-NO440~445
ーーーーーーーーーーーーーーラーベの日記 12月16日 南京事件ーーーーーーーーーーーーーー

 ジョン・ラーベは、「中国のシンドラー」と呼ばれ、南京事件当時、南 京安全区国際委員会の代表として、中国人を救うために東奔西走し奮闘した人物である。それまでドイツのジーメンス社・南京支社の責任者として、当時中国の 首都であった南京で、電話、発電機、医療機器などを提供し、毎日のように役所に出向いて注文を取っていたという。

 日本軍の南京爆撃が続 き、南京に直接戦闘行為が及ぶ可能性が大きくなってきた1937年11月19日、「国際委員会」が発足したと彼の日記にある。メンバーは南京に留まった鼓 楼病院のアメリカ人医師や金陵大学の教授たちであったという。そして、11月22日の会議で、彼はその委員会の代表に選ばれたと書いている。その日、国際 委員会は、非戦闘員の避難先を提供する一般市民安全区設置の電報を発したという。以降、彼の避難民を救うための東奔西走が始まるのである。

  下記は、そのラーベの日記、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)から、たった1日の内容を抜粋したものである。下記のように、彼は「いまや略奪だけではなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている」と書いている。また、「武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという」とも書いている。南京城陥落直後の状況が想像される。

 前日の12月15日の日記では、ロイター通信社のスミス氏の講演内容について触れているが、そこには、下記のような捕虜銃殺に関するスミス氏の目撃証言が含まれている。

 ”12 月15日、外国の記者団が上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合す るよう指示がありました。出発まで予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そこでわれわれが見たものは、広場で日 本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。順次引きたてられ、銃殺されました。ひざまづいて、後頭部から銃弾を撃ち込まれるのです。このような処 刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づかれ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったかのかはわかりません。”

 彼の日記を読み進めると、「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」などということが、常識的にはあり得ないことに思われる。また、下記の12月16日の文章には、「在南京日本大使館 福田篤泰様」 という文書が入っているが、そのほかにも彼の名前で、日本軍司令部、日本大使館、アメリカ大使館、イギリス大使館、ドイツ大使館、南京自治委員会などに 23の文書を発したようである。これらも、当時の状況を知るための重要な手がかりであると思う。ラーべは、日本と同盟関係にあったドイツの人でありナチ党 員であったというが、その彼の名前で、関係国の大使館や南京自治委員会に宛てた文書は、単なる個人の日記や回想などより、一層資料的価値があると思い、敢 えて「在南京日本大使館 福田篤泰様」という文書が入っている12月16日の部分を抜粋した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
12月16日
 朝、8時45分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。今日の9時から、「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
  いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。 いまや略奪だけではなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこ じ開けられ、荒らされた。福田氏にあてた次の手紙から、そのときの状況がおおよそうかがえる。ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、 我々が知ったごくわずかな例にすぎない。

 在南京日本大使館 福田篤泰様
 拝啓
  安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、その恐怖感はいまだに募る一方です。多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れ るあまり、米飯の支給を受けたくとも、近くの給食所にさえ行けないありさまです。そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大ぜいの人々に食料をいき わたらせることは、大変むずかしくなっています。給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分に集めることすらできませんでした。その結果、何千人もの避難民は 今朝、何も口にしていません。

 国際委員会の仲間が数人、 なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がたトラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。昨日は委員会のメンバー数人 が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。ここに日本兵の不法行為リストを同封します。(ただし、ここにはリストは掲載されていない)

 この状況が改善しない限り、いかなる通常の業務も不可能です。電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。


 ……私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。日本軍最高司令官が到着 すれば、街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。このままではもうどうに も耐えられません。よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じ ているからです。                                      敬具
                                                      代表 ジョン・ラーベ
                                           事務局長    ルイス・S・C・スマイス

  ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。中国人はだれひとり、家から出ようとしない! 私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れて いたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子どもが押しあいへしあいしていた。ひざまずいて、頭を地面にすりつけ、どうか庭に入れてください、とせがんで いる。この悲惨な光景は想像を絶する。

 菊池氏と車で下関 に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。手を貸したい 気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、40~45人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を 通じて我が社のドイツ人技術者こちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。

 たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。
  下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。挹江門は銃弾で粉々になっ ている。あたり一帯は文字通り死屍累々(シシルイルイ)だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間 の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。

 銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。

 晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が何人かいたのはたしかだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られたという。
  以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制労働にかり出されのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、 なんの理由もなくいきなり後ろから2発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まっていま私の目の前にあ る。

 いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこ ぐしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄 関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この3日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。

 女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげましあったりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という悪霊を追い払うことなのだ


ーーーーーーーーーーーーーーラーベの日記 12月17日 南京事件ーーーーーーーーーーーーーー

 下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョ・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)か ら、12月17日の記述を抜粋したものである。ラーベは友人たちから高く評価され、中国人たちからも聖人のように崇められたが、決して謙虚さを失うことの ない柔和な人物であったという。そのラーベが、女性を乱暴しようとする兵士などを見かけると、日頃の謙虚さや柔和さが信じられないくらい、激しい怒りを見 せたという。そして、そんな時ドイツ人であるラーベは、まるで水戸黄門の印籠のように、よくハーケンクロイツ(鉤十字。ナチ党の印)を利用したようであ る。下記にも「ナチ党のバッジを見せると…」というような記述があるが、いろいろな意味で考えさせられる。

 ラーベは1937年9月22日、その日記に「本日をもって私の戦争日記の始まりとする」 と書いている。その時点ですでに、アメリカ人やドイツ人の多くが南京を去り、裕福な中国人も避難しはじめていたという。でも、ラーベは自分のまわりで働く 従業員や使用人のことを考えると、どうしても南京を離れるわけにはいかないと考え、妻と離れて南京に留まることにしたようである。

 そして、毎日長文の「戦争日記」を書くのである。その大部分が、残念ながら日本軍の不当な指示や行いであり、日本兵の蛮行の記録であることを、我々はしっかり受け止めなければならないと思う。ウィキペディア(フリー百科事典)の「ジョン・ラーベ」に「一般的にこの日記は日本軍の南京における残虐行為を証言する内容を含むと誤解されているが…」などという文章があるが、日記を読めば、それが誤解であるとは思えない。

 また、「安全区は日本兵用の売春宿になった」というアメリカ人の言葉や「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ…」という文章は、今も議論の続く日本の「従軍慰安婦問題」を連想させる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
12月17日
 2人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのが見えたもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。

  塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼 病院へ運んだ。いま、庭には全部で約200人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれ かがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
 仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして、完全武装した2人の仲間といっしょに逃げていった。

  きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家に戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんかとっくに開いているじゃないか。 こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。

  クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいた とき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、中に乗っていた日本兵は、”We friend … you go!”(俺たち友だちね……さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。

  このときの日本兵は午後またやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。「『お客』を追っ払えない ときは、せめて受け取りをもらっておくように」すると、韓は本当にもらっておいたのだ。I thankk your present! Nippon Army,K.Sato."(プレゼントどうも! 日本軍 K・サトウ)

 ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!
  軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が30体転がっている(写真18)。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町を かたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。

  午後6時、庭にいる難民たちに筵(ムシロ)を60枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が4人、またしても塀をよじ登って入ってきた。3人はすぐに とっつかまえて追い返した。4人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出し た。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。

 アメリカ人 の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは「ドイツ人だぞ」あるいは「ヒトラー」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。きょう、日本 大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡 すと約束してくれた。私、スマイス、福井氏の3人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐに本部に戻るようにとのこと。行ってみる と、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。

 ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路244号。「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーベ

 日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官に、次のようにことづけた。「『市長』の地位にうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」 

ーーーーーーーーーーーー ラーベの日記 1938年1月26日 南京事件ーーーーーーーーーーーーー

下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)から、1938年1月26日の記述を抜粋したものである。

 ラーベの日記からの抜粋1回目、12月16日では、「武装解除した中国人兵士がまだ数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという」というような日本軍による国際法無視の処刑を、また、抜粋2回目の12月17日では「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ」というような強姦を中心とする日本兵の犯罪行為を見逃すことができないと思った。

 さらに、3回目となる今回の1938年1月26日では、凄まじい略奪の実態ととともに、「日本大使館の態度から、軍部のやり方をひどく恥じていることがずっと前からわかっているだけになおさらだ。なんとかしてもみ消そうとしている。南京の出入りを禁止しているのだって、要は南京の実態を世界に知られたくないからだ」という文章も、しっかり記憶にとどめたいと思ったのである。

 なぜなら、このところ日本では、南京大虐殺は「捏造だった」とか、「東京裁判によってでっち上げられた」とか、「非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった」というような主張が多くなっているからである。それは「南京の実態を世界に知られたくないからだ」というのと同類ではないかと思えるのである。

  ラーベの日記は、ラーベという個人が、ただ日々の出来事を日記に書きとめただけではない。その日記には、彼が南京安全区国際委員会の代表として、日本軍の 南京市民に対する指示や対応、また、日本兵の蛮行に関して、日本大使館をはじめ、様々な人とやりとりした事実や、その証拠ともいえる文書が含まれている。 そして彼は1937年9月22日、その日記に「本日をもって私の戦争日記の始まりとする」として書き始めているのである。間違いなく、南京事件に関する第一級の資料であると思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1月26日
  中国人兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってしまう。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。信じられない。 なんでもたいそうなお偉いさんがくるという話だ。こちらの軍隊ではなく、陸軍省直属の将校だとか。ぜひともこの混乱をおさめてもらわなければ。もう限界に きている。

 この間1人の若いアメリカ人が、日本の衛兵に つきそわれてやってきた。イギリス大使館に配属されているそうだ。英米合弁製材会社の膨大な在庫を日本軍に売りにきたという。この人から聞いたのだが、上 海からここへ来る途中、はじめの50マイルで出会った人間は全部でたった60人くらいだったという。いまだに大ぜい人が住んでいるのはもはや南京だけだと いっていた。上海と南京のあいだはどこも死に絶えたも同然だ、と。

  安全区を出て人気のない道を行く。どの家にもそのまま入っていける。ドアが軒並みこじ開けられているか、大きく開けっ放しになっているからだ。そして、く りかえしすさまじい破壊の結果を見せつけられる。なぜこんなに野蛮なのか、理解できない。思えばこれは実に衝撃的なことだ。

  いったい何のためにこれほどひどいことをするのだろう。ただただわけがわからない。日本大使館の態度から、軍部のやり方をひどく恥じていることがずっと前 からわかっているだけになおさらだ。なんとかしてもみ消そうとしている。南京の出入りを禁止しているのだって、要は南京の実態を世界に知られたくないから だ。だが、そんなことをしたところで、しょせん時間の問題だと思うがね。ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館に再び外交官をおくようになってから、何百通 もの手紙が上海へ送られているのだから。それには、ここの状況が克明に記されている。大使館が電報で報告しているのはいうまでもない。

  南京のなかで、安全区は人々が生活していることを感じさせる唯一の場所だ。ここの中心部にはつぎつぎと新しい露天ができている。朝早く、たいていまだ薄暗 いうちに、人々は手元残った品物を手あたりしだいに引きずってくる。まだ売り物になるもの。あるいは、なる、と思っているもの。そして、誰か買ってくれな いだろうか、ときょろきょろするのだ。食べもの以外のものに使える金をまだいくらかふとろこにしている人はいないだろうか、と。群集は押しあいへしあいし ながら、この露店の立ち並ぶ街、常設市を押し分けて進んでいく。貧困と窮乏の支配する市を。生活必需品や嗜好品──米、小麦粉、肉、塩、野菜、タバコ── のその時その時の相場で物価が決まる。

 我々はドイツをはじめ、アメリカやイギリスの各大使館に頼んで、なんとかして食糧をとりかえしてもらいたいと考えている。市内の倉庫にはまだ米や小麦粉があるはずなのだ。だが、日本軍の手に渡ってしまったので、取り戻せる見込みはきわめて少ない。

  我々の話を聞いた大使館の3人は、それはどうかな、という顔をして首を振った。たとえばまだ残っているとしても日本軍は引き渡さないだろう。それどころ か、なんとかしてこれ以上補給させまいとがんばるに違いない。われわれはかれらにとって目の上のこぶだからだ。厄介払いしたいにきまっている。一日一日と けむたい存在になっているのだ。そのうち、ぽいと上海に追い出されはしないかと、我々のほうでもひやひやしている。

 ジーメンス社洋行・中国本社のラーベあての手紙 1938年1月14日 於上海

 ラーベ様
 新聞の報道はむろんですが、なによりも奥様からお元気だと伺って安心しています。早くまた電話がつながって、仕事の件や資本、そのほか主要な設備状況などについて、報告していただけるようになるとよいのですが。

