はじめは守備も強力
南京周辺数マイルの中国軍の見かけ上の防衛線は大した困難もなく突破された。12月9には、日本軍は光華門外で城壁に達していた。中国軍5万は城内に押し
返され、最初は強硬な抵抗をおこなった。中国軍は城壁で、また城外数マイルにわたって日本軍の侵入に抵抗したので、日本軍は死傷者多数を出した。
しかし、日本軍の重砲と飛行機がじきに城壁内外の中国軍を一掃し、榴散弾が特に多数の死者を出させた。その間、日本軍は城壁周辺に進出し、最初は西側から下関門(挹江門)を脅かした。
日曜日(12月12日)の正午に、援護の厚い弾幕にかくれて侵略軍が西門(水西門)附近から城壁をよじのぼると、中国軍の崩壊がはじまった。第八十八師の
新兵がまず逃走し、たちまち他のものがそれに続いた。夕方までには大軍が下関門の方へあふれ出たが、下関門はまだ中国軍の手中にあったのだ。
将校たちは状況に対処することもしなかった。部下は銃を捨て、軍服を脱ぎ便衣を身につけた。
記者が日曜日の夕方、市内を車で廻ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向
かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣に着がえてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた。
数個部隊が月曜日(13日)にも日本軍に頑強に抵抗していたが、守備軍の大部分は逃走を続けた。何百人もの兵士が外国人に身をまかせてきた。記者はおじけ
づいた兵隊たちから何十梃という銃をおしつけられた。彼らの望みは何とかして接近する日本軍の手を脱れることであった。
多数の兵が安全区委員会本部をとりまいて銃を渡しており、いそいで軍服を脱ごうとするあまり、門から構内に銃を投げ入れる者さえあった。安全区の外国人委員たちは投降する兵士を受け入れ、彼らを地区内の建物に収容した。
中国軍の三分の一、袋のネズミ
日本軍は下関門を占領すると、市の出口を全部遮断したが、そのとき少なくとも中国軍部隊の三分の一がなお城内にあった。
中国軍は統制がとれていなかったために、多数の部隊が火曜日(14日)正午になっても戦闘を続けており、これらの多くは日本軍に包囲されていて、戦っても見込みがないということを知らなかった。日本軍の戦車隊がこれらを組織的に掃討した。
火曜日の朝、記者が自動車で下関へ向かおうとすると、およそ25名の惨憺たる姿の中国兵の一団に出合ったが、彼らはまだ中山路の寧波ギルドのビルに立てこもっていた。その後、彼らは降伏した。
無数の捕虜が日本軍によって処刑された。安全区収容された中国兵の大部分が集団銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他、兵隊であったこと
を示すしるしのある男子を求めて、市内で一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれた。こうした人々は集められて処刑された。
多くのものが発見された現場で殺されたが、その中には、軍とは何のかかわりもない者や、負傷兵や、一般市民も入っていた。15日には、記者は数時間のうち
に三度も捕虜の集団処刑を目撃した。そのうちの一度は、交通部附近の防空壕のところで100人以上もの兵士に戦車砲を向けて虐殺するというものであった。
日本軍の好んだ処刑法は、十何人もの男を塹壕内に掘った横穴の入口に一緒に立たせて銃殺するやりかたで、こうすれば死体が壕内に転げおちる。そこで土をかけて埋めてしまうわけである。
日本軍は南京包囲攻撃を開始して以来、市内は恐ろしい光景を呈していた。中国側の負傷兵看護施設は悲劇的なまでに不足しており、一週間前でさえも、すでに
負傷者がしばしば路上に見られ、びっこを引いて歩いている者もあれば、治療を求めてのろのろさまよっている者もあった。
一般市民に死傷者多数
一般市民の死傷者数もまた多く、何千にものぼっている。開いている唯一の病院はアメリカ人経営の大学病院(鼓楼病院)で、その設備は負傷者の一部を入れるのにさえ足りなかった。
南京の路上には死体が累々としていた。時には、死体を前もって移動してから、自動車で通行することもあった。
日本軍の下関門占領によって守備隊の大量虐殺が起きた。中国兵の死体は砂嚢の間に山積みされ、高さ6フィートの塚をなしていた。15日の夜がふけても日本
軍は死体を片づけず、しかも、2日間にわたり軍用車の移動がはげしく、死体や、犬・軍馬の死がいの上をふみつぶしながら進んでいった。 日本軍は日本に抵
抗すればこのように恐ろしい結果になると中国人に印象づけるために、恐怖ができるだけ長く続くことを望んでいるような様子である。
中山路の全域にわたって汚物・軍服・銃・ピストル・機関銃・野砲・軍刀・背嚢が散乱していた。日本軍がわざわざ戦車を出動させて道の瓦礫を片づけねばならないところもあった。
中国軍は中山陵園の立派な建物や住宅を含めて、ほとんど郊外全部を焼き払った。下関は焼けおち、大廃墟と化した。日本軍は立派な建物を破壊するのを避けたようである。占領にあたって空襲が少なかったことは、建物の破壊を避ける意図からであったことを示していた。
日本軍は建物がたてこんだ地域に中国軍が集結していたところでさえも爆撃を避けたが、これは建物を保持するためのものらしかった。交通部の立派な建物が市内で破壊された唯一の政府関係のビルであった。これは中国軍によって放火されたものであった。
今日、南京は恐怖政策におびやかされた住民を擁しており、彼らは外国人の支配のもとで死と責苦と強盗を恐れて暮らしている。何万という中国兵の墓場は日本の征服に抵抗する全中国人の希望の墓場でもあろう。
ーーーーーーーーーーー南京事件 ノースチャイナ・デイリー・ニューズ記事ーーーーーーーーーーーー
「外国通信員の南京に入る許可」は、なぜできないのか?
