-NO518~

ーーーーーーーーーーーーー麻山事件 NO1 満州の野に婦女子四百余名自決ーーーーーーーーーー

 大戦末期、満州においてソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、大部分満蒙開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民でした。
 満洲国を防衛する日本の関東軍は、ソ連参戦直後に撤退を決定し、司令部をいち早く通化に移転たのです。これによって関東軍は、「開拓移民を見捨て逃げ出した」と非難されることとなりました。軍が撤退してしまった地域に残された開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民は、ソ連軍の攻撃に直面したのですから、その非難を逃れることはできないと思います。また、秘密裏に軍が撤退したこと、さらに、軍人や官吏の家族が、先に列車を仕立てていち早く避難していることなども、見逃すことのできない問題ではないかと思います。

 満洲に攻め込んだソ連軍の攻撃に直面した満蒙開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民には、麻山事件をはじめ、様々な悲劇が発生しました。

 麻山事件とは、敗戦間近の昭和20年8月12日、「満州の東部国境に近い麻山において、避難途上にあった哈達河(ハタホ)開拓団の一団がソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決」した事件のことです。介錯は四十数名の男子団員が行ったということもあり、日本人が忘れてはならない悲劇ではないかと思います。
 下記は、著者が13年の歳月をかけて書き上げたという「麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決す」中村雪子(草思社)から、「第二部 事件」の「第五章 8月11日、12日-泥濘の避難行-」の一部を抜粋したものです。開拓団の「避難行」が、どんな酷いものであったのかが伝わってくると思います。語り継がれなければならないと思うのです。
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                                第二部 事件

                              第五章 麻山 その一

4 8月11日、12日-泥濘の避難行-
 西鶏寧を過ぎるころから降り出した雨は、11日午前中は何とか小康を得たものの、午後はふたたび驟雨となり、夜にいたって沛然たる豪雨となった。
 道は満州名物の泥濘である。
 8月といいながら、北満の雨の夜は骨身にしみるほどに冷え込んだ。
 女たちはかじかんだ手に手綱を握りしめ、真黒な闇の奥に眼を据えながら、前車の轍の音をたよりに慣れぬ馬車をあやつった。
 轍の跡がつくる深い溝に車輪を落として立往生する馬車があるかと思うと、前日の空襲によってできた2メートル余りもあるすり鉢状の穴に、馬もろともに落ち込むものもあった。哈達河開拓団と行動をともにした南郷開拓団の高橋庄吉も、この逃避行をつぎのように記録している。
 「隊伍モ乱レ前馬ト後馬トノ差ハ約3里モ距リ、連絡意ノ如クナラズ且ツ暗夜ノタメ断崖ヨリ転落シ何処ノ者カ悲鳴ノミ残シテ哀レ谷間ニ落チテ負傷セルモノアリ。且ツ又破損セル橋梁アリ、為ニ前進ノ人馬共ニ之ガ修理シテ身心ノ疲労ソノ極ニ達ス」(註1 「哈達河(南郷村)開拓団避難概況報告書」ヨリ)
 故障する馬車も続出した。切れた手綱の代わりに、女たちの帯や手拭が用いられた。
 放置せざるを得ない馬車の人員を収容するために荷物が捨てられたが、しかし、収容限度をこえた馬車の足は重く、行路はさらに困難の度を増した。
 暴民に襲撃されて重傷を負った安東達美の妻(麻山にて死亡)や、避難途中、城子河(ジョウシガ)開拓団で出産した小川美枝子(麻山にて死亡)を収容してきた本部のトラックも前進不可能となった。ついに見沼団長は、現在地において一時行動を中止するという指示を出した。

 ほとんどが雨中に立ったまま、寒気に震えながら夜明けを、待った。
 雨除けのために覆った布団もぐっしょり水を含み、そのかげで、子どもたちは飢えと寒さと疲労にふるえながら無言で眼を伏せていた。
  哈達崗(ハタカン)の空襲で馬車を失った笛田道雄と応召家族の一群は、一人一人が豪雨の中を泳ぎ、泥濘の中を這ってようやくここまで追尾してきた。
 先を急ぐ避難行の中では、小休止も後尾集団が追いつくための時間かせぎにはならなかった。小休止の地点に到着した時には、すでに先頭は出発しているという状態で、彼女たちには食事をとる時間さえなかった。
 一時行動を中止する、という知らせに、彼女たちは崩おれるように膝を折り、眠りに入った。
 子供も土砂降りの雨に中にうつぶして眠った。笛田道雄の妻米子は、乳呑み児の飢えに覆いかぶさるようにしてかがんだ。
 馬車を失ったこの集団には、雨除けの布団はもとより、衣類さえなかったのである。
 そしてこの時、体力のない乳呑み児がまっさきにまいった。
 丸山キクエの一歳になる男の子が、母親の背中で死んだ。
 時々細い泣き声が聞こえていたようであったが、母親とともに豪雨と闘って、力尽きたような死であった。
 乳を飲ませてやることもできなかった─背中から、濡れたもんぺの膝に抱きとって、丸山キクエの顔は茫然と、しかしきびしく睨みつけているようにも見えた。
 
 明けて8月12日、哈達河開拓団は雨足の弱まるのを見て、ふたたび行動を開始した。
 丸山キクエも、黙々と、死児を背負って隊列に加わっていた。
 そして、これもまた昨夜消えた幼い命なのだろう、列を抜け出して道端に小さな死体を置き、毛布をかけてそっと手を合せ、ふたたび隊列にもぐり込む母親もあった。
 滴道附近で夜明けを迎えた。
 雨は上がったものの、道は相変わらずの泥濘だった。出発以来餌を与えられていない馬は、弱って足をもつれさせている。
 女たちも馬車を降りて歩こうと心がけ、道端に捨てられる荷物も数を増した。ここまで運んできた仏壇も、そして布団も捨てられた。
 やがて、昨夜の雨がまるで嘘のように、美しい朝焼けの中を太陽が昇りはじめると、たちまち大陸の炎暑がやってきた。
 30分ほどの小休止の時、笛田道雄は団長をつかまえて言った。
 「林口に着いたら汽車に乗れるのですか」
 顔を上げた団長の面に、苦渋の色が浮かんだ。
 「われわれがこの調子で林口に着くころには、林口もすでに爆撃されているだろうが……。とにかく一刻も早く林口に到着、女と子供を逃がしてやらなければ……」
 語尾はむしろ自分に向かって言い聞かせるように弱々しかった。身心ともに疲労したようすが、その語尾にも現れていた。延々長蛇の婦女子の列を引き具して行く見沼団長の心境は、ただ悲愴の二次につきる。
 昨夜から今朝にかけて、隊列は、各部落の馬車が入り混じっていよいよ混乱した。
 このころから、開拓団を追い越して国境から撤退する軍のトラック、日本兵の数がふたたびふえてきた。
 疲労困憊する開拓団の行列に「元気を出して」と力づけて行く兵隊もあり、ただじっと無言で顔を曇らせていく兵隊もあった。
 笛田道雄と女たちの集団は、またしても最後尾になってしまった。
 妻の米子が元気を装って、それぞれの間を励まして歩くが、丸山キクエも、河横貞子も、精も根も尽きたようすである。
 「家を出るとき履いて出たズックの短靴などは、とっくに履ききれてしまって足の保護には役に立たず、皮はさけ、足は傷つき、丸太棒のように腫れあがってしまった痛々しい足もあった。頸から幾条もの血を流している者もいた」
 と笛田道雄は書き、さらにつけ加えて、
 大変生意気なお願いなので申訳なく、幾度か考え抜いたのです。他の部分は抜かしてもかまいません。お願いします。お願いします。実際にこのとおりだったのです。
 実際に丈夫な足は米子と平田君子さんの足だけだったのでしたから────」(私信)
 体験者にしかわからぬ、せっぱ詰まった場面を再現してほしい。それが亡くなった者たちを生かす道であり、遺族にも知ってもらい赦していただきたい、と笛田見道雄は訴えるのである。
 あまりにも哀れな彼女たちの姿に、通りすがった及川頼治の妻よしみ(麻山にて死亡)が見かねて、作業衣ほか衣類数点を与えてくれた。
 馬車で通りかかった東区の金杉よし江(夫は応召中。奉天収容所にて死亡)が、みずからも幼い子供二人を連れ、その上、本部勤務員で未亡人の星野とき(麻山にて死亡)を同乗させながらも、河横貞子の幼い子供二人を自分の馬車に抱きとってくれた。この時は、さすが気丈な彼女たちも、他部落の人々の好意に涙をポタポタこぼしながら歩いた。
 長女を連れて徒歩で来た横関はる子を見つけて、手島金五郎の馬車に乗せてもらっている末っ子の美智子が、濡れた布団から顔をのぞかせて「母ちゃん、みっちゃん頭が痛い」と細い声で訴えた。
 横関はる子は「我慢していれッ」と怒るようにきびしくそれを押さえた。だが後に、彼女は「優しい言葉もかけてやれなかった」と後悔し、その時の幼い心細げな顔が、戦後30年を経て、いまだはる子に涙を流させるのである。
 哈達崗の空襲で馬車を暴走させてしまい、妻子を開拓団の馬車に乗せてもらった警察隊長・木村辰二も、つぎのように記録している。
 「私は哈達河を離れて以来、乗馬にもろくに餌も与えず、馬車群の前後の警戒に走り廻る任務のため、気は焦り家族には附き添ってやることも出来なかった。たまたま横を通ると昌子(長女五歳。麻山にて死亡-筆者)が「母ちゃん、父ちゃんが馬に乗って来たよ」と知らせる。妻(フサエ。麻山にて死亡-筆者)は少しやつれた顔に微な笑顔をしながら、つとめて私が心配せぬよう心遣う気持ちが伝ってくる。長男公一郎(七歳。麻山にて死亡-筆者)は妻により添って私を見つめている」(『私の65年』)
 満拓派遣の農事指導員である高橋秀雄は、家族を哈達河開拓団地域内に居住させていた。ソビエトが宣戦布告をした8月9日には鶏寧に出張中であったが、立寄った開拓団のトラックで急ぎ帰団し、哈達河開拓団と行動をともにする。
 男手の足りないこの避難行ではつねに家族と別行動をとり、トラックに乗って開拓団本部の物資輸送の任務に就いていた
 家族は妻の貞子(三十六歳)と子供たち、秀嗣(十四歳)、秀昭(十二歳)、幸子(十歳)、政子(七歳)、和子(五歳)、秀典(三歳)、久子(一歳)の7人であった。この中の母子6人は麻山で死亡し、幸子、政子の姉妹が奇跡的に救出されている。
 つぎは高橋秀雄の記録である。
 「妻はドロンコ道を子供を背負って黒川さんの馬車の馬の轡(クツワ)をとって無言で通り過ぎて行く。子供達は皆ずぶ濡れで笑いさえない。私も無言で送ってやった。
 七時間後には永遠の別れになることを誰も知らなかった」(手記『麻山の記録』)

