-NO73~81-

---------731部隊 新妻ファイル「田中淳雄少佐尋問録」---------

 下記は、増田知貞軍医大佐をして「xを出せしはあまり面白からず……」と言わしめた田中少佐の尋問録である。「x」は言うまでもなく、731部隊ではノミのことを示す隠語である。田中少佐の尋問録には「x」ばかりではなく、「Px」すなわちペストノミやネズミの増産などについてもかなり具体的に記録されており、増田大佐は「……軈(やがて)ハ少しづつ、覆面が落ちてゆくのではないかと心配致居候」と事実を知られ、戦犯として訴追される不安を隠せなかったのである。しかしながら、ペストノミ増産の中核であった田中班の責任者である田中少佐でさえ、大事なところでは事実を秘匿しようとしていることが、赤字にした部分の証言などから読み取れるように思う。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)からの一部抜粋である。(Sはサンダース中佐、Nは新妻中佐、Tは田中少佐である。ヰはイに統一した。)
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                      「田中淳雄少佐尋問録」1945年10月30日)

 T・S問答要旨

昭和20年10月30日 16:00ー18:00
於京都 都ホテル(前半S私室 後半ロビー)
参列者  S中佐 Y中尉(ヤング)
       N中佐 T少佐

 N、Tヲ連レテ来マシタ
 S、御苦労デス 先ヅ話ノ初メニ当リコレハ戦争犯罪ヲ云々スルモノデ無ク飽ク迄科学者トシテ話シ度イ
 N、茲ニ昨夜T少佐ガ作業シタ記録ガアル故コレニヨリ話ヲススメ度イ コレハ何レ英文翻訳ノ上オ渡シスル
 S、ソノヤウニオ願ヒシ度イ
 T、話ノ順序ハ(一)経歴(二)今回ノ脱出経路(三)部隊ニ於ケル仕事(1)ペスト防疫実施(2)ペスト防疫予備工作トシテノ満州
   国内各地ノ鼠及鼠蚤ノ調査(3)昆虫駆除剤ノ研究(4)蚤ノ増殖法ニ就テ 説明スル

(一)経歴
  
(一部略)
  1937、4月 京大農学部卒業〔昆虫学専攻)
  1941、4月 京大医学部卒業 軍医中尉任官
  1942、1月 石井部隊附ニ命課 哈爾浜に到着
  1942、3月以降 第2部(防疫の実施)ニテ主トシテ「ペスト」防疫ニ従事ス

(二)今回ノ脱出経路  

  
(略)

(三)部隊ニ於ケル仕事
 部隊ノ仕事ハ秘密主義デ防諜ガ喧シイノデ自分ノ仕事ダケシカ知ラヌ 全般ノ事ハ部隊長ト増田大佐ダケガ承知デ我々下ノモノハ自分ノ 与エラレタル任務 受持ノ僅カノ部分シカ知ラナイ
 尚各資料モ皆部隊ニ残シタノデ詳細ハ不明デアルガ私ノ覚エテ居ル事ハ何デモ答ヘル
 私ハ昆虫ノ媒介スル疾病ノ防疫ヲ命ゼラレ発疹「チフス」ノ虱、「マラリア」ノ蚊、流行性出血熱ノ「ダニ」等ノ駆除ヲ命ゼラレタガ主ナルモノハ「ペスト」防疫デアッタ
(1)ペスト防疫実施
 満州ニハ従来「ペスト」常在地アリ 毎年数十乃至数百ノ患者ノ発生ヲ見ル 該ペストノ軍隊ヘノ侵入防止ノ為地方機関ト
 協力 ペスト防疫ニ従事セリ ソノ実施要領ハ
 (イ)、捕鼠殺鼠ノ励行 各戸ヨリ強制的ニ鼠ノ供出並買上実施(1944年2千万頭供出)
 (ロ)、防鼠工事ノ実施並指導 防鼠溝 清潔整頓
 (ハ)、予防接種、「ペスト」常在地附近部隊ニ5月6月2回実施
     「ペストインムノーゲン」(倉内)生菌ワクチン(春日)
 (ニ)、「ペスト」発生時ハ現地ニ出張シ右3方法ヲ強化スルト共ニ交通遮断、検疫、検診、時ニハ家屋ノ焼却、被服類ノ消毒
     等ヲ実施ス
(2)「ペスト」防疫ノ予備工作トシテ満州国内鼠及鼠蚤ノ分布並ニ其ノ季節的消長調査
 (イ)齧歯類、約25種類生棲スルモ ソノ中「ペスト」ニ関係深キハ
    溝鼠 最モ多ク82%ニシテ全満ニ広ク分布ス
       繁殖期 4月5月
    家鼠 新京以南ノ南満地方ニ多シ
    「ハタリス」 内蒙古砂漠地方ニ多シ
    「タルバカン」「ホロンバイル」地方 現在ハ少数
 (ロ)付着蚤 約42種類アルモ其ノ中「ペスト」ト関係深キモノ左ノ如シ
    「ケオプス」 P常在地ニ特ニ多ク国境附近ニハ全ク見ラレナイ、P常在地域内ノ町村ノ「ケオプス」指数は大体1.0ナリ
    (例ヘバ白城子1.5 通遼3.0 鄭家屯3.2 農安2.5 新京1.9等)
    「ケオプス」ハ冬期少ナク4月ヨリ漸増シ8月最高トナリ11月以降ニハ殆ンド見ラレズ ソノ消長ハP流行ト一致スル
    「ヤマト」
    「ヨーロッパ」 共ニ北満ニ多ク耐寒性強キ種類
    「ビデンタ」 絹毛鼠特有蚤
    「テスクオールム」「ハタリス」特有蚤
    「セランティビー」「タルバカン」特有蚤
    自然状態ニ於テハ「ケオプス」以外ノ種類ノ蚤ニP菌ヲ保菌セルヲ認メザリキ
    従ッテP防疫ニハ特ニ「ケオプス」ノ撲滅ニ重点ヲ指向セリ
(3) 昆虫ノ駆除剤ノ研究
   種々実施セルモ除虫菊「ピレトリン」等以外ニ最近有効ナルモノトシテ白樺ノ樹皮ヨリ有効成分ノ抽出ニ成功シ白樺油、
   白樺油クリーム製セリ 白樺油ナレバ30分間 白樺油クリームナレバ2~3時間有効ナリ 但シ悪臭ノ為余リ喜バレズ   
(4) 蚤ノ増殖法ノ研究
   1943年(昭和18年)P防疫ノ余暇ニ「ケオプス」ノ増殖ヲ命ゼラレタリ
(イ)、蚤増殖方法
    アブデルハルゼン氏法(1931年)ニ倣ッテ実施(原著ヲ供覧ス)其ノ中改良セル点ハ(一)、硝子瓶ノ代リニ石油缶
   (二)、金網式固鼠器(三)、蚤床ニ砂、穀物モ用フルコト可能「フスマ」ヲ混ズレバ可(四)、蚤床量ハ一缶一立
 (ロ)、蚤飼育至適温湿度
    各種文献記載ノ如ク25ー30度、70-80%
 (ハ)、集蚤 反趨光性ノ利用 西洋バス利用
 (ニ)、給血源 白鼠ヲ最良トス 廿日鼠、「モルモット」、犬、猫、山羊、デハ失敗セリ
 (ホ)、隘路
    蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス 白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能デ内地ヨリノ補給ヲ必要トス 白鼠ノ
   固鼠器内ノ生命ハ約1週間ナル故 1ヶ月ニ4回取換ヲ要ス
   而モ1ヶ月後ニ於ケル1缶ヨリノ獲得量ハ最良条件ニテ僅ニ0.5瓦(1cc 約1000匹)ニシテ大東亜戦下空襲等ニヨリ内地
   ヨリノ白鼠ノ輸送極メテ困難且ツ長時日ヲ要シ 他面食糧不足ニヨリ輸送間ノ損耗約50%ナリ 
   従ッテ10瓦ノ蚤生産ニ内地ヨリノ白    鼠160頭
       100瓦ノ蚤生産ニ内地ヨリノ白    1600頭
   ヲ要スル状況ニシテ
蚤ノ大量生産ヲ命ゼラレタルモ到底不可能ナル事デアッタ

 S、何故ニ「ケオプス」の増殖ヲ命ゼラレタカ ソノ目的ハ
 T、
コレハ命ゼラレタ、ソノ目的ハ上司ヨリ話サレナカッタガ自分ハ科学者トシテ大体ソノ目的ヲ想像シテ居タ

   
(略)

