-NO393~399
-------------------安重根の最終陳---------------------

 安重根は、ハルビンで伊藤博文を殺害する前、黒龍江の山岳地帯でゲリラ的な義兵闘争を続けていたが、厳しい取り締まりによって、しだいに押さえ込まれていく状況を打開しようと、仲間と離れウラジオストクに向かったという。その途上、ロシア領の「ポセット」の同志の家で、11人の同志と共に、左手の薬指を切断し、「断指同盟」を誓っている。そして、安重根が太極旗に「大韓国独立萬萬歳」と血書したという。伊藤殺害の前年、1908年12月30日のことである。
 しかしながら、各地の韓国人による義兵闘争は、その後も、次々に日本軍によって潰され、追い詰められた安重根は、最後の手段として、伊藤博文暗殺を計画することなったという。

 裁判における彼の「…韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきている…」という主張や、「…、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです。…」という主張は、そこからくるといえる。「万国公法」で裁けというわけである。 

 安重根ほか3名の裁判は、旅順の関東都督府地方法院で、明治43年(1910)2月7日に開始され、2月14日には判決が言い渡されている。判官・真鍋十蔵、検察官・溝淵孝雄、国選弁護人・水野吉太郎および鎌田正治、通訳・園木末吉であった。ウラジオストーク居住の韓国人たちが、安重根を気づかい依頼した、ロシア人弁護士ミハイロフやイギリ人弁護士ダグラスの弁護届けが、判官・真鍋十蔵に提出されていたが、最終的にそれは却下され、通訳も含めてすべて日本人であった。
 そして、日韓併合の対韓政策上、「無期徒刑」になってはうまくないと考えた韓国統監府倉知鉄吉政務局長の

検察官ハソノ後訊問ヲ継続シタレドノ別ニ新事実ヲ発見セズ、境警視ノ調ベモサシタル結果ヲ得ルニ至ラズ、サレバ今後、浦塩方面ニナンラカ有力ナル事実ヲ発見セザルカギリ、当地ニオケル取調ベハ実際著シキ効果ヲミルコトナカルベシト思考サエラル。
 シタガッテ、今両3日ヲ経タル後ハ、アルイハ今後ノ方針ニツキ、当地ニオケル関係者協議ヲ遂グルヲ要スル時期ニ達スルコトアルベク、ヨッテ左ノ点ニ関して何分ノ電訓ヲ請ウ」(「安重根と伊藤博文」中野泰雄〔恒文社〕)


に対して、小村寿太郎外相が、

「政府ニオイテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルヲ相当ナリト思考ス」(同書)

との返電を送ったため、それまであった「無期徒刑」の考え方は、関東都督府地方法院からは消えたという。この事件を政治事件とはせず、あくまでも安重根個人の犯罪として、当時の状況や安の思想、暗殺の動機などは不問に付すことになったのである。安重根も、それまで同情的な側面をみせていた検察官溝淵孝雄の態度の変化に気づき、何らかの力が働いたと感じて次のように書いている。

「ある日、検察官がまた審問にやってきたが、その言葉や態度が前日とはまったく違い、自分の考えを圧制しようとし、また発言を抑えようとし、侮蔑する様子があらわれた。私がひそかに思うに、検察官の思想がこのようにたちまち変わったのは、本心ではあるまい。外から風が大きく吹いて、道心がおとろえれば、人心が危うい。という言葉があるが、まことに誤りなく、このことを伝える文字である」(同書)

 関東都督府地方法院には、安重根の求める国際裁判を指示する意見もあったというのに、当時の日本政府の力が作用したようで残念である。義兵とはいっても、個人的に要人を暗殺するという行為には、問題があるであろうが、伊藤博文が中心となって進めたともいえる韓国の保護国化や日韓併合に至る諸政策、初代韓国統監として実行したこと、また、当時の韓国人がおかれた状況などを不問に付したまま、彼を凶漢と呼び、犯罪者と断じるのでは、日韓の溝は埋まらないと思う。 
 
 下記は
「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から、安重根の最終陳述の部分を抜粋したものである。
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                               雨の日の処刑

 ・・・

 判官真鍋は両弁護人の弁論のあと、各被告に最終の陳述を求めた。
 劉東夏と曹道先はともに、本事件とは関係のないことを述べた。また禹徳淳は「伊藤は日本と韓国の間に障壁をつくる人なので殺そうと思い、自分の意志でこの事件に加担することになったのだから、別に異論はない。ただ、今後は日本の天皇陛下が日本人と韓国人とを均等に取り扱い、韓国の保護を確実にしてほしいと思います」と述べた。
 最後に安が立った。長文にわたる安の陳述記録をそのまましるしてみると──。

「私が、検察官の論告を聞いて思うには、検察官は私を誤解しているということです。例えば、検察官は、ハルピンで今年5歳になる私の子どもに私の写真を見せて”父である”との確認をしてもらったと申しますが、私が国を出たとき子供はまだ2歳で、その後は会っていませんから私の顔を知っているはずはないのです。


 そもそも、今回の伊藤公殺害は私人としてやったものではなく、韓日関係から致したものなのです。しかし、事件の審理については、判官はじめ弁護人および通訳までも日本人のみによって取り扱われております。韓国から弁護人もきているので、弁護の機会を与えてくださるのが至当と思うのです。また弁論なども大要のみを通訳してきかせられるので、私は不満でありますし、他から見ても片寄っているとの非難を受けるにちがいありません。

 検察官や弁護人の言い分を聞いていると、みな伊藤公の統監としての施政方針は完全無欠であり、私が誤解しているとのことですが、それは不当であります。私は誤解しているのではなく、かえってよく知りぬいていると思いますから、公爵の統監としての施政方針についてその大要を申し述べてみます。


 明治38年(1905)における五ヵ条の保護条約のことでありますが、あの条約は韓国皇帝はじめ国民一般は保護を希望したのではありません。しかし、伊藤公は韓国皇帝および上下臣民の希望で締結すると言って、一進会(日本への合邦運動を推進した韓国の親日団体)をそそのかして運動させ、皇帝の玉璽や総理大臣の副署がないのに、各大臣を金で瞞着して締結させてしまったのです。だから、伊藤公のこの政策については当時、志ある者はみな大いに憤慨し、紳士たちも皇帝に上奏し伊藤公にも献策しました。

日露戦争についての日本天皇陛下の宣戦詔勅には、東洋の平和を維持し韓国の独立を強固にするということがありましたから、韓国人民は信頼して日本と共に東洋に立つことを希望していました。が、伊藤公の政策はそれと反対でしたので、各所に義兵が起こりました。第1は、崔益鉉(チェイクヒョン)が献策して宋秉畯(ソンビョンヂェン)のために捕えられ、対馬に拘禁中に死にました。それで起きたのが最初の義兵であります。

 その後、献策しても方針が変えられませんので、当時(明治40年=1907)ヘーグの平和会議に、皇帝が密使として李相・を派遣し訴えたのは、五ヶ条の条約は伊藤公が武力をもって強制したものであるから万国公法にしたがって処分してほしいということだったのです。しかし、当時、同会議では物議が起きていたのでものになりませんでした。それから伊藤公は、夜中に刀を抜いて皇帝に迫り7ヶ条の条約(第3次日韓協約)を締結し、皇帝を退位させて日本に謝罪使を派遣することにまでなりました。


 そんな状態で、京城(ソウル)付近の韓国民は上も下も憤慨し、なかには切腹する者もありました。人民も兵も素手や兵器をもって日本兵と戦い、京城の変が起こりました。
 その後、十数万の義兵が各地に起こったので、太上皇帝が詔勅を下して、国の危急存亡に際して袖手傍観するのは国民たるもののとる道ではないということがありましたので、韓国民はいよいよ憤慨して今日まで日本兵と戦い、今になっても治まりません。これで十万以上の韓国民が殺されました。これらの者がみな、国事に尽くして倒れたのなら本懐でありましょうが、いずれも伊藤公のために虐殺され、ひどいのは頭から縄を通して社会の見せしめにするからといって、残虐無道のことをされました。そのため、義兵の将校も少なからず戦死しました。伊藤公のこのような政策で。1人殺せば10人、10人殺せば百人義兵が起こるという有様ですから、施政方針を改めなければ韓国の保護はできぬと同時に、日韓両国の戦争はとこしえに絶えぬと思います。


 伊藤公その人は、英雄ではなく、奸雄で奸智にたけているから、その奸智でもって、韓国の開明は日に月に進歩をしていると新聞に掲載させ、また日本天皇陛下や政府に対しても、韓国は円満に治まっており、日に月に進歩していると欺いています。そのため韓国同胞はみな、その罪を憎み伊藤公を殺害しようという心を起こしていました。人間はだれでも生の楽しみを願い、死を好むものではありません。まして韓国民は十数年来、塗炭の苦しみに泣いてきましたから、平和を希望することは日本国民よりも一層深いものがあるのです。

 さらに私はこれまで、日本の軍人や商人や道徳家ら、いろいろな階級の人々とも会って話をしたことがありますので、次にその話を申し上げます。
 軍人との話というのは、韓国に守備隊としてきていた人と会ったときのことです。その軍人に、このように海外にきておられるが国には父母妻子もおられ、夢の間にも家族のことは忘れられず苦労の多いことでしょう、と私が慰めましたところ、その人は、国には妻子もいるが国家の命令で派遣されているので、私情としては堪えられぬけれども致し方ないと泣いて話しました。それで私は、もし東洋が平和で日韓のことが無事でさえあれば守備にこられる必要もあるまい、と申しました。するとその人は、そのとおり個人としては戦いを好まぬけれど、軍人であるゆえに必要があれば戦わねばならないのだ、と申しました。それで私は、守備隊としてきておられる以上、帰国することは容易にできますまいと話したら、その人は、日本には奸臣がおって平和を乱すので自分らは心にもなく遠いこんなところにまできている、伊藤公のような人は自分一人ではきないが何とかして殺してやりたい思いだ、と泣きながら申していました。


 それから農夫との話もありました。その人は、韓国は農業に適し収穫も多いということでやってきたが、いたるところ暴徒が起こって安心して仕事もできない。かといって、国へ帰ろうにも、昔の日本はよかったが今では戦争のため財源を得ることに汲々として、農民に課税を多くするので農業もできない。このようなわけで、自分らはまったく身の置きどころがない、といって嘆いていました。

 商人との話でも、韓国は日本の製品の需要が多いと聞いてきたが、前の農民の話と同じように、いたるところ暴徒があって交通は途絶され生活さえできない。伊藤公をなきものにしなければ商業もできない。自分一人の力でできることなら、殺してやりたいくらいだ。とにかく、平和になるのを待つよりほかない、と言っておりました。

 道徳家の話というのは、キリスト教の伝道師のことですが、私はその人に対し、これだけ何の罪もない人を虐殺するような日本人が伝道なんてできますか、と質問してみたのです。すると彼は、道徳には彼我の区別はない、虐殺するような人はまことに憐れむべきもので、天帝の力によって改善させるよりほかないから、このような者どもはむしろ憐れんでくれと申しておりました。


 私が伊藤公を殺したのは、公爵がおれば東洋の平和を乱し、日本と韓国との間を疎隔するのみであるから、韓国の義兵中将の資格をもってやむを得ず殺したのです。もともと私は、日韓両国がますます親密になって平和に治まり、やがて五大州にもその範が示されるよう念願してきました。私は決して誤解によって伊藤公を殺したのではありません。いま言ったような私の目的を達成させるために、あえてやったのであります。それゆえ今、伊藤公の施政方針が誤っていたことを天皇陛下に奏上していただけるなら、天皇も必ず私のことをよく理解し喜んでくださるだろうと思っております。今後は陛下の聖旨にしたがい、韓国に対する施政方針を改善されたならば、日韓間の平和はまちがいなく万世にわたって維持されるであろう、と期待しておるのです。

 弁護人によれば、光武3年(明治32年=1899)に締結された韓清通商条約によって、韓国民は清国内において治外法権を有し、本件は韓国刑法大全に基づいて治罪すべきものであるけれども、その韓国刑法には(外国における韓国人の犯罪について)罰すべき規定がないというのですが、それは不当な愚論というべきものだと思います。今日の人間はすべて法によって生活しているのに、現に人を殺した人間が罰せられずに生存するという道理はありません。それならば、私はどのような法によって処罰されねばならないかという問題ですが、それは韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきているのですから、すべては万国公法によって処断されるべきものである、と思うのであります


