-NO514~517
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー満州・葛根廟事件ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「満州の風」(集英社)の著者・藤原作弥氏は、劇団四季がミュージカル化したノンフィクション『李香蘭 私の半生』の著者としてよく知られているのではないかと思います。そして、その「李香蘭」は、戦前アジア銀幕のスターとして活躍し、戦後は本名に戻って日本映画でも活躍、さらには政治家として国政にも関わった山口淑子氏ですが、藤原氏は彼女から直接「私の"他伝"を書いてくれませんか」と声をかけられ、二年がかりで『李香蘭 私の半生』を書き上げたといいます。

 山口淑子氏は、『李香蘭 私の半生』を”スターの物語”としてではなく、”自分がなぜ日本軍の対中国・満洲政策に利用されたのか”ということ、さらに戦後、平和を願う政治家として”外交にどう関わってきたのか”ということを明らかにするために、世に出したいという強い思いを持っていたといいます。
 依頼のきっかけは、藤原氏の『満州、少国民の戦記』社会思想社・教養文庫(1995年12月)であったようです。藤原氏には、たった一日の違いで、葛根廟事件に巻き込まれることをまぬがれ、興安街を脱出した過去の記憶があります。だから、自身の満州生活を思い起こしつつ『満州、少国民の戦記』を書いたようですが、それが満英女優であった李香蘭=山口氏の目にとまり、個人と国家のアイデンティティー追求をテーマとした『李香蘭 私の半生』の発行につながっていったということです。

 下記は「満州の風」藤原作弥(集英社)から、「葛根廟事件」に関わる部分を抜粋したものですが、「私の満州体験と五百羅漢寺-まえがきに代えて」のなかで、著者は「…さまざまな満州体験を聞き進めていくうちに、個人としての満州体験にとどまらず、国家としての満州体験 ―――― 、つまり中国大陸を舞台とした日本の昭和史に思いをいたすようになった。国家としての満州体験とはもちろん、葛根廟のような被害者としての体験だけではない。加害者としての反省や教訓をも踏まえた歴史的追体験である」と書いています。そして、「葛根廟事件と私」のなかでは、さらに踏み込んで「その私も侵略者の子だったのだろう」と書いていることに、私は注目しないわけにはいきません。
 また、戦争によって、日本から遠く離れた満州の地で、千人をこえる婦女子を中心とした避難途上の日本の民間人が、ソ連戦車軍団によって、まるで虫けらのように殺された事実を忘れてはならないと思います。戦争中とはいえ、不問に付されてよい事件ではないと、私は思います。

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                            Ⅰ 満州・葛根廟事件
                                殺戮の草原
□…葛根廟事件と私
 旧満州(現・中国東北部)の興安街(中国名・王爺廟、現・鳥蘭浩特:ウランホト)時代を語るには、終戦直前、同市郊外のラマ寺院・葛根廟の草原で起きたソ連戦車軍団による日本人避難民に対する大虐殺事件を避けて通るわけにはいかない。
 私たち一家は幸いソ連軍侵攻の前日に興安街を脱出することができたが、逃げ遅れた大勢の人々がホロコースト(大量虐殺事件)の犠牲になった。その中には学友の多くが含まれている。残留孤児になった学友もいる。
 生き残った私には絶えず後ろめたさがつきまとった。戦後、三度に渡りウランホトを訪れたのも、単なる懐旧旅行ではなく、葛根廟事件の現場で慰霊の法要を執り行いたかったからである。
 ・・・

□…事件の概況
葛根廟事件を伝える貴重な資料の一つに佐村恵利著『ああホロンバイル - 元満州国興安総省在留邦人終戦史録』(以下、「終戦史録」と略)がある。
 同書や関係者の証言によれば、ソ連参戦後の興安街在住邦人の疎開対策(俗称、興蒙対策)は、全邦人を北方の音徳爾(オンドル)にひとまず避難、集結させることを目的としていた。もちろん、この「興蒙対策」は関東軍や陸軍興安軍官学校学生隊による護衛を前提条件としていたが、興安地区在留邦人が唯一の頼りにしていた関東軍第四十四軍三個師団は、新京司令部の命令により8月10日いちはやく、しかも秘密裡に新京、奉天方面に撤退してしまったのである。
 満蒙からの引揚げ者たちが、いまだに関東軍を恨んでいるのは、在留邦人の保護、救出もせずに敵前逃亡したことと、それにより民間の日本人が随所で大惨劇に遭遇したことが、最大の理由となっている。もう一つの頼みの綱だった軍官学校学生隊は、ソ連侵攻とともにモンゴル兵士の反乱を起こし、逃亡した。
 
 興蒙対策は疎開団を、居住地域や職場所在地別に三班に分けた。第一班=興安街西半部「高綱行動隊」(総省公署関係者が居住する興亜区。千二百名。総指揮者、高綱信次郎協和会総省副本部長)。
第二班=興安街東半部「浅野行動隊」(建国区、大同区、康徳区、合作社関係者および電信電話局職員。千三百人。総指揮者浅野良三旗公署参事官)。第三班=東京荏原開拓団および仁義仏立開拓団 - の三班である。このうち葛根廟事件の犠牲になったのは、第二班、興安街東半部の浅野行動隊千三百名だった。私たち一家も、もし8月10日のあの貨物列車に乗れず、11日以降に興蒙対策にもとづく集団避難に加わったとすれば、官舎・興安荘が興安街の東半部に属していたので、その「浅野隊」の隊員として確実に葛根廟事件に遭遇していただろう。
 その一日違いの事実だけからも、私自身も殺されていたかもしれないと言い得るし、また十分の一(千三百人中百数十人が生還)の確率で生存したとしても、残留孤児になっていた可能性がじゅうぶんある。

 西の「高綱隊」は8月10日午後1時から避難を開始した。私たち軍官学校職員家族避難団百五十名も、同日午後3時の貨車で脱出した。このように興安街の邦人脱出は10日から始まったのだが、東の「浅野隊」のみ行動が一日遅れて11日午後からとなったのが不運の始まりだった。全員が集結地のウラハタ畜産試験場に顔をそろえ、点呼が終わったのは12日朝のことである。
 「浅野隊」はなぜ遅れたのか。興蒙対策にもとづいてかねてから用意していたはずのトラックや馬車を、いちはやく遁走した関東軍に徴発されてしまい、「足」がなくなったからである。ようやく馬車が一台見つかったので10歳以下の幼児と老人と病人を乗せ、若干の食糧を積み込むことにした。
 総指揮者の浅野良三参事官は千三百名の婦女子を徒歩で音徳爾まで誘導するのは困難と判断し、計画を変更した。興安駅の隣の葛根廟駅に出て、そこから汽車に乗り新京方面に脱出することにしたのである。そのため列車を葛根廟駅に回すよう配車要請すべく白城子駅に騎馬伝令隊を派遣した。だが、その伝令は帰ってこなかった。浅野参事官は待つのももどかしく、とにかく歩き始めなければならないと決断し、14日早朝、行軍を開始した。
 千三百名の疎開団を七中隊に編成し、それぞれに中隊長を任命した。中隊長には守田電話局長、小山国民学校長ら興安街の要人を据え、それぞれの中隊に小銃を持った成人男子10名程度を護衛として配置した。浅野参事官は七中隊の「七」にちなんで「七生報国隊」と命名した。「葛根廟駅ないし白城子駅からは汽車にのる。それまではつらいだろうが歩かなければならない。七生報国隊の同胞諸君、全員頑張って日本目指そう。出発!」
 『終戦史録』の「遭難の細部状況」は次のように伝えている。

 <8月14日未明に出発したが、給養の不良と睡眠不足のため難民の大部分は心身ともに疲労し、逐次隊伍も乱れ、行動は遅々として進まず、幹部各中隊長は隊員掌握に苦慮しつつ前進を続けた。葛根廟裏の丘陵地帯に到着した時は、すでに行動長径は5キロ以上も延び、中隊の建制も乱れ、全般の掌握も不可能に近い状態であった。ここにおいて改めて態勢を整えるため、先頭を葛根廟西側峡谷地に停止せしめ、後続者収容の措置を講じた。
 満州国内におけるラマ教三大廟の一つ葛根廟は明清時代の建立、モンゴル民族崇敬の的で、広大な敷地を有していた。興安街から直線距離35キロの地点、浅野隊が遭難した盆地の西寄りに廟の寺院群が駆逐艦のような巨体を大草原に横たえていた。葛根廟とは、広寿寺、広覚寺、梵通寺、慧通寺、霊廟、本殿、活仏の庵居などの総称である。
 前日の雨があがり、夏の太陽が強く照りつけていた草原の夏草からは陽炎が立ちのぼり、人々はその中を暑さにあえぎ、ゆらゆらと移動していくかのようだ。盆地の中は粟畑になっている。