 S、生産シタ蚤ハドウシタカ
 M、
1週間モスレバ全部死ンデシマッタ
 S、P菌ヲ食ハセタ事ハナイカ
 M、
ソレハ既ニ印度P調査委員会ヤ米国エスケー等ガ実施シテイル所デ出来ル自信ハモッテイルガ自分ハ専門外デアルカラ
   ヤラナカッタ


   
(略)

 S、Pノ攻撃方法ハドンナノガアルカ
 M、
蚤ノ大量生産ニ成功シナカッタノデ攻撃ノ方法ハ実際ヤル迄ニハ到ラナカッタ
 S、「イデー」トシテハ
 M、次ノヤウナ方法ガ考ヘラレル(一)スパイニ依ル手撒キ(二)飛行機ニヨル撒布(三)「ウジ」弾ニ依ル運用(四)鼠ニ蚤ヲ附
    ケテ投下 等
 S、「ウジ」弾ヲ知ッテイルカ
 M、
「ウジ」弾ヲ知ッテイルガソノ他ノ弾ハ知ラヌ
 S、弾及其他ノ野外実験ニ就テ
 M、弾ニヨル試験ハ部隊附近デ飛行機ガ飛ビ弾ヲ投下シテ爆音ヲ聞クノデヤッテイル事ハ知ッテイルガ
ソノ結果ハ知ラナイ
 S、菌液ノ撒布ハ
 M、
飛行機ノ音ノミデ爆発音ガ聞エヌカラ室内ニ居ル我々ハ何モ知ラナイ

   
(以下略)


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31部隊 新妻清一中佐宛 増田知貞大佐書簡-------------

 下記は、「田中淳雄少佐尋問録」読んだ増田知貞大佐の新妻清一中佐宛書簡である。攻撃用細菌兵器、すなわち「Px」(ペ
ストノミ) の予算を秘匿しなければ、真実が暴露されてしまうという不安を伝えている。
「731免責の系譜」太田昌克(日本評論
社)
からその一部 を抜粋する。読み仮名のある古めかしい表現の一部は括弧書きにした。(Sはサンダース中佐)
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               「増田知貞大佐書簡」(1945年11月9日、書き下ろし文)

   新妻中佐殿                                            11月9日1900
                                                           於秋元村
                                                               増田大佐
拝復
唯今伝書使来着 貴翰拝見仕候
京都に於て田中少佐Sに面会致候由、会見録も拝見仕候 xヲ出せしは余り面白からずと愚考致候得共
(そうらえども) 
(やがて)ハ少しづつ覆面が落ちてゆくのではないかと心配致居候、新人への面会は必ず何事かが暴露してゆく結果と可
相成候
(あいなるべくそうろう)
但 田中少佐ハ東京小生宅にて小生等の会見録のノートを取らせし男に候間 これ位にて済みたるものと存申候
  尚内藤中佐の意見ハ○タと○ホ
(同書の中では○の中にタと○の中にホ)以外ハ一切を積極的に開陳すべし と云ふ持
論に有之候間 御参考迄に申上置候

扨(さて) 御尋の攻撃防御の予算関係に有之候へども予算方面ハ実ハ小生甚研究不充分にて 特に最近のものは全く手
をつけ居不申
(をりもうさず)、多分未(まだ)御地に大田大佐滞在致居候事と存じ 何卒 具体的数字ハ同大佐宛御下問被
(くだされ)候様願上(ねがいあげ)
(大田大佐住所
 略)
尚 原則論としてハ、日本軍ハ攻撃を企図せし事無之故 予算に於いても攻撃用として予算を組し事ハ無之候筈に御座候は
ずや。唯々攻撃研究として予算を組みし事ハ可有之
(これあるべく)候はんも、これハ731部隊の使用範囲内に止り 部隊令
達研究費予算内の極一少部
に過ぎず と云ふ事に可相成候(小生等の説明を基礎として論ず)
実際問題として731にて攻撃として使用仕候予算の大部分はPx関係にて、之ハ事実上の数字ハ秘匿して置かざれば、当方
の攻撃意図が暴露致候事と可相成候、
右甚
(はなはだ)不満足なる御回答より出来不申 申訳御座無候得共 予算関係に触居不申(ふれをりもうさず)候故を以て
御容謝
(ママ)被下度願上候(尚 大田大佐、若(もし)不在ならば、同様石山宅に留守部付佐藤主計少佐居るかも不知(し
れず)
 御参考迄に)

以下略


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ハバロフスク裁判:川島清(第四部細菌製造部長)の証言----------

 戦時中、満州で活動していた731部隊および第100部隊(軍馬防疫廠)の主力は、敗戦とともにいちはやく細菌戦の証拠隠滅を図り、日本に逃げ帰ったが、両部隊を離れていた者や支部で勤務していた関係者が逃げ遅れソ連の捕虜となった。そして、細菌戦に関わった12名の関係者が、ソ連のハバロフスクで裁判にかけられたのである。被告は山田乙三(関東軍司令官)、梶塚隆二(関東軍軍医部長)、高橋隆篤(関東軍獣医部長)、佐藤俊二(関東軍第五軍軍医部長)、三友一男(100部隊員)、菊池則光(海林支部員)、久留島裕司(林口支部員)、川島清(731部隊第四部細菌製造部長)、柄沢十三夫(第四部細菌製造第一班班長)、西俊英(教育部長兼孫呉支部長)、尾上正男(海林支部長)などであるという。(死去した2名の被告を除いて、上記裁判の被告全員が1956年12月までに日本に帰国しているという)
 この裁判で、日本軍による細菌戦に関する多くの事実が明らかになった。公判記録は1950年に日本語版、中国語版、英語版等でも出版されたというが、当初、人体実験などの研究成果を独占入手していたアメリカが、この裁判を、日本人のソ連抑留問題から目を逸らすための「でっち上げ」であるとの声明を出したりしたため、日本では正当に評価されなかったようである。しかしながら、研究が進むとともに、他の関連文書(アメリカの調査報告書を含む)や関係者の証言との整合性が確認され、徐々にその重要性が認められてきたようである。
 この記録は「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」という表題で、738ページにのぼる大冊であるという。
 その中から川島清(731部隊第四部細菌製造部長)の証言の一部を抜粋する。
「戦争と疫病ー731部隊のもたらしたもの」松村高夫、解学詩、郭洪茂、李力、江田いづみ、江田憲治(本の友社)からの抜粋である。
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 1949年12月25日の公判ので川島清(第四部細菌製造部長)は、1941年の夏に731部隊の安達(アンダー)の実験場で実験の責任指導者大田澄のもとで、15人の「被実験者」を柱に縛りつけ、飛行機からペストノミを充填した爆弾を投下し実験したことを述べたのちに、「731部隊ノ派遣隊ガ中国中部ニ於ケル中国軍ニ対シテ兵器トシテ殺人細菌ヲ使用シタコトガ1941年ニ1度、1942年ニモ1度アリマシタ」と述べ、次のような証言をした。

                         川島清(第四部細菌製造部長)公判証言

  第1回目ハ、私ガ述ベマシタ様ニ1941年ノ夏デシタ。第二部長太田大佐ガ何カノ拍子ニ中国中部ニ行クト語リ、其ノ時私ニ別レヲ告ゲマシタ。帰ッテ来テ間モ無ク、彼ハ、私ニ中国中部洞庭湖近辺ニアル常徳市附近一帯ニ飛行機カラ中国人ニ対シテペスト蚤ヲ投下シタ事ニツイテ語りマシタ。其様ニシテ、彼ガ述ベタ様ニ、細菌攻撃ガ行ワレタノデアリマス。其ノ後太田大佐ハ、私ノ臨席ノ下ニ第731部隊長石井ニ、常徳市附近一帯ニ第731部隊派遣隊ガ飛行機カラペスト蚤ヲ投下シタ事及ビ此ノ結果ペスト伝染病ガ発生シ、若干ノペスト患者ガ出タトイウ事ニ関シテ報告シマシタガ、サテ其ノ数ガドノ位カハ私ハシリマセン。

 (問)此ノ派遣隊ニ第731部隊ノ勤務員ハ何人位参加シタカ?
 (答)40人─50人位デス。
 (問)1941年ニ於ケル此ノ派遣当時ノペスト菌ニヨル地域ノ汚染方法如何?
 (答)ペスト蚤ヲ非常ナ高度カラ飛行機デ投下スル方法デアリマス。
 (問)コレハ細菌爆弾ノ投下ニヨッテ行ナワレタノカ、ソレトモ飛行機カラ蚤ヲ撒布ス
   ル方法ニヨッテカ?
 (答)撒布ニヨッテデアリマス。
 


