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ーーーーーーーーーーー「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡部昇一)を読んで NO1ーーーーーーーーーーー

 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”「南京大虐殺」の真相とは”と題された文章があります。それを読んで、「渡部昇一」というような著名な学者が、様々な資料が存在し、議論のある大事な歴史的事実について、その資料をほとんど検証することなく、一方的、断定的に「南京大虐殺」を論じておられることにとても問題を感じました。

 そして、渡部氏は、自身で名前をあげておられる、田中正明氏、阿羅健一氏、板倉由明氏、富士信夫氏の研究に全面的に依拠して、南京大虐殺を語っておられるように思えます。渡部氏自身の記述には、「南京大虐殺」に関わる新たな資料や検証はほとんどありません。出てくるのは、下記のように「南京大虐殺」とは直接関わりのない『名将言行録』(岡谷繁実)や、それに類する「お話」です。

 渡部氏は、上記の研究者に依拠しつつ、”なんと、全員殺しても30万に満たない!”などと題して、勝手に枠をはめて、「南京大虐殺」を否定されているように思うのです。いろいろな人の著作に対する疑問点として、すでに指摘してきたことですが、簡単にまとめると、「全員殺しても30万に満たない」「全員」とは、いったいどの範囲のどういう人たちか、ということです。虐殺は、南京陥落前に、南京攻略に向かった時点から始まっていると言われています。それは、上海戦で多くの戦友を失い苦しめられたことや、補給がほとんどない状態での攻略戦であったことが一因であると考えられているのです。
 南京事件に関わる著作の多い、笠原教授は、大本営が南京攻略戦を下命した時の日本軍の侵攻地点をもとに、南京事件の地理的範囲を南京行政区とされています。それは、集団虐殺が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などに集中していること、投降兵あるいは便衣兵容疑の者が城内より城外へ連行され殺害されたこと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた 多数の市民が巻き添えとなっていることなどを根拠にされています。勝手に南京城内の人口を推察し、「全員殺しても30万に満たない」ということで、「南京大虐殺」を否定することはできないのです。

 戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵を、捕虜として処遇することなく、揚子江岸などに引率し集団処刑したことは、否定しようのない事実だと思います。下記にその資料の一部を抜粋したように、第十六師団長の中島今朝吾陸軍中将の日記には、捕虜殺害の命令に関する記述があり、第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』などには「…聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク、イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ」などという記述があり、さらに、歩兵第65連隊上等兵の陣中日記には、「…その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した」などという記述が残されてるのです。元日本兵の捕虜殺害に関する証言も少なくありません。

 南京城内で、日本兵が中国人30万人を虐殺したということではないのです。「全員殺しても30万に満たない」というためには、南京城内の人口ではなく、南京行政区の人口および南京攻略戦以降、日本軍と戦った中国兵の数を確定する必要があるといわなければなりません。

 また、「なんと、陥落直後に人口が急増しているのだ」や「南京陥落の最初の一月ぐらいは20万人であるが、一ヶ月も経つと、5万人増加している」という記述にも問題があると思います。軍が国内向けに流した情報以外に根拠がなく、逆に、南京安全区国際委員会の代表であったラーベは
”…私たちはすべての通りに難民誘導員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはな んと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。”
 と書いているのです。5万人増加したのではなく、難民は20万人と予想していたが、実は25万人の難民を抱え込んでいたと書いているのです。

 さらに渡部氏は、

日本中に、そういう帰還兵がいたのに、30万とか40万もの市民を虐殺した話をした兵士が一人もいないということは、実にありえぬことである。
と書いていますが、そうでしょうか。「南京大虐殺」という言葉や、「30万」というような数字は、戦後、調査結果に基づいて語られるようになったもので、南京戦に関わった当時の帰還兵が、そういう話をするわけはないと思います。
 同時に、そうした主張は、当時の軍の姿勢や日本兵の認識・立場を十分踏まえていないようにも思います。学徒出陣によって中国河北省の駐屯部隊に陸軍二等兵とて配属された渡部良三の歌集「小さな抵抗」などを読めば、当時の日本軍の姿勢や日本兵の認識・立場がいろいろわかります。
 「一人もいない」という断定もいかがなものかと思います。

 東京大空襲や広島・長崎の原爆犠牲者数と「南京大虐殺」による犠牲者数の比較も的外れではないでしょうか。「南京大虐殺」は、 南京攻略の命令(大陸命第8号、昭和12年12月1日)が下されて以降、2ケ月近い期間、様々な場所における犠牲者を取り上げて論じられているのです。犠牲者の埋葬に関わる資料なども無視できません。

 下記は、「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)からの一部抜粋です。
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               3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
                      ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

 まず、30万人という数字への疑問
 「南京大虐殺」は東京裁判中、日本人を寝耳に水のごとく驚愕せしめた報道であった。
 戦後のラジオ放送に「真相箱」というのがあった。戦争中─特にミッドウェイ海戦敗北後─大本営発表というデマに馴れていた日本人に、「真相箱」は、驚くほど信憑性が高かった。大本営は日本海軍に空母がなくなったことも、大和・武蔵の大戦艦が沈んでしまったことも、国民には少しも知らせなかった。大海軍も、敗戦になったら、ほとんど何も残っていない状態だった。
 そんな時に「真相箱」は駆逐艦一隻の沈んだ場所も時間も知らせてくれた。戦時中の報道は、特にミッドウェイ海戦後はまったくあてにならない大本営発表ばかりだったのに、戦後の報道は「真相箱」に象徴されるように信用できる、ということを国民は強烈に脳裡に烙きつけられていたのである。
 そんな時に、「南京大虐殺」が東京裁判の法廷から証拠付きで報道されはじめたのだから、日本人は、それを頭から信じたのも無理はない。
 
 私もその一人であった。ところが、しばらくすると、その報道を信じた時には、気が付かなかったことを、いろいろ思い付くようになったのである。
 まだ、小学校の六年生の時だった。近所の高等小学生だったO君が、「もう赤城も加賀も沈んだってさ」と話しているのを聞いて、実に不愉快な気持ちになったことを覚えている。赤城、加賀といえば、アメリカのレキシントン、ヨークタウンに対比される日本の代表的空母である。それが沈んでしまっていると聞いては、心が穏やかではない。
 戦後になって考えてみると、それは、ミッドウェイの敗戦のことだったし、O君の情報は正確だったのである。
 高級軍人や政府要員などとはコネのない東北の小市民のところにも、そうした機密情報は、実に素早く伝わっていたことに驚かざるをえない。軍当局は、ミッドウェイの敗戦と損害の程度は、軍事機密として国民に知らせなかったのである。しかし、それは役に立たなかった。生きて帰った水兵たちは、どんなに口止めされても近親者や水兵仲間に洩らすこともあろう。
 軍機に与る高級将校でなくとも、軍が隠したい情報は、このようにして民間に流れていた。

