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----------------戦争賠償・被害者補償-フィリピン----------------

2014年4月現在、韓国人元「従軍慰安婦」の平均年齢は88.3歳で、補償や謝罪、法的責任などに関して早期の根本的解決を求める韓国と日本の関係者の接点を探る協議が続けられているという。それは、フィリピンに対する日本の戦争賠償・被害者補償も、もう一度考え直す必要性を示すものだ、と思う。

 戦争の被害者補償を受けられなかったフィリピンの元「従軍慰安婦」の人たちは第2次世界大戦当時、進駐してきた日本国の軍隊の兵士らから暴行、監禁、強姦等の被害を受け、著しい精神的苦痛を被ったとして、日本国に対し、1人につき2000万円の損害賠償請求の訴えを起こした(当初は18名その後、28名が加わって46名)。しかしながら、日本の裁判所は、国際法が「被害を受けた個人が直接加害国に損害賠償を請求する権利は認めていない」として棄却している。こうした問題は、基本的に賠償条約や経済協力協定の締結の時に解決されるべき問題だったのだと思う。
 戦争被害者の被害の実態を全く議論の対象とせず、賠償条約や経済協力協定の交渉を進めたこと、また、戦争被害者が何の補償もされていない状況などを無視し、日本の裁判所が国際法を持ち出して訴えを棄却するのでは、被害者は納得できないであろう。
  
 賠償条約・経済協力協定の締結に関する主張がかみ合わず、中断した日本とフィリピンの交渉再開のために、フィリピンは日本へヘルナンデス調査団を派遣したが、その調査団の報告の中には、「アメリカが賠償額を最小限に止め日本が可能な限り防衛費にまわすよう望んでいるのであり、賠償が解決しないのは、アメリカがフィリピンを犠牲にしてでも民主的で強い日本を選んでいるからである」との指摘があるという。フィリピンとの交渉でも、冷戦下におけるアメリカのアジア戦略が、本来の賠償・補償の交渉を歪めることになったといえる。

 さらにいえば、問題なのは、賠償額の少なさだけではない。その内容こそが問題なのである。下記は「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、フィリピンの部分を抜粋したものである。
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                       第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(4)フィリピン

①初期の交渉
 フィリピン政府は1947年に極東委員会に80ペソ(約41億ドル)の請求額を出したが、1950年12月、賠償経済小委員会は、80億ドルを公式の損害総額とし、1951年2月11日、フィリピン政府はこれを公式請求額であるとし、日本に提出した。しかし、同年4月頃には賠償小委員会や国家最高会議は、「獲得額10億ドル以上」の最低線を出していた。
 80億ペソが80億ドルに倍加した理由は、物損につき1941年の価格を50年の価格に算定し直したこと、及び人命損害及び供出財とサービス(主に軍票発効額)が追加されたことによるとされており、人命損害については、1人当たり4,000ペソ(2,000ドル)とし、厚生省報告の民間人死亡者数111万1,983人にかけたものである。

 フィリピンの代表は、対日平和条約について、「全く気の進まない調印をしたが、これもひとえにアメリカとの信頼友好関係のためである」と大統領宛に書き送ったように、非常に不満足なものであったが、対日平和条約第14条は自由に解釈し、交渉の余地のあるものとして以後の交渉に臨んだ。
 1952年1月、政府は使節団をフィリピンに送り賠償について交渉を始め、フィリピンは役務だけでなく現金、現物支給を含めて、別紙の明細をつけて80億ドルを要求したが、日本側は対日平和条約の役務提供という条項は厳格に解釈されなければならないし、80億ドルは日本の経済力の及ぶところではないとして交渉は進まなかった。

 
 1952年1月、80億ドルを日本政府に要求したものの、同年同月にフィリピン政府専門委員会が大統領に提出した最低請求額の勧告では「『戦争損害の公式』による損害額、つまり、戦争損害委員会によって認められた公共および民間の財産損害から既に受け取った金額を差し引いた額、すなわち16億ドル2,152万1,064ドル」を最低額としていたもので、財産的損害に限られ、約16億ドルとしていた。

 これは我々の調査においても、財産損害についてはラジオや新聞を通じて、損害の申告をするようにとの政府の通知が出され、申告をしたが現在までも何らの補償がされていないという被害者もおり、具体的に調査して提起した金額は財産損害であったといえる。

 実際の交渉においても、フィリピンは、請求総額を物損の16億ドルと人命および軍票の2つに分け、前者について批准直後に前払いし、後者は他の請求国の要求が出揃うまで延期するとの一括払いの提案を行い、また、対日平和条約の批准前の一部中間払いを要求したが、日本はこれを拒否し、フィリピンが希望する役務の種類、順位の提示を求めるに止まった。

 日本は中間賠償が沈船引き揚げ程度であればとして、1953年3月12日、沈船引揚げの中間賠償協定が調印されたが本来の交渉は進展しなかった。
 この間のフィリピンの最大の要求は平和条約批准前または直後の財産的損害を中心とする10億ドルまたは8億ドルの一部賠償要求であり、80億ドルが議論されたことはなかった。


 フィリピン内においては、シンコ教授は第2次大戦後にindeminityにかわって採択されたreparationの国際法上の概念は物損に範囲限定的であると報告しており、上院においても、80ペソ(40億ドル)を要求しているかどうかの説明が求められ、80億ドルは非現実的であり、交渉記録を見て初めて、この金額の要求が日本に対して出されたことを知ったとの上院議員の発言もあるくらいであった。

 他方、日本の賠償にあたる基本姿勢は、より厳格な条件でより小額であれば日本のために最善であるとするものであり、1951年末には賠償と民間経済協力を併用する方針が出され、かつ東南アジア諸国開発協力が日本の基本政策の一つとして出された。

 『吉田茂回顧10年』によれば、賠償支払いによって日本と相手国の経済関係の密接化を保障するのでなければ、賠償は無意味であり、たとえ経済侵略と呼ばれても邪悪を気にする必要はなく、未開発地域の開発、工業原料の確保、市場開発は彼我相互の利益にかなうものとして交渉を進めたとしている。



②覚書の締結とその破棄
 日本では「賠償は日本経済発展の特権である」(『自民党政策月報』1956・5)と言われるほど、賠償は経済的利益のためになるとして、政財界には早期解決の要望が強く、財界は東南アジアが経済開発に向け、次々視察団を送っていた。特に、鉄鋼業界は保守政党に多額の政治献金をする一方、賠償問題の早期解決とアジア諸国との国交回復を要請、とりわけフィリピン賠償は東南アジア開発計画との関係で重視され、1952年以降、フィリピン鉱業界との間で鉱山開発協力が始まっていた。

