-NO509~513
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『回想 本島等』 NO3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 2016年5月27日にオバマアメリカ大統領が、現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問するにあたって、日米のメディアが、それぞれアメリカの原爆投下について、大統領の「謝罪」問題を取り上げました。

 様々な議論がありましたが、「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)には、本島等元長崎市長が、このアメリカの原爆投下を”「赦す」と言わなければならない”と主張していたことや、その考え方について触れた論考があります。

 菅原潤(元長崎大学教授・日本大学教授)が、『原子野の「ヨブ記」』に収められた無名の男性の証言から、本島等元長崎市長が、同じカトリック信者である永井隆(被爆医師)の「浦上燔祭説」を読み解く鍵を見出したことを紹介し、”本島等による「浦上燔祭説」の解釈をめぐる一考察”を書いているのです。

 「浦上燔祭説」というのは、1945年11月23日、原子爆弾死者合同葬の弔辞で、永井隆が展開したカトリック信徒としての考え方です。被爆医師である永井隆は、弔辞で「燔祭」(ハンサイ=ホロコースト)という言葉を使いました。その「燔祭」という言葉に注目した高橋真司教授が、その弔辞を「浦上燔祭説」と呼んで批判して以降、永井隆が「弔辞」で展開した考え方が、「浦上燔祭説」と呼ばれるようになったということです。

 「原爆投下は仕方なかった」という発言で物議を醸し、アメリカの原爆投下を”「赦す」と言わなければならない”と主張した本島元長崎市長の考え方に関わる重要な文章であるとともに、永井隆医師を恩師の一人とする秋月辰一郎をして”「原爆の長崎」「長崎の永井」というイメージが全国を風靡した”といわしめるきっかけとなった「弔辞」なので、全文を含む関係部分を抜粋しました(資料1)。

 この弔辞は、永井隆の「長崎の鐘 マニラの悲劇」の中に出てくるのですが、そのなかの「浦上が選ばれて燔祭に供えられたることを感謝致します」には、正直私も驚き、どのように受け止めるべきか戸惑いました。
 でも、この弔辞の考え方は、傷つきながらも生き残ったカトリック信者を慰め、家族や親しい人たちを失った信者に生きる力を与えるためには、最も効果的な考え方ではないかとも思いました。
 ただ、それは戦争に関わる国際社会の歴史を振り返り、その歴史を社会科学的に分析したり考察したりする考え方はもちろん、被爆体験をもとに、非人道的な原爆投下にいたる戦争の原因やその責任を追及し、核のない世界平和を実現しようとする考え方とは、次元の異なる宗教的な考え方のように思いました。

永井隆の「長崎の鐘 マニラの悲劇」の全文が掲載されている「日本の原爆記録」(日本)図書センター)には、著者永井隆の「自序」がありますが、そこには、「原子爆弾について知りたいとだれも思っています。その場に居合わせていた私は、見たこと聞いたこと調べたこと感じたことをそのまま知らせたいと思いました」と書いています。また、「この本の目的は、原子爆弾の実相をひろく知らせ、人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせるにあります」とも書いています。

 確かに、政治的レベルで考えれば、永井の弔辞は、高橋教授がいうように日本の戦争指導層の責任を免除し、また、原子爆弾を投下したアメリカの責任をも免除してしまう内容のものだと思います。でも、永井は「人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせる」ことを意図して「長崎の鐘 マニラの悲劇」を書いたと言っていることを見逃すことはできません。永井の「弔辞」の内容と「人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせ」ようとする意図とは、直接つながるものではないからこそ、本島元長崎市長が、永井の「浦上燔祭説」をどのように読み解き、どのように受け継いでいるのかということを、理解したいと思いました。

 資料2は、永井を恩師の一人とする秋月辰一郎医師(被爆当時浦上第一病院、戦後、聖フランシスコ病院に改名)が、自身の著書『長崎原爆記』と『死の同心円』で展開したという「弔辞」に対する批判的な考え方が読みとれる文章の一部と、色紙に書き記された文章です。永井の「浦上燔祭説」を読み解く上で、踏まえておかなければならない文章だろうと考え、「長崎にあって哲学する・完」高橋真司(北樹出版)から抜粋しました。 

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          「ナガサキ」から「フクシマ」へ
          ───  本島等による「浦上燔祭説」の解釈をめぐる一考察 ─── 
                                      菅原 潤 / 日本大学教授・元長崎大学教授
四 原爆投下を「赦す」ことの背景
 原爆投下を赦す発言としていちばんまとまっているのは、1996年の軍縮問題資料の冒頭にある次のような一節である。

”被爆者をはじめ日本人の心の中に原爆投下に対する限りない憎しみの念が燃えさかっていることだろうが、広島、長崎の被爆者たちは、被爆51年目の今日、アメリカの「原爆投下」を「赦す」とはっきり言わなければならない。
 被爆者をはじめ日本人は、心を冷静にして、アジア、太平洋戦争の侵略と加害の深い反省と謝罪を考えながら、原爆投下によって、無差別に大量虐殺された原爆の犠牲者に代わって、アメリカの原爆投下を「赦す」といわなければならない。 
 太平洋戦争は、日本の真珠湾攻撃にはじまり、広島、長崎の原爆投下によって終わった。日本人は、真珠湾の奇襲攻撃をアメリカに謝罪し、アメリカは日本への原爆投下を日本に謝罪しなければならない。
 日本人が謝罪しない限り、アメリカは原爆投下は正当であったと言い続けるだろう。
 私たち日本人が、原爆投下を赦さなければならない理由は、中国をはじめアジアの人たちが、日本の15年にわたる侵略と加害を「赦す。そして決して忘れない」と言っていることである。
日本人が中国はじめアジアの人たちに赦しを請い続ける条件は、アメリカに原爆投下の無差別、大量虐殺を赦すと言うことである。”

 注意しなければならないのは、アメリカによる原爆投下を「赦す」にあたって、日本による侵略戦争の被害者である、中国をはじめとするアジア諸国の立場を考慮していることである。先に触れたようにこの発言の4年前に本島は、在日韓国人の被爆者の補償を問題にしている。それゆえ本島は、被爆者の差別を決しておこなわないようにする考えから出発して、視点を次第に国内から国外へと向けていくうちに、国内の被爆者を特別視する見方を補正するようになり、それが「原爆の犠牲者に代わって、アメリカの原爆投下を「赦す」」という発言にいたったと考えられる。
・・・

五 いわゆる「浦上燔祭説」について

 それでは手短に、永井隆について紹介しておきたい。永井は1908年に松江市にて出生、長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入学後は当初内科を専攻する予定だったが耳の病気が理由で断念し、放射線医療を専攻することとなった。戦時中はフィルム不足のため肉眼での透視によるX線検診を続けたことが原因で白血病にかかり、原爆投下の二ヶ月前の診断では余命3年と宣告された。
 1945年8月9日の原爆投下の際に永井は爆心地からわずか700メートルしか離れていない勤務先にいたが、昏睡状態におちいりながらも一命を取りとめた。けれども大学在学中に結婚した潜伏キリシタンの末裔である妻は死去し、そうしたなかで懸命な救護活動をおこなった。自らの療養のため設けた庵の如己堂にて死去したのは、1951年である。
 これから検討したい永井の発言は、原爆投下から約三ヶ月後の1945年11月23日におこなわれた、原子爆弾死者合同葬弔辞である。かなりの長文になるが、これまで激しい論争があった経緯を踏まえて、全文引用することとする。
ーーー 
 昭和20年8月9日午前10時30分ごろ大本営に於て戦争最高指導者会議が開かれ降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち午前11時2分、一発の原子爆弾が吾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これと全く時刻を同じうして大本営に於ては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。8月15日終戦の大詔が発せられ世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は聖母の被昇天の大祝日に当たっておりました。浦上天主堂が聖母に捧げられたものであることを想い起します。これらの事件の奇しき一致は果たして単なる偶然でありましょうか?それとも天主の妙なる摂理であありましょうか。

 日本の戦力に止めを刺すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備日標たりし長崎に落とすこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍事工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話を聞きました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行機は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来たられたものと解釈されないこともありますまい。

 終戦と浦上壊滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が祭壇に屠られ燃やされるべき潔き羔として選ばれたのではないでしょうか?
 智恵の木の実を盗んだアダムの罪と、弟を殺したカインの血とを承け伝えた人類が神の子でありながら偶像を信じ愛の掟にそむき、互いに憎しみ殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を捧げて神にお詫びをせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下せ給うたのであります。

 信仰の自由なき日本に於て迫害の下4百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ神の祭壇に捧げられるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって今後更に戦禍を蒙る筈だった数千万の人々が救われたのであります。
 戦乱の闇まさに終り平和の光さし出ずる8月9日、此の天主堂の大前に焔をあげたる嗚呼大いなるかな燔祭よ! 悲しみの極みのうちにもそれをあな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎみたのでございます。汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。
 敗戦を知らず世を去り給いし人の幸よ。潔き羔として神の御胸にやすたう霊魂の幸よ。それにくらべて生残った私らのみじめさ。日本は負けました。浦上は全くの廃墟です。みゆる限りは灰と瓦。家なく衣なく食なく、畑は荒れ人は尠し。ぼんやり焼跡に立って空を眺めている二人或いは三人の群。
 あの日あの時この家で、なぜ一緒に死ななかったのでしょうか。なぜ私らのみ斯様な悲惨な生活をせねばならぬのでしょう。私らは罪人だからでした。今こそしみじみ己が罪の深さを知らされます。私は償いを果たしていなかったから残されたのです。余りにも罪の汚れの多き者のみが神の祭壇に供えられる資格なしとして選び遺されたのであります。

