-NO528~532
ーーーーーーーーーーーーーー通州事件 信夫清三郎の記述 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーー

 冀東防共自治政府は、当時の土肥原奉天特務機関長が、親日政治家・殷汝耕に通州で自治宣言を発表させ発足した冀東防共自治委員会が、後に改組されたものであるといわれます。その冀東防共自治政府の保安隊が一斉に蜂起し、多くの日本人を虐殺したのが「通州事件」ですが、発端は7月27日、関東軍の爆撃機が冀東保安隊幹部訓練所を爆撃し、保安隊員に死傷者を出したことであるといいます。でも、保安隊の蜂起はまた、当時全国に波及しつつあった抗日の気運を受けて、国民政府配下の冀察政務委員会委員長・宋哲元が発した7月29日午前2時の「一斉蜂起」の指示によるものであったともいえるようです。

 日本の配下にあった冀東防共自治政府保安隊も、国民政府とともに抗日戦を展開している第二十九軍に連帯して戦うべく、立ち上がりつつあったところに、保安隊幹部訓練所を日本軍に爆撃されて死傷者を出したため、一気に蜂起に至ったということではないかと思います。
 宋哲元率いる第二十九軍とともに、日本軍と戦おうとする姿勢は、当時の通州の中国人や冀東防共自治政府保安隊員の、日本人密輸業者や麻薬業者対する反発も背景にあって、抗日戦の広がりや激化とともに強まっていったと考えられますが、その根拠となるやり取りが「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)に掲載されています。
 「通州事件」に対する山川均の『支那軍の鬼畜性』題されたエッセイと、それを真っ向から批判した中国の作家、巴金(パキン)の公開状山川先生に』です。このやり取りは、「通州事件」を客観的に理解する上で、とても重要なやり取りであると思います。

 哲学者久野収は、山川の論文について、きびしい言論統制のもとにあった当時の状況をふまえ、「まくらとしては統制を消極的に認めたようなことをいいながら、後半において自分の前論をくつがえして、国策を批判するという、一面既成事実承認、他面既成事実批判という両面的態度」から出たものであろうと弁護しつつも、「日本の読書界をこえて、相手方の中国という側から見れば、山川さんの論文はなんとしても全然弁解の余地はないですね」と言っています。
 「聖断の歴史学」の著者も、
”…通州事件における中国人の行動を「鬼畜以上」と形容したり、中国人を事件に駆り立てた「支那国民政府のそういう危険な政策」を強調したりした言葉は、すべて山川自身のものであり、そのような言葉をつかった文章を中国人がどういう感情をもって読むか、山川は考えていなかった。山川に対する巴金の批判は、山川を含めた日本の社会主義者が日本帝国主義の侵略にたいして「抗日意識」「抗日感情」にめざめつつ自由をもとめてたたかっている中国の民衆に連帯の感情をもつことができないでいることへの警告であった
と指摘しています。社会主義者、山川均でさえ、当時そうした「連帯」の意志を表明することはもちろん、そうした感情をもつこと自体が、極めて難しい状況にあったのだろうと思いますが、久野収が言うように、山川均の『支那軍の鬼畜性』の文章は、まさに「弁解の余地のない」とらえ方をし、表現をしている文章だと思います。

 特に、巴金が「公開状」の中で、通州事件でねらい打ちにされた人々に関して「まして、このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり特務工作をしたりしていた人たちなのです。」という指摘をしていることをふまえれば、もう少し、情勢を見極め、中国人に寄り添ったとらえ方ができなかったものか、と考えさせられます。
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                                   第一章 日中戦争
     9 通州事件(六)
 雑誌『中央公論』とならぶ評論雑誌『改造』は、1937年9月号で『北支事変の感想』を特集し、知識人に感想をもとめて13名の寄稿を掲載し、検閲で鈴木茂三郎、水野広徳、鈴木安蔵、杉森孝次郎の四編が削除処分をうけた。山川均は、『支那軍の鬼畜性』と題して通州事件を問題とした。全文つぎのようであった。
 
「通州事件の惨状は、往年の尼港事件〔1918年から1922年にかけて日本がロシア革命を圧殺するために行ったシベリア出兵のなかでニコラエフスクを占領していた日本軍がソビエト・パルチザンの攻撃をうけて捕虜となり、パルチザンが日本の援軍が来襲したと知って日本軍捕虜を日本人居留民とともに殺害した事件〕以上だといわれている。つぎつぎと発表される遭難者の報告は、読む者をして思わず目を蔽わしめるものがある。新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどの残忍性は現さないだろうから。
 こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍の×××(三字伏字)して報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである。
 北支事変の勃発そのものがそうであるように、通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植えつけ、抗日感情を煽った結果であるといわれている。
 文化人を一皮剥けば鬼畜が出る。文化人は文化した鬼畜にすぎない。支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で扇動すると、鼻の穴に針金を通わさせることになる。
 通州事件の残虐性と鬼畜生に戦慄する人々には、むやみに国民感情を排外主義の方向に扇動し刺戟することの危険の前に戦慄せざるをえないだろう。支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているだろうから。」

 山川のエッセイは他のエッセイと同様、8月の上旬に書いたものであろうが、それから一ヶ月半後の9月19日、中国の作家巴金(パキン)は、山川に反論する長文の公開状『山川先生に』を上海で起草した。巴金は、つぎのように書き出した。

 「夜は静まりかえって、すべてのものが暗闇のなかに落ちこんでしまったかのようです。重砲の音がだしぬけに殷々とひびき始めたかと思うと、そのあとから、機関銃を立てつづけに射つ音がひとしきり続いています。わたしの部屋もかすかに振動していますが、このような時に、わたしはあなたの『北支事変の感想』を読んでいるのです。わたしがあなたの文章を読むのは、あなたが中国の友人であると考えるからではなく、あなたがかつて科学的社会主義者であったことを知っているがために、あなたの書かれるものならば、いくらかでもわたしたちに理のあることをみとめていただけるだろうと期待していたからなのです。ところが、いささかの取りつくろうところもなく、あなたのもう一つの顔をさらけ出しました。あなたがいわれるように、<一皮剥ぐ>時がくると、<文化人>もまたたちまち浪人やごろつきと変わりはてるということが本当であることを、私ははじめて知りました。そのことに対して、わたしはただ嫌悪を感じるだけです。」

 巴金は、1904年に四川省成都に生まれ、本名を李芾甘(リフツカン)といったが、五四運動から思想上の影響をうけ、フランスに留学し、バクーニン(巴枯寧)とクロポトキン(克魯泡特金)から一字ずつをとって、「巴金」を筆名とし、作家として青年子女のなかに多くの読者を獲得し、1934年11月から1935年7月まで東京に滞在し、1930年代の日本をみつづけていた。山川均と会ったことはなかったようであるが、山川の著作は何冊か中国語訳となっており、巴金も読んで山川の論策を<科学的社会主義者>が書くものとして注目していたのであろう。そしていま日本の新たな侵略を山川がどう批判しているかという期待をもって読み、逆に山川の<もうひとつの顔>をみた怒りから、山川に対する公開状という形をとって日本に抗議すると同時に世界にうったえる文章を書きはじめた。
 巴金は「わたしたちのがわにいる4億5千万人は、誰もがおなじように、ただひとつのつつましやかな目標を持っているにすぎません。それは、わたしたちは、わたしたちの自由をかち取り、わたしたちの生存を維持していかなければならないということです」と強調し、それが中国人の「最低限度の要求」であると指摘し、通州事件の本質をつぎのようにとらえた。

 「通州事件の起こりも、そのようなところから、一つの解釈をくだすことができます。<皇軍>の威圧とあなたの国の官民の辱めのもとで2年近い屈辱の日々をすごした保安隊が、反乱の籏じるしをかかげ、もはやこれ以上はとても我慢ができないというところまで、ついに悲憤の炎を燃えあがらせたのです。人数も少なく、ろくな武器もない軍人たちが、置かれた状況の劣悪さを顧みるいとまもなく、血と肉とをもってみずからの自由と生存とをかち取るために立ち上がったのです。混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことにまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。血がかれらの眼をふさいでしまうこともありうることです。抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うということも、また避けがたいことです。まして、このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり特務工作をしたりしていた人たちなのです。」

 巴金は、フランス革命における「九月の虐殺」を想起した。1792年9月、内外からの反革命の切迫で危機を感じたコミューヌの闘士たちは、1100名以上の反革命容疑者を殺害した。革命史家アルベール・ソブールは、「庶民の一女生」が「恐怖で慄えながらも、人びとはそれらを正しい行為だとみなしていた。」と語ったことを記録した。

 巴金は、危機に際しての「虐殺」については「どう考えても<残虐性>を持ち出す必要はないわけです」と強調し、山川にたいして「あなたは社会主義者でありながら、あなたの国の新聞記者の尻馬に乗って、悪罵と中傷の言葉をもって、人々の偏狭な愛国心にうったえているのです」と指摘し、さらに論難をつづけた。

 「通州事件を生み出した直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。あなたがたの<皇軍>こそが、みずから抗日教育を普及し、抗日意識を植えつけ、抗日感情を扇動したのです。あなたがたこそが、飛行機を使い、大砲を使い、刀を使って、中国の民衆を教育し、かれらに<抗日>が生存するための第一の手順であることをはっきりさせたのであって、決して中国人が生まれながらにして抗日の感情を持っているわけではありません。」

 巴金は、機銃掃射で上海の非武装の住民を殺傷した「冷静な計画的殺人」が「もっともひどい鬼畜生と残虐性」を発揮したことを指摘し、「通州事件の残虐性はどう見てもこの十分の一にも及ばないのではないでしょうか」と問いつめながら、最後の結論を述べ、勝利は抗日をつらぬく中国のものであり、「日本帝国の崩壊こそ指呼のあいだにある」ことを強調して筆を擱いた。

