-NO451~456


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南京事件 郭立言さんの証言ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 2015年1月31日、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」という言葉で有名な、元ドイツ連邦共和国大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏が亡くなった。私は、安倍総理に、このヴァイツゼッカー氏の言葉の意味をしっかりかみしめてもらいたいと思う。安倍総理の「未来志向」とやらは、この言葉の意味を無視して、不都合な過去をなかったことにしようとするものではないかと思うからである。私たち日本人は、いろいろな意味で「過去に眼を閉ざ」してはならないと思うのである。

  戦後世代はもちろん、直接戦争に関わらなかった人間は、戦時中に南京でいったい何があったのか知りたいと思っても、南京攻略戦で虐殺や略奪に係わった元日 本兵の多くが沈黙を守ってきたために、戦後70年が経過する現在も、その実態を正しく認識しているとは言えない。そして、その歴史的意味が国民に共有され ているとは言えない状況にある。
 しかしながら、関係者がその記憶を封印したまま亡くなり、当時を知る人たちがどんどん少なくなる中で、懸命にそうした記憶を甦らせ、記録し、公にしようとする取り組みが進められている。大事なことだと思う。

  口を閉ざす元日本兵や、不都合な過去を否定したい関係者の気持ちも分からないではない。でも、南京で虐殺や略奪があったことは否定できない事実だと思う。 下記のような中国側被害証言は少なくないし、そうした中国側被害証言と合致する日本側の文書資料や元日本兵の証言も、数は少ないが相当数集められている。 日本の将来を心配して語りはじめた元日本兵や、熱心に聞き書きに取り組む戦後世代の努力に報いて、記憶の呼び戻しに苦しみつつ語る元日本兵、当時の事実を 知る関係者も出てきているからである。

 下記は『南京大虐殺の現場へ』洞富雄・藤原彰・本多勝一編(朝日新聞社)から、「郭立言さんの体験」と題された部分を抜粋したものであるが、文章の中に「18歳の弟が、日本軍の中島部隊に「安居証」をもらいに行ったところ…」とある。その「中島部隊」とは、南京陥落後、南京城内の掃討にあたった中島今朝吾師団長が率いた第16師団のことであろう。
 
 そしてその中島今朝吾師団長の日記に「捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム、時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ」とか、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ…」とか、「後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル」というような記述がある〔437 捕虜(俘虜) 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」 日本軍NO1〕。

 第16師団(中島部隊)は投降してきた中国兵を捕虜とはせず、国際法に反し殺害していたということであろう。
 特に、下記証言にも出てくる、「草鞋峡」における虐殺は、様々な立場の人が語っている。だから、 「今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています」というような主張は、不都合な証言や資料を無視するもので、国際的には通用しないのである。
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                           中国人生存者の証言
 郭立言さんの証言

  郭立言さんは、南京事件当時、21歳。中学を卒業後小学校の教師をしたことがあるが、日本軍が南京に来たころは、学芸中学の事務主任の仕事をしていた。住 居は中華門内の本匠(大工)町にあり、家族は両親と男ばかりの兄弟6人であった。父は50歳過ぎで裁判所の書記、長兄は23歳で電気工、次男は郭さん、三 男の弟は18歳で、肉屋に働いており、あと3人の弟のうち2人は小学生、末の弟は未就学児であった。

  郭さんは、現在71歳。すでに定年となり、南京市平北路紅旗新村10憧1号に住んでいる。細面の顔は色つやもよく元気そうで、あごの白髪と澄んだ目が印象 的である。ひと通り、自分の体験したことを語り終わったとき、「当時を思い出すと、すぐに涙がでる」と言って、目を光らせていた。その体験は難民区の状況 と崇善堂の手伝いなどを伝えていて貴重である。(聞き手=笠原十九司、由井正臣)

 1937年12月、南京陥落の数日前(多分、12月7日か8日頃)、日本軍が南京にせまったので、郭さん一家は、父の知り合いをたよって、難民区(国際安全区)内の鼓楼樓病院裏の興皋旅館に避難した。持ち物は布団とわずかな衣類に米だけで、家財道具はいっさい残してきた
。避難した旅館は数百人の人が逃れてきていたが、その中に知人は一人もいなかった。両親と6人のきょうだい、計8人の一家は一部屋で生活していた。

  13日に日本軍が城内を占領すると、建物が焼かれ、銃声が難民区内にまで聞こえてきた。あとで知ったことだが、郭さんたちが住んでいた本匠町一帯の 1000戸の家はすべて焼き払われ、残っていた住民はほとんど殺されてしまった。もちろん、郭さんの家も焼かれ、家財道具はいっさい失われていた。

  日本軍が入城してから数日後、5人の日本兵が郭さんたちの避難している旅館にやってきた。彼らは男たちに銃を突きつけ、一人ひとり、頭に軍帽のあとがない かどうか、手のひらに銃を持ったタコがないかどうかを調べ、銃と軍服を捨てて逃げ込んだ一人の国民政府軍の兵士を見つけ出すと、その場で銃殺してしまっ た。当時、郭さんは頭を短く刈っており、日本兵に銃を突きつけられて兵士かどうかを訊ねられたが、かつて教師をしていて手が白かったので、難をまぬがれ た。しかし、恐ろしさのあまり、3日間は食事が喉を通らなかったという。

  それからしばらくして、18歳の弟が、日本軍の中島部隊に「安居証」をもらいに行ったところ、兵隊に捕らえられ、南京から40キロも離れた句容まで連行さ れた。その句容で雑役夫として使われていたが、4~5日して逃げ帰ってきた。そこで家族は相談し、兄、郭さん、それにその弟は青年であり、このままここに いるのは危険だということで、3人は寧海路21号の”ガラスの花園”(温室)に身をかくした。そこで十数日身をかくすのだが、その間、こっそり街へでかけ て、店からメリケン粉などを買ってきて、「ソ」というパン・ケーキのようなものを焼いて生活していた。

  この温室の向かいが、寧波同郷会館であったが、そこには武器をすてたたくさんの国民政府軍兵士が収容されていた。そこへ十数台のトラックをもって日本軍が 乗りつけ、1台に70~80人の中国兵を積んでつれ去った。これらの兵士は、上新河から草鞋峡につれていかれ、各グループが並ばされて銃殺されたという。

 またここで郭さんは、14歳~16歳ぐらいの女の子が6人の日本兵に暴行されるのを目撃した。女の子は歩けなくなってしまったが、両親は娘が暴行される傍で涙を流す以外に方法はなかった。
 もうひとつ郭さんが見たのは、清涼山虎踞にあった二つの大きな「万人塚」である。それは郭さんの家の墓地のすぐ近くで、山のように虐殺された死体がつまれていた。

  その後、郭さんは人の紹介で国際安全区(難民区)の仕事を手伝うようになった。安全区はアメリカ人など、外国人が主となって働いていたが、その「国際救済 委員会」の事務所は寧波路二号にあり、スパーリングという人がいたのを覚えている。そこでの仕事は、郭さんは若かったのでお茶を売ったり、水を売ったりす る雑用であり、暴行を受けた人たちの面倒をみたりした。この仕事は、同胞にたいする同情もあったが、なによりも国際救済委員会の腕章をつけていれば安全で あり、自分の命を助けることが第一の目的であった。安全区にある金陵神学院などは、目印として赤い旗をたて、その間を麻紐などで囲っていたが、南京占領後 の2ヶ月間ぐらいは日本兵が出没し、名は安全区だったが、実際は「非安全区」であった。城内が平穏になったのは日本軍の憲兵が出るようになってからであっ た。ほんとうに社会が安定したのは、4,5ヶ月してからであったという。

  その間、郭さんの父は慈善団体の崇善堂の仕事を手伝っていた。父が崇善堂の仕事を手伝うようになったのは、責任者の周一漁と以前からの知り合いで、周にた のまれたからである。父はその仕事を無料で手伝ったが、仕事は4、5ヶ月続いた。崇善堂の行った死体埋葬の数は数万人に及んだという。父がその数を知った のは、埋葬隊の人びとに賃金を支払う会計の仕事をやっていたからである。

 郭さんの家が焼かれてしまったので、後になって石鼓路にあった周の家にしばらく住まわせてもらっていた。また、当時郭さんは現在の奥さんの陳光秀さんと婚約中であった(陳光秀さんの証言は本ページのひとつ前)。
 郭さんにとって、南京事件の体験は大変ショックで、それ以来、周期的に脳神経がおかしくなり、病院に通っているという。


ーーーーーーーーーーー南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言ーーーーーーーーーーー

 「南京大虐殺」は、「南京大虐殺」という言葉ではなく、時に「南京虐殺事件」と表現されたり、ただ「南京事件」と表現されたり、「南京残虐事件」、「南京暴虐事件」、「南京アトロシティー」、「南京大残虐事件」などという言葉で表現されりして語られてきた。「ザ・レイプ・オブ・南京」という書物も、「南京大虐殺」に関わるものである。そして、その正確な虐殺数は、今なお様々な議論があり定まらない。しかしながら、事件そのものは、中国ばかりではなく世界で語られ、歴史に記録されている歴史的事実である。その証拠は、戦後、中国の「南京軍事法廷」はもちろん、太平洋戦争関係国が関わる「極東国際軍事裁判」でも採用された。にもかかわらず、敗戦国日本で、それを日本史から消し去ろうとする勢力が日本には存在する。

