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南京事件 『ラーベの日記』 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーー

                          「南京の人口20万人」について No2

 ここでは、南京市の人口が20万人、という下記のような主張の二つ目の問題を、
『ラーベの日記』の記述をもとに考えたいと思います。

 ”南 京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領 後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたり するでしょうか。

  ”12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。

 でも、『南京安全区国際委員会』は「南京の人口」を「20万人」などと発表はしていません。『ラーベの日記』でも、問題にしているのは安全区の「難民」です。ラーベが委員長をつとめる南京安全区国際委員会の 12月18日の「日本大使館宛公信(第7号文書)」には


拝啓 陳者貴国軍隊は難民区内にて引続き狼藉を働き全く安かならず20万難民は苦痛に呻吟致し居り候 当委員会は貴大使館を通じ貴国軍事当局に対し迅速且有効なる行動を採り不幸なる事態を阻止せられんことを御伝達相成様要請せざるを得ざる次第に候
とか、
6日貴国軍隊が司法部大楼より数百名を虜にし又警察官50名を虜と致し候 この程局勢を若し明澄にせざれば難民区内20万の市民の生命は絶対に保障無之候


とあるのです。「難民区内」という言葉を見落としたのか、意図的に「難民区内20万の市民」を「南京の人口」に読みかえたのかはわかりませんが、南京安全区国際委員会は「難民」を保護の対象として、様々な取り組みをしたのであり、ラーベも、常に「難民」のことを考えていたことは、日記でも明らかです。

 ラーベは、下記のように「11月28日」に「警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした」と書いていますが、これは12月6日の「なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ」という文章や「ここに残った人は、家族を連れて逃げたくでも金がなかったのだ」などという文章と考え合わせると、もとから南京城内に住んでいたが、逃げられかった貧しい人たちの数であると思います。それを確かめるため、12月1日に、「南京に残っている住民」について、「残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう」と書いているのだと思います。
 城外から避難してきた難民ではなく、もとから城内に住んでいた住民がどれくらい残っているのか、その数が定かではなかった、ということではないでしょうか。
 12月2日には、「我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします」と日本からの電報をもたらしたフランス人、ジャノキ神父宛の電報に書いています。12月2日は南京陥落前です。「始まった」ということは、その後も流入が続いたとうことだと思います。12月4日には、「難民は徐々に安全区に移りはじめた」と書いています。南京安全区国際委員会が保護すべき難民の数が増えているということだと思います。12月7日には「城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている」とあります。中国軍の清野作戦で家を焼かれた人も安全区に入ってくることになったのだと思います。
 特に見逃すことができないのは、12月8日の文章に、「何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている」とあり、「城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる」とも書いることです。城壁の外からも安全区に人が入ってきたのです。
 したがって、南京安全区に避難してきた難民の数が予想を超えたことは、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)に収録されているラーベの「ヒトラーへの上申書」の「難民の収容」と題された部分に書かれています。下記の文章です。


その二、難民の収容。その間にも難民はぞくぞくと安全区に流れ込んできま した。私たちはまず城壁にポスターを貼り、安全区の友人の家においてもらうよう、それからじゅうぶんな夜具と食料をもってくるように指示しました。つぎ に、もっと貧しい人のために、いまやほうぼうにある空き家や入居前の新築の建物を明け渡し、さいごに極貧の人々、いわゆる「老百姓(ラオパイシン)」 に、アメリカ伝道団の学校や大学などの大きな建物を開放しました。そのおかげで、恐れていた「ラッシュ」、つまり難民の殺到を避けることができたのです。 このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでし た。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはな んと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい 人たち、食べる物さえない6万5千人を、25の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千6百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませ んでした。かれらはそれで生きのびなければならなかったのです。
 事態がいよいよ深刻さをましてきたうえに、安全区の保護を要請した私の手紙に対する日本当局からの返事がなかったので、総統閣下にあてて(11月25日に)私はつぎのような電報を打ちました。(電報の内容は『ラーベの日記』No1の11月25日)”

 また、同じヒトラーへの上申書の中で、ラーベは南京の人口に触れ、下記のように書いています。
”青島から先は順調で、済南経由の列車で南京に向かい、9月7日に到着しました。
 私が7月に発ったときには、南京の人口は135万人でした。その後8月なかばの爆撃の後に、何十万もの市民が避難しました。けれども各国の大使館員やドイツ人軍人顧問はまだ全員残っていました。

 以上のようなラーベの文章から、ラーベがヒトラー総統宛てに打ったという電報の中の、「目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります」という文章の「20万」という数字を根拠に、あたかも「南京の人口が20万人」であったかのような主張にをすることには疑問が残ります。
 ラーベの文章の中の数字を単純に計算すると、もともと南京の人口は「135万人」であり、そのうち「約80万人という恵まれた市民」が避難したのですから、当時の南京の人口は55万人になり、難民として国際安全区に入った人が25万人ということになるのではないかと思います。
 ラーベは、それらの数字の意味や根拠は示していませんので、当時の南京の人口が「20万人」であったというためには、『ラーベの日記』や『南京安全区国際委員会』の文書も含め、様々な資料をもとに、きちんと検証することが欠かせないと思うのです。

 そうした避難民に関する記述とともに、ラーベが中国軍の考え方や南京の行政に強い不満をもっていたことも見逃してはいけないことだ思います。
下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)からの抜粋です。
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11月28日
 昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。
”防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合にそなえている」という答が返ってきた。
 次ぎにもしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は、「そのときは日本人がすればよい」というものだった。
 言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは……。さすが、賢明なお考えだ!
 神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば! 本格的な攻撃が始まったら、どんな悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。
 ・・・
 ミ ルズがいった。客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。それより穏やかに明け渡した方がよいのではないか。できるだけ早いうちに中国の最高権力者であ る蒋介石と唐将軍にそのことを伝えるべきではなかろうか。だが、杭立武の意見はちがう。今はその時期ではないというのだ。結局、日本政府から承認されるま で待とうということになった。
 ・・・
 会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。もっともこれはすぐに解決した。
 寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。
 二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答が返ってきた。「できるだけ長く」
 つまりずらかるということだな!