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ハバロフスク裁判 川島清軍医少将の証言-------------

 1941年6月、731部隊の石井部隊長は、第2部長太田大佐にペストノミを充填した石井式陶器製爆弾の実験を命じた。川島軍医少将はその実験に立ち会った。そして、その時の様子をハバロフスク裁判で下記のように陳述しているのである。
「消えた細菌戦部隊」常石敬一(海鳴社)よりの抜粋である。また、下段はペストノミの生産についての陳述である。
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 コノ実験ニ使用サレタ15名ノ被験者ハ部隊構内ノ監獄カラ届ケラレ、実験ガ行ワレテイタ地域デ特別ニ地中ニ埋メタ柱ニ縛リツケラレテイマシタ。……平房駅カラ特別飛行機ガ飛来シマシタ。飛行機ハ実験場地域上空ヲ飛行シ、実験場ノ上空ニキタ時20個バカリノ爆弾ヲ投下シマシタガ、爆弾ハ地上100乃至200米ノ所ニ達セヌ内ニ炸裂シ、中カラ爆弾ニ充填サレテイタペスト蚤ガ飛出シマシタ。此等ノペスト蚤ハ全地域ニ蔓延シマシタ
 爆弾投下ガ行ワレタ後、蚤ガ蔓延シ、被実験者ヲ感染サセルコトガ出来ル為、相当ノ時間待チマシタ。其ノ後コレラノ人間ヲ消毒シテ、飛行機デ平房駅ノ部隊構内監獄ニ送リ、ソコデコレラノ人間ガペストニ感染シタカドウカヲ明ラカニスルタメ彼等に監視ガツケラレマシタ。
 ……実験ハ好結果ヲ生マズ、是レハ高温、即チ非常ナ暑サニ起因スルモノデ、ソノ為蚤ノ作用ガ非常ニ弱カッタトイウコトデアリマス。

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 蚤ノ大量繁殖ノ為、第2部ニハ特別室ガ4ツアリマシタ。室温ハ一定温度、即チ摂氏30度ニ保持サレテイマシタ。蚤ノ繁殖ニハ高サ30センチ、幅50センチノ金属製ノ罐ガ使用サレ、蚤ノ居場所トシテ、此ノ罐ニモミガラヲ撒キマシタ。此ノ様ナ準備ガ終リマスト、先ズ罐ニ若干ノ蚤ヲ入レ、飼料トシテ白鼠ヲ入レ、此ノ白鼠ハ蚤ニ危害ヲ加エナイ様ニ縛リ付ケラレテイマシタ。罐ノ中ハ常ニ30度ノ温度ガ保持サレテイマシタ。



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731部隊 ”ペストノミ”と”白鼠”飼育農家-----------------

 新妻ファイルの「田中淳雄少佐尋問録」には
「蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス 白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能デ内地ヨリノ補給ヲ必要トス 白鼠ノ固鼠器内ノ生命ハ約1週間ナル故 1ヶ月ニ4回取換ヲ要ス」という一文がある。ペストノミ増産のためにネズミ不足に陥ったという記録である。まさにその時、内地(日本)でネズミの生産を飛躍的に拡大していたところがあった。埼玉県の春日部と庄和を中心とするネズミ生産地である。ペストノミ増産のために「絶対ニ白鼠ヲ必要トス」というのであるが、「白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能」ということで、ネズミ生産地が増産体制の入ったのである。そのネズミ生産地の飼育農家を中心に聞き取り調査を行い、731部隊との関係を明らかにしたのが、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭である。「高校生が追うネズミ村と731部隊」<教育史料出版会>から、ところどころ何カ所か抜粋したい。
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                       高校生が追うネズミ村と731部隊   
                                  埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(同校教諭)
・・・
 ところで、増産計画の中心は埼玉県の春日部、庄和などの古くからのネズミ生産地だった。ネズミは内地から満州へ空輸されていたのだ。私たちの町では戦時中、どこの家でもネズミを飼っていた。私の父も、生徒の家族も飼育者だった。飼育のノウハウを知っている地域でなければ、この急場は凌げなかった。731部隊の「ネズミ不足」に応えて、私たちの町のネズミ生産は爆発的に拡大する。それは、満州がネズミ取りに明け暮れたのと同時期のできごとだった。


・・・

 ネズミ飼育は特殊な産業で、生産地は埼玉と岐阜くらい。戦時期には埼玉が全国の7割を占めていた。ミカン箱程度の飼育箱にオス一匹、メス五匹を入れ繁殖させる。「ネズミ算式」に増える子ネズミを、「ネズミ屋」と呼ばれる仲買人が買いにくる。貧しい小作人の多かったこの地域では、ネズミ飼育は副業として歓迎された。
 
・・・

 飼育箱は、昭和初期まではミカン箱だったが、専門に作る箱職人が現れた。50センチほどの木箱で、側面の一つだけが編張りになっている。飼育の規模は、5箱程度が普通。1軒1箱の家から、軒下すべてを使い100箱飼った家まで千差万別だ。なかには、専業になり500箱飼った家もある。「100箱飼えば蔵が建つ」と言われたが、実際はそれほど儲からなかった。
 飼育はおもに年寄りの仕事だった。戦後50年がたち、飼育経験者が亡くなっている場合が多かった。子どもがペット代わりに飼う例もある。子ども同士でネズミが売買され、なかにはネズミ屋とつるんで儲ける子どももいた。ネズミを売った金を貯めて自転車を買った子どもまでいたという。しかしそういう子どもは例外で、収入は小遣い程度だったという人がほとんどである。戦時中でラットが1円、マウスが10銭ぐらい。副業として特別割がよいわけではない。
 餌はコザキを与える。コザキとは実らなかった屑米である。農家にとってはただだ同然のもので、餌代はかからなかった。コザキ以外には野菜の屑を入れておけば十分だった。床どこにはワラを敷き、ネズミはそのワラで巣を作った。ネズミは尿が濃い生物で、ワラを変えるときの臭さがこの副業のつらいところである。


・・・

 病気も悩みの種だった。ネズミはすぐ風邪をひく。病気が流行るとあっというまに全滅した。ネズミのようすに注意するのが大変だった。餌をあげないと子ネズミは食べられてしまう。ネズミ同士の「いじめ」もあった。夏は暑さで死に、冬は寒さで死んだ。油断しているあいだに逃げられた(庄和町には、野生化した白ネズミが生息している)。……


 国立国会図書館憲政資料室には、アメリカから返還された膨大なGHQ文書がマイクロフィルムになっている。当時は軍需工場の調査が目的で、1944年夏、私はここに通っていた。18歳未満お断り、といういかがわしい場所と同じ入場制限があるため、生徒は入れないのだ。すでに埼玉県が目録を作っているので、それに従い県関係のGHQ文書をピックアップしていくその過程で、GHQによるネズミ生産者の調査報告書を偶然発見したのである。
 この文書には、飼育農家が6000軒もあったこと、集荷ルートから中間業者の利益、生産量から納入先まで詳しく書かれていた。地域のネズミ生産の概略がつかめる内容である。 
 

・・・

 本書で骨格をなす情報は、そのほとんどがネズミ屋によるものである。農民アンケートはたしかに膨大な量に達したが、基本的には意識調査だった。飼育農家が知っているのは近隣のようすだけで、ネズミ生産全体のシステムについては知らなかった。飼育農家が直接会うにはネズミ屋だけで、ネズミがその先どうなるのかについては興味もなかった。
 ネズミ屋は違った。毎日飼育農家をまわる彼らは、飼育状況を把握していた。また、集荷したネズミはネズミ屋が直接、軍や研究所に納めた。当然、軍や研究所の人々と知り合いになり、そこでさまざまな情報を得た。内容は飼育方法や値段にとどまらず、今後の実験動物がどう進み、何が要求されるのか、将来の展望にも及んだ。ネズミの量と質を高めるため、軍や研究所はネズミ屋に情報を与える必要があった。彼らは頻繁に会い、強いつながりを形成していった。


・・・

 ネズミ屋の小規模な世界を一変させたのが、田中一郎の登場である。田中は短期間にほとんどのネズミ屋を傘下に組み込み、戦時期にはほぼ独占状態を形成した。田中の組織化により、この地域のネズミの生産は飛躍的に増大。満州で731部隊が大量のネズミを「消費」していたとき、埼玉では田中がネズミ産業の活況を演出していた。

