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ーーーーーーーーーーー「戦争の流れの中に」 記者・前田雄二 南京における記述ーーーーーーーーー

前田雄二氏は、同盟通信社の記者として長く従軍した経験を持つ。戦後、前田氏は支那事変から大東亜戦争にいたる従軍記録を、『内外ニュース社』発行の『世界と日本』という週刊新聞に連載したという。その後、それを本にまとめ、『戦争の流れの中に』と題して善本社から出した。

 「はじめに」の「真実が欠落」と題された文章に、下記のようにある。
こ の記録は私の日記を中心に書かれていく。しかし、それを裏づけるために多くの戦記や戦史を参考にした。私は従軍中、大陸や南方から数多い記事を打電した が、それらは決して物事のすべてを伝えてはいなかった。戦争中のきびしい検閲で、日本軍に不利な事実は差し止められていたからである。
 記事そのものは事実であっても、マイナス面が欠落していたのでは、真実が報道されたとはいえない。
 そういう意味からも、私は戦後早い時期から、当時の記録をまとめておきたかったのである。それに相手方の首都を5つも奪う場面に遭遇した新聞記者はほかにいないようだ。これは記者冥利に尽きることで、これも記録をまとめたいという使命感を私に与えていた。

 作家・石川達三は、同書に「直接体験の新鮮さ」と題する文を寄せている。下記のような内容である。
前 田雄二君とは一種の戦友である。太平洋戦争のはじめごろ、サイゴン(旧名)で会い、シンガポールで会い、私は夜になると彼の宿舎を訪ねて(払印進駐)当時 の彼の体験を聞かせてもらった。前田君は文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回って来た人である。よく生きてきたものだと思う。
  あれから40年も経って、いまになって彼は従軍体験の手記を書いた。なぜ、もっと早く書かなかったのか、それは同君の性格によったものであっただろう。従 軍記は無数に出版されていて、私もかなり多くを読んでいるが、しかし前田君のこの手記は、いささかも古くなっていない。一読してその新鮮さに驚く。のみな らず私には、いくつかの新しい発見もあった。たとえば南京占領軍の総司令官松井石根大将は、戦犯のゆえをもって戦後処刑されているが、部下の残虐行為を大 変厳しく叱責した人であったらしい。同大将を処刑したことは、戦犯裁判の誤りではなかったか。

 また同盟通信映画部の浅井達三カメラマン
「…  同盟のことは前田雄二さんが書いた『戦争の流れの中に』(善本社)にあるとおりであす。彼は毎日、夜に日記をつけてました。それを基にあの本を書いたの で、正確だし、僕等が忘れている人の名前まできちんと出てきます。当時軍に対して言えなかったことも書いているし、同盟通信の中の争いも隠さずにそのまま 書いています。全くあの通りです
と『「南京事件 日本人48人の証言』の著者、阿羅健一氏に語っている。
 
 下記は、その「戦争の流れの中に」前田雄二(善本社)から抜粋したものであるが、「南京大虐殺」の一端であろうと思う。
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                             第二部 南京攻略戦
3 「南京大虐殺」とは
”処刑”
  翌日(12月16日)新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだ し、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が背後から突き貫く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三 カ所で並行してやっているのだ。
 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。

 私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があるだろう。しかし今は人間ではなく物質として扱われている。
 交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。
 私は辛うじて10人目まで見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。

 死体の門
 支局に帰ると、荒木と稲津が車で出かけるところだった。同乗して市内をまわり、下関への出口の挹江門へ行く。すると、まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている。
 「何だね、こりゃ」と、まず運転手がいかぶりの声をあげた。城門の内側に、まるで土嚢でも盛ったように死体が積まれ、車はわずか一車線あけられた穴を徐行して抜けなければならない。死臭の中をだ。
 いったいどうしてこんな状態になったのか、いつからなのか、聞こうにも誰も知った者はいない。下関の部隊で聞いてもムダだった。私たちは帰途ふたたび、気味の悪いこの城門を抜けなければならなかった。
「今日はいやなものばかり見る日だ」
 と、私は昼食時にこれらの見聞を同僚に語った。しかし、ことはまだ終わっていなかったのだ。

 銃殺
 午後、支局を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも”処刑”が行われていたのだ。
 死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。午前の処刑より残虐性は少なく、その死もまことにはかなかった。
 「記者さん、やってみないか」
  兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っこめた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と銃をすすめる。中村はニヤリと笑っ てそれを受けとり、捕虜の背中に銃口を接近させると引き金を引いた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきをあげた。 それきりだった。
 死とはなんとたやすいことか。私は銃を中村の手から引ったくると下士官に渡し、急いでその場を立ち去った。
 私はまるで自分が射ったかのような錯覚を覚えた。中村のニヤリと笑った顔と、背中を丸めて落ちていった男の姿が、その後、時折眼底に蘇った。あの男にも平和な家庭があったに違いない。
 翌17日には、軍司令部の南京入城が予定されていた。占領軍は、その時までに、すべての掃除を完了しておこうとしていたのだった。

 入城式
 17日午後一時半、松井石根軍司令官が、朝香宮鳩彦、柳川兵助の両師団長を従えて、馬上豊かに中山門から入城した。中山路の両側では、将校の指揮刀、銃剣がススキの穂のように立ち並んだ。
  下関からは、長谷川清艦隊司令官が海軍部隊を従えて行進してくる。上空には航空部隊の編隊が爆音を轟かせる。やがて国民政府官舎の屋上に大日章旗が掲げら れ、「君が代」が鳴り渡った。松井司令官以下が国民政府楼上に姿を現すと、「万歳」の声が津波のように城内にひびいた。記者席には、約100名の報道陣が 集まり、その中には西条八十、大宅壮一、山本実彦改造社長などの姿もあった。
  この夜、私たちは野戦支局でふたたび祝いの宴を張ったが、この席で、深沢幹蔵が驚くべき報告をした。深沢は、夕刻、一人で下関に行ってみたが、すぐ下流に 多数の死体の山があることを知らされた。行ってみると、死体の山が延々と連なっている。その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたとい う。

 死んだ部隊
  私は、翌朝、2、3の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢 のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。
「機関銃でやったらしいな」
 と祓川が言った。
「それにしても多いなあ」
 千はこえていた。2千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。
 城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。

 軍司令官の怒り
 翌18日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後2時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。 
 祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。
 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
 松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。
 「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
 私は驚いた。これは叱責の言葉だった。
「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
 会場の5百人の将兵の間には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、
「松井はよく言ったねえ」
 と感にたえたように言った。
「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだった」
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 ハーグ条約の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第二章 俘虜の第1条に
戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵 にも適用される。
とある。
第4条には
 ・俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。
 ・俘虜は人道をもって取り扱うこと。
とある。さらに、第7条には
政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。
・交戦者間に特別な協定がない限り、俘虜は糧食、寝具及び被服に関し、これを捕らえた政府の軍隊 と対等の取り扱いを受けること。
などとある。

 また、第二款 戦闘、第一章 害敵手段、攻囲、砲撃の第23条に
特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り。
        毒、または毒を施した兵器の使用。
        敵の国民、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。
        兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること。

