評伝社から出版された「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」の著者「Harold John Timperley」の日本語表記は、同書では「ティンバーリイ」となっているが、いろいろあり、多くの場合「ティンパーリ」とか「ティンパレー」などと表記されているようである。そして、彼は「南京大虐殺はなかった」と主張する人たちから「南京大虐殺を造りあげた中心人物」と見なされているようである。
ティンパーリは、当時南京にはおらず上海で活動していたのにも関わらず「外国人の見た日本軍の暴行」
を出版したことが一因のようである。しかし、彼は、当時南京にいた残留外国人が友人に宛てた手紙や報告、南京難民区国際委員会が日本大使館をはじめ米・
英・独大使館等に発した公信、また上海全国基督教総会に宛てた電報等をそのまま利用して同書を出版するに至った事実を見逃してはならないと思う。
ティンパーリは同書の「序」に、一新聞記者としての職責から南京の情報をマンチェスター・ガーディアン紙に送らなければならないと考え記事を打電したが、上海の日本側電報検閲官に差し止められ、何度交渉しても受け入れられなかったと書いている。そこで彼は、「文献証拠」の「蒐集」を決意し、それを公表すべく、同書の著述・出版に取り組んだという。
そして、同書に「載録した記録、報告、文件」は「絶対に信頼し得べき第三者の提供したものに限り」、また、「個人的書信類も純然たる個人的書信ならびに友人関係の通信を除いた原文の抄録を採用し、その真実性の保持に努めた」と書いている。さらに、付録四とした文件(「国際委員会書簡文」)は、全文を引用し、また書信類および文件の原文、複写はすべて眼を通して保存し、写真およびその他の証拠は「再検に備えた」という。
上海で活躍したティンパーリが多くの中国人の信頼を得て、中国で様々な役割を引き受けていたとしても不思議ではない。しかしそれを根拠に、「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」に書かれていることが、全部「嘘」であり、「でっち上げ」であり、「捏造」であると全否定するのは、いかがなものかと思う。また、同書を読めば、彼が当時南京いたかどうかは問題ではないことがわかる。
下記は、同書の第一章「南京の生き地獄」からの抜粋であるが、大部分、当時南京に残留した2人の外国人が友人に宛てた手紙の文章である。彼自身は、南京の事件に関しては何も書いていない。
その第二章「掠奪、虐殺、強姦」は、「16日以後の事件について、彼は日記に次のように記している」とはじまる残留外国人(一章と同じ)の日記文である。
第三章「甘き欺瞞と血腥き暴行」は「昨
年12月下旬、日本軍当局は金陵大学(米国系クリスチャン学校にして50年前に設立さる)の難民3万余名に対し登記を命令した。南京の居住者は一人残らず
登記しなければならなかった。同校の外国人教授は12月31日の覚書と1月3日の日記に基づいて、1月25日左のごとき報告を寄せている」とはじまる報告文である。
以下同様で、その第八章まで、ほとんどティンパーリが「絶対に信頼し得べき第三者」から「蒐集」したという資料の文章なのである。第九章の「結論」のみがティンパーリの文章であるといえる。そして、付録として日本当局に提出された暴行報告や日本の報道記事、国際委員会の書簡文、各城市攻略の日本軍部隊などの資料を付けているのである。
下記は、「実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著・訳者不詳(評伝社)(What War Means: The Japanese Terror in China, London, Victor GollanczLtd,1938)から「第一章」の一部を抜粋したものである。
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第一章 南京の生き地獄
・・・
…次
の文章は南京において尊敬と声望を得、その態度公正ををもって聞こえた一外人が12月15日上海の友人のもとに送った手紙で、日本軍の南京占領後数日間の
情況を要領よく明確に叙述している。『南京の日本軍は既にその声望を失墜した。日本軍は中国人民および外国人居留民の尊敬を獲得すべき最も良き機会を得た
にもかかわらず、自らそれを放棄してしまった。南京撤退の際の中国政府および中国軍隊の秩序は紊乱していた。多くの人々は日本は従来とも秩序と組織を誇る
国家であるから日本軍の南京攻略に当たっても妙なことはあるまいと安心し、また戦争の緊張、空爆の危険も近く終わるものと考えていた。中国軍の南京撤退の
際は実際には大部分の市区は少しも損害をもうむってはいなかったが、ただその紊乱状態は一種の恐怖症状を惹起していた。しこうしてそれも現在に至ってよう
やく収まりつつあった。
しかるに日本軍の入城後2日間に
して我々の希望のすべては無慙にも破れてしまった。絶えざる虐殺、大規模の計画的掠奪、家宅侵入、婦女陵辱等一切はすべて無統制であった。外国人居留民は
事実その眼で路上に充満する良民の死体を見た。南京中区では辻ごとに必ず一個の死体が転がっていた。その大部分は13日午後および夜間日本軍の入城時に銃
殺もしくは刺殺されたものであった。恐怖と興奮のために駆け出せば射殺され、また夜間日本軍の巡邏は人さえ見れば発砲する可能性があった。かかる暴行は全
然弁護の余地がない。難民区でもその他の場所でも事情は同様であった。我々外国人および相当地位ある中国人は、かかる暴行、残酷無慙な殺人行為を野蛮人の
所為と断定した。
撤退できなかった中国兵はすべて武器を
放棄し、ある者は制服さえ脱いだが、日本軍は大規模にこれを捜査しては捕縛して銃殺した。私達の聞いたところによれば、銃殺予定の捕虜および臨時の軍夫を
除けば日本軍内には中国兵の俘虜はいなかった。日本軍は中国の警官を強迫して難民区の中から4百人の難民を引っ張り出し、50人を単位に一列に並ばせ、小
銃、機関銃で背後から威脅しつつ引いて行った。その運命や知るべきである。
日本軍は入城後重要地区に対して計画的破壊工作を行い、大小の店舗一として無事なるものはなかった。日本軍の最も欲したものは食糧であった。従ってその他
のものはたとえ貴重なものでも棄てて顧みなかった。大量の物資は日本兵自身では持ち運べないので強制拉夫を行った。南京の家という家、たとえばそれが占領
されていようとなかろうと、またその規模の大小を問わず、中国人の所有、外国人の所有の別なく、すべて日本軍によって一物余さず掠奪された。次の数個の例
は無恥の最たるものである。第一、日本軍は収容所およびその他の避難民に対して掠奪行為を働いた。第二、日本軍は鼓楼病院職員から金銭および時計を、また
看護婦の宿舎にあった物品を掠奪した(鼓楼病院は米国人の財産で米国旗が掲げられ、米国大使館の告示が貼ってあった)。第三、日本軍はそこにあった自動車
および財産を奪い、掲げてあった国章をも毀損した。
婦女
陵辱および強姦についても既にずいぶん聞いている。ただ我々には調査の暇がないだけである。しかし次の幾多の例は十分に情勢の重大性を証明している。我々
の友人の一人は昨日日本兵が近隣の家屋に闖入し、4人の姑娘を拉致して行った。また幾人かの外国人は、新しく移ってきた将校の宿舎に8人の若い女がいるの
を見た。しかもそこには彼以外に誰も住んでいない家だった。
恐怖の程度はとうてい筆墨のつくし得るところではなかった。日本の要人連中が恥ずかしげもなく彼らの対華作戦の目標は中国政府打倒、中国民衆救済にありと大言壮語するに至っては噴飯物ではないか。
もちろん南京の日本軍の種々な残酷無情な行為は、日本帝国の偉大な功績を代表するものではない。日本には幾多の責任ある政治家も軍人も国民もいる。ただ彼
らは日本自身の利益のみを打算し、毫も中国の低き地位を補救することを考えないだけである。少数の兵、将校は確かに紀律を厳守し、日本皇軍および帝国の声
