-NO430~434

ーーーーー殺戮を拒んだ日本兵”渡部良三”の歌集からーーーーーーーーーーーーー

 いかがなる理にことよせて演習に罪明らかならぬ捕虜殺すとや
 捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ

 
 この歌は、中国人捕虜を銃剣で突くという「刺突訓練」(捕虜殺戮)を拒否した渡部良三(学徒出陣によって中国河北省の駐屯部隊に陸軍二等兵とて配属された)の歌集「
小さな抵抗」の中の2首である。

 「刺突訓練」については、すでに別のところでも抜粋しているが、第59師団師団長・陸軍中将「藤田茂」の自筆供述調書に
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」
などと、俘虜殺害の教育指示をしたという記述があった。

 また、日本軍による儘滅作戦(ジンメツサクセン)(一般的には「三光作戦」として知られている)で、多くの中国一般住民が殺されたことも、下記のような歌から想像される。

 古兵らは深傷(フカデ)の老婆やたら撃ちなお足らぬげに井戸に投げ入る

 「刺突訓練」のための捕虜殺害を拒否し、リンチを受けながらも人間的な視点を失わなかった渡部良三というひとりの日本人を通して、日本の戦争が何であったのかをあらためて考えさせられる。

 渡部良三は復員時に約700首におよぶ戦地での歌を持ち帰ったという。それを復員後39年以上が経過してから整理し、「歌集 小さな抵抗」として出した。下記は、その中から目次の内容にそって、私が個人的に記憶に残したい「歌」を選び出したものである(ただし、漢字につけられた読み仮名は、都合上漢字の後ろのカッコ内にカタカナ表記で示した)。
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捕虜虐殺
 ・朝飯(アサイイ)を食(ハ)みつつ助教(ジョキョウ)は諭したり「捕虜突殺し肝玉をもて」
 ・刺し殺す捕虜の数など案ずるな言葉みじかし「ましくらに突け」
 ・人殺し胸張る将は天皇(スメロギ)の稜威(イツ)を説きたるわれの教官
 ・殺人演習(サツジン)の先手(サキテ)になえる戦友(センユウ)も人なればかも気合かするる
 ・いのち乞わず八路(ハチロ)の捕虜は塚穴のふちに立ちたりすくと無言に
 ・虐殺(コロ)されし八路(ハチロ)と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや 
 ・驚きも侮りもありて戦友(トモ)らの目われに集まる殺し拒めば
 ・「捕虜ひとり殺せぬ奴(ヤツ)に何ができる」むなぐら掴むののしり激し
 ・縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる
 ・「次」「次」のうながし続き新兵の手をうつりゆく刺突銃はも

拷問をみる
 ・水責めに腫れたる腹を足に蹴る古兵の面のこともなげなり 
 ・ひとり冷め拷問する兵の面を見る人形(ヒトガタ)なせる獣とも見ゆ
 ・拷問とう禍事(マガゴト)に果つる密偵になすすべもてぬ著(シル)きわが罪
 ・きわやかに国のゆく末ことほぎて女スパイの首ついに垂る

戦友逃亡
 ・戦友の「岡部」をみざり黄塵の朝の点呼に逃亡と決まる
 ・「戦友(センユウ)よ、しっかりと逃げよ」さがすべく隊列組みつつ祈る兵あり
 ・天皇(スメラギ)の兵を捨てしは逃亡ならず自由への船出と言いてやりたし
 ・逃亡兵岡部も農の子なりしか麦畝(ムギウネ)踏まぬ心残せり
 
殺人演習と拷問見学終わる  
 ・むごたらしき殺しを強いし教官に衛兵捧ぐる礼(イヤ)のむなしさ
 ・しろしめす御旨を恃(タノ)み殺さざり驕(オゴ)れる者に抵抗(アラガイ)てわれ
 ・ましくしの寝床(ネド)に息吐き怯えいる捕虜殺さざる安さあるとも          
 ・捕虜なみのさばき覚悟し酷(ムゴ)き殺しこばめる後の落ち着かぬなり

リンチ
 ・血を吐くも呑むもならざり殴られて口に溜(タマ)るを耐えて直立不動
 ・かほどまで激しき痛みを知らざりき巻きゲートルに打たれつづけて
 ・私刑うけゆがむわが面(モ)にしらじらし今朝の教官理由(ワケ)を問いたり
 ・後の日のそしりを恐れ戦友らみな虐殺拒みしわれに素気なし
 ・眼(マナコ)とじ一突きすれば済むものを汝の愚直さよとう衛生兵なり
 ・「不忠者の二等兵」われに課せらるる任務(ツトメ)は常に戦友よりきびし
 ・分りいて戦友(トモ)らに詫るすべもなし自が責なる対向ビンタに

 東魏家橋鎮(トウギカキョウチン)の村人
 ・むごき殺し拒める新兵(ヘイ)の知れたるや「渡部(トウベエ)」を呼ぶ声のふえつつ
 ・小さな村の辻をし行けばもの言わず梨さしだす老にめぐりぬ
 ・柔らかにもえ立つ春の陽だまりの村人の微笑(エミ)に救い覚えつ

逃亡兵逮捕さる
 ・幾夜々を野に伏し怯え寝ねたるや運命(サダメ)の女神戦友にたたざり
 ・穏(オダ)しくて言葉少なき戦友(トモ)なりき「営倉」なれば逢うもならざり
 ・逃げのびよにげおおせよのわが祈り戦友にみのらず逮捕(トラワレ)はてぬ

教練と生活
 ・肉刺(マメ)破れまめの中の肉刺も形なし六粁(キロ)行軍三日つづきて
 ・夜間行軍にむさぼり眠る小休止新兵互(カタミ)にからだつなぎて
<註>新兵の夜間行軍の際は、「脱落、落伍、逃亡防止のため、ロープで新兵の体を互いにつながせた。
 ・戦友ひとり半身(ハンミ)のむくろになり果てぬまわりは血肉に染る驚き    
─ 擲弾筒爆発事故死─
 ・事実(コト)を曲げ戦死謳(ウタ)うも諾(ウベナ)わぬ兵らは黙す理(ワリ)もただせず
 ・隊長に教官はかるでつぞうの戦死いくたり勲記も添えて
   <註>「でつぞう」は捏造のこと
 ・擲弾筒炸裂事故死の補充要員虐殺(コロシ)こばみしわれの名指さる
 ・かすめうばい女(オミナ)を犯し焼き払うおごる古兵も「赤子」とうかや
 ・「尽忠奉公慰安婦来たる」の貼紙を見つつ戦友等にならわぬひとり
 ・兵等みな階級順に列をなす浅ましきかな慰安婦を求(ト)め
 ・弾丸(タマ)の雨あぶるよりなお心冷ゆ慰安婦来たりうごつく群れに
 ・「特高犯スパイの親族(ウカラ)」に米麦の差別さるるを母書ききたる