12月1日 
 ・・・
  18時 会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、われわれの責任は重大だ。それにつ いては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るようすすめる文面は、ひじょうに慎重でなければならない。いちど、 残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
 ・・・
12月2日 
 フランス人神父ジャノキを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャノキは上海に安全区をつくった人だ。

 電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
 11月30日の貴殿の電報の件
 以下は南京安全区委員会にあてられたものです。
  「日本国政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局は いささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」

  ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりした拒絶とみなしている。だが、我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質をとられないよう 用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。結びの一文「当該地区 を尊重するよう、努力する……云々」は、ひじょうに満足のいくものだ。

 アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。

 「南京の安全区国際委員会の報告をジャノキ神父に転送してくださるようお願いします。
  「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめてお ります。中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報 告いたします。しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。

  日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接委員会に通知してくだされば、難民の不安を和ら げるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
                             ジョン・ラーベ   代表」
 ・・・

12月3日
 ・・・ 
 …ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。
  ドイツ大使館南京分室  漢口発 37年12月2日 南京着 12月3日
  東京12月2日
日 本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。また、国民政府がその権力を行 使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本 政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。
ザウケン
 ・・・
  防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに、安全区の3ヶ所に新たに塹壕や高射砲台を配置する配置する場が設 けられている。私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて 撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。

12月4日
  どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹 壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間 も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルくらいしか離れていないところにいくつもの爆弾が落ちたのだ。
 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようと、繰り返し書き立てている。この赤新聞は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。

12月5日
 ・・・
 アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャノキ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋はかわらない。つまり、日本政府はまた
拒否してきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
 ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!
  「とうてい無理だ。どんなに早くても2週間後になる。」だと? そんなばかなことがあるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではな いか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることなど考えられない。せいぜい「難民区」だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる 文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない…。

・・・

 ロー ゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方がずっと安全だと 思っているからだという。そのとおりだと言い切る自信はない。しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。

12月6日
  ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。残りの人々もいつでも乗りこめるように準備している。われわれの仲間だけが拒 否した。これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領さ れる前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。

 黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
  「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたが たが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」
 
  これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない! しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている! ここに残った人は、家族を連れて 逃げたくでも金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という 恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか? どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないん だ?

 ・・・

12月7日
 昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい5時ころ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが「蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後に会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
 あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。

 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
  これから文字通り無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所 で食べ物をもらうことになるだろう。約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に 挑発されてしまった。
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 城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。… 
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12月8日
 ・・・
 2 年ほど前、トラウトマン大使が北戴河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党 の地方支部長代理をしていたのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪から駒が出た。といったからといって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になど なれないのはわかりきっている。しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務をな にからなにまでやらざるをえなくなったいま、私は事実上「市長代理」のようなものになったわけだ。まったくなんてことだ。

  何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてく る。まだ泊まるところがみつからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張してい るが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きは らわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少し も実が挙がらないからだ。
 




ーーーーーーーーーーーーー「南京の人口20万人」について No3ーーーーーーーーーーーーーー

 南京市の人口が20万人、という下記のような主張の三つ目の問題を考えたいと思います。それは、「南京市」の地理的範囲の問題です。

 ”南 京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領 後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたり するでしょうか。

  ”12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。

 この「南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした」というときの「20万」は、ラーベを長とする南京安全区国際委員会が安全区で保護しようとした難民の数です。「南京市」の人口ではないということです。ラーベが使っていない「南京市」という言葉を使い、「20万」を「人口」と解釈することには、問題があると言わざるをえません。ラーベは日記の11月25日に、ジーメンス社との電報のやり取りを下記のように書いています。

”上海の中国本社からドイツ大使館に私あての電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス・上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るように勧める。そちらの予定を電報で告げよ」
私は大使館を通じて返事をした。
「ジーメンス上海へ。ラーベより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。20万をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」

  「20万をこす非戦闘員の保護のため」というような文章中の数字を、南京市の人口に読みかえてはいけないと思うのです。11月22日の国際委員会の会議で「代表」に選ばれて以来、ラーベはこの「20万をこす非戦闘員の保護のため」に様々な取り組みをしたのです。11月24日には、次のような記述があります。

ロ イター通信社がはやくも国際委員会の計画について報じた。すでにきのうの昼、ローゼン(駐華ドイツ大使館書記官)も、ラジオで聞いたという。それによる と、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海 のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。

  当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーベ代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘 行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝 有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
 ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
 私の手元にはザッツブーフしかありません。よってこれを東京に転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。
 
 この「非戦闘員にのみ安全な避難先を提供する」という「非戦闘員」の人数を「20万」と想定したのだと思います。

 ところが、ラーベや南京安全区国際委員会は、想定した「20万」という数字の根拠は示していません。また、「南京」についても、その範囲については、何も語っていません。
 したがって、「南京市」の地理的範囲は、中国の行政区画が日本の行政区画と異なることを踏まえて理解されなければなりません。
 行政区としての南京は、「南京特別市」と呼ばれるようですが、近郊6県(六合県 江浦県、江寧県、句容県、漂水県、高淳県)を含みかなり広範囲です。その広さは、東京都、埼玉県、神奈川県を合わせた面積に匹敵するといいます。「南京特別市」の場合、市の中に県を含むのです。

 南京市の人口を問題にするのであれば、日本軍と戦う中国軍が「清野作戦」を展開したため、街道沿いや城壁周辺の住民が多数難民となり、南京城内に避難してきたのに加えて、日本軍の南京進撃戦から逃れるために、広大な地域の県城からも難民が移動してきたことを無視してはいけないと思います。だから「20万」という数字は「30万」虐殺否定の根拠にはできないと思うのです。
 また、捕虜や投降兵や市民の虐殺は、南京城内だけではなく、南京攻略に向かった時点からの南京行政区を対象に考えるべきではないかと思います。「南京戦」ということで南京城区に範囲を限定するのはいかがなものかと思うのです。中国軍は南京城を防衛するために郊外にもあちこちに陣地を作って日本軍と戦いました。したがって、戦闘や虐殺も郊外が多かったのです。
 捕虜の虐殺と考えられる第16師団第9連隊第3大隊片桐部隊の向井少尉と野田少尉の「百人斬り競争」も、「無錫」からはじめて、それぞれ無名部落や横林鎮、威関鎮、常州駅などで百人斬り競争を進めたといいます。そして、向井少尉が「この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ」と言ったことが大阪毎日新聞の記事になっているのです。「無錫」は南京城からはかなり離れており、どちらかというと南京条よりも上海に近いのではないかと思います。

