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日本の韓国併合・植民地支配は合法だったか-----------

 日本が韓国を併合し植民地化した当時、西欧列強諸国も武力を背景に弱小国を植民地化していた。したがって、日本の韓国併合は合法であり問題はなかった、というのが日本政府の考え方である。でも、はたしてそうか。下記、資料1~4のような文書の存在は、そうした考え方に疑問を抱かせる。

 高宗皇帝(光武帝)は、第2次日韓協約(乙巳条約)締結の1905年前後に、日本の植民支配の流れに抗して、外国の元首に対し、韓国の主権守護への協力を要請する親書を数回発送しているという。そして、1906年6月22日付の光武帝の親書が、87年目にして、米国コロンビア大学貴重図書・手稿図書館に保管されている「金龍中文庫」の中から発見された。
 それは、光武帝の乙巳条約(第2次日韓協約)無効宣言に関する親書であり、ハルバートを特別委員に任命して委任状を与え、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギー、中国など当時の修好通商条約対象国9カ国元首に宛てたものである。この親書が元の状態で発見されたということは、結局これが伝達されなかったと考えられる。ハルバートが密旨に沿う外交交渉に乗り出そうとした1907年7月には、光武帝は同年4月のハーグ万国平和会議に特使を派遣し、主権を回復させようとした試みによって、強制退位させられたからである。親書を発送した光武帝は、もはや大韓帝国の皇帝ではなく、したがって、委任状と親書は効力を喪失してしまったとハルバートが考えた、ということのようである。日本の強引な大韓帝国皇帝強制退位によって、韓国の主権守護の外交交渉は終わってしまったということになる。

 今までに、乙巳条約締結が無効であったという根拠はいくつか示されてきた(乙巳条約締結が無効であれば、韓国併合の合法性が問われる)。
 まず、ハーグ万国平和会議に派遣された李相尚正使、李儁副使、李瑋鐘の3人の特使が連名で作成した文書に、条約が皇帝の許可なしに強制された事実が明らかにされている。
 また、尹炳奭教授は、日本外務省外交史料館に保管されている条約文書に、批准書がない事実を確認したという。
 さらに、李泰鎮教授は、乙巳条約はもとより、いわゆる丁未条約も、国家間の条約で最も重要な手続きである、全権委任がなしに作成されたものであることを明らかにしている。
 その上、この親書が発見されたのである。主権者である皇帝自ら、条約が不法かつ無効であることをはっきり示しているということである。手続き的に様々な問題があり、おまけに皇帝が不法で、無効であるという条約が、合法であるといえるのか。日本側は一貫して、諸条約は合法的に締結され、有効である主張してきたが、考えさせられる。下記は
「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
資料1-----------------------------------------------

                 Ⅴ 光武帝の主権守護外交・1905-1907年 
                    ──乙巳勒約の無効宣言を中心に──

二 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書


 ・・・

 朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であること宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。
                                                      大韓帝国皇帝

 この電文は勒約についての皇帝の考え──勒約無効、同意拒否──をもっとも簡潔明瞭に伝えている。この電文はハルバートによって12月11日に国務次官に伝達されたが、米国はこれを黙殺した。
 光武帝はハルバートを派遣した直後、対米交渉を強化するために追加措置をとった。パリ駐在の閔泳瓚公使に、米国に急行して外交交渉を強化するよう秘密訓令をくだした。閔公使は12月7日、特命全権資格がないことを通告し、皇帝の意思を伝えるために会談を申し込み、11日にルートと会談した。ルートは12月19日付の答信を送り、「善為調処」の約定による何らかの協力は不可能であるとの立場を通報した。米国は、この答信を日本公使に送るという親切さも忘れなかった。11月末以後、めまぐるしく展開された「文書伝達者」ハルバートと閔公使の対米交渉は、結局米国の非協力でなんの成果もあげられなかった。


 ・・・(以下略)
資料2---------------------------------------------
三 勒約無効宣言と共同保護:1906年1月29日国書

 1906年1月29日に作成された文書は、光武帝が列強の共同保護を要請する意図を公にした最初の文書である。この文書は海外に密送され、1年後に新聞報道によって国内に伝えられた。だが、文書作成経緯と伝達過程、宣言の内容などを通じて確認できる皇帝の帝権守護の外交交渉は、まだ明らかにされていなかった。この文書は『大韓毎日申報』1907年1月16日付に次のように報道された。

1、1905年1月17日、日本の使節と朴斉純が締約した五条約は、皇帝は認可も押印もされていない。
2、皇帝は、この条約を日本が勝手に頒布することに反対された。
3、皇帝は、独立帝権を一毫も他国に譲与されたことはない。
4、外交権における日本の勒約は根拠がないし、内治上の一件たりとも認准することはできない。
5、皇帝は、統監の来韓を許可されておらず、外国人が皇帝権を擅行することを寸毫も許されていない。
6、皇帝は、世界の各大国が韓国外交を5年間の期限付きで共同で保護することを願っておられる。
     光武10年1月29日
     国璽


 この文書が新聞に掲載された際「親書」と紹介されたが、次のような文書形式上の特徴をみれば親書と見なしがたい点がある。文書は「皇帝は…」というように三人称を用いている。親書や委任状では皇帝が自分をいつも「朕」として一人称を使っている。親書では皇帝自身が発信者であることを明示するとともに受信者を特定する。皇帝の意思であることを証明するため御璽を使い、ほとんどの場合「親署押鈴寳」という文字とともに皇帝の花押し御璽が押される。ところが、右の文書では発信者と受信者が明示されず、花押もなく大韓国璽のみがだけが押されている。…

・・・

 この国書は、皇帝の他の親書と切り離しても、それ自体として注目に値する意義のある文書である。とくに国書作成の意義はその作成時期に求められる。この文書は勒約が不法に締結されてから約2ヶ月目に作成された。慣用句を借りれば、五賊と日本公使が勝手に押した「印章の朱肉が乾かぬうちに」皇帝はこれが無効であることを宣言したのである。この文書は、光武帝が乙巳年11月18日の早朝に起きた事件をまったく認めていないことを明示している。…

資料3----------------------------------------------
4 勒約無効、国際裁判所提訴の要請:1906年6月22日親書

 光武帝が1906年6月22日に作成して発送した親書は、乙巳勒約が国際法的に無効であることを立証するもっとも決定的な外交文書である。


・・・

 朕、大韓皇帝はハルバート氏を特別委員に任命し、我が国の帝国皇室と政府にかかわるすべての事項について英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギーおよび清国政府など各国と協議するよう委任した。この際ハルバート氏に親書を各国に伝達するようにさせており、各国皇帝と、大統領、君主陛下に対して、この親書で詳細に明らかにされているように、わが帝国が現在、当面している困難な状況を残らずに聞き入れてくれるよう望むものである。

 将来、われわれはこの件をオランダのハーグ万国裁判所に付しようとするものであり、これが公正に処理されるように各国政府は援助してくれることを願う。
  大韓開国515年6月22日
  1906年6月22日
 

 ハルバートを選んで特別委員に任命した理由は自明である。光武帝が結局、日本の主権侵害を国際裁判所に提訴し、国際公法によって解決する考えをもっていたのである。この密旨を忠実に履行するためには、9カ国の列強国家元首に対して当面の事態について「残らずに」十分協議ができる特命全権の委任をうけた外交官がいなくてはならない。皇帝が信頼するにたりる帝国官吏がいない状況で、外国との交渉であるという点を念頭においてハルバートを選んだのである。…

・・・

資料4--------------------------------------------------

 …
次はハルバートが伝達するために委任された親書の韓国語訳である。

 大韓国大皇帝は謹んで拝大ロシア大皇帝陛下に親書を差し上げます。
 貴国とわが国は長い間、数回にわたって厚い友誼を受けて参りました。現在、わが国が困難な時期に直面しているので、すべからく正義の友誼をもって助力してくださるものと期待しております。


 日本がわが国に対して不義を恣行して、1905年11月18日に、勒約を強制締結しました。このことが強制的に行われた点については、3つの証拠があります。
 第1に、わが政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、脅迫を受けて強制的に行われたもので
      あり
 第2に、朕は政府に対して調印を許可したことがなく、
 第3に、政府会議について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたものであり、日本人が大臣を強制監禁して
      会議を開いたものであります。