湖水戦
 ・儘滅(ジンメツ)は夜半におよべり見返れば地平火の海これも戦(イクサ)か
 ・儘滅作戦(ジンメツ)に潰えたる村に抵抗(アラガイ)なし月のみさびし冴えとおりつつ
 ・村は燃ゆ火の海(ミ)のさまに際涯(ハタテ)なしいずくに眠る支那の農らは
 ・家焼かれ住処(スミカ)のありや広き国支那とはいえど貧しき農等
 ・三光の余(マ)りに凄(サム)しきしわざなり叫び呻きの耳朶(ミミ)より消えず
<註>「三光」。中国で「殺す(殺光)、掠奪(槍光)、焼く(焼光)」をいう。
 ・楽し気に強姦(オカシ)を語る古兵いま八路(パロ)の狙撃に両脚(アシ)うち貫かる
 ・にらみ合う三日二夜は長かりき物原(モノハラ)のさまに屍(カバネ)ふえつつ
 ・火ふきいし銃眼に砲は命中(アタリ)たり一瞬八路(ハチロ)の姿(カゲ)空(クウ)に浮く 
 ・弾丸(タマ)の音ひたと絶えたるたまゆらの静寂(シジマ)に戦友の呻き重かり
 ・小さき村ひとつを攻略(トリ)て戦闘(タタカイ)は漸く終えぬ戦死二百五十名
 ・弾丸(タマ)はきれ米すでになし傍らの戦友がくれたる乾パンの屑
 ・「死」に怯え思想も信仰(シン)もあとかたなしひと日のいのち延びし安らぎ
 ・戦場(イクサバ)に生命惜しむは蔑(ナミ)さるる在り処(ド)と知れど生きて還りたし

 ・大塚の思想を説きし古兵(ヘイ)も死す朝毎おもう今日はわれかと
<註>「大塚の思想」。大塚久雄東京帝国大学(現東京大学)助教授の経済史に関する学説。この古兵も反戦だった。 
 ・貫通も盲貫もあり相つぎて戦友死にゆくに覆い足らざり
 ・細りゆく脈みるわれに衛生兵よしなき理(ワリ)を言う面暗し
 ・瞼垂り脈弱まり来おもむろに冷ゆる生命にかす手だてなし
 ・これほどの数多若きを死なしむる権力(チカラ)とはなに国家とはなに
 ・戦友の死を日日(ニチニチ)みつつわがこころ誰を呪うべき天皇か大臣か部隊長か

 ・傷つきて喘ぎつつなお吐く息に抗日叫ぶ若き八路(ハチロ)よ 
 ・無造作に屍(カバネ)積みつつ兵の声戦友(トモ)の死にしを日常(ツネ)の如言う
 ・生きのびよ獣にならず生きて帰れこの酷きこと言い伝うべく
 ・人をして獣にするは軍(イクサ)という智慧なきやからうごめける世ぞ
 ・若きらを数多死なしめ戦闘(タタカイ)に勝利をのぶる言(コト)の空しさ
 ・背のうはすでに軽かり討伐に補給されずて六日すぐれば
 ・死にし戦友(トモ)「天皇陛下万歳」は叫ばざり今野も小原も水を欲(ホ)りしのみ
 ・酒保に来しわれの目裏(マウラ)に亡き戦友のたてばためらい飲食(オンジキ)を止む
 ・飢え死か凍て死か知らね天津のやちまたゆけば軀(ムクロ)ころがる

 動員はじまる
 ・いつわりて暴虐(あらび)を強いて傲り果て「聖戦」という新語つくれり
 ・大臣の東條英機は自(オノ)が子ろを軍に置けども征旅(タビ)はとらせず
 ・ますらおの賞め言いらぬねがわくば人を籬(マガキ)の戦争(イクサ)を止めよ

 学徒動員
 ・雨しまく神宮広場を学徒兵声ひとつなく歩を揃えゆく
  ・天皇(スメロギ)の命令(メイ)と強いらる筆折りて出征(イユ)くにがさを誰につぐべき
  ・いつの日か戦争(イクサ)の終えて気ままにももの言うことの叶う世も来む
  ・学友らいま校門を出行くもの言わず目にて互(カタミ)に頷き交し
  ・かけがえの無きものいまし捨てんとす滅亡(ホロビ)の道と知りつつもなお
  ・征くのみに帰還(カエル)ものなき戦争時代(イクサドキ)われはもついに兵ならましか
  ・荒声に「長髪を切れ!」軍刀にわれをしこづく配属将校
  ・「神在(マ)さば征旅(タビ)にも守りありぬべし」宣(ノタモ)う母は目見(マミ)伏しまま
  ・他の兵に変わることなき姿して冷めしものもつわが口重し
  ・死してなお帰り来るなの強い受けし兵等激しき船酔いになく

 馬頭鎮下車
  ・新しき軍靴は土に塗(マブ)されて新兵(ヘイ)等の小さきかなしみを増す
  ・駅舎(ウマヤ)なく見涯(ミハテ)の限り家も見ず踏む大地(ツチ)固し思いのほかに

 東魏家橋鎮駐屯部隊に配属さる
  ・一挺の銃すら持たぬ新兵(ヘイ)の群れ河北に立ちぬ幼顔して
  ・新兵(シンペイ)の鈍き足音地に吸われ薄日の中に民衆(ヒト)の姿(カゲ)なし

 徐州市にて
  ・転属は度重なるも恨むべき戦友(トモ)ひとりなく黄河こえたり
  ・夏近く徐州の町は涯も見ぬ麦の黄金(クガネ)の中に浮べり
  ・父に受く祖母(ババ)がかたみの小さき時計ネジまくつどに面影のたつ
  ・足早やに去る工作員の背を見つつ日本の敗(ヤブ)れしのちを気にやむ 
  ・目のひかり厳しかりけり粗末なる衣袴まとえども工作員は
  ・山積みの弾薬列車火を吹くもかかわりなげなる徐州の人ら
  ・なに故に見分け叶うや日本兵の吾(ア)を狙いうつP51
  ・弾(タマ)をあび野犬(イヌ)に食(ハ)まれて果てし馬(マ)のくにはいずくぞわれもかなしよ
  ・徐州市の東より帰る爆撃機麦穂なびかせゆきし数にて
<註>重慶、成都等の米軍基地から、日本本土空襲を行い、帰還時には日本軍を揶揄するかのように、超低空ともいうべき高度で飛び、麦やその他の作物がいっせいになびく程であった。
  ・寝転べる日本兵にめぐり逢い支那の母子(オヤコ)は息呑みて立つ
  ・飲食(オンジキ)も遊興(アソビ)のことも「特攻」は身分あかさば足ると知りたり
  ・戦争(タタカイ)は日日傾くか頬紅き十六歳も河南にきたる

 敗戦す
  ・「聖戦」の旗印(シルシ)かかげて罪もなき人死なしめし報いきたりぬ
  ・国破れ生命の保証(アカシ)あるならねされど僅(ハヅ)かに安らぎおぼゆ
  ・戦友(トモ)らより疾(ト)く敗戦知りし通信兵(ヘイ)安さかこもつ口に出ださず
  ・電文は敗戦のうつつ否むがに「終戦」という新語につづる
  ・復員の見込みを問いし士官いま戦犯指名にひかれゆきたり
  ・戦犯指名を恐るるならむ強姦(オカ)せしを誇りいし古兵(ヘイ)は口を閉ざしつ
  ・敗残の日匪(ニッピ)おとなう郷長の心ひろきに額(ヌカ)深く垂る
  
