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-------------原爆投下のために利用されたポツダム宣言-------------

 アメリカに「神様、原子爆弾をありがとう」という題名の有名なエッセイがあるという(ポール・ファシル)。原子爆弾が、最後に残った枢軸側の日本を降伏させ、戦争を早く終わらせることによって、無数のアメリカ人の生命を救ったが故に「ありがとう」というわけである。
 また、スミソニアンの国立航空宇宙博物館が、原爆被害やその歴史的背景も含めてエノラ・ゲイの展示を企画した時、それを強く批判し非難した人たちは、広島と長崎の爆弾投下は「道義的に非の打ちどころがない出来事のひとつ」だと主張したり、「第2次世界大戦におけるエノラ・ゲイの役割は、第2次世界大戦に慈悲深い終結をもたらす助けをした点できわめて重要だった。それは日米両国の人命を救う結果となった」などと主張したことが広く知られている。そして、そうした考えに基づく組織や団体の強い抗議によって、展示は原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小されたのである。

 しかし、多くの日米の歴史家や原爆の研究者が明らかにしている原爆投下に関わる歴史的事実からは、そうした認識は生まれようがない。鳥居民氏が、その著書(草思社文庫)の題名で表現したように「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」というのが実態であり、まさに、アメリカのモラル・ハザードが問われる対応であった。
 ここでは、「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)の中から、アメリカが効果的に原爆を投下しようと、ポツダム宣言をさまざまな形で利用した事実を明らかにしている部分を抜粋した。

 ポツダム宣言は、発表の時期も、発表の内容も、発表の仕方も、「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」というような意図を持って決定されていったと考えられるのである。
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                            第4章 ポツダムの暑い夏

 ポツダムでの”ねじれ現象”

 これで分かるように、ポツダムで終戦前夜に起きた2つの出来事、すなわち、ポツダム首脳会談の開催と、ポツダム宣言の発表には、複雑でこの上なく入り組んだ当時の国際情勢がつきまとっている。まるで現代史のクイズの集大成のような感さえある。「ポツダム会談」と「ポツダム宣言」をめぐる問題点を、若い読者のために数え上げることから話を始めよう。


(イ)ポツダム首脳会談とポツダム宣言参加国は別々である。
(ロ)ポツダム首脳会談では、「日本」は正式議題としてとして討議されることはなかった。
(ハ)ソ連の対日参戦の意向は、三国首脳会談の席上ではなく、米ソ首脳間の非公式会談でアメリカ側に通告され、トルーマン
   大統領を当初大いに喜ばせた。
(ニ)ポツダムでは、2つの「ポツダム宣言」が発表された。
(ホ)日本に対する米、英、中国の「ポツダム宣言」には、三首脳揃っての正式署名がない。
(ヘ)アメリカは当初、ソ連を「ポツダム宣言」の原参加国に加える構想を持っていたが、原爆実験の成功を見て、最後の瞬間
   にソ連をはずし、中国を繰り入れた。


 ・・・

 第1の「ポツダム宣言(The Potsdam Declaration)」は、敗戦ドイツの分割占領を含む戦後欧州のあり方を米、英、ソ連で協議した内容を明らかにしたもので、首脳会談が終了した8月2日未明に三国首脳の連盟で発表された。

 第2の「ポツダム宣言(The Potsdam Proclamation By The Heads of Government、United States、China、and the United Kingdom)」は、日本に無条件降伏を要求する最後通告で、アメリカのトルーマン大統領によって7月26日に発表された。

 これで分かるように、ポツダム首脳会談の途中と、その終了にそれぞれ「ポツダム宣言」が発表されており、参加国は入れ替わっている。最初の「Potsdam Declaration」に使われた「declaration」は、1689年の英国の「権利の宣言」、1976年「アメリカ独立宣言」などに使われているように、「宣言」と伝統的に訳されてきた。

 一方日本向けに出された最後通告、「Potsdam Proclamation」の「proclamation」は、「宣戦布告」などに使われる「布告」とか、「公告」の意味で使用されることが多い。ただし、日本では戦後、こちらのほうが人口に膾炙しているため、後者を「ポツダム宣言」と呼び、首脳会談のまとめの宣言は、「ポツダム協定」の名で呼んで区別するのが現在では一般的になっている。



