-NO523~527
ーーーーーーーーーー通化事件 NO3 - 吉林省文史資料第十二輯にはーーーーーーーーーー

 先だって(10月14日)、日本政府が、今年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の分担金約38億円5千万円の支払いを「保留」していると朝日新聞が報じました。昨年、中国が申請した「南京大虐殺の記録」が記憶遺産に登録されたことに対する反発が背景にあるとのことです。戦後70年以上が経過しているにもかかわらず、いまだに先の大戦における歴史認識が共有できていないこと、加えて、分担金支払い「保留」で、この問題に対応しようとする日本政府の姿勢を悲しく思いました。歴史認識の共有のための場を、政府が責任を持って設定し、相互に理解を深めるための努力を惜しまないでほしいと思います。

 そう言う意味で、通化事件に関する理解を深めるために、事件関係者を取り調べた八路軍幹部の報告をもとにした下記の中国側記述は貴重だと思いました。日本人関係者の証言だけでは知り得ない数々の事実が明らかにされているからです。下記の文中にも「藤田実彦を逮捕した後、わが方は真剣に審理をすすめた。東北局は指導者を、特に通化に派遣して審理にあたらせ、藤田を何度も取り調べた。藤田は事実を前にそれを認めるほかなく、調書に署名捺印した」とありますが、中国側は、多数の国民党関係者も訊問しており、様々な文書も押収しているため、藤田大佐も認めざるを得なかったのだろうと思います。

 「通化事件 共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言であきらかにする」佐藤和明(新評論)によると、通化事件に関する中国側の資料は、たまたま京大が第三者を介して中国で入手したものだということなので、信頼できる貴重な資料ではないかと思います。

 下記の「通化『二・三暴動』の文章は、「吉林省文史資料第十二輯(吉林省委員会文史資料研究委員会・通化市委員会文史資料研究委員会・編)の中にあるとのことですが、ここでは、佐藤和明氏の著書から「二、首謀者」の「(三)組織を結成、暴動を計画」と「三、 野合」の「(一)武装暴乱総指揮部と組成」、「四、反撃」「(三)、藤田を生け捕り」および「五、結末」の「(1)戒厳令解除、勝利を祝う」の一部を抜粋しました。

 国民党側からの働きかけがあって進められたといえる反乱・暴動の結果、「暴動での日本人の死傷者数が国民党のそれを大幅に上回っている」ことに対するインタビューでの呉政治委員の下記の話には考えさせられました。反乱・暴動の計画で盛り上がったのは、元関東軍百二十五師団参謀長・藤田実彦大佐を中心とする軍人およびその関係者と国民党側関係者のごく一部の人間に過ぎず、多くの国民党側関係者は、本気にはなれなかったのではないかと…。
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                       通化「二・三暴動」李大根著:中川孝訳
一、前兆
(一)「九・三」祖国復帰後の状況・・・略
(二)通化に居住する日本人の状況・・・略

二、首謀者
(一)蒋日特務の活発な活動、秘密結社、暗殺団の組織・・・略
(二)国民党の三党本部と”三青団”の一工作による反共活動・・・略 
(三)組織を結成、暴動を計画
 近藤晴雄、劉正修(蒋日の特務分子)、孫耕暁、藤田実彦らが密議をこらし、扇動した結果、手ごたえ、各方面から声援を受けるなど敵にとっては、恐いものなしの状況であった。1月15日、 劉正修は孫耕暁の家で秘密会議を持ち、「暫編東辺地区軍政委員会」を設立した。投票による選挙の結果は次の通りである。

  主任委員    孫耕暁
  副主任委員   劉玉青
  委員      劉亦天、楊振国、鄧覚非、遅文玉、藤田実彦、近藤晴雄

続いて、暫編東辺地区軍政委員会の成立を正式に宣言した。直ちに会議を開き、次の機構(政治と軍事の二部門に大別され、各部の下に若干の科が設けられる)を設けた。
政治部長    劉亦天、劉玉青
  副部長     鄧覚非 
  総務科長    劉亦天
  民政科長    楊振国
  保安科長    姜基隆
  財政部長    劉靖儒
  軍事部長    藤田実彦
  副部長     遅文玉
  参謀科長    鄭乃樵、干正福
  副官科長    関崇芳
  軍需科長    劉慶栄、威相雲
  軍法科長    周洪漢、劉滌新、趙憲福
  軍機(兵器)科長 王桂声、楊景春
  軍医科長    柴田大尉

 この軍政委員会が成立すると、1月17日に暴動を決行することを決定した。しかし、この日は援軍を得られず、計画は失敗に終わった。劉正修は1月18日、奉天に戻った。
 国民党遼寧省党部主任委員李光沈は、直ちに蒋日特務分子の宮川、宮本の二人を通化に送り込み、藤田実彦の行動を監視させた。二人は協和街の住宅に身を潜め、ひそかに情報ステーションを設けた。暗号は401、藤田実彦に関するあらゆる情報を集め、随時無線で李光沈に報告した。
 同時期、国民党東北行営(注・前進司令部のある軍営)もまたひそかに蒋日特務分子、西川太郎、花岡一夫、林幸男の三人を通化に潜入させ、藤田実彦をひそかに動かし、早く事前謀議を実施し暴動を起こすよう迫った。
 劉正修が奉天に戻ると藤田実彦は不安にかられ、1月19日、石人溝方面に潜伏していた日本侵略者の桜井と池田辰三の二人に親書を持たせ、奉天の岩切医院の岩切院長(藤田実彦の同郷の蒋日特務分子)を訪ねさせ、国民党遼寧省党本部の李光沈へ暴動事件を連絡したのである。国民党遼寧省党本部政治部員の片山は直ちに命令を受け、藤田実彦宛の李光沈の電文を無線で送信した。その概要は以下の通りであった。
 「世界大戦が終結し同慶の至りである。通化方面の日本軍はその立場を堅持し、八路軍に武装解除されることなく、今に至るも其の勢力を保持するは、中国東北者に対し協力作用をなすものにして、まことに貴官の英明なる指揮の賜である。今後もまた相互に連繋し、東北建設のためともに邁進し…」
 李光沈に称賛された藤田実彦は内心大いに感激し、武装暴動の実施を早めることを決意した。彼は1月21日、国民党通化県党本部に対し、日本再興への展望と日本軍国主義の利益を考え、武装暴動実施に先立ち三条件の要求を提示した。第一は通化の日本人が帰国しないことを保証すること、第二は通化の日本人が失業しないとを保証すること、第三に通化の日本人が台湾籍になることを保証することだった。このため、大政豊を日本代表として派遣し、国民党通化県本部代表の姜基隆、周志傑と交渉させた。交渉の結果、会議を主催することに決まった。場所は南関信農洋行であった。国民党側からは孫耕暁、鄭乃樵、劉亦天、姜基隆、劉玉青、周洪漢が出席し、日本側は阿部、近藤、大政、小向が出席した。

 孫耕暁は日本侵略者を利用して共産党を壊滅するという目的のために、何等意に介さず日本側が提示した三条件に応じた。だが、日本側はそれでも満足せず、第四の条件を加えた。それは、暴動が成功したら、通化に「中日連合政府」を設立する、というものだった。孫耕暁を中心とする通化国民党の輩は、暴動により共産党を消滅させることを急ぐあまり、国家利益を売るのも省みず中華民族の尊厳を失い、通化に主権喪失の「中日連合政府」を設立するという国辱的な売国的協定を成立させたのである。同時に、国民党旗と日本国旗を掲揚すること、孫耕暁が政務を掌握し、藤田が軍事を握ることも決定した。第四の条件が受け入れられると、日本代表の大政豊と国民党代表姜基隆は双方を代表として署名した。藤田実彦は調印された協定を見て大喜び、暴動を発動するために更に精力的に奔走することとなった。

三、 野合
(一)武装暴乱総指揮部と組成
 あれこれ駆引きの末に、藤田実彦と孫耕暁の取り決めがまとまり、1月22日に孫の自宅で「武装暴動総指揮部」が発足した。南十字西街公益涌油坊の劉靖儒の家を指揮部に当て、総指揮に孫耕暁、田友(藤田実彦)、姜基隆、副指揮に劉亦天である。その下に三つの指揮所、三つの連絡組を設けた。
第一指揮所は通化カトリック教会近くにある栗林宅(暴動の際に千葉幸雄宅に変更されたが、状況が緊迫して使われなかった)で、指揮者は田友(藤田実彦)、阿部元、連絡組の責任者は近藤晴雄だった。第二指揮所は裕民街の姜基隆宅で、指揮者は孫耕暁、 姜基隆、連絡組の責任者は劉子周、劉慶栄だった。第三指揮所は通化南関区の遅文玉宅で、指揮者は劉滌新、遅文玉、連絡組の責任者は邵裕国だった。臨江方面の劉玉清を頭とする悪党一味も通化の斐家の店に寝泊まりし、いざという時、第二、第三指揮所に呼応する手はずになっていた。また、暴動に必要な兵力を調達するため「軍事収編委員会」を発足させ、帰順者を取り込んで「暫編東辺地区部隊」を編成し、援軍と内通者の連絡をとることになった。このため、 孫耕暁、近藤晴雄、藤田実彦ら首謀者は、連絡員(注・伝令)や蒋日特務をあちこちに派遣し、買収、威嚇などの手段に訴えて兵力をかき集めさせた。

