-NO542~546
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー軍人勅諭 全文ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 下記の「軍人勅諭」は、戦時中に発行された「軍人勅諭謹解」三浦藤作著(鶴書房・昭和19年9月発行)から抜粋しました。したがって、最近あまり目にしない漢字の旧字体が多く使われていますので、その一部は新字体に変えました。また、同書の「勅諭」の文章では、すべての漢字に読みがなが付けられていますが、その一部の読みがなを半角カタカナで漢字の後に括弧書きしました。旧仮名遣いについては、維持するようにしました。

  『軍人勅諭』(正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』)は、1882年(明治15年)1月に明治天皇が陸海軍の軍人に「下賜」したものですが、それは、参謀本部を政府(当時の太政官)のもとにある陸軍省から独立させ、天皇が直接統帥権を掌握し親裁することに決定した、いわゆる「統帥権の独立」(明示11年)や、陸軍卿山県有朋の名において、陸軍部内に頒布された「軍人訓戒」(西周の起草・明治11年)を、発展的に「勅諭」というかたちにまとめ、より一層天皇制絶対主義的なものにしようと意図した結果だろうと思います。

 山県有朋は、明治天皇の名により宣言された王政復古の大号令による天皇親政のもと、日本では初めての近代軍隊の組織化に取り組み、天皇の統帥権を確立するとともに、天皇の命令に絶対服従する軍隊を作り上げ、政権を強化しようと、「軍人訓戒」を改め、さらに進めて、天皇直々の「軍令」にも等しい「勅諭」というかたちで、軍人・軍隊に示したのだと思います。

 その勅諭は、前文において、「兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり」として、武士の世が「失体(失態)」であったのだとしています。天皇が、文武の大権を掌握するのが、日本本来の姿だというわけです。
 徳目としては、下記のように「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」の五つをあげ、「己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ」、とか「上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」などとして、天皇に対する絶対的自己献身を軍人・軍隊の最も重要な道徳的価値にしています。

 
 同書の著者・三浦藤作は、「前篇 軍事勅諭謹解通義、第三章 勅諭下賜当時の国情」で、「明治天皇には、国民思想の混乱、社会情勢の紛糾を深く御軫念あらせられ、明治十四年に、国会開設及び憲法制定についての詔勅を賜り、明治十五年に、陸海軍人に勅諭を賜り、明治二十三年に、教育に関する勅語を賜り、政治上・軍事上・教育上の大本を明らかにしたもうたのであつた」と書いていますが、「国民思想の混乱、社会情勢の紛糾」の原因は、主として欧化主義によるものであったと受け止めたようです。天皇や天皇を取り巻く関係者が、欧化主義により「日本伝統の美風」が失われていくことを憂慮し、日本を天皇制絶対主義の国として発展させるため、「軍人勅諭」や「教育勅語」を「下賜」したのだというわけです。

 関連して見逃すことができないのは、当時、自由民権運動の指導者の一人であった「植木枝盛」が、国民に兵役の義務を課さない志願兵制を主張し、天皇制絶対主義的軍隊ではなく民主制軍隊の必要性を主張していたことです。彼は、天皇制絶対主義的軍隊が、民主主義の成立・発展に障碍となることを見ぬいていたということだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   勅諭
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(ミ)つから大伴物部の兵(ツハモノ)ともを率ゐ中国(ナカツクニ)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(タカミクラ)に即(ツ)かせられて天下(アメノシタ)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換(カハ)るに随(シタガ)ひて兵制の沿革も亦屡(シバシバ)なりき古(イニシエ)は天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)にて時ありては皇后皇太子の代(カハ)らせ給ふこともありつれと 大凡(オホヨソ)兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(ナカツヨ)に至りて文武の制度皆唐国(カラクニ)風に傚(ナラ)はせ給ひ六衛府(ロクエフ) を置き左右馬寮(サウメリョウ)を建て防人(サキモリ)なと設けられしかは兵制は整ひたてとも打続ける昇平(ショウヘイ)に狃(ナ)れて朝廷の政務も漸く文弱に流れければ平農おのづから二つに分かれ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変はり遂に武士となり兵馬の権は一向(ヒタスラ)に其武士ともの棟梁(トウリヤウ)たる者に帰し世の乱れと共に政治の大権も亦其手に落ち凡(オヨソ)七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換(カハ)りて斯(カク)なれるは人の力もて挽回(ヒキカヘ)すへきにあらすとはいひなから且(カツ)は我国体に戻(モト)り且つは我祖宗(ソソウ)の御制(オキテ)に背き奉(タテマツ)り浅閒(アサマ)しき次第なりき降(クダ)りて引化嘉永(コウクワカエイ)の頃より徳川の幕府其政(マツリゴト)衰へ剰(アマツサヘ)外国の事とも起りて其侮(アナドリ)をも受けぬへき勢(イキオヒ)に迫りければ朕は皇祖(オホヂノミコト)仁孝天皇皇孝明天皇いたく宸襟(シンキン)を悩し給ひしこそ忝(カタジケナ)くも又惶(カシコ)けれ然るに朕幼(イトケナ)くして天津日嗣(アマツヒツギ)を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統(カイダイイットウ)の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼(チュウシンリョウヒツ)ありて朕を輔翼せる功績(イサヲ)なり歴世祖宗の專(モハラ)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ゴユイタク)なりといへとも併(シカシナガラ)我臣民の其心に順逆の理を辨(ワキマ)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(アラタ)め我國の光を耀(カガヤカ)さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定(タテサダ)めぬ夫(ソレ)兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ココウ)と頼み汝等は朕を頭首と仰(アフ)きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(ショウテン)の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡(ツク)すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威(ミイヅ)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維(コレ)揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽(ホマレ)を偕(トモ)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ヒトツココロ)になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福(サイハイ)を受け我國の威烈は大(オオイ)に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶(ナホ)訓諭(ヲシヘサト)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

一 軍人は礼儀を正くすへし凡軍人には上元帥(カミゲンスイ)より下一卒(シモイッソツ)に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己(オノレ)か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧(フル)きものに對しては總(ス)へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(イササカモ)も輕侮驕傲(ケイブキョウゴウ)の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇(ネンゴロ)に取扱ひ慈愛を專一(センイチ)と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若(モシ)軍人たるものにして礼儀を紊(ミダ)り上を敬(イヤマ)はす下を惠(メグ)ますして一致の和諧を失ひたらんには啻(タダ)に軍隊の蠧毒(トドク)たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし

一 軍人は武勇を尚(トウト)ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴(トウト)へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况(マ)して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨(ワキマ)へ能(ヨ)く膽力(タンリョク)を練り思慮を殫(ツク)して事を謀(ハカ)るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼(オソレ)れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人(ショニン)の愛敬を得むと心掛けよ由(ヨシ)なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(サイロウ)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難(カタ)かるへし信とは己か言を踐行(フミオコナ)ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(ツマビラカ)に思考すへし朧氣(オボロゲ)なる事を假初(カリソメ)に諾(ウベナ)ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(キハマ)りて身の措(オ)き所に苦むことあり悔(ク)ゆとも其詮なし始に能々(ヨクヨク)事の順逆を辨(ワキマ)へ理非を考へ其言は所詮踐(フ)むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速(スミヤカ)に止(トドマ)るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍(ワザハイ)に遭ひ身を滅し屍(カバネ)の上の汚名を後世(ニチノヨ)まて遺(ノコ)せること其例(タメシ)(スクナ)からぬものを深く警(イマシ)めてやはあるへき