原爆に”連動”したポツダム会談

 ポツダム首脳会談の開催期日を事実上決めたのは、トルーマンン米大統領である。だが、それだけではなかった。開幕と閉幕のタイミングには、深く秘められた2つの思惑があった。会談開幕のタイミングが、当時間近に迫っていた史上初のアメリカの原爆実験と緊密に連動していたことが一つ、この会談の閉幕が、トルーマンンの胸中では、日本政府による無条件降伏受諾の最終期限、とひそかに設定されていたことがもう一つである。後者はそのまま、日本への原爆投下の解禁期限となった。


”宣伝文書”扱いのポツダム宣言

 ポツダム宣言の政治、外交、軍事的意義について、詳しく検証していく前に、これまで見過ごされてきたいくつかの問題点に触れておこう。
 その第1は、トルーマン大統領の回想にも表れているように、アメリカ政府がポツダム宣言を、日本政府に降伏を要求する正式の外交文書とは当時見なしていなかった、ということである。
 参加する各国首脳立ち会いのもとに国際社会に発表する従来の慣例とは違い、トルーマン大統領は、首脳会談の会場のツェツィリエンホーフ宮ではなく、アメリカ政府代表団の宿舎で、他の2カ国の代表を交えずに報道陣に宣言文を発表した。宣言文のコピーは、アメリカでの記者発表の慣行として、その2時間も前に配布されていた。米政府代表団は、留守を預かる本国のホワイトハウス事務局に、宣言のテキストを至急送って、国内報道機関に対する宣言の配布を指示することはせず、事前に宣言発表の連絡すらしなかった。

 代表団がポツダム宣言の全文を送った本国での相手は、第2次大戦の広報と宣伝を担当する米政府の「戦時情報局(OWI)」であった。大統領はそのさい、あらゆる方法によって、この宣言を日本国民に周知徹底させるようOWIに命じた。アメリカ国民への報告よりも、日本への宣伝攻勢が優先したわけである。


 なお、日本国に即時の無条件降伏を呼びかけながら、日本政府には、中立国を通じるなどして、宣言の文書を送達する手続きが一切とられなかった。

 ・・・

面食らったホワイトハウス留守部隊

 そのエアーズ大統領副報道官が、ポツダム会談をめぐるホワイトハウス(バーベルスベルクとワシントン)の動きを記録したものを邦訳から紹介しよう。なお、日記はこの期間は毎日ではなく、一週間まとめて書かれている。括弧内は引用者の注である。

 7月22日、日曜日 ー 28日、土曜日

(前略)ポツダム会談で、行き当たりばったりのニュース発表のやり方を象徴する出来事が起こった。トルーマンとチャーチル両首脳は、日本に対する共同発表または最後通牒について合意したようだった。しかし私は、その件について事前通告を受けていなかった。不意をつくように、ホワイトハウスのマップルーム(作戦会議室)に、この共同発表の本文とともにメッセージが届いた……。ホワイトハウスあてでも私(エアーズ)あてでもなかったが、「大統領よりOWIあて」と書いてあった。そして、発表文を公表するように、との指示があった。OWIは指示を受け、不意打ちをくらって、どうしたらいいか、わからないようだった……。


 一方、ロス(大統領報道官)が、ベルリンで発表を行い、短い雑報が通信社電で流れると、それを(イギリス)BBC放送が取り上げ、それがアメリカの夕刊に掲載された。
 私はロスにメッセージを送り、状況確認を試みた。その結果、大統領からのメッセージ(注、ポツダム宣言)は、もともと国内発表向けではなく、ただちに対日放送用に準備すべくOWIに送られたもので、ベルリンの(各国)マスコミに流す以外、国内発表など考えていなかったことが判明した。


 記者たちは、何が起こったのか興味津々で、OWIがホワイトハウスの代行をしているなどと冗談をいうものもいた。(後略) 
 
  トルーマンンはポツダム宣言の発表を、留守部隊とはいえ、ホワイトハウスへ事前に連絡する労さえとらず、エアーズ副報道官を面食らわせたことが、日記からあざやかに浮かび上がる。この宣言の狙いは、まず日本への宣伝攻勢であり、ホワイトハウスでも国務省でもなく、一介の戦時情報局がポツダム宣言を担当する”主管官庁”とされた。ポツダムに特派員を送る資力のないアメリカの中小新聞は、「ベルリン発の英BBC放送によれば」という、いくらか気恥ずかしい書き出しで自国大統領によるポツダム宣言発表の第一報を、7月27日の夕刊に掲載するほかなかった。