 これに反して、南京大虐殺などという話は聞いたことがなかった。
 日華事変のはじめの頃に出征した人たちの中には、途中で帰還してきた人もずいぶんいる。私の家のすぐ隣の家のご主人も、事変が勃発すると、すぐに出世したが、二、三年で帰ってきていた。そういう例は、ほかにもあった。
 日本中に、そういう帰還兵がいたのに、30万とか40万もの市民を虐殺した話をした兵士が一人もいないということは、実にありえぬことである。                   
 これが、私が南京大虐殺に首をひねりはじめたきっかけだった。
 また、一口に30万とか40万とか言うが、それは途方もない数である。
 昭和20年(1945)3月10日の東京空襲は、約300機のB29が、住宅焼尽・住民殺傷を目的とし、2時間半の間に、約1665トンの焼夷弾を投下したものである。広大な東京は一挙に燃え上がった。その時の死者が8万強である。
 広島の原爆の場合は、市民約30万6500人あまりのうち、推定で24万7000人が死亡、長崎の場合は約7万4000人が死亡している。最近のソ連の地震では、全地域で見渡すかぎり廃墟である。そこでの死者は、全地域で4万人ぐらいと報ぜられている。
 このようなことを念頭において「南京大虐殺」を考えてみなければならない。
 一般に数の把握というものは、はなはだむずかしいもののようである。
 『名将言行録』(岡谷繁実)に、こんな話が載っている。
 武田信玄の姉は、今川義元の妻である。
 この姉から、貝掩い(カイオイ・女子用の遊び道具)にするようにと言って、たくさんの蛤が送ってきた。信玄は大粒のものと小粒のものを選り分け、大粒のものを母のところに届けさせた。
 残った小粒の蛤は畳二畳分ぐらい、高さ一尺ぐらいあった。小姓たちに数えさせたら、3700ぐらいあった。
 そこで出仕してきた将士に、この蛤の数を当てさせた。いずれも戦場で手柄を立てている武士たちで、兵士の数の見積もりなどはできるはずの人だった。
 ところが、どの武将も2万とか1万5000とか言う。
 これを聞いていた信玄は、
「戦場の人数というものは、言われるほど多いものではないに違いない。5000人の人数があったら、何万人とでも称しうるであろう」
と言ったという。
 このときの信玄の年齢は、わずか13という。信玄は後になって、クーデターで父を追い出した形になるが、家来たちが信玄にしたがったのは、このような天才だったからである。
 「5000以下の数は、何万といっても同じ」という話は、戦国時代だけに特別な切実感がある。
 考えてみると、旧制中学の全校生徒が査閲(軍事教練を査閲官という高級軍人に見てもらって、その学校の評価を受けること)のために校庭に整列すると、広い校庭が見わたすかぎりいっぱいという感じであった。しかし、今考えてみると、700人ぐらいのものである。
 これが、全員死体となって転がっているとすれば、見わたすかぎりの死体で、何千と言われても、そう思うだろう。いわんや、5000人ものしたいだったら、信玄の言うとおり、何万と言っても通じるであろう。
 戦場の興奮状態で、印象だけで何万人の死などと言っても、何の信憑性もないと言ってよい。


 なんと、全員殺しても30万に満たない!
 では、まず第一に、昭和12年(1937)12月13日の南京陥落の直前に南京にいた人口はどのくらいであったか。それは当時の数多くの証言から、かなり正確に分かっているのである。まず、市民のほうから見てみよう。(田中・前掲書『南京事件の総括』161ページ)

 15万人 ─ フランクフルター紙特派員リリー・アベック女史が、陥落直前の南京を脱出して書いた『南京脱出記』(『文藝春秋』昭和13年2月号)
 15万人 ─ 『ライフ』誌
 10万人 ─ 張群思少佐(日本軍捕虜)
 20万人 ─ 劉啓雄少将(日本軍捕虜・のち汪兆銘政府軍官学校長)
 12万余 ─ 松井大将の『陣中日記』
 これらは、いずれも当時の証言であることに注目したい。
 では、守備していた唐生智将軍の軍隊の数はと言えば、公文書では5万人。しかし、もっと丁寧に見ると、3万5000人ぐらいである。したがって、一番多い見積もりをしても、軍民合わせて25万、一番少ない見積もりで16万である。よしんば全員殺されても、それがだけということになるが、しかも、なんと、陥落直後に人口が急増しているのだ。
 今日は忘れられがちであるが、日華事変はあくまでも事変であり、日中戦でなかった。おたがいに宣戦布告はしていなかったのである。したがって、当時の南京には欧米諸国の外交機関も赤十字もあり、機能していたのである。
 戦争が南京に迫ると、金持ちたちは避難のため退却するものが少なくなかった。一方、欧米人が中心になって、南京安全区国際委員会が作られ、退却しない非戦闘員の市民の保護にあたっていた。この委員会は、安全区に保護している市民の食糧について心配しなければならないから、人口の把握はかなり正確である。
 これによると、南京陥落の最初の一月ぐらいは20万人であるが、一ヶ月も経つと、5万人増加している。当時の新聞記者も、落城の数日後には銭荘(両替屋)が開かれていたのを目撃している。治安恢復が口コミで伝わると、続々と避難民が帰ってきている。当時の中国人の民衆は自分の国の敗残兵よりは、日本軍の治安を信用していた。その後、南京は8年近く日本軍の下にあるが、民衆は増えこそすれ減らないのである。 
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下記の
資料1は『南京戦史資料集』南京戦史資料編纂委員会編(偕行社)
資料2は『南京戦史資料集』南京戦史資料編纂委員会編(偕行社)

資料3「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)
資料4『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)
 から、そのごく一部を抜粋したものです。 
資料1  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

                  中島今朝吾日記
                              第十六師団長・陸軍中将15期
                              12月13日  天気晴朗 
一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ

一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル

一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ

一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ

一、兵ヲ掃蕩スルト共ニ一方ニ危険ナル地雷ヲ発見シ処理シ又残棄兵器ノ収集モ之ヲ為サザルベカラズ兵器弾薬ノ如キ相当額ノモノアルラシ
 之ガ整理ノ為ニハ爾後数日ヲ要スルナラン
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
      第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』12月13日

”八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
  ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
    貴大隊ノ任務ハ前通リ
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
  午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中隊ハ路営  地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
  但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
  各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
  第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ失敗セリ
  捕虜ハ観念シ恐レス軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸フルモノ銃剣ノ前ニ乗リ出シ従容トシ居ルモノアリタルモ中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 [伊藤喜八]陣中日記  所属:歩兵第65連隊第1中隊・編成 階級:上等兵
12月17日
 午前8時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひもくたう(黙祷)して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう、午前10時到着。
 門内、励志社、陸軍軍官学校、警護司令部などあった。
 午後1時から南京入城式。
 夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。
ーーー
 [宮本省吾]陣中日記  所属:歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充  階級:少尉
〔12月〕16日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