 安の陳述は1時間を超えた。
 その論旨は一貫して、この十数年、つまりあの日清開戦から日露戦後の今日まで、わが日本がひたすら歩みつづけてきた”韓国侵入への道”を心底から剔抉するようなものだった。検察官がどんなに言いつくろうとも、公判そのものがすべて日本人のみによって取り仕切られている状況では、伊藤公らがタテマエとして掲げてきた、”仁政”どころか”韓国の保護”にもならなかったのである。それを検証するように述べつづける安の言葉は、まるで暗黒の彼方からひた押しに迫ってくる海の満ち潮がやがて海辺に棄てられたあらゆる残骸を呑み込んでしまうような不気味な光景にも見えた。


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安重根の公判における陳述と「韓国人 安応七所懐」-----------

「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)には、安重根がその裁判の公判で語ったことが取り上げられている。その中から第1回公判および第3回公判で語ったことを抜粋した。日本と韓国と清国とが東洋の平和の共同体をつくらなければならないという理想を持った義兵の参謀中将「安重根」が、逆賊「伊藤博文」を、一身を捨てて無きものにしたのだという主張である。
 また、最終段は、安重根(安応七)が「伊藤博文の罪悪15箇条」を書いた後、引き続き旅順獄中で書いた所感である(原文は漢文)。いずれも、「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)より抜粋したものであるが、これらを読むと、殺人罪による死刑の判決は、いかがなものか、と思う。
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                          第4章 裁判と審判

4、第1回公判・2月7日 人定訊問と求刑


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 真鍋判官は安重根に外国語教育についてたずねると、「私の一家は天主教を信仰しておりますので、信川で天主教の宣教師フランス人洪神父からフランス語を数ヶ月習いましたが、日本語、ロシア語、その他の外国語は知りません」と答えている。またシベリアでの3年間の生活に関し、安重根は何の目的で行ったのかと問われ、

 その目的は、外国に出ている韓国同胞の教育をすることを計画し、また義兵として、本国を出て、韓国の国事について奔走していました。この考えは数年前からありましたが、切に必要を感じたのは日露戦争当時からで、今から5年前の日韓五箇条条約および3年前の七箇条条約が締結されてから、ますます奮励するようになり、国外に出たのです。

 と述べている


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 また判官の韓国の前途をどう考えるかという問に対して、

 1904年、日露戦争に際し、日本天皇陛下の宣戦の詔勅によれば、日本は東洋の平和を維持し、韓国の独立を期するためにロシアと戦ったので、韓国人はみな感激して、日本人と同じに出陣して働いた者もありました。また韓国人は日本の勝利をまさしく自国が勝ったもののように喜び、これによって東洋の平和は維持せられ、韓国は独立できると喜んでいました。ところが伊藤公爵が統監として韓国にきて、五箇条条約を締結しました。それは前の宣言に反し、韓国に不利益となるので国民一般は不服でした。さらに1907年には七箇条条約が締結され、伊藤統監が兵力をもって、圧迫を加えて締結しましたので、国民一般は大いに憤慨し、日本と戦っても世界に発表したいと願いました。本来、韓国は武力によらず、文筆をもって成立してきた国でした。伊藤公爵は日本でも第一位の人ですが、韓国にやってきて二つの条約を締結したのは、日本の天皇陛下の聖旨ではないと思い、伊藤公爵は日本天皇陛下をあざむいているので、伊藤公爵を無きものにしなければと思い、七箇条条約成立当時から殺害することを決意し、ウラジオ附近で一身を捨てて韓国の独立を期しておりました。

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6、第3回公判・2月9日 私は義兵中将

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 安重根は、それまでの2日半にわたる裁判の経過は、判官の些細な審問に答えるばかりで、彼が世界に訴えようとした真実を、十分述べることができなかったので、ようやく自分の真意を述べつくそうと決心して陳述しはじめた。裁判は日本語で進行し、安重根の発言の記録は園木通訳による日本語訳しか残されていない。

 今回の殺害について、その目的の大要は申しましたが、私は好き好んで伊藤公爵を殺害したのではありません。ただ私の大きな目的を発表する一手段として行ったものですから、社会の誤解を免れるために申し述べたいことがありますので、その大要を申します。
 今回の殺害は私一個人のためにした事ではなく、東洋平和のためにしました。日露戦争について日本の天皇陛下の詔勅によれば、「東洋の平和」を維持し、「韓国の独立」を強固にするとありました。それで、日本の凱旋を韓国人は自国の凱旋のように喜んでいました。そこに伊藤公爵が統監としてきて、韓国上下の民をあざむき、五箇条条約を締結しました。これは日本天皇陛下の聖旨に反したものですから、韓国民はみな統監をうらむことになりました。つぎにまた七箇条条約が締結され、ますます不利益を受け、さらにあるべきでない皇帝の廃位まで行われましたので、みな伊藤公爵を仇敵と思っていたのです。


 それで、わたしは3年間、各所で遊説し、また義兵の参謀中将として各地で戦いました。今回の殺害も韓国の独立戦争のために、わたしが義兵の参謀中将として韓国のためにしたことで、普通の刺客としてやったわけではありません。わたしは今、被告人ではなく、敵軍のために捕虜となっているのだと思っています。

 安重根は「普通の刺客」ではなく、「義兵の参謀中将」として韓国人民のレジスタンスの義士としての自覚を持っており、さらに、伊藤博文を「仇敵」としていたのを、日韓親和を前提として、両国皇帝の「逆賊」として告発しようとし始めていた。

 今日、韓国と日本の関係を見ると、日本人が韓国の官吏となり、韓国人が日本の官吏となっているので、両国人は互いに日本と韓国のために忠誠をつくさねばなりません。伊藤公爵は韓国統監として韓国の臣民であるべきものであるのに、皇帝を抑留して終に廃位しました。元来、社会でもっとも尊いのは皇帝ですから、皇帝を廃位することはできないはずであるのに、伊藤は皇帝を侵したのです。臣下としてあるまじき行為であり、この上もない不忠の者です。


 そのため韓国では今も義兵が各地で起こって戦っています。日本の天皇の聖旨は「韓国の独立」を強固にし、「東洋の平和」を維持するということでありますが、伊藤公爵が統監として韓国にきてから、そのやり方すべて聖旨に反するので、日韓両国は今も戦っているのであります。そして、韓国の外務法部および通信機関などは、みな日本に引き渡され、これでは韓国の独立が強固になるはずがありません。伊藤は日本および韓国に対しての逆賊であります。ことに伊藤はさきに韓国人を教唆して閔妃を殺害させとこともあります。

 これらのことはすべて新聞紙上で世間に公表されていることで申し上げました。わたしたちはかねて伊藤は日本のために功労があると聞いていましたが、また一方、日本天皇陛下に対しても逆賊であると聞いております。
 これからその事実を申し述べます。

 安重根がここまで発言したとき、真鍋判官は、審問を公開することは、「安寧秩序を害する恐れがある」との理由で、公開をやめ、傍聴人を退廷させてしまった。


 安重根は、5日後に死刑の判決を受け、8日後に平石高等法院長とのやりとりの後に控訴を行わず、死刑が確定する。その日から3月15日まで自伝として『安応七歴史』を書くことに専心することになるが、「安応七歴史」の中で、2月7日、8日の審問については、訊問の延長として何も述べず、9日午後の意見を述べる機会を得て、「幾つかの目的を説明する際に、裁判官が大いに驚いて立ち上がり、即時、傍聴禁止とした」としている。法廷を退き、他の部屋に入れられた安重根は考えた。

 私の言葉の中に刀剣があったのか、鉄砲があったのか、たとえれば、清風が一吹きして、塵埃がことごとく消え去ったようだ。
 これはほかではなく、伊藤の罪名をあげて、日本孝明天皇弑殺をかたろうとした時、このように席を破った。

 と書いている。韓国閔妃殺害、高宗皇帝廃位と、日本の天皇の詔勅に反する逆賊であり、さらに、孝明天皇を殺害したものとして、伊藤博文を告発しようとしていた。孝明天皇が慶応2年(1866)12月25日に、天然痘にかかって快癒に向かいまがら毒殺されたのは、幕府と朝廷との公武合体路線から開国倒幕へと転換する際に、天皇から遠ざけられていた岩倉具視の政界復帰をもたらしたもので、岩倉が主犯と思われ、長州藩の若輩であった伊藤の手の及ぶ事件ではなかった。しかし、明治維新、明治6年および14年の政変と、およそ7年ごとに行われた天皇の権威によって権力を握り、天皇の人格的意志を無視する岩倉の宮廷官僚的政治手法は、明治16年(1883)7月20日の岩倉の病死後は、長州藩閥によって支えられた伊藤によって受けつがれた。


 ・・・

 …判官の「目的」についての問に対して、

 わたしは日本4千万、韓国2千万同胞のため、また日本天皇陛下および韓国皇帝陛下に忠義をつくすために今回の挙にでました。

 と述べ、日本と韓国の両国民のために伊藤を殺害したことを明言し、さらに、「東洋平和」の目的について語った。


 日韓両国人の間では、たがいに隔てなく同国人であるという観念で尽力しなければならないと思います。伊藤は韓国に統監としてきてから、韓国の人民を殺し、先帝を廃位し、現皇帝に対して部下のように圧制し、人民を蠅を殺すように殺しました。元来、生命を惜しむのは人情であります。しかし英雄は常に身命をなげうって国につくすよう教えられています。ところが伊藤はみだりに他国人を殺すのを英雄と心得、韓国の平和を乱し、十数万の人民を殺しました。私は日本天皇陛下の宣戦詔勅にあるように、東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にして、日韓清三国が同盟して平和をたたえ、8千万以上の国民が互いに相和して、徐々に開化の域に進み、ひいては欧州および世界各国と共に平和に力をつくせば、市民は益々安らかに暮らすことができ、宣戦の詔勅にそうことになります。
 しかし、伊藤公爵がいては、東洋平和の維持はできない思ったので、今回の事件を行いました。


 安重根は逆賊としての伊藤を処罰するばかりでなく、日本と韓国と清国とが東洋の平和の共同体をつくり、ヨーロッパおよび世界にその平和の輪をひろげる理想を信じていたのである。しかし、安重根は公開の裁判を継続するために、公平な裁判で主張しようとした「政治上の意見」を述べて、伊藤の害悪を明らかにすることを断念し、判官に「かかることは申し上げぬつもり」」と約束した。真鍋判官は公開の禁止を解くことを告げ、午後4時25分に閉廷し、翌日、10日午前9時の開廷を告げた。

 伊藤博文を逆賊とする安重根の「政治上の意見」は10日で終わるはずの裁判の日程を狂わせることになったが、公開の法定で国際世論に訴えよとした安重根の意見は、ついに発表の機会を失ったのである。その無念の思いを、彼は『安応七歴史』の中に書きとめている。


 真鍋判事が法律を知らないのは、これほどなのか。天皇の詔命が重んじられないのは、これほどなのか。伊藤公が立てた官制は、このようなものか。なぜ、このようになったのか。大いに秋風に酔って、こうなったのか。私が今日、遭っているのは真実であるか、夢であるか。私は堂々たる大韓民国の国民であるのに、なぜ日本の監獄にかこわれ、日本の法律を受けねばならないのか。これはなぜか。私がいつ日本に帰化したというのか。判事は日本人、検察も日本人、弁護士も日本人、通訳官も日本人、傍聴人も日本人、これでは唖者の演説会を聾者が傍聴しているのと同じだ。まことに、これは夢の世界だ。もし夢なら、速く醒め、こころよく覚め、速く醒め、こころよく覚めたい。この境涯を説明しても役にたつものではなく、公談しても益がない。

 安重根は、自分の受ける裁判をこのように理解し、真鍋判官の要求に対して笑って答え、「裁判官は思いのままにやってください、私は他にいうことはない」と述べた。

 
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                        第3章 伊藤博文殺害者の正体

2 本名はアン・ジュングン(安重根)