  笠原教授は、大本営が南京攻略戦を下命した時の日本軍の侵攻地点をもとに、地理的範囲を南京行政区とされています。それは、集団虐殺が長江沿い、紫金山山 麓、水西門外などに集中していること、投降兵あるいは便衣兵容疑の者が城内より城外へ連行され殺害されたこと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた 多数の市民が巻き添えとなっていることなどを根拠にされています。
 
 洞富雄教授は『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社)の中で、中国兵の虐殺については、行政区としての南京市全域を考えるべきで、この場合、被虐殺者はとうてい「数千名」程度ではなかった、と書いています。そして、明らかにされている日本側の戦闘詳報や陣中日誌、陣中日記、手記など信憑性の高い同時代資料のほぼ全てを列挙し、それらを合計して、捕虜と連行された「便衣兵」の虐殺約10万3700人、掃蕩戦で殲滅された投降兵3万600人、合わせておよそ13万4300人の中国兵が虐殺されたとしています。これらの数字の中には誇張されたものも含まれているであろうが、逆に、信憑性が疑われ、これに含めなかった虐殺や、こうした資料の残されていない虐殺も相当数あったはずだとして、「これはおどろくべき数字であることは事実だ」と書いています。日本側の資料だけで、13万4300人の中国兵虐殺の記述が確認できるというのです。一般民間人の殺害・虐殺に関しては、日本側にはほとんど資料がないことも考慮しなければならないと思います。

  中国で日本軍について取材を重ねた本多勝一氏は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらなかったとして、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを「南京大虐殺」の地理的範囲とされています。

 そう考えると「20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう」というような主張は、全く的外れで、意味がないということになります。当時、人口はきわめて流動的であったということや、虐殺は南京城内だけではなかったということを無視してはならないということです。

 また、「日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです」ということが、根拠のない勝手な推察であることを、洞富雄教授は『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社)『第三章「南京大虐殺の数字的研究」の非論理』中で指摘しています。
 「ラーベの日記」や「南京安全区国際委員会」の文書の中に、そうした記述が見当たらないだけではなく、逆に、日本軍の南京占領後、下記のような被害に関する記述や抗議、要請の記述があることを見逃してはならないと思います。

 例えば、南京入城式(12月17日)の翌日、11月18日の「ラーベの日記」には、

最 高司令官がくれば治安はよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころかますます悪くなっている。塀を乗り越え てやってきた兵士たちを、朝っぱらから追い払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐさやにおさめた。
 私が家にいるかぎりは、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。…”

とあります。

 NO1~NO3をまとめると、「日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう」という「20万」は南京安全区国際委員会の難民の想定数であって、南京の人口ではないということ、また、その「20万」は「
非戦闘員」であり、城外で虐殺された多数の捕虜や投降兵が含まれていないということ、さらに、南京の人口は、南京城内の人口に限定すべきではないということです。

ーーーーーーーーーーーー南京事件 『ラーベの日記』 NO4ーーーーーーーーーーーーーーーー

 ラーベを「長」とする南京安全区国際委員会は、安全区に避難してくる多数の難民を保護するために、日夜奮闘しました。ラーベの日記を読めば、それがよくわかります。
 日本軍が南京に迫ってくると、約束通り撤退しない中国軍に対する様々な不満が、『ラーベの日記』には記されるようになります。そして、日ごと、より強い調子で中国軍を非難する姿勢が見られるようになりますが、それは安全区に避難してきた非戦闘員の難民を保護しなければならないと考えていたからだと思います。
 『ラーベの日記』には、たとえば、
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 防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させる約束をした。それなのに、安全区の三カ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている。私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。(12月3日)
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 黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役にたてることができたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長の側近の高官ときている。ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
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 なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか、貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!
 防衛についても話し合った。私は必死で弁じた。ファルケンハウゼン将軍はじめ、ドイツ人顧問は口をそろえて防衛は絶望的だといっている。もちろん、形だけでも防衛はしなければならないだろう。司令官にむかって、むざむざ明け渡せなどといえないことくらい百も承知だ。面目を保ちたいのもわかる。だが、南京を守ろうとする戦い、この町での戦闘はまったくばかげたことであって、無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない! …だが、何の役にも立たなかった。私には説得力がないのだ!(12月6日)
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 …唐の魂胆はわかっている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。だから国際委員会、ないしはその代表の私、ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!(12月12日)
ーーー
というような文章があるのです。

 ところが、こうした文章をどのように受け止めているのか、「…この委員会を構成する15人の第三国人は、いずれも当時の言葉で言う”敵性国人”で、日本の中国進攻に憎悪と敵意を抱き、中国に軍事援助その他物心両面の支援をしている国の国民…」とか、「彼らの作成した多くの資料は、ほとんど伝聞ないし噂話によるものである」とか、「日本軍の非行に関しては、なんら検証することなく、すべてを事実と認定してこれを記録した」などと主張し、ラーベや難民保護を目的に結成された南京安全区国際委員会の活動を抗日的なものであったとする人たちがいます。
 
 でも、ラーベはドイツ人なのです。そして日本は、南京陥落前に、すでに日独防共協定(1936年)を、その翌年には日独伊防共協定(1937年)を締結しています。それが後に日独伊三国間条約に発展するのです(1940年)。したがって、ラーベを「適性国人」というのは、ちょっと違うのではないかと思います。蒋介石政権を支援する米英と日本の対立関係は深刻になっていましたが、ドイツとの関係は逆に深まりつつあったと思います。
 「日独が真に同盟関係に入るのは、リッペントロップが外相に就任した昭和13年以降である。現にドイツは米、英と共に蒋介石を援助する軍事顧問団を置き、第二次上海戦の陣地構築を指導している」というのは、少々事実に反する面があると思うのです。日独防共協定(1936年)締結以降、ドイツと中国の関係は徐々に冷え込んでいったのではないでしょうか。「真に」という言葉をはさんで、日独が敵対関係にあったかのような言い方をするのはいかがなものかと思います。

 ドイツ人であるラーベは、日独が協定締結国であり、敵対関係ではなく、同盟関係といえる状況になっていたから、南京安全区国際委員会の代表を引き受け、ハーケンクロイツをいろいろな場面で利用したのではないでしょうか。また、上海ドイツ総領事館を通じてヒトラーに、非戦闘員の中立区域設置に関する日本政府への働きかけを依頼する電報を打ったり(11月25日)、ヒトラーに「上申書」(1938年6月)を書き送ったりしたのだと思います。

