歴史的事実として見ることはできない。

 それから後の政治的経営として『古事記』や『日本記』に記されていることも、チュウアイ(仲哀)天皇のころまでのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀のころであろうと思われるスジン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマト国家の発展の形勢を考えるにつては、それは問題の外におかれるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形で後にいい伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の終において、既に知られなくなっていたので、記紀には全くあらわれていない。

 ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国家の君主を服属させていったそのしかたはどうであったかというに、それはあいてにより場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし血なまぐさい戦争の行われたことは少なかったろうと推測せられる。もともと日本民族が多くの小国家に分かれていても、その間に断えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味において大地主らしくもある小君主もまた、その存在のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起り易い異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがめに、好戦的な殺伐な気風が養われなかった。小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家の現れなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とを来たすべき戦争の少なかったことを、示すものと解せらよう。キュウシュウ地方においてかのヤマト(邪馬台)が、附近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。かなり後になっても、日本に城郭建築の行われなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。

 皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行われたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少なかったことは、おのずから推測せられよう。国家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いわゆる国造県主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城郭などの軍事的設備が後までも設けられなかった、なども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。

 統一の後の国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国家の君主はその地位と領土を保全するためには、みずから進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分かれていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新たにおのれらの頭上に臨んで来る大きな政治勢力があっても、それに対しては初めから親和の情があったのであろう。また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、九州における上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室にかえたのみであるから、その移りゆきはかなり滑らかに行われたらしい、ということも考えられる。朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたにちがいなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。

 国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマト朝廷のあいてとしたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行われたので、直接民衆をあいてとしたのではない。武力を以て民衆を征討したのでないことは、なおさらである。民衆からいうと、国家が統一されたというのは、これまでの君主の上にたつことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民の外は、皇室との直接の結び付きは生じなかったのである。さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血縁関係をもっていたはずはなく、従って日本国家が皇室を宗家とする一家族のひろがったものでないことは、いうまでもあるまい。

                  二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情

 ヤマトに根拠のあった皇室が日本民族の全体を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかかったかはわからぬが、上に考えた如く、二世紀ころにはヤマトの国家の存在したことがほぼ推測せられるとすれば、それからキュウシュウの北半の服属した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期を考えられる五世紀のはじめまでは約三百年である。これだけの歳月と、その間における断えざる勢力の伸張とは、皇室の地位をかためるには十分であったので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなっていたようである。何人もそれに対して反抗するものなく、その地位を奪いとろうとするものもなかった。そうしてそれには助ける種々の事情があったと考えられる。
 その第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服しそれによって君主の地位と権力を得られたのではなく民族の内から起こって次第に周囲の諸小国を帰服させられたこと、また諸小国の帰服した状勢が上にいったようなものであったことの、自然のなりゆきとして、皇室に対して反抗的態度をとるものが生じなかった、ということである。…
 ・・・
 第二は、異民族との戦争のなかったことである。近隣の異国との戦争には、君主みずから軍を率いることが普通であるが、その場合、戦に勝てばその君主は民族的英雄として賞讃せられ、従って勢威も強められるが、負ければその反対に人望が薄らぎ勢威が弱められ、時の状勢によっては君主の地位を失うようになる。…
 ・・・
第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業がなかった、ということであって、このことからいろいろの事態が生ずる。天皇みずから政治の局に当たられなかったということもその一つであり、皇室の失政とか事業の失敗とかいうようなことがなかったということもその一つである。多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主の仕事は戦争であって、それに伴っていろいろのしごとが生ずるのであるが、国内においてその戦争のなかった我が国では、政治らしい政治は殆どなかったといってよい。従ってまた天皇のなされることは、殆どなかったであろう。いろいろの事務はあったが、それは朝廷の伴造のするしごとであった。… 
 ・・・
 第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。天皇は武力を以てその権威と勢力とを示さず、また政治の実務には与(アズカ)られなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明かにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。政治的君主が宗教上の地位ももっているということは、極めて古い原始時代の風習の引きつづきであろうと考えられるが、その宗教上の地位というのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行うことであり、そのようなことを行うところから、或る場合には、呪術や祭祀を行い神人の媒介をする巫祝(フシュク)が神と思われることがあるのと同じ意味で、君主みずからが神として考えられることがある。天皇が「現つ神(アキツカミ)」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いいかえると天皇が国家を統治せられることは、思想上または名義上、神の資格においての仕事である、というだけの意義でこの称呼が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の称呼なのである。天皇の実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称呼が用いられたのである。
 これは、天皇が天皇を超越した神に代ってそういう神の政治を行われるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行われるとか、いうのではないと共に、また天皇は普通の人と違って神であり、何らかの意義での神秘性を帯びていられる、というような意味でいわれているのでもない。天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。日本の昔には天皇崇拝というようなことはなかったと考えられる。天皇が日常の生活において普通の人として行動せられることは、すべてのものの明かに見も聞きも知りもしていることであった。記紀の物語には天皇の恋愛譚や道ゆきずりの少女にことといかわされた話などの作られていることによっても、それは明らかである。「現つ神」というようなことばすらも、知識人の思想においては存在し、また重々しい公式の儀式には用いられたが、一般人によって常にいわれていたらしくはない。シナで天帝の称呼として用いられていた「天皇」を御称号としたのは六世紀のおわりころにはじまったことのようであって、それは「現つ神」の観念とつながりのあることであったろうが、それが一般に知られていたかどうか、かなりおぼつかない。そういうことよりも、すべての人に知られていた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして、国民のために大祓のような呪術を行われたりいろいろの神の祭祀を行われたりすることであったので、天皇が神を祭られるということは天皇が神に対する意味での人であることの明かなしるしである。日常の生活がこういう呪術や祭祀によって支配せられていた当時の人々にとっては、天皇の地位と任務は尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の権威があるように思われた。何人もその権威を冒涜しようとは思わなかったのである。政治の一つのしごととして天皇のせられることはこういう呪術祭祀であったので、それについての事務を掌っていたナカトミ(中臣)氏に朝廷の重臣たる権力のついて来たのも、そのためであった。