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 天壌民ヲ生ジ、四海ノ内ミナ兄弟トナス。各々自由ヲ守リ、生ヲ好ミ死ヲ厭ウハ人ミナノ常情ナリ。今日、世人ヒトシク文明時代ヲ称ス。然レドモ我ヒトリ長嘆ス。然ラズ、東西両洋、賢愚男女老少ニ論ナク、各々天賦ノ性ヲ守リ、道徳ヲ崇尚シ、トモニ競争ノ心ナク、土ニ安ンジ業ヲ楽シミ、トモニ泰平ヲ享受ス。コレヲ文明トスベシ。現今ノ時代ハ然ラズ。イワユル上等社会、高等人物ノ論ズルハ競争ノ説ニシテ、究メルハ殺人機械ナリ。故ニ東西6大州、砲煙弾雨、絶エザル日ナシ。現今ノ東洋ノ大勢、コレヲ言ワバ スナワチ惨状モットモハナハダシ。真ニ記シガタシ。イワユル伊藤博文、未ダ天下ノ大勢ヲ深量スルヲ解セズ、残酷ノ政策ヲ濫用ス。東洋全般、将来魚肉ノ場トナルヲ免ガレザラントス。アア、天下ノ大勢ヲ憂慮スレバ、有志ノ青年ヲ、アニ手ヲツカネテ策ナク、坐シテ以ッテ死ヲ待ツベキヤ。故ニ、コノ漢(私)コレヲ思イテヤマズ、哈爾賓(ハルビン)ニオイテ万人ノ公眼ノ前ニ銃ヲ発シ、声ヲアゲテ伊藤老賊ノ罪悪ヲ討チテ、東洋有志ノ青年ノ精神ヲ警醒セント欲スルナリ。

 として、「1909年11月6日午後2時30分提出」と書いた。「伊藤博文罪悪15箇条」と「韓国人 安応七所懐」とは、伊藤博文を代表とする大日本帝国の政策が韓国にどのような害悪を与えているか告発するとともに、世界人類がみな兄弟であるべきだという世界市民の思想に立ち、帝国主義時代に日本が「殺人機械」によって東洋全般を侵略しようとしているのを阻止するために、韓国人ばかりでなく、日本、中国もふくめた広い東洋の有志の青年への呼びかけとなっている。


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「韓国併合条約」無効論と「第二次日韓協約」調印強制----------

 現在日韓関係は、竹島の問題や「従軍慰安婦」問題、閣僚の靖国神社参拝問題などが影響し、溝が深まっている。また、日朝国交正常化交渉も中断したままであり、拉致問題の解決の見通しも立っていない。
 日韓関係においても無関係ではないが、特に、日朝国交正常化のために避けて通れない問題の一つが、この「韓国併合条約」無効論の問題であるという。過去、日朝交渉の進展を阻んだ問題が、この問題であったという。1910年に、日本が大韓帝国(韓国)と締結した「韓国併合条約」が不法であり、無効であるとすると、日本の植民地支配の合法性は否定される。日本の植民地支配の合法性が否定されると、日本は過去の清算を加害者の被害者にたいする「賠償」として対応しなければならなず、それは、単なる歴史認識の問題ではすまされない問題となる。
 また、それは、初代韓国統監伊藤博文を中国のハルビン駅で暗殺した安重根の石碑設置の動きに絡んで、日韓が反発しあった安重根の評価をめぐる議論などとも無関係ではない。

 その「韓国併合条約」無効論の論拠となるのが、下記ような、「第二次日韓協約」(乙巳条約・乙巳五条約)強制調印の事実である。日本の植民地支配は、この保護条約である「第二次日韓協約」強制が起点となり、「韓国併合条約」締結に至った結果であるが故に、不法であり、無効であるというのである。

 調印強制の事実として、下記のような武力的威嚇・脅迫的言辞・不法行為の内容があげられている。「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
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                          Ⅰ 研究の現状と問題点

2 脅迫による協約締結

 「韓国併合条約」など、日本が大韓帝国と結んだとする諸条約が、その当初から無効とする論拠の第1は、植民地化の起点となった保護条約である「第2次日韓協約」(韓国・北朝鮮では乙巳条約、乙巳5条約という)の締結は、日本の脅迫により強制されたものであるから無効であり、したがってこの協約を前提として締結された「韓国併合条約」もまた無効である、という点である。


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 交渉の経過については本書収録論文以外にも多くの論文があるので省略し、ここでは協約の無効を証拠づける武力的威嚇、脅迫的言辞、不法行為を列挙するにとどめよう。

〈武力的威嚇〉
① ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、17,18両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。

② 17日夜、伊藤は参内し、長谷川韓国駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長を帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。『大韓季年史』によれば「長谷川好道及其部下各武官多数、歩兵、騎兵、憲兵与巡査及顧問官、輔佐員連続如風雨而馳入闕中、把守各門・漱玉軒咫、尺重重囲立、銃刀森列如鉄桶、内政府及宮中、日兵亦排立、其恐喝気勢、難以形言」という。要するに王宮(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その中で最後の交渉が行われたのである。


③ 17日午前11時、林公使は韓国各大臣を公使館に召集して予備会商開いた後、「君臣間最後ノ議ヲ決スル」ため御前会議の開催を要求し、午後3時ごろ閣僚に同道して参内した。その際、護衛と称して逃亡を防止するため憲兵に「途中逃げ出さぬように監視」させた。事実上の拉致、連行である。

〈脅迫的言辞〉
④ 15日午後3時、皇帝に内謁見した伊藤は、恩着せがましく「韓国ハ如何ニシテ今日ニ生存スルコトヲ得タルヤ、将又韓国ノ独立ハ何人ノ賜ナルヤ」と述べ、皇帝の対日批判を封じた後、本題の「貴国ニ於ケル対外関係所謂外交ヲ貴国政府ノ委任ヲ受ケ、我政府自ラ代ッテ之ヲ行フ」ことを申し入れた。これに対し回答を留保する皇帝に向かい、伊藤は「本案ハ……断シテ動カス能ハサル帝国政府ノ確定議ナレハ、今日ノ要ハ唯タ陛下ノ御決心如何ニ存ス。之ヲ御承諾アルトモ、又或ハ御拒ミアルトモ御勝手タリト雖モ、若シ御拒ミ相成ランカ、帝国政府ハ巳ニ決心スル所アリ。其結果ハ果シテ那辺ニ達スルヘキカ、蓋シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニシ、一層不利ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス」と暴言を吐き、威嚇した。


⑤ 同席上、逡巡する皇帝が「一般人民ノ意向ヲモ察スルノ要アリ」と述べたのをとらえ、伊藤は、その言は「奇怪千万」とし、専制君主国である韓国の皇帝が、「人民意向云々トアルモ、定メテ是レ人民ニ煽動シ、日本ノ提案ニ反抗ヲ試ミントノ御思召ト推セラル。是レ容易ナラサル責任ヲ陛下自ラ執ラセラルルニ至ラン」と威嚇した。

⑥ 17日夜、韓国閣僚との折衝の席上、「断然不同意」、「本大臣其衝ニ当リ妥協ヲ遂クルコトハ敢テセサル」と拒否姿勢が明確な朴斉純外相の言葉尻をとらえた伊藤は、巧妙に誘導し「反対ト見做スヲ得ス」と一方的に判定した。他の4人の大臣のあいまいな発言もすべて伊藤により賛成とみなされた。歪曲である。とくに協約書署名者である朴斉純外相が反対者であることを認めなかった


⑦ 同席を終始主導した伊藤は、韓主・参政、閔泳綺度相の2人の反対のほかは、6人の大臣が賛成と判断し、「採決ノ常規トシテ多数決」による閣議決定として、ただちに韓参政に皇帝の裁可をうるよう促し、拒否するならば「子ハ我天皇陛下ノ使命ヲ奉シテ此任ニ膺ル。諸君ニ愚弄セラレテ黙スルモノニアラス」と恫喝した。しかし、あくまで反対の韓参政は、「進退ヲ決シ、謹ミテ大罪ヲ待ツノ外ナカルヘシ」と涕泣しながら辞意を漏らし、やがて退室した。韓参政の辞任を恐れた伊藤は「余リ駄々ヲ捏ネル様ダッタラ殺ッテシマエ、ト大キナ声デ囁イタ」という。肉体的・精神的拘束を加えたうえでの威嚇である。

〈不法行為〉
⑧ 17日午後8時、あらかじめ林公使と打ち合わせた計画に従って、参内した伊藤は、皇帝に謁見を申し入れ、病気と称して謁見を拒否した皇帝から、「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメン」との勅諚を引き出し、閣僚との交渉を開始した。これは韓国閣議の型式をとったので、閣議に外国使臣である伊藤、林らが出席、介入したことは不法である。もともと日本政府の正式代表ではない伊藤の外国交渉への直接参加も違法である。

⑨ 協約書への韓国側署名者は「外部大臣朴斉純」、「外部大臣之章」と刻まれた邸璽(職員)であるが、その邸璽は公使館員らによりもたらされた。23日付け『チャイナ・ガゼット』によれば、「遂ニ憲兵隊ヲ外部大臣官邸ニ派シ、翌18日午前1時、外交官補沼野ハ其官印ヲ奪ヒ宮中ニ帰リ、紛擾ノ末、同1時半日本全権等ハ擅ニ之ヲ取極書ニ押印シ」た、とのソウル発電報を掲載している。
 『大韓季年史』もまた「使公使館通訳員前間恭作、外交官補佐員詔(ママ)野、往外部、称有勅命而求其印、須知分斯即与之、無数日兵環囲外部、防其漏失、日本公使館書記官国分象太郎、預待於漱玉軒門前、仍受其印、入会議席遂捺之、時18日(旧暦10月21日)上午一点鐘也」と述べ、日本公使館員による、邸璽入手の経緯が詳しく述べられている。前間恭作は2等通訳官、沼野安太郎は外交官補、国分象太郎は2等書記官である。

 伊藤の復命書である「日韓新協約調印始末」では、「朴外相ハ其官印ヲ外部主任者ニ持来ルヘキ旨電話ヲ以テ命シ」たとしか記していないが、前述の2資料の記述は具体的であり、日本人が強奪するようにして邸璽を持って来た事実は否定できない。以上の諸事実は、いずれも韓国の代表者個人に対して加えられた脅迫的行為または強制である。それが条約無効の根拠となることを前述したが、当時もっとも権威ある概論書として流布した、東京帝国大学法科大学高橋作衛『平時国際法論』(1903年、日本大学)も述べている。

『主権者又ハ締結ノ全権ヲ有スル人ガ、強暴又ハ脅迫ヲ受ケ、為メニ条約ニ記名スルニ至リタルトキハ、該条約ハ有効ニアラス。斯ル場合ニ於テハ、国家ノ名ニ於テ、条約ヲ為ス個人ハ強迫ヲ受ケ、為メニ自由決定ノ能力ヲ失ヒタルモノナルヲ以テ、其条約ハ拘束力ヲ生スルモノニアラス』と。


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第二次日韓協約(乙巳保護条約)調印強制の記録----------- 

日本はドイツとともに第二次世界大戦で敗北した。しかし、その戦争責任や戦争犯罪に対する姿勢にはかなりの相違がある。ドイツは反ナチ法を定め、ナチ戦犯の永久訴追を決めている。そして、ナチズムに基づく過去の行為に時効はないという。しかしながら、日本には反ナチ法にあたるようなものがない。のみならず、戦後、日本人自身によって戦争責任や戦争犯罪の追及・総括が行われることも、ほとんどなかった。
 逆に、米ソ冷戦の影響であろうが、戦争に関わって公職追放された多くの人物が、何年も経ないで追放を解除され復帰した。一例をあげれば、戦時中第一航空戦隊の参謀として真珠湾奇襲攻撃の作戦立案に関わった源太実中佐(当時)は、自衛隊の初代航空総隊司令であり、第3代航空幕僚長である。後に、政治家としても活躍している。
 国内で、「大東亜戦争肯定異論」が公然と議論されたこともあった。そして、多くの閣僚が戦争に関わる発言で世を騒がせ、いまだに、靖国神社惨敗問題が近隣諸国と溝を深める原因となっている。

 昨年、安倍首相は参院予算委員会で「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と答弁した。また、中国のハルビン駅に、韓国で英雄とされている安重根の碑の設置を進める朴槿恵韓国大統領の発言に関して、菅義偉官房長官は、「我が国は”安重根は犯罪者”と韓国政府に伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と言い切った。あらためて、戦争責任や戦争犯罪に関わる歴史に、真摯に向き合う必要性を感じさせられた。植民地支配の問題も、きちんととらえ直すべきだと思う。