”宣伝文書”になったポツダム宣言

 ・・・

 こうした背景の中で新大統領は、敗戦前夜にある日本国民に対するポツダム宣言の政治的。軍事的、さらには外交的効果を盤石なものにすることによって、太平洋戦争のよりすみやかな終結を手繰り寄せたかも知れない貴重な切り札を、次々と放棄していった。このため、せっかくの宣言の意味が大幅に薄められ、外交宣伝文書に近いものにまで後退してしまう。

 雑誌『ルック』や『コリアーズ』(いずれも現在は廃刊)の編集長をつとめたジャーナリストのロバート・モスキンは、1996年に出版した『トルーマンン氏の戦争』の中でこう指摘している。
「日本に圧力をかけて、戦争をやめさせるのにきわめて重要なこの2つの情報(日本への原爆使用とソ連の参戦)を、ポツダム宣言が活用しなかったのは、とりわけ奇妙である。
 というのも、トルーマンンはそれまで、ソ連の対日参戦が再確認され、原爆実験の成否が判明するまではポツダム宣言の発表を先延ばしにすると言い続けてきたからだ。トルーマンンとバーンズは、日本に無条件降伏を要求し続けてきたが、日本での(戦争継続派の)抵抗を無力化するこれらの非常に重要な材料を利用しなかった。ポツダム宣言は、アメリカ大統領が、無条件降伏以外は受けつけないのか、天皇の地位の維持という問題を(降伏)条件からはずすつもりがあるのかどうか、について日本国民に何の手がかりも与えなかったのである」


 モスキンだけではない。歴史家レオン・シーガルは、戦後間もない1948年に出版された『決着をつけるための戦争──日米戦争の終結をめぐる政治』の中で、やはりこの点に注目して、次のように鋭く批判する。
「日本が直面するはずの最も恐るべき脅威をポツダム宣言から省略することで …… バーンズ国務長官は、この最後通告(ポツダム宣言)から導火線を取り外してしまった……。バーンズがそうした行動をとったことで、宣言はほとんど新味のないものになってしまう。それは日本に対する和解のジェスチャーでもなければ、最後通告でもなく、単なる宣伝に堕したのである」

 現在の時点から振り返ってみると、ポツダム宣言は次のような4つの点で重要この上ない問題──欠陥といってもよい──をはらんでいた。トルーマンン大統領を頂点とする当時のアメリカ政府首脳部が、これらの問題について、多分に感情的な要素に支配されていた当時のアメリカ世論に完全に身を任せることなく、戦争の早期終結と、戦後世界の再建を最優先課題に、思い切った指導力を発揮していたら、ポツダム宣言はもっと合理的で現実的な内容となり、その結果、終戦の期日が早まることで、当時の日本を襲った悲劇のいくつかは、起きずにすんだかも知れないのである。

(1)「無条件降伏要求」へのこだわり。日本の敗北が誰の目にも明白になったときに、トルーマンン大統領は終戦を最優先
   にする方策をとらず、真珠湾攻撃などへの報復にこだわり、あくまでも日本に”無条件”降伏を要求し続けて、結果的に
   戦争を長引かせた。
(2)敗戦必至の日本が唯一求めた天皇制の存続という要望を、米政府最高首脳部が、最後のギリギリまで無視し続けた
   こと。すぐれた暗号解読技術によって日本の外交電報をほぼ完全に傍受し、日本が天皇制の維持継続という”象徴的”
   な条件だけで降伏に傾いているのを知りながら、ポツダム宣言で柔軟な対応をするのを避け、早期終戦の可能性を逃
   した。
(3)ソ連の対日参戦と、これと有機的に結びついたソ連のポツダム宣言参加という基本方針を、アメリカが土壇場で放棄し
   たこと。日本の陸軍など戦争継続派も、ソ連の参戦をきわめて警戒しており、ポツダム宣言に最初からソ連の名を連ね
   ておれば、降伏が早まった可能性が少なくなかった。
(4)原爆投下に先立って、示威のためのデモンストレーションを行い、日本の降伏を待つといった”分別ある考慮”を払わな
   かったこと。もしこうしたやり方が非現実的というのなら、ポツダム宣言に、人類史上初めてという恐るべき新型兵器の
   保有と、日本への実戦使用の意図を明白な表現で警告することもできたはずであった。


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原爆投下決定と原爆投下命令の諸問題---------------

 すでに『「ポツダム宣言」発表前の原爆投下命令』で取り上げたように、原爆投下命令が発せられのは、1945年7月25日であり、 「ポツダム宣言」(1945年7月26日)発表前である。その命令書は、陸軍参謀総長局参謀総長代理トマス・ハンディ(陸軍大将)署名の米陸軍戦略航空隊司令官カール・スパーツ(陸軍大将)宛てである。この命令の存在は、日本がポツダム宣言を「黙殺」・「拒否」したので原爆投下に至った、という一般に語られている筋書きと矛盾するものである。