 日本人がこれから歩まねばならぬ敗戦国民の道は苦難と悲惨にみちたものであり、ポツダム宣言によって課せられる賠償は誠に大きな重荷であります。この重荷を負い行くこの苦難の道こそ罪人吾等に償いを果たす機会を与える希望への道ではありますまいか。福なるかな泣く人、彼等は慰められるべければなり。私らはこの賠償の道を正直に、ごまかさずに歩みいかねばなりません。嘲られ、罵られ、鞭打たれ、汗を流し、血にまみれ、飢え渇きつつこの道をゆくとき、カルワリオの丘に十字架を担ぎ登り給いしキリストは私共に勇気をつけてくださいましょう。
 
 主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたることを感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本に信仰の自由が許可されたことを感謝致します。
 希わくば死せる人々の霊魂天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。
 アーメン。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        第2編 秋月辰一郎 ―  長崎の被爆医師

第3節 『死の同心円』復刊の意義

 ・・・

 長崎に投下された原爆をどうとらえるか。それを戦後、いちはやく定式化したのが秋月の恩師の一人、永井隆であった。秋月の主著『長崎原爆記』と『死の同心円』には、永井の長崎原爆の受け止め方(思想化)に対する微妙な異議申し立てが見出される。秋月の文章を引いてみよう。

 

 〔永井〕先生は肉体を蝕まれ、衰弱が激しくなるにつれて、つまり白血病の進行と反比例して、被爆地ののろしとなり、全国の耳目を集めた。信仰的にも人間的にも、先生は、浦上の信徒が、長崎の人々が復興するための中心的存在になった。その文才、詩情、心情、絵心、そういったものが、先生の肉体の衰えとは逆に、やがてはなやかに開花していくのである。
 先生が長崎の原爆を世界に紹介した功績は大きい。”原爆の長崎””長崎の永井”というイメージが日本全国を風靡した。しかし、その訴えが、いささかセンチメンタルにすぎ、宗教的に流れてしまったきらいがないではない。そのために、長崎の原爆は、永井博士が一人で証言を引き受けたような結果になってしまった。放射能の二重苦に悩まされ、肉体的に疲れ果てていた先生は、原爆というものを宗教的にとらえるよりほかはなかったのだろう。

 わずか一、二小節の引用ではあるが、なんと行き届いた理解であり評価であろう。師の永井隆を浦上の信徒、長崎の復興の「中心的存在」として肯定的に評価しつつも、なおその訴えが「いささかセンチメンタルにすぎ、宗教的に流れたきらいがないではない」と、二重否定の論理を用いて、慎重のうえにも慎重に書き記すのである。

 ・・・

図2-1 秋月辰一郎色紙  

 私は永井先生の「神は、天主は浦上の人を愛しているがゆえに浦上に原爆を落下した。浦上の人びとは天主から最も愛されていたから何度でも苦しまねばならぬ」といった考え方にはついていけないものを持っている 
                                                         聖フランシスコ病院 秋月辰一郎



ーーーーーーーーーーーーー本島等元長崎市長 「広島よ、おごるなかれ」ーーーーーーーーーーーーーー

『回想 本島等』 N04

 本島等元長崎市長の、下記「広島よ、おごるなかれ」の主張と関連して、無視することなく、対応しなければならないと思ったことが3つあります。

 まず、2015年5月、欧米を中心とする187人もの日本研究者や歴史学者が連名で、「日本の歴史家を支持する声明」(Open Letter in Support of Historians in Japan)と題する文書を発表した件です。その文書は首相官邸にも送付されたといいます。日本の歴史認識を懸念する声が、海外で強まっていることがわかります。その文書では、特に深刻な問題として「慰安婦」問題を挙げていますが、それだけに止まるものではなく、日本の植民地支配や戦争における加害の認識にも、懸念があるのだろうと思います。やはり、歴史認識は歴史学者や研究者の客観的研究に基づくべきで、「結論ありき」の政治家や活動家に左右されてはならないと思います。

 次に、同じ2015年08月に、中国メディア・人民網が、ドイツメディアの日本批判を取り上げ、報じたという問題です。それは、ドイチェ・ヴェレの評論記事で、「平和を作り出すのは軍備ではなく和解だ」として、「日本が平和の意志を示したいのであれば、歴史を正視することが必要だ」と指摘し、「終戦から長い年月が経ったが、アジアの国々で働いた数々の暴行を差し置いて、日本は戦争被害者の身分を強調している。だが、日本はなにより戦争の加害者である。日本は今日まで歴史を反省して近隣諸国と和解することを拒んできた」というものです。
 残念ですが、頷かざるを得ない指摘だと、私は思います。社会科の教科書からは、次々に日本軍の戦争犯罪や加害の事実が消え、それらを後世に伝えようとする取り組みも一層難しくなっているように思います。
 また、日本には戦争被害を知ることのできる資料館や記念館、記念碑は多いですが、日本軍の戦争犯罪や加害の事実を知ることのできる資料館、記念館、記念碑は、様々な困難を乗り越えて自主的に運営されているごくわずかなものをに限られているのが現状ではないでしょうか。本来、日本には、国として戦争被害の事実のみならず、加害の事実も後世に伝える義務があると思います。

 三つ目は、先日、その報道姿勢が世界的に高く評されているフランスの「ル・モンド」紙が、伊勢志摩サミットにおける安倍首相の発言を取り上げ、「安倍首相の根拠のないお騒がせ発言がG7を仰天させた」というような見出しの記事を掲載したという問題です。安倍首相が都合のよい資料を使い、世界経済の現状が「リーマンショック前の状況とそっくりだ」と言って、各国に財政出動を促したことを問題視したようです。ドイツのメルケル首相やイギリスのキャメロン首相が「世界経済は安定成長への兆しをみせている」として、同意しなかったことは一部日本でも報道されました。でも、サミット開催国の首相の発言が、このような形で真っ向から批判されることは、異例ではないかと思います。問題は、安倍首相の発言が、あまりにも政治的で、ご都合主義的解釈に基づくものであっただけではなく、かなり信頼を失っている証拠ではないか、と思われることです。世界平和のためにも、国際社会で、広く信頼を得る努力が必要だと思います。

 こうした状況にあるからこそ、私は、本島等元長崎市長の「広島よ、おごるなかれ」という主張を、しっかり噛み締めなければならないと思います。特に、「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ・・・」の詩で有名な原爆詩人「峠三吉」に対する「峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ」という呼びかけが、強く印象に残りました。
 下記の文章は「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)から抜粋しました。
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「広島よ、おごるなかれ
 原爆ドームの世界遺産化に思う」
(平和教育研究年報vol24・1966、広島平和研究所 1997年3月)
1、中国、米国に認められなかった原爆ドームの世界遺産登録
 メキシコ、メリダで開かれた世界遺産委員会で、日本が推薦した「広島原爆ドーム」が世界遺産に登録されることに決定した。
 今回の登録は、米国、中国、日本、メキシコ、フィリピンなど21カ国の代表の合意で決定するものだった。
 「広島原爆ドーム」は原爆の悲惨さ、非人間性をすべての国で共有、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として推薦された。しかし登録決定の過程で、米国と中国が不支持の姿勢を示した。
 米国は世界遺産登録に参加しない。「米国が原爆を投下せざるを得なかった事態を理解するには、それ以前の歴史的経緯を理解しなければならない」と指摘、「こうした戦跡の登録は適切な歴史観から逸脱するものである」と主張した。
 中国は「われわれは今回の決定からははずれる」と発言した。
 このようなことは満場一致で、拍手のなかで決定されるべきものである。
 私は、この記事を新聞で見て、日本のエゴが見えて、悲しさと同時に腹が立った。
 広島は原爆ドームを、世界の核廃絶と恒久平和を願う、シンボルとして考え、中国、米国は日本の侵略に対する報復によって破壊された遺跡と考えたのである。どちらの考えが正しいかは、日本軍の空爆によって、多くの人々がもだえ死んだ重慶の防空壕や真珠湾に沈むアリゾナ記念館が世界遺産に登録されるときの日本の心情を思えば「原爆ドーム」を世界遺産に推薦することは、考えなければならなかったことと思う。
 アジア、太平洋戦争は、90%中国と米国を相手とした戦いであった。両国の不支持はまさに「恥の上塗り」であった。
 アジア、太平洋戦争については日本と中国、米国との間には、共通の認識と理解が成立していない。広島に大戦への反省があれば、世界遺産登録はなかったと思う。
 広島の被爆者たちは「核兵器廃絶のスタート地点に立とう、という世界の意志が読みとれる」と歓迎している。しかし、中国、米国が核兵器廃絶のスタートには立たないと言っているではないか。
 「何よりも、原爆は、この国ではいつもそうであるように、歴史、因果、責任、さらには政治と権力から隔絶した記憶の中に自由に漂う、世界の悲劇的真実として扱われた。原爆投下の原因より、原爆の惨事そのものに関心を集中する傾向は、第二次大戦に対する日本社会全体の態度を表している。このような態度のおかげで、戦争責任を問われた時、日本はドイツよりも素直さに欠けるようになってしまった」
 原爆の惨害は多く語られている。しかし原爆投下の原因はかたられることは少ない。私はここでそれを語らなければならない。広島は戦争の加害者であった。そうして被害者になったということを。