 下記は、第二次日韓協約(乙巳保護条約)の調印に関わった林権助公使の『わが七十年を語る』(1935年刊)と、伊藤の幕僚として調印時に現場にいた、陸軍大佐西四辻公堯『韓末外交秘話』(1930年孔版)および『大韓季年史』(鄭喬、韓国国史編纂委員会 『韓国史料叢書』第5所収)『朝鮮独立運動の血史』(朴殷植)に、記録として残る第二次日韓協約(乙巳保護条約)調印強制に関わる記述である。多少の相違はあるが、強制の実態をとらえていることにかわりはない。日本の植民地支配の合法性が問われる生々しい記録である。「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの孫引きである。
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                      Ⅲ 乙巳保護条約の強制調印と問題点
                                                              琴秉洞

2 強制調印の実態

2 保護条約「調印」の実態(史<資>料中の条約調印)

①日本側の公的記述

 保護条約調印に関する経緯は、『日本外交文書』第3巻第1冊中の「奉使記事摘要」の第4号「日韓新協約調印始末」に日本側の公的見解として記述されている。
 これによると、林公使は11月17日午前11時、日本公使館で各大臣と条約案を協議して「大体に於て異議な」しとなったが、朝鮮側はこれを持って宮中で御前会議をひらく。参政大臣韓主卨は結果を高宗に報告。
 ところで、「皇帝陛下は再三、円満に妥協を遂げよとの勅令を下されるに拘わらず、参政始め各大臣の意見は終に之を拒否するに決定したり」と、林は伊藤に報告している。

 要するに高宗も各大臣も拒否ということである。林公使の報告を聞いた伊藤は、また宮中に行き、皇帝に会いたいという。高宗は宮内相を通じてノドが痛いので会えないという。そして協議案に至ては朕が政府大臣をして商議妥協を遂げしめんとす。卿、冀くは其間に立ち周旋善く妥協の途を講ぜ」よ、と伝言したという。


 この日、王宮内での閣僚協議会に、伊藤が出席して「只今、陛下は勅令を各大臣に下し、妥協を遂げよとの御沙汰なるに、各大臣は無責任にも之が妥協を拒」んでいると非難し、「首相たる韓参政は各大臣の意見を徴し、若し不同意を唱ふる大臣あらば、其如何なる理由に基づくかを一応承知したし」といって、韓参政大臣をして各大臣に可否を問わしめる形をとり、「多数決」だから可決しろと迫り、「閣下は本案を拒否し、終に日本と絶交せんとの意志を表示せらるるや、子は我が天皇陛下の使命を奉じて此任に膺る、諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と凄むのである。

 この時韓主・は「日本と絶交せんなどとは思いも寄らず」といい「この妥協に至っては思慮百端、如何せん終に吾意を翻へす能わず、所謂、匹夫の志奪ふべからざる」などといいながら泣く。「因て、欷歔涕泣するに至れり」と記録されているのである。

②『朝鮮最近史』(戸叶薫雄・楢崎観一、1912年刊)略

③『わが七十年を語る』(林権助、1935年刊)

 この条約の日本側「全権」であった林権助は、この本(回想記)の中で、かなり忠実に、また、時には虚実を織りまぜてこの時のことを述べている。
 林は調印問題と軍事的配置とに関連しては、朝鮮の大臣らが途中で逃げないように「用慎のために憲兵か何かを予め手配しておいて、途中逃げ出さぬように監視してもらいたい。勿論、名目は護衛という形を取る」といい、また、「いざ条約締結となって閣員のうち、一人や二人は自殺する男が出来はせぬかといふ懸念」があるので、これらの予防を長谷川大将に頼んだ、といっている。

 そして交渉「成立」の例の閣僚協議会については、「伊藤さんは予めの打合せがあるので、すぐ王城内の協議会の席へ来られた。そこで、かいつまんで話し合いの顛末を、わたしから報告した。(中略)伊藤さんはこのわたしの言につづいて、段々と急ぎ決定すべき必要を説き出した。その席上は異常な緊張をしめしてゐる。
 そのとき一騒動がおっぱじまった。朝鮮側の主席である。総理の韓主卨の様子が特に尋常でない。余程激してゐる様子だとみてゐるうちに、突然さっと席を蹴って立ち上がった。そして足取りも凄じく、この広間を国王の御座所の方に向かって出ていった。どうしても此の会議の決定を喰止めようとする気魄が看取せられた。すると大奥の方で女官どもの、けたたましい喚き声とともに騒々しい足音が聞えた


 何事がおっ始まったかと朝鮮側の人はおどおどしてゐる。それは王様の許へ行かうとして去った首相が、よほど興奮してゐたのだらう。まちがへて王妃の厳妃の室に闖入したわけだ。これはしまったと気がついたときにはもう遅い。非常な失態だ。急いで出るには出たものの、もう、王様の御座所へ行く気力もなく、失神したままで吾々のゐる会議室の前まで戻って、うんと卒倒してしまった。その騒ぎの顛末を、わたしの席へ報告してきたので、わたしは、『水でも頭に掛けて冷やして置けば宜い』と言ってやった」

 ここで林権助のいう韓主卨が誤って厳妃の室に入ったという記述は、他の資料には出て来ないものなので真偽の程はわからない


④ 『韓末外交秘話』(西四辻公堯 1930年孔版)闖

 西四辻公堯(陸軍大佐)は伊藤の幕僚として現場にいた人物である。彼は、林権助よりも素直に「交渉」の場について記録している。

 「大観亭ニ吉報ヲ待チアグンデ居タ二人侍ナラヌ伊藤候ト長谷川大将ハ、勘平ト御軽ノ口説ガ余リニヒマドルノニ業ヲ煮ヤシ、小山憲兵隊長以下多数ノ憲兵警官ヲ引具シテ午後11時ト云フニ馬車ヲ飛バシテ王宮ヘドットバカリニ繰込ンダ。而シテ宮内大臣李載克氏ヲ通ジテ拝謁ヲ願フト『朕ハ咽喉ヲ患ヒ謁見スル事ガ出来ヌカラ協約ノ事ハ各大臣ト協商妥弁セヨ』トノ御諚ガ降ッタ。其処デ伊藤候ハツカツカト議場ニ入リコミ、全権委員ノ林公使ヲソッチノケンイシテ鉛筆ヲ舐メナガラ各大臣ノメンタルテストヲ初メタ。

 『何時マデ愚図愚図考ヘテ居タッテ埒ノアク話デハナイ、唯今皇帝カラ余ニ各大臣ト商議セヨトノ勅諚ヲ賜ハッタカラ、一人一人ニツキテ反対カ賛成カノ意見ヲ訊クカラ答弁セラレタイ。第1ニ参政大臣ノ意見ハ』……
 スルト韓主卨参政大臣ハ泣キ相ニナッテ絶対反対ダト云ッタ 『然ウカ』ト伊藤候ハ韓主卨ト書イタ上ニ×印ヲツケル。
 『御次ハ』
 御次ハ朴斉純外務大臣デアル、絶対反対デハナイカラ賛成ノ部ニ入レラレテ○印。其後ガ閔泳綺度支部大臣デ反対ノ×印。爾余ハ種々条件ヤ文句ガアッタガ結局全部賛成デ○印デ、直ニ此旨ハ闕下ニ執奏セラレタ。各大臣中デハ李完用学部大臣ガ最モシッカリシタ理ノ通ッタ意見ヲ吐イテ並居ル大臣中一際男振リヲ上ゲ伊藤候ヲシテ感服セシメタ。其レハ兎ニ角、コウシテ皇帝ノ聖断ヲ暫ク待ッテ居ル間ニ突然韓参政大臣ガ声ヲ揚ゲテ哀号シダシ遂ニ別室ニ連レ出サレタ。此時伊藤候ハ他ヲ顧ミテ『余リ駄々ヲ捏ネル様ダッタラ殺ッテシマヘ』ト大キナ声デ囁イタ。然ルニ愈々御裁可ガ出テ調印ノ段トナッテモ参政大臣ハ依然トシテ姿ヲ見セナイ。ソコデ誰カガ之ヲ訝カルト伊藤候ハ呟ク様ニ『殺ッタダロウ』ト澄シテ居ル。列席ノ閣僚中ニハ日本語ヲ解スル者ガ2,3人居テ之ヲ聞クト忽チ其隣ヘ其隣ト此事ヲ囁キ伝ヘテ調印ハ難ナクバタバタト終ッテシマッタ』


 西四辻の保護条約締結の場の記録は、日本側のこの問題についての白眉といえる史(資)料である。

⑤ 『大韓季年史』(鄭喬、韓国国史編纂委員会 『韓国史料叢書』第5所収)

 「17日早朝、駐屯五江(漢江、銅雀津、麻浦、西江、楊花津ー原註)の日本兵、みな京城に入る。騎兵七、八百名、砲兵四、五千名、歩兵二、三万名、縦横に四処(方)に馳走す。我国の人民、寸歩も自由たるを得ず。宮城の内外は数匝(めぐり)を以て囲み、大小の官吏、出入りに戦慄す。(中略)
 伊藤博文およびその随員、長谷川好道およびその部下、各武官多数、歩兵・騎兵・憲兵と巡査および顧問官・補佐員、連続して風雨の如く馳せて闕中に入り、各門を守り、漱玉軒の咫尺を重々に囲み立ち、銃刀森列、鉄桶の如し。内政府および宮中には日兵また排立して、その恐喝の気勢、以て形言し難し。


 博文、該件(条約原案)の否決を聞き、更に会議するを請う。主卨以て不可と為す。説往、説来するも終に聴かず。博文、宮内大臣李載克を招きて、陛見を請う。たまたま帝、咽頭を患らい、これを謝却す。博文、天陛の咫尺において奏して謁見を請う。帝、これを拒んで曰く、必ずしも(会)見を要せず。出で去りて政府諸大臣と協議せよ。

 博文、退きて諸大臣に語りて曰く、すでに協議の下諭あり、さらに議開をなせ、と。政府の主事を招き、さらに該条を書す。主卨開議することを肯んぜず。博文叱して曰く、この如きの参政何れの処に用いん。速やかに退去をなせ、と。主卨惶悚して対して曰く、我、参政に非ざるのみ、と。即ち退出して御前に入らんと欲す。日本人塩川一太郎等、数三人、その後ろに随う。

 主卨、顧みてこれを見、また回身す。日本武官数人は、主卨を携え夾室に入る。日本兵および曹長(なほ我国の下士なりー原註)、士官等、左右より把守す」(原文は漢文)


 鄭喬のこの記述がいかに重要なものであるかは、日本側の諸史(資)料と比較しても看取できよう。

⑦ 『朝鮮独立運動の血史』(朴殷植)

 「伊藤は11月)17日には、日本の憲兵、巡査に命じて、わが各大臣の参内を強制させ、御前会議を開かせた。伊藤は、公使林権助、軍司令官長谷川好道らとともに兵を率いて王宮に入り、森厳な銃砲、刀剣の包囲のいなかで諸大臣と協議したが、参政大臣韓主卨が『身を賭して絶対拒否する』と誓うと、伊藤は憲兵に命じ、韓主卨を別室に連行、拘置した」


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安重根は、犯罪者か義士か-----------------

 獄中の安重根看守を命ぜられた関東都督府陸軍憲兵上等兵千葉十七が、しだいに安重根と心を通わせるようになり、「この人は、生き永らえたら、必ずや韓国を背負ってたつ人物なのであろうに──」と畏敬の念さえ抱き、「日本人はこの人にもっともっと学ばなければならない」と思いつめて、「安さん、日本があなたの国の独立をふみにじるようになったことは、何とも申しわけありません。日本人の一人として、心からお詫びしたい気持ちです」と頭を下げた話は、すでに取り上げた。

 また、安重根の裁判で検察官を務めた溝淵孝雄が、安重根の「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって、現状を的確にとらえた鋭い指摘に驚き、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまったという事実にも触れた。他にも、安重根と関わった日本人が、彼を高く評価していた事実が 伝えられている。

