-NO533~537
ーーーーーーーーーーーーーーーー石原完爾の最終戦争論と日蓮宗ーーーーーーーーーーーーーーーー

 柳溝湖事件を画策・実行し、満州事変を経て日中全面戦争、さらに太平洋戦争へと至る日本の戦争拡大の導火線に火をつけた石原完爾は、満州事変前に、すでに「日米戦争」を想定していました。

 その石原莞爾が「最終戦争論」(中央公論新社)で、最終戦争と位置づけた「日米戦争」に関わって驚くべきことを語っています。
 石原莞爾は、「宗教の最も大切なことは予言である」と主張し、「日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起る。そのとき本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります」というのです。
 そうした予言に基づいて、石原莞爾は日米戦争を中心とする「世界の大戦争」を想定し、「関東軍満蒙領有計画」その他の文書で、「大戦争」の準備を整える必要を呼びかけたということになります。これは見逃すことの出来ないことです。「最終戦争論」石原完爾(中央公論新社)から、その主張の一部を抜粋しました。
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                              第一部 最終戦争論
第五章 仏教の予言

 今度は少し方面を変えまして宗教上から見た見解を一つお話したいと思います。非科学的な予言への、われわれのあこがれが宗教の大きな問題であります。しかし人間は科学的判断、つまり理性のみを以てしては満足安心のできないものであって、そこに予言や見通しに対する強いあこがれがあるのであります。今の日本国民は、この時局をどういうふうに解決するか、見通しが欲しいのです。予言が欲しいのです。ヒットラーが天下を取りました。それを可能にしたのはヒットラーの見通しであります。第一次欧州戦争の結果、全く行き詰まってしまったドイツでは、何びともあの苦境を脱する着想が考えられなかったときに、彼はベルサイユ条約を打倒して必ず民族の復興を果たし得る信念を懐いたのです。大切なのはヒットラーの見通しであります。最初は狂人扱いをされましたが、その見通しが数年の間に、どうも本当でありそうだと国民が考えたときに、ヒットラーに対する信頼が生まれ、今日の状態に持って来たのであります。私は、宗教の最も大切なことは予言であると思います。

 ・・・ 

 ところで、天台大師が仏教の最高経典であると言う法華経では、仏はその闘争の時代に自分の使を出す、節刀将軍を出す、その使者はこれこれのことを履み行い、こうこういう教えを広めて、それが末法の長い時代を指導するのだ、と予言しているのであります。言い換えれば仏滅から数えて二千年前後の末法では世の中がひどく複雑になるので、今から一々言っておいても分からないから、その時になったら自分が節刀将軍を出すから、その命令に服従しろ、と言って、お釈迦様は亡くなっているのです。末法に入ってから二百五十年ばかり過ぎたときに仏の予言によって日本に、しかもそれが承久の乱、即ち日本が未曾有国体の大難に際会したときに、お母さんの胎内に受胎された日蓮聖人が、承久の乱に疑問を懐きまして仏道に入り、ご自分が法華経で予言された本化上行菩薩であるという自覚に達し、法華経に従ってその行動を律せられ、お経に述べてある予言を全部自分の身に現された。そして内乱と外患があるという、ご自身の予言が日本の内乱と蒙古の襲来によって的中したのであります。それで、その予言が実現するに従って逐次、ご自分の仏教上に於ける位置を明らかにし、予言の的中が全部終った後、みずから末法に遣わされた釈尊の使者本化上行だという自覚を公表せられ、日本の大国難である弘安の役の終わった翌年に亡くなられました。
 そして日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起る。そのとき本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります。

 ・・・

 明治の御世、即ち日蓮聖人の教義の全部が現われ了ったときに、初めて年代の疑問が起きてきたことは、仏様の神通力だろうと信じます。末法の最初の五百年を巧みに二つに使い分けをされたので、世界の統一は本当の歴史上の仏滅後二千五百年に終了すべきものであろうと私は信ずるのであります。そうなってまいりますと、仏教の考える世界統一までは約六、七十年を残されているわけであります。私は戦争の方では今から五十年と申しましたが、不思議に大体、似たことになっております。あれだけ予言を重んじた日蓮聖人が、世界の大戦争があって世界は統一され本門戒壇が建つという予言をしておられるのに、それが何時来るという予言はやっていないのです。それでは無責任と申さねばなりません。けれども、これは予言の必要がなかったのです。ちゃんと判っているのです。仏の神通力によって現れるときを待っていたのです。そうでなかったら、日蓮聖人は何時だという予言をしておられるべきべきものだと信ずるのであります。
 この見解に対して法華の専門家は、それは素人のいい加減なこじつけだと言われるだろうかと存じますが、私の最も力強く感ずることは、日蓮聖人以後の第一人者である田中智学先生が大正七年のある講演で「一天四海皆帰妙法は四十八年間に成就し得るという算盤を弾いている」(師子王全集・教義篇第一輯367頁)と述べていることです。大正八年から四十八年くらいで世界が統一されると言っております。どういう算盤を弾かれたか述べてありませんが、天台大師が日蓮聖人の教えを準備された如く、田中先生は時来たって日蓮聖人の教義を全面的に発表したー即ち日蓮聖人の教えを完成したところの予定された人でありますから、この一語は非常な力を持っていると信じます。
 また日蓮聖人は、インドから渡来して来た日本の仏法はインドに帰って行き、永く末法の闇を照らすべきものだと予言しています。日本山妙法寺の藤井行勝氏がこの予言を実現すべくインドに行って太鼓をたたいているところに支那事変が勃発しました。英国の宣伝が盛んで、日本が苦戦して危いという印象をインド人が受けたのです。そこで藤井行勝氏と親交のあったインドの「耶羅陀耶」という坊さんが「日本が負けると大変だ。自分が感得している仏舎利があるから、それを日本に納めて貰いたい」と行勝師に頼みました。行勝師は一昨年帰って来てそれを陸海軍に納めたのであります。
行勝師の話によると、セイロン島の仏教徒は、やはり仏滅後2千5百年に仏教国の王者によって世界が統一されるという予言を堅く信じているそうで、その年代はセイロンの計算では間もなく来るのであります。

ーーーーーーーーーー石原完爾 「東亜連盟」建設綱領と「宣言」及び「運動要領」ーーーーーーーーー

 石原完爾は、関東軍参謀として満州国建国を主導しましたが、その後、参謀本部に入ってからは日中戦争不拡大を主張するようになり、戦後A級戦犯として処刑された強硬派の東條英機と対立します。そのためか、彼の思想や行動を肯定的に捉え、名将として評価する人たちもいるようです。でも、軍人としての石原完爾の評価は、私には分かりませんが、国家の指導者としては、独善的であまりに問題の多い人物ではないかと私は思います。

 満州事変当時、「満州領有」を計画・実行するため関東軍を動かした石原完爾は、その後日中戦争不拡大を主張し、民族協和を唱え、「東亜連盟」建設を呼びかけるようになります。でも、一貫して自らの考えに基づいて、日中の将来を独善的に語っているように思います。

 彼は、「東亜連盟建設綱領」で「満州事変の進歩的意義は、東亜大同の理想を、民族協和の理念をもって、現実に闡明したことである」と書いてますが、自ら主導した関東軍の軍事行動の過ちを認め、謝罪することなく、いつのまにか「満州領有」の方針を変更して「民族協和」を唱え「東亜連盟」建設呼びかけるのは、いかがなものかと思うのです。あまりに手前勝手な話ではないでしょうか。