南京における日本軍の略奪・強姦・虐殺などの蛮行について、
”当時の南京は国際都市だったから、各国のジャーナリストたちが大勢いた。それなのに、当時日本に対して反日的な国々からも、正式な抗議は無かった。”
などというような文章をよく目にする。しかしながら、南京陥落後もずっと南京に留まり続けた「各国のジャーナリストたちが大勢いた。」というのは事実ではないと思う。
確かに、首都南京は国際都市であり、外国の公館や企業、報道機関、教会、学校その他があるため、大勢の外国人が駐留していた。しかしながら、その多くが日
本軍による南京空襲や南京攻略に危険を感じて、その大部分が、各国のジャーナリストも含めて南京陥落前に南京を離れていたはずである。
また、南京陥落後、南京難民区の国際委員会関係者が、連日、日本大使館宛に日本兵の暴行に関して抗議や要請をし、諸機関に働きかけてもいた。(467「南京難民区 国際委員会の書簡文と日本の報道」など参照)。したがって、「正式な抗議は無かった」というのも、事実に反するのではないかと思う。
そして、南京を離れた外国人ジャーナリストの中に、南京を離れた後も、懸命に南京の情報を集めて、様々な方法で、南京の悲惨な実情を世に伝えようと努力し
た人たちがあったことや、その文章を見逃してはならないと思う。(473「南京事件 ニューヨーク・タイムズ掲載記事」や468『南京事件 ティンバーリ
イ著「外国人の見た日本軍の暴行」』など参照)。
さらに、
”外国人ジャーナリスト、日本の新聞記者もそこにいっぱいいたのに誰も虐殺など見ていない”
とか
”1937年の南京陥落当時、南京には200人近い記者やカメラマンたちが派遣されていました。
世
田谷区よりも狭い南京市に、朝日新聞、読売新聞、東京日日、NHKなど、200人ものジャーナリストたちがいたわけで、数万人単位の虐殺などあれば、必ず
誰かが話題にしているはずです。記者たちはニュースを探すために現地にいるのですから、虐殺を知らないわけがありません。”
などという文章も、事実に反するものだと思う。外国人ジャーナリスト、F・ティルマン・ダーディン記者は「上海行きの船に乗船する直前、バンドで200人の男子が処刑されるのを見た」という記事をニューヨーク・タイムズに送っている。
また、日本の新聞記者は従軍記者であり、その報道は軍の厳しい検閲を受けていた。従軍記者は、国際法違反の「捕虜虐殺」などを見聞きしても、それを自由に報道できる状況にはなかったことを忘れてはならないと思う。だから、「誰も虐殺など見ていない」と断定することはできないと思うのである。
当時の従軍記者は、日本軍とともに行動し、日本軍に協力して、その戦況や戦果を日本に伝えるのが基本的な役目であり、見聞きしたことを自由に記事にしたり、話題にしたりすることができなかったことを踏まえる必要があるということである。そして「大本営発表」の報道が、戦後、「嘘」の代名詞のように言われるようになったことを、われわれ日本人は忘れてはならない、と思うのである。
『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』1938年1月22日号の記事は、そうしたことを裏付けるものの一つであり、真摯に受け止める必要があると思う。
下記は「日中戦争 南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編」洞富雄(青木書店)からの抜粋である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』1938年1月22日号記事
日本の公式スポークスマンは、昨日の『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』(The North China Daily
News)の社説について、同日午後、”はなはだしく誇張した”、”悪意に満ち”、”根拠がなく”、それに”日本軍の名声をけがす意図がある”と述べた。
外国の通信員が、この日刊紙を引いて、問題の社説の長い引用文を海底電話で通信しようとした時、彼の通信が日本の検閲官によって拒絶されたことに言及する
と、そのスポークスマンは、また、社説の中の事実の正確さに疑いがあると言ったのである。その通信員は英国総領事を通じて抗議文を提出したことを明らかに
した。
『マンチェスター・ガーディアン』(The Manchester Guardian)の中国通信員であるその質問者が、社説に書かれた数字の正確さを疑う理由があるのか、とスポークスマンに聞くと、
「この報道の完全な正確さを疑う十分な根拠があると」と彼は答えた。
「こ
れらの数字がどの程度まで事態を表しているかに関して、なにか情報を得るとか、あるいはあなたの情報がどの程度のものであるかをわれわれに教えてもらうと
かいうことはできないものだろうか。」─「われわれが集めた情報によれば、この新聞に報道された数字ははなはだしく誇張されたものであることがわかる。」
「それだけで、そうした新聞の報道を海外に電送することに異論があるのか。」─「もちろん、われわれはそれには反対する。」
「私
が質問する理由は、今日、『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』の今朝の社説の大部分を引用した至急報を提出したからである。私はまた別の出所からの、
個人的な南京情報を持っていたが、それは『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』が発表した数字を確認させるものだ。私は日本の検閲官と名乗る紳士から電
話を受け、私の通信文を撤回する用意があるかとたずねられた。私がその理由を聞くと、彼はそれが新聞の報道にすぎないからだと言うのだ。
「私
がだれにも影響されない出所からも同じ情報がきていると言うと、彼はもし私がそれを撤回しない場合には、差し止めると言うのである。実際に差し止めるつも
りなのかと尋ねたが、彼はそのとおりだと答えた。それで、私は”好きなようにやりたまえ、だが、私は異議を申し立てる”と言っておいた。その後、私は英国
領事館にたいして、日本当局に抗議し、私の通信をさらに妨害することを止めさせるよう要求したのである。」
その通信員は、『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』の社説のような記事ならば承認されたであろうが、そのような報道が公表された後でさえも、海底電信
で海外へ通信することは許可されないようだ、と語った。”あきらかに、検閲官の気に入らない情報は、差し止められるのだ”と、彼は断定した。
長く気まずい沈黙がつづいた。
1分か2分の間をおいて、スポークスマンは、”根拠もなく、日本軍の名声をけがす意図のある”ような”悪意に満ちた新聞報道は検閲官によって差し止められるだろう”と言った。