 『終戦史録』の記述は続く。
 <当時、移動群の大部分は、葛根廟丘陵地頂上部の低地内にあり、四周の展望は不可能であった。また敵機は常時上空に飛来していたが、特に攻撃を加えることもなく、且つ、地上の敵軍についての情報は皆無であったため、特別な警戒処置も講ぜず、もっらぱ落伍者防止に専念していた。かくの如き状況下、不意に敵軍の攻撃を受けたもので、瞬時にして山頂部は収容すべからざる大混乱に陥った。時に8月14日午前11時40分。
 敵軍は十数輌よりなるソ連戦車軍団で、その攻撃はきわめて烈しいものであった。避難隊中の男子が護衛のため銃器を携行していたため或いは日本軍と誤認したのではないかと判断されるほど激烈なものであった。このため浅野参事官は、先ず敵の猛攻の的となり戦死、続いて戦闘力のある男子は次々に倒れ、次いで敵戦車は、混乱その極に達した婦女子の集団に対し約1時間にわたり反復攻撃を加え、更に我に抵抗意思なしと見るや、車輌より下車し、逃ぐるを追い白刃をふるい或いは重傷に倒れた者を刺殺する等徹底した殺戮を行った。ために戦場より一旦離脱した者の中にも負傷等で爾後の脱出不可能と判断し自決して、相果てた者も多数に及んだ>

□…大櫛少年の記録
 ・・・
 大櫛氏は当時17歳。昭和18年満州電信電話学校を卒業して大連中央電報局に勤務、19年9月に興安電報電話局に転勤になった。千三百名の大部分は婦女子だったが、重要な連絡網を最後まで守り、ついに放棄せざるを得なかった守田局長以下50名の電話局員は数少ない成人男子で、小銃で武装し七つの中隊の護衛の役を引き受けていた。
 大櫛少年ら四名は志願して七つの中隊の先発隊を務めていた。たるみきった糸のような集団の後続隊が追いついてくるのを待って先発隊が一休みしている時である。
 
<黄塵の列が後の方から蜘蛛の子を散らすように乱れはじめ、それが徐々に手前まで拡がってきた。「何だ。何だ」。考える間もなく「敵襲だ。見ろ。戦車じゃないか。戦車がやってきたぞ」。破れんばかりに眼をむき出した山田の指さした丘の稜線を見た。と、山田の怒鳴る声がまだ終わらないうちにダッダッダ、ババーンと烈しい機銃の音が聞こえてきた。丘の稜線ににょっきり現れた戦車は単なる黒い塊のように見えた。機銃の音にはじかれたように後続の戦車の群が丘の斜面を散っていく>
 
 大櫛少年は最初、この戦車群を満州国軍のモンゴル人兵士の反乱と勘違いしたらしい。そして、銃を構えて戦車の方に突進していった。しかし、稜線には後から後から、次から次へと戦車が現れてくるのを見て戦慄に体が揺れた、。
 <もう先頭の戦車は百メートルほどの近さになっていた。それは今までに見たことのないような馬鹿でかい大砲を、角のように長く突き出していた。鉄の塊は機関車のようだった。砲塔の上に積んである機銃や砲の下の機銃から凄まじい音と閃光を吐き出しながら猛牛のように迫ってくる。丘の斜面一帯は機銃のけたたましい音。機銃弾のうなり声、戦車のエンジンの轟音とキャタピラの軋む音にまじって、逃げ迷う人々の悲鳴と泣き声、その光景は滅茶苦茶な修羅の巷と化していた。不意に真っ黒な戦車が小山のように眼の前にのしかかってきた。戦車の掩蓋から身を乗り出すように構えた敵兵の顔が見えた。眼と眼が電光のようにかち合ったと思った>
 ・・・

□…二人目の目撃者
 実は、浅野隊の遭難者ではなく、この惨劇を遠くから目撃していた日本人が17名いた。旧陸軍二百九部隊の斥候隊員14名と、旧百七師団七十八連隊所属の3名の伝令兵である。
 斥候隊員の根本俊男さん(埼玉県行田市、医師)の目撃談によれば、<ソ連戦車軍団は、山道を一列縦隊で進軍し、丘の頂上でいっせいに横列に展開しました。そのままトボトボと歩く避難民をやり過ごすかに見えたのですが、その瞬間、戦車軍団はなだれのように全速力で襲いかかったのです。子供も女も関係なく、押しつぶしました。助けたくても軽機関銃と手榴弾だけでは、どうしようもありませんでした。犠牲者の冥福を祈るばかりです>
 また、別の場所から同事件を目撃した伝令兵、菅忠行さん(奈良市、著述業)は、次のように述べた。
 <中国人姿に変装したわれわれ3名の伝令は、原っぱを歩く危険を避けるために、丘陵寄りの方向に進路を変えて東進しました。やがて緩やかな丘の稜線に出た時です。突然、一人のソ連兵が現れて、われわれに手を振りました。われわれが蒙古人だと思ったのでしょう。その素振りは「去れ、去れ」と言っているかのようです。武器を持たない若い兵士でしたが、こちらには伝令任務がありますので、抗戦しませんでした。指先で示された稜線を少し逆戻りして、そばにあった灌木の陰に身を潜めてから改めて振り返ってみてびっくりしました。ソ連の戦車が、稜線の内側に一定間隔を置いて並んでいるのです。数えると14台。
 この日は、前日13日の夜中の豪雨とはうってかわって快晴でした。草原には陽炎が立ちのぼっていました。太陽の影から判断して、時刻は正午に近かったと思います。興安街から白城子に通ずる鉄道と併行して東行している道路の上に、黒い点の長い行列が、まさに点々と続いていました。黒い点は次第に大きくなり人間とわかりましたが、遠方でもあり、逆光の関係でしたので顔形ははっきりしません。われわれが潜んでいた灌木から、千五百メートルぐらいの距離だったと思います。その黒い長蛇の列は、草原を東西に分ける線を引きながら、丘陵を下り、盆地の中央部にさしかかっていました。
 ちょうどその時、われわれ3名に最も近い位置にとまっていた戦車から銃声が一発聞こえました。と、まるでそれを合図のようにして、反対側にいた戦車がぞろぞろと動き出したではありませんか。戦車隊が追いすがったのは、難民の行列の最後列部のあたりです。機銃を発射しながら14台の戦車が次から次へと、鎌首のような戦車砲を振り上げ、振り下ろし、斜面を下っていくのです。銃撃と圧殺。はるかに銃声や轟音が聞こえてきますが距離がありますので、そんなに大きくはない。まるで無声映画を見ているようです。戦車同士は、無線で連絡し合っているのでしょう。順繰りに難民の列を目がけて稜線を下り、いったん反転してまた登り下りしながら銃撃しているのです。
 やがて路上の点々は、動かない塊になってしまいました。その塊が道路の幅からはみ出して両側の草原に拡がっています。銃声すら遠くにしか聞こえないのですから、殺される恐怖の叫びも、憤怒の声も、助けを求める声も聞こえてこない距離なのです。われわれ3名は息をひそめて見つめていました。傾斜面を下ってきた戦車の後方の空中に、マッチ棒のような黒いものが宙を舞い、ほうり出されました。キャタピラが死体を引っかけたのでしょう。よく見ますと、戦車は互いに連絡を取りながら、ある形を描いて動いているようです。あたかもマスゲームのように順序正しく整然と銃撃を加え、また反転して丘を登り、次の自分の出番を待っているのです。止まった戦車の掩蓋から数人の兵士が現れましたが、それも黒い点の形のように見えます。機関銃の銃火光が続けざまに三角形にはじけるのが、はっきりと分かりました。
われわれの灌木から最も近い地点に止まっていた戦車の天蓋が開いて、拳銃をを手にした兵士が上半身を乗り出して、空中に向け三発撃ちました。それが合図だったのでしょうか。銃撃の音はピタリとやみました。戦車は現在位置にそのまま止まっています。最も近くに止まっていた戦車がエンジンの轟音を響かせて斜面を下りていくと、止まっていた13台の戦車がいっせいに動き出し、難民たちが進んできた興安街の方向に斜面を横切っていきます。よく見ると、戦車の大きさも大小さまざま。あれは中型戦車と小型戦車の二種類だったと思います。戦車軍団も黒い点となって丘の稜線へ消えていきました。一本道とその両側に散らばっている黒い点々は、全然動きません。
 「どうしよう」三人の目が合って、無言のうちに尋ね合っていました。三人とも一時間半の間、ほとんど無言でした。私は判断しました。千数百の死体を三名の伝令でどうできるわけもない。われわれは与えられた伝令任務がある。「白城子に行こう」。私たちは、黒い点々に合掌すると、その場を去りました。

 35年後、大櫛戌辰氏宛に興安街の残留孤児から来た手紙の中に、「事件から10年あまりの間、現地の人々は葛根廟の丘陵を、”魔の丘の白い道”と呼んで近づきませんでした」とあった。八・一五(中国人は終戦のことをそう呼ぶ)の時、興安街から避難してきた大勢の日本人がソ連の戦車に射殺され轢き殺され、その白骨が白い長い道となっていた。、という”白骨伝説”である。



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満州・葛根廟事件 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 葛根廟事件とは、ノモンハン事件の戦場に近い興安街(現内蒙古自治区鳥蘭浩徳<ウランホト>)の南東約50キロにある葛根廟近くの丘で、婦女子を中心とする千数百人の邦人が、ソ連軍戦車隊に襲われ、千人以上が惨殺された事件のことです。