と ある。したがって、前田雄二氏が上記に書いている「処刑」は、明らかに国際法違反であると思う。もし、上記の「処刑」が、交戦法規違反や敵対行為、有害行 為、犯罪行為などに基づくものであるとしたら、軍事裁判がなされる必要があった。しかしながら、日本軍が中国人の上記のような「処刑」の前に、軍事裁判を 行ったという形跡はない。したがって、上記の「処刑」は、正しくは「処刑」ではなく、「虐殺」なのだと思う。


ーーーーーーーーーーーー『破滅への道』 外交官・上村伸一 南京における記述ーーーーーーーーーー

 上村伸一氏は満州事変勃発当時、南京領事であった。その後も、外務省の東亜局第一課長として、日中の問題に取り組んだ人である。その外交官が、下記に抜粋したように、「政戦の不一致 南京での暴行」と題した文章のなかで、

「…しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみ ならず、暴行の限りをつくし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積みされ私も 少しは眼を通したが、写真などは眼を覆いたくなるようなひどいものだった。私は北清事変(1900年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になっていたな どを思い出し、変わり果てた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである

と書いている。
 この文章で、南京事件が東京裁判ででっち上げられたようなものでないことがわかる。
 また、南京攻略戦前後の日本軍の蛮行および、当時の現地日本軍が、政府や軍中央の統制のもとになかった事実もわかる。
 さらに、下記に抜粋した日本側の和平の条件を「この条件は全く城下の誓いである」と書いていることも見逃せない。

 現地の日本軍が、関係外交官はもちろん、政府および軍中央との意志一致や確認をせずに作戦を進め、暴走していたともいえるその現地軍に引っぱられるような形で、作戦を追認した日本という国は、やはり、国策をあやまったのだと思う。
  上海居留民の保護が目的で派遣されたはずの軍が、なぜ南京攻略にまで至ったのか。南京城に突入などせず、その前に進撃を止め、政府や軍中央が常識的な判断 をもって直接蒋介石を相手に和平の話し合いを始めれば、和平が実現していた可能性は高かったのではないか、と考えさせられる。

 安全保障関連法案が通過した現在の日本では、著者が「はしがき」に書いていることも、忘れられてはならないことだと思う。
日華事変から太平洋戦争にまで突入するに至ったのは、軍人が全権を握るに至った結果であって、今日我々が深く反省すべきは、戦争に突入したということよりも、むしろ、もっと根本の問題である国民の心構えという点にあるのではなかろうか」
  下記は『破滅への道』上村伸一(鹿島研究所出版会)からの抜粋である。
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                         Ⅳ 日華事変に突入
 和平方針決定 事変対処要綱
  統帥部は日本戦力の限界を知り、極力戦線の拡大阻止に努め、華北の戦闘も大体一段落したので、上海方面は、第一次上海事変当時の停戦区域を確保すれば、戦 闘を打ちきり、政治的収拾に移るというのが、東京における軍政首脳一致した考えになった。その結果「支那事変処理要綱」(昭和12年10月1日四相会議決 定)が生まれた。その要点は、(1)華北を特別区とする。(2)京津、上海地域に非武装地帯を設ける。(3)日華経済提携のために、合弁事業を起こすとい う趣旨のものである。

 軍がこの決心をした裏には、杭州湾 上陸作戦が予定されていて、上海方面の戦争収拾の見通しがついたからである。もっとも政府は上陸作戦のことは一切知らず、杭州湾上陸の報を聞いて驚いた始 末であった。しかし上陸軍が南京を目指して進撃するのは戦線の拡大で、前記四相会議決定の趣旨に反する。戦局の収拾を目指しながら、戦線拡大に走るとはお かしな話で、軍の無統制を暴露したものである。南京進撃は統帥部の予定には入っていなかったはずである。

 イギリスの和平斡旋拒否、ドイツに依頼す
  四相会議は前記決定をした後、こんどは第三国の和平斡旋を受けることを決定した(10月22日)。 広田外相は10月27日日英米仏独伊五カ国大使を別々 に引見し、第三国の斡旋を受ける用意のあることを示唆した。これに応じ真先に斡旋を申し出たのはイギリスであった。イギリスは中国との利害関係が深く、南 京政府に対しても押しが利くので、斡旋には自信があった。それに老練な外交的伝統を持つ国だから、仲介者としては嵌まり役というべきである。しかし陸軍は これに反対した。表面の理由はともかく、この頃、軍はすでにドイツの大島浩武官(後のドイツ大使)を通じて、ドイツに同盟締結の交渉を進めていた。した がってイギリスが深入りすることを嫌い、ドイツに花を持たせたい腹であった。
  ここにおいて軍は自ら東京のドイツ大使館に働きかけた。参謀本部のドイツ大使館との連絡係りの馬奈木中佐が、オットー武官(後の大使)に話を持ちかけ、ド イツ政府の承諾を得たので、政府はドイツに仲介を依頼することにした。仲介を実施するのはトラウトマン駐華ドイツ大使ということになったので、馬奈木中佐 はオットー武官とともに上海に赴き、トラウトマン大使に、日本の条件を詳細に説明したほどの熱心さであった。これによっても、いかに参謀本部が和平に熱心 であったかを知ることができる。日本側の説明を聞いたトラウトマン大使は日本の和平案を携え、先ず漢口に趣き孔祥熈行政院長(首相)、汪精衛国防会議主席 などに会って日本の意向を伝達した。彼らは日本の申し出にかなり興味を示したということであった。しかし肝腎の蒋介石は上海方面の戦争指揮のため、南京に 滞在していたので、トラウトマンは漢口から南京に引き返した。

  漢口からは外交部次長徐謨が同行した。彼は法律家だが、私の南京領事時代にも一時外交部次長をしていたことがあり、穏和で常識に富み、蒋介石の信任も厚 かったようである。トラウトマンが南京で蒋介石に最初に会ったのは12月2日であった。漢口での会談内容はすでに、漢口から電報されていたし、詳細のこと は、徐謨から蒋介石に報告ずみであった。当時の情勢は、杭州湾に上陸した日本軍が二路に分かれ、先陣を争って南京目がけて急進していた。他方蒋介石は日本 の内情に精通し、穏健派と強硬派とのバランス如何で、日本政府の方針がぐらつくことも知っていたので、日本の和平提案には、二の足を踏んでいた。したがっ てトラウトマンとの最初の会見は、その説明を聞くに止めたに過ぎなかった。しかし蒋としては、日本軍の南京占領阻止のことも頭にあったであろう。南京を占 領されては蒋の面目が失われ、和平はいよいよ至難になるからである。

 蒋は熟慮の結果、南京に集まっていた将領の意見を求めた。大勢は和平賛成であった。ここにおいて蒋はトラウトマンに対し、和平交渉に入る前に、先ず日本軍の南京進撃を止めるよう斡旋を求めた。

 政戦の不一致 南京での暴行
  東京の方針はすでに和平に決定し、杭州湾上陸は上海救援のためであった。上海が包囲され、日本軍が守勢のままで和平交渉に入るのは不利だから、上海包囲軍 を撃退することは必要であった。しかし敗軍をどこまでも追うのは和平という政治目的からの逸脱である。やむなくそこまで行ったとしても、軍は南京の前で止 まり、南京を睨む形で交渉を進めるのが当然である。しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみならず、暴行の限りをつ くし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積みされ私も少しは眼を通したが、写 真などは眼を覆いたくなるようなひどいものだった。私は北清事変(1900年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になっていたなどを思い出し、変わり果 てた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである。

