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ーーーーーーーーーーーー「南京大虐殺」への大疑問? NO1ーーーーーーーーーーーー

 『南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)を読んだ。そして感じたのは、著者は自分自身が指摘し、日本軍の南京大虐殺を認めている人々を「色眼鏡」かけていると批判しているにもかかわらず、自ら正反対の「色眼鏡」をかけて資料にあたり、日本の戦争を正当化するために、自分に都合のよい部分のみを取り上げ、自分に都合のよいように解釈して、客観的事実を見ていないのではないか、ということであった。

 まずはじめに、目次の第一部、第一章に、「中国が知られたくない支那軍の実態」「恐るべき支那軍の焼土作戦」「支那軍の自壊と同志打ち」などという項目が並んでいることに驚いた。南京における日本軍の捕虜虐殺や強姦、略奪などの事実が検証されているのではなく、それらを「支那軍」によるものであるとして、責任逃れをしようとするものなのだと直感せざるを得なかった。いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちと同じ論法で、「攻撃」は最大の「防御」ということなのだろうと思う。

 また、不都合な事実の指摘を「伝聞」として否定するとらえ方も、いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちと同じである。著者は日本軍による「南京大虐殺」の事実の認定が、当時の南京安全区国際委員会メンバーであった外国人の指摘によるものであり、それがほとんど中国人からの伝聞に基づくものであって証拠がないという。しかし、「伝聞」にもいろいろある。南京において、まさに進行中であった「捕虜虐殺」や「強姦」、「略奪」にかかわる被害者本人、またその関係者からの被害直後の「伝聞」を、中国人からのものであるということで否定してしまうような主張は、とても国際社会で受け入れらるものではない。
  中国人同様、南京に留まった外国人も危険の渦中にあって、自らも被害を受けつつ、日本軍兵士の不法行為を見聞きし、くり返し南京日本大使館などに訴えてい たのである。南京に留まった外国人は、日本人と中国人の見分けがつかなかったなどという憶測によって、彼らの訴え否定するようでは、国際社会の信頼を得る ことはできないと思う。

 また、 日本大使館や日本軍に対するそうした不法行為の訴えが、実は「支那軍」によるものであったというのであ れば、その事実を具体的に示す必要があると思う。同書には、世に知られていない新たな資料に基づくそうした事実の指摘は、残念ながら見つけることができな かった。それこそ、”証拠がない”のである。

 資料を調べれば、当時南京攻略に関わった日本軍兵士の「捕虜虐殺」や「強姦」・「略奪」などの「軍紀・風紀」の問題は、軍部内で、南京攻略に向かう前にすでに心配されていたことがわかる。たとえば、多大な犠牲を強いられ、心身ともに消耗、疲弊した上海派遣軍の士気の低下、軍紀の弛緩、不法行為の発生は、陸軍中央にとっても深刻な問題になりつつあったことが、当時の陸軍省軍務局軍事課長、田中新一大佐の次のような文章で読み取れるのである。

” 軍紀頽廃の根元は、招集兵にある。高年次招集者にある。召集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が誤って軍 紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである……補給の停滞から第一線を飢餓欠乏に陥 らしめることも軍紀破壊のもととなる。
 軍紀粛正の道はそれらの全局面にわたって施策せられなければならないが、当面緊急の問題は、後方諸機関にある。後方諸機関の混乱は、動員編成上ならびに指導系統上の欠陥にももちろん起因するが、後方特設部隊の軍紀的乱脈が大問題である。
 軍事的無智、無規律、無責任、怠慢などおよそ団体行動の要素は皆無というべく、これをこのまま放置しておいては全軍規律を動揺せしめることにもなる。問題は制度や機構よりも人事的刷新にある。(「田中新一/支那事変記録 其の3」)”(「南京事件」笠原十九司(岩波新書)

  上海居留民の保護が目的で派遣された上海派遣軍に、すでにこうした指摘があったにもかかわらず、無謀にもその上海派遣軍が、後方諸機関(兵站機関)の準備 を整えることなく、もちろん人事的刷新もなく、そのまま南京攻略に向かったのである。食糧・物資の供給がない軍は「徴発」という「略奪」をくり返さざるを 得ず、時に暴行、住民殺害に及んで、軍紀の破壊が一層進むことに不思議はない。さらには、「軍紀・風紀」を取り締まる正式機関も備えていなかったといわれ ていることも無視できない。

 そうした南京攻略に至る流れを考えると、同書の著者がティンパレーについて語っている下記の文章も、いかがなものかと思う。(ティンパレーは南京城内の南京安全区国際委員会のメンバーであったフィッチベイツからの報告を文書や記事にまとめたり、『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を編集した人物)

3月28日、ティンパレーからベイツへの最後の手紙に、次のような一節がある。
 (①374頁)
  北支から中支、杭州から南京に至るあらゆるところでの日本軍暴行の証言を集めたにもかかわらず、自分がいる上海、しかも難民区第一号が設定された上海地区 では、日本軍暴行の証拠をまったく見つけ出せなかったのである。結局、ティンパレーは、上海については暴行の代わりに空爆の記事をもって埋めたのだった。 しかし、その空爆に比すべくもない規模の日本に対する無差別爆撃があったのは、それからわずか7年後のことである。
 本当ならばティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。なぜ自分のいる上海に見出せず、自分が見ていない他のすべての地区では日本軍の暴行が起きているのか、そのカラクリに気づくべきだったのである。”

  上記、田中新一大佐の文章にあるように、上海ですでに「軍紀頽廃」が日本軍内部で問題視され始めていたが、いまだ世に騒がれるほどにはなっていなかったと 考えられる。ところが、そうした問題を抱えた上海派遣軍が、後方諸機関(兵站機関)の準備を整えることなく、人事的刷新もなく、そして、「軍紀・風紀」を 取り締まる正式機関も備えず南京攻略に向かった結果、軍紀の破壊は現地司令官松井石根自身も認めざるを得ないほどに深刻な問題に発展し、海外でも知られる ことになったのであろう。

 上海居留民の保護を名目に派遣された上海派遣軍は、上海戦では、多くの犠牲者を出したが、「捕虜虐殺」や「強姦」・「略奪」などの「軍紀・風紀」の問題においては、それほど内外に深刻な影響を与える問題に発展させてはいなかったが故に、ティンパレーが「上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません」とベイツに伝えたことは、南京に留まった外国人がみんな中国人にだまされていたり、ティンパレーがそのカラクリに全く気づいていなかったりしたからではなく、逆に、仲間にも正直に事実を伝えている証拠でさえあると思う。

  それは、現地司令官松井石根の、「我軍ノ暴行、奪掠事件」と題した文章からも考えられることである。

”上海附近作戦ノ経過ニ鑑ミ南京攻略開始ニ当リ、我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ、各部隊ニ対シ再三留意ヲ促セシコト前記ノ如シ。図ラサリキ、我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。
 是レ思フニ

一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。

等ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。因テ予ハ南京入城翌日(12月17日)特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ叱責シテ善後ノ措置ヲ 要求シ、犯罪者ニ対シテハ厳格ナル処断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命セリ。然レドモ戦闘ノ混雑中惹起セル是等ノ不詳事件ヲ尽ク充分ニ処断シ能ハサリシ実情ハ巳ムナキコトナリ。”

 現地司令官松井石根は、軍紀風紀の乱れの原因も正しく分析しているのである。
 「我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ」したのは、「我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト」という松井石根の文章が意味するところを、しっかり受け止める必要があると思う。。
 そうした事実を伏せて、戦争体験者が極めて少なくなった今になって、「南京大虐殺」の犯人は実は「支那軍兵士(便衣兵)」であったなどという歴史の修正が国際社会で通用するはずはない。 