『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社)の編著者、松岡環氏は、多くの人たちの助力を得て、元日本軍兵士延べ250人以上に聞き取りをし、うち150人分の証言をビデオや写真、カセットテープに記録したという。また、中国の南京を訪れて、被害者140人のファイルも作成したという。そして、そうした取り組みは、「…南京を葬り去ろうとする勢力との戦いは避けられません。…」と書いている。大変な苦労があったのだろうと思うと同時に、とても貴重な取り組みだとも思う。

 ドイツと異なり、日本は敗戦後、戦争責任にきちんと向きあってこなかった。また、戦争中の歴史的事実、特に加害の事実をきちんと確認し継承してこなかった。加害の事実を後世に伝えるための施設や碑は、日本にはほとんど存在しない。そして、現在の安倍政権にいたっては「侵略」 の事実すら否定しようとしているように思われる。そんな中で、皇軍の一員として、中国で残虐な事件に加わった元日本軍兵士が事実を語ることには、個人的に はもちろん、社会的にも困難が伴うことは容易に理解できる。それだけに、同書に掲載されている証言は、被害者の証言と一致する部分もあり、歴史的事実の加 害証言として貴重であり、重要であると思うのである。

 聞き取りでは、実名での証言公表の承諾も得たというが、同書では、証言者が卑劣な 脅迫を受ける恐れを避けるために、不本意ながら仮名で通すことに決定したという。それに乗じて、仮名であるからということで、加害証言全てを否定する人た ちが存在する。悲しいことである。また、加害証言を全てをでっち上げであるとして無視するような主張は、国際的には通用しないと思う。

 松岡環氏は、南京戦に参加した元日本兵の調査に4年の歳月を費やし、”「やはり南京大虐殺はあった」という結論に達した。”と書いている。しっかり受け止めなければならない結論であろう。

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            第3部 証言
1 南京陥落直後──揚子江一帯での集団虐殺

陸上から我々が、軍艦からは大砲で、揚子江は血の色になった

                             平山仁三郎
                          1914年10月生まれ
               南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第三大隊
                            1998年2月取材
 昭和九年兵です。4月に大阪から船に乗って朝鮮に渡り、そこから陸つづきで満州に入って北上しチチハルに到着、さらに鉄道に乗って泰安鎮までいった。ハイラルまでも行ったことがある。満州のあとは中支やった。あの時はまだ独身やった。

 わしはずっと第一線ばかりで(軽)機関銃の射手でな。しかし不思議なことに怪我一つしなかった。
  上海付近に上陸してから南京に向かったけど、上海では戦争らしい戦争はしてないな。夜も昼も歩いた。機関銃も担いだし、背嚢とは別に、後ろに240発、前 に60発、計300発の機関銃の弾をぶらさげて歩いた。重かったな。きつかった。南京にたどりつくまでたいへにやった。食料がない。小行李〔弾などを運ぶ 部隊。太行李は食料を運んだ〕もようついてこなんだ。兵隊には食料と水がないと一番困る。菜っ葉や大根、鶏や豚も近くの民家から盗ってきたな。村の人は抵 抗せなんだ。日本兵がこわいから。紫金山の戦闘はすごかった。なにしろ相手は南京の精鋭やからな。紫金山から下りるとき野砲がどんどん撃っていたな。

  南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、二大隊も三大隊もいたわ。揚子江を河いっぱいに中国人が筏や戸板につかまって流れていく。大きいのには60人くら いかな、数人のものもあったな。目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。よく当たって、舟の人が倒れて河にもんどりうって落ちるんや。次々とな、河いっぱい に下って来るんや。筏に乗っている人には黒い服をきているのもいたから、城内から逃げていった支那兵やろ。揚子江には日本の軍艦もいて撃っていたな。我々 が陸上からバリバリ撃つし、軍艦からは砲撃するし、2、3時間は撃っていたかな。流れる血で揚子江は血の色やった。

  南京が陥落して、すぐに掃蕩に入った。13日、14日と城内掃蕩をやった。挹江門から入った時、死体をようけ〔たくさん〕見た。死体が5,6尺〔1尺は約 30センチ〕に重なっていて、重砲を積んだ馬車がその上を通る。わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へはいった。城壁には中国兵が逃げようとしたんや ろな、紐がいっぱいぶら下がっていたわ。入るとな、あちこちの道路にも死体がばらばら転がっていた。

  城内に入ったら、掃蕩するんやで。捜索隊と誘導隊に分かれてやるんや。わしらは捜索隊やった。敗残兵が次々と手を上げて出てきよる。白い旗をもってなん だ。家の中に入っての掃蕩もしたけど、相手が勝手に出てくるんや。私らの一個分隊だけで、1日目の掃蕩戦で支那兵3個中隊ぐらい、つまり700人ぐらい捕 まえたな。縛ってはおらなんだ。ぎょうさんやで。すごい数や。そのあとどうなったか分からん。誘導隊が連れていきよったからな。外国人のところは入るなと いわれた。相手は抵抗せんけどな。民間人はほとんど逃げておらなんだな。

 その後、城外の掃蕩もやった。第一線部隊は女の人に悪いことしやなんだ。明日死ぬかもしれんので。忙しゅうてどうにもならん。悪いことしようにも憲兵隊〔陸軍兵科の一つ。

主 として軍事警察を受けもつ部隊〕が入ってくるとどうにもならん。城内外の掃蕩が終わってから、わしらの部隊は南京の南方に移った。一か月ほどいたな。その 間、私らの部隊は南京には入れさせなかった。兵隊が悪いことするんでな。駐屯地では支那兵とは仲良くなった。支那人の洗濯のばあさんを雇ったな(笑い)。 憲兵隊はおらへん。大体戦争中はおらへんなんだな。
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揚子江に逃げる兵を重機関銃で撃った

                             大川俊介
                          1913年3月生まれ
              南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
      は                    2006年6月取材
  現役の時は両親が健在で、家の仕事は百姓やったけど、私は手伝いはほとんどしてませんでした。私は(昭和)八年兵で昭和9年の1月に33聯隊の第1機関銃 中隊に入隊しました。久居には1年間いた。久居にいる間にいじめとかはあってね。下士官に箒で叩かれたことがありました。満州には予備兵として行って2年 間いてね、初年兵の訓練もしました。1期検閲をすんで昭和11年、12年は予備役でした。満州から帰ってきてから伍長になった。
 
  始めは北支に行き、そして南京へ行った。紫金山は頂上まで上がって機関銃を撃ったな。紫金山の攻略は2日以上かかった。そこで私の機関銃中隊は消耗があん まりなかった。たてこもっている支那兵を撃った。そして逃げている兵隊に向けても撃ったね。苦労はなかったけれど撃った……南京のこと……あんまりおぼえ てませんわ。

 揚子江を渡って逃げている支那兵を重機関銃 で撃ったな。揚子江は大きかった。皆逃げていった。その後ろで撃っとったんだ。私は当時射手だった、戦争だから撃ったよ。揚子江を渡る時に援護射撃をした が、援護射撃といっても向こうが撃ってくることはない。こっちがダーと追って行って撃ったね。こっちばかり撃ってた。

 城外に駐屯した。城内では戦争はなかった。勝ち戦のわけで、南京の南の方も戦争はほとんど終わってた。掃蕩戦に参加したね。城外、城内と掃蕩した。

 死体処理には行ってない。激戦で支那人の死体が転がってたが。
 駐屯してから徴発に行った。1ヶ月もいたので食わなければならないので、泥棒みたいに徴発に行った。豚や鶏などを捕まえて来た。
 私は行っていないけれど、隠れてした人もいた。クーニャン〔娘〕を捕まえるのを見たことがある。そしたら、逃げるわけ、逃げるのも早い。南京が治まった後もクーニャンを捕まえる人がいたね……。南京のことはね。あんまりね……。

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河辺で逃げ切れない数千人を九二式重機で連続射撃
                              佐藤睦郎
                           1914年2月生まれ
            南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
                            1999年1月取材 
 久居の33聯隊の(昭和)九年兵です。すぐ満州のチチハルに行きました。満期除隊してからは、おじに仕込んでもらい魚屋をしました。町には魚屋がなくてな、繁盛しました。月給とりとは比べ物にならんくらい儲かりましたよ。
 そうしているうちに、支那事変です。23歳の時でした。

 上海は覚えてますよ。機関銃中隊は戦闘が収まってから上陸しました。兵站〔後方にあって、食料や軍需品の供給や輸送にあたる場所〕の糧秣〔食料〕を取りにいったのを覚えています。