 その命令書には、
陸軍長官と(マーシャル)参謀総長の命により、かつその承認のもとに、貴官に出されたものである。貴官がこの指令の写し各一部を(西南太平洋軍総司令官の)マッカーサー陸軍元帥と、(米太平洋艦隊司令長官の)ニミッツ海軍元帥に対し、情報として自身で手交されるのが望ましい…”
とある。また、
”第20空軍第509混成群団は、1945年8月3日ころ以降、天候が有視界爆撃を可能にするようになり次第、最初の特殊爆弾(原爆)を、次の目標のうちの一つに投下すること。広島、小倉、新潟、長崎。…”
とある。したがって、日本軍を直接相手にしている現場のマッカーサーやニミッツが原爆投下計画には関わっていないことが察せられる。それだけではなく、この命令書は、日本の降伏に関わる動きに全く触れておらず、投下中止の可能性がなかったことをうかがわせる。

 また、原爆投下後にトルーマン大統領は声明を発したが、その声明文の草案はスティムソンによって事前に作成されていた。原爆投下準備の進捗に合わせ、その一部を修正したものが、ワシントンからポツダムのトルーマン大統領に送られた7月30日時点で、スティムソンは鈴木貫太郎首相の「黙殺」発言(7月28日)を知っていたにもかかわらず、そのことには全く触れなかった。

トルーマンは、その回顧録で
「(前略)7月28日、東京放送は日本政府が戦争を継続するであろうと発表した。アメリカ、イギリス、中国による合同の最後通告に対する正式回答はなかった(nofoemal reply)。いまや他の選択はなかった。日本がその日までに降伏しない限り(原子)爆弾は8月3日以降に投下される予定になっていた(後略)”
と書いている。鈴木貫太郎首相が記者会見でおこなった言明を知りながら、正式回答はなかったというのである。「黙殺」発言を正式回答とは受け止めていないということであろう。

 ところが、トルーマンは、原爆投下後、一転して日本のポツダム宣言拒否を原爆投下の理由とする。
 以上のようなことから、トルーマンと側近のアメリカ首脳部にとっての中心課題は、「日本の降伏」ではなく、「原爆投下」であった、と推察される。
 そして、スティムソンから
グローブスの計画の時間表が、まことに迅速に進行しているので、閣下が発表される声明が、遅くとも8月1日の水曜日までに当地(ワシントン)に届くことが、今や必要不可欠になりました。この声明の草案は以前にお見せしましたが、今回次の諸点をかんがみて、小職が修正しました。
(イ)細菌大統領が発表された最後通告(ポツダム宣言)
(ロ)核実験の劇的な成果
(ハ)英国が提案した小さな修正点
 閣下の手に届くよう、明日(修正済み草案の)コピーを、特使に持たせて行かせる予定ですが、万が一にも到着が間に合わない場合は、必要が起き次第こちらのホワイトハウスから修正入りの大統領声明を発表することで、閣下の権限を委任していただければ幸甚です。周囲の状況からこの緊急措置が必要となったもので、恐縮しています

という電報をポツダムで受け取ったトルーマン大統領は、すぐに

Reply to your 41011
Suggestions approved
Release when ready
but not sooner than
August 2
HST
(訳) 陸軍長官あて
貴電41011号への回答
提案(複数)を了承する
状況到来次第公表されたし
ただし早くとも
8月2日以降とする
HTS(ハリー.S.トルーマン)


と返し、ポツダム首脳会談閉幕日以降の原爆投下と、その声明の発表を承認しているのである。日本の降伏に関わる動きは、全く考慮されることなく、原爆投下計画が進んだといえる。
「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」と言われる理由は、そこにある。

 その他にも、原爆投下には、下記に指摘されているような
”4つの問題点”がある。「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)から抜粋した。
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                           第7章 重慶への至急電報

 原爆投下と、”分別をつくした熟慮”

 ここで、ポツダム首脳会談の動静を追うのをしばらく中断して、少し回り道になるが、日本への原爆投下について、これまであまり取り上げられなかった4つの問題点
(イ)原爆の破壊力の本質に対する米軍首脳部のあいまいな認識
(ロ)最新の日本関連情報を関係者に知らせないままの原爆使用決定
(ハ)”軍事都市”かどうかの検証のないままの投下目標都市の選択
(ニ)投下目標から京都を除外した政治的理由