 当時の新聞にこんな記事がある(『埼玉新聞』1943年12月10日付)
 「粕壁(春日部)で小動物増産協議会
 陸軍軍医学校特定埼玉県農会指定の医科学実験動物生産実行組合主催の小動物増産協議会は、9日午後1時より粕壁町東武座において開会、国民儀礼後、田中一郎組合長の挨拶に続いて協議に移り、
小動物増産が決戦下重要使命を帯ぶる為、これが増産に関する協議をなし、県官軍側来賓の訓示並に講演あり、終わって小動物増産に邁進しつつある組合員に対する慰労会に移り、講談浪花節漫才等の余興を開催した」
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 様々な苦難に直面しつつも調査を続け成長していく高校生の姿が随所に記録されている。


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731兄弟部隊 甲1855部隊 栄1644部隊--------------   

 「高校生が追うネズミ村と731部隊」によると、731部隊には4つの細菌戦兄弟部隊があり、それぞれの部隊員から細菌戦実行に関わる様々な証言を得ているという。

甲1855部隊
 その一つが甲1855部隊である。北京には1855部隊の施設が三つあった。
 一つは1939年、天壇行園の南西に設置された西村英二陸軍軍医大佐を隊長とする本部および司令部で、13もの出張所を持っていたという。ネズミの飼育舎は4列の舎屋があり、70室余りの部屋があった。そして、どの部屋でも数百匹から千匹ものネズミの飼育が可能であったというから大変な規模である。731部隊と同じように、内地(日本)からネズミを調達し、ペストノミを大量生産していたというのである。
 二つ目は静生生物調査所。ここは中国最大の生物研究機関だったが、1941年1855部隊によって占拠され、第2分遣隊が置かれた。ここではノミの大量生産をやっていた。
 三つめは北京協和病院。ここも接収され第一分遣隊が置かれた。ここでは人体実験が行われていたという。
 
「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育資料出版会)には1855部隊で働いたとい う伊藤影明さんの証言が紹介されているので、証言を含めたその一部を抜粋する。
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                       1855部隊員の証言 

 伊藤さんはこの部隊でノミの飼育をしていた。「ノミを飼育するためにネズミを飼う。フンドシ一つになってネズミに餌をやる仕事をしていた。馬鹿だってできるよ」と語る。19室800個近い石油缶を担当した。ノミに血を吸わせるためにネズミを入れる毎日。「人間習うより慣れろでしだいにノミに愛着を感じるようになった。44年から急に増産が叫ばれ、5人だった飼育係が50人になる。一時は将校までも裸になって飼育に当たったほどだ」。その中には、ペスト感染してしまった伊藤さんの同期生もいた。埼玉でも急速なネズミ増産が始まるころである。
 1945年2月、伊藤さんは「マルタ」を見た。静生生物調査所の3階が留置所として使われ、伊藤さんはその留置所を覗き穴から盗み見た。覗いたとき「マルタ」と目があった。目だけがギョロッとしていて、いかにもうらめしそうだった。1855部隊では静生生物調査所(第二分遣隊)で「マルタ」にペスト菌を打ち、北京協和病院(第一分遣隊)で生体解剖した。伊藤さんが見たのは、すでにペスト菌を打たれ、北京協和病院へ運ばれる直前の「マルタ」だった。「その形相が忘れられない」と伊藤さんは苦しむ。この証言からは、1855部隊も大量のネズミを消費し、ペストノミを生産し、人体実験をしていたことが分かる。
 
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栄1644部隊
 南京城内にあった栄1644部隊は「多摩部隊」とも呼ばれ、731部隊とともに細菌戦実行部隊として知られているが、「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、その部隊員であったという小沢武雄さんと小沢さんの同期生だったEさんの証言を得て,その内容を紹介している。下記はその一部である。
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・・・
 ……
その後衛生兵教育に入ると、小沢さんは細菌戦攻撃を2回命令される。
 1回目はその年の8月頃だった。5人ずつ選抜され、2機のの飛行機に分乗した。1機は離陸に失敗、小沢さんら5人だけが南京から南 西方面に40里(約150キロメートル)ほど飛んだ。飛行機は敵地の飛行場に着陸した。すでに日本軍の砲撃で、敵は陣地から撤退していた。戻ってくる敵兵を狙って、敵陣にペストノミをばらまくのが5人の任務だった。
 ペストノミはサイダービンに入れ、コルクで蓋をした。ビンはノミでいっぱいだった。小沢さんはそのビンを腰に15本ぶらさげ、さらに手に抱えられるだけ持ち、敵地に乗り込んだ。足にゲートルを巻いているものの、特別な装備はなく、手袋は軍手だった。予防接種もしていない。ノミに食われれば自分も死ぬ。ビンの蓋を開け、軒下にノミをばらまいた。無我夢中だった。作業を終えると、空きビンを土中に埋め、5人は集結した。行きは飛行機だが、帰りは歩いて戻る計画だ。陣地に戻った中国の斥候兵に見つかり、機銃を浴びた。九死に一 生をを得、南京に向かって炎天下を10日間歩いた。途中で病気になったが、別部隊に救われた。
 2回目の命令はその1ヶ月後だった。チャンチューカメ(紹興酒の甕)にコレラ、ペスト菌液を詰める。1ビンに1斗ぐらい入る。それを15個トラックに積み、南京城外の村々の井戸に甕ごと投げ込む。1つの井戸に1ビンずつだった。作業は秘密なので小隊長と小沢さん、それにもう1人の3人で行った。細菌戦の典型的な謀略活動である。
 

・・・

 小沢さんの同期生だった1644部隊員Eさんが、同じ埼玉県の加須市に住んでいる。Eさんも1943年、北支など他の細菌戦部隊と「マラリア工作隊」という特殊部隊に所属し、パラオ島に向かった経験がある。電話取材だけだったが、Eさんは、1644部隊のネズミ飼育班に属していた。1942年、ネズミの「増殖実験」を担当し、120匹ほどのラットを飼育する。ネズミそのものを増やすのが目的で、トウモロコシとコウリャンが餌だった。部隊全体でラットが何匹いたかは分からない。ラットは1644部隊の資材調達官が直接内地に行き、飛行機で運んできた。それを「動物受領」と言っており、モルモットなども運んだ。月1回くらいのペースだった。……
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731兄弟部隊 波8604部隊 岡9420部隊-------------

 「
高校生が追うネズミ村と731部隊」によると、731部隊には4つの細菌戦兄弟部隊があり、それぞれの部隊員から細菌戦実行に関わる様々な証言を得ているという。ここで取り上げるのは、広州の中山大学に本部を置いた波8604部隊とシンガポールの岡9420部隊である。
波8604部隊
 「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、波8604部隊第1課細菌研究班に所属していた丸山茂さんからも大量の資料を受け取るとともに証言を得ている。丸山さんの証言は8604部隊の大量殺戮事件が中心であるが、ラット50万匹飼育の証言もあったという。下記はその一部である。下段は第4課病理班に所属し病理解剖を任務としていたが、後にノミの生産係になっという井上睦夫さんの証言である。
丸山茂さんの証言------------------------------------------
 大量殺戮事件のあらすじはこうである。1942年、日本軍が香港攻略をしたとき、香港は中国からの難民で溢れ、人口は200万人を超えていた。日本軍はその避難民を強制的に香港から追い出し、香港の人口を半分にした。ここに膨大な香港避難民が誕生した。殺戮にあったのは、この難民のうち水路で広州に向かった人々である。
 難民は広州市に入れなかった。広州手前にある南石頭の難民収容所に強制収容される。丸山さんの同僚の的場守嘉が、東京の陸軍軍医学校からサルモネラ菌を取り寄せ、それをお粥に混ぜ難民全員に飲ませた。毎日運びきれないほどの難民が死に、その数は2000人に及んだ。サルモネラ菌という聞き慣れない細菌は、8604部隊長佐藤俊二の得意分野で、佐藤は石井四郎と連名で、この細菌が原因の中毒事件についての論文を発表している。約3年間収容所にいた馮奇さんは「あのとき香港難民がたくさん船で来た。みんな嘔吐や下痢で死んだが原因不明だった」と言う。当時収容所ではこんな歌が流行った。「篭の鳥は高く飛べない。味付け粥を食わなきゃすきっ腹。食えば食ったで腹痛み。病気になっても薬はない。死んだら最後、骨まで溶かす池に放り込まれる。」
 死んだ難民は化骨池(かこついけ)に放り込まれる。収容所には横20メートル、縦と高さが5メートルのコンクリート製の池が二つ並んでいた。死体はその化骨池に運ばれ科学剤により溶かされた。多いときには毎日50人以上が処理される。化骨池は死体を効率よく処理するための8604部隊の発明だったが、このときはそれでも処理しきれず埋められるものもあった。現在は広州製紙工場となった同地から、1200体を超える人骨が出ている。