 句容の飛行場を33聯隊は一大隊で攻めたんですわ。重機関銃はね、銃手が4人、弾薬手が4人、銃馬が4人、弾薬馬が4人、5、6貫目ある弾薬の箱8箱積むんでな。それを山地になると馬が使えんで、人間が自力で担ぎました。そやから、紫金山はえらかったですわ。 
  紫金山へは、第1機関銃は登らず、二、三大隊が攻撃したんですわ。わしらは、紫金山第一峰の右手にある何百メートルかの山を攻撃しました。中国側は手榴弾 と迫撃砲で反撃してきましたわ。戦いが終わって見ると、16師団と同じような大砲がまっさらで使っていないようなものが放棄してありましたわ。

 ●──下関の手前で中国人を撃ち殺し
   下関でさらに数千の男女を撃ち殺した 南京が落ちてすぐですわ。下関に向かえということでね、下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げ てきた中国兵が右往左往していました。中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣〔銃剣〕持って大きな道を 通って下関に向かうんですわ。攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行くんです。わしら、日本兵は撃たなしゃあな い。逃げるのは兵隊だけやない、男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから、角度を決め て左右にスーと流すんやから。もう前方で人間を見たら、重機をバッと組み立てて全部殺すんや。

  その日下関に着いたら、もう勝った勢いでな、向こうに敵ということで撃ちまくった。エンジンのないような、櫓でこぐような舟が揚子江をドンドン流れていく んや。いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる、それを全部ダダーと撃った。下関にいる歩兵のさまざまな部隊もここ かしこで撃っている。

 同時に揚子江の河岸にも大勢の押し 合いへし合いの人がなだれ込んできてな、人はドンドン増えてきた。向こう岸へ逃げ切れなくて人間のかたまりとなって岸壁に集まってきていますんや。もう何 千という人の数や、そこに向けて今度は、誰彼なしに九二式重機関銃を撃ち込んだんです。機関銃中隊一個小隊で二銃、一個中隊で八銃の重機関銃です。押しま くりました〔押すと弾丸が出る〕。港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいましたわ。4百~5百メートル向こうにいる中国人たちに射撃 の角度を考えて、範囲を決めて撃ちました。人の固まりが崩れていくんですわ。せめて白い布でも掲げてくれたらとな、かわいそうと思ってたら戦争するんもん やないと思う。我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、(中国人ならだれでも殺すという)命令は、師団長が出したんですやろな。

  次の日も、同じように下関で重機関銃を撃ち、大勢の人を殺しました。機関銃中隊は、歩兵といっしょに行動することは少なかったけど、掃蕩には参加しまし た。逃げ遅れた兵は白い布を立てていてね。ほとんどが兵の服装をしていました。みな集めて軍司令部へ連れて行くんです。中国軍の服装はまちまちで普通の服 を着てました。
 捕まえた捕虜を揚子江で処分するために、また、機関銃を撃ちました。

 その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんという規則があるのか、たくさんの死体を今度は隠さないとあかんようになりましたんや。死体を埋めることになりました。焼くということもありました。

  南京陥落の次の日でしたけど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。中国人を殺すのに 「もう弾が足りない」言うてね、ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。 それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのを見ました。

 今新聞でいろんなこと載ってますがな、事実南京はえらい目にあってます。そんなこと言うと、政治に関係するので、うかつに言えんが、それはかわいそうなことしました。

 ●──地獄とは地獄 赤ちゃんに小便かけ
  南京の手前で、母親が逃げるのにじゃまになったんか、親がどっかへ連れて行かれたんか、捨て子の赤ちゃんが田んぼの中でおぎゃーおぎゃーと泣いていまし た。日本兵が赤ちゃんの口の中へ小便をかけててね。ひどいことする。戦争に行って人を殺すのがいやでね。そんなひどいことをするのを見ていても、「そんな ことするなや」と言うのが精一杯でな。絶対止めることはできなかったですな。地獄とは地獄、本当に無体なことやった。兵隊やったからな。笑われて馬鹿にさ れるから何も言えなかった。

 自分と同じ年頃の中国人2人 捕まえて、苦力(クーリー)〔人足・力仕事をする労働者〕として働かせたけど、1人がどうしても帰らせてくれ言うてね。治安がよくなってきたので良民証を 持たせて帰しましたが、自分の隊を離れるとすぐ殺される。うまくいったらいいが、持っていてもやられる。無事に帰れたかどうか。かわいそうやった。助かっ た人は少ないですよ。治安ができてくると、憲兵とか入って強姦とか暴行とかも少なくなるんやけど。憲兵が入るのが早ければ、だいぶ犠牲が少なかったと思 う。規則があるんやから、命令を早く出していたら、そんな無体なことをせずにすんだんや、子どもまで殺すことなかった。ほんとうにそれまで、無茶苦茶なこ としてた。各部隊がそれぞれえげつないことやってました。目の前で見ていて、戦争に負けたらこうなるのは仕方がないことだと当時は思っていました。本当に かわいそうなことしました。


ーーーーーーーーーーーー南京事件 師団命令の虐殺 元日本兵の証言ーーーーーーーーーーー

2014年年11月15日、下村博文文部科学大臣は会見を行い「教科書改革実行プラン」を発表した。そして、今後はこのプランに沿って必要な制度改正を行っていく予定だと語った。その内容に驚かされる。

 文部科学省は社会科、特に近現代史が基準改定の対象であるという。そして、教科用図書検定調査審議会において、下記のような改定が了承された。

1、愛国心・郷土愛など改定教育基本法に盛り込まれた目標をどのように教科書に反映しているかを教科書会社に書面にて提出させる。
2、「通説的な見解がない事例」や「特定の見解を特別に強調して記述をする場合」には「バランスのとれた記述」とすること
3、政府見解や確定判例がある場合、教科書に記載すること
4、改定教育基本法や学習指導要領の目標に照らして欠陥がある場合を不合格要件とすること

 安倍政権は、いよいよ国家主義的な色彩を前面に出した教科書づくりに取り組み始めたということではないか、と思う。
 そしてすでに、昨年7月の「集団的自衛権の行使を容認する」という安倍政権による憲法解釈変更の閣議決定が、教科書の記述に大きな影響を及ぼしているという事実が報道された。それは、改定に、上記3の「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていること」を入れたからである。

 「政府見解」を教科書に記載させることは、ある意味で教科書の国家統制であり、日本の過去の過ちを再び繰り返すということではないか、と思う。
 国益や一部集団の利益を念頭に置いて、学者や研究者の客観的な歴史研究の成果とは異なる次元で議論される政府や特定の政治勢力の主張を、あたかも史実のごとく教科書に記載させることが、大きな問題であることは、領土問題に限らず、「従軍慰安婦」の問題や「南京大虐殺」の問題をめぐる最近の議論を考えれば、明らかだ。日本国内だけではなく、海外からも懸念の声があがっているようであるが、安倍政権の歴史修正主義的な主張を考えれば、当然のことだと思う。

 まさに、特定の政治勢力による教育の「不当な支配」にあたると思うのである。そして そうした安倍政権の姿勢に引きずられて、社会全体に再び、政治的に自由な言論が許されない雰囲気が広がりつつあるような気がしてならない。
 例えば、先だって「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」と詠んだ市民の俳句を、さいたま市大宮区の三橋公民館が「公民館だより」への掲載を拒否した問題があった。全国から抗議の声が相次いだようだが、市や市教育委員会は掲載拒否を撤回しようとしなかったという。これは、安倍政権の意向を敏感に感じた公民館側の自主規制なのではないか、と思う。
NHK籾井会長の「政府が右と言っていることは左とは言えない」などという主張は論外であるが…。

 「南京事件」については、多くの被害証言はもちろん、下記のような加害証言が相当数あるにもかかわらず、今、日本ではそうした証言をほとんど無視した主張が繰り返されている。もはや引き返すことが難しい状況になっているのではないかと心配である。
 下記は『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)からの抜粋である。
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                              第3部 証言

                      2 南京陥落前後──城内や城門付近での虐殺

太平門で敗残兵を処分せよと言われた

                                                       大東真一
                                                  1906年7月生まれ
                              南京戦当時 第16師団歩兵三十三聯隊第二大隊
                                                   1998年5月取材

 昭和3年1月10日久居33聯隊に入隊。鳥羽から奉天駐箚。昭和5年1月10日除隊。以後6年間青年学校の指導員をし、初年兵の指導の功績を認められて表彰されました。

  昭和12年8月30日に県下で一番大きい第5動員〔26日から開始〕の召集を受けました。わたしは砲兵でしたが、村から近い久居に変えてもらい、第33聯 隊に行きました。うちの村で50人くらいが召集を受け、歩兵は久居に、砲兵、輜重は京都の16師団の各聯隊へ入営しました。ずっと百姓や土方仕事をしてい たので体は丈夫でした。

 南京攻略の時、紫金山へは登り降 りしました。中国人百姓の鍋でご飯を炊き、分隊全員の分を飯盒につめて糧秣を運んだり、戦死者を運び降ろしたりしました。斥候にでて分隊の者が戦功により 5級をもらいました。六中隊長の辻四五郎は、工兵の援護射撃を断り、独断で夜襲をかけました。激戦で夜明けに天文台の方からチェッコ銃の側射を受けて、山 の中腹で一歩も動けず、岩山で身を隠す穴も掘れず難儀しました。自分の分隊12人のうち3、4人が戦死。うちの中隊だけでかなりの戦死者が出ました。