 その葛根廟事件の生存者の一人、大櫛戌辰(ツチヤ)さんの働きかけで、昭和60年の夏、関係者が訪中団を結成し、鳥蘭浩徳<ウランホト>を訪ねています。訪中団のメンバ-は、10人が事件をくぐり抜け生き延びた人と遺族、6人が当時の行政官ら、2人が義勇隊員、残り4人が当時の小学生、それに同行の記者2人と旅行会社の人が1人の、合わせて25人だったといいます。そして、その訪中の様子や関係者の体験および事件前後の証言などが一冊の本にまとめられました。「新聞記者が語りつぐ戦争5 葛根廟」読売新聞大阪社会部(新風書房)です。

 下記は、同書の中から、大島肇さんの証言部分のみを抜粋したものです。大島肇さんは、ソ連参戦後の興安街在住邦人疎開対策によって分けられた疎開団第二班、浅野良三旗公署参事官が率いる「浅野行動隊」に属し避難を開始した一人ですが、同書には、大島さん(妻のくめさんが数え3つのわが子の首を絞めて殺しています)や「子どもを残しては死ねない」とわが子を殺めて自決を試みた人の証言など、地獄の苦しみを味わった人たちの証言がいくつもあります。

 それにしても、婦女子が9割以上といわれる邦人避難民の集団を、ソ連軍戦車隊が襲い、皆殺し作戦とも言える非道な攻撃をするとはどういうことでしょうか。戦争によって恨みが募っていたのでしょうか。あるいは、残酷な攻撃のほうが敵の戦意を削ぐ効果があると考えられたのでしょうか。葛根廟事件は、あたかも国際法など存在しない野蛮な時代の事件のように思えます。

 また、大島さんが属する浅野行動隊の避難が遅れたのは、疎開の準備で用意されていたトラックや馬車を関東軍に徴発されてしまい、「足」がなくなったことが原因しているといいます。トラックや馬車を徴発した関東軍が、浅野行動隊を置き去りにして、秘密裏に撤退してしまったことも、忘れられてはならないことではないかと思います。日本軍の海外出兵は、当初、「居留民の保護」という名目でくり返されました。それが、いつの間にか「居留民の保護」が考慮されることのない作戦の展開に変わってしまっていたようですが、戦争を繰り返さないために、そうした事実も合わせて継承していく必要があるのではないかと思います。
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                                惨劇の丘
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 大島肇さんも、当時、興安在満国民学校の5年生だった長男宏生君と一緒にキビ畑の中にいた。
 「小休止の後、みんなについて歩いていたら、子供が『さっき休んだところにリュックサックを忘れてきた』と取りに戻ったので、私は待っていたんです。その間に、家内とほかの3人の子供は列について先に進んでいました。『行ってきたよ』と言いながら子供が私のところに駆け寄ったとたん、バババーッときた」
 二人はとっさに、その場に伏せた。たまたま窪みだったので、弾はビュッ、ビュッと頭の上を飛び去った。
 「私の見た勘定では、戦車は十何台かいた。それぞれに番号がついていて、私は手帳に書き取ったんですが、その手帳を逃げる途中、どこかに落としてしまいました。番号は連番だったのを覚えています。そのうち、戦車が近づいてきましてね。押しつぶされるかと思いましたが、膝と肘ではう匍匐(ホフク)前進の訓練をしていたんで、子供にも同じような姿勢をとらせ、やっと5メートルほどわきに逃げたんです」
 しかし、そこにじっとしているわけにはいかない。いつまた次ぎの戦車が来るかも知れない。大島さん父子はさらに匍匐前進し、キビ畑に逃げこんだ。
 「三八銃が、邪魔になって邪魔になって仕方がありませんでした。でお辛抱してはって行くと、キビ畑にもキャタピラの跡がついていましたねえ。そこを避けて、二人で伏せとったんです」
 時々、首を伸ばしてキビの間から様子をうかがうと、戦車の左右には6人ずつの兵がいて、自動小銃でバリバリバリッと撃っていた。
 「戦車の後に、兵を満載したトラックが20台以上やって来てですね。降りた兵隊が倒れている人たちを撃って…。それと、窪みにはまった荷車には私が見た限り、子供や病人5、6人が乗っていたようですが、これも目標にされたんです。」
引っぱっていた馬にも弾は当たったようで暴れ出してねえ…」
 戦車が去った後、「一緒に逃げよう」と声をかけてくれる人もいたが、大島さんは「家内と子供がまだどこかにいるはずだ。死んだのなら死んだであきらめもつくけど、ここを立ち去るわけにはいかない」と断って、丘を歩き始めた。

 人工喉頭「タピアの笛」をのど元に押し当てて、大島肇さんは、戦車が去ったあと目にした、葛根廟の丘の惨状へと話を進めた。
 「家内やほかの子供3人はどうなっているだろう、そう思ってキビ畑を出てみると、丘一面に沢山の人が倒れていましてねえ…」
 ひろげた指で地面を引っかくようにしている者、肩から腕ごと吹っ飛ばされた者、腹がぱっくりと開いた者、顔面を撃ち抜かれて抱き合ったまま転がっている母と子。目を見開いたままの婦人。どこを撃たれたのか、眠ったように死んでいる老人…。
 大島さんは踏みつけないようにして、一人ひとりの顔をのぞき込み、確認しながら歩いた。息のある人は、大島さんが近づくと、「水を…水をください」とひきつった声で懇願した。大島さんも焼け付くような渇きを覚えていたのだが、水筒はもうずいぶん前から空っぽだった。
 「わかった、すぐに持ってくるからね、それまで頑張りなさい、と励ましてはみるんだけれど、実際はどうしようもないんだよねえ。それで、また家内たちを探して歩いていたら、偶然、雨水がたまった窪みを見つけたんです」
 窪みの周囲にも、何人かの人が死んでいた。たぶん深手を負った人たちが、水を求めて、一人、また一人と集まり、ひと口、ふた口飲んでこと切れたのだろうと、大島さんは推測している。
 「窪みの水は血で真っ赤になっていましたが、飲んだ時のうまかったこと。その水を水筒に入れて、さっき『水を下さい』と言った人のところまで戻ってね。『けがをしてるんだから、一度にあまり飲まん方がいいですよ』と言って、水筒を差し出したんですが、その人は水筒にしがみついて離そうとせず、ごくごく、ごくごく飲んで。『もうやめた方がいい。危ないですよ』。そしたら、『あとはどうなってもいいんです』と言ったきり、バッタリ倒れて、そのままでしたね。呼んでも返事をしない…」
 倒れた人たちの間を再び、歩き始めた大島さんは、興安電報電話局の守田近局長と奥さんの死体を見つけた。
 「奥さんは胸のあたりを滅茶滅茶(メチャメチャ)に撃たれてました。近くには、やはり胸がハチの巣のようになった男の子がいて、抱き起こすと地面にべっとりと血のりがついていてね。赤ちゃんも泣いてました。あやすと泣き止むだろうとは思いましたが、家内たちのことが気になっていたので、涙をのんでそこへ置きっ放しにしてきたんです。後になって知ったことですが、この女の赤ちゃんは守田局長の子供さんでね。助かったお兄ちゃん、といっても当時興安在満国民学校の一年生だったと思いますが、その子が見つけ、抱きかかえて避難する途中で、中国の人に預けたそうです」
 お兄ちゃんの守田隆一君は窪みにはまった荷車に、有吉きよ子さんの長男和夫君らと一緒に乗っていた。ソ連軍戦車隊の銃撃で、荷車をひっぱっていた馬が尻に弾を受けて暴走。子供たちは次々に振り落とされていき、隆一君が気がついた時は弟の耕也君と小さな男の子の3人だけで広野にいたという。のち、隆一君らは別々の中国人養育されるが、隆一君は50年に叔母がいる秋田県鹿男市に一人、永住帰国する。
 泣き叫ぶ赤子に、うしろ髪をひかれながらも、その場を去って、大島さんはどれくらい歩いただろうか。ふと丘を見上げると、妻くめさんの姿が目に映った。
 「近づくと『あっ、あなた、助かったのね』と言うんです。二男の満吉も三男の潔も元気に飛び出してきましたが、一番下の当時三つだった美津子の姿が見えないんです」

 屍におおわれた丘で大島さんは、妻くめさんらに出会うことができた。だが、妻の背中にいるはずの末っ子、美津子ちゃんの姿がない…。問いかけようとすると同時に、くめさんは言った。
 「私が手にかけました。あなたや私が死んで、この小さな子が、こんなところで生き残ったとしても不憫だと…それで手にかけたんです」
 母自らの手で、首を絞めたのだという。
 「数えで三つ。かたことで話す、かわいいさかりだったんですけど…」
 大島さんは、そこで言葉を切った。列車の弱々しい明かりの下での話だった。しかし、表情は変わらなかった。いったんはずした人工喉頭をすぐにまたのど元に当てて、淡々とした口調で続けた。
 「いつまでも、そこにじいっとしているわけにもいかんので、家内に『かわいそうなことをしたなァ。でも仕方ないよ』と。『逃げようと思えば逃げられるから、とにかくいっしょに逃げよう』と言うたんです。ところが、家内は『逃げてもだめ。きっとどこかでやられてしまう。それより自決した方がましだ』と言ってね。子供が死んだ場所を離れたくなかったんですよねえ、家内は…」
 大島さんは三男で五つだった潔君の手をとり、妻と他の二人の男の子をうながした。くめさんはよろよろと歩き始めた。
 大島さんが、くめさんと出会う少し前から、丘のあちこちで集団自決が始まっていた。
 私は現認していませんが、鉄砲で撃ったりしたのが多かったんじゃないでしょうか。パーン、パーンという音をかなり聞きましたから。ところが心臓や頭になかなか命中しない。肩や腰に当たって、苦しむ人も多かったようです。中には、女たちに合掌させ、『殺すのはいやだが、この場合は仕方がない。許してください』と言いながら日本刀で次々に首を刺していった、とこれは家内の話です」
 
