-NO435~
ーーーーーーーーーーーーーーーー松井石根 「支那事変日誌」南京攻略ーーーーーーーーーーーーー

 南京大虐殺は、現在に生きる私たちには信じがたい事件である。しかしながら、 その事件には多くの記録や証言がある。それらを全て虚偽として、頭から否定することは許されないと思う。だから、南京事件当時の、現地最高司令官・松井石根の「支那事変日誌」から南京攻略に関わる部分を抜粋し、考えさせられたところをまとめておきたい。

 下記「二、詔勅拝受並奉答」にあるように「上海派遣軍司令官ノ大命ヲ拝シ」た松井石根の任務は、「上海附近ノ敵軍ヲ掃蕩シ、其西方要地ヲ占領シテ上海居留民ノ生命ヲ保護スルニアリ」である。したがって、「上海居留民ノ生命ヲ保護スル」ことが可能な状況になった時点で、それを維持し持続できるように外交交渉なども含めてあらゆる手を打つことが彼の任務だったと思う。

 でも、彼はそれを消極的という。そして、「上海附近ノ支那官民ハ、・・・到ル処我軍ニ対シ強キ敵愾心ヲ抱キ」として、さらに、敵愾心を煽るような行動に出る。「斯 クテ上海附近ノ我居留民ヲ保護セントスル当初ノ消極的方針ハ容易ニ之ヲ達成スルコト難ク、速ニ我陸海兵力ヲ増強シテ江南附近一帯ヲ掃蕩スルニ非サレハ、我 軍派遣ノ目的ヲ達成スルコト能ハサルニ至リ、自然作戦ハ漸次ニ其局面ヲ展開シ、遂ニ第十軍ノ派遣トナリ、更ニ上海方面軍ノ編組トナリ、進テ敵ヲ江南以西ニ 駆逐スルノ必要ヲ認メ、遂ニ南京攻略ニ進展スルニ至レリ」というのである。こうした考え方で軍を進めれば、極端なことを言えば、中国全土を支配下に置き、中国軍を完全武装解除しないかぎり、いつ反撃されるかわからないので、戦争を終結させることはできない、ということにならざるを得ない。

 次に、彼の「軍紀風紀」に対する考え方である。彼は、「我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ懇切ナル訓示ヲ与ヘタリ」といっているように、「軍紀風紀」に相当気をつかっていたようである。しかしながら、「軍紀風紀」は「訓示」だけで徹底できるようなものではなかったと思う。補給を無視した作戦こそが問題なのだと思うのである。
 特に、上海派遣軍はその任務が限定的であったため、彼が指摘しているように「派遣軍ノ兵力モ第三、第十一師団(二聯隊欠)ノ二個師団弱ノ微弱ナルモノ」であり、その兵站部隊は南京まで軍を進めることのできる部隊ではなかった。そのため、南京攻略に際しては、糧秣(食糧や軍馬の飼料)は、ほとんど現地調達主義にならざるを得なかった。「糧食を適中に求む」とか「糧食を敵による」といわれる戦法をとらざるを得なかったのである。
 さらに、彼も認めているように「急劇迅速ナル追撃戦」は、「南京一番乗り」を目指して進撃した全ての部隊で「我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全」につながった。したがって、すべてではないにしても、多くの場合掠奪同然のかたちで食糧が確保されたのではなかったかと思う。だから、「我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ」たのであろう。
 『南京難民区の百日─虐殺を見た外国人』笠原十九司(岩波書店)には、こうして大集団で徴発=略奪をしていく日本の軍隊を、中国民衆は「蝗軍(コウグン)」と呼んだ」とある。「イナゴの大群は真っ黒な雨雲のように太陽を覆って飛来し、地上に降りるや草木一本も残さず食い尽くし、飛び去った跡は農作物は絶滅し、広大な畑地は荒涼地と化してしまう」ので、「皇軍」をイナゴの大群の「蝗軍」(中国語でも同じ発音のようである)に変えて誹り恐れたというのである。補給の軽視が、日本兵を野蛮にした側面は否定できないと思う。

 また、バネー号(パナイ号)事件やレディーバード号事件のとらえ方にも問題があると思う。彼は、 

尚本作戦間江陰附近ニ於ケル我海軍飛行機ノ米国軍艦バネー号爆撃及南京上流ニ於ケル我陸軍部隊(橋本砲兵聯隊)ノ英国軍艦及商船砲撃事件等ヲ惹起セルハ遺憾ナリシモ、コハ敗退スル敵軍ハ多ク英米等ノ艦船ヲ利用スルモノ尠カラサリシ事実ト追撃戦斗間避ク可カラサル我部隊ノ興奮トニ因リ其過誤ヲ招来スルニ至リタル次第ニテ…

という。でも、ほんとうに「過誤」なのか、また、「過誤」で すまされるのか、ということである。バネー号(パナイ号)は爆撃・砲撃を恐れて、くりかえしその所在を日本側に連絡していたし、予防措置をとるように依頼 もしていた。そして、どの角度からも見えるように星条旗をペンキで新しく上甲板の前と後の屋上に描いてもいたし、最大の軍艦旗も掲げていたというのに爆撃 したのである。当日は晴天であった。さらに、決定的なのは第十軍の柳川平助中将が発した下記「丁集団命令」である。

一、敵は10数隻の汽船に依り午後4時30分頃南京を発し上流に退却中なり、尚今後引き続き退却するものと判断せらる
二、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし

というものである。バネー号やレディーバード号のほかにも英国砲艦クリケット号やスカラブ号も日本の海軍機による爆撃を受け、応戦したという。やはり、

尚敗走セル支那兵カ其武装ヲ棄テ、所謂「便衣隊」トナリ、執拗ナル抵抗ヲ試ムルモノ尠カラサリシ為メ、我軍ノ之ニ対スル軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク、自然其一般良民ニ累ヲ及ホスモノ尠カラサリシヲ認ム

ということで、それをやむを得ないことと考える軍事行動が、英米人など外国人も巻き込むことになったのではなかったか、と思うのである。しかしながら、「軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク」ということで、抵抗する兵のみではなく、武器を捨て敗走する兵や一般民、外国人も含めて攻撃対象とするようなことは、国際法違反であり、許されないことだと思う。そうした考え方も、南京大虐殺の背景のひとつになったのではないか、と考えさせられた。

 下記は、『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)から、松井石根(当時の現地最高司令官)の「支那事変日誌」の南京攻略に関わる部分を抜粋したものである。 
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                      松井大将「支那事変日誌抜粋」

一、大命拝受
 昭和12年8月富士山中静養中、同月14日陸軍大臣ノ召電ヲ受ク、上京、翌15日宮中ニ於テ上海派遣軍司令官親補ノ勅ヲ拝ス。翌16日、参謀総長ヨリ派遣軍ニ関スル奉勅命令并参謀総長ノ指示ヲ受ク。
 即派遣軍ノ任務ハ
  上海附近ノ敵軍ヲ掃蕩シ、其西方要地ヲ占領シテ上海居留民ノ生命ヲ保護スルニアリ。
  蓋シ当時ニ於ケル我政府ノ政策ハ、中支ハ勿論北支ニ於テモ努メテ時局ヲ局地的ニ解決シ、事件ノ不拡大ヲ根本主義トセルヲ以テ、上海附近ニ於テモ可成昭和7 年列国ノ間ニ協定セル(1932年)停戦協定ノ精神并其取極ニ遵ヒ、時局ノ一時的解決ヲ企図セシモノナリ。従テ派遣軍ノ任務ハ上記ノ如ク極メテ消極的ニ上 海附近ノ防衛ト我居留民ノ消極的保護ヲ其目的トシ、派遣軍ノ兵力モ第三、第十一師団(二聯隊欠)ノ二個師団弱ノ微弱ナルモノナリシナリ。