 状況がこうであるため、いわゆる条約が成立というのは、公法に反するため、当然、無効であります。
 朕が申し上げたいのは、いかなる場合においても断じて応諾しなかったということであります。今回の不法条約によって国体が傷つけられました。ゆえに将来、朕がこの条約を応諾したと主張することがあっても、願わくは陛下におかれては信じたり聞き入れたりせず、それが根拠のないことをご承知願います。

 朕は、堂々とした独立国家がこのような不義で国体が傷つけられたので、願わくは陛下におかれてはただちに公使館を以前のようにわが国に再設置されるよう望みます。さもなくば、わが国が今後この事件をオランダのハーグ万国裁判所に公判を付しようとする際に、わが国に公使館を設置することによって、わが国の独立を保全できるよう特別に留意してくださることを望みます。これは公法上、真に当然なことでしょう。願わくは、陛下におかれては格別の関心を寄せられるよう期待します。


 この件の詳細な内容は、朕の特別委員であるハルバートに下問してくだされば、すべて解明してくれるだろうし、玉璽を押して保証します。
 陛下の皇室と臣民が永遠に天のご加護がありますよう、厳かに祈ります。併せてご聖体の平安を希求いたします。
   大韓開国515年6月22日
   1906年6月22日
                                                 漢城において、李熙・謹白
   御璽

 この文書の書誌的な特徴と真偽を検討してみる。この二つの文書に使用された印章はすべて「皇帝御璽」の文字が刻まれた御璽である。この印章は「寳印符信総数」に登録された御璽ではない。また「親署押鈴寳」という文字がない。したがって、皇帝の花押もなく、御璽だけが押されているのである。すなわち、ハルバートに秘密に渡された外交文書には未登録印章が使われ、花押がない。こうした形式上の問題は、それらの文書がはたして光武帝が作成したものかどうかを疑わせる。だが、「寳印符信総数」に登録された印章は、勅令や法律、詔勅などのように、内政にかかわる法令を皇帝が裁可する際に使われた花押と御璽である
。…

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三・一運動と高宗前皇帝の急逝(毒殺?)-------------

 三・一運動とは、日本統治時代の朝鮮で、1919年3月1日に始まった運動であり、独立万歳運動や三・一独立運動などと呼ばれることもある。また、万歳事件、三・一事件などと呼ばれることもあるという。数ヶ月に渡って朝鮮半島全土で展開されたが、朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たったという運動である。

 そして、その三・一運動が、民族挙げての運動になったのは、高宗前皇帝(太皇帝・光武帝)の急逝という事件が導火線になったという。ながらく抑圧されてきた民族の力が公憤として爆発したのは、当時のアメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決主義の考え方に感化されたからではなく、また、難解な漢文で書かれた独立宣言文に共感したからでもなく、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が疑問死をとげたからであるという。もちろん、ウィルソンの民族自決主義の主張や独立宣言文も様々なかたちで影響を与えたであろうことは否定できない。しかし、大衆動員の起爆剤となったのは、あくまでも条約批准の拒否や国書の下達、ハーグ特使派遣など主権守護に手を尽くしていた高宗前皇帝の疑問死である、というのである。日本の支配に不満を募らせていた朝鮮民族が、高宗前皇帝の急逝を、日本人による毒殺と見なして不満を爆発させ、起ち上がったということである。
 当時、第2次日韓協約(乙巳条約)が不法に強制されたものであること、また、皇帝が主権守護の意思を持ち、ねばり強い外交交渉を続けて抵抗していることなどについて、韓国国民は新聞報道などでよく知っていたという。したがって、毒殺が疑われる高宗前皇帝の急逝を知らされたとき、君主の仇をうたなければならないと立ち上がった、というわけである。
 
 それは、三月一日の早朝、東大門と南大門などの主要地域に張り出された下記のような壁新聞にはっきりとあらわれているという。

 ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
   隆煕13年正月
                                   国民大会


 また、ソウル以外の地方大都市での集会は、大部分「奉悼会」を開催するとの名文で、大衆が動員されたという。

 米高官に「日韓関係改善は米国外交の優先課題」と言わしめるほどに、現在の日韓関係は冷え込んでいるようであるが、歴史認識の問題として、日本人はこうした事実にも、目を向けなければならないと思う。総督府の日本人関係者が、高宗皇帝の妃である明成皇后(閔妃)を殺害し、高宗皇帝を強制退位させたばかりでなく、日本の植民地支配に抵抗し続けた高宗前皇帝を毒殺したと疑われているのである。
 高宗前皇帝の急性が毒殺であると考えられた根拠は、以前にも触れたが、要約して下記の4つに整理されている。

 (1)崩御後、即時に玉体に紅斑が瞞顕し糜爛した。
 (2)侍女二人が同時に致死した。
 (3)尹徳栄、尹沢栄は当日、晨4時に諸貴族を宮廷内に請激し、日本人が弑殺
    したのではないという証書に捺印しようとする運動に尽力したが、朴泳孝、李
    戴完の両人の反駁によって証書がならなかったのはなぜか。
 (4)閔泳綺、洪肯燮が玉体を歛襲するとき糜爛が早すぎるのを不審に思い、こ     れを外に伝えたところ日本人警官がただちに右の2人を拿致、詰問して激論    した。


 当時、すでに、パリ大学の国際法学者レイ教授が、第2次日韓協約(乙巳条約・乙巳勒約)が無効であると指摘しており、国際法学界でも受け入れられていたということが「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)で明らかにされている。下記は、その一部抜粋であるが、だとすれば、高宗皇帝の抵抗は当然のことであり、その毒殺説についても、歴史認識の問題として、真摯に向き合わなければならと思う。
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                    Ⅴ 光武帝の主権守護外交1905-1907年

2 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書


 ・・・
 
 …乙巳勒約の強制直後、『ロンドン・タイムズ』は条約締結の事実を報道した。この記事は主に日本の資料を用いたもので、日本の公式立場を代弁していた。それにもかかわらず、大臣らが調印を頑強に拒むと伊藤が長谷川を動かして武力を行使し、介入した事実が報道された。この報道と、その後明らかにされた光武帝の勒約無効の外交交渉の事実を知るようになったパリ大学の国際法学者レイ教授は、1906年に『国際公法総合雑誌』に「韓国の国際状況」という論文を発表した。この論文で、彼は光武帝の勒約無効の外交交渉の事実と乙巳条約の不法性について、次のように指摘した。


 ところで、極東の急送公文書の結果、先月11月の条約は、日本のように文明化した国家の精神的かつ肉体的な不当な脅迫によって韓国政府に強要されたのであった。この条約の署名は、日本の全権大使である伊藤公爵と林氏を護衛する日本軍兵士たちの威圧の下で、大韓帝国皇帝と諸大臣から得られたものにすぎない。2日間の抵抗の後、閣議はあきらめて条約に署名したが、皇帝はただちに強大国へ特使、とくにワシントンには大臣を遣し、加えられた脅迫に対して猛烈に抗議をするように命じた。
 署名が行われた特殊な状況を理由に、われわれは1905年の条約が無効であることを確認することに躊躇しない。実際、私法の諸原則の適用により、公法においても、日本の全権大使による個人に加えられた脅迫は、条約を無効とする、同意不備にあたるものと認められる。


 要するに、締結過程で強迫が加えられ、また皇帝がただちに勒約無効化の外交交渉を試みたという事実を根拠に、レイは乙巳条約が無効であることを明らかにした。この論文が発表されて以来、乙巳条約は強迫によって締結されたために無効となる条約の、代表的な事例として国際法学界に知られるようになった。この論文以後、他の国際法の論著にも、この事実が紹介されている。だが、日本の国際法学者である有賀長雄だけがレイの主張を受け入れなかった。彼は日本の侵略をごまかすために、1906年に書いた『保護国論』で、レイ教授の主張と、その根拠となった『タイムズ』記事のように強迫が行使されて条約が締結されても、ほかの国家も類似の行為をしたのだから「おれだけに殺人強盗の罪を問わないでほしい」という詭弁を弄した。その後、この詭弁は国際法学者の論議で一度たりとも受け入れられなかった。後述するが、レイの法律的解釈は、その後、国際法学会で検討が重ねられ、その正当性が再確認されて今日に至っている。