2、なぜ原爆は投下されたのか
なぜ原爆投下は、喜ばれたのか


一、日本の最重要軍事基地、広島 ・・・略
二、アメリカ人たちの憤激 ・・・略
三、原爆投下ーアメリカの声明  ・・・略

四、世界は、広島の原爆投下を喜んだ
(1) 戦後フランスで最も活動的な作家、ボーヴォワールの『レ・マンダラン』(1954)に作者とサルトルとカミュが登場する。
 3人は南フランスを旅行中、新聞を買った。巨大な見出しで「米軍ヒロシマに原子爆弾を投下す」 日本は疑いもなく間もなく降伏するだろう。大戦の終わりだ…各新聞は大きな喜びの言葉を重ねていた。しかし3人はいずれもただ、恐怖と悲惨の感情しか感じなかった。
 「ドイツの都会だったら、白人種の上だったら、彼らも敢えてなし得たかどうか疑問だね。黄色人種だからね、彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」このようにフランスの新聞にとっては原爆投下は大きな喜びであった。 
(2) シンガポールのセントサ島の「ワックス(ロウ人形)博物館」の、第二次世界大戦コーナーでは、広島の原爆雲と焼け野原の市街地の写真が展示されている。
 それも、上下は天井から床まで、横幅はその2倍ほどの大きさで。それは、他の展示物に比べて、ひときわ大きいものである。また、他の展示物が戦時下のマレー半島とシンガポールのことばかりであるのにくらべて異質なものである。なぜ、広島の原爆投下が強調されるのか。
 1942年2月15日シンガポールは陥落し、3年8ヶ月、日本に占領された。日本軍は華僑の抗日組織を探すために、シンガポールの華僑20万人を集めた。検問する憲兵も、各部隊から集められた補助憲兵も中国語も英語も満足に話せなかった。当然の結果として、検問は、おおよそでたらめなものだった。日本側は戦犯法廷で華僑6千人を虐殺したといっているが、現地では数万人虐殺されたといわれている。
 シンガポールの人びとにとって、広島の原爆は日本の敗北を決定づけ、自分たちの死の苦しみから解放してくれた「神の救い」であったことを意味している。

五、中国、方励之 ー(中国の反体制物理学者、天安門事件のアメリカに亡命)
 最初に原爆の歴史を眼にするために、私は広島に行った。資料館の配置はゆきとどいており、被爆後の惨状をよく復元していた。
 原爆投下はまことに驚くべきものであった。六千度の高温、九千メートルものきのこ雲、強い高圧、大火と黒い雨、熱風。
 焼死した者、潰されて死んだ者、反射熱で死んだ者、即死し、つぎつぎと息絶えていった。このようなありさまに心を傷めぬ者があろうか。
 毎年八月六日、ここで式典が催され、西欧人も参加し、平和を祈願する。
 だが中国人である私は、解説の最後のことばをそのまま受け入れるわけにはいかなかった。『戦争の名の下に大量殺人を許してはならない』ー このことば自体は間違っていない。
 しかし、ある種の日本人から中国人にむかって言われるべきことばではない。
 広島は明治になって、軍事基地化した。瀬戸内海最大の軍艦造船所を持ち、日清戦争の前進基地とされた。戦争の名の下に中国人を殺すことはこの街から始まった。だから広島の壊滅は仏門のことばでいえば因果応報なのである。
 もとより、多くの罪なき者がこの報いに遭ったことは、まことに悲惨なことである。
 けれども、広島がこの百年の戦禍のうち最大の受難の地、最も心を傷めるに値する場所で、それゆえに平和のメッカ、ヒューマニズムを心から愛する聖地だというのであれば、私はやはり断固として、首を横に振るだろう。なぜなら、日本軍の爆撃によって、万にのぼる人がもだえ死んだ重慶の防空壕の跡、南京の中華門に今も人目につく弾痕。中国こそこの百年間の戦争における、最大の受難の地なのである。悲惨の程度においても、悲惨の量においても。
 にもかかわらず、中国じゅう、どこへ行っても平和記念公園は一つもない。一年に一度の慰霊祭のための国際大会もない。慰霊の常夜灯も、その前に置かれた献金箱もない。
 もしかすると、一つの民族も一個人も同様に、あまりにも悲惨すぎると、泣くことも、わめくこともしなくなるということがあるのかも知れない。

3、広島に欠ける加害の視点
  峠三吉の「原爆詩集」を読んで
  ちちをかえせ ははをかえせ
  としよりをかえせ こどもをかえせ
  わたしをかえせ わたしにつながる
  にんげんをかえせ
 峠三吉は、36年の生涯のうち、戦後わずか8年生きて、原爆の非人間性を告発し続けた原爆詩人の第一人者である。
 峠三吉は誰にむかって「ちちをかえせ ははをかえせ」と言っているのだろうか。
 この詩を読んで、私は日本軍が中国、華北で繰り広げた「三光作戦」を思い起こした。
 日本軍は中国華北において、特に1940年、中国共産党、八路軍と「百団大戦」を戦い、たいへんな痛手を受けた。この戦いで、日本軍は八路軍とそれを支える抗日根拠地の実力を知った。
 そこで抗日根拠地の討伐作戦をおこない、村や集落を焼き払って「無人区」にした。その残虐さがあまりにも凄まじいものであり、中国側はこれを「三光作戦ー①殺光(殺しつくす)②焼光(焼きつくす)③搶光(奪いつくす)」と名づけた。
ー中国華北でー
 私の部隊は毎日、谷間に残る家を焼き払い無人地帯から立ち退きに遅れた人びとを射殺しました。ある時、谷間に一軒家があるのを見つけました。家の中には年老いてやせ細った重病人と二人の男の子がいました。まず屋根に火をつけました。老人は焼け落ちる梁の下で焼け死にました。そのとき、焼ける屋根の下で、ボロを着てはだしで恐怖に震え、立ちすくみ、父母の名を呼んで泣きじゃくり、目は日本鬼子を見据え、銃弾をあびて血しぶきをあげてふき飛んで死んだ幼い二人の男の子。
ー広島ー
 日本侵略軍の根拠地、最重要軍事基地広島に原爆が落ちて、熱と爆風と放射線でボロぎれのような皮膚をたれ、焼けこげた布を腰にまとい、泣きながら群れ歩いた裸体の行列、片眼つぶれの、半身あかむけの丸坊主、水をもとめ、母の名をつぶやきながら死んだ娘。
 この三人の子どもの死はどちらが重かったか。
 峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ。悪いのは日本だよ。無差別、大量虐殺も日本がはじめたことだよ。原爆の違法性は言われているよ。しかし世界中原爆投下は正しかったといっているよ。原爆で日本侵略軍の根拠地、広島は滅び去った。広島、長崎で昭和20年8月から12月まで約22万人が被爆で亡くなった。
 日本侵略軍に、皆殺し、焼き殺され、何の罪もない中国華北は無人の地となった。
 1941年~43年までに247万人が殺され、400万人が強制連行された。
「ちちをかえせ ははをかえせ 何故こんな目に遇わねばならぬのか」
 峠三吉よこのことばは、親を皆殺しされた、中国華北の孤児たちのことばだったのではないか。広島に原爆を落としたのは「三光作戦」の生き残りだったのではないか。

むすび
 原爆の被害は人間の想像をこえるものであった。特に放射線が人体をむしばみ続ける恐ろしさ。しかし、日本の侵略と加害による虐殺の数は原爆被害をはるかにこえるものであった。
 今、われわれがやらなければならぬことは中国をはじめアジア、太平洋の国々と国民に謝罪することである。心から赦しを乞うことである。日本の過去と未来のためにも。
 しかし、そのための条件は、日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、広島と長崎が、原爆投下を赦すということである。怒りや憎しみは個人にとっても、国家にとってもよいことではない。娘を殺された父親が相手を殺すというように、赦しえないことを赦す考え方、それが必要である。
 広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきであろう。二十一世紀は「和解の世代」でなければならない。
 核兵器のない世界への努力と、「和解の世界」への努力は同一のものでなければならない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー本島等 の思想ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 『本島等の思想 原爆・戦争・ヒューマニズム』編・監修 平野伸人(長崎新聞社)「Ⅳ 原爆投下は正しかったか」の中に、下記の「なぜ私は『謝罪』を言うか 民衆にも加害責任がある」という文章があります。私は、こうした本島元長崎市長の主張が、日本社会で受け入れられなければ、日本の将来は決して明るいものにならないと思います。

 昨年、日韓外相会談で、日本軍の従軍慰安婦問題を最終かつ不可逆的に決着させるという日本国政府と大韓民国政府との合意が図られました。でも、どういうわけか高校の公民教科書(数研出版)から「従軍慰安婦」と「強制連行」が含まれる記述を削除する訂正申請がなされ、文部科学省がこれを承認したという報道がありました。なぜでしょうか。加害の事実はなかったことにして、「従軍慰安婦問題」を決着させようというのでしょうか。

 日韓合意に関して安倍首相は、日韓両政府が従軍慰安婦問題の最終的解決を確認したことについて、「私たちの子や孫の世代に、謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない。その決意を実行に移すための合意だ」と述べたといいます。日本の将来世代に責任を残さないための日韓合意が、「従軍慰安婦」や「強制連行」という言葉を含む歴史記述の削除につながるのでしょうか。不都合な加害の事実を後世に伝えず、なかったことにしようとすることは、ドイツの敗戦四十周年のときに、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が述べたという下記文章中の言葉と、正反対の内容であると言わざるを得ません。

 2015年5月、欧米を中心とする187人もの日本研究者や歴史学者が連名で、「日本の歴史家を支持する声明」(Open Letter in Support of Historians in Japan)と題する文書を発表した件については、すでに触れましたが、その文書では
確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。”
として
 ”20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。”
と結論づけているのです。

 また、国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏の報告は、1996年4月国連人権委員会で、その”作業を「歓迎」し内容を「留意」する”という決議をもって受け入れられていますが、クマラスワミの日本に対する勧告には、「歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること」という内容が含まれています。

