-NO446~450

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー南京安全区 NO2ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 下記は、日本軍が南京にせまり、危険を感じた多くの外国人が南京を離れた後も南京に残留、南京安全区国際委員会の中心的メンバーとして中国一般市 民保護活動に従事したM・S・ベイツ博士(金陵大学歴史学教授・哲学博士)が、アメリカ大使館に宛てた書簡の一部である。どれも日本軍の不法行為の実態を 訴え、法に基づいた対応を求めている内容で、日本軍の軍紀・風紀の乱れの一端が読みとれる。

 「南京事件資料集 1 アメリカ関係資料集」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)からの抜粋である。
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         100B 南京アメリカ大使館宛書簡
                      ──1月25日
                            1938年1月25日
  南京アメリカ大使館

 拝啓 アリソン殿
 昨日、昨晩の事件について大学からもっと全面的な報告が出されるまではまだ時間がかかりますので、私は午後11時に白っぽい腕章をした日本兵が胡家菜園11号の本学農機具店を訪れた件の情報を貴下にお伝えしなければなりません。

 彼らは店員を銃で脅し、その体を捜索し、それから彼らは婦人一人を連行して強姦し、2時間後に釈放しました。彼女は連れて行かれた場所を特定できると考えており、われわれはその他の細かな事項と同様に、場所の情報についても確認に努める予定です。

 この件は強制的かつ不当な侵入で、また武器による脅迫、誘拐、強姦に係わるものです。おそらく憲兵の仕業と思われます(腕章から判断して、唯一の他の可能性は特務兵ですが、その可能性は少ないでしょう)。

 ここには秩序も安全も、布告と国旗で示された米国財産への敬意も、また日本の布告および日本の秩序への敬意さえないのです。

                                            敬具
 追伸 この手紙を書き終わったあと、兵士はドアに貼られた日本の布告も破り捨てた、と信頼できる筋から知らされました。
                                          (ベイツ) 
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         101B 南京アメリカ大使館宛書簡
                      ──1月25日
                           1938年1月25日
  南京アメリカ大使館

 拝啓 アリソン殿
  今朝の手紙に付け加えます。私とリッグス氏は、昨晩の胡家菜園11号から誘拐された被害者婦人を注意深く伴い、連行された道取りを先入観なくたどってもら いました。彼女は自分が3回強姦された建物を十分明確に特定でき、またその正しい道ならすぐに見つかるはずの標識がないことから、間違った道から引き返す ことができました。計5回もチェックを行ったのですから、間違いのあるはずはありません。問題の建物は小粉橋32号のおなじみの憲兵隊の地区本部でした。

  こう繰り返し繰り返し、彼ら善良な民衆の敵の所業が報告されるのですから、もう救いようがありません。今こそ連中を将兵ともに一掃する時だと思われます。 これで確かに、彼らがいるかぎりこの地区には安全がないのだということ、そして日本大使館側がこれまで用いてきたはずの諸手段をもってしても決してなにも できないということが、同様にはっきりしたと思われます。

  本日正午、私は、本学所有地ではないが蚕桑系と同じ敷地内にある金銀街8号のある家から、兵士たちに対処するのに友誼的な援助をしてほしいとの連絡を受け ました。昨日兵士たちは本学敷地を通過してその家に行き、強姦を行ったため、その晩、そこの女性たちは大学に避難してきました。兵士は今日もまた来たとこ ろが、女がいないので怒り、男たちから強奪し、窓を割りまくったのです。この事件は私たちアメリカ人の安全が、日本当局がときたま米国財産に対し、それが 米国のものであるがゆえに注意を払うことよりも、市内における良好な規律の確立全体にかかっていることを指し示すものです。この家は過去一週間に5回も侵 入を受け、わが蚕桑系の敷地も何度も日本兵に通過されました。今日になってようやく、彼らの経験が日ましにひどくなってきたので、住民はあえて、市内のこ の地区で唯一助けになると思われたところに連絡をとってきたのです。
                                           敬具
                                         (ベイツ)
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           103B 南京アメリカ大使館宛書簡
                         ──1月25日
                             1938年1月25日
  南京アメリカ大使館

 拝啓 アリソン殿
  さすがに公認はされないらしい強姦や強奪はまったく別にしても、兵士や警察が自ら正当と考える目的のためアメリカ財産に頻繁に侵入することから、様々な問 題が起こされています。私はとくに捜索、脅迫、構内からの多かれ少なかれ強制的な人員の連行、労働力確保、そして女性獲得のいかがわしいやり方について申 し述べたいと思います。  

 われわれは、これらの問題について公正で理にかなった態度をとろうと努めてきており、構内に住み、また本学施設や住居で働く人々への義務を果たしながらも、日本当局および貴下と正常な関係で行動したいと願ってきました。

(1)われわれは、手続きが貴下の満足いくものであるなら、秩序あり、正当な委任を得た捜索には反対しない。


(2)われわれは、特定個人を犯罪の結果から保護したり、正常の政治的・軍事的な住民統制に干渉しようとは思わない。


(3)われわれは、わが所有地への不当な、委任を得ぬ、あるいは強制的な侵入に反対し、軍人・警察の侵入は現下の条件では本質的に強制侵入であると指摘する。


(4)われわれは、本学教職員および米国所有地でわれわれが運営している正当な団体への恣意的な干渉に対し、中国人助手の脅迫や誘拐も含め、反対する。


(5)われわれは、男女を問わず本学所有地内の難民からの労働者の善意ある 確保には好意をもち奨励するものである。しかし、過去6週間の経験はきわめてひどく、手続きは、隠然、公然たる脅迫のないように慎重に守らなければならな い。わがスタッフはこの件で喜んで援助するものであるが、彼らは、特定条件の男女を特定数供給するよう要求する軍の酷使から保護されなければならない。彼 らはただ要求を伝え、行く意思のある難民を出すことができるだけである。現下の条件では日本軍の存在は圧力となるので、彼らは門外に留まるべきだ。もし彼 らが自らの中国人代理人を派遣したいのなら、彼が責任あるスタッフ人員と同行するのを条件に、それも構わない。


(6)もし酷使が続くのなら、われわれは本学所有地で獲得された全人員の出発、帰還の氏名、時間の一覧表作成を求める必要がでてこよう。だが、われわれはその必要がないことを願っている。


(7)われわれは、日本当局との必要な協議の後、全米国財産について、以上 諸点に関する明確で統一的な合意を以下のように取り決めるべきだと考える。すなわち、日本当局は責任をもって全軍事・警察機関にこの件についての厳格な指 示を示し、また同当局または貴下がすべての米財産と考えられるところに、かかる規則の必要な連中に適切に想起、指示する日本語の布告を用意すること。


(8)われわれは、警察による審問は貴下への通知または領事館警察の訪問に よって執り行うべきであると考える。後者の場合、われわれのよく知っている警察官以外は周知の制服を着ており、わが財産内での行為またはわがスタッフとの 関係で責任がとれるようにすること。われわれは、きわめて重大な案件で、事前に貴下と協議したのでないかぎり、審問のために個人をわが構内から連行する必 要を全く認めない。
                                         再度提出する
                                           (ベイツ)



