-NO547~551

ーーーーーーーーーーーーーー教育勅語 皇国史観 平泉澄 市村真一ーーーーーーーーーーーーーーーー

 平泉澄は「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)の中の「十五 松下村塾記講義」で、先哲として、山鹿素行、山崎闇齋、藤田東湖、橋本景岳、吉田松陰、佐久良東雄、大橋訥菴、眞木和泉守などの名前を上げています。

 そして、「今あげました数多くの諸先生の中に於て、吉田松陰はひときわ秀れたお方であります」として、吉田松陰の「松下村塾の記」を取り上げ、「文章はわりに短いものでありますが、亦一段と光り輝くものでありまして、明治維新がいかなる精神によって指導されたかといふことは、之を拝見しますれば明瞭であります。一応文字を追ひまして解釈いたします」として、当時の状況をふまえ、自身の考えを加えながら、「松下村塾記」の解釈を詳述しています。下記資料1がその文章の一部です。これは、昭和三十五年八月、存道館において青年有志に講義されたものだということです。
 戦前・戦中、大学における講義のみならず、学内の組織「朱光会」や、学外の組織「青々塾」で、また、海軍大学校や陸軍士官学校などで講義・講演を繰り返し、昭和天皇や秩父宮などに「進講」もして、皇国史観の教祖といわれる活躍をした歴史家・平泉澄の「皇国史観」の考え方は、敗戦後も少しも変わらなかったことがわかります。

 そして、見逃すことができないのが、平泉澄の著書や講演速記録、講義のなかから自らが感銘を受け、若い学生に推奨したい論説を選んで編集し「先哲を仰ぐ」と題して一冊にまとめ上げたという市村真一教授(経済学)の、解説文です。下記資料2に抜粋したように、
”…日本の伝統的道徳律を、もっとも直截簡明に述べられたものとしては、「教育勅語」にまさるものはないと思ふ。…”と言っているのです。
さらに、
道徳は、時として命をさゝげることを要求する。
とも言っているのです。その文章には、平成十年七月十五日とあるのです。

 それを、「松下村塾記講義」の中の、下記、平泉澄の文章と合わせ考えると、「教育勅語の内容の中には、夫婦相和し、あるいは朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」と言って、「こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えない」などと、その活用を認める主張が、実は再び神道に基づく「皇国」を復活さをようとする思想を背景にしているのではないかと疑われます。

「抑人の最も重しとする所は君臣の義なり。国の最も大なりとする所は華夷の弁なり」 人に於て最も大なりとする所は君臣の道義であります。いろいろその他道徳として考へられるものはございませう。友人の間の道徳がありませう。兄弟の間の道徳がありませう。夫婦の間の道徳がありませう。親子の間の道徳がありませう。然し最も重大であって、根本にあってこれあって世の中が確立するといふものは、君臣の大義であります。「国の最も重しとする所は華夷の弁なり」即ち自分の国の本質がどういふものであるか、外国とどういふ点がちがふのであるか、外国にくらべて我国が如何に尊い国であるかといふことを明白に弁別すること、これが最も重大であります

 教育勅語の核の部分は、間違いなく「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ということであり、日本国憲法の国民主権や基本的人権、平和主義などの考え方とは相容れないと思います。(下記抜粋文の旧字体の漢字は、新字体に変更しました。) 
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                           十五 松下村塾記講義
 ・・・
 そこで、私が申しますに、学問とは人たる所以を学ぶのであります。学問の本質とは何であるかと云へば、人たる所以を学ぶ、それを知らないでは人と云へないといふ、人としてぎりぎりの所を教へる、それが学問であります。片々たる知識を云ふのではない。この点をはずせば人でないぞといふぎりぎりのことを教へるのが学問でありませう。塾が松下村塾といって村の名前をとってをられるのであれば、「誠に一邑の人をして」、この松下村の人全部をして、「入りては則ち孝悌、出でては則ち忠信ならしめば」、家庭に於ては孝悌、よく親に仕へ、よく兄姉に仕へるといふにあらしめる。外に出ては忠信であらしめる。家庭に於ては孝悌、 外に於て忠信といふ、かういふことでありますならば道徳的であらしめることができますならば、村の名前をとって松下村塾といはれましても、それは辱かしくありますまい。もしさうでないといふならば、もしあるひはひょっとして、さうでないといふことでありますれば村の辱ではありませんか。そこで松下村塾は何を教へるかといふことをしっかり考へなければならん。「抑人の最も重しとする所は君臣の義なり。国の最も大なりとする所は華夷の弁なり」 人に於て最も大なりとする所は君臣の道義であります。いろいろその他道徳として考へられるものはございませう。友人の間の道徳がありませう。兄弟の間の道徳がありませう。夫婦の間の道徳がありませう。親子の間の道徳がありませう。然し最も重大であって、根本にあってこれあって世の中が確立するといふものは、君臣の大義であります。「国の最も重しとする所は華夷の弁なり」即ち自分の国の本質がどういふものであるか、外国とどういふ点がちがふのであるか、外国にくらべて我国が如何に尊い国であるかといふことを明白に弁別すること、これが最も重大であります。ところが「今天下如何なる時ぞや」今日の時勢をどう考へられますか。「君臣の義講ぜざること六百余年」、君臣の間の道義道徳が講明せられないこと、之が充分に研究せられず、明らかにされないでおりますことは、六百余年であります。これ鎌倉幕府以来をさゝれるのであります。政権鎌倉幕府に移りましてこゝに六百余年、その間君臣の義はわけが判らなくなりました。将軍あることを知って天子のおはすことを知らぬといふことが世間一般のならはしであります。「近時に至り華夷の弁を合わせて又之を失ふ」、このごろになりますと、又外国と日本との区別が判らなくなってをる。外国がいかにも偉い国で、日本といふ国はまことにつまらぬ国であるといふ風に、自らの本質を見失ってをる者が多いのであります。そこで大変な問題が出てくるのでありますが、さうであるにかゝはらず、「天下の人方且(マサ)に安然計を得たりとなす」、のんきにかまへて、これでよいとしております。「神州の地に生れて皇室の恩を蒙り」、これは「蒙り」と読みましたが、意味から云ひますと「蒙りながら」の意味なんです。神州の地に生れて皇室の恩を蒙りながら、「内には君臣の義を失ひ、外には華夷の弁を遺る」、内に於て君臣の大義を忘れ、外に対しては日本の国体が判らなくなって外国の方が偉いやうに考へてをるといふことでありましては、学問をするといひましたところが、「学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安くにありや」、学問をしたといひ、俺は立派な人だと云ってところが、それは人ではないではありませんか。学問でもないではありませんか。学問とか人とか云ったところが、その一番大事なところが抜けてゐるではありませんか。この点を二人の先生、父方の叔父、母方の叔父お二人が深く心配せられまして、そこでこの塾を指導してこられたのでありますし、又私がその松下村塾の記を作らねばならないやうになりましたのも、又実にこの点にあるのであります。あゝ、叔父上が誠に能くこの村の子弟を教誨して、君臣の義を明らかにし、華夷の弁を立て、「下又孝悌忠信失はず」、といふことでありまして、さて然る後に非常の人物が出て、この方針に従って、「以て山川忿惋の気を一変し邦家休美の盛を馴致せば」、之が非常の大事業をなして、この土地にみなぎってをる昔からの忿り惋みといふものを一変して、国家に大貢献をするといふのでありますならば、萩の城下町が本当に天下に名を顕すのはこゝに於て行はれるでありませう。萩といふ所は長門の国で注意すべき一つの都会だといふやうな程度ではごいますまい。日本の重大なる一つの元気発祥の地となるでありませう。