復員列車とは名ばかりの、貨物列車に乗る日がきた。徐州駅に向かう途次、かつて耳漏(ミミダレ)をなおしてやった子等が通りに端に立ち、「再見(ツァイチェン)」「渡部(トウベエ)」を連呼し、しばらく添い走った。
  ・徐州市ゆ復員列車に乗る日来ぬ子等の走り出で「再見(ツァイチェン)!」「渡部(トウベエ)!」
  ・再見(ツァイチェン)の続けさまなる声きけばわけの分らぬ涙あふれ来
  ・わが乗れる復員列車襲われぬ土匪(ドヒ)ぞ物みな奪い去りたり
  ・南方(ミンナミ)の鉄道敷設に使役とうデマ飛びかいて兵等ふためく
  ・駅ごとにとまる列車にあびさるるののしりさげすむ言のきびしき

 揚子江(長江、江)左岸にテントを張る
  ・河南より江の左岸に立つひとり敗残なるもこころ誇りて
  ・チフスいずる噂流れぬ北風に肌曝(サラ)しつつ虱とりする
  ・口ぶりはいささ変わるも士官等の面に傲りはなお著(シル)く見ゆ
  ・江岸にののしりあぶる生霊(イキリョウ)の恨みの声を天皇(スメラギ)よ聞け
  ・医薬(クスリ)なく糧(カテ)さえ足らぬ幾万の兵の朝夕(アサヨ)を大臣(オトド)来て見よ
  ・北支派遣の総大将はとうのはて逃げ帰りしか噂広まる
  ・軍衣袴にメモを縫込めリバティーに乗ればほとするわが青春の記
  ・復員(カエリ)なば積み置きたりし書(フミ)の山手当たり次第読まむたかぶり

復員し故山へ
  ・権力(チカラ)もて時代(トキ)の青春剥ぎとりしこの祖国みよ焼野原なり
  ・復員に疑うべくもなきうつつ民族(タミ)を見下ろす占領軍あり
  ・戦野(イクサノ)に傷みし心犒(ネ)ぎ給う師のやさし多摩の川辺に
  ・垂る涙のごわず母は息子(コ)に語る物資配給に受けし八分を
  ・復員しいま古里に斑雪(ハダレ)みる平和とうもののなんと尊し
  ・「検事等はかわたれすでに家(ヤ)を囲み父を逮捕す」母の言(コトト)鋭し
  ・釈放(トキハナツ)時期(トキ)を質して検事等に母迫りしを妹等(コラ)は告げたり
  ・「スパイの子」われ復員すむら人等息をしつめてかいまみるがに
  ・楽し気に童子(ワラシ)の頃の吾(ア)を語る女(メ)を癒したし叶わざれども
  ・「案ずるな」偽りめくを抑えつつ臨終(イマワ)の近き子守女(コモリメ)に言う
        
極東軍事裁判始まる
  ・戦陣訓垂れたる将の肥え太りその腹切れず囚われにけり
  ・囚われの将等は責任(セメ)を否みつつ戦陣訓に背き縊らる
  ・戦犯の絞首をつぐる新聞もラジオニュースももの足らぬなり
  ・戦争(タタカイ)の敗れ幾年すぐるとも民族(タミ)が負うべき責任(セメ)は変らず
  ・戦争の責任ぼかされて歪みゆく時代(トキ)の流れを正すすべなし
  ・天皇(スメロギ)の戦争責任なしとうはアジアの民族(タミ)の容れぬことわり
  ・強いられし傷み残れど侵略をなしたる民族(タミ)のひとりぞわれは
  ・国内(クナウチ)を廻りて止まぬ天皇(スメロギ)に開戦責任国民(タミ)は問わざり


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南京大虐殺と外交官 石射猪太郎ーーーーーーーーーーーーーーー

 10月16日の朝日新聞夕刊に「慰安婦巡るクマラスワミ報告 政府が一部修正を要請 本人は拒否」という記事が掲載された。日本政府の報告書修正の要請は、クマラスワミ報告が吉田清治氏(故人)の著作を一部引用しているからであり、朝日新聞が先だって吉田氏の証言を虚偽と判断し、証言を報じた過去の記事を取り消したことに対応したものであろう。

 クマラスワミ氏は「証拠の一つに過ぎない」として修正を拒んだというが、その詳細はわからない。私は、クマラスワミ氏が「日本政府が国家的に行うべきである」とした「勧告」 の下記6項目に誠実に取り組むことなく、報告書の修正を要請することに違和感を感じると同時に、元「慰安婦」の証言を最も重視したというクマラスワミ氏 が、中国や韓国の政府と同様、日本政府の姿勢に歴史修正の動きを感じ、報告書修正の要請に応じなかったのではないか、と想像する。

クマラスワミ6項目の勧告ーーー
A 国家レベルで
137. 日本政府は、以下を行うべきである。
 (a)第2次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下で その義務に違反したことを承認し、かつその違反の法的責任を受諾すること
  (b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権および基本的自由の重大侵害被害者の原状回復、賠償および更正への権利に関する差別防止少数者保護小委員 会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支払うこと。多くの被害者がきわめて高齢なので、この目的のために特別の行政的審査会を短期間内に設 置すること。
 (c)第2次大戦中の日本帝国軍の慰安所および他の関連する活動に関し、日本政府が所持するすべての文書および資料の完全な開示を確実なものにすること。
 (d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される女性個々人に対し、書面による公的謝罪ををなすこと。
 (e)歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること。
 (f)第2次大戦中に、慰安所への募集および収容に関与した犯行者をできる限り特定し、かつ処罰すること。
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 また、私たちはクマラスワミ報告書の一部をたとえ修正したとしても、元慰安婦の「問題」はかわらずにあることを忘れてはならないと思う。元慰安婦の証言だけではなく、1993年(平成5年)8月4日、日本政府が「慰安婦関係調査結果」として発表した『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』に多くの日本の関係資料が入っている(河野談話はその発表にあたって語られたものである)。「慰安婦」の問題は、吉田証言や朝日新聞の報道によって作り出されたものではないということである。

 「慰安婦」の問題と同じように、もうひとつ気になる問題がある。「南京大虐殺」の問題である。日本の一部学者や研究者とその支持者が、国際社会ではとても受け入れられないであろうと思う主張を繰り返しているのである。

 たとえば、「南京大虐殺は中国の作り話」とか、「南京大虐殺は連合国の創作」とか、「南京の軍事法廷もデタラメの復讐劇」というような主張があり、また、「東京裁判でアメリカが原爆の被害を小さく見せるために、それを上まわる虐殺数30万人説を突然持ち出した」というような主張である。そして、「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」などという、当時の軍が作成し提供したのではないかと思われるような新聞の記事や写真も活用され、「南京戦で日本軍は非常に人道的で、攻撃前に南京市内にいた民間人全員に戦火が及ばないように、南京市内に設けられた「安全区」に集めた為に日本軍の攻撃で、安全区の民間人は誰一人死にませんでした」などというのである。「中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた」という文章も目にした。私は、それらは歴史の修正ではないかと思う。ここでは「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)から、そうした主張に疑問を感じさせる「南京大虐殺」に関わる記述を抜粋した。当時東亜局長という立場にあった外交官の文章である。

 また、「バネー号、レディー・バード号事件」と題された部分の文章も抜粋したが、「海軍機の過失によって、撃沈された」というのは、どうも疑わしいようなのである。
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                           東亜局長時代──中日事変

