ーーーーーーーーーーーーー南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO3ーーーーーーーーーーーーー
下記は、NO1およびNO2に引き続き、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、
軍事郵便(戦地から親戚や知人宛に送られたもの)など19人の記録から、6人の記録(14~19)のごく一部を抜粋したものである。南京陥落後の投降兵・
捕虜の「処分」(殺害)や死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。
下記を読むと、12月16日と17日に多くの中国人捕虜が、歩兵第65連隊の兵士によって殺害されたことが分かる。しかしながら、捕虜に「不従順ノ行為」があったという記述はない。すなわち、「戦闘行為」による殺害ではなかったということであろう。だから、この時の捕虜の殺害を、戦闘行為による殺害として、「南京大虐殺」を否定することなどできないのだと思う。
にもかかわらず、”そうした事実はどうでもいいのだ”と言わんばかりの報道があった。人気俳優アンジェリーナ・ジョリーさんが監督した映画「アンブロークン」を反日映画としてボイコットする運動が起きているというのである。旧日本軍の捕虜虐待を描いた内容が、「日本を貶める」ものであるということらしい。「東京裁判史観を変えない限り、第2のアンジェリーナじゃ現れる」という指摘もあるという。事実を検証することもなく「日本を貶める」などと主張することは、完全な歴史の否定で、歴史修正主義以前の主張ではないかと思う。
また、16日の参院予算委員会で自民党の三原じゅん子参院議員が、「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります」としたうえで、同理念のもとに経済や税の運用をしていくべきではないかと、質問したという。「八紘一宇」と
いう言葉は、先の大戦期間中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた言葉で、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部によって、公文書におけ
るこの語の使用が禁止されたことを知ってのことなのか、と考えさせられる。日本の政権中枢には、敗戦後も日本の戦争を正当化しようとする人たちが存在し続
けてきただけに、気になるところである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
14 [大内利己]陣中日記
所属:歩兵第65連隊第9中隊・第3次補充
階級:不明(一等兵か?)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7センチの手帳。縦書き。・・・
12月2日
荻洲部隊両角部隊と編入に成り、我牛渡部隊は江陰に向愈々本朝7時半整列し上海を出発す、8時乗船し其後25里の行軍で目的地に任じ聯隊に加する予想、自
分は入院のため一緒に行動出来ぬが一番残念で在つた、自分は井上軍医に引率され第一兵站病院に入院し第1日の生活である。伊佐部隊に入院である、患者は沢
山居た、自分は大場病院の第3号病棟の生活である。何と無く心が憂鬱と成り一日も早く全快いたし一線部隊に加入する事を心から神に祈つて居た。
以下主として入院生活の記述なので略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
15 [高橋光夫]陣中日記
所属:歩兵第65連隊第11中隊・第4次補充
階級:上等兵
入手経緯:本人より
日記の態様:縦約12.5センチ×横約8センチの手帳。縦書き。・・・
〔12月〕15日
朝8時に出発、前夜は宿舎にてじん中の真の風景、三方を壁にて月光が輝々と光りまつたく言ふに言ふことのできない風景である。
4時に竜潭に着す、この途中にて支那人2人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余部落に入る、聯隊中の食料を集めてきた、其の途中一方は水郷□月一方は川にて、ニーヤに徴はつ品をおわせて、銃を肩に故郷を望むも戦場の風景と思ふ、夜はなにかの工場に宿舎をとる。
〔12月〕16日
前8時半出発にて東流に2時頃に着、夜は分隊は衛兵、寒かりし。
〔12月〕17日
前8時半出発、本田上等兵は銃をなくし午後4時に本隊に入る,聯隊本部の所に一夜をあかすことになる。
〔12月〕18日
午前8時半整列にて各中隊に分類され12時に中隊第十一中隊に入る、第4次22名、これより南京を見学に行こうと思ふが行かれなかった。
午後にわが聯隊の捕虜2万5千近くの殺したものをかたつけた。
〔12月〕19日
本日も中隊の位置にて分隊に入る、第一小隊 第2分隊、
午前は死体をかたつけるために前日の地に行く、本日又16人程の敗残兵をころした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
16 [菅野嘉雄]陣中メモ
所属:歩兵第65連隊砲中隊・編成
階級:一等兵
入手経緯本人より
メモの態様:縦約16センチ×横約10センチの手帳。内容は「戦闘詳報」と「陣中日記」に分かれており、「戦闘詳報」は縦書き、「陣中日記」は横書き。・・・
昭和12年 日支事変 陣中日記
12、13
午前8時半出発、大華山山脈鉄路ニ沿ヒ行軍ス、龍潭鎮ヲ通リ棲霞山近クニ山中一村ニ宿営ス、夜ル敵将校斥候3名ヲ捕フ。
〔12、〕14
午前5時出発夜明頃ヨリ敵兵続々ト捕虜トス、幕府山要塞ヲ占領シ午後2時戦斗ヲ中止ス、厰舎ニ捕虜ヲ収容シ其ノ前ニ宿営警戒ス、捕虜数訳1万5千。
〔12、〕15
今日モ引続キ捕虜アリ、総計約弐万トナル。
〔12、〕16
非行便ノ葉書到着ス、谷地ヨリ正午頃兵舎ニ火災アリ、約半数焼失ス、夕方ヨリ捕虜ノ一部ヲ揚子江岸引出銃殺ニ附ス。
〔12、〕17
未曾有ノ盛儀南京入城式ニ参加、1時半式開始。
朝香宮殿下、松井軍司令官閣下ノ閲兵アリ、捕虜残部1万数千ヲ銃殺ニ附ス
〔12、〕18
朝ヨリ小雪ガ降ツタ、銃殺敵兵ノ片付ニ行ク、臭気甚シ。
〔12、〕19
本日モ敵兵ノ片付ニ行ク、自分ハ行カナカツタ。
〔12、〕20
午前10時出発ス、中山碼頭ヨリ乗船、浦口ヨリ約4里ニテ宿営ス。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
17 [近藤栄四郎]出征日誌
所属:山砲兵第19連隊第8中隊・編成
階級:伍長
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。
〔12月〕14日
午前4時起床、鞍を置き直ちに出発スル、道路暗くテ而も寒い、前進して午前8時頃敵の降伏兵一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて3千名に達せん、揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面白し、南京も目の前に南京城を見て降伏兵の一団を馬上より見下ろすのも気持ちが悪くない、南京牧場設営、女を混じへた
敵兵の姿。
〔12月〕15日
出発命令なく午前御令旨及訓示の伝達式あり。
午后、米徴発に行く、幸に南京米が沢山あつたので6本駄馬を持つて取つて来る、支那の工兵の材料集積所らしい。
〔12月〕16日
午前中給需伝票等を整理する、一ケ月振りの整理の為相当手間取る。
午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お蔭で随分酩酊した。
夕方2万の捕虜が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に2万の内三分ノ一、7千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終わる、生き残りを銃剣にて刺殺する。
