-NO54~62-

              731部隊 ハバロフスク裁判 柄沢十三夫証言

 日本の敗戦後、アメリカは四回にわたって「731部隊」の調査団を日本に派遣し、部隊関係者の尋問を基にした調査報告書を入手しているという 。その調査報告書は、「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)によると下記の通りである。
 第一次 サンサース・レポート(1945年11月1日付)
 第二次 トンプソン・レポート (1946年5月31日付)
 第三次 フェル・レポート   (1947年6月20日付) 総論のみ
 第四次 ヒルー・レポート   (1947年12月12日付)

 そして、人体実験に関する内容が明らかにされたのは、1947年の第3次(フェル・レポート)と第4次(ヒル・レポート)であるという。
 第1次や第2次の尋問で秘匿されていた事実が明かされることになったのは、後にハバロフスク裁判で人体実験の生々しい実態を証言する川島清(731部隊第4部細 菌製造部長)と柄沢十三夫(731部隊第4部細菌製造部第1班班長)の供述により、その事実をつかんだソ連が、「日本は2000名の満州人と中国人を殺すという恐ろしい犯罪を犯し、石井将軍、菊池大佐、太田大佐が関わっている」としてアメリカ側に3人の尋問要求をしたことがきっかけになったようである。ソ連から尋問要求があったので、アメリカが独自に尋問し、調査し、関係者に報告 書を書かせるなどしてまとめたものが、上記フェル・レポートおよびヒル・レポートであるというのである。こうしてアメリカは731部 隊の研究成果を独占入手する代わりに、石井四郎以下731部隊関係者を戦犯免責するという取り引きを行い、決着を謀ったのである。ソ連とアメリカの間では、どのような「駆引き」があったのか知りたいと思う
 下記は、その柄沢十三夫証言の
「戦争と疫病(731部隊のもたらしたもの)」松村高夫他5名(本の友社)からの一部抜粋である。
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私ハ、安達駅ノ特設実験場デ野外ノ条件下ニ於ケル人間ノ感染実験ニ2度参加シマシタ。第一ノ実験ハ、1943年末、炭疽菌デ行ワレマシタ。コノ実験ノタメニ、特設実験場ニ連レテコラレタ10名ノ被実験者ガ使用サレマシタ。コレラノ人々ハ、五米間隔デ特殊ノ柱ニ縛リツケラレテイマシタ。コレラノ人々ノ感染ノタメニハ、被実験者カラ50米ノ所ニアッタ榴散爆弾ガ使用サレマシタ。此ノ爆弾ハ電流ニヨッテ爆発セシメラレマシタ。此ノ実験ノ結果、一部ノ被実験者ハ感染サレマシタ。彼等ニ対シテ或ル措置ガ施サレタ後、彼等ハ部隊ニ連レテ行カレマシタガ、其ノ後、私ハ、罹炭疽シタ被実験者ガ死亡シタコトヲ報告カラシリマシタ。


----------731部隊調査報告書:ヒル・レポート(総論)抜粋---------

 下記は、アメリカによる731部隊関係者の尋問を基にした調査報告書であり、中国戦犯管理所における関係者の自筆供述書やハバロフスク裁判公判書類などとともに、731部隊や日本軍の細菌戦にかかわる重要文書の一つである
。「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)よりその一部を抜粋する。
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                ヒル・レポート(「総論」)
                                       APO 500
                                       1947年12月12日
件名:細菌戦調査に関する概要報告
宛先:オルデン・C・ウェイト
   化学戦部隊主任
   国防総省、25、 ワシントンD.C.

1 前文
 文書命令AGAOーC200.4(47年10月15日)(A表)に依り、エドウィン・V・ヒル博士(DrEdwinV.Hill)とジョーゼフ・ヴィクター博士(Dr.Joseph Victor)が、日本の東京に1947年10月28日に到着した。調査は下記の要領で実施された。極東軍総司令部GⅡ副参謀長チャールズ・A・ウィロビー(Charles A Willourghby)准将の全面的協力により、我々はGⅡの全ての施設を利用でき、任務は大いに促進された。尋問した人たちから得られた情報は任意によるものであることは特筆すべきである。尋問のあいだ戦争犯罪の訴追免責を保証することについては、全く質問がだされなかった。

2 目的
 A 細菌戦に関し日本側要員から提出された諸報告書を明確にするのに必要な追加情報を得るため
 B 細菌戦諸研究施設から日本に移送された人間の病理標本を調査するため
 C その病理標本の意義を理解するのに必要な説明文書を得るため

3 方法
 A 細菌戦に関してハルビンまたは日本で研究した以下の人たちを尋問した。
  主題      尋問した医師              (表が示されているが省略)
  エアゾール   高橋正彦 金子順一
  炭疽      太田 澄
  ボツリヌス   石井四郎
  ブルセラ    石井四郎 山之内裕次郎 岡本耕造 早川清 
  コレラ     石川太刀雄 岡本耕造
  毒ガス除毒   津山義文
  赤痢      上田正明 増田知貞 小島三郎 細谷省吾 田部井和
  フグ毒     増田知貞
  ガス壊疽    石井四郎
  馬鼻疽     石井四郎 石川太刀雄
  インフルエンザ 石井四郎
  髄膜炎     石井四郎 石川太刀雄
  粘素      上田正明 内野仙治
  ペスト     石井四郎 石川太刀雄 高橋正彦 岡本耕造
  直物の病気   矢木沢行正
  サルモネラ   早川清 田部井和
  孫呉熱     笠原四郎 北野政次 石川太刀雄
  天然痘     笠原四郎 石川太刀雄
  破傷風     石井四郎 細谷省吾 石光薫
  森林ダニ脳炎  笠原四郎 北野政次
  つつが虫    笠原四郎
  結核      二木秀雄 石井四郎
  野兎病     石井四郎  
  腸チフス    田部井和 岡本耕造
  発疹チフス   笠原四郎 有田マサヨシ 浜田トヨヒロ 北野政次 石川太刀雄
 
 載物ガラス目録

 B 金沢で我々に提出された病理標本は全く無秩序な状態にあった。この標本を事例番号順に整理し、標
   本の一覧表をつくり、標本を目録に記入することが必要だった。

 C 尋問した人から得た情報は、笠原四郎博士の場合を除いて記憶によるものである。笠原博士は、孫呉
   熱の実験をした三つの主題の温度表とそれに関連する臨床データの記録を所有していた。(表T、U)