・・・

 
この大量殺戮を実行したのは丸山さんの友人の的場守嘉だった。丸山さんはたまたま、的場が作った難民への細菌投与を示すグラフを覗いたのがきっかけで、的場からすべてを聞くことになる。的場は丸山さんに「部隊長に知れたら、おもえも無事にすむまい。一生口外するな」と念を押した。事実この後、的場だけがニューギニアの激戦地に送られ、死亡している。「部隊長による口封じだった」と丸山さんは語る。この部隊長の佐藤俊二は戦後ハバロフスク裁判にかけられる。佐藤は石井四郎の犯罪には言及したが、香港難民殺戮と化骨池については黙っていた。証言をして丸山さんは「的場の遺言ををみんなに伝えることができた」と語る。
 丸山さんの証言を機にこの事件の調査が始まり、中国では沙東迅が『日本軍の広東における細菌戦調査報告書』をまとめた。
……
井上睦夫さんの証言------------------------------------------
 
井上さんの任務は死体の病理解剖だった。軍医の助手として、毎日一,二体を解剖した。死体は一日に四,五体来た。解剖が追いつかず冷蔵庫に保管した。解剖は一体に3時間かかり、1日に三体がやっとだった。
 井上さんの担当は頭部だった。軍医は内臓を取り出した。舌の根元を引っ張ると、
……

・・・

 1944年、井上さんはペストノミ生産の係となり、温度調節を担当した。着任するとすぐ、増産命令が出され部隊は活気づいた。ペストノミ10キロ必要というなら、15キロ作ってやろうという勢いだった。米軍が中国南海岸に上陸したら、このペストノミ作戦が威力を発揮するだろう、と信じていた。仕事は大きくノミとネズミに分かれる。日本人の担当は20人近くに増員、他に中国人クーリーを50人雇った。クーリーはネズミの世話だけで、ノミの飼育室には入れなかった。
 中山歯科大学と東門のあいだに巨大なネズミ飼育場があった。コンクリート2階建ての、長さ30間(約50メートル)もある学校のような建物が5棟並んでいた。これがすべてラットの飼育場だった。その棟の中には棚が10段あり、すべての棚に80センチほどの金網の飼育箱がギッシリ積まれていた。飼育中のネズミは、ちょっとした病気でも報告し、大切にされていた。「50万匹は多すぎる。1桁違うのでは」と思っていた私は、この話を聞き「これは本当かも」と身を乗り出した。
 ネズミはすべてラットで白ネズミだった。1943年井上さんが部隊に配属されたころ、ネズミは内地から送られてきた。港の近くの荷物省へ大量のラットが輸送された。それ以前からも送られていたという話だったが、1944年に制空権、制海権を失うと来なくなった。「それがなければずっと来ていただろう」と井上さんは語る。そのネズミもおそらく埼玉のネズミだろう。だがこの部隊については、埼玉のネズミがなくても、すでに自給による生産体制が確立していたようだ。
 ネズミ飼育場の一角にペストノミの培養室があった。レンガ造りの培養室は奇妙な建物だ。入るとまわりはすべて棚で、そこに100個以上の石油缶が並んでいる。そのなかでペストノミが生産された。床には一面に水が引かれ、中央のストーブで50センチ先も見えないほど、湯気が上がっている。危険な作業にもかかわらず、井上さんは雨合羽に長靴、軍手2枚をしただけで作業をした。
 石油缶のなかにおが屑を敷く。そこに小さな篭に入れられた、身動きのできないラットを入れる。そしてラットの上にスポイトからノミを振りかける。ノミがネズミにたかるように、ネズミには乾燥血液を振りかけておく。ラットは1週間ほどでミイラ状になり、次のと取り替えた。石油缶の横には12個の大きなビンがあった。これは石油缶を洗うとき、一時的にノミを保存する容器である。ノミに刺されたら最後なので、石油缶はホルマリンをかけてから慎重に洗った。湿気の中でノミはどんどん繁殖し、最終的には月10キログラムの生産量に達した。ここでは、ネズミにペスト菌を注射する「毒化作業」はとくになく、ペストは飼育過程で自然に伝染していくものとされている。

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岡9420部隊
 この部隊はシンガポール近郊の、マレー半島南端ジョホールバルの北東約13キロのタンポイにある精神病院「プルマイ病院」にあり、ノミの養殖場を始め、ネズミの飼育施設などもほとんど当時のまま残っているという。以下9420部隊に配属され、『ノミと鼠とペスト菌を見てきた話』を自費出版したという竹花香逸氏の証言を中心とする部分を
「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育史料出版会)から抜粋する。
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・・・
 ……
9420部隊は1942年、五つの細菌戦部隊の最後に編成された。前章で紹介した『真田日記』では、各部隊のノミの分担比率 を「満州53%、南方14%、南支5%、北支3%、中支1.5%、内地12%」としてある。ここでは、50万匹のネズミを有していた南支(8604部隊)の5%より、この南方(9420部隊)の「14%」のほうが大きな数字になっている。9420部隊にも大量のネズミがいただろうと推測される。
 高島氏を現地調査に踏み切らせるきっかけとなった、もう1人の証言者がいる。『ノミと鼠とペスト菌を見てきた話』を自費出版した竹花香逸氏である。竹花氏は1943年6月、9420部隊に配属、敗戦までペストノミの生産に従事する。著書はその体験をまとめたものだが、9420部隊でのネズミとノミの飼育状況を語る、私たちにとっても興味深い証言だった。この本で、竹花氏はこう書いている。
 「中安部隊はノミの養殖と、それらに関わる研究と仕事をする部隊である。ノミの飼育方法は、日光の直射をさけ、病棟のもとより舗装してある地面上に、どこから集めたのかと思われる細かいゴミを、農家の籾乾しの形そのままに、幅1メートル余り、長さ5メートルほどの飼育床が数条続いている。その飼育床の適当な位置に、鼠とり器に収められた鼠がノミの飼料として配置されている。(中略)簡単な用件が終わると中安中尉は『竹花、今日はめずらしいものを見せてやる、来い』と小さな頑丈な建物の中に誘った。室に入ると中尉はその中の18リットル缶のガラスの蓋をとった。と、缶の表面近くまで詰まったノミが互いに光を嫌って中へ中へともぐりこもうとしてうごめき、一つの大きな玉となっている。私は息をこらしていたと思う。中安中尉は『どうだ、驚いたか』といいたげな顔をしていた。あの大量のノミがその後どう処理されたか知る由もない。しかし実験に使用されたことはまずあり得ない。ノミの寝床の大量の細かいゴミとノミを区分する事は難儀のように思われるであろうが、ノミの光を嫌う性質を利用した器具で、比較的容易に分離する事ができた。」
 「江本部隊の特徴は、細菌取扱の経歴の多い技術者が多く(中略)、部隊の仕事はペスト菌株の保持、菌の殖培、毒化作業、少量のワクチンの製造、免疫に関わる研究等広範囲のようであった。この隊の重要な作業は『毒化作業』である。鼠にペスト菌を注射し、発病した鼠にノミををたからせ、ノミの胃袋にペスト菌が吸入されておれば即ち細菌兵器となる。かかる作業を毒化作業と称していた。ちなみにペスト病は鼠と人間だけが罹病する。とにかく江本部隊は梅岡部隊の中枢的な存在である」

  


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米軍の細菌戦 国際民主法律家協会調査団の報告書------------

