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「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡部昇一)を読んで NO5ーーーーーーーーーーー

  「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。

  今回は、下記の”「大虐殺報道」で得をするのは誰か”と題された文章と”「無実の烙印」が子孫に与える悪夢”と題された下記の文章(資料1)について考えたことをまとめました。

 まず、歴史の問題を論ずるときに大事なのは、「事実」だと思います。「歴史学」は社会科学の一分野であり、科学的、客観的でなければならないはずです。”「大虐殺報道」で得をするのは誰か”というような発想そのものに違和感を感じました。
 そして、「南京大虐殺」には多くの資料やそれを裏づける証言があるにもかかわらず、それらの検証を自らはほとんどせず、その重要部分を他の研究者に依存し、「南京大虐殺」の報道や記事はプロパガンダであると言い切る姿勢は、「歴史」を論ずる姿勢ではないと思います。

 同書に「解説 ─ 時代の底流をあぶりだす」と題して”谷沢永一”という学者・評論家が、下記のような文章を寄せておられるのですが、谷沢氏の指摘は、谷沢氏とは正反対の意味で正しいと思います。
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解説 ─ 時代の底流をあぶりだす
                                  谷沢永一
 歴史に筋金を通した現代史の名著
 渡辺昇一の現代史観は、みずからの二本の脚だけで立っている。浮世のいかなる勢力にも依存していない。自説を権威に仕立て上げようなどと、卑しくも目配りなどしていない。歴史記述に筋金を通すには、孤独の美徳に徹する必要がある。何かに寄りかかって凭れてはならない。孤立を恐れぬ度胸が要る。
 昭和20年代以降、おびただしく書かれた日本現代史のうち、完全にニュートラルな論述がかつて一冊でもあったろうか。迂愚な私には思いだせないのである。
 現代の若く新しい世代は、率直と簡略と明快を期待している。ハッキリとカナメを指示する勇気がなく、行間を読んでくれなどと逃げるヘッピリ腰には、一瞥もくれず見向きもしない。ご機嫌とりを最も軽蔑する。
 ・・・以下略”
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 なぜなら、渡部氏は、多くの歴史家や研究者が、様々な記録や証言をもとに論じている「事実」にほとんど目を向けず、「孤立」せざるを得ないような議論を展開しておられるからです。そう言う意味では谷沢氏のいうように、渡部氏には「度胸」があり、「勇気」があるのかも知れません。でも、それでは渡部氏の「日本史から見た日本人」は「現代史の名著」とは言えないと思います。歴史に対する自らの「思い」を書いただけでは、社会科学の一分野である「歴史学」の書ではないのであり、したがって、「現代史の名著」とは言えないと思うのです。

 次に、渡部氏は
東京裁判で「南京暴虐事件」(裁判記録翻訳の用語)が持ち出された時、充分な弁護がなされなかった。派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのであるが、いわゆる証人なる者が、偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである。
 と書いていますが、事実に反すると思います。「
充分な弁護がなされなかった」や「偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである」などという表現も気になるところですが、特に問題は「南京大虐殺」について”派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのである”という文章です。「松井大将がまったく知らなかった…」ということが事実に反することは、すでに、当時時南京にいた同盟通信・前田雄二記者の著書「戦争の流れの中に」(善本社)の文章を引いて指摘しました。
 ここでは、「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」花山信勝(中公文庫)から、あらためて松井大将自身の言葉で、さらにそのことを確認したいと思います(資料2)。松井大将は処刑される前に、教誨師の花山信勝氏に「日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私が皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。…」と話しているのです。これは、明らかに日本兵が国際法に反して多数の俘虜を虐殺した事実を知っていたということではないでしょうか。「南京大虐殺」というような事実がまったくなかったのに、松井大将自身が、処刑されることを受け入れ、”私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」”などと言うでしょうか。
 渡部氏は、松井大将の”当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与える”という言葉をどのように受け止めるのでしょうか。
 さらに言えば、渡部氏は「大量市民虐殺事件」とくり返していますが、虐殺の対象を勝手に市民に限定するような表現も問題だと思います。日本に残されている戦闘詳報や陣中日誌、陣中日記などの「南京大虐殺」を裏づける記述の多くは、戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵および元中国兵と判断された市民の処刑です。
 また、「作文にすぎない提出資料も鵜呑みにされた」や”「南京大虐殺」の新証拠として大きく採り上げられたものは、私の知るかぎり、一つ残らず、そのインチキ性を後に証明されている。”というような指摘は、具体例を示さなければ議論になりません。こうした重要な判断の根拠を示さず、「歴史」を語ることは、社会科学の一分野としての「歴史学」に基づく歴史ではなく、「お話」であり、「創作歴史物語」とでもいうべきものではないかと思います。
 日本国民が被害者である東京大空襲や広島・長崎の原爆被害と中国人が被害者である「南京大虐殺」とを比較し、新聞社が事件後40年経ってから「南京大虐殺の新しい証拠発見」というかたちで報道したことを問題視して、「東京大空襲の被害証拠も、広島・長崎の被害の証拠も、今さら新しいものを必要としない。」などというのも、ナンセンスだと思います。「南京大虐殺」の被害者は中国人であり、 南京戦当時は、軍による言論統制や報道統制が厳しく、日本軍に不都合な事実が日本に伝えられることはほとんどありませんでした。「我ガ軍ニ不利ナル記事」の報道がが禁じられていたのです。したがって、当時の「事実」を知るためには、関係者の聞き取り調査をくり返し、それらを生かしつつ残された記録や軍の文書を見つけ出し調べる必要があるのだと思います。「新しい証拠発見」ということがあっても何の不思議もないと思います。

 渡部氏が言うように、”「南京大虐殺」を振りまわすと得をするのは、いろいろな外国である”という側面はあるかもしれません。しかし、だからといって、外国人の証言をすべて否定することはできないと思います。日本人の証言は正しく、”外国人の証言はすべて偽証である”というようなとらえ方では歴史を論じることはできないのではないでしょうか。
 ”捏造報道がいかに多いかは、まさに驚くべきものである”というのであれば、具体的に例示して捏造を報道した関係者およびそれを受け入れている歴史学者や研究者と堂々と論争すべきではないかと思います。
 ”南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。しかし、数年の後、日米開戦後は、いかなる反日デマも戦時中ということで、大量に流されたのである。”という指摘も問題があると思います。
 なぜなら、アメリカではパナイ号事件発生後、パナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官 ジョージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解としたアメリカ海軍当局査問委員会の報告書等を、主要紙が次々に全文掲載したとわれているからです。そして、それのみならず、あわせて日本軍による南京の残虐事件を報道したのです。だから、アメリカ全土で日本商品ボイコット運動が広がっていったといいます。パナイ号事件が発生したのは南京陥落の前日です。パナイ号事件発生以後、すなわち日米開戦前から日本軍による南京の蛮行が報道されていたことは、下記に抜粋したようなダーディン記者やアベント記者の記事で明らかだと思います(資料3・資料4-「日中戦争 南京大残虐事件資料集-第2巻英文資料集」洞富雄編)。南京特派員のダーディン記者とともに上海支局のハレット・アベンド記者も、様々なルートで収集した情報の続報を送り続けたといいます。それらを世界に知られた、「ニューヨーク・タイムズ」がくり返し掲載しているのです。
 下記の文章が示すように、すでに、日本兵による「大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行」が報道されていたことを、渡部氏はどのように受け止めるのでしょうか。
 「南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。」などという渡部氏は、こうした報道が南京陥落直後から、したがって、日米開戦はもとより、東京裁判のずっと前からなされていたことをどのように説明されるのでしょうか。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
           ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか
(1) 敗者の悲劇 ──── 「東京裁判」と「南京大虐殺」