 再び『ラーベの日記』から、日記の一部を抜粋します。
ーーー
 19、20日と続いたすさまじい爆撃の間、私は自分で作った防空壕に中国人たちと一緒に潜んでいた。爆弾が落ちても大丈夫というわけではないが、榴散弾の炎や散弾からは守られる。庭には縦横6×3メートルの大きさの帆が広げてある。これにみなでハーケンクロイツの旗を描いたのだ。(9月22日)
ーーー
「寧海路5号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった」(11月28日)
ーーー
 これを読んでふたたび勇気がでた。ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府にこの上ない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人のなかにもいない。総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!(11月29日)
ーーー
 18時 
 日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入っていた。門扉を内側から開けようとしている。なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐひっこめた。(12月19日)
ーーー
 これらの記述は、深まる日独の関係抜きでは理解できないのではないかと思います。

 下記のように言う人もいます。
”…南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
 彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
 「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
 と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
 またラーベは、同じ日に、
 「日本兵たちは、市内をめぐり、10~20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
 と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
 「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
 また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。”
 
 しかしながら、ラーベが調べたという「背後から撃たれたらしい民間人の死体」が、ほんとうは「中国兵の死体であった」という事実は、いったい誰が確認したのでしょうか。

 また、日本兵が『挑発』した場合に「つねに代価を支払ってきた」という事実を示す根拠はあるでしょうか。南京戦を戦った優に10万を超す(20万ともいわれる)日本兵が、生きていくため毎日のように行った挑発で、「つねに代価を支払ってきた」のであれば、大変な支出になると思われますが、そうした記録や日本兵の証言はどこにあるのでしょうか。多くの挑発の記録に「代価を支払った」記述がなく、また、南京戦を戦った日本兵に「代価を支払った」証言がほとんどないのはなぜでしょうか。「つねに代価を支払ってきた」という根拠を、きちんと示してほしいと思います。

 さらに、
”ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。”
とか
ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
 このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。”

とまで言う人がいます。安全区に避難してくる「非戦闘員」を保護すべく、日夜奮闘した南京安全区国際委員会代表のラーベは、「南京のシンドラー」ともいわれます。それを、金儲けが目的の「武器商人」であるとか、「反日攪乱工作を手伝っていた」というような主張をするのであれば、否定しようのない確実な証拠がなければならないと思います。
 ドイツ・ジーメンス社が南京支局長であったラーベを通じて、中国国民党に武器を売りつけていたという記録があるのでしょうか。また、ラーベが手伝っていたという「反日攪乱工作」とはどういうものだったというのでしょうか。
 『ラーベの日記』の「ヒトラーへの上申書」に添えられた文章には
ーーー
 南京電力会社のタービンは我が社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央病院の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警報装置も。これらを管理していたのは我が社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。
ーーー
などとあります。もちろん武器取引にかんする記述などは『ラーベの日記』のどこにもありません。

ーーーーーーーーーーーーーーーー南京事件 『ラーベの日記』 No5ーーーーーーーーーーーーーーーー

 『國亡ぼす勿れ-私の遺言』田中正明(講談社)「第一部、南京大虐殺はなかった」の中に、”ラーベ日記の虚妄 「南京の真実」は真実か?”と題する文章があります。その中に、下記のような気になる一節がありました。(この文章はhttp://www.history.gr.jp/nanking/rabe.htmlでも読むことができます)
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 ・・・
  筆者はこの2人の教授と違って、ジョン・ラーベの日記なるものを、むしろマユツバものでないかと見て、全然信用しようとは思っていなかった。
ーーー
というところです。そして、『ラーベの日記』の資料価値を高く評価した秦郁彦千葉大教授と笠原十九司宇都宮大教授を批判し、下記のように指摘していますが、私は的外れだと思います。
 なぜなら、田中氏の「重要事項の欠落」という「とらえ方」そのものが間違いではないかと思うからです。
 ラーベは、日記を書いたのであって、「南京事件」や「南京大虐殺」というテーマの歴史書や研究書を書いたのではないということです。
 南京安全区国際委員会の代表として、日々、安全区にの非戦闘員保護のために奮闘し、身の回りで起きている略奪や強姦、一般市民や武器を捨て戦う意志を持たない敗残兵の殺害を何とかしたいと思いながら日記を書いていたのです。そう言う意味で、『ラーベの日記』は一貫しています。
 したがって、田中氏が挙げた4つの項目は、それぞれに問題を含んでいると思います。一つずつ考えたいと思います。まず、1で、田中氏は、 
ーーー
重要事項の欠落
つまり、両著ともにいわゆる「日記」ではなく、ラーベが目撃した事実をそのまま記述したものでもない。
  その多くは、他人から聞いた内容、あるいは推測等によるラーベの後日の「創作」なのである。
  それよりもまず第一に、日記と称しながら肝心な事項が欠落している点である。
  それも虐殺否定につながるような重要事項をことさらに避けているかにみえる。

 1、国際委員会は安全区を「非武装中立地帯」にするよう日本軍に申し入れたが、12月5日、日本軍は米国大使館を通じて、公式にこれを拒否した。その理由は次の3点である。

A、南京自体が1つの要塞と化しており、しかも安全区はその中心部にあたるが、そこには何らの自然の障害物もなく、境界も判然としない。
B、政府要人や高級軍人の官邸が多く、いかなる兵器や通信機器が隠匿されているやもはかり難い。
C、委員会自体が何ら実力を有せず、武装兵や便衣兵を拒絶するだけの厳正な中立態度を望むことは困難である。(注1)