 731部隊の大量のデータや情報を、関係者の戦犯免責と引き換えに米軍が独占入手し、朝鮮戦争で利用し細菌をばらまいているとの指摘があったが、それを裏打ちするかのように、埼玉のネズミは米軍の406部隊へ流れるようになった。戦後一時期、ネズミ飼育農家から「引き取ってくれ」と泣きつかれたものの、ネズミの買い手がなくなり、パニックに陥っていた埼玉医科学試験動物生産組合の田中一郎(仮名)は、取引先を日本軍から米軍GHQに乗り換え、「戦後の最盛期は戦中以上だった」とネズミ飼育農家が証言するほど、ネズミ生産を戦前以上の産業に育て上げたという。また
「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育史料出版会)には、下記のような具体的な状況が紹介されている。
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 ……
406部隊はウェポンキャリアという大型輸送車で、毎週月曜と木曜にネズミを取りにきた。月曜と木曜の朝には406部隊の出荷に間に合わせるため、この地域の仲買人全員がネズミを持って田中のもとに集まった。ネズミ以外では、ウサギやモルモットなども搬出したので、車はいっぱいになった。406部隊の需要は年毎に増えていき、飼育農家が足らなくなるほどだった。それはまるで731部隊へ納入していたころの活況のようだった。……
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 下記は、指摘を受けて朝鮮に調査に入った国際民主法律家協会調査団の報告書である。具体的な内容(根拠となる証拠や証言者名)の部分は、第2章の2の一部以外はすべて省略したが
、「資料【細菌戦】日韓関係を記録する会(晩聲社)には詳細な報告がある。
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Ⅱ 朝鮮におけるアメリカの犯罪に関する国際民主法律家協会調査団の報告書
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  注釈

 
 1、本報告署は、国際民主法律家協会の権限を持った調査団によって発表された。協会の本部事務室は、ベルギー・ブリュ
   ッセル・レグランド街70番地にある。
 2
、~6(略)  

  
第1章

 朝鮮民主主義人民共和国政府は、朝鮮領内における敵の国際法違反にたいして抗議することを、数回、国連に要請した。
 しかし国連は、この要求を無視した。これらの申し立ては、いろいろな調査の対象となってきたが、とくに、朝鮮を訪問した
国際民主婦人連盟によって作成された1951年5月27日付の報告書で取りあつかわれた。
 この非難の内容のきわめて重大なのにかんがみ、国際民主法律家協会理事会は、1951年9月の協会ベルリン会議の
あとをついで、朝鮮におもむき、現地で、法的調査の方法によりそれらの陳述を調査する目的のもとに、おおくの国の法律
家によって構成された調査団を組織することなった。
 調査団は、つぎのようなメンバーで構成された。
   ハイリッヒ・ブランドワイネル   クラツ大学国際法教授(オーストリア)団長
   ルイジ・ガバリエル         ローマ最高裁判所弁護士(イタリア)副団長
   ジャック・ガスター         弁護士 ロンドン(イギリス)
   マルク・ジャキエー         控訴院弁護士 パリ(フランス)
   柯 柏 年               中国人民外交学会研究委員会副主任 北京(中国)
   マリノ・ルイス・モエレンス     弁護士 ブリュッセル(ベルギー)
   レテルバ・ロドリゲス・デ・プリト 弁護士 リオデジャネイロ(ブラジル)
   ゾビア・ワシリコプスカヤ      最高裁判所判事 ワルシャワ(ポーランド)
 本調査団は、1952年3月3日から、3月29日まで朝鮮に滞在した。
 調査団員は平壌、南浦、价川、碧潼、安州、安岳、信川、沙里院、元山などの諸都市をふくむ平安南北路、黄海道、
江原道を訪問した。
 調査団に与えられた制限された時日と、戦争状態のために、自分達のまえに提出された陳述のことごとくを調査すること
はできなかった。しかし、自己の使命を完遂する上に必要なあらゆる便宜を朝鮮当局から与えられた調査団は、事件の範
囲と犠牲者の数から見て、また、事件の張本人たちが使用した方法の特殊性から見て、もっとも特徴的と思われる事件に
たいしては慎重な調査をおこなった。
 これらすべての場合において、調査団員は、関係当局から提出された報告や声明などを審議したのち、直接調査にとり
かかった。調査過程において、調査団員は、100名以上の証人に質問した。
 調査団の結論は、直接の証拠によって調査団のまえに証明され、また、あらゆる関係文件の調査によって検証された事
件にもとづいている。この報告においては、とくに、細菌および化学兵器の使用に関連する重要な証拠が分析されたし、戦
争の根源にかんれんする、歴史的意義をもつ文件が検討された。この報告に引用された都市および保護建築の爆破事件、
一般市民にたいする暗殺、拷問、殺害などは、ただ正当に検証された直接的証拠物によって証明されたものだけである。
 おわりに、調査団は、証明された事実によって、誘導されねばならないと認められる結論をくだした。
(以下略)

  
第2章 細菌戦

 ・・・
 
 調査団はとくに、つぎの場合について調査した。
   1 
(略)
  
 2 1952年2月18日、平安南道安州郡大尼面鉢南里で、ハエ、クモ、甲虫が発見されたが、地面のうえの三ヵ所に、
    それぞれ1平方ヤードのなかに密集していたし、その場所はおのおの1メートルずつへだたっていた。
    そのうち1ヵ所は雪でおおわれていたが、他のところには雪がなかった。昆虫は全部生きていた。調査団がそこへつ
    いたときには、昆虫がその周辺一帯にひろがっていた。ハエは在来の朝鮮バエとちがって、異様なかたちをしていた。
    発見されたハエは長いはねをもったいたし、そのはねはややひらかれていた。胴体は大きく頭は在来のハエにくらべ
    て大きいほうであった。
     クモについていえば、在来のクモは、大きいものと小さいものの二種類に分けることができ、色は黒いのである。発
    見されたクモは、その大きさは中くらいで、体色はやや白い。ナンキン虫は、在来のものは体がまるく、やや黄みをお
    びているのにくらべて、発見されたものは体が平たく黒い体色をもっていた。この時期にこの地方で、ハエとクモがあ
    らわれたことは、以前には絶対になかった。地上の気温は、摂氏零下20度であった。
     これらの昆虫が発見された前の日の夜なかごろに、敵機は、この場所を偵察しながらきわめて低空を数回旋回した
    が、爆弾も焼夷弾も投下しなかったし、機関銃掃射もおこなわなかった。専門家たちの調査によると、これらの昆虫は
    ペスト菌に感染していることが判明した。2月25日、この部落にペストが発生した。50名の罹病者のなかで、3月11日
    までに8およそ600人の人口のうち)36名が死亡した。ペストはそれ以上まんえんしなかった。これまで、この地域に
    ペストを発生したことは一度もなかった。(6)(7)
 

  
第3章 化学兵器 (略)

  
第4章 大量虐殺、殺害、その他の野蛮行為 (略)

  
第5章 一般住民にたいする空襲 (略)

  
第6章 その他の戦争犯罪 (略)

 
 第7章 結論

 調査団は、この報告によって発表された事実について、用意周到な考慮をはらい、また、それらの事実にたいして、文明諸
国が普遍的に承認している国際法の原則を適用した。終局的判断をくだすのは、本調査団の任務ではない。調査団がそうい
うことをする資格を持った裁判所ではない。その義務は、事実にたいする調査に極限されており、自らの意見によって、これら
の事実にあらわれた国際法違反の犯罪を指摘することに限られている。
 この報告に摘発された犯罪にたいして、弁論すべきことがあれば、それは適当な国際裁判所がこれを聴取したのち、終局的
判断をくだすべきである。
 このような立場から、調査団は、つぎのような
結論に到達した。
    1 朝鮮人民軍に反対し、北朝鮮の一般住民に死と疾病を蔓延させる目的をもって、人工的に細菌を感染させたハエ
      その他の昆虫を故意に散布することによって、アメリカ軍は、1907年の陸戦法規と慣習にかんするハーグ条約の
      規定に違反し、また1925年のジュネーブ議定書にふたたび規定された細菌戦禁止にかんする、普遍的に承認され
      た法律に違反するきわめて重大な戦りつすべき犯罪を朝鮮においておかした。
    2 北朝鮮の一般住民にたいして、毒ガスその他の化学物質を使用することによって、アメリカ軍は1907年のハーグ
      条約第23条(イ)、(ホ)および1925年のジュネーブ議定書に、計画的にかつ故意に違反する犯罪をおかした。

    
~10 (略)


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米軍の細菌戦 国際科学委員会の調査報告書------------

 朝鮮戦争で「米軍が細菌戦を展開している」という中国や朝鮮の抗議を受け、調査団を編成し調査に乗り出したのは国際民
主法律家協会だけではなかった。科学者も調査団を送り科学的見地からの厳密な調査を実施した後、結論を出したという。そ
して、1952年8月31日その結論を発表し、北京で記者会見も行ったが、極めて慎重な手続きを踏んで実施された調査の結
論は、正当に評価をされることなく、「共産主義者の宣伝」として、ほとんど無視されることとなった。世界的に有名なノーベル
賞科学者ジョリオ・キューリ博士やオーストラリア政府の閣僚ジョン・W・バートンなどが、その正しさを公表しても、状況はあま
り変わらなかったようである。調査団の一員であったケンブリッジ大学のジョセフ・ニーダム博士がイギリスに帰国した際も、わ
ずかに取り上げられる程度で、その調査内容はあまり問題にはされなかったというのである。下記は、『アメリカ軍の細菌戦
争』と題された国際科学委員会の調査報告書からの一部抜粋である。
「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)
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                         Ⅲ 『アメリカ軍の細菌戦争』 
                                               国際科学委員会1952年9月15日

