-NO542~
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー軍人勅諭 全文ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 下記の「軍人勅諭」は、戦時中に発行された「軍人勅諭謹解」三浦藤作著(鶴書房・昭和19年9月発行)から抜粋しました。したがって、最近あまり目にしない漢字の旧字体が多く使われていますので、その一部は新字体に変えました。また、同書の「勅諭」の文章では、すべての漢字に読みがなが付けられていますが、その一部の読みがなを半角カタカナで漢字の後に括弧書きしました。旧仮名遣いについては、維持するようにしました。

  『軍人勅諭』(正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』)は、1882年(明治15年)1月に明治天皇が陸海軍の軍人に「下賜」したものですが、それは、参謀本部を政府(当時の太政官)のもとにある陸軍省から独立させ、天皇が直接統帥権を掌握し親裁することに決定した、いわゆる「統帥権の独立」(明示11年)や、陸軍卿山県有朋の名において、陸軍部内に頒布された「軍人訓戒」(西周の起草・明治11年)を、発展的に「勅諭」というかたちにまとめ、より一層天皇制絶対主義的なものにしようと意図した結果だろうと思います。

 山県有朋は、明治天皇の名により宣言された王政復古の大号令による天皇親政のもと、日本では初めての近代軍隊の組織化に取り組み、天皇の統帥権を確立するとともに、天皇の命令に絶対服従する軍隊を作り上げ、政権を強化しようと、「軍人訓戒」を改め、さらに進めて、天皇直々の「軍令」にも等しい「勅諭」というかたちで、軍人・軍隊に示したのだと思います。

 その勅諭は、前文において、「兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり」として、武士の世が「失体(失態)」であったのだとしています。天皇が、文武の大権を掌握するのが、日本本来の姿だというわけです。
 徳目としては、下記のように「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」の五つをあげ、「己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ」、とか「上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」などとして、天皇に対する絶対的自己献身を軍人・軍隊の最も重要な道徳的価値にしています。

 
 同書の著者・三浦藤作は、「前篇 軍事勅諭謹解通義、第三章 勅諭下賜当時の国情」で、「明治天皇には、国民思想の混乱、社会情勢の紛糾を深く御軫念あらせられ、明治十四年に、国会開設及び憲法制定についての詔勅を賜り、明治十五年に、陸海軍人に勅諭を賜り、明治二十三年に、教育に関する勅語を賜り、政治上・軍事上・教育上の大本を明らかにしたもうたのであつた」と書いていますが、「国民思想の混乱、社会情勢の紛糾」の原因は、主として欧化主義によるものであったと受け止めたようです。天皇や天皇を取り巻く関係者が、欧化主義により「日本伝統の美風」が失われていくことを憂慮し、日本を天皇制絶対主義の国として発展させるため、「軍人勅諭」や「教育勅語」を「下賜」したのだというわけです。

 関連して見逃すことができないのは、当時、自由民権運動の指導者の一人であった「植木枝盛」が、国民に兵役の義務を課さない志願兵制を主張し、天皇制絶対主義的軍隊ではなく民主制軍隊の必要性を主張していたことです。彼は、天皇制絶対主義的軍隊が、民主主義の成立・発展に障碍となることを見ぬいていたということだと思います。
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   勅諭
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(ミ)つから大伴物部の兵(ツハモノ)ともを率ゐ中国(ナカツクニ)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(タカミクラ)に即(ツ)かせられて天下(アメノシタ)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換(カハ)るに随(シタガ)ひて兵制の沿革も亦屡(シバシバ)なりき古(イニシエ)は天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)にて時ありては皇后皇太子の代(カハ)らせ給ふこともありつれと 大凡(オホヨソ)兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(ナカツヨ)に至りて文武の制度皆唐国(カラクニ)風に傚(ナラ)はせ給ひ六衛府(ロクエフ) を置き左右馬寮(サウメリョウ)を建て防人(サキモリ)なと設けられしかは兵制は整ひたてとも打続ける昇平(ショウヘイ)に狃(ナ)れて朝廷の政務も漸く文弱に流れければ平農おのづから二つに分かれ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変はり遂に武士となり兵馬の権は一向(ヒタスラ)に其武士ともの棟梁(トウリヤウ)たる者に帰し世の乱れと共に政治の大権も亦其手に落ち凡(オヨソ)七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換(カハ)りて斯(カク)なれるは人の力もて挽回(ヒキカヘ)すへきにあらすとはいひなから且(カツ)は我国体に戻(モト)り且つは我祖宗(ソソウ)の御制(オキテ)に背き奉(タテマツ)り浅閒(アサマ)しき次第なりき降(クダ)りて引化嘉永(コウクワカエイ)の頃より徳川の幕府其政(マツリゴト)衰へ剰(アマツサヘ)外国の事とも起りて其侮(アナドリ)をも受けぬへき勢(イキオヒ)に迫りければ朕は皇祖(オホヂノミコト)仁孝天皇皇孝明天皇いたく宸襟(シンキン)を悩し給ひしこそ忝(カタジケナ)くも又惶(カシコ)けれ然るに朕幼(イトケナ)くして天津日嗣(アマツヒツギ)を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統(カイダイイットウ)の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼(チュウシンリョウヒツ)ありて朕を輔翼せる功績(イサヲ)なり歴世祖宗の專(モハラ)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ゴユイタク)なりといへとも併(シカシナガラ)我臣民の其心に順逆の理を辨(ワキマ)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(アラタ)め我國の光を耀(カガヤカ)さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定(タテサダ)めぬ夫(ソレ)兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ココウ)と頼み汝等は朕を頭首と仰(アフ)きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(ショウテン)の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡(ツク)すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威(ミイヅ)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維(コレ)揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽(ホマレ)を偕(トモ)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ヒトツココロ)になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福(サイハイ)を受け我國の威烈は大(オオイ)に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶(ナホ)訓諭(ヲシヘサト)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