 巴金の文章は、格調の高いものであり、中国民衆の抗日の意識と感情を正確に表現し、通州事件の意味も情報に制約あるなかで正確にとらえていた。山川の論策は、日本人にとって大きな問題を残した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー通州事件 江口圭一の記述ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 通州事件に関して、ネット上で目にする文章には違和感を感じるものが多いのですが、小名木善行という人の「通州事件とその背景」と題する文章も、その一つです。(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2718.html)。

 下記のような文章があります。

「かつて日本が支那を侵略した」という人がいます。けれど、歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチで支那に軍を派遣していたのです。それを一方的に襲い、戦乱へと導こうとしたのは、日本ではありません。

 支那に派遣された日本軍が、”現代でいうところの国連PKO部隊と同じ”には驚きます。
 「現代史資料(9)日中戦争(二)」「北支ニ兵力ヲ行使スル場合対支戦争指導要綱(案)」が取りあげられています。通州事件前、昭和12年7月17日付で参謀本部第一部第二課が出したものです。それには、「中央政権ノ覆滅ヲ目的」とした「全面戦争」に備え、「必要ナル兵力ヲ初動ヨリ使用スル」準備について、下記のように書かれています。どう考えても、「国連PKO部隊」とは異なるものではないでしょうか。

    方針
一、初期ノ武力行使ハ第二十九軍ノ敵対並不信行為ニ対スル報復膺懲ヲ目的トシ同軍ノ撃破ニヨリテ北支問題ノ解決(別ニ定ム)ヲ図ル
 此間事態次項ニ進展スルコトアルヲ考慮シ所要ノ準備ヲナス
二、中央軍トノ交戦ハ彼側ノ敵対行動明瞭トナリ已ムヲ得サル場合ニ於ケルモノトス此場合ニ於テハ排、抗日ノ根源タル中央政権ノ覆滅ヲ目的トシ全面戦争ニヨリ日支ノ問題ノ抜本的ナル解決ヲ期ス
三、何レノ場合ニ於テモ目的達成ニ必要ナル兵力ヲ初動ヨリ使用スルト共ニ政治的、経済的等ノ謀略手段ヲ併用シ努メテ短期間ニ敵側ノ交戦意志ヲ挫折センコトヲ図ル
、・・・略
    第一 武力行使ノ意志決定及作戦行動ノ発起
一、中央交渉ニ於ケル先方ノ態度ニヨリ我武力行使ノ意志ヲ決ス
二、現地実行不誠実ノ確認ニ依リ天津軍ヲシテ作戦ヲ発動セシム
第二
一、初動ヨリ第二十九軍ニ対シ優勢ナル兵力ヲ使用シ作戦ノ地域ハ北部河北省トシ急速ニ大打撃ヲ与ヘ其影響ニ依リ中央軍戦闘加入ノ意志ヲ放棄セシム
二、・・・略
三、内地ニハ別ニ中央軍ノ戦闘加入ニ応スルノ兵力ヲ動員シ逐次満洲及冀東ニ前進セシメ以テ同軍ノ戦闘加入ニ備ヘシム
四 ・・・以下略

 当時の梅津陸軍次官が、条約上の問題から通州には日本軍兵力の配置を認めなかったということですが、結果的に通州の代わりに豊臺に兵を置いたことが事変につながったと、石原完爾(当時参謀本部第一部長)が証言しています。さらに言えば、豊臺も基本的には議定書で駐留が認められた場所ではなかったといいます。軍の派遣は、第二十九軍のみならず中央軍との戦争を想定して、日本の都合で派遣されたということではないでしょうか。
 
 また、小名木氏は「蘆溝橋事件」当時の日本が”平和を愛する国”だったと主張し、盧溝橋事件は、日本と国民党軍閥を衝突させるために、「コミンテルン」が「支那共産党」に命令して起こしたもので、廊坊事件も広安門事件も同じ目的であったと書いています。ところが、”そこまでしても、日本は戦争を避けようとしました。当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国は支那ではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったからです”として、通州事件は、”ダメ押しで起こされた”と、下記資料1のように書いています(一部抜粋)。

 日本が、満州を”日本の発展になくてはならないもの”として、謀略によって支配下に入れようとし、日本軍の都合で、武力行使の領域を広げつつあった事実や、日本軍による通州の冀東防共政府保安隊幹部訓練所爆撃の事実についての考察がなされていない上に、通州を拠点とする日本のアヘンなどの麻薬密売の盛行などに対する中国人の憤激が、通州事件に発展したというような指摘も考慮されていないように思います。

 また、もし一連の事件が「コミンテルンの命令」であるというような主張を、憶測や創作ではなく、歴史的事実として語るのであれば、コミンテルンの「支那共産党」に対する命令文書、または、命令を受けて動いた人物や組織、団体などの記録、関係者の証言などを提示しつつ、論証を進めてほしいと思います。

 通州事件が残虐な事件であったことは否定できませんが、その残虐性の背後にあった日本人の差別的振る舞いなどに対する中国人の恨みなども見逃すことはできない、と私は思います。その他、通州事件に関わる周辺事情についてふまえておくべき文章が「十五年戦争 小史」江口圭一(青木書店)にありましたので、関係部分を抜粋しました。それが資料2です。

 同書には、陸軍中将・斎藤恒が、「満州国家の認識」に書いていること、執政溥儀の回想、元満鉄理事・貴族院議員・大蔵公望が「満州視察報告書」に書いていること、第十師団長・広瀬寿助中将が談話で述べたという日本人の行状などが取りあげられていますが、しっかり受け止める必要があると思います。
 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”・・・ 共産党の予定では、盧溝橋事件で日本対国民党軍閥のドンパチがはじまっていなければならないのです。
それがスターリンのコミンテルンからの命令です。
スターリンは、「日本と国民党軍を衝突させろ!」といっているのです。
これは厳命です。
逆らえば、毛沢東の命はありません。

そこで、なんとかして日本と支那共産党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の廊坊事件であり、26日の広安門事件でした。

7月11日の停戦から、25日の廊坊事件まで、まる2週間が空いていますが、これは支那共産党に、新たな作戦のための準備期間が必要だったこと、コミンテルンと支那共産党とのやり取りが交されていたと見れば、辻褄があいます。

ともあれ、こうして廊坊事件、広安門事件が起こりました。
前にも述べたし、これからも何度でも述べますが、盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
これだけで、日本は支那と開戦するに足る十分な理由となる事件です。

実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
日本には、この時点で支那に対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底して支那を撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

ところがそこまでしても、日本は戦争を避けようとしました。
当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国は支那ではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったからです。

 日本は、平和を愛する国です。
支那と戦う気など毛頭ありません。
むしろ日本陸軍に限らず、日本人の誰もが願っていたのは、支那の大地に戦乱のない平和な社会の回復そのものです。
だからこそ、日本は、明らかな開戦理由となる事件が起こっても、支那の兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしていません。

これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
そこでダメ押しで起こされたのが、人類史上類例のない残虐事件である「通州事件」であったのです。
これが起きたのが7月29日です。

廊坊も、広安門も、通州も、等しく北京とその近郊です。
そして通州事件が起こる前、通州城界隈に終結したのは、廊坊や広安門で蹴散らされた支那国民党の残兵たちと、支那共産党の工作員たちでした。その数、約3000人です。

この日の午前2時、突如、支那人たちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。
そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。
女性はほとんど強姦されて殺害されました。” 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                             Ⅱ 華北分離
                               第8章
「王道楽土・五族協和」の実態
 満州国の発足にあたって、「五族協和」をうたい、「王道楽土」を実現すると称したが、その実態はこれらのスローガンとはかけはなれたものであった。
 満州国には、1932(昭和7)年3月9日公布の政府組織法・諸官制によって、参議府(執政の諮問機関)・国務院(行政府)・法院などが設けられ、国務院におかれた行政各部(民政・外交・軍政・財政・実業・交通・司法)の総長(大臣)には、日本と協力した旧軍閥などの中国人が任命された。しかしその実権は日本人の次長(当初は総務司長)以下の日本人官吏に握られ、総務長官(当初は総務庁長・駒井徳三)が日本人官吏を監督し、さらにそれを関東軍司令官が「内面指導」した。斉藤内閣の閣議決定「満州国指導方針要綱」(1933年8月8日)は、「満州国に対する指導は現制に於ける関東軍司令官兼在満帝国大使の内面的統轄の下に主として日系官吏を通じて実質的に之を行はしむるものとす」と定めた。

 このため、満州国を視察した予備役陸軍中将斎藤恒(サイトウヒサシ)によると(32年7月末)、
 イ、各総長の印は日本人総務司長之れを保管し捺印もなす(此の件は満州国総長の感情に偉大なる悪影響を与へあり)。
 ハ、総長の知らざる事が総長の名により発布または指令せらる。…
 ヘ、満州新政府は寧ろ純然たる日本新政府なりとの考へを起さしむる影響甚大なり。
という、状況がみられた。執政溥儀の回想によれば、

 私と鄭孝胥は名目上の執政と総理であり、総長たちは名目上の総長だった。国防会議なるものも形式をふむものにすぎなかった。国防会議で討論される試案は、「次長会議」がすでに決定したものばかりだった。次長会議は「火曜会議」とも呼ばれ、総務庁が毎週火曜日に招集する各部次長の会議で、これこそが本当の「閣議」であり、これはもちろん「上皇」たる関東軍司令官にたいしてのみ責任を負う会議だった。