 ・・・(以下略)

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ドイツの「戦後補償」 NO1-----------------

 第2大戦後、ドイツは日本同様敗戦国としてスタートした。しかしながら、戦後の歩みにはかなりの違いがある。特に近隣諸国との関係で、「過去」をめぐって今なお深刻な対立を抱えている日本と違って、ドイツは今や欧州連合(EU) の中核国である。それは、連合国(戦勝国)の戦後処理の違いによる面も大きいのであろうが、両国の過去との向き合い方の違いによる面を見逃してはならないと思う。その一つが「戦後補償」の問題である。

 日本の7倍を上回るというドイツの「戦後補償」は複雑でわかりにくいが、それは、複雑に絡み合った様々な被害や損害に対して法的措置を講じ、もれなく対応しようとしたからでもあると思う。

 それに比して日本は、アメリカが主導したサンフランシスコ講和条約によって、「…日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される」と規定されたのみならず、再軍備と安保条約によるアメリカ軍に対する軍事基地提供と引き換えに、戦争賠償の大幅な軽減を得た。米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するためであろうが、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、「日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない」と答えた吉田首相に対し「戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ」と言ったという(古関彰一獨協大学教授の研究による)。 そして、日本を極東戦略の要と位置付けたアメリは、アジア諸国との個別交渉を引き延ばし、戦争賠償を値切る日本を後押しするかたちで、その賠償要求を抑さえたのである。

 さらに、戦後の中国では国共内戦が続き、朝鮮半島では朝鮮戦争があった。また、その他のアジアの国々も、条約締結当時、自国の民間人戦争被害者の実態などを正確に把握できる状況にはなかった、ということもある。そんな中で日本は、その賠償を東南アジアに対する経済的再進出の足がかりを得るような賠償支払いや有償・無償の経済協力のかたちで進めたため、アジアの国々では、先の大戦による戦争被害者個人に対する補償は、ほとんどなされていないといっても過言ではないという。にもかかわらず、日本は、今なお戦争被害者個人の補償要求を拒否し続けている。法的にはそれで通るということなのであろうが、理解が得られるとは思えない。なぜなら、ドイツと違って、日本の賠償が、ほんとうの意味の戦争被害に対する賠償や補償になっておらず、また、その謝罪が不十分であり、歴史認識や歴史教育の面でも、たびたび批判や非難を受ける状況が続いているからである。 
 
 日本国内でも、様々な戦争被害者の補償要求があるが、戦傷病者戦没者援護法は軍人・軍属のみが対象で、民間の戦争被害者はその対象ではない。唯一例外的な補償は、原爆被害者に対するものであろうか。 

 ここでは、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、ドイツの戦後補償に関する部分を前半・後半の2回にわけて抜粋することにした。下記は、その前半である。
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                         第3章 外国の戦後処理
第1 ドイツ

1 補償の理念

 ナチス政権のとった戦争政策と侵略の結果は、ドイツ国の内外に物心両面にわたる莫大な損害として残された。敗戦の惨禍からドイツを再建するためには「過去の克服」が必要であった。それはナチスの犯罪政治を、国民がその出現を許し、それに従ってきた歴史を心に刻みつけるとともに、戦争被害者に国の責任として償い、国民の間に戦争被害の衡平化をはかる必要があった。内外の被害者に対して真摯な謝罪の意を表明し、その具体化として被害について可能な限りの補償をすることであった。戦後のドイツの再建には、これらのことを実行することが何よりも必要であったし、そのような誠意の披瀝によってのみ近隣諸国のドイツ国およびその国民に対する信頼が回復されたのであった。
 ドイツの戦後補償のための法制化は、1949年にはじまり58年までの間に集中的に行われた。その後も補充的措置が引き続いて行われている。


2 補償の体系

 ドイツにおける戦争被害に対する国家補償は、人的損害と物的損害に及び、補償の受領者としては外国人にたいして行われるものもある。その補償の体系は次のように構成されている。

(1) 国の戦争行為によってひきおこされた結果責任補償理念に基づき、国民間の被害負担の衡平化をはかる。
① 人的損害に対する措置として戦争犠牲者援護法(BVG,1950)がある。
② 物的損害に対しては負担調整法(LAG,1952)、その前段階として、即時援護法(SHG,1949)がある。
   これらの法とその施行法令は戦争被害補償の一般法的地位にあり、その戦後処理の中心になっている。
③ 難民及び引揚者に関する法律(難民法 BVFG,1952)
  第2次大戦の結果、ドイツの東部領土の一部が、ソ連邦またはポーランド領となったこと及び東西ドイツに分かれたこと
  により、そこから西ドイツに避難してきた人々の損害にたいする援護法である。 
④ 帰還者法(HKG,1950)捕虜補償法(KgfEG,1954)  
   前者は軍隊等に所属していたため捕虜になった者が帰還した場合の援護法であり、後者はその補充をなすものであっ
  て、1947年1月1日以降外国の抑留から解放され、西ドイツに居住した者に対する援護法である。  
⑤ 賠償補償法(RepG)
   ドイツは敗戦直後、ここで述べる個人補償のほかに、工場施設の接収や海外資産の没収などのかたちで連合国側に
  約2,000億マルクと計算された国家間賠償を行っている。
   この補償は連合国により現物賠償として接収された物、接収後返還されたが現状回復不能の物、破壊されてしまった
  物の権利保有者への補償である。
   この法律は、国の利益のために個人の財産を失わせる結果となったことに対する補償であるから、公共収用補償の
  意味をあわせもっている。

(2) ナチス権力の不法行為についての国家賠償
 これは、ナチス政府とそれに従う徒が、世界観、宗教、政治的立場、人種を理由として人びとに加えた生命、身体、健康、自由、所有権、財産への侵害行為から生じた損害および職業的または経済的生活におよんだ不利益に対する国家賠償責任に基づく補償である。
① 連邦補償法(BEG,1956)
   ナチスの迫害による犠牲者のための補充法(BEngG)を先行法として、この法の制定により請求権者の範囲、損害の
  要件および給付内容が拡大された。連邦補償法終結法(1965)により請求権者の範囲は一層拡大されるとともにこの
  法による補償の終結がはかられた。 
   人的損害を主な対象とするが、連邦返済法によって補償を受けられない物的損害に及ぶ。
② 連邦返済法(BRuG,1957)
   不法に奪われた所有物の現物返還、それが不能の場合あるいは物ではない資産についての損害について一時金、
  年金の支払、低金利貸付などが行われた。
   この法律によって返還・補償を受けた総額は3兆135億マルクにのぼり、その4分の3は不動産であるという。
③ ユダヤ人賠償条約(ルクセンブルク協定,1952)
   この条約は、連邦補償法の適用から洩れたナチス被害者に対する補償として1952年に調印された。その理由は「ドイツ
  民族の名で名状すべからざる犯罪が行われた。これから道徳的かつ物質的な償いの義務が生じた」(アデナウアー首相
  ,1951年9月27日の国会演説)とされている。
④ 一般戦後処理法(AKG,1957)
   ナチス犠牲者以外に国家的不法行為によって、生命、身体、健康、自由の侵害をうけた被害者に対する補償である。

