-NO538~

ーーーーーーーーーーーーーーーーー満州事変の舞台裏 花谷 正ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 『日本よ、「歴史力」を磨け』櫻井よしこ(文藝春秋)「第四章 第二次世界大戦の嘘」のなかに”「河本大佐供述書」の信憑性”と題された対談の文章があり、そこで、瀧澤一郎氏や北村稔教授、伊藤隆教授が、資料1のような、ちょっと気になる話をしています。張作霖の爆殺が、関東軍高級参謀・河本大作の計画に基づくものであったという定説を、いくつかの視点から疑問視する内容です。でも、私は、下記に抜粋した文章の中にあるのですが、

瀧澤 もともと日本犯行説は動機が薄弱だと指摘されていました。日本では田中義一首相はじめ、多くの政治家、軍人が張作霖との友好関係の維持を重視していましたからね。

北村 当時の日本側の政府首脳は事件に大変なショックを受けて、田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していたことは、台湾に逃れた国民党の関係者が書き残しています。関東軍の中堅がやったことになっていますが…。

などという会話には、とても違和感を感じます。定説を覆し、ソ連特務機関犯行説」によって「張作霖爆殺事件」の歴史を修正するため、歪んだ捉え方をしているのではないかと思うのです。
 「日本犯行説は動機が薄弱だ」と指摘しているのが、いったい誰であるのかは明らかにされていませんが、当時の満州で事を進めていたのは、田中首相ではなく関東軍であり、関東軍高級参謀・河本大作の「張作霖は私が殺した」の手記は、下記のように始まっているのです。

” 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。 そこで、久しぶりに満州に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ヶ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満に蔓(ハビコ)っている。日本人の居住、商祖権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満州が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。…

 また、河本大作は、事件の前に知人宛に、具体的に張作霖の名前をあげて、「今度という今度はぜひやるよ」というような手紙を書き送っているといいます。

 さらに、張作霖爆殺事件の首謀者・河本大作の後任として関東軍に赴任した高級参謀板垣征四郎や作戦参謀石原莞爾と共に、柳条湖事件を首謀したとされる関東軍司令部付(奉天特務機関)花谷 正の「満州事変の舞台裏」と題する文章にも、下記のように河本大作の文章と同じようなことが書かれています。

” 長い年月にわたる中国の排日、張学良が奉天政権となって以来の満州全土にわたる侮日。日露戦争以来満州在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされ、日本政府の温和政策を非難し、日本内外物情騒然たる世相が続きこのままではとても収まるまいとは国民の勘で想像されていた。
 昭和6年9月18日夜勃発した満州事変に日本国民の血潮が沸き立たったのは当然であった。
 特に満州在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員など興奮感激その極に達したことは現地にいた当時の者でなくてはちょっと想像されない程である。各地に日本人大会が開催され、この際徹底的に満蒙問題を解決し、武力衝突の起こった現在中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響きわたり奉天に出動しておる関東軍司令部へは非常な激励が続いた。

 したがって、「張作霖爆殺事件」を知って”田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していた”ということを書き残した、国民党の関係者が誰であるかは知りませんが、そうしたことは「張作霖爆殺事件」そのものとは、あまり関係のないことではないかと思います。
 当時、関東軍を率いた人たちが、参謀本部や陸軍省といった陸軍中央の国防政策から逸脱する作戦を展開することが多かった事実、そして「張作霖爆殺事件」や「満州事変」を独断で実行したとされる現地の関東軍関係者が、当時の満州をどのように捉え、何を考え、どうしようとしていたのか、ということこそが重要であり、そこから目を逸らすような会話は、いかがなものかと思うのです。
 
 資料1の『「河本大佐供述書」の信憑性』は、『日本よ、「歴史力」を磨け』櫻井よしこ(文藝春秋)から、資料2の「満州事変の舞台裏」は『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   「河本大佐供述書」の信憑性
中西 実は私は前々から単純に河本大作ら関東軍の仕業と言うには、国際的な背景が強すぎる、何かが今だに隠されているのでは、という心証を抱いていました。さらにごく最近、『蒋介石日記』(未訳)から明確になったことですが、張学良がすでに父作霖の爆殺の前年七月に国民党に極秘入党していた(産経新聞2006年4月17日参照)。これは爆殺の背景として、学良=蒋=コミンテルンのつながりを検討ぜざるを得ないことを意味しています。モスクワで息子を人質に取られている蒋が、ソ連とは「四・一二上海クーデター」以後も常に地下でつながっていたことを考えれば、これは爆殺問題に絡む重大な新事実です。

瀧澤 もともと日本犯行説は動機が薄弱だと指摘されていました。日本では田中義一首相はじめ、多くの政治家、軍人が張作霖との友好関係の維持を重視していましたからね。

北村 当時の日本側の政府首脳は事件に大変なショックを受けて、田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していたことは、台湾に逃れた国民党の関係者が書き残しています。関東軍の中堅がやったことになっていますが…。

瀧澤 関東軍高級参謀河本大作大佐ですね。でも、「私が張作霖を殺した」と題された彼の手記(「」文藝春秋」昭和29年12月号)とされるものもあやしいんですよ。この手記は河本の自筆ではなく、義弟で作家の平野零児が口述をもとに筆記したと言っているものですが、この義弟は戦後、中共の強制収容所に長くいたので、マインドコントロールをされていた可能性があるんです。平野は昭和31年に帰国していますが、河本自身は中国の太原収容所で昭和28年に獄死しており、口述テープがあるわけでもなく、本人の死後現れたものが手記と言えるのかどうか。
 ユン・チアンが「ソ連犯行説」の参考にしたのは、2000年にモスクワで出版されたコルパキヂとプロホロフの共著『GRU帝国第一巻』(未訳)です。GRUとはソ連諜報本部情報総局のことです。私はこの原著を読みましたが、『GRU帝国』は張作霖爆殺のソ連犯行説については次のように書いています。
 <「グリーシカ」機関の実行したいくつかの工作の中でも、いちばん世間を騒がせたのは1928年6月の張作霖爆殺であったろう。張作霖は北京政権を牛耳り、露骨な反ソ姿勢をとっていた。特別列車が爆破されたとき、張作霖の乗っていた車輌の隣の客車にはイワン・ヴィナロフ(エイディンゴンの部下)が乗車しており、事件現場の写真を撮った。謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったように見せかけた>

北村 張作霖がソ連にかなり恨まれていたのは事実です。彼は北京を支配していましたが、1927年4月に北京のソ連大使館に踏み込み、国民党とソ連が組んでいることを示す証拠を押収したうえ中国語に翻訳して大部の冊子として公表していましたから、命を狙われる可能性はあったんです。

瀧澤 1920年代、30年代のソ連では暗殺は日常茶飯事。喜んでやるような連中がソ連諜報部にはたくさんいましたからね。当時彼らが実行した多数の謀殺行動の連鎖に、この事件はぴったりおさまります。同一犯人による殺傷方法の特徴をロシアでは殺しの「筆跡」と言いますが、まさに「筆跡」が一致するのです。ただ、ソ連犯行説も完璧ではありません。『GRU帝国』には情報の出所が明示されていないんです。プロホロフは元軍人なので、未公開文書に触れた可能性はあるものの、それについては本の中でも何も語っていない。私も裏付け情報が出るのを待っているのですが、出版から6年以上たっても出てきません。この部分の情報は、まだ全面公開が許可されていないのです。

伊藤 私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね。

瀧澤 おっしゃる通り、仮にそうした文書が残っていたとしても、”偽の報告書”である可能性もあります。ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多いですから。