ーーーーーーーーーーーー蒋介石からルーズベルトへの手紙とその返書ーーーーーーーーーーーー

 下記は、1937年12月24日付けの「蒋介石からルーズベルトへの手紙」と、それに対する1938年1月12日付けの「ルーズベルトから蒋介石への返書」である。蒋介石がルーズベルトに手紙を送ったのは、日本軍が中華民国の首都南京を陥落させて(1937年12月13日)間もない時期であった。

 1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向 の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍第二十九軍とが衝突した。盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)である。また、その1ヶ月あまり後の1937年8月10日に、日本軍は上海の居留民保護を名目にして「上海派遣軍ヲ上海ニ派遣ス」と決定した。松井石根大将が司令官であった。

 その後、天谷支隊や重藤支隊(台湾より)を上海派遣軍司令官の隷下に入れ、第三艦隊司令官麾下の陸戦隊も上海派遣軍司令官の指揮のもとに置いた。さらに、同年10月20日には「上海方面ニ第十軍竝所要ノ兵力ヲ増派ス」を決定し、國崎支隊を第十軍の隷下に入れている。

 そうやって日本は、次々に上海附近に軍を集結させたばかりでなく、同年11月7日には、「左ノ部隊ヲ中支那方面軍ニ編合シ中支那方面軍司令官松井石根大将ヲシテ指揮セシム(臨参命第138号)とした。当初の上海派遣軍は格段に増強され「中支那方面軍」となったのである。

 増強された中支那方面軍は、11月19日「中支那方面軍ノ作戦地域ハ概ネ蘇州嘉興ヲ連ヌル線以東トス」という「進出制令線」を突破して次々に南京に向い進撃を開始ししてしまう。だから、松井司令官に「丁集団ヨリ湖州ヲ経テ南京ニ向ヒ全力ヲ以テスル追撃ヲ部署セル旨報告シ来レル処右ハ臨命600号(作戦地区ノ件)指示ノ範囲ヲ逸脱スルモノト認メラルルニ付為念」という電報が届く。当然のことだと思う。

 しかしながら、中支那方面軍司令官松井石根大将は、南京攻略の必要性を主張して、11月22日に「参謀総長ニ具申」したのである。それらを受けて、11月24日に、軍中央は簡単に中支那方面軍の制令線突破を追認し、「臨命第600号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ之ヲ廃ス」と打電する。
 そして、12月1日には、さらに「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」(大陸命第8号)という命令が下されるのである。

 上海派遣軍の当初の任務は、「上海居留民の保護」であった。その後、「敵国首都南京」を爆撃し、南京攻略に向かう日本軍の進軍はあまりに一方的であり、その間、どのような外交交渉があったのか、と疑問に思う。また、盧溝橋で日本軍と衝突した「支那第29軍ノ膺懲」が、なぜ「支那膺懲」に変更されたのか、その根拠はなんであったのか、と疑問に思うのである。

 それらを考え合わせると、蒋介石の「われわれは通常の意味でいう戦争を戦っているのではなく、わが領土に対する非道な侵略に抵抗し、苛烈な攻撃に反撃しているのです。われわれは、中国国家の自由のために、そして人類の共通の脅威に対して戦っているのです。」という、ルーズベルトに対する必死の訴えが、わかるような気がするのである。

 下記は「南京事件資料集 1 アメリカ関係資料集」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)からの抜粋である。
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    134D 蒋介石からルーズベルトへの手紙
                              在ワシントン中国大使館
  ワシントンD・C
  アメリカ合衆国大統領ルーズベルト閣下

 中国は有史いらい、現在進行しているような容易ならぬ危機に直面したことはかつてありませんでしたし、極東の平和が今日のように破滅的危機にさらされたこともありませんでした。この五ヶ月の間、中国は日本を相手に生死をかけて戦ってまいりました。
  最新鋭の武器で武装しながら、中世の野蛮さの特徴であるような残酷さを発揮した日本軍は、中国に上陸して以後、陸・海・空軍でもってつぎつぎに都市を攻略 し、この間、少なからぬ外国人も含めて、無数の非戦闘員を虐殺し、莫大な施設・財産、および宗教寺院、慈善施設さえも容赦することなく破壊してきました。

  日本軍は、中華民国の首都を含めて、南京──上海鉄道沿線の都市や町を不法に占領したうえ、いまや華北の大部分を不当に占領しています。日本軍国主義者に よって「中華民国臨時政府」と称する傀儡政権が北平つくられました。日本軍はさらに侵略の矛先を四方八方にいっそう拡大しています。現在の見通しでは、日 本軍は江蘇省北部、山東、長江流域および華南への侵攻を企てていると思われます。

  われわれはもてる軍隊すべてを動員し、最善をつくして日本軍の襲撃と戦ってきました。わが国家の尊厳を守ろうという固い意志のもと、われわれは多大な犠 牲、すなわち人的資源および物的資源、商業、産業を犠牲にしてきました。わが国家が平和と尊厳のうちに生存することを願ってわれわれは血を流しているので す。われわれは通常の意味でいう戦争を戦っているのではなく、わが領土に対する非道な侵略に抵抗し、苛烈な攻撃に反撃しているのです。われわれは、中国国 家の自由のために、そして人類の共通の脅威に対して戦っているのです。

 われわれはわれわれ自身を守るとともに、条約の精神の尊厳を守るために、とりわけ九ヶ国条約にうたわれた中国の主権と独立および領土的・行政的一体性が、日本および他の調印国によって尊重されるために戦っているのです。
 われわれは野蛮な日本軍に降伏などいたしません。日本政府がその侵略政策をやめるまで、中国の国政がわれわれの手にもどるまで、そして国際条約における領土不可侵の理念が守られるまで、われわれは抵抗しつづける覚悟です。

  中国国民は、戦争を通してアメリカが中国を道義的に支援してくれていることを知り、感謝しています。大統領閣下のすぐれた指導のもとにアメリカ政府が、固 有の正義心、極東の領土保全をとなえる伝統的な政策に基づいて、すべての法と条約に定められた権利を尊重し、国際関係における平和を持続するのに必要な法 と秩序を維持するために最善をつくされることをわれわれ知っています。

  世界平和の大義と連帯とがなるべく早い時期に成功をおさめるための戦いを可能とするような効果的な対中国援助をアメリカ国民が与えてくれるように、閣下に 対し、ならびに閣下を通じて、この危機に際して中国国民に代わり私が緊急に訴えるという非礼をお許しください。大統領閣下がそのためにはらわれる努力のす べてに対して、中国国民は永遠に感謝することを忘れないものと私は確信するものです。