一 軍人は礼儀を正くすへし凡軍人には上元帥(カミゲンスイ)より下一卒(シモイッソツ)に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己(オノレ)か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧(フル)きものに對しては總(ス)へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(イササカモ)も輕侮驕傲(ケイブキョウゴウ)の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇(ネンゴロ)に取扱ひ慈愛を專一(センイチ)と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若(モシ)軍人たるものにして礼儀を紊(ミダ)り上を敬(イヤマ)はす下を惠(メグ)ますして一致の和諧を失ひたらんには啻(タダ)に軍隊の蠧毒(トドク)たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし

一 軍人は武勇を尚(トウト)ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴(トウト)へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况(マ)して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨(ワキマ)へ能(ヨ)く膽力(タンリョク)を練り思慮を殫(ツク)して事を謀(ハカ)るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼(オソレ)れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人(ショニン)の愛敬を得むと心掛けよ由(ヨシ)なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(サイロウ)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難(カタ)かるへし信とは己か言を踐行(フミオコナ)ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(ツマビラカ)に思考すへし朧氣(オボロゲ)なる事を假初(カリソメ)に諾(ウベナ)ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(キハマ)りて身の措(オ)き所に苦むことあり悔(ク)ゆとも其詮なし始に能々(ヨクヨク)事の順逆を辨(ワキマ)へ理非を考へ其言は所詮踐(フ)むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速(スミヤカ)に止(トドマ)るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍(ワザハイ)に遭ひ身を滅し屍(カバネ)の上の汚名を後世(ニチノヨ)まて遺(ノコ)せること其例(タメシ)(スクナ)からぬものを深く警(イマシ)めてやはあるへき

一 軍人は質素を旨(ムネ)とすへし凡質素を旨とせされは文弱(ブンジャク)に流れ輕薄に趨(ハシ)り驕奢華靡(ゴウシャクワビ)の風を好み遂には貪汚(タンヲ)に陷りて志(ココロザシ)も無下(ムゲ)に賤(イヤシ)くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪(ツマ)はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚(オロカ)なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風(シフウ)も兵氣(ヘイキ)も頓(トミ)に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼(オソ)れて曩(サキ)に免黜條例(メンチュツデウレイ)を施行し畧(ホボ)此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(コトサラ)に又之を訓(オシ)ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(オシヘ)を等閑(ナホザリ)にな思ひそ
右の五ヶ條は軍人たらんもの暫(シバシ)も忽(ユルガセ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(マゴコロ))こそ大切なれ抑(ソモソモ)此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心(マゴコロ)は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言(カゲン)も善行も皆うはへの裝飾(カザリ)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况(マ)してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧(コゾ)りて之を悦(ヨロコビ)ひなん朕一人の懌(ヨロコビ)のみならんや

明治十五年一月四日
御名

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー教育勅語 全文ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 教育勅語」は、森友学園問題で一躍注目を浴びることになりました。園児に教育勅語を暗唱させている場面が、衝撃的だったからではないかと思います。その後、安倍政権の閣僚や副大臣、大臣官房審議官などが、様々な議論の中で、「教育勅語」を擁護するような発言を繰り返し、ついに内閣が、「勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定するに至っています。

 今までにも、「教育勅語の内容の中には、夫婦相和し、あるいは朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」として、「こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えない」というような主張をする国会議員がいたと記憶しますが、そうした考え方は、戦後間もないころの衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」や参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」を無視するものであるとともに、日本の歴史を修正し、歪曲しようとするものではないかと思います。