 それから、エッケルト氏よりパプロ社の南京の住宅と事務所の電気関係の設備を据えつけるよう頼まれました。できるかぎりこれらの建物の状態を調べて、氏にお知らせください。
 ラーベさんがそちらでどのくらい自由に動けるのか、なにぶんこちらでははっきりつかめません。けれども、折りをみてご報告くだされば、エッケルト氏ともども幸いに存じます。

 どうかお元気で過ごされるよう祈っております。
    ナチ式敬礼をもって
                       ジーメンス洋行             プロープスト、マイヤー


ーーーーーーーーーーーーーー松井石根 東京裁判 「権限への逃避」ーーーーーーーーーーーーー

 『「文明の裁きを」こえて 対日戦犯裁判読解の試み』牛村圭(中公叢書)に、東京裁判における松井石根に対する検察側の追及や代理裁判長の質問、およびそれらに対する松井の答弁の一部が引用されていた。下記である。

 私は、これを読んで正直驚いた。特に、すぐれた中国通として知られ、中支那方面軍司令官であった松井が「各軍隊の将兵の軍紀、風紀の直接責任者は、私ではないということを申したにすぎません」といい、「南京を攻略するに際して起こったすべての事件」の直接的責任は「師団長にあるのであります」といっていることを知ったからである。

 また同書の著者が 丸山眞男の「現代政治の思想と行動」(未来社)から

”第一線の司令官としての行動に付いてもまた『法規』と『権能』が防塞とされるので ある」(軍118)と記し、さらに、「自己にとつて不利な状況の時は何時でも法規に規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏 (Fachbeamte)になりすますことが出来るのである。〔軍120〕”

と言う文章を引いて、丸山が、この松井の答弁を”「権限への逃避」の好例だ”と主張していることを批判している。”はたして松井石根は自ら責任を取るという心境になれないまま専ら責任回避に終始したのだろうか”というのである。

 そして、松井が自ら「責任を回避せず」と明言している箇所を丸山が「中略」としたことはきわめて問題であるという。松井が、人の依頼に応じて揮毫する文字は常に「捨生取義殺身成仁」や「殺身為仁俯仰不愧天地」であり、自分は国家のために死ぬことや部下の身代わりになって死ぬことを少しも恐れてはいなかったという関係者の記述を引いている。

 また、東京裁判における

中支那方面軍司令官の職務は、上海派遣軍と第十軍の両軍の作戦を統一指揮すること に限られていた。なお、日本陸軍においては、将兵の軍紀・風紀の維持粛正の権限職務は師団長にある。その証拠に、これ迄将兵の不法行為を理由に問責された 方面軍司令官はもちろん軍司令官もいない。従って、中支那方面軍司令官であった松井には法律上の責任はない。

という弁護側の主張を評価しているが、裁判でその弁護側主張を押し通すことができなかったのは、松井自身による「責任は回避せず」という意味の、下記の

当時の方面軍司令官たる私は、両軍の作戦を統一指揮するべき職権は与えられておる のであります。従つて各部隊の軍紀、風紀を維持することについては、作戦上全然関係がないとは申されませんから、自然私がそれに容喙する権利はあるとは思 いますけれども、法律上私が軍紀、風紀の維持について具体的に各部隊に命令する権限はなかつたものと私は当時考え、今もそれを主張するのであります

という証言であったというわけである。にもかかわらず、丸山は松井の「責任は回避せず」という発言部分を故意に引用から省くという形で無視したと批判している。

 そして、松井は南京攻略時の最高指揮官として「道義上の責任」は回避しないが「法律上の責任」は直接の指揮官である師団長が負うべきものだと主張しているのであり、責任回避はしていないというのである。さらに、

”…松 井石根が「自らの道義上の責任は回避せず」と言明している箇所に対し、松井の人格を歪曲する削除を加えたのち、これは「権限への逃避」でありこのように日 本の旧指導者たちは「矮小」だったのだ、と丸山は指摘する。だが、速記録というテクストを虚心坦懐に読解して、そこに道義上の責任は決して回避せぬが日本 陸軍の法規ではこうなっている、と説明している、覚悟を決めた老将軍の姿を認める方が、はるかに自然な解釈に思える。松井石根被告への言及に際して丸山 は、引用資料に決定的削除を加え、予断と先入観を、恣意的と呼んでよい論証法を用いて押し通そうとした。このような論法につき、丸山は「道義上の責任」を 感じてしかるべきだろう。

とまで言っている。果たしてそうか。同書の著者のこの丸山批判に、私はとても違和感を感じた。丸山が”中略”としたのは赤字部分であるが、私には著者のいうような意味で、丸山が松井の「責任は回避せず」の部分を意図的に削除したとは思えない。丸山は「日本ファシズムの矮小性」を論じるにあたって、松井にも「権限への逃避」の証言があることを取り上げたのであり、松井個人の責任の取り方をテーマとして論じているのではないと考える。
 丸山の「軍国支配者の精神形態」には、

東京裁判の戦犯たちがほぼ共通に自己の無責任を主張する第二の論拠は、訴追されている事項が官制上の形式的権限の範囲には属さないということであった。弁護側の申し立てはこの点で実に見事に歩調を揃えていた”

とある。こういう問題意識で松井の証言を引いたのであり、”中略”とした部分は、ここでは、丸山の論証の外にあると考えるのである。
 丸山は「日本ファシズムの矮小性」で、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」について論じているが、それは、戦犯の自己弁解をえり分けていくと、その二つに行きつくというのであり、同書の著者のいう「道義上の責任」などは、丸山にとって論外なのではないか、と思う。

 そう言う意味で、同書の著者の批判に対して、丸山の下記の記述が心に残った。 

こ の問答をよく読むと、まるで検察官の属する国よりも、松井の祖国の方がヨリ近代的な「法のルール」(ルール・オブ・ロウ)が行われているいたかのような 錯覚が起つてくる。あの「上官の命は即ち朕が命なりと心得よ」という勅諭を ultima ratio とした「皇軍」の現地総司令官が、ここでは苟も法規を犯さざらんと兢々とし、直接権限外のことは部下に対しても希望を表明するにとどまる小心な属吏に変貌 しているのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   第2章 責任は回避せず──松井石根と南京事件