 南京アトロシティーズ

  南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南 京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺 が危ないとさえ報ぜられた。1938年(昭和13年)1月3日の日記にいう。

 上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
 南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。

  私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまり にも大量な暴行なので、手のつけようがなかったのだろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員 会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和13年1月末、数日間の出来事として、70余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、 60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正 のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。

 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。

  日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非 難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千子の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであった。


 バネー号、レディー・バード号事件

  わが軍の南京攻略に際して、揚子江停泊中のアメリカ艦バネー号と、イギリス艦レディー・バード号がそば杖を食った。バネー号はわが海軍機の過失によって、 撃沈されたのである。アメリカからの厳重な抗議に対して、日本政府は平あやまりにあやまり、海軍はすぐ責任者を処分した。この時の海軍の処置ぶりはあざや かであった。一時沸騰したアメリカの世論がそれで納まった。

  日本の子供までが事件を心配して、在京のアメリカ大使館に同情の手紙を寄せたり、救恤のたしにとお金を送ったりしたことが新聞に見えた。本当に童心から出 た誠意なのであろうか。私はちょっと不純さを感じた。その頃、日本国民の頭には米主英従とでもいうか、イギリスはどうでもよいが、アメリカのご機嫌は損じ ないようにとの空気がしみこんでいた。それが童心にも反映したのかもしれなかった。

  レディー・バード号は、蕪湖沖で橋本欣五郎大佐の砲兵隊から撃たれたのである。イギリスからやはり厳重な抗議が来たが、陸軍は素直に非を認めようとしな い。イギリス艦の方で煙幕を張って、敗残中国兵を収容したのが悪いのだ、などと虚構の説を言いふらして頑張ろうとしたが、結局陸軍も、イギリスに対する謝 罪には反対しきれなくなった。ただ明らかにこの事件の責任者である橋本大佐を、どうにもし得ないのだ。12月末、私がイギリス謝罪文の案を確定するために 陸軍省に行った時、橋本大佐を処分しきれない手ぬるさをなじると、町尻軍務局長は、軍の内部状勢上、彼を処分し得ない事情を諒察されたい、と逃げるので あった。
 一予備大佐ながら、軍も憚らねばならぬ橋本大佐の威力は、英雄的であるというべきであった。

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南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件ーーーーーーーーー


 1937年12月13日の南京陥落前日、日本海軍機が揚子江上において、米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させた。日本軍の砲弾 を避けるため南京上流に移動中のパナイ号(バネー号)には、艦長のジェームズ・J・ヒューズ少佐以下将校・乗組員59名、南京アメリカ大使館員4名、アメ リカ人ジャーナリスト5名、アメリカ商社員2名、イギリス人ジャーナリスト1名、イタリア人ジャーナリスト2名、他1名が乗船していたという。

  アメリカでは、事件後主要紙がパナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官 ジョージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解としたアメリカ海軍当局査問委員会の報告書等を、次々に全文掲載したとい う。また、あわせて様々な情報に基づく南京大虐殺の報道も加わったため、アメリカ全土で、日本商品ボイコット運動が広がっていったという。 

  また、同日、橋本欣五郎大佐の指揮する第10軍野戦重砲兵第13連帯が、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加え、レディーバード号旗 艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長から抗議を受けている。そのとき、橋本欣五郎大佐が長江上にあるすべての船を砲撃するように命令され ていることを認めた、とビー号に乗艦の参謀長が英国代理大使ホーウィに打電しているという。その命令に関して、『日中前面戦争と海軍 パナイ号事件の真相』笠原十九司(青木書店)に次のようにある。
ーーー
 橋本が長江上のすべての船を砲撃せよとの命令を受けていたというのは、前日12月11日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第10軍が発した丁集団命令(丁集団司令官・柳川平助中将)であった。それは、
1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続き退却するものと判断せらる
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし
というものであった。
 
 これは、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出を図っているという情報が日本側に流布されていたことによる。

 漢口のアメリカ大使館には、12日の朝のレディーバード号事件に続いて、午後に発生した海軍機による英国砲艦クリケット号とスカラブ号に対する爆撃事件の経緯も伝えられた。

 ・・・

 両艦は3度の空襲をうけたが、反撃が素早く行われたため、爆弾は至近に落とされたものの直撃弾をうけなかったので、船体には目に見える被害はなかった。そのため、日本軍機の空襲は無線通信によりすぐに漢口の英国大使館にも報告されたのである。

 なお、英国汽船黄浦号には、南京から最後の脱出をしたローゼン書記官ら数人のドイツ大使館員が乗船していて、日本軍機に爆撃されるという運命に遭遇した。このため、ドイツ外務省は、駐日ドイツ陸軍武官に訓令して日本政府に抗議させている。
ーーー
 同じ12月12日 米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」の安否をめぐって、南京─漢口─ワシントン─東京の間を電波があわただしく行き交った。再び同書より抜粋する。
ーーー
 まず、揚子江警備隊司令官から中国駐留米軍総司令官への作戦情報として以下の電報が発信された。

 ” パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上流への移動を余儀なくされた。ジャップはパナイ号の周辺にいるジャンク船や小舟を狙って砲撃しているものと信じら れる。午前9時に、イギリス艦レディバード号が蕪湖のアジア石油施設の近くでジャップの砲列の攻撃を受け、4発の砲弾が命中し、水兵一人が死亡、数名が負 傷した。イギリス砲艦ビー号も直接の砲火にさらされているが、まだ被弾していない。”

  漢口のジョンソン・アメリカ大使はそれまで何度か日本政府・軍部に対して、パナイ号への攻撃を避ける措置をとるよう要請してきた。これを受けて駐日アメリ カ大使のジョセフ・C・グルーは、広田引毅外相を訪問して、ジョンソン大使の電報の抜粋を手渡し、「日本の砲兵部隊は、長江上のあらゆる船を国籍を問わず 砲撃するようにと命令されているというが、もしも無差別にアメリカ船を攻撃することを阻止しるよう手段を講じなければ、アメリカ市民も被害に巻き込む深刻 で悲しむべき事件が起こるであろう」と警告した。そのときの広田の対応は事務的で、「すべての外国人は南京の戦闘区域から避難するように警告されているは ずだ。それでも、あなたの報告は軍当局に伝えておきましょう」と述べただけだった。

  長江上のイギリス砲艦が砲撃を受けたという情報に接して、不安にかられていたジョンソン大使は、この日午前11時、パナイ号のアチソンから「日本軍にパナ イ号の位置を報せたし」と同号の投錨地を知らせる電報を受信し、ひとまず安堵の胸をなでおろした。しかし、その電報を最後に、午後1時をすぎてもアチソン からの報告が入らなくなり、漢口のアメリカ大使館に焦慮の雰囲気がただよった。そして、ついに揚子江警備隊司令官よりパナイ号からの通信が途絶えたという 連絡が入ったのである。ジョンソン大使はただちに、ワシントンの国務長官宛に次のように打電した。

 ” 揚子江警備隊司令官は、本日、13時35分以後、パナイ号との交信が不能となっています。日本陸軍が江上の船舶すべてに対する砲撃命令を発したとの情報が あります。本日、南京付近および蕪湖にてイギリス艦に砲撃があったことに鑑み、直ちに東京に連絡し、日本外務省に緊急申し入れを行うこと、また、アメリカ 人避難民を乗せているパナイ号、およびスタンダード石油の船舶の所在についても通告するよう願います。呉松上流221マイル地点に投錨、がパナイ号からの 最新の報告でした。”