  日本軍の南京突入にあたり、日本の砲兵隊は、英艦レディー・バード号を砲撃した(12月12日)。イギリス側は橋本欣五郎大佐が砲撃を指揮しているのを目 撃したと言って強く抗議して来た。イギリス側は橋本大佐が革新派の旗頭であり、一たん現役を退いたが、予備役として出陣したことを知っていて、故意の砲撃 だと主張した。また同日米艦パネー号も日本の爆撃に会って撃沈され、アメリカの人心を甚だしく刺激した。英米と日本との関係の悪化は中国の民心を鼓舞する ことになり、和平を困難にするものである。

 それにもまし て和平を困難にしたのは、軍内部の情勢が刻々に変わることであった。南京の占領により気をよくした軍の強硬派は和平条件の加重を強く主張し、ついにそれが 通った。政府は戦力の限界を知り、事変の政治的収拾に進んだのだが、強硬派の巻き返しにあってまたも屈服した。政府の首脳部は和平派と強硬派の抗争の波の まにまに翻弄され、所信を貫く気力を失ってしまい、事変の政治的収拾などのできる状態にはなかった。かくて12月14日の政府大本営連絡会議および21日 の閣議は、次の和平条件をドイツ側に伝達することを決定した。

(甲)(1)中国は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること      
   (2)所要地帯に非武装地帯と特殊機構とを設けること

   (3)日満華三国の経済協力協定を締結すること                       
   (4)賠償を払うこと


(乙)口頭の説明
   (1)防共の態度を実行により示すこと
   (2)講和使節を一定期日内に指定する地点に派遣すること               
   (3)回答は大体年内と考えていること
   (4)南京が以上の原則を承諾したら、ドイツから日華直接交渉を慫慂すること

(丙)ドイツ大使の極秘の含みとして内話する講和の条件
   (1)満州国の正式承認
   (2)排日・排満政策の放棄
   (3)華北、内蒙に非武装地帯設置
   (4)華北は中国の主権下におくが、日満華三国共存共栄に適する機構を作り、広汎な権限を与え、とくに経済合作の実をあげること
   (5)内蒙防共自治政府を設け、国際的地位は、外蒙と同じとする。
   (6)中国は防共政策を確立し、日満両国に協力する。
   (7)華中占拠地域に非武装地帯を設定し、また大上海市区域は、日華協力して治安の維持およ
    び経済の発展にあたること 
   (8)日満華三国は資源の開発、関税、交易、航空、通信等に関し協定を締結する
   (9)中国は日本に対し、所要の賠償を支払うこと
付記 (1)華北、内蒙、華中の一定地域に、保障の目的で必要期間、日本軍を駐屯する
    (2)前記諸項に関する協定成立の後休戦協定の交渉を開始する。中国政府が前記各項の約定を誠意をもって実行し、両国提携共助のわが方の理想 に真に協力すれば、前記保障条項を解消し、中国の復興、発展および国民的要望に衷心協力する用意がある。         

 この条件は全く城下の誓いである。12月23日広田外相は、ドイツ大使ディルクセンに示したところ、大使はこれでは到底話のまとまる見込みはないと嘆息した。しかし乗りかかった船だから、一応中国側には伝えようと答えたということであった。


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『昭和史への一証言』記者・松本重治 南京占領を語るーーーーーーーーーー

 『昭和史への一証言』は、南京攻略戦当時、新聞聯合社(後の同盟通信社)の上海支局長であった松本重治氏の証言に基づくものである。聞き手・國弘正雄氏の質問に丁寧に答えている。
 聞き手・國弘正雄氏は「鼎談 松本重治氏を偲んで」という文章の中で、「公事における巨人としての松本先生が果たされた役割」の大きさについて書いているが、松本重治は、時の首相・近衛文麿に、ブレーンとして知られる後藤隆之助を通して、南京占領を止め、和平工作を進めるように働きかけたという人である。中国に知人・友人も多く、中国側の情報もいろいろ得ていたようである。近衛首相は「君や松本君の話はよくわかる。僕も同感だ。しかし、今となっては、どうにもならない」と残念そうに答えたということを明かしている。

 その松本重治が、南京の虐殺数について、「30万とか40万といった虐殺があったとは考えられない」と言っている一方で、「”南京虐殺はなかった”ということはない。あったことは事実です。犠牲者は大半は捕虜で、非戦闘員の中国市民男女も相当数あったと思われます」とも言っている。
 そして、当時の現地日本軍が聞く耳を持たず、また、国際情勢や中国人の抗日意識の実態を考慮することなく軍を進めた事実について語っている。 南京を占領しても、蒋介石が降伏することはない、ということは予想できたというわけである。

 (聞き手・國弘正雄氏の質問を罫線から○印変えた。また、松本という名前の前にも○印をつけた)
 下記は、『昭和史への一証言』松本重治:聞き手・國弘正雄(たちばな出版)から「日中全面戦争と南京占領」の一部を抜粋したものである。
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                          第3章 日中全面戦争と南京占領
 無意味だった南京占領
○戦いつつ和平交渉をつづけるという奇妙きてれつな日中戦争は、日本軍の南京占領という一つのヤマ場を迎えます。ドイツの駐中国大使トラウトマンによる和平工作がもう少しでゴールインというところで南京攻略が迫ってきました・・・。
○ 松本 上海戦では日中両軍の激戦がつづき、呉淞(ウースン)に上陸した日本の上海派遣軍主力に対して中国軍はトーチカやクリーク(水濠)を利用して三ヶ月 の間、頑強に抵抗しました。蒋介石は中央軍の最精鋭部隊を上海戦に投入していました。しかし、1937年11月に入ると、上海の戦局は、日本軍の有利に大 きく傾きます。

 10月末に、大場鎮が陥落して大場鎮・蘇 州河の防衛線が突破されると、中国軍は急に浮き足立ちました。上海派遣軍は最初、二個師団の兵力だったのが、9月10日東京で出兵が決まった三個師団が加 えられていましたが、11月5日、柳川平助兵団(第十軍)が杭州湾に上陸、13日には第十六師団が揚子江の白茆江に上陸し、日本軍は三方から中国軍を攻撃 する形になると、中国軍は総崩れになったのです。総退却を始めてからの中国軍は紀律を失って逃げる一方となり、日本軍はその追撃にかかります。上海派遣軍 主力部隊は13日に嘉興を占領、14日に太倉、15日に崑山、19日には常熟と蘇州を、それぞれ占領し、無人の野を進むごとく急進撃します。柳川兵団も 19日嘉興を占領しました。

 上海派遣軍に示されていた作 戦区域の最前線は、蘇州・嘉興の線だったのですが、東京の参謀本部はその蘇州・嘉興の線を撤廃するという指令を出しました。これは、従来の戦局不拡大の方 針を放棄したことになります。また、華中方面で戦っていた日本軍の最高司令部は上海派遣軍司令部だったのですが、上海派遣軍の上に新しく中支那派遣軍司令 部が設置され、その司令官に松井石根大将が任命されました。松井司令官は上海派遣軍と柳川兵団の両方を指揮することになったわけです。これで、現地の中支 那派遣軍は南京というゴールに向かって勇躍、進撃することになったのです。やんぬるかな ─  私はくちびるを噛む思いでした。