一 軍人は質素を旨(ムネ)とすへし凡質素を旨とせされは文弱(ブンジャク)に流れ輕薄に趨(ハシ)り驕奢華靡(ゴウシャクワビ)の風を好み遂には貪汚(タンヲ)に陷りて志(ココロザシ)も無下(ムゲ)に賤(イヤシ)くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪(ツマ)はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚(オロカ)なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風(シフウ)も兵氣(ヘイキ)も頓(トミ)に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼(オソ)れて曩(サキ)に免黜條例(メンチュツデウレイ)を施行し畧(ホボ)此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(コトサラ)に又之を訓(オシ)ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(オシヘ)を等閑(ナホザリ)にな思ひそ
右の五ヶ條は軍人たらんもの暫(シバシ)も忽(ユルガセ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(マゴコロ))こそ大切なれ抑(ソモソモ)此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心(マゴコロ)は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言(カゲン)も善行も皆うはへの裝飾(カザリ)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况(マ)してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧(コゾ)りて之を悦(ヨロコビ)ひなん朕一人の懌(ヨロコビ)のみならんや

明治十五年一月四日
御名

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー教育勅語 全文ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 教育勅語」は、森友学園問題で一躍注目を浴びることになりました。園児に教育勅語を暗唱させている場面が、衝撃的だったからではないかと思います。その後、安倍政権の閣僚や副大臣、大臣官房審議官などが、様々な議論の中で、「教育勅語」を擁護するような発言を繰り返し、ついに内閣が、「勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定するに至っています。

 今までにも、「教育勅語の内容の中には、夫婦相和し、あるいは朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」として、「こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えない」というような主張をする国会議員がいたと記憶しますが、そうした考え方は、戦後間もないころの衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」や参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」を無視するものであるとともに、日本の歴史を修正し、歪曲しようとするものではないかと思います。

 いわゆる「教育勅語」は、明治天皇の「教育ニ関スル勅語」として、1890年(明治23年)10月に発布されましたが、敗戦後国会で排除・失効の決議が行われるまで、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理として、「軍人勅諭」とともに、軍国主義の日本を支える重要な役割を担っていたことは、忘れてはならないと思います。
 また同時に、「教育勅語」の教育的意味を考えるとき、その内容とは別に、教育勅語の政治的な「扱い」が、教育を受ける子どもたちに与えた教育的意味の大きさも見逃すことができません。
 教育勅語発布後、文部省はその「謄本」を作り、全国の学校に配布したようですが、それは、その後ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに「奉安殿」などと呼ばれる特別な場所(校舎とは別に設けた、小さな神社風の建物)に保管されるようになったといいます。教育勅語の謄本を丁重に取り扱うよう命じる旨の「訓令」が発せられたからです。また、「小学校祝日大祭日儀式規定」や、「小学校令施行規則」などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を「奉読」(朗読)することが定められました。
 教育勅語奉読を聞く子どもたちは、「頭を垂れて、校長先生が勅語を持って来るのを待っていた」といいます。また、勅語を奉読する校長は、フロックコートなどで正装し、真新しい白手袋をつけ、大事に納めた箱から謄本を取り出し、「勅語節」などといわれる独特の抑揚を付けて奉読したと言われています。
 さらに、子どもたちは、勅語の保管場所である「奉安殿」の前では、登下校時に「最敬礼」することが義務とされたようです。したがって、校長の勅語奉読を聞く子どもたちの多くは、その意味が分からなくても、「教育勅語」にただならぬものを感じたのだと思います。

 でも、その教育勅語の内容に関しては、発布直後から、いくつかの議論があったようです。「教育勅語」山住正己(朝日選書154)は、当時の帝国大学文化大学の著名な教授の発布直後の発言と、それに対する批判を取り上げています。(資料1)
 教育勅語を「五倫五常の道」と考える儒教主義的な解釈と「皇祖皇宗の遺訓」であることこそ重要であるという、資料1にみられるような考え方の論争です。
 そして、日本は、教育勅語の儒教主義的な解釈を否定し、日本の国体を「万世一系の天皇が神勅を奉体して永遠に統治する国であり、万古不易の国体を誇る」ものとするとともに、教育についても「その根源をここに発する(敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス)」とする考え方を徹底させる方向に進んでいったのだと思います。したがって、教育勅語が神聖視されるようになっていったことも不思議ではないと思います。

 日本は、「万世一系の天皇が神勅を奉体して永遠に統治する国」であるが故に、教育勅語は、国家に緊急の事態が起これば、国に命を捧げることを究極目標とし、教育勅語があげる日常の徳目は、究極目標のための手段として意味を持つという考え方で利用された、ということだと思います。でも、そうした考え方は、明治以降知識人に浸透しつつあった個人主義や自由主義などの西洋近代思想と相容れず、当然のことながら、自由民権運動などを抑えることにもなったのではないでしょうか。

 だから、「教育勅語の内容の中には、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」というような主張は、そうした教育勅語の考え方を無視するものだと思うのです。教育勅語で重視されたのは、そうした個々の徳目の遵守ではなく、国に緊急の事態が発生したとき、身命を捧げる覚悟であり、個々の徳目は、万古不易の国体を守るという目的達成のためにこそ意味があるという考え方です。そして、そうした考え方で、子どもたちの教育にあたることが皇祖皇宗の遺訓であるとされたわけです。

 教育勅語を園児に暗唱させたり、教育現場で教育勅語を活用することを認める人たちの本音はいったいどこにあるのか、と疑問に思います。

 皇祖皇宗ノ遺訓」を説く「教育勅語」ですが、発布当初は、その「皇祖皇宗」に関してさえ、様々な解釈があったようで、驚きました。
 
 下記の「教育勅語」全文(資料2)は「教育勅語」山住正己(朝日選書154)から抜粋しましたが、資料3は、その漢字の読みを確認しつつ平仮名にしたものです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                             第四章 勅語の精神
一 国体
 ・・・
 最初に発言したのは、旧鹿児島藩士の歴史学者・重野安繹(ヤスツグ・1827-1910)であった。重野は11月3日の天長節に、帝国大学で開かれた勅語拝読会で、学生らを前に、「勅語の大旨は蓋し忠君愛国及父子兄弟夫婦朋友の道を履行するに在りて、即ち五倫五常の道なり(君臣父子等は其体、恭倹以下は其の目なり)五輪五常は儒教の名目なれば是を儒教主義と云ふも不可なかるべし。然るにその道は実に皇祖皇宗の偉勲なりと宜ひしは深き仔細ある事なり」と述べた。この演説は、もとより重野個人の見解の発表だが、しかし、何といっても、最高学府であった帝大で、帝大教授が、やがて国家の指導者になると約束されていた学生を相手に行った演説であるだけに、社会全体にも重大な影響があると関心を寄せられ、その内容を知って遺憾に思った人が出るのは、当時としては、当然のことであった。
 十日後の『国民之友』(100号、11月13日)は、「重野安繹氏誤れり」という標題の論説をかかげ、この重野演説を強く批判していた。その要点は「其ソ道」は、神道、仏教の道、儒教の道のいずれか一つに限定されるものではなく、あくまでも皇祖皇宗の遺訓であるというところにあった。そこから、たとえば神武天皇の時代に儒教があったかと問うている。『国民之友』記者の激しい反発、鋭い語気を知るにはその一端を直接引いた方がよいだろう。