・・・以下略
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 昭和六年
                            満州事変の舞台裏
                                                                     花谷 正
 長い年月にわたる中国の排日、張学良が奉天政権となって以来の満州全土にわたる侮日。日露戦争以来満州在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされ、日本政府の温和政策を非難し、日本内外物情騒然たる世相が続きこのままではとても収まるまいとは国民の勘で想像されていた。
 昭和6年9月18日夜勃発した満州事変に日本国民の血潮が沸き立たったのは当然であった。
 特に満州在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員など興奮感激その極に達したことは現地にいた当時の者でなくてはちょっと想像されない程である。各地に日本人大会が開催され、この際徹底的に満蒙問題を解決し、武力衝突の起こった現在中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響きわたり奉天に出動しておる関東軍司令部へは非常な激励が続いた。
 兵力移動の輸送に任ずる満鉄鉄道部の現地職員の張り切り方は軍隊と競争であり、大連本社の職員の各種専門家連中も大連を飛び出して軍司令部へ来て何でも御手伝いをすると各人非常な意気込みである。我々軍の参謀連中もこれには感激させられて不眠不休懸命の努力を自ら誓った。日本における時の民政党政府若槻礼次郎内閣は幣原喜重郎外相、井上準之助蔵相の宥和政策に押され、南次郎陸相、安達内相、の強硬主張と対立し、内閣不統一の状態を続け、若槻総理にはこれを一に纏める力がなかった。外相からは満鉄に対して「事件不拡大、武力行使停止の考えだから満鉄は関東軍と一緒になって事件の進展を図らぬよう静観せよ」との電報があり、満鉄理事以上の重役は無風地帯の大連で傍観的の無為無策の態度を採った。
 もともと鉄道の警備、満鉄マンを含む在満日本人の生命財産の保護から端を発した事変に満鉄首脳部のこの態度を軍司令部内では不快に思い、一般居留民は憤慨していた。
 誰が言い出したか忘れたが一つ内田康哉総裁を奉天に引っ張り出し、おおいに軍司令官以下と現在および将来に関し胸襟を開いて協議させようではないかという事になり、非公式にこれを大連本社の者に伝えた。
 しかし出て来たのは副総裁の江口定条氏であり、本庄繁軍司令官、三宅参謀長と会って月並みの儀礼的挨拶があったばかり、林総領事とも会ってアッサリと大連へ帰った。事件の現在将来に関する政策的問題には少しも触れず負傷者の慰問さえもしなかった。そして江口氏は大連で、
「軍司令官や軍参謀長は老熟した人々で、わざわざ挨拶に来られた副総裁に怒りの色を表すなどはしたない事はされぬのは当然だ。また江口氏が満州政策などは持ち合わせのある人ではない事を知っておるためニコニコと愛想良く応接したに過ぎない。これで軍と満鉄とが良くいって居る証左とはいささか呆れる」
 との話を大連の満鉄社員倶楽部で社員連中にやらせた。
 もちろんこれが内田総裁や江口副総裁の耳に入った事は確かである。内田伯は日本内地、満州その他世界情勢の推移を静観しつつ今度の事変をいかに処理すべきであるかを毎日考えていたのである。一日、理事の十河信二を呼んで、
「東京の中央部と出先の関東軍との意見が不一致のまま、関東軍としては敵を前にし作戦を続けつつ電報その他で政府と意見調整を図っておるようであるが、軍は積極的であり、政府は事なかれ主義で収めんとし、現地の満鉄としては容易に動きが取れぬ。それで私が東京に行き政府の意見を聞き、満鉄社内の統一を計らねばならないと思うがどうか」
 といった。十河は、
「総裁は外相の職も経験済みであり、総理大臣代理もやられた日本の重鎮であり外交畑の大先輩です。若槻総理からも幣原外相からも現地の実情と、現在および将来に関する対策を質問されるにきまっております。現地においては何といっても在満二十万同胞の輿望をになって満州三千万人民の安寧を企図し、幾万の軍人と幾千のシビリアンの有志達を指揮しつつあるのは軍司令部なのです。しかも軍司令官は法制上、満鉄に対し軍事指示権を持つ機関です。従って軍司令部の意見というものを十分明らかにしておらねばなりません。ゆえにまず奉天に行き軍司令官と胸襟を開いて対策を検討せられ、しかる後東京政府と折衝して意見を十分述べられる事が必要であると思います」
 と主張した。内田伯ただちにこれに同意し、その旨奉天の関東軍司令部に電話すべく命じた。
 十河は附言して、
「非常に多くの満鉄社員が軍司令部に入って職員となり、事務室内で政策の立案から、現地の活動にまで死力を尽くして働いています。また参謀中に各種の立案画策に当たっておる者がいますから、ぜひこれらの者とユックリ懇談せられる必要があります。軍病院の戦傷患者の慰問もわすれぬのが肝要です」
 といい、内田伯はいちいちこれを了承して奉天へ向かったのである。

 奉天ヤマトホテルにひとまず落ちついた内田総裁は満鉄関係の人を呼んで奉天の情況、軍司令部の様子を聞いた上、本庄司令官を訪れ、事件発生以来の軍諸機関の敏速なる活動と機宜に適した数多の処置を賞讃し、その労苦と心労とを犒った上、三宅参謀長を交えて時局に対する要談をなし、軍病院に傷病兵を見舞い、ヤマトホテルの特別室に帰り、軍司令部の幕僚板垣征四郎大佐(後の板垣大将)石原完爾中佐、竹下中佐、それに私の四人に午後三時よりヤマトホテルで会見したいと申し込んだ。四人は快諾して約束の時刻に総裁の部屋を訪れた。私はまず地図を開いて満州全般にわたる日満両軍対立の状況、イルクーツク以東浦塩に及ぶソ聯軍の配置、熱河省以遠支那本部における張学良軍および南京政府軍の状況を述べ、この事変勃発を契機として日、満、漢、蒙、鮮五族を基幹とする民族協和の新天地を作り交通に産業に、政治に、教育に大発展をするような新国家を仕上げねばならぬ。もちろん日本は満州を領土とする
意志があってはならぬと結んだ。

 次いで、石原、竹下、板垣等がそれぞれ自らの経綸、抱負を述べたのであるが、この間、4時間以上にわたり熱心に聴いて居た内田伯はいちいち首肯し、「そのような諸般にわたる構想が練られ、他民族を含む多くの人々と、従前から交わりがひそかに結ばれ、強大な武力が現在までに把握せられ、諸計画の大綱が出来ておるとは夢にも知らなかった。
 私はかつて外務大臣もやり、総理大臣代理もした者でありながら、日本民族および満州三千万民衆を厚生さすそのような具体的な雄大な計画を考えたことも作ったこともないのは、まことに諸君後輩に対して面目次第もない。よく腑に落ちるように将来のことまで胸襟を開いて話して下さった。外国に対しては秘密なことばかりのようだが外務省はもとより、陸軍中央部でも一部の人々を除いて自分で研究し、立案して見識をもっておる人は少ないであろう。それだから事に当たって危ぶみ遅疑するのだ。私も老躯に鞭打ってただ今以後、関東軍に全幅の信頼を寄せ、満鉄の財産全部を投じても諸君に協力する同志となる。一緒に夕食を取ろう」
 別室に秘書がすでに食事の準備をさせていた。老伯爵は秘書に命じて、大コップとウィスキーとをボーイに出させ、
「この年になるまで、今日のような愉快な感じになった事がない。私の決心が決まった以上老躯を提げておおいにやるゾ、乾杯」
「私は陸大の学生で中尉の頃、閣下は外務大臣でした。その頃新聞や世間では閣下をゴム人形と申していましたネ。どうか上京せられましても総理や枢府の老人や元老に会われ、無為の安全論にヘコマヌようにお願いします。まことに失礼な言い分ですが」
「俺も九州男児じゃ」
 服の釦を外し下腹まで、出しポチャポチャ叩きながら微酔と共にますます上機嫌だ。子か孫のような者から何といわれても可愛くなったものらしい。老いの一徹、老人なかなか意気盛んだ、と感じた。
 辞去せんとすれば「今夜、この感激を乱さぬため他の誰とも会わぬ。皆一度に帰らず半数位は残れ」との事にて板垣大佐と筆者は残ってさらに歓談した。