4 諸結果
 A 省略

 B 金沢の病理標本は、ハルビンから石川太刀雄によって1943年に持ってこられた。それは約500
  の人間の標本か ら成っている。そのうちの400だけが研究に適した標本である。ハルビンで解剖さ
  れた人間の事例の総数は、岡本耕造博士によれば、1945年に1000以下であった(表R)。この
  数は石川博士が日本に帰ったときのハルビンに現存していた数より200多い。最初に提出された標本
  目録の結果からして、多くの標本が提出されていないことが明らかであった。しかしながら、最初に提
  出されたよりも著しく多い標本の追加的コレクションを入手するには、多少催促するだけでよかった。
   左の表は、様々な疾病毎の事例数と研究に適した標本の事例数である。(以下省略)

 C 個々の調査者から特別の説明文書を入手した。実験に関する彼らの記述は別の報告書に収めてある。
  これらの説明文は、一覧表で示された病理標本をわかりやすく説明するものであり、人間および植物に
  対する伝染病の実験の程度を示すものである。

5 この調査で収集された証拠は、この分野のこれまでにわかっていた諸側面を大いに補充し豊富にした。
 それは、日本の科学者が数百万ドルと長い歳月をかけて得たデータである。情報は特定の細菌の感染量で
 示されているこれらの疾病に対する人間の罹病性に関するものである。かような情報は我々の研究所では
 得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからである。これらのデータは今
 日まで総額25万円で確保されたのであり、研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である。
  さらに、収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である。この情報を自発的に
 提供した個々人がそのことで当惑することのないよう、また、この情報が他人の手に入ることを防ぐため
 に、あらゆる努力がなされるように希望する。
                                エドウィン・V・ヒル M.D.
                                主任、基礎科学
                                キャンプ・デトリック、
                                メリーランド



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フェル・レポート:731部隊調査報告書-------------


 下記は、アメリカから派遣されたノバート・H・フェルが731部隊関係者の尋問を基にして作成した調査報告書であり、アメリカが日本軍の人体実験について調査した最初の報告書である。アメリカが日本軍の人体実験の調査に乗り出したのは、ソ連が石井四郎(731部隊長)、菊池斉(第一部細菌研究部長)、太田澄(第二部実践研究部長)の3人の尋問を要求したことがきっかけであったという。ソ連は抑留した川島清(731部隊第四部細菌製造部長)と柄沢十三夫(同部第一班細菌製造班班長)から731部隊の情報を得て、3人の尋問を要求したのである。ところが、アメリカは独自に調査をし、731部隊関係者の戦犯免責と引きかえに、その研究成果を独占入手したのである。下記はその第3次の調査報告書であり「フェル・レポート」といわれるものである。この調査報告書は、参謀本部作戦課員井本熊男「業務日誌」(防衛研究所に23冊あり、現在は閲覧禁止になっているという)や中国戦犯管理所における関係者の自筆供述書、またハバロフスク軍事裁判公判書類等とともに、731部隊細菌戦にかかわる重要文書の一つである。「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)よりその一部を抜粋する。
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                 フェル・レポート(「総論」)

主題:日本の細菌戦活動に関する新情報の要約
宛先:化学戦部隊部隊長
経由:技術部長、キャンプ・デトリック
   司令官、キャンプ・デトリック
発信:PP─E部門主任、キャンプ・デトリック

1 1947年2月中に、極東軍のG─Ⅱから、日本の細菌戦活動に関する新しいデータが入手可能だろうとの情報を得た。その情報は主として日本の細菌戦組織(防疫給水部)のさまざまな旧隊員たちから極東軍最高司令官宛に送られた多数の匿名の手紙にもとづいている。それは満州の平房にあった細菌戦部隊本部における人間に対して行われた各種の実験について記述していた。G─Ⅱはこの情報が十分信頼できるので、集められた情報に評価を下すため、キャンプ・デトリックの使節を現場に派遣するという要請を正当化できると考えた。

2 筆者は1947年4月6日付の命令にもとづき極東軍総司令部のG─Ⅱとの一時的任務のため、日本の東京に到着した。筆者は4月16日に到着するや、集められたファイルを吟味した結果、その情報は日本の旧細菌戦組織の指導的隊員たちを再尋問することを正当化するのに十分なほど信頼できそうだとするG─Ⅱの代表たちの意見に同意した。次々に幸運に恵まれた状況にあったことや、一人の有力な日本人政治家(彼は合衆国に対して全面的に協力することを真摯に望んでいるようである)の助力が得られたこともあって、最終的には細菌戦に従事してきた日本人の重要な医学者に全ての事実を明らかにすることに同意させることができた。得られた結果は次のようなものである。

 A 細菌戦計画における重要人物のなかの19人(重要な地位に就いていた数人は死亡している)が集ま
  り、人間に対してなされた細菌戦活動について60ページの英文レポートをほぼ1ヶ月かけて作成し
  た。このレポートは主として記憶にもとづいて作成されたが、若干の記録はなお入手可能であり、これ
  がそのグループには役立った。このレポートの多岐にわたる詳細な記述は後述する。

 B 穀物絶滅も大規模な実験が行われていたことが判明した。この研究に携わっていたグループは小規模
  で、植物学者と植物生理学者が各1名と少数の助手たちから成っていた。しかし研究は9年間にわたり
  活発に行われた。その植物学者は非常に協力的であり、結局植物の病気に関する研究について10ペー
  ジの英文レポートを提出した。成長ホルモンの研究は行われていなかったが、植物の病原体は広範囲に
  研究されていた。キャンプ・デトリックでなされるこの双方の研究とも日本人が行っていたものであ
  り、加えてその他多くのことも注目されていた。菌類、細菌そして線虫類に関しては、とくに満州およ
  びシベリアで成育する穀類と野菜については実際に全種類についてそれらの影響を調べている。

  例えば…以下8行省略

 C 爆弾あるいは飛行機からの噴霧による細菌戦病原体散布のさいの粒子のサイズの決定および水滴の飛
  散について、理論的に・数学的に考察した興味あるレポートを得た。

 D 中国の市民と兵士に対して12回の野外試験を行った。その結果の要約、および関連した村と町の地
  図が提出された。この要約および採用された戦術の簡単な記述は、後に述べる。