二、詔勅拝受並奉答

 8月17日午前10:00、予ハ宮中ニ於テ謁ヲ賜ヒ、左ノ勅語ヲ拝ス。
  朕卿ニ委スルニ上海派遣軍ノ統率ヲ以テス。宜シク宇内ノ大勢ニ鑑ミ速ニ敵軍ヲ戡定シ、皇軍ノ威武ヲ中外ニ顕揚シ以テ朕ノ倚信ニ応ヘヨ。
仍テ左ノ如ク奉答ス。
上海派遣軍司令官ノ大命ヲ拝シ優渥ナル勅語ヲ賜ヒ恐懼感激ノ至ニ堪ヘス、畏ミテ聖旨奉戴シ、惟レ仁惟レ威克ク皇軍ノ本領ヲ発揮宣揚シ、以テ宸襟ヲ安シ奉ラムコトヲ期ス。
 次テ陛下ヨリ、今後派遣軍ノ任務ヲ達成スル為ノ方針如何、ト御下問アリタルニ依リ予ハ直ニ
 派遣軍ハ其任務上密接ニ我海軍ト協同シ、所在我官憲特ニ列国外交団并列国軍トノ連絡ヲ密ニシ協力ヲ以テ速ニ上海附近ノ治安ヲ恢復センコトヲ期ス。
ト奉答セルニ、陛下ハ御満足気ニ之ヲ嘉納セラレタリ。


三、上海附近ノ戦斗ノ経緯
 以上ノ我政府及統率部ノ方針ニ遵ヒ、予ハ上海附近ノ戦斗ニ際シ特ニ左記方針ヲ採リ、部下各隊ニ対シテモ常時此方針ノ徹底ニ努力セリ。即
一、上海附近ノ戦斗ハ専ラ我ニ挑戦スル敵軍ノ戡定ヲ旨トシ、所在支那官民ニ対シテハ努メテ之ヲ宣撫愛護ス可キコト
二、上海附近ノ戦斗ニ依リ、列国居留民及其軍隊ニ累ヲ及ホサゝルコトニ専念シ、特ニ列国官憲及其軍隊ト連絡ヲ密接ニシ彼我ノ誤解ナキヲ期スルコト。
 然ルニ上海附近ノ支那官民ハ蒋介石多年ノ抗日ノ精神相当ニ徹底セルニヤ、到ル処我軍ニ対シ強キ敵愾心ヲ抱キ、直接間接居留民ガ敵軍ノ為メニ我軍ニ不利ナル諸般ノ行動ニ出テタルノ ミナラス婦女子スラモ自ラ義勇軍要員トナリ又ハ密偵的任務ニ当レルモノアリ、自然作戦地域ハ極メテ一般ニ不安ナル状勢ニ陥リ、我作戦ノ進捗ヲ阻害セシコト 尠カラス。殊ニ蒋介石ハ漸次支那各地ヨリ其軍隊ヲ江南地方ニ集結シ、我軍ノ作戦初期ニ於テ之ヲ撃攘スルノ計画ヲ有セシ如ク、所在支那軍ハ屡々夜襲其他ノ方 法ヲ我軍ニ向ヒ攻勢ヲ採ルニ努メタリ。

 「因ニ9月17日頃ニ於ケル支那軍ノ江南地方ニ集中セル兵力ハ既ニ43師ニ及ヒ尚支那各地ヨリ約20師ヲ集結シツツアリタリ」(欄外)

  斯クテ上海附近ノ我居留民ヲ保護セントスル当初ノ消極的方針ハ容易ニ之ヲ達成スルコト難ク、速ニ我陸海兵力ヲ増強シテ江南附近一帯ヲ掃蕩スルニ非サレハ、 我軍派遣ノ目的ヲ達成スルコト能ハサルニ至リ、自然作戦ハ漸次ニ其局面ヲ展開シ、遂ニ第十軍ノ派遣トナリ、更ニ上海方面軍ノ編組トナリ、進テ敵ヲ江南以西 ニ駆逐スルノ必要ヲ認メ、遂ニ南京攻略ニ進展スルニ至レリ。

  而カモ最モ遺憾ナリシコトハ本作戦ニ対スル列国ノ態度ナリ。蓋シ支那ニ権益ヲ有スル列国カ本作戦ニ尠カラサル寒心ヲ有スルハ勿論ナリト雖彼等ハ1932年 (欄外)「昭和7年協定」ニ於ケル列国ノ停戦協定ヲ協力支持シテ事件ノ発展ヲ阻止スルノ方針ニ出テスシテ、支那政府及其軍隊ニ対シ同情ヲ有スルノ余リ直接 間接ニ支那軍ノ作戦ニ便宜ヲ与ヘ、時ニハ之ヲ援助スルノ行動モ尠カラス。殊ニ英、仏軍隊ノ行動ハ我軍ノ作戦ニ許多ノ不便ヲ与ヘタリ。而カモ我軍ハ隠忍只々 列国官憲及其軍隊トノ諒解ヲ得ルニ努メ、我作戦ヲシテ列国官民ニ被害ナカラシメン為メ、有ラユル不便ヲ忍ヒテ事態ノ国際的紛糾ヲ招クニ至ラサルコトヲ期シ タリ。

四、南京攻略ニ至ル作戦

  我軍ノ上海附近ノ作戦ハ派遣軍兵力ノ増派ニヨリ頑強ナル敵ノ抵抗ヲ排除シツヽ、多大ノ困難ト犠牲ヲ冒シテ10月25日漸ク大場鎮附近ノ敵ヲ駆逐シテ上海市 及其東南方地域ヲ占領シ、上海在住我居留民及海軍ヲ救フヲ得タリ。然レトモ上海西南地域ニハ尚相当ノ敵軍抵抗ヲ持続スルノミナラス、淅江省方面ヨリ新ニ其 兵力ヲ上海方面ニ派遣増強シツヽアリ、又蘇州、常熟附近ニハ予テ準備セル陣地アリ、南京トノ間ニ三重の陣地ヲ構築シテ江南地方ノ防備ヲ急キ、更ニ其兵力ヲ 増強シツヽアルノ模様ヲ以テ、我統率部ハ江南地方ヲ確守シテ同地方ノ治安ヲ保持スルノ必要ナルヲ認メ、遂ニ11月下旬ニ至リ上海方面軍ヲシテ南京攻略ヲ決 行スルニ決ス。

 曩ニ淅江省東北岸ニ上陸中ナリシ第十軍(柳川中将ノ率ユル三師団)及元上海派遣軍(朝香宮中将率ユル5個師団)ヲ上海方面軍司令官タル予ノ統率ニ属シ、11月上旬ヨリ江南及東淅地方ニ現在セル敵軍ヲ駆逐シテ南京ヲ攻略スルコトトナレリ。

  於此予ハ直ニ部下両軍ニ命令シ、各々当面ノ敵ヲ駆逐シテ南京東方紫金山ノ線ニ進出スルニ決シテ夫々追撃ヲ電署(ママ)セリ。然レトモ本作戦ハ固ヨリ我政府 本来ノ政策ヲ逸脱スルノミナラス、上海附近作戦ノ経緯ニ鑑ミ今後江南地方ニ於ケル大規模ナル作戦ノ実行カ、今後ニ於ケル日支両国ノ関係ニ大ナル影響ヲ及ホ スヘキヲ憂慮シ、右追撃命令ニ対シ充分ナル考慮ヲ払ヒ、特ニ我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ懇切ナル訓示ヲ与ヘタリ。本訓示中特ニ予自ラ加筆セル本文 左ノ如シ。