花谷「この調子では現内閣は国民感情で押し潰され、次は政友会内閣となりますネ。犬養さんは孫文以来南方の支那要人と連絡が多いでしょうから支那と満州とをいかに調節するかの夢でも見ていますかネ」
板垣「日本の政局は国民感情もそうであるが一蓮托生であるべき閣僚の中から割れ、内閣不統一で若槻さんは投げ出すヨ。もうその臭いがするではないか」
内田「君らはまだ壮年の盛りだから臭覚もよいネ。至誠天に通じ、人に通ずるゾ。君らが退官して義勇軍を作るような破目にまで、政府が追い込まぬように私共老人が働くよ」
板垣「閣下御上京早々拝謁の御沙汰があるよう、その筋に電請しますよ。御下問に対し御奉答の件、あらかじめ想を練って置いて頂きたいのです」
内田「君らはなかなか同志がおり、各方面に連絡が出来るようになっておるのだネ、若い者は機敏だ」
花谷「少し事務的になって相済みませんが、臨時議会が開かれて臨時軍事費が令達されるまで、作戦軍部隊および軍需品の輸送費は後払い証という書類を駅か輸送事務所へ差し出すことで満鉄は軍隊輸送を担任して下さい、後日精算します。
 それから満鉄社員が奉天へはもちろん各地へ来て軍の職員となって働いています。本社へ辞表を出して来ている者も多いですが満鉄ではこれらの者を依然会社の籍に置いて出張旅費を支給してください。」
内田「よろしい、二三日以内に責任者を奉天に来させて軍司令部との打ち合せを実施させる。後の件は上級幹部の頭の問題で中級どころの若い人は眼を開かすとすぐ順応する柔軟さがあるよ、おおいに鼓吹する」
板垣「理事中二名位は奉天に常駐させて軍司令部と連絡し、おたがいに構想を練り軍事以外の事に関しては軍を援助指導する位の気位をもって接触してほしいものです」
内田「軍事と政治との関連性があるから、軍力の保護がなければ調査すら出来ぬであろうし、奥地に飛び込むには軍からピストルなどの武器を貸して貰う事もあろう。時には将校の軍服を借りて支那人と話さねばならぬ人もあろう。その辺の事は軍でもよく面倒を見てやって下さい。全幅の協力をさせます。日本民族未曾有の大事業です。なお、板垣君、ずいぶんいろいろの支那人を使ったり、降伏した奉天、吉林の旧敵軍を改編したり、兵器弾薬材料の処理に臨時人夫を傭ったり、大変な数の日支人を運用しますネ。
 しかしこの人件費や事業費が日本の臨時議会が開かれぬ間、第二予備金などを大蔵大臣が出し渋れば陸軍大臣も関東軍に予算を増加令達するのがむずかしく、陸軍省も関東軍も苦しんでおるでしょう。陸軍省の方は東京でも何とでもやり繰りがつくとして関東軍は大変だ。
 過渡期すなわち今が大変だ。これは満鉄が一時立替え援助します。経理担当理事に話して置きますからただちに連絡して下さい。こんな緊急事態は歴史上そうあるものではない、各方面が協力すべきです」
 さすが国務大臣をやった人だけに国政の事務的着眼もよい。百万の味方を得たような気がした。
内田「東京の青壮年の参謀将校や、部隊の元気な将校連中、大変な意気込みだそうだネ。安達謙蔵内務大臣など内閣がボヤボヤしておるため、これらの精鋭を越軌の行動に出させる事があってはならぬと善意から心配しておるらしいぞ
 安達も若い時新聞記者で朝鮮にいて閔妃のやり方が日本を排撃する禍根であると、宮殿に飛び込んで皇后を斬り殺した一味で、元来熱血漢だよ。時局を積極的に促進するように自分の民政党など割っても努めるだろう。月日の経過に伴って自然に内地もだんだんシコリがホグされて行くよ、天行は健なりだ」
板垣「国際連盟が理事会、総会と日本をおさえるため、ずいぶんやかましくいい、今後紆余曲折を経ねばなりませんネ、外交畑の大先輩として御意見いかがですか」
内田「もとより通信社や新聞、雑誌を賑やかにするね。しかし先刻君らが判断していたように極東の一角の事で列強が兵力を差し向けるような事は馬鹿馬鹿しくてやらぬネ。
 外交官は嫌がるだろうが、死にはせぬのだから孤軍奮闘、論駁、また論駁で意志鞏固に粘って貰わねばなるまい、いったんその決意に踏み切れば後は先方が寄ってたかって何と言おうと蛙の面に水サ。
 時に奉天の林総領事も外交交渉の相手はけし飛んでしまったし、目下は軍事行動中で、彼に作戦に関する知識がある訳ではないし、軍司令部に進言することも出来まい。
 情報を調べもせずに、外務省に通達する。それが陸軍省、参謀本部に伝えられ、逆に関東軍に東京から通報する。従って事実と違っておる事があるから、軍の方で憤慨したり笑殺したりするのだ。その結果、出先の協力一致が乱れ、外務省と陸軍省との一致が乱れる訳だ。
 軍は居留民の生命財産を武力的に保護してくれるから、各地の居留民は軍隊に親しみ、総領事館を罵倒する。これが日本人全体としての協力一致を破る。だから、私は外交畑の先輩として林君に、今こそ用事がないのだから賜暇休暇を取って日本に帰りノビノビとしておる時だ、と勧めたいと思う。それとも軍司令部の方で総領事に何か頼んで現地でやって貰わねばならぬ事があるかネ」
 もちろん我々としては何も依頼する事はなかった。何故ならば現地の陸軍は奉天政権の排日的横暴に在満同胞が衰え行くのを見て切歯扼腕、時の至るのを待っていたのである。特に若林大尉が鴨緑江上流の満州側で殺され、中村震太郎大尉が興安嶺で井杉と共に殺され、さらに万宝山事件があり、それらの交渉が奉天政権の不誠実で解決がつかぬ事を知って激昂していたのである。
 暴力で来る相手には力で当たらねばならぬ。これが事件勃発するや大河の決する勢いで敵に押しかかったのだ。
 しかも予後備兵を動員する事なく、常備兵で編制された戦闘部隊であるから、将校と下士官兵との間には、教官すなわち指導官という親しみがあり精鋭度が高かった。また国家としても動員費が要らず、糧食、弾薬の運搬も、親日支那人が引き受けた。機関銃や、馬や、弾薬や、小銃や迫撃砲も鹵獲兵器のみで補充し、日本内地からの輸送はまったくなかった。こんな手軽な戦争は外国人や素人にはちょっと分かり兼ねるであろう。いったん矢が弦を離れた以上、日本政府の幣原外相や井上蔵相や若槻総理は何を危ぶんで躊躇していたのか。
 内田康哉伯は奉天に住む日露戦争以来の老居留民や外務省出先官や有志の人々と会って三日の後出発、上京の途についた。
 伯爵からはしばしば電報による激励がなされ、「幣原その他に会った、遠き慮の策案がない、諸君の意志を枉(マ)げず邁進せられよ、途は自ら開ける」と逆に促されもした。伯は陸軍省、参謀本部の首脳者にも会い、対満強硬策を述べ、現関東軍を掣肘するな、と烈しく進言した。政治家に対しては日本民族発展の好機を逸するなかれ、と論じ、枢府の老人に対しては積極的に政府を鞭撻せよと唱えた。陸軍省、参謀本部の若い連中は百万の味方を得たりと喜んだ。
 天皇陛下および皇太后陛下には別々に拝謁御下問があった由。全国至るところの国民大会は若槻内閣打倒、満州事変完遂、外国怖るるに足らずを絶叫決議して内閣に迫ったため、若槻民政党内閣はつぶれ、後継内閣たる犬養政友会内閣に外務大臣として伯爵内田康哉の名が連ねられ、昭和七年春には日本国は新興満州国を承認した。
 満州事変初期において国策長く決定せず、対内的にも、対外的にも過渡的混乱期があったがこの際に於ける満鉄総裁内田康哉伯の功績を知る人々が少ない。
 後に筆者は松岡洋右氏にこの話をしたところ、「ゴム人形がそんなになられたか。余はあまり傑出した人とは思っていなかったが、国家の大事に臨んでのその認識、その信念は敬服すべく、賞讃すべきものであったと思う。
 犬養内閣の外相としての強硬な主張、国際連盟のリットン調査団に対する応答、満州国早期承認論など堅確な意志には驚いていたのだ」と滅多に人を褒めぬ松岡氏が感心していた。
 筆者は昭和十年政務班長として関東軍参謀に済南駐在武官から転任して行ったが、満州国が内田康哉伯を表彰するのを事務当事者が失念していたのでぜひ表彰すべきだと主張した。満州国政府は勲一位の勲章を伯の霊前に捧げた。                         (30.8)三十五大事件