 何ぞ必ずしも教育の方針を儒教主義にせよと限り給ふが如きことあらんや。勅語中に其道の文字あるを以て、猥(ミダリ)に井蛙の見を以て、勅語の大なるを模捉せんとす。其無礼も亦た甚だしと云ふべし。吾人は重野博士の演説を以て、痛く憂とするもに非ず。然れども一大虚に吠えて万犬実を伝へ、日本全国の暗黒裡に圧伏せられ、擯斥せられ、蟄居せられたる者が、時を得顔に其頭を擡(モタ)げ、誤解の上に誤解を加へ、勅語の旗を押立てて、勅語以外の妄言を放たんことを恐るる而已(=スギナイ)。

 徳富蘇峰(1863~1957)の主宰する『国民之友』は、勅語が儒教主義によるものではないとし、勅語を勝手に解釈し、その威光の陰に隠れようとする者を告発しようとしていた。『国民之友』は、重野批判の文章をのせた号に、もう一つ、「教育方針の勅語」という題の教育勅語に関する論説をかかげていた。そこには、「此勅語なる者は、此勅語の下らざる前に於ても」、矢張我国教育方針たりしに相違なし。此の勅語なる者は只従来の方針をば、辱(カズカシ)くも天皇陛下に依りて、明かに我邦人の心裡に彫刻銘記せる者にして、別に新たなる教育の方針を開示せられたるに非ざるなり」と書かれていた。ここでは勅語が儒教主義と誤解されることを警戒するだけでなく、日本の教育方針が一貫して儒教主義ではなかったと主張したのである。しかし、当時、国体と儒教とが密接な関係にあると見ていたのは、重野だけではなかった。…

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教育勅語

  朕惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス爾(ナンヂ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己(オノ)レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵(シタガ)ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是(カク)ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯(コ)ノ道ハ実ニ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スベキ所之ヲ古今ニ通シテ謬(アヤマ)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶(トモ)ニ拳々服膺シテ咸(ミナ)其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾(コヒネガ)フ
  明治二十三年十月三十日
御名御璽(ギョメイギョジ)

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教育勅語(読み)

 ちんおもフニ わカこうそこうそう くにヲはじムルコトこうえんニ とくヲたツルコトしんこうナリ わカしんみんよクちゅうニ よクこうニ おくちょうこころヲいつニシテ よよそノびヲなセルハ こレわカこくたいノせいかニシテ きょういくノえんげんまたじつニここニそんス
 
 なんじしんみん ふぼニこうニ けいていニゆうニ ふうふあいわシ ほうゆうあいしんシ きょうけんおのレヲじシ はくあいしゅうニおよホシ がくヲおさメ ぎょうヲならヒ もっテちのうヲけいはつシ とくきヲじょうじゅシ すすんテこうえきヲひろメ せいむヲひらキ つねニこくけんヲおもんシ こくほうニしたがヒ いったんかんきゅうアレハ ぎゆうこうニほうシ もっテてんじょうむきゅうノこううんヲふよくスヘシ かくノごとキハ ひとリちんカちゅうりょうノしんみんタルノミナラス またもっテなんじそせんノいふうヲけんしょうスルニたラン

 こノみちハ じつニわカこうそこうそうノいくんニシテ しそんしんみんノともニじゅんしゅスヘキところ これヲここんニつうシテあやまラス これヲちゅうがいニほどこシテもとラス ちんなんじしんみんトともニ けんけんふくようシテ みなそのとくヲいつニセンコトヲこいねがフ

明治二十三年十月三十日

ぎょめいぎょじ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー教育勅語と神話ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 国有地を鑑定額よりはるかに安く取得したことで問題になった森友学園では、園児に教育勅語を朗読させていたことも話題になりました。教育勅語は、「神話的国体観」に基いており、「主権在君」(天皇主権)の考え方が、「主権在民」(国民主権)を定めた日本国憲法と相容れないため、1948年に国会で「排除」や「無効確認」の決議が行われているからです。
 しかし、森友学園をめぐる国会などの審議で、稲田朋美防衛相が、教育勅語の「核の部分」を「取り戻すべき」などと主張しました。
 また、「私は教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行とか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして…」
などとも主張しています。
 稲田防衛相が「取り戻すべき」だという「教育勅語に流れている核の部分」や「日本が目指すべき」だという「道義国家」というのは、直接的には触れていませんが、皇室が万世一系の天照大神の子孫であり、神によって永遠の統治権が与えられているのだという「神話」に基づく考え方で、「忠君愛国」や「儒教的道徳」をもとに、皇室を中心とする「家族国家」日本を甦らせようとするものではないかと思います。
 歴代の内閣総理大臣が、一年の仕事始めに伊勢神宮に参拝したり、閣僚や政権に関わる議員がこぞって靖国神社を参拝している事実、さらに、”創生「日本」東京研修会”で、第一次安倍内閣の長勢法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」などと発言している映像が存在する事実などから、私は、安倍総理はもちろん、政権を支えてきた多くの人たちが、そうした考え方を共有しているのではないかと想像します。

 そこで、そうした考え方をもう少し深く知りたいと思い、敗戦国日本の現実を嘆き、「いまだにわが国は、コミンテルン史観、唯物史観、東京裁判史観の呪縛でがんじがらめにしばられたままである」などと主張して、「日本の神話」の心にかえることを訴えている「出雲井晶」の「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)を手に取りました。そして、「教育勅語」に関わる部分の一部を抜粋しました。
 日本神話の原点といわれる『古事記』には、「偽書説」があります。また、天武天皇が、自分の皇位継承の正当性と自分に従った諸族の優位性を証明するために、自身に都合のよい史書の撰録を企てた…、などというような捉え方もあるようです。さらに「教育勅語」がいろいろなかたちで、「大東亜戦争」を支えたことを検証したり、考慮したりすることなく、
わが国には遠い遠い祖先が、大宇宙の理法から説きおこした雄大な『古事記』『日本書紀』という史書がある。この神代の巻が「日本の神話」である。この「日本の神話」こそ、いわば天からのわが国建国の真理の書である。建国の理念、精神がとかれた書である
などと「聖典」であるかのようにいい、日本を再び戦前の考え方や価値観にもどそうとするのはいかがなものかと思います。たとえ、『古事記』『日本書紀』などに記されているいわゆる「日本神話」が、史的事実を背景としている部分があるとしても…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        第一章 今なぜ、日本の神話なのか
廃止させられた「教育勅語」
 「教育勅語」といっても戦後の方はまったくご存じないだろうから、まず、ここに掲げる。