 日比の経済界は貿易振興への強い要求で一致していたのである。
 1953年5月には政府は賠償解決の併用案として民間経済開発協力の推進をめざし、諮問機関「アジア経済懇談会」が設けられた。
 同会議ではそれぞれの国を担当者を決め、政府が提示した、日本が機械、技術その他を輸出して、銅、鉄、ニッケル、鉱山、原塩、石炭などを相手国と共同開発し、アジアの地域的集団安全保障に必要な金属素材、重機械、戦略機材を供給する構想が承認され、それぞれの担当国を訪問、フィリピンについては、永野護が比要人と交渉を持った。

 1954年になると、日本政府は「賠償問題解決のための方針」を閣議にかけ、全賠償総額を5億ドルとし、フィリピン2億5,000万ドル、インドネシア1億2,500万ドル、ビルマ6,000万ドル、インドシナ3国3,000万ドルを暫定的な数字とし、3,000万ないし5,000万ドル程度の増額幅をもたせることに内定、方法は役務および生産物とし、原材料費の一時立て替えを認め、日本にも利益をもたらす場合には原材料費を負担することとした。

 アメリカも日本の自衛力増強、賠償問題解決、東南アジアの経済協力の3つを連携させ、日本と東南アジアの緊密化をはかり、東南アジア地域の対共産圏に対する安全保障体制を確立することを強く求めていた。
 当時、フィリピンではアメリカの支援を受けてフクバラハップを弾圧、壊滅させたマグサイサが1953年3代目の大統領となり、フィリピンはアメリカの軍事ブロックの中に入っていったが、この総額の決定にあたっては、日本はアメリカと緊密な情報の交換を行い、日比間の交渉の仲介の労をとることを要請、1953年11月、ニクソン米副大統領は両国を訪問し、両国首脳に柔軟な態度をとるよう要請、フィリピンのマグサイサ大統領は、現実的な態度で臨むことを表明した。


 1954年1月から始まった大野公使とガルシア副大統領の会談では、日本の2億5,000万ドル(3億ドルなら可能)との案に対して、ガルシアから最低限度4億ドルを申し入れ、同年4月10日、生産加工、沈船引き揚げ、その他の役務による日本の支払額は4億ドルとする、期間は10年で、いずれか一方の要請で10年延長できる、日本による役務のもたらす経済的価値は10億ドルを下回らないものとする、賠償協定調印後、対日平和条約を速やかに批准することを内容とする大野・ガルシア覚書が結ばれた。

 ところが、上院議員などを中心に、この案は、日本の経済侵略を許すもの、すなわちフィリピンを原料供給国とし日本製品の消費国化し従属化させるもので、フィリピンの満州化であり、もっと多額で短期支払いの賠償をすべきとの反対が強く出されたため正式調印には至らなかった。



③賠償協定の締結
 フィリピンは交渉再開のために日本へヘルナンデス調査団を派遣したが、この日本の経済の状況についての報告については、日本の健全な経済的自立を求め、無理な賠償には反対であった米国が日本の外貨事情に関する楽観的見通しについて厳しく批判し、マニラの米大使館を通じてコメントした。
 この報告では、アメリカが賠償額を最小限に止め日本が可能な限り防衛費にまわすよう望んでいるのであり、賠償が解決しないのは、アメリカがフィリピンを犠牲にしてでも民主的で強い日本を選んでいるからであるとしている。

 また、この報告では、フィリピン政府の55年から59年までの経済開発に5ヶ年計画に要する費用との関連づけが明確にされ、外貨費用の分担の一部に日本の賠償支払いをあてるという勧告をした。
 財界のフィリピン担当であった永野護は、賠償支払いと民間経済協力を併用するのでなければ交渉の妥結は難しいことを首相に承認を得たうえ、吉田首相とラウエル上院議員の秘密会談をセットし覚書の破棄を受け入れたが、1954年12月吉田内閣が総辞職し鳩山内閣となったため交渉ははかどらず、賠償額が少しは高くなっても、1日も早く妥結して正常な日比貿易が行われる方が利益になるとする財界の意向を反映して、1955年5月の非公式折衝では、賠償5億5,000万ドル、経済借款2億5,000万ドル合計8億ドル案でほぼ合意が成立した。


 しかし、今度は日本の大蔵省、自由党の反対により、財界の強い要請、ダレス国務長官の解決の遅れへの強い不満の表明などにもかかわらず対応が遅れ、ようやく1956年5月9日、5億5,000万ドルの役務および資本財による支払い期間20年の賠償協定と、2億5,000万ドルの民間商業ベースによる長期開発借款協定が締結された。

 日本が原案に入れており、フィリピンが反対していた「本協定の賠償は両国の通常貿易に不利な影響を及ぼさない、また、日本はいかなる外貨負担も課さないような方法で実施されるものとする」との条項については、貿易の拡大は共同声明で行い、外貨負担については、実施計画に関する交換公文で記載されることになった。

 フィリピンの対日平和条約の批准は7月16日に行われた。
 国会答弁で高崎達之助長官(賠償協定調印の全権委員)は、賠償は「負けて払う罰金」や「手切金」ではなく「将来手を握るための結納金である」と答弁、賠償は「国民所得のうちの海外投資分の一部」との考えを明らかにしている。

 実際にも、これは、日本の商社が東南アジアに進出する呼び水になり、建設業も進出の足場を役務賠償を通じて築いた。
 結局、賠償は日本の経済進出の地盤造りの役割を果たしたともいえる。また日本に溜まった物資をさばく、あるいは過剰設備の移転にも役立つなど不況産業救済の効果もあった。
 更に、協定第5条で定められた賠償契約における入札制と直接契約制導入はフィリピン政治家、企業と日本商社、企業を構造的に結びつける要因ともなったのである。

 しかし、フィリピンにおける、被害者たる住民には何らの補償もされていない。


④問題点
ア、日本がフィリピンにおいて行った加害行為についての事実の究明が行われたことも、これに対する日本政府による謝罪が行われたこともなかった。

イ、フィリピンより日本に当初提出された請求金額には戦争による死亡者への補償の項目があげられていたが、交渉の中で、これらが具体的に検討されたこともなく、フィリピン側は交渉の当初から財産的損害のうちどれだけを日本から引き出せるか、役務に限らず、生産財や資本財を賠償の中に含めることを目標として交渉に臨んでいた。

ウ、交渉経過からも明らかなように、日本の側は、日本の行った罪に対する償いではなく、当初はどのように額を抑えるかが課題であり、財界の圧力もあり、その後は「賠償は日本経済発展の特権である」に端的に示される、経済進出のための手段としてこの賠償協定の締結を行った。
 
 フィリピン側もこの賠償協定は、フィリピンが日本の資源供給国化し、市場化する経済侵略の容認にほかならず、フィリピンの産業を潰すことにもなるとの反対にもかかわらず、経済開発5ヶ年計画など経済政策実行のための資金が不足していたことから締結に到った