3 主要な補償法の内容と問題点
 上記補償法の内容の概要とそれに関係する措置について、日本の対応被害と
関連してのべる。

(1) 戦争犠牲者援護法
 軍事上もしくはこれに準ずる任務にともなう事故及びそれと特有な関係による健康障害を受けた者に対して支給がなされる。そのなかには捕虜、抑留等による健康障害者も含まれている。空襲によって生じた市民の被害についても均しく適用されるが、戦時中のドイツでは市民にも防空義務が課されていたために、この法によって援護を受ける市民の範囲は広い。
 支給の内容は、治療、看護、戦争犠牲者への扶助、障害者への年金支給、死亡の場合の埋葬手当、遺族への年金支給である。
 この法律による既支出額(1988年)は829億マルクであり、現在も年間16億マルクが支出されている。
 日本の戦没者戦傷病者遺族援護法と異なり、市民であろうと軍人軍属であろうと等しく適用を受ける。このドイツ法では、市民に適用された場合、軍事上もしくはこれに準ずる任務に関してという条件があるが、これは専ら被害当時の行動の態様についての客観的事実が基準であって、雇用その他の身分関係は必要条件ではない。
 日本の援護法では国籍条項があって、被害当時日本国籍を有していてもその後外国籍に移った旧植民地出身者は、この法律による援護を受けられない。これに対して、ドイツでは国の外にいるドイツ人(ドイツの国籍を有しない)、ドイツ国内に住む外国人の該当者にも適用がある。なおドイツの国外にいる外国人でドイツ兵役に服していた該当者に対しては、その国の政府と条約の締結によって外国政府に支払いがなされ、それから本人に年金等が支給される。これらの者がドイツ国内に移住すれば直接適用者となる。在韓被爆者、その他の韓国、朝鮮国民、台湾出身者の戦後処理について考えるべきところである。

(2)負担調整法

 戦闘による破壊(都市爆撃による被害を含む)、旧ドイツ領からの追放、引揚げ等によって財産を失った者に対する対物補償である。
 その支出総額は1987年末で1,165億マルクにのぼる。この適用者の中で旧ドイツ領内から西ドイツに移った者は約、1,000万人に達すると言われ、それらの者に対する給付額はその支出総額の3分の2を占める。これらの者に対しては、難民法、引揚者援護法によって居住地、職業、資金の借入、税法上の取扱い等についての援助がなされている。
 その負担調整法の財源は戦中、戦後に財産を失わなかった自然人、法人が1948年時点で保有していた全財産保有額の2分の1に当たる額を財産税として30年賦で連邦政府におさめ、連邦予算からの支出額とあわせて被害者に支給するものである。この納付金は基金として蓄積されていたが、79年をもってこの基金はなくなり、現在は連邦予算によって支給がなされている。

 なお、この法律は現在も作用していて、東ヨーロッパの各地域からドイツに移ってきたドイツ人にも適用されていた。ただし、移住にあたり前住地で財産を処分してきた者には財産的損失をともなわない場合が多い。その場合は支給はされないことになる。
 東ドイツ地域内でおきた当該損害については、この法律の適用はなかったのであるが、ドイツの統一後、これに対してどのような処置がとられるのか注目されるところである。


 (3)賠償補償法

 ドイツ政府は外国に対して今次の戦争に関する請求権を放棄した。そのような請求権の中には国民の受けた私的損害から生ずるものがあった。その被害国民は外国政府からドイツ国に対する賠償を通して補償を受ける可能性があったが、ドイツ政府の請求権放棄によりそれが失われた。ドイツ連邦政府は、それら国民の外国による被害に対する補償が請求権放棄により実現しなくなったことの代償としてこの法律を制定、適用して補償を行った。公共収用補償にあたる。

 その補償内容は負担調整法による場合と同額である。ただし、これらの場合、被害評価は市場価格より低いといわれている。両法は法的性格の相違はあるが、国民の間の戦争被害の負担を均しくするための措置であることでは相違がない


(4) 連邦補償法

 ナチス等による被害者に対する補償立法である。直接的身体的な害悪を受けた者ばかりでなく、強制収容所に入れられた者、医学的実験被害者も含まれる。
 適用対象者は1947年1月1日まで西ドイツ地域に居住していた者、1937年当時のドイツ領内の居住者である。したがって1935年のニュルンベルク人種法発効前にドイツを去ったユダヤ人等は除外される。この法律によって支払われた額は、一時金、年金で1991年1月までに約864億マルクである。現在の年金受領者は約15万人、月額総計約1億2,000万マルクである。

 この法律の適用については問題が多いとされている。例えば、被害者の社会的地位によって補償額が違うために、支給をうける者の間のアンバランスが指摘されている。また、死因と受傷との因果関係が証明される場合以外の死亡者の遺族に対して、支払いがなされないことも問題とされている。


 この法律の関連法として
① 「公務従事者のためのナチスの不法行為に対する補償規制法」(BWGOD,1951)
 ナチス体制下で公務から遠ざけられ、諸権利を失った公務従事者のための法である。再採用の請求、停滞させられた昇進の回復等であるが、早く退職させられた公務員とその扶養家族の救済のためにも適用がある。再雇用に適さなくなった状態にある者に対しては、在職時同じような条件にあった退職者に支給される年金と同額の給付がなされる。

② 「社会保険に関するナチスの不法行為に対する補償についての諸規則の改正・補正のための法律」(1970)
 この種の補正は1949年に始まる。ナチス関係諸機関による逮捕、失業、余儀なくされた外国滞在のための期間の欠落等のため、社会保険給付で損害を受けた分についての補償措置である。事故保険、年金保険等について迫害を理由に支払いを停止された者に、後から支払われるべきこととなった。
 日本の治安維持被害者は弾圧に基づく失職などにより在職期間通算上の不利によって恩給等の支給を受けられない状態にあり、それが戦後措置として回復されず、現在に及んでいるのと対象的である。
 この補償法は、西ドイツの自由、民主的基本秩序に敵対する者には適用しないとの条文の存在と、1956年8月の憲法裁判所の共産党(KPD)禁止判決により、ナチスに抵抗した被害者でありながら、その適用をはばまれている者があることが問題となっている。
 連邦政府の補償とは別に11の州政府が独自にこの種の補償をしており、上の除外者でこれにより補償を受けている者もある。


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ドイツの「戦後補償」NO2-------------------

2014年3月19日、朝日新聞朝刊は「中国、戦後補償で転換」との見出しで、中国の裁判所が強制連行の提訴を受理したことを報じた。戦時中に、中国から日本に強制連行されたとする中国人元労働者らの損害賠償を求める訴えの受理は、はじめてのことであり事実上の方針転換であるとのことである。今回訴えを起こしたのは元労働者と遺族の40人であるが、被告の三菱マテリアルと日本コークス工業(旧三井鉱山)で働いた労働者は9400人余りに上る。そして、強制連行の被害者は中国全土で約3万9000人に達し、日本企業35社が関与しているという。

 日本政府は、1972年の日中共同声明で、戦時中の日本の行為に対する賠償請求権は個人も含め「放棄された」との立場であり、最高裁も強制連行の事実を認めつつ「中国は個人の請求権も放棄した」との判断を示しているわけであるが、戦後68年が経過している現在、再びこうした問題が浮上してきた背景には、安倍首相の「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と言うような発言をはじめ、「南京大虐殺はなかった」というような日本国内の議論や報道の過熱、首相や閣僚等の靖国神社参拝、日中で合意がったと言われる尖閣問題「論争棚上げ」方針を無視しての尖閣諸島国有化などがあるのであろうが、何より日本の戦争賠償が、戦争被害者個人に対する「戦後補償」につながるようなものではなかったからではないかと思う。

 戦争被害者個人に対する「戦後補償」は、日本国内でも繰り返し争われてきた。そこに日本とドイツの戦後補償の違いがある。日本の最高裁判所は、名古屋空襲訴訟の判決で「戦争犠牲、戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところ」という判断を下し、民間人戦争被害者は戦後補償の対象とはしないことを合法とした。ところが、軍人・軍属は、戦傷病者戦没者遺族等援護法で補償され、その遺族も「受忍」を免れたのである。 また、この援護法による補償は、その国籍条項で、旧植民地出身の軍人・軍属は排除しているが、ドイツでは、軍人も民間人も等しく補償される上に、国籍による排除もない。ドイツの兵役に服した該当者に対しては、国籍の有無にかかわらず、また、国外にいる外国人に対してさえも、居住する政府を通して補償されているという。ドイツの賠償や「戦後補償」にも、まだ、様々な問題が残されているようであるが、学ぶべきではないかと思う。