望を考えた。だが、日本軍全体の行動は日本に対して大なる打撃を与えることとなったのである。』
また別の外国人で南京に居住する友人の一人は、上海の友人に次のような事実を報告している。彼はほとんどその生涯を中国で送った人である。その内容のうち個人関係のものを除いて原文を抄録しよう。
『私
は貴下に極めて不愉快な事件をお知らせしなければならない。貴下はこれを読んであるいは気持ちを悪くされるかも知れない。罪悪と恐怖に充たされた事件で、
おそらく信じられぬことと思う。一群の匪徒は憐憫の情もなく和平善良な人民を蹂躙した。この手紙が幾人かの友人に読まれると思うと、私もこの事件をお知ら
せする甲斐がある。そうでなければ私の良心が許さないであろう。この事件は数人の人が知っているだけで、私もその中の一人である。また次に書くことは事件
の一小部分に過ぎず、それにこれがいつ終了するかは私も断定出来ない。もちろん私はこれが一刻も早く終了することを望んでいるが、ただおそらくは中国の他
の地方においても同様の事件が再び継続して起こることと想像している。私はこれこそ現代史上未曾有の残虐な記録であると信じている。
今日はちょうどクリスマス・イブに当たるが、事件は12月10日にまでさかのぼって書かなければならない。この2週間に私達は大きな変化を経験した。中国
軍が撤退し、日本軍が入城した。12月10日は南京は従前通り美しく秩序も井然としていた。しかし掠奪後の南京は満目荒涼として一片の焦土と化し、至ると
ころ破壊の跡のみである。南京は全く無政府状態に陥って既に10日を経て、あたかも人間地獄の観があった。私はいまだ真の危険には遭っていなかったが、も
しも野獣性の強い日本兵か、酔っ払った日本兵の強姦を行っている地区にいたならば決して安全とは言いえなかった。日本兵に軍刀か小銃で威脅されればその暴
行を許すよりほかなかった。貴下でもそのような場面にぶつかれば途方に暮れることと思う。日本軍は各国
居留民に対して南京より離れるように通告し、外国人がここに居留することを嫌った
彼
らは傍観者を喜ばなかった。しかし私達はここに留まってこの日本軍が最も憐れむべき貧乏人に対しても一枚の銅幣一切の綿糸をも持つことを許さず(ちょうど
厳冬であった)、黄包車夫の車さえ取り上げるのを見た。私達は日本軍が難民区より幾百幾千の非武装の中国兵を連れ出して銃殺し、あるいは銃剣術の練習台に
するのを見た。また明瞭な銃声を耳にすることもあった。私達は多くの婦女子が面前に跪坐し、驚愕のあまり悲歎に崩れながら助けを求めているのを見た。私達
は日本軍が私達の国旗を侮蔑し、私達の住宅を掠奪するのを見た。私達は私達の愛する城市および私達の事務所が日本軍の計画的放火によって焼かれるのを見
た。これは私が生まれて初めて見た生き地獄であった。
私達
は自問した。一体いつになったならば終わるのであろうかと。日本側官憲は毎日私達に対して事態は近く好転するであろうと確信し、方策の万全を講じたが、そ
の結果は常に逆で事態は日一日と悪化した。聞けばまたまた2万の日本軍が南京に到着すると伝えられている。彼らは更に掠奪、虐殺、強姦を行うのであろう
か。しかし掠奪に供される物資は既に極めて少なく、南京は空巣となっていた。先週中に日本軍は各商店、各倉庫のストックを一台また一台と自動車で運び出し
ては、その家を焼き払っていた。私達は私達の持っている食糧を20万の難民に供給すれば、僅か3週間で使い果たし、燃料の貯蔵も僅か10日間に過ぎぬのを
知って焦慮していた。しかしたとえ3ヶ月分の食糧があったとしても、3週間の後には一体何を食べ
ていけばよいのか。家も破壊された。どこへ行って住むのか。現在の極めて劣悪な環境では疾病と悪疫が近く発生することが予想される。難民は決して永く生きていけないであろう。
私達は毎日日本大使館に抗議してその注意を喚起した。日本軍の暴行の詳細な報告を提出した。大使館当局者は表面上は極めて丁重に応待はしたが、実際的には
何らの権力もなかった。勝てる皇軍は当然の報酬として自由掠奪、虐殺、強姦等想像に絶する野蛮残酷な暴行を日本が従来世界に公告したいわゆる「中日親善」
の相手たる中国人の頭上に加えた。日本軍の南京における暴行が現代史上最も暗黒なる一ページであることは疑いない。
過去10日間の事件を一々詳細に書くならば、あるいはいささか冗長なるを免れないであろう。しかしこれらの事実が世人に明瞭となるときは、惜しいかな既に
新聞ではなく旧聞となっているであろう。日本は務めて国外に対して、南京は既に秩序を回復し、南京の住民は旗を振って慈悲深い皇軍を歓迎していると宣伝し
た。しかし私の日記の上には皮肉にもちょうどこの期間に発生した比較的重要な記録が記されてある。興味深く読まれる方もあると考え、次にこれを発表して一
つの永久の記念としたいと思う。
この手紙に書かれた事実
はあるいは手紙の日付と時日の点で食い違いがあるかもしれない。これは日本側の検閲が極めて厳重であったので一度に出さずに留めておいたからである。不運
なかの砲艦パネー号および美孚公司の汽船に乗船して南京陥落以前に南京を離れた米国大使館員およびその他各国の大使館員、外国商人は初めから一週間以内に
南京に帰れるものと希望していた。しかし今では(もちろん日本機の爆撃も受けず、死傷もしない人々についてではあるが)かえって上流で首を長くして南京に
帰れるのを待っている人達であった。彼らはあと2週間もすれば南京に帰ることが出来るであろう。だが私達は南京を離れれば全くそれは永遠の離別であった。
私達は事実上日本軍の俘虜であった。
私が前述の手紙の中
で書いたように南京難民区国際委員会は中日双方に交渉して難民区の中立的地位を承認せしめて軍隊の駐屯、軍事機関の設立を行わず、爆撃目標ともしないこと
を要求し、南京に残留した20万の住民の最も危険時における避難所としたいと努力した。私達は中国の軍隊が上海付近で示した抵抗力は現在では既に撃破さ
れ、その戦闘精神も既に大打撃を受けているとみていた。中国軍が日本軍の大砲、飛行機、タンクの優勢な火力に長期にわたって抵抗することは不可能であった
し、更に杭州湾上陸に成功した日本軍が中国軍の側面および後方を衝いたので南京の陥落は既に免れえないところであった。
12月1日南京市長馬超俊氏は難民区の行政責任を我々に交付し、同時に450名の警察官、3万担の米、一万担の麺粉、塩および10万ドルの助成金交付方許
可を手交し、事実我々は間もなく8万ドルを確実に受け取った。首都衛戌総司令唐生智将軍も心からこれに協力し、難民区中の軍事施設を撤去するとともに軍記
と秩序の厳正を保った。12日の日本軍の入城以前までこの状態が保たれた。たまたま掠奪事件もあったが、少数の食物に限られていた。外国人の財産は最も注
意が払われていた。10日までは水道も出た。11日までは電灯もついていた。そして日本軍の入城する直前に至って初めて電話が不通になった。日本軍の爆撃
機は難民区を目標にしていない様子だったので、当時はまだある程度安全であった。現在の有様に較べると全く天国と地獄である。もとろん私達にも若干の困難
はあった。米は城外に積んであったので、人夫は弾の飛ぶところまで行ってその積替えをしなければならなかった。そのために運転手の一人は眼を負傷したし、
また2輌の自動車が抑留されたこともあった。しかし、これをその後の困難に数えれば、全く問題にもならなかった。
12月10日難民は急激に増加し・・・以下略』
ーーーーーーーーー向井少尉・野田少尉 「百人斬り競争」の記事は創作か?ーーーーーーーー
昭和12年11月30日から数回にわたって、東京日日新聞(現毎日新聞)が、第十六師団第九連隊(片桐護郎大佐)の同じ第三大隊に所属する向井少尉と野田少尉の「百人斬り競争」の記事を掲載した。もちろん、前線日本兵の「武勇談」としてである。