  教育ニ関スル勅語 ・・・略

 わかりやすい用語で書かれてはいるが、現代人にはなじみのない言葉もあるので、現代流に訳させていただく。

   「教育勅語」謹訳
 一、私がよく考えてみるのに、われらが皇室の天照大神はじめ祖先の神々と神武天皇からの歴代の天皇が、日本の国はるか大昔に遠大な理想をもってお開きになり、長い歴史のあいだに麗わしい道徳をうちたてられると共に、その恵みをあらゆる面で深く根づかせられた。わが国民もまごころをもって君国に尽し、親を大切にし、すべての国民が心を一つにして、代々忠孝の美しい風習を成就してきたのは、これこそわが国がらの最も美しい特色で、教育で一ばん大切な根源もまた、ここにあるのである。

 二、すべての国民よ、父母は大切にうやまい、兄弟仲良く、夫婦こころをあわせ、友だちも誠の心でまじわり、自分の身はいつもつつしみ深くおごり高ぶらず放埒にならぬように。
 思いやり博愛の心、社会奉仕をこころがけ、まじめに学問をし、仕事をならい、智識才能を発揮するようにつとめ、徳の高い人格をめざして励み、進んで人の為になることをし、社会的責任を果たすよう心がけるように。

 さらに国民として憲法を尊重し、国の法律をまもり、ひとたび国家の危急がおきた時には、正義なる勇気をふるい国家に奉仕する。これらの徳義を実践して、天地創造の真理にのっとり建国された天地と共にきわまりない皇室を、中心とする道義国家の実現をたすけるように。このように国民みなが道をおこなうことは、ただ現在私のよい民であるばかりでなく、それぞれの祖先が遺した美風をあきらかにあらわすことにもなるであろう。

 三、これまでのべた道をふみ行うことは、実に天照大神、神武天皇にはじまる歴代天皇の遺されたみ教えであって、皇室の子孫と国民とがともにしたがい守るべきものである。これは悠久の昔から今現在も未来永劫にまちがいのない真理であると共に、日本国だけではなく、どこの国の人も守ってまちがいのない人間の道なのである。私もあなた方国民と共につつしんでふみ行い、君民いったいとなってその徳をみがき人格をたかめるようにと、切に望むのである。
 明治二十三年十月三十日
ご署名、御印

 無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。
 だからこそ思想戦によって徹底的に日本をやっつけておかねばならないGHQにとっては、攻撃目標になったのである。
 まだGHQの手が教育面にのびていなかった昭和20年9月4日には、文部省は「新日本建設の教育方針」として、
 「今後の教育は、国体の護持に努むると共に、軍国的思想及び施策を払拭し、平和の建設を目途として、謙虚反省、只管(ヒタスラ)国民の教養を深め、科学的思考力を養ひ、平和愛好の念を篤くし、智徳の一般水準を昂(タカ)メテ、世界の進運に貢献するものたらしめん。」
 
 と決定した。その趣旨を徹底させる為に、十月半ば全国教員養成学校長、視学官を東京に集めて、前田多門文部大臣が左のような訓示をおこなっている。

 「今日、道義の昂揚(カウヤウ)と言ふことが強調されてをりますが、若しそれ敗戦の結果、武装が解除せられたので、余儀なくたてられた方策かの如くに、道義昂揚が説かれますならば、まことに情けない話であって、それは肇国の精神にも反する事となるのであります。茲に於いて吾人は茲に改めて教育勅語を謹読し、その御垂示あらせられし所に心の整理を行なはねばならぬと存じます。
 教育勅語は、吾々に御諭し遊ばされて、吾々が忠良なる国民となる事と相並んで、よき人間となるべきこと、よき父母であり、よき子供であり、よき夫婦であるべき事を御示しになっております。」即ち国民たると共に、人間として完きものたる事を御命じになっております。・・・・・(所謂民主主義政治とは)民衆が責任を以てする政治であり、畏くも皇室を上に戴き、民衆が政治に関与し、その政府は権力といふよりは、むしろ奉仕に重きを置く、これ日本的なる民主主義政治の特長であります。・・・・・
 畏くも上御一人おかせられては、常に爾臣民と共にあり(「終戦の詔書」の中での言葉)と仰せられて居ります。この有難い大御心を拝し、吾等はほんとうに一つ心になって、此の難局を切抜けて、理想の彼岸に達したいと思ひます。」

と、のべ、戦後教育でも教育勅語を根幹に、肇国の精神をかみしめるべきことを強調していた。
 ところが、十二月に入ると、”神道指令”修身、日本歴史、及び地理停止”と、GHQは日本の教育を根本からゆさぶり解体をはじめた。翌二十一年三月来日した教育使節団のいわゆるストッダード教育使節報告書によってGHQは攻めてきた。
 文部省はこの年元年の詔書をも、天皇の人間宣言と皮相にうけとった。秘密扱いで、「勅語及び詔書などの取扱いについて」という通達を出した。新憲法草案が衆、貴議員で可決した翌十月八日のことである。その中で、

  (一) 教育勅語を以て、我が国教育の唯一の淵源となす、従来の考え方を去って、これと共に教育の淵源を、広く古今東西の倫理、哲学、宗教などにも求むる態度をとるべきこと
  (二) 式日等に於て、従来、教育勅語を奉読することを慣例としたが、今後は之を読まないことにすること

とあった。
 「教育の淵源」は、わが国肇まっていらいの「国体の精華」であると示されたことを否定した。そして新憲法の枠の中での教育ということで「教育基本法」が議会へ出された。
 これは、教育使節団の報告書によって、日本国民の育成という点は無視されたもので、議員から痛烈な批判が続出したが、わずか五日で可決させられた。わが国教育の基本理念はこうして消された。
昭和二十三年六月十九日、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」

 「民主平和国家として、世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において、未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは、教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。
 しかるに、既に過去の文書となってゐる、教育勅語、並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭、その他の教育に関する諸詔勅が、今もなお国民道徳の指導原理としての、性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
 思ふに、…これらの詔勅の根本理念が、主権在君、並びに神話的国体観に基づいてゐる事実は、明らかに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。
 よって、憲法第九十八条の本旨に従ひ、ここに衆議院は院議を以てこれらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。右決議する。」

 同日、参議院でも同じ趣旨の決議をして、「教育勅語」をほうむり去った。
 すべて占領軍の、日本の原点、建国の理念を晦(クラ)まして日本を愚民弱体化する手順によってなされたもので、「教育勅語」廃止は、その止めを刺したものといえる。

 ・・・中略

 私は同世代の方々によびかけたい。老人大学や旅行で自分の楽しみを味わうのも結構である。だが、それだけでは生き甲斐はない。せっかく教えこまれ、知っている「教育勅語」を子や孫世代に伝えようではないか。そして共に高い魂の昇華を目ざして向上し、科学万能、唯物至上の阿修羅の世に終止符をうとうではないか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー『古事記』(神話)と教育勅語ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)の著者(出雲井晶)は、すでに取り上げたように、教育勅語について、