 歩く途中、屍に囲まれて座り、ポケットやリュックサックの底から取り出した紙幣を燃やし続ける男を見かけた。家族と死に別れ、自らは足に重傷を負った人だった。お金を燃やしながら、実は自分の過去を焼いているのだろうと大島さんはふとそう思った。
 「いっしょに逃げよう」と声をかけたが、男は「どうやって逃げていいかわからないし、足を撃たれて歩く自信がない。あんた、逃げるのなら、これを持っていきませんか」と、燃やす前のお札をくれた。
 「札は血でべとべとしていましたが、私のズボンのポケットに入るだけ入れてくれてですねえ。
『無事に日本に帰ることが出来たら、この事件のことを一人でも多くの人に伝えてください。頼みます』と言ったですよ」
 「旗(県)公署の副参事官にも会いましたが、『こうなった以上、公署としては指揮するわけにはいかないし、出来もしない。自由にしてください』と言うだけだった…」
 にわか編成の避難群団、興安七生報国隊はわずか三日で、あまりにも悲惨な結末を迎えてしまった。あとは、個人の判断と意志、体力に頼るほかない。
 大島さんは、その晩、家族と肩を寄せ合って草原に寝た。翌8月15日、戸数十戸ほどの蒙古人集落にたどり着いた。
 「ちょっと休ませて下さい。それと食べるものがあったら分けてくれませんかと頼むと、子供たちを気の毒そうな顔で見てね。あたたかいご飯を食べさせてくれたんですよ」
 その集落に2、3時間いて、大島さんらは南へ、鉄道線路の走る方角へ向かって歩いた。終戦など知るよしもなかった。

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ーーーーーーーーーーーーーーー葛根廟事件 残留孤児 手紙 N01ーーーーーーーーーーーーーー

 下記に抜粋したのは、戦後、残留孤児となった孫秀鳳さん(日本名:田中忍、当時四年生)が、 葛根廟事件に関して様々な活動を続けている生存者の一人、大櫛戌辰さんに当てた手紙の前半部分です。

 戦争というものの残酷さを思い知らされる内容です。人と人が殺し合う戦争が始まれば、「国際法」が考慮されることなく、幼い子ども達もこうした地獄の苦しみを味わうことになることを忘れてはならないと思います。

 ソ連軍戦車隊が、婦女子90パーセント以上の邦人避難民の列を見て、非戦闘員の集団であることを把握できなかったとは考えられず、したがって、葛根廟の丘におけるその襲撃は、どう考えても国際法違反だったと思います。
 また、戦車から降りて、無抵抗の非戦闘員を直接銃撃している事実からも、国際法違反を否定することはできないと思います。でも、葛根廟事件における戦争犯罪で、裁かれた人は一人もいません。 戦争犯罪で裁かれるのは、敗戦国の人間に限られ、日本は葛根廟の丘における襲撃事件を、戦争犯罪として訴えることすらできない立場にあるかのようです。

 人と人が殺し合う戦争が始まれば、国際法が無視されることは、歴史が証明しているように思います。多数の非戦闘員の命を奪うことが分かっているのに、アメリカは広島にウラン型原爆( リトルボーイ )を、そして、長崎にはプルトニウム型の原爆(ファットマン)を投下しました。
 トルーマンンアメリカ大統領は、広島・長崎への原爆投下後、「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語ったことはよく知られています。でも、当時アメリカ軍の首脳は、誰も百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったといいます。百万人の犠牲者という数字は、原爆投下後に高まった批判や非難の声をかわし、原爆投下を正当化するために創作されたものだというのです。また、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったという事実を、多くの歴史家や研究者が明らかにしています。だから、アメリカは多数の非戦闘員が犠牲になることを承知で、投下する必要のない原爆を、予告なく、突然二発も投下したということで、国際法に違反したといえるのではないでしょうか。でも、アメリカでは、いまだに「原爆投下は、百万人のアメリカ兵の生命を救った」と多くの人に信じられており、戦争犯罪とはされず、誰一人裁かれてはいないのです。

 ふり返れば、戦争が、交戦国の人たちの憎しみを相互に拡大させて、人間を狂気の世界へ引きずり込み、敵国の人間であれば、戦闘員か非戦闘員かに関わりなく殺してもよいかのような国際法違反の殺害行為がくり返されてきたように思います。
 戦時中、「鬼畜米英」の教育を徹底した日本が、現在は米国が最も大事なパートナーであるとしている事実も忘れてはならないことではないでしょうか。政治的プロパガンダを抑えて、真実が共有され、いかなることがあっても戦争にならないようにしなければならないと強く思います。
 孫秀鳳(日本名田中忍)さんの手紙は、そうしたことを考えさせてくれるものだと思います。

下記は「新聞記者が語りつぐ戦争5 葛根廟」読売新聞大阪社会部(新風書房)からの抜粋です。
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                              孤児となって
 ・・・
 とりあえずの聞き取り調査が済んでそれぞれのカードを見せてもらうと招待所にやってきた7人は、いずれも日本にいる縁者と連絡がとれており、しかも、すでに里帰りを果たしている人たちばかりだった。最も調査を必要とする人たちは、来ることが出来なかったのだ。やはり、厚い壁があるのだ、と思いながら屋地(同行記者)は改めてカードに見入った。「希望」という欄には、例外なく「死ぬまでにもう一度、祖国日本を見てみたい」と書かれていた。孫秀鳳(日本名田中忍)さんのカードにも、同じ文字が見えた。彼らの望郷の思いの深さ、熱さ、強さを思いながら、屋地は大櫛さんのもとに送られてきた田中さんの手紙を再び思った。
 彼女はどのようにして孤児になり、また、戦後を生きてきたのか。しばらくはその手紙に語ってもらおう

《役所関係の仕事をしていたお父さん(文雄さん、当時40歳)が、通化へ転勤になって半年もたたないうちに、また興安に戻ったのは、1945年の7月でした、。汽車は、兵隊さんでいっぱいでした。兵隊さんたちの顔はみんな沈んでいて、暗い感じで、子供心にも私は何となく不安を覚えていました。
 興安に戻って国民学校四年生に入りました。通化に行く前に一年から三年までいたので、顔見知りの同級生とはすぐまた仲良しになりました。一ヶ月くらいたった8月のある朝のことでした。新聞を見ながらラジオを聞いていたお父さんが突然、「大変なことになったぞ!」と大きな声で言って、お母さん(露子さん、当時37歳)に何やら話していました。
 まだ通化引っ越しの荷物が届いていなかったので、そのことかな、と思いながら学校に出かけて行きました。夏休みでしたが、登校の連絡がきたのです。
 学校に着くと、すぐ運動場に全員集合させられました。いつもの朝礼かと思って、岡久美子さん(孤児、面接調査に参加)たちとガヤガヤ言いながら集まっていました。
 台の上に上がられた小山司六校長先生が(葛根廟事件で死亡)がおっしゃいました。――

 校庭に集合した興安在満国民学校の児童を見回して、小山司六校長は話し始めた。
「みなさん、今未明、ソ連はわが国に宣戦を布告してすでに国境を突破し、こちらに攻めてきています。阿爾山(アルシャン)方面でわが関東軍が勇敢に反撃していますが、ソ連軍は強力な機械化部隊です。この興安もやがて戦場になるかも知れません。みなさんはただいまからすぐに家に帰り、お父さんやお母さんの言うことをよく聞いて日本人として恥ずかしくない行動をとってください」
 話の終わりの方で、校長は目に涙をにじませた。そして、東方を向いての皇居遙拝の後、国旗が降ろされた。大櫛さんにあてた田中忍さんの手紙にある当時の記憶は、細部まで鮮やかだった。
 《いつもと違う先生方の緊張された顔に、何か恐ろしいことが目にみえないところから近づいてきているようで不安でなりませんでした。
 「先生さようなら」
 同級生のみんなも不安だったのでしょう、走って家に帰りました。思えば、それが先生や友だちとの永遠の別れになったのでした。8月9日朝のことでした。
 家に帰ってお母さんに「ねえ、どうなるの。ソ連が攻めてくるの。大丈夫よねえ、日本の兵隊さんがいるから、ねえ、お母さん」と話しかけると、「忍ちゃん、少し黙りなさい。お母さんは忙しいのだから」と、あまり私の話を聞いてくれませんでした。夜遅く帰ってきたお父さんはとても疲れているようでした。
 次の日から、ソ連の飛行機が一日に何回も飛んできて、興安の空をぐるぐる回り、爆弾を落としました。街のあちこちで、ドカーン、ドカーンという大きな音とともに、真っ黒い煙がもうもうと空に舞い上がり、私は心臓がどきどきして、お母さんにしがみついていました≫
 当時の忍さんの家族は、両親、弟で9歳の晋君、6歳の旭君、4歳になる妹の早苗ちゃん、それに10歳の忍さん6人だった。14歳の兄、洋さんは体が弱く、気候の温暖な日本で中学校へ、と昭和18年から、千葉の親戚の家に預けられていた。空襲のたびに、母露子さんは子供たちに綿入れの防空頭巾をかぶせ、庭に掘った防空壕に避難させながら、「洋がいてくれたら…」とこぼしたという。