エ、対日平和条約が米国の冷戦構造下における、日本を経済的に自立させ、再軍備させるアジア戦略の一貫として締結されたことは前述したとおりであるが、米国は、フィリピンとの賠償条約の交渉過程においても、日本の経済的負担を減らし、早期に協定を締結するよう圧力をかけてきた。


オ、死亡した戦争被害者への補償について話し合われたことはなかったし、九死に一生を得て、その後も傷害の後遺症に苦しんでいる虐殺被害者や、家族のほぼ全員が虐殺され、生活に困窮し、あるいは葬式費用もないといった被害者への補償や、「従軍慰安婦」などは、そもそもフィリピンの請求にすらあがっていなかったのであり、賠償交渉は被害者の視点を完全に欠落させたものであった。

 そして、被害者個人に対する補償はなされていない。
 なお、賠償協定自身には請求権放棄条項は規定されていない。


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戦争賠償・被害者補償-インドネシア---------------

 太平洋戦争勃発当初、東南アジアへ進撃した日本軍の到来を歓迎したインドネシア民族も、しばらくすると、それまでインドネシアを植民地化していたオランダ以上に、インドネシア民族を圧迫し、搾取する日本の軍政に抵抗するようになり、各地で反乱を起こすようになっていった。そして、多くの犠牲者を出したのである。
 一例をあげれば、西カリマンタン(ボルネオ)のポンチャナックでは、抗日の陰謀があったということで、1943年10月下旬から8ヶ月の間に、1500人が斬首刑にあった。そこには、現在犠牲者を悼んで、大きなレリーフのある記念碑が建っているという。

 インドネシアでも、戦争に必要な物資の供出が義務づけられ、餓死者を出すほどの食料不足に陥ったようである。また、社会のあらゆる階層の労働力が搾取されたという。そして、もっともひどい目にあったのは、日本の軍事作戦のために橋や道路、飛行場、防空壕、防衛拠点などの建設工事に動員された強制労働者(ロームシャ)やその家族であるという。
 多くの人たちが国外でも労働させられた。よく知られているのが、泰緬鉄道(タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロ)建設工 事である。大本営の強い早期開通要求で、常識では考えられない突貫工事が強行された。ところが、この鉄道工事は難所が多く(架橋およそ300)また、悪性伝染病の地である上に、補給体制の不備で、食料はもちろん医薬品や靴、衣服などの補給が極めて少なく、「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出した。そこに、インドネシアからも4万人を超える「ロームシャ」が送られたのである。

 西スマトラのプキティンギでは、日本軍の地下司令部建設に、3000人の「ロームシャ」が動員され、機密保持のために、完成時に全員が殺されたといわれている。

 にもかかわらず、日本の戦争賠償・被害者補償は、インドネシアの場合も、他の東南アジア諸国と同じように経済協力型であり、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ものではなかった。その内容は、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉が象徴している。その実体は、日本に利益をもたらす開発を目的とした政府援助なのである。こんな内容で、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ための請求権を完全に放棄させることが許されるのか、と疑問に思う。

 下記は「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、インドネシアの部分を抜粋したものである。
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                        第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(5)インドネシア

 1949年に独立したインドネシアは、日本に対して戦争損害の賠償を強く求めて、51年のサンフランシスコ対日講和会議に参加し、サンフランシスコ条約(対日平和条約)に9月8日調印した。そして、その12月には、使節団を日本に送って賠償交渉を開始した。ところが、52年2月にインドネシアで政変が発生し、賠償交渉は一時棚上げとなり、対日平和条約の批准も無期延期となった。その後、両国でインドネシア海からの沈没船引き上げによる賠償協定、アサハン河電源開発工事を中心とする賠償協定などが出されたが、批准あるいは合意に達せず、日本側の妥結を急ぐ必要がないとの態度もあって、インドネシアが両国の輸出入収支帳尻の決裁を拒否するという事態にまで至った。その後、56年2月にインドネシアはオランダとの経済協力関係を一切破棄したことを契機として、日本との賠償交渉の再開に対して積極的姿勢に変わった。57年2月に日本に岸内閣が成立し、他方インドネシアではスカルノ大統領が同年7月に国民評議会を設置して大統領権限を強化したことに伴って、賠償交渉の妥結への気運が高まり、58年1月20日にジャカルタで平和条約と賠償協定を調印するに至った。これと同時に、日本は、インドネシアに対して経済協力を約束し、また、交渉経過で問題となった、戦後の輸出入の差し引き帳尻のインドネシア側未払い金についても、日本がこれの請求権を放棄して解決した。


日本国とインドネシア共和国との間の平和条約

第1条 日本国とインドネシア共和国との戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。

第4条 
 1 日本国は、戦争中に日本国が与えた損害及び苦痛を償うためインドネシア共和国に賠償を支払う用意がある。しかし、日本国が存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、戦争中に日本国がインドネシア共和国その他の国に与えたすべての損害及び苦痛に対し完全な賠償を行い、同時に日本国の他の債務を履行するために十分でないことが承認される

(a)日本国は、別に合意される細目に従って、総額803億880万円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を12年間内に賠償としてインドネシア共和国に供与する。

(b)インドネシア共和国は、この条約の効力発生の時にその管内にある日本国及び日本国民のすべての財産、権利及び利益を差し押さえ、留置し、清算し、その他なんらかの方法で処分する権利を有する。(除外される権利あり)


 2 インドネシア共和国は、前項に別段の定ある場合を除くほか、インドネシア共和国のすべての賠償並びに戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する。


☆経済開発借款交換公文

 1,440億円の額までの商業上の投資、長期貸付又は類似のクレジットが、日本国の国民により、締結されることがある適当な契約に基づいてインドネシア共和国の政府又は国民に対して行われるものとする(要旨)

☆旧清算勘定そのほかの諸勘定の残高に関する請求権の処理に関する日本国政府とインドネシア共和国との間の議定書

 1952年8月7日にジャカルタで署名された日本とインドネシア共和国との間の支払取決等に基づき日本がインドネシア共和国に対して有する請求権額1億7,691万3,958ドル41セント(アメリカ合衆国ドル)の請求権を、日本は放棄する。(要旨)

 この約803億円に相当する賠償については、「賠償として供与される生産物及び役務は、インドネシア共和国政府が要請し、かつ両国政府が合意するものでなければならない」と定められ、このなかには4つの高級ホテル、1つのショッピングセンター(デパート)、が含まれていた。賠償とは、戦争で被った人的物的被害を回復するべきものであるのに、その実体は開発を目的とした政府援助と同じものになっている。また、賠償のなかの船舶については、日本の中古船を市価の3倍以上の価格で賠償として支払ったものであったが、日本の有力政治家がこれに関わったとして国会で問題にされるなど、賠償のあり方については「一体何だったのだろうか」と大きく疑問が投げかけられている。(村井吉敬「賠償と援助──賠償・ODAから戦後処理を考える」『自由と正義』1993年9月号)。
 このような「賠償」の実態を理解する上で、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉は、重要な意味を持っているのではなかろうか。