 すでに民家も耕地も視界から消えて、行く手には、さほど高くはないが完達山脈の裾をひく山々が連なっていた。
 灌木の生い繁る中を抜けると、五メートルほどの朽ちた木の橋があり、その橋を渡ると道はだらだらの上り坂にかかった。 
 右手の野地坊主(草の密生した大小無数の土地が水の中に散在している。浮動生で北海道の釧路湿原などにも見られる)のある湿地帯の向こうには、穆棱(ムーリン)河にそそぐ滴道河が流れているはずであり、右側の山腹から頂上にかけては、日本軍の対戦車壕が掘られている。
 新しい木造の監視哨もあるが、すでに監視兵の姿はなかった。
 やがて滴道河と湿地の向うの山裾に、青竜の信号所が見えてきた。
 麻山はもう目と鼻の先であり、道は山腹を上ったり下ったりしながら、曲がり曲がってゆっくり麻山の駅におりてゆく。
 11時近く、前方の馬車がつぎつぎと停止した。
 本部のトラックが停まっていて、その横に見沼団長、福地医師、武田清太郎、馬場栄治、及川頼治が集まっており、団長の命を受けて高橋秀雄がトラックから荷物を降ろし、馬車に積みかえていた。
 開拓団の購買部から運んで来た食糧、日用品なども分配され、小銃弾も追加配分された。軍用トラックに挟まれ、馬車にもつぎつぎと追い抜かれる状態の中で、ついにトラックの放棄が決定されたのであった。
 前方に偵察に出ていた木村隊長から、伝令が駈けてくる。青校生である。
 待ちかねていた見沼団長が、つと立ち上がってそれを迎えた。
 青校生が持ち帰ったのは、「前方に優勢なる敵が進出。日本軍も待機中である。開拓団の男子はすみやかに前進し、軍に協力すること。トラックは現在地にて焼却、婦女子はただちに退避せよ」という軍からの要請、指示であった。
 前方ではすでに戦闘が始まったらしく、しきりに銃声が聞こえる。
 団長命令で、上野勝は人々を山腹に避難させた後、ようすを見るために山頂に上った。」
 「銃声は熾烈で、軽機関銃のような連発音もする。後方より日本軍の一個小隊くらいが散開体形で前進して来た。おそらく対戦車壕あたりからこの山上に展開したのだろう。」
 「向こうの高い山が匪賊か反乱軍の陣地らしく、時々迫撃砲の爆発音も低い山々に響く。今前進して行った日本軍も目標にされているのではないか」(「記『麻山』)
 状況偵察に前進する見沼団長を目送しながら、上野勝は、前方の敵は匪賊かまたは満州国軍の反乱ではないかと判断したが、この時点ではみながそう思っていた。
 及川頼治、馬場栄吉、武田清太郎らは、物資の分配を終えた後、見沼団長を追って前進した。
 まさか、後方から追い迫るとばかり思っていたソビエト軍が、自分たちを追い越して麻山に進出しているなどとは考えられないことであった。
 後に遠藤久義は筆者に「梨樹鎮(リジュウチン)から良い軍用道路ができていたから、そういうこともあり得るのだなあ」と語ったが、第一極東方面軍作戦概要図(戦史叢書『関東軍』)によると、東部国境線を突破したソビエト極東方面軍第五軍の戦車を含む狙撃軍団が、11日には梨樹鎮(リジュウチン)を抜き、12日にはすでに麻山にいたり、13日には林口に達している。
 いま 哈達河開拓団は、前方、後方をソビエト機械化部隊によって押さえられたのであった。

 前項「まぼろしの関東軍」で、筆者は滴道の野砲126連隊が、哈達河開拓団と同じく12日にこの麻山街道を牡丹江に向けて移動中で、4キロ以上にも延びた隊列の先頭はすでに麻山の部落に入り、後方の連隊行李や落伍者の一群は、まだ青竜附近の道路上を行進中であった、と書いた。
 時を同じくしてこの街道を行く哈達河開拓団も、これまでの難行軍の中で多数の落伍者を出しつつ、自然に三つの群を形づくっていた。
 まず笛田道雄の率いる応召家族たちはどうなっていたか。今までにもたびたび触れてきたように、女たちは疲れ切って、今は落伍寸前の状態にあり、最後尾を気力だけで歩を進めていた。また、先刻見沼団長から婦女子の退避、誘導を命じられた上野勝、高橋秀雄、負傷者・妊婦に附き添って来た開拓団の医師・福地靖も、この後尾集団の中にいた。
 後尾集団の約1キロ前方にいたのが見沼洋二団長、衛藤通夫小学校校長、木村辰二警察隊長を中心とする中央集団の一群で、南郷開拓団員も加えて、およそ4百余名がここにいたと思われる。
 そして「自分たちは 哈達崗の空襲でも馬をやられなかったので、どんどん先へ行くことができた」と語った遠藤久義らの率いる北大営区や東海区の応召家族たち、納富善蔵の父・吉岡寅市とその家族および畝傍区の馬車群、深渡瀬正直、見沼団長夫人、上野勝の妻菊枝の一行は、中央集団よりさらに1キロ前方に進出して先頭集団となっていた。 
     

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー麻山事件 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 昭和24年12月11日、毎日新聞が”婦女子421名刺殺、敗戦直前東安省の虐殺を参院に提訴”という見出しで、元満州国哈達河開拓団の「麻山事件」に関する下記のような記事を掲載したといいます。いくつかの誤りや混乱が含まれているということですが、

 「──日ソ開戦直後の8月9日満州東安省鶏寧県庁から哈達河開拓団本部に避難命令が発せられた
がすでに空襲により混乱の極に達し鉄道は遮断されていたので開拓団員約一千名は荷馬車で牡丹江
(ボタンコウ)に向け徹夜で行軍、12日ごろ麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が来襲、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二ー東京出身ーは最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し、”婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子十数名が銃剣をもって女子供を突き殺した。これら壮年男子はその過半
数は新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している──」

 という内容です。
 大戦末期、満州においてソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、大部分開拓移民の人たちを中心とする日本人居留民でした。ソ連侵攻当時、戦死や自決によって全滅した開拓団は十指にもおよび、一部落全滅や十名以上の犠牲者を出した開拓団を加えるとその数は数百を数え、犠牲者の数は一万人にもなるということです。自決者の大部分は女子供です。満州における悲劇の象徴として「麻山事件」は語り継がれなければならないと思います。

 哈達河開拓団の避難行では、軍の残留部隊が、ソ連軍と戦闘を交えながら撤退しつつありましたが、後退してくる日本軍をつかまえては、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛につけてもらえないだろうか」との開拓団団長の懇願をすべて拒絶し、さらに開拓団の伝令として、後方待機中の部隊を見つけて、「哈達河開拓団の者ですが、団長の命令でお願いに来ました。団員全員を安全地帯まで護送願いたい」と繰り返し頼む納富善蔵に対し、「我々の任務は開拓団の保護ではない」とはっきり断って、避難する開拓団員の保護や護衛について一顧だにしなかったことを見逃すことができません。

 また、自決する日本人に別れを告げて、哈達河に向かった現地人傭人とは別に、自ら自決を志願し、日本人とともに逝った李壮年「満人」)」という人物がいたことも、考えさせられることではないかと思います。