 ≪そんな日が2日ぐらい続きました。その間、多くの人たちが馬車やトラックなどで街を出て行きました。いままで中国人や蒙古人に威張っていた人や、ツンとすましていた日本の女の人たちが汗まみれになって、怒ったように目をつり上げ、口ぎたなくどなったり、わめいたりしていました。道路にも駅前にも捨てられた荷物がごろごろしていました。
 いつの間にか、街で見かけていた日本の兵隊さんが一人もいなくなってしまいました。私たちを守るため、みんな戦争に出て行ったんだなと思っていました≫
 だが、事実は、日本軍はこの時、戦争に行っていない。いち早く、兵隊と家族、家財道具をトラックなどに満載して南へ退却していったのだった。
 ≪3日目の昼でした。朝早く家を出て行ったお父さんが駆け込むように帰って来て、お母さんに「おいっ!すぐに街を出るんだ。荷物はできるだけ少なくして、家はもうほうっとけ。子供たちを頼んだぞ」と、どなりつけるように言って、すぐまた走って出て行きました。
 「お父さん、どこへ行ったの。いつ帰ってくるの」と聞くと、お母さんは「うるさいね。黙ってなさい」としかりつけ、だんだん無口になってゆきました。≫
 母は、大あわてでご飯を炊き、おにぎりを作り始めた。

 興安脱出のあわただしい準備が、不安といらだちの中で進められた。 
 田中忍さんの手紙は続く・
 ≪お母さんは、大きなリュックサックにシャツやお菓子などをいっぱいに詰めて私に背負わせました。弟の晋には、私の遠足の時のリュックを背負わせ、水筒に水をいれて提げさせました。お母さんは妹をおんぶし、二つのカバンを提げました。そして、「さあ、いくよ。はぐれないように、お母さんにしっかりついて来るのよ。忍。晋と旭を頼んだよ」と声をかけ、もう薄暗くなった街に出て行きました。
 街中のあちこちから3人、5人、10人とたくさんの人が急ぎ足で集まり、それからすぐ興安の東の橋を渡って行きました。私たちの前も後も、どこまで続いているかわからないほどの人の列でした。子供の泣く声や、子供をしかるお母さんたちの声があちこちでしていました。
 ものを言うときついので、私も、手を引いていた弟も黙って一生懸命に歩きました。雨が降ってきても休まれません。頭から濡れながら遅れないように歩くのは、子供の足では大変でした。
 いま考えてみますと、幼い弟たちがよくがまんして歩いたものと、かわいそうでなりません。しっかと握っていた弟の小さな手のぬくもりが、今でもはっきりと私の手に残っています。どんなにか辛かったろうに、一言も不平や泣き言を言わずについてきた弟の姿が浮かんできます。
 興安を出て、三日目ぐらいでしょうか。暗い雨の降る夜、小さな集落に着きましたが、家の中には入れず、家の泥壁に寄りかかって休みました。お母さんたちがご飯を炊き、おにぎりにしてみんなに配っていましたが、子供たちはあまりに疲れていて、少ししか食べられませんでした。それが最後のご飯になりました。
 朝まだ暗いうちに出発しました。
 「急げ、遅れるなよ」「落後したら殺されるぞ」
 男の人たちは何かというとどなってばかりでした。
 大人は興安を出てから一日ごとに無口になり、怒りっぽくなっていきました。初めのうちは「頑張れよ」「元気を出してな」と言っていましたが、列から遅れて苦しそうにあえいでいる人がいても、大人たちはチラッと見るだけで、知らん顔して通り過ぎるようになりました。
 お母さんは、おぶった妹と肩から前にも横にも提げたカバンで、とてもきつそうでした。カバンのひもとおんぶ帯が体に食い込んで、大きなおっぱいがちぎれそうになっていました。≫
 汗とほこり、ぎらぎらとした目。「はあ、はあ」と荒い息を吐きながら、人々は歩き続けた。その列を真夏の太陽がじりじりと焼いた」と忍さんは書いている。
 ≪お姉ちゃん、水、水がほしいよ」と、二人の弟がせがみました。水筒の水を少しずつ飲ませていましたが、またすぐに「お姉ちゃん、みず」と言うので、「だめ、こんど休んだ時よ」としかりつけました。私ものどがカラカラに渇いていて飲みたかったのですが、水筒の水が少ししかなく、がまんしていました。
 歩いていく道端に、シャツやカバンがどんどん捨てられていました。もうだれも拾おうとしませんでした。
 お昼ごろ、列の全部が丘を越えた時でした。突然、バリバリ、バリッと、後ろの方から銃声が激しく聞こえてきて、ビューン、ビシッとたくさんの弾が飛んできました。お父さんが走って来て大きな声で「早く、早く隠れろ!」とどなりました≫
 ソ連軍戦車隊の襲撃が始まった。忍さんは、母露子さんたちと一緒に夢中で大きな溝の中に転がり込んだ。
 戦車のうなり。機関銃の音、絶叫と悲鳴。
 「耳が破れそうで、目の前がくるくる回って、何が何だかわかりませんでした」
 田中忍さんは、ソ連軍の襲撃の瞬間をそう書いている。気がついたときには、母露子さんの後ろで二人の弟としっかり抱き合っていた。
 《そのうちに、お父さんがすーっと立って、どこかへ行こうとしました。私はお父さんから離れるのが怖くて、お父さんの足をつかみ、「お父さん、危ない。行ってはいや」と一生懸命に引っ張りました。お父さんは私やお母さんの顔をじっと見てから、私の手を払いのけて「いいか、じっとしておれよ。動くな!」と言って、溝の外へ行きました。そのときのお父さんの顔は青く、結んだ口がぴくぴくと動いていました。
 「あなた!あなた!」
 お母さんはたったそれだけしか言いませんでした。お父さんはそれっきり帰ってきませんでした》
 銃声はますます激しく、溝に隠れていた人たちも、次々に撃たれて死んでいった。
 《どれくらい時間が過ぎたのか知りません。知らない男の人が来て「みんな、あっちへ行け」と命令しました。私たち母子5人もついて行きました。多くの人がはうようにして集まって来ました。みんなガタガタと震えていました。五百人以上もいたようでした。
 すると、ソ連の戦車がたくさん寄ってきて、私たちを取り囲むようにしました。黒い大きな戦車は怪物のように口を開き、中から大勢のソ連の兵隊が降りてきました。私たちを囲むようにして自動小銃で「ダッダッダッダー」と一斉に撃ち始めました。みんなばたばたと倒れ、叫び声や、耳がガンガン鳴っていました。手榴弾の爆発の中に、次から次へ飛び込んだお姉さんたちやおばさんたちもいました。
 お母さんも撃たれて倒れましたが、まだ生きていました。体のあちこちから血が流れていました。上の弟の晋は撃たれて死んでいました。
 その時、私は突然、後ろから突かれたように、倒れました。間もなく、体の半分の感覚がなくなったようになり、腰から血が流れ出しました。すぐに横にいた年寄りの人がよろよろと半分立ち上がり、口を大きく開けて、パタンと倒れました。恐ろしさに顔を引きつらせている妹の早苗と弟の旭に手を伸ばしました。
 「お姉ちゃ-ん、お姉ちゃ-ん」。二人ともぼろぼろ涙を流して私の手をしっかりと握りました。
「泣くな」と言いましたが、私も涙がぽろぽろとこぼれました。
 撃ったり剣で突いたりしていたソ連の兵隊が戦車に戻り、ゴォ-ッとほえるような轟音と真っ黒い煙を上げ、ものすごい速さで南の方に走り去って行きました。恐る恐る顔を上げると、あたり一面は死んだ人がいっぱいで、地面も血だらけでした。
 溝の中から、だれかが手を振ったので立ち上がろうとして、「うっ、痛っ」、思わずしゃがみ込みました。腰から体中にビリッ、ビリリッと痛みが走りました。見ると、腰にはべっとりと血が固まっていました。「ああ、あの時、撃たれたんだ」と思い出し、よく見ると、ズボンが破れ、焦げたようになって、その下で肉が赤く裂けていました。
 痛いのをがまんして、手を振っている方へ行きました。
 蓉子ちゃんでした。興安在満国民学校の小山司六校長先生の長女で、私と同じ四年生でした。
 「蓉子ちゃ-ん」
 呼びかける私に、蓉子ちゃんは死んでいる女の人を指さして、何か話そうとしているのですが、ただ口をぱくぱくさせているだけでした。目から大粒の涙をぼとぼと落としていました》