この記事を読んだ英文紙「ジャパン・アドバタイザー」の記者が、その記事を転載し報道したため、上海にいたティンパーリが「百人斬り競争」の事実を察知することになった。そして自身の著書「外国人の見た日本軍の暴行」に、その記事を付録としてそのまま掲載した。
ティンパーリの著書「外国人の見た日本軍の暴行」は、ロンドンやニューヨークで出版されただけでなく、蒋介石政権の手によって中国語版や日本語版も出版されたため、広く知られるようになったようである。
昭和19年秋、中国視察を命ぜられて南京大使館を訪れた満州国政府外交部の官吏、榛葉英治(シンバ、エイジ)が、その際この日本語版の本を見せられ、南京の実情を知ったと書いていることは、「南京難民区 国際委員会の書簡文と日本の報道」(467)で、すでに触れた。
下記の資料1が、ティンパーリの「外国人の見た日本軍の暴行」に付録として掲載された文章である。「実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著・訳者不詳(評伝社)から抜粋した。
この「百人斬り競争」の当事者、野田毅少尉は南京占領の後帰国して、故郷の小学校で講演し、下記のようなことを語ったという。
”郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4、5人しかいない……
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……”
「南京大虐殺否定論の13ウソ」南京事件調査研究会(柏書房)
当然のことながら、東京裁判がはじまって間もなく、向井、野田の両氏はGHQから呼び出される。ティンパーリの著書「外国人の見た日本軍の暴行」によっ
て、「百人斬り競争」が世に知られていたからだと思われる。また、当時「百人斬り競争」の記事を戦地から送った東京日日新聞(現毎日新聞)の浅海一男記者と鈴木二郎記者も、検事側事務官に呼ばれて事情聴取を受けたという。ただ、東京裁判では、この「百人斬り競争」の件で、向井、野田の両氏が裁かれることはなかった。
ところが、向井、野田の両氏は、その後再び呼び出され南京に送られたのである。蒋介石率いる国民党政府の戦犯裁判のため、中国側から「容疑者引渡し」の要求があったようである。
この「百人斬り競争」の記事を戦地から送った「東京日日新聞」の浅海一男記者は、戦後「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」という文章の中で、この件に関して資料2のようなことを書いている。
また、この記事に名を連ねた「東京日日新聞」の鈴木二郎記者は、「当時の従軍記者として」と題して、資料3の文章を書いている。2人の記者の文章は「ペンの陰謀」本多勝一編(潮出版社)から抜粋したが、偽りがあるとは思えない。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南京の「殺人競争」
一米国人は東京出版の英字紙ジャパン・アドバタイザー(Japan advetiser)に、1937年12月7日左のような記事を載せている。
『片桐部隊の向井敏明少尉と野田岩少尉の両名は何れも句容作戦で戦友として互いに殺人競争を行った。すなわち南京を完全占領する前に自ら百名を殺したもの
が賞を奪取し得るものとし、目下最終の段階に達しておる。朝日新聞の消息によると○○日句容城外の作戦における両名の記録は左の通りである。向井少尉は
89名を殺し、野田少尉は78名を殺した。』
1937年12月14日、同紙はまた左のような記事を載せている。
『日
日新聞の戦地特派員が南京城紫金山より発した電報によると、向井少尉と野田少尉は中国人百名を殺害する競争をやったが、未だ決定されていない。向井少尉は
106名を殺し、野田少尉は105名を殺しているが、いずれが先に百人殺害したか決定できない。目下両人は百名を標準とせず、150名を標準とすることに
同意している。
今回の競争中で向井少尉の刀は少し刃こぼれした。それは彼が中国人を鉄甲と一緒に身体を真二つにしたためである。向井少尉はこの第1回の競争は全くの『遊び』でお互い百名の「レコード」を突破しようとは知らなかったが、全くもって興味あることだったと語った。
土曜日早朝、朝日新聞記者は中山陵の高所に向井少尉を訪問した際、他の一部日本軍隊は紫金山に放火し、中国軍隊を駆逐し、一方向井少尉とその部隊を掩護した。弾丸は頭の頂上から横に外れて飛んで行った。
向井少尉は殺人の軍刀を肩にかけている間は、一発の弾丸も命中しなかったと語った。』
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新型の進軍ラッパはあまり鳴らない
浅海一男
「敵を斬る」ことの価値観」
何しろ、もう30数年も昔のことですから記憶が定かでありません。それに、当時の筆者を含む東京日日新聞(大阪毎日新聞)従軍記者の一チームは、上海から
南京まで急速に後退する「敵」を急追するという日本侵略軍の作戦に従軍取材していたので、その環境の悪さとともに、多種類の取材目標をかかえて活動してい
ましたので、その個々の取材経験についての記憶はいっそう不確かになっているのです。
連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな”大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気を配らなければならない緊張感に包まれていたときに、
あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る2人の若い日本将校に出会ったのです。そのとき、無錫の駅舎は戦禍のために半ば破壊され、
広場はおびただしい屑やゴミで汚され、小休止を楽しんだり、出発の準備をしたり、夜営の仕度をしたり、といったさまざまな日本軍将兵の往来でごったがえし
ていました。筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわ
れが掲げていた新聞社の社旗を見て、向こうから立ち寄って来たのでした。「御前たち毎日新聞か」とかといった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まった
のだと記憶します。両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明し
たり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら
両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなか
から、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終わりの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報で
あったのです。
両将校がわれわれのところから去るとき、
筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の
公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話しにやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのです。
その当時、従軍記者のポストに多くの将兵が立ち寄ってくれたことを説明しておくことも事情のリアリティーを助けてくれるでしょう。われわれが部隊の行軍に
まじって行軍していると、行きづりの将兵が「おお、毎日か」とか「新聞屋さんやな」とかいって、ヒゲだらけの顔に親しみをこめて声をかけてくることがしば
しばありました。そのようなとき、たいていの将兵は、かれらが郷里ではわれわれの新聞の愛読者であったといい、かれらが部隊が、何県の何郡出身の兵隊から