 近藤晴雄は軍事収編委員会の名義で山中部隊伝令である吉田、松尾に国民党特務五人を同行させ、長白山へ旧日本軍と連絡するためひそかに向かわせた。後の孫の自供によれば、潜伏している日本軍と連絡をとるために哈尼河、八区へ連絡員を派遣している。こうして、前後九つの連絡組を送った。
藤田実彦は市内において3000余名の元日本兵を集めたほか、石人溝にいる元日本軍宮内との連絡に中山、斉藤、布田、吉田、松尾や蒋一の味の特務を送り、兵力と兵器の調達に当たらせた。
 また、五道江方面の日本軍、増井少尉と連絡をとって鉱山地区の旧日本軍を組織しようとした。孫耕暁は市内において漢奸(注・民族裏切り者)、旧満州国の協和会部員、軍人、警察官、官吏、ごろつき、やくざ、土匪など200余人を集め、国民党員と三民主義青年団の幹部を組織し、一味を武装させた。そして、奉天国民党党本部から三青団の活動を進めるため、通化に派遣されてきた邵裕国に指揮を命じ、党部の徐斌、鄧永林に監督と管理を委ねた。さらに、趙殿礼の党本部の残党である周洪漢、胡世良らに、撫松、小南岔、輯安(現在の集安)、臨江一帯にいる文徳喜、何学福、馮殿剛らの地方武装力を組織させた。同時に、多数の蒋一味の特務に日本人特務の連絡員と協力させて、東昌区、竜泉区、啓通区、中昌区、二道江区で旧満州国の軍人、警察官などを引き込み、わが党、政府、軍の各機関に内通者をふやした。首謀者たちがこのようにあらん限りの手を尽くした結果、ついに一万人に達する武装暴力集団ができあがった。彼らの反革命武装行動の行動計画は次の通りである。

 ①暴動の綱領、目的、任務

 武装暴動総指揮部の首謀者は、黒幕の李光沈の意に従い、こう唱えた。

 「人類史上未曾有の大戦が終わった。この間、共産軍は各地に満ちあふれ、その兵力等は次第に拡大し、通化を根拠地として中央軍の進駐を阻んでいる。これに反撃する準備を進めなければならない。通化の民主政府をくつがえし、中日連合政府を樹立し、通化にいる日本軍を中央暫編東辺地区部隊に改編し、各地で接収改編した国民党の地方武装力は中央軍とするものである。共産党の長白山根拠地を破壊し、南満および全東北を占領しなければならない」

 これがとりもなおさず、暴動の綱領であり、目的でもあった。目的を達するために次の任務を決めた。接収改編した東辺地区軍政委員会軍事部で編成される部隊で「共産軍を消滅し通化を奪取する」政治部長の劉亦天を頭に、通化行政督察専員公署の接収に責任を負う。孫建武が市・県政府の行政の接収に責任を負う。徐斌が市・県政府の財政金融の接収に責任を負う。王桂馨が通化市内の治安の維持に責任を負う。総指揮部の三つの連絡組と「婦女宣伝会」が連絡とビラ配りに責任を負う。

②重点目標 
   暴動部隊のおもな攻撃目標はつぎのようになっていた。
(1)安東省通化区行政督察専員公署
(2)通化支隊司令部
(3)市・県政府、県大隊
(4)市公安局
(5)市電報局・電業局
(6)東北軍政大学所属東北砲校(戦車部隊を含む)、東北航空学校および飛行場
(7)放送局、通化日報社、第一医院、東北造幣厰
  中国共産党遼東省通化省分委員会は目標とされなかった。当時、省分委は公表されておらず、事務をとる場所も「通化地区各界建国連合会」

  にあった。ありふれた和風の小さな建物で、門前に歩哨もたてておらず、特務の注目を引かなかったので攻撃目標には入らなかったのだろう。
③兵力の組織と兵器の配備・・・略
④合言葉、合図、標識・・・略

(二)黒幕の登場・・・略
(三)旧正月の夜・・・略
(四)首謀者を事前逮捕・・・略

四、反撃
(一)、孫耕暁を処刑・・・略
(二)、自滅の道へ・・・略
(三)、藤田を生け捕り
 敵の反革命武装暴動は、わが党、政府、軍、人民の英雄的反撃により失敗に終わった。しかし、藤田実彦、近藤晴雄、柴田大尉ら首謀者達は捕らえられていない。このため、2月3日午後、全市に戒厳令が布かれた。各部隊各機関の幹部や兵士、労働者自衛隊が戦場の後かたづけ、死体の始末、武器の接収、捕虜の収容に当たる一方、精鋭部隊の一部が敵の捜索にあたった。

 2月3日夜、藤田実彦ら第一指揮所の日本人は阿布元(注・阿部元と思われる)の家に集まり、夜九時頃、藤田は吉田に一部を率いて戦闘に向かわせ、その後、小向を偵察に出した。その結果、わが軍の捜査が第一指揮所の千葉幸雄宅に及んでいないことを知った。夜半3時頃、藤田の伝令が竜泉街で捕まった。危険を察知した藤田は一切の秘密文書を焼却させ、ただちに栗林宅に移動し、天井裏に潜んでいた。

 2月4日午前、朝鮮義勇軍支隊の李成万大隊長は、高応錫中隊に藤田捜索の任務を与えた。それを聞いた幹部と兵士はみな喜び、首謀者藤田を捕まえる決意を固めた。友好的な日本住民から得た情報を手がかりに、藤田が身を隠しそうな日本人住宅街を包囲し、戸別に家宅捜査した。九軒つづきの長屋に行くと、屋内におびえた5人の女が固まっていた。中隊の通訳をしている金基善同志が
「きみたちの夫はどこへ行ったか」と日本語で訊ねると、中年の一人が
「お許し下さい。さっぱり判らないのです。夕べ出て行ったきりまだ戻りません」と気ぜわしげに答えた。
「怖がらなくてもいい。藤田さえ差し出してもらえればいい」と高中隊長。
「いません、ここには藤田さんはいません」と、一人がごまかそうとする。
「もし、いたらどうする」と高が語気を強めて言うと、女は身震いしながら顔を伏せて答えた。
「ここの天井の裏は仕切がないので、ほかの家でかくまったかどうかまでは知りません」
 高中隊長は兵士に捜索を命じたが、家捜ししても一人も見つからない。隣の部屋に移ろうとした時、金基善が押入れで音がしたのを聞きつけた。とっさに押入れに二発撃ったが反応がない。いぶかって押入れの襖を開けると、上の天井に通気口があってオーバーらしき裾がはみ出している。高はそれに向かって、日本語で「おとなしくしろ、さもないと撃つぞ」と叫んだ。するとオーバーにくるまって男がどすんと落ちてきた。「誰だ」と詰問すると、体を震わせ、「藤田です」と答えた。
 高は不審に思って眺めた。男は中くらいの背丈で、年も三十七、八だ。李万成大隊長が言った藤田の特徴とあわないのである。藤田は五十がらみで、背が低く、目が小さく、唇が厚く、禿頭で、黒髪の典型的な日本ファシストだと、李大隊長は言ったはずだ。「いや、おまえは藤田じゃない。上にまだ誰かいるはずだ」「いません、自分だけです」高はもちろん騙されはしない。通信班長に目配せし、「機関銃を天井に向けろ!」と大声でどなってみせた。すると、すぐ天井裏から「撃たないでくれ、皆、すぐ降りる」とうわずった声がした。それから次々に降りてきた。名前をただすと、近藤晴雄、小向利一、井上、長谷川、藤田武雄、阿布元、柴田朝子、佐々木絹江(阿部元の愛人)、小林、鈴木、松本、河野ら29人である。しかし、藤田実彦と名乗り出た者は一人もいなかった。高中隊長はこれらを縛って、朝鮮義勇軍南満支隊司令部に連行させた。取調べの結果、27番目に降りてきた藤田一雄と名乗る男が首謀者の藤田実彦だと判明した。こうして数々の罪悪を犯した日本戦犯、暴動のナンバー・ツーの藤田実彦大佐はついに人民の法網にかかった。国民党遼寧省党部と奉天の日本特務工作組織が通化に送りこんだ連絡員の近藤晴雄も逃れられなかった。

 逃げのびた柴田ら30余人は、2月3日、山上に身を隠したが、飢えと寒さに耐えられず、7人一組となり、その夜のうちに奉天、安東(今の丹東)、朝鮮方面へ逃亡しようとした。佐山ら5人を連れて柴田大尉は山中の百姓家で身なりを換え、夕食をとった。その後、佐山だけを連れて、夜通し撫順方面をめざして逃げた。そして、通化県境の快大茂子にさしかかったところで捜索隊に見つかり、追撃され、野菜を入れる穴蔵に潜んでいるところを捕まった。
 また、松倉十一(薬剤主任、大尉)藍田正箭箭(外科主任、中尉)、平井敏雄(内科主任、中尉)、紺田節美(医務主任、少尉、女)、松淵正(医務、准尉)、平賀茂松(会計曹長)、藤本浅夫(看護長)、の7人は安東へ逃亡しようとしたが、輯安境内に迷い込み、すぐ捉えられて通化に護送された。