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戦争賠償・被害者補償ーマレーシア・シンガポールーーーーーーーーーー

 マレーシアの人たちは、当初「アジア人のためのアジア」を唱えて、東南アジアに進出してきた日本軍に期待したようである。その言葉通り、日本軍が西欧列強諸国からアジアを解放してくれると信じのだ。しかし、しばらくすると、イギリス人の座を奪った日本の支配が、イギリスによる支配より残酷なものであり、日本軍が、日本軍自身の目的を達成するために、マレーシアの国民を利用しているのだと気づいて抵抗するようになっていったという。強制的に泰緬鉄道(「死の鉄路」と呼ばれているという)建設工事に動員された労働者はおよそ10万人にのぼり、帰国できなかった人も多いようである。マレーシアを占領した日本軍は、華僑による中国援助を阻止するため、特に中国人に対して厳しく、疑わしい中国人はみな処刑したといわれている。日本に敵対した最大組織の反日マラヤ国民軍MPAJAのメンバーが中国人が中心だったということも頷ける。殺害された中国人は、10万人以上であるという。
 戦後のマレーシア・シンガポールを相手とした日本の戦争賠償・被害者補償は、「血債」協定とよばれているが、その内容は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務である。そのことに関して、下記に”これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。”とあるが、まったく同感である。

 日本の戦争賠償に関して、サンフランシスコ講和条約は、その第14条a項に

日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される。

と明記した。
 そのため、日本の賠償は大幅に軽減され、アジア諸国の戦争被害の実態に見合うものとはならなかった。そればかりでなく、冷戦に対応するためのアメリカのアジア戦略により、日本の経済復興が重視され、賠償の内容が「役務、生産物供与、加工賠償」という支払い方式にされた。極東における安全保障体制確立を優先させるアメリカの政策によって、日本のアジア諸国に対する賠償支払いの額や方式が、アジア諸国の要求するものとかけ離れたものになったといえる。アジア諸国は様々な抵抗を試みたが、通らなかったようである。
 そうした日本の賠償は、「商売」であり、形を変えた「貿易」であるといわれた。また、当時の吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。日本の戦争賠償は、結局、日本のアジア諸国に対する再進出の足がかりとなった。その結果、アジア諸国の戦争被害者に対する個人補償は、完全に切り捨てられた。戦争被害者の間に「怨念」を残すことになったといわれるのはそのためである。
 日本の経済復興が実現し、冷戦後、日本が経済大国となって、湾岸戦争に130億ドルもの拠出をするようになると、アジア諸国の戦争被害者が補償を求めて声を上げ始めたというが、当然のことではないかと思う。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、マレーシア・シンガポールの「個別の賠償条約、経済協力協定の締結」の部分を抜粋したものである。
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                       第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(6)マレーシア、シンガポール

① マレーシア

 1962年1月にシンガポールのイーストコーストの宅地造成地で、日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人骨が大量に発見され、これがマレーシアに波及したのがいわゆる「血債問題」であった。マレーシア華僑は、日本製品の不買運動をして問題解決を日本政府に迫り、マレーシア政府が交渉の末、1967年9月21日にクアラ・ルンプールで「血債協定」を締結するに至った。
  
☆ 「血債協定」日本国とマレーシアとの間の1967年9月21日の協定

第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を無償で供与する。
  3 生産物及び役務は、まず外航用の新造貨物船2隻の建造のために当てられるものとする。
第2条 マレーシア政府は、第2次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべての問題がここに完全かつ最終的に解決
    されたことに同意する。(要約)

 この協定に基づいて、同額相当の外航貨物船2隻が1972年5月6日に供与されたが、これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある



② シンガポール

 1962年1月にイーストコーストの宅地造成現場で日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人たちの人骨が大量に発見された。これに端を発し、中華総商会の手で続々と華人の人骨が発掘され、「殺人は命で、血債は血で償え」という対日賠償の要求が高まった。日本製品の積みおろし拒否、暴徒による襲撃など、シンガポールの日本人社会に大きな衝撃を与えた。その後、「マラヤとの合併によるシンガポール独立」を求める運動の中で、1963年9月16日にマレーシア連邦が成立し、血債問題の日本との交渉担当者が同連邦のラーマン首相(マレー人)に変更されたが、1965年のシンガポールの独立を経て、1967年9月21日にシンガポールで日本政府との間で「血債協定」の調印に至った。


☆ 「血債協定」日本国とシンガポール共和国との間の1967年9月21日の協定

第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を無償で供与する。
第2条 シンガポール共和国は、第2次世界大戦の存在から生ずる問題が完全かつ最終的に解決されたことを確認し、
    かつ、同国及びその国民がこの問題に関していかなる請求をも日本国に対して提起しないことを約束する。

 この協定に基づいて、1972年3月までに造船所建設、人工衛星地上通信基地建設、港湾クレーンなどの品目が供与されたが、これらの供与は、「血債」として虐殺されたり傷害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。


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戦争賠償・被害者補償 タイ/ビルマ(ミャンマー)/ベトナム/ラオス/カンボジア/ミクロネシアーーーー

日本の裁判所は、アジア諸国の戦争被害者を原告とする補償要求の訴訟において、一貫して「棄却」の判決を下してきた。サンフランシスコ講和条約や”二国間条約(協定を含む)における「請求権放棄」で「解決済み」”ということがその根拠のようである。でも、解決したのは「国家間賠償」であり、現実に被害者の補償はほとんどなされていない。したがって、「解決済み」ではないと思う。
 「国際法は、国家をその法主体とし、国家の行為および国家関係を規律する法であると定義され、国際法によって権利を享受し義務を負うのは国家だけである」というような法理論を持ち出す人もいるようであるが苦しい言い逃れであると思う。

  日本国憲法で保障されている個人の財産権(請求権含む)にも関わる、戦争被害者の賠償や補償の請求権を、国家や条約締結者が、本人に何の相談もなく個人に 代わって放棄できるとする考えは、納得できるものではない。戦争被害者の被害状況を調査・確認することなく、被害者個人の請求権を国家や条約締結者が被害 者に代わって勝手に放棄できるということであれば、それは民主主義の国とはいえないし、法治国家ともいえないように思うのである。

 戦後 のサンフランシスコ講和条約、およびサンフランシスコ講和条約に基づいて日本がアジア諸国と締結した二国間条約や協定によって「放棄」されたのは、国家の 外交保護権であり、それが、戦争被害者個人の請求権をも消滅させたと考えることはできないし、してはならないと思う。日本国憲法で保障されている個人の財 産権(請求権含む)の否定につながると思うからである。現に、日本人が被害者とし、補償を要求しているシベリア抑留者国家賠償請求訴訟に関しては、 1991年3月の参議院内閣委員会で、高島有終外務大臣官房審議官が