 ラーベ日記には、このことは全然触れていない。
  ただ12月3日の日記に、『安全区内の三ヶ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている。
  私は唐生智の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」とおどしてやった。
  するとこちらの要望通りすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間かかるという但し書きがついていた』とある。
  日本軍の危惧を裏付けている
ーーー
 と書いています。でも、ラーベにとって、問題は、前述したように日本軍の情勢分析や「非武装中立地帯」に関する日本軍のとらえ方や考え方ではなく、目の前の現実です。だからラーベは、12月2日にすでに、次のように書いています。
ーーー
 フランス人ジャキノ神父を通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
11月30日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。
「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちをい犯そうと、当局はいささかの隻も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該ちくを尊重するよう、努力する所存です」
 ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりと拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質をとられないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存…」は、ひじょうに満足のいくものだ。
ーーー
 したがって「ラーベ日記には、このことは全然触れていない」というのはちょっと違うのではないかと思います。確かにラーベは、「非武装中立地帯」の申し入れに対する日本軍の拒否理由については、その詳細を記していません。でも、「当該地区を尊重するよう、努力する所存…」という日本からの電報の結びの一文に着目し、評価して、「非戦闘員保護」に望みをつないでいるのです。
 2で、田中氏は  
ーーー 
 2、12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に「降伏勧告のビラ」を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。
  その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した、そして唐生智司令官の使者を中山門で待った。
  しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。
  明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える・・・』全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。
ーーー
 松井軍司令官が、占領翌日の14日に、「安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可無き者の入区を禁止」すると約束したことについては、12月15日に「司令官からの返事は、次の議事録に記されている」というかたちで触れています。「このこともラーベ日記にはない」というのは、ちょっと違うと思います。そして、ラーベにとっての関心事が、とにかく身の回りでおこる略奪や強姦、「非戦闘員」殺害などの事件であり、現実の問題であったことを忘れてはならないと思います。
 ラーベが詳細に記述した、そうした日々の出来事を、根拠なく”後日の「創作」”と決めつけるのもいかがなものか、と思います。
 ラーベにとっては、「非戦闘員の保護」に直接結びつかない日本軍および中国軍の作戦やその展開、公式上の約束などは、当面、日記に記述するような問題ではなかったのではないかと思います。したがって、日本軍の「降伏勧告のビラ」や「休戦」について、ラーベが日記に何も書いていないことは、現実に様々な事件が発生していれば、それほど不思議なことではなく、「重要事項の欠落」などというようなものではないと思うのです。ラーベは戦争のどちらか一方の当事者ではないのです。だから、「戦い」そのものに関しては、努めて中立的な立場をとっていたし、その成り行きにもあまり関心を示してはいません。
 3で、田中氏は、
ーーー
 3、「支那軍による焼き払いの狂宴」と題してニューヨーク・タイムズのダーディン記者は次のようにレポートしている。
  「12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。(中略)南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。・・・農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた(中略)支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい・・・」要するに蒋介石の「空室清野作戦」である。
  同じ国際委員会の一人である金陵大学教授のベイツ博士(米)も東京裁判の証人として出廷し、この城壁外市街地の焼き払いのすさまじさについて述べている。(AⅠ=212ページ)しかるにラーベの日記にはこれについてほとんど触れていない。
ーーー
 と書いています。そうでしょうか。確かにラーベは中国軍の「空室清野作戦」の詳細は書いていません。でも、12月8日の記述の中で、中国軍を非難しつつ
ーーー
 何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところがみつからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。                              ・・・
ーーー
と書いています。やっぱり「ほとんど触れていない」というのはちょっと違うと思います。繰り返しますが、ラーベは戦争の一方の当事者ではなく、非戦闘員保護を目的とする南京安全区国際委員会の代表です。日本軍や中国軍の作戦やその展開の詳細が問題ではないのです。「非戦闘員を、安全区できちんと保護する」という観点から、中国軍の「空室清野作戦」を見ていることを見逃してはならないと思います。
 4で、田中氏は
ーーー
4、日記には、蒋介石や馬超俊市長が12月7日に飛行機で逃亡し、守備司令官唐生智が12日に逃亡したことは記述しており、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして逃亡したその無責任ぶりについては若干ふれている。
  松井軍司令官は、安全区を中立地区とは認めなかったが、この安全区の砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可無き者の入区を禁止して庇護した。
  このこともラーベ日記にはない。南京一番乗りで有名な脇坂次郎大佐が、14日、安全区視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったことを、大佐は東京裁判で供述している。
  それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのである。
  しかるにラーベの16日の日記によると『今ここで味わっている恐怖に比べれば、今までの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。
  安全区外にある店で略奪を受けなかった店は一件もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区内にも及んできている、外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。』とその暴虐ぶりをるる述べている。
  ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。
  また、ラーベは『日本兵はモーゼル拳銃をもっていた』というが(318ページ)当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もない。
  支那兵の間違いである。アメリカの南京副領事館エスピー氏は東京裁判への提出書類の中で次のごとく述べている。
  「ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に略奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑いなく彼らにより人および財産に対する暴行・略奪が行われたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いたるべし」(AⅠ=290~1ページ)
  ラーベの日記にはこうした数千人の敗残兵が安全区内に闖入(ちんにゅう)し、常民の衣服を奪うため殺傷したり、略奪・暴行のかぎりをつくし、殺人まで犯した、などという狼藉のことなどは記述してない。
ーーー
 まず、田中氏は「松井軍司令官は、安全区を中立地区とは認めなかったが、この安全区の砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可無き者の入区を禁止して庇護した
  このこともラーベ日記にはない
というのですが、現実には多くの被害が発生し、「庇護」できていなかったということを見逃しているとうことです。松井司令官自身がそのことを指摘しています。
 「戦争の流れの中に」前田雄二(善本社)のなかに、12月18日、故宮飛行場で行われた陸海軍の合同慰霊祭における松井司令官の訓示が紹介されていますが、松井司令官は、
ーーー
 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
 「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
 「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
ーーー
と言っているのです。
 また、田中氏は”強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない”というのですが、そういう野蛮なことが、中国では風習として行われていた、ということがあるのでしょうか。日本人だけは、そういうことはやらないという根拠はなんでしょうか。ニューギニアやフィリピンのネグロス島などで発生した日本兵の人肉食事件なども、風習で説明できるでしょうか。
 さらに、「ラーベは『日本兵はモーゼル拳銃をもっていた』というが(318ページ)当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もない
というのも、根拠が必要です。逃げ遅れた中国兵の多くは武器を捨て、軍服を脱ぎ捨てました。日本兵が「モーゼル拳銃」を手にいれることは、難しくなかったのではないでしょうか。さらに、「数千人の敗残兵」が「常民の衣服を奪うため殺傷したり、略奪・暴行のかぎりをつくし、殺人まで犯した」という指摘にも、少々違和感があります。「略奪・暴行」があったことは事実でしょうが、「略奪・暴行のかぎりをつくし」や「殺人まで犯した」というのであれば、推察ではなく、根拠を示す必要があると思います。
 ラーベはそうした極端な事実ではありませんが、部分的にそうした中国兵の犯罪的な事実も記述しています。
 また、田中氏は
ーーー
「安全区」は平穏無事であった