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資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            「先哲を仰ぐ」解説
                                                                  市村真一
 ・・・
 最後に一言したいことがある。それは、道徳には単純に万国共通とはいかない二つの側面があるといふことである。第一は、こっかの構造との関係であり、第二は、宗教とのかゝはりの側面である。道徳には、五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)五常(仁、義、礼、智、信)といはれるやうに、我々が自分自身を律することと、日常において接する家族、隣人、社会、及び国家との関係において守るべき規範といふ側面である。これが第一の側面である。この点について、日本の伝統的道徳律を、もっとも直截簡明に述べられたものとしては、「教育勅語」にまさるものはないと思ふ。この側面において、日本と米国とが国家構造で根本的に異なってゐることを知らねばならない。米国は、大統領制をとる共和政治の国であり、日本は、天皇をいただく君主制の国である。今の日本国憲法にいくたの不備があるにせよ、この差は明白である。イギリス、オランダ、北欧諸国等々、立憲君主制を取る国は、世界になお多い。日本国民の道徳教育において、天皇への尊敬心を教へねばならないのは、この故である。この点については、本書の読者に、欧米の学者の説もふまえて論じた拙論「君主制の擁護」(拙著『教育の正常化を願って』)創文社刊、増補版平成二年所収)を読まれることを希望する。今日の教育現場において、特に日教組の指導力の強いところで、問題が起こってゐるのは、この点をしかと認識しないからである。
 しかし道徳を教へるには、それだけでは足りない。道徳は、時として命をさゝげることを要求する。従って、我々の生と死の問題をどう考えるか、が関係する。ここに宗教がかゝはりを持つ。これには太古以来の日本人の宗教観、生命観、「かみ」と人との関係についての考へが、ふかく関係してくる。多くの日本人は神道と仏教をゆるやかに融和させた信仰をもってゐる。しかし日本仏教の宗派の大半は、その自然観、生命観、神についての考へ方において、決してインドにおける本来の仏教と同じものではない。これ等の点で、わが国の神道は独自の風光をもってゐる日本人の宗教観を反映してをり、日本仏教もそれを反映して本来の姿を変容してゐる。またキリスト教徒の関係についても、まだまだ考へねばならない問題が多い。一神教であるキリスト教や回教と、日本人の考へ方をどう融和させて行くかは今後の日本人と内外のキリスト教徒、回教徒にとっての長い長い課題であろう。この点については、拙論「君主制と神道」(上掲書所収)を参照にしてほしい。日本人は、その独自の信仰があるが故に、独自の文明を持ち、其れによって日本人として世界に貢献できるのである。

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ーーーーーーーーーーーーーーーーーー改憲 平泉澄 「国体と憲法ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 しばらく前に、YouTubeの動画をみて驚きました。平成24年5月10日 憲政記念会館で、第3回創生「日本」東京研修会が行われ 長勢甚遠・第一次安倍内閣法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と発言している動画です。安倍総理や下村元文科大臣、稲田防衛大臣などの閣僚が顔を揃えているのですが、みんな咎めるどころか拍手をしています。私は、どういうことなのか意味がよく分かりませんでした。でも、皇国史観の教祖といわれる平泉澄の書いた文章をいくつか読んで、少しわかったような気がしてきました。

 平泉澄は、戦前・戦中大学で講義するのみならず、軍人相手に講演をしたり、「青々塾」を開き門下生に指導を繰り返したり、皇族に進講したりして、まさに皇国史観の「教祖」の如く大活躍をしましたが、戦後もその主張を変えることなく様々な論文を書き、講演を繰り返したようですので、今尚多くの人がその影響下にあるのではないかと思います。上記の日本国憲法の三大原則である「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を否定するような発言や教育勅語擁護の発言を、平泉澄の下記のような文章と考え合わせると、改憲を急ぎ、「日本を取り戻す」と主張する安倍総理や関係者の最終目標は、「萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ」ところの「一大家族國家」の日本であり、再度の「王政復古」なのではないかと想像します。

 日本国憲法を蔑ろにするような閣議決定や問題の多い数々の法案の強行採決は、平泉澄が、下記の「国体と憲法」で、「マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の国体の上より見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります。」と書いているような考え方が背景にあるからではないでしょうか。

 平泉澄の文章には、しばしば明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰が出てくるのですが、資料2は、その吉田松陰の「士規七則」と平泉澄のまとめ部分の一部です。「人ノ人タル所以ハ忠孝ヲ本トナス」ということの意味を考えないわけにはいきません。

 下記は、「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から抜粋しました。漢字の旧字体は新字体に変えました。平仮名表記は、できるだけ変えないように努めました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                 国体と憲法 
 ・・・
 今憲法について考へますに、われわれが個人個人の感情を述べ、意見を通して議論いたし、構想を練らうといたしますならば、各人各様の意見が出まして、到底まとまるものではあるまいと思います。これについて参考にすべきものは、幕末の俊傑、然もわが国古来幾千年の間における最大の俊傑の一人であります橋本景岳の国是の論であります。この国是の論は、安政三年の四月二十六日に中根雪江送りました手紙の中に見えておりますが、「国是と申す者は、国家祖宗の時、既に成り居り候にて、後代子孫に在りては、其の弊を救ひ候へば宜しき義に御座候。子孫の代に在りて別段国是を営立すると申す例もなく、道理もなし」かういふことを申してをります。すなわち国体とか国是といひますのは、今日は憲法とか国家の大方針とかいふ意味でありますが、これは歴史がこれを決定してをるものであって、後世子孫のときになって勝手にこれを構想すべきものでないといふことを言ってをるのであります。
 なほこれについて私見を申し上げることをお許し願ひたいと思ひます。世間にはマッカーサーの憲法を用ひましても国体は変らないと説かれる方もだんだんあるやうであります。それは恐らくやはり皇室のために憂ひを抱き、日本の国を愛する誠意から出てをるのであると思ひます。私はさういふ方々の誠意を疑ふわけではございません。しかし私ども学者の末端に列する者として、恐るるところなく事実を直視したしますならば、かくの如き考は耳を抑へて鈴を盗むの類でありまして、若しマッカーサー憲法がこのまま行はれてゆくといふことでありますならば、国体は勢ひ変わらざるを得ないのであります。民主主義はこれを強調する、天皇はわづかに国の象徴となっておいでになる。歴史は忘れられ家族制度は否定せられてゐる。現在のみが考へられて、歴史は考へられず、家族制度は無視されて個人のみが考慮せられ、人権はほとんど無制限に主張せられ、奉仕の念といふものはない。その限りなく要求せられる個人の権利の代償としては、ただ納税者の義務のみが明らかに規定せられてをる。忠孝の道徳の如きは弊履の如くに棄てて顧みない。かくの如き現状において、日本の国体が不変不動であるといふことは萬あり得ないところであります。マッカーサー憲法によりましても、国体の不変を信じたいといふ、その善意は了解できますけれども、しかしながら、その希望に拘わらず、この憲法並びにこの憲法に基く幾多の法令の下におきましては、日本の国体は変動し、変化してゆくことは如何ともし難いのであります。論より証拠、この憲法の下につくられてをります幾多の歴史教科書、それは文部省の検定を経てをるものでありますが、それらは根本において共産主義の歴史理論を採用し、日本人でありながら祖国の歴史を侮辱し、嫌悪し、罵詈雑言してをるのであります。文部省の検定を経たものにして猶且さやうでありますから、世間に氾濫してをる俗書の中に、天皇を誹謗し皇室を侮辱するものの多いことは如何とも致し方のないことであります。私は先年、近衛公が、支那の教科書が公然と排日侮日の記事を連ねてをり、日本国の排斥をもつて支那の国の教育方針としてをることを憤慨し痛憤せられまして、かういふ例が世界の何所にあるであらうか、かう言って憤激せられたのを覚えております。近衛公の憤激の声は今猶私の耳に残ってをるのでありますが、それは然し支那の教科書でありました。今日見るところ、わが国の教科書が日本の歴史を侮蔑し、蹂躙して憚らないのは一体これを何といふべきでありましょう。今現状につきましては、一々申し上げることは致しません。過去一箇月の中に起こりました幾多の紛乱を見ますと、かくの如きものが一体国家であらうかといふ感じを私どもは深くするのであります。国体の根本は動揺し、国家の方針はたたず、国家の威信といふものが地を払ってをるのであります。この威信をとり戻し、国家の大方針を立て、国体の根本を確立しようといふならば、三千年の歴史の上に思ひを致さなければならず、この三千年の歴史の上に考へをいたしますときにおいては、先づ第一に明治天皇の欽定憲法に立ち還るの外はないのであります。
 殊に事理の明白に考へられますことは、国軍再建の問題についてであります。凡そ軍隊は潔く死地に入り、喜んで一命を捧げる覚悟をもって始めて軍隊といふことが出来るのであります。生命を捧げることを拒否する軍隊、即ち戦意なき軍隊といふものは、われわれの考へ得ざるところであります。而して今日聞くところによれば、保安隊中、宣誓を拒否する者、約七千人に及ぶといふことでありますが、かかる戦意なき軍隊がどうして出来たかといへば、蓋しこれは国本立たず、国体くづれてをるがためでありまして、かくの如く世界において重大なる恥をここにさらしてをるのであります。かつて浅見絅齋はかういふことを申してをります。「国天下を治むるには、先づ、国是を早く極めて、上下共に其の旨を明らかに知らしめ置く事第一なり、治世は固よりなり、別して乱世に及びては、上下の心ばらばらに成りて、躁ぎ動き易き時なれば、上下一体の合点立たずしては、一言の下知成り難し」、この国全体が一つの目標の下に立ち、一つの精神で統一されてをらないといふことであれば「緩急の間、必ず頽れ立ちて、また取返すべきやうなし」、かう言って、国是を立てることを根本において重要なこととしてをります。支那におきましては、宋の高宗が狐疑逡巡しまして、国是をきめるだけの気力、気迫を持たず「ぐらぐらするほどに上下が離れて、あれのなれの果を見よ」─ かう痛論しまして、国是の立たないところ、国全体がひとつの精神で統一されないところは必ず崩壊する、その国は必ず滅亡するといふことを説いてをるのでります。日本国を今日の混迷から救ふもの、それは何よりも先に日本の国体を明確にすることが必要であります。而して日本の国体を明確にしますためには、第一にマッカーサー憲法の破棄であります。第二には明治天皇の欽定憲法の復活であります。このことが行はれて、日本がアメリカの従属より独立し、天皇の威厳をとり戻し、天皇陛下の万歳を唱えつつ、祖国永遠の生命の中に喜んで自己の一身の生命を捧げるときに、始めて日本は再び世界の大国として立ち、他国の尊敬をかち得るのであります。
 憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の国体の上より見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります。
 以上は日本の歴史より考へ、日本の国体より考へ、日本の命脈より考へ日本の道徳より考究して得た結論であります。然るに若し更に視野をひろめまして、世界史的見地に立って、各国亡盛衰の跡より考察し、殊にフランス革命、マルキシズム、アメリカンレボリューションの跡に思をいたしますならば、ここに述べましたところは、これに十倍し百倍する重みを加へまして、われわれにこの信念を確固たらしめるのであります。而してこのことは、明治欽定憲法に貢献するところ多かったドイツ人ロエースレルの「仏国革命論」といふ著述のありますことを見ますときに意義の殊に深きを覚えるのであります。(昭和二十九年六月三十日)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                               士規七則講義