 満州国の実権を掌握したもとで、日本人は征服者・支配者として君臨した。大蔵公望(元満鉄理事・貴族院議員)は、33年11月の「満州視察報告書」で、「一般に日本人の対満州国人の態度は頗る不遜であって、日本人に家を貸すと家賃を払わないものが多く、今では満州国人は日本人に家を貸すことを嫌ふ傾きが少なくない。……日系官吏は誠に横暴で……満州国の高等官は伝票がなくては役所備付の自動車に乗れないのに、日本人は属官でも勝手に之を使用し、又新京に於ける主なる役所に於いては、その食堂は日系官吏の手に依って悉く日本人の経営を許可せられ、此の食堂に入ると食物は日本食、言葉は日本語で、全く満州国の役所と思はれず」と指摘した。

 第十師団(姫路)長広瀬寿助中将は、32年10月の談話で、日本人の行状について、
 悪いのは紳士も苦力も見分けなく支那人を侮蔑する。これが為、四月以来反日の気分が漲って来た。
 町の中で支那の立派な婦人にからかふ。停車場で入場切符も買はずに入る。何だ俺の顔を見ろ、日本人 だぞと、怒鳴る。汽車の一等車へ入る。……食堂車を占領して大酒盛りをやる、拳を打つ、歌を歌ふ。… …ハルピンの郵便配達がいた、日本人が来て、その中に俺の郵便があるだらう、見るから下ろせと云ふ た、それはいかぬ、と云ふことから殴って大怪我をさせた。
 と述べたが、34年1~3月に満州視察に派遣された日本陸軍将校もこれとほとんど同一の行状を目撃して おり、「戦勝者たり大和民族なるが為の優越感」(久米本三大尉)にかられた「傍若無人の振舞」(西原修 三少佐)は日常的光景であった。
 
 しかし中国人をもっとも残酷に抑圧したのはなによりも日本軍であった。日本による占領と抑圧に抗して東三省では反満抗日運動が展開されたが、日本側はこれはすべて「匪賊」と称し、「討伐」に奔走した。その討伐の状況について関東軍参謀河辺虎四郎大佐は「匪賊は地方住民と常に密接なる関係を維持しているから討伐隊の動静手に取るごとく判るに反し、討伐隊の方では全く反対の立場にあるから捕捉殲滅ができない。……地方によっては未だ匪民の識別は極めて困難」であると書き、はしなくも日本軍が東三省の全住民と敵対していることを告白したが、このような状況での討伐はしばしば一般住民にたいする虐殺となった。1932年9月15日撫順炭鉱を遼寧民衆自衛軍に襲撃されたことへの報復として、16日撫順守備の日本軍が行った平頂山の全住民虐殺(800~3000人)はその最大のものであった。

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                          第11章 日中戦争の全面化
 第二次上海事変から支那事変へ
 日本軍が華北で新しい侵略を開始したことは全中国に抗日の気運を燃えあがらせた。とくに上海をはじめ揚子江流域でははげしい抗日運動がおこされた。華北での総攻撃を開始した7月28日、日本政府は揚子江流域の日本人居留民の上海への引き揚げを指令した。
 華中・華南を作戦領域とする海軍はこの方面での戦闘について積極的であり、8月8日長谷川清第三艦隊司令官は「事態拡大に応ずる一切の準備を迅速に整えん」ことを麾下に指示した。翌9日、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉と水兵一名が中国保安隊に射殺される事件(大山事件)が発生し、緊張は一挙にたかまった。海軍は兵力を増強し、中国側も増兵した。12日海軍は陸軍に上海派遣を要請し、13日の閣議は第三(名古屋)・第十一(善通寺)師団の上海派遣を承認した。この日、上海で日中両軍は交戦状態に入った。14日、中国空軍は第三艦隊・陸戦隊を爆撃し、一方、日本海軍航空隊は台湾基地から杭州などを爆撃した。15日、長崎県大村基地から首都南京への渡洋爆撃がはじめられ、第三・第十一師団からなる上海派遣軍(軍司令官松井石根大将)が編成された。同日、政府は「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」旨の声明を発表した。
 一方、華北では日本軍は7月30日までに北平、天津を占領した。その間29日冀東政権の保安隊が反乱を起こし、中国民衆も加わって、日本人居留民223名を惨殺する通州事件が発生した。
※ 保安隊は関東軍飛行隊に兵舎を爆撃されことに憤激して反乱したといわれる。また中国民衆は通州を拠点とする日本のアヘン・麻薬密売の盛行にたいして憤激を爆発させ、報復した。この事件は日本国民の敵愾心をあおるために利用された。※(信夫清三郎『通州事件』『政治経済史学』2978号)

 また関東軍は蘆溝橋事件がおこるとただちに出動態勢を整え、内蒙古における兵力行使を軍中央に強く要請し、参謀本部の抑止方針を押し切って、8月5日多倫(ドロン)、8日張北に部隊を進出させた。9日参謀本部はチャハル作戦の実施を支那駐屯軍・関東軍に命じた。関東軍は参謀長東条英機中将の指揮のもとに、支那駐屯軍に増派された第五師団(広島、師団長板垣征四郎中将)と連繋して、チャハル省内に侵攻し、8月27日張家口を占領した。
 8月31日支那駐屯軍は北支那方面軍(軍司令官寺内寿一大将)に改組され、その後の増兵を加えて八個師団を基幹とする兵力となった。9月2日政府は「北支事変」を「支那事変」と改称した。
 蒋介石は華北での日本軍の総攻撃をみて「最後の関頭」に直面したことを認め、国民政府は全面抗戦にふみきった。8月14日国民政府は抗日自衛を宣言し、15日全国総動員令を下し、蒋が三軍総司令官に就任した。22日西北の紅軍は国民革命軍第八路軍(総指揮朱徳)に改編され、9月23日には第3次国共合作が正式に成立した。
 満州事変の発端となった柳条湖事件が関東軍幕僚によって仕組まれた計画的謀略であったのにたいして、日中戦争全面化の発端となった蘆溝橋事件は非計画的な偶発的衝突が全面戦争に発展した根底的事情は、日本が華北分離・支配の欲望を強固につのらせる一方、中国では抗日救国への民族的結集がすすみ、日本のさらなる侵略を容易に許さない情勢が形成されていたにもかかわらず、日本が中国を軽侮し、一撃論のもとに安易に武力を発動したからであった。こうして蘆溝橋事件は満州事変と日中戦争の接点となり、限定戦争から全面戦争への転換点となった。


ーーーーーーーー-ーーー石原完爾 「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」ーーーーーーーーーーーーーー

 満州事変から満州国建国に至る前後の関東軍は、事実上、板垣征四郎と石原完爾の支配下にあったようです。ある人は、板垣征四郎と石原完爾に花谷正、片倉衷を加えた”四人組が関東軍を壟断(ロウダン)していた”と書いています。なかでも、石原完爾が、関東軍の、さらに言えば日本の、「満蒙構想」の思想的リーダーであったと言えるのではないかと思います。

 その石原完爾の「満蒙構想」の内容を知り、過去の戦争をふり返るために、彼の書いた「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」を読むことは、現在の日本の状況を考えると、とても意味あることではないかと思います。安部首相が、何年か前に「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」などと発言したことを、私は忘れることができません。

 下記は、その「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」のなかから、「四、現在ニ於ケル日本ノ国防」と「五、日本将来ノ国防」の部分を抜粋したものです。「太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻 資料編」(朝日新聞社)から抜粋しました。


 石原完爾は、満州事変以前に、日米戦争を中心とする世界大戦を想定しています。そして、現実に太平洋戦争に至った事実を、私は見逃すことができません。また、彼の文章を読めば、関東軍による張作霖爆殺事件や柳条湖事件も当然のこととして理解できるように思います。この文章が書かれた三ヶ月余り後の関東軍参謀部による「情勢判断ニ関スル意見」には、「満蒙ノ情勢ト之カ積極的解決ノ必要」や、「好機会ノ偶発ヲ待ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要ス」とあることから、石原完爾の考え方に基づいて、関東軍が、「積極的解決」のために「謀略」によって、満州領有を実現しようとしたのだろうと思うのです。