 柳溝湖事件を画策・実行し、満州事変に発展させたことをはじめとする「満州領有」のための関東軍の様々な軍事行動、およびそれを追認するかたちで進められた日本政府の諸政策が、中国民衆の反日感情を高めたということに対するきちんとした自己批判や謝罪がなされないで、「民族協和」や「東亜連盟」の話に進むことが、日本人である私にさえ理解できません。独善的で強引な姿勢は相変わらずではないかと思います。

 彼が「満州領有」ではなく、「満州国の独立」をもとめ、「東亜連盟」を発展させるという主張に変えるというのであれば、そうした自己批判や謝罪をベースに、軍事力によって確立された関係を根本的に改めることが不可欠なはずです。
 そして、欧米列強の帝国主義に対する、東亜の「王道主義」というものが何であるかを、具体的に示し実践しなければ、日本軍によって、欧米帝国主義による圧迫以上に苦しめられた中国の人たちと連帯し、欧米帝国主義に対することなどできるものではないと思うのです。謀略による柳溝湖事件をきっかけとした関東軍の連続的な軍事行動が「欧米覇道主義ノ圧迫」と、どこがどう違うのかと、疑問に思います。

 さらに言えば、「宣言」に「人類歴史ノ、最大関節タル、世界最終戦争ハ、数十年後ニ近迫シ来レリ、昭和維新トハ、東亜諸民族ノ、全能力ヲ総合運用シテ、コノ決勝戦ニ、必勝ヲ期スルコトニ外ナラス」とありますが、「世界最終戦争」を前提にするような独善的な「東亜連盟」の構想で、連帯して欧米帝国主義に対することなどできるものではないと思います。

 下記は、石原完爾選集6 東亜連盟運動」玉井礼一郎編(たまいらぼ)から抜粋しました。
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                              東亜連盟建設綱領
第一章 東亜連盟の必然性
 満州事変の進歩的意義は、東亜大同の理想を、民族協和の理念をもって、現実に闡明したことである。これ東洋復興の唱えられること久しいものあったに拘らず、或いは亜細亜人の亜細亜といい、或いは大亜細亜主義というその内容が必ずしも判然たらず、むしろある場合は民国一部識者をして日本の野心の代名詞ならずやと警戒すらせしめた従来の日支提携論を、その根底に於て一新するものといわねばならぬ。事実、当時の関東軍は外に東亜を西欧帝国主義より解放することを大目標とし、この実力の下に、内に満州国内に於ては民族抗争より民族協和への飛躍、中華民国に対しては対民国侵略主義より東亜連盟主義への転換ある方針を決定したのであるが、この識見は東亜連盟思想発展の上に永く記憶せられるべきことである。
 東洋近世史は過去一世紀に於て亜細亜が如何に巧妙に西欧帝国主義によって残害せられたるかを教える。この意味に於て明治33年、日本の条約改正成功の意義は極めて大である。これによって亜細亜はその半植民地状態脱却の第一歩を踏むことができたのである。孫文はその大亜細亜主義なる講演に於て、「日本の不平等条約の撤廃の日こそ、亜細亜全民族復興の日であり、この不平等条約廃棄によって、全亜細亜の国家及び民族は独立に対して大なる希望を抱いて来た」と述べている。
 しかし、東亜復興史上に表現される日本の歩みは必ずしも単純たる能わなかった。清国は阿片戦争、太平天国の乱、仏清戦争、日清戦争、義和団事件等、相続く事件に全く衰亡し、武漢革命によって、新しき歴史が創られるに至ったのであるが、これに対して吾人は、西欧帝国主義が先ず印度を征服し、次いで清国を侵し、更に日本に迫りつつあった時、必死の努力をもって幕末より明治への偉大なる転換をなし得た業績を追想するものである。英、米、仏、露の勢力の中心に圧迫されながらよく自力をもって国内の紛乱を処理したことは、等しく不平等条約を課されつつも、内争にまで西欧帝国主義の力を利用せる清朝末期、および成立当初の民国がその後全く欧米の力によって左右されざるを得なかった事情と対比して、如何ばかり幸であったか判らぬ。しかし小国日本がその烈しき努力によって一躍近代化し、膨張的本能によって大陸と交渉を持つに至るや、清国は少なからぬ圧迫感を感ぜざるを得なくなった。殊に日本が強国露国に一勝したことは、一面列強の支那分割の大勢を牽制し、爾来、列国の対支進出は領土保全、機会均等、門戸開放の原則をもって代表される経済的競争に変化するに至ったのであるが、他面に於ては日本の地位はこの戦争によって急速に高められ、その資本主義経済の発展と相俟ち、大陸に対し積極的侵攻の態勢をとるに至ったのである。日本の対露戦勝は、最近数百年間に於ける亜細亜民族の欧州人に対する最初の勝利であった。このことが被圧迫民族にあたえた影響の測るべからざるものであったことは、その後、埃及(エジプト)、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア、印度等が相次いで独立運動を起こすに至ったことより見ても明らかである。亜細亜諸民族がかかる希望を抱いた反面、日本が一方に於て西欧帝国主義的発展の形相をも具えて来たことに対する彼等の失望大なりしこともまた想像出来るのである。しかし、東洋をおおう西洋の圧力は強大であって、殊に支那は列強の差別的特権の下にある。日本は先ず自らの実力を充実する必要があった。殊に日露戦争以後、列強の対日感情は次第に悪化の傾向にある時、日本は東洋防衛のためといいながら、西欧帝国主義の特権に均霑(キンテン)し、自己の脚下を強化せねばならなかったのである。かの二十一ヶ条約問題は、実に日本自ら極東に於ける地位を確保するために、欧州大戦の混乱に乗じて試みた努力というべきであろう。民国の対外憎悪の焦点が日本に結ばれるに至ったことは、弱小日本の急速なる発展が多く民国を土台とせることに対する失望、怨恨によるのであろうが、民国人としても当時の歴史を虚心に研究し、日本が必死となって西欧帝国主義の圧力に抗した事実およびこのためにはあくまで大陸に進出せざるを得なかった事情を理解すべきである。
 かかる成長過程の当然の結果として、日本は知らず識らず二つの思想を持つこととなった。一は西欧模倣の帝国主義思想であり、他は王道文化の思想である。近年に於ける対支政策の不統一は意識せざるこの二重性格に原因を求むべきであると考える。これを現実歴史の上に見るも、民国の対日感情はウイルソンの民族自決の宣言、蘇連革命影響によってますます悪化の一路を辿った。欧州戦後、欧米の力に余裕を生ずるとともに、国際会議のあらゆる機会に於て、日本は民国代表の抗議の的となり、恰も列強に裁判される被告の如き観を呈したのは吾人の今に記憶するところである。同時に、日本に於ても民国に対して確たる国策を有せざるのみか、民国の抗議に対する態度頗る徹底を欠き、屢次の大陸出兵も一貫せる国策によるものとは言い難い。かくて両国の関係は全く軌道を逸脱し、遂に満州事変となったのである。