構成されており、どんなに元気で、勇ましく戦っているか、そのことを郷里の人びとが知ったらどんなに喜んでくれるか、安心してくれるか等々──について話
してくれるのが普通でした。かれらはその話のなかで、これまで「敵」を何人斬ったとか、それは「一刀のもとにケサさがけに斬り捨てた」
のであるとか「群がる敵を機関銃でなぎ倒した」とか、さまざまな武勇のさまを話して去って行くのが常でした。
連隊長とか旅団長のような高級指揮官は、われわれが普通にはかれらのぞばではなく、最前線とかれらの位置との中間くらいのところに位置していたので、時に伝令を走らせてわれわれの誰かを招致して、かれらの部隊の「大きな戦果」を話してくれたこともありました。
当時の従軍記者には、これらの「談話」について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは「陸軍省から認可された」従軍
記者だったからです。もっとも、われわれはこれらの「談話」のなかから取捨選択をすることは可能でした。しかし、その選択の幅がきわめて狭いものであった
ことは、前にあげたようなもろもろの「戦果ばなし」がそれ自身かなりな現実性をもっていたことと、「陸軍省認可」のわれわれの身分とが規定していたので
す。
事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげ
しい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とく
にわれわれが従軍していた戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、
次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。
・・・(以下略)
戦場が市民を「東洋鬼」に変える
・・・
このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後3、4回われわれのところに
(それはほとんど毎日前進しいて位置が変わっていましたが)現れてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、
いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽を離れて少し前進したところに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで
一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやってきました。そして担当の戦局が忙しいと
みえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると、その時の場所と月日が
記載されていますが、それはあまり正確ではありません。なぜなら、当時の記事草稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって、その他のあまり
緊急を要しない記事は2、3日程度「あっためておく」ことがあったからです。それは、当時最新鋭といわれたわれわれの携帯無線機─
といっても大人二人が天秤棒で担ぐほどのものでした─の電源の容量が貧弱だったために、いつも最優先記事と情報の送信のために電源の大部分をとられ、また
いつも相当量の残余電力を残しておかなければならなかったからです。われわれの送稿は現地からまず上海支局に送られ、そこで送稿の順位が決められ、さらに
大阪本社へ打電され、それがまた東京本社へ電話で送稿されるという経路をたどっていました。それらの中継地や東京本社整理部、東亜部などでの送稿、掲載順
位決定も、あのような緊急性のとぼしい原稿には不利であったのでしょう。いずれにしても、掲載になるときには、その原稿がレーテスト・ニュースであること
を示すために可能なかぎり最新の日付をつけることは当時の新聞社整理部の習慣であったのです。筆者はあの従軍の直前まで東京本社の整理部に勤務していまし
たし、従軍後も同じ部に勤務していたので当時のそうした習慣をよく知っているのです。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当時の従軍記者として
鈴木二郎
私
は、戦前戦後を通じて愛読していた雑誌「文藝春秋」を1973年(昭和48年)の同誌5月特別号(大宅壮一賞発表)を最後に読むのを止めてしまった。勿論
大出版社である文藝春秋という会社にとっては、無名の一読者が、「読まない」と宣言したって、何の痛痒も感じる筈もないであろうが、私にとっては、ここに
明かすささやかな同誌に対する抵抗であり、抗議でもある。
しかし、実は、同誌がきらいでも何でもなかったのである。ただ、同誌が掲載した、いや、これからも載せる出あろう、イサヤ・ベンダサン氏や山本七平氏、それに鈴木明なる人の原稿が気にいらないのである。
私は、前記3筆者(?)の執筆原稿によって真に思わざる”汚名”をきせられたからである。私は、1937年(昭和12年)11月5日から翌年2月台湾から
一時帰国するまでの約3ヶ月間、東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員として中支戦線に従軍、南京までの幾多の敵の拠点の攻略戦に参加、報道の任務を遂行し
ながら、12月12日か13日、死線を越えて南京城中山門から、なお戦火おさまらぬ城内へと入ったのであるが、この間に取材した2人の将校による「百人斬
り競争」の特電(同僚浅海一男君との連名)と日本軍による「南京大虐殺」のレポート(戦時中は厳しい検閲のために書けず、戦後の1971年11月号、雑誌
『丸』からの注文原稿)が前記3氏によって問題視され、勝手な推理、浅薄な証言、一方的な追究調査で、それは”デッチあげ””フィクション””伝説””神
話”とされて、これが、前記『文藝春秋』5月特別号と、1972年(昭和47年)『諸君』4月号で取り上げられた。私は、私ども現場記者の証言として動か
す事の出来ない真実の報道を”フィクション”視された事に就いて、真実である事の原稿を、同誌の田中編集長氏(当時)に、特に「百人斬り」に就いて、「載
せてほしい」と送ったのであるが、何の反応もなく、見殺しにされてしまった。この一方的な扱いに対し腹が立ち同誌の他の内容に関しても、「も早、いい加減
なもの」として購読を止めて了ったのである。
「真実」報道への前進
2人の将校の百人を越す敵兵斬殺が”まぼろしの虐殺”記事とされ、更に”まぼろ
し”が拡大解釈?されて『南京大虐殺のまぼろし』(鈴木明著)となり、これが大宅壮一賞を受賞する事になるのであるが、私どもより少し遅れて南京城に入っ
て虐殺のすさまじさを知った大宅さんも地下で苦笑っしているに違いない。
一体、昼夜を分かたず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私には
とてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中に”ゴール”迫った2人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から39年前の事とは
いえ忘れることは出来ない。南京入城の際私は30歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮
やかに脳裡に浮かぶのである。…(以下略)
ーーーーーーーーーー「百人斬り競争」 向井・野田両少尉の遺書(日記)ーーーーーーーーーー