松井大将の「権限への逃避」

  「法廷が休憩となって退廷するときの彼は、病鶏がトヤにかえるように、飄々、そうろうとしてドアーの中に消える」と朝日新聞法廷記者に描かれ、裁判を傍聴 したGHQ外交局長ウィイリアム・J・シーボルトが「枯木のようにひからびて」いると形容した松井石根は、老齢に加えて病弱のため法廷を欠席することがし ばしばあった。個人反証段階でも病気ににより出廷が遅れ、証言台に立ったのは昭和22(1947)年11月24日である。担当弁護人マクマナスによる型通 りの宣誓口述書朗読ののち、ノーラン検察官の反対訊問を受けた。この反対訊問の一部を丸山眞男は以下のように引用している。(引用部分は丸山眞男が省略した部分は赤字で抜粋)

 ・・・

責任は回避せず
 
  そこで一つの疑問が浮かぶ。はたして松井石根は丸山眞男が引用部分で紹介する姿を反対訊問の際とり続けたか、換言すれば自ら責任をとる、という心境になれ ないまま専ら責任回避に終始したのだろうか、という疑問である。そこで速記録の該当個所にあたってみると、松井が自ら「責任は回避せず」と明言している箇 所があった。しかもその箇所は、丸山の前記引用の中では「(中略)」とされた部分なのである。以下該当箇所を引用してみることとしたい。

ノーラン検察官
 ちょっと前に、あなたは軍紀、風紀はあなたの部下の司令官の責任であるというようなことを言いましたね。

松井証人
 師団長の責任です。

ノーラン
  検察官 あなたは中支方面軍の司令官であったのではありませんか。

松井証人
 方面軍の司令官でありました。

ノーラン検察官
 そういたしますと、あなたはそれではその中支方面軍司令官の職というものは、あなたの麾下の部隊の軍紀、風紀の維持に対するところの権限を含んでいなかったということを言わんとしているのですか。

松井証人
 私は方面軍司令官として部下の各軍の作戦指揮権を与えられておりますけれども、その各軍の内部の軍隊の軍紀、風紀を直接監督する責任はもっておりませんでした。

ノーラン検察官
  しかしあなたの麾下の部隊において、軍紀、風紀が維持されるように監督するという権限はあつたのですね。

松井証人
 権限というよりも、むしろ義務というた方が正しいと思います。

ノーラン検察官
 それがとりもなおさず、南京入城後、あなたの部下の将校を参集せしめて、そうして軍紀、風紀の問題について、彼らに訓示した理由なのですね。 

松井証人
 さようです。

ノーラン検察官
 しかし、あなたはまさかあなたの当時占めておりましたところの司令官という 職務そのものの中に、軍紀、風紀を維持するところの権限が含まれてはいなかったと言おうとしているのではありますまいね。

松井証人
 私は方面軍の司令官として、部下を率いて南京を攻略するに際して起こったすべての事件に対して、責任を回避するものではありませんけれども、しかし各軍隊の将兵の軍紀、風紀の直接責任者は、私ではないということを申したにすぎません。

ノーラン検察官
 というのは、あなたの指揮する軍隊の中に軍司令官もあつたからというのですね。そうしてあなたはこれらの軍司令官を通じて軍紀・風紀に関するところの諸施策を行ったのですね。懲罰を行つたわけですね。

松井証人
 私自身、これを懲罰もしくは裁判する権利はないのであります。それは、軍司令官、師団長にあるのであります。

ノーラン検察官
 しかしあなたは、軍あるいは師団において軍法会議を開催することを命令することは、できたのですね。

松井証人
 命令すべき法規上の権利はありません。

ノーラン検察官
 それでは、あなたが南京において行われた暴行に対して厳罰をもつて報ゆるということを欲した、このため非常に努力したということを、どういうふうに説明しますか。そうしてさらに中支方面軍の司令官として罪を犯した者に──有罪な者には厳罰を与えるということを実現するために、あらゆる努力をした。こういうことをどういうふうに説明しますか。

松井証人
 全般の指揮官として、部下の軍司令官、師団長にそれぞれ希望するよりほか に、権限はありません。

ノーラン検察官
 しかし、軍を指揮するところの将官が、部下にその希望を表明する場合は、命令の形式をもって行うものと私は考えます
が……

松井証人
 その点は法規上かなり困難な問題であります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ・・・
 なお引用の冒頭でノーラン検察官が「ちょっと前に、あなたは……言いましたね」と指摘しているのは、松井が実際にこの訊問の少し前の箇所で次のように発言したことを指している。

松井証人

 元来軍紀、風紀の維持は師団長が最も重要な責任者であり、軍司令官はまたその上に これを監督して、みずからもつておる軍法会議によつて、それぞれ処分をするのであります。私はその上の……私の方面軍司令官は、そういう法律機関ももつて おりませず、憲兵隊のような検察に当たる人間ももつておりませんから、直接私に報告をしたということはないのでありますが、事実を私の参考のために通報し たというふうに、むしろ解釈した方が正しいと思います。〔320・14〕

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      運命の答弁

 翌11月25日にも、松井への反対訊問が続行された。当日劈頭、クレーマー代理裁判長(ウェッブ裁判長はオーストラリアへ一時帰国中)より、前日の訊問への補足質問があった。この補足質問は、松井の「責任論」を考察する上で決定的な重要性を持つものと思われる。

代理裁判
 あなたは〔ノーラン検察官〕が質問を継続されます前に、判事の一人として私 り質 問があります。証人、もしあなたが軍紀を維持することに関して命令を与える権限がなかつたというならば、このあなたの宣誓口供書の第9ページにあるところ のことを説明してください。第9ページの一番最後のところを私が詠みます。「17日、南京入城後初めて憲兵隊長よりこれを聴き、各部隊に命じて即時厳格な る調査と処罰なさしめたり」そこに書いてある条(クダリ)をどういうふうに説明しますか、証人。

松井証人
 部下の軍司令官及び各部隊長を集めて、軍紀、風紀を維持すべきを私の希望を伝えて、それに適当なる手段をとることを命令したのであります。

代理裁判長
 しかし私は、証人、あなたが昨日、証人自身としては命令を与える権限はなかつたと証言したように記憶しておりますが。

松井証人
 当時の方面軍司令官たる私は、両軍の作戦を統一指揮するべき職権は与えられておる のであります。従つて各部隊の軍紀、風紀を維持することについては、 作戦上全然関係がないとは申されませんから、自然私がそれに容喙する権利はあるとは 思いますけれども、法律上私が軍紀、風紀の維持について具体的に各部隊に命令する権限はなかつたものと私は当時考え、今もそれを主張するのであります。 〔321・1〕