 夜が明けてから太平門に攻め下りる時、敵の工兵を捕まえました。地雷を撤去させながら、道案内をさせ紫金山から太平門まに進んだんです。太平門では、敗残兵がかなりいてね。

  あそこで虐殺があったと言うが、わしは行かなんだけれど、好きな人は見に行ったな。太平門で虐殺したかもしれん。太平門で敗残兵を何したかもしれない。 しっかり覚えてないが、そこで中隊長が処分せいと言ったのを聞いていました。でも、わしはそんな所へ立ち合わなかったですよ。中国人を切ったり突いたりす るのが好きな人はやりました。捕虜は次々捕まえ太平門の外にいました。あんまり覚えてません。

 その後、わしらは下関に向かい残敵掃蕩しました。掃蕩のことも覚えてないなあ……。六中隊には第二機関銃がついていました。私の初年兵の教官だった重機関銃の隊長がいた。

  入城式には参加しました。各聯隊からたくさんの聯隊旗が立っていて、あんなにたくさんの軍旗を見たのは初めてでした。中隊は玄武湖の近く太平門の警備に一 週間ほどいました。あたりに手榴弾がいくつも落ちていて玄武湖に放りこむと爆発して魚が浮いてきて、いっぱい取りました。

 掃蕩もあったけど、城外に出かけるだけで、部落部落を回ってくるだけで敵はいなかったです。女がおるくらいでほとんどからっぽでした。分隊で難民久区に入った時、塔の中にひっぱり込まれたクーニャン〔娘〕2人を救けてくれと中国人に頼まれ救けだしたことがありましたな。
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敗残兵に石油をかけて焼き殺した

                                                         大沢一男
                                                   1916年12月生まれ
                                   南京戦当時 第16師団三十三聯隊第二大隊
                                                     2000年12月取材
●──紫金山ではえらかった
 家は百姓で、両親がいて、3人兄弟の長男でした。甲種合格だったので、もう諦めてますわな。親に元気でやってこいと言われました。昭和12年1月10日、現役で久居の33聯隊に入営しました。昭和11年兵です。
 私らの中隊長は志願して上がってきた人で、歩く歩兵操典といわれた人でしたな。

  12年8月、私らの中隊が編成されました。聯隊本部を出て大阪で2泊、それから北支に行きました。子牙河というところで戦闘がありました。また大連に戻っ てから上海ですわ。敵前上陸といっても第一戦やないからもう落ち着いておって、銃の音も聞こえませんでしたよ。南京行くまで道路道路で敵にあって、うちの 中隊も戦死者がありました。

 紫金山では、3日ほど攻撃し ましたかなあ。うちの中隊が第一戦となってそれはえらかったですわ。五中隊と先陣を争っていました。紫金山は、私らは正面から登ったんで、上から手榴弾を ぽんぽんぽんぽん投げてくるんですわ。大きな石の山で手榴弾が跳ねますねん。中隊長が自分らの小隊に「突撃せい」と、言うたんですわ。それで、代理小隊長 が、「突撃、突撃」言うて進んでも、上から石がごろごろ落ちてくるわ、人間が落ちてくるし、小隊長の声が聞こえんようになりましてな。またしばらくした ら、「上がっていくんや」の怒鳴り声がしましてな。ダーと行きましてん。そしたら、てっぺんにずうっと壕が掘ってあって兵隊がいる、そこへ飛び込んで、銃 剣で敵を突きましたよ。紫金山の時は、擲弾筒を使いませんでしたよ。トーチかには、逃げやんように足を鎖で繋がれているのもいて、死ぬまで闘ってるのや ね。びっくりした。大勢の中国兵はやられてるし、素早いのは逃げて、もう山の上には中国兵はおらへんの。山から見た南京は大きな街でそれはきれいやった。

●──城内に入ると、焼殺、強姦、掠奪
  夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門に向かいました。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんおりました。敗残兵はあか んと思ってかどんどん手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空 壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっ としている、火をつけたら逃げた者もおりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました。

  正月は南京城内で過ごしました。城内は荒れていました。家はどこも荒らされていました。支那人というのは道具をあまり持ってなくて、鍋釜ぐらい持って逃げ てたようですな。駐屯は小隊単位でしたが、分隊で一軒家に固まりになって民家に駐屯していました。城内へ入っても危ないので、2人や3人ではぶらぶら歩け ないでな。なにがおるかわからないから。掃蕩は分隊単位で行きました。

 揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや。「敗残兵は揚子江のふちに立たせて機関銃で殺せ」というのを聞いたことがある。私らの分隊は実際にはやってないけどな。揚子江に行ったとき、汚い河で渦が巻いとった。

 城内の死体は臭いにおいがするので、向こうの中国人を使って死体処理をしました。おかしな形でな、木の一輪車というのかそんなのに乗せて運ばせて、穴を掘って埋めました。私らは一日だけやったので、後は他の部隊がやったようですな。

  兵隊が南京の女学校に入ってそうとう悪いことしたと聞いてますな。駐屯するとな、一週間ぐらいもせんうちに慰安所ができますねん。韓国人がやってきます。 支那人は支那人でそうゆう遊商売人がおりますねん。外からの慰安所ができる前は、部隊で女の子を何人か捕まえて連れこんで慰安所にするのもあります。駐屯 してると、いつの間にか准尉さんが気をきかせて、女の子にお金を払って兵隊にあてがう。それは仕方ないわな。言うにいえんことやってる。敗残兵が隠れて おったりした家をそのまま火をつけて焼いたりして、南京ではたいがい悪いことしたな。

 兵隊かどうかは目つきでわかるな。びくびくしたら兵隊や。20歳前後の人はまあ兵隊にとられとるからあやしい。怖がってびくびくしてるのは運が悪いんやね。あやしいと思った男という男は引っ張っていった。南京では、ほとんどの兵隊が虐殺をやってますやろ。

  今夜はここで一泊すると命令が出ますやろ、そしたら、みんな散らばって徴発に出かけて、家をバーと開けて、鶏盗ったり、卵盗ったり鍋やら釜、野菜を盗った り、そういうことをするんですわ。どこの部隊もやります。略奪やわな。だせへんかったら殺してしまう。ほとんどの人は逃げてますわな。怖がってわらの中で ごそごそ隠れてるのもいます。娘さんなんかは墨で顔を真っ黒に塗ってな。だれも鍋の墨塗って化けとるねん。若い女ってすぐわかるから捕まえて悪いことする 兵隊はほとんどや。支那事変ではほとんどやっていた。風紀を乱したらあかんと言うのは、南京を出発する前のころはありましたで。それまでは、(戦闘状態 で)こちらの兵隊が倒れたりやられたりすると、お互いワーとケンが立ってきますやろ。それでやられるとやりますがな。中国人だから殺す。酷いことしまし た。

●──戦争は負けてよかった
  昭和13年ごろ、大別山の戦闘では、聯隊で一個中隊のガス中隊をつくった。各中隊から何名かいきなり呼び出され、洗面器に顔をつけろと言われました。若い わしらは洗面器のなかに顔をつけて息を止めて長い時間できたので、お前はガス中隊に行けと言われた。それで、マスクつけてガスを撒きに行った。ガスはボン ベを持ってガスマスクと手袋をつけてシューと播きました。風向きが大事で、撒くとすぐに逃げました。この時も第一戦でしたわ。ガス中隊には、中隊長がいて その下にすぐ分隊が5つありました。そのうちマラリアにかかって入院していました。

  中国、フィリピン、ビルマと外地ばかり戦争に行きました。今から見ると、あの戦争に勝っておったらもっと苦しいやろ。若い者が内地におらんやろ、外へ出て いかなならんで、負けてよかった。この戦争は東条さんに騙されとったんや。軍部が権力をもったらあかんのや。天皇陛下も言いなりやったな。天皇陛下万歳な んていう人おらんで。ビルマ行くときなんて木の大砲つんで、7歳下の弟も一緒だった。負けることはわかってた。こんなことは二度と繰り返してほしくない。 私らで十分経験してるんでな、こんなことはあかん。


ーーーーーーーーーー南京事件 陥落後も続く集団虐殺 元日本兵の証言ーーーーーーーーーーーーー
 
 「再現 南京戦」(草思社)の著者、東中野修道氏は、そのエピローグの「当時の人々は南京大虐殺を思ってもいなかった」と題した部分で、支那派遣軍報道班、馬淵逸雄中佐の『報道戦線』(昭16)の、下記の文章を取り上げている。

《南 京には外人記者が2,3居残って、市中を巡回した形跡があつた。彼等は攻略日本軍の行動を観察して、アラ、欠点を探索し第三国の対日輿論を悪化せしめんと するスパイ的存在であるので、之が行動を完封したのであるが、それにも況(マ)して悪影響の種子を蒔(マ)いたのは、米国宣教師達の悪質デマ通信であつ た。恰(アタ)かも入城した日本軍が鬼畜の行動を為(ナ)したかの如(ゴト)き通信をなし、世界の対日感情を悪化せしめた》(72頁)