○ 戦局不拡大を主張していた石原将軍が作戦部長のポストから満州に追われたあとの参謀本部では、積極拡大派に押し切られてしまう・・・。軍事作戦が予期しな い急スピードで進むので、和平工作が後手後手に回るわけですね。この国際文化会館にもよく来る中国系米人のD・ルー教授のセリフではありませんが、日本は いよいよ「総国家的ハラキリ」への道を着実に進んでいった、という気がします。
○ 松本 華中の戦局が日本に好転した11月の半ば、後藤隆之助さんが上海にやってきました。後藤さんは近衛さんのブレーンで、私とも親しい間柄でした。日本 軍が南京まで行かないうちに兵を止めなければ、日本はとりかえしのつかぬことになる、そのことを近衛さんにわかってもらい、停戦を実現してほしかった。私 はじっとしていられず、後藤さんに懇談の機会をつくってもらい、何回か会いました。そのうち、後藤さんは、しかるべき中国人に会わせてほしい、自分なりに 直接、中国側がどういうことを考えているかをたしかめたうえで、それを参考にして、近衛さんに話してみたい、といい出した。
  そこで、頭に浮かんだのが徐新六です。戦争が始まってからは親しかった中国人の友人とは連絡がとれなくなりましたが、彼とは定期的に会っていた。浙江財閥 の首脳のひとりで、貴重な情報を持ち、日中関係の将来について真剣に考えているはずだ。さっそく、後藤さんと徐新六を引き合わせました。
  後藤さんに、徐のことをよく話し、徐にも電話で十分説明をして、11月19日だったと思いますが、私があいだに入って二人が会見しました。後藤さんは弁慶 のようないかつい顔つき、態度も武骨そのもの、一方の徐は女性的なやさしい顔をして、物腰もやわらか、そういうところは全く対照的だったが、二人に共通し ているのは誠実であるということでした。徐はあまり多くは語らなかったが、中国の官民が日本の侵攻でいよいよ抗日の決意を固めていることを静かに述べ、私 が後藤さんにいいつづけてきたことを全面的に裏づける形になりました。

○南京という点の占領がどれだけ無意味であったか、というわけですね。果たせるかな、その時点で、蒋介石は首都の重慶移転を決めています。
○松本 実は、戦後、私が『上海時代』を書いているときに、後藤さんから、このときの思い出を綴った長文の手紙をいただきました。後藤さんはこのときの私の意見を近衛政府が採用すれば、こうした不孝な結果にならなかっただろう、いま思っても残念だ、と書いておられました。
  そう、私はこんな意見を後藤さんに述べたのです。前線の日本将兵は、南京を攻撃すれば、蒋介石は白旗をあげ、自分たちは故国に帰れると思っているから、南 京に猛進撃している。しかし、「城下の盟(チカイ)」はありえない。蒋介石は、長期戦に持ちこみ、日本軍を中国のふところに誘いこむ戦略をたてているのだ から、南京が占領されても、面子は多少つぶれようが蒋介石が責任をとって下野するようなことは考えられない。逆に、中国人士の抗日意識を高め、抗日に結集 させる効果を生むだけだ、そういうことから、南京占領は全く無意味である。しかも、南京を占領すれば、日本に欲が出て、ドイツやイギリスなど第三国による 和平の調停も難しくなる。

○南京を占領すれば欲が出て、というところが重大なポイントのように思えますが、そういう先生の懸念は近衛首相に伝わったのでしょうか。
○ 松本 後藤さんは事態の容易でないことをさとり、一大決心をして、すぐ日本にかえり近衛さんに直言します。後藤さんは11月26日に京都の都ホテルで近衛 さんをつかまえ、南京占領をせず、和平工作をするように熱心に進言してくれたのです。これに対して近衛さんは”君や松本君の話はよくわかる。僕も同感だ。 しかし、今となっては、どうにもならない”と残念そうに答えた、というのです。
 後藤さんは、先に話した私への手紙に、そういうことがあったことを明らかにされ、”私がもっと近衛さんを説得すべきだった。ぼくの至らなさを君(松本氏)に申しわけなく思っている”と述べておられます。
 とき、すでに遅かったのです。後藤さんはせっかく近衛さんに直談判してくれたのですが、それから数日もたたない12月1日付で、大本営は南京攻略の命令を出しています。

 南京虐殺はあった
○そこで、南京攻略ということになるのですが、先生は、たしか、陥落直後の南京に入っておられますね。
○松本 「南京が完全に陥落したのは、1937年12月13日夕刻ですが、その5日あとの18日朝、南京に入りました。私が入ったときは、城内はもう平静でした。

○陥落直後の南京の第一印象はいかがでしたか。町の様子はどうでしたか。
○松本 静かなものだった。敗残兵や南京市民などはうろついていなかった。ネコが町を歩いているくらいのものでした。

○通りに人影はまったくなし、日本の兵士だけが巡回している、ということだったわけですか。
○松本 そう。敗残兵はまだ隠れていたかもしれないが…。


○逃げ遅れた市民がかなり南京城内に残っていたのですか。
○松本 南京攻略の直前まで、南京では戦闘がない、などといわれていたので、逃げ遅れた市民は相当いました。財産のある者は早くから、船で揚子江上流に脱出していた。残っていたのは、そういうことができない貧しい人たちでした。

○ そういう貧しい人たち、底辺層のおばあさんや少女が日本軍によって殺されたり、犯されたりしたのですね。日本軍による集団残虐行為は、数日前からすでに城 外の近郊で始められていましたが、占領した12月13日から入城式が行われた17日の前夜までの日本軍の集団虐殺は最も大規模なものであったといわれま す。日本軍が南京を占領して5日後に先生が南京に入られたとき、すでに南京は平静に戻っていたわけですね。占領直後の南京の様子をお話しください。
○ 松本 占領直後の南京には、同盟通信の深沢幹蔵、前田雄二、新井正義の三君が取材のために別々のルートで、私より早く14日と15日に入っているのです。 私は、戦後あらためて、3人に会って、直接、そのときの模様を聞きました。深沢君は従軍日記をつけていましたから、それを読ませてもらいました。3人の話 では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて 行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
  前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい 兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです。前田君は12~13人ほど、そうやって銃剣で突き殺されているのを見ているうち に、気分が悪くなり、吐き気がしてきた。それ以上、見つづけることができず、そこから立ち去った、といっていました。軍官学校の構内でも、捕虜が拳銃で殺 されていたということでした。前田君は社会ダネを追って走り回っていたのですが、12月20日ごろから、城内は平常に戻ったようだ、といっていました。

○日本軍による南京虐殺について、最近、新しい資料が出ておりますね。
○ 松本 最近、雑誌『歴史と人物』に南京攻略に参加した第十六師団の指揮官、中島今朝吾中将の『中島第十六師団長日記』」がのっていました。中島師団長が書 き綴っていた陣中日誌のうち、南京陥落直前の12月11日から陥落直後の31日までの分が省略なしに全文のせられていて、当時のなまなましい様子がよくわ かります。
 日記には、日本軍が攻めこみそうなところに中国軍はた くさん地雷を埋めていたから、天文台付近で捕虜にした工兵少佐に、地雷を敷設した場所を尋問しようとしたが、兵隊は、この将校をすでに斬り殺していた。兵 隊にはかなわん、かなわんと書いてある。中島師団長自身の軍刀の切れ見るため、捕虜の試し斬りを日本からきた剣士にさせたことも書かれています。
 