  さらに、1998年8月国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で報告され、「歓迎」するという形で決議が行われたマクドゥーガルの報告書でも、その附属文書で日本の慰安婦問題を取り上げ、”刑事訴追を保証するための仕組みの必要性”を含む4つの勧告をしています。

 それらを事実上無視すような安倍政権の姿勢が、「日本の歴史家を支持する声明」の発表をもたらしたのではないでしょうか。本島元長崎市長が主張するように、しっかりと加害責任に向き合わなければ、日本が国際社会の信頼を得ることはできないと思います。

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 「なぜ私は『謝罪』を言うか 

 民衆にも加害責任がある」
                                                             (論座1997年11月号)
 長崎の原爆犠牲者慰霊平和記念式典では毎年、平和宣言が読み上げられる。私が長崎市長のときに、この宣言に日本の加害の歴史に関する「謝罪」の言葉を加え、現在の伊藤一長市長のときも含めて昨年までの7年間、そのように宣言されてきた。しかし、、今年の平和宣言では「謝罪」の言葉は削除され、伊藤市長は、これは国の問題であるとして、「過去の戦争についての国家としての謝罪と誠実な戦後処理」を政府に求めるに至った。
 しかし、戦争の加害責任は国だけの問題なのだろうか。一人ひとりの市民に責任はないのか。一自治体の、しかも被爆地の市長として、なぜ平和宣言において「謝罪」を語ってきたのか。そしていまも言い続けるのか。あらためて述べたいと思う。

 私が今日まで読んだ「被爆体験」のなかで最も感激したのは、伊藤明彦氏の著書『原子野の「ヨブ記」』(径書房)である。
 原爆が投下されたとき八歳であった伊藤氏は、後に長崎の放送局に入社し、「被爆を語る」というラジオ番組を制作した。放送局をやめた後、全国を放浪しながら、北は青森県から南は沖縄・宮古島まで二千人の被爆者をたずね歩き、うち半分の人には断られ、千二人の話を収録した。広島の被爆者571人、長崎409人、二重被爆者3人、第五福竜丸の乗組員ら19人である。その後、伊藤氏はカセットテープ版の「被爆を語る」を制作し、全国900余りの平和資料施設、公共図書館、大学、高校の図書館へ寄贈した。
 伊藤氏は、長崎海星高校に学び、早稲田大学を卒業した。彼の最も尊敬する深堀勝先生は、古い浦上キリシタンの子孫で、熱心なカトリックの信者であった。

 民衆も戦争の遂行者だった
 被爆者も例外ではない
  本の名にある「ヨブ記」とは、旧約聖書のなかの代表的な智恵文学であり、紀元前五世紀ごろのパレスチナにおいて完成されたものである。
 深堀先生は旧市内で被爆し、爆心の自宅焼け跡へ駆けつけたが、父、妻、妹、そのとき一緒にいた家族のすべてを失った。くずおれた先生を立ち上がらせたのは、「主は与え、主は取り給う。御名は賛美せられよ」という「ヨブ記」の一節であった。

「全知、全能の創造主は幸福を与える、また幸福を奪うこともある。しかし常に神の名は賛美されなければならない。原爆という不幸なときも・・・」
 少し長くなるが、この『原子野の「ヨブ記」』を引用したい。本の中で、伊藤氏はこう語っている。
──  被爆者手帳所持者を一応被爆者と呼んでいますが、「典型的人間」がどこにもいないように、
「典型的被爆者」どこにもいません。多様な、豊かな姿で、原爆と人間との関係を生き抜いている被爆者がいるだけです。
 「あの日は晴れて朝からとても暑い日でした。私は…」
 長崎で被爆者の体験の録音をはじめたころ、被爆者の体験談の多くはこのようにしてはじまりました。
 その人を被爆せしめるにいたった戦争の影がないのです。
 まず戦争があって原爆被爆にいたった、戦争とその人との関係を問うのでなければ、その人と被爆の本当の関係もわからない。被爆とは何かがわからない。相手の戦前の生活、その人と戦争との関係を話してもらうように努めました。戦争との関係が一人ひとりによって極めて多様で、その中に一人ひとり、あらゆる濃淡を持って被害者、加害者の両方の性質がないまぜになっていることを知りました。
 一般市民もことごとく他民族蔑視の世界観を信じ、食料、物資の窮乏に苦しみ、一切の市民的自由はなく、日常生活の隅々まで監視され、互いに監視し、住居を追われ、引き倒され、竹槍でわら束を突き、ルーズベルトやチャーチルの似顔絵を踏み、「現人神」の写真を礼拝し、その人の名前を自他いずれが口にしても直立不動となり、日の丸の鉢巻きをまき、真冬でも下駄履きの素足で歩調をとって「我が大君に召されたる」という歌を声高に歌いながら街頭を行進する人々でした。治安維持法による特高政治も、1943年頃はほとんどなくなって、侵略戦争へと走り続けました。
 アジア・太平洋戦争15年は、日本軍国主義者が企図したものであったが、戦争は国民の圧倒的な支持、声援によって遂行されたものでした。 
(中略)
 原子爆弾は市民の日常生活の上に不意に投下されたというが、その「日常生活」は異常な日常でした。こともなきのどかな「晴れて朝から暑い日」に突如核兵器が襲いかかってきたのではないのです。
 被爆せしめられるにいたった人々の絶対多数は、積極的な戦争協力者、鼓舞者、遂行者でした。国民をあげてのショ-ヴィニズム(狂信的愛国主義)の中で被爆者だけが例外であったと考えるのは、事の道理にあいません。戦争の最後に被爆したのですから。
 戦争を体験した世代からの言葉をどれほど聞いたことでしょう。
 しかし、「あの戦争がなかったら…」という表現は絶対多数でした。「私たちみんなの力であの戦争さえ許さなかったら…」という表現は希有でした。

 この『原子野の「ヨブ記」』を読んで、私はあらためて思う。被爆した広島、長崎の人々は原爆によって肉親を奪われ、生計の基盤を破壊され、いまなお被爆の後遺症による不安と苦しみにさいなまれている。しかし、それでもなお戦争責任はあることを申し上げなければならない。

 半世紀後になお求められる謝罪
 太平洋の小さな島国からも
 私は、アジア・太平洋戦争を正義の戦争と信じていた。しかし、私の考えは間違っていた。
 この夏、ミクロネシアの小さな島での出来事を、地元紙がこう伝えた。
「太平洋戦争中の激戦地タラワを首都とするキリバス(人口7万7千人)が、日本に戦争賠償を求めるため、戦争被害の調査委員会を設置、報告書を完成させていたことが明らかになった。人的被害では、日本軍占領下でハンセン病の患者、家族20人が海上に連れ出され射殺されたなど、これまで知られていなかった残虐行為が含まれているという。戦争中、日本軍によって殺された住民は536人だった」)(8月10日付西日本新聞)
 日本軍は平和な島で虐殺ばかりでなく島民を酷使したのである。この島民に謝罪しなくてもいいと言い張る日本人がいるだろうか。しかも、戦後50年の間、謝罪や賠償を怠ってきたのである。
 この島で、日本軍は玉砕したという。亡くなった日本兵は靖国神社にまつられるが、何の罪もなく殺された島民はどうなるのだろうか。私たち日本人は、その人たちを先にまつらねばならないはずだ。
 太平洋の小さな島国だけが、この夏、アジア・太平洋戦争を問題にしたのではない。
 米国ではリピンスキ下院議員(民主党)ら超党派の議員17人が今年7月25日、南京大虐殺や従軍慰安婦の強制など、第二次大戦沖に日本が行ったすべての「戦争犯罪」に対して、日本政府の公式謝罪表明と被害者への補償を求まる決議案を議会に提出した。ユダヤ人虐殺で正式謝罪したドイツ政府に比べて、日本の対応は遅れているというのである(7月26日付讀賣新聞)。
 95年8月16日には、「真の謝罪を求める海外紙」と題して、韓国、中国、オーストラリア、シンガポールの新聞記事や社説が朝日新聞に掲載された。たとえば、オーストラリアの全国紙オーストラリアンは、社説の中で「日本は自らの過去と誠実に向き合い、戦争中の侵略と残虐行為について謝罪することで誤りを正すべきだ」と主張している。

 銃後の市民も兵隊と一体だった 
 国民の熱狂が戦争を続けさせた
 このアジア・太平洋戦争は、前線の兵隊も銃後の市民もまったく一体となって遂行されたのである。
 広島の一部の人たちのい言う「戦争は国がやったのだ。われわれは原爆の犠牲者だ」と簡単に言えるものではない。
 日本軍が戦争に使用した被服、銃砲、弾薬など一切は日本国内で製造されたものだ。
 また朝鮮その他からの飢餓移出の米を食い、満州農民のコ-リャンを奪って食い、またベトナムの米も奪ったといわれている。広島、長崎をはじめ全国民が、男子は15歳から、女子は17歳から国民義勇兵であり、軍人関係、戦争遺族、徴用工、動員学徒、軍需工場関係など戦争と結びつかない人はほとんどいなかった。
 兵隊は、人々にとって祖父、父、息子、孫、親族、同級生、友人、会社や役所の同僚、後輩、夫、婚約者、恋人であった。出征兵士の家や田畑は守られ、武運長久が常に祈られた。
 その象徴は「千人針」である。私が知っている限り、日本軍のすべての将兵たちが、それぞれ千人の女性が心を込めてさした「千人針」を腹に巻き、武運を祈られていた。
 また、飛行機の材料や燃料の供出、慰問袋づくり、傷病兵の見舞い、戦時国債の購入など、みんな必死になって戦争に協力しつづけた。
 新聞は「日本軍の強くて正しいことをしらしめよ」などと日本軍を賛美する記事で紙面を埋めた。ジャーナリズムを通じて軍部を支援する国民の熱狂的な雰囲気は盛り上がり、政府は軍部を抑えることができなかった。
 冒頭に紹介した『原子野の「ヨブ記」』には、「プロ野球で広島カープが初優勝した夜の広島の町の雰囲気は、シンガポール陥落の夜のようでした」という、被爆者からの便りが紹介されている。著者の伊藤明彦氏は、「シンガポール陥落の熱狂が想像できる」と記している。
 戦争責任は国にあり、軍隊、兵士だけにあるのではない。被爆者を含めて一般の市民にもあると、私は思う。また、当時は幼かったり、生まれていなかった者も、祖先の負の遺産を背負うべきだという意味で、責任は及ぶのだと考える。
 