 東中野修道氏は、これが真実だお考えのようである。そして、「その当時、日本軍将兵も、英・米・独の外交官たちも、南京の欧米人たちの国際委員会も、南京市民も、国民党政府も、上海その他の外国人記者たちも、南京の日本軍の不法殺害を指摘したことはなかった」と書いている。


 陳光秀さんや陳光秀さん、郭立言さんのような中国側の被害者証言(450「南京事件 陳光秀さんの証言」、451「南京事件 郭立言さんの証言」参照)、および、それらに符合する下記のような日本側の加害証言には、目もくれず、また、繰り返し南京金陵大学などから、日本大使館に届けられた抗議や要望の文書、南京安全区国際委員会のメンバーが、アメリカ大使館に宛てた窮状を訴える書簡(445「南京安全区 NO1」および446「南京安全区 NO2」参照)なども、殺害ではなく、強姦などを中心とする不法行為に関するものであるためか、すべて無視されているようである。それで南京事件の解明ができるものなのか、と思う。

 また、海外で報道された数々の南京に関する記事は、国民党中央宣伝部が日本を陥れるために工作したものであるという。だとすれば、パナイ号(バネー号)事件やレディーバード号事件の記事(432「南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件」参照)は、どのように理解すればよいのであろうか、と思う。
  日本軍による厳しい報道統制下において、日本軍報道班の中佐の文章が真実で、当時南京に留まった外国人記者のみならず、南京戦のずっと前から南京にいた大 学教授や宣教師までが、国民党のスパイとして、国民党中央宣伝部の宣伝工作に関わったというような主張が、国際的に通用するであろうか。

 下記のような、元日本兵の具体的な加害証言を、謙虚に受け止めるべきではないか、と思う。下記は『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)からの抜粋である。
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                     第3部 証言

                3 陥落後も続く集団虐殺

捕虜を貨車ごと河に落としたり、倉庫ごと燃やした

                                                 朝倉正男
                                            1915年3月生まれ
                        南京戦当時 第16師団歩兵三十三聯隊第二大隊
                                             2000年12月取材
●──貨車に詰め込んだ敗残兵を揚子江に突き落とす
 私は昭和10年兵です。現役のときから同じ中隊でした。支那事件で8月、部隊に応急動員で召集がありましてな、現役のままで応召しました。北支の天津や保定とかいろいろな所を歩きました。

  中支では、一日に十里くらい歩きましてさ、そこに食料はないし、現地調達やね。橋や何やみんな落ちてるさかいに輜重隊が来ない。戦争は勝ち戦やから、背嚢 は背負わんと奉公袋と水筒と歩兵銃だけ持ってどんどん進むんですわ。軽機関銃は重たいので交替で持ちました。夜到着すると食料探して部落の中を探して外米 や肉類をとるんですわ。兵隊はまず食べることでしたな。

  紫金山の戦いでは、二大隊の各部隊が一緒に攻めました。3日間ぐらいは紫金山で戦っていましたが、山の中は食べ物も何もないので、食料は麓で炊いてから飯 盒で運んでくれました。亡くなった同年兵の始末もあって木を拾ってきて焼きましたな。骨を拾って持って紫金山から降りました。紫金山の下りでは道に地雷が 埋めてあって工兵隊が探って除去しました。それがすむまで動けませんでしたな。

  紫金山から下りると敗残兵がいっぱいおってな。揚子江の近くまで行った広いところで、汽車がいっぱいありましてん。そこにあった空の貨車に捕まえた敗残兵 をどんどん詰め込んで、こんなことを言うていいもんかどうか。ここらは坂になっていてな、みんなでちょっと押すと貨車が動いたんで、「こいつら、河に流し たれ」て言うて、みんなで押して揚子江へビシャと放り込んだんや。

  貨車のあるところの手前では、工兵隊が濠の中に人を入れて、その周りを銃を持った兵隊が見張っているさかい逃げるちゅうわけにいかん。その上を戦車でゴー とひいているのを見ました。自分らは貨車のほうで(敗残兵を貨車に詰め込む)仕事をしてるからじっとは見てなかったけどな。

●── 陥落してから2日ぐらいしてから南京城内で掃蕩しました。家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張る こともあるし、その場でぽんと銃でやってしまうこともあった。その時、私の分隊は、敗残兵を30人くらい捕まえたな。男ばかり若いのから中年くらいやね え。それを集めて倉庫みたいなところに入れました。女は女で倉庫というか宿舎みたいなところに別に集めて入れて処分や。それはよくやりましたが、そやけど 逃がした者もおるんでな。それが後から戦争のなにで〔裁判で証言するので〕やったことがわかってくるのやろな。倉庫に入れた者を銃で撃ってから、後で火を つけた。その辺の家が壊れてるから木やごみなんか取ってきてそれに火をつけて放り込んだんや。中はそれは騒ぐ。死なんさかい〔死なないから〕、わー助けて くれ言うような喧しい声が聞こえた。叫んでいる中で日本語の助けてという声が聞こえた。

  徴発は、危ないのでそう遠い所へ行けないんで、城外の河のあたりでやりました。「行く時は一人では絶対に行くな」と小隊長に言われていたので、2人以上で 行ったな。まあ食わんなしゃあないからな。始めのうちだけで、落ち着いてくると後方から大行李も来て、食料もくれるからな。

 憲兵隊は見なかったな。クーニャン徴発はあったし、分隊内では好きな人がおって一人か二人はおって、女探しに出かけていった。長いことたつと女の人がやって来るしな。そういう所にいく人はおるおる。みんな珍しがっていきましたな。朝鮮とか中国人の女の人が多かったな。

 揚子江にはよく行った。死体が浮いとったり、岸に流れ着いているのを見たなあ。ごみみたいに寄せられていた。死体は慣れっこになっていて驚くどころやなかった。そら最初はやらしいわなあ、と思ったけどなあ。

  城内は警備をしたので、難民区をぐるぐる回ったりしていた。そういうところに敗残兵とか怪しい者がおらへんかなあと思って入って行くやろ。だけど、男はお らん。すると、女ばかり固まっている建物もあった。なんぼ女がいてもそんな所は危なくて遊べんわなあ。後からみつからんようにせんとなあ。
 南京大虐殺は、ありました。強姦もありましたで。

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                        第3部 証言

                   3 陥落後も続く集団虐殺

銃殺は城外のあちこちで見た

                                             榊 正夫
                                        1916年10月生まれ
                       南京戦当時 第16師団野砲兵第二十二聯隊
                                          2000年6月取材
  昭和11年兵です。南京、徐州戦まで野砲隊にいたな。私は野砲隊では二番砲手で、二番砲手の仕事は照準を合わして大砲を撃つ、つまり照準の担当者だった。 二番砲手は分隊長の命令によってやらなければならないし、砲手では一番難しい仕事でした。つまり照準をしてこっちが「よし」と言うと中隊長が「撃て」と命 令する。野砲の射程距離は大体8千メートルぐらいで、実行距離は4千だと思う。

●──南京攻略で初めて零キロ射撃
  福知山の部隊と一緒で、南京入城の前から中山門撃ち込んだな。「二番砲手、前へ出ろ」と言われたので前に出て、その時に初めて零キロ射撃をしたんや。零キ ロ射撃というのは百メートル手前の空中で砲が破裂してしまう。そこから1センチの弾がダーと散らかって落ちていく。それを零キロ射撃と言うんですわ。その 時は三十八聯隊の一個中隊を野砲隊が護衛する時に使った。南京陥落の2、3日前だと思う。それで支那兵は沈没した。支那兵が逃げていくのが向こうの方でぼ んやりと見えたわ。

 紫金山の下にいて、山に敵がいるというので山に向かって砲を撃った。そこで初めて大砲を撃ったね。すると支那兵がうろうろ逃げていくのが見えた。逃げる様子はあっちに行くわこっちに行くわ、といった感じやった。

  大砲は一分間に一発撃ったら上等です。城門は福知山〔歩兵第二十聯隊〕が入って中から開けてくれてた。土嚢も全部片付けてあった。私らは南京陥落の2、3 日後に入ったので、その時は死体もポツポツとあるだけやった。城内に入ると南京政府には16師団の司令部が駐屯していて、私ら野砲隊はその近くの支那の部 隊の跡地に駐屯した。広い講堂に入った。駐屯場所は司令部から歩いて行ける距離だった。駐屯している間は歩兵と違って忙しかった。馬の手入れとか大砲の整 理とかをやってたし、訓練もあったからな。

●──城内で徴発をしたし 捕虜の銃殺もあったな
  徴発は城内だけやった。日用品が何もないので、学校とか会社に入って机とか椅子とか何でも盗ってきたな。向こうは逃げる時に全部置いて逃げたので、会社な んかは全部開きっぱなし。日常的なものだけ盗った。私らはあんまり徴発には関係してないんだが、歩兵隊とか輜重隊がよくそんなことをしたと聞いている。そ して逆に支那の便衣隊にやられた人もようけいいたらしい。強姦もしたと聞いたことがある。私らは使役で城外の河の方に糧秣を運びに行ってました。