〔12月〕17日 (小雪)
 本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は8時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す、2万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまつた。
 中隊死者1傷者2に達す。
ーーー
  大寺隆陣中日記  所属:歩兵第65連帯第7中隊・第4次補充  階級:上等兵
12月17日
 ・・・
 〔空頁への記事〕 
 平安路ヲ南進。
 南京ノ捕虜約10万、
 9、11、13ノ各師団。
 65ノホリヨ1万2千。
12月18日
・・・
 昨夜までに殺した捕リヨは約2万、揚子江岸に2ヶ所に山のように重なつて居るそうだ、7時だが未だ片付け隊は帰へつて来ない。 
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南京戦当時 第16師団三十三聯隊第二大隊  大沢一男 1916年12月生まれ 2000年12月取材

  夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門に向かいました。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんおりました。敗残兵はあか んと思ってかどんどん手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空 壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっ としている、火をつけたら逃げた者もおりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました


ーーーーーーーー「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡部昇一)を読んで NO2ーーーーーーーー

 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
 今回は”「不祥事」を徹底的に戒めた日本軍指令官”という下記の文章について考えました。渡部氏は、松井司令官の発した訓令は、「いかなる戦争のいかなる司令官の命令としても、手本になるような立派なものである」と書いています。それは否定しません。しかしながら、だからといって、それが「市民の大虐殺の計画など、微塵も入りこむ可能性がないのである」ということにはならない、と思います。 南京攻略に向かった部隊の軍記・風紀の乱れはよく知られていますし、様々な資料や証言が存在します。

 また、渡部氏は松井司令官が「…モシ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、マタ被害者ニタイシテハ賠償マタハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ」といったことをとらえて、
”「不心得者があったら厳重に処断せよ」と言っていることは、不心得者は憲兵がつかまえて罰する程度のもので、つまり、散発的な事故だったことを示しているし、財産の被害を受けた中国人には、その品物を返してやるか、弁償するかしてやれ、と言っているのである。”
と書いています。でも、そんな「散発的な事故」などでなかったことは、下記のような著書を読めば、明らかです。

 例えば、従軍記者として「文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回った人」と言われる同盟通信の記者、前田雄二氏は、その著書「戦争の流れの中に」前田雄二(善本社)の中の第二部「南京攻略戦」の3、”「南京大虐殺」とは”に、「軍司令官の怒り」と題して、資料1のような事実を書いています。南京戦に関わった軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官などを前に「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」と異例の訓示をしたというのです。「散発的な事故」で、軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官などを前に、そんな訓示をするでしょうか。

 また、南京領事や外務省の東亜局第一課長として、日中の問題に取り組んだ上村伸一氏は、自身の著書『破滅への道』上村伸一(鹿島研究所出版会)「政戦の不一致 南京での暴行」と題した文章の中で「…しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみ ならず、暴行の限りをつくし、世界の反感を買った」と書いています(資料2)。

 さらに、南京攻略戦当時、新聞聯合社(後の同盟通信社)の上海支局長であった松本重治氏は『昭和史への一証言』の中で、聞き手である國弘正雄氏の質問に答えて、報道仲間の話として
3人の話 では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて 行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
  前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい 兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです
と証言しています(資料3)。ありもしない「虐殺」を仲間に語るとは思えません。

 『陸軍80年』(図書出版社)の著者・大谷敬二郎氏は、「第11章、日中戦争」の「南京大虐殺」の中で、
軍はその質を失っていた
と書いています(資料4)。そして、同書の「あとがき」に、戦時中の日本軍について、
すでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい”
と書いていることも見逃せません。

 上海派遣軍松井石根司令官の専属副官・角良晴氏の記述が『南京戦史資料集』(偕行社)「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」の中にあります。その内容も見逃すことができません。
三三 20日朝軍司令官の下関附近まで独断視察
 20日朝軍司令官は「私は下関に行く。副官は同行しないでよい」と命令があった。
 副官は車の準備をした。
 当日、副官は運転手の助手になり助手席に乗った、そして下関に行き右折して河岸道を累々と横たわる死体の上を静かに約2キロ走り続けた。
 感無量であった。
 軍司令官は涙をほろほろと流して居られた。2キロ位走って反転して下関を通り宿舎に帰った。
 このような残虐な行為を行った軍隊は何れか?「下克上」の軍命令により6Dの一部軍隊が行ったものと思料せらる。”

 「累々と横たわる死体」、松井司令官の流した「」は、何を語っているのでしょうか。
 東京裁判で松井石根司令官自身が、
当時の方面軍司令官たる私は、両軍の作戦を統一指揮するべき職権は与えられておるのであります。従つて各部隊の軍紀、風紀を維持することについては、作戦上全然関係がないとは申されませんから、自然私がそれに容喙する権利はあるとは思いますけれども、法律上私が軍紀、風紀の維持について具体的に各部隊に命令する権限はなかつたものと私は当時考え、今もそれを主張するのであります
と自らの直接的責任を回避し、「南京を攻略するに際して起こったすべての事件」の直接的責任は「師団長にあるのであります。」と証言をしたということは、「散発的な事故」などではなかったからではないでしょうか。
 歴史を自分たちに都合のよい「お話」にしてはならないと思います。
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             3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
    ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

「不祥事」を徹底的に戒めた日本軍指令官
 第二に、何十万という大虐殺には入念な準備や設備が要る。上からの命令があって、科学者や技師が加わらなければできない相談である。
 しかるに、松井司令官は南京攻撃に際して、次のような訓令を発している。これは、いかなる戦争のいかなる司令官の命令としても、手本になるような立派なものである。

 一、皇軍ガ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ、永ク竹帛ニ垂ル(歴史に残る)ベキ事績タルト、世界ノ斉シク注目シタル大事件タルニ鑑ミ、正々堂々将来ノ模範タルベキ心組ミヲモッテ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニナカラシムベシ。
 二、部隊ノ軍紀風紀ヲトクニ厳重ニシ、中国軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰帰服セシメ、イヤシクモ名誉ヲ毀損スルガゴトキ行為ノ絶無ヲ期ス
 三、別ニ示ス要図ニモトヅキ、外国権益、コトニ外交機関ニハ絶対ニ接近セザルハモチロン、トクニ外交団ノ設定シタル中立地帯ニハ、必要ノ外立入リヲ禁ジ、所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置スベシ。マタ域外ニオケル中山陵ソノ他革命志士ノ墓オヨビ明考陵ニハ立入ルコトヲ禁ズ。
 四、入城部隊ハ師団長ガトクニ選抜シタルモノニシテ、アラカジメ注意事項、トクニ城内ノ外国権益ノ位置ヲ徹底セシメ、絶対ニ過誤ナキヲ期シ、要スレバ歩哨ヲ配置スベシ。
 五、掠奪行為ヲナシ、マタ不注意トイエドモ火ヲ失スルモノハ厳重ニ処罰スベシ。軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵オヨビ補助憲兵ヲ入城セシメ、不法行為ヲ防止セシムベシ。(『パル判決書』下・616ページ)