                                                                  蒋介石
        1937年12月24日
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    136D ルーズベルトから蒋介石への返書
                               ホワイトハウス
                          ワシントン、1938年1月12日
 親愛なる蒋総統へ
 1937年12月24日付の閣下の手紙を、12月31日に当地の貴中国大使より直接拝受いたしました。
 この手紙のなかで、あなたは立派にも、極東でおこなっているたいへん不幸な状況がもつ、様々な特徴についてのあなたの評価ならびに世界平和の問題に関するあなたの見解を私に示してくれました。
 いうまでもなく、私はあなたが指摘した状況と問題について、強い関心をはらってまいりました。中国における悲劇的な戦争は、最も直接的に関係している二つの当事国だけでなく、全世界の関心事になっています。

  合衆国の政府および国民は、中国でおこなわれている破壊に対して、強い憂慮と深い悲しみを抱いて見守っています。われわれは平和の実現と国際協調の促進に むけて、最も現実的に貢献できる方法と手段について、日頃から研究し思索をめぐらしています。われわれはこの目的を実現するための努力をいつも怠らないつ もりです。

 現在の極東の紛争から、それに代わって、和解 が出現することをわれわれはこころから望みます。その和解は、すべての関係国の権利、合法的権益および国家としての一体性を適切に考慮した合理的な条項に よって、友好的な関係と永続的な平和のための基礎をすえるものとなるでしょう。

                                                             敬具
  
 中国、漢口
 国民政府軍事委員会委員長 蒋介石総統閣下       

                                               フランクリン・D・ルーズベルト 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー南京事件 報道ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記」滝谷二郎(三交社)

 「南 京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうけるわずかな機会を失ってしまった……」ではじまる『ニュー ヨーク・タイムズ』(1937年12月17日、アメリカ軍艦オアフ号”上海”発)の記者F・ティルマン・ダーディンの記事によって、南京における日本軍の 虐殺事”ナンキン・アトローシティ”はたちまち世界中に知れ渡ることになる。

とある。訳文が若干異なるが、下記がそのF・ティルマン・ダーディン記者の記事全文である。「南京事件資料集 (1)アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から抜粋した。
  同書にはこの他、シカゴ・デイリー・ニューズやニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、ワシントン・ポスト、マンチェスター・ガーディアン・ウィーク リー、サウスチャイナ・モーニング・ポストなど、様々な報道機関の南京事件に関する記事が訳出されている。その多くは南京や上海、また避難中の艦船から発 信された記事である。
 
 日本軍が南京攻略に向かった当時、南京は中国の首都であった。当然のことながら、首都南京には外国の公館や報道 機関、企業、教会、学校その他があり、大勢の外国人が駐留していた。ところが、その多くが日本軍による南京空襲や南京侵攻に危険を感じて、南京陥落前に 次々に南京を離れた。南京駐留のアメリカ人たちの多くは、本国の砲艦パネー号に乗船し漢口に向かったという。

 パネー号は誤爆を避けるた めに、日本側にその所在位置を繰り返し知らせるなど様々な工夫や努力をしたが、12月12日の午後日本軍の攻撃で撃沈され、死傷者が出る。そのため、パ ネー号沈没のニュースはすぐさまアメリカ本土に伝えられた。アメリカ主要紙は、パネー号沈没のニュースを、南京虐殺事件以上に連日大きく報道したという。 そして、そのパネー号に乗船していた3人のカメラマンが撮影したフィルムがアメリカ本土に運ばれ、ニュース映画として公開されたため、アメリカの反日感情 が一気に高まり、日本商品ボイコット運動がアメリカ全土に広がったというのである。「日本軍は民間人を一人も殺していない」とか「南京虐殺事件は、アメリカと中国が東京裁判で”でっち上げた”」というような主張が、国際社会で受け入れられないことは明らかだと思う。

 パナイ号撃沈について、ワシントン・ポストは、

「…アメリカ政府所属の船舶の撃沈は、非道な狂暴さを際立たせているとしか考えようがない。この狂暴さは、今では日本の対中国政策の著しい特徴になっている。日本の飛行士は識らずしてアメリカ軍艦を攻撃していたということになっている。しかし、そうならば、飛行士が何を、どのように破壊しようがお構いなしということとまったく同じことになる。…」

と論評し、ワシントン・スターは

「…中国で殺人と放火をしている略奪者の行為に寛容であることは、山賊行為と国際法無視という日本の戦争行為を是認したことになる。

などと論評しているのである。  

 日本政府はあわててパネー号攻撃は日本海軍の誤爆と陳謝したが、疑惑を払拭することはできなかったようである(橋本欣五郎大佐が長江上にあるすべての船を砲撃するように命令【丁集団命令】されていることを認めた、とビー号に乗艦の参謀長が英国代理大使ホーウィに打電していることは、432「南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件」)。以後、パネー号の記事や南京の情報がアメリカに送り続けられる。

  大部分の外国人ジャーナリストが避難した後の南京に残留し、日本軍による南京陥落を目撃したのは、下記記事の執筆者ダーディン記者をはじめとする5人の ジャーナリストだったという。その5人とは、ダーディン記者の他、『シカゴ・デイリー・ニュース』のスチール記者、ロイター通信のスミス特派員、AP通信 のマグダニエル記者そしてパラマウント映画ニュースのメシケンの5人である。
 ダーディン記者は、下記の記事以後も、上海支局のハレット・アベンド等とともに、情報を収集しつつ続報を送っている。資料を読むと、「日本人だけが知らなかった”ナンキン・アトローシティ”」の意味を考えさせられる。

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             捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う
                                                1937年12月18日
◇アメリカ大使館を襲撃
◇蒋介石総統のおそまつな戦術、指揮官の逃亡
 首都陥落を招く
                     ※
                               F・ティルマン・ダーディン
12月17日、上海アメリカ船オアフ号発                 
ニューヨーク・タイムズ宛特電
 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。
  中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、南京の大勢の中国人は、日本人の登場とともにうちたてられる秩序と組織に応える用意ができていた。日本軍が南京城内 の支配を掌握した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。

  少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから2日で、この見込みは一 変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。


民間人多数を殺害
 民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた。
 特に警察官や消防士が攻撃の対象であった。犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていた。なかには、野蛮このうえないむごい傷を受けた者もいた。
 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから通りや墓地で巡回中のパトロールに捕まった者は、だれでも射殺されるおそれがあった。外国人はたくさんの殺害を目撃した。

 日本軍の略奪は、町ぐるみを略奪するのかと思うほどであった。日本兵はほとんど軒並みに侵入し、ときには上官の監視のもとで侵入することもあり、欲しい物はなんでも持ち出した。日本兵は中国人にしばしば略奪品を運ばせていた。
 なにより欲しがった物は食料品であった。その次は、有用なもの、高価なものを片っ端から奪った。とくに不名誉なことは、兵隊が難民から強奪を働くことであり、集団で難民センターを物色し、金や貴重品を奪い、ときには不運な難民から身ぐるみ剥いでいくこともあった

 アメリカ伝道団の大学病院の職員は、現金と時計を奪われた。ほかに、看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた。日本兵はアメリカ系の金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、食料と貴重品を奪った。
 大学病院と金陵女子文理学院の建物には、アメリカ国旗が翻り、扉には、アメリカ所有物であることを中国語で明記した、アメリカ大使館発行の公式布告が貼られていた。