 「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)には、次のような文がある。

”…大連からハルビンまで伊藤と同行し、事件後、傷の手当てを受けて伊藤の遺骸とともに大連にもどった田中(安重根の銃弾を足に受けた満鉄理事田中清次郎)が、後に小野田セメントの社長から会長となる安藤豊録の質問、「今まで会った人の中でだれが一番えらいと思われるか」に答えて、「それは安重根だ。残念ながら」と言ったというが、その証言は、中江兆民の『一年有半』(明治35年9月2日発行)とともに、伊藤の虚像を粉砕して、正体をあらわすものといえよう。……「大韓国人安重根」は伊藤を日韓両国民の「逆賊」として処断しようとした。生誕百年をすぎて、彼が獄中で書いた自伝と『東洋平和論』は日本近代史の真の姿を照射しはじめている。”

 上記の満鉄理事田中清次郎の言葉は、安藤豊録の書いた『韓国我が心の故里』にあり、安藤が1922年5月に、安重根の故郷を訪ねた思い出も綴られているという。その中に「安義士は伊藤公を殺した日本人の仇敵である。その住居に行くことは日本人にとって聊か憚りがある。韓国人は当時の警察の空気からいって多少遠慮せざるを得ない情勢にあった」と安藤自身が書いていることを「伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像」(時事通信社)で、斎藤充功ノンフィクションライターが紹介している。

 また、彼(斎藤充功)は、安重根に魅せられた典獄(監獄の事務をつかさどる官吏)「栗原貞吉」の親族を探し当て、安重根に関する証言を得ている。下記は、いずれも孫娘の証言である。

 「私は母から聞かされた話で、二つだけは今でもはっきり覚えています。一つは、役人を辞めた理由で、祖父は、あんな立派な人物を救うことができなかったのは自分に力がなかったことと、監獄の役人の限界を思い知らされたことで、随分悩み、それで役人を辞めたそうです。
 それに、もう一つの話は、安さんが処刑される前日、祖父は安さんと会い、遺言というんでしょうか、何か希望することがあれば自分ができることは何でもすると約束したそうです。そして、その約束は絹地でできた韓服を死に装束として安さんに着てもらうことのようでした」

 「安さんが身に着けた白絹の韓服ですが、母は、官舎で祖母や姉たちが祖父の言いつけで夜なべして生地から寸法を取り、縫い上げている姿を目をこすりながら見ていたそうで、後になって、祖母から話を聞かされたそうです。その話とは、かいつまんで申しますと、祖父が安さんと約束した遺言のようなもので、安さんは、見苦しい死に方はしたくないので、死に装束は国の礼服である白絹の衣装を身に着けたい、その衣装を差し入れてほしいと、祖父に頼んだそうです」

 「日にちははっきりと覚えていなかったようですが、官舎には毎日のように韓国の人が訪ねてきて、安さんの助命嘆願を祖父にお願いに来ていたというんです。それと、祖父は処刑直前に安さんに『助けることができずまことに申し訳なかった』と謝ったというんです。私は、広島で晩年の祖父と生活したこともありまして、母から聞いたこの祖父の言葉は本当だと信じているんですの」


安重根は栗原貞吉に一書を揮毫したという。 

 「安重根と日韓関係史」(原書房刊)の著者、市川正明教授は、下記のように「安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる」と、彼の言動の背後に、キリスト教(ヒューマニズム)の影響があったのではないか、ということをにおわせている。

 私はそれを、彼の言動全体で感じるとともに、獄中記「安応七歴史」の中の、日本人捕虜釈放の話の部分で、特に強く感じた。安重根は、下記のように、日本人捕虜に武器を返還して釈放し、仲間に不満を抱かせているのである。下記は「安重根と日韓関係史」市川正明(原書房刊)からの抜粋である。
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                               四 安重根 小伝

死に臨んで

 この公判については、外務省の倉知鉄吉政務局長と小村外相との間に、電信の往復がなされている。その結果、「政府においては、安重根の犯行は極めて重大なるを以て、懲悪の精神に拠り、極刑に処せらるゝこと相当なりと思考す」と、小村外相より政府当局の裁判に対する指示がなされたが、「高等法院長に交渉したるところ、同院長は大いに当惑し、政府のご希望に副うことの非常に困難なる」旨の意思表示がなされ、若手職員中には、「司法権独立の思想より法院政府の指揮を受くる姿」となるのに反対する者が多かったが、結局「安重根に対しては、法院長自身は死刑を科すべしとの論なるを以て、政府のご希望もこれにある以上は、先づ検察官をして死刑の求刑を為さしめ、以て地方院において目的を達するを努べく、もし万一にも同院において無期徒刑の判決を与うることあるときは、検察官をして控訴をなさしめ、高等法院おいて死刑を言い渡すことゝなすべし」として、あらかじめその量刑を決していた。


 翌1910年3月26日、安重根は刑場に立ち、欣然として、「私はみずから、韓国独立のために、東洋平和のために死ぬと誓った。死をどうして恨もう」と云い放った。
 そして韓国服に着がえて従容として死に就いた。時に32才であった。

 公判を終えて宣告を待っていた安重根を取材した「満州日日新聞」は、「12日朝、重根の弟、定根、恭根の2人は恐る恐る検事局に出頭して、13日兄に面会を願出たのが、其用向きは母からの伝言で、愈々(いよいよ)死刑の宣告を受けたなら、潔い死方をして名門の名を汚さぬよう、早く天国の神の御側に参るようにと伝えることにて、2弟は涙ながら物語り出でて、許可を得たる後、悄然として引き取れり」と報じている。安重根は第1審で死刑判決を受け、上告の道があったのにかかわらず、その道をとらず、従容として死の道を選んだ背景には、この母の伝言があったことによるのである。

 安重根をして伊藤博文を銃撃させた動機は、彼のナショナリズムに根ざしたものであった。
 安重根の伊藤博文狙撃行為は、抗日義兵闘争に立ちあがった重根にとっては、その延長線上にあるものの闘いの一つの形態としての抗日テロというふうに、これをとらえることができる。
 たしかにこの日の安重根の狙撃行為は、韓国の将来に対する強い危機意識によってもたらされたものであり、それまで義兵中将として一群の義兵を率い、危機に瀕した韓国の命運を案じ、身をもってこれを救うために努めてきた安重根にとっては、祖国に危害を及ぼしてきた日本帝国に対する闘いの一環としてその狙撃行為があったのであるが、その対象が伊藤博文であったことは、伊藤が韓国の国運を大きく狂わせるにあたって主役を演じたものであったことによるのである。すなわち、伊藤が初代統監として辣腕をふるった結果として、日本帝国は具体的には伊藤の姿を借りて韓国人の前に現れ、その眼底に強烈な印象を残すことになった。伊藤博文はそれほどまでに安重根の心に、拭いがたいものを刻みつけてきたのである。


 つまり、安重根の狙撃行為は、私憤のまぎれこむ余地のない、まさしく民族的公憤によるものであったが、それだけではなく、安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる。
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                          九 安重根の獄中記(自伝)の新訳

 1909年旧11月1日・12月13日書き始め

安応七歴史

 
……だとすれば、今日、国の内外の韓国人は、男女老少問わず銃を担い、剣を帯びて、一斉に義兵を挙げ、勝敗をかえりみることなく決戦を挑み、後世の物笑いを免れるべきである。もし戦いが不利になっても、世界列強の公論によって独立の望みがないわけではない。いわんや日本は5年以内に必ず露・清・米の三国と戦いを開くだろう。これは韓国に対して大きな機会を与えるものである。その際、韓国人にもし予め備えがなければ、日本が敗北したとしても、韓国はさらに他の賊の掌中に入ることになるだろう。だから、今日より義兵を継続して活動させ、絶好の機会を失わないようにし、みずから力を強大なものにし、みずから国権を回復し、独立を健全にすべきである。つまり、何もできないと考えることは滅びる原因であり、何でもできると考えることは興隆の根本である。したがって、自ら助くるものは天も助くという。諸君よ、坐して死を待つべきであろうか。それとも憤起して力を振るうべきであろうか。決心し、警醒し、熟思勇進することを望むものである。このように説明しながら、各地方を歴訪した。

 自分の説を聞いた者のうち、多数の者は服従し、あるいはみずから戦いに参加することを願い出、あるいは武器を提供し、あるいは義捐金を出した。こうしたことは、義兵を挙げるための基礎とするに充分であった。このとき、金斗星、李範允等、みな一致して義兵を挙げた。これらの人々はさきに総督となり、中央官庁に大いに重用された者であった。自分は参謀中将に選ばれた。義兵や兵器を秘密の内に輸送し、豆満江の近辺に集結した後、大事を謀議した。この時、自分は、次のように論じた。現在、われわれは300人に過ぎない、したがって、賊の方が優勢で、我が方は劣勢であるから、賊を軽んずるべきではない。いわんや兵法を無視するべきではない、かならずや万全の策があるにちがいない。その後で大事を図るのがよい。いま我等一たび義兵を挙げても成功することができるかどうか明らかではない。そうだとすれば、かりに1回で成功しなかったならば、2回、3回、10回と繰り返し、百回やぶれても屈することなく、今年成功しなくても、明年を期し、明年あるいはその翌年、さらには10年、百年と、持続させるべきである。もしわれわれが目的を達成できなければ、子供が代わって受けつぎ、さらにその子孫がこれに代わり、必ずや大韓国の独立を回復するまでやめない。先ず、前進し、後退し、急進し、緩進し、予備し、後備し、具備し、いろいろやった後必ず目的を達成するよりほかにないのである。そうだとすれば、今日の先進の師を出す者は病弱少年をも合すべきである。その次の青年等は社会民志の団合を組織し、幼年の教育を予備し、後備し、各項の実業を勤務し、実力を養成し、しかる後に、大事をなすことが容易であろうと。聞く者の中には賛同する者が多くなかった。なぜかといえば、この地方の風気頑固なるものは、第1には権力ある者と金持ち、第2に腕力の強い者、第3に官職の高い者、第4に年長者である。この4つのうち我々は一つも掌握していない。それでは、どうして能く実施できようか。これに対して、不快感をおぼえ、退き帰る気持ちを起こした者があったとしても、すでに騎虎の勢いがあふれ、どうすることもできない。時に領軍諸将校は隊を分つて斥候を出し、豆満江を渡った。1908年6月のことである。昼は伏して夜に行軍して咸鏡北道に到着し、日本兵と数回衝突し、彼我の間には死傷者や捕虜が出た。

 そのとき、日本軍人と商人で捕虜となった者を連れてきて、尋ねてみた。君等はみな日本国の臣民である。なぜ天皇の聖旨を承けないのか。日露開戦の時、宣戦布告書のなかで東洋平和維持と、大韓国の独立堅持といいながら、今日このように侵掠するようになったのでは、平和独立ということができないではないか。これは逆賊強盗でなくて何であろうかと、その人々は涙を流して、これは我々の本来の気持ちではなくてやむを得ず行動に出たものあることは明らかである。人がこの世に生まれて生を好み、死を厭うのは普通の人情であって、いわんや我々は万里の戦場で無残にも朽ち果ててしまうことを憤慨しないわけがない。こうした事態は他に理由があるわけではなく、これはすべて伊藤博文の過ちである。皇上の聖旨を受けず、ほしいままにみずから権勢を弄し、日韓両国の間に貴重な生霊を殺戮すること数知れず。彼らは安心して就寝し、恩賞に浴している。我々は憤慨してみてもどうすることもできず、やむなくこうした状況に立ち至ったのである。いわんや農商民の渡韓する者ははなはだ難渋している。このように国も疲れ、民も疲れているのに、ほとんど顧みることをせず、東洋の平和は日本国勢の安寧となるということを、どうしてそれを望むことができようか。我らは死んでしまうとしても、痛恨の念はとどまるところがないといって痛哭した。自分は君等のいうところを聞いて、君たちは忠義の士というべきである。君等をただちに釈放する。帰ってこのような賊臣を掃滅せよ、もしまた、このような奸党が出てきて、端なくも戦争を起こし、同族隣邦の間に侵害の言論を提出する者がある場合には、すべてこれを取り除け、十名足らずの人数でも東洋の平和を図ることができる。君たちはこうしたことをやることができるかどうか、と言うと、彼らは勇躍してこれに応じたので、ただちに釈放した。彼らは、我々は軍器銃砲等を帯びずに帰投すれば、軍律を免れることが難しい。どのようにしたらよいかと聞くので、自分は、それではただちに銃砲等を返還しよう。また、君らは速やかに帰り、捕虜となったことを口外せず、慎重に大事を図れと言った。その人たちは深く感謝して立ち去って行った。