「大虐殺報道」で得をするのは誰か
 以上の諸点を考えてみただけでも、いわゆる「南京大虐殺事件」で、一般市民が何万、何十万と殺されたというのは、戦時プロパガンダですらなく、戦後プロパガンダ、もっと正確に言えば、ポスト・東京裁判プロパガンダであったことは、動かしがたい事実である。
 では、なぜこのような日本人にとって最も有害な種類の反日プロパガンダが幅をきかし続けているのであろうか。それは推理小説などで犯人を見出す方法の常道とされること、すなわち、「それによって誰が得をするのか」という考え方が役に立とう。
 それには、大きく分けて二つの側面がある。
 第一には、国内的要因である。
 東京裁判で「南京暴虐事件」(裁判記録翻訳の用語)が持ち出された時、充分な弁護がなされなかった。派遣軍司令官松井大将さえ、まったく知らなかった「大量市民虐殺事件」なのであるが、いわゆる証人なる者が、偽証罪の虞もなく、しゃべりまくった感じである。
 弁護側は証人の証言の矛盾 ─ それが多い ─ を突いたり、嘘を暴露して偽証罪にもってゆくこともできなかったし、その事実の検証の機会もあたえられなかった。
 しかし、当時はその裁判の根本的な欠陥も充分認識されなかったし、作文にすぎない提出資料も鵜呑みにされた。戦時中の知られざる大事件が ─ 7、8年間もも知られなかったことは、ほんとうは存在しなかったことの有力な傍証なのだが ─ 戦後新たに発見されたということで、その新知識にみんな飛びついたのである。あたかもラジオの「真相箱」の示してくれたような事実であろうと、無邪気に信じながら。
 そして、この裁判資料に基づいて、あるいは他の情報を援用して仕事をする人が出てくる。東京裁判史観は、急速に占領体制の中でエスタブリッシュメント化し、それが永続化した(400ページ参照)。すると、これに阿る南京大虐殺物の著者まで現れてくる。3冊もの実見談を書いた人が、実際は南京突入に参加していなかったことなども暴かれている。
 大新聞社は、事件後40年も経ってから、「南京大虐殺の新しい証拠発見」という記事を、時々、大きく報道することがあった。それは元従軍兵士の手帳だったり、写真だったりする。しかし、「新しい発見」などということ自体、もとの証拠に大新聞も自信がなかったことを、はしなくも示している。
 われわれは、東京大空襲の被害証拠も、広島・長崎の被害の証拠も、今さら新しいものを必要としない。
 しかも、「南京大虐殺」の新証拠として大きく採り上げられたものは、私の知るかぎり、一つ残らず、そのインチキ性を後に証明されている。そして、門外不出になって見せてもらえなくなったものもある。あまりにもひどい捏造のため、大新聞社が訴えられて非を認めたケースもある。捏造報道がいかに多いかは、まさに驚くべきものである。それが、ことごとくインチキであることを、弁解の余地なく立証されても、その取り消し記事が大きく出ることはないのだから、一般読者は、写真(すべてインチキ)まで添えた市民虐殺のイメージが残る。
 ひとたび東京裁判史観が成立してからは、それを自分に有利に使える立場にある勢力は、徹底的に利用するのだ。そして、それに乗ってしまった者は、学者も庶民も、別に東京裁判史観派というほど、思想に関心はないにせよ、虚構の市民大虐殺説を維持する無理な努力をするということになる。
 また、「南京大虐殺」を振りまわすと得をするのは、いろいろな外国である。
 アメリカ人やオーストラリア人は、それによって、南の島での日本人大虐殺についての良心の痛みを感じる度を減じえよう。特に、アメリカ人は無差別絨毯爆撃や原爆の正当化として便利であることを発見するだろう。イギリス人も同じことである。ドイツ人ですらも、ナチスのユダヤ人殺害と匹敵するものとしたがる。ことに中国にとっては、これは「打ち出の小槌」である。南京大虐殺を振り回せばお金になるという感じであろう。要するに、これを振り回せば、心理的あるいは物質的に利益を得る国が、多くあるのだ。

 「無実の烙印」が子孫に与える悪夢
 これらの外国勢力と手を組めば、あるいは連動すれば、日本国内の東京は裁判史観派は有利な立場をさらに永続させることができる。
 「誰が得をするか」を考えれば、犯人は分かるのだ。彼らは、日本の犠牲において不当な利益を得ているのである。
 南京陥落から50年以上経つ。東京裁判の判決が出てから40年経つ。市民大虐殺という無実の罪を烙印されたのは残念だが、戦争に負けたのだから仕方がないのではないか、という戦士的感情が湧かないでもない。しかし、われわれは、それでよいとして、われわれの子孫のために、この無実の市民大虐殺説は見過ごしてはならないのではないだろうか。
 というのは、日本人は大虐殺をやった有色民族ということで、アメリカ人も原爆を落とす気になったのだと思われるからである。
 南京陥落当時は、アメリカの報道関係者や外交関係者なども多く南京城内や上海にいたから、大虐殺のデマはアメリカの良質なメディアで大きな話題にすることはできなかった。しかし、数年の後、日米開戦後は、いかなる反日デマも戦時中ということで、大量に流されたのである。
 そうしたデマの中では、南京は東洋のアウシュビッツになった。日本は、ナチス・ドイツの同盟国だから、そう対を作ったほうが宣伝には都合がよいし、説得力もある。
「そのような大量のシナの市民を殺しているのだから、日本の市民も大量に殺してよい」という論理が、あるいは心理が、成立したものと思われる。
 今の日本は、どことも戦争をする態勢にないし、その可能性も見えない。しかし、今から一世紀後になったら、どのような国際情勢になるかは何人(ナンビト)も予測できない。その時、南京大虐殺の虚構が東京大虐殺の実話の原因にならないと、誰が言えようか。私は、それを患(ウレ)えているのである。
 誤解なきよう念のために言っておけば、南京占領などという事態に至ったことは、まことに残念なことである。だがそれも、窮極的には、統帥権問題を抱えた日本の憲法機構に責任があったと言わねばならない。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」花山信勝(中公文庫)

七人との面談記録
 松井石根
 ・・・
 それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。
「南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私が皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえいった。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。折角こうなったのだから、「このまま往生したいと思っている」
「まことに、尊いお言葉ですね…」
「家内にもこの間、こうして往生できるは、ほんとうに観音様のお慈悲だ、感謝せねばならんといっときました」
「あなたの気持ちは、インド判事の気持ちと一しょですね」
「ああ、あのインド判事の書いたものを見せてくれたが、大変よくいっておる。われわれのいわんとするところを、すっかりいっておられる。さすがにインド人だけあって、哲学的見地から見ている。あの人たちは多年…経験しているので…」
「では、また来週…。風邪などめさぬようにお気をつけ下さい」
 松井さんは、ガウンを将校から着せてもらい、仏に向って礼をして、下駄をカラカラ曳きずって、いつもの通りそろそろと去られた。戸口を出られる時「御機嫌よう」と声をかけると、振り向いてあいさつされた。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
       『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員 F・ティルマン・ダーディン記者特電
              1937年12月18日号掲載記事  
  捕虜虐殺さる
──── 
南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者
──── 
  アメリカ大使館襲撃さる
──── 
蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都失陥
──── 
      F・ティルマン・ダーディン
(12月17日、アメリカ軍艦オアフ号〔上海発〕、ニューヨーク・タイムズ宛特電)
 南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうける乏しい機会を失ってしまった。
 中国当局の瓦解と中国軍の解体のために、南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともにうちたてられると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大損害をうけることもなくなったと考えて、中国住民の間に安堵の気持ちが拡がったのである。

 少なくとも、戦争状態が終わるまでは、日本軍の支配は厳しいものであろうとは思われた。日本軍が占領してから3日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。

 ・・・(以下略)
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             『ニューヨーク・タイムズ』上海支局ハレット・アベンド特電
                   1937年12月19日号掲載記事
                     日本軍南京暴行を抑制
 ーーー
 なおも続く残虐行為終結のため最高司令部厳重な処置をとる
 ーーー
 軍隊の所業を自認
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 責任ある将校ら、司令官松井に事件の隠蔽はかる 
ー文官指導者ら当惑
      ハレット・アベンド
 (12月19日月曜日、上海発 ニューヨーク・タイムズ宛特電)
 日本陸軍最高司令部は、日本の南京入城を国家的不名誉に変えた略奪・婦女暴行・殺戮の混沌たる状態を早急に終結させるために、おくればせながら、厳重な懲戒処置をとりはじめた。
 
 中支派遣軍司令官松井石根大将にたいして、無数の非武装の戦争捕虜・一般人民・婦女子を理不尽に殺害した恐ろしい不法行為の事実を知らせないように、大変な努力が払われていると聞いているが、この策略の多い老武者はすでに、下級将校数名がまったく秘密裡の陰謀に加担していることに疑念をいだいている。
 パネー号(The Panay)事件だけでも、最高司令部にとって、正式な南京入城がもたらす真の歓喜のあらゆる要素を失わせるのに十分であった。中国のもと首都に到着すると同時に、南京攻略終了後にそこで発生した事件を知るや、彼らのパネー号にたいする狼狽はさらに深刻な不安と恥辱に変わった。国家としての日本や個人としての日本人は、ながいあいだ自国軍隊の武勇と武士道のほまれを非常に誇りとしてきたが、いまやその国家の誇りは、日本兵が、中国人盗賊の群れが占領都市ではたらいたよりも一層質のわるいふるまいを南京で行ったことが露見するにおよんで、地に墜ちてしまったのである。