 ”無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。

と絶賛しています。そして、 

 ”私は同世代の方々によびかけたい。老人大学や旅行で自分の楽しみを味わうのも結構である。だが、それだけでは生き甲斐はない。せっかく教えこまれ、知っている「教育勅語」を子や孫世代に伝えようではないか。そして共に高い魂の昇華を目ざして向上し、科学万能、唯物至上の阿修羅の世に終止符をうとうではないか。

 と呼びかけているのです。

 私は、こうした主張は『古事記』の上巻”神代”(「日本の神話」)を、「わが国の神典ともいうべき真理の書である」と受け止める歴史認識からきているのだろうと思います。

 先の大戦による様々な悲劇が、「日本の神話」に基づく「教育勅語」や「軍人勅諭」と無関係であったかように、
せっかく日本に生まれ、住んでいるのだから、「日本の神話」の心に回帰することが幸せにつながる道だと知るべきである。
などと主張することには、驚かざるを得ません。
 そして、
皇室のご先祖は天地の創り主天之御中主神が人格神としてあらわれられた天照大神で、皇統は絶えることなく続いている。また、日本人みんなの祖先もたどっていけば天照大神にいきつく。
などと、『古事記』にしたがって「神話」と「歴史的事実」を連続させて受け止める歴史認識は、戦前・戦中の軍部や政権の歴史認識と同じではないかと思います。そうした歴史認識が、思想の自由はもちろん、信教の自由や政教分離の原則を否定する政策・方針を生みだし、治安当局による左翼勢力・自由主義者・宗教団体その他に対する過酷な弾圧・粛清事件をもたらした歴史を忘れてはないと思います。

 また、『古事記』は、天武天皇が、”自分の皇位継承の正当性と自分に従った諸族の優位性を証明するために、自身に都合のよい史書の撰録を企てた”とする考え方なども、十分考慮されるべきだろうと思います。
 例えば、『古事記』には、伊波礼毗古命(イワレビコノミコト=神武天皇)が、登美能那賀須泥毗古(トミノナガスネビコ)と戦った話が出てきますが、それは”同母兄の五瀬命(イツセノミコト)と二人で、高千穂宮(タカチホノミヤ)にいらっしゃって、「どこへ行ったら、安らかに天下を治めることができようか。やはり、東の方へ行った方がよかろうと相談して、日向を発って…”というのですから、 登美能那賀須泥毗古の側から見れば、突然入り込んできた神武天皇の一団は「侵略軍」ともいえる一団だろうと思います。でも、『古事記』は神武天皇側の立場で書かれているので、そんなことは問題ではないのでしょう。『古事記』が、そうした自身に都合のよい史書の撰録や創作に基づくものであっても、何ら不思議はないと、私は思います。 さらに言えば、『古事記』は、天武天皇の関係者が、皇位継承の正当性や絶対性をより説得力のあるものにするために、意図的に神話と歴史的事実を連続させて創作したものではないかと私は思います。

 したがって、『古事記』は、あくまでも「神話」として理解すべきで、「わが国の神典」とか「真理の書」であるとか主張し、歴史的検証の枠外に置いて、書かれていることをそのまま何の疑問も持たずに受け入れるのはいかがなものかと思うのです。

 十数年前、神道政治連盟国会議員懇談会において、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」という発言をして問題になった森喜朗元内閣総理大臣その他も、2010年の著者(出雲井晶)の葬儀に参列したということから、今なお、日本で要職にある多くの人たちが、著者(出雲井晶)と同じように、日本国憲法に反する戦前の歴史認識を継承しているのではないかと不安になります

 下記は、「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」出雲井晶(原書房)から、第二章の一部を抜粋したものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          第二章 「日本神話」は不滅の真理

『古事記』上巻神代上下=「日本神話」の誕生
 私たちの遠い祖先の古代人が、すばらしく冴えた感性で感じとり、想像力を縦横自在に駆使して知った大宇宙の理法! その大宇宙の理法にのっとって古代人が創作したわが国の国がらを、最後の語りべとして伝承していたのが稗田阿礼(ヒエダノアレ)であった。
 元明天皇が和銅四年九月十八日、太安万侶(オオノヤスマロ)にお命じになった。稗田阿礼が口伝えにしているものを文字で記して献上せよと。
 太安万侶は、天皇の仰せをかしこみ、稗田阿礼の伝承してきたものを書きとっていった。これが『古事記』で、上、中、下巻からなる日本最古の尊い文献である。和銅五年正月二十八日、完成させて天皇に献じたのだ。今から千二百八十四年まえ、西暦七百十二年のことである。
 
 この『古事記』上巻”神代”が「日本の神話」といわれるもので、わが国の神典ともいうべき真理の書である。素朴で簡潔な言葉でつづられているが、その一言一句に無限といえる豊かな真理が秘められている。まさに言霊(コトダマ)の宝庫である。
 「日本の神話」のすばらしさは、私たちの遠い祖先の偉大な古代人が、澄んだ感性で感じとった天地大宇宙の理法が記されていることである。それは壮大で永久不変の真理ある。時々刻々移りかわる現(ウツ)し世のことではない。
 三次元世界しか見ることの出来ない肉眼には視えない。が、これ以上確実な実在はない天地の創り主天之御中主神の高遠な理法が語られ、深く広い道理が秘められている。
天之御中主神の創造になる世界は、はるか想像を超える過去から尽きることのない未来へと壮大に続いていく。小さな人間智など、何億何兆結集しても及ばない大いなる力によって、時々刻々創造され、その作業は永遠に続くのだ。
 今現代の宇宙科学、地球物理学、心霊学、それらすべてを包みこんで深い道理が秘められている世界なのだ。
 
 私たちの祖先の古代人に対して最も驚嘆することは、この大宇宙の理法を自分の生まれ住んでいる日本国家の原点に、国家の理念にすることを忘れなかったことだ。だから、日本の国そのものが天地の理法にのっとり生まれた国として、天之御中主神の、御中を中心にして大和する国、大和の国家観がが語られている。
 ついで、皇室のご先祖は天地の創り主天之御中主神が人格神としてあらわれられた天照大神で、皇統は絶えることなく続いている。また、日本人みんなの祖先もたどっていけば天照大神にいきつく。
 このように日本の国とは、わが偉大な古代人の創作になる地球上にたった一つしかない最高の文化的創作なのである。

「日本の神話」は、今も生きている真理
 そして「日本の神話」は、過ぎ去った遠い過去だけの物語ではない。また、いつ来るともわからぬ未来だけの話ではない。
 今、現在生きている私たちすべてが、とうとうと流れ続く大宇宙の理法や摂理の中にいる。今、あなたや私がいる空間にも、あなたの中にも私の中にも天之御中主神はいます、ということが書かれているのだ。この、人間としての原点を、唯物万能、唯物一辺倒の中で暮らしている現代人は、物に晦(クラ)まされて見失ってしまっている。
 しかし私たちは、大いなる創り主の命から枝わかれした分け命であるという事実からは、逃れようにも逃れることは出来ない。しっかりこのことを踏まえて、大宇宙の理法の流れの中で生きる賢い智恵を現代人は取り戻さなければならない。
 この三次元世界だけしか見ることが出来ない目には見えないが、絶対の善意である、どこまでも明るい善いことばかりの真理の世界を教えてくれている「日本の神話」に回帰する。せっかく日本に生まれ、住んでいるのだから、「日本の神話」の心に回帰することが幸せにつながる道だと知るべきである。
 吉田松陰先生は、『古事記』の「神代の巻」つまり「日本の神話」は、「日本人すべての信仰の対象である」と教えた。この信仰とは、狭義の、どの宗教というようなものではない。
 日本の大地、大自然と共に生きる「日本の心」だと理解すればよい。日本国土の上に生をうけ、暮らしている同胞すべてに、私たちの遠い祖先が遺してくれたすばらしい教えを伝えたい。知れば皆が、底抜け明るくなる真理であるから。「あな面白、あな手伸し、あな清け」の世界であるからと、松陰先生は思われたに相違ない。
 この著書を通読され、先祖伝来の「日本の神話」の真理への回帰こそが、幸せに生きる秘訣だと会得されることを私も願わずにはおられない。