 国民党側では通化県党部の暴動の副総指揮、政治部長の劉亦天、総指揮部のナンバー・スリーで政治部保安処長の姜基隆と軍法処長の劉滌新、周洪漢、軍事部副部長の遅文玉および張璽魁、遅金鐸らは瀋陽に逃れた。国民党三青団地下工作団団長邵裕国、陳丕亜ら13人は逮捕された。

 捜索に際して、わが軍は兵士と幹部は東北局の指示を厳しく守り、現場で抵抗した者を除いてすべて生け捕る方針を貫いた。2月3日から5日にかけて逃亡者1000余人を逮捕した。うち国民党匪賊は100人余にのぼった。わが方に死傷者はまったくなかった。
 藤田実彦を逮捕した後、わが方は真剣に審理をすすめた。東北局は指導者を、特に通化に派遣して審理にあたらせ、藤田を何度も取り調べた。藤田は事実を前にそれを認めるほかなく、調書に署名捺印した。
 暴動とそれへの反撃。敵は惨めな敗北をこうむり、わが党、政府、軍、人民は輝かしい戦果をあげた。事後の統計によると、暴動への参加者は計12300余人で、うち現場での死者千百余人である。最初の処刑者は、国民党の暴動首謀者孫耕暁以下20余人、ついで悪らつな内通者と内海勲暗殺事件の前後に逮捕した戦争犯罪人など100余人を処刑した。捕虜は3000余人で、うち国民党暴徒は130余人である。暴動平定後に藤田実彦、近藤晴雄、阿布元、小向、柴田、赤川、新倉、小林ら首謀各を20余人逮捕した。これらの人間はあいついで審判に付された。残党は瓦解潰滅し、またある者は逃走した。

 敵方特務情報ステーション(暗号401)は、秘密無線で2月28日に国民党遼寧省党本部に対し、「二、三事件において、戦死したり捕虜になった者は、孫耕暁、藤田以下1800余名、うち日本軍1000余名が射殺された」と報告している。参考までに記しておく。押収した武器は軽機関銃五丁、歩兵銃500余丁、拳銃100丁のほか、手榴弾、日本刀、あいくち、斧、棍棒など多数である。軍需物資や金銭については統計がない。

 わが方の戦闘参加者は、党、政府、軍の幹部と兵士が計500人余、労働者自衛隊や民衆で自発的に反撃戦に参加した者約1000余人である。敵味方の比率が1対10と大きくかけ離れているなかで、わが党、政府、軍政の幹部と兵士は勇敢に戦った。わが方の犠牲者は幹部、兵士含め、わずかに26人であった。彼らは、通化人民のために貴い生命を捧げた。

五、結末 
 (1)戒厳令解除、勝利を祝う
 ・・・
 『通化日報』は「国民党特務が日本人戦犯と結託して起こした反乱の真相」と題して、上述の談話全文を掲載した」。
 [インタビュー抄録]
問 呉政治委員の話では、今回の暴動での日本人の死傷者数が国民党のそれを大幅に上回っているが、これはどうしてですか?
答 抗日戦8年来、国民党は一貫して日本人のワナにはまり、ひどい目にあわされてきた。敵は国民党を叩いたり抱き込んだりする政策をとった。だが、今度は日本人が国民党にしてやられた。捕虜になった日本人の供述によると、国民党は日本人の間でおおげさに吹聴していたようだ。中央軍がもう山海関を出て、瀋陽へ向かっている破竹の勢いで進んでいる。二日夜には四万の大軍が通化暴動に呼応し、夜明けには瀋陽から百機飛来して通化を爆撃する。二道江には機関銃二万丁があって装備できる。通化政府と駐屯軍には内通者がいて、銃声があがればすぐに行動に移って通化駐屯軍がすぐに消滅できる。そうすれば中日連合政府が樹立でき、通化にいる日本人は解放され安全に帰国できる、とかいった具合いにである。しかし、戦闘が始まると、いたるところで、出鼻をくじかれ内通者の応援が得られないばかりか、各所で真っ向から痛撃をこうむった。国民党特務分子は、みなこそこそ逃げ出してしまった。だから、これらの日本人は「良心のくさった国民党がたくさんいる」と憤慨している。今度の暴動では国民党特務に騙された、と彼らは感じている。

(2) 烈士を追悼、功労者を表彰 ・・・略

ーーーーーーーーーーーーーー通州事件 外交官・森島守人の記述ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」(岩波新書)の著者(森島守人)は、通州事件当時北京において、日本側関係者や中国側関係者と、様々な交渉を重ねた外交官です。したがって、日本の主張だけではなく、中国側の立場や考え方も理解し、通州事件に至る事の成り行きを冷静に、そして客観的に見ていたように思います。

 「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」を読むと、「通州事件を忘れるな!」などと言って、通州事件における中国人の残虐性ばかりを問題にする日本人の主張が、歴史の一面しか見ていないことに気づかされます。
 大事なことは、なぜ「通州事件」のような残虐な事件が起きたのかということではないでしょうか。そのことを論ずることなく、「通州事件」における中国人の残虐性ばかりを並べ立てることは、「歴史から学ぶ」という姿勢を放棄することに等しく、非生産的であり、誤りであると思います。

 通州事件を正しくとらえるためには、1928年(昭和3年)6月、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された「張作霖爆殺事件」や、1931年(昭和6年)9月、奉天近郊の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路が爆破された「柳条湖事件」などがあったこと、そしてそれが、関東軍の謀略に基づくものであったことを踏まえておく必要があると思います。そうした事実を含め、当時の日中の関係全体、特に日本軍と中国側の軍の関係やトラブルの状況を踏まえて、通州事件を見ない限り、通州事件という歴史の事実を客観的にとらえることはできないように思います。

 たしかに、通州事件では、親日的であったはずの冀東保安隊によって、武器を持たない日本人居留民が大勢虐殺されました。でも、だからといって、

日本が支那に和平を訴えても、このような支那人による恐ろしい極悪非道のホロコースト(大量殺戮)が日本人に対して行われていたということだ

とか

この悪夢のような事件から既に70年以上経過しているが、根本的な支那人(漢民族)の気質は全く変わっていない

などとくり返すのでは、国際社会の理解が得られないばかりでなく、日中関係の改善は不可能になるだろうと思います。

 下記は、「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」森島守人(岩波新書)から、通州事件に関わる部分を一部抜粋しました(漢字の旧字体の一部を新字体に変更しています)。通州事件を、中国人の「気質」の問題として論じてよいのかどうか、分かるのではないかと思います。
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                        十二 運命の七月七日 蘆溝橋事件
事件の突発と居留民の籠城
 少しく私事にわたり過ぎる嫌いはあるが、私が議会中の多忙なうちに、両協定案をまとめるため全力をつくした。また議会では林内閣に対する風当たりが強く、祭政一致を旗印とした超然内閣打倒のため、各政党とも最大弱点と見られた佐藤新外相に質問、攻撃の鉾先を集中した。新外相は欧州在勤が長く国内事情や中国事情に疎かったため、補佐の任務も非常に骨が折れた。私は両協定案取りまとめの経緯と対軍関係から、対華、対英の交渉にも関与するものと期待していたが、議会終了後、突如転任の内命に接したので、出先との打合せを終えた上、北京へ赴任することにしていた。赴任にさきだつ七月七日、突然北京の郊外蘆溝橋で中日兵の衝突事件が起こった。あまり焦っているような印象を、中国側に与えてはとの外務省の懸念から、2、3日状勢を眺めていたが、事態重大化が懸念されたので11日東京を出発して北京へ向かった。

 汽車と飛行機とを乗りついで、天津に着いたのが14日の正午少しまえ、さいわい北京行列車を捕らえることができたので、20名余りの武装警官を帯同して出発した。豊台駅に着くと、中国側から、武装のまま戒厳地帯に入ることは認め得ないといって、北京入りを拒絶せられた。中国憲兵を通じて北京の戒厳司令部と折衝すること数時間余り、ようやく了解を得て警戒のものものしい北京に入ったのは同日の夕方近くであった。

 交民巷附近の城壁にも大砲が据えられてあり、緊張の場面は一目でわかった。大使館に入ると、すでに在留邦人の公使館区域への引揚げ準備を進めており、宿舎の割当、食糧の買入れ、貴重品の持込みなど、すでにその手はずをととのえていた。居留民の安全をはかるため、なるべく早い機会に、引揚を命じたいとの雰囲気をも窺い得た。もちろん突発事件に際して、居留民の生命、財産の安全を確保することは、外務出先官憲の重要任務の一つであり、引揚げの時期を失すれば、生命、財産を不測の危険に曝すことになる。さりとて過早に引揚を命ずるとかえって、居留民の生業を奪い、政府に対しても不必要に財政的負担を与える結果となるので、不安な情勢に直面した居留民からの執拗な引揚要望も受けつつも、適当な時期の選定を誤らないことがもっとも肝心だ。しかし何にもまして私の脳裡を支配したのは、北京の市街戦を何としても回避したいということであった。というのは、過早に北京城内の居留民に引揚を命ずることは、いたずらに軍の手に乗るのみだ、居留民の生命に対する心配がなくなると、かえって軍を驅って市街戦に乗り出す可能性が増加する。市街戦の結果、世界における唯一、無二の歴史的都市を廃墟に帰することは、未来永劫、世界歴史に汚点を残す、ニューヨークの摩天楼は金と技術とをもってすれば、再建は不可能ではないが、経済的に利用価値のない北京の宮殿や西太后が軍艦の建造費を抛って築造した北京郊外の万寿山などは、巨万の財宝を積むも再建不可能なことを思い、北京市街戦の回避こそ、世界歴史のため、また東洋文化のため、私に課せられた使命であると痛感された。