 アメリカ外交官の私邸を襲う
  アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。興奮した大使館の使用人からこの侵入の知らせをうけて、パラマウント・ニュースのカメラマンと記者は、大使 の台所にいた日本兵5人の前に立ちはだかり、退却を要求した。5人はむっつりしながらおとなしく出ていった。彼らの略奪品は懐中電灯1本だけであった。
 大勢の中国人が、妻や娘が誘拐され強姦された、と外国人に報告にきた。これら中国人は助けを求めるのだが、外国人はたいてい無力であった。

 捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。
 安全区の中のある建物からは、400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛り上げられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。
  上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背に並ばされ、射殺され た。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひく動くものがあれば弾を打ち込んだ。

 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。

  最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を 回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声ををあげた。現在南京には、日本軍への歓声はまったく聞こえない。

 町を破壊し、人から略奪をし、日本軍が中国人に憎しみの感情を根深く植え付けたことは、今後、何年にもわたって中国人に反日本の感情をくすぶり続けさせることになるのだが、東京はこれを取り除くために闘っているのだと公言してはばからない。


 南京陥落の惨事
 南京の占領は、中国人が被った最も大きな敗北であり、近代戦史における最も悲惨な軍隊の崩壊であった。中国軍は南京の防衛を企図し、自ら包囲下に陥り、その後に続く虐殺を許すことになった。

  この敗北により、中国軍は、何万人というよく訓練された兵隊を失い、何百万ドルに匹敵する装備を失い、戦争の初期において示された長江方面軍の勇猛な精神 は、ほぼ2ヶ月にわたる上海付近での日本の進撃を阻止できず、士気の失墜を招くことになった。ドイツ人軍事顧問および参謀長である白崇禧将軍の一致した勧 告に逆らってまで、無益な首都防衛を許した蒋介石総統の責任はかなり大きい。

 もっと直接に責任を負わなければならないのは、唐生智将軍と配下の関係師団の指揮官たちである。彼らは軍隊を置き去りにして逃亡し、日本軍の先頭部隊が城内に入ってから生ずる絶望的な状況に対し、ほとんど何の対策もたてていなかった。

 大勢の中国兵の逃走には、ほんのわずかな逃げ道しか用意されていなかった。侵入者を阻止するため、戦略上のわずかな地点に部隊を配置して、その間に他の兵隊は撤退するという措置もとらずに、大勢の指揮官が逃亡したことは、兵隊の間にパニックを引き起こした。

 長江の渡河が可能な下関に通ずる門を突破できなかった者は、捕らえられて処刑された。
  南京の陥落は、日本軍の入城がなるより2週間も前に、詳しく予告されていた。日本軍は装備の貧弱な中国軍を広徳周辺およびその北方で敗退させ、一網打尽に すると、首都に入る数日前には、長江沿いの南京上流の蕪湖など2、3の地点を攻め落とした。日本軍はこのようにして、中国軍が上流に退却するのを拒んだの である。


 序盤は果敢に防戦
  南京の周辺数マイルの見かけだけの中国軍の防衛線は、たいした困難もなく突破された。12月9日には、日本軍は光華門のすぐ外にまで達した。城内に押し戻 された5万の中国兵は、当初、激しく抵抗した。城壁の上に陣取る中国軍部隊があり、また城壁の外側数マイルでも中国軍はじわじわ押し寄せる敵と争ってお り、日本軍にはたくさんの死傷者がでた。
 しかし、城壁周辺の中国軍は、大砲や飛行機の内外両方からの攻撃で、たちまち一掃された。とりわけ榴散弾による多数の死者をだした。

  日曜日(12日─訳者)正午、激しい援護射撃をうけながら、侵入軍が西門近くの城壁を登り始めや、中国軍の瓦解が始まった。第八八師団の新兵が、まず先に 逃亡すると、他の兵隊もそれに続いた。夕方までには大方の部隊が下関門に向かい奔流のように押し寄せた。この門はまだ中国の支配下にあった。
 将校たちはもはや状況に対処しようとはしなかった。部下たちは鉄砲を投げ捨て、軍服を脱ぎ、平服に着替えた。
  日曜日夕方、市内を車で走っているとき、記者は、全員が一斉に軍服を脱ごうとしている部隊に出くわしたが、それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整え て下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣 服をはぎ取っていた。

 頑強な連帯がいくつか、月曜日に なってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者に脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押 しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。
 安全区の本部を取り囲んだ一団は銃を手にしていたが、焦って兵器を手放したいばかりに、塀ごしに中に投げ入れる者まででてきた。


 中国軍の三分の一は袋のねずみ
 日本軍が下関を占領すると、南京からの出口はすべて遮断された。そして、少なくとも三分の一の中国軍が城内に取り残されることになった。
 中国人の統制の悪さから、火曜日の昼になっても、まだ抵抗を続ける部隊がかなりあった。これらの多くが、日本軍にすでに包囲されていることも、また、勝てる見込みがないことも知らずに戦っていた。日本軍の戦車隊が整然とこれらを掃討していった。
 火曜日の朝、記者は下関に車で出掛ける途中、25人ほどの絶望的な中国兵の一団に出会った。彼らは依然として中山路の寧波会館を占拠していたが、のちに全員が降伏した。

 何千人という捕虜が日本軍に処刑された。安全区に収容されていた中国兵のほとんどが、集団で銃殺された。市は一軒一軒しらみつぶしに捜索され、肩に背嚢の痕のある者や、その他兵士の印のある者が探し出された。彼らは集められて処刑された。
  多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日の2、3時間 の間に、3つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲が為された虐殺であった。
 日本軍の好みの処刑方法は、塹壕の縁に10人ほどの兵隊を集め、銃撃すると、遺体は穴に転がり落ちるというものである。それからシャベルで土をかけると、遺体は埋まってしまうというわけだ。
 南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら、治療を求めていた。


 民間人の死傷者多数
 民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。
 南京の通りには死骸が散乱していた。ときには、死骸を退かしてからでないと、車が進めなかった。
 
  日本軍の下関の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ6フィートの小山を築いていた。水曜日遅くになって も日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の2日間、軍の輸送車が、人間も犬も馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。

 日本軍に抵抗するとひどいめにあうぞと中国人に印象づけるため、日本軍はできるだけ長く恐怖の状態にしておきたい意向のようだ。
 中山路はいまやごみの大通りと化し、汚物、軍服、小銃、拳銃、機関銃、野砲、ナイフ、背嚢などが全域に散乱していた。日本軍は戦車をくりだすなどして、瓦礫を片付けなければならないところもあった。 

 中国軍は、中山陵公園の立派な建物や住宅を含む郊外のほぼ全域に放火した。下関はほとんどが焼け落ちた。日本軍は立派な建物を破壊するのは避けた模様だ。占領にあたって空襲が少なかったのは、建物の破壊を避ける意図があったことを示している。
 日本軍は、建物のたてこんだ地域に集まった中国軍部隊でさえも、爆撃するのは避けているが、建物の保存を狙っていたのは明らかだ。立派な交通部の建物だけが、市内で破壊された唯一の政府関係の建物である。これは中国軍に放火されたものである。