 下記は、著者が13年の歳月をかけて生存者の証言を集め書き上げたという「麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決す」中村雪子(草思社)から、「第二部 事件」の「第五章 麻山 その一」の「5 麻山谷」から自決に至る一部分を抜粋したものです。
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                           第五章 麻山 その一
5 麻山谷
 ・・・
 後尾集団が集結した高梁畑からさらに一キロほど前方の、三方を山に囲まれた地点を「麻山」の男たちは「麻山谷」と呼ぶ。
  二反半くらいの広さ(600坪。高橋秀雄談)の緩い傾斜地で、その右手には沢があって水が流れている。
 そこに、団長を囲んで中央集団の四百余人と、いまは数十台になった馬車が集結していた。
 そこは山かげになっているので被弾こそないものの、先刻から機関銃や迫撃砲の炸裂する音も間近に聞こえ、前方での戦闘の激しさが想像された。
 前方から一人の兵隊が走ってきた。
 落着かぬ目で「責任者は誰か」と息をはずませている。
 兵隊は「ソビエトの戦車がすでに前方にいる。わが軍も応戦しているが戦死者も多く、これ以上の前進は無理である」と貝沼団長に伝えた。この情報に、人々の顔から血の気が退いていった。
 先夜、開拓団を追い抜いて撤退していった部隊の兵隊たちも後退して来た。
 「数十台のソ連戦車と遭遇して敗れた。その戦車が今ここに来る。国境からの戦車群も来る。もう袋の鼠だ。残された脱出口は、裏山を縫いつつ、麻山を大きく迂回して林口に向かう道しかない。部隊はその方向にいく」
 と兵隊たちは言った。
 それしかあるまい。だがこの疲れ切った婦女子に、この戦闘地帯となった山中から脱出が果たして可能だろうか。それに林口も砲撃されており、日本軍は牡丹江に向けて撤退しているとも兵隊は言う。 団長は、後退してくる日本軍をつかまえては、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛につけてもらえないだろうか」と懇願するのだが、すべて拒絶された。
 「戦闘力がある兵隊が後退し、戦う力のない開拓団は一体どうなるのだろう。兵隊は何のために存在していたのだろうか。当時の私には理解できなかった」
 と納富善蔵は書いているが、すでに戦意を喪失した敗残退却中の部隊ではあっても「牡丹江に向けて転進を命ぜられている」という日本軍に、自分の願いが聞き入れられる筈もないことを団長は確認する。
 絶望していたものの、それでもなお貝沼団長は、後方待機中の部隊を見つけて開拓団の護衛を頼むように、納富善蔵を伝令として出発させたのであった。
 後尾集団の笛田道雄が退避途中で出会ったのは、この時の納富善蔵である。
 「馬二頭を選び白だすきをかけて伝令に出た。ぬかるみの道を十粁ほど飛ばして、山中に日本軍が退避しているのを見つけた。”哈達河開拓団の者ですが、団長の命令でお願いに来ました。団員全員を安全地帯まで護送願いたい”再三お願いするも聞き入れてくれない。隊長らしき人が出て来て”我々の任務は開拓団の保護ではない。気の毒だが、そのように伝えてくれ”とすげない返事であった。それでも何とかできないでしょうか、と必死にお願いしたが駄目であった。あまりにしつこいので或る兵隊の如きは国賊呼ばわりをして銃殺寸前までいった」
 「私の力が足りず、ついに兵隊の保護は受けられなかった。今にして思えばあの時寛大な気持ちの兵隊が開拓団の保護を引き受けてくれたら、あのような惨事は起こらなかったのではないどろうかと残念でならないと同時に私の力の足りなかったことに責任の一端を感じております」
 「二頭の馬もついに一頭は斃れた。肩にかけた白襷も真黒になり、流れ弾をくぐり抜け開拓団員の避難所に帰って、この旨を団長に報告する」(『麻山と青年学校生徒』)
 納富善蔵から報告を受けて団長は、「わかった」と沈痛な面もちで言葉すくなにうなずいた。
この時、すぐ上の山の斜面を、草をはね散らしながら、遠藤久義、吉岡寅市の二人が駈け降りてきた。彼らはこの避難集団の最先端を行っているはずである。
 何ごとか!
 二人とも顔面蒼白で、ただならぬ気配である。
 みなが彼らのまわりに集まった。
 二人は団長の前に立つが、大きく見開かれた目と口もとが痙攣するのみで、声にならなかった。
 「どうしたのかッ」
 鋭くうながされて、二人はようやく、前方にて突然攻撃を受け、団員多数が戦死または四散して行方不明となり、自分たちは家族一同を処置して報告に戻った旨を伝えた。

 ・・・

 遠藤、吉岡両名の報告を、終始、無言で聞き終わった団長は、納富善蔵ほか青校生二、三名を連れて、みずから偵察のために山を登った。
 この偵察地点から、直接、敵の姿は見えなかったが、銃声は前方からだけのものでなく、さらに右翼側面にも拡がりつつあり、戦場の広がりを感じさせていた。麻山にいたるこの軍用道路にも、時を経ずしてソ連戦車がやってくるに違いなかった。(事実、この時、先頭集団では貝沼団長夫人や上野菊枝らがかくれていた包米畑から何人かが軍用道路に追い立てられ、山形部落の植松慶太郎ほかが射殺されている)
 「その時団長は何を考えていたのだろう。察するに余りあります」(納富善蔵・手記)深い絶望感をその背中に見せながら「厚い唇を噛みしめ、腰に吊した軍刀をひきずる様にして斜面をおりて来た」(衛藤通夫「参議委員証言速記録」)団長を、待ちかまえていた一同がさっととりまいた。
 団長は今までに見せたことがない厳しい表情で、重い口を開いた。
 「自分たちは、今来た道を残すのみで、完全に包囲されている」
 中央集団にいた及川頼治が、記憶の中からこの時の貝沼団長の言葉を記録している。
前方にはソ連機械化部隊が砲門を開き、後方にはまたソ連戦車が迫っている。日本軍さえ敗走するこの状態の中で、脱出する道はほとんど断たれたといってよい。
 もし脱出するにしても全員が行動を共にすることは先ず不可能であると思う。
 この際自分には二つの方法しか考えられぬ。その一つは、入植以来一家のように親しんできた人達がつらいことだとは思うがばらばらになって脱出することである。
 もう一つの道は生きるも死ぬも最後まで行動を共にすることである。何れを取ったらよいか意見があったら聞かせてほしい」(『麻山の夕日に心あらば』)
 身近に迫る銃砲弾の響きも人々の耳から消え去り、<ついに来るべきものが来た!>という感慨の中で、重苦しい沈黙が人々の間を流れた。
 やがて嗚咽(オエツ)と慟哭(ドウコク)が津波のように広がって、その中から「私を殺してください」と、まず女たちが声をあげた。
 同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。
 「自決しよう」
 「日本人らしく死のう」
 「沖縄の例にならえ」
 「死んで護国の鬼となるんだ」
 そんな言葉がつぎつぎと発せられた。
 団員がそれまで肌身につけていた故郷の父母の写真、応召中の夫の写真、貴重品、さらに奉公袋などの軍関係の品も山と積まれて、火がつけられた。
 及川頼治の妻が、荷物の中から晴れ着を出して子供たちに着せ、自分もまといつつ、夫に向かっては新しい下着を取り出して渡した。
 何も語らずとも、すべて通じ合う夫婦の姿であった。
 あちこちで同じ部落の者同士が円陣をつくり、荷物を解いて白鉢巻き、白襷をしめ、沢の水で、親子、部落の人々と水盃を交わしていた。死を前にした最後のひとときである。

 木村辰二警察隊長の記録。
 「其の時まで冷静であった応召者の婦人たちは、夫の写真に頬ずりせんばかりに別れを惜しみながら火の中に投じ、燻る写真を見守り、流れる涙を拭きもせず泣き崩れる姿が私の心に強く残されている。私も管内の人々と運命を共にして此の場に於いて自決することに決めた。妻も言わず語らず既に覚悟を決めていた。
 自分も所持していた現金、時計、警察手帳など全部焼き捨てた。
(哈達崗空襲時に馬が狂奔し)家族全員が着のみ着のままになっていて、妻の乱れた髪をさばく櫛さえなく、三日二晩の強行軍と一夜の土砂降りの豪雨で、泥に汚れた惨めな姿で最後を遂げることがあまりに可哀想であっ。た。
 この哀れな妻の姿を見兼ねて開拓団の一婦人より晴れ着を与えられ、服装を整えられた。他の婦人からは死出の化粧品まで恵みを受けた」
 「お先にまいります」
 「お世話になりました」
 東海警察隊長着任以来三ヶ月を経たばかりで、いまだに顔さえ知らない人々が、つぎからつぎから挨拶に来た。
 木村辰二はその一人一人に、自分もまたすぐ後から追死することを約束するが、この時、貝沼団長のまわりに集まっていた団員の中から斬込隊結成の声が上がった。声の主哈達河小学校長の衛藤通夫であった。
 自分ももちろん自決することに賛成である。しかし男としてなすこともなく、このまま自決することは何としても口惜しい。一人でもよいから敵を倒し、それが叶わないまでも、敵の足一本、腕一本でもよい、敵に一矢報いてから死にたいというのがその趣旨であった。
 団員の間に多くの賛成者が出た。
 瞑目してそれらの声を聞いていた団長が、最後の断を下した。
 「自分としても今となっては死ぬのが最善の方法かと思う。沖縄の人達も最期を飾って自決した。捕虜となって辱めを受けるよりは自決の道を選ぶのが祖国に復帰する最善の道であると思う。しかし、男子は一人でも多くの敵を倒してから死ぬべきであるかもしれない。
 最後迄行動を共にできないのは残念だがそうすることが日本男子の義務であろう」(『麻山の夕日に心あらば』より・及川頼治)
 と言いつつ、自分は開拓団の責任者として、女、子供たちと行動をともにして、死出の途への先導をする旨披瀝(ヒレキ)した。
 貝沼団長は斬込隊長に木村隊長を要請し、南郷開拓団の桜井広人ほかと、納富善蔵ら青校生四名を自決完了までこの地の警備に当たらせるにして出発させた後、一同とともに東方を遙拝、万歳を三唱し、右手に持った拳銃でみずからのこめかみを撃ち、どうと倒れた。
 あたかも、自決の作法を示すような、また死への先導に価する従容とした姿であったという。
 「最後の決心がきまると一同団長の周りに集まりお互いに別れの挨拶を交し、十年間のお礼を言い合った。
 私に”お先に──と涙を浮かべて挨拶にくる者、中でも教え子達は真白な鉢巻きをしめて、先生、
お先に、と涙も見せず挨拶する。私は一人一人に”立派に死んでくれ、私もすぐ行くからね”と立派に言ったつもりが、かすれて声にならなかった。 
 私はそれまで携行していた学校関係の重要書類と貴重品を焼き捨てた。
 馬車から取り出した毛布をしいて一家三人その上に坐った。いまが最期と思えば腹も据わり気も落ち着く。
 妻と顔を見合わせる。妻は淋しく笑って、小さな声で”幸福な十五年でした”、悔いなき一生だった”と私はつぶやいた。それだけが二人の最後の会話になった。
 妻が最後まで手離さず持っていた振り袖を着せてもらって大喜びの数え年七歳の真知子を膝の上に抱き上げると真知子は私の耳に口を寄せて”あのね、お母ちゃんが良いところへ連れて行くって……そこには飛行機ないね”と言う。
 この三昼夜の爆撃に防空頭巾の中で怯えていた娘がいじらしくて仕方がない。
 私が本部詰めで傍らにいてやれなかったので、敵機の来る度に母親と二人でどんなに心細いおもいをしていたことか。
 十一日に私が妻子の馬車の側に来たら、私のこの娘は私を離そうとしなかった。
 そして今日はお別れだ。
 ”父ちゃんも少し遅れるけどすぐに追いつくからね”と私の銃で倒れた真知子。そして妻も胸に一発受けながら”もう一発”と叫んで倒れていった」(衛藤通夫「参議院証言速記録)