 もう一つ重大な欠落がある。国際委員長であるジョン・ラーベは委員会を代表して次のような感謝の書簡を日本軍司令官におくっている。(12月14日)
  「拝啓、私どもは貴下の砲兵隊が安全区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下(松井軍司令官)と連絡を取り得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」(速記録210号)
  ラーベの日記には、この自分が書いた日本軍に対する「感謝の書簡」について一行もふれていないということは、一体どうしたことか?反対に日本軍は暴虐の限りを尽くしたと言い、編者ビッケルトはこれを補足して『便衣兵狩りが一般市民を多く巻き込み、大虐殺を生んだとの見方がある。ともかく、日本兵は安全区まで入り込み、殺戮を繰り返したのである』と書いている。
ーーー
 と書いていますが、「感謝の書簡」について、ラーベが日記でふれていない理由は、下記のようなヒトラーへの上申書に添えられた文章で、察することができるように思います。ラーベは、「非戦闘員の保護」に取り組みつつも、日本との関係を悪化させてはならないと気をつかっていたのです。
ーーー
 ぜひ申し上げておきたいのは、私は日本人に感謝してもらわなければならないということです。といいますのは、南京難民区の国際委員会が日本大使館へ提出しなければならなかった数多くの苦情や抗議書を出すにあたり、その代表として私は当初から手加減するよう心がけてきたからです。その理由は、ほかでもない、私がドイツ人だからです。ドイツ人として、私は同盟国である日本との友好関係を維持したいと望みましたし、またそうしなければなりませんでした。その結果、親しくしていたアメリカ人の委員会メンバーの間で、「抗議書を発送する前に、ラーベさんにすこし手心を加えてもらっておいた方がいいよ」といわれるまでになりました。それでも、日本大使館あての書状が2、3きわめてきびしいものになったのは、日々繰り返される日本兵の殺人、略奪、傷害、放火のあまりのすさまじさに、そうするよりなかったからです。
ーーー
 また、ラーベは12月5日に、下記のように書いています。非戦闘員を保護するために、懸命に頑張っていたことがわかります。ラーベにとっては、非戦闘員を保護こそが大事であって、決して中国軍の立場に立っていたのではないということです。
ーーー
 ベイツ、シュペアリングといしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!
 「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと? そんなばかなことがあるか! それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることなど考えられない。せいぜい「難民区」だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない。

ーーーーーーーーー南京事件 『ラーベの日記』 No6 ヒトラーへの上申書ーーーーーーーー

 『國亡ぼす勿れ-私の遺言』田中正明(講談社)「第一部、南京大虐殺はなかった」の中に、”ラーベ日記の虚妄 「南京の真実」は真実か?”と題する文章があります。その中で、著者の田中正明氏は、見過ごすことのできないことをいろいろ書いています。だから、気になる部分を書き出し、「ラーベの日記」の記述をなどをもとにして、その理由をまとめておきたいと思います。

 まず、「殺人事件は僅かに49件」としています。そして、「大虐殺などどこにもない」というのです。でも、安全区からくり返し連行された中国兵(武器を捨て戦うことを放棄して安全区に逃げこんだ中国兵)や中国兵と見なされた市民などは、その後どうなったのでしょうか。解放されたという事実があるでしょうか。それとも、武器を捨て戦うことを放棄した兵であっても、元中国兵であれば、連行して組織的に殺害してもよいというのでしょうか。

 例えば、『ラーベの日記』の12月15日には、
”残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は1300人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の3人でなんとか助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ100人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。射殺されるにちがいない。"

12月16日には、
たったいま聞いたところによると、武装解除した中国兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区にいれたというかどで、処刑されたという。”
というような記述があるのです。そして、虐殺の多くが、南京城外で行われたことを忘れてはならないと思います。だから、「殺人事件は僅かに49件」というのは、そうした連行され組織的に殺害された人たちを含んでいない数字であるといわざるを得ません。同書には、「連行390件」とありますが、「49」という数字は、その連行された人たちの殺害を無視した数字ではないでしょうか。

 また、田中氏は「日独が真に同盟関係に入るのは、リッペンドロップが外相に就任した昭和13年3月以降である」として、「ラーベの日記」を当時同盟国であった人の指摘で信憑性が高いと評価した笠原教授や秦教授を批判しています。でも、前にも書いたように、南京陥落前の1936年(昭和11年)に、日独は日独防共協定を、その翌年の1937年(昭和12年)には、日独伊防共協定を締結しています。だから、ドイツ人であるラーベは間違いなく同盟国の人であり、それ故、南京安全区国際委員会の代表にもなったし、何回もハーケンクロイツを利用することができたのだと思います。
 それは、『ラーベの日記』の12月13日の、下記のような記述にもあらわれていると思います。
日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は、近所の家から、14歳から15歳の娘が3人さらわれたといってきた。ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。”

 また、田中氏は、
ラーベの所属するシーメンス社は、兵器や通信器を製作する有名な武器会社=死の商人である。ラーベの納めた高射砲は当時日本にもない優秀なもので、ラーベはこれらの兵器を売り込むため、南京出張所長を勤めていたのである。”
というのですが、この件も前に書いたように、ラーベは、ヒトラーへの上申書の中の文章で、
南京電力会社のタービンは我が社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央病院の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警報装置も。これらを管理していたのは我が社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。この人たちをはじめ、事務所の従業員、何十年も私の家で働いている使用人、それから中国人マネージャーなどが、家族を大ぜいひきつれて私のまわりに集まっておりました。”
と書いています。それが事実に反し、シーメンス社が武器会社であり、ラーベが武器を売り込むために南京出張所長を勤めていたというのであれば、それを示す根拠が必要ではないでしょうか。また、ラーベが高射砲を納めたという物的証拠は何かあるのでしょうか。こうした文章を書くのであれば、それなりの資料を明示すべきではないかと思います。
 シーメンス社は1800年代半ばにヴェルナー・フォン・ジーメンス によって創業された電信機製造会社「ジーメンス・ウント・ハルスケ」に端を発し、その後に「ジーメンス・ハルスケ電車会社」に発展して電車を製造するようになったといいます。そして、さらに情報通信、電力関連、医療、防衛、生産設備、家電製品等の分野などにも事業を広げ、複合企業として発展したようです。したがって、武器の生産と無関係ではないかもしれません。しかしながら、南京安全区国際委員会の代表をつとめたラーベを「武器会社」の「死の商人」であるというのは、かなり違和感があります。だから、資料を示して、その根拠を明らかにしてほしいと思うのです。