 現在の南京は、外国人の支配のもとで、死、拷問、強奪の不安のなかで生活している恐怖におののく人々を抱えている。数万人にのぼる中国兵の墓所は、日本という征服者への抵抗を願う、すべての中国人の希望の墓所であるのかもしれない。


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南京事件 中国日刊紙『大公報』の報道ーーーーーーーーーーーーーーーー

 下記は、南京事件当時の中国における代表的日刊紙、『大公報』の記事の一部を『南京事件資料集 2中国関係資料編』南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から抜粋したものである。

 『大公報』 は1902年天津で創刊された新聞で、とくに対日問題に特色ある議論を展開したことで知られるという。日本軍の圧迫を避けるために1935年末に上海に支 社を開設し、日中全面戦争勃発後は、漢口、ついで重慶で発行を続けたという。南京陥落前後の記事の内容は、大部分が南京から逃れてきた中国人から得たもの や南京に留まった英米の記者が送った記事から得たものであったことが分かる。『大公報』は、南京に記者を留め置くことができず、また、英米のような通信手段を持っていなかったからであろうと思う。しかしながら、懸命に情報収集をしつつ連日報道しているのである。記事のなかには、疑わしいものがなくはないが、それらを読むと、

・南京大虐殺は東京裁判用に捏造されたものだった。
・南京入城した日本軍は多くの人道的活動を行った、非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった。
・ 南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本 人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません”

  というようなネット上にある情報は、いかがなものかと思う。総勢100人の新聞記者やカメラマンの内、外国人はいったい何人いたというのであろうか。ま た、下記の記事に見られるような、外国人記者やカメラマンの南京視察拒否や、ニュース電報の差し押さえ、郵便物の開封などをどのように受け止めればよいの か、と思う。外国人記者やカメラマンは、中国兵の非道行為をどのように報道したというのであろうか。
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                   11 社説  敵機、英米軍艦を爆撃
                                              民国26年12月14日

  一昨日、凶暴な敵の飛行機は南京付近に停泊していたイギリス軍艦レディバード号とビー号を二度爆撃し、多数の爆弾を投下したが、さいわい命中しなかった。 この事件はすでに国の内外を大きく震撼させている。さらに昨日朝、漢口のアメリカ大使館は、一昨日午後、敵機が南京上流29マイ(約46.4km)の場所 でアメリカ軍艦パナイ号を爆弾で撃沈したとのニュースを受けとった。艦長らが重傷を受け、死者は約20人である。生存者54人は和県に逃げたが、そのうち 負傷者が十余人いる。アメリカ大使館員4人はさいわい死傷しなかった。他にイギリス人・イタリア人がおり、商人とロンドン・タイムズとユナイテッド社を含 む新聞記者がいた。昨夜までのところ、死傷の情況の詳細は不明である。

  船舶は南京を離れるように敵が各国に警告していたことを私たちは知っている。このアメリカ船が上流29マイルの場所で停泊していたことは、事が日本軍の警 告通り処理されていたことを証明するものである。そうであれば、この爆撃の意味は当然さらに重大である。敵は中国の軍艦の情況についての消息に通じてお り、したがって当然、中国艦でないことを知っていた。まして旗印が鮮明で見分けやすく、また同時に爆撃にあったスタンダードの船4隻が事前に日本側に通知 し、保護を求めていたのだからなおさらである。つまり当然、故意の爆撃であり、偶然ではなかったことを事実が証明しているのである。

  中国政府と人民は、二大友邦の軍艦の災難、とくにアメリカ軍艦の轟沈を聞いてふかく痛惜する。わが政府のスポークスマンは、この点についてすでに声明を出 した。私たちがとくに遺憾に思うのは、同情と痛惜を表明する以外にいささかも尽力できないことである。なぜなら私たちの国家は、不幸にも凶暴な隣国の侵略 に遭遇し、血戦抵抗しているけれども制止しえず、私たちの首都はきわめて危険な状態におかれているので、私たちは友邦の船舶と人命を保護する力がないから である。

  同日のうちにイギリスとアメリカの軍艦がひとしく爆撃を受け、商船はさらに絶え間なく襲撃を受けている。このような状況を英語を話す二大国の人民は、どの ように解釈するだろうか。私たちは、イギリス人が極東問題に対して近ごろはなはだ苦慮していることを知っている。イギリスが忍耐すればするほど、日本は侵 攻し、今や公然とくりかえしイギリス軍艦を爆撃したのである。また私たちは、少なからぬアメリカ人が孤立政策に賛成しているので、ルーズベルト大統領がそ の政策を円滑におこなえないでいることを知っている。しかし、現在、日本はなんと公然とアメリカ軍艦を撃沈した。軍艦が避難したにもかかわらず、日本はか まわず進撃したのである。孤立政策を支持するアメリカ人は、どんな感想をもつのだろうか?

  昨日のロイター通信は、日本がまさに海軍を大拡張しようとしているとのニュースを折りよく伝えた。4万6千トンの大戦艦3隻とその他に大量の軍艦を建設中 といわれる。4万6千トンの戦艦は世界空前の試みである。日本はこのように懸命に軍艦を建造して誰に対処し、誰を恫喝しようとしているのだろうか?英米両 国人にとっては、きっと私たちよりもさらにあきらかであろう。

  私たちは、日本が中国征服にもし成功したら、イギリス・アメリカなどはアジアからの退出を迫られるだろうと以前にのべたことがある。現在の世界の大局は、 軍事戦略上からみるべきであり、単に経済と商業上からみることはできない。軍事戦略上からいえば、日本が中国に進攻することは世界をおびやかすことであ り、海上ではイギリス・アメリカを、陸上ではソ連をおびやかすことである。日本の計画は現在着々と進行している。日本は中国での軍事が順調であればあるほ どますます欧米を蔑視する。一昨日、英米軍艦を爆撃したことは、今後の大きな趨勢の縮図であり、海関の独占と門戸の閉鎖に至ることは論ずるまでもない。だ からイギリスとアメリカの人民が今、みずから解答しなければならない問題は、結局、東南アジアから退出し、すべて日本の行動に従うか否かである。とくにア メリカの孤立派はこの点について徹底的に検討すべきである。なぜなら孤立を欲すれば、徹底して孤立しなければならないからである。そうでなければ、国家権 力を代表する軍艦さえも安全を保たれないのだから、どうして商業の利益の安全を保てよう?