 何しろ、日本に好意的でない欧米の外交団や牧師や大学教授が城内に残っているのに攻撃するのだから、細心の注意をして、誰からも後指を指されないようにしなければならない。市民の大虐殺の計画など、微塵も入りこむ可能性がないのである。
 特に、第三項目で中国革命の父たる孫文の眠る中山陵などの名を挙げて、そこに立ち入らないようにと指令しているのは注目すべきである。しかも中山陵や明考陵は南京郊外にあって、戦略地点となりうるところである。この陵を傷つけないために、この方面を進撃した部隊は余計な苦労をした。
 敵国の死者の墓まで気にして進む軍隊が、民衆大虐殺のプランなど持っているはずもなく、プランがなければ、市民30万人もの大虐殺などは、歩兵にできるわけがない。
 では、南京占領は理想的であったかと言えば、そうではなかった。不法行為はあったのである。
 松井大将は、こういう通達を入城式の10日後に出さなければならなかった。

 「南京デ日本軍ノ不法行為ガアルトノ噂ガ、入城式ノトキモ注意シタゴトク、日本軍ノ面目ノタメニ断ジテ左様ナコトガアッテハナラヌ。コトニ朝香宮ガ司令官デアラレルカラ、イツソウ軍紀風紀ヲ厳重ニシ、モシ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、マタ被害者ニタイシテハ賠償マタハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ」(『パル判決書』下・617ページ)

 これは、日本軍に不法行為がなくはなかったことを司令官が認めた文書として重要である。しかし、よく読めば、大虐殺の反対の意味になることがよく分かる。
 「不心得者があったら厳重に処断せよ」と言っていることは、不心得者は憲兵がつかまえて罰する程度のもので、つまり、散発的な事故だったことを示しているし、財産の被害を受けた中国人には、その品物を返してやるか、弁償するかしてやれ、と言っているのである。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                軍司令官の怒り
 翌18日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後2時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。 
 祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。
 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
 松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。
 「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
 私は驚いた。これは叱責の言葉だった。
「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
 会場の5百人の将兵の間には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、
「松井はよく言ったねえ」
 と感にたえたように言った。
「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだった」
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                政戦の不一致 南京での暴行

 東京の方針はすでに和平に決定し、杭州湾上陸は上海救援のためであった。上海が包囲され、日本軍が守勢のままで和平交渉に入るのは不利だから、上海包囲軍 を撃退することは必要であった。しかし敗軍をどこまでも追うのは和平という政治目的からの逸脱である。やむなくそこまで行ったとしても、軍は南京の前で止 まり、南京を睨む形で交渉を進めるのが当然である。しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみならず、暴行の限りをつ くし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積みされ私も少しは眼を通したが、写 真などは眼を覆いたくなるようなひどいものだった。私は北清事変(1900年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になっていたなどを思い出し、変わり果 てた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである。

  日本軍の南京突入にあたり、日本の砲兵隊は、英艦レディー・バード号を砲撃した(12月12日)。イギリス側は橋本欣五郎大佐が砲撃を指揮しているのを目 撃したと言って強く抗議して来た。イギリス側は橋本大佐が革新派の旗頭であり、一たん現役を退いたが、予備役として出陣したことを知っていて、故意の砲撃 だと主張した。また同日米艦パネー号も日本の爆撃に会って撃沈され、アメリカの人心を甚だしく刺激した。英米と日本との関係の悪化は中国の民心を鼓舞する ことになり、和平を困難にするものである。

 それにもまし て和平を困難にしたのは、軍内部の情勢が刻々に変わることであった。南京の占領により気をよくした軍の強硬派は和平条件の加重を強く主張し、ついにそれが 通った。政府は戦力の限界を知り、事変の政治的収拾に進んだのだが、強硬派の巻き返しにあってまたも屈服した。政府の首脳部は和平派と強硬派の抗争の波の まにまに翻弄され、所信を貫く気力を失ってしまい、事変の政治的収拾などのできる状態にはなかった。かくて12月14日の政府大本営連絡会議および21日 の閣議は、次の和平条件をドイツ側に伝達することを決定した。

(甲)(1)中国は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること      
   (2)所要地帯に非武装地帯と特殊機構とを設けること
   (3)日満華三国の経済協力協定を締結すること                       
   (4)賠償を払うこと

(乙)口頭の説明
   (1)防共の態度を実行により示すこと
   (2)講和使節を一定期日内に指定する地点に派遣すること               
   (3)回答は大体年内と考えていること
   (4)南京が以上の原則を承諾したら、ドイツから日華直接交渉を慫慂すること

(丙)ドイツ大使の極秘の含みとして内話する講和の条件
   (1)満州国の正式承認
   (2)排日・排満政策の放棄
   (3)華北、内蒙に非武装地帯設置
   (4)華北は中国の主権下におくが、日満華三国共存共栄に適する機構を作り、広汎な権限を与え、とくに経済合作の実をあげること
   (5)内蒙防共自治政府を設け、国際的地位は、外蒙と同じとする。
   (6)中国は防共政策を確立し、日満両国に協力する。
   (7)華中占拠地域に非武装地帯を設定し、また大上海市区域は、日華協力して治安の維持およ
    び経済の発展にあたること 
   (8)日満華三国は資源の開発、関税、交易、航空、通信等に関し協定を締結する
   (9)中国は日本に対し、所要の賠償を支払うこと
付記 (1)華北、内蒙、華中の一定地域に、保障の目的で必要期間、日本軍を駐屯する
    (2)前記諸項に関する協定成立の後休戦協定の交渉を開始する。中国政府が前記各項の約定を誠意をもって実行し、両国提携共助のわが方の理想 に真に協力すれば、前記保障条項を解消し、中国の復興、発展および国民的要望に衷心協力する用意がある。         

 この条件は全く城下の誓いである。12月23日広田外相は、ドイツ大使ディルクセンに示したところ、大使はこれでは到底話のまとまる見込みはないと嘆息した。しかし乗りかかった船だから、一応中国側には伝えようと答えたということであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第3章 日中全面戦争と南京占領                                  

南京虐殺はあった
・・・
○逃げ遅れた市民がかなり南京城内に残っていたのですか。
○松本 南京攻略の直前まで、南京では戦闘がない、などといわれていたので、逃げ遅れた市民は相当いました。財産のある者は早くから、船で揚子江上流に脱出していた。残っていたのは、そういうことができない貧しい人たちでした。