 私は進行中の現地協定の成立を期待し、軽々しく引揚命令を出すことに、同意を与えることを拒否して来たが、7月25日には北京と天津との間の廊坊で、翌日には北京の広安門で中日軍の衝突が起こった。そして26日には出先の日本軍は、24時間の期限をきって、北京からの中国軍の撤退を要求していたので、やむなく27日の午前5時に至り、北京居留民に対して公使館区域内への引揚命令を出し、午前中に全居留民を公使館区域に収容した。明治33年の義和団事件以来はじめての引揚命令で、北京居留民はここに二度目の籠城生活に入った。その最後の瞬間においても、何とかして日本軍の大規模な出動を阻止したく、北京駐在の軍側諸機関とも打合せ、偶々天津に滞在中だった川越大使を介して華北駐屯軍司令官の自重を促したく、連絡に百方手をつくしたが、電信、電話など北京、天津間の連絡方法は全然杜絶していたので如何ともすべき述はなかった。
 せめて日本側の立場をよくするため最後通牒の期限が切れるまで軍の出動を差し止めれば、そのあいだに窮状打開の途もあるかも知れないとの一縷の淡い希望のもとに、東京を経由して川越大使へ至急電を出したが、時すでに遅く、日本軍は期限終了前に軍事行動に移っていた。
 27日早暁、秦徳純市長を訪問、居留民引揚中の残留財産の保護方について申し入れをした。2週間の籠城生活中、在留民の家屋財産について、一件の掠奪事件さえなかったことは、ここに特記しておきたい。
 籠城に際しては防諜の見地から、内鮮人を別居させたが、季節柄連日の豪雨に際し、英国大使館が軍用テントを貸与してくれた好意もここに述べておきたい。

通州事件
 北京に関するかぎり、何等の不祥事件もなく、無事に過ごし得たが、一大痛恨事は北京を去る里余の地点、通州における居留民の惨殺事件であった。
 通州は日本の勢力下にあった冀東防共自治政府の所在地で、親日派の殷汝耕のお膝下であり、何人もこの地に事端の起こることを予想したものはなかった。むしろ北京からわざわざ避難した者さえあったくらいだった。
  冀東二十三県は塘沽協定によって、非武装地帯となっており、中国軍隊の駐屯を認めていなかったにもかかわらず、わが現地軍が宋哲元麾下の一小部隊の駐屯を黙認していたのが、そもそもの原因だった。中国部隊を掃討するため出動したわが飛行部隊が、誤って一弾を冀東自治政府麾下の、すなわちわが方に属していた保安隊の上に落とすと、保安隊では自分達を攻撃したものと早合点して、さきんじて邦人を惨殺したのが真相で、巷間の噂と異なり殷汝耕には全然責任なく、一にわが陸軍の責任に帰すべきものであった。

 28日、北京の東方に黒煙が濛々と立ち上がり、時に爆声もを交えていた。通州方面に何らか事件の起きたことは容易に推測し得たが、公使館区域の守備隊は全部出動ずみで、義勇隊の手によって警戒に当たっていた位だから、如何ともし得ない、さりとて少数の警察官の派遣は全然問題とならない、何とかして実情を確かめる必要があったが、事件以来一般中国人は大使館によりつかないので、思案に暮れているところへ、ハルピン時代に面倒を見たことのある一青年が、勇敢にも変装して通州に入りを敢行するするむね申し出て来た。右青年は途中で敗残兵のため川に突き落とされ、水中に数時間も潜伏するするなど幾多の冒険を冒し、二日がかりで通州まで往復して来たが、その報告で通州の惨状を知り得た。その後通州保安隊のため数珠つなぎなっていた列の中から命からがら逃れて来た安藤同盟特派員の北京帰還によって、さらに詳細な事情を知り得た。

 私としては現地の責任者でもあり、また遺族に対する立場からも、この事件の急速な解決を必要と考えた。また通州事件の真因が明らかとなれば、かつてシベリア出兵中、尼港事件に関し田中陸相の責任が大きな政治問題となったと同様に、政治問題化することが必然なので、議会開会前に現地で解決するを有利と考えた。現地の軍側諸機関の意向を打診したうえ、中央へ請訓するなどの手つづきを一切やめて、私かぎりの責任で、 殷汝耕不在中の責任者、池宗墨政務庁長と話し合いを進めた結果、正式謝罪、慰藉金の支払い、 冀東防共自治政府が邦人遭難の原地域を無償で提供して、同政府の手で慰霊塔を建設することの三条件で、年内に解決した。
 事件が日本軍の怠慢に起因した関係上、損害賠償のかわりに、慰藉金を取ったが、その金額も損害賠償金要求の場合の外務省従来の算定方式にしたがうと、一醜業婦でさえ、何十万円の巨額を受け取ることになるのに対し、前線の戦病兵士はわずかに二、三千円の一時金を支給されるのに過ぎない事情も考慮して、社会通念の許す範囲に限定した。その分配についても従来の形式的な方法を廃して、内縁の妻も正妻同様に取りあつかい、また資産ある者や扶養家族の少ない者に薄くして、実際に救済を必要とする者に多くをふりむけるなどの措置を講じた。そして将来の紛糾を避けるため、慰藉金の分配は、北京大使館に一任するとの一札を自治政府側から徴しておいた。

 ただ私にとって心残りになったのは、どうして殷汝耕の無実の罪をそそぎ、公人として再起せしめるかということであったが、関東軍の一部には銃殺論さえあったので、この問題の取扱には機微な配慮を要した。折しも西本願寺の法王が官民慰問のため華北を巡錫中だったので、その北京来訪の機会に、殉難者の慰霊祭を催し、主催者中に北京大使館、北京日本人会とならんで、殷汝耕を加え、無言のうちに殷を世間に出すのを妙案と考えた。この案については華北駐屯軍の全幅的賛同を得たが、後に至り関東軍内の強硬論につき、華北駐屯軍側からの注意もあって放棄するの外なかった。

 関東軍内における反殷の空気は想像外で、私の右計画と殷の無罪をそれとなく報道した東京朝日の河野特派員の如きは、憲兵隊の厳重な取調を受けたような始末で、私の北京在勤中には、殷のために身のあかしを立つべき好機を捕らえ得なかった。翌年四月私が北京を去った際 殷は私の好意に対し衷心から感謝の意を表して来、再会を約して別れたのだが、昭和22年の12月1日対敵通牒の廉で、南京で銃殺に処せられた。大正14年郭松齢挙兵の際、外交部長として活躍し、事志と違うや、遼河の畔、わが新民屯総領事分館内に逃避すること数ヶ月、暗夜を利して吉田奉天総領事の人情味ある取あつかいにより東北兵の重囲のうちを脱出、わが国に亡命した数奇な運命を憶う時、無限の感慨を禁じ得ない。通州政府の金庫内から出た出納簿によると、殷は日本側の志士や吳佩孚やむしろ華北において対立の関係にあった 冀察政務委員会の連中にまで、毎月機密金を支給していたが、その深慮遠謀の程を察知するに足る。ついでだが、花谷少佐の話によると、柳條溝事件の折、張学良の金庫の中から赤塚正助名義の受取りが出た。当時陸軍では赤塚との同郷関係および昭和3年暮れの満州旅行に赤塚が床次に随行した事情などから、その折床次に献金されたものと解釈していたが、真偽の程はもちろん私として保證の限りでない。

ーーーーーーーーーーーーーーー通州事件 陸軍武官・今井武夫の記述ーーーーーーーーーーーーーーー

 「支那事変の回想」(みすず書房)の著者(今井武夫)は、1937年(昭和12年)の「蘆溝橋事件」当時、中国大使館付き武官として、中国側と現地交渉をくり返し、一時停戦に貢献したといわれる人物です。

 彼は通州事件後、当時親日地方政権であった冀東防共自治政府の政務長官・殷汝耕の救出に心を砕いたことでも分かるように、日本軍関係者のみならず、中国要人にも知り合いが多く、中国側に対して一方的に日本の主張を通そうとする人ではなかったようです。だから、通州事件を、日中の全体的な関わりの中で、比較的冷静に、そして客観的にとらえているように思います。同書には、日本側に受け入れられていた通州駐屯の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)に関して、下記のような記述があります。

通州駐屯の保安隊は張慶餘の指揮する第一総隊と張硯田の第二総隊であったが、早くから秘密裡に人民戦線運動参加に勧誘され、蘆溝橋事件後日華両軍の開戦決定的となるや、冀察政府の首脳部からも強力に働きかけを受けて、内々その指導を受入れる空気になっていた。たまたま7月28日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明らかにした。

 この記述から、不満を抱きつつ最後まで日本側に妥協して我慢していた通州保安隊も、関東軍飛行隊による爆撃を受けて、一気に怒りを爆発させ、日本人襲撃に至ったのではないかと考えさせられました。
 