 ・・・
 吉田松陰「士規七則」

冊子ヲ披繙(ヒハン)スレバ、嘉言林ノ如ク、躍々トシテ人ニ迫(セマ)ル。顧(オモ)フニ人読マザルノミ。即チ読ムモ行ハザルノミ。苟モ読ミテ之ヲ行ヘバ、則チ千万世ト雖モ、 得テ盡スベカラズ。噫(アア)復(マタ)何ヲカ言ハン。然リト雖モ、知ル所アリテ言ハザル能ハザル人ノ至情ナリ。 古人諸(コレ)ヲ古(イニシヘ)ニ言ヒ、我今諸ヲ今ニ言フ。亦詎(ナン)ゾ傷(イタ)マン。
士規七則ヲ作ル
一、凡ソ生レテ人トナル。宜シク人ノ禽獣ト異ナル所以ヲ知ルベシ。蓋シ人ニ五倫アリ、而シテ君臣父子ヲ最大トナス。故ニ人ノ人タル所以ハ忠孝を本トナス。

一、凡ソ皇国ニ生レテハ、宜シク吾宇内(ウダイ)ニ尊キ所以ヲ知ルベシ。蓋シ皇朝ハ万葉一統ニシテ、世々禄位(ヨヨロクイ)ヲ襲(ツ)ギ、人君ハ民ヲ養ヒテ、以テ祖業ヲ続ギタマフ。臣民ハ君ニ忠ニシテ、以テ父ノ志ヲ継グ。君臣一体、忠孝一致、唯吾国ヲ然リトナス。

一、士ノ道ハ、義ヨリ大ナルハナク、義ハ勇因リテ行ハレ、勇ハ義ニヨリテ長ズ。

一、士ノ行ハ、質実欺カザルヲ以テ要トナシ、巧詐過(コウサアヤマチ)ヲ文(カザ)ルヲ以テ恥トナス。光明正大皆是ヨリ行ズ

一、人古今ニ通ゼズ、聖賢ヲ師トセザルハ鄙夫(ヒフ)ノミ。読書尚友ハ君子ノ事ナリ

一、徳ヲ成シ材ヲ達スル、師恩友益多キニ居ル。故ニ君子ハ交遊ヲ慎ム。

一、死シテ後巳ムノ四字ハ、言簡ニシテ義広シ。堅忍下決、確乎トシテ抜クベカラザルモノハ、是ヲ舎(オ)キ術ナキナリテ

 右ノ士規七則、約シテ三端トナス。曰ク、立志以テ万事ノ源トナシ、撰友以テ仁義ノ行ヲ輔(タス)ケ
、読書以テ聖賢ノ訓(オシヘ)ヲ稽フ。士苟クモコゝニ得ル有ラバ、マタ以テ成人トナスベシ

右の士規七則は、要約して三つにのことになります。志を立てることが万事の根本であり、交友をあらぶことが仁義の道を行ふのを助けることになり、読書することが聖賢の教を学ぶ道であるといふことであります。こゝに聖賢といひますのは、支那の聖人賢者のみでなく、日本の聖人を含んゐます。我々は今日、楠公を仰ぎ、北畠親房公を仰ぎ、吉田松陰先生を仰ぐことによって、益々道を学び、弘めてゆかねばなりません

ーーーーーーーーーーーーーー自主憲法 マッカーサー憲法 平泉澄ーーーーーーーーーーーーーーーーー
    
 平泉澄は「国体と憲法」のなかで、

憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の国体の上より見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります。

と書いていました。
 関連して気になるのが、改憲の動きを本格化させている安倍政権のいわゆる「自主憲法」の内容です。特に現在、憲法に関して世間で注目され議論されているのは、「前文」や「第九条」に掲げられた平和主義の問題であり、自衛隊の問題ではないかと思います。でも、同時に見逃すことができないのは「自主憲法」が、戦前・戦中の神国思想に基づく「国体」を取り戻そうと意図しているのではないかということです。
 今は、まず改憲することが課題のようで、平泉澄のように、露骨に「欽定憲法」を持ち出したり、「日本国憲法」を「マッカーサー憲法」と表現したりはしていません。しかしながら、改憲しようとする人たちの考え方は、平泉澄の考え方と大きく異なるものではないように思われます。したがって、改憲が意図するところを見定めず、「憲法」は時代に合わせて変えられて当然などと、簡単に「改憲」を認めることは、いかがなものかと思います。
 また、「日本国憲法」は「押しつけられた憲法」であるとして、改憲を認めるのも、問題があると思います。たしかに、日本国憲法には手続上の問題もあるかも知れません。でも、大事なのは多くの国民が、日本国憲法の平和主義を支持し、「自主憲法」が意図するような改憲を望んではいないということだと思います。

 平泉澄は、明恵上人を「最もすぐれたる人物の一人であり、ことに日本思想史のなかにおいては最高の地位に位する人だ」と高く評価し、下記のように「国家の命脈」の中で、明恵上人が北条泰時を叱りつけたときの言葉を引いています。でも私は、
一朝の万物は悉く国王の物に非ずと云ふ事なし、然れば国王として是を取らしむを、是非に付いてまんずる理なし、縦(タトヘ)無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕(ハラ)まゝ類、義を存せん者、豈いなむ事あらんや、若(モシ)是を背くべくんば 此朝の外に出で、天竺震旦(シンタン)にも渡るべし
などという明恵上人の考え方は、とても受け入れることができません。そして、日本軍の人命軽視は、こうした神国思想の考え方と深く関わっているのではないかと思います。

 戦時中、役所の関係者が、「おめでとうございます」と言って「赤紙」(召集令状)を渡したり、赤紙によって戦地へ向かわなければならない人が「ありがとうございます」と答えて受け取ったり、出征する若者を地元関係者が「万歳」で送り出したりしたことなども、天照大神の末裔である天皇が現人神とされていた「神国日本」だからこそ可能だったのではないでしょうか。「おめでとうございます」も「ありがとうございます」も「万歳」も、自然な日本人の感情の表現だったとは思えません。 