 死んだ女の人を指さして、大粒の涙を流し続ける同級生の小山蓉子ちゃん。撃たれた腰の激痛をこらえて近づいた田中忍さんは、目の前の倒れ伏す女の人を見て、ハッと胸をつかれた。
 《死んでいたのは蓉子ちゃんのお母さんでした。背中には赤ちゃんをおんぶしていましたが、体の下には死んだ九歳の郁雄ちゃんを抱くようにしていました。
 蓉子ちゃんと二人で赤ちゃんをお母さんの背中からおろしました。しっかり結んであったひもがなかなか解けず、そのひもをお母さんの下から引っ張り出すのが大変でした。おろした赤ちゃんを蓉子ちゃんにおんぶさせました。赤ちゃんはぐんなりしていましたが、死んではいません。
 蓉子ちゃんの話では、お父さんの小山校長先生が撃たれて死んだので、お母さんが子供を全部殺そうとして急いでナイフを取り出し、一番先に郁雄ちゃんを刺した時、頭に弾が当たって死んだということでした。赤ちゃんの顔や首には、お母さんが撃たれたときの血がいっぱいついていました。
 その時でした。生き残っていた人たちが自殺を始めました。自殺は手榴弾や毒薬や剣でしました。
 何人もが、積み木のように重なり、ドカーンと手榴弾を爆発させて、手や足や腹が引きちぎられて死んでいきました。また、剣を握り、向き合って、両方から「一,二,三」と叫んで胸を刺し、「ギャ-ッ」と悲鳴を上げて血だらけとなり、倒れてからも死ねず、胸に剣を刺したまま「ウーン、ウ-ン」と地面をかあきむしって苦しんでいる人もいました。
 よそのお母さんたちは狂ったようになって、自分の子供を探し、生きている子の首を細いひもやタオルで結び、他の大人の力を借りて、二人で引っ張って殺していました。子供たちは足をばたばやさせて暴れていましたが、すぐに動かなくなってしまいました。そして、お母さんたちは、死んだ子供の顔に自分の着ているシャツやタオルを掛けてから、薬を飲んだり、血の付いた剣で自分の喉を切ったりして死んでいきました。
 陽が西に傾き、空が赤く染まったころ、生き残っていた人たちが何人かずつ、どこかへ行き始めました。
 体のあちこちを機関銃で撃たれたお母さんは起き上がれず、「忍ちゃん、旭ちゃんと早苗ちゃんを連れて、あの人たちについていきなさい。頼んだよ」と苦しそうに喉をゼ-ゼ-いわせながら、一生懸命に私に言いました。私は、お母さんの青い顔を見ながら、「いや、いや」と頭を振りました。私はとても悲しくて、言葉が出ませんでした。
 夕暮れとなり、だんだん暗くなってきました。お母さんはとても苦しそうに「水…水…」と力弱く私に言いました。死んでいる人たちの水筒を探しましたが、どれもこれも空っぽでした。
 やっと底に少し残っている水筒を見つけ、「お母さん、ほら、水よ…」とお母さんの肩を起こそうとしましたが、石のように重くて起こせませんでした。やっと首だけを起こして、水筒の口をお母さんの口につけましたが、もう自分で飲む力はありませんでした。手のひらに水を移してお母さんの口になすりつけるようにして飲ませました。
 風が吹いてきて寒くなりました。毛布を拾ってきてお母さんにかけて、私たち子供三人はその横に寝ました。
 蚊がブンブン飛んできて顔や手足を刺しましたが、みんな疲れていて、蚊の刺すままにしていました。
 野良犬の遠吠えが聞こえたほかは、丘はしーんと静まり返っていました。空には星が光っていて、私はいつの間にか眠ってしまいました》

 体のあちこちを機関銃で撃たれた母露子さんに拾ってきた毛布をかけ、そのわきでいつしか眠りに落ちた田中忍さんは、肌を刺す冷気の中で目覚めた。夜明け前だった。
 《目を覚ますとすぐ、横に寝ていたお母さんの毛布をのけて、「お母さん、お母さ-ん」と呼びましたが、いくら呼んでもお母さんはうつ伏せのまま返事をしませんでした。「お母さん!お母さん起きて!」肩を揺すり、うつ伏せの顔を上げようとあごに手をかけ、ハッと手を引っ込めました。お母さんはもう冷たい石のように、こちこちになっていました。
 「お母さ-ん、お母さん」
 石のように固くなった肩を揺さぶってわんわん泣きました。旭も早苗も目を覚まし、死んだお母さんにかぶさって、三人で泣きました》

 ・・・


ーーーーーーーーーーーーーーーー葛根廟事件 残留孤児 手紙 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーー

 下記に抜粋したのは、「葛根廟事件 残留孤児 手紙 NO1」からの続きで、戦後、残留孤児となった孫秀鳳さん(日本名:田中忍、当時4年生)が、 葛根廟事件に関して様々な活動を続けている生存者の一人、大櫛戌辰さんに当てた手紙の後半部分です。

 残留孤児の一人、田中忍さんが、なぜこんな酷い体験を強いられたのか、多くの人、特に軍人・自衛隊員や政治家、それも指導的立場にある人たちに考えてもらいたいと、私は思います。
 田中忍さんは小学生であったにもかかわらず、軍人や政治家が始めた戦争によって、道徳はもちろん、法もまったく意味を持たない殺し合いの世界に引きずり込まれ、地獄の苦しみを味わうことになったのではないでしょうか。だから、何があっても戦争だけは避けなければならないのではないかと、私は思います。
 また、先の大戦では、ソ連兵のみならず、日本兵も、アメリカ兵も、平時なら死刑にも値するような殺戮をやったと思います。
 「国民の生命と財産を守る」と言うのであれば、あらゆる方法を駆使して、戦争を避ける体制を整えることが何より大事で、「積極的平和主義」をかかげつつ、日米両政府が新しいミサイルの共同開発を進めるなどというのは、まったく方向が違うと思うのです。また、被爆国日本が、核の傘に頼り、「アメリカの核先制不使用の宣言は、抑止力を弱体化させる」などといって、核先制不使用の宣言に反対するなど、もってのほかではないかと思います。指導的立場にある人たちが、田中忍さんが味わった地獄の苦しみに思いを致せし、戦争をしない国際関係の構築に取り組んでほしいのです。

 田中忍さんは、日本に一時帰国をして、きょうだいや親戚の人たちに会い、祖国日本で感動の日々を過ごしましたが、
 《しかし、私には中国という、もう一つの祖国があります。貧しく、苦しい中で私を育ててくれた養父母には大きな恩義があります。かわいい私の子供たちや孫もいます。私は中国に戻りました。
 兄と親戚の皆さんが、空港まで見送りに来てくれました。私は、涙をはらって、別れを告げました
とのことで、手紙の結びに《懐かしい祖国のみなさん、さようなら》と書いているということです。
 「新聞記者が語りつぐ戦争5 葛根廟」読売新聞大阪社会部(新風書房)から抜粋しました。
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                                    孤児となって(後半部分)


 東の空が白み、冷たい風が顔に当たった。周りには、たくさんの死体が転がっていた。死んだ母親の体にはい上がって、おっぱいを吸いながら泣いている赤ちゃんもいた。
 《「これからどうする」。お父さんもお母さんも弟の晋も死んでしまった。多くの大人の人たちも死んでしまった。どうしたらいいのか私にはわかりませんでした。
 泣き疲れて、ぼんやりと横に座っている弟と妹の顔を見ました。二人とも、じいっと私の目を見ていました。「二人を殺すか」。きのう、大人の人たちがしたことを考えましたが、私にはとても出来ませんでした。
 六人の家族が、とうとう半分になってしまいました。もう頼る人はだれもなく、ここからどこへ行ったらいいのか迷うばかりで、弟妹のことや、どこかへ行ってしまったお父さん、死んでしまったお母さん、晋のことなどを繰り返し考えていました。
 すると、多くの人影が近づいてきました。「おやっ」と、初めは生き残った人たちかと思いました。もう夜はすっかり明けて、丘は明るくなっていました。やってきたのは、みんな現地の人たちばかりでした。「何しに来たんだろう」と心配になり、弟と妹を引き寄せて抱き合っていました。やってきた人たちは転がっている荷物を拾い、背中いっぱいに背負って、どこかへ帰って行きました。
 人は後から後から来て、拾うものがなくなると、今度は死んだ人の着物を次から次へととり始めました。中には、泣き叫ぶ子供を抱えて行く人もいました。
 赤ちゃんをおぶい、弟の隆造ちゃんと一緒にいる蓉子ちゃんに、「ここにいては危ないよ。出ていこう」と声をかけ、「さあ、見つからないようにかがんで行くのよ」と歩き出しました。そしたら後ろから一人の男の子が黙ってついて来ました。後で聞いたのですが、男の子は9歳で、お父さんは出張中でおらず、お母さんはここで殺されたと言っていました。私たちは全部で七人になりました》
 忍さんは、6歳の旭ちゃん、4歳の早苗ちゃんの手を引き、赤ちゃんをおぶった蓉子ちゃんも、やはり4歳の隆造ちゃんの手をとった。男の子が少し遅れて続いた。途中で拾った菓子を分け合った食べ、残りはそれぞれのポケットに入れて、子供たちはあてどなく足を運んだ。
 《暑い暑い太陽が頭の上に昇ってきて、喉がカラカラに渇いてたまりません。どこへ行ったらいいのかわからず立ち止まったところ、トウモロコシ畑の中に三人の大人が見えました。急いで近づいてみると、私たちと同じように避難してきた人でしたが、知らない人でした。でも、大人について行けば、安心に思いました。一人は50歳くらいの男の人で、肩から血がいっぱい出ていて、怒ったような顔をしていました》
 あとの二人は若い女の人だった。