 クレーマー代理裁判長は問う、松井が主張 するように方面軍司令官に軍紀・風紀の維持に関する命令を下す権限がないならば、その宣誓口供書に記された、非行風聞を耳にして各部隊に即時厳格なる調査 と処罰を命令したという事実と矛盾するのではないか、と。対する松井は、軍紀・風紀の維持は作戦と無関係ではないからそれに「容喙」した──そういった命令を出した──と答えた。この日終了した松井への反対訊問を重光はこう記した。

 法廷、松井部門は無事済んだ。松井の態度も検事ノーラン加奈陀(カナダ)代将の態度も好かつた。支那側は松井に寛大であつた。〔巣鴨303〕

 重光は「無事済んだ」と書いた。しかし実際のところの代理裁判長との問答こそ、法廷における松井にとつて決定的失点となったのであり、運命の答弁だった。

 論を進める前に、ここまでの引用箇所での松井の主張を整理しておきたい。方面軍司令官には配下の各軍(松井の場合は上海派遣軍と第十軍)を作戦指導する権限が与えられているものの、各軍内部の軍隊──つまり各師団──の軍紀・風紀を直接監督する権限はない。南京で 起きたとされる事に対して責任回避はしないが、軍紀・風紀違反者を処分しようとする際には、方面軍司令官としては部下の軍司令官・師団長に希望する以外に ない。松井にあったのは、風紀が維持されるように監督する義務のみだった。従ってこの軍紀・風紀の問題に関しての方面軍司令官の法規上の責任について論じ ることは、むずかしいと言える。


ーーーーーーーーーーーーーーーー日本軍の南京空襲ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 確定の難しい虐殺人数を別にすれば、国際的に、はほぼ議論の余地のない「南京大虐殺」が「日本を悪にしたい」中国やアメリカが仕組んだ「でっちあげ」だった、というような主張がネットに溢れ、日本国内でくり返されている。その中には、「虐殺を命令した命令書も、実行に当たったものも、それを裏付ける史料も、なにひとつ存在していないという」などと、日本の若者を惑わすようなものもある。歴史を偽って溝を深めるような、そんな動きを何とかしたいと思う。南京事件に関しては、日中以外の国にも多くの資料があるのである。下記は、「南京事件資料集」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から、南京大虐殺を暗示するような強引な南京空襲に関わる資料のごく一部を抜粋したものである。

 北京(北平)西南方向の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件・盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起きたのは、1937年(昭和12年)7月7日である。驚くのは、その翌月に、勅命に基づいて、軍令部総長から長谷川第三艦隊司令長官に「上海確保ニ関スル第三艦隊ヘノ指示」が発せられ、昭和12年8月14日午後7時には、長谷川第三艦隊司令長官が南京等空襲命令を発していることである。
 その「第三艦隊機密第607番電」には、

一、明朝黎明以後成ルヘク速ニ当方面ニ於テ使用得ル全航空兵力ヲ挙ゲテ敵空軍ヲ急襲ス。
二 攻撃目標
 第二空襲部隊               南京・廣徳・蘇州
 第三空襲部隊               南昌(臺北部隊)
 第四空襲部隊(第12戦隊・第22航空隊) 杭州            
 第8戦隊・第10戦隊・第1水雷戦隊航空機 虹橋

 とある。そして、1937年8月15日には、日本本土から海を越えた攻撃、「渡洋爆撃」が敢行されているのである。それは、7月12日軍令部策定の「作戦指導方針」・「時局局限の方針に則り差当り平津地域に陸軍兵力を進出迅速に第二十九軍の膺懲の目的を達す」という内容を「第三艦隊司令長官ノ意見具申」に沿う形で変更し、「支那第二十九軍ノ膺懲ナル第1目的ヲ削除シ、支那膺懲ナル第2目的ヲ作戦ノ単一目的トシ」た結果であった。
 あっという間の戦線の拡大である。それも、日本側の外交交渉軽視による戦線の拡大だったのではないかと思う。当初の「第二十九軍ノ膺懲」が、なぜ「支那膺懲」になるのかも考えさせられるのである。

 資料1は、そうした日本の爆撃に対する在南京五ヶ国外交代表による停止要求であるが、その中に、

”…いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側当局に適当な配慮を促すべきである”

というような重要な指摘がなされていることを見逃すことができない。

 資料2は、日本側が「軍事目的物以外には爆撃するつもりはない」といいながら、「日本軍の爆撃作戦は南京だけでなく、広州、漢口でも、その他の中国の都市において、非戦闘員を殺害する結果をもたらしていて、そのことはアメリカおよび他の国に、最も遺憾な印象をうみださざるをえないという事実は残る」との、ワシントンと南京アメリカ大使館のやりとりが示すような実態であった。

 資料3は「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」であるが、「無防備都市の空中爆撃」と表現されていること、また「全会一致で採択」されたことを忘れてはならないと思う。

 資料4は、爆撃の危険を感じて、あらゆるルートを通じて国際法遵守を懸命に働きかけ、努力したにもかかわらず、日本軍爆撃機によって撃沈された米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」からの電報である。

 資料5は、日本軍が外国船をも見境なく爆撃していたと考えざるを得ない、英国砲艦クリケット号とスカラブ号爆撃に関するやりとりである。
 これらは、いずれも東京裁判以前の文書であり、でっち上げなどできる文書ではないことは明らかだと思う。日本の戦争がどういうものであったのか、これらごく一部の資料からも窺えるのであり、直視する必要があるのではなかと思うのである。
 
資1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             1D<在南京五ヶ国外交代表による爆撃行為の停止要求>
                                              1937年8月29日

1、8月29日の午前中、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの外交代表から、私が東京のアメリカ大使へ以下のことを電報し、我々にかわって行動して欲しいという要請を在京の各国代表に伝えるよう求めてきた。 

2、在南京の五ヶ国の外交代表は、日本に対し、爆撃にさいしては、市中のおけるこれらの国民の居留区域や船舶停泊地は避けるようにすでに申し入れた。彼らはしかし別の側面からも同様な配慮が必要だと考えている。たとえば、8月26日夜、南京市の地域に行われた大規模
な 爆撃は、明らかに非戦闘員である外国人および中国人の生命や財産に対する危険を無視したものであった。それにともない、当外交代表は、いかなる国の政治的 首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側当局に適当な配慮を 促すべきである。