 常に戦いに勝利して、国益を得ようとする軍部の独裁が、日本を存亡の危機に陥れることになったことを踏まえると、私は、外交官のみならず、政治家や軍人にも「周辺国の人々の考え方や思いを理解し、関係を深める方法について考えたり、平和構築の方法を学んだり、相互に議論したりする課題」が課せられるべきではないか、と思ったりします。 
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                第二章 満州事変
 事件前夜
           現在及将来ニ於ケル日本ノ国防(石原完爾 昭和六年四月)
一、世界ノ大勢 ・・・ 略
二、日本ノ使命及日本ノ武力 ・・・ 略
三、戦争ノ現在及将来 ・・・略 
四、現在ニ於ケル日本ノ国防
 世界大戦ノ襲来決シテ遠キ未来ノ事ニ非ス吾人ハ今ヨリ十分ナル準備ト覚悟ヲ要スルモ同時ニ現状ニ於テ其足下ニ注意ヲ要ス 而シテ現在ノ国防ト世界大戦トノ間ニハ決シテ無関係ノモノニ非スシテ現今ノ国防ニ関スル努力ハヤカテ世界大戦ノ一準備トナルヘシ
 然ラハ現在日本ハ如何ナル事情ノ下ニ戦争ノ避クヘカラサルニ至ル恐アリヤ 勿論支那現在ノ不安其原因タルヘシ
 我国情ハ殆ント行詰リ人口糧食其他ノ重要諸問題皆解決ノ途ナキカ如シ 唯一ノ途ハ、満蒙開発ノ断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ
 然ルニ満蒙問題ノ解決ニ対シテハ支那軍閥ハ極力妨害ヲ試ムルノミナラス列強ノ嫉視ヲ招クヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス国内ニモ亦之ヲ侵略的帝国主義トシテ反対スル一派アリ
 満蒙ハ漢民族ノ領土ニ非スシテ寧ロ其関係我国ト密接ナルモノアリ 民族自決ヲ口ニセントスルモノハ満蒙ハ満洲及蒙古人ノモノニシテ満洲蒙古人ハ漢民族ヨリモ寧ロ大和民族ニ近キコトヲ認メサルヘカラス 現在ノ住民ハ漢人種ヲ最大トスルモ其経済的関係亦支那本部ニ比シ我国ハ遙ニ密接ナリ
 之等歴史的及経済的関係ヲ度外スルモ日本ノ力ニ依リテ開発セラレタル満蒙ハ日本ノ勢力ニヨル治安維持ニ依リテノミ其急激ナル発達ヲ続クルヲ得ルナリ 若シ万一我勢力ニシテ減退スルコトアランカ目下ニ於ケル支那人唯一ノ安住地タル満洲亦支那本部ト撰フナキニ至ルヘシ而モ米英ノ前ニハ我外交ノ力ナキヲ観破セル支那人ハ今ヤ事毎ニ我国ノ施設ヲ妨害セントシツヽアリ 我国正当ナル既得権擁護ノ為且ツハ支那民衆ノ為遂ニ断乎タル処置ヲ強制セラルヽノ日アルコトヲ覚悟スヘク此決心ハ単ニ支那ノミナラス欧米諸国ヲ共ニ敵トスルモノト思ハサルヘカラス
 更ニ支那全体ヲ観察センカ永ク武力ヲ蔑視セル結果漢民族ヨリ到底真ノ武力ヲ編成シ難キ状況ニ於テ主権ノ確立ハ全然之ヲ望ム能ハス 彼等ノ止ムルヲ知ラサル連年ノ戦争ハ吾等ノ云フ戦争即チ武力ノ徹底セル運用ニ非スシテ消耗戦争ノ最モ極端ナル寧ロ一種ノ政争ニ過キサルノミ 我等ニ於テ政党ノ争ノ終熄ヲ予期シ得サル限リ支那ノ戦争亦決シテ止ムコトナキモノト云ハサルヘカラス
 斯クノ如キ軍閥学匪政商等一部人種ノ利益ノ為メニ支那民衆ハ連続セル戦乱ノ為メ塗炭ニ苦シミ良民亦遂ニ土匪ニ悪化スルニ至ラントス 四億ノ民ヲ此苦境ヨリ救ハント欲セハ他ノ列強カ進テ支那ノ治安ヲ維持スル外絶対ニ策ナシ 即チ国際管理カ某一国ノ支那領有ハ遂ニ来ラサルヘカラサル運命ナリ 単ナル利害問題ヲ超越シテ吾等ノ遂ニ決起セサルヘカラサル日必スシモ遠シト云フヘカラス
 此ノ如ク支那ヲ中心トスル戦争起ランカ単ニ我等カ支那人ヲ相手トセハヨク殲滅戦争ヨリ迅速ニ之ヲ屈スルヲ得ヘシト雖モ他ノ強国ノ妨害ヲ排除スル為メノ戦争ハ勿論消耗戦争ノ外ナシ
 殲滅戦争ニ於テハ迅速ニ事件ヲ解決シ以テ第三国ノ加入ヲ防止シヘキ外交モ比較的容易ニ成功シ得ヘシト雖戦争持久ニ亘ル消耗戦争ニ於テハ状況ニ依リ戦争範囲ノ拡大ヲ妨クルコト難ク遂ニ予期セサリシ多数ノ敵ヲ受クルニ至ルヘキハ Friedrich大王ノ戦争 Napoleonノ対英戦争及欧州大戦争ノ最モ明ニ示ス所ナリ

 故ニ吾人カ支那中心ノ戦争ヲ準備セント欲セハ東亜ニ加ハリ得ヘシ凡テノ武力ニ対スル覚悟ヲ要ス 勿論外交トシテハ多クノ味方ヲ作リ敵ノ数ヲ減少スルニ努力スヘキモ軍部ノ計画トシテハ此ノ如キコトヲ根拠トスルヲ許サス 即チ我国ノ国防計画ハ米露及英ニ対抗スルモノトセサルヘカラス 人往々此ノ如キコトヲ不可能トシ米又ハ露ヲ単独ニ撃破スヘキ等ト称スルモ之自己ニ有利ナル如キ仮想ノ下ニ立論スルモノニシテ危険甚シキモノト云フヘク絶対ニ排斥セサルヘカラサル議論ナリ若シ此ノ如キ戦争ヲ不可能ナリトセハ最初ヨリ絶対ニ戦ヲ避クルニ如カス
 (外交ハ日本ノ得意ニアラス コレ日本人ノ正シキ性格ノ為ナリ 日露講話ノ際日本外交ハ失敗ナリシナラン コレヲ責ムルモ可ナリ 然レトモ結局コレ我武力ノ不十分ナリシコトヲ吾人軍人ノ最モ留意スベキ所ナリ 日本ノ消耗戦争ハ目下ニ於ケル欧州強国ノソレト異ル)

 日露戦争ハ Moltke元帥時代ノ思想ニヨリ
「主作戦ヲ満洲ニ導キ敵ノ主力ヲ求メテ遠ク之ヲ北方ニ撃攘シ艦隊ハ進ンテ敵ノ太平洋艦隊ヲ攻撃シ以テ極東ノ制海権ヲ獲得スルニ在リ…」ナル作戦方針ノ下ニ行ハレタルモノナリ 然ルニ日露戦争ハ Moltke元帥ノ対墺対仏戦争ノ如ク殲滅戦争タラシメ得ルコト不可能ニシテ如何ニ武力カ精鋭ナルモ結局消耗戦争ノ準備ヲ要スルモノナリキ即チ Friedrich大王ノ所謂「遠大ナル戦役諸計画(die weitausgehenden Feldzugplane)ヲ要セシモノナリ 軍事的ニハ攻勢ノ終末点ニ関スル見解ヲ明ニスルト共ニ戦争計画トシテ財政其他ニ関シ遠大ナル計画ヲ必要トセルモノナリ(即チ「戦争計画」)幸ヒ戦争ハ露国内部ノ不安我軍事当局及政治家ノ全般ヲ見ルノ達観力及英米ノ財政的援助等ニヨリ大勝利ニ帰セシト雖若シ露国ニシテ断乎タル決意ヲ有セシナラハ真ニ寒心ニ堪ヘサルモノアリシト云フヘシ
 日露戦争後軍事界ニ於テハ攻勢終末点ノ研究等相当重要視セラレタリ 然レ共日露戦争ノ僥倖的成功ト吾国情ノ戦争持久ニ不利ナル為且ツハ欧州軍事界ノ趨勢ニ盲従スルノ結果我国軍ハ益々速戦速決主義ニ重キヲ置ケリ欧州大戦初期ニ於テスラ我軍事界ニ於テハ欧州ニ於ケル陣地戦ハ欧州人ノ勇気足ラサル結果ナリト判断ヲ下シ益々猛烈ナル作戦ヲ称揚セリ 然ルニ大戦ノ末期ヨリ初メテ戦争持久ノ止ムナキヲ判断シ国家総動員其他之ニ関スル議論施設逐次其発展ヲ見ルニ至レリ 欧州大戦ニ於ケル消耗戦争ハ防禦威力ノ至大ト兵力ノ関係上正面突破ノ止ムナキニ至リシニヨレリ 我国ハ対支戦争以外依然消耗戦争外ナキハ勿論ナルモ其原因ハ欧州ニ於ケル目下ノ消耗戦争ト全ク相異ナリ Napoleon ノ対英対露戦争ノ如ク作戦地域ノ関係ヨリ来レルモノナリ 日露戦争ノ経験ニ依レハ当時ノ兵力ハ両翼ヲ障碍ニ托スルニ至ラサリシモ土地貧弱其他ノ関係上作戦ハ概シテ正面突破ニシテ結局欧州大戦ニ於ケルト同様作戦的決戦亦行ハレス大局ヨリ見タル消耗戦争ノ止ムナキ外作戦的ニモ亦欧州大戦ガ消耗戦争トナル先駆ヲナシタルモノナリ