 敵軍ト雖既ニ抗戦意志ヲ失ヒタルモノニ対シテハ最モ寛容慈悲ノ態度ヲ採リ、尚一般官民ニ対シテハ常ニ之ヲ宣撫愛護スルニ努メ、皇軍一過所在官民ヲシテ皇軍ノ威徳ヲ仰キ、欣テ我ニ帰服セシムルノ概アルヲ要ス。

  加之南京攻撃戦ハ自然同地官民ニ許多ノ犠牲ヲ来タスヘク、尚孫中山陵、明ノ高陵其他南京城内外ノ文化的史跡等ノ損害ヲ招クコトアルヘキヲ慮リ、各軍ニ令シ テ先ツ南京城外ニ於テ其隊伍ヲ整ヘ正々堂々秩序アル入城ヲ行ハシメント欲シ、夫々懇切ナル論示ヲ与フルト共ニ、南京敵軍ニ対シ懇切ナル勧降文ヲ散布シ、努 メテ平和的手段ニ依リ南京攻略ノ目的ヲ達センコトヲ欲シタルモ敵軍ノ態度之ニ適ハス、飽迄南京城ノ防衛ヲ行ヒタルヲ以テ、遂ニ南京城内外ニ於テ相当熾烈ナ ル戦斗ヲ惹起シ、自然戦禍の及フ処甚大ナルニ至リシハ遺憾ノ至ナリ。

尚敗走セル支那兵カ其武装ヲ棄テ、所謂「便衣隊」トナリ、執拗ナル抵抗ヲ試ムルモノ尠カラサリシ為メ、我軍ノ之ニ対スル軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク、自然其一般良民ニ累ヲ及ホスモノ尠カラサリシヲ認ム。

五、我軍ノ暴行、奪掠事件

 上海附近作戦ノ経過ニ鑑ミ南京攻略開始ニ当リ、我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ、各部隊ニ対シ再三留意ヲ促セシコト前記ノ如シ。図ラサリキ、我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。
 是レ思フニ

一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。

等 ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。因テ予ハ南京入城翌日(12月17日)特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ叱責シテ善後ノ措置ヲ 要求シ、犯罪者ニ対シテハ厳格ナル処断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命セリ。然レドモ戦闘ノ混雑中惹起セル是等ノ不詳事件ヲ尽ク充分ニ処断シ能ハサリシ実情ハ巳ム ナキコトナリ。

 因ニ本件ニ関シ各部隊将兵中軍法会議ノ処断ヲ受ケタルモノ将校以下数十名ニ達セリ。又上海上陸以来南京占領迄ニ於ケル我軍ノ戦死者ハ実ニ2万1300余名ニ及ヒ、傷病者ノ総数ハ約5万人ヲ超ヘタリ。(欄外)
  因ニ我軍南京攻略ニ関シテハ予ハ最初先ツ軍ヲ蘇州、湖州ノ線ニ停止セシメ、隊伍ノ整頓ト補給ノ進捗ヲ図リ、徐ロニ正々堂々ノ攻撃再挙ヲ行ハン事ヲ欲シタリ シカ、我大本営全般ノ作戦計画上上海方面軍ノ一部ヲ他方面ニ転用スルノ計画ナリシト、敗退セル敵軍ノ江南地方ニ其隊伍ノ整理スル遑ヲ与ヘサルヲ有利トスル 関係上遂ニ急劇快速ノ進撃ヲ決行スルニ決セリ

 尚本作戦間 江陰附近ニ於ケル我海軍飛行機ノ米国軍艦バネー号爆撃及南京上流ニ於ケル我陸軍部隊(橋本砲兵聯隊)ノ英国軍艦及商船砲撃事件等ヲ惹起セルハ遺憾ナリシ モ、コハ敗退スル敵軍ハ多ク英米等ノ艦船ヲ利用スルモノ尠カラサリシ事実ト追撃戦斗間避ク可カラサル我部隊ノ興奮トニ因リ其過誤ヲ招来スルニ至リタル次第 ニテ、予ハ本件ニ対シテモ各部隊長ニ対シ、厳重ナル警告ヲ与ヘタリ。

  又我軍ノ南京入城直後ニ於ケル奪掠行為ニ対シテハ特ニ厳重ナル調査ヲ行ヒ、努メテ之ヲ賠償返還セシムルノ方ヲ講シタリ。特ニ英米仏其他列国官民ニ対スル賠 償ニ関シテハ我外交官憲ヲ介シテ努メテ友誼的ニ本件ノ善処ヲ図レルモ、戦場内ニアル列国人ノ財産生命カ自然戦禍の累ヲオケタルコトハ巳ムナキ次第ト云ハサ ルヲ得ス。

六 本作戦ノ前後列国軍民トノ交渉ノ大要・・・ 略


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中支那方面軍 進出制令線突破 南京攻略 松井石根 意見具申ーーーーーーーーー

盧溝橋事件1ヶ月余り後の1937年8月10日、日本軍は、上海の居留民保護を名目にして「上海派遣軍ヲ上海ニ派遣ス」と決定した(下記資料1「臨参命第73号」)。司令官は松井石根大将である。その後、天谷支隊や重藤支隊(台湾より)を上海派遣軍司令官の隷下に入れ、第三艦隊司令官麾下の陸戦隊も上海派遣軍司令官の指揮のもとに置いた。そして、同年10月20日には「上海方面ニ第十軍竝所要ノ兵力ヲ増派ス」を決定し、國崎支隊を第十軍の隷下に入れている。

 そうやって上海附近に集結した日本軍を、同年11月7日、軍中央は「左ノ部隊ヲ中支那方面軍ニ編合シ中支那方面軍司令官松井石根大将ヲシテ指揮セシム」とした(下記資料2「臨参命第138号」)。この時の任務も「敵ノ戦争意志ヲ挫折セシメ戦局終結ノ動機ヲ獲得スル目的ヲ以テ上海附近ノ敵ヲ掃滅スルニ在リ」であった。南京攻略は考慮されていなかったのである。そして、「中支那方面軍ノ作戦地域ハ概ネ蘇州嘉興ヲ連ヌル線以東トス」と指示していた(下記資料3「臨命第600号」)。いわゆる「進出制令線」である。

 大本営設置後初の御前会議においても、参謀第一部長が

中支那方面軍ハ上海周辺ニ於ケル戦勝ノ成果ヲ利用致シマシテ機ヲ失セス果敢ナル追 撃ヲ実施シツツアリマスカ元来此軍ハ上海附近ノ敵ヲ掃滅スルヲ任務トシ且同地ヲ南京方面ヨリ孤立セシムルコトヲ主眼トシテ編組セラレテ居リマスル関係上  其推進ニハ相当ノ制限カ御座イマスノミナラス 目下其前線部隊ハ其輜重ハ固ヨリ砲兵ノ如キ戦列部隊スラモ尚遠ク後方ニ在ル者尠ク御座イマセン…”

 と説明していたのである(『南京戦史』偕行社)。

 しかしながら、中支那方面軍は11月19日、この進出制令線を次々に突破して南京に向い進撃を開始したのである。だから、松井司令官に「丁集団ヨリ湖州ヲ経テ南京ニ向ヒ全力ヲ以テスル追撃ヲ部署セル旨報告シ来レル処右ハ臨命600号(作戦地区ノ件)指示ノ範囲ヲ逸脱スルモノト認メラルルニ付為念」という電報が届く(資料4)。そこで、中支那方面軍司令官松井石根大将は自らの考えをまとめ11月22日「参謀総長ニ具申」した(資料5「中支那方面今後ノ作戦ニ関スル意見具申」)。「…此ノ際蘇州、嘉興ノ線ニ軍ヲ留ムル時ハ戦機ヲ逸スルノミナラス敵ヲシテ其ノ志気ヲ回復セシメ戦力ノ再整備ヲ促ス結果トナリ戦争意志徹底的ニ挫折セシムルコト困難トナル懼アリ」というわけである。