 満州事変の特異性は、前述の如くその指導原理の明徴なるにある。西欧帝国主義と一戦を辞せざる日本の国防的地位に対する合理的信念の下に、東亜大同の史的必然を確信し、この確信によって、従来の対支観察を根本的に転換するものである。いわゆる「東亜連盟論」が現実的色彩をを帯びるに至ったのはこの時以後である。東亜連盟の基礎観念は次章に於て論ずるのであるが、満州事変によって生まれたる最も貴重なるものは、西欧模倣の帝国主義より王道主義へ転進の指導精神に外ならぬ。故に満州建国後に於て、日本はこの原理に基づき一意満州国の理想的建設に邁進し、満州国の日華提携の橋梁たるべき意義を明白にし、現実をもって中華民国の諒解を求むるとともに、他面、中華民国に対してはその速やかなる国内統一を援助し、一日も早く完全独立国たる実質を有せしめ もって東亜連盟結成の責任を分担せしむべきであった。しかし遺憾ながら満州国建国の意義識者に徹底せず、ために民国に対する日本の伝統的認識は依然残存し、民国に対する政策また、しかく明瞭たる能わなかった。これと同時に民国に於ても東亜解放について正常なる認識をなさず、例によって欧米依存の愚策を踏襲し、かえって抗日を強化し、日本に於ける強硬論を刺激したのである。かかる情勢の下に支那事変は勃発したのである。
 
 今次事変当初、日本政府は不拡大主義を堅持した。それは本年七月、事変二周年記念講演に於て、近衛前首相が自ら表明せる如く、日満支の一体的連関を認識し、いわば東亜の内乱とも言うべき日支衝突は、あらゆる見地より極力これを避けんとしたがために外ならぬ。しかしながらその後、日華の全面的抗争となり、それに伴って大いに暴支膺懲が叫ばれたのであるが、東亜再建の世界史的意義の闡明につれて、国論は漸次適正建設的となり、政府の説くところもまた、長期建設、東亜新秩序建設と変化し、今や日本の優越的希望のなかに事変処理の条件を求むることなく、日満支提携を可能ならしむべき基礎の成立を真剣に考慮しつつあるものと云えよう。即ち、日本は、差当って東亜の一体化に主たる貢献をなすべき自己の使命を自覚し、自ら現在の抗争的地位を克服し、もって今日以後に於ける東亜の新しき進歩を招来せんと意識し来ったのである。この意味に於て西洋模倣の帝国主義をを残存せしめつつも、日本は今や着々と王道主義に目覚めつつあるものと言える。今こそ日本は民国四億の民心を獲得し得るか否かの分岐点に在る。民国に於ける過去政治家の、偽装的非良心的親日主義に幻惑されることなく、民国の新しき青年を心より納得せしめ得る国策をもって、この時局を収拾しなければならぬ。このためには、もはや新しき民国青年より完全に接触を拒絶されて居る、従来の我が対民国指導者陣営の一掃を断行すべきである。日清戦争以来、日本国民の脳裡に浸潤せる強者対弱者の指導者意識に基づくいわゆる大陸経営論は、今こそ正に歴史的終焉を告げるべき時期である。
 かくて先に道義的見地に基づいて主張されたる東亜連盟主義は、今や血肉同胞の尊い犠牲の下に、日華提携の現実的基礎として主唱されるに至ったのである。
 東亜新秩序の建設は、近衛内閣が聖断を仰いで確定したところの、支那事変処理の原則である。今や西欧帝国主義が堅く維持せる旧支配秩序は潮のひくが如く漸やく崩壊の過程にあり、これに対する東亜の大同は世界史発展の自然に雁行する必然の現象と言わざるを得ない。要はこれを王道の大義に則って建設するにある。欧州は列強対立して平和なき姿であり、亜米利加大陸はモンロー主義の名の下に、強者横暴の支配である。近世文明におくれて起てる弱き東亜が、他の大陸を超えて繁栄するためには王道によって心から結合する以外に途はないのである。日華の責任は重大と言わねばならぬ。
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      宣   言

人類歴史ノ、最大関節タル、世界最終戦争ハ、数十年後ニ近迫シ来レリ、
昭和維新トハ、東亜諸民族ノ、全能力ヲ総合運用シテ、コノ決勝戦ニ、
必勝ヲ期スルコトニ外ナラス
 即チ 昭和維新ノ方針次ノ如シ
一、欧米覇道主義ノ圧迫ヲ、排除シ得ル範囲内ニ於ケル諸国家ヲ以テ、
  東亜連盟ヲ結成ス
二、連盟内ニ於ケル、積極且ツ革新的建設ニヨリ、実力ヲ飛躍的ニ増進シ
  以テ決勝戦ニ於ケル必勝ノ態勢ヲ整フ
三、右建設途上ニ於テ、王道ニ基キ、新時代ノ指導原理ヲ確立ス
 
 皇紀二千六百年二月十一日               東亜連盟協会

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                           東亜連盟協会運動要領
  一、協会創立の趣旨
 昭和維新の必然性が信ぜられて既に数年を経過し、幾多の革新案が発表せられた。しかし、多くは観念的なる革新のための革新の範囲を脱せず、現実的迫力を欠く憾みを禁じ得ない。これは国難の圧迫が切実に国民大衆に感ぜられず、維新の目標が明確を欠くためである。
 東亜連盟協会宣言に示す吾人の世界観は甚だ素朴であるけれども明確に昭和維新の目標を捉え、簡明直截に革新の方向を示すものと信ずる。多数の革新運動が展開せられつつある今日、敢えて同志を糾合して協会を創立せるはこの確信に基づくのである。
 特に「東亜連盟協会」と称するゆえんは、昭和維新の核心問題は東亜の大同すなわち東亜連盟の結成にあるがためである。

  二、協会の運動方針
 東亜連盟協会は政治団体ではない。
 吾人の信ずる所によれば、特に革新の時代に於て政治運動をなさんとするものは、自ら責任を持って政治の大任に当り得る自信が必要である。すなわち昭和維新に対する確固たる方針と具体案を有し、かつその実行に当たり得る同志の結成なくして猥りに政治運動をなすは、皇国民の正しき態度と認め難い。殊に挙国一体の新体制を創造すべく全国民が熱望しある今日、徒らに党を樹つるは慎むべきである。
 協会は宣言の示すところに依り東亜連盟の結成を核心問題とする昭和維新の指導原理を研究立案し、これが普及宣伝を目的とする文化団体である。
 吾人は、吾人の主張が国民の理解に依り全面的に国策として採用せらるることを念願し、この目的を達成せば協会は当然これを解消する。
 協会の目的とする昭和維新指導原理の確立は事極めて重大であり、世間普通の文化団体の如き単なる言論文書活動のみに依りてその目的を達成することは出来ない。協会の信念を、許さるる範囲において熱心に実践する会員の同志的結合を必要とする。これがため協会は常に運動の規範を明確にし、的確合理的なる行動をなすべく、細心の注意を払わねばならぬ。
 協会は自ら進んで政治運動に入ることは堅く欲せざるところであるが、国家の最重要事項と信ずることにつき真剣なる研究実践を行なって国民に訴うる以上、協会所期の指導原理確立し、かつ同志の結成拡大し、しかも我等の待望する新体制運動が万一所望の成果をを挙げ得ざる如き事態に立ち至ったならば、国家に対する義務として已(ヤ)むなく、政治の分野に向かって活動を余儀なくせらるること絶無ならざるべきことを心竊(ヒソカ)に覚悟せねばならぬ。