私ども繰り返し申し 上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護 権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないという ふうに考えております。

と言っている。「日ソ共同宣言」で、日本とソ連がお互いに請求権を放棄したが、それはシベリア抑 留被害者個人のソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないと答弁しているのである。日本政府は、言い逃れを繰り返すのではなく、この答 弁に沿った補償を誠実に開始するべきであると思う。アジア諸国の戦争被害者が、ほとんど何の補償も受けていない現実を直視すれば、「解決済み」として放置 できる問題ではないはずである。日本国民のソ連に対する請求権を認めておきながら、アジア諸国の戦争被害者の日本政府に対する請求権は「放棄」されている というのは、通らない。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、タイ・ビルマ(ミャンマー)・ベトナム・ラオス・カンボジア・ミクロネシアの「個別の賠償条約、経済協力協定の締結」の部分を抜粋したものである。
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                       第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結


(7)その他の国々

①タイ

  1951年のサンフランシスコ対日講和会議後、日本とタイの国交が回復したが、戦争中に日本がタイから円建ての清算勘定協定に基づいて発生していた借越残 高約20億バーツのうちの未決済分の16億バーツ「特別円」問題があったが、1955年7月9日に、バンコクで「日・タイ特別円協定」を調印した。

☆「日・タイ特別円協定」特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定
第1条 日本国は、54億円に相当する額のスターリング・ポンドを5年に分割してタイに支払うものとする。
第2条 日本国は、経済協力として、96億円を限度として投資及びクレジットの形式で日本国の投資財及び日本人の
     役務をタイに供給する。
第3条 タイ政府は、「特別円問題」に関する日本国の政府及び国民に対する全ての請求権をタイ政府及び国民に代
     わって放棄する。(要約)

 ところが、この協定の第2条の96億円の支払いに関して協議が難行し、1962年1月31日に「日本・タイ特別円新協定」をバンコクで調印して決着するに至った。


☆ 「日・タイ特別円新協定」特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定のある規定に変わる協定

 1955年7月9日の協定の第2条、第4条を変更する。
第1条 96億円を日本国の通貨で8回の年払いで支払う。
第3条 第1条の金額は、日本国の生産物並びに日本国及び日本国民の支配する日本国の法人の役務のタイ
     政府による調達により生ずる経費の支払いのために使用されるものとする。(要約)

  支払われた円は、タイ国防省被服工場、ナムプン発電所建設、国鉄車輌及び資材購入などに使用されたが、1970年5月の全額返済時点で30億円余の未使用 があり、タイ政府はこれを興業基金に委譲し民間企業による日本製品の買い付けに使用させた。この日本製品の買い付けが、タイへの日本企業進出の大きな足掛 かりとなった。

② ビルマ(ミャンマー)

 1950年3月、当時日本を占領し統治していた連合軍総司令部が日本政府を代表して日本とビルマとの間で貿易協定を締結、当時食糧不足であった日本に大量の米が輸入された。
 1951年のサンフランシスコ講和会議にはビルマは出席しなかったが、1952年1月から平和条約締結のための交渉に入り、1952年4月戦争状態の終結を通告、1954年11月5日、平和条約、および賠償および経済協力に関する協定が締結された。
  平和条約第5条では、「日本国は戦争中に日本国が与えた損害および苦痛を償うためビルマ連邦に賠償を支払う用意があり、また、ビルマ連邦における経済の回 復および発展、並びに社会福祉の増進に寄与するための協力をする意思を有する」とし、しかし、日本の資源はビルマおよびその他の国に対し戦時中に与えた損 害および苦痛に対して完全な賠償を行い債務の履行をするには充分でない(この文言は対日平和条約第14条aとほぼ同じである)として、年間2,000万ド ル(72億円)に等しい役務および生産物の10年間におよぶ提供および年平均500万ドル(18億円)におよぶ経済協力の10年間にわたる実施について約 定し、同じ内容の賠償および経済協力に関する協定を締結している。


 なお、 第5条1、a、Ⅲでは「日本国は、また他のすべての賠償請求国に対する賠償の最終的解決の時にその最終的解決の結果と賠償総額の負担に向けることができる 日本国の経済力とに照らして公正なかつ衝平な待遇に対するビルマ連邦の要求を再検討することに同意する」との規定を置いている。
 ビルマ政府は1963年に他の国への賠償の方が条件が良かったので追加賠償を要求し、1963年3月29日再協定が結ばれ、日本は1965年から12年間にわたって総額1億4,000万ドル供与および3,000万ドルの借款を約した。

  日本からの賠償により、バルチャウン水力発電所が造られたが、設計は日本工営、鹿島建設が施工し、また、4プロジェクトと呼ばれる製造工場が建設されたが、バス、トラックなどの大型自動車については日野自動車が、乗用車などの小型自動車は東洋工業(マツダ)が、農機具については久保田鉄工(クボタ)、家 庭電気は松下電器がそれぞれ担当し、賠償や経済協力の機関が終わってからもODAによる建設作業、部品調達など、日本の経済進出のための基盤となった。
 そして、1988年までの26年間、日本のODA援助の額はビルマに対する2国間援助総額の80% を占めてきた。
 これは、当時のネウイン大統領が日本軍の防諜組織、南機関の援助によってつくられたビルマ独立義勇軍のメンバーであり、ビルマ国軍将校に日本人による教育、訓練を受けた者が多かったなどの事情による。


③ ベトナム

 1959年5月13日、日本とベトナム(南ベトナム)の賠償協定が締結され、1960年1月12日に発効した。
 協定では、第1条で140億4,000万円に等しい生産物、および日本の役務を5年の期間内に供与するとされた。
 しかし、この賠償は当時の南ベトナム政府に対してなされ、戦争被害の最も大きかった北部に対する賠償がなされず、しかも140億円は中部の水力発電所建設に使われた。この建設計画は、もともと日本のコンサルタント会社が南ベトナム政府に持ち込んだものであった。
  北ベトナムとの賠償問題は、ベトナム戦争が終わった1975年10月11日署名の「経済の復興と発展のためのブルドーザー運搬用トラック、掘削機等の供 与」(85億円)、1976年9月14日署名の「経済の復興と発展のためのセメントプラント用設備等の供与」により事実上の賠償とされた。