月は14日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、9時半帰る、一生忘るる事の出来ざる光景であった。
〔12月〕17日
今日も一生忘るる事のなき日だ、南京入城式参列、午前9時に出発にて中隊の半数参加す、幸いに参加できて嬉し、午後1時半より開始され沿道整列、松井軍司令官の閲兵あり、其他多数の参謀及幕僚には驚く、夕方徴発しながら帰る。
丁度野戦病院開設しありたるにより家と役場と本地と康と収様へ手紙を出す。
記念スタンプを押捺して来る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
18 [黒須忠信]陣中日記
所属:山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人より
日記の態様:「支那事変日記帳」と題された、縦17センチ×横約11センチの手帳。縦書き。大部分カタカナ書きのうちに一部平仮名書きとなっているが、原文の通りにした。
12月13日 晴
7時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際我が海軍の軍艦がゆうゆうと進航して居るのがよく見えた、敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后8時某地に到着宿営す。
12月14日 晴◎
午前3時半出発して前線に進む、敵弾は前進するに従つて頭上をかすめて来る、敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中敗残兵を65にて1千8百名以上捕虜にし其の他沢山の正規兵で合計5千人の敗残兵を拾三師団にて捕虜にした、全部武装解除をしたのも見事なものである、命令我が大隊は幕府山砲台を占領して東外村宿営す、残敵に注意すべしと、本日の感想は全く言葉に表す事が出来ない位であつた、捕虜兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に集められて居た、幕府山砲台には日章旗高く掲げられて万歳を唱えられた、種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、×××××氏に面会する事が出来て嬉しかった。
12月15日 晴
南京城外某地ニ我ガ拾三師団ハ休養する事トナツタ、午前馬糧ノ徴発に忙しカツタ、敵首都南京城モ助川部隊(16師団)ガ13日午前10時30分ニ占領シテシマツタノデアル、城内ニモ入城スル事ガ出来タ。
12月16日 晴
午后1時我ガ段列ヨリ20名ハ残兵掃蕩ノ目的ニテ幕府山方面ニ向フ、2、3日前捕虜セシ支那兵ノ一部5千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バカリト憎キ支那兵ヲ30人突刺シタ事デアロウ。
山となつて居ル死人ノ上をアガツテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒシガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍ラシイ出来事デアツタ、××少尉殿並ニ×××××氏、×××××氏等ニ面会スル事ガ出来タ、皆無事元気デアツタ、帰リシ時ハ午后8時トナリ腕ハ相当ツカレテ居タ。
12月17日 晴
本日意義ある南京城入城式ガ挙行サレル事トナリ自分モ其ノ一人トシテ参列スル事光栄ヲ得タ、午前9時出発城内ニ向フ、各師団各隊ノ志気旺盛ナル行軍ニテ正午整列、朝香宮殿下ノ
閲兵が目覚マシク行ワレタ、後ニ市街ノ見物モ出来テ実ニ嬉シカツタ、本日ノ盛歓ハ言葉ニ表ワセナイ位デアツタ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
19 [目黒福治]陣中日記
所属:山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列・編成
階級:伍長
入手経緯:本人より
日記の態様:縦15センチ×横10センチの手帳。中国兵捕虜から奪ったものだとの本人の証言がある。記述は1937年12月20日で終わっている。縦書き。カタカナ書きのうちにところどころ
ひらがながまじっているが、原文の通りにした。
12月13日 晴天
午前3時起床、4時出発、南京幕府山砲台攻撃ノ為前進ス、途中敵捕虜各所ニ集結、其ノ数約1万3千名トノ事、12、3才ノ子供ヨリ50才位迄ノ雑兵ニテ中ニ婦人2名有リ、残兵尚続々ト投降ス、各隊ニ捕エタル総数約10万トノ事、午後5時南京城壁ヲ眺メテ城外ニ宿営ス。
12月14日 晴天 南京城外
首都南京モ落ツ、休養、午前中南京市内見物旁々支那軍馬ノ徴発ニ行ク、城内ノ膨大ナルニ一驚ス。
12月15日 晴天 〃
休養。
12月16日 晴天 〃
休養、市内ニ徴発ニ行ク、至ル処支那兵日本兵ノ徴発セル跡ノミ、午後4時山田部隊ニテ捕エタル敵兵約7千ヲ銃殺ス、揚子江岸壁モ一時死人ノ山トナル、実ニ惨タル様ナリキ。
12月17日 晴天 南京城外
午前9時宿営地出発、軍司令官ノ南京入城式、歴史的盛儀ニ参列ス、午後5時敵兵約1万3千名ヲ銃殺ノ使役ニ行ク、2日間ニテ山田部隊2万人近ク銃殺ス、各部隊ノ捕虜ハ全部銃殺スルモノゝ如シ。
12月18日 晴天 南京城外
午前3時頃ヨリ風アリ雨トナル、朝起床シテ見ルト各山々ハ白ク雪ヲ頂キ初雪トナル、南京城内外ニ集結セル部隊数約10ケ師団トノ事ナリ、休養、午後5時残敵1万3千程銃殺ス。
12月19日 晴天 南京城外
休養ノ筈ナル処午前6時起床、昨日銃殺セル敵死体1万数千名ヲ揚子江ニ捨テル、午後1時マデ、午後出発準備、衛兵司令服ム。
12月20日 晴天
午前4時起床6時出発渡河シテ新任ムニ服スベク前進ス。
年夜 下給品
スルメ 羊かん 梨 リンゴ 酒1合5勺
1日下給品
酒 蜜柑 五色おこし 勝栗 コブ 干魚 鯛かん詰 きんとん
ーーーーーーーーーーーーーーーー南京事件 一召集兵(東史郎)の記録ーーーーーーーーーーーーーーー
「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)の 著者は、戦時中、第十六師団福知山歩兵第二十聯隊第一大隊第三中隊に所属し、歩兵上等兵として南京攻略戦に関わった人である。著者は、帰国の途次マラリア のために下船し、南京病院に入院した。そのため、数ヶ月後に一人帰国し除隊することになったおかげで、自分の行軍「日記」を持ち帰ることができたという。 そして、自分自身のために、また、子孫のためにその記録を手記として残す目的で清書したという。彼はその「まえがき」で下記のように書いている。
”この本は、加害者としての私の実録であるが、戦争の実相を多くの人に知っていただき、二度と再び日本人が戦争加担しないこと、そして永久に日中友好を発展させることが、戦場で命を失ったわが戦友への最高最大の慰霊であると思う。”
と。なぜなら、
”強 姦・略奪・虐殺・放火……南京占領前後の一ヶ月に繰り広げられた日本軍の悪行を、私はみずから体験し、見聞きした。だが、こうした悪行の数々は、当時日本 国民には、いっさい知らされなかった。政府のきびしい言論統制によって、戦場の実相は、国民からおおいかくされたのである。”
という現実があったからであり、また、戦後も日本の政府は、そうした歴史の事実を明らかにしようとしてこなかったからであろうと思う。
また、巻末に寿岳章子氏の「真実をみつめて」という文章があり、それは、”隠蔽からは何も生まれない。真実を知ることからこそ未来への展望がある。”という文章で終わっている。
現在、日本国内のみならず、海外からも日本の歴史認識に懸念の声があがっている時だけに、印象深い。ここでは、南京陥落の日(12月13日)と、その次の12月21日の前半部分のみを抜粋した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
12月13日
午前7時に整列した。
「南京は、すでに昨夜、陥落せり。わが部隊も、ただ今から入城する!」
中隊長が得意げに宣言した。
おゝ!ついに落ちたか!