 つぎは南郷開拓団で使っていた現地人傭人の李壮年に関する記録である。これによると、これまでの危険な難行軍の途中でほとんどの傭人たちは逃亡したが、何人かの者たちが麻山まで従って来ていたことがわかる。
 この中の李壮年の場合は特殊な例であり、笛田道雄が資料探しの中で死亡者名簿によってその事実を確認している。
 前出、高橋庄吉の「哈達河(南郷村)開拓団避難概況報告書」にはつぎのようにある。
 「茲ニ至リテ之迄団員輸送ニ従事シタル満人達ヲ即刻解散サセル可ク其ノ意ヲ打明ケ、何レ捨テルベキ金品ヲ全部与エタリ。満人達ハ何レモ喜ビ謝シツツ之ヲ受ク。李壮年モ金品ヲ受ケタリシモ各団員ノ自決ヲ決セシ態度ト其荘厳サノ感ニ打タレ、一時ハ帰宅セントセシガ心ニ決スル所アリテカ自ラ自決ヲ志願ス。
 貝沼団長ハ再三、再四帰宅ヲ促シタルモ聞キ入レズ止ムナク自決ノ員ニ加エタリ。実ニ満人トハ言イナガラ団ノタメニ忠実ニ働キ然モコノ変ニ際シテモ之マデヨク団員ノ為ニ尽力シタル上、出発当時ノ約束ヲ実行セルガ如キ、実ニ日本人同様ノ精神ト全員深ク頭ヲ垂レテ尊敬ノ念愈々厚シ。
 他ノ満人達ハ全員ニ別レヲ告ゲ一路哈達河ニ向ケテ出発ス。
 貝沼団長ハ此ノ李壮年ノ自決志願ニ、僅カ二ヶ月ノ短期間、南郷開拓団ノ苦力トシテ働キシニ過ギヌニ、皆川団長ノ彼ニ対スル使イ方、且ツ他ノ満人達ニ対シテモ、如何ニ温愛情味ニカラレル使イ方デアッタカ、其ノ様ガ思イ出サレルト感嘆ノ度ヲ洩ラス」

・・・以下略


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー土竜山事件 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「日中戦争見聞記 1939年のアジア」コリン・ロス著:金森誠也/安藤勉訳(講談社学術文庫)の著者(オーストリアの新聞記者として活躍)は、かつて滞在したことのある満州の佳木斯(チャムス)と千振を再び訪れる満鉄展望車の中で、開拓移民として最初に哈爾濱(ハルピン)から松花江を汽船で下り、佳木斯に上陸した農民の一人であるという日本人隣客に声をかけられ、話を聞いています。
 その話の中に、「わたしたちは塹壕掘りと土塁づくりから始めました。なぜならこの地方にはそのころ盗賊がうようよしていたからです」というのがあります。だから、満州人村の隊長王(ワン)の相互援助の取り決め提案を受け入れたと語っています。問題を感じるのは、その後の次のような話です。
しかし3月になると、もっと状況は悪化しました。盗賊の隊長射文東(正しくは謝文東)は、日本人移住者を根絶するため4000人の武装集団を結成しました。彼ははじめ王を自分の仲間に引き入れようとしました。しかしこれに失敗すると、王一味を夜襲し殺害しました。その後彼はわたしたち日本人に鉾先を向けました。幸いにもわたしたちは事前に警告を受けていました。タイミングよくわたしたちは13万発の弾丸とともに6丁の重機関銃を入手できたので、これを中心に堅固な陣地を築きました。敵の包囲は70日つづき、食料も不足しはじめたころやっと日本軍一大隊が救援にかけつけてきました
 この日本人開拓移民の農民は、自分たちがあたかも「無主地」に入ったかのような話をしているのですが、彼が言う「盗賊」は、ほとんど農地を奪われ、家を追われた地元の農民であったことを見逃してはならないと思います。
 開拓移民の人たちは、満州の土地がどのようなかたちで自分たちのものになったのか、という経過を知らなかったのかも知れませんが、1932年の満州国の建国以来敗戦時に至るまで、一貫して満州への日本人農業移民事業の主導権を握っていたのは関東軍であり、開拓移民団の入植地の確保にあたっては、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させて、その土地を安い価格で強制的に買い上げ、日本人開拓移民を入植させる政策をとったことを押さえておく必要があると思います。
 下記の文章でも明らかなように、軍が強引に土地の接収を進めたために、地元農民が蜂起したのであって、農民蜂起部隊を率いた「謝文東」は、正義感が強く、立派な人物で、住民の信望も厚く、この地方の中心的存在だったといいます。、「謝文東」を中心とする農民蜂起部隊は、その後「民衆救国軍」として、各地の抗日部隊と協同して戦っているのです。
 下記は、『近代日本と「偽満州国」』日本社会文学会編(不二出版)からの抜粋ですが、こうした歴史の事実は、日本人の視点からだけでは、客観的にとらえることが難しと、改めて感じます。
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                       第一部 『幽因録』から「残留孤児」まで
                             大虐殺と抗日戦争

土竜山農民の抗日蜂起                                                      孫継英

一、起因
 1934年3月の<偽>三江省(以下<偽>とするのは、「満州国」に関わるものを示すー訳注)依蘭県土竜山の農民による抗日蜂起は、東北地方が占領下におとしめられていた14年間の歴史、ひいては中国の近代史においての一大事件でした。それは孤立して発生したものではありません。日本帝国主義がわが国東北地方に対して行った、軍事占領と移民による侵略に対抗して起こった、抗日民族解放闘争を構成する一部分であり、東北地方人民による日本帝国主義の侵略への反抗の歴史において、重要な位置を占めるものです。
 1931年、日本帝国主義は陰謀によって起こした「九・一八」(以下「」は省略)事変を口実として、わが国東北地方に武装侵入して占領し、日本の独占する植民地と化しました。その次の年さらに、溥儀を首班とする<偽>「満州国」傀儡政権をでっちあげ、東北地方人民に対する軍事ファッショ統治をいっそう厳しいものとしました。しかし英雄的東北地方人民は不屈であり、各階層の民衆は次々と旗を掲げて立ちあがり、異民族の侵入・支配を攻撃する抗日武装闘争や、いろいろな形の反日闘争を展開しました。日本帝国主義は植民地支配を強固にするために、抗日義勇軍にたいする気違いじみた包囲討伐や、民衆の反抗闘争の鎮圧を行いましたが、それのみではありませんでした。わが国東北地方へ移民という形の侵略をすることを「国策」としてきめ、日本の在郷軍人を中核とした特殊な農業移民、すなわち武装移民を入れることによって、東北地方人民を押さえつけ、経済面での略奪を強め、ソ連への侵攻を準備し、ならびに日本国内の階級矛盾を緩和させることを妄想しました。
 第一次武装移民(492人)と第二次武装移民(493人)は、1933年の2月と7月に、それぞれ、抗日武装闘争が活発であった<偽>三江省樺川県孟家崗と依蘭県七虎力河右岸(後に湖南営に移る)にはいりました。後者は、土竜山も所属する依蘭県第三区(太平鎮)の管轄にありました。

 土竜山(トウロンシャン)は太平鎮から10華里(1華里=500メートル:訳註)以上離れています。その一帯は依蘭・樺川・勃利の三県が境を接する所に位置し、土地は肥沃、農耕に適し、大豆を大量に産し、欧米に多く売り、依蘭県境で最も富んだ地方でした。そこの土地が開墾され始めたのは民国初期のことです。九・一八事変のころには土地はすでに比較的集中されており、多くは中小の地主で、各戸180垧(シャン)(東北地方では1垧=1ヘクタール:訳注)を所有、2、300垧を保有する大事主は少数でした。地主の小作に対する搾取も苛酷なものではなく、小作料は一般的には土地の善し悪しによってきめ、あるものは2-8、あるものは3-7でした。土竜山の人民は祖国を熱愛していました。 九・一八事変があってからは自警団を結成して故郷を守り、さらには騎兵軍団を組織し、李社らが率いる吉林自衛軍と協同して抗日戦を戦いました。自衛軍が壊滅させられた後も武器を捨てることなく、駝腰子金鉱の工員、□宝堂(□致中)を首班とする明山隊や、自衛軍の生き残った人たちによって組織された亮山隊は、ずっとその一帯で活動を続けました。(□は示偏:「祠」「禊」などの「示」の部分と、邑:漢字の旁、「郡」「部」などの右側の「阝」よりなる漢字です)
 1934年1月、日本の関東軍はこの一帯への武装移民を続けて導入するために、依蘭・樺川・勃利など六県において大規模に耕作地の徴用を始めました。買い上げの価格は、熟地(よく耕作された土地:訳注)か荒地を問わず、一律に1垧当たり1元の計算でした。当時の依蘭県の土地価格は次のとおりです。上等の熟地1 垧当たり121.4元、中等の熟地-82.8元、下等の熟地58.4元、上等の荒地-60.7元、中等の荒地-41.4元、これを見て分かるように、まさしく無償で奪い取ることとなんら違いがありませんでした。さらには強制的に土地所有証明書を提出させ、それを拒む農民にたいしては高圧的な手段をとり、はなはだしきは実弾を込めた銃を持った兵士に農民の家を調べさせ、壁を突き破って中に隠してあった土地所有証明書を奪わせました。それと同時に民間にあった銃の強制提出をさらに厳しくしました。農民にとって土地は命の根源であり、生存のための基盤であり、また銃は生命・財産を守る自衛の武器です。土地と銃を失うことはいっさいを失うことと同じであり、農民が屯匪と呼ぶ日本の武装移民団からの、襲撃や陵辱を受ける可能性が常にあることになります。普段から日本侵略者は苛酷な課税や暴虐な行為を行っており、貧乏な農民が八方ふさがりの状態にされただけではなく、地主や富農も致命的な脅威にさらされました。地主・富農も農村における政治・経済の支配力を失おうとしていたのです。このようにして、空前の規模の農民による抗日武装蜂起は、避けられない状況となっていました。