「このような報道が、”悪意に満ち”そしてまた”根拠がない”のか。」
─「そのとおりだ!」
通信員は、情報がどこででも見つけられるほど公明正大な出所からもたらされたものなので、その報道は”根拠があり”、”悪意”については疑問の余地はない、と言った。
「それは見解の問題だ!」と、スポークスマンは言った。
「また、個人的な情報の出所については」と、通信員は答えた。「彼らは私の友人だった。これらは、彼らが述べたどの言葉も出所を示す目撃者からの報告なのだ。」
スポークスマンは、”君が引証したような数字”を挙げる目撃者は見つけられないだろう、と言い出した。それに対して、通信員は、南京にそのような目撃者がいるのだ、とやり返したのである。
別の通信員が、すでに述べられた人物や名前は置いて、南京状態について何か声明が出されないのか、と聞いたので、スポークスマンは答えた。「報道担当官は
幾度も南京の状態について報告してきた。現在、その報告に付けくわえるものは何もない。われわれの一般的な印象では、南京の状態は急速に正常に復しつつあ
る。」
その後、ある通信員が、1、2名の外国通信員の南京に入る許可が保証されるかと質問したのに対して、スポークスマンは、”作戦上の必要性”によって、民間人はその陥落した首都に立ち入ることができない、と答えたのである。
ーーーーーーーー475「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO1ーーーーーーー
「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)には、ジャ-ナリストの櫻井よしこ氏が、下記のような「推薦のことば」を寄せている。(一部抜粋)
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本書は、1937年当時の南京にいた軍人、ジャーナリスト、外交官など関係者の体験談を集めた第一級の資料である。いわゆる「南京事件」は、その呼び方すら今だ定まらないほど議論の分かれる問題だが、まずは、そのとき現地にいた人々の話を実際に聞くのが筋である。従って、本書をまとめた阿羅健一氏の手法は、ジャーナリズムという観点からみて、極めて基本に忠実なアプローチだといえる。
一体、日本人は南京で何をしたのか、しなかったのか、そして何を見たのか。虐殺と言われるようなことは本当にあったのか。
それらの結論は、本書を読めば自ずと見えてくる。
・・・
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まず、この「推薦のことば」にひっかかった。
櫻井氏は、南京事件当時、現地にいた日本の軍人、ジャーナリスト、外交官の証言が「第一級の資料」であるという。
一般的に歴史を考察する上で手がかりになる「一次史料」は、その当
時の生の史料、すなわち同時代史料のことである。そして、南京事件に関しては、様々な「一次史料」が存在する。「一次史料」と「第一級の資料」との関係を
櫻井氏がどのように考えているのかはわからないが、「一次史料」と矛盾する「日本人48人の証言」を、そのまま「第一級の資料」などと言って、検証するこ
となく、無批判に受け止めてしまっていいものであろうか、ということである。日本は南京事件の加害国なのである。
「一次史料」として、 日本には当時の日本兵の陣中日記や手紙、陣中日誌、部隊の戦闘詳報があり、さらに、南京難民区国際委員会の関係者が、日本大使館や関係機関に宛てて出した
文書などがある。「日本人48人の証言」とは矛盾する元日本兵の証言や手記なども多数ある。それらを無視し、日本人48人の証言によって「南京大虐殺」が
なかったかのように主張すれば、日中の関係改善を一層難しくするのみならず、日本は国際的な信頼を失うことにもなると思う。
たとえば
第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』の12月13日には、
”八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
貴大隊ノ任務ハ前通リ
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中隊ハ路営 地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ失敗セリ
捕虜ハ観念シ恐レス軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸フルモノ銃剣ノ前ニ乗リ出シ従容トシ居ルモノアリタルモ中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ
と書かれている。ここにある「監禁室ヨリ50名宛連レ出シ」指示された場所で、抵抗不可能な「捕虜」を刺殺するというのは、「交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦」などが規定されている国際法、「ハーグ陸戦法規」に反することだと思う。ハーグ陸戦法規には「俘虜(捕虜)は人道をもって取り扱うこと」と定められているのである。
第十三師団、歩兵第六十五連隊第一大隊、遠藤重太郎輜重特務兵の陣中日記には
”江陰を出発して5日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向つた所はやくも我が六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまつたので又南京北方の砲台に向つたら南京敗残兵が白旗をかゝげ掲げて来たので捕虜2万…”
とある。「白旗」を掲げて投降してきたのであり、はっきり「捕虜」と書いている。捕虜は保護されなければならないはずである。
同じ歩兵第六十五連隊第一中隊の、伊藤喜八上等兵の陣中日記には、
”… 午後1時から南京入城式。
夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。”
とある。捕虜2万人を銃殺したと書いているのである。
また、歩兵第六十五連隊第四中隊の宮本省吾少尉の陣中日記には
”
警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延
焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。”
とある。捕虜3千を「射殺」したという記述である。
また、歩兵第六十五連帯第八中隊、遠藤高明少尉の陣中日記には、
”定刻起床、午前9時30分ヨリ1時間砲台見学ニ赴ク、午後零時30分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ同3時帰還ス、同所ニ於テ朝日記者横田氏ニ逢ヒ一般情勢ヲ聴ク、捕虜総数1万7千25名、夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一江岸ニ引出シI(第一大隊)ニ於テ射殺ス。