○第十六師団師団が南京の下流の揚子江岸に敵前上陸したあとは、敗走する中国軍を追撃するだけですから、それから南京までは戦闘らしい戦闘もせず、無傷で、手持ちぶさた、といいますか、勇む心のやり場がないということになりますね。
○ 松本 なにしろ、上海戦線で防衛戦を突破されてからの中国軍は逃げる一方だった。第十六師団などは戦う相手がなかったのです。中国兵の逃げ足は速いのです が、それよりも日本軍の進撃のスピードが速く、中国軍の退路を先回りすることになる。中国兵捕虜はどんどんふえていきます。第十六師団に属する佐々木到一 少将の旅団部隊は、1000人ほどの兵力なのに、捕虜を6000人もかかえてしまった、という話を聞きました。ところが、中島師団長の日記には、”捕虜は つくらない方針だ”と書かれています。それは、一時は捕虜として食物を与えておくが、一部を釈放し、他は遅かれ早かれ処分する、という意味しか考えられな い。またそういう意味のことが文字通り日記に書いてあります。
・・・

ーーーーーーーーーーーー南京事件 無差別的虐殺の命令 長勇参謀ーーーーーーーーーーーー

 「南京大虐殺の証明」(朝日新聞社)で、洞富雄氏は、下記資料1のような長勇参謀の驚くべき命令を紹介している。
 そして、この時の長勇参謀命令の無差別的虐殺は、角良晴(上海派遣軍松井石根司令官の専属副官)氏が「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」(南京戦史資料集:偕行社)で目撃を明らかにした草鞋峡(揚子江岸、下関下流)における12、3万の中国兵を含む中国人の死体とは関係ないものであろうという。
 その上、角良晴が目撃した死体は、東京裁判に提出された『南京慈善団体及ビ人民魯甦ノ報告ニ依ル敵人大虐殺』におさめられている魯甦という中国人(事件当時警察官)の虐殺証言と符合するものであるという。数は異なるが、魯甦の証言は、幕府山付近の四、五カ村に収容されていた軍民5万7418人が下関・草鞋峡の間で虐殺されたというものである。

 また、下記資料2のような非戦闘員を含む中国人の無差別的虐殺が記録された「従軍日記」が発見されたことも明らかにしている。第十軍・第六師団に関わるものであるが、とても戦闘行為として合法化できるものではないと思う。いずれも、「南京大虐殺の証明」洞富雄(朝日新聞社)からの抜粋である。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     終章 大虐殺否定論を圧倒する日本軍将兵の証言
3 非戦闘員の組織的・無差別的虐殺の新証言
 ・・・
  長勇は、独断で一般市民大虐殺の命令を発しただけでなく、実際に現場で、実行をひるむ兵士を非常手段でもってけしかけたことを、やはり自ら語っている。長 はその事実を藤田勇に秘話し、藤田がまた、これを徳川義親に語っているのでる。徳川義親は1973年に著した自伝『最後の殿様』(1973年、講談社) で、その伝聞をこう述べている。

 《ぼくが慰問を終えて帰 国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮をおこなった。殺戮の内容は、10人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。 今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時僕が聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人 が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であることを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。
  藤田君は、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青帮との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機 関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、10月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大 親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ2人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

  日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでい る。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれ ているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して
 「人をころすのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
 「長、その話だけはだれにもするなよ」
 と厳重に口どめしたという》(172~173ページ)

 ここに語られているのは、前記の18日の夜におこなわれたと推測される草鞋峡辺における一般住民の大虐殺とは別個の事件であろう。おそらくこの事件は、12月13日・14日におこなわれた掃蕩戦の際に起こった事件と推測される。

 [注記]角氏の証言は、「一般住民」の大量虐殺をあえてさせた長勇参謀の暴虐を実 証するものであるが、長はまた、やはり独断で命令を下し、捕虜の大虐殺を実行させた、と豪語してもいる。この件については、前項で述べておいた。長勇のこ の大言壮語は戦中すでに各方面で語られていたようであるが、田中隆吉は、当時これを長勇から直接聞いて、戦後、その著『裁かれる歴史』に詳しく書き伝えて いる(310~311ページ)
 田中隆吉は、「長氏の残忍性は、通 州の報復を名とする、この大量の虐殺を生んだ」とも言っているが、中国人を人と思わぬ残忍性の点では、田中隆吉も長勇と負けず劣らずだったようである。 1936年5月、同盟通信の上海支社長だった松本重治氏が、新京において、関東軍で謀略を担当していた参謀の田中隆吉と会談したとき、田中は松本に「君は 中国人を人間として扱っているようだが、僕は中国人を豚だと思っている。なんでもやっちまえばいいんだ」(『上海時代』中、209ページ)と言ったとい う。

 第十六師団中島今朝吾中将も同類である。敗戦時、東 部憲兵司令官だった大谷敬二郎氏は、その著『陸軍80年』で、「昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局阿南少将が中島中将に会ったとき、”支 那人なんかいくらでも殺してしまうんだ”とたいへんな気焔をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のよ うに横行したであろう」(226ページ)と言っている。
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   第十軍・第六師団・歩兵第二十三連隊(都城)による南京城西壁水西門付近(?)での投降兵約2000人を処刑 (12月15日) 
 1984年都城連隊の一上等兵の従軍日記が宮崎で発見されて、『朝日新聞』の8月15日号で紹介された。その12月15日の条に、
《今日、逃げ場を失ったチャンコロ約2千名ゾロゾロ白旗を揚げて降伏せる一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨てゝ仕舞つて、太道に蜿々ヒザマズイた有様は、まさに天下の奇観とも云へ様。処置なきまゝにそれぞれ色々の方法で殺して仕舞つたらしい》
と ある。この書きようだと、はたして捕虜を処刑したのが都城連隊であったか否か疑わしくもある。また 「老若取り混ぜ」とあるところを見ると、中には非戦闘員もまじっていたようであるから、あるいは他部隊が 便衣兵狩りでどこかから連行して来て、筆者の大隊が駐屯していた水西門外500メートル近くで処刑したもののように考えられなくもない。
  第六師団の捕虜虐殺といえば、神戸に在住する元上等兵の証言によって、同氏の所属する一部隊(都城連隊ではないが)が、南京から蕪湖へ移駐する途中で、捕 虜の大群を機銃掃射で抹殺した事実が、最近明るみに出た。『毎日新聞』の1984年8月15日号は、この事件について、次のように報道している。
《集 団虐殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南西約60キロの蕪湖へ向けて出発した同月(12月ー洞注記)16日ごろ行われた。児玉さんらに、揚子江近くの 小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に銃機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほ どの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。
  「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は約50メートル間隔で「30丁はあった」いう。「なぜ捕虜を殺した のか。遺体をどう処理したのか、他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉さんはうめいた。》

 ところが、先に紹介した、新発見の第六師団都城第二十三連隊の一上等兵の従軍日記には、日本軍兵士たちの中国人無差別虐殺の非行の有り様が、やや具体的に書き残されていた。これはいうまでもなく一級資料である。
 その12月15日 の条に、次のように言う。   
 《近頃徒然なるまゝに罪もない支那人をつかまへて来ては、生きたまゝ土葬したり、火の中に突き込んだり、木切れでたゝき殺したり、全く支那兵も顔負けする様な惨殺を敢へてし喜んでゐるのが流行しだした様子》
また同月21日の条には、こう記されている。
  《今日も又、罪もないニーヤを突き倒したり、打つたりして半殺しにしたのを、壕の中に入れて頭から火をつけなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆面白がってや るので有るが、これが内地だったら大した事件を引き起こす事だらう。まるで犬や猫を殺す位のものだ。これでたゝられなかったら、因果関係とか何とか云ふも のはトントンで無有というふ事になる》
 都城連隊といえば、翌 1938年おこなわれた漢口攻略戦の時、南京の轍をふむことをおそれた第十一軍司令官岡村寧次中将(のち大将)が、第六師団のなかでは、「最も軍、風紀の 正しい」部隊として選抜し、漢口進入部隊にあてたほどであるから(『岡村寧次大将資料集』(上)「職場回想扁」1970年 原書房)これはよほど優秀な部 隊のはずであるが、この都城連隊すら、実際はこうした一面が見られたのである。


ーーーーーーーーーー『陸軍80年』 憲兵隊司令官・大谷敬二郎 南京の記述ーーーーーーーーーー

 『陸軍80年』(図書出版社)の著者・大谷敬二郎氏は、「第11章、日中戦争」のなかで、南京大虐殺に関して、

そ こでは30万ないし50万の中国人が虐殺されたといわれた。だが、それは、戦犯裁判対策上の著しい虚構と思われる。昭和12年12月10日前後の時点にお いて、南京の全人口30万、ここの防衛軍5万ないし10万、合計35万ないし40万人と推定されるのに、50万虐殺といえば、おつりがくるし、30万虐殺 といえばそのほとんどが殺されたことになる。あまりにも誇大なる告発であった

と書いている(資料2)。この昭和12年12月10日前後の時点において「南京の全人口30万」は何を根拠にした数字なのかはわからない。ただ、南京大虐殺を否定する人たちが、こうした言い方をすることが多いので、「南京の全人口30万」という数字の根拠を知りたいと思う。
 
  南京大虐殺を否定する人のなかには、「ラーベの日記」の「在上海ドイツ総領事館宛」電報に関する記述(1937年11月25日)の中に

党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
 総統閣下
  末尾に署名しております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取 りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになりま す。
     ナチス式敬礼をもって。             ジーメンス・南京、ラーベ

とあることなどを根拠に、「南京の当時の人口が20万であるのに、30万の虐殺などあり得ない」などと、主張している人さえいる。しかし、この「20万」という数字は、明らかに難民区で保護しよとする中国人非戦闘員の、それも11月25日時点の概数で、南京の人口ではない。

  また、日本軍は難民区から多くの中国兵と思われる人たちや疑わしい市民を引っ張り出し虐殺したが、それはごく一部で、虐殺された中国人の大部分が、武器を 捨て敗走する中国兵や一緒に逃げる一般市民であり、また、日本軍が南京攻略にいたる過程で捕らえた敗残兵や投降兵であることを忘れてはならないと思う。南 京大虐殺に関する研究でよく知られた洞富雄氏によれば、当時南京周辺で南京防衛に当たっていた中国の南京防衛軍はおよそ15万に達するという。

 さらに、南京特別市は南京城区(市部)と広大な近郊区(県部)からなっており、南京城区だけで虐殺の問題を論じることはできないということも踏まえなければならない。
 1937年11月23日に、南京市政府(馬超俊市長)は、国民政府軍事委員会後方勤務部に、現在南京城区の人口は50余万と報告しているという。
  したがって、洞氏は、流動的ではあったが、南京攻略戦が開始されたとき、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万、それに中国軍の兵(戦闘兵、 後方兵、雑兵、軍夫など含め)15万を加えてカウントすべきだという。広大な近郊区(県部)を除外しても、55万から65万の数になるのである。
 きわめて流動的であった当時の南京の人口の根拠を示すことなく、「南京の当時の人口が20万であるのに、30万の虐殺などあり得ない」などと言って大虐殺を否定する議論は、南京で何があったのかという事実に正しく向き合おうとしない議論であると思う。

 当時の南京の人口をもとに南京大虐殺を否定する人たちの中には、大谷敬二郎氏の記述をヒントにした人もいるのではないかと思われるが、かつて憲兵隊司令官であった大谷敬二郎氏は、同書の「あとがき」(下記資料1)に、戦時中の日本軍について、”すでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい”と書いていることも見逃してはならないと思う。こうした日本軍の実態を語る関係者の記述こそ、忘れることなく受け継ぐべきだと思う。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                       あとがき


 …日中戦争といえば、そのさなかの昭和14年頃 私は要務のために中国に 旅行したことがある。その帰途は上海から長崎への船によって長崎に着いたが、ここでは、埠頭から長崎駅まで還送される傷病兵士を迎えいたわる婦人たちの姿 を身近にみた。そしてこの国民の帰還傷病兵士への、心からなる手厚い歓待とその心遣いにに、ふかく感動したことがある。

  しかし、この敗戦の場における国民は、戦い疲れて帰還した兵士たちには、意外に冷たくきびしく、あたかも異国の人に接するように疎外していた。もちろん、 敗戦の傷跡はこの国民にも大きく、かつ深かった。人々はその日暮らしにも難渋していたし、その上進駐軍の目は光っており、MPはどこにもMいた。こうした 国内ではあったが、それにしても、これら復員兵士たちのみじめさと、国民の之を迎える、温かい心のカケラさえ見ることができなかったのには、わたしは、心 の随に徹するほどかなしい思いであったことを、今にしてなお忘れられないのである。敗れたとはいえ、よく戦いよく困難に堪え、いく度かの死線を乗り越え て、やっと夢に見た祖国にたどりついた戦士、これをこのように扱う故国、いやそのような国民が、世界のどこにあったであろうかと。

  そして、わたしはいま、30年後の今日、ひとり首をかしげる。なぜに国民は復員軍人に、かくまでつめたかったのかと。そのわけは山ほどあろう。だがこれを 端的にいえば、軍が横暴をはたらき、政治を独占し、こんなムチャな戦争をして、国民を悲惨のどん底におとしいれ、この国をこんなに荒廃せしめたからだ、と 人々は言うだろう。だが、それは戦った軍人軍隊のの罪だけではないと思う。いわゆる軍閥とけなされる軍指導者の一群のいたすところが大であろう。

  しかしわたしはなお考える。この国民から冷遇をうけた、かつての帝国軍人、いや、そこでの軍隊にも大きな責任がある。その軍隊はすでにこの国の国民と断絶 していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい。もし、これが国民と軍隊との間に血の通った、真の「国民の軍隊」であるならば、 たとえ、敗れたりとはいえ、あたたかく迎えられその労はねぎらわれるはずだ。いかにそこに進駐軍の目が光っていたとしても、また、苦しい生活にあえいでい た国民であったとしても。
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 また、大谷敬二郎氏は同書の”南京「大虐殺」”(資料2)のなかで、下記のように書いていることも忘れてはならないと思う。
 ”昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、「支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ」とたいへんな気炎をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。
 中島中将は、南京攻略戦に参加した第十六師団の師団長であり、日記に
一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ
と書いている軍人である。〔437 捕虜(俘虜)「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」 日本軍 NO1参照〕