二、経過
 ここにおいて、「山雨来たらんと欲し、風、楼に満つ」時を迎え、土竜山地区の各種民衆の政治勢力は積極的な活動をするようになっていました。それらは主として三つあります。一つは、もと抗日東北軍にあって生き残った人たち、すなわち李社の率いる吉林自衛軍の生き残り、また一つは、当地の一部の保甲(自警・相互監視の組織:訳注)の長および地主・富農、もう一つは、中国共産党の一部分の党員が組織する反帝大同盟です。先の二者は互いに密接な連絡をとりあっており、主導的な役割を果たしておりました。三番目のものは数も少なく力も弱かったのですが、宣伝・扇動の点では大きな影響を及ぼしていました。武装蜂起の機を醸成する過程において、五保甲長の井振卿と二保役員の曹子恒は最も活動的でした。かつて李社の自衛軍で土竜山騎兵軍団第二団団長をしたことがあり、五保役員兼自衛団長である謝文東は、蜂起の始まりの時点では相当にためらっていましたが、比類のないほどに憤激した群衆に推されるに至り、共に抗日蜂起に加わりました。
 土竜山農民の抗日蜂起は1934年3月9日に始まりました。事前にきめた計画のとおり、蜂起した農民の隊伍は太平鎮の東門の外に部隊を集結し、太平鎮に攻め入り<偽>警察署の20余名の警官の武装を解除しました。10日、太平鎮の西、白家溝において、伏兵を置いて、日本の関東軍第十師団六十三連隊長飯塚朝吾大佐の率いる日本軍、および<偽>警察隊を迎え撃ち、日本軍飯塚大佐・鈴木少尉など17名を殺害しました。
 12日、多数の部隊からなる日本軍の増援により、太平鎮をふたたび占領された後、土竜山農民の蜂起部隊は半裁河子に撤退し、そこで軍編成会議を開き、謝文東を総司令官に、井振卿を敵前総指揮官に推挙しました。蜂起部隊に名前をつけ、民衆救国軍としました。保をもって単位とし、6つの大隊に編成し、総勢2000余人でした。
 そうした後、民衆救国軍は各地に人を派遣して、抗日部隊と連絡をとりました。□宝堂率いる明山隊など、依蘭や近隣の県境にある抗日山林隊が相次いで加わり、協同して戦いました。民衆救国軍の名は高まりました。
 3月19日、民衆救国軍の第五大隊第二中隊は九里六屯において、進攻してくる日本軍平崗部隊を待ち伏せ攻撃して勝利を収め、日本軍の80名近くを殺傷しました。民衆救国軍は20余名が死傷しただけでした。
 その後、日本軍は撤退しました。民衆救国軍の主力部隊は、4月初め土竜山地区をとり戻しました。11日払暁、孟家崗の日本武装移民団が侵攻しました。敵情がよく分からず、また組織戦にふなれなため、利あらず、民衆救国軍に3、40人の犠牲が出ました。日本軍と移民団にも死傷がありました。
 駝腰子金鉱を攻めとった後、民衆救国軍は5月1日夜、湖南営の移民団に攻撃を仕掛けました。 その戦闘で敵前総指揮官井振卿は壮烈な戦死をしました。それは民衆救国軍にとって大きな痛手でした。周雅山が総指揮官に任命されました。
 こうした時期、敵<偽>当局は、日本の関東軍が3月末に土竜山地区を撤退して以後、単に武力のみで農民蜂起部隊を鎮圧しようとする方法を改め、政治的には脅かしあるいは誘惑し、軍事的には重包囲して攻撃するという、両面を同時に行う方法をとり始め民衆救国軍を孤立・分化・瓦解させました。謝文東たちは二度にわたり人を派遣して、関内(中国本土:訳注)に行って連絡をとらせましたが、どちらもうまくいきませんでした。さらに謝文東たちは抗日闘争をあくまでも行なおうという意志に乏しく、敵の進攻を前にしてますます無為無策となり、民衆救国軍をしばしば頓挫させ、部隊の人員を大量に減少させました。5月下旬、謝文東は部隊の一部を率いて東方の虎林に行こうとして、越境を阻止されました。7月下旬となって土竜山をふたたび奪い返された時には、民衆救国軍は300余人が残っているだけでした。9月、謝文東は部隊を率いて依蘭・来才河・四道河子、そして第二区一帯で活動しました。10月初め、民衆救国軍は西に向かって進んでいた時、樺木崗で突然日本軍に襲撃され甚大な被害を受けました。謝文東はたった10余名の部下と共に囲みを破って脱出し、依蘭県吉興河の山奥の密林に逃げこみました。

三、意義
 内外を震撼させた土竜山農民の蜂起は、七ヶ月の間続きました。その主たる指導者である謝文東は、政治面で明確な反日綱領を欠いており、軍事面では消極的な守りの姿勢であったために、短い時間で敵に鎮圧されてしまいましたが、しかし蜂起は非常に大きな意義があるものです。第一に、土竜山農民の抗日蜂起は、日本帝国主義の東北地方にたいする植民地支配に重大な打撃を与えました。それは日本の移民侵略を頭から一喝するものでした。農民の大蜂起が起こる前は、わが東北地方にたいして移民侵略という「国策」を強力に推し進めていた日本の関東軍は、ずっと東亜勧業株式会社を実行主体として使って、日本の武装移民団の必要とする土地を略奪してきました。土竜山農民の抗日蜂起は、日本の侵略者を震撼させました。そして敵の陣営内部でも熾烈な論争があり、それを経てついに方針を改め<偽>「満州国」傀儡政権が表面に出て移民侵略の用地を略奪し、また<偽>軍を出動させて農民の抗日蜂起を鎮圧するようにしました。以上のことから土竜山農民の抗日蜂起は、中国の大いなる農民の陵辱を忍ばざる反抗精神を表現するものであり、またその巨大な闘争力量をはっきりと示したものであり、東北地方の各界人民の抗日闘争史に光輝ある1頁を書き記すものであると、明らかに言うことができます。
 次に、土竜山農民の抗日蜂起は、時期として、東北地方の抗日義勇軍の主力がほとんど壊滅させられ、また中国共産党の指導する抗日遊撃隊、および抗日連軍がいまだ創建の段階にあった時、すなわち東北地方の抗日闘争全体が低調であった時に起こりました。それは日本の侵略者が唱える「満州全体の治安はすでに確保されている」という妄言を、事実をもって打ち破ったのみでなく、中国共産党が1933年の「一・二六指示文書」で提起した、広範な抗日民族統一戦線を結成するべきだとする方針の正確さを、実践をもって証明したものであり、そうすることによって、全面的な日本帝国主義に反対する民族解放闘争を強力に推し進めました。地主・富農階層の利益を代表するものであった謝文東、土竜山農民の蜂起が短時間にして失敗してから後、完全に行動を止めたわけではありません。抗日連軍指導者の具体的な援助のもと、その抗日部隊はふたたび力を回復して拡大し、ついには東北抗日連軍第八軍を作るまでになり、東北地方の抗日遊撃戦争に相当な貢献をしました。謝文東は後に、東北地方の抗日闘争が最も困難となった段階でふたたび動揺し、敵に投降しましたが、そのことに関しては、謝文東個人や歴史状況の各方面からみて、原因を探るしかないでしょう。(上條厚訳)




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー通化事件の真実ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 通化事件に関しては、中国共産党八路軍の違法行為や残虐行為ばかりを指摘する人が多いように思います。しかしながら、当時通化にいた一般の日本人の多くは、「共産軍に攻撃をしかけなければ日本人は殺されることはなかったのに」と、日本人の「無謀な反乱」にくやしさを噛みしめていたといいます。その一言が、この事件の真相を物語っているように思います。

 敗戦後、満州各地では、日本軍が支配していた地域をめぐって国民党軍と共産党軍が戦争をくり返しました。ソ連参戦後に、関東軍が司令部を通化に移転したこともあって、通化には大勢の日本人が集まっていましたが、その通化で、国民党軍と共産党軍の勢力が激しくぶつかり合い、進駐してきていたソ連軍が通化を去るころには、国民党にかわって共産党の八路軍が通化をほぼ支配下においていたといいます。でも、共産党の方針に不満をいだく日本人も少なくないため、国民党軍はそうした日本人と手を結び通化を奪い返そうと密かに動いていました。そんな状況下、通化事件が起きたのです。
 それは、中国が祖国を取りもどし、はじめて迎える正月のことです。戦争に負けた日本人が、それも正月に、再び共産党八路軍の司令部を攻撃するなどということは、一般の中国人や日本人には、考えられないことだったのではないかと思います。

 「通化事件」が日本で報道されたのは、昭和27年12月4日で、厚生省復員局の調査がきっかけだったようです。下記は、当時の朝日新聞の記事ですが、「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明(新評論)の著者は、この記事が事実を正しく伝えていないことを指摘しています。

 【福岡発】昭和21年2月満州で日本人多数が虐殺されたと一部に報道された「通化事件」について、引揚援護庁と外務省で4年間にわたり調べた結果詳しい内容が判り、2日同事件の合同調査のため来福した引揚援護庁復員局吉田留守業務部長は福岡県庁で次のように発表した。
 ・昭和20年8月ソ連の参戦とともに満州各地から避難したものなどで通化市内の日本人は3万名以上に上った。同年9月進駐した中共軍の日本人に対する虐殺暴行はひどく、元百二十五師団参謀長藤田実彦大佐らが中心になって元軍人、邦人などを集め中共軍諸機関を攻撃する計画を立て21年2月3日を期して攻撃を決行、400名のうち大部分が戦死した。
 中共軍は日本人男子は15歳から60歳まで、女は攻撃に関係あると思われるものなど合計約3000名が投獄され、その大部分が処刑されたとみられる。
 ・いままでに判った死亡者は約1190名で、死亡公報の済んだものは72名、帰還者は863名である。

 司令部を通化に移転していた関東軍は、本国からの命令に従い、8月16日、自ら武装解除を進めました。ところが、第百二十五師団の参謀長であった藤田大佐が、命令に反抗して行方を眩まし、元軍人や仲間を集めて、共産党八路軍司令部その他を攻撃をしたというのです。藤田大佐は国民党が組織した軍政委員会の軍事部長になっていたということも見逃すことができせません。敗戦後6ヶ月近くが経過していたのに、藤田大佐は「決起指令書」発し、攻撃を実行したのです。それが、事件と関わりがなく、帰国を心待ちにしていた大勢の日本人を巻き込む結果となり、冒頭の「共産軍に攻撃をしかけなければ…」ということにつながるのです。