  外国人、事件を目撃する
 日本の当局は、恐るべき事実を隠蔽しようとしても無駄なことを認識し、後悔している。というのも、日本兵の行為にたいする告発が、中国人の談話に根拠を置いていないからである。中国人の談話ならば偏見と病的な興奮の影響があるとして非難を受けるだろうが、その告発は、陰惨な事件の最中に南京にとどまり、いまも滞在中の責任あるアメリカ人やドイツ人が書いた、絶え間のない不法行為にかんする日記や細心の記録にもとづくものであるからだ。
 すべての新聞記者がパネー号の生存者を護送する船で上海に発った後、南京の状態はあきらかに一層悪化した。記者らはこの火曜日に去り、あらゆるたぐいの残虐行為は火曜日の夜から水曜日にかけて、印刷するには不適当なほどの最高潮に達した。規律と体面を回復せんとする試みが木曜日から始まった。

 日本軍は外国人が長期間、南京に行くことを望まないし、またその許可も与えないであろうが、南京滞在中の外国人は外の世界に記事を送る手段を見つけるであろう。あらゆる証拠が調査された時、南京占領となった輝かしいキャンペーンは、日本軍の記録に名誉を付加するかわりに、陰惨な残虐行為のために日本がつねに後悔してやまない歴史の一ページを添えることになると思われる。
 日本政府各部局の良心的な責任ある官吏は、発生した事件を極度に見くびろうとはせず、多くの点で事態がこれまで世間が気づいている以上に悪化したことを認めて狼狽しているのである。

 日本の希望への打撃(略) 


ーーーーーーーーーーーーーーーーー南京事件 パール判決書ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「パール判事の判決書」と呼ばれている文書の中から、南京事件に関する部分を抜粋したものが下記です。部分的な文章ではわかりにくい面もありますが、南京事件に関するパール判事の判断には考えさせられることが多々あります。一般に流布されている情報に違和感を感じさせる内容もあり、「日中戦争 南京大残虐事件資料集 第1巻 極東軍事裁判関係資料扁」洞富雄(青木書店)から、長文を抜粋しました。私が、特に見逃すことができないと思った文章を赤字にしました。

---------------------------------------------------                                       五 判決(抄) 
                     第十章 判定(昭和23年11月12日朗読)
                                松井石根
 ・・・
 本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五・第三十六および第五十四について無罪と判定する。


                            インド代表パール判事の判決書
                         第六部 厳密なる意味における戦争犯罪
 2 「厳密ナル意味ニオケル」戦争犯罪、日本占領下の諸地域の一般人に関する訴因
第五十四及び五十五(抄)
 以上のような目的がこの場合においても働いていたことは、全然無視することはできない。本官はすでに曲説とか誇張とかに関するある程度の疑惑を避けることのできない或る実例について述べた。もしわれわれが南京暴行事件に関する証拠を厳密に取り調べるならば、同様の疑惑はこの場合においても避けられないのである。
 南京暴行事件に関する二名の主な証人は許伝音とジョン・ギレスピ・マギー(John Gillespie Magee)とである。
 許氏はイリノイ大学の哲学博士である。法廷外でとられた同氏の陳述は、本件において証拠として提出されようとした。これは検察側の文書1734号であった。われわれはこれを却下し、同氏は裁判所において訊問を受けなければならないと決定した。従って同氏はその通り訊問をされたのである。氏は南京に居住し、1937年12月、紅卍会(紅卍字会)に関係していた。
 マギー氏は1912年から1940年まで南京の聖公会の牧師であって、1937年12月及び1938年1月及び2月を通じて南京にいたのである。右の証人はいずれもわれわれに対して、南京において犯された残虐行為の恐ろしい陳述をしたのである。しかしその証拠を曲説とか、誇張とかを感ずることなく読むことは困難である。本官は両証人の申し立てたことを容認することは、あまり賢明ではないことを示すために、いくつかの実例を指摘するに止めよう。
 許博士は次のような話をわれわれにした。氏自身のことばによってそれを述べてみよう。氏はいわく。
 一、『私は自分の眼で、日本兵が浴室で婦人を強姦したのを見ました。着物が外にかけてあり、そうしてその後われわれは浴室のドアーを見付けたところ、そこには裸の女が泣いて非常に悄然としていました。』
 二、『…われわれはキャンプに行き、そこに住んでいると伝えられていた二人の日本人を捕まえようとしました。そこに着いたとき、一人の日本人がそこに腰を下ろしており、隅に女が泣いておるのを見ました。私は福田に対し、「この日本兵が強姦したのです」と言いました。…』
 三、『あるときわれわれは強姦している日本人を捕まえました。そして彼は裸でした。彼は寝ていたのです。だからわれわれは彼を縛り、警察署に連れていきました。』
 四、『私は他の事件を知っております。それは船頭で、彼は卍教会(紅卍字会)の一人であって、私にこんなことを言いました。彼はそれを自分の船の上で見、それが自分の船の上で起こったのであります。尊敬すべき家族がその船に乗って河を横切ろうとしたのです。ところが河の真中に二人の日本兵がやって来ました。彼等は船を検査しようとしたのですが、そこに若い女を見たとき、それは若い婦人と娘でしたが、その両親と一人の夫の眼の前で二人は強姦し始めました。
 強姦してから日本兵はその家族の老人に対して「よかったろう」と言いました。そこで彼の息子であり、一人の若い婦人の夫であったのが、非常に憤慨し、日本兵を殴り始めました。老人はこのようなことに我慢できず、また皆のためにむつかしいことになることを恐れて、河の中に飛び込みました。そうしますと彼の年とった妻、それは若い夫の母親ですが、彼女も泣き始め、夫に次いで河の中に飛び込みました。私はちょっと申すことを忘れましたが、日本兵が老人に対してよかったかどうか聞いたとき、その日本兵は、その老人に若い女を強姦することを勧めたので、若い女たちは皆河の中に飛び込みました。私はこれを見たのです。ですから一家全部が河に飛び込み、溺死してしまったのです。これはなにも又聞きの話ではありません。これは真実のほんとうの話であります。この話はわれわれが長いこと知っておる船頭から聞いたのであります』
 次にマギー氏の証拠からいくつかの事例をとってみよう。
1 『12月18日に私は私どもの委員会の委員であったスパーリング(Eduard Sperling)氏と一緒に南京の住宅街に行きました。すべての家に日本人がおり、女を求めているように見えました。私どもは一軒の家にはいりました。その家の一階で一人の女が泣いており、そこにおった中国人が、彼女は強姦されたのだとわれわれに告げました。その家の三階にはもう一人日本兵がおるということでした。私はそこに行き、指摘された部屋にはいろうとしました。ドアーは鍵がかかっていました。私はそのドアーを叩き、怒鳴ったところ、スパーリングは直ちに私のところにやってきました。十分ほど経った後、一人の日本兵が、中に女を残して出てきました。』
2 『私は他の一軒の家に呼ばれ、その二階の婦人部屋から三名の日本人を追出しました。私はその部屋に飛び込み、ドアーを押し開けたところそこに兵隊を見ました─── それは日本兵で強姦していたところでした。私は彼を部屋から追出しました…』
3 『私は殆ど30年来知っておりました一婦人───われわれの信者の一人ですが、彼女は部屋の中に一人の少女とおったところ、日本兵がはいって来、彼女は彼の前に膝をつき、少女に手をつけないよう願ったと私に告げました。日本兵は銃剣のひらったい方で彼女の頭を殴り、少女を強姦したのであります。』

 これらの証人は言い聞かされたすべての話をそのまま受け入れ、どの事件も強姦事件と見なしていたようである。船頭の話を受け入れることは実際容易にできることであろうか。・・・
 他のいろいろの説は確かに日本兵の中国婦人に対する不当な行動の実例として認めることができる。しかし証人らは躊躇することなくそれを強姦事件と主張している。或る部屋の中に一人の兵隊と一人の中国の娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれは強姦した後寝たのであると、われわれに対し言えるということになるのである。また証人はこの話をするにつれて、自分の語っていることに疑いはないと、殆どその気持ちになっていたのである。
 われわれはここにおいて昂奮した、あるいは偏見の眼をもった者によって目撃された事件の話を与えられているのではないか。本官はこの点について確かでない。
 もしわれわれが証拠を注意深く判断すれば、出来事を見る機会は多くの場合において最もはかないものであったに違いないということをわれわれは発見するであろう。しかも証人の断言的態度は、ある場合には知識を得る機会に反比<例>しているのである。おおくの場合には、彼らの信念は、彼らをして軽信させることにあるいは役立った昂奮だけによって導かれ、その信念は彼らをして蓋然性と可能性の積極的解説者たらしめる作用をしたのである。風説とか器用な推測とか、すべての関連のないものは、おそれく被害者にとってはありがちの感情によってつくられた最悪事を信ずる傾向によって、包まれてしまったのである
 これに関連し本件において提出された証拠に対し言いえるすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、なお残虐行為は日本軍のものがその占領した或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的でである。