 ドイツの敗戦四十周年のときに、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領はこう述べた。
 「先人は容易ならざる遺産を残したのです。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされているのです。心に刻みつけることが、なぜかくも重要であるかを理解するために、老幼たがいに助け合わなければなりません。
 かつて海部首相は東南アジア歴訪やオランダ訪問の際に、過去の過ちを謝罪した。しかし、被害を受けた国の人々と日本国民の歴史認識の間には著しい落差がある。
 国会は95年6月に「戦後五十年決議」をしたが、そのなかに「追悼」や「反省」はあっても、「謝罪」の言葉はなかった。反省は「自分をかえりみること」謝罪は「罪や過去を詫びること」であり、「謝罪」こそが必要な言葉だった。しかも、この国会決議は衆院で採択されたものの賛成者は総数の半分に満たず、参院では採択見送りになったのである。
 ニューヨーク・タイムズ紙は、この決議を「誠実な謝罪というより、あいまいな内容を慎重に練り上げたもの」と評した。
 いくら首相が国の立場で反省や謝罪を口にしても、国民全体が過去の負の歴史を心に刻み、それをいつまでも背負っていく姿勢を示さなければ、被害を示さなければ、被害を受けた国の人々の理解は得られないだろう。日本人がいま謝罪を怠るならば、信義も道徳的誠実さもない国民として世界に記憶されるだろう。一人ひとりが加害責任を思い、心からの謝罪をすることなしに、歴史の過ちは清算されないどろう、と私は思う。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー油山事件 と左田野修ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 陶磁器の町、岐阜県多治見市で、戦後3年半にわたり身を潜め逃亡生活を送った戦犯、佐田野修。彼は、長崎に原子爆弾が投下された翌日、射手園少佐に米兵捕虜の斬首を命じられ実行したことを、手記に書き残しています。

 『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞)の著者小林弘忠氏は、そのあとがきに、「戦犯たちが、都合の悪い戦中戦後のことはほとんど押し黙ったままでいるのに、すべて自分をさらけ出した手記をしたためていたのは、斬首したアメリカ兵への深い哀惜と、逃亡せずに死刑判決まで受けた同期生に対する謝罪があったと思う。そのことは戦争への憎しみにつながっていたと私の目には映った。」と書いています。
 彼自身が手記に
順番に処刑者が友森大佐に敬礼して処刑を終えて行った。四番目に私は「次」と命じられたので、友森大佐に敬礼し、穴の前に坐らされている搭乗員の後に立った。未だ身体のふるえは止まらなかったし、戦争という条件を除いては、何等憎む所ない人を何故斬らねばならぬのか、戦争の罪深さを呪った。
と書いていますし、また、この斬首は合法的なのだ、と懸命に自らに言い聞かせていることから、著者の指摘は間違っていないと、私は思います。

 同書によると、左田野が関与した油山事件の1ヶ月半前の20年6月20日にも、西部軍司令部構内で8人の捕虜が殺害された事件あり、8月15日にも、約15名ノ捕虜飛行機搭乗員が油山火葬場付近の山中で、軍管区司令部職員によって処刑されているということです。
 「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)は、左田野が関わった連合軍飛行機搭乗員の日本刀による斬首事件、いわゆる「油山事件」は、公開であったことを明らかにしています。背景に、沖縄戦や原爆投下の報復的な意味があったという指摘もあり、戦争による憎しみの連鎖として、忘れてはならないことだと思います。
 米兵捕虜斬首によって戦犯として横浜軍事法廷で裁かれた左田野修は、逃亡中に働いたK陶器製造所でめきめきと焼成技術の腕を上げ、焼成部門になくてはならない存在となっていたばかりでなく、経理にも明るく、社長から、「わしの右腕になってくれ」と頼まれるような人物でした。また、まわりの人たちからも「忠さん」と呼ばれて信頼を得ていたということを考えると、彼の人生も、戦争によって憎しみの連鎖に引き引きずり込まれ、狂ってしまったと言えるのではないかと思います。戦後、戦犯として裁かれ処刑されることことを恐れて、逃亡生活を送りましたが、一人の人間として、自らの加害の事実を正直に手記に書き綴った姿勢は、評価されるべきではないかと思います。

 下記の文章は『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞)からの抜粋ですが、手記の部分には「ーーー左田野の手記」と加えました。
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                           第一章 橋のある町
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 この1月に福岡俘虜収容所第17分所長だった由利敬・元中尉、函館俘虜収容所第1分所長をしていた平手嘉一・元大尉、2月になってからは由利元中尉の後任所長、福原勲・元大尉にそれぞれ絞首刑判決が言い渡されているのを新聞で読んだ。ごく簡単な記事だったが、絞首刑の文字は、彼を打ちのめすには十分すぎる威力があった。
 死刑判決を受けた3所長たちは虐待を黙認し、捕虜を死に至らしめた罪で責任をとらされたようだ。
ほかにも連日のように、戦犯の罪科が新聞に書き立てられている。
 部下が捕虜を殴ったりして、結果的に死亡させた責任で上司が絞首刑になるなら、有無を言わさず日本刀で生身の捕虜の首を切り落とした自分は、それ以上の罪となり、少なくとも死刑は免れない。そう思うと胸の中の錘が肥大する。
 これから先、完全に別人となって暮らしていけるかどうか、まったく自身がない。逃亡を知ったら、警察は母や兄、姉妹たち家族をきつく訊問するだろう。それを考えると耐えられない。
 ・・・
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                           第二章 赤茶けた「告白録」
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 見つかった資料の中でもっとも少ないのは、久留米の予備士官学校や陸軍中野学校、西部軍など彼が在籍していた陸軍の学校、所属した軍隊に関するものである。在校中のことはのちに記述するが、とりわけ中野学校は、選ばれた秘密諜報将校を育成する特殊機関であったのは広く知られていて、胸を張っていいはずなのに、何もふれていないのは奇異に感じられる。なぜなのだろうか。
 同行のモットーは「中野は語らず」であった。戦時中はもとより戦後になってもいっさい口をつぐむのが彼ら情報戦士の受けた教育である。一時期はスパイ養成学校とみられていたこともあったが、最近は徐々にその実体が明らかにされつつある。
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                           第六章 幻の油山事件
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 同月10日。長崎に原子爆弾が投下された翌日であった。その9日は、依然続いている日本と米英を機軸とした連合軍との戦いに中立の立場をとっていたソ連が日本に宣戦を布告、日本軍が土壇場に追い詰められた記念すべき日だった。
 陸軍大臣阿南惟幾大将は、ソ連の参戦を受けて「全軍将兵に告ぐ」と、総軍に向けて訓示を発した。それは、「たとえ草を噛み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦ふところ死中活あるを信ず。是即ち七生報国、楠公の精神なるとともに驀直進前を以て醜敵を撃滅せる闘魂なり。全軍一人も残らず楠公精神を具現すべし。醜敵撃払に邁進すべし」という激烈なものだった。「われは七たび生まれ変わって国のために尽くす」との報国の気持ちを吐露したという南北朝時代の将、楠木正成の故事をなぞらえたものである。
 ・・・
────  処刑現場についての左田野自身が書いた手記の原文を紹介しておこう。記憶を頼りに、エンピツで後年したためたものだが、書くときにも動揺を隠せない状態だったのは、他の記事と異なって、削除、訂正の部分が多いことでもわかる。

ーーー左田野の手記

 射手園少佐は友森大佐の所へ行って何か話していたが、直ぐに帰ってきて処刑者を命令した。私はこの時、見習士官の中で一番か二番位の身長であったため、二列に並んだ前列の右翼にいた。

 射手園少佐は、見習士官全員を眺めていたが、やがて私の前に来て「左田野、お前斬れ」と直接命令した。単なる見学者だと計り思っていた私は非常に驚いた。瞬間、返答に躊躇した。日頃花を眺めたり、音楽を鑑賞したりする事を好む私の性質として、搭乗員を処刑すると言う様な残忍な事は考えるだけで嫌であった。然し乍ら「ハイ」と答えざるを得なかった。私は「ハイ」と答えた。
 其の理由は、命令を受けた以上は絶対服従を強要せしめられていたことは、初年兵以来受けた軍隊教育の鉄則であったからだ。日々の行動凡て命令、服従で覇束せられ、そこには自由意志に依る発言、行動等は豪も許されなかった。(略)そこには批判とか自己の意見を述べると言う事は絶対に許されなかった。自分は此の様な事をしては悪い結果を招来すると思っても、直ちに上官の命令に服従せねばならなかった(この部分は消してある、以下略)。
 私は「ハイ」と答えた後、この処刑が正規の処刑であり且つ合法的であると思った。名前も知らなかったが、法務将校の白いマークをつけた二人がいた。法務将校は権威的に見え、信頼感を与えた。何故ならば法務官が現場に立会っている以上、恐らく軍律会議の審判の結果、搭乗員達は死刑の判決を言い渡され、二人はその執行(の視察)に参列していると思ったからである。更に友森大佐が現場の処刑執行を指揮して居り、射手園少佐が其の指揮下で活動していた事実は、益々処刑の正当性を裏付けるものがあった。
ーーー