 その後、将校たちがこの事件を聞いて不満をもち、自分に対して、なぜ捕虜を釈放したのかと質した。自分は、現今万国公法によって捕虜を殺戮することはできず、後日送還することになっている。いわんや彼等のいうところを聞くに、真情発する美談であり、これを釈放せずにどのようにすれえばよいのかと答えた。多くの人々が、彼等は、我等義兵の捕虜を余すことなく無残にも殺戮するだろう。我等としても殺賊の目的をもってこの地に来て野宿しているものである。しかも、このように苦労しながら生捕りにした者を釈放するのであれば、我等は何のために戦っているのかわからないではないか、と彼らはいう。そこで自分は、そうではない。賊兵がこのような暴行を働くことは神も人も共に許さぬところのものである。ところが、いま我等も同じように野蛮な行動を行なってもよいのであろうか。いわんや日本4千万の人口をことごとく滅ぼして、しかるのち国権を回復するという計をはかろうとするのか。彼を知り己を知れば百戦百勝す、現在は我らが劣勢で、彼等は優勢であって、不利な戦闘をすべきではない。ひとえに忠孝義挙を以てするのみでなく伊藤博文の暴略を攻撃して世界に広布し、列強の同感を得て、国権を回復すべきである。これがいわゆる弱小な力でよく強大な敵を除き、仁を以て悪に敵するの法である。諸君らは、いろいろと言うことはないと。いろいろ論じてみたが、しかし、議論が沸騰して容易に承服せず、将軍のなかには中隊を分けて遠く去る者もあった。

 その後、日本兵の襲撃をこうむり、衝突4,5時間におよび、日が暮れて霧雨が降りそそぎ近い所も見えなくなった。将卒みな分散し、生死の判断もつけ難く、どうすることもできず、数十人と林間に野営した。その翌日、6、70名の兵隊に逢ったが、各隊を分け、ちりぢりに逃げ去ったという。そのとき、いずれも2日間にわたって食事をすることができず、皆飢えこごえていた。そこで、みなの者を慰め諭した後、村落に身を寄せて麦飯を求めて食べ、僅かに飢えと寒さをしのいだ。しかし、多数の者は承知せず、紀律に従わなかった。このような烏合の衆は、孫子、呉子、諸葛孔明がまた生まれて来たとしてもどうすることもできない。さらにその他の兵を探しているうちに伏兵に逢い、狙撃され、散り散りになった兵卒をまた集合させることもむずかしくなった。自分はひとり山上に坐し、自ら笑って誰を怨みだれを仇とすることもないと自分に言った。さらに発憤して四方を捜探した末、幸い2,3人に逢い、これからどうすればよいのかを相談したが、4人の意見は同じではなかった。或る者は生きのびることを図ろうとし、或る者は自刃して死のうといい、或る者はみずから日本軍に投降しようという。自分は熟慮ののち、たちまち一首の詩を作った。「男児有志出洋外、事不入謀難処身、望須同胞誓流血、莫作旦間無義神」(男児志を持って国外に出たのである。大事がうまくいかず身の処し方に難渋している。ただ君たちに望むことは、同胞の流血に誓って大義のない行動をとることをしないようにしてほしい)と吟じ終えて、みなの者は思い思いにしたらよい。自分は山を下りて日本兵に決戦をいどみ、大韓国2千万人の中の一人として義務を果たした後に死ぬつもりである。こう言って、武器を携帯し、賊陣を探して立ち去ろうとした。そのうち、一人が身を乗り出して来て慟哭しながらあなたの意見はきわめて間違っている。あなたはただ一個人の義務を考えているが、幾多の生霊ならびに後日の多大な事業を顧みないのか、今日の情勢では死んでも全く益がない。責任の重い身体であるのに、どうして草や塵芥のように棄てていいものだろうか。現在は江東(露国領の地名である)に渡って、後日の好機会を待ってさらに大事を図るべきである。これは十分合理性がある。どうして諒解してもらえないのだろうかと言う。自分はさらに考えをめぐらしたのち、あなたの言うことは確かにそのとおりである。……

 ・・・(以下略)

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統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造?------------
 戦前・戦中、日本には「言論の自由」や「表現の自由」がほとんどなかったという。軍部が、政治、経済、文化、教育、社会構造などの国民生活のあらゆる分野で絶大な影響力をもったからであろう。軍主導で戦争に突き進む日本を、国民はどうすることもできなかった。正確な情報があたえられなかったばかりでなく、厳しい取り締まりがあったからである。だから、たとえ批判的な考えを持っていても、現在のように、簡単に戦争反対の声をあげられるような状況ではなかったという。国家戦略として教育の統制支配を強め、「忠君愛国」の教育を徹底することによって、軍国日本に都合のいい国民をつくり出していたことも、そうした状況との関係で、忘れてはならないことだと思う。

 その軍主導の政治や教育に、「鬼畜米英」や中国人蔑視、朝鮮人蔑視の思想がからんで、日本は人命軽視の無謀な戦争を続け、第2次世界大戦では、国民自ら大きな被害を被ったばかりでなく、中国や韓国など諸外国に大変な被害を与えて、無条件降伏した。そして、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入ることになった。

 ところが、当初、日本の民主化に取り組んだGHQが、米ソ冷戦の激化や中華人民共和国の誕生、朝鮮戦争勃発などに影響されて、民主化方針を変更し、旧指導者層を復活させる、戦争責任者の公職追放解除、警察予備隊の創設(再軍備・旧日本軍軍人の採用)、レッドパージ、公安警察創設(政治警察復活)など、「逆コース」といわれる政策をとった。
 その結果、戦前・戦中の指導者層が、政権中枢や 自衛隊、経済界、学界その他に返り咲いて、再び力を発揮するようになった。そうしたことが、先の大戦における日本の戦争行為を正当化する動きに影響を与えているのだろうと、私は思う。また、日本人自身による戦争責任の追及がほとんどなされなかった理由や、謝罪・補償を含む戦後処理が充分なされなかった理由も、そうしたGHQの「逆コース」といわれる政策の影響抜きには、考えられないことではないかと思うのである。 

 広島には『二度とあやまちは繰り返しませんから』と書かれた石碑がある。でも、残念ながら日本の戦争における「あやまち」が何であったのか、日本では共有されていない。だからいまだに戦争の問題を引き摺っているといえる。また、歴史認識をめぐる近隣諸国との対立の原因も、その辺にあるのだろうと考えるのである。

 特に日韓関係は、安重根記念館や石碑設置問題に限らず、竹島問題、従軍慰安婦問題、首相の靖国参拝問題等々で、このところ悪化するばかりである。そして、それらは、いろいろな面で先の大戦や日本の植民地支配と関わる。だから、ここでは、「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)から、衝撃的な記述部分を抜粋する。こうした事実の主張にもきちんと耳を傾け、早く関係改善の糸口を見出したいものだと思うからである。
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                  Ⅵ 統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造

 まえがき

 1992年5月12日、私はソウル大学校奎章閣図書管理室長として、「乙巳条約」の原文が形式上問題が多く、純宗皇帝の名で発令された重要な諸法令の中に署名が偽造されたものが多いという事実を公開した。この発表は、当時すでに提起されていた「従軍慰安婦」問題と関連して非常な関心を集め、日本の大韓帝国国権侵奪の不法、無効を新たに確認する契機となった。発表後1ヶ月が経った6月13日、北韓(北朝鮮)外交部は、金日成総合大学の歴史学教授らが「『乙巳条約』と『丁未条約』が条約の合法性を保証できる初歩的なプロセスも踏んでいない証拠を『皇城新聞』から見付けた」と発表した。

 発表に対する反応は遠くヨーロッパからも飛んできた。ハンガリー貿易大学(Hungarian College for Foreign Trade)で韓国史を教えるロリー・フェンドラー(KarolyFendler)氏が、オーストリア・ハンガリー帝国文書館(Archives of the Austro-Hungarian Empire)にも関連資料が所蔵されているというニュースを『コリア・ヘラルド』紙に知らせてきた。該当文書は「乙巳条約」当時、韓国駐在ドイツ外交官だったフォン・ザルデルン(vonSaldern)が、事件発生後、3日目にドイツの首相フルスト・フォン・ブロウ(Furst vonBulow)に送った報告書で、ここには次のような事実が記されていると知らせてきた。つまり高宗皇帝が伊藤博文日本大使の提案に対して、最後まで「駄目だ」を貫き、外部大臣の朴斉純も皇帝の前で自分は条約に署名した覚えはないと語り、皇帝の側近の一人がザルデルンに、数分前に、条約文書の外部大臣捺印は日本公使館の職員が官印を強制的に奪って押したものだと語ったことなどを明らかにしているというのである。


 翌年の1993年7月31日には、日本で結成された「国際シンポジウム実行委員会」が、「『韓国併合』はいかになされたか」という主題で国際シンポジウムを開催した。この会議を通じて韓国、北韓、日本の三カ国の学者がはじめて一緒に集まって互いの見解を交換した。

 「乙巳条約」をはじめ韓・日間の重要条約の問題点に対する関心は、1993年10月24日に金基奭教授が高宗皇帝の親書を発見したことで一層高まった。金教授は米国ニューヨーク・コロンビア大学の貴重図書館および手稿図書館で、高宗皇帝が9カ国の修好国国家元首に「乙巳条約」の無効性を解明しながら、大韓帝国の国権回復に協力を要請する親書9通と併せてハルバートを特使に任命する委任状などを発見し、これを公開した。さらに1994年3月1日付の「東亜日報」に報道された、高宗皇帝のもう一つの親書に関する資料も大変重要な内容を含んでいる。この資料は、退位させられた高宗皇帝が1914年12月22日にドイツ皇帝にあてた親書を、北京駐在ドイツ公使のヒンツェ(Hintze)が受け取り、ドイツ語に翻訳したものだ。資料発掘者の鄭用大氏は、親書の原本がドイツのどこかにあるものと推測したが、いずれにせよこの資料は、高宗皇帝が退位させられた後も引き続き、国権回復のための外交闘争を展開させていたという証拠として、大変重要な意味を持っている。


 資料の内容のうち、自分が使っていた帝国の国璽・御璽などの実印が、今は全て敵の手中に収まり、この手紙ではそれらを使うことができず、自分が日常的に使う印章を押して証明するしかないと明らかにしているのは、この論文で筆者が明らかにしようとする皇帝の署名行為の事実と関連して、たいへん注目される内容である。

 日本の大韓帝国国権侵奪の不法性は、以上のように関連資料が引き続き発見、発掘されることで、これ以上否定できなくなった。今まで明らかにされた事実だけにもとづいても、彼らの行為は不法というより犯罪として規定しなければならない状況だ。遅きに失した感はあるが、学者らが使命感をもってこれに対する徹底した真相究明を行うならば、より詳細な事実が明らかになるだろう。

 この論文は、2年前に筆者の責任の下に発表した「乙巳条約」の文書の形式上の欠陥および純宗皇帝の署名偽造に関する諸問題を整理することを目的としている。私はこの間、すでにこの問題に関する発表を2度行った。1993年3月23日に韓日文化交流基金の第25回韓日文化講座で、「純宗勅令の偽造署名の発見経緯とその意義」と題して最初の発表を行い、同年7月に東京国際シンポジウムでも「『乙巳条約』、『丁未条約』の法的欠陥と道徳性問題」と題した論文を準備して参加した。しかし、2度にわたる発表は全て整理段階で行ったものであり、満足できるものではなかった。この間、多くの学者の見解を聞き、また前に紹介したように金基奭教授、鄭用大氏らによって新しい資料が発見されたことで、私の見解はより一層、強い裏付けを得た。未だ確認しなければならない事がたくさん残っているが、当初、捕捉された日本側の犯罪的不法行為は明白に指摘できるようになり、この間の調査を総括的に整理する意味でこの論文を新たに書いた。


 侵略者が侵略対象国の国璽もしくは御璽を奪い、重要公文書に勝手に使用して、法令の発令者である皇帝の署名を偽造した事実は、法令自体の効力喪失はもちろん、当然なこととして歴史の審判を受けるべき犯罪行為である。このような行為は、日本が「乙巳条約」に大韓帝国の外交権を剥奪した後、ふたたび「丁未条約」を通じて内政権を奪う過程で犯したものである。したがって、これに対する解明は、「乙巳条約」の不法性に対する指摘とともに、日本帝国の大韓帝国「併合」は成立しなかったという明白な証拠となるだろう。