 パナイ号との通信が途絶え、焦慮感ただよう漢口のアメリカ大使館に、不吉な思いをつのらせる以下の電報が、揚子江警備隊司令官から届いた。

 ”護衛船をともなった英国砲艦クルケット号とスカラブ号は、南京上流12マイル(約19.2キロ)の地点で午後3回にわたって空襲される。18発の爆弾が落とされる。1発が商船に命中したほかは命中弾なし。2隻の砲艦とも攻撃してくる飛行機に対して発砲した。”

 こうした情報に接した漢口のジョンソンアメリカ大使は、パナイ号やアメリカの商船にも同様な攻撃が行われ、恐るべき惨事が発生する可能性を察知し、国務省から日本政府に対して、緊急に予防措置をとるよう要請してほしい旨の電報を打たせた。

 ” 本日午後、英国砲艦スカラブ号とクリケット号は、外国人避難者を乗せたジャーディン倉庫船と商船黄浦号と一緒のところを故意に爆撃された。死傷者はなかっ た、と報告されているが、倉庫船には南京を避難したアメリカ人が乗っているので、国務省は緊急に東京に訓令して、日本政府が今後このようなことが起こるの を阻止するための命令を出すよう、圧力を加えられたし。
 本日、蕪 湖の日本軍は、イギリス人に対して、日本軍守備隊は長江のすべての船に発砲するよう命令を受けていると言っている。もしも日本軍が、これらの船は友好国の ものであり、アメリカ人と他の外国人の避難のために用意されたものにすぎないことを理解しなければ、恐るべき惨事が起こるように思われる。”
ーーー
 ジョンソン・アメリカ大使が、通信の途絶えたパナイ号が災難に遭遇する予感に襲われ、懸命に防止措置をとろうと外交努力をしていたとき、すでに惨事は進行していたという。 

  東京の駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルーが、広田弘毅外相に対し、中支那方面軍当局にアメリカ人の生命・財産を攻撃しないように厳重措置をとるよう要 請したのみならず、上海のガウス米国総領事も同地の岡本季正総領事にパナイ号の位置を知らせ、関係方面への通報を要請したという。にもかかわらずパナイ号 は撃沈された。

 そのパナイ号は、煙突は純黄色、船体は白塗りで、アメリカ艦であることを明確にするために、上甲板の前と後の屋上に水平に大きな星条旗を新しく描 き、上空のどの角度からも識別できるようになっていたとのことである。また、後尾のポールには、緊急事態に備えて最大の軍艦旗が常時掲げられいたという。 そして、当日は晴天であった。

 また、長江を遡っていたパナイ号のヒューズ艦長は、第10軍国崎支隊キ下の永山部隊主隊に発見され、手旗信号で停船を命じらて、乗り込んできた大隊副官の村上繁中尉とやり取りをしている。村上中尉らは、パナイ号が「日支交戦区域より避難せるものにして他意なし」 ということが確認できたとして握手をしたのち、またボートに乗って艦を離れたというが、その後、砲撃を受けたために沈没しつつあったパナイ号から脱出して 北岸に向かった2隻の救命ボートに機関銃掃射を加えたのは、午前中にパナイ号に乗り込んだ村上繁中尉の指揮する大発(大型発動艇)であったという。さら に、沈みつつあったパナイ号に接近し、機関銃掃射を加えた日本軍の哨戒艇が、同じ第10軍国崎支隊所属の永山部隊の支隊であったというのである。

 そうした事実を踏まえると、その時パナイ号に乗船していた南京アメリカ大使館二等書記官アチソンの、

 我々が隠れている湿地から脱出する道を探しているときでした。爆撃機3機からなる日本の飛行隊が、長江上流の空からやってきて我々の上を飛びました。そのうちの一機が我々が負傷者を隠し、我々も隠れている湿地の葦原の上を旋回しました。
 この飛行機の行為とさきの日本軍哨戒艇の行為をパナイ号爆撃という信じがたい事実と結びつければ、日本軍が爆撃の証言者を抹殺するために、我々を探していたということは疑問の余地がありません。

  という主張が理解できる。繰り返しての抗議や要請、また当日は晴天で、視界は良好であったという事実、さらには爆撃や砲撃の状況を考慮すると、日本側の 「誤爆の弁明と陳謝」は不可解である。パナイ号事件もレディーバード号事件も、他国の事情や国際法を考慮しない日本軍の強引な軍事行動で、南京無差別爆撃 ともいえる南京空襲や南京大虐殺と同質のものではないかと疑わざるを得ない。日本軍は多くの市民が住む南京の市街地を空襲し、逃げ延びようとする中国兵の みならず、「殲滅掃討作戦」で戦意を喪失し武器を放棄した投降兵や敗残兵、さらには避難民をも殺害した事実があるからである。


ーーーーーーーーー南京大虐殺 河辺虎四郎 松井石根戒告文書ーーーーーーーーーーー

南京大虐殺に関する数々の証言が、中国ばかりではなく日本国内にも多々あり、当時欧米で広く報道されていたにもかかわらず、「南京大虐殺」は「まぼろし」だとか、「虚構」だとか、「捏造」だとかいう主張が、今なお様々な場面で繰り返されているようである。だから、南京大虐殺の事実の証言や記述の中には、その事実を認めたくない立場の人物のものが含まれていることを見逃してはならないと思う。 

  当時の日本では、当然のことながら、一般国民には何も知らされなかったようであるが、外務省はもちろん、軍の中央部にも掠奪、放火、強姦、虐殺等の事実は 知っていた。そして、それを放置できなかったので、当時の参謀本部作戦課員だった河辺虎四郎は、参謀長 閑院宮載仁親王(カンインノミヤコトヒトシンノウ)の名で、松井石根方面軍司令官に対し、異例の「戒告」の文書を発したのであろう。彼は、その文書は自分が起案したと、回顧録『市ヶ谷台から市ヶ谷代へ─最後の参謀次長の回想録─』河辺虎四郎(時事通信社)に、下記(資料1)のように書いている。河辺は、それが「後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実」であったと認めているのである。彼が、そうした事実を認めたくないということは、「軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸(ヨウヤ)ク繁ヲ見 之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚(ナオ)疑ハザルベカラザルモノアリ」(資料2)との表現で、明確である。 

 抑制した表現ではあるが、まさに「軍紀風紀に於て忌しき事態の発生」を戒めたのである。「兵員新陳代謝」が御前会議で取り上げられたことは、その重大性を意味しているのではないかと思う。また、松井方面軍司令官は1938年2月に解任されているが、これは事件の責任を負うたものとされているようである。

 当時陸軍省の兵務課長(軍紀風紀の担当)に就任していた田中隆吉は、事件のことを「世界史上最もひどい残虐行為」 だとし、憲兵や兵務課で、軍司令官や師団長ら責任者を軍法会議にかけることを検討したが、参謀本部が反対したので、実現しなかったと述べているという。軍 当局は、特に海外での事件の反響の大きさに苦慮して、現地軍司令官に異例の戒告文書を発したのである。そして、それを否定することが出来なかったので、参 謀長の要望を受けて、中支那方面軍はただちにその趣旨を隷下部隊に通牒したのである。その通牒と戒告の文書を、『南京戦史資料集1』(財団法人 偕行社)から抜粋したのが、資料2である。 