 いわゆる「教育勅語」は、明治天皇の「教育ニ関スル勅語」として、1890年(明治23年)10月に発布されましたが、敗戦後国会で排除・失効の決議が行われるまで、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理として、「軍人勅諭」とともに、軍国主義の日本を支える重要な役割を担っていたことは、忘れてはならないと思います。
 また同時に、「教育勅語」の教育的意味を考えるとき、その内容とは別に、教育勅語の政治的な「扱い」が、教育を受ける子どもたちに与えた教育的意味の大きさも見逃すことができません。
 教育勅語発布後、文部省はその「謄本」を作り、全国の学校に配布したようですが、それは、その後ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに「奉安殿」などと呼ばれる特別な場所(校舎とは別に設けた、小さな神社風の建物)に保管されるようになったといいます。教育勅語の謄本を丁重に取り扱うよう命じる旨の「訓令」が発せられたからです。また、「小学校祝日大祭日儀式規定」や、「小学校令施行規則」などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を「奉読」(朗読)することが定められました。
 教育勅語奉読を聞く子どもたちは、「頭を垂れて、校長先生が勅語を持って来るのを待っていた」といいます。また、勅語を奉読する校長は、フロックコートなどで正装し、真新しい白手袋をつけ、大事に納めた箱から謄本を取り出し、「勅語節」などといわれる独特の抑揚を付けて奉読したと言われています。
 さらに、子どもたちは、勅語の保管場所である「奉安殿」の前では、登下校時に「最敬礼」することが義務とされたようです。したがって、校長の勅語奉読を聞く子どもたちの多くは、その意味が分からなくても、「教育勅語」にただならぬものを感じたのだと思います。

 でも、その教育勅語の内容に関しては、発布直後から、いくつかの議論があったようです。「教育勅語」山住正己(朝日選書154)は、当時の帝国大学文化大学の著名な教授の発布直後の発言と、それに対する批判を取り上げています。(資料1)
 教育勅語を「五倫五常の道」と考える儒教主義的な解釈と「皇祖皇宗の遺訓」であることこそ重要であるという、資料1にみられるような考え方の論争です。
 そして、日本は、教育勅語の儒教主義的な解釈を否定し、日本の国体を「万世一系の天皇が神勅を奉体して永遠に統治する国であり、万古不易の国体を誇る」ものとするとともに、教育についても「その根源をここに発する(敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス)」とする考え方を徹底させる方向に進んでいったのだと思います。したがって、教育勅語が神聖視されるようになっていったことも不思議ではないと思います。

 日本は、「万世一系の天皇が神勅を奉体して永遠に統治する国」であるが故に、教育勅語は、国家に緊急の事態が起これば、国に命を捧げることを究極目標とし、教育勅語があげる日常の徳目は、究極目標のための手段として意味を持つという考え方で利用された、ということだと思います。でも、そうした考え方は、明治以降知識人に浸透しつつあった個人主義や自由主義などの西洋近代思想と相容れず、当然のことながら、自由民権運動などを抑えることにもなったのではないでしょうか。

 だから、「教育勅語の内容の中には、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」というような主張は、そうした教育勅語の考え方を無視するものだと思うのです。教育勅語で重視されたのは、そうした個々の徳目の遵守ではなく、国に緊急の事態が発生したとき、身命を捧げる覚悟であり、個々の徳目は、万古不易の国体を守るという目的達成のためにこそ意味があるという考え方です。そして、そうした考え方で、子どもたちの教育にあたることが皇祖皇宗の遺訓であるとされたわけです。