 通化事件に関する下記の文章は、「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明(新評論)から抜粋しました。

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                                三 虐殺
日本人の無謀な反乱
 ・・・
 敗戦当時、 通化にいた関東軍の主力は第百二十五師団で、藤田大佐は参謀長という作戦を指揮する責任者だった。しかし、大佐は無条件降伏の命令にはんこうしてゆくえをくらました。
 そのころ、たしかに通化は共産党軍の支配下にあった。しかし、国民党のスパイたちは、八路軍にたいする日本人の不満を利用してまき返しを図ろうとやっきになっていた。当然藤田大佐やもと軍人たちとのつながりもあった。柴田大尉の衛生隊や航空隊のなかにも、こうした勢力とつながりを持とうとする動きがあった。絶望的ななかでわらをもつかもうとする血気にはやる人たちもいた。
 一方八路軍側はこうした国民党のスパイや、彼らに協力する日本人を残らず取り除きたいとその機会をねらっていた。……… こうした異なる立場のそれぞれの人たちの期待が、むぼうな藤田大佐を中心に、通化の日本人たちをひさんな事件にまきこんでいった。

 大人たちの話をまとめてみると、こうだった。

-----2月3日午前4時、決起隊が変電所をしゅうげきした。電気を3回つけたり消したりして攻撃の合図を送り、そのあと全市を停電させた。一方、市内を見下ろす玉皇山(ギョッコウサン)に向かった一隊は、頂上で合図のノロシを上げた。

 攻撃の目標は、八路軍司令部や満州国宮内庁の重要人物が収容されている公安局、もと通化憲兵隊あとの監獄などだった。うわさどおり、柴田大尉の衛生隊と航空隊の何人かが反乱軍に加わったという。さらに、市内にひそんでいたもと日本兵や血気にはやる若い人たちのほか、おどかされたり、だまされたりして参加した人たちもいた。しかし、銃などはほとんどなく、武器は日本刀やオノ、棍棒だったという。決起隊は、すでに情報をつかんでいた八路軍の銃弾の前になすすべもなく倒れた。

 通化事件の第一幕は、こうして終わった。
 だが第二幕の主役は、息をひそめてただひたすら帰国の日を待ちつづけていた無力な日本人たちだった。八路軍はあやしいと思われる日本人をかたっぱしからつかまえた。逮捕された日本人は3000人をこえた。死亡者の数は発表する機関によってまちまちだったが、その後の八路軍の発表によると、銃殺された人を入れて1200人をこえるといわれる。
 二道江の社宅からも大勢のひとたちが逮捕され、ひさんなさいごをとげた人もいる。逮捕された人たちは、初め二道江国民学校に連れていかれた。逃げないようにふたり一組にして、背中合わせにしばられたという。3日間、食べ物を与えられず、なぐられたりけとばされるなどきびしい取り調べを受けた。
 父が仲人をした林業課のイイズカさんのおじさんが、そのときのことを話してくれた。
 「となりの教室から、調べられている人の悲鳴が聞こえてくる。板の間にせいざさせられて、事件のことを知っているだろうと聞かれる。知らないと答えると、木刀でようしゃなく打ちすえられる。ごうもんにたえかねて、二階の便所から逃げ出した人がいた。ところが、いっしょに便所に行っていた人まで、おまえが逃がしたのだろうといわれて、ぼくらの見ている前でうち殺された」
 イイヅカさんは、さいわい疑いがはれて帰宅を許されたが、さらにそこから通化へ連行された人たちも大勢いた。
 「うぐいす台」で長女のユキコと同級のタシロさんのお父さんも、その途中で殺された。きびしい寒さのなかで、お父さんはしだいに体力をすり減らし、くずれるように雪のなかに倒れたという。
 「そのとき、うしろのほうで銃声が…」
 父の大学のこうはいのマヤザキさんのおじさんも、そのなかにいた。おじさんはきせきてきに許されて、連行されたときの雪道をたどり二道江にもどってきた。
 「何人かの人といっしょに、タシロさんがうたれた場所をさがしました。ようやく、雪のなかにうずもれているタシロさんを見つけると……、ひどすぎる……」
 ヤマザキさんは声をつまらせてメガネをふいた。
 「何者かに洋服やくつをはぎとられ、ハダカ同然の姿になって……」
 なにしろ3000人もの日本人が逮捕されたのだから、留置場もひさんをきわめた。
 「まったく、あれはジゴク……ジゴクそのものです。何百人という日本人がせまい留置場に押しこめられ、身動きひとつできない。そのうち、飢えと寒さで気がくるい、大声でわめいたり泣きさけぶ人たちがでた。そうすると、パーロ(八路軍)が窓から銃の先を向けて、だれかれかまわず無差別に発砲を始める。まったく生きたここちがしなかった。……ほら、これがそのとき、弾にうたれて死んだとなりの人の返り血ですよ」
 ヤマザキさんのおじさんはそういって、そでについている黒っぽいしみを指さした。

 当時、公安局に監禁されていた満州国皇帝の弟、溥傑(フケツ)の妻浩(ヒロ)は、『「流転の王妃」の昭和史』(「主婦と生活社)のなかで、そのときのもようをこう記している。

 私たちは、穴だらけ、破片だらけの、この公安局の部屋で、零下30度の寒気に慄えつつ一週間も暮らさねばならなかった。窓から見ると、川岸に一人ずつ並べられた日本人が、後から射殺される姿がみえ、その銃声をきく度に私の顔は苦渋に歪んだ。服をはぎとられた後、その死体は川に落とされるのである。凍った川の上には、そんな死体がごろごろ転がっていた。銃殺は、二日間続き、凍った死体は数日後に荷馬車に積まれて、どこかに運び去られていった。

 2月9日、だまされたりおどされたりして事件に参加した日本人およそ1000人が許されて留置場から出されることになり、政治委員の杉本一夫があいさつに立った。
 「これまで、君たちはどれだけ中国人に申しわけないことをしてきたか。日本がこうさんしてから、中国の民主政府は君たちをどうあつかったか。君たちに仕事をあたえ、こまることがあれば援助の手をさしのべてきたはずだ。なぜ、君たちはぜんぴをくいず、国民党特務の孫耕暁や藤田にそそのかされて反乱を起こしたのか。こうした恩知らずのこういは、一日本人としてはずかしく思う」(『彼らはなぜ中国で死んだか』)

 最高責任者の孫耕暁(ソンコウギョウ)は国民党側のパイプ役、ナンバー2の藤田大佐は軍事面の責任者だった。孫は事件の前日逮捕され、暴動のさなかに処刑された。取り調べには杉本も立ち会った。杉本は命令書のほんやくにあたり、共産軍のなかで国民党とつながっている者の洗い出しをした。そのなかに、航空隊の小林、鈴木両中尉の名前があり、兵隊に命じて逮捕に向かわせた。
 藤田大佐は事件のよくじつ、民家の天井にかくれているところを朝鮮義勇軍によって逮捕された。藤田とともに関係者30人あまりが天井にひそんでいたという。
 事件のあと、『通化日報』が共産党の呉政治委員に「反乱の真相」をインタビューした。政治委員は事件の真相を見ぬいていた。
 「日本との8年間におよぶ戦いで、国民党は日本人のワナにはまり、ひどい目にあわされてきた。敵は国民党をたたいたり、だきこんだりする政策をとった。だが、今度は日本人が国民党にしてやられた」
 その後、通化市内のデパートで事件に関する武器や命令書、ビラなどが展示された。そのなかに、航空隊の林少佐が事件の関係者におくったとされる軍刀があった。
 藤田大佐は、首から札を下げてすわらされ、見物人に頭を下げ謝罪していたという。札には犯した罪が記されていた。
 こんな無謀な暴動さえ起こさなければ、無実の人たちが殺されることはなかった。関東軍の参謀長という、いわば作戦を立てる責任者までした人が、いったい何を考えていたのだろう。こりかたまった考え方をかえることはむずかしいとしても、なぜ冷静に兵力のぶんせきができなかったのだろう。
 二道江の日本人たちは、にえくり返る思いでそのうわさを聞いた。その気持ちは通化の中国人も同じだと思う。うばわれた国土が日本の降伏によってようやく取りもどすことができた。2月3日は、その記念すべき最初の正月だった。その日、またしょうこりもなく日本人が攻撃をしかけてきたのである。
 あの朝日新聞の記事では、藤田大佐は「中共軍の日本人に対する虐殺暴行」に立ちあがったえいゆうのように見える。
 記者は、中国がふたつの勢力がはげしくぶつかりあう内戦のただなかにあったことを見落としている。共産党軍と国民党軍は、まさに「殺すか殺されるか」の戦いの真っただなかにあった。どちらかのグループと手を結び反乱を起こせば、きびしい仕返しにあうのは当然といっていい。つまり、「中共軍の日本人に対する虐殺」は、内戦相手の国民党と手を結んだ日本人にたいする報復だったのだ。

 あとから話を聞くと、事件当時、共産党軍の主力部隊は通化市をはなれて作戦を展開しており、きょくたんに手うすだった。残っていたのは、自分から入隊を希望して兵士になった朝鮮義勇軍の兵士が大半で、それも400名ほどだったという。ほとんどがまだ十分に訓練されていない戦争の経験のない兵士が多く、当然、日本人にたいする恐怖心もあったと思う。だから、反乱が起こった当初は、日本人を針金でしばったり、ひどいごうもんを加えたり、上司の許しもえずその場で銃殺するなど、らんぼうな行動が目立った。のちに司令部がその事実を知り、きゅうきょ「銃殺中止命令」を出したという。しかし、それまでに銃殺された人のなかには、事件に関わりのない人たちも大勢いた。その間、事件のえいゆうは、天井裏に息をひそめてかくれていたのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー通化事件 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 通化事件(つうかじけん)は、敗戦後の1946年2月3日、中国が祖国を取りもどし、初めて迎える正月に、一部日本人が武装決起し、中共軍の司令部やその他の拠点を襲撃たため発生した事件である、といって間違いはないと思います。