 あるジャーナリスト(倉田 宇山氏)が、取材でフィリピンのセブ島を訪れ、遺骨を掘り出す作業をしていた現地の人に、「戦後、大きな復興を遂げて経済大国となった日本が、何故フィリピンの民家の裏山に遺骨を放置しているのですか? フィリピンは貧しい国ですが、その多くはクリスチャンです。クリスチャンは遺体を火葬しないので、どんなに貧しくて立派な墓石が建てられなくても、たとえ土饅頭であっても、お墓を造ってそこに遺体を埋葬します。日本人は自分たちの祖国を守ろうとして頑張ったナショナル・ヒーロー(民族的英雄)を放置するのですか?」と言われ、”皆さんだったら、どうお答えになりますか? 私は、答える言葉がありませんでした。”と投げかけていましたが、皇軍兵士は、天皇のために死ぬことを喜びとしなければならなかった結果ではないかと、私は思います。現地の人にとっては、アメリカ軍は、戦闘が終われば米兵の遺体はすべて引き上げて持って帰ったのに、日本軍はなぜ兵士の遺体や遺骨を放置するのか、その違いが不可解だったのだと思いますが、それは、やはり神国思想を抜きには理解できないのではないかと思います。


 軍人勅諭には「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」とあります。また、教育勅語には「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とあります。皇軍兵士は、文字通り「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」べく、自ら「鴻毛よりも輕い」命を捧げたという考え方なので、戦地の遺骨収集にはあまり熱心ではなかったということではないでしょうか。
 出征兵士が、ほんとうに日本国民のために戦わなければならないと自覚し戦死したのであれば、また、送り出した人たちが、ほんとうに出征兵士が自分たちのために戦って死んだのだと受けとめていれば、遺骨が長く放置されることはないのではないかと考えるのです。
 改憲の意図するもの、特に神国思想の復活の兆しを見逃してはならないと思っています。

 下記は、「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から抜粋しました。

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                               国家の命脈                   
 ・・・
 次に武家時代におきましては、我が国の国体が著しくそこなわれて居りましたことは、長い間、われわれの先輩が慨嘆した通りであります。ただし私は、鎌倉幕府においても、源頼朝あるひはその子、実朝といふ源氏の二代の将軍は、これは全然別のものだと思ひます。いはゆる武家政治の中に入るにしましても、ほかの武家とは全然趣を異にするものである。日本の国体におきましては、これらの人々は何びとにも劣らない、最も純粋にして清潔なる考へを持って居たと思ふのであります。
 それは、平家が亡びまして、すでに天下が頼朝一人の武力に服しましたときに、頼朝が申しました言葉、文治元年の六月に、尾張のある武士が、勅命にそむきましたときに申しました言葉でありますが、「綸命(リンメイ)に違背するの上は日域に住むべからず」貴様は、天皇の勅命にそむくつもりか、それならば日本の国に居てはならぬ、この国を出て行け。これが頼朝の言葉であります。日本の国体は、当時最も危殆に瀕してをりましたが、それが頼朝のこの一言によって天下は治まったのであります。すばらしい言葉と言はなければなりません。

 これは吾妻鏡文治元年六月十六日の条に見えてゐます。尾張の玉井四郎助重に対して、頼朝の申付けましたのは、「綸命に違背するの上は、日域に住すべからず、関東を忽緒せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず、早く逐電すべし」といふ強硬なる裁断でありました。

その子、実朝に至りましては、御承知のごとくに「山は裂け、海はあせなん世なりとも、君に二心、わがあらめやも」といふ歌を詠んでおります。この歌の意味するところは実に深刻であります。これは当時、後鳥羽上皇をはじめとしまして、朝廷におかれましては政権を朝廷に回収せられる御計画がございました。そして実朝に対して密かに連絡をおとりになりまして、実朝をさとして大政を奉還せしめる御計画があったのであります。そのときの歌でありますが、きわめて簡単な歌でありながら、非常な決意をもって勅令に随順奉る意思をここに表明しております。「山は裂け、海はあせなん世なりとも、君に二心、わがあらめやも。」当時、実朝をして大政を奉還しようとしますならば、鎌倉は一瞬にして血の海と化するでありませう。北条は必ずこれに反対するに決まってをります。鎌倉においてはすぐに殺戮が行はれるであらう。さういふ非常な事態を予想して「山は裂け海はあせなん……」かう詠んだのであります。どんなことが起こるかもしれませんが、陛下の勅命には絶対に随順し奉る考へでございますといふことを申し上げたのであります。事は外に漏れたでありませう。彼は間もなく北条の陰謀によりまして、鶴岡八幡宮の社前に暗殺されるのであります。
 ・・・
 その実朝を殺して天下をわがもの顔に振舞はうとしました北条、やがて大軍を提げて京都をおかすのであります。東海道を攻めのぼるもの十万、東山道五万、北陸道四万、合わせて十九万騎を急速に出発せしめまして、京都を攻撃いたしました。そしてやがてお三人の上皇を島々へお流し申し上げたのでありましたが、その非違をあへてしました北条泰時に対して、真向からこれを叱りつけられたのは、栂尾(トガノオ)明恵上人 (ミョウエショウニン)でありました。この明恵上人は、わが国仏教史の中において、もし十人の高僧をとるならばその十人に入り、五人を選んでもその五人の中に入りませう。最もすぐれたる人物の一人であり、ことに日本思想史のなかにおいては最高の地位に位する人だと思いますが、その明恵上人が、泰時を叱りつけて言ふには「一朝の万物はことごとく国王のものにあらずといふことなし」。およそ日本の国にあるものは全部陛下のものであって、それをわれわれは拝借して使わせてもらってをるに過ぎないのである。したがって、もしこれをよこせといふ勅命があれば、どんなものも差しあげてしかるべきである。もしこれを背くべくんば、この朝の外に出、日本の朝廷の御稜威の外に出て、天竺、震旦(シンタン)にも渡るべし。 支那にも、印度にも行くがよい。これは頼朝の言葉と明恵上人の言葉と全く同じことであります。「勅命に違背する者、日本に住すべからず」出て行くがよい。この言葉をもって泰時を叱ったのでありました。
 明恵上人が北条泰時を諭した事は、栂尾明恵上人伝記に見えてゐます。「忝(カタジケン)くも我朝は、神代より今に至るまで九十代に及んで世々受継ぎて、皇祖他を雑(マジ)へず、百王守護の三十番神、末代といへどもあらたなる聞(キコエ)あり、一朝の万物は悉く国王の物に非ずと云ふ事なし、然れば国王として是を取らしむを、是非に付いてまんずる理なし、縦(タトヘ)無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕(ハラ)まゝ類、義を存せん者、豈いなむ事あらんや、若(モシ)是を背くべんば 此朝の外に出で、天竺震旦(シンタン)にも渡るべし、伯夷叔斎は天下の粟を食はじとて、蕨(ワラビ)を折りて命を継ぎしを、王命に背ける者、豈王土の蕨を食せんやと詰(ツ)められて、其理必然たりしかば、蕨も食せずして餓死したり、理を知り心を立てる類、皆是の如し、すれば公家より朝恩召放たれ、又は命を奪ひ給ふと云ふとも力無し、国に居ながら惜み背き奉り給ふべきに非ず、然るを剰(アマツサ)へ私に武威を振て官軍を亡ぼし、王城を破り、剰(アマツサ)へ太上天皇を収奉て遠島に遷し奉り、王子后宮を国々に流し、月卿雲客を所々に迷(マド)はし、或は忽ちに親類を別れて殿閣に叫び、或は立所(タチドコロ)に財宝を奪はれて路巷に哭する躰を聞くに、先づ打見る所、其理に背けり、若理に背かば冥の照覧、天の咎め無からんや、(中略)なみなみの益を以て此罪を消す事有るべからず、是を消す事なくば、地獄に入らんこと、矢の如くならざらんや。」

 かういふ古いところのいろいろの事実をみてきまして、日本の国体がいかなる人々により、いかに重大な決意をもって守られてきたかといふことを考へまして、さて今日の問題に及ばなければならないのでありますが、徳川時代になりますと、足利は言ふまでもありませんが、徳川の世におきましても、この国体の大義は
幕府の全体としてはほとんど無視せられてきたのであります。これは慨嘆の至りであります。武家全体としては、前の源氏の二代は全く別格であります。それ以外は日本の国体においては、ほとんど理解するところがないといってよい。

 ・・・以下略 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー悲劇縦走 平泉澄 NO1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平泉澄は、戦後「悲劇縦走」の自序に、

開戦の昭和年、私はかぞへ年四十七歳、終戦の昭和二十年、私は五十一歳、年齢に於いて既に、国家に対して、最も重き責任を荷ふ者の一人であった。無論私は、本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈であるが、不思議なる運命は、大学教授の私をして、その学問を通じて、政界にも軍部にも、深甚なる関係を結ばしめ、重大なる影響を与へしめた。
と書いています。でも私は、平泉澄は単なる学者ではなく、皇国日本の戦争遂行に欠かせないアジテーターであったがために、”政界にも軍部にも、深甚なる関係を結ばしめ、重大なる影響を与えしめた”のだと思います。だから、「皇国史観の教祖」と言われるのだと思います。
 日本の降伏を阻止しようと企図した「宮城事件」の首謀者の一人、陸軍少佐・畑中健二が、平泉澄の直弟子であることなどもそうしたことを裏付けているのではないかと思います。