人類は類人猿の進化とはパンドラの箱 
 そのためにはまず、唯物論で凝り固まった戦後の歴史教科書の概念を頭からすっかり捨てる。頭の中を一度からっぽにして「日本の神話」を読むことが大切だ。
 戦後の歴史教科書は、全部が全部ダーウィンの進化論から始まることは、前章の教科書の例でおわかりいただけたと思う。ここでもう一度『中学社会』(日本書籍)を読み返して、わが古来の思想と比べてみてただきたい。読んで気づかれたであろうが、ダーウィンの進化論とは、この現象界、タテ、ヨコ、厚みの三次元世界、この肉体の目で見る世界だけを基調にして物事を考えている。つまり唯物論者としてのダーウィンが、考古学の成果などから想像して創りだした「人類の始まりは類人猿から」の理論がダーウィンの進化論である。
 ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、法王庁科学アカデミーによせた書簡で、「ダーウィンの進化論は、カトリックの教えと矛盾しない」として進化論を認める見解を明らかにした。しかし、「肉体の進化論は認めるが、われわれの精神は神からもらったものであり、人間の精神は進化論とは関係ない」と留保をつけた(1996年10月24日ローマ発共同) という。当然のことであろう。

 唯物論者は、物・現象の表面をいまひとつ突き抜けて、その物事の本源を直視することが出来ない。物にばかり心が捉われて、それを超える想像が働かないのが、唯物論者である。
 物の上つらしか、木はただの樹木、石はどんな原子だ分子だ素粒子だ陽子だと、コンピューターではじいて分解したり統合したりして、物体はすべてを説明するだろう。
 しかしそれ以上の想像思考の範囲を出ることは出来ない。木が芽をだし葉をしげらせ花を咲かせる、目には見えないが確かに存在する大いなるものの存在は説明できない。
 肉眼で見ることが可能な三次元世界から飛び出せない、飛躍できないのが唯物論ではないだろうか。私たちの祖先の古代人たちが持っていた豊かな感性を失ってしまっているのが、唯物論一辺倒の現代人の姿なのだ。
 ギリシャ神話の中に出てくる人類最初の女性といわれるパンドラが、神の教えを守れずに開けた箱につまってた災い!この災いとは、創り主の存在を忘れた唯物論ではなかったろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーー教育勅語 皇国史観 平泉澄ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ”先祖伝来の「日本の神話」の真理への回帰こそが、幸せに生きる秘訣だ”と主張する出雲井晶は、「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)の中で、教育勅語について、

無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。”

と書いていました。自民党政権閣僚の教育勅語擁護の発言の背景には、同じような考え方があるのではないかと思います。そして、それが「皇国史観」と呼ばれた歴史観に基づくものであろうことは、同書に「平泉澄」の名前が出てくることから明らかではないかと思います。

  平泉澄は、皇国史観を代表する歴史家で、皇国史観の教祖とか、皇国史観の総本山とさえいわれ、学者でありながら、戦前から戦中にかけて国粋主義的活動を扇動し、また、海軍大学校や陸軍士官学校で講義・講演を繰り返して昭和軍部に深く関わった人です。
 さらに、昭和天皇に進講するようになったり、激増する門下生に対応するため、学内に「朱光会」、学外に「青々塾」を組織したことも知られています。
 その活躍の一端を示す文章が、「神の国と超歴史家・平泉澄 東条・近衛を手玉にとった男」田々宮英太郎(雄山閣出版)の中にありましたので、抜粋しました(資料1)。まさに、「軍隊における精神教育が、兵器による武装」に劣らず重要であると考えていたのでしょう。
 
 また、教育勅語の解釈に関連する文章の一部を「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から、抜粋しました(資料2)。

 教育勅語の核心は、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”にあるのであって、個々の徳目はその目的のためにあるということが、平泉の下記の文章から明らかではないかと思います。特に平泉澄が、眞木和泉守を評して、

先生が楠公を慕はれます点は、その功績にあらず、ただその命を致して自分も死ぬ、子供も死ね、孫も死ね、一家一族全部、皇室の御為には命を捧げるがよい、この一点を眞木和泉守は感服し、自らこれを実行しようとされたのであります。

と書いていることは見逃すことが出来ません。また、末尾に(昭和39年8月20日)とあることにも注意が必要だと思います。

 国家に緊急の事態が起これば、国に命を捧げることを説き、教育勅語があげる日常の徳目は、究極目標達成のための手段として位置づけらるものであるにもかかわらず、「教育勅語の内容の中には、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」などと言って教育勅語を擁護するような主張は、教育勅語の本質を歪曲し、歴史を偽るものではないかと思います。
資料1--------------------------------------------------
                               第二章 超歴史的歴史家 
ミリタリズムの花形騎手
 ・・・
 ちなみに、当時の陸軍では、大臣が荒木貞夫大将の後を襲った林銑十郎大将である。三月の人事異動で、歩兵第一旅団長の永田鉄山少将を、軍中枢の軍務局長に抜擢して注目された。同時に永田の腹心をもって任じる東条英機少将を、本省の軍事調査委員長から士官学校幹事(副校長)に転出させているが、これまたただならぬ注目人事だった。
 しかも平泉博士の講義こそ、ほかならぬ東条幹事からの依頼によるものだった。これを機縁に、平泉・東条の結び付きは始まるのである。これも一つの動きであるが、永田を頭領とする軍内統制派の動きが活発化していく。
この十月に発表された『国防の本義と其強化の提唱』と題するパンフレットは、永田軍政の「国家総力戦」路線を示すものであり、ミリタリズム宣言ともいえるものだった。
 ところで、陸士での最初の講義について、平泉博士は述べている。

 講演は一時間半に及んだと思います。私は携えた太刀を抜いて之を示し、さて言いました。
「陸軍よ。願はくは精鋭なる事、此の太刀の如くなれ。此の太刀は、明治維新の直前、文久二年十二月、栗原信秀が神に祈って作りしもの、長さ二尺五寸、一呼して揮へば、いかなる敵といへども両断せずしては止まぬ。
 陸軍よ。願は精鋭にして豪壮なる事、此の太刀の如くなれ。日露戦争以後、天下泰平なる事、今に至って三十年、懦弱偸安(ダジャクトウアン)の気風は上下に瀰漫(ビマン)し、義勇奉公の精神は地を拂って空しい。
 一朝、事あれば、国は危しとしなければならぬ。陸軍よ。願はくは勇気凛々、いかなる大敵迫り来るとも、進んで之を破摧(ハサイ)する武力、豊にして健やかなれ。(後略)」
満場は水を打った如く、静粛そのものでありました。(『悲劇縦走』)