1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ。”
と、食糧不足のため軍命によって射殺するのだと受け止めている記述がある。
さらに、歩兵第六十五連隊第九中隊の、本間正勝二等兵の戦闘日誌には、
”12月14日午前5時出発、体ノ工合ハ良カツタ、途中降参兵沢山アリ、中隊デモ500名余捕虜ス、聯隊デハ2万人余モ捕虜シタ”
とか
”12月17日、午前9時当聯隊ノ南京入城、軍ノ入城式アリ、中隊ノ半数ハ入城式ヘ半分ハ銃殺ニ行ク、今日1万5千名、午后11時マデカゝル、自分ハ休養ス、煙草2ケ渡、夜ハ小雪アリ”
と捕虜1万5千名銃殺の記述がある。こうした捕虜殺害の記述や証言がほかにも多数残され、記録されているのである。
※『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記』小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)
※『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)
※『─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行』ティンバーリイ原著 訳者不詳(評伝社)
また、同書「あとがき」の、著者自身の文章に、私は、いくつかの点で同意できない。下記は、その「あとがき」全文であるが、同意できない点を箇条書きにしたい。
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あとがき
南京を歩きまわってあちこち見ていた日本人の証言から、どんなことが浮かびあがってくるであろう。
南京でいわゆる「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。それが一つ。それから9年たち、南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった。
つぎに、48人の証言から、市民や婦女子に対する虐殺などなかったことがわかる。とくに婦女子に対する暴虐は、誰も見ていないし、聞いてもいない。”
南京にはいたるところに死体があり、道路が血でおおわれていた、としばしば語られるけれど、そのような南京は、48人の証言のなかにまったくない。東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ。
一般市民に対してはそうであるけれど、しかし軍隊に対してはやや違うようだ。
中国兵を処断している場面を何人かが見ている。中国兵を揚子江まで連れていって刺殺しているし、城内でも刺殺している。南京に向かう途中でも、そのような場面を見ている人がいる。揚子江岸にはのちのちまで処断された死体がたくさんあった。
これから推察すると、南京事件と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう。
といって、だからそれが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない。大騒ぎすることではない、それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている。
大多数ということは、そうでない人もいた。なかには、処断の場面を見て残酷だと感じ、行き過ぎだと見なす人がいた。しかし、そういう人でも、とくに話題にすることはなかったから、特別なこととは見なしていなかった。
48人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった。中島今朝吾師団長、長勇参謀のように、中国兵にきびしくあたるような言動の人もいたけれど、軍からそのような命令がでたわけではない。反対に、最高司令官松井石根大将は中国兵には人道的に対応するように命じている。
中国軍は、証言にもあるように、降伏を拒否していた。日本軍と最後まで戦うつもりだったし、追い詰められても、降伏は認められていなかったから、捕虜になるという考えや気持ちもなかった。最後の段階になって中国兵は軍服を脱ぎ、市民の中に紛れこんだ。中国軍には戦時国際法が念頭になかった。
一方、中国兵を処断した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた。中国兵の処断は戦闘の続きだ、と日本兵はみなしていたからである。のちに虐殺だと言われるとは思いもしなかっただろう。
それでは、中国兵の処断は戦時国際法からどのようにみなされるのだろうか。
現在の研究からみると、意見は分かれる。
ひとつは、司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない、とみなす意見である。
その反対に、最後まで中国兵を人道的に遇すべきだし、処断は戦時国際法違反だ、という見方がある。
また、処断するにしても、軍律会議などを経るべきだった、そうすれば非難されることはなかっただろうという見方もある。
ともあれ、南京事件と言われるものの実態は、中国兵の処断である。戦場であったから、悲惨な場面もいくらもあった。逃げようとする中国兵のなかには城壁から落ちて死んだものもいた。しかし、それは戦場ならどこにでもる光景である。48人の証言はそういったことを教えてくれる。
2001年11月21日 阿 羅 健 一
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○ まず、 ”「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。”という文章である。現実に「30万人の大虐殺」など見ることはできない。また、何を「虐殺」ととらえるのか、ということがきちんと確認されていないと、虐殺を見たかどうかの証言を集めたことにはならないと思う。
著者はどういう意図があってか、捕虜の殺害(虐殺)を一貫して「処断」と表現し、処断は「合法」といいたいようであるが、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」は捕虜はもちろん、捕虜の資格がなくても、「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」
を禁じている。また、たとえ捕虜の資格がない便衣兵に敵対行為や有害行為があった場合でも、正当防衛でない限り、裁判の手続きなしに殺害することは許され