 問題は被告にかかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある以上のべたように、被告に対する訴追は次の通りである。
(一)彼らは特定の者をしてその行為を犯すことを命令し、授権し、かつ許可し、それらの者はその行為を犯したこと。(訴因第五四) 
(二)彼らは故意にまた不注意に、かような犯罪行為を犯すことを防止する適当な手段をとるべき法律上の義務を無視したこと(訴因第五五)
 想起しなければならないことは、多くの場合において、これら残虐行為を実際に犯したかどで訴追されたものは、その直接上官とともに戦勝国によってすでに『厳重な裁判』を受けたということである。われわれは検察側からこの犯罪人の長い名簿をもらっている。証拠として提出されたこれらの名簿の長さは、主張されている残虐行為の邪悪性と残忍性とはなんら比較し得るものではない。これら非道な行為を犯した見做なされたすべてのものにたいし、戦勝国が誤った寛大な態度を示したと非難し得るものは一人もいないと本官は思う。この処刑によって憤怨のどのようなものも充分に鎮圧せられたものと見做し得られ、かような噴怨から起こる報復の激情と希望は、満足されたものと考えられる。「道徳的再建の行為」または「世界の良心が人類の威厳を新たに主張する方法」としても、かような裁判は、その数において不充分ではなかった。
 ここにおいてわれわれは冷静に、はたして罪がわれわれの裁いている被告に及ぶものか見ることができる。
一 中国における残虐行為に関しては、その期間は、1931年9月18日から1945年9月2日までである。
二 他の戦闘地域に関する残虐行為に関しては、その期間は、1941年12月7日から1945年9月2日までである。
 残虐行為に関する証拠は、1937年12月13日の南京陥落後の同市における残虐行為実際始まっているのであるから、本官は上述の期間の第一は、その期日から始まったものとして、次の期間に再分する。
(a)1937年12月13日から1941年12月6日までの期間
(a)1941年12月7日から1945年9月2日までの期間。
 想起すべきことは、検察側はこれらの残虐行為を訴因第五十四において一般的に主張する以外、訴因第四十五ないし第五十において、中国において犯された<か>ような残虐行為のいくつかの特定の事件について訴追していることである。
 訴因第四十五は南京で起こったことに関するものである。その期間は、『1937年12月12日及びその後引き続き』となっている。
 当時、被告広田は外務大臣、賀屋は大蔵大臣、また木戸は文部大臣であった。他の被告のだれも当時閣員ではなかった。
 関係ある軍隊は、被告松井が司令官であり、被告武藤が参謀副官(参謀副長)であった中支那方面軍であった。被告畑は1938年2月17日、松井大将に代わって軍司令官となった。本官はその軍隊の構成を後ほどさらに詳しく考察してみる。
 以上から見れば、南京事件に関する限り、他のどの被告も関係はない。われわれはこのことをはっきり念頭に置いておかなければならない。
【中略】
 検察側は、南京暴行事件に関する限り、次に挙げる人物がそれに関する知識をもっていたことを立証したと、主張しているのである。
 すなわち
一、当時中支那派遣軍を指揮していた松井被告。(法廷証第二五号及び第二五五号)
二、中国における日本外交官。
三、東京の外務省。
四、外務大臣広田被告。
五、当時朝鮮総督であった南被告。
六、中支派遣の日本無任所公使、伊藤述史。
七、貴族院
八、木戸被告
である。
 松井被告が知っていたという点に関しては、本人の陳述、すなわち1937年12月17日には南京におり、上海帰還まで一週間そこに留まったと述べたことに頼っているのである。そして南京入城と同時に、日本外交官から、当地において軍隊の多くの暴虐事件を犯したことを聞いたというのである。
 当時参謀副官であった武藤被告は、松井大将とともに、入城式のために南京に行ったものであり、当地に10日間、留まったと述べた。
 松井大将は1938年2月まで司令官の位置に留まったが、事態を改善するための有効な手段は、この期間なんらとられなかったと検察側は指摘したのである。
 日本外交官が知っていたという点に関する証拠は、南京陥落当時同地にいたドイツ・英国・アメリカ及びデンマーク人の一団をもって組織した、南京難民地区の国際委員会秘書ルイス=スマイス博士の証言である。スマイス博士は、1937年12月14日から1938年2月10日までこの委員会の秘書であった。彼の証言というのは、同委員会が南京の日本大使館に対して、毎日個人的報告をなしたというのである。スマイス博士は、大使館はなんらかの処置を講ずることをそのたびごとに約束したが、1938年2月に至るまでの事態を改善するための有効的な手段が、とられなかったと述べたのである。
 難民地区国際委員会の創設委員長だった南京大学の歴史学教授ベイツ博士は、最初の三週間ほとんど毎日、前の日のことに関するタイプした報告または書翰を持って大使館に行き、またしばしば館員とその件に関する会談をなしたと証言している。これらの館員というのは、領事であった福井氏、田中氏と称する人物および副領事福田篤泰氏である。福田氏は、現在総理大臣吉田の秘書である。
 ベイツ博士によればこれらの日本人外交官は、悪条件のもとにわずかながら彼らのでき得ることを誠意をもってなそうと努めていたのであるが、彼ら自身軍を頗る怖れ、上海を通じて東京にこれらの通信を伝達する以外には何も出来なかったとの事である。これらの大使館員は、また南京の秩序を回復させるべき強い命令が東京から数回発せられことを証人に確信しているのである。またこの証人は、外国の外交官及びこの代表団に同行した一日本人の友人から、ある高級陸軍将校が多数の下級将校及び下士官を集めて、陸軍の名誉の為に、その振舞を改善しなければいけないということを、頗る厳重に申し渡したことを聞いたのである。
 さらに証人は、1938年2月5日及び6日までは状態が実質的には改善されず、また南京の日本領事館が作成した報告は、領事館によって東京の外務省に送られたことを知っていたことを証言したのである。
「2月6日、7日ごろから状態は明らかによくなりまして、それ以後夏までいろいろ重大な事件がありましたが、それまでのように非常に大仕掛けの堪え難いのはありませんでした。」
 証人はまた「私は東京駐在大使グルー氏から南京米国大使館に送られた電報を幾つか見ました。そしてこの電報で、南京から送られた報告について、グルー氏及び外務省の官吏の間になされた会談について相当詳細にわたって、言及していたのであります。この外務省の官吏の中には、広田氏が含まれています」と述べている。勿論証人には、これらの報告が実際に東京に送られたかどうか、あるいは又、誰にあてられたかは、この方法以外に知るよしもなかったのである。検察側によれば、「是等残虐行為ニ関スル報告ハ全テ、外国新聞ノ非難報道ト共ニ、広田ニ送達セラレタガ、報告ガ続々入リツツアッタ時デサエモ、彼ハ同問題ヲ陸相ニ迫ラズ、又内閣ニ計リマセンデシタ」と。
 証拠によれば、広田はこれを当時の陸軍大臣杉山大将に伝えたのである。陸軍大臣は直ちに処置をとることを約し、かつまた実際に厳重な警告を送った。従って広田はグルーに対して、「最も厳重な訓令が大本営から発せられ、在支のすべての司令官に渡されるはずである。その主意は、これらの掠奪は中止せられるべきこと、及び本間少将が南京に派遣せられ、調査をなし、命令の遵奉を確かめること」を確信したのである(法廷証第三二八号)。
 1月19日にグルー氏が、同氏の抗議に対して処置を広田がとり、かつまた「東京より訓令をもって前線の部隊にこれを遵奉せしめるため峻烈な手段が考慮されつつある」と東京から報告している事が証拠になっている。
 南被告は、その当時朝鮮総督であった。彼は新聞の残虐行為の報道を読んだのである。この事実が検察側の主張をどのように助けるものであるかは、本官としては了解できない。これは単にこれらの残虐行為に関する新聞報道があったことを示すだけである。何人もこれを否定してはいない。