 吾人ノ用兵述ハ其後益々研究精煉セラレタリ 若シ満洲ノ地ニ敵ト相見ユル如キコトアラハ必スヤ Tannnennbrg ニマサル殲滅戦争ニ依リ迅速ナル軍事的決勝ヲ収メサルヘカラス我等ノ消耗戦争ハ其後猶敵カ屈服セサル場合或地域ヲ領有シテ戦争ノ持久ヲ計ルモノナリ 
 即チ我等ノ予期セサルヘカラサル消耗戦争ハ仏国等カ目下準備シアル戦争トハ其本質ニ於テ大ナル差異ヲ有シ(若シ万一北満平野ニ於テ大ナル敵武力ト相対峙スルカ如キ状況ヲ生セハ仏国式総動員ニ学フヘキコト多カルヘシ)寧ロ之ヲ Napoleon ノ対英戦争ニ比較スルヲ至当トス 徒ラニ欧州直輸入ノ思想ニトラハレ日露戦争前後ニ於ケルト同シク誤レル基礎ノ下ニ戦争準備ヲナスカ如キハ厳ニ戒メサルヘカラス 将来ノ戦争ハ必スシモ日露戦争ノ如ク僥倖ヲ予期スヘカラサルナリ
 戦争ノ場合幾河ノ地域ヲ領有スルヲ要スルヤハ戦争ノ目的外交上ノ関係及持久ノ為物資等ノ関係ヲ顧慮シテ決定セサルヘカラス
 若シ満蒙ノ関係ヨリ戦争ニ入リタルモノトセハ更ニ支那本部ヲ占領スヘキヤ否ヤハ重大ナル問題ナリ 何レニセヨ満蒙ヲ領有セサルヘカラサル絶対的ナルノミナラス同地方ハ我平時勢力ノ関係上戦時速ニ其占領ヲ確保シ其行政ヲ適切ナラシムルニ便ナリ 平時ヨリ之等ニ関シテハ特ニ綿密ナル準備ヲナスヲ要スルハ勿論果シテ満蒙ノミヲ領有シ如何ナル事情ノ下ニ戦争ノ持久ヲナシ得ルヤニ就テ断案ヲ有セサルヘカラス 外交其他ノ関係上遂ニ支那本部ヲ領有スルニ決セハ之ニ対スル処置ハ更ニ更ニ雄大適切ナルヲ要ス 各方面ヨリ之ニ対スル研究準備ハ実ニ吾等目下ノ最大業務ト言ハサルヘカラス 而シテ之カ為メニモ先ツ行ハルヘキ満蒙ノ経営カ至大ナル関係ヲ有スルコトニ注意ヲ要ス
 而シテ此持久戦争ニ於テ最モ大ナル関係ヲ有スルモノハカノ厖大ナル地域ノ治安維持ノ外我本土及占領地ノ経済トス 即チ戦争ニヨル各交通路ノ遮断ニヨリ果シテ我国民及占領地住民ハ大ナル生活ノ脅威ヲ受ケスヨク我力ニヨリ其安寧ヲ維持シ得サルヘカラス 此ノ如キ大問題ハ勿論政府当局及学者等協同シ平時ヨリ充分研究準備ヲ要スルモノニシテ要ハ
 太平洋交通
 印度洋交通
 露西亜トノ交通
 支那トノ交通
 中若干若苦は全部遮断セラレタル各種ノ場合ニ於テ経済状態ハ如何ナル状態ヲ呈スヘキヤ 之ニ対シ如何ニ施設スルカ尤モ合理的ナルヤヲ考ヘ且ツ各場合交互ニ転化スル場合ヲモ考察シ之ニヨリ遂ニ平時ヨリ改革ヲ要スル緊要欠クヘカラサル要件ハ万難ヲ排シテ速ニ断行ヲ期セサルヘカラス
 戦争ト共ニ年ニ九億円ノ輸出ヲナシアル生糸ノ輸出杜絶セハ既ニ日本ハ戦争ヲナス能ワストハ米国人ノ考フル所ナリ 其他幾多ノ困難群リ来ルヘシ 巧ニ此ノ困難ヲ排除スルハ真ニ大事業中ノ大事業ナリ 若シアラユル方法ヲ研究シ遂ニ戦争持久ノ望ミナキモノトセハ遺憾ナカラ日本ハ遂ニ白人種ノ横暴ニ対シ正義ヲ守ル能ハサルナリ 然レトモ吾人決シテ此ノ如カルヘシト信セサルナリ 一日モ速ニ国家ノ力ヲ挙ケテ此ノ計画ヲ確立セサルヘカラス 欧米ノ先進国ニ対シ商工業立国ノ至難ナル状況ニ在ル日本却テ此封鎖ニ依リ Napoleon カ英国ノ進歩セル産業ニ対セル商業ニ如ク奮闘ヲ続ケ遂ニ Napoleon ノ達セサリシ大目的ヲ達成シ得ヘキヲ信スルモノナリ
 持久戦争ニ於テ重要ナルハ財政ナリ Friedrich大王ノ戦争Napoleon ノ対英戦争カ如何ニ彼等ノ財政ニ至大ノ力ヲ用ヒ且其天才ヲ発揮セルヤヲ見ルヘシ 若シ貧弱ナル我国カ百万ノ新式軍隊ヲ出征セシメ莫大ノ軍需品ヲ補給スルモノトセハ年ニ費ス所幾何ソ 忽チ破産ノ運命ヲ免ルヽ能ハサルヘシ
 我等ノ戦争ハNapoleon ノ為シタルカ如ク戦争ニヨリ戦争ヲ養フヲ本旨トセサルヘカラス 即チ占領地ノ微税物資兵器ニヨリ出征軍ハ自活スルヲ要ス 支那軍閥ヲ掃蕩シ土匪ヲ一掃シテ其治安ヲ維持セハ我精鋭ニシテ廉潔ナル軍隊ハ忽チ土民ノ信服ヲ得テ優ニ以上ノ目的ヲ達スルヲ得ヘシ
 前記我国民及占領地住民ノ生活ニ関スル経済ハ政府当局ノ準備ヲ主トスヘキモ此出征軍ノ自活的ノ給養ニ関スル事項ハ占領地行政ノ最モ重大ナル事件トシテ軍部ハ特ニ平時ノ調査研究ヲ十分ナシ占領地カ果シテ幾何ノ軍隊ヲ養ヒ得ヘキカ其ノ治安維持ニハ幾何ヲ要スヘキヤ等ニツキ具体的成案ヲ要スルハ勿論ナリ此持久戦争ニ於テ必要トスル陸上武力次ノ如シ
(一)占領地治安維持ノ兵力
(二)外敵ノ来襲ニ対スル兵力
 (イ)満蒙ニ来ルヘキ露国ノ兵力ニ対スルモノ
 (ロ)制海権ヲ失ヒタル時支那ニ上陸スヘキ兵力ニ対スルモノ
 (ハ)万一ノ場合本土ヲ守備スヘキモノ
(三)ヒリツピン香港等奪取ニ要スル兵力
 海上武力ハ持久戦争ノ為メ最モ必要ニシテナルヘク広ク制海権ヲ掌握スルコト極メテ大切ナリ 然レトモ殲滅戦略ヲ行ヒ能ハサル我国ニ於テハ一部論者ノ云フ如ク海軍武力ヲ絶対トシ次テ陸上兵力ヲ整備スヘシトノ論ハ正当ナラス戦争持久ノ為制海権ノ範囲及大陸占領地ノ必要ヲ考ヘ公平ニ両兵力ノ比率ヲ定メサルヘカラス
 (陸上武力ノ中心タル兵力ハ戦争持久ノ目的ヨリシテ極メテ本国ノ経済ニ不利来ササルコトヲ考ヘ動員ノ如キハ目下ノ如キ劃一主義ヨリ蝉脱シ先ツ志願ヲ中心トスル主義ヲ可トスヘシ ”但シヒリツピン占領又ハ北満ヲ領有等ノ場合ノ為メニハ在来ノ動員ニヨル”)

 而シテ万一海戦不利ニシテ大陸トノ交通危殆に陥ル時ト雖内国及出征軍ハ各別ニ自治シ断乎トシテ戦争ヲ継続スルノ覚悟ヲ要ス 自彊将命ヲトナヘナカラ艦隊ノ敗北制海権ノ喪失ヲ以テ全戦争ノ敗北トナスカ如キハ許スヘカラサル迷想ト云ハサルヘカラス

 欧州大戦前ノ如キ状況ニアリテハ上記ノ如キ戦争ハ至難中ノ至難ナリシコト勿論ナリ 即チ露国カ百万ノ精兵ニ対シ満洲ニ於いテ対戦スル為我国ハ全力ヲ尽ササルヘカラス 而シテ此大軍ハ到底戦地ニ於テ自活スヘクモアラス 此間海ニ於テ米英ヲ敵トセンカ戦争ノ決忽チ定マルモノト言フヘシ 然ルニ今ヤ露国ハ北満洲ヨリ退キ万一ノ場合我ハ之ニ先チテ同地方ヲ領有スルコト困難ナラサルヘク北満ヲ失ヘル露国カ興安嶺西方ノ砂漠ヲ越ヘ又ハ遠ク沿海州ヲ迂回シテ大兵ヲ進ムルハ甚タ困難ナルノミナラス露国内外ノ事情亦恐ラク戦争ニ十分ノ力ヲ用フル能ハサルヘシ 此ノ如キ事情ノ下ニ上記ノ如キ大戦争ハ決シテ無謀ナラサルヲ信ス
 但シ此戦争ノ為メニハ各方面広汎ナル大準備計画ヲ要スルコト前述セルカ如シ 而シテ此ノ如キ消耗戦争ハ武力ノミヲ以テ解決シ難ク政戦略ノ関係尤モ緊密ナルヲ要ス 即チ軍人ハヨク政治ノ大綱ヲ知リ政治家ハ亦軍事ノ大勢ニ通セサルヘカラス 英国ノ如キ国防大学ノ設立目下ノ一大急務ナリ
 特ニ最モ重大ナルハ国民思想ノ統一ニ在リ又国民ヲシテ支那ノ事情ヲ理解セシメ「対支絶対不干渉」ノ如キニヨリ支那カ決シテ統一スヘキモノニ非ス 徒ニ可憐ナル支那四億ノ民衆ヲシテ一部職業政治家ノ喰物トナリ遂ニ収拾スヘカラサルニ至ルヘキヲ了解セシメサルヘカラス