○ そういう貧しい人たち、底辺層のおばあさんや少女が日本軍によって殺されたり、犯されたりしたのですね。日本軍による集団残虐行為は、数日前からすでに城外の近郊で始められていましたが、占領した12月13日から入城式が行われた17日の前夜までの日本軍の集団虐殺は最も大規模なものであったといわれます。日本軍が南京を占領して5日後に先生が南京に入られたとき、すでに南京は平静に戻っていたわけですね。占領直後の南京の様子をお話しください。
○ 松本 占領直後の南京には、同盟通信の深沢幹蔵、前田雄二、新井正義の三君が取材のために別々のルートで、私より早く14日と15日に入っているのです。私は、戦後あらためて、3人に会って、直接、そのときの模様を聞きました。深沢君は従軍日記をつけていましたから、それを読ませてもらいました。3人の話 では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて 行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
  前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい 兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです。前田君は12~13人ほど、そうやって銃剣で突き殺されているのを見ているうち に、気分が悪くなり、吐き気がしてきた。それ以上、見つづけることができず、そこから立ち去った、といっていました。軍官学校の構内でも、捕虜が拳銃で殺 されていたということでした。前田君は社会ダネを追って走り回っていたのですが、12月20日ごろから、城内は平常に戻ったようだ、といっていました。
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  南京大虐殺
南京「大虐殺」   ・・・
 当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵長は、宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の 暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や掠奪の現行犯で、将校にして手錠をかけ られ憲兵隊に連行されるといった状況がつづいた。だが、これに対し、つよく抗議したのが中島中将であった。このかんの事情がどうであったか、くわしくは覚えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の紀律はたもてない。高級指揮官が、掠奪など占領軍の 当然の権利のように考えていたからだ。すでに、軍はその質を失っていた。


ーーーーーーーーー「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡部昇一)を読んで NO3ーーーーーーーーー
 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があります。その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
 今回は、”語るに落ちた最重要証人の証言”の中の、マギー牧師の証言に関する部分です。渡部氏は下記に抜粋したようなことを書いているのですが、とても問題があると思います。

 まず、マギー牧師が目撃したような殺害が南京城内で繰り返され、30万人に達したなどとは誰も言っていないことです。そういう「散発的な事故」とも言えるような殺害が、南京城内で繰り返されたということではなく、 長江沿いや紫金山山麓、また水西門外などで軍命令によって捕虜の「集団虐殺」がなされ、さらに、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた多数の市民が巻き添えとなって殺された、ということが、「大虐殺」として問題にされているということです。
 そうした虐殺の証拠は、中国人やマギー牧師の証言と関わりなく、日本側の資料によって明らかなのです。くり返しになりますが、第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』などには「…聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク、イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ」などという記述があり、さらに、歩兵第65連隊上等兵の陣中日記には、「…その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した」などという記述が残されているのです。元日本兵の捕虜殺害に関する証言も少なくありません。
 また、日中戦争では、戦場の異常感覚に早急に同化させるため、多くの師団で新兵に捕虜の「刺突訓練」が課されたことも、様々な元日本兵の証言や記録があります。
 そうした資料や証言が、「あとはすべて、戦場の伝聞であり、これは中国においては白髪三千丈になりやすい」という主張の誤りを示していると思います。

 また渡部氏が「ただ、ここで殺傷があったケースが三つばかりある」として指摘されていることにも、ことごとく問題があると思います。
 まず、
第一には敗戦中国兵 ─ その掠奪癖・放火癖は昔から国際的に定評があった ─ のやったことを日本兵のせいにされるということである。”
という指摘です。日本軍が南京城に迫って来たとき、中国軍が清野作戦(焦土作戦)を展開したことはよく知られていますし、ラーベの日記などにも「城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている」などと、その事実が記録されています。でも、それは中国軍の作戦であり、中国兵の「掠奪癖・放火癖」というようなものではないと思います。ほんとうに、「掠奪癖・放火癖」が国際的に定評があったというのであれば、その根拠を示す必要があるのではないでしょうか。。「掠奪癖・放火癖」というような言葉を使って、中国人を貶めるような内容の文章を公にするときは、客観的な調査結果や諸外国との比較に基づく資料などを示して、「国際的な定評」というものを裏付けることが求められると思うのですが、何も示されていません。
 
 日本軍が「掃蕩」ということで包囲殲滅戦を展開し、一般住民を多数虐殺したことや、「徴発」という名目で略奪した後、民家への放火を繰り返したことは、中国人の証言をまつまでもなく、日本側の記録や日本兵の証言で明らかです。渡部氏には、「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」松岡環氏(社会評論社)や南京事件 京都師団、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)、「関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹編集(青木書店)、「南京戦史資料集」(偕行社)、「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)などの資料を無視せず、しっかり検証をしてほしいと思います。

 第二として、渡部氏は「戦闘員の死者である。これは、いくら多くても戦果であり、虐殺とは言わない」ととして、「追撃戦の戦果を虐殺と取り違えている人もある」と主張されています。確かに、追撃戦で死者がでたら、それは戦闘行為であり、虐殺ではないと思います。でも、日本軍は戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵を多数殺害しました。後ろ手に縛りあげ、並ばせて機関銃で撃ち殺したり、「刺突訓練」と称して、新兵に縛り上げた中国人を突き殺させた殺害が、追撃戦の戦果でしょうか。誰が追激戦の戦果を虐殺と言っているのでしょうか。主張されていることは、全く的外れではないかと思います。

 第三に、「便衣ゲリラの処刑は正当である」とのことですが、安全区に逃げ込んだ中国兵が武器を取って日本軍に抵抗した事件があったでしょうか。安全区の中で、武器を所持した中国兵に殺された日本兵がいたでしょうか。南京安全区国際委員会のメンバーは、武器を所持した中国兵を安全区に入れないようにするために懸命の努力をし、日本側に彼らの安全を要求したのではないでしょうか。もし、抵抗される不安があるのであれば、その解消について、話し合うべきではなかったでしょうか。繰り返し抗議を受けながら、問答無用とばかりに無抵抗の元中国兵と思われる中国人を引っ張り出して、裁判もなく処刑することが正当でしょうか。民間人も含まれていたことが「気の毒」で済まされてよいのでしょうか。
 ハーグ陸戦条約の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」第二款 戦闘、第一章 害敵手段、攻囲、砲撃の第23条に「特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り」として
その3で、はっきりと「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」を禁じています。

 さらに、第四として、「捕虜にしても食わせたり管理したりするのが大変なので武装解除したうえで、処置する方針だったという。この場合の処置とは、兵士を釈放してやるという意味の軍隊用語のレトリックのことである」と指摘されています。でも、それは間違いであると思います。例外的に釈放したケースもあったようですが、処置(処分・処理・処断)という言葉は処刑を意味しているということです。
 「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」の記述でよく知られている第十六師団の師団長「中島今朝吾日記」には、
一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル
一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
などという記述があります。「大ナル壕ヲ要シ…」とあることからも、殺害であることが分かります。
 宮本省吾陣中日記の12月17日には、「本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず」という記述があり、翌日の12月18日には「午后敵死体の片付をなす」あるのです。
 「処分」とか「処理」とか「処断」、「処置」という言葉は明らかに「処刑」という意味で使われており、レトリックなどではないということです。南京戦において、日本軍は中国軍の退路を断つ作戦を展開しました。捕虜を釈放するのであれば、退路を断つ作戦の意味が問われます。
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                     3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
                 ── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