 中国共産党占領下にあったかつての満州国通化省通化市で、元通化第百二十五師団の参謀長、藤田大佐が決起指令書を発し、中国共産党軍の拠点を襲撃したため、中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(新八路軍)が、襲撃に関わったと考えられる3000人ともいわれる日本人(一部中国人を含む)を虐殺した事件です。でも、日本では下記のように

「中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった」

と、中国人の残虐性を並べたてて、それが日本人の武装決起につながったのだというようなことを言う人たちがいます。でも、こうした受け止め方は、少々事実に反するように思います。

 藤田元大佐が、武装決起の指令書を発した時、何を考えていたのかは知りません。でも、日本が降伏し、関東軍が武装解除された後に、藤田元大佐の指令を受けて、一部の日本人が再び武装決起し、中共軍の司令部やその他の拠点を襲撃したことが、残虐な通化事件のきっかとなったことは否定できないと思います。
 中国人が日本人に大変な恨みを抱いていたことは、農民などを中心にした抗日組織があちこちにあったことや、通化の街で、15日を境に、中国人の略奪が始まったことなどでわかります。そうした中で、無条件降伏した敗戦国の日本人が再び武装決起し、拠点を襲撃したことが、火に油を注ぐ結果になったのではないかと思います。

 関東軍総司令部に正式に降伏と停戦の命令が伝えられたのは8月16日の夕方。関東軍はそれを受けて幕僚会議を開き「即時停戦」を決定しています。そして傘下の部隊にそれを伝達したのです。にもかかわらず、藤田大佐は、「関東軍命令をきかない」と、草地作戦参謀に電話をし、師団の公金や食糧を車に積み家族を連れて逃亡したといいます。なぜ、関東軍山田乙三総司令官の決定を受け入れなかったのでしょうか。国民党と手を結べば、日本の無条件降伏を取り消せるとでも考えたのでしょうか。藤田元大佐の武装決起の指令は、当時の国際情勢や日本の実態、日本人居留民の逃避行の状況などを考慮した判断とは思えません。

 私は、藤田元大佐の決起指令を、「中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかね…」と受け止めることには、無理があると思います。8月16日の時点で、藤田大佐が日本の無条件降伏による関東軍の「即時停戦」命令を受け入れなかったこと、その他の事実が、「暴圧に堪えかね…」ということが決起の直接的な理由ではなかったことを示しているように思うのです。
 そして、多の人が巻き添えでなくなったことを考えると、見通しのない勝手な判断だったと言わざるを得ないと思います。
 当時、通化の日本人の多くは、中国人の略奪などに対し、自警団を組織し、警備小屋を作り、鉄条網を張り巡らし、夜を徹して見張りをたてたりして、不安に怯えながら帰国の日を待ちつづけていたといいます。
 だから、「共産軍に攻撃をしかけなければ日本人は殺されることはなかったのに…」という言葉に表現されているように、藤田元大佐を中心とする一部日本人の「反乱」が、多くの日本人には、くやしいことだったのだと思います。 

 下記の文章は、「通化事件 共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言であきらかにする」佐藤和明(新評論)からの抜粋ですが、著者は、「秘録大東亜戦史」(富士書苑)の満州編下巻の中の、「通化幾山河」と題された山田一郎の文章をもとに書いたといいます。それを一部抜粋しました。
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                    序 通化事件の全貌
 通化、敗戦前夜
 昭和20(1945)年5月。白い柳の綿毛が空を飛びかい駅頭に鈴蘭の花売りが現れる頃、通化の街に緊迫した空気が漂いはじめていた。どこからともなく関東軍の大部隊が通化に移動してくるという噂が広がり、今までに例を見ないほど多くの人たちが招集されていった。
 その頃、関東軍は最後の事態に備えるため、ひそかに「光建設」と名づけた徹底抗戦計画を進めていた。この計画は、本渓湖煤鉄公司(ホンケイコウバイテツコンス)、昭和製鋼所、それに通化市郊外の二道江にある東辺道開発を合併させ、二道江の山岳地帯に溶鉱炉四基をもつ製綱施設を建設し、武器弾薬を自給する一方、対ソ開戦に備え、関東軍の兵員を牡丹江からハルビン、新京を経て奉天に至る線上に配備し、主力を通化を中心とする東辺道に集結させるというものだった。

 6月に入ると、また通化に新しい部隊が到着した。招集によってあたらしく編成された伊万里(佐藤註:今利)中将率いる第百二十五師団である。この師団の参謀長が藤田実彦大佐だった。藤田はかつて華北戦線で鬼戦車部隊長として名声を馳せたといわれ、市民たちは親しみをこめて「髭の参謀」と呼んだという。
 やがて7月がくると、三度目の招集が通化の街を駆け抜けた。しかも軍命令で、、出発は全て極秘のうちに行われた。
 8月9日午前2時。通化の街はすさまじい爆撃音で夢を破られた。午前6時のラジオはソ連空軍の爆撃だったことを伝えた。8日、ソビエトはわが国に宣戦布告し、9日未明にかけてソ満国境全域にわたり侵攻を開始した。
 不安のうちに9日の夜があけ、関東軍の特別列車が通化に到着した。総司令山田乙三大将、総参謀長秦彦三郎中将が幕僚を従え、満州国軍兵舎跡に総司令部を置いた。同じ日、司令部より少し遅れて、政府諸機関が皇帝溥儀とともに通化に近い大栗子(ターリーズ)に居を定めた。司令部に続いて各部隊が通化に集まり、通化市を中心に5万の兵の集結が終わった。
 兵隊で膨れあがった街へ、さらに1万人の避難民がなだれこんできた。第一陣は10日の夜から11日にかけて、新京・寛城子地区の関東軍司令部将校と軍属の家族500人。
 14日、前線に近い通遼方面から約300人。15日、同方面の第二陣120人。つづいて白城子(ハクジョウシ)方面から老人と女子供3000人。9日未明、西部国境の白城子は爆撃と同時にソ連軍戦車の猛攻撃を受けた。男たちはソ連軍に立ち向かうため全員残留した。老人や女子供たちは途中、何回となく中国人の略奪にあい、着のみ着のままで逃れてきたのだった。その後も、貨車やトラック、あるいは徒歩で避難民が通化に押し寄せた。桓仁方面から800、柳川(方面400)、臨江方面から3000とつづき、その数1万3720名、通化在住の日本人を上回っていた。

 関東軍、終焉の日 
 混乱と焦燥のうちに運命の8月15日がやってきた。よく晴れた暑い日だった。
 関東軍司令部では夜を徹して作戦会議が開かれていた。終戦派と抗戦派の妥協なき論争も、山田総司令官の「天皇のご聖断に従う」との一言でようやく終止符が打たれた。
 翌16日、東京へ向かう予定の皇帝溥儀は、奉天飛行場でソ連軍に逮捕された。
 15日を境に無政府状態に陥った通化の街のあちこちで、中国人の略奪が始まった。その最も大きな暴動は20日、満鉄社宅街を中心に起こった。
 翌21日、「日本人居留民会」が結成され、自ら生命の安全を守るため自警団を組織した。
 ところで、8日のソビエトの対日宣戦布告から関東軍が通化に司令部を移動させ敗戦を迎える15日前後は、同一の事件が本によって「発生日」が異なっており、その未曾有の混乱ぶりがよく分かる。「通化幾山河」も、特にこの時期に混乱が見られるが、巻末に添付した「通化事件関連表」の試案では、事実関係を次の通りとした。
・10日前後から、関東軍総司令部、満州国政府、通化に移転を始め、兵5万の集結をはかる。
・12日、山田乙三総司令官、松村知勝総参謀副長ら、飛行機で通化へ
・13日、皇帝溥儀、特別列車で新京を逃れ翌日、大栗子に到着。
・14日、山田総司令官、秦総参謀長ら、飛行機で新京へ向かう。
・16日、関東軍、全幕僚会議を開き「即時停戦」を決議、各部隊に通達。
・17日、第百二十五師団、最後の部隊長会議。藤田参謀長、停戦命令に激昂、同日、藤田逃亡。
・18日、皇帝溥儀、退位式。
・19日、溥儀、通化を飛び立ち、奉天飛行場でソ連に拘留される。
そして、山田総司令官は9月5日、部下30名とソ連軍機で新京を出発、ハバロフスクに到着したのは同日7日とした。

不安におののく日々
 さて、混乱が極点に達した8月23日正午過ぎ、ソ連軍500名が特別列車で到着、関東軍の武装解除を開始し、翌9月1日までに全てを完了した。
 一方、満州各地では国府軍と中共軍の武力衝突が頻発し、やがてそれは規模を拡大しながら通化にも波及してきた。
 敗戦と同時に通化市は国民政府の統治下に入り、旧満州国軍と旧満州国警察官を主体とした国民党軍が通化市の治安に当たっていた。指導者の孫耕暁(ソンコウギョウ)書記長は、元満州国通化省地方職員訓練所長などを務めていたという。

 ところが、ソ連軍に影のように従って通化に入ってきた中共軍は、協力して「日本兵狩り」を行い、ソ連軍が撤収する9月1日、2日以降、通化省憲兵隊跡に八路軍編成司令部を置き、公然と活動を始めた。
 中共軍の最初の仕事は、旧満州国通化省の高級官僚を粛正することだった。通化省長楊万次(佐藤註:楊乃時)、同次長菅原達郎を筆頭に、河瀬警務庁長(佐藤註:川瀬)超通化市長、林副市長、河内通化県副県長らが逮捕され厳しい訊問を受けた。粛正の火の手は官界から民間に移り、日本人の事業主や商店主に対する金品の要求が行われた。この頃から、日本人が日本人を密告するという悲しい事態が起きたり、中共軍の命を受けて日本人をスパイする日系工作員などが生まれた。
 10月中旬、共産軍(中共軍)は国府軍(国民党軍)の本部を急襲し、武装解除を行うとともにその一部を共産軍に編入した。それから間もない23日、華北戦線で日本軍と戦った毛沢東直系の正規軍一個師団が入城した。竜泉ホテルに司令部を置き、劉東元が司令に就任。また元省公署跡に専員公署を置き、陳専員が行政を担当した。通化は完全に中共軍の手中がに握られた。