 今ヤ西洋思想甚シク国民ノ間ニ侵入シ「マルクス」主義ハ殆ント若キ人々ヲ征服セントセルカ如キ形勢ナリ 而モ半面日本民族固有ノ精神ハ深ク民族ノ心底ニ潜在シ又一部真ニ日本国体ノ大精神ニ目醒メツツアリ
 日本国体ノ大精神ヲ了解セシムルハ目下国家最大ノ大事業ナリ 而モ国民ヲシテ徹底的ニ此処ニ至ラシムルハ頗ル難事ナリ 余ハ形勢黙々ノ裡ニ切迫シツヽアル支那問題ヲ中心トスル我国ノ消耗戦争ハ此ノ大事業ヲ完成セサルニ先チテ勃発スルニ非サルヤヲ懼ルヽモノナリ 然レ共又一方考フレハ此戦争ハ遂ニ国民ノ奮起ヲ促シ為メニ全国民ノ自覚思想ノ統一ヲ来スヘキニハ非サルカ即チ近ク来ルヘキ消耗戦争ニヨリ日本ハ先ス国民的ニ日本国体ノ大精神ニ統一セシメ且ツ戦争ニヨリ我商工業ニ十分ナル根底ヲ養ヒ戦争ニヨリ却国家経済ノ急劇ナル進歩ヲ来シ以テ来ルヘキ殲滅戦争タル世界大戦所謂「前代未聞ノ大闘争」ヲ準備シ此最後的大決戦的戦争ニヨリ遂ニ世界ノ強敵ヲ屈伏シテ日本国体ノ大精神ヲ世界ノ全人類ニ徹底セシメ日本天皇ヲ中心トスル大平和ノ時代ニ入ルモノナルヲ確信シテ疑ハサルモノナリ
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五、日本将来ノ国防
 吾等ノ最大目標タル世界戦争カ刻々切迫シツツアルコトハ再三論シタル所ナリ 之ニ対スル根本的準備ノ重要ナルコト論ヲ俟タス 今之ニ関スル二、三ノ着意ヲ述ヘン
(一)最モ重要ナル攻撃兵器殊ニ飛行機ノ研究ニ全力ヲ傾注スルコト
 徒ラニ飛行機数ヲ云々スルヨリモ寧ロ目下ハ根本的設備ニ力ヲ用フヘク又目下ノ状況上徒ラニ民間営利事業ヲ奨励スルヨリモ官業能力ノ主力ヲ之ニ用フルヲ有利トスヘシ
(二)次ニ防禦能力増進ノ為メニハ
 (イ) 国民ニ自覚ヲ与フルコト最モ緊要ナリ 即チ国民全体トシテ強固ナル意志ナクンハ到底将来戦ノ惨状ニ堪ヘ難キナリ
 (ロ) 団体的訓練ノ必要
  敵機ノ襲来ニ当リ爆撃瓦斯攻撃等ニ対シ甚タ必要ナルニ関セス我国民ノ欠点ナルヲ以テ殊ニ力ヲ用フルヲ要ス
 (ハ) 木材耐火ノ研究 
 世人動モスレハ木造家屋ノ不利ヲ説ク 然レトモ余ハ之ニ同スル能ハス 将来ノ爆撃ニ対シテハ煉瓦コンクリート石造等ハ却ツテ惨害大ナルニ非スヤ 数十層ノ大建築カ爆撃セラルヽ状況ヲ想像セハ直ニ之ヲ了解スルヲ得ヘシ 「バビロン」ノ滅亡「カルタゴ」ノ最後モ到底将来戦ノ惨状ニ比スヘクモアラサルナリ 之ニ対シ日本ノ如ク文明的設備分散シ且ツ木造建築大部分ヲ占ムルハ却ツテ損害大ナラサルヘク唯木材ノ耐火ニ就キテハ十分ノ研究払ハサルヘカラス 之単ニ国防上ノミナラス国家経済上極メテ有意義ナリ
 貧乏ナル日本国民カ徒ラニ都市ノ外見ノミヲ飾リ之ニ巨万ノ資ヲ投シ浅薄極マル洋式建築ヲナスハ一考ヲ要ス 宜シク当分「バラック」式ニ満足シ木材ノ耐火ヲ完成シ防火区域ニヨリ耐火熱度ヲ制定スヘク有ルカ無キカ不明ナル戦争ヲ基準トシテ復興計画ヲ立ツル能ハストハ屢々耳ニスル議論ナルモ然ラハ反問セン有ルカ無キカ不明ナル地震ニ対シ徒ラニ顧慮スルハ如何ト 地震ハ百年ニ一回トセハ次ノ大戦争ハ到底万年ヲ待ツ能ハサルナリ
  最後ニ一言スヘキコトハ軍事当局トシテ特ニ重大ナルハ此重大ナル変転期ニ於テ適時其国防機関ノ大変革ヲ行ヒ得ヘキ準備ニツキ常ニ欠クル所ナキヲ要スヘク之カ根本ハ将校ノ精神的準備ニアル点ニアリ


ーーーーーーーーーー石原完爾 満蒙領有 関東軍「情勢判断ニ関スル意見」ーーーーーーーーーー

 石原莞爾の『現在及将来ニ於ケル日本ノ国防』(昭和2年・1927年)は、「満蒙領有」によって、日本の経済的苦境や農村の疲弊を、何とか打開しようとする内容のものでした。そして、石原完爾は、翌年の昭和3年(1928年)には、関東軍作戦参謀として、関東軍による満蒙領有計画を立案しています。

 計画は、下記資料1の「十四、昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断」で、現実に実行されていったことがわかります。また、 資料2の「情勢判断ニ関スル意見(関東軍参謀部昭和六年七・八月ごろ)」で、様々な観点から「満蒙領有」の必要性を確認し、石原完爾の考えに沿って意思統一が進められたことがわかります。

 だから、柳条湖事件を画策した石原完爾が中心となり、事件をきっかけに強引に関東軍を動かすによって満州事変に発展させ、思惑通り満州国を建国をさせたと言えるのではないかと思います。そして、それが中国民衆のはげしい反日感情を生み、日中戦争へと突入していく流れをつくったのだと思います。
 しかしながら、関東軍の作戦参謀であった石原完爾は、その後「満蒙領有論」から「満蒙独立論」へとその主張を変えていきます。そして、参謀本部の参謀となった時には、自身の勢力下にあると思っていた関東軍の参謀が、陸軍中央の戦線不拡大の方針に従わないことに業を煮やして、東京からわざわざ新京に乗り込んだといいます。
 その時のやり取りが、「石原完爾 その虚飾」佐高信(講談社)に出ています(資料3)。石原完爾は、武藤章の
 ”本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが、満州事変で大活躍された時分、この席におられる、今村副長といっしょに、参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動をみており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです
という言葉に返す言葉がなかったのではないでしょうか。

資料1と2は、「現代史資料 (7) 満洲事変」(みすす書房)から抜粋しました。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      二、満洲事変
第一節 前夜
                      2 情勢判断  
                十四、昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断
(「満洲事変に於ける軍の統帥」より抜粋)(参謀本部)

 (昭和六年九月)19日深更軍幕僚ノ一部(板垣、石原両参謀、花谷少佐、片倉大尉)ハ18日午後9時頃奉天ニ到着シ事変勃発以来軍ノ行動ヲ静観シアリシ参謀本部第一部長少将建川美次ト密ニ会シ激論数刻ニ及ヒ意見ヲ交換セリ(建川少将ハ当事件渦中ニ投シ且世ノ疑惑ヲ蒙ルヲ恐レ料亭菊水ノ一室二引籠リ一切外部トノ交渉ヲ絶チアリタリ)
 席上建川少将ハ此四月策定セル参謀本部情勢判断満蒙問題解決第一段階(条約又ハ契約ニ基キ正当ニ取得シタル我カ権益カ支那側ノ背信不法行為ニ因リ阻害セラレアル現状ヲ打開シ我カ権益ノ実際的効果ヲ確保シ更ニ之ヲ拡充スルコトニ勉ム実施ノ時期ナル旨(元ヨリ政権ハ学良政権ニ代ルニ親日新政権ヲ以テスルモ支那中央政府ノ主権下ニ置ク)ヲ提言セリ板垣、石原両参謀ハ交ゝ之ヲ駁シ今日満蒙問題ヲ解決セスシテ好機何時カ来ルヘキヲ述ヘ特ニ石原参謀ハ一挙第三段階ノ満蒙占領案ニ向ヒ断乎トシテ進ムヘキヲ提唱シ建川少将亦漸次之ヲ諒トスルニ至レルカ如ク少将自体トシテノ主張ヲ曲ケサルト共ニ一方軍ノ積極的行動ニ敢テ拘束ヲ加ヘサルコトヲ言明シ尚軍事行動ハ吉林、長春、洮昻沿線(成ルヘクハ洮南迄)ニ留ムルヲ有利トスヘキヲ附言セリ

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             十五、情勢判断ニ関スル意見(関東軍参謀部昭和六年七・八月ごろ)
    判決
(1)極東露領ノ価値如何
(2)北支那亦可ナラスヤ
(3)第三国カ我国策遂行ニ妨害セハ武力抗争ハ辞セサルノ断乎タル決心ヲ以テ臨ムヲ要ス之ノ決心ト成算ナクンハ対支政策ノ遂行ハ不可能
(4)直ニ着手スルヲ要ス
    説明
(1)東部西比利亜(シベリア)ハ領土トシテノ価値少ナシ森林、水産、鉱山、毛皮等ノ利権ニテ足ラン
(2)一挙解決何故ニ不利ナリヤ、満蒙ノ解決ハ第三国トノ開戦ヲ誘起スヘク戦勝テハ世界思潮ハ問題ニアラサルヘシ
(3)好機会ノ偶発ヲ待ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要ス

   第二 満蒙ノ情勢ト之カ積極的解決ノ必要
(1)従来ノ穏忍自重ハ帝国ノ武力不充分ナリシニ非ストシテ而モ米国ニ考慮ヲ払ヒシハ矛盾ニ非スヤ

   第三 米国ノ情勢
(1)満蒙問題解決国策遂行ハ急速ヲ要ス急速解決ハ勢ヒ露骨ナラサルヲ得ス往時露骨ヲ避ケ漸次主義ヲ採用シ来リテ何等得ルトコロ無カリシニアラスヤ是クノ如クンハ只往時ノ状態ヲ繰返スヘキノミ米国ノ武力及経済的圧迫恐ルルノ必要ナシトセハ何故断然タル決心ヲトラサルヤ