「百人斬り競争」とは、南京攻略戦のさなか、大日本帝国陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉が、「南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人を斬るか」を競ったとされる行為であり、戦後、南京大虐殺を象徴するような残虐事件として話題になることが多い。
ところが、『新「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(飛鳥新社)には、この件に関して、下記のように書かれている。
”どちらにしても、アメリカ当局はこの「百人斬り」については、「東京裁判」の本裁判では無論のこと、個人の犯罪を裁く「戦時法規を無視したC級裁判」としても、このことを立証し、有罪に持ち込むことは不可能である、と判断し、起訴はしないことにした。”
であれば、その根拠となる文書や関係者の具体的な証言などを示してほしかったと思う。本当に「東京裁判」の検察側が有罪に持ち込むことは不可能であると判断し、起訴はしないことにしたのかどうか、疑問が残る。
また、下記の野田・向井両少尉の遺書を読んでも「百人斬り競争」がまったくの「虚構」であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作した」ものであるとは思えない。野田少尉は
”つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。”
と書いている。「間違つていた」というのである。「百人斬り競争」に関しては、
”只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。”と正当化はしているが、それは、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を慮ってのことではないかという気がするのである。
死刑を潔く受け止めることができるは、自らの過ちを認めているからではないかと思う。「百人斬り競争」が、もし虚構であり浅海記者の創作であれば、やってもいない創作記事のために裁かれることに関して、もう少し踏み込んだ記述があって然るべきではないか、とも思う。
向井少尉も同様に
”我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。”
と書いているが、あまりにも潔い。そして、
”公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。”
と書いているのであるが、この文章で「百人斬り競争」の事実を否定しているのではないことがわかる。「戦闘行為」であり、「捕虜住民を殺害せる犯罪」ではないというのである。
しかしながら、向井少尉も、野田少尉も、戦場で連日日本刀を振り回す白兵戦を強いられるような立場になかったことはよく知られている。2人は同じ第十六師団・第九連隊・第三大隊所属であり、野田少尉は第三大隊の副官、向井少尉は歩兵砲小隊の小隊長である。
また、第十六師団を率いた中島今朝吾師団長(陸軍中将)が、その日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」
と書いていることもよく知られている。そして、多数の第十六師団諸聯隊の将兵が陣中日記等に捕虜殺害の事実を書き留めている(452南京事件
第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言・453南京事件 師団命令の虐殺 元日本兵の証言・454南京事件 陥落後も続く集団虐殺
元日本兵の証言等参照)。したがって、「百人斬り競争」は「捕虜殺害」の可能性が大きいのではないかと思う。
ただ、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を考えれば、どうしても「捕虜殺害」を認めることは出来ないため、「捨て石」やむなしとして、「捕虜殺害」の「処刑」を受け入れながら、「戦闘行為」と主張したのではないか。死刑を潔く受け入れているのは、そういうことではないかと推察する。
少なくても、「百人斬り競争」がまったくの虚構であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作したものであるということは、下記を読めば、あり得ないと思われる。向井少尉は、「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり……」と書いている。また、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です」とも書いて言いる。さらに「浅海様にも御礼申して下さい」とまで書いているのである。浅海記者の創作記事によって処刑されることになったのであれば、そういう言葉は出てこないであろう。
下記、資料1、野田少尉の遺書は12月20日から1月28日の日記の一部を、資料2、向井少尉の遺書は全文を、『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)から抜粋した。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日支の楔とならん
野田毅
鹿児島県出身 陸軍士官学校卒業 元陸軍少佐
昭和23年1月28日、広東にて銃殺刑。35歳
遺書(日記より)
昭和22年12月20日
公判は12月18日南京市の公会堂の様な処でありました。雪の降る寒い日でしたが聴衆が一杯でした。女子供もいました。
日本男児として恥ずかしくない態度で終始しました。「今迄の戦犯公判では一番立派な態度でした。」と後から通訳官や其他の人から聞きました。最後の檜舞台
のつもりで大音声で答弁致しました。従来の公判では死刑を宣告された瞬間拍手があつたり、或は民衆の喧々轟々たる声があつたらしいですが吾々の時は終始静
粛でありました。中国の民衆も耳を傾けて吾々の云ふ事を聞いていた様で吾々に対する悪い感情といふ様な雰囲気は別に感じられませんでした。最終発言では一
言一句力をこめて申し上げました。一緒に公判を受けた向井君(向井敏明少佐)は長時間ねばつて答弁しました。田中さん(田中軍吉少佐)は聴衆の方々に向か
つて「私の死刑は問題ではありません。中国と日本との親善の楔となれば幸いです」と云ふ意味の熱弁を振い、将に鉄火が白熱して飛び散る観がありました。
公判の最後に死刑の宣告がありましたが別に感動も何もなく、まるで他人事の様な気がして、自分で自分が不思議な位平然としていました。田中さんは私と同じ
く身動きもせず毅然としていました。帰途の自動車(トラック)の上では田中さんが「海ゆかば」を歌い向井君も之に和していました。
12月30日
今日は30日明31日を1日余すのみとなつた。向井君は昨夜一睡もせず田中さんは徹夜して遺書を誌した由。私は太平記を読み疲れて寝てしまつた。
私は幼時は負け嫌いで、そのくせよく泣く神経の鋭い男だつたと思う。だが、何時の間にか神経の鈍い男になつてしまつた。寸前の死の観念が心臓にも神経にも
何等響きを持つて来ない。死に対する恐怖がない。死が直前にぶらさがつていても食事前の気分、読書の気分と何等変りがない。と云つて全然死を忘却している
わけでもない。面白い心理だ。
戦争では気がたつて興奮しているから死を考えもしなければ、たとえ死を考えても尽忠報国の気分が之を圧倒していた。
然し平静な時に死刑を宣告されて平静心のままで居られることは私も35才にして初めて到達し得た大丈夫の心境だと思う。古今東西の聖人、賢士、哲人、高僧、偉人、武将、も結局私と同じ心境だと信ずるに到つた。
つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。
愛と至誠のある処に人類の幸福がある。
死刑執行の前日である。爪を取る。故郷への形見である。
天皇陛下万事!
中華民国万歳!
日本国万歳!
東洋平和万歳!
世界平和万歳!