 日本と同じように、戦時中、ユダヤ人や政治的迫害者を強制労働をさせたドイツのダイムラー・ベンツ社やフォルクスワーゲン社は、補償金を出すとともに、強制労働させられた人々を忘れることがないようにと、記念碑や彫刻物を設置し、加害の事実を継承しようとしているという。日本には、戦争の加害責任を継承する記念館や設置物がほとんどないのではないか、と考えさせられる。

 第2次世界大戦直後は、国家主権の原則に基づき、賠償は国家間の問題であって、個人は自国の裁判所に外国政府を訴え、裁判で争うことはできないとされていたが、最近は海外でも、人権侵害被害者が訴えを起こすケースが出てきているようである。やはり、国境を超えて、戦争被害者個人が、公平に「戦後補償」を受けられるようにするべきではないかと思う。下記は、ドイツの「戦後補償」の後半であり、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)からの抜粋である。
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第3章  外国の戦後処理

4 外国人被害者に対する補償

 ナチスによって被害を受けた外国人は上記のユダヤ人ばかりではない。
 ドイツの補償法は、その請求権者について属地主義をとっている。連邦補償法で定めている1952年12月31日にこの法律の有効区域に住所を持っていないためにこの法による補償を受けられない者がある。その補いとしてドイツ政府はそれらの者が現に滞在しているルクセンブルク、ノルウェー、デンマークなど12の国と1959年から1964年の間に各々条約を結び、総額8億7600万マルクの一括戦後補償協定をした。これを受領した各国政府が国内措置としてそれら被害人個人に支給している。フランス関係では、連邦補償法から洩れた者に対する政府との間の包括処理と適用被害者に対する個別支払いとが併用されている。

5 強制労働従事者に対する補償 

 ナチスは戦時中の労働力不足を補うために、ドイツ軍の占領地域から多数の住民・捕虜を強制連行して、国内企業の事業場で就労させた。その数は1944年の秋には26カ国790万人に及んだといわれる。その中でポーランド、ソ連からのものが過半数を占めていた。これらの連行、強制労働は、ハーグ陸戦法規、ジュネーブ条約に違反するものであった


 占領地等から強制連行され、ドイツの企業で強制労働させられた外国人労働者に対するドイツ政府の補償は、これまでなされてきていなかった。ドイツ統一後、この補償問題をめぐる交渉がはじまり、1992年3月ポーランドとの間にその被害者救済の「和解基金」が設置され、ドイツ政府から5億マルクが拠出された。チェコスロバキアでも強制労働被害者の組織がつくられた。ロシア、ベラルーシ、ウクライナ政府とドイツ政府の間にソ連侵攻により残された残虐行為被害者・遺族に対しての10億マルクの補償協定が最近締結されたことが報道されている。

 これら強制労働に従事させられた者から強制労働させた企業に対して裁判が起きたのを契機に、私企業と被害者団体の間の協定が成立し、支払いがなされている。ベンツなど7社から88年までに7000マルクが「ユダヤ人会議」などに支払われている。フォルクスワーゲン社も1200万マルクを関係国の青少年交流基金に支出している。しかし、これら各社は、その拠出は法的責任に基づくものではないとしている。


6 ナチス被害者に対する補償の補完

 ナチス時代の1933年7月の立法である「遺伝病的子孫忌避のための法律」によって、身体・精神障害者等に強制的に断種手術をされた。これらの人々は、社会的に不要であり、国家にいたずらに負担をかけるもので生存の価値がないとされた。39年以降人体実験の対象にされ、「安楽死」させられるにいたった。

 定住地を持たないロマ(ジプシー)の中で、強制収容所に収容された者がいたが、その収容のための理由とされたものが、反社会的行為、スパイ行為となっていたため、この強制収容に対する補償がなされなかった。このようになってきた客観的事由は、これらの人々の生活態様が、補償実現のための要求運動の結集を困難にしてきたことにあった。しかし、この問題についても見直しが行われている。


7 ドイツの補償支払額

 1993年1月1日現在の既支払総額は、次のとおりである。
連邦補償法(BEG)     …………… 7,104,900万マルク
連邦返済法(BRuG)    ……………   393,300万マルク
イスラエル条約       ……………  345,000万マルク
12ヶ国との包括協定    ……………  140,000万マルク
その他の給付        ……………  780,000万マルク
州法の規定による給付  ……………  221,700万マルク
苛酷緩和最終規定     ……………   64,400万マルク
                     計   9,049,300万マルク

 同日ドイツ連邦政府財務省が今後続けられるであろう支払いによる見積補償支払い総額は次のとおりである。

連邦補償法(BEG)      …………… 9,500,000万マルク
連邦返済法(BRuG)     ……………   400,000万マルク
イスラエル条約        ……………  345,000万マルク
12ヶ国との包括協定     ……………  250,000万マルク
その他の給付         …………… 1,200,000万マルク
州法の規定による給付   ……………  350,000万マルク
苛酷緩和最終規定      ……………  181,500万マルク
                      計   12,226,500万マルク

※参考 「過ぎ去らぬ過去との取り組み 日本とドイツ」佐藤健生 ノベルト・フライ編(岩波書店)には、

 連邦補償法および連邦返還法による支給の17%は国内に、40%はイスラエル、残り43%は国外に連邦補償法に基づく年金の支給は、15%が国内に、85%が国外に

とある。

     
 ドイツにおいては、本来の戦争被害者補償措置とは別に、重度身体障害法、社会扶養法等の社会保障制度がある。これらは戦争によって困難な状態に陥った者にも適用があるから、重合的に、あるいは補充的に戦争被害の救済に役立っているので、広義の戦争被害対策措置といってよい。

 また公務員関係の年金法では公務員、軍人等の戦争中のナチス政権時代の勤務期間も通算して支給がなされている。日本の恩給法が戦没者戦傷病者遺族援護法と連結されて戦争被害補償法の一種と考えられているのに対し、ドイツでは年金法は公務員法として、戦争被害補償法とは法的性格を異にするものとして截然と区別されている。したがって、もしドイツにおいても年金法による支給額を、日本で論じられているように、戦争被害補償額に算入するとすれば、今日議論されている日本・ドイツ両国の間の戦争被害についての支払の格差はさらに拡がることになる。
 


8 当面の課題

 ドイツにおける戦後措置は、西ドイツ政府によって戦後間もなくから開始され、約20年前にその体系的整備が一応終わり、実施されてきている。1990年のドイツ民主共和国(東ドイツ)の解体、ドイツの統合にともない、両地域で異なった体系でなされてきた施策間の調整、未実施部分の施行などの問題が浮かび上がってきている。
 また、これまでその処理が延ばされてきている旧東ドイツ地域でおきた被害に対する補償、ドイツ企業で強制労働させられた周辺諸国民から補償要求、東欧諸国との補償問題などが残されている。これらについてはドイツ連邦会議内に補償小委員会が設置され、これに当たっている。なお、ドイツ国と旧連合国間の賠償問題も最終的決着には至っていないのである。


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問題ある日本の戦後補償-----------------

最近安倍政権によって提起され、議論されたり、今なお議論されている問題は大部分が日本国憲法の精神に反するものであるように思う。「国家安全保障会議(日本版NSC)」の創設問題や「特定秘密保護法」の問題、「集団的自衛権」の問題、「武器輸出三原則見直し」の問題などである。その他にも、靖国神社参拝問題や教育委員会制度見直しの問題、教科書の記述内容や採択をめぐる問題などもあり、日本の右傾化を懸念する声が、海外でもひろがっているようである。戦後69年を経た現在、中国や韓国から戦後補償の要求の声があがるのは、そうした日本の右傾化の動きと無関係ではないであろう。また、戦争被害者の補償がきちんとなされていないことも忘れてはならないと思う。

 ドイツと違って、日本では、戦時中の指導者層が戦後も引き続き政界や経済界、自衛隊などで活躍した。一時公職を追放された人たちも、米ソ冷戦の影響で、多くが復帰したのである。だから、政治家の「日本国憲法」に反するような言動や、海外では受け入れられないような、いわゆる「失言」が繰り返されてきたのであろう。安倍政権は、そうした戦時中の指導者層の考え方を基本的な部分で受け継いでいるのだと思う。