ない。軍事裁判などの手続きがなされなければならないということである。一般刑法が殺人を禁じているのと同じであろう。
○ 著者は、日本軍が中国兵を揚子江岸で刺殺したり、銃殺したりしたことは認めている。
ところが、”「南京事件」と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう”ということで、「それが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない」などという。「大騒ぎすることではない、それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている」というのである。
「そ
れが戦争だ、戦場だ」と大多数の証言者が見なしていても、それはハーグ陸戦法規に反する考え方であり、人命尊重の意識を欠く野蛮な考え方でろう。投降兵や
自ら武器を捨てた敗残兵を縛り上げて、銃殺したり、刺殺したりすることは、責められるべきことであり、虐殺ととらえられても仕方がないことだと思う。
では、なぜ、日本軍のいろいろな部隊が、何千、何万という捕虜を殺害(虐殺)したのか、また、なぜ、多くの日本兵が、捕虜の殺害(虐殺)に躊躇することなく加担したのか。私は、下記のような軍中央の方針や命令が、その重要な要素であると思う。
陸支密第198号(昭和12年8月5日)次官ヨリ駐屯軍参謀長宛(飛行便)「交戦法規ノ適用ニ関スル件」に「今次事変ニ関シ交戦法規ノ問題ニ関シテハ左記ニ準拠スルモノトス」として
その一で
”現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラサルヲ以テ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラス”
とし、その四で
”軍
ノ本件ニ関スル行動ノ準拠前述ノ如シト雖帝国カ常ニ人類ノ平和ヲ愛好シ戦闘ニ伴フ惨害ヲ極力減殺センコトヲ顧念シアルモノナルカ故ニ此等ノ目的ニ副フ如ク
前述「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」中害敵手段ノ選用等ニ関シ之カ規定ヲ努メテ尊重スヘク又帝国現下ノ国策ハ努メテ日支全面
戦争ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦争ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルゝカ如キ言動(例ヘハ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用、或ハ軍自ラ交戦
法規ヲ其ノ儘適用セリト公称シ其ノ他必要已ムヲ得サルニ非サルニ諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ又現地ニ於ケル外国人ノ生命、財産ノ
保護、駐屯外国軍隊ニ対スル応待等ニ関シテハ勉メテ適法的ニ処理シ特ニ其ノ財産等ノ保護ニ当リテハ努メテ外国人特ニ外交官憲等ノ申出ヲ待テ之ヲ行フ等要ラ
サル疑惑ヲ招カサルノ用意ヲ必要トスヘシ”
と明示している。
日本は、国際法の適用を逃れるため敢えて宣戦布告を
せず他国を攻撃する方針をとり、したがって「戦争」という言葉を使わず、「事件」「事変」という名称で「戦争」を繰り返したのである。北清事件、満州事
変、上海事変、支那事変、ノモンハン事件等々。事件や事変であれば、ハーグ陸戦法規などの国際法に拘束されないと考えていたので、日本軍は、戦場で戦う将
兵に国際法をきちんと教えることをしなかった。だから、日本兵は、戦友を殺された憎しみに差別感も加わって、「捕虜」を虐待したり、拷問したり、殺したり
することにあまり抵抗を感じなくなっていったということではないかと思う。捕虜の虐殺が国際法、ハーグ陸戦法規に反する犯罪であるという自覚がなかったか
ら、陣中日誌などにも「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す」と正直に記述したのだと思う。
また、食糧などの補給がほとんどない日本軍に、捕虜を養う余裕がなく、第十六師団、中島今朝吾師団長が日記に書いたように、「…大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ……」というような方針を取らざるを得なかったことも見逃すことはできないと思う。前述の「(捕虜には)1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ」という遠藤少尉の陣中日記と符合するのである。
著者は「中国兵を処断(虐殺)した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた」と書いているが、それが事実だとすれば、それは、捕虜の処断(虐殺)が国際法違反であるという自覚がなかったからではないかということである。
戦場の日本兵が「捕虜」と受け止めていても、軍中央は戦争ではなく「日支事変」だから、拘束した中国兵は「捕虜」ではなく、ハーグ陸戦法規の対象ではないとして、捕虜の殺害(虐殺)に何の指示も命令もせず放置したのではないのか、と思う。
○ 著者は、南京事件当時の現地最高司令官松井大将は「中国兵には人道的に対応するように命じている」というが、その松井大将自身が「支那事変日誌」に、軍紀・風紀の乱れについて
”…我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等 ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。”
と書いていることを見逃してはならないと思う。「人道的に対応するように命じている」にもかかわらず、実際は人道的な対応がなされなかったということである。だから、「48人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった」というが、実態は虐殺・虐待が日常化していたといえる。
○ 著者は「中国軍は降伏を拒否し、降伏を認めていなかったから、中国兵は捕虜になるという考えや気持ちもなかった」というようなことを書いているが、日本人である著者に、どうしてそんな断定ができるのだろうか。何か記録や証言があるのだろうか。では、なぜ中国兵は集団的に投降したのだろうか。その理由を説明しなければならないと思う。
投降兵や武器を持たない中国兵を縛り上げ、並ばせて銃殺したり、刺突訓練で初年兵に突き殺させたり、首を切り落としてそのまま埋めたりしたことを、「処
断」などと称して、合法とすることはできないと私は思う。また、中国兵と疑われた民間人が多数殺害されたという証言も多い。そうした事実は、48人の証言