 意見具申の内容と、この経過を振り返ると、上海派遣軍司令官の大命を受けて上海に出発する松井石根大将が、見送りに来た杉山元陸軍大臣に「どうしても南京まで進撃せねばならぬ」と力説したという話(『南京難民区の百日─虐殺を見た外国人』笠原十九司〔岩波書店〕p27)が思い出される。第三艦隊司令長官・長谷川清中将もそうであったように、松井石根も当初から南京攻略を考えていたので、進出制令線突破を認可したに違いないと思うのである。

 軍中央では、中支那方面軍の制令線突破に関して、「直に止めなければ大変だ」とか、「状況を見に行っている河辺課長の帰りを待って判断すればよい」など、様々なやり取りがあったようであるが、結局11月24日に中支那方面軍の制令線突破を追認し、「臨命第600号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ之ヲ廃ス」の指示が打電され(資料6「大陸電第18号」)、さらに12月1日には「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」という命令が下されたのである(下記資料7「大陸命第8号」)。

 領土拡張や権益確保の欲を持っていたが故に、中国軍の抵抗を撃破しつつ南京に迫る中支那方面軍各師団等の報告と「遅クモ二ヶ月以内ニ目的ヲ達成シ得ル見込ナリ」などという確信に満ちた司令官松井石根大将の意見具申に屈し、軍中央は不拡大方針を変更してしまったのではないかと思う。

 上村利道(ウエムラトシミチ・上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐)の11月半ばから12月初旬の日記に「各兵団追撃急ナリ」とか、「皇軍ノ追撃正ニ破竹ノ勢ナリ」とか、「戦 況ハ進ム盲目滅法ナリ9Dハ既ニ本夕淳化鎮(南京東南4里)ニ達ス。丸テ各兵団「マラソン」競争ニテ後方ノ追及モ何モアツタモノニアラス、方面軍ニテハ南 京入城ニ関スル統制命令ヲ下セリ。宮殿下ノ御着任後南京入城トナレハ実ニ結構ナルカ、此調子ニテハ迚モ御間ニ合ハサルヘシ」などと記されている(『南京戦史資料集Ⅱ』偕行社)。もともと部隊編制がきちんとできていなかった上に、各師団などのマラソン競争のような追撃に、兵站や輜重が追随できなかったのである。それが掠奪の一因となったことを見逃してはならないと思う。

 また、不拡大方針の変更は、さらに「蒋政権の抗戦を制せんと欲すれば第三国の抗日政策を根本的に打破するを要し…」と、米英などをも相手とする戦争に進んでいかざるを得ない側面を孕んでいた。中国に対する日本の手前勝手な要求を、外交を無視して、軍事力によって押し通そうとしたから、結局、日本国民を存亡の危機に陥れることになったのであろう。「村山談話」にいうところの「国策の誤り」のひとつであると思う。
 下記、資料1、2、3、4は『現代史資料9 ─ 日中戦争2』(みすず書房)から、資料5、6、7は『南京戦史資料集Ⅰ』(偕行社)からの抜粋である。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               六六 命令・指示

                            二
臨参命第73号

         命 令

一、上海派遣軍(編組別紙ノ如シ)ヲ上海ニ派遣ス
二、上海派遣軍司令官ハ海軍ト協力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ
三、動員管理官ハ夫々其動員部隊ヲ内地乗船港ニ到ラシムヘシ
四、支那駐屯軍司令官ハ臨時航空兵団ヨリ独立飛行第六中隊ヲ上海附近ニ派遣シテ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ラシムヘシ
五、上海派遣軍ノ編組ニ入ル部隊ハ内地港湾出発ノ時其動員管理官ノ指揮ヲ脱シ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
 但独立飛行第六中隊ハ上海附近到着ノ時ヲ以テ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
六、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
  昭和12年8月10日
 奉勅伝宣
                        参謀長  載 仁 親 王
 参謀総長           載 仁 親 王 殿下
 上海派遣軍司令官       松 井 石 根 殿
 支那駐屯軍司令官       香 月  清 司 殿
 その他13師団長宛(師団長命略)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               十五  
臨参命第138号
         命 令

一、左ノ部隊ヲ中支那方面軍ニ編合シ中支那方面軍司令官松井石根大将ヲシテ指揮セシム
 中支那方面軍司令部
 上 海 派 遣 軍
 第   十   軍
二、中支那方面軍司令官ノ任務ハ海軍ト協力シテ敵ノ戦争意志ヲ挫折セシメ戦局終結ノ動機ヲ獲得スル目的ヲ以テ上海附近ノ敵ヲ掃滅スル ニ在リ
三、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
  昭和12年11月7日
 奉勅伝宣
                             参謀総長 載 仁 親 王
中支那方面軍司令官   松 井 石 根 殿
上海 派遣 軍司令官    松 井 石 根 殿
第 十 軍  司 令 官     柳 川 平 助 殿

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
臨命第600号
         指 示
臨参命第138号ニ基キ左ノ如ク指示ス
中支那方面軍ノ作戦地域ハ概ネ蘇州嘉興ヲ連ヌル線以東トス
  昭和12年11月7日
                             参謀総長 載 仁 親 王
中支那方面軍司令官   松 井 石 根 殿


資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   ○電 報           11月20日    午後6時45分発 同11時15分着
                       参謀長発
  松井集団参謀長宛
 丁集団ヨリ湖州ヲ経テ南京ニ向ヒ全力ヲ以テスル追撃ヲ部署セル旨報告シ来レル処右ハ臨命600号(作戦地区ノ件)指示ノ範囲ヲ逸脱スルモノト認メラルルニ付為念
                  (『第10軍作戦指導ニ関スル参考資料』其二)
資料5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○中支参電第167号

    中支那方面今後ノ作戦ニ関スル意見具申

   判決 

 中支那方面軍ハ事変解決ヲ速カナラシムル為現在ノ敵ノ頽勢ニ乗シ南京ヲ攻略スルヲ要ス
 理由
一、南京政府ハ湖東会戦ノ大敗ニヨリ既ニ遷都ノ挙ニ出テ僅ニ統帥機関ノミ残置シアル状況ニシテ其ノ第一線部隊ノ戦力ハ著シク喪失シ今ヤ敵ノ抵抗ハ各陣地共極メテ微弱ニシテ飽迄南京ヲ確保セントスル意図ヲ認メ難シ
此ノ際蘇州、嘉興ノ線ニ軍ヲ留ムル時ハ戦機ヲ逸スルノミナラス敵ヲシテ其ノ志気ヲ回復セシメ戦力ノ再整備ヲ促ス結果トナリ戦争意志徹底的ニ挫折セシムルコト困難トナル懼アリ
従ツテ事変解決ハ益々延引スルニ至ルヘク為ニ内地ニ於テ国民モ亦軍ノ作戦意図ヲ諒得セス国論統一ヲ害スル惧アリ、之ガ為ニハ現下ノ情勢ヲ利用シテ南京攻略シ中支方面ニ明瞭ナル作戦ノ終末ヲ結ブヲ可トス