④ ラオス

 1957年3月ラオス王国は日本に対する賠償請求権を放棄し、これに対して日本は1958年10月15日、経済および技術協力協定を締結した。
 前文では、「ラオスが日本国に対するすべての賠償請求権を放棄した事実を考慮し、かつラオスが同国の経済開発のためにの経済および技術援助を日本国がラオスに与えることを希望する旨を表明した事実を考慮して」、経済および技術協力協定を締結するとされている。
 協定は第1条で、生産物ならびに役務による10億円の無償援助を定め、これに基づいてビエンチャン市の上水道工事、ナムグム発電所建設工事などが行われた。


⑤ カンボジア

 カンボジア王国は1954年にサンフランシスコ条約(対日平和条約)に定められた対日賠償請求権を放棄、日本はこれに応えて、1957年に15億円の無償援助を決定、1959年3月2日、経済および技術協力協定に署名した。
  同協定では前文で「カンボジアによる戦争賠償請求権の自発的な放棄および1955年の日本とカンボジアとの間の友好条約の締結によって顕著に示された両国 間の友好関係を強化し、かつ相互の経済および技術協力を拡大することを希望して協定を締結する」とあり、第1条で生産物および役務からなる15億円の無償 援助を供与することを約した。
 これに基づき日本は、農業、畜産、医療の3分野における施設とその運営を行った。
 これ以外に1962年からは無償供与および円借款によりプノンペン市の上水道ダム建設に協力、技術指導も行った。
  

⑥ ミクロネシア(パラオ)

  ミクロネシアのうちパラオ共和国は現在も米国の信託統治地域となっているが、ミクロネシア地域については、1969年4月18日、日本と米国の間で、対日 平和条約第4条(a)に基づき「太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(米国とのミクロネシア協定)が締結された。

  前文では、太平洋地域の住民が第2次世界大戦中の敵対行為の結果被った苦痛に対し、ともに同情の念を表明することを希望し、信託統治地域の住民の福祉のた めに自発的拠出を行うことを希望し、日本国およびその国民の財産ならびに請求権、施政当局および住民の財産ならびに請求権の処理に関し、特別取極め締結す るとされている。

 そして、日本は500万ドル(18億円)相当の生産物および役務を3年間の間に無償で施政権者であるアメリカ合衆国の使用に供し、アメリカ政府は同地域の住民のために500万ドルの資金を設定し、第3条で財産、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたとする。
 
 協定第3条に関する交換公文では、日本国および日本国民は、役務を3年間の間に無償で施政権者であるアメリカ合衆国の使用に供し、アメリカ政府は同地域の住民のために500万ドルの資金を設定し、第3条で財産、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたとする。


 協 定第3条に関する交換公文では、日本国および日本国民は協定第3条の規定の範囲内におけるミクロネシア側の請求(信託統治地域が第2次世界大戦に巻き込ま れたことから生ずる請求を含む)に対する全ての責任から完全かつ最終的に免れるとし、かつ、アメリカ政府はその相当と認められる形式 態様および範囲で、 アメリカおよび日本による拠出の合計額(1,000万ドル)に見合う金額を限度として協定第3条に規定するミクロネシアの個々の住民の請求につき支払いを 行うための措置を取るとされている。
 これに基づき、1971年、ミクロネシア賠償法により戦病死者に対し、最低死亡年齢12才以下に対する補償500ドル、最高死亡年齢21才に対して5,000ドル、支払われた。


3 問題点

(1)締結された条約、協定は、交渉過程においても、その内容においても、日本が行った行為についての真相の究明を行ったものではなく、各国における日本の与えた戦争被害の実態等の把握もなされていない。
 また、日本が被害を与えた国および被害者に対する謝罪も行っていない。(アジア各国を日本の首相が訪問する際に、近時遺憾の意を表明することはあっても、公式の謝罪を行っていない)。

(2) 対日平和条約によって、アジアのそれぞれの国が賠償についての交渉をすることになったが、対日平和条約の役務賠償の規定にもかかわらず、具体的交渉の中で は、資本財が含まれることになり、日本にとっては、賠償はアジア各国への長期の資本投資を行う機会となり、アジアに新たな市場を形成するのに役立った。


  また、賠償は帯貨商品をアジアに対して捌くのに役立ち、不況産業の再興にも役立った。更に、賠償が輸出と競合しないよう貿易振興方針を、インドネシア、ベ トナム、との間では賠償協定で規定し、フィリピン、ビルマとも合意し、賠償が通常の貿易の妨げとなることがなかったばかりか、賠償を利用して新たな貿易の 販路を拡大した。日本は賠償交渉にあたって、当初は額をいかに抑えるかで交渉に臨み、交渉過程の中で、賠償を投資として条約、協定を締結した。また、相手 国についてもその為政者自身の権力維持、経済政策の推進などのためのものとなっている。
 このように、日本の賠償、経済協力は、被害者の視点を欠くものであったことは前項で記したとおりである。

(3)このため、実際にも、日本から無償援助、経済協力をもとにして、戦病死者に金銭が支払われたのは、韓国の30万ウォンおよびミクロネシアの最低500ドル最高5,000ドルのみであり、被害者個人に対する補償はほとんどなされていない。
 対日平和条約第16条に基づく捕虜への補償は、各人への補償額は小額(70ドル)にすぎなかったとはいえ、ICRC(赤十字国際委員会)によって行われ、捕虜である被害者個人への補償がなされている。
 ここでは、賠償が投資にかわったり、経済協力におきかえられたりしてはいないのである。
 事実の究明もされていないのであるから、被害者個人は今なお放置されているといってよい。

(4) 賠償に関する、日本国民1人当たりの負担額についてみると、総額が、賠償10億2,500万ドル(3,565億5,000万円)、無償経済協力4億 9,567万ドル(1,686億9,000万円)、合計15億776万ドル(5,252億4,000万円)であり、通算して、1人当たり5,000円で あった。(原朗、「賠償戦後処理」大蔵省財政史室編『昭和財政史・終戦から講和まで』東洋経済新報社)
 しかも、その支払いは長期であり、最後のフィリピンに対する20年の支払いが終わったのは、1976年であった。


(5) 前項で述べたように対日平和条約自体がそうであったが、その後の各国との賠償交渉も、冷戦構造のもとでのアメリカのアジア戦略の中に位置付けられ、交渉の 要所、要所で、アメリカが大きな役割を果たしており、締結を渋るようであればアメリカの経済援助を考え直すと脅かすなどがなされてきた。

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 シンガポールーーーーーーーーー

日本には、戦争被害の事実を後世に伝えようとする記念館や碑があちこちにあるのに、加害の事実を伝えようとするものはほとんどないようである。また、加害 の事実を子どもに指導しようとする教師に対しては、すぐに、反日教師のレッテルが貼られ、時には、学校の周りに街宣車が来ることもあるという。そして、日 本の教科書からは加害の事実が少しずつ消えつつある。その結果、日本と中国や韓国はもちろん、東南アジア諸国とも、歴史認識のズレがいっそう大きくなって いく。
 「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著に、シンガポールの教科書に関わる下記のような記述がある。