 日本の「戦後補償」の問題をふり返れば、戦後まもないころから、戦時中の考え方がそのまま受け継がれている部分があることがわかる。例えば、日本の戦争被害者に対する補償は、ごく一部の例外を除けば、軍人・軍属が対象である。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は民間人戦争被害者は対象としていない。また、連合国総司令部(GHQ)が廃止を指令した「軍人恩給」が、サンフランシスコ講和条約締結によって、日本が主権を回復すると間もなく復活したのみならず、その支給額が旧帝国軍隊の階級に基づいている。戦争責任のより大きな元軍人ほど、より多くの軍人恩給を給付されているのである。ドイツの戦後補償は、民間人戦争被害者も等しくその対象であり、軍人に対する補償に階級差などはないという。

 さらに、日本軍の軍人・軍属として戦場に駆り立てられた旧植民地出身の朝鮮や台湾の人たちが、国籍条項によって、援護法の対象から除外されていることも大きな問題ではないか、と思う。

 下記は、『「戦後補償」を考える』内田雅敏(講談社現代新書)から、記憶しておきたいと思った項目を、いくつか抜粋したものである。特に、─「殉国七士廟」が語るもの─には驚いた。
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                           3 戦後処理と賠償・補償問題  

2 諸外国との比較

 賠償を「値切った」日本
 これに対して日本は、前述した韓国に対する有償・無償の5億ドル、あるいはヴェトナム、インドネシア、マレーシア、ラオス、シンガポール、フィリピン、インドなどに対する賠償を合わせても、総額で6565億円、接収された「在外資産」約3500億円の放棄、およびサンフランシスコ講和条約締結前の中間賠償約1億6000万円を含めても1兆円超である。(中間賠償とは、賠償がなされることを前提として、そのうちの約30%分を、占領地あるいは日本国内にあった機械類などの物納として中国、フィリピン、イギリス、オランダなどに供与された)。しかも、この賠償は直接被害者に対して支払われるものではなく、時には彼の地の独裁政権を支えるために使われたり、あるいはその一部が日本の保守政権に環流されたりした。ドイツと比べると実に7兆円対1兆円ということになる。前述したようにドイツの場合は、今なおこの支払いを続けている。(佐藤健生拓殖大学教授、田中宏一橋大学教授らの研究による)


 日本の賠償が不十分なものであったことは、日本政府関係者も認めているところである。例えば大蔵省財政史室編『昭和財政史──終戦から講和まで』第1巻は、
「日本が賠償交渉でねばり強く相当の年数をかけて自分の立場を主張しつづけたことも結果的には賠償の実質的負担を大きく軽減させた。賠償の締結時期が遅くなった結果、高度成長期に入った日本は、大局的にみてさほど苦労せず賠償を支払うことができたのである。加えて時期の遅れは復興した日本が東南アジアに経済的に再進出する際の絶好の足がかりとして賠償支払や無償経済協力を利用するという効果をもたらした」
と記している。

 また、前述したように外務省の元高官・須之部量三氏も、「(これらの賠償は)日本経済が本当に復興する以前のことで、どうしても日本の負担を『値切る』ことに重点がかかっていた」のであって、「条約的、法的には確かに済んだけれども何か釈然としない不満が残ってしまう」ものであったと語っている。(「外交フォーラム」1992年2月号)
 そして、この不十分な賠償についてさえ日本は戦後アジアに対する再進出の足がかりとして利用したのである。当時、吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。


 外務省賠償部監修『日本の賠償』は、
「輸出困難なプラント類や、従来輸出されていなかった資材を、賠償で供与して“なじみ”を作り、将来の輸出の基礎を築くことが、我が国 にとって望ましいものである。」
 と素直に語っている。さらに、自民党政策月報1956年6月5日号も、「賠償は日本経済発展の特権である」と述べている。
 実はこの点については、ドイツの賠償・補償の場合にも同じような問題が起こりうるのでないかと思い、ボンの大蔵省の担当官にその旨質問してみたが、ドイツの補償はプラント類や資材の支給ではないのでそのようなことはない、という回答であった。


 日本人戦争被害者に対する補償
 このように日本の戦争賠償・補償は具体的な補償額を比較してみても、かつての「同盟国」ドイツと比べてきわめて不十分である。しかし、日本政府は日本人の戦争被害者に対する補償、いわゆる援護法による補償については、後述するような問題点があるとしてもそれなりに行ってきている。

 1945年11月、連合国総司令部(GHQ)が日本政府に対して軍人恩給の廃止を指令して以来、軍人恩給は廃止されていた。1951年9月のサンフランシスコ講和条約の締結を経て、翌1952年4月28日、日本は占領から解放され、主権を回復した。日本政府は国会の審議を経た上で、同年4月30日、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、同年4月1日にさかのぼり再び軍人恩給を支給することにした。同援護法第1条は「国家補償の精神に基づき、軍人、軍属であったもの、またはこれらの者の遺族を援護することを目的とする」としている。


 以後次々と援護法が制定され、その支給合計額は1993年3月末現在で約35兆円となっている。支払いのピークは1987年度であり、以降少しずつ減ってはいるが、年間2兆円近い金額が日本人の戦争被害者に対して支払われている。この35兆円(年間約2兆円)という数字と、前述した対外的な戦争賠償約6565億円(在外資産の放棄を含めても約1兆円)という数字を比べてみると、そのあまりに大きな差に言葉を失う。しかもこの援護法による補償はこれからも増え続けるのである。

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日系米国人への謝罪と補償
 戦後補償は敗戦国だけの問題ではない。戦勝国アメリカにおいても1983年、レーガン大統領の時代に議会は、戦時中、日系米国人を適性国民として強制収容したことを誤りであると認め、その公式謝罪と補償についての勧告を採択した。勧告文は「それがここで起きたのだということが将来への警告として後世に伝えていかねばならないメッセージである」と述べている


 そしてその勧告を受けて1988年に「市民自由法」が制定され、日本政府を介さずに、直接被害者あるいはその遺族に対して金2万ドルがブッシュ大統領(当時)の謝罪文とともに手渡された。謝罪文には次のように述べている。
「金額や言葉だけで失われた年月を取り戻し、痛みを伴う記憶をいやすことはできません。また、不正を修正し、個人の権利を支持しようというわが国の決心を十分につたえることもできません。しかし、私たちははっきりと正義の立場に立った上で、第2次大戦中に重大な不正義が日系米国人に対して行われたことを認めることはできます」
「損害賠償と心からの謝罪を申し出る法律の制定で、米国人は言葉の真の意味で、自由と平等、正義という理想に対する伝統的な責任を新たにしました。みなさんとご家族の将来に幸いあれ」(1990年10月11日 朝日新聞)

 
・・・(以下略)

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3 ドイツ企業の補償のあり方

日本企業の対応は?
 日本の企業の戦後補償ははどうであろうか。
 すでに述べたように日本政府は戦争中、約80万人から100万人の朝鮮人を、そして4万人の中国人を国内に強制連行し、強制労働させた。現在、この強制連行・強制労働について、その被害者あるいは遺族から、日本鋼管、三菱造船、不二越の3社に対して、未払い賃金の請求あるいは損害賠償請求等の訴訟が提起されている。
 これらの原告はいずれも韓国・朝鮮人である。中国人については訴訟になっていないが、花岡事件で知られる鹿島組での強制労働について、鹿島建設に対して補償請求等がなされていることは前述した。
 これらの補償請求されている企業のうち鹿島建設は、中国人被害者に対し、その非を認め一応謝罪をしたものの(ただし、補償請求そのものについてはまだ応じていない)、日本鋼管らの3社は、企業として国家の政策に従ったまでであり、なんら責任がないとしており、また、これらの問題は1965年の日韓請求権協定ですべて解決済みであるとしている。そして、さらに「時効」の主張すらしている。

 日本の国家としての戦後補償がドイツと比べて著しく不十分なものであることは繰り返し述べてきたが、企業の戦後補償についてはドイツの場合に比べ著しく不十分であるどころか、まったくなされていないのが実情である。日本政府の姿勢がそのまま反映しているのであろう。企業のイメージアップということを考えれば、この戦後補償の問題を積極的に解決したほうが得策だと思われるが、やはりドイツ企業の場合と同様、企業幹部の世代交代がないとこの問題はの解決はむずかしいのかもしれない。
 