二、事変ヲ速カニ解決スル為ニハ西南方面若クハ山東方面ノ新作戦固ヨリ考案セラルゝ所ニシテ之等作戦ノ支那政府ニ与フル影響ハ何レモ相当価値アルモ首都南京ヲ攻略シ其ノ心臓ニ迫ルモノニ比スレバ遙カニ第二義的ナリ
我カ軍ハ此際中支方面ニ於ケル現在ノ戦況進展ニ乗シ一意湖南作戦ヲ継続シ速カニ南京ヲ攻略スルト共ニ一部ヲ以テ揚子江左岸ニ於テ津浦鉄道ヲ遮断スルヲ得ハ山東、湖北地方ハ自然的解決ヲ望ミ得ヘシ

三、 南京攻略ノ為ニハ現ニ方面軍ノ有スル兵力(若干部隊ヲ抽出セラルゝモ可ナリ)ヲ以テ十分ニシテ且鉄道、水路ヲ利用セハ後方ノ状態モ何等懸念スル所ナシ 又 敵ノ抵抗ハ無錫及湖州ヲ失ヒタル後ニ於テハ地形ノ関係ト平時施設ノ状態ヨリ観察シテ大ナル犠牲ヲ払フコトナク遅クモ二ヶ月以内ニ目的ヲ達成シ得ル見込ナリ
第 十軍ハ新鋭ノ気溢レアルヲ以テ後方成立次第ニ躍進ヲ続ケ得ヘク 又上海派遣軍ハ連戦ノ疲労稍大ナルモノアリト雖モ旬日ノ休養ヲ与フルコトニヨリ戦力ヲ回復 シ軍隊ノ整頓ヲ完了シ得ヘク南京ニ向フ追撃ハ可能ナリト判断シアリ但此際専任ノ派遣軍司令官ヲ任命セラルゝコト必至ナリト思惟ス

資料6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○大陸電第18号          11月24日13時56分
 大陸指第5号
          指 示  
臨参命第138号ニ基キ左ノ如ク指示ス
臨命第600号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ之ヲ廃ス
                  (『第10軍作戦指導ニ関スル参考資料』其二)  (『下村定中将回想録』) 

資料7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 大陸命第8号
         命 令
一、中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ
二、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
  昭和12年12月1日     
 奉勅伝宣               
                             参謀総長 載 仁 親 王

中支那方面軍司令官   松 井 石 根 殿




 ーーーーーーー捕虜(俘虜)「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」 日本軍 NO1ーーーーーーー

 『南京の日本軍──南京大虐殺とその背景』藤原彰(大月書店)によると、日本も加入し批准した「陸戦ノ法規慣習ニ関スル条約」に違反し、日本軍は大量の捕虜の組織的虐殺を行ったという。そして、そこにはアジア人蔑視の思想があるという。

 今回は、『南京戦史資料集』(偕行社)『南京戦史』(偕行社)から、捕虜に関わる記述を抜粋した。
 資料1の「交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒」で重要なことは、日本が

”現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラサルヲ以テ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラス"

と して、国際法違反を逃れるために敢えて宣戦布告をせず他国を攻撃する方針をとったのではないかと思われることである。日本はいろいろな場面で宣戦布告をす ることなく「事変」「事件」という言葉を使いながら軍を進め、戦闘行動を展開し、敵兵はもちろん多くの投降兵や武器をすてた敗残兵、便衣兵を捕らえ「捕 虜」とした。しかしながら「事変」「事件」に関わる戦闘行動は「戦争」ではないので、その投降兵や武器をすてた敗残兵、便衣兵は国際法的には「捕虜」(以 前は「俘虜」と呼ばれた)ではない。したがって、その扱いについては「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」に拘束されないというのである。

 盧溝橋事件において日本軍に敵対した中国国民革命軍第二十九軍を膺懲するという戦闘行動は戦争でないということはわからないことはない。しかしながら、特定の軍組織ではなく、「支那膺懲」をかかげ、相手国の首都「南京」を爆撃するような戦闘行動が「事変」や「事件」であるというのは、いかがなものかと思う。中国側も「戦争という体裁」を望まなかったというが、それを言い訳にすることは許されないことだと思う。そして、日本軍は多くの「捕虜」とするべき人たちを刺殺し銃殺したのである。刺突訓練で殺されたり、拷問によって殺された人たちがいたことも忘れてはならないと思う。

 資料2は「旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ」と記録された歩兵第六十六聯隊第一大隊の『戦闘詳報』の一部である。重要なのは「旅団命令ニヨリ…」とはっきり記されていることである。

 資料3は「中島今朝吾日記」に記された捕虜殺害に関するものである。「歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ」や「捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム」・「時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ」とある。また、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ……」や「佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル」などの記述があることも見逃すことはできない。

 資料4の問題点は、難民地区さえも掃蕩の対象とし、「敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス」ということである。もちろん難民地区に逃げ込んだ敗残兵は武装していない筈である。

 資料5にも、「数百の敗兵を引摺り出して処分した」や「下関に於て処分せるもの数千に達す」などとある。「捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタ」る結果であろう。こうした資料に目を通すと、「南京大虐殺はなかった」というような主張が、国際社会で通用しないことを痛感させられる。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              通牒、訓示、作戦経過概要、戦時旬報、戦闘詳報、陣中日誌等の部

第一、中央(陸軍省・参謀本部)

○交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒

   交戦法規ノ適用ニ関スル件
 陸支密第198号  昭和12年8月5日
   次官ヨリ駐屯軍参謀長宛(飛行便)
今次事変ニ関シ交戦法規ノ問題ニ関シテハ左記ニ準拠スルモノトス
右依命通牒ス
         左記
一、現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラサルヲ以テ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラス


二、但シ左ノ件ヲ実施スルハ現下ノ状況ニ於テ当然ノ措置ナルヘシ
 1,自衛上必要ノ限度ニ於テ適性ヲ有スル支那側動産不動産ヲ押収没収破壊シ或ハ適宜処分(例ヘハ危険性アルモノ、長期ノ保存ニ堪ヘサルモノ押収後之カ保管ニ多大ノ経費、労力ヲ要スルモノ等ヲ換価又ハ棄却スル等)シ
     「但シ土地建物等ノ不動産及私有財産(市、区、町、村ニ属スル財産ヲ含ム)ハ之ヲ軍ニ於テ没収スルコトハ適当ナラス」
  2, 自衛ノ為又ハ地方良民等ノ福祉ノ為緊急已ムヲ得サル場合ニ於テ前項ノ物件等ヲ利用スルコト


三、右述ノ外日支兵干戈ノ間ニ相見ユルノ急迫セル事態ニ直面シ全面戦争ヘノ移行転移必スシモ明確ニ判別シ難キ現状ニ於テ自衛上前記条約ノ精神ニ準拠シ実情ニ即シ機ヲ失セス所要ノ措置ヲ取ルニ遺漏ナキヲ期ス


四、軍ノ本件ニ関スル行動ノ準拠前述ノ如シト雖帝国カ常ニ人類ノ平和ヲ愛好シ戦闘ニ伴フ惨害ヲ極力減殺センコトヲ顧念シアルモノナ  ルカ故ニ此等ノ目的ニ副フ如ク前述「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」中害敵手段ノ選用等ニ関シ之カ  規定ヲ努メテ尊重スヘク又帝国現下ノ国策ハ努メテ日支全面戦争ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦争ヲ相手側ニ先ンシ  テ決心セリト見ラルゝカ如キ言動(例ヘハ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用或ハ軍自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セリト公称シ其ノ他必要已ムヲ得サルニ非サルニ諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ又現地ニ於ケル外国人ノ生命、財産ノ保護、駐屯外国  軍隊ニ対スル応待等ニ関シテハ勉メテ適法的ニ処理シ特ニ其ノ財産等ノ保護ニ当リテハ努メテ外国人特ニ外交官憲等ノ申出ヲ待テ之  ヲ行フ等要ラサル疑惑ヲ招カサルノ用意ヲ必要トスヘシ