  また、中支方面軍(1937年11月7日上海派遣軍および第十軍を編合:司令官松井石根)が、独断で制令線を突破し南京攻略に向かったことは、参謀本部が 上海戦を一段落として、上海派遣軍の整理や休養を考慮していたやさきのことで、予想もしていなかったことであったということも、しっかりと踏まえておく必 要があると思う。

 当時 外務省東亜局長であった石射猪太郎は『外交官の一生』という回想録のなかで「南京アトロシティーズ」と題して

” 南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南 京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺 が危ないとさえ報ぜられた”

と書いている。また、当時参謀本部作戦課員だった河辺虎四郎は、その「回想録」のなかで、

”…華北にせよ華中にせよ、戦場 兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わってくる。南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部 分、ある層以下には浸透しなかったらし い。外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかっ た事情もあったようであるが、いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現れた。”

と書いている。そして、参謀長 閑院宮載仁親王(カンインノミヤコトヒトシンノウ)の名で、松井石根方面軍司令官に対し、異例の「戒告」の文書を発したというのである。彼や軍当局が、そうした事実を認めたくなかったということは、その文書の中に「軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸(ヨウヤ)ク繁ヲ見 之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚(ナオ)疑ハザルベカラザルモノアリ」とあることで明確であるが、認めざるを得ない状況になっていたのである。

  当時軍当局は、日本軍内部よりも、むしろ海外での事件の反響の大きさに苦慮して、現地軍司令官に異例の戒告文書を発したとも考えられるが、現地軍司令官松 井石根も、頻発する掠奪、強姦、放火、虐殺は、実は支那軍の兵士(便衣兵)によるものであるなどということなく、その趣旨を隷下部隊にそのまま通牒してい る。その通牒の内容が、下記である。
 下記資料も、南京における捕虜虐殺や強姦、略奪の多くが、実は支那軍兵士(便衣兵)によるものであったなどという主張が、国際社会では通用しないことを示すものの決定的な一つであると思う。
  だから、「南京大虐殺」の犯人は、実は「支那軍兵士(便衣兵)」であったという主張は、南京に留まった外国人のみならず、現地司令官松井石根も参謀長閑院 宮載仁親王を含めた日本軍関係者も、そして、日本の外交関係者も、みんな中国人にだまされていたということにならざるを得ない。

 また、下記のような、多くの元日本兵の証言や陣中日記、手記、陣中日誌(その一部はすでに取り上げている)などが、捕虜虐殺や強姦、略奪の事実を明らかにして事実についても、きちんと説明しなければならないはずである。

”… 日本から食料を送ってくる間の時間が長いので、ほとんどは現地略奪やったな。現地の支那人が住んでいる所に行って、無理やりに物を盗ってきたんや。…わし らは結構悪いことをした。ぱっと大きな村に入っていくらでも物を集めてくるんや。豚でも牛でも食料でもなんでも盗ってきたな。反抗したら撃つのでな、村の 人は反抗なんかできないわな。”(「452南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言」)

 ヘイトスピーチ同様、日本の歴史修正の動きは、日本の国際的信頼を損なうものであり、止めたければならないと思う。
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○軍紀風紀に関する参謀総長要望

 中方参第19号

                                  軍紀風紀ニ関スル件通牒 
                                  昭和13年1月9日
                                                       中支那方面軍参謀長 塚田 攻
 両軍参謀長  
 直轄部隊長宛
 中支監
一、 首題ノ件ニ関シテハ各級団隊長ノ適切ナル統率指導ノ下ニ之カ振粛ニ邁進セラレアルヲ信スルモ今回参謀総長宮殿下ヨリ別紙写シノ如キ要望ヲ賜リタルニ就テハ 此際軍紀風紀ノ維持振作ニ関シ最大ノ努力ヲ払ハレ度尚軍紀風紀並ニ国際問題ニ関シテハ今後陸軍報告規定ニ準ジ其緩急ニ従ヒ電話・電信又ハ文書ヲ以テ迅速 ニ其概要ヲ報告シ更ニ詳細ナル報告ヲ呈出セラレ度
 右依命通牒ス

(別紙)

 顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半蔵ニ邇シ其行ク所常ニ必ズ赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ中外斉シク之ヲ絶讃シテ止マズ 皇軍ノ真価愈々加ルヲ知ル然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ヘハ未タ瑕瑾ノ尠カラザルモノアルヲ認ム
 就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見之ヲ信セサラント欲スルモ尚疑ハサルヘカラサルモノアリ
 惟フニ1人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ一隊ノ過誤モ遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルモノニ至ラン

  須ク各級指揮官ハ統率ノ本義ニ透徹シ率先垂範信賞必罰以テ軍紀ヲ厳正ニシ戦友相戒メテ克ク越軌粗暴ヲ防キ各人自ラ矯テ全隊放縦ヲ戒ムヘシ特ニ向後戦局ノ推 移ト共ニ敵火ヲ遠サカリテ警備駐留等ノ任ニ著クノ団隊漸増スルノ情勢ニ処シテハ愈々心境ノ緊張ト自省克己トヲ欠キ易キ人情ヲ抑制シ以テ上下一貫左右密実聊 モ皇軍ノ真価ヲ害セサランコトヲ期スヘシ

 斯ノ如キハ啻ニ皇軍ノ名誉ト品位トヲ保続スルニ止マラスシテ実ニ敵軍及第三国ヲ威服スルト共ニ敵地民衆ノ信望敬仰ヲ繋持シテ以テ出師ノ真目的ヲ貫徹シ聖明ニ対ヘ奉ル所以ナリ

 遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ困難ナラシメル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル 

 然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ努力ヲ望マザルヲ得ズ 或ハ沍寒ニ苦シミ或ハ櫛風沐雨ノ天苦ヲ嘗メテ日夜健闘シアル外征将士ノ心労ヲ深ク偲ビツツモ断シテ事変ノ完美ナル成果ヲ期センカ為茲ニ改メテ軍紀風紀ノ振作ニ関シ切ニ要望ス
 本職ノ真意ヲ諒セヨ
  昭和13年1月4日
                                        大本営陸軍部幕僚長    載仁親王

 中支那方面軍司令官宛

ーーーーーーーーーーーーーー「南京大虐殺」への大疑問? NO2 ーーーーーーーーーーーーーーー

 『南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)の著者は、その第3部『検証・ラーベの日記』の第一章の「アメリカ人に手なずけられたラーベの苦闘」のなかで、立花隆氏を批判して

「目から鱗が落ちる」という表現がある。つまり、目に「先入観」という鱗がはまっていては、立花隆といえども、いかなる文章もその鱗を通してしか理解し得ないことを意味している。

と書いている。私は、これは全く逆であると思う。著者が「南京大虐殺」はなかったという「結論」を前提(鱗)にして関連の書物を読む結果なのだと思うのである。

 第4章の中には『ラーベを信じている「日本人を知らない」日本人』という部分がある。そこでは文芸評論家・福田和也氏の「ジョン・ラーベの日記『南京大虐殺』をどう読むか」(「諸君!」平成9年12月号)のなかの文を引用して、下記のように批判している。しかし、下記の文章には2つの問題があると思う。