 ちょうど指定した限定区域の安全を保障 して欲しいという早期の申し入れを行った直前と直後に南京市が爆撃を受け、広い地域の建物が被害を受け、国立中央大学の職員が殺された。さらに平和な生活 をいとなんでいた中国人の貧民街の一角を炎上させ、さらに多数の焼死者を出した。
 こうした破壊と殺戮の現場は、外交官が直接行って見たものである。上記の外交代表の政府および国民は、日本と同様に中国とも友好関係にある。
 自分たちの公務を妨害を受けることなく遂行できる疑う余地のない権利、通常の人間の諸権利、およびこれらの友好関係にかんがみて、五ヶ国代表は爆撃行為の停止を要求する。爆撃は、かかげられた軍事目標にもかかわらず、現実的には教育や財産の無差別の破壊、および
民間人の死傷、苦痛に満ちた死につながる。

資2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                4D 南京の爆撃について
                    ──日本大使館参事官の国務省訪問

                     海軍電報
                     発信:ワシントン
                     受信:南京 1937年9月28日午後7時30分
                     グレイ電
                     南京アメリカ大使館宛
                     第269電 9月27日午後7時
  9月25日に日本大使館の参事官が他の用件で国務省の係官を訪れた際、むこうから進んで、南京爆撃のもくろみに関する日本海軍司令長官(在上海)の通告に 言及した。その参事官がいうことには、「日本の海軍および陸軍当局は、軍事目的物以外には爆撃するつもりはない」とのことだった。

 これに対して、当方から次のようなコメントを行った。
「我々 は日本政府から、その種の保証をを何度も受け取っているが、実際には、日本軍の爆撃作戦は南京だけでなく、広州、漢口でも、その他の中国の都市において、 非戦闘員を殺害する結果をもたらしていて、そのことはアメリカおよび他の国に、最も遺憾な印象をうみださざるをえないという事実は残る。」
 
  いっぽう、参事官は「いうまでもなく、南京には城壁の内外に、多数の中国軍要塞や兵団があるからである」と言った。これに対して、「その場合でも、南京に は性格上非軍事的な区域が広大にあり、日本軍の空襲は、そうした区域の非戦闘員を殺害している」と、さらにコメントを与えた。そしてもう一度、「非戦闘員 に対する爆撃の事実は、遺憾であり、最も不幸な印象をもたらしている」と警告を繰り返した。
                                     ハル(Cordell Hull)
資3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                6 都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議
                  (国際連盟・日中問題諮問委員会で採択された対日非難決議案を、
                  1937年9月28日の国際連盟総会において全会一致で採択)
  諮問委員会は、日本航空機に依る支那に於ける無防備都市の空中爆撃の問題を緊急考慮し、かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる 生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤との念を生ぜしめたるかかる行動に対しては何ら弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を 厳粛に非難す。
・本資料に限り、外務省編纂『日本外交年表並主要文書  下』(1955年)、370ページから引用した。
資4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                9D <日本軍へパナイ号の位置を報せたし>
                        MEO    平文電報   
                        発信:南京 海軍無線局経由
                        受信:1937年12月12日午前4時00分
  ワシントン国務長官宛
  第1040号、12月12日午前7時(電文からすると午前9時以降になるはず、誤記か─訳者)
  大使館電報第1035号(12月11日午後5時発信)参照
  1、本日午前9時の砲火のため、パナイ号はさらに上流への移動を余儀なくされ、同艦は現在、南京上流27マイル、呉淞から上流221マイル地点に投錨して いる。付近にはスタンダード石油会社のタンカー美平(メイピン)、美安(メイアン)、美峡(メイシア)号も投錨している。
 
  2、当大使館からとして、どうか日本の大使館に対してパナイ号とアメリカ商船の現在位置を知らせ、日本部隊に適切な訓令がでるように要請してほしい。飛行 機および本艦の直面するかもしれない状況のため、パナイ号はふたたび上流へ移動せざるをえなくなるだろう。しかし、南京に残っているアメリカ人との連絡を 回復するため、また当大使館が早急に地上での業務を回復するために、パナイ号はできるだけ早く下流へ、あるいは南京へ戻ることを考えている。

 アメリカ大使館は、関係当局すべてがこの計画を促進するために適切な措置を講じてくれることを望んでいると述べてほしい。

 3、上海へ送信、漢口、北平は在東京大使館が日本の外務省へ伝達するようにとの要請を付して東京へ転電してほしい。
                                   大使に代わって   アチソン
資料5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 10D <クリケット号とスカラブ号爆撃される>

                        発信:揚子江警備隊司令官
                        受信:1937年12月12日午後5時54分

  sms…本電報は他に伝達する前に言い方を変えよ。
  作戦:CINCAF(中国駐留米軍総司令官)
 第0013号、護衛船をともなった英国砲艦クリケット号とスカラブ号は、南京上流12マイルの地点で午後3回にわたって空襲される。18発の爆弾が落とされる。1発が商船に命中したほかは命中弾なし。2隻の砲艦とも攻撃してくる飛行機に対して発砲した。2112。 
  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー南京安全区 NO1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 今回は、「南京安全区国際委員会より日本当局へのメッセージ」と「南京市民に告げる書」および「南京日本大使館宛書簡」のいくつかを「南京事件資料集 (1)アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から抜粋した。

 先だって、中国政府が南京事件と慰安婦問題に関する資料を、ユネスコの記憶遺産に登録するよう申請したという。それに対し、菅義偉官房長官は記者会見で、「事実関係を確認中だ。仮に中国が政治的意図を持ってこの案件についての申請をしたと判断されれば、抗議の上、取り下げるように政府として申し上げたい」と述べたことが報道された。その後日本では、「歴史認識をめぐる日本の名誉を回復するために、中国による記憶遺産への申請に強く抗議するとともに、日本政府に対して、登録阻止に向けて全力を尽くすよう要望する」署名活動の呼びかけがなされている。そして、日中の溝は深まる一方なのである。

 まもなく、戦後70年にもなるというのに、なぜ、このようなことで日中の溝が深まるのか。私はやはり、安倍首相の「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」 などという政治姿勢が問題なのだと思う。安倍首相は、中国が容認出来ないとしている靖国神社に参拝するのみならず、閣議で集団的自衛権の行使容認を決定し たり、特定秘密保護法を成立させたり、日米同盟の強化を進めながら、新たな防衛大綱と中期防衛力整備計画に基づいて、最近まで減額が続いていた防衛予算を 増額した。そして、口では河野談話や村山談話を継承するといいながら、現実には中国を突き放し、その精神と逆行するような道を進んでいると思う。