死して護国の鬼となる。
絶唱
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
昭和22年12月31日 朝
死刑執行の日 野 田 毅
我は日本男児なり
昭和22年12月31日
1月28日
南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々
死刑に臨みて
此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚くお礼申し上げます。
只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
宣伝や政策的意味を以つて死刑を判決したり、或は抗戦8年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、
ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳
野 田 毅
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
向 井 敏 明
千葉県。元陸軍少佐。昭和23年1月20日
南京に於て銃殺刑。36歳
時世
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
我が死を以て中国抗戦8年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨て石となり幸ひです。
中国の奮闘を祈る
日本の敢奮を祈る
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります。
12月31日 10時 記す 向 井 敏 明
遺書
母上様不幸先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いの
ですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅
海、富山両氏より証明が来ましたが、公判に間に合いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しない
のを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅海氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれ
るし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ、人情でした。浅海様にも御礼申して下さ
い。今となつては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動
の数々を野田君と共に泣いて語りました。
猛の苦労の程が
目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れま
せん。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした。兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明も猛の手紙も
見たのです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間のすることではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。
不幸の数々を重ねて御不自由の御身老体に加え孫2人の育成の重荷を負せまして不孝これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。
必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされ
ず永く
生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静
に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当苦労する事は明らかですからなぐさめ優しく励ましてやつ
て下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互いに相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻
に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に
之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生きる為に収入の道も拓かねばなりますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそ
のもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子で
す。早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理には申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。
母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりとお姿が浮かんで来ます。子供等も家も浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて
来
ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不孝の連続でたまらないものを感じます。赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も
早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮らして下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過ごして下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰
つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不孝の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に
南京に於て田中軍吉氏野田君と3名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝へ願います。
日記の中より
今日31日執行せられると言ふ朝は何一つとして頭心慾と言ふべきものは無かつた。然し之も正確には言へない弱さがある。血の流れある限りとも言ふべし。立
派に武人らしく斃れよう安らかに我家に還らんと服装を正して待つた。思つたより平静で居られたのは不思議でならない。時間の経つのも長い様にも短い様にも
思つた。正確には判断が出来ない。合掌をして居たと言ふ事より記憶がない。唯日常より真剣に合掌が出来たと言ふ満足があるのみで陽が西に廻つて来た頃今日
はもう無いよと野田君が言ふと田中氏が奇蹟現出だ、我々は助かると喜びの声が震えて壁に打ち当つて聞える。突然生への愛着を覚えて来た。空腹を感じる。今
朝向ふの人に渡した味噌が欲しくなつて来た。生きていると美味い煙草だと田中氏が笑つて呼びかけて来た。本当だ、自分も同調、明日は正月だ、3日間は大丈
夫と言い合つたら各々御馳走が来るだろうと楽しみにした。楽しみつゝ早寝した。精神的の疲れとでも言おうか追ひ込まれるような眠たさだ。何時か誰かに聞い
たが死ぬ前は馬鹿にねむたいと言ふ事を思ひ出した。或はそうかなとも思ひうとうとする。
元旦、気が抜けた。未だ奥歯に物の在る元旦で限られた3日正月の様に淋しい感じがする。声を張り上げて君が代を唱つた。野田君の部屋からも聞えて来た。念
仏を暁方から始めて居たが念仏を念ずるときが一番幸福だと感じた。君が代を唱つて番兵に階上に上官が寝て居るので静かにせよと注意される。やつぱり念仏に
限る楽しさが増して来る。朝食前マンヂウが5ヶ宛来た、万寿とは上々と田中氏喜ぶ。味は全然無いが美味しかつた。2つは本当に呑んだやうだつた。料理が十
時頃来たが獄舎で作つたとの事。80万元か90万元の料理だと言つて居たが成程とうなづけるものばかりだ。碗一杯と小皿一杯ではあつたが3人喜んで喰ふ。
生きて居ないと駄目だよ、マンジウも喰はないで供えて貰ふところだつたねと、田中氏のにこにこ笑う顔が見える様だ。満腹すれば寝正月より他になし。29
日、30日夜寝ずに遺書を書き念仏を唱えて居たので風邪を引き咳が出て苦しめられる。3日目の今日あたり少々楽になつて来た。3日間喰つては寝るの正月だ
つた。この3日が人生の一番ゆつたりとした日になるだろう。生きて居れば思い出の日だ。
昭和23年1月28日、様子が変である。最後の様である。28日午前12時南京雨花台にて散る。
母上様、妻子元気で幸福に生きて下さい。頑張つて下さい。さようなら。
母上様御恩の万分の一も尽されず、先立つ不孝を御赦し下さい。孫等のためいついつまでも永生きして下さい。後をたのみます。
皇室のいや栄を護り奉る
天皇陛下 万歳
日本国 万歳
平和日本の再建
国民一同の御奮闘を祈る
誓つて国家を護り奉る
ーーーーーーーーーー「百人斬り競争」 東京日日新聞 第一報~第四報の記事ーーーーーーーーーー
「百人斬り競争」の論争については、すでに裁判で決着がついているが、いまだに「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」などという主張が続けられている。
当時、南京からこの記事を送った浅海記者は、「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(「ペンの陰謀」本多勝一編(潮出版社)の中で、
”連隊長とか旅団長のような高級指揮官は、われわれが普通にはかれらのそばではなく、最前線とかれらの位置との中間くらいのところに位置していたので、時に伝令を走らせてわれわれの誰かを招致して、かれらの部隊の「大きな戦果」を話してくれたこともありました。
当時の従軍記者には、「談話」について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは「陸軍省から認可された」従軍記者だったからです。…”
と書いている。ありもしない「百人斬り競争」の創作記事を、実在の少尉の名前を使って4回にわたって送ることが、当時の従軍記者に可能だったとは思えない。
にもかかわらず、2003年4月28日、すでに南京で処刑されている野田・向井両元少尉の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一氏らを提訴した。