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                             4 戦後補償の核心と歴史認

2 記念館・記念碑に見る日・独の違い 

 「殉国七士廟」が語るもの
 ひるがえって、日本における戦争記念館はどうであろうか。それは広島の原爆ドームに代表されるように、そこには被害の歴史は刻まれているが、加害の歴史について刻まれているものはほとんどない。そればかりではない。あの戦争を肯定する記念碑等も多々あることに驚く。
 中部地方の小さな町、愛知県蒲郡市、その西のはずれに三ヶ根山という、山というよりはむしろ丘と呼ぶにふさわしい小さな山がある。三ヶ根という名前は、この山が、宝飯郡、額田郡、幡豆郡の3郡にまたがっているところからきている。この三ヶ根山頂の近く(公有地)に「殉国7士廟」なるものがある


 「殉国7士」とは、日本の敗戦後、東京裁判でA級戦犯として裁かれ処刑された東條英機元陸軍大将ら7名のことである。1960年、この地に「殉国7士の墓」が東京裁判の弁護人であった三文字正平らによって建てられた。盛土をし、その周囲を石で固めた広い台座が作られ、その上に「「殉国7士の墓」と刻まれた御影石の大きな墓が建てられている。墓の前には、建立の由来を彫った石碑が建てられ、そこには概要つぎのように書かれていた。
「東條英機元陸軍大将ら7士は、太平洋戦争の敗戦後、東京裁判において『平和に対する罪』という戦争当時は国際法上も認められていなかった事後法により裁かれ処刑された。この裁判は勝者の論理により裁かれたもので公正なものではない。彼は7士は処刑されることによってこの国の礎となった。今日の平和は彼ら7士の犠牲の上に成り立っているものであることを忘れてはならない」
 
実に堂々としたものである。"事後法による裁き"“勝者の論理による裁き”としっかりと理論武装もなされている。それは日本の中央ではなく中部地方の田舎町のはずれにしかこの墓を建立できなかった、という意味においては密かに、しかしその規模という面においては公然と、日本の東アジアに対する侵略の歴史の肯定と、勝者の裁判としての東京裁判批判が展開されている。
 近くには日・独・伊三国同盟締結当時の駐独大使で、東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けた大島浩が、処刑された7名を悼んで詠んだ漢詩を刻んだ石碑も建てられている。

 確かに東京裁判には指摘されるような不十分さはあった。アジアに対する植民地支配を行った欧米列強に、果たして日本の侵略を裁く資格があるのであろうかという根本的な問いもある。また個々のケースについても、例えば元首相・広田弘毅に対する死刑判決については疑問視する人も少ないくない。しかし、だからと言って日本の侵略責任が免責されるものではまったくない。戦争責任を考えるにあたっては、何よりもまず一番被害を受けたアジアからの視点を忘れてはならない。この「殉国七士の墓」には、アジアで2,000万人以上、日本で300万人という死者を出した、あの15年戦争に対する反省は微塵もない。あるのはただ東条英機元陸軍大将ら7名が、日本のために、天皇のために、その身代わりとなって処刑されたという”国土論”とでも呼ぶべき論理しかない。だからこそ、「殉国七士の墓」なのである。

 石碑の前にはさらにそれを守るかのように、俳優の鶴田浩二、横綱北の海、歌手のアイ・ジョージら「有名人」が連名で大きな石碑を建てている。あたり一面には「陸軍○○部隊」「海軍××部隊」といった石碑がずらり。あたかも従者として中央の「殉国七士の墓」を護るかのように配置されている。これらの碑は年々増えつつある。1984年にはこの地の入り口に「殉国七士廟」と書かれた高さ4.7メートル幅、奥行き1,7メートルもある巨大な御影石の門柱が2つ置かれるにいたり、文字通り大「霊園」を構成することになった(この「殉国七士廟」の揮毫者は元首相・岸信介である) 

 沖縄の摩文仁の丘にも似たこの大霊園に佇んで各々の碑文を眺めていて、あることに気付いた。それは姿こそ現していないが、この霊園の中心「殉国七士の墓」の上に君臨するものの存在についてである。「殉国七士の墓」、それに従う数々の石碑、これらが「御楯」となって守っているのは天皇および天皇制にほかならない。東条英機元陸軍大将ら7名のA級戦犯を「国士」とする理論は、当然のこととして彼ら七士の靖国神社への合祀につながり、さらに首相の靖国神社公式参拝へとつながるものである。

 
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戦争賠償と被害者補償-韓国-----------------

 日本のアジア諸国に対する戦争賠償や被害者補償は、基本的に経済協力方式であった。それは、経済的利益を追及する日本の関係者の要求に沿うものであっただけでなく、冷戦下に於けるアメリカのアジア戦略の関係上、求められたことでもあった。

 戦後の日本は、アメリカが主導したサンフランシスコ講和条約によって、「…日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される」と規定され、莫大な損害や被害の実態に見合う賠償や補償は免れた。その上、再軍備と安保条約によるアメリカ軍に対する軍事基地提供と引き換えに、戦争賠償・戦後補償のさらなる軽減を得て、経済協力方式のかたちをとったのである。
 
 米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するため、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、「日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない」と答えた吉田首相に対し「戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ」と言ったという(古関彰一獨協大学教授の研究による)ことに象徴されるように、日本の戦争賠償や被害者補償は、戦争被害国や戦争被害者への賠償や補償を脇に置いて、アメリカのアジア戦略に沿うかたちになったといえる。

 したがって、韓国に対する戦争賠償・被害者補償は、いわゆる「従軍慰安婦」の問題はもちろん、強制連行された朝鮮人労働者の実態調査などもきちんとなされず、植民地支配の問題も究明されることのない、経済協力方式の戦争賠償・被害者補償となった。戦争被害者個人に対する補償は、経済協力に置き換えられたのである。戦争責任を免れ、経済的利益を追求したい日本の関係者と、米ソ冷戦の対応にせまられたアメリカの思惑が一致した結果の戦後処理が、現在に問題を引き摺る原因となったのだと思う。再び交渉が持たれているようであるが、日韓関係改善のために、「解決済み」など冷たく突き放すのではなく、被害者に寄り添い誠実に対応する必要があると思う。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、韓国に対する部分を抜粋したものである。
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                     第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(2)韓国

①日韓会談とその中断
 サンフランシスコ講和条約(1952年4月28日発効)第4条で、朝鮮の独立に伴う日韓間の請求権問題は両国間の特別取り決め主題とした。
 日韓では1951年の予備会談以降、1952年2月15日からはじまった第1次日韓会談から1965年1月18日から6月22日まで行われた第7次会談まで14年間、7回にわたる会談を経て、1965年6月、1条約、4協定(日韓基本条約、漁業協定、請求権および経済協力協定、在日韓国人の法的地位協定、文化財および文化協力協定)が締結された。
 韓国政府は第1回会談以降、以下の「対日請求8項目」を要求して交渉を続けた。
1、朝鮮銀行を通して搬出された地金、地銀
2、1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債権の返済請求
 ア 通信局関係
 1)、郵便貯金、振替貯金、為替貯金
 2)、国債および貯蓄債券等
 3)、簡易生命保険および郵便年金関係
 4)、海外為替貯金および債権
 5)、太平洋米軍陸軍司令部布告第3号により凍結された韓国受取金
 イ、1945年8月9日以降、日本人が韓国の各銀行から引き出した預金額
 ウ、韓国から歳入された国庫金中の裏付け資金がない歳出による韓国受取金関
   係
 エ、朝鮮総督府東京事務所の財産
 オ、その他
3、1945年8月9日以降、韓国から振替または送金された金品の返還要求