語るに落ちた最重要証人の証言
 ・・・
 この数の感覚を照明するものに、東京裁判におけるマギー牧師の証言がある。この人は「南京大虐殺」の証言者としては最も重要であり、しかも、人格的に信用のある人物である。
 したがって、彼の口から出た言葉が大虐殺を広めるのに最も有力なものだったのだが、このマギー牧師が、東京裁判の反対尋問において「何人が殺されるのを目撃したか」と聞かれて、まことに正直にも「たった一人」と答えているのである。
 しかも、その目撃した状況は次のようなものであった。日本兵の歩哨が一人の中国人に誰何した(「誰か」と呼びとめて聞いた)。ところが、この中国人が逃げ出したという。それを歩哨が背後から撃った、というのだ。
 歩哨の誰何を受けて逃げる者があったら、日本以外の警官なら少なくとも威嚇射撃し、止まらなければ撃つであろう。
 はじめから撃つ国もある。いわんや戦闘状態が終わるか終わらないかの戦場である。これは絶対に、いかなる尺度をもってしても大虐殺ではない。
 また、マギー牧師が、女を犯そうとした日本兵を見つけたところ、日本兵はあわてて銃剣を忘れて逃げていった。それでマギー牧師は、その銃剣を持って兵士を追いかけた、というような証言をしている。女にいたずらをしようとして、中立国の牧師さんに見つかったら必死に逃げる日本兵。このどこに何十万人も市民を虐殺している軍隊の姿があるのだろう。

 マギー牧師は、東京裁判で日本軍の世紀の大虐殺を証言するつもりだったのに、正直で嘘のつけなかった人だったために、まさに語るに落ちたのである。マギー牧師は、南京の安全区国際委員会のメンバーで、日本軍の占領中、その行動を監視するために、どこにも自由に行けたひとである。その行動の自由を持った反日的アメリカ人が、目撃した被害者は一人であるし、強姦事件も一件で、しかも、普通の大都市には、もっと悪質なものがありそうな程度のものにしぎなかった。その他はコソ泥を目撃したのが一件である。この程度なら、どこの大都市のお巡りさんでも日常見るところである。

 あとはすべて、戦場の伝聞であり、これは中国においては白髪三千丈になりやすい。
 ただ、ここで殺傷があったケースが三つばかりある。
 第一には敗戦中国兵 ─ その掠奪癖・放火癖は昔から国際的に定評があった ─ のやったことを日本兵のせいにされるということである。

 第二には、戦闘員の死者である。これは、いくら多くても戦果であり、虐殺とは言わない。特に逃げ出した敵を追撃するのは、最も効果の上がることである。
 ところが、戦後の「日中戦争」の専門家と称する人の中には、追撃戦の戦果を虐殺と取り違えている人もあるから、時代の違いは恐ろしい。「万人坑」などというものの中に、多くの死体を埋めてあったから、それを市民虐殺の証拠とする論法も使われているが、戦場の死体が主であったと考えるのが自然である。 

 第三には便衣ゲリラである。多くの中国敗残兵は、欧米人の管理の下にある安全区に逃げこんだ。安全地区では、実際に武器が隠されているのが発見されている。すると、ゲリラ狩りになるが、その処刑は正当であるが、間違って殺された民間人もあるであろう。便衣ゲリラに対しては憎しみが籠もっているから、殺し方は残虐になりやすい。そうして殺された人はまことに気の毒である。まさにそのゆえに便衣ゲリラはやってはいけないのである。

 第四に、捕虜として投降した者で殺された可能性のある者である。
 捕虜にしても食わせたり管理したりするのが大変なので ─ 日本軍自体が常に補給不足に悩んでいた ─ 武装解除したうえで、処置する方針だったという。この場合の処置とは、兵士を釈放してやるという意味の軍隊用語のレトリックのことである。シナの兵士の大部分は無理矢理に軍隊に入れられた者である。放されれば郷里に帰るだろう。
 もっとも、ある場合にはほんとうに処刑した場合も、少なくとも一カ所であったらしいが、それは捕虜の反抗というような特別な状況の下において、ごく限られたものである。しかもそれは合法である。アメリカ軍は捕虜を認めぬ方針で殴殺する場合が多くあったが、日本軍では例外的偶発事件と言ってよい。
 
  

4ーーーーーーーーー「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡部昇一)を読んで NO4ーーーーーーーーー

 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
  ここでは、「なぜ、虐殺の目撃者が皆無なのか」と題された下記の文章(資料1)について、くり返しになる部分もありますが、問題点を4つ指摘したいと思います。
  まず第一に、題名が問題です。「皆無」ではないからです。
 例えば、 当時東亜局長という立場にあった外交官、石射猪太郎は、その著書「外交官の一生」(中公文庫)の中で「南京アトロシティーズ」と題した文章を書いています。(資料2)。
 南京戦当時「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ」と書いていたのです。
 また、当時南京にいた同盟通信の前田雄二記者は、自身の著書「戦争の流れの中に」(善本社)に「南京大虐殺とは」と題した文章を、当時の日記をもとに書いています(資料3)。
 そして、渡部氏が名前をあげている作家の石川達三は、同書に「直接体験の新鮮さ」と題する文を寄せています。下記のような内容です。
前田雄二君とは一種の戦友である。太平洋戦争のはじめごろ、サイゴン(旧名)で会い、シンガポールで会い、私は夜になると彼の宿舎を訪ねて(払印進駐)当時 の彼の体験を聞かせてもらった。前田君は文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回って来た人である。よく生きてきたものだと思う。
  あれから40年も経って、いまになって彼は従軍体験の手記を書いた。なぜ、もっと早く書かなかったのか、それは同君の性格によったものであっただろう。従軍記は無数に出版されていて、私もかなり多くを読んでいるが、しかし前田君のこの手記は、いささかも古くなっていない。一読してその新鮮さに驚く。のみならず私には、いくつかの新しい発見もあった。たとえば南京占領軍の総司令官松井石根大将は、戦犯のゆえをもって戦後処刑されているが、部下の残虐行為を大変厳しく叱責した人であったらしい。同大将を処刑したことは、戦犯裁判の誤りではなかったか。”
 さらに当時同盟通信映画部のカメラマン、浅井達三氏も
”… 同盟のことは前田雄二さんが書いた『戦争の流れの中に』(善本社)にあるとおりです。彼は毎日、夜に日記をつけてました。それを基にあの本を書いたので、正確だし、僕等が忘れている人の名前まできちんと出てきます。当時軍に対して言えなかったことも書いているし、同盟通信の中の争いも隠さずにそのまま 書いています。全くあの通りです。”
と書いているのです。
 したがって私は、渡部氏が「新兵教育」と称して、日本軍が新兵に突き殺させた捕虜の殺害が「合法」であり「虐殺」ではないと論証しない限り、「なぜ、虐殺の目撃者が皆無なのか」というテーマ自体が間違いということになると思います。
 こうした関係者の記述は他にもいろいろあります。渡部氏が読んでいないだけであり、聞いていないだけではないかと思います。