  イギリス人・アメリカ人、とくにアメリカ人が、このような空前の暴行に対してどのような感想をもつかについて、私たちはみだりに推測する必要はない。現在 はただ中国人の深甚な同情を表明するだけであり、とくに私たちは同業者として、パナイ号上で災難にあったイギリスとアメリカの記者に対しつつしんで慰問の 意を表すものである。
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                        19 南京の敵の暴行にまた一証拠
                                                    民国26年12月26日
◇上海ノースチャイナ・デイリーニューズ所載の情況
                          
  【上海25日午後一時発専電】〔前略〕ノースチャイナ・デイリーニューズの報道にれば、敵は南京に入って、淫乱・略奪・惨殺をほしいままにし、害毒のかぎ りをつくしている。その兵士は将校の前で公然と街路で略奪し、居住民は貧富を問わず、みな御来臨をたまわっている。かつ男子を捜索し捕らえてすべて銃殺し ており、難民区の某号の屋内では40人が捕殺された。強姦はいたるところでおこなわれており、ある西洋人の隣家では、少女4人が敵兵によって連れ去られ、 ある西洋人は、新しく到着した日本将校の室内に若い婦人8人がいるのを目撃した。

 【中央社新郷25日電】中国紅十字会第八救護医院の救護隊長陳威伯等4人は、先日、南京を脱出し、津浦路を北上して、24日、鄭州をへて武漢に到着した。かれの話では、敵はわが首都を占領して以後、漢奸をそそのかして、市民に一枚二元で通行証を買わせ、かつ市民の腕
に日本の二文字を刺青させ、従わないものは、惨殺されたとのことである。

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                         21 南京の敵あらたな暴行
                                                    民国26年12月28日
◇ついにわが負傷兵と医師を殺害
◇米教会の病院、強奪にあう

【中 央通信社】この間、入手した信頼できる消息によれば、敵軍は南京占領後、あろうことか人類の正義と公法に違反し、多数のわが国の負傷兵と医者と看護人を惨 殺した。鼓楼病院はアメリカの教会が運営する南京でもっとも歴史のある病院だが、ついに敵軍によって強奪された。国際赤十字委員会は在京の日本軍司令官に 中国の各負傷兵の病院を保護するように要求したが、拒絶されたといわれる。

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                         22 ノースチャイナ・デイリーニューズ掲載
                            南京の敵、なお殺戮をほしいままにす
                                                    民国27年〔1938〕1月22日
◇最近、難にあうもの万をこゆ
◇幼女、老婦人多く汚さる
◇英記者の電報も差し押さえられる

【香 港21日午後9時発専電】上海通信。ノースチャイナ・デイリーニューズは21日の社説で、南京の日本軍の軍紀が弛緩し、ほしいままに市民を虐殺しているこ とを非難した。最近までに難にあったものはすでに1万人をこえ、11歳の幼女より53歳の老婦人まですべて汚され、強姦されたものはおよそ8千から2万人 であり、強奪事件は枚挙にたえない。一週間以内になおこれらの事件が発生しているので、一時の現象と責任逃れすることはできないのである。同紙は日本軍の 名誉維持に注意するよう日本側に勧告している。
〔中略〕
【香 港21日午後9時発専電】上海の消息筋によれば、マンチェスター・ガーディアン上海駐在記者ティンパレーの21日発のニュース電報がまた日本側によって差 し押さえられた。ティンパレーのこの電報の内容は、ノースチャイナ・デイリーニューズの本日の社説を引用して、敵軍の淫行・略奪を責めたものである。かれ がえた南京の消息は同紙の記述が誤りでないことを証明しており、さらに敵軍17人が一中国女性を輪姦したこと、南京の住宅が略奪されたこと、各国大使館・ 領事館も同様の運命にあったことを報告している。日本の検査員はまずティンパレーに電報を撤回するよう要求し、ティンパレーが拒絶すると、その電報を差し 押さえた。ティンパレーは電報のコピーをイギリス総領事館に提出し、以後、ふたたび同様のことがおこらないように厳重に交渉するよう求めた。
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                          23 恐怖の南京
                                                    民国27年〔1938〕1月23日
◇狂暴な敵の放火略奪いまだ止まず
◇外国人記者の視察を拒絶

【香 港22日午後9時発専電】上海通信。日本政府当局のスポークスマンは、昨日、外国人記者を招待した席で、南京での日本軍の暴行についてのノースチャイナ・ デイリーニューズの論評は、悪意のある誇大な内容であり、実証する術がなく、かつ日本軍の名誉を損なったと非難した。イギリスのマンチェスター・ガーディ アンの記者は、日本のスポークスマンと論争し、南京の暴行の情報はみな証明できると述べたが、スポークスマンは答えなかった。外国人記者は南京の状況につ いて引きつづき報告するよう求めたが、スポークスマンは応じなかった。また外国人記者は、外国人記者を南京に招待し視察させるよう求めたが、またも拒絶さ れた。上海駐在のニューヨーク・タイムズの記者は、郵便物が開封された形跡があるので、日本のスポークスマンに郵便物に対する検査を施行しているか否か質 問したところ、日本側もそれを認めた。

【中央社香港22日 電】南京通信。本年1月1日以後の南京の日本軍によるアメリカ国旗侮蔑事件は、全部で15回の多きに及んだ。毎回、アメリカの教会に侵入し、武力をもって 中国の少女を連れ去っている。アメリカとドイツの居留民の財産の損失が最大である。日本軍は略奪したうえ、家屋を焼きはらっている。イギリス人の財産の損 失はなお小さいが、イギリス商輯安仁公司は略奪され、公司が貯蔵していたすべての酒は飲みつくされてしまった。南京が日本軍によって占領されてからすでに 39日がたったが、なお多くの場所で大火が燃え続けており、恐怖の時期はなお過ぎ去っていない。すべての商業地区は廃墟となり、野犬が食物を探しに出歩い ているほか、人跡は絶えてない。難民区をのぞくと、全城はすでにもぬけの殻になっているといわれる。


ーーーーーーーーーーーーーーーー南京事件 陳光秀さんの証言ーーーーーーーーーーーーーーーー

 安倍総理は8月に「戦後70年の談話」を発表するという。そして、「(歴代政権が)重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権として70年を迎えてどう考えているのかという観点から談話を出したい」と述べた。過去の植民地支配と侵略についても「痛切な反省と心からのおわび」を表明した村山富市首相の戦後50年談話の文言をそのまま用いることに否定的な考えを明らかにしている。

 まさに不都合な歴史の修正につながるものではないかと心配である。
 下記は『南京大虐殺の現場へ』洞富雄・藤原彰・本多勝一編(朝日新聞社)から、「陳光秀さんの体験」と題された部分を抜粋したものである。第Ⅱ部現地調査の記録「五人の体験史」の部分を担当した編者の一人、本多勝一氏は、この時の南京取材で6人から聞き取りをしたが、そのうち5人の証言は法廷での「反対尋問」に耐えうる証言と判断し、「ここに報告します」と 書いている。「陳光秀さんの体験」を読んで、その意味がわかるような気がした。ただ、「見た」とか「聞いた」というような単純な証言ではなく、自分の家族 や親戚、また近所の人たちがおかれた状況や行動を細かく証言しているからである。こうした証言を個人的に創作することは極めて困難であろうし、創作の場 合、関係者にあたればすぐに創作の事実がわかってしまうからである。