”<日 本兵は哀れであった。ただ彼等は生命を賭けて敵と戦わなければならなかっただけではない。気の遠くなる程広い異郷の大地で、いかに収拾するかという目処 も、戦争目的すらはっきりしない戦いに駆り出され、食料を得るために近隣の村を歩き回り、それでも満足に食事にありつけず、重い荷物を背に毎日50キロ近 くの行軍を行い、貧弱な装備で激戦を戦い、胞輩を失い、パルチザンによる襲撃に脅えながら眠り、マラリア等の疾病に悩まされた。その上で彼等が、南京でこ れまた哀れな中国人たちの財物を奪ったり、殴ったり、犯したり、殺したりしたのであれば、人としてこんなに哀れなことがあるだろうか。>
  パルチザンとはフランス語で「正規軍に属さず、ある党派・理念のために自発的に戦う人々をさし、遊撃隊員、便衣隊員などを意味する。ゲリラとほぼ同意義」 (『世界歴史大辞典』教育出版センター)のことである。本文中で彼がこの語を頻出させている真意はわからない。はっきりと「便衣隊」と書けば済むことであ る。
 それにしても、「日本兵の哀れ」との小見出しのあるこの部分 は、これから問題にする藤原彰の日本軍観と瓜二つである。(第5部第3章参照)「日本軍」ではなくて、「日本軍将兵」への個人的な誹謗になることを彼が気 づいているのかどうか、当時の日本人の持っていた価値観の実情にうとい戦後派論客の所論の典型である。戦争目的もはっきりしていないのに命がけで戦えると 思うことが間違いのもとである。

 ひとつは、「パルチザン」を『世界歴史大辞典』を引っ張り出して「便衣隊」と言い換える問題である。
  蒋介石は多くの幕僚の反対を押し切って無理な南京固守作戦を決定したといわれている。加えて、蒋介石によって南京戦の最高指揮官に抜擢された唐生智が、情 勢を的確に把握できず、南京防衛軍全軍の撤退命令を出す時期があまりに遅かったという。そして、司令長官部がさきに撤退してしまったために南京防衛軍は指 揮系統が完全に崩壊し、日本軍の猛烈な攻撃の前に総崩れとなったのである。その結果、南京防衛軍の兵士たちは、必死に南京脱出を図る敗残兵の群れとなって 挹江門などに殺到した。そして、南京城から脱出できなかった敗残兵や長江の渡河手段なく城内にもどった兵士たちが、日本軍の掃蕩から逃れるために武器を捨 て、軍服を脱ぎ、平服になって一般避難民と合流したのである。それは、いろいろな立場の人が記録しているが、「ニューヨーク・タイムズ」のF・ティルマン・ダーディン記者の下記の記述でも確認できる。

”日曜日(12日)夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。
  軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは小銃、手榴弾・剣・背嚢・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(挹江門)近くで放棄された軍装品はおびただし い量であった。交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のよう になっていた。(ニューヨーク・タイムズ38年1月9日、『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』)

 南京事件で日本が問われているのは、捕虜とした「投降兵」や「敗残兵」を殺害したり、南京陥落後、武器を捨て平服になった中国兵を避難民の中から見つけ出し、「便衣兵」として殺害したりした国際法違反の「虐殺」の問題である。日本軍に抵抗していた南京陥落前は、中国の兵は軍服であったから、陥落後日本軍の掃蕩から逃れるためにそれを脱ぎ捨てたのであろう。したがって、いわゆる「便衣兵」の殺害は、武器を手にして必死に日本軍と戦っていた陥落前の中国兵の殺害と同様に扱うことはできないはずである。

 また、陥落後の南京城内では、武器を捨て平服になった中国兵は、すでに「隊」と呼べるような組織的な動きなどしていなかったのであり、いわゆる「便衣兵」の殺害を、「パルチザン」という言葉を利用して(「便衣隊」と言い換えて)、あたかも合法であったかのように言い逃れることは許されることではないと思う。著者は、『世界歴史大辞典』を引っ張り出すことによって、パルチザンということばを「便衣隊」と言い換え、武器を捨て平服になった中国兵の殺害を合法であるかのように装っている。そういう意味では、武器を捨て、平服になった中国兵を「便衣兵」と呼ぶことさえも問題であると思う。「便衣兵」というのは、基本的には武器を所持し、抵抗の意志がある者をいうのではないかと思うのである。そして、そうした武器を所持し、抵抗の意志がある「便衣兵」が組織的に活動している時、はじめてそれを「便衣隊」と呼ぶのではないかと思う。
 著者は、「パルチザン」や「便衣隊」、「便衣兵」ということばを敢えてごちゃまぜにし、戦う意志のない「敗残兵」や「投降兵」の殺害を合法であったかのように装っていると思うのである。

 もうひとつは、南京攻略線の「戦争目的」についてである。上海派遣軍が編成されたのは、上海の在留邦人保護のためであった。それは、臨参命第73号に「上海派遣軍司令官ハ海軍ト協力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ」とあることで明白である。そして、派遣された兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残して出征し、上海戦が終われば帰還できると思っていたという。

 「天皇の軍隊と南京事件」(青木書店)で、吉田裕氏は「上海の要衝、大場鎮の攻略を目ざす苛酷な戦闘のなかにあって、兵士たちを精神的に支えていたのは、上海を攻略すれば戦争は終結する、少なくとも自分たちの部隊は交代して故郷に帰れるという期待であった」として、「大場鎮」の陥落は、「戦争は終ったんだ、内地へ帰れるぞという噂が広がった」(第九師団歩兵十九連隊下士官、宮部一三)と、兵士の故郷への帰還の期待を噴出させた事実を示す、いくつかの記述を紹介している。

 もともと上海派遣軍は、陸軍中央が予期も準備もしていなかった日中全面戦争の開始によって、急遽予備役兵・後備役兵を召集し派遣せざるを得なかっ た臨時の特設師団である。陸軍中央も、まさかその派遣軍が独断で制令線を突破し、南京攻略に向かうとは予想もしていなかった。南京攻略を追認せざるを得な かった参謀総長・載仁親王の発した「大陸命第8号」には「一、中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」とだけあり、「居留民の保護」というような攻略の目的は明示されていない。当初「支那第29軍の膺懲」を目的として始まった日中戦争が、いつのまにか「対支膺懲」に変わり、南京攻略に向かう事情を、急遽召集され派遣された兵士が理解していたとは思えないのである。
 上海派遣軍司令官に任命された松井石根大将は、出発前から南京攻略の意図をもっていたようであるが、上海の在留邦人保護のために出征を余儀なくされた兵士個々人が、何の目的で他国の首都に攻め込むのか、その「戦争目的」を把握していたという根拠があるだろうか。

 著者は福田和也氏を批判するために、『京都師団関係資料集』の「上羽武一郎日記」から「新東亜建設の大理想の下に戦われたこの聖戦に参加した私の日記である」という文を引いている。そして

例え建前にしろ何にしろ、将兵も国民も、このような気概を持っていたからこそ、命がけで戦い、銃後で働いた。「戦争目的すらはっきりしない」というのは、「当時の国民感情」に対する無知をさらけ出してあまりある言葉である

と 書いているが、上海居留民の保護のために急遽出征を余儀なくされた兵士が、上海居留民の保護が達成され一段落したにもかかわらず、さらに「南京攻略」に向 かうこととなり、ほとんど補給のない戦場で毎日一般民家からの略奪をくり返しつつ戦うしかなかったのに、、その戦争を「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」と受け止めて戦い続けることが可能だったのか疑問である。


 「殺戮を拒んだ日本兵”渡部良三”の歌集から」ですでに引用したが、「捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ」「縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる」などという歌を思い出す。また、「夜間行軍にむさぼり眠る小休止新兵互(カタミ)にからだつなぎて」には、<註>として、新兵の夜間行軍の際は、「脱落、落伍、逃亡防止のため、ロープで新兵の体を互いにつながせた」とあった。人間扱いされないような苛酷な戦場で、「新東亜建設の大理想」が末端兵士の心に生きていたとは思えない。