 ア、8月8日以降、朝鮮銀行本店から在日東京支店に振替もしくは送金された金
   品
 イ、8月9日以降、在韓金融機関を通じて日本に送金された金品
 ウ、その他
4、1945年8月9日現在、韓国に本社、本店または主たる事務所がある法人の在日
   財産の返還要求
 ア、連合国最高司令部指令第965により閉鎖清算された韓国内金融機関の在日
   支店財産
 イ、連合国最高司令部指令第965により閉鎖された韓国内本店保有法人の在外
   財産
 ウ、その他

5、韓国法人または韓国自然人の日本国または日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金および他の請求権の返済要求
 ア、日本有価証券
 イ、日本通貨
 ウ、被徴用韓国人の未収金
 エ、戦争による被徴用者の被害に対する補償
 オ、韓国人の対日本政府請求恩給関係
 カ 韓国人の対日本人または法人請求

6 韓国人(自然人、法人)の日本政府または日本に対する個別的権利行使に関する項目

7 前記諸財産または請求権から発生した諸果実の返還請求権
8、前記の返還および決済の開始および終了時期に関する項目
  韓国側は、1910年の日韓併合条約は無効であり、無効な条約に基づく植民地支配は違法であるとの主張がなされたが、日本側は1949年12月3日、第1に植民地化は朝鮮の経済的、社会的文化的向上に貢献した、第2に解放後の「日本人の放逐」と日本人の努力により平和裡に蓄積された私有財産の剥奪は過酷な措置であって、国際慣習上異例である、第3に朝鮮は正当な手続きをへて日本の領土となったことなどを内容とする基本見解をまとめて会談に臨んだ。

 このため植民地化をめぐって両国の認識は真っ向から対立し、第2の点についても、日本は在韓米軍政府の財産処分(サンフランシスコ講和条約第14条(b)により日本はその効力を承認するとされていた)は日本の私有財産の所有権移転を意味しないとして日本人の財産につき韓国政府に返還請求していた。
 第3次会談において、久保田貴一郎日本側主席代表が「日本が講和条約を締結する前に韓国が独立したのは国際法違反であり、日本の統治は韓国に有利な面もあった」と発言し、1953年10月21日会談は決裂した。



②日韓条約の締結へ
 アメリカのアジア戦略の中では日韓関係の改善が急務とされ、アメリカは会談の再開を促し、1957年12月31日、第4次会談のための予備会談において、日本政府の対韓民間人財産請求については、日本側がサ条約第4条の解釈に関する米国政府の見解(在日米大使の口上書、1957・12・31、第1010号)に従って請求権の主張を撤回、第5次日韓会談予備会談から項目別討議が始められた。

 しかし、日本は、韓国の8項目請求に対しては、法的根拠と証拠関係が確実なものについては弁済するが、大部分はこれが不明であるとした。
 韓国は日本に資料の提供を求めたが、日本は資料はないと言って交渉は進展せず、かつ、この間、日本側が受取先は国であるのか、個人であるのかとした点については、韓国は国として請求しているのであって、個人に対するものは国内問題として処理すると回答していた。
 1961年の第6次日韓会談において、日本は無償経済協力による解決を提案、併せてこれによって韓国に請求権の放棄を求め、韓国は国内世論に押されて請求権放棄はできないと主張、アメリカは韓国に対し、日本との国交を早く回復するよう求めていたが、1962年6月、経済援助について考え直さざるを得ないとして会談の早期妥結を迫った。

 1962年の大平、金会談において、無償経済援助3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款1億ドル以上の経済協力と引き換えに一切の対日請求権を放棄するとの大平、金メモが作成された。


③条約、協定の締結
 1965年6月22日、日韓基本条約および4協定が締結された。
 請求権および経済協力協定では、日本が韓国に無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、民間商業借款3億ドル以上を供与することで、日韓両国および国民の財産、権利および利益並びに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたことが確認された。(請求権および経済協力協定第2条1項)
 
 なお、請求権及び経済協力協定第2条2項では、「この条約の規定は、次のものに影響を及ぼすものではない」と定め、2項aでは、「一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間、他方の締約国に移住したことがある者の財産、権利、及び利益」と定めている。
 したがって、在日韓国人の「財産、権利、及び利益」は適用除外となっている。

 請求権の問題が経済協力に置き換えられた経過については、例えば、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題は会談の最重要課題の一つとされたが、「事実関係を実証するような材料というものはもうみんななくなっておる」として、「合意のうえ完全かつ終局的に終了したことにして、経済協力という方法によってその問題を置き換えることになった。」(1965年12月3日参議院日韓条約特別委員会における椎名外務大臣答弁)とされている。


 しかしながら、各法務局に供託され、強制連行された朝鮮人労働者への未払賃金の供託報告書が存在して法務局に保管されていて、事実関係が明白である場合についても一括して経済協力に置き換えられている。


④法律の制定(日本)
 日韓条約、請求権協定の締結に伴って、1965年12月17日法律第144号、「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に関する措置に関する法律」が制定された。
 この法律では大韓民国又はその国民財産権であって協定第2条3の財産、権利、利益に該当するものは1965年6月22日において消滅したものとし、日本国または日本国民が保管する物は保管者に帰属する、証券に化体される権利についてはその権利に基づく主張をすることができないと定める。



⑤法律の制定(韓国)
 請求権資金の運用および管理に関する法律(1966年2月19日法律第1741号)が制定され、大韓民国国民が有している1945年8月15日までの日本国に対する民間請求権はこの法律に定める請求権資金の中から補償しなければならないとされ、この民間請求権の補償に関する基準・種類・限度等の決定必要な事項は別に法律で定めるとされた。

 この別の法律として1971年1月19日、対日民間請求権申告に関する法律および1974年12月21日対日民間請求権補償に関する法律が制定された。
 この申告に関する法律により、1971年5月21日から1972年3月20日までの10ヶ月間に対日民間請求権申告管理事務所および全国30ヶ所の税務署で、日本政府発行の国債・地方債・郵便年金・郵便貯金・日本国内所在の金融機関への預金、生命保険等の債権等、および日本国により軍人・軍属または労務者として召集または徴用され1945年8月15日以前に死亡したものに対する補償申告が受け付けられ、対日民間請求権申告管理委員会で適否の審査がされた。そして、補償法により1975年7月1日より1977年6月30日まで、8万3,519件に対し、総額91億8,769万3,000ウォンが支払われた。
 しかし、死亡のみで傷害に対しては支払われておらず、8,552件25億6,560万ウォン、死亡1人当たり30万ウォンが支払われた。


⑥ 問題点
 請求権の問題が経済協力に置き換えられた経過については、例えば、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題は会談の最重要課題の一つとされたが「事実関係を実証するような材料というものはもうみんななくなっておる」として、「経済協力という方法によってその問題を置き換えることになった」。経過は前記のとおりである。

 しかし、東南アジア開発促進の見地から賠償と民間経済協力を併用する方針は、1951年12月17日から、1952年1月18日までに行われた、日本とインドネシアとの予備交渉の過程で具体化されたものであり、日韓会談にあたっても、日本では当初から、経済発展にとってプラスになり、日本の損にならない経済協力方式で解決する方針が固められており、これによって全てを放棄させるのでなければ意味がないとの一文も追加されている外務省の文書が見つかっている。

 植民地支配の問題を棚上げにした上、具体的な項目に入ってからも、事実の究明もせず、日本が持っている資料の開示もせず、証拠がないとして引き延ばしたうえ、当初の目的通り経済協力に置き換えて解決したのであって、植民地支配に対する解決も、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題も未解決のままなのである。
 「従軍慰安婦」問題は当時は会談の対象にもなっていなかった。
 さらに、各法務局に供託され、強制連行された朝鮮人労働者への未払い賃金の供託報告書が存在し、法務局に保管されていて、日本にとっては事実関係が明白である場合についても一括して経済協力に置き換えられたのである。
 また、アメリカはアジア戦略の上で、日韓関係の正常化をはかる必要から、当時アメリカの経済援助によって、経済が成り立っていた韓国に対し、早期に会談を成立させねば援助を打ち切ることも考えなおさなければならないとして脅かして解決を迫り、この結果、日本の当初の方針どおり、経済協力による一括解決となった点も見逃せない。



※ 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、空行を挿入したりしています。青字が書名や抜粋部分です。  「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

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