 E 風船爆弾計画に関わっていた一人から短いレポートを得た。このレポートでは、細菌戦の病原体の撒
  布のために風船を使用することが大いに注視されたと記されているが、この目的遂行のためには不満足
  だったと指摘されている。しかしながら、もし望むならば、風船爆弾に関する完全な詳細な記述は、当
  初からその計画に携わっていた他の人々から得られるかも知れない。

 F 細菌戦の指導的将校の一人がスパイおよび破壊活動に与えられた一連の漏洩を記した原本の文書を得
  ている。この文書の翻訳された要約は、キャンプ・デトリックの手中にある。

 G 家畜に対する細菌戦研究は平房とは全く別の組織が大きな規模で行っていたことが判明した。そのグ
  ループの20人の隊員がレポートを書いており、それは8月中には入手可能となろう。

 H 細菌計画の中心人物である石井将軍は、その全計画について論稿を執筆中である。このレポートは細
  菌兵器の戦略的および戦術的使用についての石井の考え、さまざまな地理的領域での(とくに寒冷地に
  おける)これらの兵器の使用法、さらに細菌戦についての石井の「DO」理論のすべての記述が含まれ
  るだろう。この論稿は、細菌戦研究における石井将軍の20年にわたる経験の概要を示すことになろ
  う。それは7月10日頃に入手可能となろう。

 I 細菌戦の各種病原体による200人以上の症例から作成された顕微鏡用標本が約8000枚あること
  が明らかにされた。
   これら標本は寺に隠されたり、日本南部の山中に埋められていた。この作業すべてを遂行あるいは指
  揮した病理学者が、現在その標本の復元、標本の顕微鏡撮影、そして各標本の内容、実験上の説明、個
  別の病歴を示す、英文の完全なレポートを準備している。このレポートは8月末頃入手可能となろう。

 J 自然的および人工的ペストのすべての研究についての合計600ページにのぼる印刷された紀要も手
  中にある。これらの資料はともに日本語であり、まだ訳されていない。

3 研究室および野外実験に使われた人間の実験材料は、各種の犯罪のため死刑判決を受けた満州の苦力とのことであった。アメリカ人あるいはロシア人の戦争捕虜が使われたことは、(何人かのアメリカ人戦争捕虜の血液が抗体検査に使われたのを除けば)一度もなかった、と明確に述べられていた。この主張が真実でないことを示す証拠はない。人間の実験材料は他の実験動物と同じ方法で使用された。すなわち、彼らを使って各種病原体の、感染最小量及び致死量が決定された。また、彼らは予防接種を受けてから、生きた病原体の感染実験を受けた。さらに彼らは爆弾や噴霧で細菌を散布する野外実験の実験材料にさせられた。これらの実験材料はまた、ペストという広範な研究で使われたことはほぼ確実である。人間について得られた結果は、多少断片的である。それはどの実験でも統計的に有効な持論が得られるほど十分に実験材料をつかうことができなかったからである。しかしながら、炭疽菌のような最も重視されていた病気のばあいには、数年間に数百人が使われたようである。

4 人間を使った細菌戦活動についての60ページのレポートの多岐にわたる詳細な記述の要約は、次の通りである。特記なきときは、ここで示されたデータは、全て人体実験によるものである。
【以下(1)の(d)以外は項目のみとする】
(1) 炭疽
  (a)感染量あるいは致死量
  (b)直接感染
  (c)免疫実験
  (d)爆弾実験
     野外試験の完全な細部の記述と図表がある。ほとんどのばあい人間は杭に縛りつけられ、ヘルメ
    ットとよろいで保護されていた。地上で固定で爆発するものあるいは飛行機からとうかされた時限
    起爆装置のついたものなど、各種の爆弾が実験された。雲状の濃度や粒子のサイズについては測定
    がなされず、気象のデータについてもかなり雑である。日本は炭疽の野外試験に不満足だった。し
    かし、ある試験では15人の実験材料のうち、6人が爆発の傷が原因で死亡し、4人が爆弾の破片
    で感染した。(4人のうち3人が死亡した)。より動力の大きい爆弾(「宇治」)を使った別の実
    験では、10人のうち6人の血液中に菌の存在が確認され、このうちの4人は呼吸器からの感染と
    考えられた。この4人全員が死亡した。だが、これら4人は、いっせいに爆発した9個の爆弾との
    至近距離はわずか25メートルであった。
  (e)牧草の汚染
  (f)噴霧実験
  (g)安定性
  (h)事故および実験による感染
(2)ペスト
  (a)感染あるいは致死量
  (b)直接感染
  (c)免疫実験
  (d)爆弾実験 
  (e)結果…
  (f)安定性
  (g)ペストノミ
(3)腸チフス、パラチフスAおよびB型、そして赤痢(細菌性)
  (a)腸チフス
  (b)パラチフスAおよびB型
  (c)赤痢
(4)コレラ
  (a)感染量
  (b)免疫実験
  (c)噴霧実験
  (d)安定性
(5)馬鼻疽
  (a)感染量
  (b)免疫実験
  (c)爆弾実験
  (d)噴霧実験
(6)流行性出血熱(孫呉熱)
(7)結論(60ページのレポートの最終部分)
 前記以外にも各種の病気が細菌戦研究の初期の段階で研究された。その中には、結核、破傷風、ガス壊疽、ツラレミア(野兎病)、インフルエンザ、それに波状熱(ブルセラ症)があった。結核菌の静脈注射で全身的な粟状結核の急激な感染は起こせるが、呼吸器によって人間に感染させることは容易ではないことが判明した。一般的に、日本が研究した細菌戦用病原体のうち二種類だけが有効で、炭疽菌(主に家畜に対して有効と考えられた)とペストノミだけだったと結論できる。日本はこれらの病原体で満足していたわけではない。それは彼らはそれらに対する免疫を作るのはかなり容易であろう、と考えていたからである。
 細菌戦の野外実験では通常の戦術は、鉄道線路沿いの互いに1マイルほど離れた2地点にいる中国軍に対して、1大隊あるいはそれ以上をさし向けるというものだった。中国軍が後退すると、日本軍は鉄道線路1マイルを遮断し、予定の細菌戦用病原体を噴霧か他のなんらかの方法で散布し、ついで「戦略的後退」を行った。中国軍はその地域に24時間以内に急拠戻ってきて、数日後には中国兵のあいだでペストあるいはコレラが流行するというものだった。いずれの場合も、日本はその結果の報告を受けるため汚染地域の背後にスパイを残そうとした。しかし彼らも認めているのだが、これはしばしば不成功に終わり、結果は不明であった。しかし12回分については報告が得られており、このうち成果があがったのは3回だけだったといわれている。高度約200メートルの飛行機からペストノミを散布した2回の試験において特定の地域に流行が起きた。このうちひとつでは、患者96人がでて、そのうち90パーセントが死亡した。鉄道沿いに手でペストノミを散布した他の3回の試験では、どの場合も小さな流行は起こったが、患者数は不明である。コレラを2回そして腸チフスを2回、鉄道の近くの地面および水源に手動噴霧器でまいたところ、いずれのばあいも効果があるという結果を得た。