資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                    南京大虐殺
南京「大虐殺」
  さて、これらの戦績はいつも日本軍の勝利に帰し、そこでの日本軍は常に中国軍一師団に対しわずかに一個大隊といった兵力比の戦いであった。もちろん、中国 軍は、中央軍、地方軍、雑軍といった軍隊で、その精強さにおいては雑多なるものがあり、概して日本軍に比べて劣弱であったといえよう。ことに、その地方軍 などは、兵力温存の立場から、いちはやく退却するという具合で、この中国戦場では殲滅線といったものはなかった。
  したがって、ここでの戦場では、日本軍はよく戦い、つねに城頭高く日の丸をあげるいわゆる「一番のり」を競ったが、すでに、そのときは、有力軍は遁走した あとということになる。たとえ、日本軍が完全に包囲したとしても、そこには必ず隙間がある。この隙間を縫って中国軍は遁走する。しかもその退却にしても大 部隊が隊伍もって退却するのではなく、例えば蜘蛛の子を散らすように四方八方に散って後退し、のち安全な場所でふたたび集結して陣容を建て直すといった退 却戦法であるから、日本軍はとうてい、敵の大軍を捕捉殲滅をすることはあ不可能であった。ここから、占領後の市街粛清が絶対必要となり、入市に先だって市 内の掃討作戦が行なわれた。 

 かの南京における大虐殺 は、今日におよんでも、日本の非道残虐が告発されているが、たしかに、そこでは、玉石混交、一般市民に対する殺害が行われたが、一城を占領したあとは、中 国戦場では大なり小なり、こうした無辜の住民がそばづえをくって戦禍をうけたのも、一般的には、こうした事情によるものと思われる。
 だが、それにしても、南京における事態は、”皇軍”の出師をいちじるしく傷つけたもので、わが対外戦史の一大汚点であろう。

  南京大虐殺は、それは戦後の東京裁判で暴露されすべての国民を驚かしたが、そこでは30万ないし50万の中国人が虐殺されたといわれた。だが、それは、戦 犯裁判対策上の著しい虚構と思われる。昭和12年12月10日前後の時点において、南京の全人口30万、ここの防衛軍5万ないし10万、合計35万ないし 40万人と推定されるのに、50万虐殺といえば、おつりがくるし、30万虐殺といえばそのほとんどが殺されたことになる。あまりにも誇大なる告発であっ た。だが、事実、そこではいく多の不幸な事態があった。東京裁判に証人として出廷した南京大学教授べーツ博士はこう証言している。
 「城内だけでも、1万2千におよぶ中国非戦闘員が虐殺され、ある中国軍の一群は城外で武装解除去れ、揚子江のほとりで射殺された。われわれはこの死体を埋葬したが、その数は3万人をこえていた。そのほか揚子江に投げこまれた死体は数えきれない。
 南京大学の構内にいた3万人の避難民のうち数百人の婦人は暴行された。占領後一ヶ月間に2万人におよぶ、こうした事件が国際委員会に報告された」
 ここでとくに問題とされたのは、右にある中国兵捕虜の虐殺である。日本軍に捕らえられた捕虜1万5千(実数は7、8千といわれている)が、日本軍の機関銃によってメッタ撃ちされ、ために揚子江はまっ赤に染められたというのである。

  最近南京大虐殺といわれたこの日本軍の蛮行について、克明な実証をとげられた、評論家鈴木明氏の数々の労作、「南京、昭和12年12月」「まぽろしの南京 大虐殺」などによって、それが伝えられるような残忍酷薄な意図的なものではなく、右の揚子江河畔の虐殺もまったく偶発的な要素が重なったものであり、その 被害者も「大虐殺」といわれるにはあまりにもその数は少なかったが、後に政治的な意味できわめて拡大されたことが立証されている。だが、こうした事態の究 明によってもここでの日本軍の暴虐が免罪されるものではない。南京入城式が松井司令官統裁の下に行われたのは、12月17日、その前後、市内の掃蕩、粛清 間に行われた殺害、掠奪、婦女強姦の数々は、おびただしいものがあった。戦後、南京事件法廷で当時の第六師団長・谷寿夫中将は、このためにさばかれ、雨花 台で銃殺され、その屍体は群衆にはずかしめられたが、占領後の南京警備司令官は第十六師団中島今朝吾中将であったのだ。

  中島は2・26事件後の憲兵司令官を勤めた人、さきに書いた宇垣組閣阻止に動いた張本人、そのあと第十六師団長となった。憲兵司令官当時、しばしば常軌を 逸することがあり、部下たちを困らせていた。いささか異常性格と思わせる節がないでもなかった。この師団長が南京市の警備責任者であったのだ。昭和13年 1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、「支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ」とたいへんな気炎をああげていた とも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。現に彼は、のち満州の第四軍司令官当時、蒋介石 の私財を持ち出し師団偕行社に送っていたことがばれて予備役に編入されている。

  当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵長は、宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の 暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や掠奪の現行犯で、将校にして手錠をかけ られ憲兵隊に連行されるといった状況がつづいた。だが、これに対し、つよく抗議したのが中島中将であった。このかんの事情がどうであったか、くわしくは覚 えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の紀律はたもてない。高級指揮官が、掠奪など占領軍の 当然の権利のように考えていたからだ。すでに、軍はその質を失っていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーー南京事件 『ラーベの日記』 NO1ーーーーーーーーーーーーーーーー

                     「南京の人口20万人」について No1

 2015年10月14日 自民党は『南京事件』資料のユネスコ記憶遺産登録に関し「中国が申請した『南京事件』資料のユネスコ記憶遺産登録に関する決議」 を発表しました。また、政府は外務省と専門家の意見書をユネスコ側に提出したといいます。ところが、その意見書に対し、疑問の声が上がったとの報道があり ました。それは意見書に南京事件否定派とみられている学者の著書が引用されるなどしたためです。かえって日本の印象を悪くして逆効果になった恐れがあると のことです。

 ふり返ると、2015年5月には、 米国をはじめとする海外の著名な日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表したとの報道がありました。 日本政府の歴史修正主義的姿勢に懸念を示すこうした声明があってもなお、ネット上には
南 京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領 後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたり するでしょうか
というような主張が、相変わらず散見されます。歴史を学ぼうとする日本の若者を惑わす主張であり、国際社会の信頼を損ねる主張であると思います。なぜなら、「20万」という数字について
”…12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。
と書いています。「30万人」の虐殺を否定するために、「20万」という数字が、根拠ある数字であることを示すために、南京安全区国際委員会の発表を利用したのだと思われますが、この「20万」という数字の利用には、三つの大きな問題があると考えます。

 まず第一に、確かに南京安全区国際委員会の代表ラーベも、繰り返し20万という数字を使ってはいますが、下記の日記抜粋文に明らかなように、その数字は、南京安全区国際委員会が保護しようとする「非戦闘員」であり、避難民の数であって、ラーベは「南京の人口」を語っているのではありません。
 日本軍が一般市民も多数虐殺したことは、数々の証言で明らかだと思いますが、特に、南京攻略戦前後に、「捕虜」とした中国兵、武器を捨て、抵抗の意志を放棄して逃げる「敗走兵」や「敗残兵」、さらには白旗をあげて日本軍の前に出て来た「投降兵」などを国際法に反し、計画的に集団虐殺したことを忘れてはならないと思います。ラーベのいう「20万」という数は、「非戦闘員」という言葉が示すように、計画的に集団虐殺された中国兵は、「便衣兵狩り」などで避難民の中から引っ張り出された一部を除き、含んでいないのです。