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー戦陣訓 全文ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 下記の「戦陣訓」は、「解説 戦陣訓」と題され、昭和十六年三月に、東京日日新聞社および大坂毎日新聞社によって発行された本から解説部分を除き、抜粋したものです。当然かも知れませんが、当時の陸軍大臣、東條英機の言葉が「陸訓第一号」として掲載されています。そして、井上哲次郎東大名誉教授や今村均中将、西原勝少佐、岡村寧次中将、荻洲立兵中将、谷壽夫中将、田中隆吉少将、桑木崇明中将、馬淵逸雄大佐、藤田進中将、作家の菊池寛、末松茂治中将が、項目を分担して解説に当たっています。

 すべての漢字には、読みがなが付けられ、それぞれの項目で、難しい用語の意味が説明されていますが、読みがなの一部はカタカナでかっこ書きにし、難しい用語の意味の説明は、一部のみ抜粋しました。また、「陸海軍軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)の「五ヶ条」も、「序」の部分で、簡単な説明がされていましたので、合わせて抜粋しました。

 この「戦陣訓」が、戦時中どれほどの悲劇を生んだのかを学ぶにあたっては、まず、「戦陣訓」そのものをしっかり理解しておく必要があると思いました。

 今なお、森友学園の諸問題が毎日のようにメディアに取り上げられていますが、塚本幼稚園では、園児たちに「教育勅語」を集団で暗誦させるという、常識では考えられない教育がなされていたといいます。まさに「洗脳」教育ではないか、と私は思うのですが、見逃してはならないのは、それを後押ししていたと思われる、安倍自民党政権を中心とする政治勢力の存在です。

 ふり返れば、そうした教育が平然と行われる背景は、着々と準備されてきたのではないかと思います。
 例えば、1948年に占領軍 (GHQ)によって廃止された「紀元節」が、 1966年には「建国記念の日」と、名前を変えて復活しています。また、 日本国憲法にあわせ、1947年に制定された現皇室典範では条文のない元号が、1979年に「元号法」として法制化されました。さらに、戦時中重要な意味を持った「日章旗」(日の丸)や「君が代」を、何ら変更することなく、そのまま戦後日本の「国旗」、「国歌」と定める「国旗及び国歌に関する法律」が、1999年に成立しました。そして、最近、ある閣僚からは「教育勅語」の内容を肯定する発言があり、政府も、「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することは否定しない」と述べるに至っています。
 安倍自民党政権の「日本国憲法改正草案」では、天皇は元首とされ、国旗は日章旗、国歌は君が代、そして、元号の規定も新設される内容になっているようです。2013年に政府主催で行われた「主権回復の日」の式典では、最後に「天皇陛下 万歳!」という「万歳三唱」が行われています。だから、「主権在民」を否定し、皇国史観に基づいた日本を復活させようとしているように思われるのです。「戦争法」といわれる「安全保障関連法」や「特定秘密保護法」などの成立と考え合わせると、日本の前途多難は避けられないように思います。

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陸訓第一号

  本書を戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
                      昭和十六年一月八日 

                            陸軍大臣  東條英機


戦陣訓

 夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。

 惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜りたる勅諭に炳乎(ヘイコ)として明らかなり。而して戦闘並びに訓練等に関して準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎(ト)もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべんや。乃ち既往の経験に鑑み、戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠(ヒョウキョ)を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

※軍人に賜りたる勅諭
 明治十五年一月四日、明治天皇が陸海軍人に対し、天地の公道、人倫の常経として服膺(フクヨウ)すべき忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五ヶ条を賜り、これを貫く一誠を以てすべき旨御諭しになったところの軍人精神の信条である。その五ヶ条は
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尚(タット)ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすへし。

【御稜威】天皇陛下の御威光 【四海】世界 【炳乎として】はっきりとして 【憑拠】よりどころ(服膺)心にとどめて忘れないこと

                  本訓 其の一
 第一 皇国
 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在(オワ)しまし、肇国(チョウコク)の皇謨(コウボ)を紹継して無窮に君臨し給う。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克(ヨ)く国運の隆昌を致せり。
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓って皇国守護の大任を
完遂せんことを期すべし。

【肇国】皇祖が我が国をおはじめになったこと 【皇謨】天皇の大きな御はかりごと
【聖徳八紘に光被す】天皇の御めぐみが地の隅々にまで広く大きく及ぶ

 第二 皇軍
 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。
 常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟(イヤシク)も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。假令(タトヒ)峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全(マッタ)しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御稜威を仰がしむるに在り。
【威並び行はれ】なさけと威光が共々に行はれ


 第三 軍紀
 皇軍軍紀の神髄は、畏(カシコク)くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉(ヒト)しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大権の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極地を発揮すき處とす。死生困苦の間に處し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として獻身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

【大権の承行】天皇陛下の御命令を承け奉ってこれを行ふこと  【脈絡一貫】つながりがあってすじみちが一つに通っていること   【獻身服行】一身をささげ心から身につけて実行すること

 第四 団結
 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。
 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、強固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし、上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ誠心を他の腹中に置き生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。

【聖慮】天皇陛下のお心持

 第五 協同
 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。 各隊は互いに其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ、相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

【戮力協心】力をあはせ気持ちをひとつにすること  【没我協力】 我が身のためということを離れて多勢と力をあはせること。

 第六 攻撃精神
 凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方(アタ)ては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已(ヤ)まざるべし。防御又克く攻勢の鋭気をを包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿(ナカ)れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。                    
 勇往邁進百事懼(オソ)れず、沈着大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

 第七 必勝の信念
 信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須(スベカラ)く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。

【千磨必死】幾度も危ない目にあふことによって心が鍛へられ何時でも死んでよい覚悟が出来ること

                  本訓 其の二
 第一 敬神
 神霊上(カミ)に在りて照覧し給ふ。
 心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