” ・・・ と ころでシンガポールでは最近大きな変化がありました。これまでは教科書の改訂を8年から9年間隔くらいで実施していたのが、94年からわずか5年後に全面 改定となったのです。歴史学習の様子も大きく変わりました。93年までは、日本占領下の暗黒時代は中学2年生で初めて学習することになっていたのが、94 年からは中学1年生で学習するように早められました。ところが、99年からは、小学校4年生でそれも半年間「ダークイヤーズ(暗黒時代)」という単独の教 科書で学習することになりました。その上、中学1年生でまた詳しく占領時代を学習するというわけです。
 これまでシンガポールは、「ルックイース ト」政策で日本を国づくりのお手本とし、経済立国に成功したのだし、いまも日本とは有効な関係にあるので、日本のマイナスイメージになる占領時代のことは 小学生には教えないのだといわれていました。それが、最近になってこのように急変したのです。ここに最近の日本の右傾化に対するシンガポール側の警戒心の 強まりが読み取れます。「新しい歴史教科書をつくる会」による中学歴史教科書の登場はますます警戒心を強めさせたと思います。

 ・・・”

 ところが、日本では、 そんなことは無視して、安倍自民党政権が「自虐史観から脱皮する教育を進める」として、教科書検定基準の「近隣諸国条項」を廃止する方向で動いている。「近隣諸国条項」とは、日本が「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮をする」というものである。
 ”なぜ廃止するのか”という「問い」に関しては、安部首相自身が「残念ながら、教科書の検定基準が、愛国心や郷土愛を尊重することとした改正教育基本法の精神を生かせないものとなっている。自負心を持てるようにすることが(教育の)基本だ。教育的な観点から教科書が採択されるかどうか検討していく必要がある」と述べた言葉が「答え」になっているのではないかと思う。

 下村博文文部科学相も、教科書検定制度について「日本に生まれたことを誇らしく思えるような歴史認識が教科書に記載されるようにしていく必要がある」として、見直しを検討していくと述べている。「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」という安倍自民党政権の方針に沿うものである。 
  このような、「愛国心や郷土愛を尊重」し、「日本に生まれたことを誇らしく思えるような」歴史教育をするために、不都合な事実を隠蔽するような歴史教育で よいのか、と思う。侵略地・占領地で住民を苦しめた日本軍の行為やいわゆる「従軍慰安婦」の記述などを削除することによって誇りを取り戻すことが、国際社 会で通用するとは思えない。

 「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著には、上記の文章に続いて、シンガポールか ら日本に来ている有識者の方の話が紹介されているが、まとめると、以前とちがって最近の日本の大学生は、戦時中の話をするといやがり、正面から受け止めて くれなくなっているというような内容である。東南アジア諸国の歴史教育とかけ離れた自分勝手な歴史教育を続ければ、これからの子どもたちの相互理解は、 いっそう難しくなるのではないかと思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)から、シンガポールの中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』(英語)第13章のごく一部を抜粋したものである。
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 中学校初級用 『現代シンガポール社会経済史』(英語)

                        第13章 日本占領下のシンガポール

13・1 イギリス降伏後のシンガポール

  123年間、シンガポールの人びとは平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人びとは戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍 が島を占領した3年半の間は、さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。この時期は、日本軍占領時代として知られている。

 イギリ スが降伏してからすぐ、シンガポールの町は恐怖の都市と化した。多くの建物が破壊され、多くの死体が道や焼けた建物の中に横たわっていた。イギリスとオー ストラリアの捕虜が町の清掃と遺体の埋葬を強いられた。そのうえ、水や電気やガスの不足もあった。昇る太陽を示す日本の旗が家の前に掲げられた。シンガ ポールは昭南島(ショウナントウと発音)あるいはショーナンアイランドと名前を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。しかし、この” 光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人びとは日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々をすごした。


 シ ンガポール在住のさまざまな民族の指導者たちは、中国人をのぞいて、日本陸軍の将校たちに会うため、ブキティマに行った。中国を助けるため資金を集めてい た多くの中国人指導者は、シンガポールから逃げ出してしまっていた。彼らは、もし隠れて残っていれば首をはねられるであろうことを知っていた。

  ブキティマで偶然日本軍隊と出会ってしまった何人かの中国人は、彼らの平手うちにあった。ある者は蹴られ、そしてある者はひざまずかされた。数人の人は、 互いの顔を平手打ちさせられることもあった。それから日本人は欲しがっている物を人びとから奪った。例えば、車や時計やミシンなど、何でも奪った。婦人や 少女たちは日本の兵士を恐れて暮らした。

 有刺鉄線が道路を閉鎖するため、道にはりめぐらされた。日本兵はそこを通り過ぎる人びとをおど したり、ときには何時間も道ばたにひざまずかせたりして、見張りをした。日本兵の見張りが見ていないすきに自転車で逃げようとした人もすぐ捕らえられた。 彼はひざまずかせられ、気を失うまで頭部を殴打された。日本の兵士は、シンガポールに住むだれもが彼らに従い、尊敬の念を示すことを欲した。見張り番につ いている日本兵士とすれちがうときは、だれもが彼にお辞儀をせねばならなかった。もしそうしなければ、彼は打たれるか蹴られるか、もしくは他のなんらかの 方法で罰せられた。


 店主が略奪を恐れたので、多くの店は閉まっていた。日 本軍がシンガポールを完全に制圧する直前まで、多くの略奪者がオランダ通りやタングリン通りやブキティマ通りやその他で、家からの略奪を行っていた。彼ら は手に入るものならなんでも盗んだ。彼らのうちの何人かが日本の軍用倉庫に侵入する日まで、どのようなことをしても、彼らを止められそうもなかった。その 場で彼らは現行犯として日本兵に捕らえられ、日本兵はただちに彼らの首をはねた。日本兵は彼らの首を、スタンフォード通りやフラトンビルの外側やキャセイ ビルの外側やその他の場所にさらした。略奪はすぐにとまった。