 筆者は、日本人が思い出せるだけ詳細に真実の話を我々に語ったと信じている。しかしながら、おそらくさまざまな報告を分析したのちに我々は回答可能な質問をすることができるだろう。我々が大規模生産という点でも、気象学の研究という点でも、実用的軍需生産という点でも、日本より十分優れていることは明白である。(石井将軍は大規模生産のために固形培養基の使用を主張した。というのは、石井は毒性は液状培養基では保存されないと信じていたからである。)良好な気象学のデータの欠如と軍需生産の分野の貧弱な進言によって、陸軍のなかや、陸軍と科学者の間や、科学者自身のなかのさまざまな職種の間に意見の相違が絶えず存在した。平房の部隊は実際空軍や□(判読不能)からなんの援助も受けていない。しかしながら人体実験のデータは、我々がそれを我々や連合国の動物実験のデータと関連させるならば、非常に価値があることがわかるだろう。病理学的研究と人間の病気についての他の情報は、炭疽、ペスト、馬鼻疽の真に効果的なワクチンを開発させるという試みにたいへん役立つかもしれない。今や我々は日本の細菌研究について完全に知ることができるので、化学戦、殺人光線、海軍の研究分野におけるかれらの実際の成果についても有益な情報が得られる可能性は大きいようである。

                     ノバート・H・フェル
                     PP─E(パイロット・プラント・エンジニアリング)部門主任      


----------特移扱→丸太(マルタ)ハバロフスク裁判の証言-----------

 アメリカから派遣され、731部隊関係者の尋問を基に、はじめて日本軍の人体実験に関する調査報告書を作成したノバート・H・フェルはその調査報告書「フェル・レポート」の中で、


3 研究室および野外実験に使われた人間の実験材料は、各種の犯罪のため死刑判決を受けた満州の苦力とのことであった。アメリカ人あるいはロシア人の戦争捕虜が使われたことは、(何人かのアメリカ人戦争捕虜の血液が抗体検査に使われたのを除けば)一度もなかった、と明確に述べられていた。この主張が真実でないことを示す証拠はない。

と報告している。そしてフェルに続いて来日し、調査に当たったエドウィン・V・ヒルは、その第4次の調査報告書の最後に

 さらに、収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である。この情報を自発的に提供した個々人がそのことで当惑することのないよう、また、この情報が他人の手に入ることを防ぐために、あらゆる努力がなされるように希望する。
                                    
と書いている。この二人の調査報告書を、ハバロフスク裁判の証言などと考え合わせると、戦犯免責に通じる”取り引き”の結果による”事実の歪曲”の疑惑を感じざるを得ない。第1次や第2次の尋問では、人体実験に関しては秘匿していたのである。また、ハバロフスク裁判では、下記のような裁判なしの”特移扱”に関するいくつかの証言があるのである。「消えた細菌戦部隊」常石敬一(ちくま文庫)よりの抜粋である。

山田乙三大将(関東軍司令官)の証言------------------------------

生きた人間を使用する実験は、私の前任者梅津大将又は植田大将に依って認可されたものであります。之に関して認める私の罪は……其の続行を黙認したこと……。実験のために囚人を送致すること、即ち所謂「特移扱」も、矢張り私の前任者植田大将又は梅津大将が認可したのでありますが、私も此の認可を廃止しなかった……」。
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 また、佳木斯(チャムス)で憲兵隊長を務めていた橘元憲兵大佐はハバロフスク裁判に証人として出廷し、次のように証言している。


橘元憲兵大佐の証言--------------------------------------
 1940年、私は、佳木斯市の憲兵隊長の地位にありました。其の時、私は初めて、第731部隊の存在と其の業務を知るようになりました。……当時、何らかの嫌疑で憲兵隊が拘引し検挙した者の一定の部類を、吾々は実験材料として第731部隊に送致していました。吾々は、此等の者を、予備的な、部分的取調べの後、裁判に附さず、事件送致せずに、憲兵隊司令部より吾々が受領した指令によって第731部隊に送っていました。是れは、特殊の措置でありましたので、、斯かる取扱は「特移扱」と呼ばれていました。……私の佳木斯憲兵隊長在職中、私の隷下憲兵隊本部によって少なくとも6人が第731部隊に送られ 、此等の者は、其処から戻らず、実験に使用された結果、其処で死亡しました。
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 憲兵隊の判断だけで、裁判なしで実験材料とされ殺される、それが「特移扱」なのである。そして、「特移扱に関する件通牒」にはその対象が列挙されている。さらに、フェル・レポートに反し、ロシア人を第731部隊に送ったという下記のような証言がある。これは、ハルビン特務機関の管轄下にある保護院の院長補佐で、情報調査課長であった山岸健二元陸軍中尉のハバロフスク裁判における証言である。

山岸健二元陸軍中尉の証言------------------------------------

 特務機関長秋草少将の署名入りのハルビン日本特務機関の指令書に依って情報調査課の勤務員は、私の同意を得て現存の罪証資料に依って名簿を作成し、収容所所長飯島少佐の承認を経て、飯島少佐は之に捺印しました。飯島は上述の名簿を報告の為秋草特務機関長の許に持っていきましたが、特務機関長は常に吾々の意見に同意し、殺戮の為吾々が予定したソヴエト市民を第731部隊に移送することを許可しました。
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 上記の証言によると、石井部隊に送られ、人体実験の材料とされて殺されたのは中国人や朝鮮人、モンゴル人だけでなく、ソ連人(ロシア人)も含まれている。ただ、ソ連人は特務機関から送られ、それ以外の人々は憲兵隊から送られたということである。そして、保護院から石井部隊に送られたソ連人は約40人であったという。
 これら”
特移扱”の人たちは、石井部隊では”丸太”と呼ばれ、「石井部隊-”マルタ”生体実験」で紹介したように