【照覧】神仏が御覧になること

 第二 孝道
 忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

【忠孝一本】忠義と孝行とは一つであるということ

 第三 敬礼挙措
 敬礼は至純なる服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。礼節の精神内に充溢し、挙措(キョソ)謹厳にして端正なるは強き武人たる証左なり。

【挙措謹厳】動作が慎しみ深くて重々しいこと

 第四 戦友道
 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互いに信頼の至情に致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶(トモ)に軍人の本分を完うするに在り。

【非違相戒め】間違ったことをしないように互ひに戒め合ふ

 第五 率先躬行(キュウコウ)
 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず紊(ミダ)る。戦陣は実行を尚ぶ。躬(ミ)を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

 第六 責任
 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽(ユルガ)せにせず心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

 第七 死生観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

 第八 名を惜しむ
  恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

【郷党家門】郷里の仲間や一家一門の者  【虜囚の辱】捕虜となるはづかしめ   

 第九 質実剛健
 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる志気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

 第十 清廉潔白
 清廉潔白は、武人気節の由って立つ所なり。己に克つこと能わずして物欲に捉はるる者、争(イカ)でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に處するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧(ハ)ぢざるべし。

【俯仰天地に愧ぢず】心中やましい事がなく公明正大なこと

                  本訓 其の三
 第一 戦陣の戒め
一、一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備え厳に警(イマシ)めざるべからず。
 敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭うこと勿れ。不注意も亦禍の因と知るべし。
二、軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
三、哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きを任じ、厳粛に之を服行すべし。
 哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四、思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧(ハサイ)するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
五、流言飛語は信念の弱きに生ず。惑うこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
六、敵産、敵資の保護に留意するを要す。
 徴発、押収、物資の燼滅等は總べて規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七、皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八、戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九、怒りを抑へ不満を制すべし。「怒りは敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔いを後日に残すこと多し。
 軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初めにも身を罪科に曝すこと勿れ。

【軽侮】相手を軽んじて馬鹿にすること 【哨務】哨兵のつとめえ 【敵産、敵資】敵の財産と物資
【燼滅】焼きすてること

 第二 戦陣の嗜(タシナ)み
一、尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の錬磨に勉むべし「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二、後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜みを肝要とす。
 屍を戦野に曝すは固より、軍人の覚悟なり。縦(タト)ひ遺骨の還らざることあるも、敢えて意とせざる様予て家人に含め置くべし。
三、戦陣病魔に斃るるは遺憾の極みなり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
四、刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜みを心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹(バヒツ)を愛護せよ。
五、陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄雄しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
六、総じて武勲を誇らず功を人に謙は武人の高風とする所なり。
 他の栄達を妬まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
七、諸事正直を旨とし誇張虚言を恥じとせよ。
八、常に大国民たるの襟度を持し、正を踏み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
国際の儀礼亦軽んずべからず。
九、万死に一生を得て帰還の大命に浴することあぱらば、具に思ひを護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。

【後顧の憂】自分のゐない後が心配になる  【異郷辺土】他国や片田舎  【襟度】度量、心のひろいこと

                   結び
 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるばからず。
 戦陣の将兵、須く此の趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。

【聖諭服行の完璧】天皇陛下のお諭(サトシ)をしっかり身につけてあます所なく実行すること
【皇恩の渥き】天皇陛下の御恩の深いこと



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー戦陣訓 自決ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 藤原彰教授によると、戦地における日本の軍人軍属の戦没者はおよそ230万名で、そのうち140万名を餓死とみることができるといいます(一般邦人30万、内地での戦災死者50万を加えると戦没者は全体でおよそ310万とのことです)。

 私は、「解説 戦陣訓」における、陸軍中将・岡村寧次の解説を読んで、なぜ、これほど酷い戦争を続けることができたのか、ということの答えを見出したように思いました。

 「解説 戦陣訓」において、「本訓第七 死生観」および「本訓第八 名を惜しむ」の項目の解説を担当した陸軍中将・岡村寧次は、資料1のように書いています(但し、漢字の旧字体は新字体に変えています)。
 岡村寧次は、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが「崇高な戦陣死生観」であるといいます。また、一時捕虜となった空閑昇(クガノボル)少佐が「奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたこと」を賞讃しています(空閑昇少佐の自決について詳細を知りたいと思ったのですが、空閑昇少佐に関する書籍が見当たらないため、「Wikipedia」で検索したところ、下記のような文章がありました)。

しかし空閑は中華民国の将校甘介瀾に救われ(甘は陸軍士官学校区隊長時代の空閑に教育指導を受けたと報道された)、一時は捕虜として真茹野戦病院に収容される。3月の日中捕虜交換によって身柄は上海兵站病院に移された。空閑は捕虜となったことを恥じ、部下らの戦没五七日忌にあたる3月29日、自らの部隊が奮戦した地点へ戻り拳銃により自決した。その死は美談として映画や小説等が作られた。1934年4月に靖国神社に合祀された。

 下記に抜粋した資料2の「戦陣訓は許すことなし」における「鈴木一等兵」同様、一時「捕虜」となった空閑少佐も生きることを望まず、自ら命を断ったのですが、岡村中将はそうした「自決」を賞讃しているのです。「戦陣訓」に書かれていることは、命を投げ出しても「皇国」の「(オシエ)」を守れ、ということなのだと思います。「皇国」の「訓」に従うということは、捕虜になってはならないということです。このような皇国の訓に従うことは”人命よりも尊い”ことなのだという考え方が、前線部隊や兵自らが降伏することを許さず、また、補給の不可能な戦地においてさえ、命を投げ出しての戦いを強いる無謀な作戦命令を出すことにつながったのだろうと思います。そして、それは七三一部隊における捕虜の「人体実験」や様々な部隊における、いわゆる「刺突訓練」で、初年兵に捕虜を突き殺させるというような人命軽視を生み出していったのではないかと思うのです。
 さらにいえば、特攻隊の戦死者第一号といわれる海軍大尉(戦死後に海軍中佐)「関行男」を、その死後、「軍神」などと称して畏敬の対象としましたが、同様のことが繰り返され、命を投げ出して戦った様々な兵士が「軍神」として靖国神社に祀られました。それは、「全滅」を「玉砕」などと美化して伝えることにもつながっているのではないかと思います。

 諸外国の軍隊では、命をかけて勇敢に戦い、食糧や弾薬が尽きて戦うことが不可能になったら降伏する、というのが常識で、何ら恥ずかしいこととは考えられていないため、捕虜の扱いや自決に対する考え方が日本とは根本的に違うのだと思います。だから、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが、「世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観である」などと主張するところに、日本の戦争の特殊性があり、そこにひそむ人命軽視の考え方が、数えきれない悲劇を生み出す結果につながったのだと思うのです。

 「皇国」の「訓(オシエ)」(戦陣訓)を、自らの命を投げ出しても守るべき「訓(オシエ)」した「皇国日本」の復活の兆しは、閣僚の靖国神社参拝にとどまらず、様々な法案の成立や憲法を変えようとする動きの中に感じます。そして、戦時中、父母が味わった塗炭の苦しみの話を思い出します。 