 また、「刺突訓練」という捕虜殺害については、すでに別のところでも、いろいろな資料から抜粋しているが、第五十九師団・師団長・陸軍中将「藤田茂」の自筆供述調書に「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」などと、俘虜(捕虜)殺害の教育指示をしたという記述があったことも付け加えたい。訓練のために、捕虜を殺害させたのである。「刺突訓練」で、初年兵に「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」の意識が育つとは思えない。

 また、「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」を戦う軍隊に、下記のようなことがあり得るだろうか。

 上海戦および南京戦の間に頻発した犯罪事件を「命により」法務部や憲兵隊と連絡をとって調査し、報告書の形でまとめた国府台陸軍病院付の早尾乕雄軍医中尉の「戦場ニ於ケル特殊現象ト其ノ対策」と題した文章の中には、「東洋ノ礼節ノ国ヲ誇ル国民」が「慚愧(ザンキ)ニタエヌ」状況であることを書いた下記のような一節があった。(315「従軍慰安婦」関係文書 NO2参照)

” … 勝利者ナルガ故ニ金銀財宝ノ略奪ハ言フニ及バズ、敵国婦女子ノ身体迄(マデ)汚ストハ、誠ニ文明人ノナスベキ行為トハ考エラレナイ、東洋ノ礼節ノ国ヲ誇 ル国民トシテ慚愧(ザンキ)ニタエヌ事デアル、昔倭ハ上海ニ上陸シ南京ニ至ル迄、此ノ様ナ暴挙ニ出タ為メニ、非常ニ野蛮人トシテ卑メラレ嫌ハレタトイフ ガ、今ニ於テモ尚同ジ事ガ繰リ返サルルトハ、何トシタ恥辱デアロウ、憲兵ノ活躍ハ是ヲ一掃セントシ皇軍ノ名誉恢復ニ努力シツツアルコトハ感謝ニタヘヌ次ニ 強姦事件ノ実例列挙スル

 「新東亜建設の大理想」は、著者の単なる願望であり、苛酷な戦場にあった日本軍兵士の意識や思いとはかけ離れたものだと思う。残敵掃蕩作戦に取り組んだ第十六師団の佐々木到一支隊長には、下記のような記述がある。

”…その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す。激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。…”

 付け加えれば、著者が引用した上羽武一郎日記にも、

夕方7時我々車輌病院へ行く途中敵しうに合い生きた気持ちせず、どんどんぱちぱち。歩兵がトラック、ダンットサンに分乗、早速かけつけて何なくげきたいする。話に依れば、3百人程の兵を武装解除して倉庫に入れ、10人ずつ出して殺して居る時、此を見た中のやつがあばれ出し、7、8人で守って居た我兵の内三八の銃をもぎとられ交戦し、其れが逃げてきたらしい。彼等は武装解除して使役にでも使われると思ったらしい。

という記述がある。「10人ずつ出して殺して居る時」は、国際法違反の「捕虜殺害」の記録であろう。著者は日本軍の戦争を「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」として戦われたとするために、読み飛ばしているのではないだろうか。

 また、「銃後」の国民はいざ知らず、こうした戦場にあった兵士が、なぜ、「対支膺懲」なのか、なぜ南京を攻略しなければならないのか、その根拠を理解し、日々「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」を自覚して戦っていたとは考えられないし、様々な資料が、現実はそんなものでなかったことを示していると思うのである。


ーーーーーーーーーーーーーー「南京大虐殺」への大疑問? NO3 ーーーーーーーーーーーーーーー

  『南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)には、見逃すことの出来ない指摘がある。それは「捕虜」の「釈放」に関するものであり、「日本軍の捕虜殺害と釈放」と題された文章の中にある。

 著者は「南京戦のとき、日本軍として非難されても止むを得ない捕虜殺害があったことは書いておかなければならない」と「捕虜殺害」があったことを認めている。そして、「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」によって判明しているとして、笠原十九司氏の『南京事件』から、下記を引用しているのである。少々長いが、大事な記述だと思うので、そのまま孫引きしたい。

〔12 月12日午後7時ごろ〕最初の捕虜を得たるさい、隊長はその3名を伝令として抵抗を断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてそ の結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に 目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 〔12日夜〕捕虜は第4中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜20名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後10時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
 〔13日午後2時〕連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
 〔13日夕方〕各中隊長を集め捕虜処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に配分し、監禁室より50名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
(中略)各隊ともに午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後7時30分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。(『南京戦史資料集』678頁)

 そして、著者はこの文章に関して

戦 闘詳報によると、この捕虜は千五百名余は、12月12日に南京城外で戦っていた支那軍が味方によって城門を閉ざされ、日本軍は退路を失った彼らを城壁南側 のクリークに圧迫して殲滅するばかりだった。彼らは味方にも見捨てられた哀れな兵たちだった。その内訳は、将校18、下士官1639だったとある。
 このときの旅団命令、連隊命令は確認できていないが、執行当事者の困惑ぶりが伝わってくるような気がする。これを氷山の一角と考えるか、または特異な例として直視するかは、今後、読者が判断されることである。
  なお、戦闘詳報に基づく捕虜処断を書いたから、同じく戦史に残っている鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報中にある下関地区での約五千五百 名の捕虜全員釈放の記録も並列して述べておかなければならない。彼らは、12月14日午前、南京の西を北上して挹江門西側に進出してきた日本軍に投降した もので、北から南下した佐々木支隊が江上に逃亡せんとしていた敗残兵を発見するより前のことだった(『南京戦史資料集Ⅱ』319頁)
 他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へむ進。

と書いている。しかしながら、捕虜殺害にかかわる記述は、何も「宇都宮百十四師団第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」だけではない。著者が引用している笠原十九司氏の『南京事件』では、宇都宮百十四師団第六十六連隊第一大隊の捕虜殺害の記述の前に、第十六師団の捕虜殺害の記述がある。すでに一部を抜粋しているが、捕虜殺害に関しては、第16師団歩兵第三十三聯隊同師団第二十連隊、また、第十三師団山田支隊などにもいろいろな資料がある。
 なぜ、著者は、あたかも他には捕虜殺害がなかったかのように「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」だけを取り上げ、「これを氷山の一角と考えるか、または特異な例として直視するかは、今後、読者が判断されることである」などと、一つの事実で、読者に判断させようとするのか、疑問なのである。

 また逆に、なぜ「他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へ進む」として、他の「捕虜釈放」の記録をきちんと示さないのであろうか。私は、南京戦に関わる陣中日記や元日本兵の手記などを読むたびに、捕虜殺害の記述をくりかえし目にしたが、「捕虜釈放」の事実を記したものは、ほとんど目にしていない。「釈放の記録は多い」とは思えないのである。

 捕虜を釈放したという「鹿児島歩兵第四十五連隊」が属していた「第十軍」には、下記のような事実や命令があったことも考慮しなければならないと思う。 

 1937年12月13日の南京陥落前日、揚子江上において、危険を避けるためにくり返し所在を日本側に伝えていた米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させたのは日本海軍機であったが、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加えたのは、橋本欣五郎大佐の指揮する第十軍野戦重砲兵第十三連帯であった。そして、レディーバード号旗艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長から抗議を受けているが、その時、第十軍野戦重砲兵第十三連帯を指揮する橋本大佐が、「長江上のすべての船を砲撃せよ」」との命令を受けていたという。
 それは、12月11日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第十軍が発した

1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続き退却するものと判断せらる
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし

という命令であるという。
 この命令は、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出を図っているという情報が日本側に流布されていたために発せられたのだという。
 