 たとえば、自虐史観の呪縛解くとして、近現代史の教科書記述で近隣アジア諸国への配慮を求めた「近隣諸国条項」を撤廃するという取り組みなども、そのひとつであると思う。また、南京事件や従軍慰安婦の教科書記述に対する姿勢も、河野談話や村山談話の精神に反するもののように思う。
 さらに首相は衆院予算委員会で「初等中等の段階で自分のアイデンティティーに誇りや自信を持つのは基本だ」と答弁し、使用する教科書を地区ごとに選ぶ教科書採択制度についても「採択結果が一部の教科書に偏っている。教育的な視点で採択されているかも見ていく必要がある」といって、制度改革の必要性を強調したりしている。「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう」にすることに異論はいが、だからといって、歴史を修正したり、歪曲したり、捏造したりしてよいということにはならない。また、安倍政権のそうした姿勢は教科書の国家統制強化につながるものではないかと思う。

 安倍政権のもと、日本国内では「南京大虐殺は捏造だった」とか「南京大虐殺は中国やアメリカのでっち上げ」というような声が日増しに大きくなっているように感じるが、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした敗戦国日本のそうした声を、国際社会が受け入れるとは思えない。

 下記の資料1と2は、南京事件当時の南京安全区(難民区)設定に関わるものである。1937年も12月にはいると、南京の一般住民に危険が及び、安全区を設定しなければ、一般住民を守ることができない状況になりつつあったことがわかる。
 資料3~6は、いずれも南京に入った日本軍兵士の蛮行に関する、南京日本大使館宛書簡である。安全区内の外国人にも被害が及んでいることがわかる。これに類する資料がアメリカにも多数存在し、その一部が「南京事件資料集 (1)アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)に訳出されている。

 その一部を読んだだけで、当時の南京において、”非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった”などという日本の主張が、国際的に受け入れられるものではないことがわかる。
 安全区を管理運営していた外国人による「日本軍兵士の虐殺・強姦・略奪・暴行などの事件」に関する記録が、”中国人の一方的な訴えを書き記しただけものである”とか”伝聞であり証拠がない”などといった批判は、とても国際的理解を得られるとは思えない。中国人同様、南京に留まった外国人も危険の渦中にあって、自らも被害を受けつつ、南京日本大使館にくり返し訴えていたことが読みとれるからである。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        72D <南京安全区国際委員会より日本当局へのメッセージ>
                            海軍無線  平文電報 EA
                            発信:南京
                            受信:1937年12月7日午前9時

  南京安全区
  上海総領事、ワシントン、国務長官
  漢口・北平米大使館宛
 12月6日午後2時。12月4日午後6時の貴電、南京安全区に関して。
 国際委員会からの以下のメッセージを、大使館に代わって早急に日本大使に伝えてください。
 1、国際委員会は日本当局からの返答を受け取り、指摘されているのと全く同じことを注意している。中国当局はすでに、区内の軍事施設や用具を撤去しつつある。そこで委員会は安全区の境界に、白地に丸赤十字(赤十字を丸で囲んだもので、円は安全区を意味する)の旗をつけて、境界表示とする作業を進めている。 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                73B <南京市民に告げる書>

 先の上海戦争(第二次上海事件)の時に、国際委員会は中日双方の当局に建議して、南市の一区域に民間人の安全区を設立いたしました。
 同区域については双方の賛同が得られました。中国当局は、中国の軍隊が指定された区域に進入しないことを受け入れました。同区域への駐兵がないために、日本側もその地区を再び攻めることはしないと同意いたしました。
 この協定は双方とも遵守いたしました。同区域外の南市の地域では、恐怖と破壊に見舞われましたが、同難民区はそれをのがれただけでなく、また何千何万という生命を救ったのです。

 現在、南京の国際委員会も本市に同様な区域を設定すべく建議いたしました。この区域の境界は以下のとおりです。
  「東側の境界は中山北路を新街口から山西路広場まで。北側の境界は山西路広場から同路に沿って西へ西康路まで、(すなわち新住宅区の西南境界の路)。西側 の境界は西康路に沿って南へ漢口路との交差点まで(すなわち新住宅区の西南の隅)、そこから南東方向へ上海路と漢口路(漢中路の誤り─訳者)の交差点まで 直線で結んだところ。南側の境界は漢中路と上海路の交差点から出発地点の新街口まで。」

 この区域の境界まではすべて旗を使って目印がしてあります。旗には赤十字のマークが描いてありますが、それ以外にも赤丸のマークのもあります。さらにまた、旗には「難民区」の三文字が書いてあります。

 上述の区域を民間人のための安全の場所とするために、防衛軍司令長官は、本区域内の兵士および軍事施設を一律に速やかに撤去し、以後いっさい軍人を本区に入れないことを承諾いたしました。

  日本は一方では「指定された区域に対して爆撃しないと請け負うことはすこぶる困難であると」と言いながら、また一方では「日本軍は軍事施設がなく、軍事用 工事・建設がなく、駐屯兵がおらず、さらに軍事的利用地でないような場所に対してはすべて、爆撃する意図をけっして持っていない、それは当然のことであ る」と述べています。
 以上のような中日双方の承諾に鑑みて、われわれは指定された区域内にいれば、民間人は真に安全であるという希望を持っています。

  しかしながら、戦時下にあっては、何人といえども、その安全を保証することができないのは、当然です。それどもわれわれは、もし中日双方が共に彼らが承諾 したことを遵守すれば、この区域内の人民は他のところの人民にくらべて、ずっと安全であることは間違いないと、信じています。したがって市民の皆さん、本 難民区へおいでになってはいかがでしょうか!
                                    南京難民区国際委員会
                                    民国26年1937年12月8日
    ・原文は中国語のビラ。
資3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          76B 南京日本大使館宛書簡
                   ──1937年12月16日
                                 金陵大学、南京
                                 1937年12月16日 
  南京日本大使館諸賢

 拝啓
  貴大使館に隣接する本大学財産に関する秩序および一般的厚生の諸問題について、非公式に伝えさせてください。私たちはみな、帝国陸軍は一般市民に傷害を与 えることを望まないとの日本当局の公式声明を聞いて、貴当局の満足するどのような政府の下であろうとも、平和的生活への復帰に何も困難はないと願っていま す。しかし今現在、民衆の苦難と恐怖は非常に大きいのです。以下の諸事件は、貴館に近いわが大学所有地からの報告で、その他の多くは付近の大学病院、中学 および農村教師養成学校で発生したものです。