  三、指導原理の立案
イ、「昭和維新論」は指導原理の「方針」草案である。
不断の努力に依って改訂を重ね、大体協会の「方針書」たり得るに至らば、これを「昭和維新指導綱領」と改称する。
ロ、「昭和維新論」に基づき各要綱を起案する。
 「東亜連盟建設要綱」は外政の要綱たる地位を占むるものである。東亜連盟の結成を昭和維新の核 心問題と主張する協会に於てはこの書の価値を極めて重大視する。
 内政の各革新目標につき、なるべく速かにその要綱を起案せねばならない。
ハ、各「要綱」は更に発展して「各論」を生むのであるが、実際に於ては逆に「各論」の具体問題が起案せられ、文化運動としての同志の研究実践に依り検討進展し、これらを総合する努力に依り「各論」「要綱」「綱領」決定の基礎を得るであろう。すなわち直観的なる根本方針の決定に依り具体案制定に方向を与え、その具体案の実践的展開に依り大綱は更に検討確定されるのである。

  四、協会の組織
 東亜連盟協会は現在東京に本部、要地に地方事務所を置き、各地に支部を置く。支部には分会及び班を設く。
イ、本部の任務
 1、指導原理の立案に依り会運動の方向を統制す
 2、満州国および中華民国その他東亜各地における姉妹団体と密接なる連絡協同
 3、中堅会員の訓練
ロ、地方事務所の任務
 1、管内支部の結成
 2、優良会員の訓練
ハ、支部の任務
 指導原理に基づき同志の発見、獲得、訓練に当る。
 協会会員たるものは単なる知識欲に依る参加者であることは許されない。新時代の重要性を体得し、 その普及および宣伝に当るとともに新しい社会生活への協同的実践の熱意に燃えるものでなけれ  ばならぬ。この原則に立つ限り既成陣営の人士の参加を拒否することはない。しかし旧時代の慣習 に依り自己または郷党の利益を中心として動くものは吾人の同志たる資格はない。すなわち主義如 何が問題で、人を排撃するものであってはならぬ。
ニ、中央支部ともにその統制は会員の合議制に依る。合議制と称するも徒らに自己の主張を固持し、 または策謀に依りて多数を獲得せんとする旧時代の方式は絶対にこれを排撃する。
  更に吾人の銘記すべきは、革新の時代に於ては特に多数凡者の意見よりも達識ある天才的人物の  意見を尊重すべきことである。同志は滅私奉公の心境を以って有能なる同志の発見に努力し、有  能者に対してはその年齢、学歴等に捉わるることなくその分に応ずる指導的役割を演ぜしむべき  である。
かくて同志一同の念力は必ず優れた指導者を発見し得ると確信するも、不幸卓抜なる指導者現出せざる場合においても、右の如き同志の心境はよく協同の実を挙げ、正しき方向を堅持して前進
し得る事を信ずるものである。
  決議権は参与会員にある。しかしなるべく広範囲の事項にわたり一般会員に意見を開陳する機会  を与うる如く努むべきである。

  五、会員の訓練
イ、支部以下の訓練
 1、指導原理の徹底
漫然と時代の重要性を考えるのでなく明確に昭和維新の本質を把握せしめるために、会員に「宣言」「昭和維新論」および「東亜連盟建設要綱」「国民組織要綱」「農村改新要綱」等を正確確実に理解体得せしめねばならぬ。これがため簡易なる方法を以って連続その講習会を開催して、その訓練の結果に応じ、更に中央の訓練に参加せしめる。
 2、外地に於ける支部はもちろん、内地における支部もその境遇に応じ、民族協和の実践運動を組   織化し、東亜連盟結成の基礎工作に努力する。
内政の革新目標につきては、可能の範囲内において同志会の方針に基づき会員一致団結の下に実践体験する。指導原理の総合的立案は中央の任務であるけれども、各支部の訓練により生ずる意見は、中央の立案のために最も重要なる資料たるべきものである。
 統制主義時代は協同生活の最も能率的な運営が要求される時代である。東亜連盟、民族協和の主張者たる会員は、協同生活の基礎たるべき協和道義の熱心なる実践者たる責務をもつ。会員は主義の前に己を虚しゅうして同行讃美の精神に生き、先ず以って同志会内部において見事なる共同動作の成果を挙げるとともに、他の同志団体に対してもまた常に敬愛の念をもち、速やかに無理なく結集し得るよう努力しなければならぬ。更に会員が社会人として立つ場合、あるいは隣組において、あるいは職域において、東亜連盟運動者として率先一般より信頼せられる活模範となり、新しき時代の協同生活の道義確立のため挺身すべきである。
ロ、中央の訓練
 1、地方事務所は支部訓練を活用して優良会員の訓練を行う。
 2、本部は中堅会員を集合し、総合的高度の講習会を行う。

ーーーーーーーーーーーーーーー河本大作 「私が張作霖を殺した」ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 再び、日本の歴史修正主義の動きが国際的な問題に発展してしまいました。アパグループ元谷外志雄代表の著書「本当の日本の歴史『理論近現代史学II』」アパホテルの客室に置かれており、近隣国で問題視する声が急速に広がったようです。

 札幌冬季アジア大会で韓国選手団が泊まる公式宿泊所になっている関係もあり、大韓体育会は大会組織委員会と日本オリンピック委員会(JOC)に撤去を求める文書を送付したといいます。そして、大会組織委員会は大韓体育会に対して書籍を撤去する方針である旨の回答したとの報道がありました。
 同書は「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の存在を否定するような内容の記述があるのみならず、「張作霖爆殺事件」は「ソ連の特務機関による謀略であった」などと書かれているといいます。
 2008年に自衛隊の航空幕僚長・田母神俊雄氏が解任されることにつながった政府見解に反するアパグループ懸賞論文受賞作と似通った内容のようです。
 見逃すことができないのは、客室に本を置く目的が、知られていない学説を取り上げ、紹介するというようなことではなく、「事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです」として、日本で一般的に共有されている歴史を、修正しようとしていることです。

 本の内容はもちろんですが、そういう主張が国際社会で通用しないことは、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会における公開フォーラムがきっかけとなり、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったことで明らかです。親日を代表するような関係者の名前がズラリとならんでいるのです。声明は、安倍首相が日本の総理として史上初となる米国議会の両議院総会での演説を行った一週間後に発表されました。
 その中には、
「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。
というような記述があります。
 安倍政権が、これまで日本軍の「従軍慰安婦」問題にきちんと向き合わず、逆にその史実を覆そうとする歴史修正主義的な動きを後押しする行動さえ見せていることに対する懸念が、深刻なものであることを物語っていると思います。 
 地道な調査や事実の検証、科学的分析などに基づいて築き上げられてきた史論を無視し、特定の団体や個人の考え方で、歴史を修正するような本をホテルの客室に置くことは、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化につながることに思いを致してほしいと思います。
 
 『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻(文藝春秋)から一部省略して抜粋した下記の「私が張作霖を殺した」という河本大作の文章は、張作霖爆殺前に彼が周囲の人たちに語っていた内容と矛盾なく、また当時の満州の状況や関東軍の好戦的姿勢を正しく記述していると思います。当時を知る人たちの証言とも符合します。張作霖爆殺に関して言えば、ソ連の特務機関がわざわざ手の込んだ謀略など画策しなくても、関東軍は間違いなく戦いを仕掛ける状況にあったのです。それは当時の軍の文書や石原莞爾の文章などからも明らかだと思います。