だけで、なかったことにできるほど簡単なことではないし、「それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている」などということで正当化できることでもないと思う。
○ 「南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった」として、南京事件が東京裁判でのでっちあげであるかのように主張するのも、当時の日本軍の「情報統制」を考慮しないものであると思う。戦後、「大本営発表」がウソの代名詞のようになったことを忘れてはならない。「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」で、著者ティンバーリイは、「日本側の報道を見よ」と題して
” 日
本軍隊が南京を占領してから後の状況は日本紙にはほとんど登載されず、あるいは全然何も載せられなかったと言えるかも知れない。日本で出版された英字紙
を見ても、日本軍の南京やその他都市におけるいろんな暴行は全然痕跡すら見出されない。日本紙は南京を、平和な静かな地方として粉飾しようと考えていたの
である”
と指摘し、当時の日本の報道をそのまま掲載している。
「東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事」でないことははっきりしている。南京難民区国際委員会の関係者が、連日、日本大使館や関係機関に宛てて出した多くの暴行報告や請願の文書および当時の海外報道を見れば分かることである。
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」に違反する日本軍の投降兵や武器を捨てた敗残兵などの「捕虜」の殺害(虐殺)は、著者のいうような戦闘行為による殺害ではない。
ハーグ陸戦法規の、第一款 第一章、交戦者の資格の第1条には、
「戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される」
とあり、その第二款、第一章、第23条には「特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り」として、
その中にはっきりと「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」と定めている。
「白旗」を掲げて投降してきた中国兵を銃殺したり、刺殺したりすることを禁じているのである。したがって、上記のような記述や証言を、戦闘行為による殺害で合法と主張することは国際社会では通用しない。
○著者は「現在の研究からみると、意見は分かれる」として、「司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない」という主張に同調したいようであるが、この文章もひっかかる。
南京難民区国際委員会は「南京市民に告げる書」の中で中国軍の「防衛軍司令長官が、本区域内の兵士および軍事施設を一律に速やかに撤去し、以後いっさい軍人を本区に入れないことを承諾いたしました」と伝え、また「日本軍は軍事施設がなく、軍事用 工事・建設がなく、駐屯兵がおらず、さらに軍事的利用地でないような場所に対してはすべて、爆撃する意図をけっして持っていない、それは当然のことである」と述べたことを明らかにして、「この区域内の人民は他のところの人民にくらべて、ずっと安全であることは間違いないと、信じています。したがって市民の皆さん、本難民区へおいでになってはいかがでしょうか!」と呼びかけている。
南京安全区国際委員会の外国人委員たちは、南京城からの脱出に失敗し、難民区に逃げ込んでくる中国兵をそのまま難民区に入れることをしなかった。民間人保護のため、武器を捨てた中国兵を地区内の建物に収容したのである。「武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった」というのは、どこの話であろうかと思う。「武器を隠し持ち市民に紛れこんだ」中国兵が、日本兵を殺害したことがあったであろうか。
国際委員会の書簡文・第7号文書(1937年12月18日付国際委員会発日本大使館宛公信)に
”難民区には既に武装を解除する中国兵なく従って便衣隊の襲撃事件も発生し居らざるにも鑑み各収容所私人住宅は既に幾回となく捜索せられ捜索はただ掠奪と姦淫の口実を与え居るを以て貴軍が若し常時憲兵を派し難民区を巡邏せしむれば中国兵はその身を容るる所なかるべし”
とある。
にもかかわらず、肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他、兵隊であったことを示すしるしのある男子を、一軒一軒しらみつぶしに捜索し、南京安全区に収容されていた中国兵の大部分を裁判なしに集団処刑したのである。
前述の日本兵の陣中日記や手紙、陣中日誌、戦闘詳報、さらに、南京難民区国際委員会の関係者が、日本大使館や関係機関に宛てて出した文書、元日本兵の証言
や手記などと符合する中国側の調査結果や中国関係者の証言をすべて無視して、「南京大虐殺」はなかったと主張することは、日本で受け入れられても、世界で
は通用しないのみならず、国際社会の信頼をうしなうことにもなると思う。
日本は敗戦国であり、極東国際軍事裁判や南京軍事法廷などで、虐殺など
の加害責任を問われ、関係者が処刑されている。したがって加害者側である日本の関係者の証言が真実であると主張するためには、被害者側の証言や資料もきち
んと踏まえ、矛盾する内容はきちんと検証しなければならないと思う。一方的な主張では、国際社会では受け入れられないと思うのである。そして、南京大虐殺
についての事実の究明には、どうしても共同研究の姿勢が欠かせないとも思う。
ーーー--ーーーー「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO2ーーーーーーー
「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO1では、櫻井よしこ氏の「推薦のことば」と、著者の考え方が示された「あとがき」について、同意できない部分やその理由をあげた。
同様に、著者の「日本人48人の証言」の受け止め方および証言者自身の南京事件のとらえ方にも、同意できない部分があった。その理由を示すにあたって引いた証言は「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からの抜粋である。
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第一章 ジャーナリストの見た南京
一 朝日新聞
・大阪朝日新聞・山本治上海支局員の証言
「検閲の実態はどんなものですか」という著者の質問に答えて