 彼は、右の文の(略)のところに、軍隊の命令がいかに厳しいものであるかを「陸海軍人に賜りたる勅諭」や対象12年(1923)9月1日の関東大震災に乗じ、甘粕正彦憲兵大尉が部下に命じて、無政府主義者の大杉栄らを殺害させた事件を引き合いに出して縷々書いている。それは、彼がおこなった
斬首の正当性──  自分から進んで手を下したのではないことを、いくら説明しても足りないと
考えたうえでの弁明ではない。このときの彼ら処刑者たちは、一種の魔術にかかっていたことを語りたかったのは、やはり同日斬首を経験した彼と中野学校同期生(八丙)の証言を聞けばわかる。「処刑のときの精神状態は、まるで忠実なロボットでした」と言っている(『諜報員たちの戦後』)のだ。
 左田野の「返答に躊躇した」との告白は、軍命に対する精一杯の抵抗だったのであろう。ロボットとして動かなければならない苛酷な命令に逆らっているようにも思える
 つぎの彼は、斬首するときの心境を書いている。不安、恐怖心の強さ、理不尽さが描かれている。

ーーー左田野の手記 
 此の様な理由(処刑の正当性)にもかゝわらず、斬首を命ぜられた時には好きではなかった(嫌で堪らなかった、を書き改めている)。一度も刀を使った事も、試し斬りした事もない23歳の私に、どうしてそんな事が出来るであろうか。自信はまったくなかった。
 いくら若くても、無経験でも、これが若し野戦で私を襲ってくる敵ならば防禦の本能で斬ることが出来るかも知れぬが、温和(オトナ)しく死を待っている搭乗員を斬るという事は、可哀そうで内心は嫌であった(堪らなかった、を書き改め)。命令に対しては仕方なしに「ハイ」と返事したが、この時から不安や恐怖感や哀感などが一時に起って身体がふるえ始め、抑えようとしても止まらなかった。
 順番に処刑者が友森大佐に敬礼して処刑を終えて行った。四番目に私は「次」と命じられたので、友森大佐に敬礼し、穴の前に坐らされている搭乗員の後に立った。未だ身体のふるえは止まらなかったし、戦争という条件を除いては、何等憎む所ない人を何故斬らねばならぬのか、戦争の罪深さを呪った(「戦争という条件」から「呪った」までは削除してある)。
 併し私は背中に上官や将校の注いでいる視線を感じ、のっぴきならない気持ちに追い込まれた。心では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、無我夢中で刀を振り下ろした。
 何の経験もない私が何故斬れたのか。「小宮四郎国光」銘のある私の刀がよく斬れたのであった。白昼に悪夢を見ている様な気持ちで刀を水で洗い(ここまで全部削除)、私は友森大佐に敬礼して列に戻った。 

ーーー
 この油山事件の模様は、様々な証言でのちにかなり知られるようになった。
GHQ日本占領史5 BC級戦争犯罪裁判によれば、事件当日の斬首は、「搭乗員(捕虜)の1人が墓場(掘った穴)に連行され、腰かけさせられた。それから、エグチが自分の刀を一振りし、搭乗員の首を半分落とした。オオノ少尉が2番目の処刑執行人であった。彼は刀を振り上げ、搭乗員の首の後部から切りつけたが殺害に至らず、その俘虜はうめき声をあげながら地面に倒れた。ワコウとオオノは再び跪かせ、ワコウがオオノに刀の使い方を教授した。別の3人のアメリカ人搭乗員もサタノ見習士官とオトス中尉、クロキ中尉によって、同じ方法で処刑された」と書かれている。サタノ(正確にはサダノ)が左田野修であるのは言うまでもない。
 同書には「処刑後、トモモリはそれぞれの兵士にウイスキーを勧めている」とあるが、左田野の手記には、このことには触れられていない。「友森大佐は『今日処刑された者は俘虜ではなくて敵である。だが、死んで了った者には罪はないから、死者の冥福を祈って黙祷しよう』との要旨の訓示があり、一同黙祷した」とあるだけである。いずれにせよ、凄惨なシーンがあったのは確かだが、油山事件をより有名にしたのは、つぎのような事実があったからだ。
 その点については横浜弁護士会による『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』でみてみよう。同書は、以下のように書いている。

 射手園(達夫少佐)は、事件当日の朝、弓矢を民間人に配給した責任者である大槻隆(少尉)に向かって、弓矢を持って処刑に参加するように命じた。大槻は、約15本の矢と弓を持ってトラックに乗り込んでいた。実際この日の処刑では、1番目から6番目までの搭乗員の処刑は日本刀による斬首によるものであったが、射手園は、7番目の搭乗員の処刑にあたって大槻に弓矢を使うように命じ(略)、8番目搭乗員に空手を用いた。空手による処刑なかなか効果がなかったが、それでも射手園は「中野学校で空手が得意だった者は使ってみろ」と見習士官に命令し、6名くらいが空手による攻撃を加えた。
ーーー
 戦争終結食後、GHQの指令に基づいて、俘虜関係中央調査委員会が組織された。国内外で日本軍が捕らえられた外国人捕虜を虐待したかどうかを調べる機関である。その調書(「西部地区ニ於ケル連合軍飛行機搭乗員取扱ニ関スル調書」)によれば、第1次事件の要旨は、つぎのようになっている。

 昭和19年末以来連合軍ニ依リ、内地ノ各都市相次イデ焼爆撃ヲ蒙ルニ至ルヤ軍官民全般ノ敵愾心ハ漸次強化セラレ、就中軍管区司令部所在地タル福岡市ハ昭和20年6月19日空襲ヲ受ケ、市街ノ要部焦土ト化シ、一般民衆ノ多数罹災スルノ惨状ヲ呈スルヤ敵愾心ハ更ニ著シク激化セラレタモノノ如シ。
 前項ノ如キ状況ニ於テ、約8名ノ捕虜飛行機搭乗員ハ6月20日、軍管区司令部構内ニ於テ軍管区司令部職員等ニ依リ処断セラレタリ。

 ここにあるように、左田野が関与した油山事件の1ヶ月半前の20年6月20日、西部軍司令部構内で8人の捕虜が殺害された事件が最初の西部軍事件である。

 ・・・

 第2の西部軍事件は左田野が関与した油山事件であり、これについてはすでに述べた。残る第3の事件は、終戦日当日におこなわれた。これも先の俘虜関係中央調査委員会の「調書」で概要をみる。

 8月15日終戦トナルヤ、九州地方ニ於テハ各種ノ流言飛語乱レ飛ビ、特ニ連合軍ノ一部既ニ上陸セシ等ノ造言生ジ、婦女子ノ避難等福岡地方ハ名状スベカラザル混乱ニ陥リ軍管区指令部内ノ将校等ニ於テハ、激烈ナル敵愾心ヲ生ズルニ至リシモノノ如シ。
 前項ノ如キ状況ニ於テ、約15名ノ捕虜飛行機搭乗員ハ8月15日、福岡市西南方油山火葬場付近ノ山中ニ於テ、軍管区司令部職員ニ依リ処断セラレタリ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー土竜山事件 と 満蒙開拓移民ーーーーーーーーーーーーーーーーー

1931年、日本が満洲事変を契機に満洲全域を占領し、翌年には清朝最後の皇帝・溥儀を元首とする満洲国を建国して、事実上日本の支配下においたことはよく知られています。

 しかしながら、その後、国策として多くの日本人を満蒙開拓移民として強引に満州に送り込んだ事実や、それによって引き起こされた悲劇の数々は、それほど知られているとは思えません。
 昭和7年10月、関東軍は「満州における移民に関する要綱」を決定していますが、そこには「日本人移民は、日本の現実的勢力を満州国内に扶植し、日満両国の国防の充実、満州国の治安維持ならびに日本民族の指導による極東文化の大成をはかるをもって主眼とす」とあるといいます。ところが、満網開拓移民は、それだけではなく、昭和恐慌で疲弊する内地農村を移民により救済し、日本国内の農村問題や人口問題を解決するとともに、対ソ戦兵站地を形成するという目的も合わせ持っていたようです。


 満州事変以降、1936年(昭和11年)まで5年間の「試験的移民期」には、平均すると年間およそ3000人の移民が渡満したといいます。そして、試験移民が軌道に乗ると、関東軍は、新京で「移民会議」の開催を働きかけ、「100万戸500百万人移民計画」という大量移民計画を諮問して、移民事業を主導したのです。
 そこで注目すべきは、移民1戸あたりの土地の広さとその用地確保の仕方です。集団移民は1戸当たり耕地10町歩、採草放牧地10町歩合わせて20町歩で、自由移民は1戸当たり集団移民の半分の10町歩というのです。日本国内では考えられない広さではないかと思います。そして、その用地確保に軍が動いていたという事実です。

 下記文中の「土竜山事件」は、軍が軍事力を背景に強引に移民用地の確保を進めたために発生した事件だと思います。移民用地の確保は、軍による一方的で理不尽な既耕地や可耕地などの強制買収であったばかりでなく、匪賊から自らを守るために、農民が以前から持っていた銃器類をも、治安維持を名目に没収するというものでした。
 土地を奪われ、家を奪われ、銃器類をも没収されるという現実に、農民が反発して決起したことには、何の不思議もないと思います。したがって、日本人は「土竜山事件」を、国策としての満網開拓移民実施がもたらした事件として、忘れてはならないのではないかと思います。
 下記は、「鉄道自警村-私説・満州移民史-」筒井五郎(日本図書刊行会)から抜粋しました。
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                             第6章 日本人の満州移民