 1937年9月から1938年2月まで、中国派遣の日本無任所公使であった伊藤述史は、南京にあった日本陸軍が当時種々の残虐行為を犯した旨の報告を、当地の外交団及び新聞記者から受けたことを証言した。さらに、彼は、これらの報告の真実性は究明しなかったが、東京の外務省に送った報告の一般的要約は、すべて外務大臣あてであった事を証言した。残虐行為に関する外国新聞報道に関しては、事態がすでに収拾された後の1938年2月16日の貴族院予算委員会において言及されたのである。そこには木戸被告が出席していた。しかしながら、本官としては、何故にこの事実が検察側の国策であるという議論を少しでも支持するものであるか了解しがたい。このような批判及び論評は、むしろ、かような仮説に反するものとなるのである。
 さきに挙げた証拠は、南京残虐行為の報告が東京政府に達した事を明らかに示すものである。この証拠は又、政府がこの問題に関する処置をとって、遂に軍司令官松井大将が畑大将と更迭された事を明らかにしている。残虐行為もまた2月初旬までに終熄した。この証拠をもって、かような残虐行為が日本政府の政策の結果であるという結論に、われわれが追い込まなければならない理由を、本官としては解釈しがたいのである
 検察側はこの南京事件後においてさえも、同様な残虐行為がその後他の数カ所の戦域におきて犯されたこともあって、日本政府が日本陸軍の凶暴な振舞いの継続を防止するのを欲しなかったとの推断を、合法的に下すことが出来ると主張しているのである。検察側は提出証拠が次の諸事実を立証するものであると主張していた。すなわち、
 一、日本政府は南京残虐事件に関する情報を入手したのであり、その後は中国における戦闘の継続期間中、及び太平洋戦争において日本軍隊による戦争犯罪の反復に対して、警戒する理由が生じた。
 二、日本政府は、太平洋戦争勃発前における他の戦争犯罪があこなわれたことの情報を入手した。
 三、日本政府は、太平洋戦争のほとんどあらゆる戦域において、戦争犯罪が行われたことの情報を入手した。
 四、しかるに日本政府は、その継続を真に防止しようと企てなかった。
というのである。
 検察側の主張は、前記事実はかような犯罪が政府の政策の一部として行われた事実、あるいはそれが行われたか否かに関して、政府がまったく無関心であったという事実の非常に有力な証拠であるというのである。
 本官は検察官によって述べられた前記の事実を、法廷記録にある証拠がどの程度立証するかを検討してみよう。
 本官としては、まず第一に南京において行なわれたと主張されている残虐事件を取り上げて見る。検察側証拠によれば、1937年12月13日の南京陥落の際、城内における中国軍隊の抵抗はすべて終熄したのである。日本の兵隊は城内に侵入して、街上の非戦闘員を無差別に射撃した。そして日本の兵隊が同市を完全に掌握してしまうと強姦、殺害、拷問及び却掠の狂宴が始まり、六週間続いたというのである。
 最初の数日間、2万名以上の者が日本人によって処刑された。最初の六週間以内に、南京城及びその周辺において殺害された者の数の見積もりは26万ないし30万人の間を上下し、これらの者はすべて実際には裁判に付されることなく、殺戮されたのである。第三紅卍字会及び崇善堂の記録によって、この二団体の埋葬した死体が15万5千以上であった事実が、これらの見積もりの正確性を示している。この同じ六週間の間に2万人を下らない婦女子が日本の兵隊によって強姦された。
 以上が検察側の南京残虐事件の顛末である。すでに本官が指摘したように、この物語の全部を受け容れることはいささか困難である。そこにはある程度の誇張と多分ある程度の歪曲があったのである。本官はすでにかような若干の例を挙げた。その証言には慎重な検討を要する所のあまりに熱心すぎた証人が、明らかに若干いたのである。
 
 ここに陳福宝と名乗る一人の証人について触れてみよう。この証人の陳述は法廷証拠第二〇八号である。この陳述において、彼は、12月14日、39人の民間人が避難民区域から連行され、小さな池の岸に連れて行かれて機関銃で射殺されるのを目撃したとあえて言っている。証人によれば、これは米国大使館の付近で、朝白日の下に行われたのである。16日に彼は、日本軍に捕らわれた幾多の壮健な若者が銃剣で殺されていたのを再び目撃した。その同じ日の午後、彼は太平路に連れて行かれ、3人の日本兵が二軒の建物に放火するのを見た。彼はこの日本兵の名前も挙げることができたのである。
 この証人は本官の目にはいささか変わった証人に見える。日本人は彼を各所に連れてその種々の悪業を見せながらも、彼を傷つけずに赦すほど彼を特別に好んでいたようである。この証人は、本官がすでに述べたように、日本軍が南京にはいったその二日目に難民地区から39名の者を連れだしたと言っている。証人は、これが起こった日付は確かに12月14日であるとしている。この一団の人のうち、その日に37名の者が殺された。許伝音博士でさえ、かようなことが12月14日起こったとは言えなかったのである。彼は難民収容所に関する12月14日の日本兵の行動に関して述べているのであるが、その日に収容所から何者も連れ出されたとは言っていない。
 いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠に対して悪く言うことのできる事柄をすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いがない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく二月六日あるいは七日過ぎてからである。
 弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。彼らは単に誇張されていることを愬えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。
【中略】
 被告松井大将は、南京陥落をもたらした中支那方面軍の司令官であった。彼は1938年2月東京に帰還し、畑大将が1938年2月17日、同人と交代した。
 1937年8月15日、松井大将は上海派遣軍司令官に任命された。同年11月5日、大本営は当時の上海派遣軍と第十軍とを合併し、中支方面軍を組織し松井大将をその司令官に任命した。
 派遣軍と第十軍の司令部の上にあって、両軍の指揮を統一することが中支方面軍に課された任務であった。その任務は、両司令部の共同作戦の統一であった。軍隊の実際の操作及び指揮は各軍の司令官によって行われた。各司令部には、参謀及び副官のほかに兵器部、軍医部および法務部があった。しかるに、中支方面軍のうちには、かような係官はなかった。(法廷証第二、五七七号・法廷記録第三八、九〇〇頁)
 大本営は12月1日中支方面軍に対し、海軍と協力して南京を攻略せよと命令を出した。12月5日、中支方面軍司令部は南京から140哩離れた蘇州に移った。松井大将は当時病気であったが、彼は、重要問題については参謀と協議の上病床で決裁した。(法廷証第三四一号)
 12月7日、上海派遣軍に対し別の司令官が任命された。従って、その日以後松井大将は中支方面軍司令官であって、それは一司令官の指揮下にある第十軍と、いま一人の司令官の指揮下にある上海派遣軍から組織されていた。
 南京を攻撃せよという大本営の命令を実施する以前に、松井大将は日本軍に対して、以下の命令を示した。すなわち
「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるが故に、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼の度を増すようにせよ。上海周辺の戦闘は支那軍を屈服せしめるをその目的とするものなり。できる限り一般官民はこれを宣撫愛護せよ。かつ軍は外国一般居留民並びに軍隊を紛争に巻き込ましめざるよう常に留意し、誤解を避くるため外国出先当局と密接な連絡を保持すべし。」
 ここにおいて飯沼派遣軍参謀長等は、松井大将麾下の将兵にたいして、直ちに、前述の命令を伝えた。塚田中支方面軍参謀長は、部下6名の参謀とともに左記要領の命令を準備した。すなわち、
 一、中支方面軍は南京城を攻略せんとす。
 二、上海派遣軍並びに第十軍は南京攻略要領に準拠し南京を攻略すべし。
 右に言及した南京攻略に関する命令の要点は左の通りである。
 一、両軍(上海派遣軍及び第十軍)は、南京城外3、4キロの線に進出したときは停止し、南京城攻略を準備する。
 二、12月9日、飛行機で南京城内の中国軍に降伏勧告文を散布する。
 三、中国軍が降伏した場合には、各師団から選抜された2、3個大隊と憲兵だけを城内に入れ、地図に示した担当区域の警備をする。特に図示された外国権益または文化施設の保護を完うすること。
 四、中国軍が降伏勧告に応じない場合には、12月10日午後から攻撃を開始する。この場合にも城内に入る部隊の行動は前記と同様処置し、特に軍規、風紀を厳粛にし、すみやかに城内の治安を回復する。
 上記の命令を作ると同時に、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」と題する訓令が作成された。その要旨は次の通りである。すなわち、
 一、皇軍ガ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ、永ク竹帛ニ垂ルベキ事績タルト世界ノ斉シク注目シタル大事件タルニ鑑ミ、正々堂々将来ノ規範タルベキ心組ヲ以テ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニナカラシムベシ。
 二、部隊ノ軍規風紀ヲ特ニ厳重ニシ、中国軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰セシメ、苟モ名誉ヲ毀損スルガ如キ行為ノ絶無ヲ期ス。
 三、別ニ示ス要図ニ基キ、外国権益、殊ニ外交機関ニハ絶対ニ接近セザルハ勿論、特ニ外交団ノ設定シタル中立地帯ニハ、必要ノ外立入リヲ禁ジ、所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置スベシ。又城外ニ於ケル中山陵其ノ他革命志士ノ墓及ビ明孝陵ニハ立入ルコトヲ禁ズ。
 四、入城部隊ハ師団長ガ特ニ選抜シタルモノニシテ、予メ注意事項、特ニ城内ノ外国権益ノ位置ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ、要スレバ歩哨ヲ配置スベシ。
 五、掠奪行為ヲ為シ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳重ニ処罰スベシ。軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵及ビ補助憲兵ヲ入城セシメ、不法行為ヲ防止セシムベシ。
 12月17日、松井大将は南京に入城して、初めてあれほど厳戒したのにかかわらず、軍規風紀違反のあった旨報告によって知った。彼はさきに発した命令の厳重な実施を命じ、城内にある軍隊を城外に出すことを命じた。塚田参謀長及び部下参謀は南京城外の宿営地を調査したところ、関係場所は軍隊の宿営に不適当なことを知った。(法廷証第二、五七七号)
 よって12月19日、第十軍は上海派遣軍のいた蕪湖方面に引返した。第十六師団だけが南京警備のために残され、他の部隊は逐時、揚子江の北岸及び上海方面に撤退するように命令された。(法廷証三、四五四号)
 松井大将が部下の参謀とともに上海に帰還した後、大将は南京において日本軍の不法行為がある旨の噂を再び聞いた。これを聞いて同大将は、部下の一参謀に12月26日または27日、次のような訓令を上海派遣軍参謀長に伝達させた。すなわち、
 「南京デ日本軍ノ不法行為ガアルトノ噂ダガ、入城式ノトキモ注意シタ如ク、日本軍ノ面目ノ為ニ断ジテ左様ナコトガアッテハナラヌ。殊ニ朝香宮ガ司令官デアラレルカラ一層軍規風紀ヲ厳重ニシ、若シ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、又被害者ニ対シテハ賠償又ハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ。」(法廷証第二、五七七号)
 かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかしいずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆はない。この証拠によれば、本官は松井大将としては本件に関連し、法的責任を故意かつ不法に無視したと看做すことはできない。
 検察側は本件に関し、処罰の数が不充分であったとの事実に重点を置いている。本官はすでに述べたように、司令官は軍の軍規風紀の実施のために与えられている機関の有効な活動に当然依存し得るのである。軍には違反者を処罰することを任務とした係官が配置されていたことは事実である。本官はかような違反者を処罰する手続きをとることは、司令官の任務または義務であるとは思わない。司令官の耳には残虐行為の噂もはいり報告もきた。彼は充分にそれは不承認であることを表現した。従ってその後は彼としては当然、両軍の司令官ならびに軍規風紀を維持し処罰を加える任務を帯びている他の高級将校に依存し得るのであった。また松井大将は当時病気であり、これらの出来事があってのち数週間内にその任務を交代させられたことを記憶せねばならない。
 どんな軍の司令官の立場というものも、かような短期間さえもその機関が適当に活動しているか否かをみる余裕を与えられないとするならば、実に耐え難いものであろう。本官の判断では、市民に関して南京で発生したことに対し、同人を刑事上責任あるものとするような不作為が同人にあったことも証拠は示していない。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーパル判決書ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人でインド代表のラダ・ビノード・パール(英語表記: Radhabinod Pal)は、被告人全員の無罪を主張したことで知られています。
 彼の「意見書」である通称『パル判決書』の「第七部 勧告」は、「以上述べてきた理由にもとづいて、本官は各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部について無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張する」という文章で始まっています。
 日本では、このパルの「無罪」論を正しく受け止めず、「南京大虐殺はなかった」という主張に無理矢理結びつけて、先の大戦における日本軍の軍事行動や日本兵の所業を正当化しようとする人たちがいることを残念に思います。