(1)12月14日。兵士らは、わが農業経済系敷地(小桃園)の門上の米国旗と米大使館の正式掲示を引き裂き、そこに居住する教師、助手数人から強奪し、鍵のかかっているドア数個を破った。
(2)12月15日。上述の場所に兵士らが数回来て、安全を求めてきていた避難民の金や物品を盗み、婦女子複数を連れ去った。
(3)12 月15日。本学新図書館では1500人の一般人を世話しているが、婦女4名がその場で強姦され、2名が連行されて強姦後に釈放された。3名は連行されたま ま戻らず、1名は連れていかれたが大使館近くの貴軍憲兵によって釈放された。彼ら兵士の行いは、被害者の家族、隣
人 および市内のこの地区すべての中国人に苦痛と恐怖とをもたらした。今朝、私は安全区内の他の地区で百以上も同様の事件が起きている旨の報告を受けた。学外 の件については今私の関係するものではありませんが、ただ貴館に隣接する本学での上記の問題が、兵士による強奪と強姦という民衆の大きな苦難のごとく一例 にすぎないのを示すために言及したのです。

 私たちは軍隊 の規律が回復することを切望します。いまや食料を得ることも恐れるくらい人々の恐怖は大きく、通常の生活と仕事は不可能となっています。私たちは貴当局 が、同じ場所に1日10回も進入してありとあらゆる食料・金銭を盗むゴロツキ兵隊によってではなく、将校の直接の指揮下に適切な検察が体系的に実行される べく手配されるよう、謹んで勧告申し上げます。そして第二に、日本軍および日本帝国の名声のために、日本当局と中国一般人の良好な関係のために、そして貴 下自身の妻と子女のことを考慮して、南京の人々を兵士の暴行から保護されることを勧告申し上げます。

 中国軍の無秩序と敗北は日本軍が人々の信頼を獲得できる好機であったのですが、その機会が普通の人間的幸福と道義への無関心またはその遅れによって失われるとしたら、関わる人々すべてにとって不幸なことになると思われます。
                                              敬具
                                    金陵大学緊急委員会委員長
資4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        77B 南京日本大使館宛書簡
                   ──1937年12月16日
                                 金陵大学、南京
                                 1937年12月16日
 南京日本大使館諸賢

 拝啓
 今朝貴館に手交した手紙の第2項に関して簡単な注を付けさせてください。
  昨晩、本学の農業経済系の建物(小桃園)に何度も多人数で侵入した兵士によって30人の婦人が強姦された。私たちは貴軍が軍事的優越性を示したからには道 徳的にも優越性を示すだろうと信ずるものです。これら何万という平和的市民の生命および身体の安全が早急に必要となっているのです。

  本大学は安全区にあるので、地区の諸条件、諸問題の影響を受けています。安全区の目的と活動を理解する友好的な将校もいますが、粗暴で疑い深い者もいるよ うに思われます。そこで国際委員会の活動は当初から全くオープンであることを、明確にしておきましょう。事務局および建物はいずれも毎日の検査に対して オープンです。委員会は、将来、正常の状態が回復されれば喜んでその人道上の責任を返上するでしょう。その間、委員会は、戦争のため家から追われ、かつ非 常な恐怖のなかに暮らしている人々に対し、食料と住居を供給しようと非常な困難の下で努力してきただけです。
資5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          78B 南京日本大使館宛書簡
                     ──1937年12月17日
                                   南京、莫愁路65号
                                   1937年12月17日
 南京日本大使館諸賢

 拝啓
 本日H・L・ソーン氏と一緒に米国大使館に来たところ、ちょうど日本軍兵士が大使館の車庫から車両複数を取ろうとしているのに遭遇しました。貴軍当局はかかる行為を直ちに静止しようと欲すると確信しますので、取り急ぎこの件を貴下に通知します。
                                                    敬具
                                               W・P・ミルズ
資6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          79B 南京日本大使館宛書簡
                     ──1937年12月17日
                                         1937年12月17日
南京日本大使館諸賢

 拝啓
 恐怖と暴虐の支配は、貴館からはっきりと見えるところで、貴館の近隣で、今なお引き続いています。
(1) 昨晩、兵士は多数の避難民でいっぱいの本学図書館に繰り返し侵入し、銃剣を突きつけて金銭、時計そして婦女子を要求した。もし時計や金銭を持たないと── それは通常、その前2日間、数回にわたって略奪されたことによるものだが──、兵士は近くの窓を割り、その中に彼らを乱暴に押しやるのだった。われわれの 教職員一人がこのようにして銃剣で傷つけられた。
(2)昨晩、市内のこの地区の他の多くの場所と同様に、兵士は図書館で婦女数名を強姦した。
(3)昨晩、国旗と大使館の掲示を付した本学のいくつかの米国人所有の住居が、徘徊する兵士のグループによって不法に侵入され、うち数軒は数度に及んだ。これらの住居には、3人の本学教員の住んでいるものも含まれる。
 
 これらは多くの南京住民に起きていることのほんの少しの例にすぎませんが、私たちは、それを、中国人民の福祉に関心を抱き、外国人の財産を保護する旨の貴国政府の公式声明と比較されることを請求するものです。

  私たちは個人的なことを強調しようというものではありませんが、ただ無統制の兵士の野蛮な放埒の程度を示すため、他に2つの事件に言及しておきます。昨 日、本学の一アメリカ人教員が一将校および兵士らにより、事実無根の理由で──将校は調べもせずに──殴打されました。さらに同夜、別の一アメリカ人と私 自身が銃を持った酔った兵士によってベッドから引きずり出されました。

 この手紙は本大学の特別保護を求めたわけではなく、大学が貴館から近いことから、平和的住民全体にいかに危険が切迫しているかを強調するために記したものです。
  私たちは、日本軍は立派な行動を維持し、そして被占領住民に良好な秩序のもとで生き、働く機会を与える力と能率とを持っていると信じるものです。私たちは 貴軍がなぜそうされないのか、これ以上地元住民に、そして日本の評判を損なう前になぜそうされないのか、理解に苦しむものです。
                                           敬具
                            金陵大学緊急委員会委員長 
    

記事一覧表へリンク 



inserted by FC2 system