 この論文は、国璽・御璽奪取の状況と、統監府文書課職員らによる皇帝の署名偽造の恣行過程を明らかにするだろう。統監がこうした犯罪行為の主役だったならば、近代韓・日関係史に対する認識は、現在と根本的に変えねばならないだろう。


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                     3 純宗皇帝署名の偽造と統監府

2 署名偽造の実状

 1907年10月、統監府が「丁未条約」の実行を目的に編制を改編した後、大韓帝国の各種法令類の制定は、次のような過程を経て達成されるようになった。まず、当時該当各部大臣官房室が起案して(各部起案用紙使用)内閣の書記長に渡すと、内閣では皇帝に決裁を申請する文案を作成し、これを添付して(内閣起案用紙使用)統監府に渡す。「丁未条約」に従い、全ての法令制定は事前に統監の承認を受けるようになっていたからだ。統監府に渡った文書は、統監官房文書課が受け付け、統監に見せ、彼の”承認”を得るという手続きを踏む。この手続きが終われば該当法令は事実上確定したのも同じだが、形式的には該当文書を内閣が純宗皇帝に提出し、御名の親署決裁を受けるという順序が残っている。問題の署名偽造は、まさにこの最終過程を省略しながらしでかされたのである


 これについての具体的な検討のため、まず、当時通用していた大韓帝国の立法関係公文書形式についての考察から始めてみることにする。
 朝鮮王朝は1894年11月の甲午改革の時、朝廷の各種公文書形式を大きく変えた。歴代にわたって使用してきた『大典通編』のものを捨てて新制に変えた。その中で、国王が命令、制定するものとして勅令、法律、詔勅などがあった。この法令形式は全て1910年8月に大韓帝国が日本に強制併合されるまで存続した。
 現在、ソウル大学校奎章閣に所蔵されている1894~1910年間の3種類の諸法例の件数は、次の表3のとおりである。皇帝の署名が偽造されたものは、1907年~1908年度の分60件に達する。(表3略)


 ・・・(以下略)

3 文書課と署名偽造

 それでは、皇帝の署名偽造の犯人たちは誰か。前述の偽造署名例示には、互いに異なる筆跡が5,6個もある。また、偽造が事務的に処理されたようであることもあらわになった。統監府の勢いが凄まじかった時期に5、6人が集団で回し合いながら大韓帝国皇帝の署名を偽造できる者たちとは、統監府の日本人官吏以外に想像できる対象はいない。当時の法令制定の手続きを見ても、統監府の文書処理および管理制度の整備過程および状況を見ても、統監府の官吏たちが主犯であることは疑う余地がない。


 大韓帝国の内閣側もこれを手助けしただろうが、それも文書担当責任職にすでに日本人が任命されている状態にあったので、結局は統監府がやったことに変わりはない。制度的、現実的状況から見て、統監府の統監の黙認の下に、傘下の文書課職員たちが内閣と各部に配属されている日本人書記官の助けを借りて署名を偽造したことは疑う余地がない。しかし、私はこれをもう少し確実に明らかにするために、上の各種偽造署名筆跡のうちの一つを書いた人間を捜すことにした。偽造事例のうち、1907年12月23日付の(7)~(28)の22の勅令に加えられた偽造署名の筆跡の主人公を捜すことにしたのである。

 調査対象にあがったこの筆跡は、問題の516個の筆跡のうち、最も達筆だと言える。私はこの点に留意し、筆跡の主人公を追跡してみたが、私が嫌疑をかけた人物は前間恭作だった。彼が達筆で多くの筆跡を残したことが、私が彼に注目する契機と言えば契機だったかも知れない。また、彼の生涯に関する既存の一つの履歴書的整理が私の調査に大きな助けとなった。著名な日本の韓国史研究家末松保和教授が前間の遺稿『古鮮冊譜』の完刊(1957年)に付けた「前間先生小伝」が、彼の行跡追跡に大きな助けとなった。


 前間恭作は開港以後、韓国学の研究に従事した日本人第1世代に属する。彼は韓国の書誌、言語、文学、歴史などに関する多くの著書と論文を残したが、とくに肉筆で書かれた原稿として影印出版して出した著書が多く、日本人学者の間で賞賛されていた。私が彼に疑いを持つようになったのは、彼の次のような特別の履歴と、達筆の所持者という二つの事実が合わさっていた。彼は韓国学関係の著述を本格的に出す前に、日本公使館の通訳官として活動していた際、初代統監伊藤博文の側近、腹心となって、統監府の文書課にも深く関与した履歴を持っていた。そして、彼が「乙巳条約」の不法締結過程に大変活躍したということも、既存の研究で、すでに明らかにされていた。したがって、彼に対する疑いを持つのは当然だった。
それではまず彼の履歴書を見てみることにする
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大韓帝国皇帝高宗の妃 明成皇后(閔妃)殺害事件----------

 最近日本では、嘆かわしいことに、民族的マイノリティ、特に在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチや差別落書きなどが、後を絶たない状況のようである。安倍政権の強硬路線によって、靖国参拝問題や「従軍慰安婦」問題、さらには竹島をめぐる領土問題や「安重根」記念館問題など、歴史認識に関わる問題での対立が深まり、それを背景として、営利を目的とした週刊誌などのメディアが、扇情的な報道を繰り返し、次々に出版される著作物が「嫌韓」「反韓」「憎韓」などをかき立てて、民族差別を煽っているからであろう。朝鮮学校の高校無償化法からの排除など、国や自治体の決定も、人々の差別・排除意識を助長してしまっていると思う。

 相変わらず、日本の「従軍慰安婦」問題など、過去の不都合な事実をなかったことにしようとする主張が繰り返されているが、そうした主張は、世界では通用しないし、日本の孤立化を招くだけであろう。日韓や日中の関係改善のためには、真摯に過去に向き合い、共通の歴史認識をもとめて協力するしかないのだと思う。

 ここで取り上げるのは、以前にも取り上げたことがあるが、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件である。昔の事件であるとはいえ、当時の日本の指導者層の韓国に対する所業が、いかに理不尽なものであったかを思い知らされる事件である。伊藤博文を殺害した安重根も、「伊藤博文の罪状15ヶ条」の最初にこの事件を取り上げている。こうした事実をなかったことにして、「嫌韓」・
「憎韓」「反韓」の流れに沿って、「愛国心」を語る政権の危うさを指摘せざるを得ない。

 下記は、いずれも明成皇后(閔妃)殺害事件に関わる日本人関係者の文章であり、まさに動かぬ証拠であるといえる。事件の背景に、興宣大院君と閔妃の権力闘争があったとはいえ、他国の王妃を殺害するなどということは許されることではない。「日本の韓国併合」山辺健太郎(太平出版社)からの抜粋である

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                            Ⅶ 閔妃事件について

1 閔妃事件とは何か

 閔妃事件というのは、1895(明治28)年10月8日、一団の日本軍隊と日本の民間人がソウルにあった朝鮮王宮に侵入して、王妃を殺した事件である。

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 そこで私は、まず事件当日のもようを、当時ソウル駐在の一等領事内田定槌の談話から再現させることにしよう。

 私ハ其ノ頃領事館ニ住ンデ居ツタガ、或ル朝(明治28年10月8日)ケタタマシイ銃声ニ眠リヲ破ラレタ。窓ヲ開クト未ダ夜ハ明ケ切ラヌ館内ニハ警察署ガアツタノデ、何事ガ起ツタカト巡査ニ訊イタガ、知ラヌト言フ。荻原警部ヲ起シニ行ツタガ、其ノ室ニ居ラヌ。厩舎ヘ行クト私ノ馬ガ見エナイ。ドウシタカトイ巡査ニ訊クト、警部ガ乗ツテ行キマシタト言フ。其ノ中ニ銃声ハ止ンダ。近クニハ新納少佐ト云フ海軍ノ公使館附武官ガ居ツタノデ、ソコヘ行ツテ訊イテ見タガ、何ノコトカ分ラヌト言フ。
 又当時ノ外交官補日置益君モ近クニ居ツタガ、矢張リチツトモ知ラヌト言フ。

 ソウシテ居ル中ニ、血刀ヲ提ゲタ連中ガ帰ツテ来テ新納少佐ノ所ヘ報告ニ行ツタ。私モソコヘ行ツテ話ヲ聞イタガ、其ノ連中ハ昨夜王城ニ侵入シテ王妃ヲ殺シタノダト云フ。ドウシテ行ツタノダト尋ネルト、最初ハ大院君(国王ノ父デ王妃トハ犬猿ノ間柄デアッタ人)ガ朝鮮人ヲ率ヰテ王城ニ侵入シ王妃ヲ殺ス筈ダッタ。ソレニ就テハ前カラ種々策謀ガアツタ。例ノ岡本柳之助ガ参謀デ大院君ヲ引ツ張リ出スノガ一番宜シカラウト云フコトニナリ、岡本ガ大院君ニ勧メテ行ツタ。其ノ時一緒ニ勧メニ行ツタノガ領事官補ノ堀口(九万一)君。同君ハ朝鮮語ハ出来ナイケレトモ漢文ニ通ジ文章ガ達者ナノデ筆談ヲシタ。其ノ結果大院君モソレデハ君側ノ奸ヲ倒ス為ニ起タウト承諾シタ。最初ノ計画デハ夜半ニ日本ノ兵隊ト警察官ガ大院君ヲ先頭ニ立テ、王城ニ入リ朝鮮人ガ王妃ヲ殺害スル筈デアツタガ、大院君ハ仲々出テコナイ。京城郊外ノ大院君ノ邸ヘ岡本ヤ堀口ガ夜中ニ行ツテ促ソウトシタガ、大院君ハ仲々出テコナイ愚図々々シテ居ルト夜ガ明ケ始メタノデ、多勢ノ日本人ノ壮士等モ一緒ニナッテ無理矢理ニ大院君ヲ引ッ張リダシ真先ニ守リ立テテ王城ニ向ツタ。王城侵入ノ際護衛兵ガ発砲シテ抵抗シタケレトモ日本兵ガ之ヲ追ヒ散ラシ城内ニ入ツタ。


 サウ云フ死骸ノ始末ニ付テハ関係人カラ後デ聞イタノダガ、兎ニ角私ハ非常ニ困ツタ。公使ニ会ツテ話ヲ聞ケバ万事分ルダラウト思ツテ公使館ヘ出掛ケタカ、公使ハ、一寸待ツテ呉レト云フコトデ直グニ会ハナイ。公使ハ2階ニ居リ、私ハ下ノ待合室デ待ツテ居ルト、2階デ頻リニ鐘ノ音ガスル。妙ナコトダト思ツテ居ルト、20分バカリシテ2階ヘ通サレタ。スルト公使ハ床ニ不動明王ノ像ヲ飾ツテ灯明ヲ上ゲテ拝ンデ居ル。ソコデ私ハ「大変ナ騒ギニナリマシタネ」ト言フト、公使ハ「イヤ是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナツタ。モウ安心ダ」ト言フ。ソレデ私ハ「併シ是ハ大変ナコトデス。日本人ガ血刀ヲ提ゲテ白昼公然京城ノ街ヲ歩ツテ居ルノヲ朝鮮人ハ素ヨリ外国人モ見タニ相違ナイカラ日本人ガ此事変ニ関係シタコトハ隠スコトハ出来マセヌ。併シ日本ノ兵隊ヤ警察官、公使館員、領事館員等ガ之ニ関係シタコトハドウニカシテ隠シタイト思フガ、ソレニ就テハドウ云フ方法ヲ講ジタラ宜イデセウ」ト言ツタガ、公使ハ「俺モ今ソレヲ考ヘテ居ルノダ」ト言ハレタ。 

 公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ私ハ席ヲ外シタガ、露国公使ガ帰ツテカラ再ビ2階ヘ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ公使ト別レタガ、偖テソレカラドウシタラ宜シイカ考ヘガ付カヌ。外務省ヘ知ラセヨウト思ツテモ電信ハ公使館ノ命令デ差止メラレテシマツテ居ル。公使館以外ノ者ハ一切電報ヲ打ツコトヲ差止メラレテシマツタノデ私モ無論電信ヲ出スコトハ出来ナイ。後デ聞ケバ「昨夜王城ニ変アリ王妃行衛ヲ知ラズ」ト云フ電報ヲ公使館カラ外務省ヘ送ツタサウダガ、ソレ切リ止メテシマツタノデ私ハドウスルコトモ出来ナカツタ。