 終戦から一年近く前の1944年9月19日、当時のローズベルト大統領が、ニューヨーク州ハイドパークの自宅にチャーチル英首相を招いて行った2人だけの首脳会談で、原爆の使用について秘密の覚書を交わしていたことが、戦後明らかになっている。その中で両首脳は、「それ(原爆)が利用可能になれば、分別をつくした配慮をしたのち、ことによると(mightperhaps)日本人に使用されることになるかも知れない」と書いていた。


 ・・・

 7ヶ月後米大統領はトルーマンに代わっていた。”人間らしさ”を踏まえたハイドパーク協定は、名実ともにきれいに忘れさられてしまう。
 最初の問題点は、原爆の破壊力の本質に関する米軍部の認識が、ごく一面的だったことである。
 グローブス少将や側近は、通常(TNT)爆弾に換算して最大2万トンにも達する原爆の破壊力をほぼ正確に予測していたが、軍事的効果の源泉を、巨大な「爆風」によるものと考えていたという。原爆投下の政策決定過程を研究している米スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授は、グローブスらが当時、原爆は地表はるか上空で爆発させられるため、主としてその爆風(blasteffect)によって物的被害がもたらされると想定していた、と書いている。このため、原爆の命中精度がかりに最低であっても、最大限の数の住居や工場を修復不能な程度にまで損害を与えうる、と彼らは考えていた。


 ・・・  

 現在十分な資料が残っていないものの、オッペンハイマーが提起したこの放射能被害の問題を詳細に検討しようとした「目標選定委員会」のメンバーは、一人としていなかった、とバーンスタイン教授は述べている。

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材料を与えず原爆使用論議をさせる

 二つ目の問題点も、これと通じるものがある。
 原爆の使用に関する米大統領の最高諮問機関の「暫定委員会」(委員長はスティムソン陸軍長官)の下部機関として設置された4人の著名な科学者からなる「科学問題特別諮問委員会」というのがあった。アーサー・コンプトン(ノーベル物理学賞)、前記のオッペンハイマー、エンリコ・フェルミ(ノーベル物理学賞)、アーネスト・ローレンス(ノーベル物理学賞)がそのメンバーである。

 そんなとき、原爆を事前警告なしに日本に投下する動きを見て、ジェームス・フランク、レオ・シラードらの著名な物理学者たちがつくる科学者の委員会が7月11日に報告書を発表した。
 報告書は、原爆の使用についての決定を軍に委ねるべきではない、とし、最高指導者(大統領)が、この問題を慎重の上にも慎重に考慮すべきである、と述べる。そして、原爆は実戦で使うのではなくて、国連のすべての国の代表を招いて、砂漠か不毛の島で、原爆の示威実験を行うよう提案した。


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 だが、問題は諮問委員会の結論の内容というよりも、そうした結論を出すのを余儀なくさせた政府の姿勢にあった。この4人の超一流の物理学者たちは、原爆の実戦使用か、非軍事的(平和的)な公開実験かの論議をするのにあたって、必要な討議資料を何一つ政府から提供されていなかった。当時の日本の軍事的敗北は、このままでも時間の問題になっていること、早期終戦を望む平和勢力があり、その一部はソ連その他に働きかけて、和平の仲介を要請してたこと、11月には米軍の九州上陸作戦が予定されており、この作戦が成功すれば日本はたぶん降伏すると米軍首脳部が予測していたことなど、内外の政治・軍事情勢がそれである。メンバーが全員物理学者というのに、近く実験が行われる原爆の兵器としての威力さえも知らされていなかった。バーンスタイン教授によると、戦後になって、これらの科学者たちの何人かが、以上のような事実をしぶしぶ認めたという。オッペンハイマー博士は、とりわけ辛辣な口調で、「軍事情勢など、豆粒ほども知らなかった」と回想している。


原爆投下とモラル・ハザード

 原爆の投下目標を選ぶさい、”軍事都市”かどうかの厳密な検証が、米軍上層部の手で一度も行われなかったという第3点は、終戦前夜の軍人たちの倫理観の荒廃ぶりを見せつける。最近の言葉でいえば”モラル・ハザード”が蔓延していた。政治家出身のスティムソン陸軍長官は、45年に入ると米空軍の猛烈な都市爆撃によって、多数の民間人が犠牲になっていることに心を痛めていた。そして、民主主義の先進国を自負する米国だけは、ヒトラーをも上回る残虐な行為を行ったとの汚名を着せられたくない、と考えていた。しかし、そのスティムソンが委員長をつとめる「暫定委員会」は、原爆の投下目標の選定について、一度も厳密なガイドラインを明示したことはなかった。その下部機関の「目標選定委員会」も、数多くの日本の都市を原爆投下の目標として検討したが、広島は「通常爆撃で手つかずのままになっている最大の目標」、八幡は「鉄鋼産業で知られる町」といったごく一般的な描写ばかりで、綿密な資料を突き合わせた上で、どの程度の”軍事都市”なのかといった検討はなかった