 したがって、平泉澄の責任は決して軽くないと言わざるを得ません。
 平泉澄は、自身の国粋主義的な神国思想によって、深くかつ広く国民を思想的に引っ張り、異論や反論を許さない状況を作り出した中心的人物であり、また一方では、「一途に君を仰ぎまつりかしこみまつる至純の忠誠」を最高絶対の道徳として、 軍人の死も厭わない勇猛果敢な戦闘行為を精神的に支え、戦争を後押しする重要な役割を担ったのだろうと思います。

 見逃すことができないのは、その平泉澄が、下記の「内外の誹謗」の文章にあるように、戦後も、日本は「崇高なる理想をいだいて起ち、正義の旗をかざして進んだのであります」などと、日本の戦争を正当化していることです。
 そして、戦前・戦中には遠く及ばないでしょうが、戦後も執筆活動や講演活動を続け、「日本を守る国民会議」の結成に発起人として関わるなどしているのです。政権中枢に、その考え方を受け継いでいる人たちが、かなりいるのではないかと危惧します。

 日本人だけでも三百万人を超える犠牲者を出した先の大戦における責任を、自ら「無論私は、本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈である」などと言えるのは、「神国日本」の思想家・平泉澄にとっては、赤紙で召集された日本兵や一般国民の死が、あまり問題ではないからだろうと考えざるを得ません。下記のような発言もあるのです。

 …この平泉の民族(人種)差別感は、中村吉治が1928年に卒論題目を平泉に相談したとき投げ返された「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」なる暴論と同じ根をもつものであろう。北山茂夫が1934年、平泉の自宅において「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」と申し渡されたのも同様である。…(「天皇と戦争と歴史家」今谷明-洋泉社より)


 また、平泉澄は、「重要なる文書も大抵失はれて、事実の究明、容易ではありませぬ」というのですが、文書が失われたのは、日本の政府や軍部が焼却処分を命じたからであることを意図的に無視しているように思います。敗戦当時、官房文書課事務官であった人が、『内務省の文書を全部焼くようにという命令がでまして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか判らないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で三日三晩、えんえんと夜空を焦がして燃やしました』と回想していることが、そのことを示していますし、文書の焼却は、機密文書が存在する様々な場所で行われ、多くの目撃証言があることを忘れてはならないと思います。

 大事な公文書が一年もたたずに廃棄されている事例が続出している安倍政権に対し、過去の反省はどこに行ったか、として2017年7月11日の朝日新聞天声人語に下記の文章がありました。
1945年にポツダム宣言を受諾した後、日本の軍人や役人たちには急ぐべき大仕事があった。公文書の焼却である。これから進駐してくる連合国軍に文書を押さえられては、戦争犯罪の追及に言い逃れができなくなる。火をつけてなきものにした…” 

 さらに、「一たび時代の埒を越えて現代に足を踏み入れら場合には、大抵は新聞雑誌の論調に引摺り込まれて、何等の見識も無き付和雷同の境涯に陥るのであります」というような主張も、とても受け入れ難いものです。体験に基づくものや証言をもとに考察された説得力のある史論がたくさんあると思います。

 下記に抜粋した「予期せざる友情」の中の、小学生との会話や小学校長との会話にも、何か不自然で、引っかかるものがあります。小学一年生の子どもが「君が代」を知らず「日本」という国を知らないと答えたのであれば、歴史学者であれば、普通、それが一般的状況であるのかどうを確認し、その背景を考察するのではないでしょうか。そして、そこから教訓を得ようとするのだと思います。でも、神国日本の来し方行く末を憂える平泉澄にとっては、事実の客観的把握や社会科学的な分析は無用なのかも知れません。
 また、小学校長が「道徳などは戦前の拘束だ、戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」などと平泉澄に反論したということも、引っかかります。特に、「戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」などという言い方をするとは思えないのです。小中学校における道徳教育の問題に関する指摘を、「本能の是認…」などと言って歪めているのではないかと想像します。道徳教育は、価値観の強制である「修身」復活の側面があるため、問題視されたのではないでしょうか。

 「教職適格の審査委員会」におけるやり取りにも疑問を感じます。審問官に問われて、「博士(平泉澄)は軍国主義でありませぬ。中正の道を説かれるのです。左右両翼を非として、常に正道を進むやうに教へられて来ました」答えたというのですが、「中正の道」とはなんでしょうか。平泉澄は戦時中、「中正の道」を主張していたでしょうか。東条英機の依頼を受けて、士官学校で講義を繰り返すようになり、それが縁で、平泉・東条の結び付きが強くなっていったといいますが、平泉澄は、軍人相手に、「中正の道」を語っていたのでしょうか。

 古事記の神話抜きには成立しない歴史を語る平泉澄とって、歴史というものは、神国日本の来し方行く末と関わる「父祖の辛苦と功業」を子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むためのものなのでしょう、その文章は、戦後もなお「皇国史観の教祖」と言えるもののように、私には思えます。
 科学の進歩が著しい現在、「日神(ヒノカミ)ながく統(トウ)を伝へ給ふ神国(カミノクニ)」を史実とする歴史が、世界に通用するでしょうか。

 下記は、「悲劇縦走」平泉澄(皇學館大学出版部)から抜粋しました。
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                                一 内外の誹謗

 ・・・
然るに此処に一つの問題となりますのは、大東亜戦争であります。此の大東亜戦争は、昭和の御代に於ける最大最重の事件であります。戦争そのものは、足掛五年で終りましたが、その源流を尋ね、その後遺症を辿りますならば、昭和の御代全体を葢ひつくすでありませう。従ってそれは、昭和の御代を代表する大事件として、当然此の時代の性格を決定するに違ひありませぬ。それ故に若し此の大戦争が、他国において誹謗せられ我国に於いても戦後は他国よりの非難に同調して、或は譏り或は慚愧してゐますように、侵略の欲心を起し、交渉の最中に奇襲をかけたりして、つまり野心と暴挙から戦争となり、殆どん全世界の袋叩きに遭ったのであれば、それによって代表せられ、それによって性格づけられる昭和の時代は、罪悪の時代であり、凶暴の時代と云はれても仕方ありますまい。もし果してさうとすれば、此の大戦の結末は、悲劇といふにも価しないでありませう。悲劇といふのは、正しい者、美しい者が苦しむから、見る人の心をうち、涙を誘うのであって、若し邪悪なる者が叩きつけられるのであれば、それは悲劇ではありますまい。
 
 然るにまことは日本、崇高なる理想をいだいて起ち、正義の旗をかざして進んだのであります。そしてそれが、常に他国の謀略によって歪められ、妨げられて、進退二つながら困難になるに及んで、やむを得ず一條の血路を開かうとしたもの、それが真珠湾の攻撃であり、プリンス・オブ・ウェールズの撃沈であったのであります。惜しい哉、国土狭小にして物資少なく、交戦四年五年と延びては、力殆んど尽きましたものの、その目標、その趣意に於いては、公明正大、他の誹謗を許さないのであります。此の重大事実を明かにする事は、昭代の為に自他のいはれなき非難を排除して、上は今生天皇の御為に、下は二百数十万忠勇の士の英霊の為に、報謝する道でありませう。しかし戦敗れたる国の常として、肝腎の責任者は、近衛公・東条大将を始めとして、殆んど皆非業の最期を遂げられ、重要なる文書も大抵失はれて、事実の究明、容易ではありませぬ。

  若し支那の昔、漢のように、政府に史官が置かれてゐて、重要なる文書記録を閲覧し、之を史料として歴史の編纂に従事する事が許され、否、許される所か、その権利が与へられ、それを義務づけられて居り、そして其の地位に太史令司馬遷の如き、卓越せる大歴史家が存在したならば、国家最高の機密に接触し、最大の方策を理解して、栄光の朝も、悲涙の夕も、崇高なる日本の理想を、その独創独自性に於いて表現し得たでありませう。然るに我国に於いては、文書記録の整備保存に当る官吏はあるにしても、之を基礎として歴史を組立てる事は、要求せられて居らず、許されても居なかったのであります。