 また、今見逃せないのが、イスラム国による後藤健二さんと湯川遥菜さんの殺害に関して、安倍総理が「テロリストたちを絶対に許さない」「その罪を償わさせる」「どれだけ時間がかかろうとも、国際社会と連携して犯人を追い詰め、法の裁きにかける強い決意だ」などと強気なコメントをしていることである。日本の植民地支配や侵略の事実には目を瞑り、こうしたコメントを発表することはいかがなものかと思う。

 イスラム国は、「日本政府へのメッセージ」ではっきりと安倍総理を名指しし、

日本政府へ。おまえたちは邪悪な有志国連合の愚かな参加国と同じように、われわれがアラー(神)の恵みによって権威と力を備え、おまえたちの血に飢えた軍隊を持つ「イスラム国」だということを理解していない。

アベよ、勝ち目のない戦いに参加するというおまえの無謀な決断のために、このナイフはケンジを殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺りくする。日本にとっての悪夢が始まるのだ。

と 言っていることなど、安倍総理は意に介さないようである。ふたりの殺害は残酷極まりない行為であるが、そこに至る過程を無視してよいものであろうか、と思 う。イスラム国に結集する人たちは、生まれときからテロリストだとでも言うのだろうか。私は、下記のような指摘を目にして、考えさせられ、過去の歴史を無 視して進もうとする安倍総理の「未来志向」とやらが、いよいよ危ない気がしてならないのである。

・第1次世界大戦後、イギリスとフランスが「サイクス・ピコ協定」によってアラブ地域を分割したことが、今も尾を引いている。イギリスやフランスの国益を反映させるかたちで、イスラム地域の実態にそぐわない秩序づくりをしたことが、こうしたテロを生む遠因といえる。


・第2次世界大戦後、欧米がパレスチナにおけるユダヤ人国家「イスラエル」の建設を支持したことは、アラブ人に様々な犠牲と混乱を強いることになった。


・全ては2003年の米ブッシュ政権のイラク攻撃から始まった。今イスラム国を統治しているのは、イラクのフセイン政権を支えた官僚のプロである。


・昨年、イスラエル軍がパレスチナ自治区を激しく空爆するとともに、ガザ地区へ侵攻した。名目はハマスやイスラム聖戦のロケット弾攻撃に対 する反撃であるというが、イスラエル軍は、F-16戦闘機やアパッチ攻撃ヘリなど、アメリカから最新兵器を導入し、圧倒的な戦力を利用して攻撃した。ガザ 地区のみで2158人以上の死者をもたらしたという。学校や病院まで爆撃し、子どもたちも多数犠牲になった。イスラエル人が一方的にハマスやイスラム聖戦 の暴力にさらされてきたのでやむを得ないとする考え方があるが、占領という暴力の中で、大勢のパレスチナ人が差別され殺害されてきた事実は無視されてい る。


・イスラエルは『武器密輸やテロのためのトンネルを破壊している』と主張してるが、実態は無差別で徹底的な破壊であった。ガザ東部のシュ ジャイヤ地区では、住民が退避しきれていないのに空爆や砲撃が繰り返され、何百軒もの家々が全壊した。瓦礫の下に遺体が埋まるという状況になった。最初か ら子供をターゲットにしたとしか思えない攻撃も繰り返された。そもそも東京23区の半分ほどの面積のガザは人の出入りが厳しく規制され、難民キャンプも飽 和状態。避難するにも避難する場所がないのだ。だから、大勢の人たちが死んだ。


・アフガンのタリバーンは遠くから見れば危険なイスラム原理主義かも知れないが、近くで個々を見れば飢えた孤児である。

 でも、安倍総理は、日本人ふたりがイスラム国に拘束され身代金を要求されている最中にイスラエルに行き、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦いに取り組む」とイスラエルとの連携を発表し、「イスラム国と戦う国々を支援する」と宣言した。そして、ふたりが殺害された後、海外では安倍総理の発言が 「Japan:We will never, never forgive' ISIS」などと繰り返し報道されている。そうした安倍総理の姿勢は、日本国憲法の精神に反するものであると思う。

  後藤健二氏も「対テロ戦争」などというような武力による解決など求めてはいなかったはずである。日本は、イスラム国空爆を繰り返すアメリカを中心とした有 志連合などに同調することなく、日本国憲法の精神に則り、毅然として平和的解決を追及するべきだと思う。それが、国際社会における日本の信頼を高め、中東 の親日的感情を取り戻すことにつながると思うのである。
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                          郊外農村での集団虐殺と強姦
                           ──陳光秀さんの体験──

 南京市から東へバスで30分ほどの許巷村(現在の西郷村)に、当時20歳(数え齢、以下同)の陳光秀さんは住んでいた。55~56歳だった農民の父をはじめとする家族は次の9人である。
 祖父(父系)・父・母・当人・弟(16)・兄夫婦・姪(メイ、兄夫婦の娘。7~8歳)・妹。
 ほかに姉もいたが、幼いうちから童養媳(トンャンシー)として近くの他家に嫁いでいた。

 この村へ日本兵が初めて現れたのは、旧暦11月8日(新暦12月10日)の夜明けである。陳光秀さんがまだ寝ていたとき、親戚の青年がかけこんできて叫んだ。──
 「二嬸(アーシェー)、二叔給打死丁!(アーシューケイタスーラ)(おばさん、おじさんが殺された!)」
  母がとびだしていった。光秀さんは寝台の下にかくれた。父は夜明け早々に農作業場へ牛の餌の草はこびに行っていたのだ。兄はこのときどこかへ出かけて留守 だった。光秀さんはずっとかくれていたので現場を見ることができなかったが、このとき次のような事件が起きたことを母から聞いた。

  父が草はこびに行った農作業場は、数軒ほど離れた家の近くにあり、脱穀などの収穫作業に主として使われていた。ここで両脇に草束をかかえた父が歩き出した ところへ、一人の日本兵が中国人の青年をつれて現れた。この兵隊は通信兵らしく、このとき電話線を取り扱っていたようだ。青年は24~25歳の顔見知り で、近くの村から徴発されて手伝わされているのだった。

  日本兵が父になにか日本語で言った。わからないので黙っていると、日本兵はいきなりピストルで撃った。弾が左腕の外側から斜めに内側へと貫通したので、父 は2~3歩よろめいてから尻もちをつくような格好になった。そこへさらに日本兵が近づいて突き倒し、胸を撃って即死させた。日本兵はそのまま行ってしまっ た。光秀さんの家に急を知らせた親戚の青年は、この農作業場のすぐそばの家の住人である。

 もう安全と知らされてから光秀さんが農作業場へ行ってみたとき、父はすでに柩に入れられていた。殺されたときの様子は、日本兵に徴発されてきた青年から母が聞いたものだった。

  こんなことでは安心して村にはいられないので、若い女性たちだけでもすぐに山へ避難することになった。光秀さんの家では、当人と妹と嫂(アニヨメ)が避難 する女性たちの群れに加わった。嫁いでいた姉も一緒だ。柩の父の姿はほんの一瞥(イチベツ)しただけのあわただしい出発だった。避難先の山までは、村か ら2時間あまり歩いた。