 「目標選定委員会」は結局、原爆の軍事的効果だけを投下目標選定のほとんど唯一の基準にし、原爆が”恐怖の兵器”として認識されることを最重要と考えた。そして、日本に対して最大の心理的影響を与えるとともに、アメリカがこの新兵器を保有したことを全世界、とりわけソ連に認識させるような形で使用されるべきだと強調したのである。

・・・

京都が除外された本当の理由

それでもスティムソンは、戦争末期のアメリカが、いつの間にか”戦争への情熱とヒステリー”に取りつかれている、と感じ、これを食い止めようと力をつくしていた。
 老いたるドン・キホーテのようなスティムソンのところへ、7月21日、神経を逆撫でするような電報がワシントンから届いた。腹心のハリソン補佐官からで、グローブス陸軍少将ら現場幹部からの露骨な圧力に突き上げられて、やむなくその要望を取り次いだものである。
「グローブス将軍はじめ、当地ワシントンの空爆作戦担当者たちは、日本での原爆投下目標の4都市の中で、長官が除外するよう関心を示してこられた京都への投下をとりわけ望んでおり、出撃当日の日本上空の気象条件いかんでは、これを投下目標の第1目標にしたいと希望しています」
 頭にきたスティムソンは、折り返しこれを厳しく却下する至急の返電をワシントンに打たせた。いわく
「小職の決定を変更すべき要素は見当たらず。それどころか、当地(ポツダム)での新しい要素がこれ(京都爆撃回避)を確認しつつあり」
「当地での新しい要素」の内容は具体的に書かれていないが、日本がすでに敗勢を認め、ソ連を通じて懸命の和平工作に乗り出したことを、スティムソン長官は「マジック」の暗号解読を通じて十分知っており、こうした状況を指したものと思われる。実は、これこそスティムソンが原爆投下目標から京都を除外するに、あれほど強く固執した政治的、外交的背景であった。


 京都が原爆の投下目標として”魅力的”とされたのは、第1に百万の住民の住人口密集地帯であること、第2には日本の古都かつ学術都市として、日本の知性の一大中心地であり、原爆の衝撃を住民がより正確に理解すると考えられたこと、などによる。
 5月28日に開かれた目標選定委員会の第3回会議でも、京都は広島と長崎を押さえて、依然投下目標リストのトップに置かれた。

 5月31日の委員会では、スティムソンとグローブスが公然と対立した。神社仏閣が多い古都の京都に原爆を投下すれば、アメリカは日本国民の反感を買い、戦争継続の意思をかえって強めることになる、として、スティムソンが投下目標リストから京都を削除するように主張する。だが、グローブスは上司を前に一歩も引かない。グローブスの先輩で、陸軍からの”空軍”の独立に執念を燃やしているアーノルド陸軍航空隊総司令官(元帥)までが、京都は軍事活動の拠点である、と主張してグローブスの肩を持つ有様であった。


 困り果てたスティムソン長官は、このときの議論を踏まえて、ホワイトハウスを訪ね、京都を原爆攻撃すれば、アメリカは全世界からヒトラーと同じレベルの野蛮人と見なされてしまう、との持論でトルーマンンに訴えた。大統領もこれに同調し、議論はいったん終止符を打ったかに見えた。しかし、グローブス以下の軍官僚たちが、「京都」を全然あきらめていなかったことを、7月21日のハリソン補佐官からの電報がハッキリ示していた。

 ・・・

 こうしてスティムソン陸軍長官の強力な政治的介入により、京都は原爆の攻撃目標からはずされたが、現在の時点から振り返ってみると、より多くの問題点が見えてくる。
 第1に、京都が目標リストから除外されたため、長崎が繰り上げられてリストに入り、8月9日に第2発目の原爆を投下された。悲劇の犠牲者が入れ替わっただけであった。
 第2に、スティムソンの動機は、京都市民の生命というよりは、この町に残る過去の遺産を救済する(バーンスタイン)ことにあった。原爆によるこうした歴史的遺産の破壊が、日本人憤激させ、のちになって日本がソ連と組むようになる可能性を、この老練な政治家は懸念したのである。