  中山門を出るとすぐ横に公園か広場があって、そこで捕虜を銃殺しているのを目撃しました。それは南京に入ってから一週間後だった。捕虜はどこかの戦地から 捕まえてきたと思う。私は4、5人連れてきてポンポンと撃ってたのを見た。それはどこの部隊やったかは分からんが、銃殺は城外のあっちこっちでやってるの を見たな。それは紫金山か南京攻略戦で捕まえて来た捕虜だと思う。大体どこの部隊も捕虜を捕まえたからな。各聯隊皆やった。私らも怪しい者がいれば捕まえ たね。当時私ら野砲隊は銃を持っていた。歩兵より短い三八式の銃です。みんなたりましたわ。

ーーーーーーーーーーーーーー南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO1ーーーーーーーーーーーーー

 下記は、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中 日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、軍事郵便(戦地から親戚や 知人宛に送られたもの)など19人の記録から、7人の記録(1~7)の、それもごく一部を抜粋したものである。南京陥落後の投降兵・捕虜の「処分」(殺害)やその死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。

 これらの資料収集に当たった小野賢二氏は同書の「あとがき」に、

 俺 は「6[宮本省吾]陣中日記」入手をキッカケに、これでもう調査をやめようと決心した。何故なら、この日記は、証言ではすでにわかっていたが、まだ発表さ れていなかった2日連続捕虜虐殺をはじめて記述した陣中日記だったし、それまでの調査が、俺にとってはあまりにもキツかったからに他ならない。電話で怒鳴 られ、玄関払いをくらい、調査依頼の手紙をそのまま返却される。しかも、当事者と向き合う緊張感に耐えられなくなっていたのだ。…

と 書いている。南京戦に関わった元日本兵が、なぜ電話で怒鳴るのか、なぜ玄関払いするのか、なぜ調査依頼の手紙をそのまま返却するのか、と疑問に思う。もち ろん「辛い過去を思い出したくない」ということはあるだろう。でも、そうであるのなら、何も怒鳴る必要はない。門前払いや調査依頼の手紙をそのまま送り返 すこともない。気持ちを伝えて断ればよいことである。だから、なぜ、と考えさせられるのである。

 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社)の編著者、松岡環氏 も、南京戦に関わった元日本兵を尋ねて歩き、小野賢二氏と同じような経験をした事実について書いている。そうした元日本兵の反応は、やはり、軍命に従って 命をかけて戦った辛く苦しい戦争経験を、残虐だとか、戦争犯罪だとかいうことで敗戦後に批判され、その責任を問い詰められるようなことが受け入れがたいか らではないか、と思う。しかしながら、根底には略奪や強姦、捕虜虐殺というような戦争犯罪に加担し、惨酷なことをしたというような後ろめたい気持ちがある からこその反応ではないか、と思う。もし、南京で日本兵がほんとうに歓喜をもって迎えられ、南京大虐殺が単なる「まぼろし」であるのなら、そうした反応は考えにくい。

 「再現 南京戦」(草思社)の著者東中野修道氏は、

”逃走中の中国兵は日本軍に対する好機を狙っていた。日本軍への反撃を狙って、被拘束兵が幕府山で故意に火を放った。会津若松65連隊はいつ襲われてもおかしくない戦闘中にあったのである。

 ちなみに、ハーグ陸戦法規は第8条の「処罰」において、「総テ不従順ノ行為アルトキハ、俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得」と謳っている。従って戦闘下にあるこの処刑は合法であった。

と書いている。下記のような会津若松第65連隊の兵の記録を読むと、そういう解釈が可能であるとはとても思えない。投降兵・捕虜の処分(殺害)は明らかに計画的である。日本軍兵士に犠牲者が出たという[宮本省吾]陣中日記の記録ついても、捕虜殺害にあたって失態があり、犠牲者が出たということであって、捕虜に「不従順ノ行為」があり犠牲者がでたから、捕虜を殺害したという記録ではない。すなわち、戦闘行為による殺害で、合法であるとは受け止められないものである。

 なお、抜粋にあたって、漢数字を半角算用数字にしたり、明らかに誤字と思われるため、正しいと思われる文字が示されているものは、その文字に変えたりした。また、所属や階級、入手経緯、日記の態様とともに示されている住所や職業は省略した。 (並べかえ編集3/21)
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1 [斎藤次郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊本部通信班小行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの「川崎汽船株式会社」の社名入り手帳。縦書き。以下略

12月17日 晴
  今日は南京入城式があるので各班は勤務者以外は参列する事にする。小行李では折半して自分と××、武田、岡本の三君が勤務する事にして残の諸君が午前8時 出発する、午前中当番を残し馬糧を徴発して来る、我が飛行機十数機が入城式に参加して爆音勇ましく我等の上空を翼を並べて飛んで居る様は勇壮だ、今日は旧 の油しめ15日だとて乗馬の××××君と合して5人で砂糖小豆をしてたべながら「内地に居るとなあー」と焚き火を囲んで雑談に耽る、我等も近々に揚子江対 岸にあがり10余里行軍して守備につくらしい話し向きがある、避難民の有様を見たが実に哀な状態だ、どんな事をしても敗残国になりたくないものと思った、 夕刻補充部隊が150名到着した、×の安藤房雄君や橋本佐武郎君に会ひ金吉君の消息なども聴く、残留部隊になつて居るそうだ。

12月18日 曇、寒
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一陣の風もなまぐさく何んとなく殺気だつて居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、 昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧のような雨がチラチラ降つてきた、寒い北風が耳を切るようだ、捕虜銃殺に行つた十二中隊の 戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる午前3時帰営、就寝、朝はゆつくり起床、朝の礼拝をして朝食用 意をして××、岡本、××の三君と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約3丈乃至4丈幅約14、5間南京市内 も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵兵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く9時就寝する。
〔欄外記事〕銃殺捕虜の死体処理(18日0時)

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2 [堀越文男]陣中日記


所属:歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長)・編成
階級:伍長
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約18.5センチ×横約12.5センチのノート。縦書き。・・・

12月14日
 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらえへ来る。
 年、25才なりと、R本部は5時出発、吾は第5有線班の撤収をまちて8時半出発。
 午後1時40分敗残兵を一人銃殺。
 敵の銃をひろひて撃てるものなり。
 第一大隊は1万4千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向ふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。
 一丘をこえて南京の城壁間近に見ゆ。
 城壁1千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後4時也。
 後5時半、R本部に至るも、本部未着6時40分頃着す。

12月15日
 午前9時朝食、10時頃より×××伍長と二人して徴発に出かける、何もなし、唐詩300首、一冊を得てかへる、すでに5時なり。
 揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、3、40名づゝ一度に行ふものなり。

12月16日
 東京日々の記者の托便で稲田さんよりハガキをもらふ、内地は雪とのこと、去月28日歌会ありと。
 一日なすこともなし、×××伍長以下2ヶ有線班南京見物にゆく。

12月17日
 午前8時整列、山霧ながるゝ枯葉の道を下つて南京城へ向ふ、午前9時30分和平門より入城、松井石根大将(軍司令官)、朝香宮、長谷川第三艦隊司令官等の閲兵あり。
 午後2時20分国民政府楼上に国旗掲揚式を見る、故国の空に万才の三唱あり、正に劇的の一シーンなり、軍事ユービン局にハガキを出す。
〔欄外に発信一覧──省略〕

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3 [遠藤重太郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第Ⅰ大隊本部・大行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月に一等兵に進級)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約10.5センチ×横約6.5センチの手帳。縦書き。南京事件にかかわる部分は、手帳の2頁分が破かれている。

10月3日
 ・・・
  小生は其所から呉淞の第一兵站病馬廠に行つて22日間行李長馬看ご、其の内に我大行李は前進したので我等残留部隊は後続して行つた、馬家宅、老陸宅、新木 橋の戦争は我65の一番の戦績があつた、其の後我等は羅店鎮から軍行路嘉定城を通過、無錫に到着、軍の通信に依り江陰県の江陰鎮に着いて我本隊に到達し た、其所に来る迄に我六十五聯隊は4ヶ所ばかりの戦斗があつて江陰に入城、一番乗は三大隊十二中隊、××君の名誉の働きをしたのは江陰の手前だ。
 江陰から鎮江に着く迄××君と2日一緒に行軍した、銃と背のう持ってくれた、私が馬がない為に足もいたいので自転車なり。

 江陰を出発して5日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向つた所はやくも我が六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまつたので又南京北方の砲台に向つたら南京敗残兵が白旗をかゝげ掲げて来たので捕虜2万
宗形君は12月17日夜10時戦死。

10月19日
 明20日揚子江を渡り北にすすむ、滁県に向ふ、南京城見たのは12月17日であつた。

12月20日
 揚子江を渡り西北方に進む。

12月21日
 七里行事、敵の姿も見えず敵の陣地もない、只所々の橋を破壊して逃げたので我軍の行軍はひまとれる。

12月22日
 我六十五聯隊はもくてき地に到着したのは午後5時、敵は退却して敵兵一人も居ない。
 南京北方一里の幕府山砲台一帯で捕虜した敵兵のしまつは実に我々特務兵に取つてわすれる事の出来ない感を一寸記す。