 トウモロコシ畑で出会った男女三人の大人は、田中忍さんら子供たちの足どりにかまわず、歩き続けた。
 《どんどん歩く大人たちに遅れたら捨てられると思って、一生懸命について行きましたが、妹の早苗がすぐに疲れて歩けないようになりました。妹を抱こうとしたら、「あいたっ、あいたったっ」と痛がって泣き出します。服を脱がしてみると、小さな体に二つ、浅い傷がありました。
 妹が「痛い、痛い」と泣くので、おじさんがとても恐ろしい顔でにらみつけて、「こらっ、なくなっ。何で泣かすのか。泣き声がソ連軍に聞こえたらどうするんだ。一緒に連れていかんぞ」ときつくしかりました。私は妹に「泣いたら捨てられるよ。がまんしてね」言って、妹をおぶってついて行きました。
 とてもきつく、時々、目の前がくらくらして暗くなりました。腰の傷から血が脚を伝ってかかとまで流れ、歩く足もだんだん遅くなりました。とうとう大人たちから、500メートルぐらい離れてしまいました》
 先を歩いている旭ちゃんが手を振りながら待ち、蓉子ちゃんたちも決して一定以上の間隔をあけなかった。けなげな思いやりに励まされて、忍さんは歩いた。
 《やっと追いつくと、そこに水たまりがありました。汚い水でしたが、腹いっぱい飲みました。泥水がサイダーのようにおいしく思われました。顔を上げると、口や鼻からごぼっごぼっと、飲んだ水がこぼれるぐらいでした。
 蓉子ちゃんがおんぶしていた赤ちゃんをおろし、防空頭巾の綿を小さく丸めて、それを水につけて吸わせました。赤ちゃんは目も開けず、泣き出す力もなく、ぐったりしていましたが、綿の玉を口につけるとチュッチュッと吸いました。何回も何回も水につけて吸わせました。》
 そして出発。どこをどう歩いているのか、子供たちにはわかるはずもなく、昼の太陽に焼かれ、夜の冷気に震えながら、ただひたすら、三人の大人に従った。
 やがて、線路に行きあたった。「駅は近いぞ」という声に、忍さんたちは「汽車に乗せてもらえる」と喜んだ。だが、駅に近づくと大勢の人が見え、おじさんが「畑の中に入れ」とどなった。あわててトウモロコシ畑に入ってしばらくすると、「ここで待っていなさい。三人で様子を見てくるから」と言って、大人たちは畑を出て行った。
 《「すぐに帰ってくるからね。動かないでいるのよ」
 女の人が、私たちにそう言いました。私と蓉子ちゃんは返事のかわりにちょっと頭を下げました。
 でも、何となく、もう二人は戻って来ないような気がしました。
 黒い雲が空を覆い、稲光がピカッと走りました。急に冷たい風が吹き、トウモロコシ畑の葉がザワザワと音を立てて揺れだしました。続いて、雷の音と一緒に大粒の雨がザーッと降ってきて、トウモロコシの葉も折れんばかりの、大きな音をたてました。
 その時でした。畑の外の方で「ダッダッダッー」と銃声がしました。「あっ、もしかしたらおじさんたち三人が…」と思いました。
 私は蓉子ちゃんと二人で赤ちゃんや弟、妹をかこんで上からかぶさって雨よけになりました。ついてきた男の子がトウモロコシの木を折って、葉のところを私と蓉子ちゃんの上にかぶせてくれました。畑の中がいっぺんに池のようになってしまう大雨でしたが、間もなくあがり、すぐに夜がきて、私たちもそこで眠ってしまいました。
 目を覚ました時はもう、暑い太陽が空高く昇っていました。すぐそばにいた弟の顔が、蚊に刺されておばけのようにはれ上がっていて、びっくりしましたが、みんなも同じように体中を蚊にくわれていました》

 土砂降りの夕立で、池のようになったトウモロコシ畑の中に寝て、翌日、田中忍さんらは、再び歩き出しました。泥濘に、足はたまらなく重く、いつしか、靴も靴下も脱ぎすてていた。七人の子供たちは、もう丸4日間、水以外にはほとんど何も口にしていなかった。
 焼けつくような日差しの下を、よろよろ、とぼとぼと歩いた。再び駅の見えるところに出た。だが、近寄ってみると、その駅もソ連兵でいっぱいだった。あわてて、トウモロコシ畑に逃げ込んだ。
 《この先、どうしてよいのか。考えても考えても不安でなりませんでした。だんだん力がなくなっていく弟や妹たち。目を覚ましていても、どこを見ているのかわからないような、ぼんやりとした目になっていました。
どんなにか、おなかがすいていることだろう。畑の中にじっとしていては死んでしまう。何か食べるものを探してこなければ…》
 また激しい夕立。稲妻が光り、雷が鳴った。やがて、雨があがり、畑の中に湿った暑熱が押し寄せてきた。
 《夕暮れとなり、トウモロコシ畑が赤く染まっていきました。とにかくもう一度、畑の外に出て様子を見ようと起き上がりましたが、くらくらっとめまいがして、体中の力が全部抜けてしまったようでした。
 死んだように横になっている弟や妹たちが心配で起こしてみましたが、やっと一人を起こしてから次を起こしているうちに、先に起こした方が倒れて寝てしまうのです。何日も、水ばかり飲んでいたから自分の体を持ち上げる力もなくなっていたのです。
 力をふりしぼって、畑の外に出てみました。畑に逃げ込む時に見た駅の近くに家があり、少し進んでよく見ると、家の裏に三人の大人が座っていました。
 「あっ!」思わず隠れようとして、見つけられてしまいました。走る力もないので逃げることもできず、「しまった」と思いながら畑の中に戻り、みんなの横に座っていました。
 三人の大人がすぐにやってきました。中国の人で、駅の人でした。私は横に寝ている弟妹たちのおなかのところを指さして、口に物を入れるまねをして食べ物を頼みました。三人は何か話しながら、駅の方へ帰って行きました。
 私と蓉子ちゃんは、不安と恐ろしさに、しっかりと手を握り合ってブルブル震えていました。小さな子供たちをどうしたら助けられるか、心配でたまりませんでした。
 しばらくして、今度は十人の大人がやってきました。その中に女の人が二人いて、ほかの人と一緒に、寝ている弟や妹の顔を一人ひとり、のぞきこんでいましたが、一人の女の人が弟の旭を抱き上げようとしました。私は血がいっぺんに頭にのぼったようになり、弟にしがみついて引き戻しました。
 女の人はびっくりして、ほかの人に向かって大きな声でしゃべり、続いて手まねで弟や赤ちゃんを指さしながら、何か言い出しました。どうやら、私たちを一人ひとり助けて預かる、と言っているようでしたが、きょうだいがばらばらに引き離されることがとても悲しく、蓉子ちゃんと顔を見合わせて、下から大人たちをにらんでいました。それが私たちの精いっぱいの抵抗でした。中に一人、日本語を話せる人がいて、「私たちは悪い者ではない。親やきょうだいを失った小さなお前たちがかわいそうで助けにきたのだ。ここにいる人たちは子供のいない人が多い。心配無用だ」と同じことを何回も繰り返しました》
 みんな優しい目をしていたと忍さんは記している。