 第五には、皇室の文化上の地位が考えられる。半島を経て入って来たシナの文物は、主として朝廷及びその周囲の権力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いうまでもなく皇室であった。そうしてそれがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。かれは皇室のために新来の文物についての何ごとかを掌ることによって生活し、それによって地位を得た。のみならず、一般的にいっても、皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊とさと親しさとがそれによって感ぜられ、人々をして皇室に近接することによってその文化の恵みに欲しようとする態度をとらせることになったのである。
 ・・・
 さて、こういうようないろいろの事情に助けられて、皇室は皇室として長く続いて来たのであるが、これだけ続いてくると、その続いてきた事実が皇室の本質として見られ、皇室は本来長く続くべきものであると考えられるようになる。皇室が遠い過去からの存在であって、その起源などの知られなくなっていたことが、その存在を自然のことのように、あるいは皇室は自然的の存在であるように思わせたのでもある。(王室がしばしば更迭した事実があると、王室は更迭すべきものであるという考が生ずる)従ってまたそこから、皇室を未来にも長く続けさせようという欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く続けさせなければならぬ、長く続くようにしなければならぬ、ということが道徳的義務として感ぜられるようになる。もし何らかの事態が生じて(例えば直系の皇統が断えたというようなこともあると)、それに刺戟せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。六世紀のはじめのころは、皇室の重臣やその他の朝廷に地位をもっている権力者の間に、こういう欲求の強められて来た時期があったらしく、今日記紀によって伝えられている神代の物語は、そのために作られたものがもとになっている。

 神代の物語は皇室の由来を物語の形で説こうとしたものであって、その中心観念は、皇室の祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし、皇位(天つ日つぎ)をそれから伝えられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるという考と、皇位の永久という観念とが、含まれている。なおこの物語には、皇室が初からこの国の全土を統治せられたことにしてあると共に、皇室の御先祖は異民族に対する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られていず、どこまでも日本の統治者としての君主となっているが、その政治、その君主としての事業は、殆ど物語の上にあらわれていない。そうして国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行われたことにしてある。物語にあらわれている人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであって、民衆のはたらいていたことは、少しもそれに見えていない。民衆をあいてにしたしごとも語られていない。宗教的意義での邪霊悪神を掃討せられたことはいわれているが、武力の用いられた話は、初めて作られた時の物語にはなかったようであり、後になってつけ加えられたと思われるイズモ平定の話には、そのおもかげが見えはするが、それとても妥協的平和的精神が強く働いているので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戦争の話しはない。やはり後からつけたされたものであるが、スサノオの命が半島に渡った話があっても、武力で征討したというのではなく、そうして国つくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が来たというのも、武力的経略のようには語られていないから、文化的意義のこととしていわれたものと解せられる。なお朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜を作り、皇室に依附することによってその家の存在を示そうとした形跡も、明らかにあらわれている。
 さすれば、上に述べた四・五世紀ころの状態として考えられるいろいろの事情は、そのすべてが神代の物語に反映しているといってよい。こういう神代の物語によって、皇室をどこまでも皇室として永久に続けてゆこう、またゆかねばならぬ、とする当時の、またそれにつづく時代の、朝廷に権力をもっているものの欲求と責任感とが、表現せられているのである。そうしてその根本は、皇位がこのころまで既に長くつづいて来たという事実にある。そういう事実があったればこそ、それを永久に続けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そのものよりもそういう物語を作り出した権力階級の思想に意味があり、そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治-社会的状態に一層大なる意味があることを、知らねばならぬ。

 記事一覧表へリンク 

inserted by FC2 system