 幕府山に着く日の朝5時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立て、我軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍に抵抗したのかとびつくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆

〔このあと2頁分破られて欠〕

 それから私と×××君と××君と3人で英れいを拝し火葬後骨をおさめて我隊に帰つた、誠に残念であつた。そして19日休んで又12月20日そこを出発したのであつた。

 南京から揚子江を渡り浦口に上陸、南京のすぐ向ひ、それから2日がかりで全椒に着いたのは12月22日午後5時であつた、市民は皇軍を迎へて日章旗を立てゝ迎へた、此所で我隊は警備に付くらしい。

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4 [伊藤喜八]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第1中隊・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人から贈与
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。
 
12月17日
 午前8時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひもくたう(黙祷)して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう、午前10時到着。
 門内、励志社、陸軍軍官学校、警護司令部などあった。
 午後1時から南京入城式。
 夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。

12月18日
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した。実にひどい惨状でした。
 我軍に戦死10名、負傷者を出した。
 夕方中隊の自動車にて宇立山砲台警備の処に復帰致して安心した。

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5 [中野政夫]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第1中隊・第3次補充
階級:上等兵
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約15センチ×横約8.5センチの手帳。縦書き。主としてカタカナ書きの文中にひらがなが混じっているが、原文どおりにした。

12月14日 晴
 警備。
 敗残兵掃蕩ノタメ中隊長准尉ノ一分隊と我四分隊トデ砲台ニ行ク。
 幾名トモ知レズ射殺ス。

12月15日 晴
 敗残兵数百投降シ来ルトノ報ニ一同出動、約2千名。
 山中ニ小銃約百丁、チェック4、銃重機2其ノ他多数ノ弾薬ヲ置キ逃走。
 右武器ヲ前日占領ノ自動車ニテ中隊ニ運ブ。

12月16日 晴
 警備。
 攻撃部隊ハ南京入城。
 中隊ハ砲台警備ヲ命ゼラル

12月17日
 警備。
 小隊員中××××、××××ノ両名歩哨服ム中、敵敗残兵ノタメ手榴弾ヲナゲツケラレ負傷ス。
 毎日敗残兵ノ銃殺幾名トモ知レズ。

12月18日
 警備。(大隊ニ於テハ1万7千ノ捕虜ヲ処分ス)
 変リタル事モナシ。

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6 [宮本省吾]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦9.5センチ×横6センチの手帳。縦書き。…11月3日までは主としてカタカナ書き、11月4日以降はひらがな書きとなっている。

〔12月〕15日
 一昨日来の疲れのため下士官に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。
 中隊は衛兵を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて、捕虜兵の給食は勿論容易なものでない。

〔12月〕16日

 警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

〔12月〕17日 (小雪)

 本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は8時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す、2万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまつた。
 中隊死者1傷者2に達す。

〔12月〕18日 曇

 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の片付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

〔12月〕19日 

 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后4時迄かゝる。
 夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、牛肉の油揚迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
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7 [杉内俊雄]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第7中隊・編成
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。カタカナとひらがなが混じっているが原文のままとして。

12月14日
 5時出発、一路南京へ進撃急なり、南京城外約6粁バクウ(幕府)山麓附近にて敗残兵捕虜スル事約壱万7千、武装解除ス、第Ⅲ大隊収容隊トナル、第7中隊軍旗護衛為南京城外城元門に午後6時20分ニ着、支那海軍学校宿営ス。

12月15日 晴天
 中隊主力(×小隊欠)残敵掃蕩為出動、小隊軍旗護衛為待機

ーーーーーーーーーーーー南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO2ーーーーーーーーーーーー

 下記は、前回のNO1に引き続き、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、 軍事郵便(戦地から親戚や知人宛に送られたもの)など19人の記録から、6人の記録(8~13)のごく一部を抜粋したものである。
 南京陥落後の投降兵・捕虜の「処分」(殺害)や死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。

 先日ドイツのメルケル首相が来日し、東京都内で行った講演や会見の中で歴史認識に触れ、「過去の総括は、和解をするための前提になっている。和解の仕事があったからこそ、EUを作ることができた」と、地域の安定に自国の「過去の総括」が必要だったとの見方を示した。

 一方日本では、昨年4月の参院予算委員会で安倍首相が、戦前の日本による「植民地支配と侵略」について謝罪した村山富市首相の「談話」を否定し、「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」というような発言をしている。
 また、先日、自民党の「党三役」の一人である稲田朋美政調会長が、太平洋戦争などをめぐり日本の指導者が責任に問われた東京裁判について「事後法(での裁き)だ。法律的には問題がある」との認識を示している。

 メルケル首相の上記の発言は、先の大戦における日本の戦争を正当化し、中国や韓国との溝を深めている安倍政権に対する決定的な問題提起であると思う。下記の記録に見られるような投降兵や武装解除された捕虜の殺害が、「戦闘行為で合法であった」と いうような主張が日本国内で繰り返され、安倍政権もそうした主張に同調するような外交を進めていることが問題なのだと思う。こうした日本の歴史修正主義 が、中国や韓国にとどまらず、アジア各国、さらには国際社会に波紋を広げつつあることをしっかりと受け止め、一日も早く軌道修正して、ドイツのように和 解・共存の道を歩むべきだと思う。(並べかえ編集3/21)
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8 [柳沼和也]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第7中隊・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人から
日記の態様:表紙に陣中日誌」と書かれた縦10センチ×横8センチの手帳。縦書き。

12月15日 晴
 何する事もなくして暮す。
 其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発してきた。支那饅頭がうまかった。16師団が敗残兵を殺すのを見たが惨酷だったと聞く、英国の会社には電灯もついたりして日本軍の手がつけられない言ってた。

12月16日 
 略

12月17日
 四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる。日中は単哨で夜間は複哨である。
 工兵隊はトウチカを爆破させたり、南京の攻撃に一つの印象を残して居る。
 夜は第2小隊が捕虜を殺すために行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。
 一団7千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

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9 [新妻富雄]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第7中隊・第2補充
階級:上等兵
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約105センチ×横約15センチ、穴をあけた用紙を革表紙とともに紐でとじてある。縦書き。・・・

12月14日 晴天 清国
  本日は朝4時50分整列、南京中間虎子台砲台攻撃□□□□前の部落より出発、夜明間も無敵兵白旗を飜る返し約1万5、6千人□□□解除、砲台は戦死者約 45名□傷者78名にして占領第二大隊我が中隊は其の地より南京入城、軍旗護衛として約2粁程前進して虎子台海軍独立陸戦隊兵営揚子江沿岸午後7時頃到着 し宿舎割になる。
 第4次補充部隊430名
 
12月15日 晴天 海軍兵舎ニテ
 明れば朝東から太陽ゆうゆうとただ一発の銃声もなくのんびりとした朝聞くからに
敵の捕虜兵2万5、6千名我が聯隊でのみ「シウヨウ」(収容)したと云ふ事だ。
 聞けば櫓網湾、馬家宅の我が軍の苦しめられた事また戦友の戦死されたと事を思ひ浮べ今日共に戦友の霊をなぐさめる事が出来たと遠い上海の空を向いて異郷を向いて拝した。

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10 大寺隆陣中日記

所属:歩兵第65連帯第7中隊・第4次補充
階級:上等兵
入手経緯:本人から
日記の態様:縦7センチ×横12.5センチの手帳。縦書き。11月24日までは主としてカタカナ書き、それ以降はひらがな書きとなっている。 以下略

12月17日
 ・・・
 〔空頁への記事〕 
 平安路ヲ南進。
 南京ノ捕虜約10万、
 9、11、13ノ各師団。
 65ノホリヨ1万2千。

12月18日
 今朝は昨日に変る寒さ。風は吹く、小雪は降る、吹雪だ、7時過ぎ起きて中山さんと2人で朝食をたいて食ふ。整列は8時半と云ふのであわてゝ整列する。
 9時整列を終り閲兵を終り訓辞がある。
 それから佐藤曹長により各隊に配属せらる、俺は松沢准尉殿の居る第7中隊に入れて貰う、郡君も一緒だ、第7中隊は現在、軍旗中隊だ。中隊に来て俺は指揮班、郡君は一小隊4分隊、大谷君も3小隊に入る。
 午前中に大隊本部に行き、後藤大隊長の訓辞、帰へつて中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて、各分隊に別れる午後は皆捕リヨ兵片付に行つたが俺は指揮班の為行かず。
 昨夜までに殺した捕リヨは約2万、揚子江岸に2ヶ所に山のように重なつて居るそうだ、7時だが未だ片付け隊は帰へつて来ない。 
 俺は飯前に直ぐ傍にある南京の要塞を見に行きその完備せるのに驚いて帰へる、然しあれ程完備して置いてほとんど使はずに逃げてしまつたのだ、第8中隊と第5中隊が占領したものらしい。