  一方には歴史家と呼ばれる学者が、大学、又は民間に、数多くあります。然し大抵は現代と懸隔せる遠い過去に没頭し、普通現代人の難読難解とする古文書記録を操作して、之に解釈を与へるを以て本領とし、その点に於いてはすばらしい専門家も見えるものの、一たび時代の埒を越えて現代に足を踏み入れた場合には、大抵は新聞雑誌の論調に引摺り込まれて、何等の見識も無き付和雷同の境涯に陥るのであります。
 ・・・以下略
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                           六 予期せざる友情
 ・・・
 その頃、私は驚くべき事を発見しました。山路を歩いてゐて、小学校一年生の子供二三人と道連れになりました。話のついでに、「君が代」を知ってゐるかと尋ねましたところ、「そんな歌知らぬ」と答へました。「日本」といふ国は知ってゐるだらうねと尋ねると、「日本?そんな国、聞いた事無い」といひます。「アメリカは?」と聞けば「アメリカ?聞いたことあるね。」
 その頃ある県へ旅行して教育者の集まりに接触した事があります。その時、私に抗論したのは、三四人の小学校長でありました。彼等は強く主張しました。「道徳などは戦前の拘束だ、戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」

 或る県に於いては、教職適格の審査委員会に、左の如き審問が行はれました。問、あなたは平泉博士に私淑してゐると聞いたが、訪ねて行った事がありますか。答、あります。問、終戦後も会ってゐますか。答、お会いしてゐます。問、博士は軍国主義だ、戦争中はそれも意味があるが、今はどう思ひますか。答、博士は軍国主義でありませぬ。中正の道を説かれるのです。左右両翼を非として、常に正道を進むやうに教へられて来ました。問、吉田松陰をどう思ひますか。答、あなたはどう思はれますか。委員曰く、尊皇攘夷論者だらう。答、いや尊皇開国論者です。さればこそ、ペルリの船に乗ってアメリカへ渡らうとされたのです。
 右の審問は、昭和二十二年二月の事でありましたが、その前後、私の著書は、光栄にも吉田松陰全集と共に、荒縄に縛られて、学校の縁の下へ投込まれてゐるといふ噂が、其処此処にありました。不思議な事には、私自身は当時まだ追放処分を受けて居らず、二十三年三月、中央公職適否審査委員会にて決定の上、二十二日の官報に掲載せられたのでありますが、その理由は「国史の眼目」を著した事よろしからずとして、文筆追放に処するといふのでありました。「国史の眼目」の中の、どの箇所がいけないのか、明記してありませぬが、支那事変の意義を説いて、是れは背後にある所の露・英・米との戦であって、真の相手は支那では無いとし、「寧ろ日本の使命はそれ等の力に対して支那を救ふといふ点にある」と説いたのが、連合軍の不快とする所であったのではないか、など云はれてゐました。
 かういう時勢でありますから、国体とか、大義とか、忠孝とか、いふ言葉は禁物になり、忠烈の英傑を祭る事はうしろめたく思はれていましたのに、珍しいのは伊知地に於ける畑将軍のお祭りでありました。畑時能(トキヨシ)の事蹟は太平記に見えてゐますが、南風競はず、北陸に於いては宮方の勢力衰へて賊軍猛威を逞(タク)ましくした時に、わずか二十人前後の兵を以て足利の大軍に対抗し、さんざんに之を悩ました勇将であって、是の人戦死してより後は、北国の官軍また振はなかったとあります。その最後の拠城が鷲ヶ獄であり、その麓にあるのが伊知地の村であります。村では古くより秦荘軍の墓を祭り、戦前六百年祭を挙行しました時には、参集二万人、村の草創以来初めての賑と謳うはれました。そのお祭、戦後になっても続けて行ふからと云って、村長自ら迎へにこられ、毎年十月二十五日、墓前祭に参列しました。村長、前村長、区長、村のお歴々みんな揃って、楽しいお祭りでありました。
 ・・・以下略

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー悲劇縦走 平泉澄 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 学生に対し、「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」などという言葉をなげかけ、また「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」というような指導をしたという皇国史観のリーダー平泉澄は、自らの戦争責任について、「本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈である」というのですが、「悲劇縦走」で、自らの責任の大きさを語っているように、私には思えます。

 下記に抜粋した「七十四 終戦(其二)」の文章にあるように、自ら阿南陸相に下記のようなことを”強くお願いした”と書いているのです。まさに軍の作戦に介入する、学者らしからぬ提案です。
”…東大工学部航空研究所員高月教授の苦心製作したる発動機は、之を満州に於いて実験したる所、東京より太平洋、アメリカ大陸、更に大西洋を越えてフランスにまで到達し得べき事、明かになりました、然らばこの長距離を以て米国本土を襲撃する事、容易でありませう、若しそのガソリンを半減して爆弾を積めば米軍の要地を破砕し、その油田を焼却し、米軍の半をその本土防衛の為に釘付けにする事も出来るでありませう。攻守の勢いを一変すべく、何とぞ此の案を御詮議いただきたく、而して若し此の案を御採用の時は、その一番に私を便乗させて下さい…”
 
 また、敗戦間際になお、茨城県沿岸防衛軍野田善吾中将の要請に応じて石岡や水戸で将士に講演したのをはじめ、広島市宇品の暁部隊、江田島の海軍兵学校、神ノ池の海軍航空隊等々、日本全国を飛びまわり講義・講演を続けていたことを書いています。その上、宮城事件の首謀者たちとも密に連絡を取り合い、
「陸海軍としては、天皇制の存続を保証せられないかぎり、応諾する事は出来ない」として、今一押し、押す態勢を取らうではないか
などと話し合っているのです。「至純の忠誠」を語り、「只々一途に己か本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟」して戦うことを説いて回ったのでしょう。戦時中、日本軍兵士の士気を鼓舞することで、平泉澄以上に活躍した人はいないと思います。

 「 Ⅱ わだつみの友へ-学徒出陣二十五年に」と題して色川大吉氏が、平泉澄の講義について下記のようなことを書いています。

学徒出陣壮行会が行われる数日前、私は東大文学部の階段教室で平泉澄教授の日本思想史の最終講義を聞いた。そのとき平泉澄が教壇で短刀を抜き放って、「国をおもひ眠られぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣(ツルギ)かな」と誦じ、終わって「しばらくお別れです」「いや、永久にお別れです」といって出てゆかれたのには、驚き、あきれた。”「歴史家の嘘と夢」色川大吉(朝日選書8)

 「永久にお別れです」ということは、「死んでこい」ということを意味するのではないかと思いますが、文学部長の今井登志喜教授(西洋史)は
 ”「前途ある若き諸君を、今痛恨の思いをもって戦場に送る。今回の政府の措置は、まさに千載の痛恨事とせねばならぬ。願わくは諸君、命を大切に、生きてふたたびこの教室に会せんことを」と涙とともに訴えられた。
というのですから、平泉澄の思想の人命軽視は否定しようがないと思います。
 平泉澄の考え方では、どんなに大勢の日本兵が死んでも、「己か本分の忠節を守り」、自ら立派に死んだということで、大した問題にならないのかも知れません。したがって、平泉澄が、兵士の死に対する自身の「責任」の問題に向き合うこともないのだろうと思います。
 
 平泉澄の文章に、赤紙一枚で召集され、地獄の苦しみを味わって死んでいった兵士や残された家族に思いを寄せる文章を見つけることが困難なのは、そうした考え方からくるのだろうと思います。


 敗戦が避けられない状況の中でなお
当時私が同士同学と共に米軍の撃破に鋭意奔走してゐましたのは、終戦阻止の為にあらずして、終戦を可能ならしむる為、そして彼に痛撃を与へる事によって、終戦の条件を少しでも善くしたいと願ったからであります。
などという、平泉澄は、「朕の命令」を利用して、理不尽な戦争を続けた軍を支えたこと、否定しようがない事実だと思います。人命よりも「終戦の条件を善く」することが大事だとするところに、「神国日本」・「皇国日本」の正体が示されているのではないでしょうか。 

 下記は、「悲劇縦走」平泉澄(皇學館大学出版部)から抜粋しました。
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                            七十四 終戦(其二)