 其ノ中ニ堀口君ヤ警部ガ帰ツテ来タノデ堀口君ニ「君ハ大変ナコトヲヤッタガ、アトハドウスル積リカ、僕ニハ此ノ始末ハ出来ナイ」ト言ツタラ、何トモ答ヘナイデ黙ツテ居ル。矢張リドウシテ宜シノカ分カラナイノダ。ソコデ私ハ「僕ノ考ヘデハ是ハドウシテモ日本政府ニ始末ヲ委スヨリ他ハナイ。併シソレニハ日本ノ外務省ガ事実ヲ能ク知ラネバナラヌトコロガ外務省カラ何ヲ言ツテ来テモ公使館カラハ返事モヤラナイヨウナ状態デハ外務省デモ真相ヲ掴ミ得マイ。君ハ最初カラ事件ノ真相ヲ知ツテ居ルヨウダカラ、スッカリ其ノ始末ヲ書イテ本省ニ報告シテ呉レ」ト言ツタスルト堀口君ハ達筆ナノデ直グ長イ報告ヲ書イテ特使デアツタカ郵便デアツタカハハッキリ記憶シナイガ兎ニ角本省ニ送ツタ。

 其ノ話ヲシテ居ル間ニ、突然昨夜王城に変アリ云々ノ電報ガ来タノダ。併シソレカラ引続キ詳報ヲ何モ送ラナイノデ顛末ガ分ラナカツタガ、堀口君ノ報告書ガ行ツテ初メテ驚イテシマツタラシイ。ソレデ其ノ善後策ヲ講ズル為ニ小村政務局長ガ朝鮮ニ出張ヲ命ゼラレタノダ。

 私モ申訳ナイカラ進退伺ヒヲ出ソウト思フト小村局長ニ話シタラ、君ハ何モ関係ナイカラソンナコトヲスル必要ハナイト云フヤウナ訳デ出サナカツタ。小村局長ノ考ヘデハ、此ノ事件ハ京城デハ処分出来ナイカラ日本デ処分スルヨリ他ナイト云フコトニナリ、関係者ハ皆日本ヘ帰スコトニナツタ。公使館員モ軍人モ関係シタ者ハ皆召還シ、民間人ハ在留禁止、退韓ヲ命ズルコトニナツタガ、其ノ命令ヲ出スノハ領事タル私ガ言ヒ付カツタ。其ノ時在留禁止ヲ命ジタノハ47人アツタト思フガ、ソレ等ノ人間ヲ一々呼出シテ命令ヲ渡シタ。トコロガ皆大イニ其ノ時喜ンデ居タ。

 殊ニ岡本柳之助トハ、私ハ斯ウ云ウコトヲシタノタカラドンナ処分ヲ受ケテモ仕方ナイノニ、在留禁止デ済メバ非常ニ有難イト言ツテ喜ビ、其ノ他ノ壮士連モ皆有難ク在留禁止命令ヲ御受ケシタ。安藤謙蔵氏ナトモ矢張リ此壮士連ノ首領株ダツタガ、ソレ等ノ連中ハ皆公使館ノ人々、陸軍々人等ト一緒ニ京城ヲ立ツテ仁川カラ船ニ乗ツタ。船ノ名前ハ忘レタガ、皆大イニ手柄ヲ立テテ、勲章デモ貰ヘル積リダツタラウカ喜ビ勇ンデ内地ヘ向ツタ。トコロガ宇品ヘ着ヤ否ヤ皆縛ラレテ牢ニ入レラレ、広島地方裁判所テ裁判ヲ受ケルコトノニナツタ。

 広島デ王妃殺害事件ノ公判ガ進行シテ居ル間ニ、朝鮮国王ハ王宮ヲ脱出シテ露国公使館ニ逃ゲ込ンダ。(注=露館播遷ハ29年2月11日、三浦等の免訴釈放は1月20日。故にこの談話は事実とちがう)ソレハ露国公使館員ガ朝鮮宮内官ト通牒シテヤツタ仕事デアツタ。ソレカラ又「アメリカ」ノ宣教師ト朝鮮人ガ一緒ニナツテ日本党ノ人々ヲ暗殺スル陰謀ヲ企テタガ、ソレハ朝鮮政府ノ当局ガ皆犯人ヲ逮捕シ処分シテシマツタ。サウ云フ事件ガ次カラ次ニ起ツタノデ日本ノ方デモ、露国人ヤ米国人ガソンナ陰謀ヲ企テル空気中ニ於テハ日本人ノ犯罪ニ限リ厳重ニ検挙スル政策ヲ執ル必要ハナイト云フヤウナ論議ガ起ツテ来タ。ソレニ又一方朝鮮当局ノ方デモ王妃殺害事件ノ審理ヲ遂ゲタル処王妃殺害者ハ朝鮮人ノ何某ト決定シ既ニ死刑ニ処セラレタカラ、日本ノ裁判所ガ本件ヲ審理スル必要ハナイト云フ理由デ被告人ハ一同無罪放免ニ決定シタ。

 併シ当時私ハ非常ニ苦シイ立場ニ在ツタ。ソレト云フノハ領事タル私ハ広島地方裁判所ノ嘱託ニヨリ予審判事ノ職ヲ勤メナケレバナラナカツタ。本件ノ関係人ハ公使館員初メ壮士ノ連中モ皆平素私ノ知ツテ居ル人々デ、ソレ等ノ人々ノ犯行ヲ一々調査シナケレバナラヌノニハ私モ大変困ツタ。併シ領事館巡査ノ中一番朝鮮語ガ上手デ最初カラ事件ニ関係シテ居ツタ渡辺応次郎巡査ダケハ内地ヘ帰サナカツタノデ、広島裁判所ノ依頼ニ依ツテ取調ヲスル時ニハ、其ノ巡査ニ命シ王城内ノ実地ヲ調ベサセテ報告モアル。


 要スルニ、表面ハ朝鮮人ガ王妃ヲ殺シタコトニナツテ居ルケレドモ、実際ハ右ニ述ベタヤウナ次第デアツタ。

 ・・・

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2 事件の真相

 以上のことはこれまでだいたい知られていたことである。その奥にある真相はまだ知られていない。私はつぎにこの事件についていままで知られていない2~3の事実をここに紹介しよう。当時ソウルにいた内田領事が外務省に送った報告書のなかで、この事件の善後策についてつぎのようにいっている。

 事変後既ニ数日ヲ経テ日本人ノ之ニ関係セシコト最早隠レナキ事実ニ相成候ニモ拘ハラス尚当館ニ於テ公然其取調ニ着手不致候テハ外国人ニ対シテモ甚タ不体裁ニ付キ10月12日ヨ至リ先ツ警察官ヲシテ関係者ノ口述ヲ取ラシムルコトニ致候処杉村書記官ハ其意ヲ国友重章ニ伝ヘ関係者中甘ンシテ我警察ノ取調ヲ受クヘキ者ノ姓名ヲ選出セシメタルニ即チ別紙第5号及第6号写ノ通リ申出テ尚取調ヲ受ケタル節ハ別紙7号ノ通リ同一ノ申立ヲ致スヘキ様彼等ノ間ニ申合ハセシメタリ

 要するに、世間体がわるいから見せかけだけの取調べをやるが、そのときの陳述内容は、「同一の申立」をするように「申合」をやらせた、というのである。ここにいう別紙第5号とは、杉村書記官からの要請にたいして、国友重章が差し出した手紙で、このなかにすすんで兇行者であることを名のりでる予定になった者の氏名をあげている。第6号は兇行者として、藤勝顕の名を追加しただけであった。
 事件の真相を知るうえにもたいせつな資料だと思うので、全文引用しておく。


別紙第5号
 拝啓仕候先刻之御話ニ従ヒ色々評議之末別紙ノ人名ハ何時御召喚有之候共差支無之候間左様御承知可被下候尚願クハ明日直ニ御開始有之候様希望致候先以書中草々如此御座候                     頓首
  10月11日夜                             国友重章
 杉村 清殿


 ここにいう別紙の人名とは次の者であった。すなわち、
  国友重章、月成光、広田止善、前田俊蔵、平山岩彦、隅部米吉、沢村雅夫、武田範之、吉田友吉、片野猛雄、大嵜正吉
 以上11人に藤が加わり12人になったわけである。
 領事の命令で、「同一申立」をするためにやった「申合」の内容というのは、つぎのようなもので実に人を馬鹿にしたものであった。


一、私交上○○君ノ依頼ヲ受ケテ随行入闕シタル者ナリ而シテ右ハ全ク自己ノ意思ニ出テタリ
一、依頼ノ趣意ハ単ニ随行ト云フコトナリシモ○○君ノ真意ハ途中安心ノ為メ同行ヲモトメシコトナラン我々モ亦之ヲ
   黙諾シテ応ゼシコトナリ
一、途中宮門ニ至ル迄ハ何事も無カリシガ光化門前ニ至リテ朝鮮兵相互ノ小戦興レリ右小戦ハ蓋シ訓練隊ガ強テ
   入闕セントシタルヲ侍衛隊又ハ宮中巡査ハ中ヨリ之ヲ拒ミ終ニ争戦ニ及ヒタルコトト思考セリ是時我々ハ唯○○君
   ニ危害ノ及ハザランコトニノミ注意セリ
一、○○君入闕ノ趣意ハ全ク榜文ト同様ノ事ナ館リシ而シテ我々ハ之ヲ黙諾シテ随行シタルモノナリ
一、○○君同行ノ時朝鮮人モ多数随行シ其中日本服ヲ着シタル朝鮮人モ大分見受ケタリ
一、宮内ニ於テ騒擾興リ之ガ為メニ2、3ノ死傷者アルヲ目撃シタリ然レトモ右ハ全ク韓服若クハ和服ノ朝鮮人等之ヲ
   為セシコトニテ且ツ現ニ朝鮮人ノ抜刀シテ人ヲ殺害スルヲ見タルモノアリ尤モ未明及ビ困難ノ際ナレバ明白ニ之ヲ
   認ムルヲ得サリシ
一、我々ノ内ニモ自防及大院君防衛ノ為メ抜刀シタルモノ見受ケタルモ其誰タルヲ詳ニセス天明ノ後チ見物ノ為メカ多数ノ
   日本人及洋人ヲ見受ケタリ但シ某人分ハ詳ナラス
一、大院君無事入闕シ且ツ騒擾モ鎮静ニ帰シタルニ付同君ニ別レヲ告ケテ退闕セリ


 つまり、取調べる方から命令して、11人の容疑者がみな右のような主旨の陳述をする「申合」をしたわけである。
 
 ・・・

 井上理事の報告にある「王妃殺害ノ下手者ト見込寺崎某」は一名高橋源次といい、この男が閔妃を殺した下手人であることは、本人のつぎの手記もこれを認めている。

 拝呈仕候昨夜来失敬仕候陳者今朝ハ粗暴之挙止実以慙愧之至ニ御座候      
     宮中口吟
  国家衰亡兆無理  満朝真無一忠臣
  宮中暗澹雲深処  不斬讎敵斬美人
 実ニ面目次第モ無之只今迄欝憂罷在候処今一友ノ話ニ依レハ或ハ王妃ナリト然共
 疑念ニ堪ヘス候故此儀真否御承知ニ御座候ハバ御一報被成下度奉万願候
  10月8日                                高橋源次
                                           再拝
  鈴木重元様
       呈梧下


 ここにいう「不斬讎敵斬美人」というのは、後宮の一室におしいり、戸をこじあけて2人の若い美人を引きだして斬殺したが、その2人の年齢が閔妃にしては若すぎるように見えたことと、だれも閔妃の顔を知らなかったので、一時は、人違いか思った、このことをさすのだろう。…

・・・(以下略)
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3 事件と日本軍隊

 ・・・

 …当時韓国政府の顧問をしていた石塚英蔵から末松法制局長官にあてた報告書によると、このゴロツキどもは閔妃の死体を凌辱したらしい。
 その報告書には「王妃ヲ引キ出シ23ケ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル惨酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタレ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ」と書いてある。 
 このように、閔妃事件というのは、日本帝国主義が朝鮮で犯した罪悪のうちもっともひどいものであった。


※  一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、空行を挿入したりしています。
   青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

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