兵隊たちの顔がゆるみ、肩をたたき合って祝福した。兵士たちの興奮の渦。
私には、はたと思い当たるふしがあった。昨夜10時ごろに、ぴたりととまった敵の銃声。それが本丸の陥落とともに敗走に移った敵の合図だったのだ。
もし、中隊長に勇気があったなら、あのとき前進して、我々の手で一番乗りの栄誉を手にできたかもしれないのだった。
しかし、我々の夜襲によって敵の最後の抵抗は破られ、完全占領が可能になったといえる。
わが第一分隊は、負傷者の護衛収容を命じられた。私は、分隊長代理として兵7名を連れ、城内に残った。
残敵の襲撃にそなえ、負傷者3名を地下室へ運ぶ。
その一人は、手と脚をやられており、昨夜から出血が止まらない。軍医も衛生兵もいないここでは、言葉でなぐさめるより外に何もしてやれない。
外は小春日和。いたるところに敵兵の死体が転がっている。
敵は、よほど狼狽して逃げたらしく、幾千という弾薬が封も切らずに放置されていた。
中山門へ面した方向には、幾重にも張りめぐらされた鉄条網が朝日に光っている。
足元に、まだ息のある敵兵を見つけた。銃を持ち直し、とどめを刺そうと構えた。
すると、彼はかすかに目を開き、ぜいぜい鳴る息の下で何かつぶやき、重たげに手をあげた。
私は殺すのを待った。
彼は懐中から小さな手帳を出し、震える手で万年筆をにぎった。懸命に何かを書きつけている。それを私にさし出した。
そこには五文字の漢字が書いてあるのだが、判読できなかった。
彼は最後の渾身の力をふりしぼって、五文字を書くのがやっとであった。書き終えたとき、かすかな笑みが表情に浮かんだ。
これは何だろう。本当は何と書いてあるのか。手紙か、それとも遺言だろうか。
彼の顔には、すでに死相が出ていた。しかし、夢見るような微笑を浮かべていた。
私は急に、この男をいとおしく感じていた。
刺殺をためらっている様子を見て大嶋一等兵が「東さん、殺そうか」と聞いた。
「さあ……」──私はあいまいに答えた。
「どうせ死ぬんだから殺そう」と大嶋は剣をかまえた。
「待て。突かずに射ってやれ」
銃声が響き、男はもう動かなかった。
後方の塹壕のなかには、白粉(オシロイ)のビンや紅いハンカチ、女物の靴などが散乱していた。娘子軍がいた壕だったのだろう。全員逃げ出せたのか、死体はなかった。
朝日のなかを我々は身も心も軽く、四方城通りの舗装路を歩いていた。
高い城壁と堀が現れた。橋は破壊され、人一人がやっと渡れる。中央に三つの大きな門があった。夢にまで見た、あこがれの門だ。突撃する何人もの戦友が傷つき、死んだ門でもある。
「大野部隊、13日午前3時10分占領」
おゝ、大野部隊の一番乗りだったのか。
新聞記者がしきりと写真をとっていた。
どの部隊の兵士の顔も明るく、髭面が笑っている。
南京市街は、ほとんど破壊されていなかった。どの家も表戸を堅く閉ざし、住民はほとんど歩いていない。
私たちは口笛を吹きながら歩いた。
「昨日入城式があったんだよ。大野部隊代表として第一大隊が参列した。お前たちがいなかったけれど、入城式に参加したことになっているよ」
戦友はこういった。
「あたりまえだよ。最後まで戦闘に参加したのだし。命令で負傷者の収容に残ったのだから」
私たちが広場に集合して歩哨配置から宿舎割に時を過ごしているうちに、突然捕虜収容の命令が来た。
捕虜は約2万だという。私たちは軽装で強行軍した。
夕暮が足元に広がり、やがて夜の幕が下がり、すっかり暗くなって星がまたたいても歩いていた。
3、4里も歩いたと思われる頃、無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧噪をきいた。約7千人の捕虜が畑の中に武装を解除されて坐っている。
彼らの将校は、彼ら部下を捨て、とっくに逃亡してしまい、わずかに軍医大尉が一人残っているだけである。彼らが坐っている畑は道路より低かったので、一望に見渡すことができた。
枯枝に結びつけた2本の、夜風にはためく白旗をとり巻いた7千の捕虜は壮観な眺めである。
あり合わせの白布をあり合わせの木枝に結びつけて、降参するために堂々と前進して来たのであろう様を想像するとおかしくもあり哀れでもある。
よくもまあ、二個聯隊以上もの兵力を有しながら何らの抵抗もなさず捕虜になったものだと思い、これだけの兵力には相当な数の将校がいたに違いないが、一名 も残らずうまうまと逃げたものだと感心させられる。我々には二個中隊いたが、もし、7千の彼らが素手であるとはいえ、決死一番反乱したら2個中隊くらいの 兵力は完全に全滅させられたであろう。
我々は白旗を先頭に四列縦隊に彼らを並べ、ところどころに私たちが並行して前進を開始した。
綿入れの水色の軍服に綿入れの水色の外套を着、水色の帽子をかぶった者、フトンを背負っている者、頭からすっぽり毛布をかぶっている者、アンペラを持って いる者、軍服をぬぎ捨て普通人に着がえしている者、帽子をかぶっている者、かぶらない者、12、3の少年兵から40歳前後の老兵、中折帽子をかぶって軍服 を着ている者、煙草を分けてのむ者もあれば、一人でだれにもやらないでのむ者もあり、ぞろぞろと蟻のはうように歩き、浮浪者の群れのような無知そのものの 表情の彼ら。
規律もなく秩序もなく無知な緬羊(メンヨウ)の群れは闇から闇へこそこそとささやきつつ、歩いていく。
この一群の獣が、昨日までの我々に発砲し我々を悩ませていた敵とは思えない。これが敵兵だと信ずることはどうしてもできないようだ。
この無知な奴隷たちを相手に死を期して奮戦したかと思うと全く馬鹿らしくなってくる。しかも彼らの中には12、3歳の少年さえ交じっているではないか。
彼らはしきりにかわきを訴えたので、仕方なく私は水筒の水をあたえた。これは一面彼らが哀れにも思えたからである。休憩になると、彼らは再三こうたずねた。
「ウォデー、スラスラ?(私は殺されるのか)」
彼らにとってもっとも重大なことは、今後いかに処置されるかである。彼らはそれが不安でならないといった顔付きである。私は、顔を横に振って、この哀れな緬羊に安心を与えた。
夜が深まるにつれて冷えびえとした寒気が増した。
下キリン村のとある大きな家屋に到着し、彼らを全部この中へ入れた。彼らはこの家の中が殺戮場ででもあるかのように入ることをためらっていたが仕方なくぞ ろぞろと入っていった。戦友のある者は、門を入っていく彼らから、毛布やフトンをむしりとろうとし、とられまいと頑張る捕虜と争っていた。
捕虜の収容を終わった私たちは、コンクリートの柱と床だけ焼け残った家に、宿営することになった。
翌朝わたしたちは郡馬鎮の警備を命ぜられた。私たちが郡馬鎮の警備についている間に捕虜たちは各中隊へ2、3百人ずつあて、割あてられて殺されたという。
彼らの中にいた唯一の将校軍医は、支那軍の糧秣隠匿所を知っているからそれで養ってくれと言ったとか。
なぜこの多数の捕虜が殺されたのか、私たちにはわからない。しかし何となく非人道的であり、悲惨なことに思えてならない。私には何となく割り切れない不当なことのように思える。7千の生命が一度に消えさせられたということは信じられないような事実である。
戦場では、命なんていうものは、全く一握りの飯よりも価値がないようだ。
私たちの生命は、戦争という巨大なほうきにはき捨てられていく何でもないものなのだ──と思うと、戦争にはげしい憎悪を感じる。
12月21日
南京城内の整備を命じられ、郡馬鎮を去る。
中山通りにある最高法院は、灰色に塗られた大きな建物である。日本の司法省にあたろうか。
法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒しになっていた。道路の向こう側に沼があった。
どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本は惨酷な一つの提案を出した。
つまり、彼を袋の中に入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。
泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中に入れられ、袋の口をしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。彼はフットボールのようにけられ、野菜のよう に小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。
心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。
西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。
戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。
袋の紐を持っていた西本は、
「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」
というと、手榴弾を2発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。
水がぼこっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。
こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。
・・・以下略
ーーーーーーーーー南京事件 京都師団歩兵第二十聯隊兵士の記録 NO1ーーーーーーーーー
下記は、南京攻略戦に参加した京都師団歩兵第二十聯隊兵士の日記の一部である。いずれの日記にも、南京陥落(1937年12月13日)前には、激しい戦闘の記述があり、陥落後には、武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述がある。下記は、そうした記述のある南京陥落前後の部分を中心に「南京事件 京都師団関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹編集(青木書店)から抜粋したものである。武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述は、明らかに戦闘行為による殺害ではなく、国際法違反の「捕虜虐殺」であることがわかると思う。
それは、「中国が知られたくない支那軍の実態」とか、「南京防衛軍司令官・唐生智にまつわるいくつかの疑問」などと支那軍の問題点を指摘することでなかったことにできるものではない。したがって、当時の支那軍がどうあれ、居留民の保護を名目に軍を進めた日本が、居留民の保護とは関係のない「暴支膺懲」などをかかげて他国の首都に攻め込み、「捕虜虐殺」の国際法違反を犯した事実は、正当化できるものではないと思うのである。
また、「徴発」という言葉で表現された「略奪」が、常態化していた事実も読み取れるが、見逃すことはできないと思う。
先日、安倍晋三首相は、中国政府が9月に行う「抗日戦争勝利70周年」の記念行事に招待を受けたが欠席する見通しだということが報道された。欠席 の詳しい理由はよくはわからないが、ひっかかるものがある。どうも、安部首相は村山談話・河野談話を受け継ぐと言いながら、 「わが国は、遠くない過去の 一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国 の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」ということを、受け入れてはいないように思われるからである。
「国策を誤り」を受け入れていれば、招待されているのに断ることはないのではないかと思う。欧州では、第2次世界大戦を連合国側の勝利に導いた
「ノルマンディー上陸作戦」から70年を迎えた2014年6月6日の記念式典に、旧連合国はもちろん、旧敵国ドイツの首脳らがともに出席しているのであ
る。早くそうした共存共栄の関係を築くべきだと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
増田日記
・・・
12月12日 敵ノ大胆ナル逆襲ヲ数度撃退ス。午前5時小隊長高倉准尉連絡係福島伍長及米田名誉の戦死ヲ遂ゲラル。実ニ戦場ノ恒トハ言ヘ果ナシ。第二中隊ト協力シ完全ニ占領ス。
嗚呼又悲□□深シ激戦ノ跡、日ハ又西ニ没ス。明日ノ命ヲ誰カ知ル。
12月13日 未明ニ山ヲ下リテ南京ニ向フ。聞ケバ今朝3時半第2大隊全軍ニ魁ケテ南京中山門ヲ占領セリト。午後2時我大隊及聯隊旗モ晴ノ入城。
全
軍ノ将士ハ勿論故国ノ官民等等シク今日ノ入城ヲドノ位待ッタ事カ。其ノ一番乗ヲセルハ其ノ功云フベカラス。引続キ城内掃蕩ス。夜ハ宿舎ニ就キ大イニ祝福
ス。手近ニ酒有リミルク在リ。呑ンダ呑ンダ唄ッタ。大隊副官ノ注意ヲ受クル迄多クノ戦友ヲ犠牲ニシ数ヶ月ノ労苦ハ今日晴レテ忘レントス。アゝ思ヘハ尊シ犠
牲ノ英霊ヲ弔フ。命ヲ全シ此ノ栄アル入城セシ我等ノ幸福又之ニ過グルモノナシ。
12月14日国租界ニ入リ避難民中ニ居ル敗残兵ヲ掃蕩ス。第四中隊ノミニテモ5百人ヲ下ラス。玄武門側ニテ銃殺セリ。各隊ニテモ又同シト云フ。
12月15日 中嶋部隊ハ本日午後2時ヨリ4時迄入城式(中山門)ヲ行フト云フニ、一大隊ハ市内ノ掃蕩ヲ変更シテ城外馬群ニ警戒勤務ニ就ク事トナリ出発ス。第一番乗ノ勲功ノ待遇トシテ城外ノ掃蕩警備トシテハ余リナリ。夜ハ馬屋位ノトコロニドシ込テ宿営。
12月6日 アノ山城デ山々ノ要点各所ニ警戒兵ヲ出シテ警備ニ就ク。
午後目的地ニ着ク。夜山上下士哨ニ服務。
12月17日 出発シ白水橋ニ帰リ一週間ノ予定ニテ駐屯勤務。
敗残兵ノ掃蕩ヲ行フ。
多数ノ捕虜広場ニ居ルヲ見ル。
・・・以下略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上羽日記
第拾六師団 衛生隊
車輌中隊第貳小隊
第壱分隊第貳班
上羽 武一郎
陣中日記
・・・
12月12日
砲撃はげし。ゐんゐんたる重砲のうなりを立てゝとんで行く。
耳もつぶれる様だ。
新聞社の自働車がうようよ。朝日・毎日は自働車にトーキー班を設けカメラに収める。無電で第一線の記者よりのれんらく等物々しい。
午後4時より患者収容に出る。松田部隊長も兄の着物を着て其の上にがいとうを着て、抗にパンをかじってがんばってゐる。
12月13日 日本晴
飛行キの活躍ばかり。
小銃の音はたと止み、重砲のみ南京城内のつるべ打ち。
中山陵園患者収容。
午前11時南京に入城したそうな。
12月14日
飛行キ残敵掃とう。
患者第二病院、南京中国病院へ運ぶ。
城へき、中山門の砲の弾こん物すごし。門は土のうをつんで入口を閉してあったらしい。
12月13日 午前3時10分
大野部隊占領、意気高し。午前2時半、工兵今中隊爆薬でとつげき路を開き、3時10分福知山二十の大野隊が一番に占領したと太々と記してあるを見た時、ほんとうにうれしかった。
無錫
大江貞美君が戦死したそうな。実におしい人をなくした。
夕方7時我々車輌病院へ行く途中敵しうに合い生きた気持ちせず、どんどんぱちぱち。歩兵がトラック、ダンットサンに分乗、早速かけつけて何なくげきたいする。話に依れば、3百人程の兵を武装解除して倉庫に入れ、10人ずつ出して殺して居る時、此を見た中のやつがあばれ出し、7、8人で守って居た我兵の内三八の銃をもぎとられ交戦し、其れが逃げてきたらしい。彼等は武装解除して使役にでも使われると思ったらしい。
12月15日 南京滞在
中山陵出発、病院横に宿る。
各部隊の入城式花々しい。タンク、砲車、海軍の陸戦隊、そうこう車等市内を大行進。さすが首都だけの名にはじず道路はアスハルト、街路樹等、烏丸等より以上だ。
家屋も大きな建物が一ぱいだ。中にも戸をしめた各種の銀行等、平井、吉岡に市内残てきそうとうのかへりに出会ふ。
12月15日