五、地方ノ行政治安維持其ノ他官公署等ノ動産不動産ノ保護ニ関シテモ軍政ヲ布キ或ハ軍自ラ進ンテ之ニ関与スルヲ避ケ前述ノ趣旨ニ鑑  ミ努メテ北支明朗化ニ害ナキ支那側人士ヲシテ自主的ニ之ニ当ラシメ軍ハ現地ニ於ケル唯一ノ治安維持ノ真ノ有能力者トシテ之ニ必  要ナル内面的援助ヲ与ヘ其ノ実ヲ挙クルヲ可トス又支那側ノ神社仏閣等ノ保護ニ就テハ勉メテ注意アリ度


六、右諸件ノ実施ニ方リテハ機ヲ失セス之カ具体的報告ヲ提出スルモノトス
追テ右諸件堀内総領事ニモ伝ヘラレ度外務省諒解済

               (『陸支密大日記』s13~1)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          第四 第十軍

○歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』
12月13日
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
    左記
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
  ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
    貴大隊ノ任務ハ前通リ

九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
  午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中

隊ハ路営地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
  但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
  各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ
  聯隊ニ報告ス
  第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ失敗セリ
  捕虜ハ観念シ恐レス軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸フルモノ銃剣ノ前ニ乗リ出シ従容トシ居ルモノアリタルモ中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ 

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         中島今朝吾日記
                                            第十六師団長・陸軍中将15期
12月13日  天気晴朗 

一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ

一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル

一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ

一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ

一、兵ヲ掃蕩スルト共ニ一方ニ危険ナル地雷ヲ発見シ処理シ又残棄兵器ノ収集モ之ヲ為サザルベカラズ兵器弾薬ノ如キ相当額ノモノアルラシ
 之ガ整理ノ為ニハ爾後数日ヲ要スルナラン

資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
極秘
歩七作命大111号

  歩兵第七聯隊命令           於:南京東部聯隊本部 12月15日午後8時30分

一、本15日迄捕獲シタル俘虜ヲ調査セシ所ニ依レハ殆ト下士官兵ノミニテ将校ハ認メラレサル情況ナリ
  将校ハ便衣ニ替ヘ難民地区ニ潜在シアルカ如シ
二、聯隊ハ明16日全力ヲ難民地区ニ指向シ徹底的ニ敗残兵ヲ捕捉殲滅セントス
  憲兵隊ハ聯隊ニ協力スル筈
三、各大隊ハ明16日早朝ヨリ其担任スル掃蕩地区内ノ掃蕩特ニ難民地区掃蕩ヲ続行スヘシ
  第三大隊ハ部下各中隊ヨリ各一小隊ヲ出シ第一大隊長ノ区署ヲ受ケシムヘシ
四、戦車第一中隊及軽装甲車第七中隊ハ待機スヘシ
五、予ハ16日午後以後最高法院西方約1粁赤壁路聯隊本部ニ在リ
                       聯隊長 伊佐大佐
 
資料5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    佐々木到一(ササキトウイチ)少将私記
                                       歩兵第三十旅団長・陸軍少将(18期)
九、南京入城以後 

◇12月16日
  命に依り紫金山一帯を掃蕩す、獲物少しとは云へ両聯隊共に数百の敗兵を引摺り出して処分した。
  市民ぼつぼつ街上に現はる。
◇1月5日
 査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約2千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。
 城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於て処分せるもの数千に達す。
 南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約7万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約10万と推算せらる。



※ 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、ところどころ改行したり、空行を挿入したりしています。青字が書名や抜粋部分です。 


ーーーーーーーー
捕虜(俘虜)陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約 日本軍の対応 NO2ーーーーーーーー

『南京戦史』(偕行社)には、「発刊に当たりて」ということで財団法人「偕行社」理事長(原多喜三)の挨拶文がある。その中には

皆 さんの子弟が使っている学校の教科書を一度ご覧下さい。それには南京戦に於て日本陸軍は20万、30万もの大虐殺を行ったと書かれているのであります。こ れは戦後、勝者が敗者を一方的に裁いた極東国際軍事裁判に於て、所謂「南京事件」なるものが捏造せられ、反論すべき陸軍は既に無く、その間の真実を伝える 権威ある戦史の整備もないことをよいことに、真相不問のまま一方的証言に依りそれが決定づけられ、マスコミまたこれに追従し、大虐殺が何時の間にか定説ら しくなってしまったからであります。” 

とある。しかしながら、集められた命令や指示、通牒、訓示、作戦経過概要、各師 団・各部隊の戦時旬報や戦闘詳報の記録、陣中日誌等をしっかり読み込めば、簡単に「捏造」などといえるものではないことがわかる。編集責任者(高橋登志 郎)はその「あとがき」で、下記のような指摘があったことを明かしている。

(1)編集委員会は何を根拠に捕虜の処断を総て不法と断定できるのか。
(2)かりにできるとしても何故発表するのか
(3)確定できない数字を何故発表するのか
(4)光輝ある皇軍に泥を塗るのか
(5)中国国民に詫びるとは何事か

 それに対し、”我々編集陣は、中国国民に詫びるというような政治的な意図はないし、皇軍に泥を塗るような考えなどあるはずもない、真実の探求のためには臭いものにも蓋をしない態度をとるだけである”と書いている。20万~30万という数字についても、それは確定し得えないが、しかし”判らないからといって口を噤んでいたらどうなるであろうか、それこそ20万~30万を肯定したことになるのではないか”と書いている。”一次資料に依って、究明された数字に基づき、議論”しようとする姿勢は評価されるべきだと思う。

 同書の第6章第3節は「捕虜等取扱いの混迷とその結果」と題されており、その中に

 ”投降する者に当面する部隊にとっては兵力は乏しく戦闘に手一杯である。上級司令部としても、これを収容する機構も扱うべき予備の兵力の用意もない。ましてこれに食わせる食料の準備など皆無なのが現実の姿であった。投降兵は勝利の証しなどと喜んでおられる状態ではなかった。
  敵を撃滅することだけを念頭において戦っていた第一線諸隊は、多数の投降兵出現にさぞ困ったことであろう。その対応がまちまちであったことは一に戦況によ るとはいえ前述の指示の不的確、対応準備の欠如が大きな要素といえよう。そしてその責は一に中央部及び方面軍負わなければならないものといえよう。

とある。諸資料を細部まで正確に読み込んだ結果たどり着いた結論なのだと思う。

 下記の資料1は、国崎支隊に対する「丁集作命第十八号」について「多数ノ投降者ヲ見ル今日直ニ全兵力ヲ新任務ニ向ヒ出発セシムルヲ得ス」として「捕虜5千アリ軍ニ於テ処置セラレ度」と依頼しているものである。

 資料2は「俘虜ヲ受付クルヲ許サス」という「歩兵第三十旅団命令」である。この命令が、資料3の『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』という電話につながるものであろう。

 資料4は、南京城内粛清査問(兵民分離査問)を命じられた佐々木到一(ササキトウイチ)少将私記の一文である。特に「下関に於て処分せるもの数千に達す」ということばを見逃すことができない。

 資料5は、その佐々木少将が実施した査問の実態について、南京と漢口のアメリカ大使館がやり取りしたものである。正直に申し出た兵士が、約束に反して殺されたと報告している。