 「南京より退却する中国軍を撃滅する」ということは、捕虜とした投降兵や敗残兵を「釈放」することとは相容れない。特別な事情があって、例外的に捕虜を釈放することは考えられるかもしれないが、中支那方面軍や第十軍の命令としては考えられないことだと思うのである。軍命令に含まれる「撃滅」とか「殲滅」という表現からも、「捕虜釈放」は考えにくい。だから、捕虜釈放の記録を明示すべきだと思ったのである。
 また、丁集団(第十軍)命令 (丁集作命甲号外)でも  
    一、集団は南京城内の敵を殲滅せんとす
    一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す

とある。「城内を焼却」してでも「殲滅」せよというのである。敵兵であったものは逃がさないということではないかと思う。さらに、12月2日の丁集団命令(丁集作命甲第50号)には、下記のような中国兵の退路を遮断せよとの命令もある。

六、国崎支隊ハ広徳ー建平ー水陽鎮ー太平府道方面ヨリ揚子江左岸ニ渡河シ爾後浦口附近ニ進出シ敵ノ退路ヲ遮断スヘシ

 こうした作戦や命令は、どれも「捕虜釈放」とは結びつかないのではないかと思う。

 著者が指摘している「鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報」の記述の詳細を確かめるべく、『南京戦史資料集Ⅱ』を開いたが、版が違うのか、319頁は「山田栴二日記」(第十三師団、歩兵第百三旅団長:少将)の記述であった。また、文章がやや複雑で、どういう資料に記述があるのかはっきりしない面もあるが、手元の『南京戦史資料集Ⅱ』にはその記述はなかった。

 なお、「山田栴二日記」には、捕虜の釈放ではなく、逆に、下記のような「捕虜」の「始末」(殺害)(同書では「仕末」となっている)に関する記述がある。12月15日には「皆殺セトノコトナリ」とあるが、山田旅団長に命令できるのは、師団あるいは上海派遣軍、さらには、中支那方面軍ということになるのではないかと思う。
ーーー
 12月14日 晴
 他師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ午前4時半出発、幕府山砲台ニ向フ、明ケテ砲台ノ附近ニ到レバ投降兵莫大ニシテ仕末ニ困ル
 幕府山ハ先遣隊ニ依リ午前8時占領スルヲ得タリ、近郊ノ文化住宅、村落等皆敵ノ為ニ焼レタリ 
 捕虜ノ仕末ニ困リ、恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、14777名ヲ得たタリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ、上元門外ノ3軒屋ニ泊ス

 12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス

 12月16日 晴
 相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム、捕虜ノ監視、誠ニ田山大隊大役ナリ、砲台ノ兵器ハ別トシ小銃5千重機軽機其他多数ヲ得タリ

 12月17日 略

 12月18日 晴
 捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス

 12月19日 晴
 捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
 軍、師団ヨリ補給ツキ日本米ヲ食ス

ーーー
さらに、『南京戦史資料集Ⅰ』には、第十六師団の師団長に、下記の文章があることも、再度確認したい。
ーーー
                     中島今朝吾日記
                                  第十六師団長・陸軍中将15期

12月13日  天気晴朗 

一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ

一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ


一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル

一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ

一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ 


ーーー
 したがって、「捕虜」の「釈放」があったとすれば、それは極めて例外的なことだったのではないかと思う。著者が”他にも釈放の記録は多いが、敢えてこれ以上触れず先へ進む。”ということが納得できない。


ーーーーーーーーーー南京事件 「山田日記」と「両角業作手記・日記」ーーーーーーーーーー

 <457「南京大虐殺」への大疑問?NO3> で、『南京大虐殺」への大疑問』(展転社)の著者・松村俊夫氏が指摘する「捕虜釈放」の内容を確かめるべく、著者の記述にあった「南京戦史資料集Ⅱ」の319ページを開いたが、版が違うのか、そにには著者の指摘した「鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報」の「捕虜釈放」の記述はなく、そのページの前後は「山田栴二日記」であったことを書いた。そして、「山田栴二日記」には捕虜に関して「釈放」ではなく、下記のような記述があることも書いた。
 
12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス
 
 「山田栴二日記」には「捕虜釈放」の記述とは反対の、「皆殺セトノコトナリ」との命令を受けた記述があったのである。
 ところが、これまたおかしなことに、第13師団歩兵第百三旅団(山田栴二少将)の指揮下にあった歩兵第六十五連隊(会津若松)を率いた両角業作大佐が、下記のような捕虜釈放に関する手記を残しているという(『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)。この手記は怪しげであると、いろんな論者が指摘しているが、この手記を取り上げている『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)でさえも、

山田支隊の基幹であった会津若松歩兵第六十五聯隊の聯隊長『両角業作大佐の日記』は、メモと言った方がよいかも知れぬ簡単なもので、問題の幕府山で収容した捕虜の処置については、その全体像を明らかにすることができない。
  ただ、注目すべきは「Ⅰ(大隊)ハ俘虜ノ開放(ママ)準備、同夜開放」(12/17)「俘虜脱逸ノ現場視察」(12/18)の記述で「開放」を「解放」と 解すれば、司令部?からの「殺セ}という指示に対して、山田支隊の指揮官たちは江岸で捕虜を解放する意図があったことになる。残念なことに『両角日記(メ モ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。
 『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。

と 指摘しているものである。なぜ『両角日記(メモ)』は南京戦前後の部分しか存在しないのか、なぜ原本と照合できないのか、なぜ、原本の写真やコピーさえ示 されないのか、ほんとうに怪しげである。こういう資料を平気で使って、南京事件を論じる論者がいるようであるが、いかがなものかと思う。資料1は、『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)に収録されている「両角業作手記と日記」の全文であが、内容の面でもひっかかる。

 なぜなら、山田少将は、軍や師団に対する批判や不満があれば、それを日記に正直に書く人であったことが、資料2でわかる。その山田少将が、捕虜の件に関して、12月14日から19日にかけ、資料3のように書いている。「捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ」という文章が、当時、山田支隊の直面していた状況をよくあらわしていると思う。
 軍から「俘虜のものどもを”処置”するよう」頻繁に督促がきたが、「山田少将は頑としてハネつけた」と、「両角業作手記と日記」には書かれているが、そうした督促に関して「頑としてハネつけた」という山田少将が、日記に何も書いていない。督促に対する批判はもちろん、そうしたやり取りさえ、何も書いてはいないのである。
 
  また、「455南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO1」で取り上げたように、第十三師団歩兵第百三旅団(山田支隊)会津若松歩兵第六十五聯隊(両角業作大佐)の兵士の多くが、当時の南京の状況を陣中日 記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌などとして手帳等に書き留め、残している。そして、それぞれに捕虜「処分」(殺害)の記述がある。しかし「両角業作手記と日記」にあるような、「捕虜釈放」の記述は見られない。     
                                                                             
 したがって、私は下記の「両角業作手記と日記」は、原本を書き写したという阿部輝郎氏が、自らの願望を両角業作大佐の名を借りて書いた創作ではないか、と思う。


資料1「両角業作手記と日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                             南京大虐殺事件

  幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は2万とか書いたが、実際は1万5千3百余りであった。しかし、この中に は婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは8千人程度であったが、これを運 よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が2、3本張りめぐ らされている)─とりあえず、この建物に収容し、食糧は要砦地下倉庫に格納してあったものを運び、彼ら自身の手で給養するよう指揮した。

 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として5、6人の兵を配置し、彼らを監視させた。

  炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、も とよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から 離れると、もう見えぬので、少なくとも4千人ぐらいは逃げ去ったと思われる

 私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。

  12月17日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京城入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよ う」……山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくても よいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。

 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の部隊に因果を含めたのである。
 しかし私にはどうしてもできない。
 いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」─田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
 「17日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
 もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊の機関銃を配属する。

  12月17日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入城式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉 の入城もかくやありなんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖 寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。
 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろうと宿舎の机に向かって考えておった。

 ところが、12時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては…と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
 そのいきさつは次の通りである。