「検閲のはっきりした基準というものはなく、とにかく軍のこれからの動きがわかるような記事はだめでした。私はその年の4月まで新京支局にいて関東軍の検閲をけいけんしていましたから軍の検閲は大体わかっており、私の持っていくものはほとんどフリーパスでした」
と言っている。したがって、従軍記者は軍の検閲なしに記事を送ることが出来なかったという事実が確認できる。そして、さらに重要なのは、「南京の実態」がきちんと取材され報道されていたのかどうかということだと思う。でも、そのことには触れていない。
また、「南京の様子はどうでした」との質問に
「城壁の周りには中国兵の死体がありました。中山門から見た時、城内には何カ所も煙が上がっているのが見えました」
と答えている。山本記者は陸軍の飛行機で上海から南京に飛び、入城式の終わった午後南京に入ったという。だとすれば、中国兵はすでに撤退しており、逃げ遅れた中国兵も武器を捨ててほとんど南京難民区に入っていた。「城内には何カ所も煙が上がっていた」ということはどういうことか。放火による火災ではないのか、と思う。
「上海や杭州でも南京虐殺は聞いていませんか」との質問には
「徐州作戦に従軍した後、私は体を悪くして昭和13年夏に日本に帰ってきました。神戸へ着いたところ、神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです。…」
と答えている。当時、南京事件は「外字新聞」で報道されていたということである。どんな記事が、どのような方法で、どんな「外字新聞」に掲載されたのか、著者は確かめることをしないのだろうか、と思う。
・東京朝日新聞・足立和雄記者の証言
「南京で大虐殺があったと言われていますが、どんな「ことをご覧になっていますか」との質問に答えて
「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日だったから、14日だと思うが日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが難民区ではなかった」
と答えている。続いて「ご覧になって、その時どう感じました」との質問には
「残念だ、とりかえしのつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那に勝てないと思いました」
と答えている。そして「なぜ勝てないと…」の質問に
「中国の婦女子の見ている前で、1人でも2人でも市民の見ている前でやった。これでは日本は支那に勝てないと思いました。支那人の怨みをかったし、道義的にもう何も言えないと思いました」
と
答えている。これが虐殺の証言でなくてなんであろう、と思う。「塹壕を掘ってその前に並ばせた」中国兵は、多分逃げられないように縛り上げられていたであ
ろう。抵抗不可能な中国兵を、並ばせて機関銃で撃ち殺すことが、戦闘行為によるものであるとすることが、国際的に認められるであろうか。でも、著者は、す
でに前項で触れたように「あとがき」に
”「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない”
と書いている。確かに足立記者が見たのは「30万人の大虐殺」ではない。しかし、同様の虐殺が繰り返されたことは、様々な記録や証言によって明らかなのである。
二 毎日新聞
・東京日日新聞・金沢喜雄カメラマンの証言
著者の「死体は全然なかったのですか」という質問に金沢カメラマンは、
「い
や。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。それは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体
と同じですよ。あれだけの戦場で、しかも完全なる包囲作戦をとっていますから、死体があり、川に死体が流れているのは当たり前です。殲滅するためにわざわ
ざ包囲作戦をとったのですよ。
また、南京城内も戦場になったところですから、難民が撃たれて死んでいるのは当然です。そういうことはあったと思います。それが戦争です。それを虐殺というなら、戦争はすべて虐殺になりますし、それは戦場を知らない人の話です」
この証言には、意識的か無意識的かはわからないが、日本軍の行為を正当化しようとする考えがあるのではないかと思う。「死体があり、川に死体が流れている」のは当たり前」だろうか。「完全なる包囲作戦」による殲滅の理由は何だというのだろうか。「難民が撃たれて死んでいるのは当然です」というのはどういうことだろうか。戦火を逃れて避難する難民が撃たれて死んでいるのは当然なのだろうか。軍の行為に何の疑問も抱かない受け止め方ではないかと思うのである。
また、「それが戦争です。それを虐殺というなら、戦争はすべて虐殺になりますし、それは戦場を知らない人の話です」というけれど、それは違うと思う。
戦争というのは武器を所持して殺し合うことで、投降兵や武器を捨て戦う意志を持たない敗残兵、また、戦火を逃れて避難している難民を殺すことは、国際法で禁じられた虐殺なのだと思う。したがって彼らの死は戦死ではない。戦って死んだのではないのだと思う。
投降兵や武器を持たず戦う意志のない敗残兵、難民の殺害は、戦場だから許されるわけではない。「それは戦場を知らない人の話です」という証言は問題だと思う。国際法など関係がないといっているのに等しい。
著者の聞き取り調査は貴重な取り組みであるとは思うが、戦闘行為による殺害と虐殺をごちゃまぜしたようなこうした証言を集めても、「南京大虐殺」をなかったことにはできないと思う。
東京日日新聞・佐藤振寿カメラマンの証言
彼は「百人斬り競争」の件で、下記のように証言している。
「常州では百人斬りの向井少尉と野田少尉の2人の写真を撮りました。
煙草を持っていないかという話になって、私は上海を出る時、ルビークインを百箱ほど買ってリュックのあちこちに入れていましたので、これを数個やったら喜
んで、話がはずみ、あとは浅海記者がいろいろ聞いていました。私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田の方の当番兵が向井
が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数えると言っていました。よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達など
で忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです。
戦後、浅海記者にばったり会ったら、東京裁判で、中国の検事から百人斬りの証言を求められている。佐藤もそのうち呼び出しがくるぞ、と言っていましたが、
私には呼び出しが来ませんでした。浅海が、あの事件はフィクションですと一言はっきり言えばよかったのですが、彼は早稲田で廖承志(初代中日友好協会会
長)と同級だし、何か考えることがあったんでしょう。それで2人が銃殺刑になってしまいました」