 ラーベが南京残留を決心した状況とともに、ラーベが「毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ」と書いていることも忘れてはならないと思います。日本は中国で、国際法に反して密かに毒ガス戦を展開していた、という事実を示すものだと思うからです。


 下記は 『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)からの抜粋です。
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1937年9月21日
 裕福な中国人たちはとうに船で漢口へ避難しはじめていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輪で防空壕が作られた。とはいっても、19、20日と、続けて四度の空襲にみまわれるまでは、ごく平穏な毎日が続いた。

  アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていた。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。安全な北戴河からわざわざここへ戻って きたのは、なにも冒険心からなどではない。まず財産を守るため、それからジーメンスの業務のためだ。むろん、社のために命を差し出せなどといわれてもいな いし、いうはずもない。第一、私自身、会社や財産のために命をかける気などこれっぽっちもないのだ。だが、伝統あるハンブルグ商人である私にとってどうし ても目をそむけることのできない道義的な問題がある。それは中国人の使用人や従業員のことだ。かれらにとって、いや、30人はいるその家族にとっても、頼 みの綱は「ご主人(マスター)」、つまり私しかいないのだ。私が残れば、かれらは最後まで忠実に踏みとどまるだろう。以前、北部の戦争で私はそれを見届け ている。逃げれば、会社も家も荒れ果てる。それどころか略奪にあうだろう。それはともかく、たとえどんなにつらいことになろうとも、やはりかれらの信頼を 裏切る気にはなれない。こんなときでなければさっさとお払い箱にしたいような役立たずの連中すら、いちずに私に信頼をよせているのをみると思わずほろりと する。

 アシスタントの韓湘林が給料の前払いを頼みにきた。妻子を済南へ避難させたいという。韓はきっぱりといった。
 「所長がおられる所に私もとどまります。よそへ行かれるのなら、私も参ります!」
  うちの使用人も大半がやはり北部の出身だが、貧しく、逃げようにも行く所がない。せめて妻子だけは安全な所へと思い、旅費を出そうといったが、かれらはど うしていいかわからず、おろおろするばかりだ。むろん、みな故郷へ帰りたい気はある。だが、帰ったところでそこも戦いのさなかなのだ。── というわけ で、口々に、ここに、私のそばにいる方がいいという。
 こういう人たちを見捨てることができるか? そんなことが許されるだろうか? いや、私はそうは思わない! 一度でいい、ふるえている中国人の子どもを両手に抱え、何時間も防空壕で過ごしたことのある人なら、私の気持ちが分かるだろう。

  それに結局のところ、私の心の奥底にはここに残り、ここで耐えぬくべきだ、という強い思いがある。私はナチ党の党員だ。しかも、支部長代理さえつとめたこ とがあるのだ。わが社の得意先は中国の役所だが、仕事で訪れるたびに、ドイツという国、それからナチ党や政府について尋ねたれた。そういうとき、私はいつ もこう答えてきた。

  いいですか……
  ひとつ、我々は労働者のために闘います
  ひとつ、我々は労働者のための政府です
  ひとつ、我々は労働者の友です  
我々は労働者を、貧しき者を、見捨てはしません!

  私はナチ党員だ。だから、私がいう労働者とは、ドイツの労働者のことであって中国のではない。だが、かれらはそれをどう解釈するだろうか? この国は30 年という長い年月、私を手厚くもてなしてくれた。いま、その国がひどい苦難にあっているのだ。金持ちは逃げられる。だが貧乏人は残るほかない。行くあてが ないのだ。資金もない。虐殺されはしないだろうか? かれらを救わなくていいのか? せめてその幾人かでも? しかも、それがほかでもない自分と関わりの ある人間、使用人だったら?

 私はついに肚を決めた。そして留守に使用人たちが掘った陥没寸前の汚い防空壕を作り直し、頑丈なものにした。
 そこへわが家の薬箱をそっくり持ち込んだ。とっくに閉校になった学校からも運んできた毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ。飲食物は篭と魔法瓶につめた。

9月22日
 爆撃終了を告げる長いサイレンが鳴ったあと、車で市内をまわってみる。日本軍がまっさきにねらったのは中国国民党の支部だ。ここには中央放送局のセンターとスタジオがあるからだ。

  本日をもって私の戦争日記の始まりとする。19、20日と続いたすさまじい爆撃の間、私は自分で作った防空壕に中国人たちと一緒に潜んでいた。爆弾が落ち ても大丈夫というわけではないが、榴散弾の炎や散弾っからは守られる。庭には縦横6×3メートルの大きさの帆が広げてある。これにみなでハーケンクロイツ の旗を描いたのだ(写真5ー略)。

 政府が考え出した合図は実によくできている。空襲のおよそ20分前から30分前、けたたましい警報が鳴る。ついで幾分短い警報。これで通りから通行人が排除される。交通もすべて停止。歩行者は通りの脇に作られた防空壕にもぐりこむ、という寸法だ。

 建物の後ろ、市の外壁のローム層に、中国国民党をねらった最後の爆弾のあとが見える。
  そばの防空壕に直撃弾が落ち、8人死んだ。なかから顔を出してあたりを見まわしていた婦人の頭は吹き飛ばされ、どこにも見当たらない。ただひとり、10歳 くらいの少女だけが奇跡的に無事だった。その子は、人々の集まっている所へ行っては、「どうして助かったのか、自分でもわからない。とてもこわかった」と くりかえしていた。広場は兵士によって封鎖された。ちょうど最後の棺の前で紙銭(紙幣を模して作ったもの。棺の前で燃やして死者を弔った)が燃やされたと ころだった。

11月25日
 ・・・
  ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、おなじく上海にいるラー マン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、つぎのような電報を打つつもりだ。
   在上海総領事館。
   党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
 総統閣下
 末尾に署名しております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります。
     ナチス式敬礼をもって。             ジーメンス・南京、ラーベ

 クリーベル総領事殿
 本日私が総統へお願いいたしました日本政府に対する非戦闘員安全区設置に関するお取りなしについて、貴殿の尽力を心よりお願いする次第です。さもないと、目前に迫った戦闘での恐るべき流血が避けられません。
     ハイル・ヒトラ-!  ジーメンス・南京および国際委員会代表 ラーベ
※ヘルマン・クリーベルは1923年のヒトラーによる反乱に加わり、ヒトラーと共に禁固刑を受けた。だがこの頃にはヒトラーへの進言など、とうていできない立場にあった。

 電報代を考えてラーメン氏は後込みをするかもしれない。そう思ったので、費用は私が持つからとりあえずジーメンスに請求してください。と付け加えた

 今日は路線バスがない。全部漢口へいってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ20万人をこす非戦闘員がいるというけれども、ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。

 たったいま杭立武さんが、安全区の件で中国政府から了解を得る必要はないと教えてくれた。蒋介石が個人的に承諾してくれたというのだ。
 渉外担当が決まった。南京YMCAのフィッチ。あとは日本側の賛意を待つのみ。

 上海の中国本社からドイツ大使館に私あての電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るように勧める。そちらの予定を電報で告げよ」

 私は大使館を通じて返事をした。
「ジーメンス・上海へ。ラーベより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました


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