  軽舟艇に2、3百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預か る支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上 に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。2千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうの で如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火に より倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面 に出たことは宣伝、誇張が多すぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告したところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔 をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
 自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>…なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
 当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。
 
日記
昭和12年12月
12日 午後5時半、蚕糸学校出発。午後9時、倉頭鎮着、同地宿営。
13日 午前8時半出発。午後6時、午村到着、同地宿。敗残兵多シ。
   南京ニ各師団入城。一大隊烏龍山砲台占領。
14日 午前1時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山ニ先遣。
   本隊ハ午前5時、露営地出発。午前8時頃、第五中隊ハ幕府山占領。本隊ハ午前10時、上元門附近近ニ集結ヲ了ル。午前11時頃、幕府山上ニ万歳起ル。山下ヨリ本隊之ニ答ヘテ万歳ヲ送ル。

(以下原文は横書き)
15日 俘虜整理及附近掃蕩。
16日 同上。南京入城準備。
17日 南京入城参加。Ⅰハ俘虜ノ開放準備。
18日 俘虜脱逸ノ現場視察、竝ニ遺体埋葬。
19日 次期宿営地ヘノ出発準備。
20日 晴 9時半出発下関ヲ経テ浦口ニ渡河。
21日 晴 西葛鎮ニ宿営。
22日 晴 全椒ニ向ヒ入城。同地警備。(途中山田少将ハ?県ニ)
23日 警備方針決定。中隊長以上ニ必要ノ指示ヲ与フ。
24日 附近視察。
25日 慰霊祭ノ為?県ニ出発(軍旗ヲ奉ジ)、同夜同地着。
26日 師団慰霊祭。(老陸宅ノ要図ガ天覧ニ供セラレ、且ツ朝香宮軍司令官ノ室ヲ飾ルモノハ此要図一枚アルノミニテ他何物モナシ)
27日 全椒ニ帰還。
28日 慰霊祭場及陣地偵察。
29日 慰霊祭。(山田少将及師団代表トシテ吉原作戦主任参謀来着)
30日 師団会議事項下達。
31日 陣地視察。此夜杉山陸相、椙村中隊長ノ未亡人ノ手紙ヲ受ケル。

 [注]この記録は、第十三師団歩兵第六十五聯隊両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和37年1月中旬、求めに応じ阿部輝郎に貸し与えられたものを筆写し、

保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。

資料2「山田栴二日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       
11月1日
 ・・・
《初メテ纏リタル手紙ヲ書ク》
 『多クノ犠牲ヲ払ヒシ割ニ戦果少カリシハ敵陣地ニ対スル誤算根本ナリト確信ス
軍モ師団モ如何ナル陣地ナルヤ更ニ知ル所ナク、示ス所ナク、従テ旅団以下亦唯突附イテ見ル式ニテ敵陣地ト攻撃法ト一致セズ
攻撃ハアクマデ野戦式ニテヤレヤレ式、何ヲグズグズシテ居ル式ナリキ
寧ロ之レダケノ日子要スルモノナラ、最初ヨリ落付キテヤラバ更ニ早イ更ニ良好ナル結末ヲ得タリシナラン、神ナラヌ身ノ詮ナキ事ナレド』

11月13日
 ・・・ 
  右追撃隊歩兵第六十五連帯ト終日連絡ヲ取ル能ハザリシガ、歩兵第104連帯ノ追撃ヲ督励シ時ニ第一線ヨリモ前方ニ出テ推進ヲ図リ、午後4・00歩兵第 104連帯ノ第一線ヲ以テ陸渡橋ノ劉河ノ線ニ達ス、時恰モ65連帯ヲ掌握スルヲ得タリ、歩兵第六十五連帯ハ午後2・00劉河ノ線ニ達シアリタリ、例ニ依リ 師団ヨリ矢ノ催促、第一線ノ苦労モ努力モ何ノソノ、唯アセリニアセリテ成功ヲノミ望ム
『百ヤ二百ノ決死隊ナキカ』ト、如何ニ決死隊トテ河ハ只デハ越サレマジ
《今日始メテ沿道ノ土民ヲ見ル、戦果ヲ避ケテ避難セルモノ帰来セシカ》
陸渡橋東南5百米オ姚宅ニ位置ス

資料3「山田栴二日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

12月14日 晴
 他師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ午前4時半出発、幕府山砲台ニ向フ、明ケテ砲台ノ附近ニ到レバ投降兵莫大ニシテ仕末ニ困ル
 幕府山ハ先遣隊ニ依リ午前8時占領スルヲ得タリ、近郊ノ文化住宅、村落等皆敵ノ為ニ焼レタリ 
 捕虜ノ仕末ニ困リ、恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、14777名ヲ得たタリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ、上元門外ノ3軒屋ニ泊ス

12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス

12月16日 晴
 相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム、捕虜ノ監視、誠ニ田山大隊大役ナリ、砲台ノ兵器ハ別トシ小銃5千重機軽機其他多数ヲ得タリ

12月17日 

12月18日 晴
 捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス

12月19日 晴
 捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
 軍、師団ヨリ補給ツキ日本米ヲ食ス


ーーーーーーーーーーーー「南京大虐殺」への大疑問? NO4ーーーーーーーーーーーーー

 『「南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)には、第5部第5章の「南京事件の真相」の中にも、見逃せない文章がある。証拠や判断の根拠をきちんと示さないと、悪意に満ちた誹謗中傷と受けとめられても仕方がない文章だと思う。下記である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
”・・・
 一 方、難民たちは、それまで思いもかけなかった裕福な人々の住宅が立ち並ぶ安全区に入り、しかも、そのまわりの家々はすべて無人だった。まるで、いくらでも 持っていって下さいといわんばかりにあらゆるものが揃っていた。持主がそこにいなければ、何でもいただいてしまうのが当時の支那人の生活感覚だったのであ る。
 掠奪した後は、その跡を消すために放火が始まる。また、潜入 した便衣隊はプロだから、外国人や日本軍につかまるようなヘマをすることもなく、撹乱のために放火して回った。さらに、乱暴にも、日本兵と見せかけて本当 に難民を殺したり、女を追いかけ回して強姦に及ぶことも少なくなかった。女たちはそれを承知の上で、日本兵に暴行されたと報告した。単に噂だけを流したも のもいた。
 彼らとっては有難いことに、外国人たちには、殺人、略 奪、強姦、放火は、すべて日本軍がやったと訴えさえすれば、疑われることなく事実として認めてくれた。難民たちは、誰に負わされた怪我であっても、それら しい話さえ作れば、日本軍にやられたことになって無料で入院・治療ができた。1938年1月半ば以降の『南京安全区檔案』に見えている通牒者はほとんど支 那人だったが、そのまま記録されている。
 キリスト教関係者にとっ ては、難民がはいることによって、荒れた建物や設備、施設などの修理費を本部からもらうためにも、すべては日本軍によって破壊されたとする必要があった し、それゆえに敢えて噂話に乗っていった。最初に表記した外国人のうち、日本軍の暴行を伝えていたのは、キリスト教徒のうちの一握りの人々であった。声の 大きな数人の外国人グループがすべてを牛耳っていたのである。
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 指摘したいのは、次のようなことである。

 「持主がそこにいなければ、何でもいただいてしまうのが当時の支那人の生活感覚だったのである」の根拠は示されていない。「掠奪した後は、その跡を消すために放火が始まる」についても、何か資料があるのだろうか、と思う。
  著者が現地調査を繰り返した中国史専門の歴史学者であるならば、そうした表現も認められるかも知れないが、そうでなければ、きちんとそうした表現を裏付け る資料を示すべきだと思う。著者は、日本人を侮蔑することを許さないが、中国人は侮蔑してもよいと考えているかのようである。