 抗日勢力を潰し、日本の満州利権を拡大して、満州全体の土地・資源を事実上日本のものにすることは、特に将来の対ソ・対米戦を考える政治家や軍人にとって、謀略をもってしてもやらなければならない死活問題でした。それに、「満州を取れば苦しい生活が解消される」という、不況下で苦しむ国民の感情も重なって、大きなうねりとなっていったのだと思います。
 そして、現実に関東軍の謀略による柳溝湖事件をきっかけとして、傀儡国家・満州国を建国させるに至った事実をしっかり見る必要があると思います。
 多くの歴史家や近隣諸国が受け入れない歴史を「本当の歴史」として広めようとすることが、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化をもたらす悲劇、またそのために発生する損害には計り知れないものがあるのではないかと思います。
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                            私が張作霖を殺した 
                                                                河本大作
 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。 そこで、久しぶりに満州に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ヶ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満に蔓(ハビコ)っている。日本人の居住、商祖権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満州が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。

 しかるに、その張作霖の周囲に、軍事顧問の名で、取り巻いて恬然としている者に、松井七夫中将を始め、町野武馬中佐などがあって、在満同胞二十万が、日に日に蝕まれていくのを冷然と眺めているばかりか、「みんな、日本人が悪いのだ」とさえ放言して顧みない。そして唯、張作霖の意を迎えるのにもっぱらである。
 自分はまったく呆然とした。支那の各地を遍歴してかなり排日の空気の濃厚な地方も歩いたが、それにしても、満州ほどのことはない。満人は、日本人と見ると、見縊(ミクビ)り蔑んで、北支辺りの支那人の日本人に対する態度の方が遙かに厚い。まさに顚倒である。日露戦役直後の満人の態度とまるで変っている。
 そこで、自分は、旅順にジッとしていることも許されず、変装して全満各地に情況を偵察する必要を痛感し、遠くチチハル、満州里、東寧、ポクラニチア等、北満の南北にわたって辺境の地をつぶさに観察したが、東寧辺りでは、街路上で、邦人が、満人から鞭うたれるのを目撃し、チチハルでは、日本人の娘子群が、満人から極端に侮辱されているのを視るなど、まことに切歯扼腕せざるを得なかった。旅順に帰っていても、そうした情報が頻々として来る。奉天に近い新民府では、白昼日本人が強盗に襲われたが、しかもその強盗たるや、正規の軍人であった。邦人商戸は空屋同然となって、日夜怯々として暮らしているというのであった。
 自分自身、つぶさにその暴状を目撃して来たのである。日本人軍事顧問や、奉天にある外交官が、「日本人が悪い」と断言するに足るものが、どこに発見されたか。
 いずれも意識的、計画的に、奉天軍閥が邦人に対し明らかに圧迫せんとしている意図は瞭然たるものがあった。
 しかもその圧迫は、独りそういった暴虐に留らない、経済的にも、満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、ことごとくが日本の経済施設、大陸資源開発に対しての邪魔立てである。撫順で出炭する石炭にたいしては不買を強いている。これでは、日本の大陸経営はいっさい骨抜きとされている。
 郭松齢事件で、もしも日本からの、弾薬補給から、作戦的指導に到るまで、少なからぬ援助がなかったら、奉天軍の今日の武威はなかったのである。いわば大恩返しとして、商祖権のごときは、奉天軍が進んで提供した権益である。
 勢いに乗った張作霖は、ソロソロといつもの癖が出て、関外に出て、北京に入り、大元帥の称号を自ら宣して、多年の野望を遂げんとして得々としていた。その股肱、楊宇霆はまた、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せて大借款を起さんといている。
 その忘恩的行動は枚挙にいとまがない。
・・・
 かかる奉天軍の排日は、もっぱら張作霖の意図に出たところで、真に民衆が日本を敵とするという底のものではない。ただ、欧米に依存して日本の力を駆逐して、自己一個の軍閥的勢力の伸張を計り、私腹を肥やさんとするのみで、真に東洋永遠の平和を計るというふうな信念に基いていないことは明らかであった。一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。ひっきょう彼は一個の軍閥者流に過ぎず、眼中国家もなければ、民衆の福利もない。他の諸将に至っては、ただ親分乾分の関係に結ばれた私党の集合である。
 ことこうした集合の常として、その巨頭さえ斃れれば、彼らはただちに四散し、再び第二の張作霖たるまでは、手も足もでないような存在である。匪賊の巨頭と何ら変わることがない。
 巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足るのである。
 村岡将軍も、ついにここに到着した。張作霖を抹殺するには、何も在満の我が兵力をもってする必要はない。これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない。
 当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足る--と考えられた。
 竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴くことになった。
 それを察したので、自分は竹下参謀に、
『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視眈々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからない。俺がやろう。それより外にない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。北京には建川義次少将が大使館付武官としておった。
 
 竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作霖がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを速報せしめる手筈をとった。
 さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。
 そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。厳重なる奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃がす憂いがある。充分な手配が要る。
 それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、媓古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロついても目立たない。ここに限ると結論を得た。
 では、今度は如何なる手段に出るかが、次の問題となる。
 一、列車を襲撃するか、
 二、爆薬を用いて列車を爆破するか、
 手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。
 第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来ないでもない。
 そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終わた場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。
 万端周到な用意はできた。
 第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ。三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作霖が乗ったとの情報が入った。

 クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる懼れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。
 それから一方、満鉄線の方である。万一この時間に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみが当たっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。万一の場合のために、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。
 来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス地点にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空へ舞い上がった。張作霖の骨も、この空に舞い上がったかと思えたが、この凄まじい爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。・・・
 ・・・
 張作霖爆死の翌年四月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。
 これを知って、かねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いたので、学良の恐日は、漸々排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。

 その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山となり、あるいは憑庸大学の排日教育となり、排日、抗日
はむしろ張作霖時代よりもいっそう濃厚となり、日に日にその気勢を高めるに至り、秦少将らの企図した学良懐柔策はまったく画餅に帰したのであった
 こんな次第で、梟雄(キョウユウ)張作霖が亡んで学良と変わっても、何ら満州の対日関係は好転せず、かえって反対の傾向をたどり、学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満州問題を永遠に解決する道のないことが瞭然となった。
 他方、日本の政界では満蒙問題解決に邁進する誠意を欠き、張作霖爆死事件をめぐって、これを善処するどころか、かえってこれを倒閣の具に供さんとさえする一派が出て、中野正剛、伊沢多喜男らはそれに狂奔するありさまであった。
 時の陸相白川義則大将は、いたずらに愚直で、事件に対する答弁は拙劣を極め、ますます中野、伊沢らに乗ずる隙を与え、ついに田中義一内閣はこのため倒壊するに至った。
 さらに、この事件に参画した私は停職処分を受け、村岡軍司令官、斎藤参謀長、永町袈裟六独立守備隊司令官らも相次いで、それぞれ行政処分を受けるに至った。
 政争は国策を誤って憚らない。政党政治の弊はここに極まり、もっとも顕著な悪例を我が憲政史上に残したのはこの時であった。
 かくて私は、昭和四年七月、いったん第九師団司令部附となり金沢に謫(タク)せられ、同年八月停職処分を受けて軍職を退くことになった。そこで旧伏見聯隊時代の縁故をたどって、京都伏見深草願成に仮りの寓居を定め、もっぱら謹慎の意を表した。
 ・・・
 この謹慎生活の裏にあって、私は、つらつらと沈思するの時を掴んだ。世は滔々として自由主義に傾き、彼らは、満蒙問題の武力的解決に対しては、非難攻撃を集中し、甚だしい論者中には、満蒙放棄論をさえ唱えだす外交官を見るのであった。
 ・・・
 その結果は、日本の将来に直面しているものは、満蒙問題可解決に外ならないことは、不動の事実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満州問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。