話に依れば、地内北方に敵武装解除したる兵1万5千人居て、此れを機関銃で囲んでいるそうな。又紫金山のトーチカ内に一個師団程度居て、此も囲んで守って居るそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引ぱり出してさがして行く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
北山日記
12月13日
昨夜、夜通し砲撃の音がしてゐる。朝方から砲銃声の音が絶へる。さてはと思ってゐると前進命令。”
”
中山門ニ向ッテ前進スベシ”さあ入城だ。直に整列、出発。前進して政治学校までくるとこゝで大休止だとの話である。円ピ、十字鍬、巻脚絆、弾薬、防毒面、
靴、雑嚢、毛布、随分ほってある。西山を一廻りして下りて来ると、壕内に敗残兵がいたと大勢の人達が集ってヤイヤイ云ってゐる。
紅顔の美少年である。シャツは抗日救国聯合会の著名人のものを着てゐる。祖国中華民国を守れと随分苦労したらう。余り皆んが惨酷な殺し方をし様とするので見るに忍びず僕が銃殺し様とするが、皆が承知しない。
戦友が無残な死に方をしたので唯の殺し方では虫が納まらぬのだと云ってゐる。無理からぬこと。
だが余りに感情的ではないだろうか。日本軍は正義の軍であり、同時に文化の軍でなければならない。同じ人を殺すにしてだるだけ苦しめずに一思いにバサリ殺ってやるのが、日本の武士道ではないだらうか。
少しの抵抗もせず、こゝを撃って殺して呉と喉を示して哀願するのを、寄ってたかって虐殺するのは、日本兵の恥である。
大隊長代理森尾大尉の労苦を謝すの簡単な挨拶の後、附近の民家に宿営。中隊は観音堂の入る。
観音様も兵隊様の御詣りには閉口だらう。
遂々一番乗りは第一大隊らしい。
12月14日
今日は入城だらう。3時頃から起きてワイワイ騒いで準備する。
何時迄経っても命令が来ない。
昼食後、山本、田辺と一緒に城内へ入って見る。
中山門相当に砲撃が加へてある。鉄の扉に記された”12月13日午前3時40分大野部隊占領”の文字。手を握って喜合ふ。
未だ城内は残敵掃蕩の最中らしい。
徴発は一切厳禁。仕方なく引き返す。
新聞社通信社の自動車が幾十台となく城内へ入る。空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回してゐる。午後2時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。
午後12時過ぎ掃蕩から皈る。8百名程武装解除したらしい。
皆んな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなぞと想ってゐまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山居たと云ふ。
生かして置けば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだらうが惜しいものだ。尊い生命が何の(チューチョ)もなく失はれて行く戦争の酷烈な姿をつくづく感じる。
12月15日
愈々南京入城である。前線も銃後もいかに今日の日を待った事か。今日のため、今日のよろこびのため皆んなすべてを犠牲にし、いかなる苦しみも堪へ忍んで来たのだ。
さ
あ皆んな出す出す。勝利の時振って喜べとの背嚢の国旗が小銃の先頭に、馬の背中に、車輌にハタハタと翻ってゐる。軍装も完全。午後2時30分、道路上に整
列。軍司令官閣下を迎へ、閣下を先頭に入城。入城近く大津新聞の記者が来る。余り苦しそうなので背負袋を車輌に積んでやる。大変喜んでバットを拾個くれ
る。重宝な煙草である。皆んなに分配してやる。3時堂々入城。新聞社のカメラマンが活躍してゐる。国民政府、参謀本部、中央医院どれもこれも堂々たる建物
である。未だ2日前には党や政府の要人達がこの辺りを忙しく右往左往したことだらう。
小憩後宿舎に入る。宿舎は医者の別荘風な上品な構えの家である。
長い間使役に従事した你(中国人・你公ニイコーは中国人の蔑称という))等が解放され喜しそうに皈ってゐく。
はらからの 待つこと比さし 今日の日の
この喜びぞ 響け 銃後に
12月16日
戦
銃隊は城内敗残兵掃蕩に行く。炊事場、入浴場、厩舎なぞ設備する。国際委員会管理下に避難民区と云ふ特別な地域が定めてある。入って見る。随分収容してゐ
る。皈る途中北洋飲料店と書いた店屋がある。入って見るとサイダーが山程積んである。一本抜いて見る。甘いなんとも云ひ得ない美食い味だ。早速附近で人力
車を一台徴発し、你公(ニイコー・中国人の蔑称という)に一ぱい載せて曳いて皈る。
外の者も寝台、家具、酒、砂糖、飴、蓄音機なぞ沢山もって皈ってゐる。ストーブをゴンゴンたいて、ビール、サイダーを呑み乍ら12時近く迄話す。
12月17日
小隊の連中が是非教へてくれと云ふので各分隊から2名づゝ連れて朝食後サイダー取りに車輌を曳いて行く。
昨日から早や大分減してゐる。車に2台、2ダース箱を60近く持って皈る。鉛筆、石鹸、銀製のフォークなぞ徴発してゐる。
午後城内を見て廻る。美しい衣服の家を見付ける。
ーーーーーーーー南京事件 京都師団歩兵第二十聯隊兵士の記録 NO2ーーーーーーー
前項に続いて、下記も南京攻略戦に参加した京都師団歩兵第二十聯隊兵士の日記の一部である。下記の日記でも、南京陥落(1937年12月13日)前
には、激しい戦闘があえり陥落後には、武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述がある。そうした南京陥落前後の状況が記された部分を中心に「南京事件 京都師団関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹編集(青木書店)から抜粋した。また、合わせて「第四中隊陣中日誌」の一部も抜粋した。武装解除した敗残兵や投降兵の銃殺の記述は、明らかに戦闘行為による殺害ではなく、国際法違反の「捕虜虐殺」であり、正当化してはならないと思うからである。
現在の日本は、安倍政権のもと、歴史の修正によって戦時中の日本を正当化しようとする動きがますます勢いを持ちつつあるように思う。
ふりかえれば、大日本帝国憲法第11条で「天皇は陸海軍を統帥す」と定められ、戦争の最高指揮権を有していた天皇が、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で免責されたためか、戦後間もない頃から日本の戦争を正当化する主張があった。そして、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌い続けただけではなく、それらを国旗・国歌と定めるに至った(平成11年8月13日:法律第127号)。
さらに、「逆コース」
といわれるGHQの占領政策の転換によって、公職追放を解除された大本営や参謀本部の元高官、帝国陸海軍軍人、当時の政権中枢の閣僚や政治家、軍国主義団
体の関係者その他、先の大戦を指導した軍人や彼等を支えた多くの人たちが、戦後の日本社会で復活し、要職に就いて再び力を発揮するようになった。
東條内閣当時、商工大臣や国務大臣を務め、A級戦犯被疑者として3年半東京の巣鴨拘置所に収監された岸信介(安倍首相の祖父)が、戦後内閣総理大臣
(第56・57代)となっていることはよく知られている。また、政界に入った軍人も多い。そのため、先の大戦に関する発言で辞任に至る閣僚や更迭される閣
僚も続いた。たとえば、羽田内閣の永野茂門法相(敗戦時:大日本帝国陸軍大尉)などは、「南京大虐殺はでっち上げだ」というような発言をし、事実上更迭される形で、在任わずか11日で辞任している。
当然ともいえるが、そうした旧指導層を排除できなかった日本は、戦後も自らの加害責任にきちんと向きあってこなかった。だから、日本は、今も戦争に関わる様々な問題を引きずっているのだと思う。
それは、戦後補償問題に象徴的にあらわれている。