「今日の”丸太”(マルタ)は何番…何番…何番…10本頼む」
「ハイ、承知しました」

などと、物として扱われていたのである。


----------------陸軍軍医学校跡地の人骨問題----------------

 1989年7月22日、新宿区に建設中の厚生省予防衛生研究所の建設現場から多数の人骨(警察発表では35体)が発見された。同現場は、旧陸軍軍医学校の跡地であり、満州の第731部隊(細菌戦部隊)と関係の深い防疫研究室が存在していた場所でる。この防疫研究室は1932年8月、後に第731部隊の部隊長に就任する石井四郎を主幹として新設された研究室である。当然のことながら、特移扱”で”丸太”とされ、人体実験によって殺された人たちの骨ではないかと考えられた。問題は、そうした指摘を受けた政府や、発見時の警察の対応である
。「消えた細菌戦部隊(関東第731部隊)」常石敬一(ちくま文庫)から、とびとびにその問題部分を抜粋する。
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 ・・・
 こうした状況証拠から人骨はそこに軍医学校があった1929年から1945年までに投棄されたのだろうと判断された。 そのため新宿区は厚生省に対して、人骨発見の約2週間後の8月5日付で「人骨の身元確認調査について」という文書を出している。厚生省は3日後の8日に、「当方としてはこれを行う考えはない」という返事をしている。この後9月5日までにさらに2回新宿区は厚生省に人骨の身元調査・鑑定を求めるが、厚生省は2度とも拒否の回答をした。
 新宿区は厚生省に身元調査・鑑定を要求しても埒が明かないので、9月21日に当時の区長山本克忠が、区として独自に人骨の鑑定・身元調査を行うことを区議会本会議で表明した。
 鑑定はすぐには開始されなかった。新宿区が各研究者に打診すると、すぐに承諾が得られた。しかし彼らが所属する科学博物館や医科大学などに正式に依頼すると、館長や学長が断ってくるのだった。科学博物館は文部省の一部門であり、厚生省に配慮して鑑定を断ったのではないかと考える人もいた。また医科大学は付属病院を持っており、厚生省の意向に逆らうことは利益にならないのだろう、と指摘する人もいた。この間、新宿区の鑑定が進まないのは厚生省の無言の圧力があるためではないかと推測された。
 こうした状況のため、翌90年4月3日に人骨が鑑定抜きで埋葬されてしまうことを恐れる人々があつまり、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」(以下では「骨の会」と略記する)が結成された。会である以上代表を置く必要があるということで、筆者が代表を務めることとなった。

人骨の鑑定
 人骨の鑑定は紆余曲折を経て発見から2年後、新宿区の依頼で札幌学院大学教授の佐倉朔が1991年秋から行った。鑑定結果は「戸山人骨の鑑定報告書」(以下では「鑑定書」と略記する)として翌年4月に公表された。「鑑定書」はB五判で、本文18ページ、B4の表2枚、それに写真102枚からなっている。「報告書」の要約をさらに短くまとめると次のようになる。

 一,人骨が土の中にあった年数は数十年以上であるが、また百年以下である。
 二、人骨の数は頭蓋骨でみると62体分はあり、その他の部分を考えると100体以上にのぼる。
 三、性別は3対1で男性が多い。
 四、人種的にはほとんどがモンゴロイドであるが、単一ではなく、かなり多様な人種にわたっている。
 五、十数個の頭骨には脳外科手術の練習をしたような跡がある。それ以外の頭骨の中には銃で射ぬかれた
   跡のあるもの、切られた跡のある者、刺された跡のあるものがあった。

 ・・・

 これはどのように考えても、発見された人骨は医学の教育・研究機関と、そしてこの場合は軍医学校と、関わりのある骨である。人骨軍医学校とが関係あることは鑑定前から推測されていた(仮説)ことであり、今紹介した鑑定もそうした判断をしている(確認)。科学的には仮説が実験その他で確認され、それでひとつの事実となる。

・・・

 鑑定結果の公表で当初の警察の発表に少し疑問が生まれた。人骨は掘り出された直後に警察が鑑定し、土の中での経過年数を測定した。そのときに、「鑑定書」が明らかにした、人骨に実験あるいは手術の痕跡があったこと、銃や刃物で傷つけられた痕跡があったことを見落としていたのだろうかという疑問だ。もしそうだとすればずさんな鑑定だったということになる。
 もうひとつの可能性は、7月22日の朝発見され、公表が24日になされたが、その2日間でなんらかの隠ぺい工作がを行おうとすればできたということである。土地の管理者としての厚生省は、佐倉鑑定がスタートするまで、骨の管理者である新宿区に対して一貫して身元調査はする考えがなく、「すみやかな埋葬」を主張していた。初めから警察は厚生省の意向をくんで不十分にしか鑑定結果を発表していなかったとも考えられる。
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 日本軍は、撤退を余儀なくされたとき、また玉砕が避けられないと判断したとき、あらゆる証拠の隠滅を図った。第731部隊の撤退は象徴的である。日本軍の証拠隠滅は徹底していた。そして、その隠蔽の体質が日本政府にしっかりと受け継がれているように思えてならない。
 指摘される前に進んで調査し、事実を公表するとともに、適切な措置をとるべきであったと思う。
  