 下記資料2は「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋しました。こうした悲劇は忘れられてはならないことだと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          「天皇陛下万歳」を叫ぶ心
                                                              陸軍中将 岡村 寧次
 本訓第七『死生観』― 戦陣に臨む将兵が哲学といふ程の死生観を持ってゐるわけではないでせうが、将兵の全部が日本精神に徹してゐるといふことはいひ得ます。大きな戦闘が始まる前、陣中の将兵は何を思ふかといへば、一様に、故郷の父母兄弟に、知友に、小学校の先生に、これが最後となるかも知れないと便りを書く。このことは孝道の現はれと見るべきです。そして、いよいよ戦ひに臨むと、中隊長は兵を想ひ、兵は中隊長を想ふ ― の一念に一致してしまふ。敵弾を受けて倒れた刹那、兵が口にする言葉は「陣地は奪(ト)れたか」といふことであり、最後に息をひきとる瞬間は「天皇陛下万歳」であります。内地などでよくいろいろの会合の時など「大日本帝国万歳」と唱へますが、 将兵が戦死する瞬間は「天皇陛下万歳」であります。このことは日本人の精神の中(ウチ)に天皇陛下の兵 ― といふ意識が潜在してゐるからで、この点、世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観を持ってゐます。
 私の部下には、インテリ部隊と呼ばれた学士の兵隊が五、六百名はゐたでせう。かうした兵隊について心配しましたが、いざ戦ひに臨んでみると、いづれも立派な態度で戦ひ、戦死してゐます。日本は武士道の国であり、武士道は死ぬことを教へたものであります。悠久三千年に亘る祖先の血は、立派な日本精神として、我々の中に生きてゐることが、よく判ります。

 本訓第八「名を惜しむ」― 軍人として、絶えず念頭に置くべき訓(オシエ)であります。上海事件において、空閑昇(クガノボル)少佐が奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたことは、今尚、世人の記憶に存するところであります。少佐の遺書の一節に「武士の本領として腹一文字と行きたかったが、軍刀は先の奮戦で刃がこぼれピストルを使用するのやむなきに至った」とあります。
 生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れこの項については、多くを語るを要しますまい。将兵の凡てが、空閑少佐の心意気を持って、戦陣に臨むならば「名を惜しむ」の項を冒涜するするやうなことは起こらぬでありませう。”
 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            戦陣訓は許すことなし
                                                                      平野 正巳
 昭和十六年、私たちの部隊は、北支那山東省の南西、河南省との省境に駐屯していた。川ひとつへだてた対岸は、共産第八路軍の政治工作の行届いた部落であって、わが部隊の動向は、たえず敵側につつぬけになっていた。
 私は部隊の主計として、糧秣、給与、酒保などを受けもっていたが、炊事係の兵隊に召集兵の鈴木一等兵がいた。炊事には人夫として、李、王、方の三人の現地人がいた。ともに二十歳くらいの青年であったが、私たちは便宜上、背の高い李を太郎と呼び、以下二郎、三郎と日本名で呼んでいた。中でも、太郎は主人(鈴木一等兵)思いで、行動は常に正しく、正義と人間愛に燃える青年であった。三人の中で一番教養もあり、日本語もよく理解していた。
 酷暑の八月、部隊は敵の一隊が対岸より十キロ離れた部落に集結していることを情報で知り、鈴木一等兵も急遽戦列に加わり、夜襲を敢行すべく出動して行った。
 敵は予想外の、われに十数倍する大部隊であり、わが方は数多くの戦死者と行方不明一名を出す大激戦であった。その行方不明が鈴木一等兵であった。

 鈴木一等兵は戦死したのかも知れない。しかし死体がない以上、行方不明として処理しなければならない。行方不明であっても、捕虜にはならないで、きっと戦死しているだろう。これが部隊幹部の希望的憶測であった。
 鈴木一等兵の行方不明を知った太郎は、声をあげて泣いた。炊事下士官に、早く救出してくれと嘆願し、私のところにも「何とかして、日本兵全部で探し出してくれ」といって来た。
「鈴木大人(ダイジン)には妻も子供もいる。その妻と子供のために探すべきではないか」と、しまいには私にくいつくような始末だった。私には兵を動かす指揮権はない。しかし、太郎の言葉が胸に強く響いたので、部隊長に進言した。
「太郎よ、私も小さくして父を失った。父のない子の悲しさは誰よりも私が一番よく知っている。だけれど、部隊長は兵隊を出すことを許可してくれない。だからあきらめてくれ」
と言うと、太郎は悲しい顔をしていた。太郎の国境を越えた人間愛に打たれて、私は思わず涙を流した。  
 太郎の父は県庁の要人であったが、共産軍に殺されたとのことであった。太郎が日本軍に入ったのも、何かそこに原因があったのだろうし、鈴木一等兵の子供に、父を失った悲しみを味わわせてはならないという人間愛も、己の体験に根ざした真実の叫びであったのだろう。
「太郎よ、鈴木がいなくたって、鈴木の妻や子供は手厚い国家の保護を受けて、不自由なく暮らせるのだから安心してくれ」
 私の言葉を聞く太郎の目から涙がこぼれ落ちていた。
「平野大人、この金を鈴木大人の家族に送ってくれ」と、太郎は大切にしまっていた三十円を私の目の前に差し出した。
 太郎の月給はたったの三円である。炊事場の片隅に寝泊まりして貯めたとはいえ、彼らの三十円は苦力(クーリー)として妻一人買える金額である。いつの日か妻を持ち、家庭を築きたいと、血と汗と涙で貯めた貴い金である。私は太郎の善意を断ったが、太郎も頑としてきかなかった。「太郎よ、ありがとう」私は声がつまって後の言葉が続かなかった。
 二郎も三郎も少しではあったが金を出した。私は部隊長室に太郎を連れて行った。部隊長も涙を流して太郎たちの金を受取り、礼を言った。
 この時の太郎は、鈴木一等兵をさがしてくれない憎しみの感情からなのだろうか、敵意を持った目で部隊長を見ていた。部隊長の言葉が終わると、太郎はハッキリとした日本語で「バカ野郎」といって逃げるように去り、そのまま部隊から姿を消して行った。
 太郎が去って十二日目の夕方、突然、二郎が私の部屋に来た。太郎が「ぜひ会いたい」といっているから来てくれとのことだった。
 薄暗い炊事場の裏に太郎が立っていた。 
 平家荘(ピンチャシャン)と言う部落に鈴木一等兵は捕虜になっている。大腿部骨折の貫通銃創を受けて、共産軍の手厚い看護を受けている。敵の主力部隊はすでに移動して、十二、十三人の敵兵の監視の中で治療している。二郎たち三人で救出に行ってくるから鉄砲を貸してくれ…とのことだった。
 私はびっくりした。生きているのは嬉しいことであるが、捕虜になっているのは悲しいことである。部隊長に話せば直ちに救出するであろうが、捕虜になった以上、せっかく帰って来ても、軍法会議で銃殺刑にされるのは必至である。戦死であるならば、鈴木一等兵の家族は靖国の妻として、子として、周囲からも暖かく迎えられるだろうが、銃殺刑に処せられた夫の遺骨を受け取った妻の悲しみはいかばかりか、それを考えるとどうすることも出来ない。
 日本軍隊には、捕虜になったら死ね…と言う戦陣訓がある。死ぬことが国家の至上命令なのである。
 私は迷った。しかし、太郎の必死の涙の嘆願で私の腹は決った。部隊長に黙って、私一人が救出に行こう。私は自分の拳銃を太郎に渡し、二郎と三郎に手榴弾を、私は兵隊の鉄砲を借りて布で巻き、支那服を着て兵営を脱出した。
 平家荘は三十戸に足りぬ部落である。救出作戦はすべて太郎のいう通りにした。途中の部落を通過する時、太郎は適当なことを住民にいって、ようやく平家荘にたどりついた。
 太郎と二郎は敵の詰所(衛兵所)でしばらく話していたが、難なく通り過ぎた。私と三郎は詰所の裏の草ムラの中にひそんだ。太郎の拳銃の音とともに行動を起こす作戦だった。十分もたったころ拳銃の音がした。私と三郎は詰所に手榴弾を投げ込み、逃げる敵兵に銃弾を浴びせた。
 救出にかけつけた私を見て鈴木一等兵は、
「申し訳ありません」
といって泣いた。足には副木をあててあり、目は落ちくぼんで、顔はやつれはてていた。
 体の大きい太郎は、鈴木一等兵を背負って高梁(コウリャン)畑の中を走って行った。私たちは太郎が安全地帯に逃れるまで応戦した。
 夜の明けきらぬ内に部隊にたどりつき、鈴木一等兵を炊事当番室に寝かせた。
「鈴木、お前は捕虜ではない。重傷で動けなくなっていたのを親切な民家の人が助け、私たちが収容したことにする。だから決して捕虜になったのではない。従って軍法会議にはかけられない。お前は病院に収容され、名誉ある戦傷者として内地に送還されるのだ。安心してくれ」
 事実を知っているのは私だけである。私はウソをあくまでも通して助けるつもりでいた。
 まだ起床ラッパまで二時間もある。私は自分の部屋に戻った。部隊長にどんなふうに報告しようかと考えた。
 五時二十分、爆発音が窓ガラスを響かせた。胸騒ぎを押さえて炊事場に走った。鈴木一等兵はうつ伏せになり、腹に手榴弾をあてて自決したのだった。腸がちぎれ飛び手首が血の海の中に転がっていた。
 ―捕虜になって申しわけありません ― たったこれだけの遺書であった。
 せっかくここまで連れてきたのに … 太郎は死体に取りすがって泣いていた。やがて部隊長が来た。私は詳細に報告した。
「鈴木、よく死んでくれた。武人の花である」とほめたたえ、ニコニコしながら副官に、「行方不明を戦死と訂正するよう師団司令部に電報を打てと命令した。
 これを聞いた太郎は部隊長に向かって「東洋鬼(トンヤンキー)」と叫び、私に向かって「平野大人再見(ツァイチェン・さようなら)」と言って出て行った。そして二度と再び帰ってこなかった。
 ― 恥を知る者は強し。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ ―
 戦陣訓のこの一節は氷のごとく冷たく、一片の人間愛もなかった。二十八歳の鈴木一等兵は、このために自らの命を断ったのだった。
 太平洋戦争では二百五十万の若き命が、アッツ、サイパンなどに玉砕し、ニューギニア、ビルマなどでは食糧のない餓鬼地獄の中で散って行った。食糧、弾薬が尽きたなら、すでに戦いの責任は果たしたはずだ。降伏さえすれば、どのくらいの貴い命が助かったことであろうか。
 そして現在、よき父、よき夫として暖かい家庭の中に生きていることであろうか。
 思えば、この戦陣訓は憎みてもあまりあり、本人はもとより、遺族にとっても、痛恨きわまりなきものであった。
 いったい、だれがこの戦陣訓をつくったのだ。そしてこれを全軍に布告した者こそ、太郎のいう人命の貴さ、人間愛を知らぬ東洋鬼である。
 昭和十七年、日本は太平洋戦争の勝利に明け暮れていた。しかし、それとは逆に、われわれの部隊は激しい敵の攻撃を受け、多くの犠牲者を出していた。
 東洋鬼と叫んで去って行った太郎は、そのころ共産第八路軍の若き中隊長となっていた。そして豪胆、沈着、神出鬼没、東洋鬼を撲滅せよと、日本軍に激しい攻撃をかけていたのだった。
 あれから二十五年、現在、太郎が生きていれば、きっと中華人民共和国の大幹部になっていることであろう。
 そして火の玉のごとき正義感と、あの人間愛を持って、真に民衆のために働いていることであろう。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー捕虜刺殺訓練と戦陣訓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋した下記の文章の中で、捕虜の刺殺ができなかった大越二等兵に投げかけた中尉の言葉