 また、著者(今井武夫)は、通州保安隊の反乱から逃れ、奇跡的に生還した安藤同盟通信記者が、中国農民の好意に助けられ、九死に一生を求めることができたことを取り上げています。また、それに続けて、下記のような文章を加えているのです。

”その他29日通州事件で一命を全うした日本人中には、日常中国人と親交を結び、或いは隣人の好感を得ていたため、反乱保安隊員の家探しに対し、逸ち早く中国人宅の床下や天井裏等に隠匿されて、危機を脱した実例も少なからず、中国の庶民生活に於ける相互扶助の一断面も窺い得る感じであった。

 でも、残念ながら、日本には通州事件について、
商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
とか
婦女子は子供といえども一日中次々と支那人が強姦し…”
とか
臨月の妊婦の腹から赤ちゃんを針金で強引に引き出してから輪姦…”
とか
まるで、今見てきたかのように、中国人の残虐性ばかりを並べ立てる人たちがいます。そして、あたかも全ての中国人が残虐であるかのように言うばかりでなく、それを中国人の「気質」の問題として論じている人もいるのです。私は、それは平和的な国際関係の発展や日中関係の改善にとって「百害あって一利なし」の主張ではないかと思います。

 下記は、「支那事変の回想」今井武夫(みすず書房)から抜粋しました。

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                              第一 蘆溝橋事件
通州事件と殷長官救出
 7月29日夜明けを待って、私は真先きに北平市内を一巡して見たが、冀察軍撤退後の北平は、バリケードや土嚢の防御施設が散乱していただけで、市内は至って平静であった。城内には冀察第百三十二師の二個師団を保安隊に改編して残置したが、治安と人心安定のため至急中国側の委員会を結成する必要を認め、私は29日朝松井特務機関長と協議の上、元国務総理の経歴を持ち、北平市民の間で元老的存在であった、70数歳になる高齢の江朝宗を主席とし、委員としては商務総会より代表として冷家驥(レイカキ)、銀行工会鄒泉孫(スウセンソン)、自治会呂均、市政府周履安、公安局長潘毓桂(ハンイクケイ)を推薦して、地方維持会を結成し、翌30日午後急速に成立式を挙行した。

 この維持会には、日本側からも赤藤憲兵隊長、笹井冀察軍事顧問、西田冀察政務委員会顧問等数人を顧問として派遣し、日華双方の円滑な連繋をはかった。
 又冀察政権は北平撤退に際し、初め張自忠を宋哲元委員長の代理として残置した。しかし、その後戦局の拡大するに伴い、自然に行政機能を失い、8月19日自ら解散し、張は便衣で変装の上南下逃亡し、国民政府軍の師長に就任したので、冀察政務委員会は自然消滅の運命を辿った。
 又7月30日には冀北保安総局司令石友三の指揮下にあって、北苑の兵営に駐留していた、独立第三十九旅旅長阮玄武から、参謀長張禄卿を代表として陸軍武官室に派遣し、同部隊は日本軍に対し戦意のないことを誓ったので、交渉の末、私は彼等が自ら武装解除をするよう申し渡して、天津軍に対してこれが攻撃中止を要請した。
 このため小銃五千、軽機関銃二百、山砲迫撃砲等八門を有する同旅六千の兵員は、刃に衂らず、武装解除を完了することが出来た。8月1日か関東軍の奈良部隊が同兵営に近づき、之れを砲撃する様子に驚いた阮玄武から、奈良部隊の攻撃を中止するよう要請があったので、私は同部隊の上級司令部鈴木旅団と交渉した。既に阮部隊が自発的に武装解除した後のこととて、勿論談笑裡に解決して、攻撃は中止された。
 しかし最も遺憾であったのは、北平東方数哩の通州における保安隊の惨劇であって、所謂通州事件と称せられるものである。

 尤も之れは単に通州だけに突発した事件ではなく、予て冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊が殆ど全部、29日午前二時を期して、一斉に蜂起し日本側を攻撃したものである。
 従て天津を始め、通州、太沽、塘沽(タンクウ)、軍糧城等時を同じくした各地保安隊の襲撃事件であるが、特に通州は冀東政府の所在地で、長官の殷汝耕は親日を標榜し、日本人にとっては最も安全地帯と考えられていたので、わざわざ北平から避難者さえあった程、気を許していただけに惨害が激しかった。
 通州駐屯の保安隊は張慶餘の指揮する第一総隊と張硯田の第二総隊であったが、早くから秘密裡に人民戦線運動参加に勧誘され、蘆溝橋事件後日華両軍の開戦決定的となるや、冀察政府の首脳部からも強力に働きかけを受けて、内々その指導を受入れる空気になっていた。たまたま7月28日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明らかにした。教導総隊第二区隊が中心となり、夜陰に乗じて遽かに長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、特務機関長細木繁中佐以下日本人を襲撃して、在留民380名中惨殺された者約260名に達し、鬼哭偢偢の恨みを残した。
 同地の日本軍守備隊は主力を南苑の攻撃に向かい、残留兵は通信兵や憲兵を主とした僅少な人員で前日の戦闘の負傷兵を収容していたが文字通り死力を尽くして戦った。兵舎は敵の集中砲火を浴び、集積したガソリンに引火し、死傷者の続出する中で、突入してくる敵を悉く撃退したが、衆寡敵せず市街に居留民の安全まで期し得なかったことは、誠に残念であった。
 30日午後となって、天津から急派した増援隊の到着と共に、漸く市内を掃蕩して治安を回復することができた。
 一方反乱を起こした保安隊は、通州から門頭溝に向い、 冀察第二十九軍に合一せんとしたが、途中北苑、次で西直門附近で関東軍鈴木旅団と遭遇して後退した。
 この間保安隊に連行されて各地を彷徨していた殷汝耕は、30日午後2時頃北平安定門外の鉄道駅長宅から、直接私に救出依頼の電話をかけてきたので、漸くその所在を知ることが出来た。
 丁度その直後、北平地方維持会成立式に同席した公安局長潘毓桂を説得し、城門開扉の内諾を得たので、武官室から渡辺雄記を派遣し、ひそかに安定門から城内を連行し、六国飯店に迎えて之を保護した。
 その夜北平は停電のため、武官室内は真の闇であった。
 私は些事とはいえ、この日三事件とも一応全部順調に解決したことに、心から満足した。一は北平地方維持会の成立であり、その二は阮玄武部隊の武装解除で、その三は殷汝耕の救出である。

 折から煌々と輝く月を賞しながら祝盃を挙げようと、国民新聞の特派員松井記者と一緒に、武官室の前庭に椅子を持ち出し、ボーイに命じて、暗黒の室内からビール瓶を持ち出させてこれを注いだ。最初にコップを傾けた松井が、突然奇声を発して、全部吐き出した。
 ビールと思ったのは、実は醋であったあからである。暗黒中のこととてボーイが瓶を間違えて持ち出し、之をコップに注いだのである。
 醋を飲むというのは、辛酸を嘗め、苦労することと同義語であるが、中国では嫉妬を意味する言葉である。醋字の作りの昔を廿一日と読んで三週間の鳥なぞというふざけた言葉もある。後に殷汝耕の救出は、日本浪人荒木某の手によるものとして、日本新聞に4段抜きで報道され、雑誌には当人署名の寄稿記事まで掲載された。
 又阮玄武部隊の武装解除は軍の武勲を誇張するため、日本軍隊の実力の行使によるものとして報告され、地方維持会の成立も、実情とは異なった報道となった。
 歴史を正しく把握するの至難さは、この一事をもってしても、私は自らこれを体験して思い当たるものがあった。
 序でながら一言附加することがある。この年の秋、聖旨を奉じて華北の軍隊慰問に派遣された侍従武官の四手井綱正中佐に、私は広安門事件の説明を行った。内容は当時同門を守備していた冀察軍が、城門を開扉して北平城外から城内に入城する日本軍の城門通過を容認しておきながら、城門の通過を始めた日本軍に対し、城壁と城門の上から、機関銃と小銃で瞰制射撃を加え、射撃によって日本軍隊を城門で分断した事実で、まだ戦塵の渦巻く中で有りのままを報告した。
 ところが二年を隔てて、四手井侍従武官は再び、聖旨奉戴し軍隊慰問のため大陸に派遣され、私は南京の支那派遣軍総司令部で中佐を迎えた。
 彼は私の顔を見るなり、開口一番
「今度北京に行ったら、広安門事件の戦史を北支軍司令部の幕僚から講話されたが、前年北平武官当時の君から聞いた事実譚と異なり、中国軍は日本軍の先頭部隊を入門させた上、中途で城門を封鎖して部隊を二分してから、瞰制射撃したと話したから、門は閉じられなかったのではないかと反問し、事件直後君の講話の内容を述べた。然るに講話者は、当時の事実は兎も角、現在公式には、本日報告した通りとあるから、之れに従って取り扱ってくれ」
と言ったとか。 
 同中佐も余程印象が深かったと見え、
 「歴史は一、二年で書き換えられる」
と言って苦笑していた。
 蘆溝橋事件のメモワールも世上に発表されたものが少なくないが、中には単に局部的視察談であったり、或いは他に目的をもち、偏見に基づくものもなしとしない。
 天皇に報告する事件に就てさえ斯かる実情であったから、何事も各種資料を取捨選択して正確を期すことは、歴史家に課せられた任務であろう。