 長さ二尺五寸の太刀というのだが、おそらく刃長二尺三寸七分の太刀のことだろう。栗原信秀といえば筑前守を受領しているほどの刀匠で、それが豪刀でなかろうはずはない。
 日本刀のもつ冷厳な美学が分からぬではない。まして軍刀は武人の魂で、その魅力が軍人の胸奥を揺するのは容易にうなずける。博士の場合、そこを狙っての演技とも見られるところに問題がある。それにしても、講義の壇上で太刀を振りかぶったとあっては、なんとも奇怪というほかない。
 そういえば、先にも引用した、帝国大学の教壇で短刀を抜き放っているが、その先縦はここにあったということだろう。剣道の達人でもあればとにかく、どうしてこんな阿諛追従(アユツイショウ)じみたことをやってのけるのだろう。
 講義と称し、その実、好戦的な言説をふり撒き、一種アジテーションに終始したと考えられる。講義内容が、中世史専攻の教授として真に学問と呼ぶに値するものなら、そんな目くらましみたいなことをする必要はないはずだ。
 建武の中興を論じ、後醍醐天皇、北畠親房、楠木正成と、さては足利尊氏を説くほどに、その国粋主義はいつか歴史学の本道をはずれ、果ては皇国史観へと邁進して行ったのではないか。
 しかし激化する社会不安、世界不安に促され、皇国史観は一気にミリタリズムへと転化したと見ることができよう。大衆性こそ希薄だが、軍部、政界上層部に及ぼす影響は、端倪(タンゲイ)すべからざるものがあった。まして東条少将ら統制派幕僚の中核と結ぶことにより、ミリタリズムの花形旗手となっていくのである。
 それが昭和九年という時代状況のもとで、歴史学教授平泉博士の存在価値だったといえよう。”

平泉史学の影響
 平泉博士と東条少将の会談は、陸軍士官学校での講演の翌日さっそく行われた。その模様は博士自身によって次のように述べられている。

 電話がかかってきました。
「東条であります。昨日は御講演、有難うございました。就いてはこれから御宅へ参上したいと思いますが、御差支えありませぬか。」 
「私の方は差支えありませぬが、閣下はお忙しいでせうから、若し御用でしたら、私の方からおうかがひしませうか。」
「いや、お願いの筋でありますから、東条が参上します。梅村大佐を帯同して参ります。」
 来訪せられた時、座敷の床の間の刀掛け、二振りの太刀が掛けられてゐました。一振は前記信秀の作、これは白鞘でありました。今一振は拵付(コシラヘツキ)、水戸の勝村正勝、元治元年の作。いずれも明治維新直前の、風雲急にして気魄充実した時に作られて、豪壮にして爽快なる太刀でありました。
 少将はそれに目を着けて、「昨日の刀はこれでありますか」と云って、先づ信秀を見、ついで正勝を一見せられた後、相談に入りました。要旨は、かうでありました。
「昨日の講演、肝に銘じました。陸軍の教育、御趣旨に沿って改めたいと思ひます。就いては二つお願ひがあります。第一に御門下の人を教官として迎へたいと思ひますから、御推挙ください。 
差当たっては一人、明年明後年と段々に増加していきたいと思ひます。第二には「国史教科書の改新、これをお願ひします。」
 以上が用談の概略でありました。(『悲劇縦走』)

「講演、肝に銘じました」と言っているが、士官学校幹事たる東条少将を感奮興起させた様がありありと窺える。
 それにしても、この会談で示された申し入れ事項は、容易ならぬ内容をもつものだ。そのことを如実に示す記述を「平泉史学と陸軍」と題する竹下正彦の回想記(『軍事史学』通巻十七号)に見ることができる。

 青々塾に通って、直接先生の教えを受けていた人の数は陸軍の者で十数人位であったかも知れないが、昭和九年頃には、当時の陸軍士官学校の幹事、東条英機少将によって、同校の国史教程が平泉博士によって編纂されることとなり、またその頃には、毎年博士を招いての講話が催されるようになっていた。
 更に陸軍大学校でも博士を課外講師として聘し、その皇国史観は、軍の中枢幹部の中にも、次第に浸透して行ったと考えられる。
 この平泉史学の骨髄をなす天皇絶対、行学一致の精神は、大東亜戦争の全経過を通じ、戦場の全域において、皇軍が壮烈なる戦闘を展開し、特に戦勢非なるに当ってもなお鬼神を泣かしめる奮闘をなし、天皇陛下の万歳を唱え、笑って散華して行った、狂信的とも思われる若い将校の行為の強い支えとなっていたのではないかと、私は常に考えているのである。

 終戦時の竹下中佐は軍務局軍務課内政班長の要職にあり、もとより平泉博士の門流であった。平泉史学が戦争にどんな影響を及ぼしたかを知る、数少ない軍人の一人だろう。軍隊における精神教育が、兵器による武装とならぶ重大性があることを示している。
 それだけに、これほどの重大事を申し入れるには、それ相応の覚悟を要し、かつ実力も伴わなければなるまい。その意味で陸軍部内で当時の東条少将どんな立場にあったのか、興味のかかるところである。
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           三、維新の先達 眞木和泉守

 ・・・
 楠公のことはどなたも御承知、今更特に申し上げることはありませんが、眞木和泉守が楠公をお慕ひになり、度々楠公をお祭りになってをりますこと、顕著なる事実であり、今、展覧会にも楠公を祭られましたる文章が展観されてをりますが、しかし、先生が楠公を慕はれます点は、その功績にあらず、ただその命を致して自分も死ぬ、子供も死ね、孫も死ね、一家一族全部、皇室の御為には命を捧げるがよい、この一点を眞木和泉守は感服し、自らこれを実行しようとされたのであります。その点に於いて、菅公を慕はれた和泉守と、楠公を慕はれた和泉守とは、ただ一点を目指しておられるに過ぎない。同じ点を目標にされておるのであります。即ち一点の利害損得の打算なくして、ただ命を捨ててお上にお仕へ申し上げる、それだけのことであります。私はそれが、さきほどの勇気の本となったのである、あの勇気この精神を助長したのである、勇気と道義が相俟ってあの素晴しい働きができたのであると考えざるを得ないのであります。先生の精神はかくの如し、先生の勇気はかくの如し
 ・・・
 それならば眞木和泉守は、どういふ見識をもっておられたのであるか。どなたも御承知のやうに、凡そ明治維新の偉大なる改革の殆ど全部は眞木和泉守の方寸より出て来たものであります。どれを見てもさうであるとさえいってよい。第一に神武天皇創業の昔に帰れといふのが、眞木和泉守の精神でありました。…
・・・
 それから、先生の見識の一つは、旧弊を一新するといふことであります。先生の「経緯愚説」の中に旧弊を破るべしといふ条があります。皆さん聯想がございませうが、明治元年の五箇条の御誓文の中に、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」といふ、その旧来の陋習は即ち旧弊にほかならないのであります。