ーーーーーーーーーーー張作霖爆殺事件 河本大作義弟・平野零兒の証言ーーーーーーーーーーーー

 繰り返しになりますが、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったのは、安倍政権が、これまで「従軍慰安婦」問題をはじめとする歴史の問題にきちんと向き合おうとせず、国連人権委員会の勧告や諸外国の議会決議を無視し、逆に日本に不都合な史実を覆そうとする歴史修正主義的な姿勢を見せているからだと思います。

 そうした安倍政権の姿勢が影響しているのでしょうが、ビジネスホテル大手のアパグループが客室に日中戦争中の南京大虐殺を否定したり、「従軍慰安婦」の存在を否定したりする本を置いているとして、同社を非難する声が上がり、国際問題にまで発展してしまいました。
 中国国内の予約サイトがアパホテルのボイコットを決定し、中国外務省も、「日本の一部勢力がいまだに歴史を直視しようとせず、さらには否定し、歴史を歪めようとさえしていることが、またもや示された」と発表したのです。
 韓国のオリンピック委員会を兼ねる大韓体育会も、札幌市における冬季アジア大会での韓国選手団の宿泊先の変更を要請し、同市のアパホテルから札幌プリンスホテルに変更されたといいます。また、ソウル聯合ニュースは、誠信女子大教授が、日本のビジネスホテルチェーン、アパホテルの今後の利用自粛を韓国国民に呼び掛ける運動を行うと明らかにした事実を伝えています。
 問題となっている本はアパグループの元谷外志雄代表の著書ですが、同書の中の近現代史にかかわる部分について、アパグループのホームページには

本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです

とあります。
 私は、定説を覆し、「本当の歴史」を主張するのであれば、元谷外志雄氏が自らの見解を展開するだけではなく、多くの歴史家や研究者によって確立された「定説」の誤りや矛盾を、きちんと指摘する必要があると思います。定説を無視して、自らの見解を「本当の歴史」と主張することはできないと思うのです。

 例えば、張作霖爆殺事件の首謀者は、関東軍高級参謀河本大作であることが日本では定説となっていますが、元谷外志雄氏は『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)の中の下記の文を引いて、この文章の記述が「本当の歴史」であると主張しているようです。

張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍のしかけにみせかけたものだという。”

 でも、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』は、毛沢東を取り巻く様々な人の証言をもとに、毛沢東の生涯を描くことがねらいで、個々の歴史的事実を研究対象とするものではないため、上記の文章は、本文を補足するかたちで、★印を付けて小書きされたもので、「ソ連情報機関の資料」というものが、どこに保存されていた、どういう資料であるのか、また、どのような経緯で張作霖爆殺が実行されたのか、命令に関係した人物や実行した人物の証言は存在するのかなどについては、何も触れられていません。さらに、情報源を明らかにすることなく、「日本軍のしかけにみせかけたものだという」と、伝聞であることを示す表現をしています。たったこれだけの、それも小書きの文章で、多くの資料や関係者の証言を基に、歴史家が歴史的事実とした日本の定説を覆してしまうことは、とても無理であると思います。

 また、張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説を最初に主張したというドミトリー・プロホロフ、ロシア人歴史作家も、「ソ連特務機関犯行説」の根拠が「ソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と、彼が自分自身で推察したものであることを明らかにしているといいます。したがって、「スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍のしかけにみせかけた」という決定的な「ソ連情報機関の資料」というものは、発見されていないということではないかと思います。
 ドミトリー・プロホロフという人物が、当時の関東軍内部の動きはもちろん、当時の日本軍の様々な命令文書や関係者の証言を十分踏まえた上で、「ソ連特務機関犯行説」を主張しているのか、気になるところです。

 下記は、河本大作の「私が張作霖を殺した」に関わる義弟・平野零兒の記述です。歴史家や研究者が明らかにした当時の満州の歴史的事実と矛盾のない記述だと思います。 「目撃者が語る昭和史第3巻 満州事変」新人物往来社から抜粋しました。
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                             戦争放火者の側近
                                                      河本大作大佐義弟 平野零兒
戦争敢行者 ・・・略
河本大作の口述
 私は河本と共に中共で戦犯として罪に坐した。彼は日本で開かれた国際軍事裁判でもA級戦犯になるだろうと、私は敗戦直後には思っていたが、一時証人に出廷させるか否かが、田中隆吉の証人出廷の時に問題になった程度で、敗戦後も日本の復興を企図して山西に残って、梟雄軍閥閻錫山の顧問となって、多くの日本人を残留させたが、当時の蒋介石等国民党軍は、 閻錫山の庇護によって、中国の戦犯にも扱わなかった。ある時国民党政府から、一応の訊問に形式的にやってきたが、ことなく帰ってしまった。
 解放になって二日目、河本は西北公司の総顧問の机を整理し、解放当局の接収組に引き継ぎをやっているところを、太原公安局第三科に連行された。第三科は戦犯や、反革命者の取り調べを受けるところで、後には審訊科と名まえが変わった。その後一ヶ月余り経って、私は三科の科長から、私が書いた「河本大作伝稿」の提出を求められた。これはかつて私が河本の口述を基として筆録したもので、その一部分は私の不在中、その稿本のプリントの一部が、当文藝春秋誌上に河本大作手記として『私が張作霖を殺した』という一文となって、発表されたことを帰国してから知った。当時私はこの記録を、主として張作霖爆死事件を秘録として書いたので、そのコピーは、伝記の依頼者であった昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。
 太原公安局で河本は、自己の経験全部の坦白を命じられ一切を供述して書いたが、その真実を裏付けるため、私が比較的正確な彼の伝記を所持していることを申し出たので、公安局は私にその提出方を要求したのであったが、その始末なので、私は執筆者として、記憶をたどり改めて書いて出すことにした。そのため私は前後八ヶ月、公安局に拘留を受け、そこでこれを認めた。この時には、私は河本の大きな罪悪の秘密はやはり張作霖事件が最も重大と思っていた。しかし実際は中国にとっては、河本に対して張作霖事件は、あまり問題ではなかった。それは張作霖事件は、当時にあっては某重大事件として、国の内外には大きな問題であったが、国際裁判では、戦争犯罪は大体1931年以後の問題を取り上げることになっていて、それ以前には遡らないことになっていたからであった。張作霖事件は、1928年6月のことに属するからである。解放後の中共当局でも張作霖事件については、私が考えていたほどこれのみを重要視はしていなかった模様であった。