事件余話
 ここには蘆溝橋事件に関連した各種のこぼれ話を摘記することとする。
○殷冀東政府長官の処置。
 7月30日午後6時半、反乱した保安隊の手を逃れて密かに六国飯店に落着いた冀東政府の長官殷汝耕は、取敢えず危機を脱し生還した喜びで一杯だったが、翌31日午前私の勧告に対し
 「通州事件は何等自分の予期せざる事であるが、自分は冀東自治政府長官たるのみならず、事件の中心部隊となった教導総隊の隊長を兼ね、直接責任者でもあるので、その責任の重大なるを痛感し、この際自己の出所進退を明らかにし度い。」
として冀東政府長官辞任の意志を明かにした。
 然るに一日隔てた8月1日天津軍からは、殷汝耕の保護を名目に、之れを憲兵隊に抑留するよう電話で命令してきた。驚いた私は軍司令部に対し、電話で
殷汝耕も亦通州事件では、日本人と等しく共同の被害者の一人とも云うべく、しかも彼は道義的に責任を感じ、既に辞任を決意して居る。
と事情を述べて、その処遇を誤らざるように説いたが、軍からは追打ちに、引続き第二次指示として電報で監禁を命じてきた。
 私は已むを得ず、その夜兎も角赤藤憲兵隊長に要請し、殷を憲兵隊楼上にある隊長私室にうつし、その取扱を丁重にするよう依頼して、爾後軍の監理に任せた。
 折よくその晩殷夫人民慧の弟、井上喬之が満州旅行から通州に帰任して、私を来訪したので彼を殷に会わせたが、井上は翌日天津軍に拘束されて仕舞った。
 8月4日になって殷より左記の如き声明を発表せんと申し出たが、拘禁中のため一応天津司令部に協議の必要あるべしと勧告し、一時之れを見合わさせた。

                                  声明文
 7月29日冀東保安第一総隊長張慶餘等反乱を起こし、無辜の在留外人を惨殺し、其の惨虐言語に絶す。
 幸いに日本軍に依り、之れを撃滅したれ共、痛心何ぞ忍びんや。今この大事変に当り何を以てか冀東700万民衆の信頼に応えん。一に不徳の致す所にして良心の呵責に堪えず。
 只善後処置に就ては、徒に不明を喞つべき時に非ず、暫く隠忍責を負い、諸般の善後策緒に就かば、自ら潔く引責し、以て罪を天下に謝すべし。

 その後殷は憲兵隊の拘禁所に移されたので、私は、時々殷を獄中に訪れ、何れ彼に対する嫌疑の晴れる日のあるべきことを告げて激励したが、彼は日光に当らないから顔色こそ蒼白であったが、別段憔悴の様子もなく 
 日常仏書を繙いて、通州殉職者を追悼している
と、話していた。
 後に殷の井上に対する談話によれば、殷に対する天津軍司令部の誤解は、冀東政府の秘書長を勤め、通州事件後唐山でその代理長官に就任した池宗墨が、殷を追い落として自ら長官たらんとする野心に燃え、種々策謀の結果によるものらしかった。
 年末に至り漸く殷に対する天津軍の嫌疑も晴れ、殷は天津軍憲兵隊長から無罪宣告の上釈放された。
爾後彼は北京に隠棲して政界と関係を絶ったが、戦後漢奸として国民政府から銃殺される悲運に陥った。

安藤同盟通信記者、通州から生還
 8月2日午後同盟通信社記者で北平駐在員の安藤利男が、通州保安隊の反乱から逃れ、奇跡的に生還した。朝陽門外に辿り着いて、城内に電話で助けを求めた時は、誰もその真実を疑った程だが、本人の声に間違いないので救助に向い城門は閉まったままだから城壁上から縄を下げて、之れを伝って救い上げることが出来た。
 安藤は㋆28日天津からの帰途通州に立ち寄り、旅館近水楼に一泊し、翌日未明宿泊客及び旅館従業員全員と共に、反乱保安隊に捕縛された。一本縄に十数人宛て数珠繋ぎに縛られて、銃殺場所に連行され、同じ在留民約100人程集まるを待って同時に機関銃で射殺される運命となった。
 丁度安藤は数珠繋ぎの一番先頭に居ったので、二番目の人との間にあった結び目を密かに解いておいて、城壁の崩れた斜面の一番高所に位置した。愈々射撃開始の瞬間に身を翻して城壁上から城外に跳躍して、高粱畑を利用して逃亡を図った。途中数回追跡され、特に一度は再びゲリラ部隊に捕らえられて番所にひかれ、銃殺されんとしたが、この時も再び高粱畑に飛び込んで逃走を続け、三晩四日絶食のまま気力も尽きて倒れ農家に救いを求めた。幸い農民の好意に助けられて食事も給せられた上、変装用の野良着とむぎわら帽子、ぬの靴に扇子まで添えて与えられ、朝陽門外まで案内人をつけて呉れたため、真に九死に一生を求めることができた。
 その他29日通州事件で一命を全うした日本人中には、日常中国人と親交を結び、或いは隣人の好感を得ていたため、反乱保安隊員の家探しに対し、逸ち早く中国人宅の床下や天井裏等に隠匿されて、危機を脱した実例も少なからず、中国の庶民生活に於ける相互扶助の一断面も窺い得る感じであった。
 

ー-ーーーーーーーーーーーー通州事件 安藤利男・同盟通信記者の記述ーーーーーーーーーーーー-ー

 通州事件当時、通州には旅館とも割烹ともつかぬ日本人経営の宿屋(近水楼)があったといいます。その宿屋「近水楼」では、十数名の日本人の女中が働いており、通州に来る日本人実業家や軍人が利用する唯一の場所だったとのことです。安藤利男・同盟通信記者は、その宿屋に宿泊中、中国人部隊の襲撃を受け、他の日本人とともに銃殺場へ連行されました。でも、たまたま銃殺の際、城壁の頂上に一番近い場所に位置したために、四、五十名の兵隊の銃が一斉に火を吹く直前に城壁のふちに手をかけ、壁面にそって滑り落ちるようにして、銃弾に追われながらも逃げ延びることができたといいます。

 その安藤記者が、下記に抜粋した文章のなかで、通州事件の原因の第一が、日本軍による「冀東保安隊」の爆撃であるとはっきり書いています。「冀東保安隊」は、日本の傀儡政権といわれる冀東防共自治政府中国人部隊です。その冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた」という事実や日本軍の爆撃にびっくりした冀東兵営は「さらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落とされたのだ」ということも明らかにしています。だから、この爆撃事件が「冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与え」、日本人襲撃に至ったというわけです。
 
 通州事件で九死に一生を得た安藤記者が、下記に抜粋した文章の最後に、

通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである

と書いていることを、噛みしめる必要があると思います。通州事件における中国人の残虐性ばかりを強調して、自らを省みない主張では、日中の相互理解や関係改善はできないと思うのです。

 最近、「なでしこアクション」(山本優美子代表)など民間団体が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産への2017年登録を目指し、「通州事件」の資料その他を申請したとのことですが、中国の申請した「南京大虐殺の記録」が、世界記憶遺産に登録されたことに対する反発のようで、抵抗を感じます。

 最近、中国だけではなく、国際通信社のロイターやカタールの衛星放送「アル・ジャジーラ」なども、日本政府が今年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の分担金約38億5千万円の支払いを「保留」しているという事実を伝える中で、中国の主張を取り上げ、「日本と中国の見方に食い違いがあるにも関わらず登録が強行されたことに対し、日本政府は国連機関に資金提供をやめると脅迫した」と報道しているのです。
 英紙ガーディアンも”Japan threatens to halt Unesco funding over Nanjing massacre listing”の見出しで、“We are considering all measures, including suspension of our funding contributions”to Unesco, he said.と、菅官房長官の分担金「保留」の発表を取り上げています。threaten=脅迫する、という言葉を使っています。
 国際世論の、こうした厳しい見方や批判的な反応があるなかで、「通州事件」の資料などを申請するのは、いかがなものかと思います。冷静な対応が必要ではないでしょうか。

 安藤記者の下記の文章は、「『文藝春秋』にみる昭和史 第一巻」文藝春秋編(文藝春秋)から抜粋しました。

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                    通州の日本人大虐殺
                                                 安藤利男
 ・・・
 さて、それではこの惨劇を起こした通州事件の原因、真相は何であろう。
 友軍の間柄であった冀東保安隊は一夜にして寝返り、ところもあろうに一番安全地帯だと信じられていた通州に、日本人虐殺事件を起こしたのだ。そこで当時おきていた数多の前後の事情のうち、第一にあげなければならないものは、冀東保安隊幹部訓練所爆撃事件である。これが日本軍の手でやられたということだから、驚いたものである。これが少なくとも直接の原因だったといってよい。事件前々日の27日日本軍が通州の宋哲元軍兵舎を攻撃した。その時一機の日本軍飛行機は、どうしたものか、宋哲元兵営でなく、冀東兵営を爆撃した。冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた。
 びっくりした冀東兵営はさらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落とされたのだ。死傷者も出た。憤激しきった保安隊幹部がすぐに当時の陸軍特務機関長だった細木中佐に抗議したのはいうまでもない。あわてたのは同中佐と殷汝耕冀東政務長官である。保安隊の幹部連はそのころにはもう、いや気がさしてちりぢりに飛び出していたので殷長官がこれを一カ所に呼び集めるのに一苦労だったという。二人は百方言葉を尽くして釈明につとめたが、結局日本軍の誤爆によるものというその一本槍のほか、説明のしようもないできごとだった。あとで聞いたところでは、この日本軍の飛行機は、天津や北京から来たものではなく、朝鮮から飛んで来たものだともいわれた。地上戦闘と飛行機の連絡がまずかったものか、できなかったものか、それとも冀東兵営と知りながら狙ったものなのか、その辺のところまで来ると当時の状況については、ついにその後も分からずじまいにされている。