原告の一人、田所千恵子氏(向井元少尉の次女)は、東京地裁の第一回口頭弁論(2003年7月7日)で
”私たち遺族は「百人斬り競争」の記事がもとで 長年にわたって苦しんできました。父たちの汚名を晴らし、私たち遺族が長年の精神的苦痛から解放されることを願っています。”
と訴えたという。
また第五回口頭弁論(2004年4月19日)で、原告の1人エミコ=クーパー氏(向井元少尉の長女)が、
”父がなぜ見も知らぬ本多氏に、死語もムチ打たれ続けなければならないのでしょうか? 本当の『日本の恥』は、日本人でありながら自らの国や同国人たちの悪口を、真偽を問わず自らの想像で海外にまで撒き散らす者たちのことでしょう”
と意見陳述をし、野田マサ氏(野田元少尉の妹)も
”「優しく勇気があって人気者だった兄が無実の罪で処刑され、今また虐殺犯として歴史に残ろうとしていることを、私は絶対に許すことができません。兄のためにも、裁判を起こして、真実を明らかにしたい。”
と訴えたという。そうした遺族の気持ちはわからないではないが、やはり事実を客観的に見つめることが何より大事だと思う。どんなに辛くても、村山談話の
”わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。”
ということは、日本国民すべてが共有しなければならない事実だと思う。そこから出発しないと、先の戦争が再び「聖戦」になってしまうのではないかと恐れる。
「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」と安倍首相は言った。そして、村山談話を継承すると言いながら、先の戦争における日本の「国策の誤り」
は認めようとしない。GHQの逆コースといわれる政策でよみがえったかつての戦争指導層の考え方を、安倍首相は、基本的な部分で受け継いでいるのではない
かと疑わざるを得ない。だから、同じような考え方をする稲田朋美議員(当時弁護士)が、この裁判に関わったのではないかと思う。
『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』本多勝一・星徹・渡辺春己(金曜日)に「百人斬り競争」を報じた「東京日日新聞」の第一報から第四報が掲載されている。下記である。
両少尉は、ともに捕虜の虐殺で話題の多い上海派遣軍、「第16師団(師団長中島今朝吾中将)」に属していた。そして、野田少尉は第19旅団(旅団長草場辰巳少将)・歩兵第9連隊(連隊長片桐護郎大佐)・第3大隊(大隊長冨山武雄少佐)の「副官」であり、向井少尉は同第3大隊「歩兵砲小隊」の「小隊長」である。連日白兵戦の先頭に立ち、日本刀を振り回すような立場ではなかった。したがって、野田少尉自身が地元の小学校の講演で「白兵戦で斬ったのは4、5人しかいない…」「並ばせておいて片っぱしから斬る…」と語ったというが、それが真実である思う。それは「武器を持たない無抵抗の敗残兵や投降兵、一般中国人の殺害」であり、国際法違反の犯罪である。そして、そうした虐殺があちこちで行われたことは、多くの証言で明らかになっているのである。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<第一報>「東京日日新聞」(1937年11月30日付)
百人斬り競争! 両少尉、早くも80人
〔常
州にて29日浅海、光本、安田特派員発〕常熱、無錫間の40キロを6日間で踏破した○○部隊の快速は、これと同一の距離の無錫、常州をたつた3日間で突破
した、まさに神速、快進撃、その第一線に断つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた2名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は56人斬り、一人は25人
斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県出身=、一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身=。銃剣道三段
の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
「無錫進発後M少尉は鉄道線路26、7キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿って前進することになり、一旦2人は別れ、出発翌朝野田少尉は
無錫を距る8キロの無名部落で敵トーチカに突進し4名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ、これを聞いたM少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに
躍り込み55名を斬り伏せた」
その後野田少尉は横林鎮で9名、威関鎮で6名、29日常州駅で6名、合計25名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近4名斬り、記者が駅に行った時この2人が駅頭で会見している光景にぶつかった。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、野田の敗けだ、俺の刀は56人斬つて刃こぼれがたった一つしかないぞ。
野田N少尉 僕等は2人とも逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ。
※浅海(一男)=「東日」記者「、」光本=「大毎」京都支社記者(50年頃病没)安田=電信技師。
この取材場所(常州駅頭)で佐藤カメラマンが両少尉を撮影した写真は第四報記事と共に掲載された。
資料2 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<第二報>「東京日日新聞」(同12月4日付)
急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過
[丹陽にて三日浅海、光本特派員発]
既報、南京までに「百人斬り競争」を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を
重ね、二日午後六時丹陽入場(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬(シノギ)を削る大接戦となつた。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で、壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿う同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負うなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。
野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰うよ。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<第三報>「東京日日新聞」(同12月6日付)
”百人斬り” 大接戦 89-78 勇壮! 向井、野田両少尉
〔句容にて浅海、光本両特派員発〕南京をめざす「百人斬り競争」の2青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの戦績は向井少尉89名、野田少尉は78名といふ接戦となった。
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<第四報>「東京日日新聞」(同12月13日付)
百人斬り”超記録”向井106─105野田 両少尉さらに延長戦
〔紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発〕南京入りまで”百人斬り競争”
という珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、10日
正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田
「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は”アハハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬つたかこれは不問、結局「じゃドロ
ンゲームと致そう。だが改めて百五十人はどうじゃ」と忽(タチマチ)ち意見一致して、11日からいよいよ百五十人斬が始まつた。11日昼中山陵を眼下に見
下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬りドロンゲーム」の顛末を語つたのち、
「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快じゃ。俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからじゃ。戦い済んだらこの日本刀は
貴社に寄贈すると約束したよ。11日の午前3時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて、弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ち
になつていたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ」
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
ーーーーーーーーーーーーーーー南京事件と日中の関係改善ーーーーーーーーーーーーーーーー
「南京大虐殺の虚構を砕け」吉本榮(新風書房)は、その「はじめに」に
”南京城に関わりを持つ1人として歴史に残る汚点を 見逃すことはできない。”
と大書されている。そして、その中に
”例
え、戦に敗れたとはいえ、嘘で我が国の正史を塗りつぶすことや、全く汚れを知らないまま純潔な生命を祖国に捧げた戦友の死を犬死にさせるようなことだけは
断じて許せない。大げさかも知れないけれど、それが生き残った老兵の果たさなければならない使命のように思えてきたのである。”
と
ある。その気持ちはわからないではないが、こうした立場にこだわると、南京事件を社会科学的(客観的)にふり返ることはできないと思う。一旦、そうした個
人の立場を離れ、日本軍がなぜ他国の首都南京に攻め込んだのかを含め、様々な資料をいろいろな角度から検証しなければ、「南京事件」の全体を明らかにする
ことは出来ないのであり、「南京大虐殺」を「虚構」と断じることは出来ないと思うのである。