太平洋戦争の終結に際して、ポツダム宣言執行のために日本において占領政策を実施したGHQは、日本を民主化するための一つとして、「軍人恩給廃止」の「連合軍最高司令部訓令」を発した。その時「この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」と指摘し、また、「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、日本の軍人恩給を廃止させたのである。
にもかかわらず、日本政府はその軍人恩給を、サンフランシスコ講和条約締結によって日本国の主権が承認された直後に復活させている(1953年改正により復活:法律第155号)。
したがって、日本の戦争被害者の補償は、戦時中の軍人を中心とするもので、その支給金額も、原則として当時の階級に応じた(仮定俸給年額:兵145万円~大将833万)ものになっている。軍人とその遣族に対する恩給法は、戦後も戦時中の考え方で貫かれているのである。
また、元軍人やその遺族には手厚い援護をしながら、空襲被害者をはじめとする一般被害国民や国家総動員法で徴用された多くの人は、補償の対象外で「受忍」させらたままである。国籍により外国人を補償から排除するという問題も、戦後70年、いまだに解決していない。
ドイツをはじめとする欧州諸国の戦後補償は、人権や国民の被害の平等負担という観点から行われた。しかしながら、日本の戦後補償は、基本的な部分で戦時中の考え方で行われているのである。
したがって、旧指導層が甦り、いろいろな側面で戦時中と変わらない考え方を残した「戦後の平和憲法に基づく日本」の歩みは、戦後間もないころから危ういものであったといえるのではないかと思う。そして、「一強多弱」と言われる状況に至った現在の安倍政権は、内外の懸念の声をものともせず、歴史を修正し、いよいよ本格的に「平和憲法に基づく日本」をつくりかえようとしているように思われる。
下記のような記録が多数存在し、元日本兵の証言も数え切れないほどあるのに、「捕虜虐殺はなかった」、「南京大虐殺なかった」というような歴史の修正を認め、教科書から加害の事実を削除することが許されていいのかどうか…。
国際社会の信頼を得ることができるのかどうか…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
牧原日記
12月13日
13日の朝はあける。今日で西山高地の陣地を撤退し午前5時此の高地を出発。南京街道路に出る。
途中敵の遺棄死体や手榴弾及小銃弾が無数に捨てられている。
話では、午前1時十一中隊の将校斥候が出発す。十二中隊の将校斥候は西山下の三叉路に於いて敵の地雷にかかり、3名即死し6名が負傷したそうである。
道々には地雷の掘り起こした穴がいくつもある。亦敵が敵の地雷にひっかかり手足がとび無ざんにも真黒になって4名死んでいた。大隊は城門手前4百米位の所にある遺族学校にて朝食をとり8時過ぎ出発し城門手前百米位の土手にて休憩する。
話によると攻城砲の破片が3百米も後方に飛んで来たという事だった。
新
聞記者も続々と嬉しそうに自動車や徒歩にて入城する。午前11時昼食を同学校で終わり、中山門に向う。大隊は師団の予備隊となり、一時兵力を西山の麓に集
結(大きな建物があったが名前は忘れた)。今晩は此の地で一泊する事になった。九中隊は紫金山の残敵掃討、十二中隊は当部落並に附近の警戒に当たる事に
なった。MG中隊も一ヶ分隊が十二中隊に協力する事になった。MG中隊及大隊砲は大隊主力と離れ貧しそうな家に泊る事になった。家の中には馬が一匹死んで
いた。支那人苦力は熱心によくついて来て呉れた。次の様な隊長訓示があった。
連日にわたる悪戦苦闘に諸子は誠に御苦労であった。光輝ある軍旗に一層の光輝をそえた。
戦車隊も9時頃から掃討に協力出動した。
昼間より大・小行李部隊も盛んに入城している。
〔欄外記入〕
自12月9日至同13日南京攻略に参加。同日南京入城。
12月14日
午前7時起床。午前8時半、一分隊は十二中隊に協力。馬群方面の掃討に行く。敵も食うに食なくふらふらで出て来たそうだ。直ちに自動車にて出発す。
しかし到着した時には小銃中隊だけで、三百十名位の敵の武装解除を終わり待っていたとの事。
早速行って全部銃殺して皈って来た。
昨夜はこの地にいた小行李部隊も敵の夜襲を受け戦死6名出たそうだ。
午
後2時大隊は山岳部の掃討に行く事になった。何でも5、6百の敵が現れたため師団命令により行動をおこした。行程は約7里位。鉄道に沿い揚子江の方に向
う。海軍部隊も看護兵が若干トラックにて来ていた。その兵隊達が言うのには、陸軍さんは暫く休んでいて呉れ、今度は海軍が英国をやってしまうから、と力ん
でいた。岔路口手前約1里半の所で九中隊は1ヶ分隊の兵力で約千八百の支那軍を連れて皈って来るのに出合った。敵は食ふに食なくふらふらしていたのも可哀
想であった。また鉄道線路の沿道にあちこち敵の死体が転がっていた。また鉄道線路のすぐわきの所には百余りもの支那軍が友軍の騎兵隊の夜襲を受け全滅して
いた。
此の地で約30分休憩す。手榴弾、小銃弾、拳銃弾、
変り種では、鍋、書類、衣類、茶碗、それに衣類等々が所せましと散らばっている。午後6時同村に到着。死骸のある地から此所迄は全く地雷が多く埋られ危険
せんばんだ。或る場所では友軍の自動車がひっかかり、また敵が敵の地雷にひっかかって3名位がちりぢりばらばらになり、それ等の着物の一部が電線にひっか
かり黒こげになっているのもあわれな光景だ。また6名の敗残兵の6名が捕えられ銃殺された。ただちに部落の掃討をやったが、唯の1名も居なかった。食事を準備し約2時間休憩して帰途につく。途中いたる所に地雷が埋もれているのを工兵隊が処理したと言っていたが、1発でも残っていたら一大事である。幸い無事だった。
今一つの悲惨な光景は、とある大きな車庫の建物に百五、六十名の敵兵が油のようなものをふりかけられ焼死体となって扉から一生懸命のがれ様ともがいたまま倒れていた。而し今は僕達いくら死体を見ても何とも思わなくなった。
午後11時50分無事到着。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東日記 本人著書「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)より抜粋(467)した関係で、ここでは省略。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
増田手記
「南京城内掃蕩ノ巻」
第二小隊第三分隊
増 田 六 助
昭和12年12月13日、此の日こそ我が国史の上に永遠に燦として輝く南京陥落の日である。南京は言ふ迄もなく国民党の本拠、抗日排日の中心地である。そ
の南京は一方大揚子江に臨み、三方は山岳、丘陵に囲まれた天然の要害地、攻めるに難く守るに易き城都である上に□□□□り至れり尽せりに防御工事を施した
る陣地に頼り、蒋政権興亡の浮沈の最後の決戦を試みたのであった。然れ共破邪顕正の刃を止むる楯なく正義に剣とる我皇軍の前には一たまりもなく、僅か3日
間の攻撃にてもろくも破れた各城門には日章旗が翻翻と飜り、洪水に堤の切れたる如く城内になだれ込んだる皇軍勇士の凛とした顔には感激の涙さえ光ってい
た。
中山門を逸早く占領して武名を輝したる大野部隊の花
形たる坂隊は、午後1時犠牲者の遺骨を抱き血達磨隊長を先頭に堂々と入城したのであった。中隊は息つぐ遑もなく田中少尉指揮の下に城内敗残兵掃蕩を開始し
た。中山門を入って5、6百米の南京大衆病院に這入った。鉄筋コンクリート4階建ての立派な建物が幾棟もある実に広壮なる病院だ。之は上海、常熱、無錫方
面より後送されたる戦傷患者を収容して居た所である。
各分
隊毎に一団となり、一兵たりとも許さじと意気込んで踏み込んだが、其処には血まみれの軍服や破れた帽子や毛布等があるばかりであったが、憎き支那軍の収容