 さらに、田中氏の指摘で見逃すことができないのは、人口の問題です。田中氏は「殺人事件はたったの49件」に続いて、「人口は5万人も増加」と題して下記のようなことを書いています。
日本軍の虐殺によって、南京の人口が減少したというのならわかる。ところが実際は減少したのではなくて、逆に増加しているのである。
 次頁の表をごらん願いたい。これは事件当時の記録で、第一級の同時資料である。すなわち南京安全区国際委員会が、日・米・英・独大使館にあてた61通の公文書の中から人口問題にふれた箇所を抽出したものである。
 国際委員会としては、難民に給食するため、人口の掌握が必要である。12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記録していたのが、一ヶ月後の1月14日になると5万人増加して25万人になっている。
 以後2月末まで25万人である。すなわち南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が次々に帰還しはじめた証拠である。
 中国民衆は不思議なカンを持っており、テレビ、ラジオがなくとも、独自の情報網があるかあら市内の治安回復がわかるのである。正月を控えて、郊外に避難していた民衆が誘いあって次々と帰りはじめたのである。前述の朝日新聞の写真集にはその写真まで出ている。”
 でも、田中氏は、当初の「20万」という数字がどういう数字であるかについて検討されてはおられないようです。たとえば、ラーベ自身が、ジーメンス本社からの手紙に対する返事(1月14日)で、
”…私の家と庭だけでも600人以上の極貧の難民たちがおります。たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べ生きています。”
と書いているように、ラーベの家と庭だけで「600人以上」というあいまいな表現なのです。またラーベはヒトラーにあてた「上申書」の文章の「その二、難民の収容」のなかで、
このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない6万5千人を、25の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千6百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。かれらはそれで生きのびなければならなかったのです。”
と書いています”私たちはなんと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです”に明らかなように。「20万」という数字は「想定」の数字だったということです。

 また、ドイツ大使館南京分室事務長シャルフェンベルクの記録「南京の状況 1938年1月13日」にも、難民について

”…家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はがつがつその日をおくっている。多い所には600人もの難民が収容されており、かれらはここからでていくことはできない。安全区の外の道路には人気がなく、廃墟となった家々が荒涼とした姿をさらしている。食糧の不足は限界にきている。安全区の人たちは、すでに馬肉や犬の肉に手をだしている。…」

とあります。
 「一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした」とか、「藁小屋に寄り集まって、人々はがつがつその日をおくっている」というような状況で正確な人口調査ができるでしょうか。
 だから、南京安全区国際委員会の「25万」の数字に依拠して、「以後2月末まで25万人である。すなわち南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が次々に帰還しはじめた証拠である」というためには、きちんとした別の資料が必要だと思います。
 田中氏が「朝日新聞の写真集」を証拠としてあげて

”「皇軍に保護される避難民の群」がぞろぞろ帰ってくる写真がのっている

としたことに対しては、洞富雄教授による、下記のような厳しい批判があります。
だが、『朝日新聞』の縮刷版にあたってみると、「皇軍に保護される避難民の群れ」とあるだけであって、「ぞろぞろ帰ってくる」という字句はない。この写真を城外から復帰した市民を写したものとするのは、田中氏の推測にすぎないのである。これはむしろ「便衣兵」連行の写真のように見うけられる。一人として荷物を持つものがいないのである。城外の避難先から戻ってきた市民なら、そんなはずはない。”
 田中氏の
中国民衆は不思議なカンを持っており、テレビ、ラジオがなくとも、独自の情報網があるかあら市内の治安回復がわかるのである。正月を控えて、郊外に避難していた民衆が誘いあって次々と帰りはじめたのである。前述の朝日新聞の写真集にはその写真まで出ている。”
という指摘は、事実ではなく、田中氏の勝手な推測ではないでしょうか。

 「市民3000人が旗行列」と題された文章のなかでは、田中氏は下記のように、「ラーベという男は、よほどヘソ曲がりの男とみえる」と書いています。
ラーベの日記の12月30日には「新しく設立された自治委員会は、五色旗(冀東政府時代の中国国旗)をたくさん作った。1月1日に大がかりな公示がある。その時、この旗が振られることになっている……」
とある。
 実は、陶錫山を委員長とする南京自治委員会の結成式は、1月3日中山路の鼓楼で行われた。この日、鼓楼を中心に市民約3000数百人が、五色旗と日の丸の旗で盛大な旗行列を行い、結成を祝福した。画期的なできごとである。
 しかるにラーベはこのことを一行も記述しないばかりか、こう書いている。
「きのう(1月3日)またしても近所で3軒放火された。まこうしているうちにも、南の方で新たに煙がたちのぼっている。…」”
 しかし、これも前に書いたように、「避難民の保護」こそが大事なラーベにとっては、それほど不思議なことではないし、「ヘソ曲がりの男」というのも、かなり的外れな指摘だと思います。
 ラーベは、自治委員会について、1月2日に、
”日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で日かれた。演説者が協力ということばを口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。
 自治委員会の代表でありかつ紅卍字会のメンバー、孫氏がもったいぶって私にいった。「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」どうぞどうぞ!とっくに心づもりはできている。お宅たちがなにを狙っているかなんざ、お見通しだよ!”
また、1月6日には、
午後5時、福田氏来訪。軍当局によれば、我々の委員会を解散して、その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと、自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。資産を引き渡す?冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。「仕事を譲ることに関しては異存ありませんが、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。難民の住まいの大半は壊され、略奪されている。焼きはらわれてしまった家もあるのだ。
 さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事するかと相談した。また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても、日本から助言を得てはいるが自治委員会はまるで無策だという気がする。どうやら狙いは我々の金だけらしい。つまり、「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」というわけだ。
 しかし我々の考えは全く違う。なんとしてもこちらの主張を通そうということになった。アメリカやドイツの大使館が支持してくれると当てにしたうえでの結論だ。といっても、先方が果たしてどう考えているのか、まるっきりわからないのだが。”
 この文章で、ラーベが「南京自治委員会」にほとんど何の期待もしてはいないことがわかります。したがって、南京自治委員会の結成式にはふれず、身の回りで起きる様々な事件や略奪・放火の現実を日記に書いたのだと思います。それを「ヘソ曲がりの男」というのは、かなり歪んだ受け止め方であると思います。 
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                      ヒトラーへの上申書