 パル判事は南京において、日本兵が残虐行為を働いたことを否定してはいません。すでに「南京事件 パル判決書」で引用したように、パル判事は「これに関連し本件において提出された証拠に対し言いえるすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、なお残虐行為は日本軍のものがその占領した或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と言っているのです。
 そして、「これらの恐るべき残虐行為を犯したかもしれない人物は、この法廷には現れていない。その中で生きて逮捕されえたものの多くは、己の非行にたいして、すでにみずからの命をその代価として支払わされている。かような罪人の、各所の裁判所で裁かれ、断罪された者の長い表が、いくつか検察側によってわれわれに示されている」として、東京裁判における被告席の司令官や政治家にその責任を負わせることには問題があると指摘しているのです。
 だから私たちは、パル判事がその『判決書』で展開した極めて重要な問題提起の数々を、正しく受け止めて生かしていくことを考えなければならないのだと思います。そこで、そうしたことを教えてくれる『共同研究 パル判決書』東京裁判研究会(講談社学術文庫)の中から、「」(資料1)と 共同研究者の一人、角田順氏の書いた「第三章  パル判決書と昭和史」の中の「六、無罪勧告の意味」(資料2)および『パル判決書』の「第六部 厳密な意味における戦争犯罪」の中からパル判事自身の文章(資料3)を抜粋しました。そして特に記憶したい文章を赤字にしました。
 パルは、原子爆弾使用の決定に関しても、戦争犯罪と関連して重要なことを指摘しています。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   序
 東条英機元首相以下25名の戦犯被告を有罪とした東京裁判(正しくは極東国際軍事裁判所の裁判)
の多数派判決を正面から堂々と論駁したインド代表パル判事の反対意見書(いわゆる『パル判決書』)は永遠に歴史に残る「真理の書」である。そこに脈々と伝わる東洋的哲理、にじみ出る正義感、裁判官としての誇りと信念、真に法による世界の平和を祈念する法学者としての人類愛、強力な占領権力の圧迫下、身にふりかかるやも知れぬ危険を顧みず、裁判を不当と断じた勇気、とくに、戦勝国の大統領、しかも占領軍最高司令官自身の属するアメリカ合衆国大統領の、原子爆弾使用の決定を、第一次大戦におけるドイツ皇帝カイゼルの敵国民全殺戮指令ないし今次大戦におけるナチス指導者の虐殺指令に匹敵すると叫んだ判事の心境は、17世紀、当時なお人間の法の上に超然としていたローマ法皇や諸皇帝、諸国王も、ひとしく人間の法にしたがうべきものであると叫んだ近代自然法の父フーゴー・グロティウス(『戦争と平和の法』<1625年>の著者、近代国際法の先駆者の一人)の覚悟にもくらべることができよう。

 この『パル判決書』は、法廷の朗読も行われず、日本国民に無用の刺激を与え、占領政策に有害なものとして、占領軍当局は、その公刊も禁じた。その後、部分的に一、二出版され、また東京裁判刊行会『東京裁判』(全三巻)の下巻に全文が収録された。しかし、、前者は「日本無罪論」の名がとかく一般国民に誤解を与えてパル判事の真意を伝えず、後者は、裁判の全貌をつたえ、その細かい情景まで描写しえたことは、学術書ではとうてい及ばぬところであるが、専門家の引用に適せぬのみならず、非専門家にとっても、判決書そのものが、難解至極の上、膨大であってはとりつくすべもないであろう。そこで、さきに『東京裁判』を刊行した「東京裁判刊行会」は、一には、若い世代の教育にたずさわる人々が、東京裁判そのものの全貌およびそこで占める『パル判決書』の位置とその意義を客観的に理解できるよう、なるだけコンデンスし、かつ学者の見方を二、三附すること、ならびにでlきるだけ専門家の引用にも耐えるような全文を附することを本研究会に委嘱された。1964年5月ごろから、東京裁判の研究を行ってきた本研究会は、その趣旨に賛同して、この仕事に協力することになった。かねがね、われわれは、東京裁判の研究が、わが国でもっと早くから、もっと広く、そして深い徹底さでおこなわれなければならなかったし、行われれていなければならないし、また、行われるようにならなければならないと痛感していたが、政府、学界、一般のいずれの怠慢かは別として、裁判終了後裁判記録が公刊されておらず、却下証拠のごときは印刷もされていない。研究しようとするものは、裁判当時配布された原本によるほかはない。邦文速記録は国会議事録のような体裁で印刷されていたが、英文は全部タイプ謄写である。これを全部そろえて整理している大学や研究所は僅々数カ所であろうし、外国でも数えるくらいである。ニュルンベルク裁判の全記録が索引二巻までも入れて全43冊に本印刷で公刊されているに比すれば雲泥の差である。東京裁判記録が本印刷で公刊されないのは、連合国だった国々が、かえってこれを欲しいからだともいわれている。さすれば、怠慢からにせよ、無関心からにせよ、われわれ日本の国民の責任は、なおさら大きいといわなければならない。ひろく資料を提供することはわれわれの義務である。われわれは、その意味からいっても、まず手はじめにわが国の人々に資料を提供したいのである。本判決もさることながら、日本国民がいまもっとも読んでおかねばならないのはなんといっても『パル判決書』っである。せめても本書の刊行が、この要請に応える第一歩であると理解されれば、企画者として、また参加者として、このうえなき幸いである。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    第三章  パル判決書と昭和史
          