また、同書には「真相追求の一里塚として一兵士が世に問う一冊」と題して、犬飼總一郎氏(南京戦当時、第十六師団第九旅団の通信班長・陸軍少尉)が言葉を寄せている。その中に
”南
京問題は結局、現北京政権が決断しない限り解決できません。というのは、中日友好協会の幹部によると「30万大虐殺」は政治決定、つまり党首脳の決定だか
ら変更できないということだからです。したがって、そのような非科学的な政治決定と関わりなく、わが国では自主的・客観的に真実を追求すべきだと信じてい
ます。”
とある。しかし、こういう主張は相互理解を阻むもので、日中の関係改善にマイナスであると思う。
中日友好協会の幹部とは誰であり、なぜ「30万大虐殺」は「政治決定」であるなどと言ったのか、「党首脳の決定だから変更できない」とは、どういうことなのか、全く不可解であるが、詳しいことは何も書かれていない。
「南京事件をどうみるか 日中米研究者による検証」藤原彰編(青木書店)の中に「南京大虐殺の規模を論じる」として、孫宅巍氏の下記のような文章がある。
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南
京大虐殺の規模に関する問題は、長年、国際学術界の大きな関心の的であった。中国大陸の学者は、数十年に及ぶ真剣で、並大抵ではない努力を重ねた調査、研
究を経て、大量の確実な歴史的文献などの資料を調査閲覧し、1000人あまりにわたる生存者、証人を訪問・聞き取り調査をした結果、それらの事象がほぼ一
致して示す結論を得た。つまり30万人以上の人々が大虐殺にあったという事実である。
我々が南京大虐殺の犠牲者が30万人以上という大規模なものであったと認めるのは、充分な根拠に依拠している。調査が可能だった記録に基づくと、千人以上
の虐殺が少なくとも10回あり、その犠牲者は19万人近い。この10回の代表的な集団虐殺には、以下が含まれる。12月15日、漢中門外での2000人あ
まりの虐殺、12月16日中山埠頭での5000人あまりの虐殺、下関一帯の単耀亭などでの4000人あまりの虐殺、12月17日、煤炭港での3000人あ
まりの虐殺、12月18日、草鞋峡での5万7000人あまりの虐殺、12月中三汊河での2000人あまりの虐殺、水西門外、上新河一帯での2万8000人
の虐殺、城南鳳台郷、花神廟一帯での7000人あまりの虐殺、燕子磯江周辺での5万人あまりの虐殺、宝塔橋、魚雷営一帯での3万人あまりの虐殺。この他に
も、規模はそれぞれ異なるが散発的な虐殺事件が870回あまりある。
1
回の犠牲者数は、少ないケースで12人から35人、多いときは数十人から数百人だ。3つの比較的大きな慈善団体である紅卍字会、崇善堂、赤十字社の遺体埋
葬記録のなかには、上述した10回の大規模な虐殺地点での数字以外に、紅卍字会では27回の虐殺、合計1万1192体の収容、埋葬。崇善堂には17回の虐
殺、合計6万6463体の収容・埋葬:中国赤十字社南京支社には18回の虐殺、合計6611体の収容・埋葬、総計8万4266体の埋葬記録が残されてい
る。以上より、集団虐殺は19万人、散発的虐殺は8万4000人、合計27万4000人あまりが虐殺されたとなる。また、以下のことも考慮に入れる必要が
ある。千人以上の虐殺は上述の10回だけではないし、散発的に虐殺された犠牲者の収容・埋葬に当たった団体や私的埋葬隊も上述の3団体だけではないので、
虐殺事件や埋葬活動がすべて記録されるのは不可能なことだった。それ故、我々は集団虐殺と散発的虐殺の事実認定だけから、この大虐殺の被害者は30万人と
いう驚異的規模であったという結論を得た。
・・・
数
十万人の軍人、市民が虐殺されたのは中国人民の大恥辱であることは指摘されなければならないが、このような屈辱を誇張する必要はない。誇張しても、中国人
民は栄光も何も得られない。世界には無垢の人々が何人虐殺されれば、戦犯としての裁判が実施されるかというような法律規定はない。しかし、実際には、南京
大虐殺のある一回の集団虐殺を根拠に、あるいは一埋葬隊の遺体埋葬を証拠にしても、松井石根、谷寿夫などの戦争犯罪者を断頭台に送ることは可能であった。
故意の重複や証拠の数字の増量は、なんら実際的な意義をもたない。しかし、事実は尊重されるべきで、歴史は容易に覆せるものではない。詳細な事実を記した
歴史文献と生存者の証言が、明白に、南京大虐殺の犠牲者が30万人以上であったことを証明している。これは揺るがぬ事実である。
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こうした中国側の調査結果や証言と日本側の資料や証言を合わせて検証するのでなければ、第三者を納得させることのできる事実の解明は難しいと思う。
”「30万大虐殺」は非科学的な政治決定である”と、あたかも何の調査もなかったかのような態度をとるのでは、南京事件の検証は進まないと思うのである。
日本は敗戦国であり加害国である。戦後50年の節目で、世界に向けて
”わ
が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の
人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらため
て痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。”
と、時の首相が談話(村山談話)を発表したことを忘れてはならないと思う。
また、著者は、
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筆者が支那事変における南京攻略戦に関心をもつようになったのは、昭和19年4月から10月にかけての半年間、陸軍の兵士とそいて南京城光華門南側に駐屯
していた頃からである。当時われわれの間では光華門のことを「脇坂門」と呼んでいた。それは南京攻略戦において脇坂部隊(歩兵第三十六連隊)が同門を破
り、南京一番乗りを果たしたことに由来する。
南京駐屯中の筆者は、その脇坂部隊の功績と大激戦のあとを偲ぶべく、機会ある毎に関心をもって
光
華門およびその周辺を眺めたものであった。ところが、筆者の見渡す限りにおいては、光華門を中心に大激戦があったと認められる痕跡がほとんど見当たらな
かったのである。砲・爆撃の痕は認められず、ただ、小銃か機関銃の弾痕と思われるものがところどころ城壁の煉瓦に刻み込まれているのを見掛けた程度であっ
た。
城内に入ると、南京戦以来、6、7年も過ぎていたと
はいえ、戦争の痕跡など全くといってよいほど認められなかったのである。…南京駐屯柱の半年間、城内への出入りは、回数も覚えていないくらい多いが、街中
で家屋、施設などの焼失、倒壊した跡は勿論、新しく修理、修復したと思われるものを見たことがなかった。
とくに中山陵は、中山門外東方の山中にあるのに、全く無傷で、きれいに保存されていたのには驚いた。
戦後復員して、「南京で三十万人の大虐殺事件があった」などとの噂を聞いても、全く信じられるものではなかった。復員の途中、列車の中からではあったが、
広島の無惨な廃墟を見た。数十万人の大都市広島の全域が、一発の原子爆弾で瞬時にして灰燼と化しても、死者は十数万人であったと聞く。あのほとんど無傷で
きれいな街、南京で、30万人が虐殺されたなどと夢想だにできることではないからである。
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と書いている。しかしながら、「南京大虐殺」として問われているのは「武器を捨てた敗残兵や投降兵、無抵抗の一般中国人殺害」の問題である。原爆で破壊された「広島の廃墟」と「無傷できれいな街、南京」を比較して、「30万大虐殺」を「虚構」に結びつけるのはいかがなものかと思う。
さらに、最も重要な問題は、著者が同書に、わざわざ下記のような「章」を設け、柏楊の著「醜い中国人」(張良澤・宗像陸幸共訳 光文社)を引いて、中国人の証言は信用できないとしていることである。
「南京大虐殺の虚構」を中国人の「嘘」や「偽証」によって完結させようとする姿勢では、関係改善は望み得ないと思う。
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第6章 中国人の偽証
第7章 中国人の嘘
1 中国人の嘘つきの根本原因
2 中国人の精神構造
3 中国人の嘘の実態(具体例)
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第5章では、「虐殺数の問題」を取り上げ、「崇善堂の嘘」という項目を設けて、その最後の部分で「ここにおいて、東京裁判における検察側が主張し、裁判所がこれを認めた”大虐殺数”の正確性の根拠とした崇善堂の提出書類は、全く架空のもので、嘘による証拠であったこと明白である」と書いている。
しかしながら、井上久士教授(駿河大学)によれば、崇善堂は「せいぜい従業員5、6人の街の葬儀屋」などではなく、その主たる財源が不動産収入であり、南京近郊江寧県に1672.85畝の田地を持ち、長江中洲に1万3028.06畝の土地のほか家屋264室分を所有していたこと、そこからの地代、家賃で慈善事業を運営していたこと、また、当時の崇善堂の堂長「周一漁」が、放置された惨殺死体を見かねて自ら隊長となって「崇字掩埋隊」(崇善堂埋葬隊)を組織したこと。そして、1938年2月6日、周一漁崇善堂埋葬隊長名で「南京市自治委員会」に宛てた書簡があること。その中で「査するに弊堂が埋葬隊を成立させてから今まで一ヶ月近くたち…」と述べて、崇善堂の自動車は民国24(1935)年製なのでバッテリーなど自動車修理部品が緊急に必要だとして、その補助を要請していること、さらに、埋葬隊は4つの分隊からなり、それぞれ主任一人、隊員一人、常雇員10人で構成されていたが、全く人手が足りず、日当を払い大量の臨時作業員を雇ったこと、現地の農民の協力も得たことなどがわかっているという。
一部資料に基づいて「紅卍字会を除けば、埋葬活動に従事した組織は存在しなかった」と断定し、「崇善堂の嘘」というのは、いかがなものかと思う。
日本人を、「東洋鬼」とか「日本鬼子」と呼ぶ中国人とは、関係改善の話が難しいように、南京事件を論じる書物にこうした「章」を設けて、中国人を突き放してしまっては、中国のみならず、周辺国の人たちからも、日本は信頼を得ることが難しいと思う。
『南京大虐殺」への大疑問』(展転社)の著者、松村俊夫氏にも、同じように中国人を突き放す記述があった。日本が加害国であることを踏まえて、日本の歴史認識が、中国はもちろん、周辺国や世界中の人々から受け入れられ、信頼を得ることのできるようにしたいと思う。
最近、安倍政権のもと、日本社会で進む歴史修正主義の動きを懸念し、世界の日本研究者ら187名が「日本の歴史家を支持する声明」を発表した。歴史の事実は、目先の利益や個人的な思いを離れて、社会科学的(客観的)に明らかにされなければならないのであり、真摯に受け止める必要があると思う。