§ 試験移民期の移民と移民政策
 第一回試験移民は、直ちに募集が開始されたが、早くも9月5日にはそれを締め切っている。そして同月10日には選択を完了し、9月28日まで、茨城県にある加藤完治の国民高等学校はじめ岩手県と山形県の県立青年道場で一通りの移民教育を施した。そのあと数日間はそれぞれ帰郷して、出発支度をし、10月3日には入植者423名が渡満のため、東京の日本青年会館に集合を終えた。
 そして、その日、夕刻東京を出発、5日に神戸港出帆、8日大連着、ここで関東軍が移民団を引き受け、東宮大尉が責任指揮官となる。そのあと、途中奉天で、北大営移民訓練所在所中の幹部要員69名が加わり、総員492名となって、ハルピンから松花江を水車船で下り、10月14日に佳木斯(ジャムス)に着港した。
 ここで上陸する手筈であったが、抗日ゲリラの襲撃の危険があったので足止めとなり、翌15日上陸した。しかし、治安は極悪状態だったので、差当り吉林軍に編入され、そのまま佳木斯市街に越冬して、附近の警備にあたりながら入植の準備を進めた。そして、やっと翌春になって、三江省樺川県の目的地永豊鎮に入植したのである。
 このように、この移民団は現地到着早々から想像を絶する波瀾と苦難に満ちた歴史を辿るのであるが、これが、日本人集団移民の先駆「弥栄村」である。

 さて、こうして第一回試験移民は入植したが、これと相前後して関東軍は昭和7年10月初め、かねて特務部で立案していた「満州における移民に関する要綱」を決定した。この要綱では「日本人移民は、日本の現実的勢力を満州国内に扶植し、日満両国国防の充実、満州国の治安維持ならびに日本民族の指導による極東文化の大成をはかるをもって主眼とす」となっていて、日本人移民が、国防的政治的役割を担うものであることを明確にしたわけであるが、これは満州建国後次第に反満抗日勢力が各地に武装闘争となって表面化してきたという背景があったからである。
 このあと、年を越えて昭和8年4月、関東軍は「日本人移民実施要綱」を決定した。これはさきに特務部で作成した「満州における移民に関する要綱」をさらに細説したものであるが、それには、(1)満州国が移民用地を確保すること、(2)移民用地保有管理機関として「満州拓殖会社」を設立すること、(3)移民の経営形態は、自給自足本位、自作農主義、農牧混同型、共同経営本位を確立すること、を主唱し、(4)移民の入植戸数を普通移民は15カ年に10万戸、特別移民即ち屯田制移民は5カ年に1万戸と計画してある。
 なお、同じ4月に関東軍は、日本人移民送出機関として「満州移住協会設立要綱案」を作成し、中央関係方面に提出した。
 恰度この頃、昭和8年3月に通遼県銭家店近くに自由移民として「天照園」移民団51戸が入植した。これは東京深川の失業者更正施設「天照園」の出身者である。
 この同じ3月には、拓務省の第2試験移民500戸案が第64議会を通過した。この第2次移民団は同年7月494戸が三江省樺川県七虎力に入植した。これが「千振村」である。

 拓務省ではさきの第2次試験移民の承認を得たあと昭和8年5月に「満州移民実行に関する件」と称する長期移民計画案を作成した。これは、その1ヶ月前に関東軍で決定した「日本人移民実施要綱」の複写同然のものであり、したがってその内容は関東軍案と全く同じ15カ年11万戸送出計画と、満州移民協会の設立、満州に移民会社二種を創設するというのが主要点であった。
 しかし、これは閣議で承認される空気ではなかったので、思案の挙句至極簡単なものに後退した。即ち、(1)当分毎年相当数の移民を送る。(2)中国人や朝鮮人との関係を円満にするように措置する。(3)移民は集団として相当の自衛力を保持せしめる。(4)移民機関として差し当たりは東亜勧業を利用する。(5)現地に移民用地を確保するための法人を日満合弁で創り、満州国から国有地を出資せしめる。というのであった。

 こうして昭和8年は過ぎるが、越えて昭和9年2月には、かねて牡丹江省西南端の鏡泊湖畔に東京国士館高等拓殖学校理事山田悌一が建設した「鏡泊学園」に学園生90人が入植した。ここは一般とは異なる特殊移民地であるが入植間もなくの5月に抗日ゲリラに攻撃され、山田園長は戦死した。そして翌昭和10年には「度々の匪襲により遂に経営不能になる」という悲惨な記録も一部には見える。しかし、その後持ち直したようである。

 この昭和9年という年は、次つぎと匪賊事件に見舞われたが、中でも移民史に忘れることのできない重大事件が起きる「土竜山事件」である。すでに正月過ぎから第一次、第二次各移民団が別の抗日ゲリラの襲撃にあっているが、ゲリラのうちはまだ小手先の防衛で何とか切り抜けられた。それが何千という大軍によって包囲攻撃されたのが、この土竜山事件である。

 この事件は、一般に言う日本の満州侵略に対する民族的反感からだけの蜂起ではない。もっと中国人の生活に直に根ざした問題から出ていたのである。話は少し長くなるが、その顛末を見ておきたい。
 この事件は、昭和9年3月5日からほぼ2ヶ月にわたって、三江省依蘭県土竜山に本部を置く謝文東指揮下の農民蜂起軍6000人が第一次、第二次両移民団を襲撃し、移民団は勿論、守備にあたった関東軍将兵に重大な損害を与え、治安はもとより、移民政策の上にも大きな影響を及ぼしたのである。
 
 事の起こりは、関東軍が移民団用地を確保するため、軍刀と銃の圧力をもって中国人の耕地を強制買収する暴挙に出たことからである。土地買収の地域は依蘭県、樺川県など三江省の沃地数県にもわたり、およそ可耕地の6割をその予定地域にあてていたという。すでに第一次移民団用地としてその3割にもなる熟地を取られ、また第二次移民団用地はさらに7割もの既耕地を無理矢理に買収されたのである。
 中には、それに抗して地券を出し渋る農家もいたが、兵隊たちは農家の壁を銃床で叩き壊して地券を探したという。このように土地を奪われ、家を追われた農民が日本の移民のやり方に怨みをもつのはあたりまえである。

 一方、これとならんで関東軍は治安維持の立場から、農民が自衛のために所持する銃器類を没収した。刀狩りである。当時は、まだ満州には数万を超える、いわゆる匪賊が跳梁していたので、農村では自衛団を組織していた。殊に北満では警備網も手薄であり、身を守るためにはどうしても武器が必要であるのにそれを取り上げられるのであるから、農民にとっては生命と財産の保証が失くなるのである。これも大きな怨みの原因となった。

 さらに、これは笑い話みたいな話であるが、天然痘の予防接種がその頃一斉に施されたのを一部の無知な農民たちのある者は、てっきりこれは、中国人を絶やすために行われる断種注射だと騒ぎ出して一層抗日意識を煽ることになったと言われる。
こうした怨嗟に満ちた農民大衆が、土竜山の東方八虎力屯の大地主で、自衛団の団長をしていた謝文東を頭首に推して、武装蜂起したのである。
 謝文東は正義感が強く、立派な人物で、住民の信望も厚く、この地方の中心的存在だったが、かねてから関東軍のやり方や、移民団の一部不良分子の略奪暴行を見ては、堪忍できる極限に達したので、同志と謀り、数百の農民を糾合して、自ら総司令となり、東北民衆軍を編成した。この情報はたちまち依蘭県内外に広く飛んで、各地の農民は手に手に武器をとって続々と彼のもとに集まり、総数6700名の大軍となったのである。
 その昔、南中国の農民、朱元璋が蒙古帝国元の圧政に堪えかねて、民衆を率いて起ち上がり遂に明国を建てた故事が頭に浮かんでくるが、謝文東もそれと全く同じである。
 こうして猛りたった農民軍に包囲された移民団は、少々の銃器を持っているくらいでは手も足もでなかった。警察は物の数ではなく、農民軍によっていち早く武装解除されてしまった。依蘭駐屯の歩兵第63連隊が駆けつけたけれども、飯塚連隊長以下19名の将兵が戦死するという惨敗に終わった。そこで日本軍側は、そのあとつぎつぎと新たな援軍を出したので、さしもの農民軍も多数の死傷者を出して退散するいたった。開戦以来75日目である。

 かくて、事件はやっと終熄したのであるが、移民団の被害も少なくなかった。戦死2名、負傷者12名と比較的人的被害は軽かったが、農場作業は全く休止で、その間接被害も大きかったし、それにも増して、第二次移民団ではこの事件のために100名にも及ぶ退団者が出、その前からの脱退者もあって、最初の入植者494名は300名余りに減少してしまったのである。
 一方、首領謝文東は多数の同志を失いながらも、なお5年の間抗日連軍の軍長として日満軍警を悩ましたが昭和14年3月関東軍の帰順工作によって遂に帰順するにいたった。