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 スティムソン陸軍長官が、ポツダム首脳会談開催の前夜の7月16日にトルーマンン大統領に長文の覚書を提出し、「日本との戦争の進め方」についての意見を詳しくのべていたことはすでに紹介した。スティムソンはこの中で、日本がソ連に接近を試みている、との最新のニュースに大きな関心を見せている。さらに、7月24日「スティムソン日記」はもっと端的にこう書いている。
「(前略)こうした野蛮な行為によって生まれるかも知れない(日本国民の)苦々しい感情は、戦後の長期間にわたってアジア地域で、日本人たちがロシア人とではなく、アメリカと和解するのを不可能にしてしまうこも知れない。われわれの政策は、ソ連が満州に進攻した場合、日本がアメリカ寄りになることを必要としているが、こうした(京都への原爆投下のような)やり方は……そうしたアメリカの政策の実現を阻害する可能性がある(後略)」


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原爆投下 米軍「作戦計画の要約」 第509混成群団------------

1945年7月25日に原爆投下命令が発せられた後、ポツダム滞在中のトルーマンン大統領から、ワシントンのスティムソン陸軍長官に対し、8月2日以降の原爆投下とその大統領声明発表承認のメモが届く。それを受けて、それまで実物を模したパンプキン爆弾で訓練を続けていた陸軍第509混成群団を率いるポール・W・ティベッツ(Paul・W・Tibbets)のもとに、ルメイ将軍の署名の入った原爆投下命令書が届く。8月3日である。下記はその命令に関わる「特殊爆弾(原爆)任務13号」である。ティベッツに出されていたそれまでの12回の指令は投下テストであったが、この13号が実戦指令である。

 ティベッツは、1944年9月にコロラド・スプリングスで、P・D・エント第2航空軍司令官から、原爆投下の特殊任務について指示をうけたという。エント司令官は、ネブラスカ州の基地の1箇戦隊のB-29を提供し、それを中核にして「君が思うとおりの組織を作り上げるとよい」と指示したという。それを受けて、ティベッツはウェンドーヴァー空軍基地で、機密保持に気をつかいながら、20機(当初は15機) のB-29を利用して、彼が選んだ優秀な戦闘搭乗員と訓練に取り組んだのである。国内訓練終了後は、ティニアンに移動して、攻撃を有効にするためレーダーを補助手段とした、目視攻撃の訓練を続けたという。そして、日本本土に対する特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)が年7月20日からパンプキン爆弾を利用して行われたのである。

 訓練で使われたパンプキン爆弾は、長崎原爆ファットマンと、形も、大きさも、重量も同じ特性の大型の火薬爆弾で、本物の原爆投下をシミュレートするために、ティベッツの要求によって作られたという。その形と橙黄色の塗装からパンプキンと呼ばれたのであるが、模擬爆弾とはいっても、それまで使われていた最大の規格爆弾、2トン爆弾の倍以上もある5トンの爆弾であり、その破壊力は大きく、恐るべき被害をもたらしたようである。
 特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)で、総計49発のパンプキン爆弾が日本本土に投下され、その間に、下記8月6日のSBMNo13 で広島に、9日のSBM No16 で長崎に本物の原爆が投下されたというわけである。因みに広島に投下された原爆はリトルボ-イいうコードネームのウラニウム型原爆で、TNT火薬換算15キロトン相当という。8月6日、エノラ・ゲイと名づけられたB-29爆撃機の機長として、広島に原爆を投下したのは、エント司令官から特殊任務を指示されたティベッツ自身であった。

 9日のSBM No16 では、第1目標が「小倉造兵廠および市街地」となっている。しかしながら、原子爆弾は長崎に投下された。その理由は2つある。その一つはよく知られている気象条件である。目視攻撃が難しかったのである。当初、目視攻撃ができないときは、爆弾を持ち帰ることになっていたという。しかしながら、飛行機に問題が発生したことがもう一つの理由である。タンクから燃料を送ることができず、マリアナに帰ることが難しい状況にあったのである。爆発可能な兵器を積んで沖縄などに着陸することは考えられなかったということである。長崎に投下された原爆はファットマンというコードネームのプルトニウム型原爆で、TNT換算およそ22キロトン、投下したB-29爆撃機ボックスカーの機長はチャールズ・スウィーニー少佐であった。 