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背陰河(ペイインホー)の東郷部隊--------
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 1932年8月、2年間にわたるヨーロッパ視察旅行から帰国した石井四郎を主幹として陸軍軍医学校に防疫研究室が設立された。しかし石井は、この時すでに満州に部隊を創設し細菌戦(生物戦)の実地研究を行っていたという。秘密保持の必要のない防御のための生物兵器研究は陸軍軍医学校の防疫研究室で行い、日本国内ではできないような人体実験を伴う攻撃用生物兵器の研究は満州で行うというのが彼の基本的な考えであったのである。
 「標的・イシイ-731部隊と米軍諜報活動」常石敬一編訳(大月書店)によると、1932年8月に石原莞爾中佐(当時)の後任の関東軍作戦主任参謀となった遠藤三郎中将は『日中十五年戦争と私』の中で次のように書いているという。
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 1932(昭和七)年私が関東軍作戦主任参謀として満州(現東北)に赴任した時、前任の石原莞爾大佐から
”極秘裏に石井軍医正細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい”との依頼を受けました。寸暇を得てその研究所を視察しましたが、その研究所は哈爾賓(ハルビン)、吉林の中間、哈爾賓よりの背陰河(ペイインホー)という寒村にありました。高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造所を改造した所で、ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許されぬ気の毒なものでした。部隊名は「東郷部隊」と云っておりました。被実験者を一人一人厳重な檻にに監禁し各種病原体を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。その実験に供されるものは哈爾賓監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さない様に焼くとのことでありました。
 本研究は、絶対極秘でなければならず、責任を上司に負わせぬため作戦主任参謀の私の所で止め、誰にも報告しておりません。石原参謀から面倒を見てほしいと申送られましたが具体的に私のすることは何もありませんので、研究費として軍の機密費20万円を手交し目的を逸脱せぬ様厳重に注意しておきました。ところ或る時細菌の試験以外に、健康体に食物を与えて水を与えず、あるいは水を与えて食物を与えず、または水と食物を共に与えずして幾日の生命を保ち得るか等の実験もしていると聞き、本来の目的を逸脱した医学的興味本位の研究と直感し、石井軍医正を招致して厳重に叱責し、今後もし目的を逸脱した実験をするが如きことがあれば一切の世話を打ち切ると宣言したこともありました。
 その後在職期間さらに一回現場を視察しましたが試験場が整備されているほか格別変わったことはありませんでした。
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 背陰河の東郷部隊は、後の平房の「満州第731部隊」の前身であり、当初から人体実験をやっていたことが明らかにされているのである
。 


---------ハバロフスク裁判 731部隊孫呉支部長 西俊英の証言---------

 石井四郎の15年間にわたる研究の最大の成果は、体内にペスト菌を入れた”ペストノミ”を利用した生物兵器(細菌兵器)の開発であろうと言われるが、1940年夏の寧波(ニンポー)に対するペストノミを利用した攻撃について、西俊英はハバロフスク裁判で、下記のように証言しているという。
「標的・イシイ-731部隊と米軍諜報活動」常石敬一(大月書店)よりの抜粋である。
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 (答)。私は1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の活動に関する映画を見ました。先ず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。ついで、飛行機の翼に撒布器が取附けられている場面が映され、更に特別容器にはペスト蚤が入れてあるという説明があって、それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、誰が乗るか判りません。それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に向かって飛翔しているという説明があり、次いで飛行機は敵の上空に現れます。次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現れ、飛行機の翼から出る煙が見えます。次に出てくる説明から此の煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判ってきます。飛行機は飛行場に帰ってきます。スクリーンに「作戦終了」という字が現れます。ついで、飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、飛行機を消毒する様子が上映され、その後、人間が現れます。先ず飛行機から石井中将が姿を現し、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。この後「結果」という文字が現われ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。説明の中で、寧波附近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。最後に、終りの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。正に此の映画から、私は寧波附近で細菌兵器が使用されたことをはっきりと知るようになりました。
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 この映画は石井四郎が、陸軍上層部への宣伝用に作ったものであるという。(この攻撃で、99人のペストによる犠牲者が出たことを、中国保健省が発表している) 西俊英は第731部隊牡丹工支部の尾上正男支部長とともに、ソ連の捕虜となった孫呉支部の支部長で、ハバロフスク裁判の12名の被告の一人である。



----------731部隊調査報告書”サンダース・レポート”抜粋---------

 下記は、アメリカが日本の第731部隊の調査にあたり、関係者に報告書を書かせたり、関わった人間を直接尋問したりして把握しようとした内容の項目である。
「標的・イシイ(731部隊と米軍諜報活動)」常石敬一(大月書店)の「サンダース・レポート資料76」からの一部抜粋である。レポートの全内容がおよそつかめるものであると思う。
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全般的要求                               1945年8月20日
生物戦……情報局〔MIS〕、科学部
     化学戦部隊〔CWS〕、特別計画部
 日本の生物(細菌)戦のすべての面について情報がほしいが、とくに必要な項目は以下の通りである。
  生物兵器用病原体の研究・開発、製造
  生物戦における日本の攻撃および防御の手段
  生物戦用砲弾
  生物兵器の使用方法
 日本の生物戦情報でとくに必要なのは以下の通りである。
一、生物戦研究
 a、どんな機関【(一)軍(二)民間】が生物戦の活動を進め、そして支配していたのか。
 b、日本が生物兵器用病原体として使用をもくろんで実験していた微生物はなにか。以下の対象別に記せ。
 (一)人    詳細な技術情報を求む。
 (二)動物       〃
 (三)植物       〃
 c、細菌爆弾あるいは砲弾その他に充填していた、あるいはすることになっていた病原体はなにか。詳細な
  技術情報を求む。
 d、生物戦研究の中心となった大学およびその他の研究機関はどこか。それぞれが実験していた病原体はな
  にか。
 e、生物戦研究および開発にたずさわっていたのはどんな人物か(陸海軍人、医者、科学者、細菌学者、技
  術者その他)
二、生物戦の指令──日本の陸軍および海軍は生物戦に関してどんな指令をだしていたか。
三、生物兵器による攻撃のための訓練
 a、攻撃的兵器としての生物兵器の使用について各部隊(とくに挺身遊撃隊、謀略部隊、憲兵隊その他)で
  どんな訓練が行われていたか。
 b、この訓練を受けもった組織はどこか。
 c、攻撃的兵器としての生物兵器の使用法を教えられたのは陸軍および海軍(航空部隊も含む)のどの部隊
  か。
 d、日本軍が生物戦を実際に行ったのはそんな時にそして誰に対してか。
四、生物兵器使用法──生物兵器用病原体の散布方法として考えられていた、あるいは採用されていたのは
  どんな手段だったか(爆弾、砲 弾、噴霧その他)
五、対生物戦防御(生物戦に対する備え)
 a、対生物戦防御に関して採用されていた、あるいは考えられていた特別な方法は。軍隊の場合、民間人
  (都市)の場合
  (一)生物学的(免疫)
  (二)化学的(殺菌、消毒その他)
  (三)物理的(特別なガス・マスクおよび衣服)
 b、対生物戦防御を受けもっていたのはどんな部隊か(たとえば防疫給水部隊)。
六、生物戦用戦術──日本の生物戦の戦術および戦略について得られる情報はどんなものか。
七、生物戦情報
 a、日本は他国の生物戦についてどんな情報をもっていたか。それは日本の生物戦にどんな影響を与えた
  か。
 b、日本はドイツからなにか特別な生物戦情報を得ていたか。
八、生物戦の機密保持──日本の生物戦のすべての面についての情報を制限し制御するためにとられていた
  措置はどんなものだったか。
九、生物戦政策──生物兵器の使用(謀略的使用でなく大規模使用も含む)についての日本の政策はどんな
  ものだったか。
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 上記の項目にしたがって調査が進められ、まとめられたのが「サンダース・レポート」である。そして付録として下記のようなインタヴュー(すでに戦犯免責が決定していたため、戦犯としての証拠集めではないということで、”インタヴュー”という言葉が使われているようである)の内容を記録したものが多数付けられている。この時点では、日本側に真実を秘匿する姿勢が読み取れるのである。
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付録29-Aーa