河本の大陸雄図
 彼は確かに張作霖事件によって、その存在が世間的に一部には知られたが、陸軍部内の大陸派として、中国に対しては古くから侵略的野望を抱いていた。それは日本の国家のため、東洋の平和のためという盲信のもとに彼は、日露戦争の陸軍少尉として遼陽の戦いで負傷した後、講和後、明治39年、鉄道警備に当たった安奉線陽山の守備隊長から更に安東守備隊副官となった時代に既にその思想を強く抱いた。
 話は古くなるが、明治36年、日露の風雲急なとき、帝政ロシアの陸相クロパトキン将軍が日本へ来た。時の日本陸相寺内正毅は、小石川砲兵工廠内の後楽園で招宴を開いたことがある。この時寺内陸相は、クロパトキンに、砲兵工廠で打った村田刀を贈ったので、クロパトキンはよろこんで、これを抜いてコウコウたる刀身に見惚れていると、たちまち一天かき曇り、豪雨が降ると共に、激雷が園内の老杉に落ちた。クロパトキンは思わず抜身の刀を取り落とした。河本は士官学校の学生として参列してこの光景を見て、「これは日本は勝つ」と思ったという。そして、『今にこいつと戦ったやるんだ』と力み、戦争になったら軍事探偵をなろうと決心し、シベリアを放浪せねばならぬと、気候の似ている寒い北海道を歩いて偵察の下稽古をやったりした。安東守備時代には、日露の戦いの中で、東亜義軍というのを組織して馬賊を率いて暗躍した橋口中佐に憧れていたが、当時橋口と共に有名だった「花大人」の花田中佐の部下で大久保彦左衛門の末孫だという大久保豊彦が、当時間島が朝鮮のものか、中国のものかという問題の帰属が明らかでないのを、武力で占領してしまうほかないが、それには日本の正規軍がやっては面倒だと、三千の馬賊の頭目である楊二虎に占領させる陰謀をはかっている。それの参謀が必要なので、河本を誘いに来た。河本は渡りに舟と、心を躍らせ、宿願なれりと承諾し、詳しい計画を聞くと、軍資金は三道浪頭の銅山と寛旬県孔雀石礦山を掠め、武器はドイツのシーメンス・シュッケルト会社から買う密約ができているというのであった。そこで河本は、本渓湖に近い橋頭駅の上流約一里半の白雲塞の山塞に行った。彼は日本軍の軍紀に触れねば、そのまま馬賊の参謀になってしまったのだが、守備隊から連れ戻されて失敗に終わった。
 
 彼の大陸の夢はこの時からの連続で、彼の一生を支配したといってもいい。後に陸軍大学在学中に組織した大陸会というのも、第二の日露戦争を企図し、蒙古に根拠を置き、いざとなったらシベリア鉄道を破壊しようと、盟約を結ぶ秘密結社を作り、陸軍青年将校を糾合した。そのうちの一人であった、三村豊少尉が、その頃威を張り出した張作霖を殺そうと、奉天小西辺門で、張作霖に爆弾を投じたが失敗した事件もあった。陸大を出ると漢口派遣軍司令部付参謀大尉となって赴任した頃第一次世界大戦が勃発した時であったが、雲南に起義した葵鍔と唐継堯が三回目の革命を企図したので、当時の大隈内閣は、密かに袁世凱を倒し、葵鍔を助ける政策をとった。河本はその密約を受けて、袁の股肱、曹錕を総帥として幕下に呉佩孚・馮玉祥と共に揚子江を逆航して四川に向かおうとする蔡の進軍を阻もうとするのを助けるために四川に潜行し密かに蔡に有利な条件を作った。そして各所に蜂起した雲南軍に呼応する重慶の周道剛、北方軍の中で蔡の方へ寝返った劉存厚、四川の陳宦の孤立などが縁となって、一時雲南軍の天下となったことがあった。ところが、元来中国軍閻間の争覇をねらって、日本の地歩を占めようとした、一貫した方針のほかには、これを手玉にとって自由に陰謀をめぐらせることのみであった日本の軍部は、袁が死し、段祺瑞の天下に移ると、南北がまた対立し、そこへ張勲等の復辟に名をかる出現があり、中国の内戦は、日本の思う壺にはまった。段が張勲討伐を始めた時、日本の中央は援段方針をとったので、この内戦の死命を制する雲南軍を制討するために河本をして劉存厚を操らせて、遂に雲南軍を鎮圧せしめた。


河本大佐へのアクセサリー
 昨日助けた雲南軍を今日は制する道義を破った行動は、河本も気が進まなかったが、上原元帥に、国策と私情は別だと諭されたのだと述懐している。その後のシベリア出兵には、大谷軍司令官の下に参謀として従い、帰還すると参謀本部の演習課員を経て、大正十年北京公使館付武官となり、中国各地を探り、青海と西蔵を残したほかは悉く踏破し、参謀本部に転帰して支那班長となった。
 その間に部内にはびこった、薩長の陸軍といわれた部内の派閥が、さらに石川、佐賀閥を加えたのに対抗するための秘密の会を組織し、渋谷の道玄坂の仏蘭西料理屋「二葉」に同志が会合した。小畑敏四郎、磯谷廉介、永田鉄山、板垣征四郎、岡村寧次、山岡重厚、後輩の東条英機、山下奉文等に上級では、荒木貞夫、真崎甚三郎、などとも連繋があったが、ほかに鈴木貞一、黒木親慶、小笠原数夫などを始め全国的に青年将校とも結び、閥族的色彩があるものの陸大入学を阻止したりして暗躍し、そのうちに一旦小倉の連隊付中佐に左遷されたが、間もなく関東軍高級参謀に就任して、大陸を舞台とすることになった。その後に起こったのが、張作霖事件である。
 私が河本大佐のアクセサリーになったのは、この頃からである。…
 ・・・以下略

ーーーーーーーーーーーーーー『マオ 誰も知らなかった毛沢東』 一部抜粋ーーーーーーーーーーーーー

 元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏が取りあげた『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の著者は、「日本語版によせて」のはじめに、「この毛沢東伝は、十余年にわたる調査と数百人におよぶ関係者へのインタビューにもとづいて書き上げたものです。インタビューに応じてくださった方々は、中国はもちろんのこと、日本を含む世界各国に及んでいます。
 わたくしたちが新しく入手した情報は、多くが原資料によるものです。これによって毛沢東に関する新しい理解が得られ、また、毛沢東の重要な決定や政策を新しい角度から読み解くことができました
」と書いています。毛沢東の生涯を辿り、その全体像を明らかにしようと、大変な作業をされたことがわかります。
 しかしながら、同書で取りあげられている「
張作霖爆殺事件」をはじめとした個々の事件の記述には、様々な問題が含まれていると思います。日本では、「張作霖爆殺事件」に関しては、関東軍の当時の状況や文書資料、関係者の証言などをもとに、多くの歴史家や研究者が、事件の首謀者を「河本大作」であると認定するに至っています。そして、それが定説として認められています。河本大作の義弟・平野零兒氏によって残された「私が張作霖を殺した」という河本大作自身の口述も公にされています。
 社会科学の一分野としての歴史学で、定説に対する異論を展開する場合には、そうした研究を踏まえて、その問題点や誤りを指摘し、深化・発展させるものでなければならないと思います。
 したがって、定説とは無関係に、
『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の本文を補足するかたちで、下記のように、★印を付けて小書きされた文章をもとに、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」と結論づけるようなことは、あってはならないと思います。

 「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について論じるのなら、
「史料批判」は欠かせない作業であり、その史料が信頼できるものなのか、その客観性や確実性を、様々な文書資料や証言、時代背景などをもとに検証する必要があるのではないでしょうか。そして、「ソ連情報機関の資料」に基づく歴史と、日本の歴史家によって定説とされた歴史のどちらが正しいのかを確定してゆく作業がなければならないと思います。そうした作業をなすことなく、元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏のように『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかで、★印を付け小書きされた文章を根拠に、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」というのが、あたかも「正しい歴史」であるかのように主張するのは、いかがなものかと思います。