所であった丈でも腹がたつ。戸棚と云はず机と言はず手当たり次第に打ち壊した。薬棚、器具、凾時計等の硝子戸も破壊した。色々の写真標本の類も、ことごと
く銃剣で突き出した。
其処を引き揚げて中山北路へ出る道中一帯には、敗残兵の捨てた兵器、弾薬、被服の類から馬や車等が街路一杯に散らかって居る。建並ぶ商家は支那軍の為にすっかり持ち去られて何一つなく、人影どころか犬ころ一匹居ない死の街であった。
其の夜は久し振りに家に泊まる事になった。掠奪はもとより本意ではないが、此処数日間殆ど飲まず食はず不眠不休で戦闘をしたのも全く今日をあらしめんが為では無いか。又今日あらしむる為に幾多の戦友が尊き犠牲となって居るのではないか。祝南京陥落、祝南京入城だ。
方々から徴発して来た洋酒、ビール、支那酒、色々の鑵詰類を集めて呑んだ、呑んだ。そして祝戦捷の歌を朗に唄った。2日間「グーグー」と泣いた腹へも米の飯をどんどん詰め込んだのであった。
明けくれば14日、今日は国際委員会の設置して居る難民区へ掃蕩に行くのである。
昨
日まで必死で抵抗して居た数万の敗残兵は八方より包囲されて唯の一人も逃げて居ない。結局此の難民区へ逃げ込んで居るのだ。今日こそ虱潰しに草の根を分け
ても捜し出し、亡き戦友の恨を晴らしてやろうと意気込んで配置に付いた。各小隊に分かれて、それぞれ複雑な支那家屋を一々索して男は全部取調べた。其□□
大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服と着換へつゝある所を第2小隊の連絡係前原伍長等が見付けた。それと言ふので飛び込んで見ると何の其の
壮々たる敗残兵だ、傍には小銃、拳銃、青龍刀等兵器が山程積んであるではないか。軍服の儘の者もあれば、早くも支那服を纏って居る者もあるが、何れも時候
はずれのものや不釣合の物を着て居るので、俄拵である事が一目で解った。
片っ
端から引張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂下っている電線で引くくり数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長を始め気の立って居る者共は木の枝
や電線で力任せにしばき付け乍ら「きさま達の為に俺達は此んな苦労をしてゐるんだ、エイ」ピシャン「貴様等の為にどんなに多くの戦友が犠牲となってゐるか
知れんのじゃ、エイ」ピシリ。
「貴様等のためにどんなに多くの国民が泣いているか知れんのだぞ」エイ。ピシリピシリ、エイ、此の餓鬼奴、ボン「こら此の餓鬼もだ。」ボン、素裸の頭と言はず蹴る、しばく、たゝく、思ひ思ひの気晴をやった。少くも3百人位は居る。一寸多すぎて始末に困った。
暫
くして委員会の腕章を付けた支那人に「你支那兵有没有(ニーツーナビンユーメーユ)」と聞くと、向の大きな建物を指差して「多々的有」と答へる。其の家に
這入って見ると一杯の避難民だ。其の中から怪しそうな者を一千名ばかり選び出して一室に入れ、又その中より兵隊に違いない者ばかりを選り出して最後に3百
人位の奴等を縛った。金を出して命乞する者もあったが、金に欲の無い我々は十円札、3枚5枚と重ねた儘ビリッビリッと引裂きポイッと投げる、又時計等出す
ものがあれば平気で大地に投付け靴のかがとで踏付けて知らん顔して居る。
夕暗迫る頃6百人近くの敗残兵の大群を引立てゝ玄武門に至り其の近くで一度に銃殺したのであった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第四中隊陣中日誌
12月12日 晴 日 於八四・六高地
一、
黎明時敵ハ更ニ本戦場ノ要点タル西山高地ノ奪回ヲ企図シ執拗ニモ我左側ヨリ約50名ノ敵ハ猛烈ナル射撃ヲ浴セツヽ逆襲シ来ル 第二小隊及予備隊ハ一斉ニ熾
烈ナル火力ヲ発揚シ次イテ小隊長高倉准尉率先先頭ニ立チ奮戦格闘十数分後之ヲ西方ニ撃退セリ 本戦斗ニ於テ高倉准尉及福島伍長並ニ大隊砲小隊長梅川曹長ハ
格斗中敵弾ニ倒レ壮烈ナル最後ヲ遂ク
二、大隊主力正面ハ本朝来極力弾雨ヲ冒シテ前進ニ努メ我カ配属機関銃及軽機関銃ハ射撃ヲ以テ極力之ト協力シタルモ容易ニ前進スル能ハス 漸ク正午頃第二中隊ハ我カ中隊ノ北方西山高地ノ北部ヲ占領セリ 又第十一中隊ハ南部西山高地西北側ニ逐次進出セリ
茲ニ於テ中隊ハ第二中隊ニ連繋シ更ニ西北側ニ向ヒ攻撃シ遺族学校方向ニ敗退スル敵ヲ猛射シ敵第二線陣地ニ対スル攻撃ヲ準備セリ
我大隊ハ茲ニ於テ完全ニ西山高地上ノ敵ヲ撃退シ得タルモ敵ハ遺族学校南北ノ陣地ヨリ終日猛烈ニ高地上ニ射撃ヲ集中シ且又紫金山方向ヨリ猛烈ナル砲撃ヲ受ケ多数ノ死傷者ヲ生シタリ
中隊長ハ遺族学校附近ノ敵陣地ニ対シ攻撃ヲ希望シ意見ヲ具申スル所アリシモ聯隊命令ニ依リ前進ヲ統制セラレ現在ノ態勢ヲ以テ日没トナル
敵ハ夜ニ入ルモ頑強ニ抵抗シ我中隊ニ於テモ敵砲弾ノ為中隊長以下数名ノ負傷者ヲ出スニ至レリ大隊ノ予備隊タリシ第三小隊、中隊ニ復皈ス
三、中隊ハ大隊命令ニ基キ現在陣地ヲ確保スルト共ニ中山門附近ノ敵情地形ノ偵察ニ努メ夜ヲ徹ス
四、本日戦死傷者左ノ如シ
左記
日時 | 場所 | 部位 | 重軽傷 | 階級 | 氏名 |
12月12日午前7・20 | 孝陵衡84・6高地 | 頭部貫通銃創 | 即死 | 准尉 | 高倉亀之助 |
同 | 同 | 胸部貫通銃創 | 同 | 伍長 | 福島治郎 |
同 | 同 | 背部擦過左手貫通銃創 | 軽 | 一等兵 | 田中数夫 |
同10、40 | 同 | 右下肢貫通銃創 | 軽 | 一等兵 | 白米山利一郎 |
同午後7・40 | 同 | 右上膊頭部爆創 | 軽 | 中尉 | 坂清 |
同 | 同 | 右手及耳朶爆創 | 軽 | 上等兵 | 的場善夫 |
同 | 同 | 下顎及頭部爆創 | 軽 | 一等兵 | 松岡京松 |
同午後8・05 | 同 | 右側腹爆創 | 軽 | 一等兵 | 大江明 |
同 | 同 | 右側膊擦過銃創 | 軽 | 伍長 | 河北喜八 |
五、火葬ノタメ進士伍長以下5名残置ス
六、現員 234名 内入院43名
12月13日 晴 月 於南京
一、西作命第167号ニヨリ午前7時30分東南方山麓ニ集結シ本隊トナリ中山門ニ向ヒ前進ス
二、中隊ハ午後1時40分中山門ヨリ入城、西作命第168号ニ依リ城内掃蕩ヲ実施ス
三、歩兵一等兵 須川淳
歩兵上等兵 中島定助
歩兵一等兵 瀬崎重吉
右入院中ノ処12月5日退院、本日中隊ニ追及ス
四、進士伍長以下4名火葬ヲ終ヘ遺骨ヲ奉シ中隊ニ追及ス
五、尋常糧秣トシテ一日分ヲ受領ス
六、現在員 234名 内入院40名
12月14日 晴 火 於南京
一、西作命第170号ニヨリ午前10時ヨリ城内第二次掃蕩区域ノ掃蕩ヲ実施ス
敗残兵328名ヲ銃殺シ埋葬ス
二、鹵獲兵器左ノ如シ
品目 | 数量 | 品目 | 数量 |
小銃 | 180 | 拳銃 | 60 |
銃剣 | 110 | 眼鏡 | 2 |
小銃弾 | 4000発 | 手榴弾 | 20発 |
剣銃弾 | 5000発 |
三、歩兵上等兵 山口定一
同 中野修一
入院中ノ処本日中隊主力ニ追及ス
四、尋常糧秣トシテ2日分ヲ受領ス
五、南京城内海軍部ニ於テ宿営ス
六、現在員 234名 内入院38名
下記は、『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)から、「徴発」(略奪)や強姦についての証言がきわめて具体的なばかりでなく、その任務についも、関係者でないと語れないと思う内容を含んだ、一工兵の証言を抜粋したものである。
現在、安倍政権の進める政治を考える上で、こうした証言があることを知ることは、とても大事なことではないかと考える。
昨年末の第47回衆議院議員総選挙前、自民党が在京テレビ各局に「報道の公平中立」を求める文書を出した。放送法4条はテレビ局に「政治的に公平であること」を求めているが、「編集権への介入だ」と反発した記者が多かったという。「自民党にとって公平中立な内容しか許さない」ということであり、「政権が圧力で報道をコントロールする意図がみえる」からであると報じられていた。その文書では、細かい編集内容に言及しており、その要請内容は、ゲスト出演者の選定、番組で取り上げるテーマ、出演者の発言の回数や時間、街頭インタビューにまで及んだという。 とにかく今までにない「異例」の文書だったようである。