 第三には、五等の爵位、あの公侯伯子男の五等の爵位は、何人がこれをいひ出したのであるか、眞木和泉守であります。
 眞木和泉守は、経緯愚説に於いて、五等の爵位を定めるがよいといふことを条理を尽くして述べておられるのであります。…
 亡くなりました忠臣、功臣に位を贈り、若しくは神としてこれを祭るといふこともまた先生の発意であります。明治元年、天皇は詔して、湊川神社を建て、楠木正成公をお祭りになる。相前後して菊池神社、建勲神社、そのほか数多くできます。護王神社、靖国神社、数多くできます。…
 眞木和泉守は正四位を明治天皇より賜りました。贈正四位であります。亡くなった人に位を贈るといふことは、何を意味するものであるか。亡くなっておらぬからであります。死んだ人に位を賜ふということは、意味をなしませぬ。和泉守は生きてをられるのであります。生きておられるからこそ位を賜ったのであります。このことの不思議に驚かずして、日本の神道は理解されず、日本の歴史は理解し得ないのであります。
 次に近衛兵、これも又先生の非常なる卓見といはなければならぬ。先生は天皇直属の軍隊、すなわち特に天皇をお護り申し上げる軍隊を必要とする、近衛兵を置かねばならぬといふことを強調されます。…
 更に、第六番目になりますが、土地人民の權を収めなければならぬ。これは非常なことであります。明治維新といひますのは、長い間いろいろなことが行なはれて、これを総称すると見てよいが、就中、最も大きな改革は慶応三年の大政奉還と王政復古、明治元年の討幕、やがて、明治二年、版籍奉還、だんだんございますが、最も大きな出来事は明治四年、廃藩置県であります。…
 次には、改暦、暦を変えなければならぬ。これも眞木和泉守の意見であります。やがて明治五年、太陰暦を改めて太陽暦とせられました。今日が、何年何月、いく日であるといふことは、朝廷よりこれを発布せらるるべきものであり、その暦といふものは陛下の御裁可によって出されるべきものであるといふのが和泉守意見であります。


 次には遷都、都を遷さなければならぬ。御承知の如くに、都を東京に遷される。…事実は平野国臣といふ人は、眞木和泉守の説を受けたに過ぎないと判断してよいと思います。平野国臣を軽くする意味ではございませぬ。平野国臣といふ人は、眞木和泉守を、その水田幽囚のうちに訪ねて来、和泉守も、その人物に感心をして戀闕第一等の人物である。天皇を恋ひ慕ふ第一等の人物であると褒め讃へられてをりますので、その至誠はこれを尊重しなければならぬ。しかしながら、この人に天下経綸の才を考へることは恐らく無理でありませう。そして実際問題としては、眞木和泉守は、平野国臣以前に既に大坂に遷都をしなければならぬといふことを考へてをられるのであります。…
 第九番目に排仏毀釈のこと、或いは神仏分離のこと、これまた、明治維新に於ける重要なる特色を為すものでありますが、仏教の大いなる浸潤、大いなる勢力、深き浸潤を排除しなければ、日本の正しい姿が現はれないとして、排仏毀釈、或いは神仏分離の行はれましたことの元は、実に眞木和泉守が、文久元年の経緯愚説、或いは文久二年の大原左衛門督に贈られました書状の中に見えてをるのであります。
 ・・・
…日本の歴史を通観してみます時に於いては、幕末に於いて優れたる人物として、前に橋本景岳、吉田松陰を見、後に眞木和泉守を見、これらの人々によって明らかにせられたる道義と経綸とが、やがて、時を得て、岩倉、木戸、西郷、大久保等によって実施せられたあとを見て、実にこの歴史の妙を覚えるのでありますが、何ぞ前に倒れたる人々の不幸にして、世間これに報いることの少きや、これを嘆かざるを得ないのであります。…
 ・・・
 日本国民たる者は悉く、上御一人に帰順し奉るべしといふのが先生の精神であります。上御一人を尊び、その下にあって蹇々匪躬(ケンケンヒキュウ)、御奉公申し上げなければならぬといふのが、先生の根本の信念であります。しかるに天下滔々(トウトウ)としてデモクラシーの叫びに脅かされ、あたかも自ら国家の主権者の如き、浮薄なる言辞を弄するもの天下に充満し、そしてお上に対し奉っては、誠に恐れ多い態度、若しくは言説をとります者が多い今日において、先生は非常なる悲しみ、痛恨を覚えられるに相違ないと思ふのであります。また神武天皇創業の昔に帰れといふことを叫ばれた先生が、、今日、神武天皇をもって架空の人物とし、皇紀を無視し、皇紀どころでなく、昭和の年号すら無視して、ただ西暦をもって、全てを統一しようとする風潮の盛んであることを見られたならば、何といはれるでありませう。近衛兵の存置を叫ばれた先生が、今や近衛兵なく、それどころでなく、正式の軍隊を持たぬを見て、どう思はれるでありませう。忠臣、功臣に対して位を授けられる、天皇より位を授けられ、その霊を神として祭られるがよいといふことを建言された先生が、今日の官国幣社、別格官幣社、その今日の状態を見て何と嘆かれるでありませうか。土地人民の権、お上に帰一しなければならぬといふ、先生の主張が、今日全く革命の洗礼を受けた社会主義の政策によって動かされる実情を見て何と思はれるでありませう。先生の偉大なる経綸に感激するは易い。しかしながら、その偉大なる経綸を、現状において、いかに理解するかといふことになりますと、問題は頗る深刻ならざるを得ないのであります。しかも私の固く信じますことは、先生の精神であって初めて、日本は日本たり、日本国は日本国となり、日本人は日本人となり、日本の歴史はここに成り立つのでありまして、これを没却して今日天下に滔々たるデモクラシーの論、これに任せておきました時には、この国既に亡きに等しい。そして、それは私が先程申し上げました明治の世にしばしばいはれた旧弊といふ言葉を今日におきましては、逆コースとして、逆コースといふ言葉で代用してをりますが、われわれは逆コースとして、しばしば罵られるのでありますが、これは逆コースではなくして、正しいコースである。明治維新をそのまま受けてきたところの精神であって、そして同時に、かくの如き国家、眞木和泉守が考へられ、明治天皇が実現せられたところの明治の大御世の国家といふものが、全世界に於いて、凡そ最も正しい姿の国家といふものを具現したものであって、そこに平和があり、そこに希望があり、そこに美しさがあり、そこに道義道徳があって、これ以上の喜びといふものが、凡そ人生にはない。今の如くに横着な心構へをもって、人をみな叩きつけてよしとし、自分自ら国家の主権者を以て居る今日の状態が、何といふ悲惨な、愚かな、おどけた、笑ふべきものであるか。そしてこれが実にこの国及びこの民族の滅亡の道を歩むものにほかならぬといふこと痛感せざるを得ないのであります。(昭和39年8月20日)



 記事一覧表へリンク 

inserted by FC2 system