   第四 蘇国ノ情勢
(1)蘇ハ我国厄ニ乗シ只ニ満蒙赤化ノミナラス帝国内部ノ破壊ノ企図ニ出ツルコトアルヘキヲ保シ難シ
(2)東部西比利亜問題ノ根本解決ニ関シテハ極東露領ノ価値ニ就キ充分ナル吟味ヲ要ス

   第六 国際諸条約ノ関係
(1)九国条約ニ関スル門戸開放機会均等主義ヲ尊重スルトシテモ満蒙ニ於ケル既得権益ノ実効ヲ収ムル手段ヲ理由トセハ兵力ノ使用何等問題ナカ ルヘシ
(2)九国条約ヲ尊重セサル場合世界各国ノ感情ヲ害スルコトアルモ之カ為帝国ニ対シテ積極的ニ刃向ヒ来ルモノ幾何
(3)満蒙問題ノ解決ハ米蘇ト開戦ヲ覚悟セサレハ実行シ得ス米蘇ト開戦ヲ覚悟シツツ而モ何ソ之ニ気兼スルノ要アラン満蒙ヲ占領セハ直ニ之ヲ領土化スルヲ有利トス近来ノ列国ハ名ヨリモ寧ロ実利ニ依リテ動ク実利ヲ得ントシテ名ヲ作ルナリ

    結言
(1)未曾有ノ経済艱難不良外来思想ノ浸潤ハ単ニ一般的世界現象ナリト云フヲ得ス之ノ間米蘇ノ思想及経済的侵略ニ禍セラレルコト大ナリ従テ之カ防圧ノ手段トシテ両国ノ勢力ヲ打破スルノ必要アリ
 但シ経済的社会的必然ノ推移トシテ社会改造ノ必要アリ而シテ如何ニ帝国カ経済及社会組織ヲ改メテ帝国発展ノ基礎ヲ固ムヘキヤハ外方ニ対スル国策遂行ト同時ニ研究スヘキ重大問題ナリ之ニ関シテ予メ充分ノ成案アルヲ要ス
(4)速戦即決ハ作戦ノ範囲ノミ 

資料3------------------------------------------
             第十七章 今村均の回想
 ・・・
 その後の今村の述懐を引こう。
 「彼は実にさっぱりとしている男。それから二時間ほど、真剣に公事を談じあった。が、彼の事変対処思想と、私の処理信念との間には、相当のへだたりがあり、爾後に於ける中央の、関東軍統制の難事を思わぬわけにはいかなかった」
 しかし、今村は「板垣、石原両参謀とは事変に関し、多くの点で意見を異にするが、この人たちを非難する気にはどうしてもなれない」と言う。満州事変を「国家的宿命」と見る点では同じだからである。

 ただ、当時の陸軍首脳が中央の統制に従わなかった板垣と石原を罰するどころか、賞讃し、破格の欧米視察までさせたことは、以後、著しく軍紀を紊(ミダ)す因(モト)となった。
 彼等は中央の要職に就き、逆に関東軍を統制下に置こうと骨折った者はすべて左遷の憂き目をみた。
 今村によれば、これによって軍内に次のような空気が醸成されたのである。
 「上の者の統制などに服することは、第二義的のもののようだ。軍人の第一義は大功を収めることにある。功さえたてれば、どんな下克上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それらを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ」
 さらに、将官にとっても「若い者の据えたお膳はだまって箸をつけるべきだ。へたに参謀の手綱を控えようとすれば、たいていは評判を悪くし、己の位置を失うことになる」といった雰囲気を生じさせ、軍統帥の本質上に大きな悪影響を及ぼしたのである。

 そして、五年後。今村と石原は攻守ところを変える。満州事変の「功」によって石原が陸軍参謀本部の作戦課長となり、今村は参謀本部の統制に服さなければならない関東軍の参謀副長の職にあった。参謀長は石原の盟友で中将となっていた板垣征四郎。今村と石原は少将である。
 石原は己の勢力下にあると思っていた関東軍の参謀たちが指示に従わず、勝手な行動ばかりするので、業を煮やして東京から新京に飛んで来た。第六章「予一個ノ責任」にもその情景を書いたが、板垣の官舎に集まった参謀連を前に、石原は自信に満ちた態度でこう言った。
 「諸官等の企図している内蒙工作は全然中央の意図に反する。幾度訓電しても、いいかげんな返事ばかりで、一向に中止しない。大臣総長両長官は、ことごとくこれを不満とし、よく中央の意思を徹底了解せしめよとのことで、私はやってきました」
 要するに独走するなということである。しかし、これは板垣の意図にそって、大佐の武藤章や中佐の田中隆吉が進めていた工作だった。
 聞いていた武藤が笑みを浮かべながら、石原に問い返す。
 「石原さん! それは上司の言いつけを伝える、表面だけの口上ですか、それともあなた自身の本心を、申しておられるのですか」
 それに対して石原は怒気を含んで言い放った。
 「君! 何を言うのだ。僕自身、内蒙工作には大反対だ。満州国の建設が、やっと緒につきかけているとき、内蒙などで、日ソ、日支間にごたごたを起こしてみたまえ、大変なことになるぐらいのことは、常識でもわからんことはありますまい」
 しかし、武藤はまったく怯まない。
 「本気でそう申されるとは驚きました。私はあなたが、満州事変で大活躍された時分、この席におられる、今村副長といっしょに、参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動をみており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」
 この武藤の言葉に若き参謀たちは同意して哄笑した。石原は助けを求めるように板垣を見たが、板垣も黙っている。座は白けきってしまった。
 仮にも石原は「参謀総長殿下」の代理である。たまらず、今村が板垣に呼びかける形で引き取った。五年前の石原が武藤であり、自分はその石原に無礼な態度であしらわれたのだが、それにこだわる今村ではなかった。
 「参謀長! いかがでしょう。もう夕食の時間です。一応食事にし、殿下の御意図は、参謀長と私とが、軍司令官室でうけたまわることにし、今夜は懇談だけにいたしては…」
 その今村の言葉に板垣も、
 「そうだね。そうしよう。食事しながら話すほうが、堅苦しくなくていいかもしれん。諸君、食堂に移ろう」
 と応じた。
 翌日、石原は来た時とは別人のよな顔つきで悄然として帰途につく。
 そして、翌年夏、日中戦争が勃発した。
 石原は参謀本部作戦部長として不拡大方針を貫こうとするが、関東軍は従わない。それどころか、独自の対策意見書を出すことになり、その説明役に今村が選ばれて、東京に飛来した。
 そこで驚いたのだが、参謀本部で、石原の不拡大主義に同調しているのは、大佐の河辺虎四郎以下、一、二名だけだった。河辺は、満州事変勃発当時、今村の部下として誠心誠意補佐してくれた人である。石原と違って、最初から不拡大主義ということになるが、その河辺に今村は熱をこめて口説かれた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー石原完爾 「満蒙問題解決案」ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 石原完爾は「満蒙問題ノ解決ハ日本ノ活クル唯一ノ途ナリ」と考え、関東軍を主導しました。満州国建国は石原完爾の考えに基づいて進められたと言っても過言ではないと思います。下記の資料1及び資料2も石原完爾によるものです。

 石原完爾が資料1にあるように、「国内ノ不安ヲ除ク為ニハ対外進出ニヨルヲ要ス」と考え、また、「満蒙問題ノ解決ハ日本カ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラル」と主張していたこと、さらには満州事変前に、「対米戦争ノ準備成ラハ直ニ開戦ヲ賭シ断乎トシテ満蒙ノ政権ヲ我手ニ収ム」と対米戦争を想定していたことを見逃すことができません。

 また、資料2の「関東軍満蒙領有計画」には、「軍閥ノ掃蕩其官私有財産ノ没収」や「此等ニ要スル臨時費ハ没収セル逆産及税収ニヨルヲ本旨トス」などの指摘があることから、現地自活の考え方を持っていたことが分かります。そうした考え方は、その後の戦争に様々な影響があったのではないでしょうか。

 石原完爾は、後に「満蒙領有論」から「満蒙独立論」転じ、参謀本部の作戦部長時代には、日中戦争の不拡大を主張したようですが、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を画策・実行した段階で、日本が太平洋戦争へと突き進む導火線に火を付けてしまい、その後火を消そうとしても、もはや消し止めることができなくなっていたといえるのではないかと思います。 

 下記は、「太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻 資料編」(朝日新聞社)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    石原中佐案 第三日 於車中 討議
一、満蒙問題ノ解決ハ日本ノ活クル唯一ノ途ナリ
1 国内ノ不安ヲ除ク為ニハ対外進出ニヨルヲ要ス
2 満蒙ノ価値
   満蒙ノ価値
 (イ) 満蒙ノ有スル価値ハ偉大ナルモ日本人ノ多クニ理解セラレアラス
 (ロ) 満蒙問題ヲ解決シ得ハ支那本部ノ排日亦同時ニ終熄スヘシ
3 満蒙問題ノ積極的解決ハ単ニ日本ノ為メニ必要ナルノミナラス多数支那民衆ノ為メニモ最モ喜フヘキコトナリ即チ正義ノ為メ日本カ断行スヘキモノナリ
 歴史的関係等ヨリ観察スルモ満蒙ハ漢民族ヨリモ寧ロ日本民族ニ属スヘキモノナリ

二、満蒙問題解決ノ鍵ハ帝国々軍之ヲ握ル
1 満蒙問題ノ解決ハ日本カ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラル
2 対支外交即チ対米外交ナリ 即チ前記目的ヲ達成スル為メニハ対米戦争ノ覚悟ヲ要ス若シ真ニ米国ニ対スル能ハスンハ速ニ日本ハ其全武装ヲ解クヲ有利トス
3 対米持久戦ニ於テ日本ニ勝利ノ公算ナキカ如ク信スルハ対米戦争ノ本質ヲ解セサル結果ナリ 露国ノ現状ハ吾人ニ絶好ノ機会ヲ与ヘツヽアリ