 田中忍さんの。大櫛さんに宛てた手紙はいよいよ、彼女の運命の核心に入っていく。
 《十人の中国人を前にして、「どうする?」「ねえ、どうしたらいい」とわたしと蓉子ちゃんは目と目で問答しました。弟や妹たちを見ると、もう目を開く力もないようにぐったりして、やせた胸とおなかで「ハァー、ハァー」と苦しそうに息をしているだけです。とうとう、私と蓉子ちゃんは、ペコリと頭を下げました。
 中国の人たちはそれまでに勝手勝手に決めていたのでしょう。自分の欲しいと思う子供を、それぞれおんぶして行きました。
 弟が連れて行かれる時、体中が絞られるように悲しくてなりませんでした。蓉子ちゃんの弟の隆造ちゃんと赤ちゃんも別々に連れてゆかれました。蓉子ちゃんはひとりぼっちの男の子と一緒でした。私と妹は、日本語の話せるおじさんと、最後に畑を出ました。
 胸をキリキリと刺されるように別れが悲しかったのですが、不思議なことに泣けてはきませんでした。弟たちも黙っておんぶされたり、抱かれたりして行きました。
 私と妹の早苗が連れて行かれたのは、部屋といっても一つだけの家でした。
 おじさんは「腹がすいているだろう。すぐつくってやるからな」と言って、麦の粉のもちと大豆の煮たのを食べさせてくれました。妹に「さあ、食べなさい」と言って、私ももちを口に入れると、喉につかえて苦しくて死ぬかと思いました。おじさんが笑いながら水を飲ませてくれ、背中をさすってくれました。
 「ゆっくり、ゆっくり食べるよ。まだたくさんあるからな」。そのもちの何とおいしかったことか。少し塩味のするもちでしたが、今もその味は忘れられません。
 腹いっぱい食べて、ふーっと気の抜けたようにぼんやりとしていた時、弟を連れて行ったおばさんと弟が一緒にやってきました。弟は、着ていたぼろぼろの汚れたシャツのかわりに、長い中国の服を着せられていました。私は弟をそばに引き寄せ、残っていたもちをやりました。「旭、食べなさい」。弟は、もちを食べませんでした。どうしたの、と聞くと、おばさんの家で高梁のご飯を食べたということでした。
 おばさんは、おじさんと話していましたが、間もなく弟を連れ、私たちに笑顔を向けて帰りました。
 その晩、おじさんは出て行き、私と妹の二人だけになりました。家の戸には、外からカギがかけられていました。「あっ、閉じこめられた」と、妹と二人、真っ暗な部屋で抱き合って恐ろしさに震えていましたが、おなかがいっぱいになったのと、久しぶりの家の中です。気持ちが次第にゆるみ、二人とも眠ってしまいました。
 目が覚めた時は、すっかり明るくなっていました。おじさんは栗のご飯を炊いてくれていました。
 三人でご飯を食べている時、おじさんは次のような話をしました。
 「ソ連の兵隊が駅に来るというので、われわれも若い女や子供たちをみんな、田舎の親類や知人のところに隠した。ところで、日本は、この15日に中国やソ連に負けた。葛根廟付近で日本人の大人はみんな殺されて、だれも残っていない」
 おじさんの話で、私たちが助けられたのは、葛根廟の丘を出てから4日目の昭和20年8月17日で、おじさんは駅に勤めている30歳の孫という人だとわかりました。
 と同時に、もう頼りになる日本人の大人たちはだれもいなくなったんだと、寂しくてなりませんでした。》
 こうして、忍さんの残留孤児としての生活が始まったのだった。

 孫という日本語のできる中国人駅員に、妹の早苗ちゃんともども引き取られた田中忍さん。孤児の運命を綴って手紙は続く。
 《孫おじさんは、優しい人でした。でも、2日くらいすると、おじさんは二人の農民を連れてきました。妹を連れにきたのでした。私は泣きながら妹を抱きしめ、孫おじさんをにらみつけました。弟が連れて行かれ、今度は妹までも…。
 孫おじさんは「あす、お前を、私の家族がいる田舎へ連れて行こう。そこには、、お前の弟の家も、今から連れていく妹の家もあるから心配するな。私には、ほかにも子供がいるから、何人も一緒に面倒をみるわけにはいかんのだ。わかってくれな」と優しく話してくれました。
 しかし、妹が農民と出ていくと、歯をくいしばってこらえていた悲しみが、一度に噴き出てきました。
 翌日、孫おじさんは私を田舎に連れて行きました。奥さんと四人の子供に初めて会いましたが、奥さんは私を見て孫おじさんに怒りました。私は、孫家には四人も子供がいるのに勝手にまた一人、連れてきたことを怒ったのだと思いました。おじさんは口の中でぶつぶつ言っていましたが、忙しいからと駅へ戻って行きました。
 田舎にも、ソ連の兵隊がやってくることがありました。女の人を探したり、ニワトリやブタを盗んだりするので、そんな時はみんな急いで畑の中に隠れました。
 ほうっていた私の腰の傷が一日一日悪くなり、痛みがひどくなって、それが悲しさや寂しさと重なり夜も眠れず、しかも、言葉が通じないので、私はいつの間にかだんまりになってしまいました。
 孫さんのお奥さんと子供はここで、趙さんという人に世話になっていました。趙家の家族は6人。子供が4人いました。4歳と2歳の男の子は裸で、趙さん夫婦もボロボロの着物を着て、腰をわら縄でくくっていました。世話をしている趙家の生活も大変貧しかったのです。
 でも、趙おじさんは私の傷を心配してくれて、毎日、お湯で洗って、竜の骨をつぶしたものだという粉末を傷につけてくれました。何か大きな動物の骨だったのでしょうが、だんだん痛みもなくなっていきました。
 九月になると、朝晩は寒くてなりません。駅にいたソ連兵が移動したので、孫おじさんが家族を迎えにきました。私は、傷がまだ本当によくなっていないといういことで、趙家に残されました。
 はじめはこわい顔をしていましたが、孫さんの奥さんは、私をとてもかわいがってくれ、私も慕っていましたから、別れが悲しくてなりませんでした。その思いを察してか、孫おじさんは「傷が治ったらきっと迎えに来るからね」と言ってくれました。
 寂しくてだんまりになった私を、趙おじさんが劉家に連れて行ってくれました。50歳ぐらいの両親と、30歳ぐらいの息子の三人家族で、妹の早苗は劉家の子供になっていたのです。早苗は私を見て、ワァーワァー泣きながら走ってきて飛びつきました。私はしっかりと抱き上げました。
 劉家では妹をわが子のようにかわいがってくれていたので、ホッとしましたが、それでも離れたくありません。同じ村だからいつでも会えると妹と自分に言い聞かせ、趙家に帰りました。
 腰の傷は二ヶ月余りで治りました。ある日、孫おじさんが私を連れに来てくれ、天にも昇る心地でした。
 その日は、弟の旭を引き取っている李家の奥さんも弟を連れきてくれました。李家も子供がなく、夫婦でかわいがってくれていました。しかし、弟は毎日、泣いてばかりいるということでした》

 腰の傷が治って、孫さんの家に帰った田中忍さんは、掃除や炊事、畑の草取り…と家の仕事を一生懸命手伝った。そして、奥さんが、動物やそれぞれの品を指さして教えてくれる中国語を、一つずつ、覚えていった。
 同級生の小山蓉子ちゃんは、孫さんの隣の「于」という家に引き取られていた。弟の隆造ちゃんも、近くの「朱」という家で育てられていたが、転居後に行方がわからなくなり、蓉子ちゃんがおんぶしていた赤ちゃんは蒙古人にもらわれていった、という。
 《私たちようだいは、会おうと思えば 会える距離に住んでいたわけですが、蓉子ちゃんたち姉弟は遠く離ればなれになって、かわいそうでした。そして蓉子ちゃんも、義父の転勤で、私たちのところを離れて行きました。その後もあちらこちらに動いたようですが、やがて、病気で亡くなったと聞きました》
 彼女の死を知った日、一晩泣き明かした。
 《その次の晩、私は蓉子ちゃんの夢を見ました。蓉子ちゃんはとても寒そうにして、私の服を引っ張るのでした。「どうしたの、寒いの?」と聞いても、返事をしないで、ただ黙って引っ張るばかりでした。
 ハッとして目覚めた後もそのことが忘れられず、孫おじさんや奥さんに話しました。二人はとても悲しそうに黙っていました》
 忍さんは、それから1年の半分を孫さんの家、残りの半分を趙さんの家で、と交互に過ごした。しかし、趙家の場合、《奥さんは私にあまり良い気持ちを持っていなかったようで、いつも不機嫌でした。夫婦げんかが多くなり、趙さんは奥さんを棒でたたいたり、殴ったり、ののしったりしました。すると、また奥さんは私につらく当たるのでした》という状態だった。
 一枚の布団もないほど貧しい趙家では、一人増えた忍さんを育てるのが大変だったのだ。それは忍さんにもよくわかっていた。貧しい生活は構わないが、奥さんの顔を見るのもいやになり、忍さんはもう一方の孫おじさんに「趙家を出たい」と相談しました。おじさんは「趙家では、お前が大きくなったら長男の嫁にしたいと考えているんだよ」と言って許してはもらえなかった。
 《年月が流れ、中国語も覚えましたが、奥さんからひどい悪口や小言を言われると、中国語がわからなかった時よりつらくてなりませんでした。いっそ死んだ方が…と洮児(トウル)河へ行き、流れを見ながら涙があふれました。しかし、別れている弟や妹の顔が目の前に浮かんできて、死ぬことはできませんでした》
 こうした悲しさ、つらさも一年の半分を過ごす孫家で暮らすうちに忘れた。忍さんは「優しい孫夫婦を養父母と決め、何でも手伝い、仕事を覚えていった」という。寒い冬の間、細く、小さなランプの炎のそばで、養母から一針一針、布靴や綿入れ服の縫い方を習った。夜遅くなって眠くなると顔を洗って、十二時、一時まで頑張った。
 いつの間にか、言葉も不自由なく話せ、家や畑の仕事も家畜の世話も一人でできるようになった。気がつくと、忍さんは15歳、立派な娘に成長していた。「嫁さんに」という話も舞い込んだが、忍さんは「いままで育ててもらった趙家の申し出を断ることは出来ない」と断り、三年後、趙家の長男と結婚した。
 それまでにも、他の中国人の大人の人や子供たちからは「日本小鬼子(リーベンショウクイズ)」といじめられることは多かったが、結婚すると村の人たちは忍さんの背中に意地悪な、はやし言葉を投げつけた。一生に一度の結婚まで悪口を言って、と忍さんはくやしさに、しばしば涙を流した。


     

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