 しかし、一方では米軍の援助を受けた国府軍が東北奪回を狙って軍を進めているという噂も伝わり、失地回復をはかる国府特務団の工作が活発化してきた。国府軍側の狙いは、中共軍を内部から崩壊させることと、旧関東軍を中心に日本人の武装決起を促し、共産軍を攻撃させることだった。
 11月、中共軍の指導で「遼東日本人民解放連盟通化支部」(略称日解連)が組織され、竜泉ホテルのコックだったという笹野基が支部長に就任する。日解連は中共軍の命令で、日本人の財貨を集めて再配分する「平均運動」を進めようとした。とうぜん財閥といわれる層は猛然と反対した。中共軍はその報復として、日本人に南大営への移動命令を出した。ここは、以前、満州国の兵舎があったところで、敗戦直後は関東軍司令部として使われていた。携行品は毛布一枚と500円しか許さないという。厳しい寒さを控え、日本人に「死ね」というに等しい命令だった。結局、必死の嘆願が実を結び、命令は延期されたが、この頃から日本人の地下運動が活発になり、反乱の動きが次第に現実みを帯びてきた。
 市街では国共両軍の小競り合いが頻発した。10月末の戦闘は3日間も続くなど、日本人の不安は頂点に達し、様々なデマが飛びかった。日本人の不満分子と抗戦派の利害は、国府軍と完全に一致したようだった。とうぜん、これらの不穏な動きは、日系工作員を通じて中共軍に報告されていた。日本人不満分子、国府軍、中共軍ーーーこれら三者は、思惑こそ違え、皆一様に元第百二十五師団参謀長・藤田大佐の行方を探していた。旧関東軍の抗戦派や反乱を企てていた民間人にとって、指導者は彼をおいていなかった。すでに国民党遼寧政府から通化支部に対し、藤田を「軍事委員会顧問」に就任させるとの指令が出ていた。
 一方、中共軍側にとっても、日本人不満分子の精神的支えとなっている藤田の存在は不気味だった。間もなく、八路軍(中共軍)は通化にほど近い石人の炭鉱に家族とともに潜入していた藤田を逮捕した。

「天皇陛下万歳」事件
 11月4日。通化劇場で開かれた「日本人大会」には、朝からの雨をついて2000名以上の日本人がつめかけた。それは、藤田大佐が現れて演説するということが併せて伝えられていたからだった。藤田の人気を利用して日本人大会を開き、その場で藤田に共産軍への強力を呼びかけさせる。これが、劉東元司令が描いた筋書だった。
「いまや人民軍によって治安は回復され、着々と解放の実は上がりつつあります。われわれ日本人としても、その治安下に保護されている限り、軍に協力する義務があると考えます」(前掲「通化幾山河」)
 藤田の演説は抗戦派の期待を裏切った。
 しかし、その時、信じられない事態が起こった。来賓として出席していた共産軍・劉司令の面前で、「宮城遙拝」と「天皇陛下万歳」の動議が採択され、興奮した一部の日本人が壇上に駆け上がり「天皇制打倒」のビラをむしり取った。
 中共側から見ると、この失態を招いた責任者は日解連の指導者であり、とうぜん日本人に対し徹底した思想改造を断行するようにとの厳命が下った。藤田はその日から竜泉ホテルの一室に監禁された。
 そんな矢先の11月14日、通化市郊外の二道江に駐留する八路軍第二団を、国府系の混成軍が襲撃する事件が起きた。八路軍は接収した満州製鉄の製鉄工場に軍工部を設置し、兵器を製造していた。ここには、藤田大佐の息がかかった旧今利師団の将兵100人ほどが潜入していた。襲撃したのは旧満州国軍、警察官、日本兵の混成軍約600名。奇襲は一時的には成功したが、救援軍の逆襲を受けて敗走した。
 通化劇場の「天皇陛下万歳」事件に続く二道江の「八路軍襲撃」事件は、日本人の立場をいよいよ不利なものにした。

国民党と日中連合政府を
 その頃地下組織を作っていた元居留民会代表・寺田山助、赤十字病院としての存続を許されていた元関東軍野戦病院の軍医・柴田大尉らは、藤田大佐救出を画策していた。
 そんなある日、八路軍の司令部から、看護婦を派遣するようにとの要請があった。柴田は、それが藤田つきの看護婦であることを、通化のマタ・ハリといわれた佐々木邦子から聞き、柴田婦長を派遣した。柴田婦長と佐々木邦子にリレーされて、牢獄の藤田と抗戦派の連絡が順調に進み、藤田は国民党の「軍事委員会顧問」に就任し、獄中で反乱軍の指揮をとることになった。11月下旬、中共軍に投降した旧関東軍の航空隊400名が通化飛行場に飛来し(佐藤註:12月下旬隊員は300名)、つづいて戦車隊が到着した。間もなく航空隊の林少佐や戦車隊長は、抗戦派の寺田らに説得され、彼等の計画に加担することを約束した。

 12月6日、国民党の孫耕暁書記長、書記で軍事委員の劉清字、寺田山助、佐藤弥太郎の4名は、国民党の密使・近藤特務工作隊長を迎えた。近藤は工作費10万元と密書を持参した。それは国民党と日本人による臨時日中連合政府を通化に組織するため、かねてからの計画通り武装決起せよという内容だった。近藤はさらに蒋総統は将来、東北四省の独立を考えており、通化の臨時政府は東北政府に発展していくとつけ加えた。
 暮れもおし迫った12月30日午後7時、藤田大佐は中共軍司令部のある竜泉ホテルからの脱出に成功した。満州製鉄東辺道支社に勤めていた栗林という男の家が作戦本部に充てられ、藤田の手であらゆる情報が整理・分析された。
 当初の決起計画と決まった1月1日は15日に延期され、さらに2月3日未明に断行と変わった。これは、予定していた15日に先立つ10日、中共軍による日本人の大量検挙が行われたためだった。高級官吏や居留民会、それに中共軍の手足となって働いていた日解連の幹部らをも含む140名もの人たちが逮捕された。そして、1月21日、河内通化県副県長ら4名が銃殺された。

電灯が三回点滅した──
 決行を明日に控えた2月2日─通行禁止を知らせるサイレンの音が、定刻の8時を過ぎても鳴らなかった。街に大きなぼたん雪が舞い落ち、15、6センチもの深さに積もった。その雪のなかで、藤田から航空隊・林少佐への作戦指令書が途中、中共軍の便衣工作隊に奪われた。
 反乱計画の全貌を知った劉司令は直ちに全市に緊急警戒をしき、栗林家にいた藤田や国民党の指導者たちを次々に逮捕した。しかし、反乱軍は総帥藤田の逮捕を知らなかったのである。サイは投げられた─。
 2月3日午前4時。玉皇山に狼火が上がり、変電所に柴田大尉他3名が突入し、電燈をパチパチパチと3回点滅させた。
 第一中隊長佐藤少尉以下150名をはじめ、第二、第三中隊、遊撃隊は、中共軍の司令部や専員公署、県大隊などに向けて一斉に攻撃を開始した。凄まじい喚声が轟き、激しい銃声が全市を包んだ。
 特に被害がひどかったのは専員公署を襲撃した佐藤中隊だった。中隊150名のほとんどは抜刀隊だったという。ここには、先の1月10日に逮捕された140名が収容されていた。
 「佐藤少尉を先頭に喚声を上げて150名が雪崩を打って斬り込むと、待ち構えたように正面玄関に据えた軽機が火を吹いた。ばたばたと倒れる屍を乗り越えて殺到するなかへ、つぎからつぎに手榴弾が投げ込まれて炸裂する」(前掲「通化幾山河」)
 こうして、第一中隊はほとんどが戦死という壊滅的な打撃をうけて敗走した。さらに悲劇的なのは、自らの意志に反し専員公署の獄舎につながれている人たちだった。中共軍の軽機や手榴弾は、武器のないこれらの非戦闘員にも向けられ、全員が非業の死を遂げた。この日の戦闘で、反乱軍の戦死者の総数は200名を越え、重軽傷者の数はさらにそれを上回っていた。
 恐怖の一夜が明けて、中共軍の日本人に対する取り調べは苛酷を極めた。16歳から60歳までの男子全員が逮捕され、その数は3000名以上に達した。監禁は防空壕や穴蔵、倉庫などあらゆる場所にわたり、「大小便はもちろん垂れ流し」という身動きもできない状況であった。声を出すと銃弾が打ち込まれるなど、それは「生きながらの地獄絵図」であったという。留置中に虐殺されたり凍死や病死した者200名、反乱の事実を自供して死刑にされた者200名など、戦死者を除いて死者は躍600名にものぼった。

 ……通化の街に暖かい風が吹きはじめた3月半ば頃、市内の目抜き通りにある玉豊厚百貨店で、通化事件戦利品展覧会が開かれた。襲撃に使われた日本刀や竹槍などの展示品のなかに、藤田大佐と孫耕暁が並んで立たされていた。藤田は3日間、人々に向かって頭を下げ、「済みませんでした」、「申し訳ありませんでした」とつぶやいたという。
 間もなく藤田は獄中で死んだ。病名は急性肺炎だった。
 4月、長白山の雪解けの水が奔流となって渾江を流れる頃、川面に固く凍りついていた何百もの犠牲者の遺体が、下流へ押し流されていった。
 そして、またあの8月15日が巡ってきた。そんなある日、中共軍の命で日本人大会が通化劇場で開かれ、引揚げ開始が報じられた。食糧10日分、現金一人当たり千円、衣類二組、寝具一組が許された。
 9月2日。新通化駅から第一大隊1200名が第一陣として出発した。それから8日までの7日間、14本の列車が通化を後にした。
 ぼくたち一家8人も通化第一陣のなかにいた。所属は、通化第一大隊第二中隊第一小隊四班だった。
・・・(以下「宇佐見晶『贖罪』のこと」略)



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