 ともかくこの爆撃事件が冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与えたことは事実のようだ。この爆撃事件がなかったならば、通州事件の惨劇は生まれなかったということと、この爆撃事件を起こしたものが通州事件の張本人だという人もいる。
 冀東政府の主人公殷汝耕長官は保安隊反乱の渦中にいてどうしていたか。彼は前夜深更けまで細木特務機関長と政府建物長官室であったのち、間もなく29日午前2時頃反乱部隊の侵入を受けて、そのまま行動の自由を失った。細木中佐は宿舎への帰途、政府附近の道路上で戦死している。特務機関副官、甲斐少佐は自分の事務所前で多数の反乱兵ときりむすび白鉢巻き姿で仆れた。
 反乱の主力部隊は保安隊第一、第二総隊であった。城内を荒らしまくった反乱軍は殷長官を引き立てて通州城外へ出た。行き先は北平であった。反乱軍は北平にはまだ宋哲元軍がいるものと判断したらしく、殷長官を捕り物にして、宋哲元軍に引きわたし、同軍に合流をはかろうとしたのらしい。だが宋哲元は日本軍の28日正午期限の撤退要求のため29日未明には北平を出て保定に向かっているので、反乱軍が安定門ついた頃にはもう北平にはいなかった。反乱軍は一たん城壁の外側にそって門頭溝へ向かったが、このへんで日本軍にぶつかり攻撃をうけ部隊はこの戦闘でいくつかに分散した。
 そこで 殷長官は安定門駅の駅長室から今井陸軍武官に電話をかけ、救出された。長官を手放した保安隊は附近をうろうろしているうちに間もなく同じ城門外にあった日本人の手で、おとなしく武装解除された。それを見ると全部が全部悪党ばかりではなさそうなところもある。
 通州事件の責任者はいったい誰なのか、日本軍は当然その問題にぶつかった。そのころ天津軍は今井少佐に対し、殷氏を天津軍に引き渡すように要求していた。少佐の気持ちは反対だったようだ。しかし結局はそうなっていった。
  殷氏の体は六国飯店から日本大使館のとなりの日本軍兵営の中にある憲兵隊の一室に移され、ここでしばらく不自由な日を送ると、やがて天津へ護送され、天津軍憲兵隊本部に監禁された。北平の憲兵隊にいたとき、殷氏は、関東軍の板垣陸軍参謀長、東京の近衛公へ通州事件がどうしておきたか、「その経緯をしたためた手紙を書いて、これを殷氏夫人、(日本人)たみえ夫人の実弟にあたる井上氏に託し新京と東京とへ、飛ぶように依頼している。だが井上氏もまたある日、憲兵隊に足をいれたまま行動の自由を奪われてしまった。そこで殷氏の手紙も井上氏のポケットから、憲兵隊にとりあげられてしまった。
 
 天津憲兵隊の訊問はその年の暮れまで続いた。半年近い獄生活ののち12月27日、当時、訊問に当たった太田憲兵中佐は本部二階の一室に殷氏と井上氏、そのほか三名の冀東政府中国人職員の五名を前に、
 「天皇陛下の命により無罪」と言ったそうだ。この被告生活のうち、それでもただ一つ、温かい場面があった。たみえ夫人は、通州虐殺事件の時には、天津にいて難をまぬがれたが、その後、重病になり、もう絶望という時期があった。同じ天津にあっても、病院にねて、動きもとれぬ間、太田中佐は殷氏をソッと連れ出して瀕死のたみえ夫人の病床におくりこんだ。たみえ夫人は奇蹟のように、その後恢復にむかい、18年後の今日、殷氏は南京の中山陵附近の墓地に眠り、たみえ夫人は、日本に余生をおくっている。
 通州事件後政界から姿を消していった殷氏は、北平で終戦の年の12月5日の夜、国民政府の要人載笠氏の招きで宴会に出たままその場で捕らわれ、多くの当時の親日政客と同じように、北平の北新橋監獄に送られる身となった。そして、民国36年(昭和23年)12月1日中国の戦犯として南京で銃殺され、59年の生涯を閉じた。たみえ夫人はちょうどその一年前、北平から南京へとび、獄舎に10日ほど物を運び、つきぬ話をしてきた。それが殷氏との最後であった。
 
 殷氏が南京高等法院の法廷で述べた陳述のうち、冀東関係の部分に「自分が作った冀東政府は当時の華北の特殊な環境に適応したもので、当時華北軍政の責任者宋哲元の諒解を得ていた」と記録されている。獄中ではもっぱら写経をこととし「十年回顧録」も書いた。長杉皮靴のこの文人の、仏弟子となり最期は悠々としてりっぱなものだったことは、その忠僕、張春根さんが、墓石を据えたあと、北京のたみえ夫人に、伝えた話をきけば明らかでである。
 夫人には南京での会見の折、日華の提携の必要をあくまで説き、最後の死刑場では、
 「自分は戦犯ではない、歴史がそれを証明する」と刑吏に語り、ご苦労だった!といって悠然と世を去って行ったということである。
 張春根さんが北平のたみえ夫人にとどけた、罫紙3枚の遺書と最後の写真とは、たみえ夫人の胸にしっかりとだかれているが、夫人は「主人は刑場で遺書を書きおわってから、春根はまだ来ぬか、まだか……と待ちつづけて、ついに銃殺の時刻に、間にあわず、飛びこんだ時はこときれていた。この春根の主人につくしてくれた話を、日本の人に書いて知らせてください」とせきこむようにいっていた。
 春根さんというのは殷氏の運転手で、通州事件で、彼の主人が苦境におちいった折も、とうてい人にはできぬ働きをしている。
 殷氏の遺骸を、自分の手で葬るまで、30年のながい間、忠勤をはげんだこのひたむきな人も、中共が入ってきてからは、戦犯につくしたというかどで、激しい追及の眼にたえきれず、とうとう狂い、同じ南京で自殺をとげた。悲惨な話である。これも通州事件の余話の一つ。いつの時代でも、恐ろしいのは狂った政策である。
 通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである。
(30・8)三十五大事件

ーーーーーーーーーーーーーーー通州事件 信夫清三郎の記述 NO1 ーーーーーーーーーーーーーーーー

「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)には、通州事件に至る当時の通州の状況や民衆の意識が(一)から(六)に分けて書かれています。そのなかで、私が見逃すことができないと思うのは、通州事件に関する論考のある研究者の文章で、あまり見にすることのないアヘンやヘロインなど、「麻薬」の製造販売および密輸入の問題が、事件に影響しているという指摘です。

中国民衆の「ぎりぎりの危機感、もはや自分の生存がうばわれるという危機感、そしてそのために最小抵抗線において祖国戦争のための統一戦線を結ばせる契機になったものは、この密輸と麻薬の事件であった」
というような記述があるのです。著者は、ヘロイン製造技師として働いた山内三郎や中国のエッセイスト林語堂などの文章を引いて麻薬の問題を考察した江口圭一氏や竹内好氏の記述をもとに、
 ”通州は、日本帝国主義頽廃現象が集中してあらわれた一点であった。中国民衆の抗日意識が通州という一点において燃えあがったのは、自然の結果であり、宋哲元の指示が抗日運動を通州において激化させたのは、必然の現象であった
と結論づけているのです。また
 ”通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた
とも表現しています。だとすれば、日本人居留民の家や日本人の旅館近水楼の掠奪に、保安隊員のみならず、市民も加わっていたということも頷けるのです。
 通州事件における、中国人の日本人虐殺の残虐性のみに注目するのではなく、そうした背景もふまえなければ、事件を客観的に認識することができないのではないかと思います。
 下記の文章は、すべて「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)からの抜粋ですが、通州事件の真相を知るために、とても重要な文章だと思います。
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                        第一章 日中戦争
    6 通州事件(二)
 風見章は、新聞記者から代議士となり、やがて1937年に近衛内閣の官房長官となるが、1936年の夏、中国の視察旅行にでかけて上海や南京をおとずれた。上海で旧知の波多野乾一に会った彼は、視察の計画について相談した。波多野は外務省で中国共産党の調査を行っている中国研究の権威であり、たまたま出張して上海にきていたのであった。中国をよく知る波多野の助言は的確であった。波多野は「いまここで大評判になっている迷途的羔羊[迷える小羊]という映画劇がある、それを一つ見さえすれば、それでたくさんだ。中国の情勢というが、われわれが知らねばならぬとするところのものは、その劇にあますところなく、収められてある」といって風見を案内した。
 風見は、みての印象をつぎのようにしるした。
 「つれられていってみると、劇場は超満員であり、すでに10日以上もぶっとうしで上映されているのに、毎日このとおり、おすなおすなの盛況だとのことであった。映画は、侵略の爪を華北にのばそうとする日本が、いわゆる漢奸とむすんで、種々の陰謀をめぐらし、とりわけ、華北と満州との境界を利用する武力背景の密輸入によって、中国の民族工業を破壊し、それがため中国の労働者は職場をうしない、生活のみちをうばわれて、ひどい苦涯においこまれてしまうという筋がきであったように覚えている。とにかく中国人にして、ひとたびこの映画をみれば、だれでも、抗日のいきどおりに、むねをもやさずにいられまいと思われる筋のものであった。上映中、日本の手さきたる漢奸が出てくる場面になると、観衆ふんげきの気勢は、ものすごいうなりをたてて、場内を圧し、そのいきおいには、いきづまるおもいであった。もしも、ここに日本人ありたるとわかったなら、ただではすまされまいと、ひそかにおじけをふるわずには、いられなかったほどである。同行した日森虎雄氏のはなしによると、上海で上映のばあいには、日本に気がねして、日本の暴虐をうったえる場面が、ずいぶんカットしてあるのだとのことであった。」
 映画にでてくる「密輸人」は、民族工業を圧迫したものだけでなく、中国人の生活を精神と肉体の両面から破壊するものとしても猛威をふるっていた。その最たるものは、アヘンであった。