 「日本兵と見せかけて本当に難民を殺したり、女を追いかけ回して強姦に及ぶことも少なくなかった」とは誰の、どのような調査結果に基づく結論であろうか。「少なくなかった」と断定するのであれば、具体的にその実態を示す資料を明らかにする必要があると思う。想像に基づいて断定してよい問題ではないと思うのである。

 「女たちはそれを承知の上で、日本兵に暴行されたと報告した」などというのは、日本軍兵士は強姦や略奪、虐殺などしないという前提で資料を見るため生まれる空想ではないかと思う。「暴行された」と主張する女性の証言やそれを聞いた人物の直接的な証言がない限り、こうしたことを断定することはできないのではないかと思う。そんな証言が存在するということは聞いたことがない。

 「キリスト教関係者にとっては、難民がはいることによって、荒れた建物や設備、施設などの修理費を本部からもらうためにも、すべては日本軍によって破壊されたとする必要があったし、それゆえに敢えて噂話に乗っていった」 というキリスト教関係者を侮蔑するような記述も、その根拠は示されていない。関係する資料も提示されてはいない。当事者や関係者の証言がなければ、こうし たことを事実のように書くことはできないはずである。根拠なくこうした断定をすることは、関係国や国際社会の信頼を失うことにつながると思う。

 著者は、最後に

こう見てくると、日中友好にとっても米中友好にとっても、そして、日米友好にとっても、最も障害となるのは、声高に「南京大虐殺」を叫ぶ人々であることはもはや疑う余地がない。

と書いているが、あまりに手前勝手であり、事実は全く逆だと思う。先日、米国をはじめとする海外の歴史学者や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表した。日本の歴史修正主義の動きに政権が荷担していることを、国際社会も懸念しているのである。

  松村俊夫氏のような主張を続けるならば、日本はますます孤立していく。現にそうした歴史認識が、様々な外交関係の問題を生じさせている。国によっては、経 済を優先させ、日本の「歴史」の「修正」に目を瞑ることはあるかもしれない。しかしながら、中国や韓国をはじめとする近隣諸国が、大変な被害をもたらした 日本の侵略戦争を正当化する歴史修正主義を素直に受け入れ、日本に信頼を寄せることは決してないと思う。
 客観的事実を直視し、関係改善につなげるべきだと思うのである。


※  一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、空行を挿入したりしています。
   青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 




ーーーーーーーーーーーー南京難民区 国際委員会の書簡文と日本の報道ーーーーーーーーーーーー

下記資料1と資料2は、いずれも「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著 訳者不詳(評伝社)に、付録として入っているものである。したがって、著者のティンバーリイ自身が書いたものではない。ティンバーリイ(H.G.Tinperley)は英国の新聞「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員であったが、1938年3月、こうした資料や報告書その他、「確実なる証拠」を「蒐集」して「外国人の見た日本軍の暴行」という一文を書いたという。それを入手した国民政府が3ヶ月後に日本文に翻訳して出版したという。

 著者ティンバーリイはその「」に
”…本書の目標は日本軍はいかに中国の民衆を取り扱ったかという事実を全世界に知らしめ、務めて真相の把握に努力して偏見なしに読者をして戦争の悲惨なる現実を明白に認識せしめ、かつ戦争の虚偽の魔力を剥奪することにある。特に後者は勲功を喜ぶ軍閥の忘れ得ぬ魔力である。
と書いている。

 昭和19年秋、中国視察を命ぜられて南京大使館を訪れた満州国政府外交部の官吏、榛葉英治(シンバ、エイジ1912年10月21日─1999年2月20日)は、その時、この日本語訳の本を見せられ、南京の実情を知った、と本書の解説に書いている。戦後、彼はある雑誌社の求めに応じて、こうした資料やその後の取材を基に、南京の残虐をテーマにした「城壁」という小説を書いたが、その作品は旧軍人の団体から申し入れがあり、掲載が中止されたという。しかしながら、雑誌「文芸」に原稿を持ち込んだところ、単行本として出版されることになり、世に知られることになったのだと書いている。

 また、「教科書問題」等による日中の関係悪化を懸念していた榛葉英治は、秘蔵していたティンバーリイ原著の日本文訳「外国人の見た日本軍の暴行」を、評伝社から出版することに積極的に賛成したということも、本書の解説に書いている。

  下記の資料1で、南京難民区の国際委員会が、連日、日本大使館宛に日本兵の暴行に関して抗議や要請をしていたことをがわかる。にもかかわらず、日本にはそ の実情は全く知らされず、下記資料2のような、国際委員会の書簡文とはかけ離れた南京の様子が報道されていたのである。ティンバーリイいうところの「戦争の虚偽」という言葉とともに、記憶に残したいと思う。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                              国際委員会の書簡文             

第7号文書(1937年12月18日付国際委員会発日本大使館宛公信)

 拝啓 陳者貴国軍隊は難民区内にて引続き狼藉を働き全く安かならず20万難民は苦痛に呻吟致し居り候 当委員会は貴大使館を通じ貴国軍事当局に対し迅速且有効なる行動を採り不幸なる事態を阻止せられんことを御伝達相成様要請せざるを得ざる次第に候

  暴行の報告は紛々として到来し縷述する暇もなき次第に候 昨夜当委員会委員ペテス博士は金陵大学宿舎に夜を過ごし随時避難し来る婦女約一千名の保護を準備 致し居り候処宿舎前及図書館新家屋前には何れも憲兵は駐屯し居らず8時頃フィシェ及スミスの両君がミルス牧師を送りて金陵女子文理学院にて夜を明かし婦女 子約4千名を保護致し候 3名は捜索隊に逮捕せられ1時間抑留せられ候 軍官は同校を管理するベードリン女史、陳夫人及び女友人ドウイナン夫人を校内に駆 り立て氷付かせ頑強に校内に中国兵あり入って捜索し銃殺すべしと称し最後に軍官は3名の帰還を許したるもミルスは校内に有泊するを許されずその後如何なり たるや知り得ざる次第に候

 16日貴国軍隊が司法部大楼より数百名を虜にし又警察官50名を虜と致し候 この程局勢を若し明澄にせざれば難民区内20万の市民の生命は絶対に保障無之候

  婦女は蹂躙に堪えず紛々として金陵大学所属機関内に入り来たりて保護を求め男子は日々隔離せられ居り候 小桃源語学校の如きは12月は5日迄のところ始め 男女難民600名ありたるもその夜多数婦女が強姦され婦女子400名は16日朝金陵女史文理学院に走り男子200名残留致し居り候 この方面はもと難民3 万6千名を収容する用意ありたるも現在婦人多数移住し既に5万人を超過致し居り候

  目下の状況より観るに住の問題は漸次重大となりつつあるのみならず食の問題及人夫募集の問題も困難を増し居り候 今朝貴方代表菊地君が当処を訪問し電灯廠 工夫の募集方要求し来たれるも当処の職工すら外出し働きたがらざる次第に付御下命には応じ難き旨御伝申候 各収容所の米石炭の供給は何れも当処の西洋人委 員及職員が積送の責を負い居り候 当処の食物管理委員会責任者は2日間住宅を一歩も離れ得ず 住宅設計委員会副主任は漢口路に23号の家にて日本兵が2名 の婦女を強姦せるを目撃致し候 ソンナ君は米を送付する為南京神社学院中の難民2千5百名より離れざるを得ざりし処昨日白昼日本兵が同学院に闖入し前にて 婦女多数を汚辱致し候 当地の外国居留民22名は20万難民を養い得ず又日夜彼等を保護し得ず右は日本当局の責任にて貴方が若し彼等を保護するに於ては当 処は貴方と協力し彼等を養うべく候