主題──生物戦
日付──1945年9月20日
対象──出月三郎大佐、軍医学校防疫研究室室長、井上隆朝大佐、軍医学校細菌学教室室長
聞き手──M・サンダース・中佐、W・ムーア中佐、H・E・スキッパー少佐
 一、これら軍医は生物戦との関係を問われて、防疫研究室は防疫面の責任を負っていたと答えた。
 二、防御部隊についての問いには、それは防疫給水部隊(WPU)であるという答が返ってきた。
 三、野戦における生物戦部隊の組織と詳細を図示するよう求めたところ、以下のような図が示された。
       ┌──────┐  
       │ 師団司令官 │
       └───┬──┘
      細菌戦部隊(225人)
      (中佐あるいは少佐)
 四、各師団の防疫給水部の仕事は以下に示されるものだった───
  a、流行病の予防
  b、浄水
  c、疫学調査
 五、より大きな恒久的な施設をもった部隊ではワクチンの生産もっしていた。さらに各部隊とも攻撃の
   任務はなく、任務としては予防医学上の活動が考えられていただけだった、という事実が強調され
   た。
 六、師団の防疫給水部隊の装備は次の通りだった──
   濾水機(トラックに積み、モーターで動く濾過装置)4台──部隊によっては濾水機2台だけで、
   そのほかに水や物資の運搬にトラック28台をもっている場合もあった。
 七、軍の防疫給水部は師団のそれの二倍で、司令官は大佐だった。
 八、恒久的施設である本部の組織は軍や師団の防疫給水部隊のそれとは少し違っていた。恒久的施設で
   ある本部は次の場所に置かれていた──
  a、ハルビン(満州)
  b、北京(中国)
  c、南京(中国)
  d、広東(中国)
  e、シンガポール(マラヤ)
 九、以下のような質疑応答が記録されている──
問 検査を受ける濾水機はどこに置かれていたか。
答 軍医学校である。一部は爆撃を避けるために新潟に移された。
問 生物戦に対して防疫給水部以外の防御策もっていたか。
答 防毒衣とマスクだけだった。
問 防御手段としてガス・マスクについて研究したことはないか。
答 ない。
問 とくに対生物戦防御用の防御衣を作っていたか。
答 ペスト研究者用にのみ作っていた。
問 生物兵器によって攻撃されることを考えていたか。
答 考えていた。(出月大佐は、先の戦争ののち各国が生物戦の攻撃面の研究を行っていると聞いていた、
  とのべた。)
問 軍医学校では生物戦の攻撃面についてどんな研究をやっていたか。
答 なにもやっていなかった。生物戦の攻撃的側面についてはなにも研究していなかった。
問 攻撃された場合、最も使われそうだと考えていたのはどんな生物兵器用病原体だったか。
答 腸チフス菌および腸管系細菌である。
問 通常の注意で十分であると考えていたか。
答 我われは、日本兵の最大の弱点は各自の衛生に関してきちんとした知識をもっていないことだと考え
  ていた。この弱点のために、水を  沸かし食料の調達に注意することが力説された。
問 日本で生産されたワクチンの種類は。
答 a、腸チフス
  b、パラチフスA、パラチフスB
  c、ペスト
  d、髄膜炎
  e、発疹チフス
  f、ヲイル氏病
  g、天然痘
問 生物戦の攻撃面の研究はいっさい行われていなかったと理解すべきなのか。
答 攻撃に関する研究はなにもしていなかった。敵の攻撃を避ける研究だけやっていた。これらの研究は
  軍医学校で行っていた。
問 どんな防御の研究をしていたのか。
答 各地域の風土病の研究であった。たとえば満州では発疹チフス、中国南部ではマラリアの研究である。
問 生物戦用爆弾についてなにか知っているか。
答 なにも知らない。
問 我われは日本が生物戦用爆弾を保有しているというレポートをそれぞれ独立の情報源から得ている。
  この爆弾の特徴については全レポートが一致している。
答 これは戦略的(?)事実である。これは我われの責任範囲外のことであり、当然のことながらそれに
  ついてはなにも知らない。
問 これについて知っているのはだれだ。
答 参謀本部の人間である。
問 参謀本部のだれだ。
答 我われは知らない。
問 攻撃面の知識なしに、どうやって実効の上がる防御の研究ができるのか。
答 一般的な措置はとれると信じていた。
問 防御についての研究の記録類をみせてもらいたい。
答 建物のほとんどが焼失し、それとともに生物兵器について書かれていた医学研究の資料も失われた。
 十、インタヴューはこれで終わり、日本の軍医たちは戦略、そして攻撃の研究について権限と責任のある
   参謀本部の人物をつきとめるよう積極的に努力すると約束した。
 評価──これは生物戦についての最初の会談だったが、まったく不満足なものだった。日本の軍医の言
   っていることが本当なら、この側面の防御はまったく稚拙で粗っぽいものである。出月および井上
   両大佐が召喚されたのは、特定の活動にたずさわっていた将校としてインタヴューすることを率直
   に求める現在のGHQの方針によるものだった。こうして彼らは生物戦に関係していた将校として
   求められ、それに応じたものだった。
    生物戦の研究についての話の内容が腸管系の病原体に限られ、風土病が強調されていたことに注
   意する必要があろう。情報不足は否定しえないが、これらの言明が我われの情報活動によるレポー
   トと一致することが興味深い。また防疫給水部と生物戦とは結びついているというレポートとも一
   致している。
    本インタヴューは不満足なものであり、陸軍省の医務局長を召喚することに決定した。