資料1--------------------------------------ーーーーーーーーーー
                        第3章 第二次大戦前の十年

第七節 華北事変勃発と事変初期

 作戦休憩案

 事変の様相は茲に重大な一転機に来た。当時における私の立場から、何事か即急な作戦上のきめ手を案ずるよりも、むしろ形而上下戦場の粛清をなすべしと信じた。
 私らはむろん当時の中国戦場における一戦闘一会戦には勝利の確信を持ってはいたが、戦面および占拠地域のひろまるに伴い、単に要地要衝を抑えておくだけにも、それがための総合兵力は、わが国全体のそれに比して、はなはだ多量を必要とする。

  私らは事変勃発後ほどなく事態拡大の徴を見たとき、全軍の半数15師団をもって、約半年間戦争を持続することを目安として、軍需動員に着手すべきだとの意 見を立てて、大体その趣旨が採用されたのであった。しかるにいままさに半年が経過したが、戦場兵力は既に15師団を上回り、しかも戦局の前途にはなんらの 予想がつかず、「亡羊の嘆」なきを得なかった。
 しかも広い「占拠地域」の内部は、おおむね点と線との「占拠」であって、日とともに共産反日のゲリラは繁殖して来る。

 こうした一般の情勢のほかに、軍中央部の一員である私どもにとり、はなはだ気になってきたことは、戦場軍隊の士気であった。
  前年の夏動員された在郷の将兵は、”お正月までには帰ってくるヨ”と妻子を慰撫して家を出た者も少なくなかった。一気呵成にここまで来たものの、前途果た して如何になるか、”相手にしない”といってみたとて、相手がこちらを相手として来る「戦争」というものの本質をどうしよう。華北にせよ華中にせよ、戦場 兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わってくる。南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下には浸透しなかったらし い。外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかっ た事情もあったようであるが、いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現れた。

 南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、”まことにすまぬ”と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。
  そこで私らは、今後如何なる態勢に移るにしても、まずもってこの際戦場に新鮮な補充兵を送り、軍隊士気の一新是正をすることが肝要だと痛感した。そしてそ れがためには、夏季を含む数ヶ月間、中国戦場にある各兵団に対し、その戦面を現在線より拡大することを禁じ、占拠地を確保して防支の姿勢を固め、兵員新陳 代謝と、正しい意味の戦場墳熱訓練をさせるべきだと信じた。この趣旨は上司からの同意を受け、海軍側も遂に了承してくれたので、御前会議においての決定を 仰ぎ得た。

 私はこの決定をもって、昭和13年2月末東京を発し、北京(寺内大将)、張家口(蓮沼中将─後の大将)、新京(植田大将)、および京城(小磯大将)の各軍司令部を歴訪し、各長官に直接伝達した。
 華中方面(畑大将)には、その軍参謀長(私の実兄、正三少将)が新任に際し、ちょうど東京に来たので、これに伝えられた。
  京城に私が行ったとき、小磯大将は、大本営の決定をとやかくいうのではなく、この趣旨を遵奉するのであるが……、と前置きして、個人の所見を君(私)の参 考までとて、大将の腑に落ちぬ諸点を一席述べられたが、私が、戦略上の御所見まことにごもっともと存じますが、軍隊の実情私らの見るところかくかく……、 と述べたところ、大将の独特な明快さをもって、”そうか、よくわかった、ご苦労さま”との結語を吐かれた。
 右のように一応全軍的に、「作戦休憩案」が伝わったのであった。しかしそれは忽ちに崩れたらしく、私はこの直後に転任して後ほどなく、徐州会戦が起こった。
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○軍紀風紀に関する参謀総長要望

 中方参第19号

                        軍紀風紀ニ関スル件通牒 
                          昭和13年1月9日
                                             中支那方面軍参謀長 塚田 攻
 両軍参謀長 
 直轄部隊長宛
 中支監
一、 首題ノ件ニ関シテハ各級団隊長ノ適切ナル統率指導ノ下ニ之カ振粛ニ邁進セラレアルヲ信スルモ今回    参謀総長宮殿下ヨリ別紙写シノ如キ要望ヲ賜 リタルニ就テ ハ此際軍紀風紀ノ維持振作ニ関シ最大ノ努
   力ヲ払ハレ度尚軍紀風紀並ニ国際問題ニ関シテハ今後陸軍報告規定ニ準ジ其緩急ニ従ヒ電話・電信又
   ハ文書ヲ以テ迅速 ニ其概要ヲ報告シ更ニ詳細ナル報告ヲ呈出セラレ度

 右依命通牒ス

(別紙)

 顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半蔵ニ邇シ其行ク所常ニ必ズ赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ中外斉シク之ヲ絶讃シテ止マズ 皇軍ノ真価愈々加ルヲ知ル然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ヘハ未タ瑕瑾ノ尠カラザルモノアルヲ認ム
 就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見之ヲ信セサラント欲スルモ尚疑ハサルヘカラサルモノアリ
 惟フニ1人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ一隊ノ過誤モ遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルモノニ至ラン

  須ク各級指揮官ハ統率ノ本義ニ透徹シ率先垂範信賞必罰以テ軍紀ヲ厳正ニシ戦友相戒メテ克ク越軌粗暴ヲ防キ各人自ラ矯テ全隊放縦ヲ戒ムヘシ特ニ向後戦局ノ推 移ト共ニ敵火ヲ遠サカリテ警備駐留等ノ任ニ著クノ団隊漸増スルノ情勢ニ処シテハ愈々心境ノ緊張ト自省克己トヲ欠キ易キ人情ヲ抑制シ以テ上下一貫左右密実聊 モ皇軍ノ真価ヲ害セサランコトヲ期スヘシ

 斯ノ如キハ啻ニ皇軍ノ名誉ト品位トヲ保続スルニ止マラスシテ実ニ敵軍及第三国ヲ威服スルト共ニ敵地民衆ノ信望敬仰ヲ繋持シテ以テ出師ノ真目的ヲ貫徹シ聖明ニ対ヘ奉ル所以ナリ

 遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ困難ナラシメル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル 

 然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ努力ヲ望マザルヲ得ズ 或ハ沍寒ニ苦シミ或ハ櫛風沐雨ノ天苦ヲ嘗メテ日夜健闘シアル外征将士ノ心労ヲ深ク偲ビツツモ断シテ事変ノ完美ナル成果ヲ期センカ為茲ニ改メテ軍紀風紀ノ振作ニ関シ切ニ要望ス
 本職ノ真意ヲ諒セヨ
  昭和13年1月4日
                                        大本営陸軍部幕僚長    載仁親王

 中支那方面軍司令官宛

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参考(読み仮名)
  顧(カエリ)ミレバ・邇(チカ)シ・赫々(カウカク)タル・斉(ヒト)・愈々(イヨイヨ)然(サ)レ共(ドモ)・瑕瑾(カキン)ノ尠(スクナ)カラザルモノ・漸(ヨウヤ)ク・尚(ナオ)・惟(オモ)フニ・遡(サカノボリ)・直(タダチ)・克(ヨ)ク・之(コレ)