 宛先:総統・ドイツ帝国宰相
       アドルフ・ヒトラー殿
            ベルリン

 差出人:ジョン・H・D・ラーベ
 目下の住所:帰国者一時滞在寮
ベルリン、ジーメンス・シュタット  ディールマン通り20
                      1938年6月8日
「総統閣下
 中国にいる私の友人たちの多くは、南京で実際に起こった出来事について、総統に詳しい報告がなされなかったと思っております。
 非公式の集まりで、私は講演を行いました。その草稿をお送りすることにより、南京の住民の苦しみを総統にお知らせするという、かの地の友人たちとの約束を果たす所存であります。草稿を受け取られた旨、お知らせいただけますならば、私の使命は果たせたことになります。
 今後この種の講演、またこの件に関するフィルムの上映を差し控えるようにとの通知をいただきました。私はご命令に従います。ドイツの政策およびドイツ当局、そのどちらにも毛頭逆らうつもりはございません。
 総統に心からの服従と忠誠を誓います。
                                  ジョン・ラーベ」

 この講演に先立ち、ひとことお断りしておきたいことがあります。それは、私がドイツで反日宣伝活動をしようとか、「公開の場で」講演をして、中国に対する友好的な気運を盛り上げようとかの考えを少しも抱いてはいないということです。苦難にあっている中国に対しては心からの同情を禁じ得ませんが、まず第一に私はドイツのためを思っております。そして、わが国の政策の「大路線」の正しさを信じているだけでなく、ナチ党員として百パーセントこれを支持しております。
 けれども、だからといって、南京で目撃する機会を得た事件の真相について、敬愛する総統閣下、および祖国の首脳陣にお知らせすべきであるという私の考えに変わりはありません。また私がこれから報告しようとしているのは、公開の場ではなく、内輪の集まりなのです。
 ぜひ申し上げておきたいのは、私は日本人に感謝してもらわなければならないということです。といいますのは、南京難民区の国際委員会が日本大使館へ提出しなければならなかった数多くの苦情や抗議書を出すにあたり、その代表として私は当初から手加減するよう心がけてきたからです。その理由は、ほかでもない、私がドイツ人だからです。ドイツ人として、私は同盟国である日本との友好関係を維持したいと望みましたし、またそうしなければなりませんでした。その結果、親しくしていたアメリカ人の委員会メンバーの間で、「抗議書を発送する前に、ラーベさんにすこし手心を加えてもらっておいた方がいいよ」といわれるまでになりました。それでも、日本大使館あての書状が2、3きわめてきびしいものになったのは、日々繰り返される日本兵の殺人、略奪、傷害、放火のあまりのすさまじさに、そうするよりなかったからです。
 残念ながら、南京でのあの6ヶ月間の体験を詳しくお話しすることはとうてい無理です。24時間あっても足りません。したがって、ここでは私が見聞きした数多くの不幸な出来事のうちから、いくつかをご紹介するにとどめます。私の日記はなんと二千五百ページにものぼるのです。
 まず最初に、なぜ私があえて南京にとどまろうと決心したか、その理由からお話したいと思います。
 あるとき、岡という日本の少佐が私に尋ねました。本人のいうところによれば、南京が陥落したあと、私を保護するために遣わされたということでした。
 「なんですかね、あなたは! いったいなぜここに残っているんですか? なんのために我々の軍事にちょっかいをだすんですかね? あなたになんの関係があるというんですか? こんなところでうろうろしてもらいたくないですな!」
 私は、ベルリンっ子がよくいう、一瞬つばがなくなる状態、つまり二の句がつげなくなりました。
 私の答は、忠実に再現しますと、次のようなものでしか。
 「私はここ中国に30年住み、子や孫もここで生まれました。この国で落ち着いて仕事に励むことができ、これまで順調にやってきました。いつでも、この前の大戦のさなかにも、中国人にはよくしてもらいました! 岡少佐、もし私が30年間日本でくらし、中国人から受けたような暖かいもてなしをうけたとしたら、─誓っていいますが─(いま中国人がうけているような)苦難の時に、私は日本人だって見捨てることはしなかったでしょう」
 これを聞いた少佐はすっかり満足し、武士道を称える文句をいくつか口にして、ふかぶかと頭を下げました。
 その後少佐はもういちどやってきて、南京に残っている5人のドイツ人を私の家にあつめていっしょに住むようにいってきました。その方が保護しやすいと言うのです。こんども私は丁寧に、けれどもきっぱりといいました。
「そんなことは問題外です。収容所にいれられるのは捕虜だけですよ。でも私たち少数のドイツ人は、自由なままでいたいんです。ですからもし私たちを保護してくださるというのなら、別の方法でお願いしたい」
 すると少佐は、今の私の返事を文書にしてもらいたいとといいましたが、これも断りました。
「保護してくださるのはありがたい。ただし、私やほかのドイツ人たちから自由を奪わないでいただきたいのです」
 あとで、つまり岡少佐が南京を発った後でという意味ですが、日本大使館の人たちから聞いたところによりますと、少佐は日本政府の名において私に語りかけてきたのではなく、ただ「個人的意見」を述べたにすぎないということでした。
 私が南京にとどまろうという気になった背景には、先に挙げたのとは別の重大な理由があったのはいうまでもありません。
ジーメンスの業務という、私にとって大切な問題がありました。けれでも、会社から南京にとどまれといわれたのではありません。その逆です。南京のドイツ人はチャーターしたイギリスの蒸気船クトゥー号で漢口に避難することになっており、ジーメンスは私に、なんとしても身の危険を避け、ほかのドイツ人や大使館の人たちに加わってクトゥー号に乗るようにと強く勧めてくれたのです。
 南京電力会社のタービンは我が社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央病院の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警報装置も。これらを管理していたのは我が社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。その人たちをはじめ、事務所の従業員、何十年も私の家で働いている使用人、それから中国人マネージャーなどが、家族をひきつれて私のまわりに集まっておりました。
 もし自分が見捨てたら、この人たちはみな、殺されたり、ひどい目にあわされたりするのではないか……私にはそんな予感がありました。事実それは正しかったのです。
 ・・・
 私を迎えてくれた国はいま、苦難にあえいでいます。この国は30年の長きにわたって私を手厚くもてなしてくれました。この町の豊かな人々は、財産ともども早々と安全なところへ移りました。しかし、貧しい人たちは残らなければなりませんでした。行くところがないのです。逃げるには金がいります。この人たちは、大量に、はてしなく大量に虐殺される危険にさらされていたのです。

 そのとき、かれらを助ける機会が訪れました。そして、私はそれを引き受けたのです。
 ・・・」以下略



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