この証言で、実際に向井少尉と野田少尉は、記者に「百人斬り競争」の話をしており、「百人斬り競争」の記事は、浅海記者の作り話ではないということがわか
る。また、2人とも白兵戦で日本刀を振り回し、人を斬る立場になかったこともわかる。さらに、佐藤カメラマンの質問に、2人のどちらが答えたのかわからな
いが、数え方について「野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数える」
と答えている。もし「百人斬り競争」がフィクションなら、佐藤カメラマンに嘘をついたということである。責任ある立場の少尉が、何の理由があって自国の従
軍カメラマンに嘘をつくのであろうか。また、斬った人数を数えることができたのは、投降兵や武器を持たない敗残兵などの捕虜を並ばせて斬ったことの証では
ないかと思う。
野田毅少尉は南京占領後帰国して、故郷の小学校で講演し、下記のようなことを語ったという。
”郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4、5人しかいない……
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……”(志々目彰・月刊誌『中国』1971年12月号ー南京大虐殺否定論の13のウソより))
これが真実に近く、中国兵を塹壕前に並ばせ刺殺した「捕虜虐殺」の一例だろうと思う。
また、「大宅壮一氏(評論家)が当時『改造』に、佐藤さんと会ったと書いていますが…」との質問に
「そ
の頃、大宅壮一は学芸部の社友でしたから、南京には準社員として来ていました。そこで私は大宅を中山文化教育館に連れてきたのです。彼はどこで入手したの
か中国の古い美術品を持っていましてね。大宅だけではなく、記者にもそういう人がいました。その頃は『十割引で買ってきた』という言い方があってね、中国
には古い仏像とかがありますから、そういうものを略奪する人がよくいました」
と、略奪が相当あったことを裏付ける証言をしていることも見逃してはならないと思う。『十割引で買ってきた』というは、お金を払わず手に入れたということで、略奪してきたということだろうと思う。
また、
「… そ
れから何人かで車で城内をまわりました。難民区に行くと、中国人が出て、英語で話しかけてきました。われわれの服装を見て、兵隊でないとわかって話しかけ
てきたのでしょうが、日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ、と言っていました。この時、難民区の奥が丘になっていて、その丘の上の洋館には
日の丸があがっていました。全体としては落ち着いていました」
と証言してもいるが、この証言も、武器を持たない難民区の中国人殺害を裏付けるものだと思う。
さらに
「…14
日のことだと思いますが、中山路から城内に向かって進んだ左側に蒋介石直系の八十八師の司令部がありました。飛行場の手前です。建物には八十八師の看板が
かけてありました。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います。…」
とか
「16
日は中山路で難民区から便衣隊を摘出しているのを見て、写真を撮ってます。中山通りいっぱいになりましてね、頭が坊主の者とか、ひたいに帽子の跡があって
日に焼けている者とか、はっきりと兵士とわかるものを摘出していました。髪の長い中国人はみな市民とみなされていました。」
との証言をしているが、戦う意志があったのかどうか、武器を所持していたのかどうか、疑わしい。それを戦闘行為の続きだと簡単に言ってしまうところに、問題があると思う。
そして、 難民区から摘出した中山通りいっぱいの「便衣隊」と呼ぶ中国人は、その後どうなったのか、確かめることをしていない。
難民区国際委員会のメンバーは、武装解除して難民区に入れた中国兵が殺されているようだと日本大使館や関係機関に訴えているし、前に抜粋した文章のなかにも、「日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ」というのがあった。第一、難民区には「便衣隊」と呼べるような中国兵の組織などなかったし、日本軍による便衣隊相手の戦いなどもなかったはずである。
難民区国際委員会のメンバーは、日本軍に抵抗する中国兵がいないのに、なぜ、日本軍は戦う意志なく、武器を捨てた中国兵を連行するのか、と訴えていたのである。
佐藤カメラマンは、浅海記者が早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だったから、「百人斬り競争」をフィクションだとは言えなかったかのように言い、だから、「2人が銃殺刑になってしまいました」と言っているが、それは、逆に彼の証言が、彼を取り巻く人に配慮せざるを得ない証言であることを感じさせる。
それは、「戦場のことは平和になってから言っても無意味だと思います…」とか「戦場はそういうものです」
というような言葉にも表れている。国際法、ハーグ陸戦法規は、戦場の野蛮な人殺しを防ぐための法規である。 むやみやたらに人を殺したり、残虐な方法で人
を殺したり、また、不特定多数の人を殺すような武器の使用を禁じるハーグ陸戦法規は、戦場でこそ尊重されなければならないのだと思う。
佐藤カメラマンは、著者が南京大虐殺について「直接見ていなくとも噂は聞いていませんか」との質問に
「こ
ういう噂を一度聞いたことがあります。なんでも鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関の岸壁に並べて重機関銃で撃ったというのです。逃げ遅れた警備の日本
兵も何人かやられたと聞きました。一個中隊くらいで3千人の捕虜を捕まえたというのですから、大変だったということです。もちろんその時は戦後言われてい
る虐殺というのではなく、戦闘だと聞いていました。
捕虜を捕まえても第一食べさせる食物があい、茶碗、鍋がない、日本兵ですら充分じゃなかったでしょうからね。私らも上海から連絡員の持ってくる米が待ち遠しい位でしたから」
と
証言している。この証言もおかしい。鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関の岸壁に並べて重機関銃で撃つことがなぜ戦闘行為なのか、与える食べ物がないか
ら殺すことが戦闘行為と言えるのか。 当然のことながら、鎮江で捕えられた3千人の捕虜は、下関の岸壁まで連行されたのであり、武器など持ってはいないは
ずである。そして、逃げたり抵抗したりできないように縛り上げられていたであろう。でも、殺されるとわかれば、必死に逃れようとしたはずである。だから日
本兵にも犠牲者が出たということではないか。それを戦闘行為というのは、日本軍による虐殺を、正当化しようとするものではないかと思う。