 教育勅語を園児に暗唱させたり、教育現場で教育勅語を活用することを認める人たちの本音はいったいどこにあるのか、と疑問に思います。

 皇祖皇宗ノ遺訓」を説く「教育勅語」ですが、発布当初は、その「皇祖皇宗」に関してさえ、様々な解釈があったようで、驚きました。
 
 下記の「教育勅語」全文(資料2)は「教育勅語」山住正己(朝日選書154)から抜粋しましたが、資料3は、その漢字の読みを確認しつつ平仮名にしたものです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                             第四章 勅語の精神
一 国体
 ・・・
 最初に発言したのは、旧鹿児島藩士の歴史学者・重野安繹(ヤスツグ・1827-1910)であった。重野は11月3日の天長節に、帝国大学で開かれた勅語拝読会で、学生らを前に、「勅語の大旨は蓋し忠君愛国及父子兄弟夫婦朋友の道を履行するに在りて、即ち五倫五常の道なり(君臣父子等は其体、恭倹以下は其の目なり)五輪五常は儒教の名目なれば是を儒教主義と云ふも不可なかるべし。然るにその道は実に皇祖皇宗の偉勲なりと宜ひしは深き仔細ある事なり」と述べた。この演説は、もとより重野個人の見解の発表だが、しかし、何といっても、最高学府であった帝大で、帝大教授が、やがて国家の指導者になると約束されていた学生を相手に行った演説であるだけに、社会全体にも重大な影響があると関心を寄せられ、その内容を知って遺憾に思った人が出るのは、当時としては、当然のことであった。
 十日後の『国民之友』(100号、11月13日)は、「重野安繹氏誤れり」という標題の論説をかかげ、この重野演説を強く批判していた。その要点は「其ソ道」は、神道、仏教の道、儒教の道のいずれか一つに限定されるものではなく、あくまでも皇祖皇宗の遺訓であるというところにあった。そこから、たとえば神武天皇の時代に儒教があったかと問うている。『国民之友』記者の激しい反発、鋭い語気を知るにはその一端を直接引いた方がよいだろう。

 何ぞ必ずしも教育の方針を儒教主義にせよと限り給ふが如きことあらんや。勅語中に其道の文字あるを以て、猥(ミダリ)に井蛙の見を以て、勅語の大なるを模捉せんとす。其無礼も亦た甚だしと云ふべし。吾人は重野博士の演説を以て、痛く憂とするもに非ず。然れども一大虚に吠えて万犬実を伝へ、日本全国の暗黒裡に圧伏せられ、擯斥せられ、蟄居せられたる者が、時を得顔に其頭を擡(モタ)げ、誤解の上に誤解を加へ、勅語の旗を押立てて、勅語以外の妄言を放たんことを恐るる而已(=スギナイ)。

 徳富蘇峰(1863~1957)の主宰する『国民之友』は、勅語が儒教主義によるものではないとし、勅語を勝手に解釈し、その威光の陰に隠れようとする者を告発しようとしていた。『国民之友』は、重野批判の文章をのせた号に、もう一つ、「教育方針の勅語」という題の教育勅語に関する論説をかかげていた。そこには、「此勅語なる者は、此勅語の下らざる前に於ても」、矢張我国教育方針たりしに相違なし。此の勅語なる者は只従来の方針をば、辱(カズカシ)くも天皇陛下に依りて、明かに我邦人の心裡に彫刻銘記せる者にして、別に新たなる教育の方針を開示せられたるに非ざるなり」と書かれていた。ここでは勅語が儒教主義と誤解されることを警戒するだけでなく、日本の教育方針が一貫して儒教主義ではなかったと主張したのである。しかし、当時、国体と儒教とが密接な関係にあると見ていたのは、重野だけではなかった。…

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教育勅語

  朕惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス爾(ナンヂ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己(オノ)レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵(シタガ)ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是(カク)ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯(コ)ノ道ハ実ニ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スベキ所之ヲ古今ニ通シテ謬(アヤマ)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶(トモ)ニ拳々服膺シテ咸(ミナ)其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾(コヒネガ)フ
  明治二十三年十月三十日
御名御璽(ギョメイギョジ)

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教育勅語(読み)

 ちんおもフニ わカこうそこうそう くにヲはじムルコトこうえんニ とくヲたツルコトしんこうナリ わカしんみんよクちゅうニ よクこうニ おくちょうこころヲいつニシテ よよそノびヲなセルハ こレわカこくたいノせいかニシテ きょういくノえんげんまたじつニここニそんス
 
 なんじしんみん ふぼニこうニ けいていニゆうニ ふうふあいわシ ほうゆうあいしんシ きょうけんおのレヲじシ はくあいしゅうニおよホシ がくヲおさメ ぎょうヲならヒ もっテちのうヲけいはつシ とくきヲじょうじゅシ すすんテこうえきヲひろメ せいむヲひらキ つねニこくけんヲおもんシ こくほうニしたがヒ いったんかんきゅうアレハ ぎゆうこうニほうシ もっテてんじょうむきゅうノこううんヲふよくスヘシ かくノごとキハ ひとリちんカちゅうりょうノしんみんタルノミナラス またもっテなんじそせんノいふうヲけんしょうスルニたラン

 こノみちハ じつニわカこうそこうそうノいくんニシテ しそんしんみんノともニじゅんしゅスヘキところ これヲここんニつうシテあやまラス これヲちゅうがいニほどこシテもとラス ちんなんじしんみんトともニ けんけんふくようシテ みなそのとくヲいつニセンコトヲこいねがフ

明治二十三年十月三十日

ぎょめいぎょじ


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