 近代史家江口圭一は、日本が戦争中に朝鮮、満州、内蒙古で広範にアヘンを生産し販売した事実を論証しながら、「占領地と植民地でこのように大量のアヘンを生産・販売・使用した戦争は史上ほかに例をみない。」と指摘し「日中戦争はまさに真の意味でアヘン戦争であった」と痛論し、それが中国を「毒化」した意味を次のように論断した。
 「日本のアヘン政策は国際条約と中国の国内法を犯し、中国の禁煙の努力を蹂躙したのである。日本側の唯一の名分は、中国に癮者〔中毒患者〕が存在しており、禁断の苦痛を取り除くためにはアヘンを提供してやらねばならないということであった。しかし癮者を治療しようという努力や施設は中国占領区はほとんど皆無に近く、満州国でもきわめて不十分であった。実際には、癮者のために必要であるということを口実にして、アヘンの吸煙を事実上公認し、野放しにして、アヘン禍を拡大し、中国を毒化したのである。

 重視されなければんらないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外、蔵、陸、海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。」

 山内三郎は、1929年から中国の青島でヘロイン製造の技師として働き、1933年から大連に南満州製薬株式会社を設立して医薬用エーテルの製造に名を借りてヘロインの製造を行ったが、自分の体験をもとにしるした著書『麻薬と戦争、日中戦争の秘密兵器』に冀東防共自治政府が所在する通州と麻薬について書いた。江口圭一が紹介する一節はつぎのようにしるしていた。

 「この 冀東地区こそ、満州、関東州から送り込まれるヘロインなどの密輸基地の観を呈し始めたのである。首都は通州に所在したが、この首都郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、麻薬製造が公然と行われたのである。冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった。全満州、関東州は、冀東景気で沸き返った」

 シナ学者竹内好は、1949年に書いた論文『中国のレジスタンス、中国人の抗戦意識と日本人の道徳意識』において江口圭一もとりあげた中国のエッセイスト林語堂の『北京好日』の一節に注目した。
林語堂もまた通州と麻薬を

 「いわゆる<冀東反共>政権-日本の息がかかり、その尻押しで<非武装地帯>に成立したこの政権は、北京の東数マイルにある通州にまでその管轄をひろめた。不安と、迫りくる破局の意識が、人々の心に食い入った。華北は、中国でもなく、日本でもなかった。国民政府から独立してもいず、その完全な支配を受けてもいなかった。そしてその冀東偽政権は、日本と朝鮮の密輸入業者、麻薬販売人、浪人たちにとっては楽園だった。長城をすでに乗り越えた怒濤は、毒物と密輸品の無数の支流となって、北京はもとより、南は山東、西は山西の東南部まで、日本が<東亜新秩序>と呼んでいるものの前景気をもたらしながら殺到していた」

 竹内は「これは小説の筋の見取り図であるとともに、1935年から36年にかけての、中国民衆の危機感を現在的にあらわしている」と指摘し、「その焦点は、密輸と麻薬である」と強調し、中国民衆の「ぎりぎりの危機感、もはや自分の生存がうばわれるという危機感、そしてそのために最小抵抗線において祖国戦争のための統一戦線を結ばせる契機になったものは、この密輸と麻薬の事件であった」と総括し、そのような危機感を中国民衆にあたえた日本の戦争責任についてつぎのように論じた。

 「林語堂の小説の四十一章と四十二章は、ほとんど密輸と麻薬のことに費やされているが、それを読むと、日本人は本来的に道徳感覚に欠けていて、世界市民たる資格がない、という作者の判断を、日本人である私も否定できないような印象を受ける。……もしそれが事実なら、資本の後退性だけでは説明のつかぬことで、倫理感覚の欠如という民族の深い根本の罪悪意識に触れてくる。……一歩進めていえば、今度の戦争が帝国主義の侵略戦争であったというのも、ほんとうは思いあがった判断なので、じつは近代以前の掠奪戦争であったのではないか、少なくとも、帝国主義的に偽装された原始的掠奪という、二重性格的な、特殊な日本型ではないだろうか。」

 通州は、日本帝国主義の頽廃現象が集中してあらわれた一点であった。中国民衆の抗日意識が通州という一点において燃え上がったのは、自然の結果であり、宋哲元の指示が抗日運動を通州において激化させたのは、必然の現象であった。
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    7 通州事件(三) 
 通州に駐屯していた日本の特務機関(陸軍の諜報工作機関)は、1937年7月26日、日本軍の北京・天津地区にたいする攻撃が迫ったため、通州門外の兵営に駐屯していた中国第二十九軍の部隊にたいし、「貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、在留邦人の保全と冀東の安寧に害がある」という理由で27日午前三時までに武装解除するとともに北京に向けて退去するよう要求した。
 しかし、第二十九軍はうごこうともしなかった。日本軍は、27日午前4時から攻撃を開始し、午前11時ごろまでに第二十九軍を掃蕩した。通州門外に中国軍隊はいなくなった。ところが、日本軍は、通州の中国軍隊兵舎のとなりに冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所があることをよく知らず、保安隊の隊員を第二十九軍の兵士と誤認して爆撃し、数名の保安隊員を死傷させた。特務機関長の細木繁中佐は、冀東防共自治政府の長官に陳謝し、犠牲者の家族に挨拶し賠償に誠意をつくした。北京特務機関補佐官として現地にいた寺西忠輔大尉は、日本軍が誠意をつくしたため、「保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させることはしなかったのである」としるしたが、北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、保安隊員は「関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激のあまりいよいよ抗日線の態度を明らかにした」と述べた。

 7月29日、保安隊は予定の行動に蜂起した。日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に向かっていて通州の守備は手薄であった。まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。日本軍は完全に虚をつかれた。留守をまもる守備隊の数は、寄せ集めて110名ばかりだった。保安隊の攻撃は、通州守備隊
と特務機関に集中した。守備隊長藤尾心一中尉と特務機関長細木繁中佐は戦死した。

 守備隊と特務機関のつぎには居留民が攻撃をうけた。居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。死体には鳥が群がった。性別のわからない死体もあり、新聞は「鬼畜の行為」とつたえた。陸軍省が調べた犠牲者の数は、8月5日現在で発見できたもの184名、男93名、女57名、性別不明34名であり、生き残って保護をうけたものの数は、134名、その内訳は、「内地人」77名と「半島人」(朝鮮人)57名であった。当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人104名と朝鮮人108名であり、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた。戦史家児島襄は、「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。7月30日、守備隊に増援部隊がくわわり、事件はおさまった
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    8 通州事件(四)
 通州事件は、飼い犬に手を噛まれたような事件であり、不幸な事件であるとともに不名誉な事件であった。松村透逸少佐は、陸軍省の新聞班に所属し、蘆溝橋事件が起こるとともに天津に出張してきていたが、通州事件の報に接した支那派遣軍司令部の狼狽ぶりをしるした-
 その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は、幕僚の首脳者が集まっている席上に呼ばれて、<この事件は、新聞にでないようにしてくれ>との相談をうけた。
 「それは駄目だ。通州は北京に近く、各国人監視のなかに行われたこの残劇が、わからぬ筈はない。もう租界の無線にのって、世界中に拡まっていますョ」
 「君はわざわざ東京の新聞班から、やってきたんじゃないか。それ位の事が出来ないのか」
 「新聞班から来たから出来ないのだ。この事件をかくせなどと言われるなら、常識を疑わざるを得ない」
 あとは、売言葉に買言葉で激論となった。私は、まだ少佐だったし、相手は大、中佐の参謀連中だった。あまり馬鹿気たことを言うので、こちらも少々腹が立ち、配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々たる口吻であるのが癪にさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって<よし議論はわかった。事ここに至っては、かくすなどと姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方がないだろう。保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御託しなければならない>と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。<では発表します>と言って、私が部屋をでようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。
 - かくして通州事件はあかるみに出たが、新聞は逆に「地獄絵巻」を書き立てて日本の読者を煽りたてた。

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