----------731部隊調査報告書”トンプソン・レポート”抜粋---------

 下記は、アメリカが日本の731部隊について調査した第2次の報告書である。この時には、まだ731部隊の実態を正確に把握していなかったようである。「標的・イシイ(731部隊と米軍諜報活動)」常石敬一(大月書店)からの一部抜粋である。
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陸軍補給部隊
キャンプ・デトリック 
フレデリック、メリーランド

            日本の生物戦研究・準備についてのレポート

報告──アーヴォ・T・トンプソン獣医中佐
1946年5月31日

        序文
 本レポートの調査は、1946年1月11日から1946年3月11日まで行われた。これは1945年12月26日付のワシントンの高級副官部〔AG〕室から東京のアーヴォ・T・トンプソンへの手紙による行動命令AGPOーAーOー201の第1項にもとづいて行われた。

        目次
  一、要約
  二、結論
  三、日本の生物戦研究・準備についてのレポート
   補遺一、ハルビン地区の見取図
   補遺二、
    a、関東軍防疫給水部の組織図
    b、関東軍防疫給水部の任務の概要
   補遺三、
    a、ハルビン研究所の平面図(石井)
    b、ハルビン研究所の平面図(北野)
    c、平房施設の平面図(石井)
    d、平房施設の平面図(北野)
    e、平房研究所で行われていた業務の概要
   補遺四、 
    a、イ型爆弾の詳細  
    b、ロ型爆弾の詳細  
    c、ハ型爆弾の詳細 
    d、ウ型爆弾の詳細  
    e、旧式宇治型爆弾の詳細
    f、ガ型爆弾の詳細
    g、宇治五〇型爆弾の詳細

        要約
日本の生物戦研究・準備
 一、日本は軍の手で生物戦の攻撃と防御の両面において大規模な研究を行っていた。日本海軍の生物戦
   への関心は防御面に限られていたようである。
 二、日本陸軍の生物戦研究・開発は主に石井四郎中将によって支配され動かされていた。この活動の遂
   行は正式の命令を受けておらず、軍陣予防医学のひとつとして行われていたと述べているが、研究
   の進捗状況からみて、生物兵器研究・開発がすべての面について大規模に行われていたこと、およ
   び陸軍最高幹部の公式の認可と支援があったことは明白である。
 三、ソ連や中国による生物兵器の謀略的使用に対し防御手段を開発する必要があったという申し立ては、
   石井が日本において生物戦研究・準備を行うために展開した論理であった。攻撃的武器としての生
   物兵器の開発はまったく考えていなかった、と彼は強調した。
 四、満州ハルビン近郊の平房の施設は主要な生物戦の研究と開発のセンターだった。同じ分野の研究は
   東京の陸軍軍医学校で行われていた。生物戦は軍事上の問題で極秘事項のため、民間の科学者およ
   び研究施設は動員されなかった。
 五、生物兵器用病原体として考えられていたのは、ウィルスやリケッチアのほかに、腸ーパラチフス、
   コレラ、赤痢、炭疽、鼻疽、ペスト、破傷風それにガス壊疽の病原体であった。野外実験に使われ
   たのは病原性のない菌と、人獣共通の病原体、すなわち炭疽菌と鼻疽菌の二種類に限られていた。
 六、日本が研究していた生物兵器用病原体の散布方法には、爆弾、砲弾、飛行機からの噴霧、および謀
   略的手段があった。病原体の効果的な散布手段開発の中心が爆弾の開発であったことは明らかであ
   る。そのため1940年までに飛行機から投下する爆弾が9種類開発され、試験された。その中に
   は地面を汚染するもの細菌の雲を作るもの、それと破片による傷口から感染を起こすための破片爆
   弾などが含まれていた。
 七、砲弾は多目的用の砲弾を生物兵器散布用に改造したものについて予備的な実験が行われただけであ
   る。砲弾による散布は実用的ではなかった。飛行機からの噴霧も数回の予備的実験の結果同じ結論
   に到達した。
 八、ハ型爆弾と宇治五〇型爆弾は平房で開発された散布手段の中で最も有効なものと考えられていた。
   両方ともいくつかの大きな欠点があったが、石井は爆弾専門家の手でこれらの欠点を直し改良を加
   えれば、どちらも有効な生物兵器となりえた、と信じている。
 九、防疫と濾水の強化が生物戦に対する最も有効な防御策である、と日本は考えていた。防疫給水部の
   各本部および支部が戦場での伝染病の発見、予防、それに流行の制圧の仕事を受け持っていた。憲
   兵は生物戦発生の可能性の調査、証拠の収集、それに謀略工作員の逮捕といった補助的な仕事を行
   った。
 十、日本は生物戦の攻撃面の研究・開発で大きなシンポを達成しているが、結局実用的な武器として生
   物兵器を使用するまでにはいたらなかった。

        結論
 調査担当者の意見は次の通りである──
 一、日本の生物戦研究・準備について、おのおの別個とされる情報源から得られた情報は見事に首尾一
   貫しており、情報提供者は尋問において明らかにしてよい情報の量と質を指示されていたように思
   える。
 二、情報のすべてが記憶にもとづくものとされているのは、すべての記録は陸軍省の命令で破棄された
   と言われているためである。しかしいくつかの情報、とくに爆弾の図面は非常に詳細で、証拠書類
   が破棄されたという説明には疑問がある。
 三、尋問全体を通じて、生物戦における日本の研究・準備、とくに攻撃面の研究・開発の規模を小さく
   みせたいというのが彼らの願望であることは明白である。
 四、軍だけで生物兵器の研究・開発をし、民間の科学力を全面的に動員しなかったことは、軍の各部門
   との協力を欠いたことと相まって、生物兵器を実用的な武器として開発するうえで障害となった。
 五、生物兵器が実用化されていても、日本がそれを使ったとは思えない。すなわち彼らは化学兵器によ
   る報復を恐れていた。知りえたかぎりでは、日本はアメリカの生物戦研究・準備についてなんの情
   報ももっていなかった。
 

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