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南京空襲 対支作戦 日本軍の南京入城ーーーーーーーーーーーー

日中全面戦争につながる盧溝橋事件が起きたのは1937年(昭和12年)7月7日である。事件後の日中間の衝突は複雑で、その詳細についての把握は難しい。しかしながら、『現代史資料9 ─ 日中戦争2』(みすず書房)の中には、下記のように考えさせられる資料がある。

 まず、盧溝橋事件以後、一週間も経過していない7月12日に策定された「対支作戦用兵に関する内示事項」(資料1)である。第29軍の膺懲を目的としながら「宣戦布告」はしないという。また、二の用兵方針(2)には、第二段作戦として「上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむと共に居留民を現地保護す」 とある。居留民の保護はよいとして、この時点で外交交渉を考慮せず外国領土である上海や青島に「作戦基地」を持つという計画が許されるのか、と思う。まだ 第2次上海事件前である。さらに驚くのは、7月12日の時点で、南京空襲が視野に入っていることである(二 用兵方針(2)の(ヲ))。

 また、この「対支作戦用兵に関する内示事項」の作戦指導方針ニ関シ」、時の第三艦隊司令長官・長谷川清中将が意見具申をしているが(資料2の「対支作戦用兵ニ関スル第三艦隊司令長官ノ意見具申」)、「支那第29軍ノ膺懲ナル第1目的ヲ削除シ、支那膺懲ナル第2目的ヲ作戦ノ単一目的トシテ指導セラルルヲ要ス」と、その「第一段作戦」をとばしていきなり「第二段作戦」に入るべきだという。盧溝橋事件の際に日本軍に抵抗した第29軍の膺懲が、支那膺懲にとってかわるのはなぜなのか、と思う。あまりにも手前勝手な論理ではないか。

 さらには、「支那ノ死命ヲ制スル為ニハ上海及南京ヲ制スルヲ以テ最要トス」といっていることも大問題だと思う。「居留民の保護」が、最重要課題なのではないことがわかる。それを裏付けるように、7月28日には海軍次官(山本五十六中将)・軍令部次長(島田繁太郎中将)が「漢口上流居留民引揚ノ指示」を発している。第2次上海事件前に、着々と首都「南京攻略」を含む作戦の準備が進められていたということであろう。そして、それらが作戦通り実行されたことは、その後の「命令・指示」(資料3、資料4)でわかる。

 日本がそうした作戦をもって軍を派遣すれば、現地でトラブルが発生することは当然予想されるが、案の定8月に第2次上海事変がはじまり、8月15日には日本本土から海を越えた攻撃、「渡洋爆撃」が敢行された。『戦略爆撃の思想 ゲルニカ─重慶─広島への軌跡』前田哲男(朝日新聞社)には

1937 年8月15日。日本政府による「対支膺懲」声明発出の日、同じく中国全土に「対日抗戦総動員令」の下った日は、また蒋介石政権の所在地・南京に対して、日 本本土から海を越えた攻撃、「渡洋爆撃」の敢行された日とも重なっていた。この日、長崎県大村基地を発進した新鋭の九六式陸上攻撃機20機は、折からの低 気圧をついて洋上約600キロを含む南京上空までの960キロを4時間で飛翔、各機12発ずつ抱いた60キロ陸用爆弾を、目標とされた2ヶ所の飛行場周辺 に投下したのである。同日、台北基地からも九六式陸攻14機による江西省・南昌への渡洋爆撃が実施された。

 とある。そ してその後、8月31日まで23回の南京空襲が行われたのである。ドイツ製高射砲の被害を避けるため、その多くは夜間空襲であったという。南京市民は機影 の見えない爆撃機の轟音と空襲警報のサイレンに怯える日々であったが、日本軍が毒ガス弾を使用すると伝えられていたため、空襲警報発令とともに暑い夏に窓 を閉め切らねばならず大変であったいう。南京市立図書館なども爆撃され、市民の死傷者も多かったようである。『南京難民区の百日─虐殺を見た外国人』笠原十九司(岩波書店)には

在南京のアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの五カ国の外交代表は共同して、日本が宣戦布告もしていない中国の首都を爆撃し、非戦闘員を殺害したことは、人間性と国際道義に反するものであるとして、爆撃行為の停止を日本政府に要求した

とある。
  しかしながら、日本帝国議会は、この「渡洋爆撃」の戦闘実績に動かされ、多額の航空戦力補備予算を認めたという。また、上海公大飛行場の建設・整備が整 い、第二連合航空隊(司令官三竝貞三大佐)が大連の周水子基地から移駐してきたため、夜間空襲に代えて戦闘機の護衛つき空襲が可能になると、「航空決戦」と称する激しい空襲が展開されたのである。9月19日から25日にかけて11回延べ289機が出撃して行われた南京空襲は、8月の空襲よりいっそう悲惨なものであったという。

  日本軍機による都市爆撃は、下記資料4の命令・指示を見てもわかるが、南京ばかりではなく、杭州や南昌その他の都市にもおよび、10月中旬までに華中、華 南の大中小都市60ヶ所以上が被害をうけたという。それらがすべて「南京陥落」前の話なのである。日本軍の南京入城は1937年12月13日、「平和甦る 南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」というようなことがあり得るだろうか。

資料1--------------------------------------------------
           三 対支作戦用兵に関する内示事項(差当り統帥部腹案として内示せらるべきもの)(7月12日軍令部策定)

一 作戦指導方針
(1)自衛権の発動を名分とし宣戦布告は行はず但し彼より宣戦する場合又は戦勢の推移に依りては宣戦を布告し正規戦となす。
(2)支那第29軍の膺懲を目的とし為し得る限り戦局を平津地域に局限し情況に依り局地戦航空戦封鎖戦を以て居留民保護及支那膺懲の目的を至短期間に達成するを本旨とす。
(3)海陸軍共同作戦とす。
 