 下記の資料1、2、5は『南京戦史資料集』(偕行社) 資料3、4、は『南京戦史』(偕行社)からの抜粋である。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

            通牒、訓示、作戦経過概要、戦時旬報、戦闘詳報、陣中日誌等の部


第四 第十軍

其の三 国崎支隊  「歩兵第9旅団陣中日誌」

   11月14日  晴
一、支隊本部ハ松江ヲ発シ金山ニ到リ同地ニ位置ス
二、本朝8時35分左ノ軍命ヲ飛行機ニ依リ受領ス

  丁集作命第十八号
     丁集団命令 11月13日午後1時  於金山
1~5 略
6、国崎支隊ハ主力ヲ以テ速ニ金山ニ前進シ爾後平望鎮占領ニ任スヘシ
  細部ニ関シテハ別指示ス
  在金山片山部隊ヲ其指揮下ニ復帰セシム
7、河村部隊ハ前任務ヲ続行スルト共ニ一部ヲ以テ国崎支隊ニ協力スヘシ
8、軍通信隊ハ金山ヲ基点トシ第十八師団第百十四師団及国崎支隊ト連絡スル外方面軍司令部内地トノ通信ニ任スヘシ
9、予ハ金山ニ在リ
                   丁集団司令官 柳川 中将

  下達法・第十八師団及第百十四師団ニハ通信筒投下国崎支隊及其他ニハ隊長ヲ招致シ直接筆記交付ス
三、右軍令ヲ受領セルモ支隊ノ目下ノ状況特ニ多数ノ投降者ヲ見ル今日直ニ全兵力ヲ新任務ニ向ヒ出発セシムルヲ得ス且又兵力ヲ一部松江ニ残置スルハ支隊編成上勉メテ避クヘキ状態ニアルヲ以テ左記電報ヲ軍参謀長宛発信セリ
 1、本朝御前8時35分丁集作命甲第18号ヲ受領セリ右ニ依レハ速ニ金山ニ前進シ………アリ
 2、松江ノ守備隊ハ支隊引上後開放シテ良キ哉支隊ノ兵力ヲ残置スルハ兵力関係上避ケラレ度
 3、弾薬ノ補充ヲ本日中ニ実施セラレ度
 4、捕虜5千アリ軍ニ於テ処置セラレ度
  右電報ニ対シ左ノ返電アリ
  本朝岡田参謀ヲ派遣セシニ付同官ヨリ承知セラレ度弾薬ハ金山ニ於テ補充ス

四、同時軍参謀部第二課長井上大佐ヨリ左記書来ル
 1、藤本大佐宛書翰ニ依ル俘虜受領ノ件ハ当方ヨリ派遣セル岡田参謀ニ已ニ其受領及使用法ニツキ指示シ同参謀ハ午前8時発動艇ニテ貴部隊ニ向ヒシヲ以テ同参謀ト協議処理相成度
 2、第六師団第二十三聯隊ハ水路ニ依リ本朝平望鎮ヲ占領其一部ハ北進シ其北方4粁ノ金字港ニ進出セリ
右回答及書翰ヲ受領スルモ全般ノ状況上直接軍司令部ニ於テ交渉スルヲ最モ適当ナル方法ナリトシ午前9時40分支隊長ハ金山ニ先行スルニ決シ松江附近ノ守備ヲ歩兵第四十一聯隊長ニ命ス
同時軍参謀岡田中佐来リ丁集作命第十八号ハ成ル可ク速ニノ意ナルヲ伝ヘ且一部ト交代スヘキヲ命シ併セテ支隊ノ数日来収容セル俘虜ヲ受領セリ

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○歩兵第三十旅団命令   於 中央門外  12月14日午前4時50分

一、敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有スルモノ散在ス
二、旅団ハ本14日南京北部城内及城外ヲ徹底的ニ掃蕩セントス
三、歩兵第三十三聯隊ハ金川門(之ヲ含ム)以西ノ城門ヲ守備シ下関及北極角ヲ東西ニ連ヌル線及城内中央ヨリ獅子山ニ通スル道路(含ム)城内三角地帯エオ掃蕩シ支那兵ヲ撃滅スヘシ
四~五 略
六、各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サス
七~十一 略
                      支隊長  佐々木少将
                  (以上『歩兵第三十八聯隊戦闘詳報』)
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 第三節 捕虜等の取扱い混迷とその結果

三 中島師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」について

 中島師団長の12月13日の日記には「捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシ……」とある。この方針が次官通達の「捕虜と呼ぶな」を「捕虜を取るな処分せよ」と誤って解釈したものか、或いは師団長の独自の見解をもって決心したものかは判然としない。
 以下中島師団長の決心にもとづく隷下指揮官の対応をうかがうこととする。
 歩兵三十旅団長(佐々木到一少将)の12月14日の城内掃蕩命令には「各隊は師団ノ指示アル迄捕虜ヲ受付クルヲ許サス」とあり、師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」を裏付けるとも思われれる命令文を下達している。しかし命令文には「処分セヨ」という字句は見当たらない。
 また、歩兵第三十旅団隷下の歩三十八聯隊副官・児玉義雄氏(33期)は12月12日、13日頃の回想記事として次のように記されている。

  「南京1~2キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦っしていた頃、師団長副官から師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』と電話で伝 えられ、とんでもないことだと大きなショックをうけた。師団長中島今朝吾中将は豪快な将軍で好ましいお人柄と思っておりますが、この命令だけはなんとして も納得できないと思っております。部隊としては実に驚き困却しましたが、命令止むを得ず各大隊に下達しましたが、各大隊からはその後何ひとつ報告はありま せんでした。」

 これに依れば口頭ではあるが、「処置せよ」と指示されているのである。…

 ・・・以下略

資料4---------------------------------------
                     佐々木到一少将私記
                                       歩兵第三十旅団長・陸軍少将(18期)
九、南京入城以後 

◇12月22日
 城内粛清委員長を命ぜられ、直ちに会議を開催す。

◇12月23日
 会議

◇12月24日 
 同右、査問開始

◇12月26日
 宣撫工作委員長を命ぜらる、城内の粛清は土民に混ぜる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するに在ると共に我軍の軍紀風紀を粛清して民心を安んじ速に秩序と安寧を快復するに在

つた。予は峻烈なる統制と監察警防とに依つて概ね20日間に所期の目的を達することができたのである。

◇1月5日
 査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約2千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。
 城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於て処分せるもの数千に達す。
 南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約7万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約10万と推算せらる。

資料5-----------------------------------------

        第7章 南京占領以後の治安維持対策と軍紀粛正

第二節 佐々木少将の城内粛清査問工作

二、査問工作について在南京アメリカ大使館の観察

 在南京アメリカ大使館のアリソンAllison,John Moore 書記官は在漢口ジョンソン Johnson, Nelson Trusler 大使に、

「支那政府軍ノ総テノ残兵ヲ掃蕩スル日本軍ノ決心ハ確固不抜ノモノラシク見受ケラレ タリ。12月25日カ其ノ頃、南京大学ニ避難セル3万人ノ支那人ノ登記ヲ初ムル準備トシテ数名ノ陸軍将校ガ大学ヲ訪ネタリ。其ノ建物ニ避難セル約2千ノ男 子ハ外部ニ集合サセラレタリ。而シテ日本人ヨリ彼等ヘノ話ノ中ニ、前ニ支那軍ニ働キ居リタル者アラバ申出デヨ、其人々ハ保護セラルベシ──此ノ保護セラル ルト云フコトハ数回繰返サレラリ──多分日本軍ノ為ニ労役ニ就カシメラルベキガ、若シ其ノ時申出デズ後ニ支那人タリシコト分明スレバ、必ズ銃殺セラルベキ 旨伝ヘラレタリ。此ノ保証アリシニヨリ、約200人ノ人々ガ前ニ軍人タリシコトヲ申出デタリ。彼等ハ直ニ連行セラレタリ。後刻、重傷ヲ負ヘル4、5人ノ者 帰来シ、右ノ200人ハ隊伍ヲ組ミ、離レタル場所ニ連レ行カレ、或ハ銃剣ニヨリ刺殺セラレ、或ハ銃殺セラレタリ。僅カニ上記4、5人ノ重傷生存者ガ死亡者 トシテ見残サレ、辛ウジテ逃レ来レル旨語レリ。」