もくじ
 まえがき………………………………………………………………(2)
 委員会の組織と活動………………………………………………(12)
 文書の考証…………………………………………………………(27)
 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連……………………(30)
 委員会の採用した事件分析の方法………………………………(34)
 プラーグ文書の昆虫学的資料……………………………………(37)
 ばらまかれた昆虫についての医学的注釈…………………………(45)
 植物病理学的資料…………………………………………………(53)
 朝鮮の事件(ペスト)………………………………………………(57)
 甘南事件(ペスト)…………………………………………………(63)
 寛旬事件(炭疽病)…………………………………………………(68)
 遼東と遼西の事件(呼吸器炭疽病)………………………………(71)
 大同事件(コレラ)…………………………………………………(76)
 容器または「爆弾」の型……………………………………………(80)
 捕虜諜報員の証言 ………………………………………………(97)
 捕虜飛行士の証言………………………………………………(100)
 新中国の衛生……………………………………………………(109)
 概観………………………………………………………………(113)
 結論………………………………………………………………(126)

付録

 46件の付録の表…………………………………………………(131)
 アメリカ帝国主義はどうして細菌戦を始めたかの真相
   (ケニス・L・・イノック中尉の告白)……………………………(136)
 どうしてわたしはアメリカのウォール街がやりはじめた非
 人道的な細菌戦争に参加させられたか)
           (ジョン・クイン中尉の告白)……………………(147)
 新中国の公共保健衛生運動についての覚書……………………(171)
 中国のキリスト教会と細菌戦
 (ヒューレット・ジョンソン博士……………………………………(187)
 アメリカ軍の残虐行為(国際婦人調査団報告)…………………(201)
 
 訳者あとがき………………………………………………………(268)



 
まえがき

 1952年のはじめ頃から、朝鮮と中国の領土で、すこぶる異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府
は、じぶんたちが細菌戦争の攻撃目標になっているのだ、と主張するようになった。
 世界各国の人民は、こういう戦争のやり方を否認する意志、いや、それどころか憎悪する意志を、ずっと前から明らかにして
きていただけに、そういう事態がどんなに重大なものであるかがよくわかった。そういうわけで、国際科学委員会をつくって、現
地の証拠をしらべるべきであるといういことになった。
 委員会のメンバーは、じぶんたちの責任がどんなに重いかということを自覚していたので、先入観から免れるためにあらゆる
努力をはらい、じぶんたちの知っているかぎり一番厳密な科学的原則にしたがって、その調査をおこなった。いまここに、その
活動のくわしい内容と、委員会のたどりついた結論とを、報告書として読書のまえに提出する。この報告書をつくる仕事には、
8つの国語をつかう人たちが参加した。だから、もしそれが優雅さにかけていたとしても、あらゆる大陸の人びとにとって、明快
で、あいまいなところがなく、わかりやすくせねばならなかったためであることを、読者の方は理解してくださることと思う。

 委員会の組織と活動

 朝鮮民主主義人民協共和国の外相は1952年2月22日、また中華人民共和国外相は3月8日、アメリカ側が細菌戦をやっ
ていることに公然と抗議した。2月25日にはには、中華人民世界平和擁護委員会主席が、そのことについて世界平和評議会
にアッピールをよせた。
 3月29日、郭沫若博士は、オスロでひらかれた世界平和評議会の執行局会議の席上で、同伴してきた中国代表たちの援
助をうけ、また 朝鮮代表李箕永氏の立会いのもとで、執行局のメンバーやその他の国民代表に、問題となっている現象につ
いて、たくさんの情報をつたえた。郭博士の言明によると、国際赤十字委員会は、政治的影響力をうけることを十分に免れてい
ないので、偏見のない現地調査をする能力がないと、中国と(北)朝鮮の政府は考えているとのことであった。こういう反対論は
のちになって、国連の専門的機関である世界保健機構にもむけられた。しかし、朝中両国政府は、公平で独立的な科学者の
国際的団体を中国にまねき、両国政府の主張の基礎になっている事実を調査させることを、心から希望していた。それに参加
する科学者たちは、平和をまもるために活動している組織に関係があろうとなかろうとかまわないが、しかしその人たちは当然
人道主義的事業に貢献している著名な人物でなければならないというのであった。そして、この団体の使命は、両国政府の主
張が正しいか、正しくないかを判定することであった。徹底的な討論をつくしたのち、執行局は、そういう国際科学委員会の形
成を要求する決議を満場一致で採択した。
 そこで、オスロー会議がすむとすぐ、この問題に関係のある分野でできるだけ有名な、ヨーロッパと南アメリカとインドのひじょ
うにたくさんの科学者たちのなかから、この団体に参加する承諾をえるように努力をはらった。仮承諾の通知がまとまると、すぐ
中国科学院近代物理学研究所所長であり中国平和委員会の一メンバーであり、オスロー会議後科学委員会を組織するためヨ
ーロッパにのこっていた銭三強博士は、中国科学院と中国平和委員会の主席郭沫若の名前で招請状をはっした。この委員会
にとって最低限どうしても必要なメンバーの数が、六月中旬までにそろったので、一行はただちに中国にむかって出発した。
 国際科学委員会は、六月21日と28日に北京につき、中国科学院と中国平和委員会の代表からあたたかい歓迎をうけた。
そのメンバーはつぎのようであった。
  アンドレア・アンドレーン博士(スウェーデン)=ストックホルム市立病院管理局中央臨床研究室主任。
  ジャン・マルテル氏(フランス)=農学士、ギリニヨン国立農業大学動物生理学研究室主任 前アンラ畜産技師。イタリアと
                      スペインの牧畜学会通信員。
  ジョセフ・ニーダム博士(イギリス)=王立協会員。ケンブリッジ大学生化学サー・ウィリアム・ダン講師。元重慶駐在イギリ
                         ス大使館参事官(科学)前ユネスコ自然科学部長。
  オリヴィエロ・オリヴォ博士(イタリア)=ボロニャ大学部人体解剖学教授。前トリノ大学一般生物学講師。
  サムエル・B・ペッソア博士(ブラジル)サン・ポーロ大学寄生物学教授。前サン・ポーロ州公衆保健局長。レシフェバライバ
                         両大学医学部名誉教授
  N・N・ジューコフ=ヴェレジニコフ博士(ソ連)、ソ連医学学士院の細菌学教授兼副院長、細菌戦参加のため起訴された元
                              日本軍軍人のハバロフスク裁判の主任医学鑑定人。
 
 (途中参加者や接待委員会のメンバーは略)
 以下略

 文書の考証

 委員会のメンバーがはじめてあつまった時に、かれらに利用できた文書は、朝鮮と中国の政府が発表し、プラーグの世界平
和評議会書記局から、また各国にある中国当局の種種の通信機関の手で、西欧に流布された文書だけであった。
 朝鮮保健省の第1回報告(SIA/1)は、1952年1月と2月の事件を扱っているだけであった。そのなかにある資料は、国際
民主法律家協会調査団の報告書のなかでもう一度吟味された。この報告書には、朝鮮のペスト出現についての資料、それに
当然のことながら、国際調査団のメンバーのおこなった目撃証人の調査の結果がつけくわえてある。
 いちばんくわしい報告書は、中国の「アメリカ帝国主義細菌戦犯罪調査団」の二つのほうこくであった。
(以下略)

 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連

 東アジアで細菌戦がおこなわれているとの主張を調査するときには、日本側が第2次世界大戦中に中国にたいしてたしかに
細菌戦をやったという事実をけっして無視してはならない。委員会としては、わりとよくこの問題についての知識をもっていた。
というのは、委員会のメンバーの一人がハバロフスク裁判の鑑定主任であったし、もう一人は細菌戦そのものが中国におこっ
ていた当時、中国で公式の職務についていたごくわずかな西欧科学者の一人だったからだ。1944年、この科学者は、自分の
任務の一つとして本国政府につぎのように報告したのである。──はじめのうちこそ大きな疑惑を感じていたが、いくつかの地
方で日本軍がペストに感染した蚤をばらまいたし、またばらまいていることを、中国軍医署のあつめた資料はあきらかに示して
いるようにおもわれる、と。それで、これらのメンバーは、ふつうなら腺ペストなど発生しないけれども、そこの条件がその蔓延に
すこぶる有利な土地に、腺ペストが発生した例を、かなりたくさんあげることができた。周知のように、腺ペストというものは、ふ
つうの状態のもとではある種のはっきりと限られた地方(たとえば福建省)にだけ発生するが、そこ以外にはひろまらないので
ある。
……(以下略)