 この大騒ぎの最中に、拓務省は「昭和9年度満州自衛移民実施要綱」を決定し、第三次移民団を送出するのであるが、今次からは、募集地域を、東北、北陸、関東の寒冷地に限定せずに、全国にその範囲を広げるとともに、その資格も、前二回までは既教育在郷軍人でなければならなかったのを今回から、在郷軍人でなくてもよいことになった。また、入植形態も集団の規模を検証する意味から、従来の500名一集団方式から、500名程度の一群が数地区に分散入植する形をとった。
 こうして募集された移民団298名が、この年の10月に、北安省綏稜県北大満に入植した。これが、瑞穂村である。当初の計画地区は吉林省大石頭であったが、治安状況不良との理由から急拠変更になったものである。
 昭和9年はこのほかに、特異な移民団が入植している。ひとつは「饒河少年隊」とも通称された「大和北進寮」である。筆者らはここを「饒河少年移民」と呼んでいた。その頃、ソ連ではビオニールという共産少年団をシベリアの何処かに移民として入植を試みているという話が、拓殖関係者の間では話題になったことがあるが、その話からこの饒河のことを少年移民と言い習わしていた。これは昭和10年代のことである。
 この饒河の少年移民は、東宮鉄男が満州移民の夢を少年に托して、加藤完治の国民高等学校や僧大谷光瑞の周水子少年訓練所の協力を得て、それぞれ修行中の少年を集め、東安省の東辺、ソ満国境ウスリー江沿いの饒河の地に建設した一種の移民道場である。
 開設当初彼らは13歳から20歳までの青少年で、東北、関東、東海、近畿の12県から集まっていた。この少年移民が9月に日本を出発して現地に入植している。彼らが果たしてどんな未来に生きたかは知る由もないが、東宮鉄男の信条「建設の礎石たる修養をなせ。高位顕官を夢みるより卒伍の闘士たれ。豪農紳商たる前にまず優秀なる農夫、正直なる小僧たれ」によって国土的農民教育をうけながら青春の一時期を氷雪の国境で送ったことは、かれらの体内にたぎる若き血潮を燃焼させるに不足はなかった。

 この東宮の少年移民の試みは、青少年たちに生きる活路を求めさす機会を与えたが、それにも増して、移民政策の上にこそ活路を開かせることになったのである。
 即ち、昭和13年満州開拓青年義勇隊の創設となって東宮のこの試みが花開くのである。東宮は、彼の現地体験から、満州移民は人選が何より大切で、在郷軍人よりも「国民高等学校出身者、貧困者にして活路を満州に求めんとして渡満せる者、純真なる年少者」が移民の適格者であると主張し、関係当局に意見を出したのであるが、これが拓務省や農林省を動かし、成人移民から少年移民へと、政策の方向は変わってゆくのである。その意味でこの饒河少年移民は、町道場的ではあったけれども移民政策に大きな役割を演ずることになったと言いうる。

 しかし、何ごとも量が多くなれば質は低下する。移民の場合とて例外ではない。その上満州移民の場合は、国防という国策が移民の生活に優先していたので、移民が目的でなく手段視されて、数を揃えるのに汲々としていたところに問題があった。この饒河少年移民の場合でも、粒選りの少年の集まりであるうちは質的に高いものを保有しているが、それが大量の義勇隊移民となって発展すると必ずしも目的どおりのものは生まれない。筆者はそう言う意味で、数だけを集めた青年義勇隊移民を今でも苦々しく思っている。

 それはともかくとして、他のひとつは天理村である。これは奈良に本部のある天理教の信徒移民で、信者43戸155名がハルピン郊外にこの年入植した。ある資料によれば、すでに昭和7年には建設をはじめている。筆者がハルピンにいる頃、この天理村が特産物として奈良漬けを大量に生産し、ハルピン市内で販売していることを知り、これに啓発されて、筆者が携わっていた鉄道自警村にも、奈良漬けを奨励し、その見本を持ってハルピン市内の百貨店や病院を廻り歩いて販路開拓の世話をしたことが懐かしく思い出される。

 この年の終わりに近い昭和9年11月、関東軍は、新京に第一回移民会議を招集し、土竜山事件の反省を含めて、移民政策全般にわたって検討を行った。期間は11月26日から12月6日までの11日間の長期に及び、参集範囲も関東軍、拓務省、大使館、満州国政府、朝鮮総督府、満鉄経済調査会それに学者合わせて50名という大がかりなものであった。この移民会議の結果をふまえて、関東軍は、同年12月大量移民の実施にかかわる厖大な計画案を作成し、これを中央関係当局に提言した。その主たるものは、移民の入植数と農業規模についてである。
 まず入植数については、10カ年10万戸と計画されているが、これは従来関東軍が計画していた15カ年11万戸に比べるとかなり入植数が増加している。これはおそらく過去3年の入植経験からある程度の自信を得たのと、ともかく早い時期に多くの移民を入植せしめるという決意のあらわれであるとされる。
 つぎに移民の農業規模については、「北満における移民農業経営案」として、一戸あたり耕地10町歩(水田2町、畑8町)と採草放牧地10町歩合わせて20町歩を標準案としているが、大体この線がその後の移民地農業経営の基準として考えられようになった。

 明けて昭和10年、すでに曲がりなりにも三次にわたる試験移民の入植を見、またあちこちに自由移民が渡満し出すし、さらにひと頃より満州の治安状況も好転してきたことから移民に対する気運も何となく調子に乗ってきたのがこの時期である。
 拓務省は、関東軍の提案もあり、この年の5月「満州農業移民根本方策に関する件」という満州移民計画の根本方針を樹立した。この方針は極めて常識的ながら、満州移民の目的を、日本の人口問題と農村問題の解決のひとつとして行うものであるというふうに、満州移民の必要性を国内的要因から力説するもので、国防的任務については、ここでは触れていなかった。
 そして、移民の数については、昭和11年度以降の15カ年間に10万戸を送出することを基本計画にしている。この送出計画は、昭和9年12月関東軍の提案した10カ年10戸よりも少ない。
 この送出計画は、第68議会でずっと削られ5カ年2万戸に落ちついたが、ともかく従来の何百戸程度からみればかなり多い計画が政府決定を見るにいたった。そしてその初年分つまり昭和11年度分通算第五次計画1000戸移民案もこの議会で同時に決定した。

 一方、拓務省は同じく昭和10年5月「第四次満州農業移民募集要綱」を発表し沖縄を除く全府県に広く移民の募集を行った。
 この募集で、最も特徴的なことは、移民に貸与される土地面積を最小限10町歩ということを明示したことである。これは、さきに関東軍が提案した標準20町歩案からその最低限を見込んだものと察せられるが、土地不足に追いつめられている全国の農民にとっては正に垂涎の的であって移民送出に大きな刺戟となって作用したと思われる。
 こうして募集に応じた第四次移民団496名は、昭和10年6月、東安省密山県哈達河、鶏西の2地区と吉林省舒蘇県城子河の合わせて3地区に入植した。
 この昭和10年は、かねて満鉄が計画していた鉄道自警村移民が小規模ながらも実現したのである。満鉄はすでに触れたように会社創立当初に逸早く移民会社を設けて移民の誘致を手がけながらもその成績はあまり上がらなかったが、今回は会社の直営で移民を扱ったのである。その詳細は第7章に譲るが、この昭和10年4月には、その第一次6ケ村66戸が全満の鉄道沿線6カ所に分散入植した。
 同じこの年天理教第二次移民団26戸が、前年入植のハルピン郊外の地に入植した。
 また、興安北省三河地方に三河共同農村12戸も入植した。ここは有名な三河ロシア人大村落の直ぐ近くである。
 このほか鏡泊学園にも63戸が入植した。
 さらに、吉林省蛟河県に新潟村61戸が入植している。
 ところで、その頃ジャーナリズムを賑わせて世間に明るい風を送ったものに大陸花嫁の渡満がある。拓務省は第二次移民団の要望に応えるものとして花嫁を募集したところ130名が応募し、その全員が話がまとまって集団渡航したのである。筆者もそのその光景をニュース映画で見たが、それはたしか新潟から船で北鮮の清津港に上陸するときのものであったと記憶している。戦後昭和55年頃だったかNHKの特集テレビ番組でその中の何人かが出てきて、往時を述懐して「何が何だか分からなかったけれど、当時は、何かこう、お国のためだという一種の使命感みたいなものがあって、無我夢中のうちに満州に行ってしまいました」と笑い話のように語っているのが強く印象に残っている。
 こうして移民ラッシュの昭和10年が明るく過ぎようとする年末になって二つの移民機関が設立された。「満州移住協会」と「満州拓殖株式会社」である。
 移住協会は、かねて関東軍の要請にもとづき拓務省で計画を進めてきた公益団体で、昭和10年11月に設立された。移民事業の促進と後援がその仕事である。拓務大臣を会長に、理事には政界、財界、学界のいわゆる名士が多数その名を連ねていた。なお、この協会は昭和12年4月に財団法人に改組され、移民の募集斡旋をはじめ広い範囲にわたる事業を扱うようになる。
 満州拓殖株式会社は、これ以前から関東軍の提案した在満移民機関であり、陸軍省と拓務省の共同提議により、昭和10年12月に設立された。新京に本社を置き資本金1500万円で発足した。この資本金は、満州国政府500万円、満鉄500万円、三井250万円、三菱250万円という出資である。この満拓は昭和12年8月「満州拓殖公社」に改組される。

 さて、昭和11年に入ると、移民団の渡満が次第に増えてくる。
 まず、拓務省の第五次集団移民団、これは四次までの試験移民本期を一応過ぎて、その仕上げというべきものであって、過ぐる第68議会を通過した5カ年2万戸の初年分にあたるのである。この年7月に、1014戸が、東安省密山県に永安屯村280戸、朝陽屯村201戸、黒台村226戸、信濃村307戸の4カ村として入植した。

 自由移民は、先に触れた鉄道自警村の第二次7カ村108戸が鉄道沿線各地に入植したのをはじめ、吉林省盤石県に大黒村20戸、牡丹江省寧安県に仙洞村136戸、間島省汪清県に秋栄村37戸、同省和竜県新秋田村42戸、東安省林口県に古城鎮村145戸、それに三江省鶴立県に肥後村127戸がそれぞれ新しい村を開いた。

 以上が試験移民期といわれた昭和7年から同11年までの移民政策の要略と移民の入植状況であるが、ここではその移民の入植数を一応総括しておきたい。別表(略)のとおりである。 




     
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