と、査問の実態について注目に値する批判的なジェームズ・エスピー副領事の報告を発している。(極東裁判書証328号)    


ーーーーーー南京 下関の大虐殺 松井石根専属副官・角良晴氏の証言ーーーーーー

 下記は、上海派遣軍松井石根司令官の専属副官・角良晴氏が「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」と題して、偕行社に投降した文章である。『南京戦史資料集』(偕行社)の 編集委員長は、その投稿文について電話と手紙でいくつか質問をするとともに、直接宮崎県都城の奥高千穂山中に彼を訪ねていろいろ話を聞いたという。その結 果として、彼の証言にいくつかの矛盾があることを明らかにし、疑問を投げかけているが、”次の3つは真実と思われる”と書いている。

1、どこの部隊か師団か判らないが、17日か18日ごろ下関の件で電話があったこと(「どこの部隊か師団か判らない」というのは、第六師団とは考えられないということである)。
2、長中佐が、「ヤッチマエ」と言ったこと、
3、松井大将と共に、下関付近で多数の死体を見たこと。

 角証言は南京大虐殺に関わる重大な証言であると思う。下記資料、「下関大虐殺」の”下関”は、南京城に攻め込んだ日本軍に追われ、挹江門を突破してきた敗走兵と避難民の大群衆が、揚子江(長江)を利用して逃げのびようと殺到したところである。「ホウトウ」(浦口)は対岸である。
 ここでは、『南京戦史資料集』(偕行社)から「角証言」のみを抜粋し、編集委員長の疑問に関するやり取りやまとめは省略した。( )内の註は編集委員長の入れたものである。筆者の角氏は自らを「副官」と表現し、「私」という言葉をつかっていない。誤字と考えられるため「ママ」と示された漢字は正しいと思われる漢字に修正した。漢数字の一部を算用数字に変更した。6Dは第十軍第六師団。
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                  支那事変当初六ヶ月間の戦闘
                                        (角記録一から二七と三四は省略した)
二八 下関大虐殺に関する軍司令部内の出来事
○松井大将の宿舎は南京飯店に在った。
○副官は17日夕刻、第六師団長谷中将を訪問した。宿舎は中正門(?)の内側だったと思う。
  途中の町中には1人の支那人も見なかった。
○18日朝松井大将は「下関に行き度い」と申された。
  情報課に下関附近の敵状を聞いたが「異状なし」との事で副官は直ちに下関附近の偵察に赴いた
(イ)下関両側の城壁は全部綺麗に取り除かれて居たが、下関の門は其の尽残っていた。
  城跡から揚子江に到る間に綺麗な空き地があった。
(ロ)下関より下流約50米附近、揚子江の左岸(註・右岸)の水際から城壁のあった跡の方向に連続死体がつづいているのを見て直に調査に行った。
(ハ)下関から「ホウトウ」(註・浦口)へ通う汽船は下関近くに腹をかかえて沈められ船上には沢山の死体が見えた。
(ニ)死体の出来た総司令部内に於ける原因は次の通りである。
  18日朝だったと思う。
  第六師団より軍の情報課に電話があった。
  「下関に支那人約12~13万が居るがどうするか」
  情報課長、長中佐は極めて簡単に「ヤッチマエ」と命令された。
  副官は事の重大さを思い、又情報課長の伝えた軍の命令は軍司令官の意図と異なるものと確信し、此の事を軍司令官に報告した。
  軍司令官は直ちに長中佐を呼んで「下関支那人12~13万の解放」を命ぜられた。
  長中佐は「支那人の中には軍人が交って居ります」という。
  軍司令官は「軍人が交じっていても、却って軍紀を正しくするのに必要だ」と強く解放を命令された。
  長中佐は「わかりました」と返事があった。副官は更に長中佐の行動に注意する(長中佐は陸大出の特別な支那通であり、過去において陸軍大臣の命令に背き御叱りを受けた事が度々あった)。

二九 6D再度の電話
○同日第1回の電話から約1時間経って再び第六師団より電話があった。
「下関の支那人12~13万をどうするか」の問題である。
 長中佐は前回同様「ヤッチマエ」であった。
 副官は、この事を軍司令官に報告する事は出来なかった。
○ 副官は思う。第六師団は最初、下級参謀が下関支那人処理の件を軍に意見を聞いた。「ヤッチマエ」であった。之を参謀長に報告した。参謀長は軍の命令を不審 に思い、再び本件の処置について軍に意見を求めたものと思う。此の件は第六師団参謀長・下野一霍大佐(砲兵出身)の「下関支那人大虐殺事件の真相」に「大 虐殺は師団長の意図ではなく軍の命令である、それに此の事で師団長を死刑にするとは間違って居る」とある。この実想を綴られたものと思う。

三〇 死体の様相
○下関下流50米附近から、揚子江下流の方向へ約2粁附近迄死体がぎっしり絨毯の様につまっていた。
 横の方には揚子江の水際から右岸の岸壁道を越え、空地を経て城壁跡へ約300米位死体は続く。
○大西の記事(『偕行』58年2月号)は真相である。但し挹江門─下関道、其の西側揚子江岸には多数の死体が其のまま残って居た。
又死体を「三千乃至五千位というところだろう」とあるが之は下関附近の大虐殺とは見当違いではなかろうか
 12~13万のぎっちりつまった一連の死体を見れば一目真相がわかる筈である。

三一 軍司令官の下関状況視察
  副官は、軍司令官に情報課の意見は「下関附近に行くのは暫く待つ様にとのことであります」と嘘をいった。

三二 下関付近死体除去について
 副官は下関附近12~13万の死体の状況並に軍司令官視察希望の件を参謀長に報告し、死体の速やかな除去をお願いした。
○翌18日朝副官は再び下関の死体の状況を視察したが変化はなかった。
 其の旨参謀長に報告し軍司令官に対し「下関行」を延期せられる事を御願いした。
○19日朝早々、副官は3度下関附近死体調査。約12~13万の死体には油を注ぎ火をつけたらしく焼雀のように手足も曲がり悲惨の様相を呈していた。
 前日同様厳しく参謀長に報告し、かつ軍司令官の下関行を延期してもらった。
 3日間の延期である。是以上の延期は出来ないと思った。参謀長の無能を思った。

三三 20日朝軍司令官の下関附近まで独断視察
 20日朝軍司令官は「私は下関に行く。副官は同行しないでよい」と命令があった。
 副官は車の準備をした。
 当日、副官は運転手の助手になり助手席に乗った、そして下関に行き右折して河岸道を累々と横たわる死体の上を静かに約2キロ走り続けた。
 感無量であった。
 軍司令官は涙をほろほろと流して居られた。2キロ位走って反転して下関を通り宿舎に帰った。
 このような残虐な行為を行った軍隊は何れか?「下克上」の軍命令により6Dの一部軍隊が行ったものと思料せらる。


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