三、満蒙問題解決方針
1 対米戦争ノ準備成ラハ直ニ開戦ヲ賭シ断乎トシテ満蒙ノ政権ヲ我手ニ収ム
  満蒙ノ合理的開発ニヨリ日本ノ景気ハ自然ニ恢復シ有識失業者亦救済セラレルヘシ
2 若シ戦争ノ止ムナキニ至ラハ断乎トシテ東亜ノ被封鎖ヲ覚悟シ適時支部本部ノ要部ヲモ我領有下ニ置キ我武力ニヨリ支那民族ノ進路ヲ遮リツヽアル障碍ヲ切開シテ其経済生活ニ溌剌タル新生命ヲ与ヘテ東亜ノ自給自足ノ道ヲ確立シ長期戦争ヲ有利ニ指導シ我目的ヲ達成ス

四、対米戦争ノ為メ調査方針
1 東亜カ封鎖セラルヽモノトシテ其経済状態ヲ調査シ之ヲカ対策ヲ立案ス(政府ノ業務ナルモ差当リ大ニ東亜経済調査局ニ依頼ス)
 調査ノ方針ハ徒ニ西洋流ノ学問ニ捉ハルヽコトナク我武力ニヨリ支那積幣ノ中枢ヲ切開シテ四億ノ民衆ニ経済的新生命ヲ与ヘ之ヲ相手トシテ我商工業ヲ振興シナルヘク速ニ欧米列強ニ対シ我工業ノ独立ヲ完ウスルコトヲ根本着眼トスルヲ要ス
2 満蒙及支那本部ヲ占領スル場合ニ於ケル其領有方法ノ立案(軍部自ラ其根本ヲ立案シ細部ハ之ヲ各専門家ノ具体的研究ニ俟ツ)
 戦争ヲ以テ戦争ヲ養フヲ根本着眼トシ要スレハ海軍ニ要スル戦費ノ一部又ハ大部モ亦大陸ノ負担タラシムルモノトス
 支那統治ノ根本要領
〔一〕満蒙総督(長春)
  満洲及熱河特別地区
◎全ク日本軍隊ヲ以テ徹底的ニ治安ヲ維持ス
(二)黄河総督(北京)
 直隷 山東 山西 河南 察哈爾特別区
(三)長河総督(南京)
 江蘇 浙江 安徽 福建
(四)湖広総督(武昌)
 湖北 湖南 江西
◎以上三総督ノ武力ハ日本軍ナルモ地方治安等ニハ在来ノ支那軍隊ヲ用フ(清朝カ支那統治ノ方式)
(五)西方総督(西安)
 陜西 甘粛 青海 新彊 外蒙
(六)南方総督(広東)
 広東、広西   
(七)西南総督(重慶)
 四川 雲満 貴洲 川辺特別地域
◎以上三総督ハ通常支那人ヲ用ヒ支那軍隊ヲ本則トス
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         関東軍満蒙領有計画
  石原中佐案 第 日 於満洲里  説明
第一 平定
一 軍閥ノ掃蕩其官私有財産ノ没収
二 支那軍隊ノ処分
 1 巧妙ナル武装解除(散逸ヲ防ク)
 2 兵卒ノ処分
三 逃走兵及土匪ノ討伐掃蕩
四 此等ニ要スル臨時費ハ没収セル逆産及税収ニヨルヲ本旨トス

第二 統治
(一)方針 「最モ簡明ナル軍政ヲ布キ確実ニ治安ヲ維持スル以外努メテ干渉ヲ避ケ日鮮支三民族ノ自由競争ニヨル発達ヲ期ス」
   其結果日本人ハ大規模ノ企業及智能ヲ用フル事業ニ鮮人ハ水田ノ開拓ニ支那人ハ小商業労働ニ   各々其能力ヲ発揮シ共存共栄ノ実ヲ挙クヘシ
(二) 行政
1 根本方針トシテハナルヘク急激ナル変化ヲ与ヘサルコト
2 行政組織及区域
(イ)総督府ノ編制(位置ハ長春又哈爾賓)
 一 陸軍部ト民生部トノ関係ヲ如何ニスルヘキヤノ問題
  1 総督ノ下ニ庶務部ヲ置キ右両部ヲ統一スルカ
  2 陸軍部ヲ幕僚部トシ民生部ノ事務ハ凡テ幕僚部ヲ経由セシムルカ
 二 重要ナル幹部タルヘキ人ノ予定ヲ内定シ置クコト
 三 守備隊ト警務(憲兵ノミヲ用フ)トノ関係
 四 警務ハ陸軍部所管トスルカ民生部所管トスルカ
(ロ)省ハ支那在来ノ関係上最モ重要ナル単位ナルモ我軍行政第一ノ着眼ハ治安ノ維持ニシテ治安維   持ノ為メニハ道ヲ単位トシ道尹ニ守備隊ヲ備フルヲ最モ簡明ナル制度トスヘシ
(ハ)道ノ境界ハ在来ノモノヲ成ルヘク尊重スルモ鉄道交通ニ重キヲ置キ若干ノ変化ヲ必要トスヘシ  (附図参照-略)
 (ニ)海拉爾 黒河 同江等ハ該地守備隊司令官直接軍政ヲ司ル
 (ホ)日本人ハ如何ナル地位迄之ヲ行フヘキカ
 支那人ヲ必要トスル位置
3 治安維持
(イ)治安維持ノ主体ハ守備隊ナリ 而シテ守備隊ノ活動ハ先ツ鉄道線路ヲ第一トス
   次ニ県城其他ノ諸点ニハ若干ノ兵力ヲ配置ス(最小限一小隊)此守備隊ノ兵力ハ約四十五大隊   トス
鉄道守備隊ヲ地方守備隊ヨリ分離シテ数ケノ守備隊司令部ニ統一セシムルヲ可トスルヤハ研究を要ス
  (ロ)地方ニヨリテハ若干ノ自治警察ヲ許スモ厳ニ其行動ヲ監視ス
  (ハ)憲兵ハ総督ニ直属スルモ必要ナル事項
  (?陸軍部長)
 ハ 道尹ノ区署ヲ受ケシム
   憲兵ハ地方警務ノ為 道尹ニ属スルモ高等警察ノ為総督府直属ノ憲兵ヲモ存置ス
4 財政
 (イ)税ノ種類 成ルヘク間接税ニヨルヲ本旨トス
 (ロ)徴税組織
 (ハ)幾河ノ歳入ヲ予期シ得ルヤ
 (ニ)歳出 
軍事費   守備隊 2500万円
      駐剳師団 4000万円 
計   6500万円
 行政費
5 金融及産業
 交通  通信
  此等ノ事業ノ根本ハ満鉄会社ヲ利用スルモノトス
  産業ハ大体自然ノ発展ヲ待ツト雖モ戦争ノ為満州経済ノ受クル影響ヲ予メ研究シテ対策ヲ計画シ 必要ノ統制ハ総督ニ於テ之ヲ行ハサルヘカラス(例ヘハ大豆輸出ノ減少ニ伴フ対策ヲ必要トシ要ス レハ大規模ノ大豆工業ヲ官営スルカ如キコレナリ)
 予定鉄道ノ研究

(三)司法
 1 当分二重制度トス
 道尹所在地ニ法院ヲ設ケ裁判ニ当ラシム

第三 国防
(一) 約四師団ヲ用ヒテ露国ノ侵入ニ備フ
(二) 帝国ノ国力之ヲ許スニ於テハ対露戦争ノ場合「チタ」又ハ「イルクーツク」ニ向ヒ攻略作戦ヲ行フコト固ヨリ可ナルヘキモ我満洲ノ力ヲ以テ露国ノ侵入ヲ阻止セントセハ竜門 墨爾根 海拉爾附近ニ作戦ノ拠点ヲ編成シ「ブラゴブエ」及「チタ」両方面ヨリ予想セラルヽ敵ノ攻勢ニ対シ内線作戦ヲ以テ其企図ヲ挫折セシム
 開戦ノ時ハ朝鮮ヨリ一兵団沿海州ニ作戦スヘク該方面ハ満洲総督府ニ於テ顧慮ヲ要セサルヘシ
(三)飛行機ノ攻撃ニヨリテハ彼我共ニ未タ戦争ノ決ヲ与フル能ハサルヘシト雖モ長大ナル後方連絡線ヲ有スル両軍特ニ露軍ノ為メニハ飛行機ニヨル後方連絡線ノ攻撃ハ最モ痛痒ヲ感スル所ナルヲ以テ飛行機隊ハ我軍ノ為メ最モ重要ナリ
 平時ヨリ四師団中ノ一、二ヲ減シテ飛行機隊若干増加スルヲ可トスヘキヤニツキテハ大ニ研究ヲ要ス 戦時ニ於テハ速ニ増加ヲ必要トス
(四)北部北満殊ニ呼倫貝爾地方作戦ノ為メニハ軍隊ノ機械化ヲ有利トス
   即チ四師団ヲ三師団又ハ其以下ニ縮小シ砲兵及輜重ヲ自動車隊編成トシ強大ナル装甲自動車隊ヲ属スルヲ可トスヘキカ具体的ナ研究ヲ要ス
 調査方針
 先ツ左ノ三要素ノ調査ヲ急キ本年中大体之ヲ終エウ
一、行政組織ヲ如何ニスヘキヤ ーーーーーーーーーーーーーー 佐久間大尉主任 伊藤主計正
二、財政           ーーーーーーーーーーーーーーーーーー伊藤主計正
三、対米戦争ノ為満蒙経済界ノ受クル影響並ニ之ニ対スル策案ーーーーー伊藤主計正
四、総督府(軍司令部)民生部ノ編制ーーーーーーーーーーーーーーーー  伊藤主計正


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