   六、無罪勧告の意味
 パル判決書第七部「勧告」の趣旨は、冒頭の一句、
「以上述べて来た理由にもとづいて、本官は、各被告は、起訴状の中の各起訴事実全部につきすべて無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部からすべて免除さるべきである、と強く主張する」(判下・727)
に尽きている。しかしながら、ここでわれわれが注意を払うべき点はこの「無罪」の意味である。それは、目下の論点たる共同謀議だけに限るとしても、日本の為政者、外交官、および政治家は「共同謀議者ではなかった。かれらは共同謀議をしなかった」(判下・466)。したがって、検察側の共同謀議の訴追には該当せず、したがってその関係からは無罪とせざるを得ない、という意味なのであり、広く一般的に、あるいは日本の国内法上から無罪である、もしくは道義上も責任がない、という種の判断とは全然無関係なのである。したがってパル判決書を至当と認める立場に立つ場合においても、なお昭和の日本の為政者、外交官および政治家に対する一般的あるいは国内法上の追及、および道義上の糾明の自由を、われわれは全然損なわれずに保障されているのである。パル判事もまた、その判決書が全面的共同謀議の検討を離れて、広く日本の要路者あるいは日本国の「行動を正当化する必要はない」(判645)、日本の「行為が果たして正当となしうるものであったかどうか、を検討することは全然必要ない」(判766、858)との建前を堅持して、
「当時の日本の政策が隣国に対する正義と公平に基づく賢明な利己政策であったか、あるいはたんに主我的な侵略政策であったか、われわれの現在の目的のためにはさほど重大事ではない」(判746)
と断言しているのである。しかしたとえば、
「無謀で卑怯でもある」張作霖殺害事件(判786)
「1931年9月18日以降の満州における軍事的な発展はたしかに非難すべきものであった」(判793)
 日本の大東亜共栄圏建設計画推進にさいしての米国の態度は「無理であり、攻撃的であり、あるいは傍若無人的であったかもしれない」(判下・375)
と言うように散見するパルの判断から演繹するならば、昭和日本に対するパルの総括的な評価が
「日本がある特定の時期に採用したどの政策にしても、あるいはその政策にしたがってとったどの行動にしても、それはおそらく〔法律的に〕正当化できるものではなかったであろう。…日本の為政者、外交官および政治家らはおそらくまちがっていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう」(判下・465)
ということにあったとしても、怪しむには足りないのである。検察側と弁護側の間をおそらくは一身上の顧慮から、蝙蝠のごとく飛びまわった田中隆吉証人にたいするパルの深刻な道義的嫌悪も、ちなみに、ここに引用しておこう。
「ここに一人の男があり、その男は日本の不法行為者どもの一人一人にとって非常に魅力ある存在であったとみえて、それらの人々はその行為をなした後に、どうにかしてまたいつか、この男を探し出してその悪行の数々を打ち明けたのである」(判711)
「これらの自白者らは、共同謀議の連鎖を完全なものにするために、かれらの行ったことのすべてを〔田中に〕自白しなければならなかった。このような多数の人々が田中証人に、別々に、そしてくりかえし、接近し、何回も何回も打明け話をしにきたと称することは、格好のよいものではないであろう」(判・741)
 パル自身が現代日本史に対するその痛烈な不満の一端をその判決書の中にかように隠顕させているのであり、したがって、この無罪勧告も、昭和史に対するわれわれの自主的な反省の自由を保障しこそすれ、その安易な全面的肯定とはまったくいれないものなのである。
 昨今の歴史的考察は、東京裁判についても「占領軍は、前例のない〔戦争犯罪〕という概念にもとづいて日本の指導者層を裁いていく過程において、日本の行った戦争が正義の連合国にたいして最初からいかに不正であったかを立証し、またそれを国民に印象づけることに力を注いだ。…
 かくして東京裁判が…連合国の観点からする戦争観をわが国民に押しつけ、反省と悔悟とを強い、自国の過去への嫌悪と軽蔑とを、抜きがたく植えつける、という点において、より大きい効果を生んだことは、今日となっては誰しも否定することができない、すなわち占領軍による旧日本抹殺と糾弾のピークとなった東京裁判は、…実に無形の国民精神に再び回復しがたい深傷を与える結果となった(原敬吾『自由』昭和41年2月号72-73ページ)と述べうるにいたったが、かように規定しうる東京裁判への反発の余勢から、もしわれわれがパルの無罪勧告をもって現代日本への総括的な免罪符と解するにいたるならば。それはパルにたいして根本的に錯誤を犯すこととなるのである。

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
パル判決書               第六部 厳密な意味における戦争犯罪 

  日本占領下の諸地域の一般人に関する訴因
(訴因第五十四および第五十五)
 ・・・
 それらは戦争の全期間を通じて、異なった地域において日本軍により、非戦闘員にたいして行われた残虐行為の事例である。主張された残虐行為の鬼畜のような性格は否定しえない。
 本官は事件の裏づけとして提出された証拠の性質を、各件ごとに列挙した。この証拠がいかに不満足であろうとも、これらの鬼畜行為の多くのものは、実際に行われたのであるということは否定できない。
 しかしながら、これらの恐るべき残虐行為を犯したかもしれない人物は、この法廷には現れていない。その中で生きて逮捕されたえたものの多くは、己の非行にたいして、すでにみずからの命をその代価として支払わされている。かような罪人の、各所の裁判所で裁かれ、断罪された者の長い表が、いくつか検察側によってわれわれに示されている。かような表が長文にわたっているということ自体が、すべてのかかる暴行の容疑者にたいして、どこにおいてもけっして誤った酌量がなされなかったということについて、十分な保証を与えくれるものである。しかしながら、現在われわれが考慮しているのは、これらの残虐行為の遂行に、なんら明らかな参加をしていない人々に関する事件である。
 本件の当面の部分に関するかぎり、訴因第五十四において訴追されているような命令、授権または許可が与えられたという証拠は絶無である。訴因第五十三にあげられ、訴因第五十四に訴追されているような犯行を命じ、授権し、または許可したという主張を裏づける材料は記録にはまったく載っていない。この点において、本裁判所の対象である事件は、ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っているのである。

 本官がすでに指摘したように、ニュルンベルク裁判では、あのような無謀にして無残な方法で戦争を遂行することが、かれらの政策であったということを示すような重大な戦争犯罪人から発せられた多くの命令、通牒および指令が証拠として提出されたのである。れわれは第一次欧州大戦中にも、またドイツ皇帝がかような指令を発したとの罪に問われていることを知っている。
 ドイツ皇帝ウイルヘルム二世は、かの戦争の初期に、オーストリアの皇帝フランツ・ジョゼフにあてて、つぎのようなむねを述べた書翰を送ったと称せられている。すなわち、
「予は断腸の思いである。しかしすべては火と剣の生贄とされなければならない。老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも、一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような堕落した国民に影響を及ぼしうるただ一つのかような暴虐をもってすれば、戦争は二ヶ月で終焉するであろう。ところが、もし予が人道を考慮することを容認すれば、戦争はいく年間も長びくであろう。したがって予は、みずからの嫌悪の念をも押しきって、前者の方法を選ぶことを余儀なくされたのである」。
 これはかれの残虐な政策を示したものであり、戦争を短期に終わらせるためのこの無差別殺人の政策は、一つの犯罪であると考えられたのである。
 われわれの考察のもとにある太平洋戦争においては、もし前述のドイツ皇帝の書翰に示されていることに近いものがあるとすれば、それは連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定にたいする判決は後世がくだすだろう。
 かような新兵器使用にたいする世人の感情の激発というものが不合理であり、たんに感傷的であるかどうか、または国民全体の戦争遂行の意志を粉砕することをもって勝利をうるという、かような無差別鏖殺が、法に適ったものとなったかどうかを歴史が示すであろう。
「原子爆弾は戦争の性質および軍事目的遂行のための合法的手段にたいするさらに根本的な究明を強要するもの」となったか否かを、いまのところ、ここにおいて考慮する必要はない。
 もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的ために十分である。このようなものを現在の被告の所為には見出しえないのである