よし、正義を愛するならば、不正義を撲滅することが出来るはずだ。つまり敵を殺すことが出来るわけだ。このことがよく解れば捕虜を殺すことはなんでもない。二度と今日のようなことがないように、戦場に出る時のために十分に度胸をつけるのだ。そのための訓練に震えてしまうようではいけない。いいな、解ったら帰ってよろしい
は、日本軍特有の残虐性を示すものとして、私は見逃すことができません。なぜなら、捕虜を裁判なしに殺害することは、「ハーグ陸戦条約」に反する行為ですが、当時の日本軍が「 俘虜は人道をもって取り扱うこと」という原則を中心に、細かく定められた捕虜に関する国際法を無視し、初年兵の訓練のために、捕虜を殺害させていたという事実を、はっきり示していると思うからです。そして、それは第五十九師団師団長・藤田茂中将の次のような言葉を思い出させます。

兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない
此には銃殺より刺殺が効果的である

 また、下記の文章(「閉ざされた少年の眸」)を読んで、私は、刺殺訓練のための捕虜殺害を拒否し、リンチを受けたという”渡部良三”に、下記のような歌があったことを思い出しました。

いかがなる理にことよせて演習に罪明らかならぬ捕虜殺すとや
捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ

 日本軍兵士は、「皇軍」の兵士であるがゆえに、「皇軍」の「訓」(オシエ)である「戦陣訓」に反して「捕虜」になることは受け入れられず、兵士が「捕虜」になることは「死」を意味しました。だから、敵国の捕虜の人命も尊重されることがなかったのではないでしょうか。

 ”深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せん”ことを義務づけられた皇軍兵士は、”生きて虜囚の辱めを受け”てはならず、”死して罪禍の汚名を残すこと”が許されなかったわけですが、なぜ、捕虜になることが「辱めを受け」ることなのか、なぜ捕虜になることが、「汚名を残すこと」なのか、そこに人命軽視の落とし穴があるのではないか、と考えさせられるのです。

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
というような「皇軍の訓(オシエ)」がなく、完全に弾薬が尽きたり、食糧が尽きたり、あるいはまた、銃が持てなくなったり、失明したりして、戦いを継続することが不可能になったら降伏する、ということが認めらていれば、戦地における「餓死」「玉砕」などという酷い死はなく、捕虜の刺殺訓練などというものもなかったのではないでしょうか。
 したがって、「戦陣訓」というような「皇軍の訓(オシエ)」から、日本軍の人命軽視や残虐性がうまれたのではないかと思うのです。
 
 下記は、「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋しました。
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                           閉ざされた少年の眸
                                                                     大越千速
 教官室、石油ランプの灯は暗い。粗末なテーブルを前に、木椅子に腰かけている中尉と、その中尉に向かって直立不動の姿勢で立っている二等兵。室内は重くよどんでいる。
 若い中尉の色の白い細面の顔には、鋭さは見られず怒りの表情もなかった。二等兵は困惑のあまり茫然としていた。二人は向かいあったまま長い沈黙の時間が続いていた。
「お前は他人から殴られても、殴りかえさないか」
 沈黙を破って中尉が静かに言った。
「はい……その時になってみなければ……」
 二等兵は細い声で答えた。
「そうか、その時になってみなければわからないというのか。それではお前が殺されようとした場合はどうか。自分を守るため相手を殺そうとはしないのか」
「……」
「どうなのだ、世の中は常に戦争が絶えないのだ。歴史がそれを証明している。簡単に言うと正義と不正義の戦いだ。不正なやつがお前の生命を奪おうとした場合、お前はそいつに黙って生命を与えてやるのか」
「……」
「どうして答えられないのだ。与えるか与えないか、二つに一つ、簡単ではないか。与えるときは自分が死ぬ。与えないときは相手を殺して自分が生きる。ただそれだけのことだ」
「……」
「どうして返事が出来ないのだ、どっちも嫌だなどという馬鹿なことはないだろう」
「……」
「よし、最後に聞こう。正義と不正義とお前はどちらを愛するか」
「はい、正義を愛します」
二等兵は蚊の鳴くような声で答えた。
「よし、正義を愛するならば、不正義を撲滅することが出来るはずだ。つまり敵を殺すことが出来るわけだ。このことがよく解れば捕虜を殺すことはなんでもない。二度と今日のようなことがないように、戦場に出る時のために十分に度胸をつけるのだ。そのための訓練に震えてしまうようではいけない。いいな、解ったら帰ってよろしい」
「はい」
 二等兵は教官に敬礼して室外にさった。