 また、「新聞記者やカメラマン120人」も南京陥落と同時に南京に入ったと書いていますが、その120人が、その後もずっと南京に留まったわけではないと思います。それは、渡部氏が名前を挙げておられる作家や評論家も同様です。「彼らには目がなかったのか。筆はなかったのか。舌はなかったのか。」とのことですが、南京陥落を取材し、入城式などの様子を報じた後は、大部分の人たちはその役目を終えて南京を後にしたのではないでしょうか。
 さらに言えば、軍がそうした人たちに、直接集団虐殺の場面を見せるとは思えませんし、軍の許可を得て南京に入った人は、例えうわさ話に聞いはいても、それを公言することはできなかったのではないでしょうか。
 「戦後はいくらでも日本軍の旧悪は書けたはずである」とも言っていますが、そうした人たちの当時やその後の人間関係を考えると、それほど簡単なことではないと思います。

 それから、戦時中、「軍機保護法」や「新聞紙法」、また、「陸軍省令第二十四號」や「海軍省令第二十二號」によって、厳しく報道が統制されていたことを忘れてはならないと思います。例えば、昭和12年7月31日施行の「陸軍省令第二十四號」には、「新聞紙法第二十七條ニ依リ當分ノ 軍隊ノ行動其ノ他軍機軍略ニ關スル事項ヲ新聞紙ニ揭載スルコトヲ禁ス 但シ豫メ陸軍大臣ノ許可ヲ得タルモノハ此ノ限ニ在ラス」とあり、省令施行後は、「我ガ軍ニ不利ナル記事」が禁じられ、報道されることはなかったのです。
 1937年8月には「軍機保護法」が改正され、「秘密漏洩罪」が新聞記者などにも適用されることとなったといわれます。南京に入った従軍記者や評論家、作家なども、ありのままに戦場の実態を伝えることなどできなかったし、「我ガ軍ニ不利ナル記事」を平気で書くような人物は最初から戦場に行くことすらできない状況にあったことを踏まえなければならないと思います。
 そして、陸・海軍両省にはそれぞれ「新聞(雑誌)掲載事項許否判定要領」もあり、「十一、我軍ニ不利ナル記事、写真ハ掲載セサルコト」のみならず、「十二、惨虐ナル写真ハ掲載セサルコト」と定められていたのです。
 国民に、戦争犯罪に関わるような日本軍の情報が伝わることはなかったということを、忘れてはならないと思うのです。
 さらに、「出版法」や「 出版条例」、「不穏文書臨時取締法」、「軍用資源秘密保護法」、「治安維持法」などもありました。「我ガ軍ニ不利ナル記事」のみならず、そうした事実を話すことすら、自由にできない状況にあったのではないでしょうか。
 戦後は、そうした過去を思い出したくない人や戦争に協力させられた自分をふり返りたくない人もいるようですし、加えて、戦後日本人自身による「戦争責任」に関わる裁判が行われなかったために、戦時中の日本軍の戦争犯罪を公言することが難しい側面が残されていることも見逃すことはできないと思います。

 次に、渡部氏は、国際連盟に「南京大虐殺の提訴」がなかったのは、「南京大虐殺」などなかったからだというようなことを書いておられますが、事実に反すると思います。中国政府は1937年9月13日からの第18回国際連盟総会に日本の中国侵略を提訴しています。そして、国際連盟総会は9月28日に日本軍の「都市爆撃に対する国際連盟対日非難決議」を全会一致で可決しているのです。また国際連盟総会は、日本の中国に対する軍事行動が九カ国条約違反であり、不戦条約違反であると判定し、中国を道義的に支援することを採択しています。さらに、その後九カ国条約会議では、日本の中国侵略を国際法違反として非難し、警告する宣言を採択しています。「南京大虐殺」という言葉がないからといって、「南京大虐殺」がなかったかのようなことをいうのはいかがなものかと思います。
 1937年12月24日、蒋介石がルーズベルトへ手紙を送っていることも見逃してはならないと思います。日本軍による「無数の非戦闘員」の「虐殺」について訴えているのです。下記のような内容です。
中国は有史いらい、現在進行しているような容易ならぬ危機に直面したことはかつてありませんでしたし、極東の平和が今日のように破滅的危機にさらされたこともありませんでした。この五ヶ月の間、中国は日本を相手に生死をかけて戦ってまいりました。
 最新鋭の武器で武装しながら、中世の野蛮さの特徴であるような残酷さを発揮した日本軍は、中国に上陸して以後、陸・海・空軍でもってつぎつぎに都市を攻略 し、この間、少なからぬ外国人も含めて、無数の非戦闘員を虐殺し、莫大な施設・財産、および宗教寺院、慈善施設さえも容赦することなく破壊してきました。・・・”

 また井上久士氏によれば、蒋介石は1938年7月7日日中戦争一周年に際し、「全国の軍隊と国民に告げる書」「世界の友邦に告げる書」「日本国民に告げる書」という三つの文章を発表したといいます(浙江省抗日自衛委員会戦時教育文化事業委員会発行 1938年初版 10月再販)。その「日本国民に告げる書」の中に、
貴国の出征将兵はすでに世界で最も野蛮、最も残酷な破壊力になっていることを諸君は知っているだろうか。貴国がいつも誇っている「大和魂」と「武士道」はせでに地を払い消滅してしまった。毒ガス弾ははばかることなく使用され、麻薬販売は公然とおこなわれ、すべての国際条約と人類の正義は貴国の中国侵略軍によって乱暴に踏みにじられてしまった。そのうえ一地区が占領されるごとに放火・略奪の後、遠くに避難できなかった無辜の人民および負傷兵に対し、そのつど大規模な虐殺をおこなった。
 とりわけ私が実に口にするのも耐えられないが、言わざるを得ない一事は、すなわちわが婦女同胞に対する暴行である。10歳前後の少女から5、60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人を裸にして一堂に並べ強姦してから惨殺した。… このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点を留めるものである。…”
とあります。蒋介石は明らかに南京における日本軍の蛮行を踏まえていたと思われますが、毒ガス弾の使用や麻薬の販売にも触れています。当時の中国にとっては、「南京」だけが特別問題なのではなかったのではないでしょうか。