 更に貴国軍官が記憶に 止め置かれ度きことは難民区の捜索に候 彼等は難民区をすべて便衣隊と認め居るも一部の中国兵が武装を解除し13日午後難民区に保護を求め来たれる件に付 ては当委員会が屢次貴方に通知せるとこに候 凡ゆる中国兵が既に貴軍捜索隊に粛清せられ且累を数多市民に及ぼしたることによりても目下区内に中国兵なきこ とを敢えて保証いたし候 当委員会は茲に左記具体的建議を再び提出致し

甲 士兵取締事項
 一、憲兵は日夜難民区を巡邏す。
 二、当委員は曩に各入口に兵を派し駐屯守備せしむる様要求せるが本件は未だ実行され居らず貴軍当局は士兵が難民区に闖入し(特に夜間)濫りに姦淫、慮掠、屠殺するを阻止する様可然御取計相成度し。
 三、当委員会所轄の割合大なる収容所(19号附表参照)に兵を派し駐屯守備し士兵が塀を乗り越え入ることを阻止せられたし。
 四、日本文の布告を発し各収容所の門前に貼付し収容所の性質を説明し内部に入りて狼藉するを禁止せられたし。

 捜索事項
 一、貴軍捜索隊は当委員会所轄の各収容所に対し誤解し居るものの如し、貴軍は高級長官を派し当処派遣員と18カ所の収容所に同道せられ真 相を視察せられ度し。
 二、難民区には既に武装を解除する中国兵なく従って便衣隊の襲撃事件も発生し居らざるにも鑑み各収容所私人住宅は既に幾回となく捜索せられ捜索はただ掠奪と姦淫の口実を与え居るを以て貴軍が若し常時憲兵を派し難民区を巡邏せしむれば中国兵はその身を容るる所なかるべし。
 三、2、3日さえ平穏無事なれば米石炭を積送し得べく店舗は開かれ職工は働き重要なる公共事業は活動すべく市民は正常なる生活を恢復すべ    し。

丙 警察事項
  司法部大楼内の警察官50名その他志願警察45名は前後して逮捕せられたる件に関しては昨日当委員会より既に貴方の注意を喚起せる所に候 又最高法院内の 警察官40名逮捕せられたること判明致し候 貴国軍官に司法部にてはこの種警察官の唯一の罪状は彼等が同処にて捜索せる後中国兵を引き入れたるを以て銃殺 すと称し居るも実は寄る辺なき若干の市民婦女子を同処に送致したるものにして本件は当委員会西洋人委員が完全に責任を負うべく候 昨日当委員会は難民区内 の警察官450名を改組し貴方の直接指導を受くべき旨建議致し候 逮捕せられたる警察官90名は従来の地位に復帰するものと深く信じ居り候
 又逮捕せられたる志願警察官45名は貴方が当処乃至目下勤務し居る地点に送還するものと深く信じ居り候
 上述の各項を御承引相成度 尚収容所表一部及び備忘録及一部相添え此段供高覧候        敬具
                                                                       委員長 レーベ  (署名) 
 附属一(1937年12月17日難民区収容所表)・・・ 略 

 附属二(司法部収容所事件の備忘録)・・・略

ーーー
第8号文書(1937年12月19日付国際委員会発日本大使館宛公信)
  拝啓 陳者茲に「日本軍暴行報告」第16件より第70件迄同封御送付申上候 右は当処の知りたる一小部分に過ぎず、スパーリン、クロイゲル、ハズ及びリグ スの4名は各々居所を追い出され貴国士兵に護送せられ家を出で一日多くの時間を消費致し候も彼等にはかかる事件を書き付くる暇無之候
 本日の状況は平常通り劣悪にして本日貴国軍官一名が難民区内寗海路附近にて幾多狼藉せる士兵を取り捕えたるも右は決して根本的に問題を解決し得ざるものに候

  レーベ君の家には避難せる婦女子300名あり一歩も離れ得ざるを以て御伺い出来ざる次第に候 貴方は直に18カ所の収容所及び鼓楼医院に兵を派し警備せら れんことを希念致し候 かくて苦海中にも少なくともこの19カ所は比較的安全となり3分の1乃至4分の1の難民を庇護し得るものと存じ候

 屡々御心労を煩し候段御寛容の程希上候       敬具
                                                                          秘書 スミス(署名)          
ーーー
第9号文書(1937年12月20日付国際委員会発日本大使館宛公信)
 拝啓 陳御者茲に「日本軍暴行報告」第71件より第96件迄同封御送付申上候 26件の報告中14件は昨日午後夜及び今朝にかけて発生せるものにして状況は未だ改善せられ居らざるを知悉致し候
 昨夜貴国士兵は金陵女子文理学院に入り婦女を強姦せるも(貴領事館警察官一名同所に駐在せり)金陵大学総院にては幸い事故発生せず。
 当委員会は貴方に対し毎夜兵を収容所及び鼓楼医院に派し警備すると共に日中も金陵女子文理学院向い及び金陵大学運動場の粥厰に兵を派遣警備せらるる様茲に重ねて懇請致し候
 当委員会の意見にては貴方が峻厳なる方法を採られ士兵を取締まるものと存ぜられ候も目下の処憲兵
の数は余りに少きを以て局勢に対処するに殊の外難しかるべしと称し居り候     敬具
                                                                         委員長 レーベ(署名)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

                                日本側の報道を見よ

  日本軍隊が南京を占領してから後の状況は日本紙にはほとんど登載されず、あるいは全然何も載せられなかったと言えるかも知れない。日本で出版された英字紙 を見ても、日本軍の南京やその他都市におけるいろんな暴行は全然痕跡すら見出されない。日本紙は南京を、平和な静かな地方として粉飾しようと考えていたの である。1938年1月8日付上海新甲報(日本人が主宰する漢字紙)の左記報道を見られよ。


 『南京市の街は依然として静寂である。慈愛の陽光は西北角の難民区に照り 輝いている。死から逃れた南京の難民は今では皇軍の慰撫を受けているのだ。彼らは路傍にひざまずき感激の涙を流している。皇軍入城前には、彼らは中国の反 日的軍隊の圧迫を受け病気が出ても医薬上の助けはなかった。飢えた人は一粒の米も粟も得られなかったが、もう市民の苦痛はなくなった。

  幸い皇軍が現在入城して慈悲の手を伸ばし恩恵の露を散布している。日本大使館西方にいる難民数千名は以前の面白くもない反日態度を放棄し、生活が保障され たため群衆は楽しみ喜び合っている。男女老若は皇軍をひざまずいて迎え忠誠を現している。難民区では日本兵が難民にパン・ビスケット、煙草等を分け与え、 難民は感激に溢れないものはない。日本兵は兵営付近で品物を贈っている。

  同時に衛生隊も医薬と救済工作を開始した。眼の失明しかけている人は天日を見ることが出来、咳のひどく出る子供や両足の腫れ上がった老婆はいずれも料金な しで治療を受けている。難民は皇軍の恩恵を受けてから満面に悦びを浮かべ日本兵を囲んで「万歳」を高唱している。憲兵は一老人が路上で店を開いているのを 見て、微笑みをもってこれに報いた。鼓楼から眺めると日本大使館近くには米国国旗が、西北方には英国国旗が、北方にはフランス国旗が、東方には「ソ」連の 赤旗が翻翻と掲げられ、後湖の碧水に映えて趣を添えている。この中央には高く日章旗がそびえている。運動場には日本兵が中国の児童と楽しく遊んでいる南京 ではただ安らかな生活に愉快な仕事の空気を呼吸することができる。全世界の人々は今後南京の発展に注意すべきである。』


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