 ・・・
 兎も角正月九日の阿南大将邸、大将と私とは色々話をしました。その中で、私が強くお願ひした事が二つあります。その第一は、陸軍部内に於いて当時噂があり、もしくは計画せられてゐた、陛下御動座の案を、断然破棄していただきたい、と云ふ事であります。卒然として私の説を耳にして、「あなたは陛下の御安泰を冀はないのか」と、憤りを帯びて反問した人もあります。私が陛下の御安泰を祈らぬわけはありませぬ。然し私は何よりも天皇の御徳に傷のつく事を恐れるのであります。過去の歴史を顧れば、苦難に遭遇し給うた天皇は、数多くおはしまし、殊に絶海の孤島に沈淪し、寒山幽谷に埋没し給うたと申上げてよい痛ましい晩年を送らせ給うた方々、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の如き、その御事蹟を仰ぎ見る時、私共は泣いても泣ききれないのであります。しかも、同時に、その苦難が、日本の道を明かにし給はむとの思召より発してゐる所に、私共は無限の感動を覚えるのであります。今若し宣戦の大詔を発せられたままで、命を棄てて前線に向ふ軍隊と、苦難に喘ぐ国民を置去りにして、陛下を何処かへ御移し申上げて了ったとあっては、君臣の間の道義は、一体どうなるのでありませうか。皇子皇女は、どうぞ安全な場所へお移し申上げて下さい。陛下には何とぞ今のまま宮城におはしまして御統裁遊ばされたく、若しお移りになるのであれば、一歩でも前の方へお進み願上げます、と云ふのが、国体護持を本願とする私の願望でありました。先きに皇紀二千六百年記念事業として、吉野山なる後醍醐天皇御陵の前の山道を、陛下御親拝の便宜を計り、自動車道を開かうといふ宮内省と奈良県との案に反対して、先帝の御苦難を回想し給うての御親拝ならば、此処は御車を横付にし給ふべきではなく、出来れば御ひろひ、いけなければ御駕篭を御使用願ふべき所ですと主張して、その筋の怒りを受けた事がありますが、今の問題はそれ以上に重大であって、是れは下手をすれば一大事と考へ、第一に阿南大将にお願したのでありました。
 大将は、即座に快諾せられました。云はれますには、「全く同感であります。自分は先きに中佐でありました時、多くの反対を押切って、宮中の防空壕、心をこめて造り、強固の上にも強固を期して築造しましたが、その後、陸軍次官在任中、之を拡大強化しました。今後一層注意して万全を期する事にしませう。皇后陛下始め皇子皇女方は別であって、安全な所にお移り願ふべきでありませうが、陛下には宮城以外に御動座をお願申上ぐべきで無い事、全く同感です」と云はれました。

 第一の、問題は之で解決して、私は大いに安堵しました。次には第二の問題であります。日米の戦勢、昭和十七年六月ミッドウェーの戦を界として、攻守、所をかへました。彼れは図に乗って進み、我れはやむを得ず、退いて守る態勢となりました。然るに攻撃に出づる者は、その時機と、その場所とを、己れの自由に選択し、而して防守する者は、戦場と時機との二つを彼れに制約せられて、初めより頗る不利であります。それ故に小を以て大と戦ひ、劣勢にして優勢を討たうとするには、先づ攻勢を取戻すべきでありませう。たまたま昭和十九年七月、東大工学部航空研究所員高月教授の苦心製作したる発動機は、之を満州に於いて実験したる所、東京より太平洋、アメリカ大陸、更に大西洋を越えてフランスにまで到達し得べき事、明かになりました、然らばこの長距離を以て米国本土を襲撃する事、容易でありませう、若しそのガソリンを半減して爆弾を積めば米軍の要地を破砕し、その油田を焼却し、米軍の半をその本土防衛の為に釘付けにする事も出来るでありませう。攻守の勢いを一変すべく、何とぞ此の案を御詮議いただきたく、而して若し此の案を御採用の時は、その一番に私を便乗させて下さい。直接のお役には立ちませぬが、いよいよ米本土襲撃となり。その一番機に平泉まで乗込んで戦死したとなれば、ミッドウェー以来の萎靡沈滞を一掃して、三軍の士気旺盛となり、踊躍して海を越える者、相継ぐでありませう。是れが私の阿南大将に提言した第二の点でありました。大将は楽しく之を聴いて居られましたが、やはり無理があり不可能であるとしてか、可否を云はれず、云はば黙殺の形でありました。大将は、実践の経験から見て、米軍恐るるに足らず、そのやうな無理をしないでも、大丈夫勝てると信じて居られるようでありました。
 昭和二十年正月九日、午後五時より七時に至る二時間、阿南大将との懇談、要点は以上の通りでありました。今後はいつでもお会ひ出来ると思って、談他事に及ばず、久振りの御帰宅ですから、いそいで辞去しましたが、実際お会ひしたのは、その後一回、六月二十二日の夕だけでした。
 その後、形勢日々に非にして、空襲の被害は益々激しくなりました。就中三月九日の如きは、全市火の海と化し、満天炎となったかと想はれ、罹災者五十七万七千余人、戸数十四万五千余戸、死者一万八百三十二人と発表せられました。次に激しかったのは、四月十三日の夜で、被害は木戸侯、尾州徳川家、浅野家、菊池家、岡田大将等の邸宅を主とし、宮中の一部にも及んだと承りました。曙町の寓居が灰となったのも、是の時でありました。…
 ・・・
 六月十三日、井田中佐と畑中少佐、相携えて来訪。同二十二日、阿南大将が会ひたいと云はれるとの事で、その夜おたづねしました。大将は、四月七日陸軍大臣に任ぜられましたが、陸相官邸焼失の為、わづかに焼け残った副官の官舎に居られましたので、そこで七時半より九時半まで懇談しましたが、主たる要用、は、本土防衛の諸方面軍、いづれも平泉の来援を希望する中に、最も熱心なるは、茨城県沿岸防衛軍司令官野田善吾中将、ここへ行って貰へませんか、と云ふ事で、直ちに快諾し、七月十一日出発、十二日は石岡に於いて七百名の将士に、十三日は水戸に於いて六百名の将士に講演し、十四日は山本茂雄連隊長を始め、篤志三十余名の将校と共に、小田、關、大宝の古城址を廻りましたが、巡拝終はって解散する時、山本聯隊長が一同を代表して述べられた感謝の辞は、凛然として懦夫を起たしめ、勇士を鼓舞するものでありました。
 その間に戦勢は、日に日に非となりました。大本営の発表はどうあるにせよ、第一線の情況は、私にはよく分ってゐました。昭和二十年正月には、十七、十八、十九の三日連続、広島市宇品の暁部隊に於いて講演しました。暁部隊は隷下凡そ二十数万、北はアリューシャンより、南はニューギニアに至って奮闘中であります。そのうち交戦中の隊を除き。、北は石巻より、南は鹿児島に至る間の将校一千五百名、講堂を埋め尽くしての集まり、司令官佐伯中将、部付北沢中将、参謀長磯矢少将、練習部長馬場少将いづれも颯爽として不屈の精神漲ってゐました。
 暁部隊を終って、江田島へゆき、海軍兵学校で講義をしてゐるうち、航空本部伊東大佐より依頼があり、茨城県神(カウ)の池航空部隊へ行く事になり、二十日夕、岩国の講義を午前に繰上げて、午後一時四十四分岩国発東京行の急行に乗りましたが、途中たびたび爆撃を受けて不通の箇所があり、結局列車は京都止り、二十一日暮れの七時にようやく新橋へ着きました。
 正月二十三日は神(カウ)の池の海軍航空隊、司令は岡村基春大佐、豪壮精悍を以て鳴る人、小田原大佐の二期下で、その指導を受けたと云って居られました。副長五十嵐中佐、飛行長岩城少佐、いづれも百戦の勇士でした。講演は三時半より五時半まで、題は「尽忠」、聴者は士官と下士官と合せて数百名、すべて搭乗員であって、その三分の一は特攻隊と云ふ事でした。驚いたのは此の人々、私の講演を最後として神の池を立ち、その夜のうちに全部前線へ向って飛び去った事でありました。その中に京都青々の同学緒方襄中尉(二十四歳)も在って、爽かな挨拶の言葉を残して、やがて、沖縄の空に花と散りました。
 二月九日には霞ヶ浦海軍航空隊へ行き、二晩つづけて講演。司令は和田三郎大佐、ガダルカナル以来歴戦の勇士、磊々落々たる人物でした。飛行長は河本中佐、穏かなお方で、飛行場を案内していただきました。左足の無い角野少佐、指の無い關谷大尉が、熱心に後輩を指導して居られる姿を見たのは、是の時でした。
 四月十日には、仙台青々の同学寺田壽夫氏より葉書が届けられました。
 「小生此度第二次宇佐八幡護皇隊員として本日出撃仕り候、唯々必死必中、以て皇国護持之道に殉ずべく候、先生の御健祥切に祈上候、歌一首詠み遺し置き候、
  戀闕
  桜花 散りの間際に 益荒男は
      君をおもひて 心悲しも  四月四日」
 此の人の写真、特殊の事情あって気の毒に思ひ、三十年の後まで、私は旅行のたびに持ちあるき、方々の景色を見せて、心を慰めて貰ひました。
 四月二十六日、七日は、土浦へ行って、海軍気象学校で講演しました。校長は関少将。五月十一日は、大津の海軍航空隊で講演、司令は松木通世大佐、此の部隊は、いよいよ重大なる使命を帯びる事となり、一段の緊張でありました。
 六月十二日の夕七時五十分沖縄の部隊に対して感謝と激励の言葉を放送しました。恐らくは是れが最後であらうといふ事で、感慨悲痛でありました。西片町より放送局まで、焼跡ばかりつづいて、帰りは暗黒、爪先さぐりに歩くのでした。
 かやうにして戦況は、特に報告や説明を受けるまでも無く、私には自然に明瞭でありました。それ故に不満に思ひましたのは、政府や重臣の怠慢であります。小磯内閣は、為すなくして退陣し、代って鈴木内閣は、昭和二十年四月七日成立しました。その鈴木首相の人物、立派である事はいふまでもありませぬが、さて何をしようとされるのか、それが一向に分りませぬ。大廈将(タイカマサ)に倒れむとするに、悠揚迫らず出納帳つけてゐる番頭に似て、旧例古格口やかましい様な政府、例をあぐれば皇国正史編修の議、驚いた事には、昭和十八年の八月に閣議決定となり、私に協力を要請して文部省の企画課長が来訪したのが八月三十一日、それは不急不要なるのみならず、寧ろ有害であるとして、数箇条の難点をあげて中止を勧告しましたが、文部大臣は耳を傾けず、たびたびの会議に反対しましたが毫も反省なく、小磯内閣に引継ぎ、鈴木内閣に継承せられ、やがて発令せられて国史院創立を見たかと思ふ間もなく終戦となって、一切ご破算となった如き、先見の明なく、断行の勇なき、著しい例といふべきでありませう。
 他方、平和主義者の講話策は、極秘のうちに論議せられてゐましたが、是は亦、実に恥づべきものでありました。それを知りましたのは、徳永中将の懇請により、二十年六月三十日、海軍技術研究所に赴いて相談に応じた時からであります。研究所には、専門委員として大学教授等の学者を集めて審議を重ねて来たが、どうも心配だから私にも参加してほしいとの事でありましたので、七月六日、同二十日の二回出席して、研究報告の発表を聴きました。その内容は、くわしく記録して置きましたが、到底発表するに忍びざるもの、言語道断でありました。此のやうな説が、海軍の機関に入って堂々と陳述せられてゐるとは、説をなす者の不逞はいふまでもなく、国の衰へ窮まり、病はすでに膏肓に入ったものかと嘆息した事でありました。
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                            七十五 終戦(其の三)