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーパル判決書 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人でインド代表のラダ・ビノード・パルは、自身の意見書(通称『パル判決書』)の「第六部、厳密なる意味における戦争犯罪」の中の「俘虜に関する訴因」でも下記のように、重要なことを書いています(「パル」は「パール」とも表現されていますが、引用元の表現にしたがっています)。

 パルが東京裁判の被告全員が無罪であると主張したのは、俘虜(捕虜)に対する残虐行為がなかったからではないのです。彼は「俘虜の虐待が各種の方法で行われたことを立証する証拠は圧倒的である」と認めています。そして、その証拠を詳細に論ずる必要もないというのです。ただ、「これらの残虐行為の実行者はいまここにはいない」というわけです。そして、「現在われわれの目前には、これと異なった一組の人々がいる」として、彼らにその責任が及ぶのかどうかを詳細に論じ、無罪であると結論づけたのです。
 したがって、「仕組まれた”南京大虐殺”攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ」(展転社)の著者大井満氏の、下記のような指摘は的外れであると思います。
 大井氏は、同書の第九章「虐殺話のそもそもの源」の二、「東京裁判」の中に次のように書いています。
” 結局東京裁判は、
「法的外観をもとってはいるが、本質的に政治目的を達成するための方便にすぎない」というパール判事や、フランスのベルナール判事の言を今一度思い起こすべきである。また
「連合国の最高司令官とはいえ、勝手に法を制定することは許されない」
 とのパール判事の判決文も至言であり、さらに、これも当初から指摘されていたのだが、法の鉄則たる「不遡及の原則」を無視し、勝手に作った法をもって日本の過去を遡って裁いたという大きな誤りも犯した。
 とにかくここで南京事件のみに焦点を絞ったが、東京裁判そのものがまことに不条理、不公正であり、裁きとは言えぬ裁きであった。これはパール判事、レーチンク判事、ベルナール判事などの言を待つまでもなく、証言や証拠書類、そしてその扱い一つを見ても分かることで、その後も国際法の権威英国のハンキー卿、米国最高裁のダグラス判事など、世界の法学者がひとしくその不法性を認めるところである。
 したがって、
「東京裁判で事実とされたのだから、南京事件は本当にあったのだ」
というような論法は、まったく成り立たない。これだけは明白である。”

 パルは、南京事件はなかったから、被告が無罪であると主張したのではないことをしっかりと受け止めなければならないと思います。

 田中正明氏は、『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)の「序にかえて」の中で、下記のような貴重なエピソードを紹介しています。
 ”・・・
 …博士が再度訪日されたとき、朝野の有志が帝国ホテルで歓迎会を開いた。その席上ある人が「同情ある判決をいただいて感謝にたえない」と挨拶したところ、博士はただちに発言を求め、起ってつぎのとおり所信を明らかにした。
「私が日本に同情ある判決を行ったと考えるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したものではなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したにすぎない。それ以上のものでも、また、それ以下のものでもない」
 日本に感謝される理由はどこにもない。真理に忠実であった、法の尊厳を守った、という理由で感謝されるならば、それは喜んでお受けしたい、というのである。”
 その意味するところもしっかり受け止めなければならないと思います。彼は徹底して法にしたがい、被害者の証言も冷静に受け止めて鵜呑みにせず、「疑わしきは罰せず」を貫き通したのではないかと思います。
 下記は、『「共同研究 パル判決書』東京裁判研究会(講談社学術文庫)からの抜粋です。
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                    第六部 厳密なる意味における戦争犯罪
俘虜に関する訴因
 本官はこれから俘虜に関する起訴状訴因第五十四および第五十五の起訴事実を取り上げよう。
 すでに論及したように、これらの犯罪は起訴状付属書Dにあげられている。付属書Dの第一節ないし第八節は、右犯罪を列挙している。
 右犯罪は、付属書Dに引用された条約、保証および慣行中に存するものを含む戦争法規ならびに慣習に違反するものであるとされている。
 付属書Dにあげられている戦争法規ならびに慣習および条約、保証、慣行はつぎのとおりである。
 一、文明諸国民の慣行によって確立された戦争法規ならびに慣習。
 二、1907年10月18日、ハーグにおいて締結された陸戦の法規慣例に関する条約第四。
  (a)右条約の一部をなす付属書中に記載された規定。
 三、1907年10月18日、ハーグにおいて締結された海戦に関する条約第十。
 四、1929年7月27日、ジュネーブにおいて締結された俘虜の待遇に関する国際条約(以下においてはジュネーブ条約と称す)。
  (a)日本は右条約を批准しなかったが、日本を拘束するにいたった。
 五、1929年7月27日、ジュネーブにおいて締結された戦地軍隊の負傷兵の状態改善に関する国際条約(赤十字条約として知られてい    るもの)。
 六、東郷外務大臣の署名した通牒による保証。
  (a)(一)1942年1月29日付東郷の署名した東京駐在スイス公使あてアメリカ人俘虜にたいし、ジュネーブ条約を「準用」するむね保証し   た通牒。
   (二)1942年1月30日付東京駐在アルゼンチン公使宛、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド人俘虜にたいし、ジュネー    ブ条約を「準用」するむね保証した通牒、
  (b)1942年1月29日付日本は赤十字条約を厳格に遵守するむね保証した通牒。
  (c)1942年2月13日付東郷が署名した東京駐在スイス公使あて、帝国政府が相互条約のもとに現戦争中、1929年7月27日の条約の俘    虜の待遇に関する諸規定を、敵国の抑留非戦闘員に適用するむね保証した通牒。
  (d)上記の諸保証は、日本外務大臣により縷次繰り返され、近くは1943年5月26日にもなされた。
 右諸条約ならびに保証の違反行為の細目については、検察側はこれを8節にわけて述べている。
 付属書Dの第一節は、1907年のハーグ条約第四の付属書第四条ならびに1929年のジュネーブ条約の全部および上述の諸保証に反する。非人道的待遇を訴追している。
 第二節は、上記ハーグ条約付属書第六条ならびにジュネーブ条約第三編および上述の諸保証に反する俘虜労働の違法な使用を訴追している。
 第八節は、上記ハーグ条約付属書第十五条、ならびにジュネーブ条約第三十一、四十二、四十四、七十八、八十六各条に反する利益保護国、赤十字社、俘虜およびその代表の権利の妨害行為を論じている。
 検察側は、その最終弁論において、つぎの諸点を立証したものと主張した。すなわち、
一、証拠があげられているところの戦争犯罪は事実上行われたこと。
二、右犯罪はある場合には、日本政府の政策の一部として行われたこと。
三、その残りの場合においては、右犯罪が行われてこと、もしくは行われなかったことにたいして、政府は無関心であったこと。
 検察側は、この場合「日本政府」という表現を、非常に広い意味で使い、たんに内閣閣員ばかりでなく、陸海軍高級将校、大使、および高級官公吏をもふくめている。
 俘虜の虐待が各種の方法で行われたことを立証する証拠は圧倒的である。この証拠を詳細に論ずることは、なんの役にも立たないであろう。これらの残虐行為の実行者はいまここにはいない。かれらのうち存命中で逮捕できた者は、連合軍によって適当に処分されている。
 現在われわれの目前には、これと異なった一組の人々がいる。かれらは戦争中、日本の国務を執っていた者であり、戦争を通じて行われたあの残忍なる残虐行為は、そのような残酷な方法で戦争を行うにさいし、かれらの発意で日本が採用したところの政策の結果にほかならないという理由で、右残虐行為の責任を問われんとしている者なのである。
 俘虜に関して行われたと称せられているところの犯罪行為は、全部おなじ種類のものではない。それらは全部が「ソレ自体」犯罪ではない。そのうちの一部は、条約と保証に違反するという理由で犯罪であるとされている。他のものは「ソレ自体」犯罪であるとされている。われわれは現在の目的のためにこれらを区別しておかなければならない。そしてこのような行為にたいして、現在の被告たちにどの程度の犯罪的責任があったとなしうるかをみきわめなければならない。
 検察側のカー氏は、つぎの諸点にもとづいて、われわれに被告に犯罪的責任があるとみなすよう求めている。すなわち、
一、(a) 日本政府は事実上1929年のジュネーブ条約によって拘束されていた。または
  (b) 右拘束がなかったとすれば
  (一)かれらは疑いもなく1907年のハーグ条約第四および第十の拘束を受けている。
  (二)これらのいっさいの条約は、たんに国際法の説明的宣言である。
二、(a) 俘虜は捕獲した政府の権力内におかれるものであって、かれらを捕らえた個人または部隊の権力内にあるものではない。
  (b)(一) 政府もしくは、その一員は、責任をある一省に転嫁せんとすることによってこれを回避することはできない。
    (二) 主要責任は、個々の政府員全部にある。

 ・・・

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