二 用兵方針

(1)時局局限の方針に則り差当り平津地域に陸軍兵力を進出迅速に第29軍の膺懲の目的を達す。
   海軍は陸軍輸送護衛竝に天津方面に於て陸軍と協力する外対支全力作戦に備ふ(第一段作戦)
(2)戦局拡大の場合概ね左記方針に依り作戦す(第二段作戦)
  (イ)上海及青島は之を確保し作戦基地たらしむと共に居留民を現地保護す。
    爾他の居留民は之を引揚げしむ。
  (ロ)中支作戦は上海確保に必要なる海陸軍を派兵し且主として海軍航空兵力を以て中支方面の敵航空勢力を掃蕩す。
  (ハ)北支作戦は青島は海陸軍協同して之を確保し爾他の地域は陸軍之を制圧す。
  (ニ)陸軍出兵は平津方面に対する関東軍、朝鮮軍より応援するもの竝に内地より出兵する3箇師団の外上海及青島方面に2箇師団の予定にして其の配分情況に依る。 
  (ホ)封鎖戦は揚子江下流及浙江沿岸其の他我兵力所在地附近に於て局地的平時封鎖行ひ支那船舶を対象とし第3国との紛争を醸さざるを旨とす。
    但し戦勢の推移如何に依りては地域的にも内容的にも之を拡大す。
    (ヘ)支那海軍に対しては一応中立の態度及現在地不動を警告し違背せば猶予なく之を攻撃す。
  (ト)当初第三艦隊は全支作戦に第二艦隊は専ら陸軍の輸送護衛に任ず。
    青島方面に出兵するに至らば北支作戦は第二艦隊之当り中南支作戦は第三艦隊之に任ず。
    作戦境界を海州灣隴海線の線(北支作戦含む)とす。
  (チ)南支作戦は充分有力なる指揮官竝に部隊を以て之に充て第三艦隊司令部は中支作戦に専念し得る如く編制を予定す。
  (リ)馬鞍群島には水上機基地艦船燃料補給等の為前進根拠地を必要とし之が所要兵力を第三艦隊に編入せらるる如く編制予定す。
  (ヌ)輸送護衛は第二艦隊之に任じ青島方面出兵後上海方面に出兵の場合其の輸送護衛は第三艦隊主として之に当り第二艦隊之に協力す。
  (ル)上海陸戦隊は現在派遣のものの外更に2箇大隊を増派し青島には特別陸戦隊2箇大隊を派遣す何れも其れ以上に陸戦隊必要とする場合は一時艦船より揚陸せしむ。
    (ヲ)作戦行動開始は空襲部隊の概ね一斉なる空襲を以てす。
   第一(第二)航空戦隊を以て杭州を第一聯合航空隊を以て南昌南京を空襲す爾余の部隊は右空襲と共に機を失せず作戦配備を完了す。
   第二聯合航空隊は当初北支方面に使用す。
   空中攻撃は敵航空勢力の覆滅を目途とす。
  (ワ)右空襲に先だち揚子江上流竝に廣東警備艦船は所要の地点に引揚げるを要す。
(3)上海及青島方面に派遣せらるる陸軍との作戦協定は未済なるも当部協定案の大要左の如し。
  (イ)上海及青島方面派兵を必要とする場合とならば上海方面は混成1箇旅団青島方面は1箇聯隊程度の先遣部隊を急派す。
  (ロ)海軍艦船を以て為し得る限り陸兵輸送を援助す。
三 作戦部隊編制(内案)別表第一の通(略)
 天龍、龍田は第二艦隊司令長官北支作戦指揮の場合は其の指揮下に入らしめらるる予定。
四 作戦部隊軍隊区分(参考案)別表第二の通(略)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               五五 対支作戦用兵ニ関スル第三艦隊司令長官ノ意見具申(昭和12年7月16日)

  対支作戦用兵ニ関スル意見

一、作戦指導方針ニ関シ
 支那第29軍ノ膺懲ナル第1目的ヲ削除シ、支那膺懲ナル第2目的ヲ作戦ノ単一目的トシテ指導セラルルヲ要ス
 (理由)一、武力ヲ以テ日支関係ノ現状打開ヲ策スルニハ支那膺懲即チ現支那中央勢力ノ屈服以外ニ途ナシ
     二、支那第29軍ヲ膺懲スルモ前項支那膺懲ノ実質的効果ナシ
     三、戦局局限ノ方針ニ依ル作戦ハ期間ヲ遷延シ且敵兵力ノ集中ヲ助ケ我カ作戦ヲ困難ナラシムル虞大ナリ
二 用兵方針ニ関シ
 (一)当初ヨリ戦局拡大ノ場合ノ作戦(所謂第二段作戦)ヲ開始セラルルヲ要ス
 (理由)一項の部ニ同シ
  (二)中支作戦ハ上海確保及南京攻略ニ必要ナル兵力ヲ以テスルヲ要ス
 (理由)支那ノ死命ヲ制スル為ニハ上海及南京ヲ制スルヲ以テ最要トス
 (三)中支作戦ノ為派遣セラルル陸軍ヲ5箇師団トスルヲ要ス。
 (理由)前号ノ理由ニ同シ
 (四)開戦劈頭ノ空襲ハ我ノ使用シ得ル全航空兵力ヲ以テシ、第二航空戦隊ヲモ当然之ニ含マシムルヲ要ス
 (理由)一、作戦発端ニ於テ敵航空勢力覆滅ノ為ニ行フ空襲ノ成否如何ハ爾後ノ作戦ノ難易遅速ヲ左右スル鍵鑰ナリ
     二、第二航空戦隊ノ飛行機ハ特ニ遠距離空襲ニ適ス
     三、作戦部隊軍隊区分(参考案)ニ関シ
    第二航空戦隊ヲ北支部隊ヨリ除キ、之ヲ航空部隊中ノ空襲部隊トセラルルヲ要ス
 (理由)第2項(四)ノ理由ニ同シ

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               六四 命令・指示
            一
     〔上海確保ニ関スル第三艦隊ヘノ指示〕
8月12日午後11時40分  発電
軍令部機密第461番電
大海令第10号
 昭和12年8月12日
                        軍令部総長   博 恭 王
           勅  命
  長谷川第三艦隊司令長官ニ命令
一、第三艦隊司令長官ハ現在ノ任務ノ外上海ヲ確保シ同方面ニ於ケル帝国臣民ヲ保護スヘシ
二、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ之ヲ指示セシム

8月12日午後11時55分発電
軍令部機密第463番電
大海令12号
昭和12年8月12日
                        軍令部総長   博 恭 王
  長谷川第三艦隊司令長官ニ指示
一、第三艦隊司令長官ハ敵攻撃シ来ラハ上海居留民保護ニ必要ナル地域ヲ確保スルト共ニ機ヲ失セス航空兵力ヲ撃破スヘシ
二、兵力ノ進出ニ関スル制限ヲ解除ス

資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              六六 命令・指示
            一
 昭和12年8月14日午後7時
   〔第3艦隊司令長官南京等空襲命令〕
 第3艦隊機密第607番電
一、明朝黎明以後成ルヘク速ニ当方面ニ於テ使用得ル全航空兵力ヲ挙ゲテ敵空軍ヲ急襲ス。
二、攻撃目標
 第二空襲部隊               南京・廣徳・蘇州
 第三空襲部隊               南昌(臺北部隊)
 第四空襲部隊(第12戦隊・第22航空隊) 杭州            
 第8戦隊・第10戦隊・第1水雷戦隊航空機 虹橋 
    
            二
臨参命第73号

         命令
一、上海派遣軍(編組別紙ノ如シ)ヲ上海ニ派遣ス
二、上海派遣軍司令官ハ海軍ト協力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ
三、動員管理官ハ夫々其動員部隊ヲ内地乗船港ニ到ラシムヘシ
四、支那駐屯軍司令官ハ臨時航空兵団ヨリ独立飛行第六中隊ヲ上海附近ニ派遣シテ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ラシムヘシ
五、上海派遣軍ノ編組ニ入ル部隊ハ内地港湾出発ノ時其動員管理官ノ指揮ヲ脱シ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
 但独立飛行第六中隊ハ上海附近到着ノ時ヲ以テ上海派遣軍司令官ノ隷下ニ入ルモノトス
六、細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム
  昭和12年8月10日
 奉勅伝宣
                        参謀長  載 仁 親 王
 参謀総長           載 仁 親 王 殿下
 上海派遣軍司令官       松 井 石 根 殿
 支那駐屯軍司令官       香 月  清 司 殿
 その他13師団長宛(師団長命略)

 
※ 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、ところどころ改行したり、空行を挿入したりしています。青字が書名や抜粋部分です。 


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