 三つ目は、渡部氏が、田中正明の著書を引いて「南京は広い町ではない。首都と言っても北京や日本の京都といったものでなく、東京の世田谷区より小さく、鎌倉市とほぼ同じである」と書いていることです。そして、「そこに非戦闘員を20万人集めた安全区があり、そこは反日的欧米人が管理している。そんなところで、どうして市民の大量虐殺などありえよう。」と続けていますが、あまりにも勝手な議論ではないかと思います。「南京大虐殺」は鎌倉市ほどの広さの南京城内で行われた、などと誰がいっているのでしょうか。「市民」の「大量虐殺」と、いつの間にか虐殺の対象が「市民」になっていることも問題だと思います。
 南京城内の散発的な殺害も含めてでしょうが、南京城外の下関草蛙峡や紫金山山麓、また水西門外その他の場所で軍命令によって捕虜の「集団虐殺」がなされ、さらに、日本軍の「包囲殲滅戦」によって近郊農村にいた多数の市民が巻き添えとなって殺されたことが、「大虐殺」として問題にされているのではないかと思います。便衣兵狩りで捕らえられた敗残兵の中には、一般市民もかなり含まれていたようですが、虐殺の対象は基本的には中国兵だったのではないでしょうか。したがって、渡部氏の「市民の大量虐殺」という表現は適切ではないと思います。

 四つ目は、「あれほど宣伝 ─ デマ宣伝 ─ を得意とする中華民国政府代表が「南京大虐殺」を話題にしないわけはないのである。…」という表現や「東京裁判が始まってからは、いろいろな証言やら研究などが出てきたが、それはたどっていけば、すべて戦場の伝聞と、東京裁判の採用した崇善堂資料 ─ 今ではインチキと証明されている ─ あたりに落ち着くのである。」という表現についてです。
 中華民国が、「デマ宣伝」が得意という根拠は何でしょうか。また、「崇善堂資料はインチキと証明されている」という根拠拠は何でしょうか。きちんとした根拠を示すことなく、こうした表現をすれば、日中の関係改善は一層難しくなるのではないかと思います。
 渡部氏は、南京戦当時の戦闘詳報や陣中日日誌、陣中日記に残された虐殺の日本側資料や多くの元日本兵の証言には触れておられませんが、無視してよいとお考えなのかどうか、疑問に思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
                   ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

なぜ、虐殺の目撃者が皆無なのか
 「南京虐殺事件」がはたしてほんとうに存在したのかと疑う第三の理由は、南京が当時は国際都市で、欧米人もかなり住んでいたということである。
 しかも、南京は決して広い町ではない。首都と言っても北京や日本の京都といったものでなく、東京の世田谷区より小さく、鎌倉市とほぼ同じである(田中・前掲書160ページ)
 そこに戦闘員を20万集めた安全区があり、そっこは反日的欧米人が管理している。そんなところで、どうして市民の大量虐殺がありえよう。それどころか、感謝状さえ残っている。当時きわめて反日的だったアメリカの『タイムス』誌も、むしろ日本軍の安全区の取扱いについて好意的である。
 日本軍のシナ大陸の行為に対してきわめて批判的であり、日本軍の空爆など日本非難の提案を満場一致で可決した国際連盟 ─ 日本はとっくに脱退していた ─ でも、「南京大虐殺」などは議題にも上がらず、提訴もなかった。南京陥落約半年後に開かれた国際連盟理事会には、中華民国政府代表も出席していたのだ。
 あれほど宣伝 ─ デマ宣伝 ─ を得意とする中華民国政府代表が「南京大虐殺」を話題にしないわけはないのである。市民の大量殺害ほど国際的同情を惹くものはないのにやらなかった。それは、実際になかったからである。

 また、日本に反感を持ち、中立を犯して蒋介石に援助していたアメリカもイギリスも、また、フランスも外交的に抗議していない。彼らの代表は南京にいあわせたのに、である。
 当時のシナ大陸のニュースを世界に送っていたロイターやAPやUPなどの大通信社の記者たちは、市民大虐殺のようなセンセイショナルなことが起こったならば、それをなぜ打電しなかったのか。
 日本の新聞記者やカメラマンも120人も南京陥落と同時に入った。それだけの人が、誰も知らないでいた。大宅壮一、西條八十、草野新平、木村毅(評論家)、林扶美子、石川達三、杉山平助(評論家)、など錚々たる評論家、作家も当時の南京に入っていた。彼らには目がなかったのか。舌はなかったのか。
 この人たちは、戦時中はそれを書けなかったと仮定しても、戦後はいくらでも日本軍の旧悪は書けたはずである。しかも、終戦直後は旧日本軍や日本軍人の諸悪を書くことは流行になっていたのに、「南京大虐殺事件」を書いた本はなく、それを記事にした新聞があったことは知られていない。
 南京大虐殺物が出てきたのは、すべ東京裁判にそれが持ち出された後である。(富士信夫・前掲書・下565パージ)
 しいて事件当時のものを探せば、「マンチェスター・ガーディアン」のティンパリイ記者の日本軍の暴行批判記事があるが、それは、すべて戦場のデマを反日プロパガンダの意図をもって書かれたものにすぎない。
 当時、彼は南京にいなかったのだから、何も目撃できるわけはなかった。
 東京裁判が始まってからは、いろいろな証言やら研究などが出てきたが、それはたどって行けば、すべて戦場の伝聞と、東京裁判の採用した崇善堂資料 ─ 今ではインチキと証明されている ─ あたりに落ち着くのである。

 第四には、住民に及ぼした被害、特に家屋などの被害があった場合の責任は誰か、ということである。
 日本軍は首都攻略の被害のだいなることを恐れ、オープン・シティ(非武装都市)にすることを蒋介石総統や唐生智将軍に勧告している。しかし、この勧告は拒否された。しかも、総統や将軍たちは市民や敗残兵を後に残して逃げてしまったのだ。日本軍が到達する前に秩序はなくなり、敗残兵の天国になっていたのである。
 この前の大戦で、パリの争議が行われたが、最初、敗れたフランスがオープン・シティ宣言をし、パリの町も無傷で残った。首都の死守は、防衛する側にもその被害の責任がある。この点、日本軍がマニラ死守をやって、市民や町に被害を与えたのは、日本軍の責任が大きい。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          東亜局長時代──中日事変

 南京アトロシティーズ

  南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危ないとさえ報ぜられた。1938年(昭和13年)1月3日の日記にいう。

 上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
 南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。

  私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりにも大量な暴行なので、手のつけようがなかったのだろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和13年1月末、数日間の出来事として、70余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正 のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。

 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。

  日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千子の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                      第二部 南京攻略戦
「南京大虐殺」とは
”処刑”
  翌日(12月16日)新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだ し、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が背後から突き貫く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。
 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。

 私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があるだろう。しかし今は人間ではなく物質として扱われている。
 交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。
 私は辛うじて10人目まで見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。

 ・・・


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