12月19日
 午前7時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかゝり作業を終る、昼食は3時だ、直ぐに夕げの仕度にかゝり5時半頃又夕食だ、今日捕リヨ死骸片付に行き、松川の菊地さんに会ふ、こゝの要塞は馬尾山の要塞と云ふ、工兵隊らしい、砲台の爆破をやる、見事なものだ、バクフ山要塞。

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11 [遠藤高明]陣中日記

所属:歩兵第65連帯第8中隊・第3次補充
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦12センチ×横7.5センチの手帳。横書き

12月16日 晴
 定刻起床、午前9時30分ヨリ1時間砲台見学ニ赴ク、午後零時30分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ同3時帰還ス、同所ニ於テ朝日記者横田氏ニ逢ヒ一般情勢ヲ聴ク、捕虜総数1万7千25名、夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一江岸ニ引出シ
I(第一大隊ニ於テ射殺ス。
 1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ。
 
12月17日 晴
  幕府山頂警備ノ為午前7時兵9名差出ス、南京入城式参加ノ為13Dヲ代表Rヨリ兵ヲ堵列セシメラル、午前8時ヨリ小隊ヨリ兵10名ト共ニ出発和平門ヨリ入 城、中央軍官学校前国民政府道路上ニテ軍司令官松井閣下ノ閲兵ヲ受ク、途中野戦郵便局ヲ開設記念スタンプ押捺シ居ルヲ見、端書ニテ×子、関ニ便リヲ送ル、 帰舎午後5時30分、宿舎ヨリ式場迄3里アリ疲労ス、夜捕虜残余1万余処刑ノ為兵5名差出ス、本日南京ニテ東日出張所ヲ発見、竹節氏ノ消息ヲキクニ北支ニ在リテ軍慰問中ナリト、風出テ寒シ。

12月18日
 午前1時処刑不完全ノ為生存捕虜アリ整理ノ為出動ヲ命ゼラレ刑場ニ赴ク、寒風吹キ募リ同3時頃ヨリ吹雪トナリ骨マデ凍エ夜明ノ待遠シサ言語ニ絶ス、同8時30分完了、風梢々治リ天候恢復、幕府山警備兵帰舎、南京見学兵6名アリ、午前中1時間仮眠ス、久シク口ニセザル林檎1個支給サル、正午第4次補充員9名編入サル、午後2時ヨリ同7時30分マデ処刑場死体1万有余取片付ノ為兵25名出動セシム

12月19日
 前日ニ引続キ死体片付ノ為午前8時ヨリ兵15名差出ス、Rハ対岸渡江ニツキ材料搭載掛ヲ命ゼラレ午後1時ヨリ中山碼頭碇泊司令部ニ連絡ニ赴ク約1里半アリ、徴発セシ乗馬足ヲ痛メ使用ニ耐エズ残置ニ決ス、南京見学兵12名アリテ土産ニ羊羹、蜜柑缶等持参セリ、尚持参ノ赤玉葡萄酒1杯ヲ飲ム、増田リューマチニテ入院ス。

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12 [本間正勝]戦闘日誌

所属:歩兵第65連隊第9中隊・編成
階級:二等兵
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約15センチ×横約9センチの手帳。縦書き。表紙に「戦斗日誌」と書かれている。・・・

12月13日
 午前7時出発ニテ南京ニ向フ、牛引キ行軍午后6時マデ、7時ニ宿舎ニ入ル、残敵所々居ツタ。

12月14日
 午前5時出発、体ノ工合ハ良カツタ、途中降参兵沢山アリ、中隊デモ500名余捕虜ス、聯隊デハ2万人余モ捕虜シタ。

12月15日
 具合悪ク一日休養ス、中食セズ、夕方高木実君面会ニ来タ、夕方自家母ヨリ女子出産ノ報アリ、安心スル。

12月16日
 午前中隊ハ残兵死体整理ニ出発スル、自分ハ患者トシテ休養ス、午后5時ニ実ヨリ塩規錠ヲモラー、捕虜三大隊デ3千名揚子江岸ニテ銃殺ス、午后10時ニ分隊員カヘル。

12月17日
 午前9時当聯隊ノ南京入城、軍ノ入城式アリ、中隊ノ半数ハ入城式ヘ半分ハ銃殺ニ行ク、今日1万5千名、午后11時マデカゝル、自分ハ休養ス、煙草2ケ渡、夜ハ小雪アリ。

12月18日
 南京見学ト支那兵死体整理ト中隊ハ分レル、自分舎内監ニ残ル、家ヘ手紙ヲ出ス。

12月19日
 午前8時整列ニテ中隊ハ南京見学ト渡河準備ニ出ル、自分ハ診断シテ「マラリア」トナル、始メテ決定スル。

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13 天野三郎軍事郵便

所属:歩兵第65連隊第9中隊・第3次補充
階級:少尉
入手経緯:戦地から送られた軍事郵便を謄写版印刷して親戚・知人に配布したものを1976年に改めて私家版として活版印刷したものによる
資料の態様:私家版では、はがき、手紙の到着順序に収録されているが、本書への収録にあたっては、これを記録日順に変えた。・・・
日記の態様:縦約15センチ×横約9センチの手帳。縦書き。表紙に「戦斗日誌」と書かれている。・・・

 ・・・

  先日(12日)江陰で書いた手紙は差し出す機会が無くて今日に至りました。その後前進に前進を重ねて去る14日旅団長率ゐる歩兵65(104は江北)は南 京東北方一里余にある幕府山砲台占領目下附近の残敵掃滅中にて一部は今日南京城に入城式を挙行の為出かけました。留余の主力は捕虜の処置に任じておりま す。今までの捕虜は歩65のみで約2万に上り目下砲台下の支那軍厰舎に収容中に て食糧の補給も不充分にて早一週間も水も米も食はない支那兵が相当数に上ってゐます。小生巡察将校を昨朝より拝命まだ下番の命令はなく目下の処何処へも出 られず支那投降兵の監視に任じてゐます。寒さは夜明を除いては内地よりも ずっと温暖にてさしたる心配も要りません。雨は乗船中呉淞にて降られたきりで其後は連日の晴天です。明日は下番となる事故(?)南京城見学としゃれるつも りです。23日中は65は江北(揚子江対岸)に渡航します。65を除く師団主力はすでに渡航してゐます。

 敗残兵一人小生の寝台のかげにかくれてゐたのに気がつかず二晩ばかり一緒に寝ましたが昨夕見付けられて直ちに射殺した様なナンセンスもあります。

  何処まで押して行くのか此処では殆んど見きわめつかず戦局の方は却って内地の皆様方の方が御承知の事でせう。軍用行李はすべて上海に残置せし為何かに不自 由ですが、何とか徴発品で間に合わせてゐます。慰問袋は一度も手に入らず最初からの兵すらまだ一度も入手して居りません。

 かうして書いて置いた処で何時出せるやらわかりませんが書いて置きますからその中出せる事と思ひます。これで失礼します。

   12年12月17日                     (三郎)
 支那軍の捕虜の書いたもので之を小生に手渡して善処を願ったものです。御参考迄に。

[訳文]
〔我々 は軍を離れ大日本軍隊に武器を渡し投降して、よろしくおとりはからい下さるようお願いしました。しかしここに来てからすでに3日たちましたが結局のとこ ろ、どうとりはからっていただけるのか分かりません。数万人のあわれな者達は4日以上も、ひもじい思いをしています。重湯は少しも腹の足しにはなりませ ん。我々は、まもなく餓死してしまうでしょう。この死ぬか生きるかの瀬戸際に我々は、大日本が我々数万人の命を救って下さるようお願い致します。もし我々 の願いをかなえて下さったら、我々は将来心から服従し、大日本のために水火も辞さず、恩に報いる所存です。どうか我々が生きてゆけるように食べる物を下さ るよう切にお願いいたします。大日本万歳。
  謹呈
   大日本長官殿
                                    投降軍臨時代表
                                       釜 核 拝〕
〔謹んで大日本軍編隊にお願い申し上げます。我々が安心して服従できるように、あるいは解散し故郷に帰り安らかに暮らし、楽しく仕事に励むことができるようにしてください。御恩は忘れません。大日本の前途に勝利があることを高らかに叫びます。   終わり〕
                                           〔鈴木和子訳〕    
〔原文〕
     報告
 我們離了隊伍投到 大日本軍隊繳槍 希望給我們一個安
 置的弁法 但是到了這処己有三天 究竟有没有弁法処置
 数万可憐的人 餓了四天多了 粥水都没有半点食 我們
 快要餓死了、在這生死的頃刻中、要求我們大日本来拯救
 我們数万人的命、将来服従 大日本的駆使択答 你給我
 們的恩恵、赴湯踏水、我們也是甘愿、懇求 大日本維持
 我們一粥一飯 共祝大日本帝国万歳
  謹呈                ?
    大日本長官        釜 核
                  投降軍臨時代表呈     
 伏懇 大日本軍日編隊、使我們大家安心服従、或者遺散
 回郷、大家回去安居楽業、我們数万人都感恩不忘、我們
 高呼大日本前途勝利、『完了』


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