 愛しき者よ、父はわが子御前たちを、そう呼ぼう。父が体験した戦争、太平洋戦争について、かつて父は多くを語らず、お前たちも多くを聞こうとしなかった。
 父は言うべくして戦争を語る自信がなく、おこがましさを許してくれるなら、正義の所在を模索し続けているのだと言おう。
 色即是空。仏教の言葉を借りるならば、実在的独断を極力打破して、世の中の実相を把握しようと……だが暗中模索の中、いたずらに時日は流れ去るのみ。結論のない戦争体験の父の言葉は、愛しき者お前たちよ、お前たちの正しい判断に委ねよう。
 教官室の二等兵は、従軍中の父である。私が従軍した駐屯地の城壁には、巨大な文字が横に書かれていた。その文字は、同文同種、防共和平、の八文字である。円形の白地の中に一字一字黒く書かれたそれらの文字、その文字の見える城外で、或る晴れた早春のその日、捕虜刺殺の実地訓練に、初年兵の私は、青くなって震えあがり刺殺することが出来なかった。教官室での説教は、そのためであった。

 共産軍少年兵捕虜の朱良春に、私が初めて接したのは、私が震えてしまった刺殺訓練の日の数日後である。
 私は、その日初めて城門分哨の勤務についたのである。そして、その哨舎の中に朱良春を見たのだ。古年兵の話によれば朱良春は、数日前に初年兵の実地訓練に供された数名の者と同様、共産部落の攻略戦における捕虜だという。そして朱良春は、少年兵のために処刑されないで、やがて釈放されるのだと。
 古年兵からその話を聞き、後ろ手に縛られている朱良春と視線をあわせた時、私は心の中で思わず微笑するのを覚えた。
 昼食、夕食、食事当番が哨舎に運んでくるそれらの食事は、朱良春にも全く同じ物が与えられた。
 駐屯地に、黄昏が迫る頃、黄色い大きな月が東の空に出て、砂丘に波状の陰をつくった。
 城壁の上を動哨する兵士の耳に、何処からともなく幽かな鈴の音が響く。此処は内蒙古オルドスの草原、あの砂丘の何処かをキャラバンが通っているに違いない。城壁の兵士は幻想の中に鈴の音を聞くのである。
 哨舎の中の少年兵捕虜は、後ろ手に縛られたまま舎屋の壁に背をもたせて眠った。
 私は控兵として、銃を手にし木椅子に腰かけて、戦争にはやはり勝たなければと、そんなことを、ふと考えたりした。
 二十四時間の分哨勤務を終わって、翌朝、私たちは新しい分哨要員と交替した。哨舎を去る時、私は昨夜支給された甘味品、飴玉の残り数個を、軍衣のポケットから出して少年に与えた。後ろ手に縛られ壁を背に、土間に両足を投げ出している彼の前に、それを差し出したのである。勤務についた古年兵の一人が、
「よし、俺にまかせろ」
と、飴玉を受取り、一個の包紙をとって朱少年の口許に出した。朱少年は、素直に口を開けた。
 勤務あけの古年兵とともに、中隊に帰りながら私は、朱良春が何歳なのか、何故彼は軍服を着ないで普通一般人の衣服を着ているのかを聞いた。そして、彼が十五歳であること、共産地区の部落民は、平素は部落にあって農耕に従事し、戦闘の際には、その服装のまま男も女も、老人も子供も、武器を手にする事の出来る総ての者が戦うことを知らされた。
 古年兵が言った。
「朱良春も正規軍ではない兵隊ってわけさ」

  万朶の桜か襟の色
花は吉野に嵐吹く
大和男子と生れなば 
散兵線の花と散れ

 午前の演習のため完全武装した初年兵は、軍歌を歌いながら城外へ向って行進していった。私が城門の分哨勤務についた日から二日後のことである。城門を過ぎる時、私は朱少年のことを、ちらと思いうかべたが、私自身も声をはりあげて歌う軍歌のために、その思いは瞬時にかき消された。
 城門を出ると急に視界が拡がって、遙か北方に連なる陰山山脈は、樹木のない岩石の肌を早春の淡い霞の中に見せていた。
 その一連の山系の外は、東、南、西と視界の総ては、海洋の波濤のうねりように起伏する砂丘の彼方に模糊としてかすむ地平線がオルドス草原の広大さを思わせた。やがて隊列は停止した。私はその時、停止した隊列の前方に、数名の古年兵とともに立っている朱良春の姿を見た。そして名状するすることの出来ない予感に襲われた。
 古年兵はシャベルで大地を掘り木柱を立てた。朱良春は、白布で目隠しをさせられて木柱にくくりつけられた。私は陰山山系に視線を移した。
 駐屯軍がA山と名づけた高峯に、白い雲が流れていた。更に今私たちが通って来た方をふりかえると城壁が夢のように浮かんでいた。
 同文同種、防共和平
「気をつけ!着剣!」
 鋭い号令に私は、我にかえって歩兵銃に腰の剣を装着した。
「○○二等兵、前へ出ろ」
教官が私を呼んだ。
「はい」
鸚鵡がえしに私は答え、隊列から数歩前へ出た。
「今から突撃の訓練を実施する。○○二等兵よいか、お前が今日は一番乗りだ。目標はあの敵だ。号令は教官がかける」
 教官は木柱の方を手で示すと腰の軍刀の鞘を払った。
私は木柱の朱良春を見つめた。
「突撃!進め!」
教官の号令に私は、銃剣を右手にさげ大地を蹴って走った。二十メートル、十五メートル、十メートル ――
「突っ込め!」
 私の横を走る教官の号令。
「ウオー」
 私は絶叫し銃剣を両手に構えた。朱良春の姿が目前に大きく迫る。そして私が絶叫したその時、朱良春の唇を洩れる悲痛な声を、私は聞いた。
「ムーチン(母親)」
 母を呼ぶ声である。私は目標の数歩前で停止した。全身にはりつめていた気力が虚脱したのである。「こいつ!」
 教官の黒い長靴が私の脚を蹴った。私は地上に倒れ鉄帽をかぶった頭や、背や腰に、教官の足蹴りの洗礼を受けた。
「立て!」教官にひきたてられて、再び朱良春を見ると、どうしたことか彼の目隠しの白布が少しずれ下がって、双眸が現れ私を見つめていた。
 静かな眸の色であった。そうだ、それが私が城門分哨の勤務についた日に、初めて彼と視線をあわせた時の眸の色であった。朱良春は眸を閉じた。
「構え!銃」
 教官の号令に私は銃を両手で構えた。
「突け!」
 私は突いた。殆ど手ごたえもなく銃は朱良春の胸を貫いた。
 朱良春は声もなく頭を前にがくんと垂れた。


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