 昭和二十年七月、大学より選ばれたる専門委員によって、所もあらう海軍技術研究所に於いて、滔々陳述せられたる研究報告が、言語道断の放言でありました事は、私をして国の健康状態のすでに危篤に陥ってゐる事を痛感せしめ、此の状態に陥るまで放置して、決戦の奮励もしなければ、終戦の努力も一向に見られざる当局の怠慢を嘆くのでありました。
 当時私が同士同学と共に米軍の撃破に鋭意奔走してゐましたのは、終戦阻止の為にあらずして、終戦を可能ならしむる為、そして彼に痛撃を与へる事によって、終戦の条件を少しでも善くしたいと願ったからであります。一年前の十九年六月二十五日、同学数名会合し、時局に就いて意見をまとめ、和平絶対反対といふに落着いた由、私に申し出た事があります。その時の私の答、手帳に控へがあります。
 「諸兄は宣戦の大詔を何と拝読せるや、陛下は初めよりこの戦乱の一日も早く終りて和平の再び来らん事を望ませ給ふ也、和平絶対反対などは、いふべき事にあらず、我等の考ふべきは、実にその条件に在り、(日露戦争の時など児玉参謀総長は出馬に際して、和平の事を政治家に依頼して出かけたり)」
 切迫せる戦勢と優柔なる政府、之を見くらべて嘆いてゐるうちに、二十年八月六日、広島に原子爆弾が落され、八日の夜、軍務局の畑中少佐西片町へ来訪、相談がありました。あくる九日、海軍軍令部より電話、昨夜ソ連宣戦布告、ソ連国境に戦始まった由、さては一昨日ソ連大使館にて庭の手入中なりと云はれたのは、機密書類の焼却であったのか、と驚いた事でした。九日午後一時半、徳永中将西片町へ来訪あり、事態緊迫、憂慮に堪へず、信頼し得る将士、陸海提携、国体の守護に当たるべしとして、御相談がありました。よって直ちに、陸軍の阿南大将に書状をしたため、同時に竹下・井田両中佐、畑中少佐にも手紙を届けました。その夜は憂憤の士数名西片町へ来訪、鳥巣氏と窪田少佐とは、そのまま一泊。夜中の三時に島田少佐より電話、人々の態度、それぞれの反応を報じてくれました。明くる十日、横須賀の海軍航空隊司令柴田武雄大佐来訪。その司令辞去して間もなく徳永中将来訪、情勢は甚だ悲観すべき事を告げられ、ついで書状を以て更に奮励すべき由、申越されました。
 よって十一日宮内省へ参り、宗秩寮総裁松平慶民子爵をたづねて、陛下の思召くはしく承りました。子爵は、政治的色彩の全くない無色透明、純忠至誠のお方で、御信任頗る厚く、間もなく宮内大臣に任ぜられた人であります。松平子爵によって宮中の御様子はよく分かりましたので、次には内務省へ行き、情報局に第二部長加藤祐三郎氏をたづねました。これは頗る有能な士で、ここ数日の複雑に紛糾せる問題を明快に記憶し分析して、戦争指導会議及び閣議の模様、一々掌を指すが如くに説明、そして最後に聖断は下り、連合国の申入を受諾する事に決したのです、と告げてくれました。よって其の日の午後、東大の研究室に於いて、数通の書状をしたため、之を全国各地主要の同学に告げました。十二日もつづいて書状をしたため、就中阿南大将には、「国内特に陸軍の一隅危激の輩、暴発妄動のおそれ有之、小生も力の及ぶ限り防止いたすべく候へども、微力にて不安に候、何とぞ閣下の御高配願上げ候」とお頼みしたのでありました。同時に竹下・井田両中佐及び畑中少佐にも、連名で一書を送り、「小さき事にこだわらず、大局に御着眼ありたく候、又右翼的妄動をせず、あくまで忠誠の臣として御奉公下され度、御依頼申上候」と頼みました。
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 しかるに私が、しきりに暴発を誡めてゐるうちに、畑中少佐飛んで来て桑港(サンフランシスコ)放送を伝へてくれました。それによれば米国務長官バーンズは、連合国を代表して日本の降伏条件を承諾するといふのでありますが、その中に、日本の天皇及び政府は、降伏条件を実行に移す間、連合国最高指揮官に従属すべきものとし、日本国民は、国民の自由意思に従ふ政体を樹立すること許さる云々とあるのを見て、陛下に対し奉って、臣子の情まことに忍ぶべからざるものあると共に、一体連合国は、日本に天皇制廃止を強ひようとしてゐるのか、どうか、分からなくなり、非常に心配しました。そこで、畑中少佐と相談して、「陸海軍としては、天皇制の存続を保証せられないかぎり、応諾する事は出来ない」として、今一押し、押す態勢を取らうではないか、と云ふ事になりました。…
 ・・・
 あくる十三日午前九時半ごろ、研究室に畑中少佐来訪、その話によれば、今朝、首相は陸相を招いて、彼の回答は、言葉は拙なれども、趣旨は大体あれにてよしと云はれ、而して海軍大臣米内大将は、固く執って和平の進行を図りつつあり、此の上は海軍部内にて海相の更迭を計るやうにいたしたい、との事でありました。是に於いて私は、宮中の思召がいかにあるか、又軍がいかやうに分裂してゐるか、を知り得ましたので、
 「此の状態に於いて断乎として戦を遂行する為には、現実に必勝の兵器と戦術とあるを要す、その用意は」
と尋ねたところ
 「その用意はなし、只やるだけだ」
との答でありましたから、その軽率無謀を固く誡め、国家存亡の重大事、慎重に考へて足を踏みはづさないやうにしなければならぬ、と説きました。
 ・・・(以下略)


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