 
委員会の採用した事件分析の方法(略)

 
プラーグ文書の昆虫学的資料(略)

 
ばらまかれた昆虫についての医学的注釈(略)

 
植物病理学的資料(略)

 
朝鮮の事件(ペスト)
 
  先にのべたように、日本が第2次世界大戦中にやったペストその他の細菌戦の古典的方法は、容器または噴撒の方法に
よって、ペスト菌に感染している大量の蚤をばらまくことであった。1952年のはじめから、北朝鮮のあちこちに、ぽつぽつとペ
ストの流行の中心点がたくさんあらわれた。その際いつでもそれといっしょにたくさんの蚤がとつぜんああらわれたし、そのま
えにはかならずアメリカ機がそこを通過していた。2月11日の事件をはじめ、そういう事件が7つほどSIA/1に報告されてい
るが、そのうち6件ではペスト菌が蚤のなかに見つけだされたことが証明された。文書SIA/4は、2月18日安州付近に蚤がば
らまかれたことをつけ加えている。蚤は細菌学的ににみて、ペスト菌をふくんでいることが明らかになったが、その撒布後の
20日その地区の発南里にペストが発生した。村の人口六百のうちの50人がペストニかかり、36人が死んだ。
 委員会が受けとることのできた報告によると、過去5世紀のあいだ朝鮮でペストがおこったことはなかった。ペストが流行した
一番近い中心地は、中国東北(満州)から遠く300マイルはなれた土地か、それとも福建の南方1千マイルのかなたの土地で
あった。そのうえ、2月という月は、この土地の気候からみて、人間のペストがはやるにはふつう3ヶ月以上はやすぎる。とくに、
またその出現した蚤は、自然状態でペスト菌を運ぶ鼠蚤ではなく、人蚤(plex irritans)であった。そして、この蚤は、われわれ
が中国側の同定(付録12)その他の指摘(付録19)から知っているように、第2次世界大戦中日本軍が細菌戦につかったもの
であった。……
(以下略)   

 
甘南事件(ペスト)(略)

 寛旬事件(炭疽病)(略)

 遼東と遼西の事件(呼吸炭疽病器)(略)

 
大同事件(コレラ)(略)

 
容器または「爆弾」の型(略)

 捕虜諜報員の証言

  朝鮮当局は委員会にたいして、戦争がはじまって以来諜報員が北朝鮮におくりこまれていて、細菌戦についての疫学的
情報をあつめて送るというはっきりした目的をもって、仕事をしていることを知らせてくれた。これらの諜報員の多くは捕虜に
なったが、かれらの自白はアメリカ側の諜報組織とこれらの諜報員に命令された活動に大きな光を投げかけた。もはや
SIA/17の中にある諜報員、たとえば一人の中国人と一人の朝鮮人とについてのくわしい情報が公表されている。
  委員会のメンバーには、これらの諜報員の一人とながい時間会見する機会が平壌であった。(付録36)この青年は学校
を中途でやめ、1945年南朝鮮政府の「青年団」に参加したが、アメリカ軍がついに撤退するとき、それについていった。かれ
が北朝鮮に反対したおもな動機は、あきらかに政治的信念よりも、むしろちっぽけな個人的利益であった。
  ほかに生活する道もなかったので、この証人はアメリカ軍の補助情報部隊に参加した。かれは1951年12月から1952年
3月ま でのあいだにソウルの「K・L・O」という組織でうけた政治上、軍事上、衛生上の訓練について説明した。(付録36)。そ
の組織で、かれは、ほしいとおもう情報を手に入れる技術を教えられた。細菌戦がはじまったのは、まさにこの期間であった。
かれは2月のはじめ頃、たくさんの予防注射をされたが、それがどんな性質のものであるかは知らされなかった。かれは出発
の直前まで、外国軍の将校とはぜんぜん接触がなかったが、いよいよ出発というとき、アメリカ軍の少佐が通訳を通じてかれ
に指令をあたえた。その指令のなかでは、かれの活動すべき特別の地域が指定され、アメリカ軍が知りたいとおもう病気の精
密な細目があたえられた(チフス、ペスト、コレラ、脳炎、赤痢、天然痘)。この証人は、北朝鮮の統計資料の編集制度をおしえ
られ、できれば保健省その他の政府機関と接触をしてそれを手にいれ、必要とあれば、それを盗みだせとの命令をうけた。また
かれは、食べ物にとくに注意し、昆虫が伝染病をひろめた場所で夜をすごさず、わかした水以外はのむなといわれた。「北朝鮮
は病気でいっぱいだ」と、かれはきかされた。「しかし、大丈夫おまえの注射がおまえを守るだろう」といわれた。
  そこで、証人は3月29日北朝鮮にもぐりこんで、5月20日につかまるまで、つれていっていた無線電信技師といっしょに活
動した。質問にこたえるとき、かれはむしろ口数がすくなかったが、それは協力者をかばうためのもののようであった。かれは、
北朝鮮の保健要員との接触には、ほんのわずかしか成功しなかったし、アメリカ軍司令部には、ほとんど、いやぜんぜん情報
をおくることができなかったといった。
  この証人は、北朝鮮に不法入国するまえには、細菌戦をやっていることについて、何の示唆もうけていなかったことを明らか
にした。かれはただ、北朝鮮にはたくさんの伝染病があり、南朝鮮の軍隊は「いちばん近代的な科学兵器をつかって、いい成
績をあげている」ときいていただけであった。かれが細菌戦について知ったのは、警察の告示を読んだのがはじめてであった。
  委員会としては、この証人の態度と、その使命やうけた指令についてのかれの証言とには真実性があること、この証言をう
るためには、肉体的にも精神的にも、すこしの圧迫もくわえる必要はなかったということで意見が一致した。
……(以下略) 

 捕虜飛行士の証言

  1952年1月13日、アメリカ空軍の、B-26爆撃機一機が、朝鮮の安州上空で打ちおとされた。5月5日までに、その航空
士K ・L・イノック中尉と操縦士ジョン・クイン中尉は、じぶんらが細菌戦に参加したことをみとめたすこぶる長い供述をして、それ
が北京から世界に発表された。先にのべたように、これらの文書はSIA/14と15にそれぞれおさめてあり、またプラーグで発
行された小冊子のなかにも、その原稿の石版刷りといっしょにおさめてある。そのうちの細菌戦に関係のある部分はこの報告
書の付録にもいれておいた。
……(以下略)

 概観(略)

 結論

 1952年のはじめいらい、朝鮮と中国にひどく異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府は、アメリカ
軍が細菌戦をやっているのだと主張するようになった。細菌戦に関連のある事実をしらべるためにつくられた国際科学委員会
は、現地に2ヶ月以上も滞在し、いまその活動をおわるところまできた。
 委員会の面前には、多くの事実があらわれたが、そのうちいくつかは首尾一貫した型をしめしており、これらの型は高い論
理性をもっていることがあきらかになった。そこで、委員会は、その努力をとくにそれらの型の研究に集中した。委員会は、つ
ぎのうような結論にたどりついた。
 朝鮮と中国の人民は、たしかに細菌兵器の攻撃目標になっている。この兵器をつかっているのはアメリカ軍部隊であり、そ
の目的に応じてじつに種々さまざまのちがった方法をつかっているが、そのうちのいくつかは、第2次世界大戦中日本軍のつ
かった方法を改善したものであると思われる。

 委員会は、論理の階段を、一歩一歩のぼって、この結論にたどりついた。委員会としては、いやいやながらそうなったので
ある。 というのは、委員会のメンバーは、こんな非人間的な技術を、各国人民の面前で、じっさいにつかうことができるなどと
は、信じたくなかったからである。
 いまこそ、すべての人民は、その努力を倍して、世界を戦争から守り、科学上の発見が人類の破滅のためにつかわれること
を食いとめねばならない。

 付録
(ここではすべて省略、ただし、37は捕虜飛行士の証言としてトップページ85でリンクさせた)


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