13・3 中国人処罰

 日本人は中国人を憎悪し、虐待し た。彼らは中国で中国人と戦い続けてきた。したがって、中国人は日本人の敵であった。彼らは、シンガポール在住の中国人が抗日戦争中の中国を援助するた め、資金を与えているいるのを知っていた。また中国人志願兵の一群が日本と激しく戦っていたことも知っていた。日本人に抵抗する中国人を排除するという企 みをもって、日本人は、シンガポール在住の中国人を処罰することに全力を尽くした。すべての中国人、とくに18歳から50歳までの男性は、日本人によっ て”検証(訳注:敵性華僑摘発と粛清の調査)”されるため、何ヶ所もの集合場所(たとえば、ジャラン・プサールやタンジュン・バーガー)に出頭しなければ ならなかった。いくつかの集合場所には小屋もなく、人びとは何日も野ざらしのままだった。ほとんど食糧も水なく、トイレの設備さえもなかった。彼らの中の だれが日本人に反抗したかを見つけるための、中国人を”検証する”適当な方法を日本人は持っていなかった。ある集合場所では、フードやマスクをさせて顔を 隠した現地の市民の助けを借りた。彼らは日本の敵だとして何人かの人を名指しした。これらの人びとは連れ去られ、けっしてふたたび姿を見ることはなかっ た。何千人もの中国人が貨物自動車で連れ去られた。彼らのほとんどがチャンギ海岸や他の東海岸地域に連行され、そこでグループごとに一緒に縛られた。それ から彼らは射たれ、死ななかったものは銃剣(銃の先端に固定されたナイフ)で死にいたるまで刺された。


  連行されなかった中国人は、センターで恐怖の数日を過ごしてから帰宅することを許された。あるものには「検証済み」という印がおされた一枚の小さな紙が与 えられた。他のものは、ワイシャツやチョッキの上にこの印をおされた。彼らはそれ以上、日本人に詰問されないように、その紙やスタンプのおされたワイシャ ツやチョッキを持っていた。 

13・6 ケンペイタイの恐怖

 日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がた くさんある。「ケンペイタイ」ということばを口にすると、人びとは心に恐怖の念が打ちこまれる思いをもつことだろう。ケンペイタイは島全体にスパイをおい た。だれを信じてよいのかだれにもわからなかった。スパイによって日本軍に通報された者は、オーチャード通りにあるYMCAやクィーン通りにあるラッフル ズ女学校といったケンペイタイの建物に連れていかれた。そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを、人に告げること なく死んでいった。日本軍が使ったもっとも一般的な拷問の一つは「水責め」であった。捕われた人は寝かせられ、大量の水が鼻や口から流し込まれた。ときに は、この残酷な仕打ちが数週間もくりかえされた。

13・7 食糧供給不足と闇市

  日本軍がシンガポールを占領した時点では、都市周辺の倉庫には物や食糧の貯えが、2、3年は十分もちこたえられるほど、多量にあった。しかし日本軍は、彼 ら自身のためにこれらの貯えをとりあげ、シンガポールの人びとにはほとんど残らなかった。最初の2、3ヶ月間は、中国人街の人びとは盗んだ品物を売ってい た。この「商売」はすぐになくなった。食糧その他の商品の値がはねあがった。市場はまもなくほとんどからっぽになり、店では売るものがなかった。米や他の 食料品の価格はあがり続けた。たとえば、米の価格は1941年12月には1ピクル(約60キログラム)につき5ドルであったのに、1944年3月には 200ドルになった。1945年6月には5000ドルにまでなった。

 富のある者も貧しき者もともに、食糧不足に悩み、多くの人が飢えと 渇きを経験した。このようなときに、もしだれかが店からジャムを買おうとしても、店員はそんなものは全然ないというであろう。しかし、もしも大変高い額を 支払うつもりであることを示せれば、店主は、それを手に入れる場所を知っていた。それは「闇市」として知られているものである。もし、高額が支払えないの であれば、それなしですまさなければならなかった。こういうことは靴ひも、針、タオル、石けんのようなものでも同じだった。多くの人はそのような品物に高 額の金を払う余裕はなかった。しかし人びとが困っている一方で、日本人は最上の物をなんでも持っていた。たとえば米や砂糖、肉、魚、ウイスキー、タバコな どである。


 当時使用されていた紙幣、つまりドル紙幣は日本の「バナナ紙 幣」(訳注:軍票)であった。これら紙幣にはバナナや他の果物の絵が描かれていたので、バナナ紙幣と呼ばれた。日本人は好きなだけ紙幣を印刷した。彼ら は、しばしば粗悪な紙を使用したり、また通し番号のない紙幣まで使用したりした。品不足の深刻化にしたがい、商品の価値は急速に上昇し、日本の金の価格は ますます低下していった。このことは、同じ額の金で買えるものがどんどん少なくなっていくことを意味した。

 品物不足と、その結果起きる 困窮が、シンガポールの外国貿易もほとんど行きづまり状態にさせた主要な原因である。日本をふくめて、他の諸外国との貿易は無に等しかった。船主が燃料油 に不足していたため、ほとんどの船が近隣諸国から食料品を持ちこめなかった。日本軍は自軍の戦艦や飛行機や戦車や軍用トラックに使うために、東南アジアで とれる石油や石油製品をとりあげた。そのうちのいくらかは、日本国民が使うために持ちさられた。

 イギリスやアメリカやオーストラリアや その他の連合国の船も、食料品や他の品物をシンガポールに持ちこめなかった。これらの国は日本と交戦中であり、シンガポールと貿易をすることができなかっ た。彼らの船の多くは、日本の戦艦と潜水艦によって沈められた。海運業が極度に減り、他国との貿易もままならなくなったので、シンガポールの貿易業者や商 人は、もはや貿易で金を稼ぐことができなくなった。そして貿易や他の商売がこんなにも少なくなってしまったことで、その生計を貿易や商売にたよっていた何 千人もの人びとは働く場所を失ってしまった。


 貿易も仕事も金もない多くの 人びとは、どのようにして飢餓の年月を、生きぬいたのだろう。たいていの人は、さつまいもとかタピオカとか野菜のような食べものを栽培しなければならな かった。彼らは、裏庭や自分の家に近い小さな土地で、それらを栽培した。実際、さつまいもやタピオカは人びとの主食となった。日本人はブキティマやベドッ クやヨウチューカンやその他の場所に新しく農地を開いた。しかし、これらの農業地域も、人びとに十分な食糧を生産できなかった。そこでは米の収穫はなかっ た。政府はまた、何千人もの中国人やユーラシア人が、自分たちで食べるものを栽培できるように、二つの農場を開拓しようとして、マラヤに彼らを移民させる 政策をとった。食糧の不足にともなって、シンガポールでは配給制が行われた。たとえば、米は1ヶ月に男性1人につき、たったの8カイツ(4.8キログラ ム)、女性1人につき6カイツ(3.6キログラム)、子ども1人につき4カイツ(2.4キログラム)だけが配給された。米の配給量は1944年の初頭に減 らされた。

 シンガポールの多くの人びとは、食べるのに十分な食糧がなかった。彼らはバランスの取れた食事がとれないため、多くの人びと がベリ・ベリ(訳注:脚気のこと)と呼ばれる病気に苦しんだ。そうでない人も、結核とかマラリア、その他の病気で悩まされた。人びとの健康状態の悪化か ら、そしてまた薬品類の不足により、多くの人びとが死んだ

 


※ 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、空行を挿入したりしています。青字が書名や抜粋部分です。  「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

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