 さらにつけ加えれば、『
マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかには、下記に抜粋した文章のように、「この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた」というような表現が、そこここに出てきます。でも、著者はスターリンからそういう内容の話を直接聞いて書いたわけではありません。「張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである」などという文章も、私は同じではないかと思うのですが、著者は、スターリンや張学良の気持ちを推察して書いているのだと思います。でも、多くの人に読んでもらおうとする「伝記」では許されても、社会科学の一分野としての歴史学の書では、そうした推察を事実であるかのように記述することは、許されないことだと思います。「推察」は、「推察される」というような表現にするか、あるいは推察の根拠をその都度きちんと示さなければならないと思います。したがって、「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を拠り所にするのには慎重であるべきだと思います。

 コロンビア大学のトマス・バーンスタイン教授は、同書について「
彼らの発見の多くは確認不可能なソースからのものであり、他は公然とした推論あるいは状況証拠に基づき、いくつかは事実ではない」というような指摘しているといいます。私は、踏まえておくべきではないかと思います。

 下記は
、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)から、張作霖爆殺事件「ソ連特務機関犯行説」に関わる「第十六章 西安事件」の一部を抜粋したものです。
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                                 第三部
                             第十六章 西安事件
                           1935~36★毛沢東41~42歳
 1935年10月、長征の末に毛沢東が黄土高原にたどりついたとき、とりあえず生きのびること以外に毛沢東が目標としたのは、ソ連支配地域までのルートを開拓することだった。そうすれば、武器その他の支援物資を受け取って勢力を拡大できるからだ。一方、蒋介石のほうは紅軍を柵の中に封じておきたいと考え、その任に少し前まで中国東北の軍閥だった「少帥」こと張学良を指名した。張学良は陝西(シャンシー)省の省都西安に司令部を置いていた。毛沢東の根拠地も同じ 陝西省で、西安からは北に300キロほど離れていた。
 武器の引き渡しに使えるソ連支配地域は二つあった。ひとつは新疆(シンチャン)で、根拠地から西北西へ1000キロ以上離れている。もうひとつは外モンゴルで、真北に500キロ強の距離にある。張学良率いる約30万の大軍は、この両方面を制する位置に駐留していた。
 張学良のアメリカ人パイロット、ロイヤル・レナードは、この世慣れた人物の横顔を、「わたしが最初に受けた印象は……まさにロータリー・クラブの会長、という感じだった。恰幅が良く、羽振りが良く、くつろいだ愛想の良い物腰で……わたしたちは、ものの五分で友だちになった……」と書き残している。東北軍閥の父張作霖(「大帥」)が、1928年6月に暗殺された★あと、張学良は父親の地盤を引き継いで中央政府に帰順し、そのまま東北の支配者としてとどまった。1931年に日本が東北を侵略すると、張学良は20万の軍を率いて関内(長城以南)に退き、その後さまざまな重要ポストを蒋介石から与えられた。表向き、張学良は蒋介石夫妻と親密な関係を装っていた。蒋介石より13歳年下の張学良は、蒋介石を「自分の父親同然に思っている」と公言していた。

 ★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。

 しかし、蒋介石の背後で、張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである。そのために、張学良はヨーロッパに滞在中の1933年、ソ連の人間に近づいて訪ソを打診した。が、ソ連側はこれを警戒し、張学良の申し入れを断った。わずか4年前の1929年にスターリンが中国東北に侵攻し、その後中東鉄道の強行接収をめぐって、ソ連は短期間ながら張学良と戦火を交えたばかりだった。しかも、張学良はファシズムを賞讃する発言をし、ムッソリーニと家族ぐるみの親しい関係にあった。1935年8月に中国共産党の名でモスクワから出された声明は、張学良を「敗類(くず)」「売国奴」と呼んでいた。
 ところが、その年の後半に張学良が毛沢東の見張り役に任命されると、モスクワの態度が一変した。張学良のさじ加減ひとつで中国共産党の置かれた状況が好転し、さらにソ連からの支援物資受け取りも容易になるということで、張学良はモスクワにとって価値ある存在になったのである。毛沢東が陝西省の根拠地に到着して何週間もたたないうちに、ソ連の外交官は張学良(チャンシュエリアン)と踏み込んだ話し合いを進めていた。

 張学良は、上海や主都南京(ナンチン)に足を運んでソ連と秘密裏に協議を進めた。カムフラージュのため、張学良はプレーボーイの評判を利用してわざと軽薄な行動を見せた。アメリカ人パイロットは、ある日、張学良から「飛行機を垂直バンクで飛ばしてくれ、と頼まれた。片翼を街路につっこんだまま、友人らが逗留しているパーク・ホテルの前を飛んでくれ、というのだ。われわれの乗った飛行機は、ホテルの正面から三メートルもないほど近くを飛んだ。モーターの爆音が窓ガラスをカタカタと鳴らした」と回想している。この派手なショーをやってみせたとき、ホテルには張学良の女友達の一人が宿泊していた。「こんなことを言うと、あなたは笑うでしょうけれどね」と、1993年、九十一歳になっていた張学良は著者に話してくれた。「当時、戴笠(タイリー)[国民党特務の大物]は必死になってわたしの居所を探していました。で、わたしが女の子たちといいことをしていると思っていたようです。だが、実際には、わたしは密談していた…」
 張学良はソ連に対して、中国共産党と同盟する用意があること、しかも、「日本との決戦」に臨む--すなわち蒋介石が渋っている対日宣戦布告をする--用意があることを、はっきりと伝えた。そして、それと引き換えに、自分が蒋介石に代わって中国の支配者になるための後押しをしてほしい、と求めた。
 この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた。
 スターリンの狙いは、中国を利用して日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼にひきずりこむこと、そして、それによって日本をソ連から遠ざけることだった。モスクワは自らの狙いを包み隠したまま中国国内における対日全面戦争の気運を煽ることに力を入れ、大規模な学生デモに手を貸した。また、ソ連のスパイ、とくに孫文(スンウェン)夫人で蒋介石の義姉にあたる宋慶齢(ソンチンリン)は、圧力団体を結成して南京政府に行動を求めた。
 蒋介石は日本に降伏する気はないものの、宣戦布告する気もなかった。現実的に見て中国に勝ち目はなく、日本と対決すれば中国の破滅につながると考えていたからだ。そこで、蒋介石は降伏するでもなく全面戦争に出るでもない、きわめて異例などっちつかずの態度を選んだ。それが可能だったのは、中国が途方もなく大きく、また、日本が徐々にしか侵略してこなかったからである。蒋介石は、そのうちに日本がソ連のほうを向いて中国のことを忘れるのではないか、という希望さえ抱いていたかに思われる。
 張学良の提案はソ連にとって好都合だったが、スターリンは張学良を信用していなかった。かつての東北軍閥ごときに中国を統(ス)べて対日全面戦争を戦うほどの力量があろうとも思っていなかった。もし、中国が内戦状態に陥ったら、かえって日本に征服されやすくなる-そうなれば、ソ連にとって日本の脅威が倍加するだけだ。
 とはいえ、モスクワも張学良の提案を即座にはねつけるほど単純ではない。ソ連は提案を検討するふりを装って、気を持たせつづけた--ー張学良(チャンシュエリアン)から中国共産党に対する協力をひきだすためである。ソ連の外交官は張学良に対し、秘密裏に中国共産党との直接コンタクトを確立するよう指示した。中国共産党の交渉担当者と張学良との第一回目の話し合いは、1936年1月20日におこなわれた。

 ・・・(以下略)

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