 ところがあくる日(12月11日 になって、妊娠していた嫂が産気づいた。避難した女性群のなかには村の産婆さんもいたので、光秀さんと姉も手伝って計4人で500メートルほど離れた場所 へ移った。ここで出産したのだが、当然ながら生まれたての赤ん坊は大声で泣く。日本兵が聞きつけて山にはいってくれば、村の若い女性たち全員に強姦や殺人 の被害がおよぶ。(このときの様子を語る光秀さんは、声を押しころしたヒソヒソ声で、のどにつかえるような苦しげな告白だった。)本当にかわいそうだった けれど、嬰児は殺すことにした。みんなが助かるためには、ほかにどうしようもなかった。そばにあった「この机より大きな石」(と光秀さんはお茶のセットを のせた小卓を示す)の下へ、頭から下向きに押し込んで息をとめた。そのまま上に小石を積みあげ、死体はすっかりかぶせて元の避難所へもどった。

  女性たちが山から村へ帰ったのは、日本軍の南京城占領の翌日にあたる14日である。留守中の12日ころ、光秀さんの兄は日本兵に徴発されてどこかへ連行さ れていた。あくる15日、村人たちは集まって、日本軍が村に現れたときの対応の方法を相談した。「歓迎大日本」と書いた旗をたてて迎えれば、家を焼かれな いし虐殺もされないという噂をきいていたので、その準備をした。

  許巷村は200戸ちかくあって、その多くは道路沿いに東西に細長い街村状に並んでいた。16日の午後、村はずれで見張りに出でていた親戚のおじが「日本軍 が来た!」と叫んで村に知らせた。かねて打ち合わせておいたとおり、村の男あたちは「歓迎大日本」の旗を何本もかかげ、村の道の両側に並んで出むかえた。 光秀さんは寝台の下にかくれ、その前に木の肥たご(糞尿を運ぶ桶)を置いた。農家ではこの肥たごを、夜はそのまま便所にしている。こうすれば少しでも兵隊 どもを遠ざけると思ったからである。2軒西どなりの家から逃げてきた「石」姓の童養媳(トンャンシー)も一緒に寝台の下へかくれた。

  外は騒然となっているが、かくれているので何が起きているのか分からない。しばらくすると、光秀さんの家の戸口の石にすわっていた通称「蘇老太(スーロー タイ)」という40歳くらいの女性が、一人の日本兵につかまって家の中へ連れこまれた。(「自分はもう年寄りだから大丈夫と彼女は油断していたのです。当 時は40歳ならもう年寄り、50歳なら死んでもいい齢(トシ)でした」と光秀さん。)2~3軒離れた家の蘇仁発の妻である。

  その日本兵は、光秀さんのかくれている寝台に蘇おばさんを押し倒した。日本兵の足と皮靴が見える。恐怖のあまり、蘇おばさんは声も出ないようだ。母親も室 内にいて、入口ちかくの寝台わきにかくれないでいたので、強姦は母の眼前で行われた。しかし42~43歳の母は白内障であまり見えなかった。寝台のきしむ 音だけを光秀さんは聞いた。

 日本兵が去っても、寝台の下の2人はそのままかくれていて、夜もそこに寝た。おじが「もう大丈夫」と知らせに来たのは翌日17日の朝だった。その間に村で行われた以下のような惨劇を、虐殺の奇跡的生存者をはじめ多くの村人からきいた。

  村人たちが、「歓迎大日本」の旗とともに出迎えたところへ到着した日本軍は、歓迎に応ずるどころか、その旗を奪って近くの積み草にさすと、男たちを並べて いろいろ検査した。帽子のあとなどをみて兵隊かどうか調べたらしいのだが、結局は兵役年齢に相当すると勝手に判定された若者が全部選ばれて100人くらい になり、そのなかに弟の陳光東(16)もいた。細長い村の中では比較的西の方の家の者が多かった。

 約100人のこの青年たちを、日本軍は少し離れた道路ぞいの田んぼに連行した。殺されるのではないかと老人たちが心配してあとをついていった。すると日本軍は、ブタやニワトリの徴発に応ずるようにと、それぞれの家へ追い返した。

  田んぼに連行された青年たちは、たがいに向きあってひざまずく格好で二列に並ばされた。この田んぼは陳家のもので、約0.8ムー(50平方メートル弱)の せまい面積だった。青年たちの列の一部は、L字状に道路ぎわの土手ぞいに並ばされた。そのまわりをとりかこんだ日本軍は、銃剣で一斉に刺殺した。死にきれ ず何度も刺され、「助けて!」と叫ぶ青年もいた。

 この集 団の中に、無傷で生きのびた例が一人だけいた。炭鉱労働者の崔義財である。青年らの列が一斉に刺されたとき、たまたま崔は刺されなかったのだが、刺された 他の青年らと一緒に倒れ、まわりの血しぶきを浴びたまま死んだふりをしていて気づかれなかったのだ。ほかに劉慶志と時先の2人は、刺されたけれど急所をは ずれていたため、あとで手当をして助かった。100人ほどのうち生存者はこの3人だけだが、いずれもこの数年内に老齢で亡くなった。

  集団虐殺が行われたのは午後4時ごろだった。午後5時ころになって「沈」の妻(35~36歳)は夫のことが心配になり、様子を見るため虐殺現場のそばの 「史」家へ行き、そこで惨劇を知らされた。夫も弟も殺されて、彼女は声をあげて泣きながら外へ出た。まだいた日本兵がこれを見付け、虐殺現場に近い池のそ ばへ連行し、強姦してから殺した。

 さきに陳光秀さんの寝台で強姦された蘇おばさんの家には、15~16歳になる童養娘(トンヤンシー)がいた。この少女は3人の日本兵につかまって、光秀さんの伯父(母の兄)・時魏官の家へ連行され、輪姦されて下腹部がはれあがり、ひどい出血でたてなくなった。

 光秀さんの嫂(アニヨメ)は、山中での不幸な出産事件のあと避難先から帰ったが、産後の病状が悪くて寝ていた。日本兵は彼女も強姦しようとしたが、下がそんな状態とわかってあきらめた。しかしこの嫂は一週間ほどのちに死んだ。

  光秀さんの母は9人の子供を産んでいたが、男の子ばかり4人が死に、育った5人のうち光東は最後の男の子だったので特にかわいがっていた。その光東も夫も 殺されたため、悲しみのあまり発狂状態になり、深夜に外へ出て大声で叫んだり、疲れると道ばたで寝てしまったりするようになった。頭にはれものもでき、翌 年の春死んだ。

 集団虐殺や強姦などで地獄絵と化した許巷 村は、これでは今後どうなるか見当もつかないので、若い女性はみんな避難することになった。あくる17日、光秀さんも妹をつれて、棲霞というところにアメ リカ人がつくった避難所へ、ほかの30人ほどの女性たちとともに行った。この日は光秀さんの誕生日(満19歳)であった。
 陳光秀さんは以上のような体験を語った。


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