また、テレビ朝日の特定の番組に対し、報道圧力とも受け取れる文書を送付してことも明らかにされた。さらに、安倍政権の批判を続けるコメンテータが番組中
に、突然自身の降板問題を取り上げるということもあった。その具体的経緯については、確かなことはわからないが、戦前・戦中の「報道統制」に近づきつつあるのではないかと心配である。
安倍政権が、教科書・教育への強権的介入や支配の傾向を強めていることも見逃せない。安倍政権の歴史認識については、今、国際社会に問題視・危険視する声
があがっているが、そんな中で、教科書検定(検閲)という手段によって、政権の歴史認識を歴史教科書等に記述させるという政策を着々と進めているからであ
る。
日本が、「国連・子どもの権利委員会」から、下記のような勧告を受けていることを無視してはならないと思う。
” 本
委員会は、日本の歴史教科書が、歴史的事実に関して日本政府による解釈のみを反映しているため、アジア・太平洋地域における国々の子どもの相互理解を促進
していないとの情報を懸念する。本委員会は、アジア・太平洋地域における歴史的事実についてのバランスの取れた見方が検定教科書に反映されることを、締約
国政府に勧告する。”
メディアに対し、報道の「公平中立」を求めて圧力をかけた人たちが、教育において近隣諸国を顧慮す
る教育内容を認めないということは、まさに自らにとっての公平中立な内容しか許さないということだと思う。近隣諸国から非難の声があがるような歴史教育の
政治的利用は、許されないことだと思うのである。
ILO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告」(1966年 ユネスコ特別政府間会議採択)には
”教
育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められ
たものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられ
るべきである。(8 教員の権利と責任-職業上の自由 第61項)”
とある。政治家が教育に介入すべきではないということであろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第3部 証言
5 「徴発」と称する略奪、放火、強制労働
現場では豚でも鶏でも盗るのは当たり前
小野寺忠雄
1914年3月生まれ
南京戦当時 第16師団工兵大十六聯隊
1999年3月取材
中学校の時柔道が好きで、黒帯で初段まで取ってね。よく校長に反抗してわんぱくやったな。だから先生から見るとわしは素行の悪い子やったんやろな。
わしは昭和9年兵で現役は工兵で十六聯隊でした。当時、上官にも反抗したことがあるな。兵隊の頭を叩きながら「電気を消せ」と言ったこともある。けど、他
人から言われたらすぐ殴りつけたな。昭12年9月に「大阪にあつまれ」との召集令状が来て、大阪に行ったな。2度目の召集で、工兵第十六聯隊に入った。わ
しらは、松井石根大将の指示を受けてたな。
●──南京に行くまでの道を造る
工兵の仕事は南京までの道が途中で破壊されたり、橋が落ちておったりするので、橋を造ったり、道を造ったりしながら進むんや。具体的に言うとな、橋を造る
時、一番お大きな問題は家をつぶして、家の柱とか板とかを取ってきたり、大きな電柱を切ったりして材料を集めることなんや。これは工兵では一番大きい仕事
でな。電柱の中で長いのは橋の杭になる。一つの橋を造るのはそんなに簡単やないで。上海から南京まで行く途中で、わしらが造った長い橋には3百や4百メー
トルのものもあったな。その上を戦車や砲車が通ったんや。かなりの工事やった。歩兵より先に行かなならんし、橋を組み立てる時はものすごう体力が必要とさ
れたんや。工兵の仕事はなかなか多かったな。船も作ったりしたし、大きな機械は別として、基本は皆手造りで、一つの橋を架けるためにどれだけの工具が必要
か、そんな何もないところで、材料を集めるのはほんまに難しかったわあ。一つの仕事を完成するまで寝られへんかったな。夜通しぶっ通しで工事をやるんで、
寝る暇がなかったんや。
南京を入るちょっと手前で揚子江
を渡って、敵が逃げるのを止めに行ったことがあったな。浦口まで揚子江を船で渡っていった。工兵でも船がいろいろあるんでな、一番軽い折畳式鉄舟で渡った
で。一個分隊乗るか乗らないか、10人そこそこ乗れる船で、内地から送って来たやつや。11馬力のエンジンが付いていて向こうへ着いたらすぐ折り畳むん
や。それを運転するのも工兵の仕事やな。それが何艘もあったな。浦口に渡った目的は南京が陥落して支那兵が皆浦口に逃げていたんや。つまり敵兵が逃げるの
を止めにため行ったんや。支那兵はたくさんいたな。止めるということは殲滅することや。とにかく日本兵は、歩兵銃や機関銃を撃ちまくっていた。
当時わしの仕事は自分たちの兵隊を浦口まで鉄舟に乗せて運ぶ仕事やったんや。浦口に着いたらまた戻って、次の兵隊を乗せて渡ったんや。揚子江を何回も往復
したわ。向こうには蒋介石の兵隊がたくさんいたんでね、最初は応援してきた。どこの部隊を運んだかは分からんな。とにかくどんどん運んだ。歩兵も渡した
し、砲兵も渡したね。乗せた兵隊はいつも銃を持っていて、船で逃げている支那人を撃ってたね。船は人でいっぱいで、引っくり返されると大変なので二つずつ
括って渡ったね。あちこちにその括った船があった。船の数はその場に依って違うので、どれ位あったか覚えていないな。揚子江を渡って降ろしてまた帰ってく
るだけで1時間ほどかかったかな。目の前には海軍の船も来ていた。払暁戦だったので夜明けと共に戦闘にいったな。夜は渡らんよ。わしら夜は橋造りの作業を
したな。
●──現地略奪と隊長の女遊び
南京の入城式には行ってないな。城内に入ったことがない。南京城近くまでは行ったけれども、揚子江の向こう岸に行って逃げている支那人を殲滅したんや。陥落から正月までの2週間は浦口でゆっくりしたな。正月は浦口で迎えた。日本から食料を送ってくる間の時間が長いので、ほとんどは現地略奪やったな。現地の支那人が住んでいる所に行って、無理やりに物を盗ってきたんや。向こう岸にも支那人がいっぱい住んでいたな。わしらは結構悪いことをした。ぱっと大きな村に入っていくらでも物を集めてくるんや。豚でも牛でも食料でもなんでも盗ってきたな。反抗したら撃つのでな、村の人は反抗なんかできないわな。
(輜重十六聯隊の)ある中隊長は女を連れて歩いたね。上がそんなんやからな。そやから、悪いことをしようとしたらいくらでもできた。わしも女が好きやった。分隊の兵隊が捕まえた女を連れてきて、「遊べ」と言うとな、女が嫌がっててもなんでも、わしらは「よしよし」と言って隠れて皆するんじゃ。わしら老年兵は悪いこともしたけれどな、ようしない兵隊もいたな。家では一生懸命神さんに拝んでいるからや。兵隊の中でも人それぞれやったな。
●──南京陥落後の掃蕩
掃蕩戦は歩兵の仕事で、工兵は銃を持っていたけれど、撃つことがなくて、歩兵を渡らせたり、戦車を通らせたりすることやった。筏に乗せた捕虜を機関銃で撃ったことはない。けど、それはありうることで他の部隊がやったかもしれんな。
仕事で材料を集める時、支那人の家をこわして、木材の部分を取る時、もちろん、その家には人が住んでいたわ。日本兵は中国人を捕まえて集めると、「お前らがいるからわしらがこんな仕事をせんならん」とか言って、刀で首を切ったりして殺したな。かわいそうやった。引っ張って来た人の中には大人もいたし子どももいたな。
地雷をひいて、その上に捕虜をのせて、工兵が地雷に火をつけて処分したということは聞いたことがあるけどわしはやってないで。