 米軍が小倉や長崎に、アメリカ兵などが入っている捕虜収容所があることをつかんでいたという事実には考えさせられる。長崎の収容所には、およそ2,000名の捕虜が入っていると見積もっていた。報告によっては、シンガポールから送られた30,000名のイギリス軍の捕虜がいるというものもあったという。しかしながら、陸軍省と連絡を交わした結果、「収容所の存在は、目標の選定を左右する要件ではない」と確認されたのである。 

 下記は、「米軍資料 原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで」奥住喜重・工藤洋三訳(東方出版)から、その「特殊爆弾(原爆)任務13号」の部分を抜粋したものであるが、この「作戦計画の要約」は、「原爆投下報告書」を作成するために、第20航空軍の求めに応じて、第509混成群団が用意したものではないかという。
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資料G
                       第509混成群団、作戦計画の要約

                                                          報告8
                                                          第509混成群団
                             作戦計画の要約

野戦命令:13号
特殊爆撃任務〔SMB〕:13
任務実行:1945年8月6日
 
1、第509混成群団の第1目的
  1945年6月初め、当司令部は、1945年8月6日に敵に対して1発の原子爆弾が使用可能になろうという報告を受けた。1945年8月5日までに、世界史上最初の原子爆弾攻撃始めるための万端の準備ができた。爆弾の用意もでき、天気も申し分なく、厳選された搭乗員は十分に訓練を受けていた。

2、攻撃のために選んだ目標
  A、第1目標:90.30 広島市街地工業地帯
         照準点 063096
         照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図広島地区
         No.90.30-市街地
  B、第2目標:90.34 小倉造兵廠および市街地
         照準点 104082
         照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図小倉造兵廠  
         No.90.34-168
  C、第3目標:No.90.36-長崎市街地
         照準点:114061
          照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図長崎地区
         三菱製鋼および兵器工場、No.90.36ー546

 気象観測機が、攻撃時の気象予報を攻撃機に中継するために、全ての目標に派遣された。しかし、他の2つの指定目標よりも、できるだけ第1目標を攻撃することが望ましかったので、攻撃機に対しては、第1目標を目視攻撃する機会を逃さないために、気象観測機の連絡に関係なく、攻撃機自身が第1目標に充分接近してみるように、指示が与えられた。ただし、その点検のあとは、攻撃機は気象観測機の指示次第で、第2目標または第3目標のどちらに向かってもよいとされた。
 この爆弾は極めて広範囲の平均有効面積〔Mean Effective Area,MEA〕を有していたが、それは高価なものであり、また、市街地目標の重要な地区は極めて集中していたから、攻撃を有効にするためには、目視攻撃をすることが大切であった。レーダーは補助手段として使うものとし、もしも目標上空で目視してみて、ノルデン爆撃照準機が使えない場合には、搭乗員は爆弾を基地に持ち帰ることになっていた。搭乗員に対して目視作戦ができる余分の機会を与えるためには、第1目標に加えて、2つの目標が割り当てられたのである。
 [訳注.次の1段は切り抜かれて、機密解除から外され、後になって解除された。]

3、目標選定の理由
 原子爆弾攻撃のために取り分けてあった4都市の中で、新潟はこの種の攻撃のためには配置があまりにも貧弱である──工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れている理由から除外された。他の3都市のうち、長崎は配置が最も貧弱であり、しかも近くに捕虜収容所があった。(息子たちが、捕虜収容所にいて帰ってこなかった母親たちにとって、刺激的[Sensitive]である)それでこれは第3目標になった。他の2つ、広島と小倉は、配置がよく、比較的重要であった。しかし、小倉には捕虜収容所があり、一方広島にはわれわれの知る限りそれがなかった。それで広島が第1目標となったのである。

 目標そのものに関して言えば、広島は工業目標として極めて重要であった。この攻撃に先立って、広島は日本本土内でBー29の焼夷攻撃にやられずに残っているものでは、(京都を除いて)最大の都市に挙げられた。この都市の人口は1940年に344,000人であった。
 広島は陸軍の──第5師団の司令部と第1級の乗船港がある。市の北東部と東部は全体が軍用地である。市の北部中心部分で目立つのは陸軍の司令部地区であり、広島城、多数の兵舎、軍政上の建物、兵器庫がある。そのほかには以下のような軍事目標がある:

  A、陸軍の新兵収容所
  B、大きな軍用飛行場
  C、陸軍兵器廠
  D、陸軍被服廠
  E、陸軍糧秣廠
  F、大きな港とドック地域
  G、いくつかの船舶修理と造船の会社
  H、日本製鋼会社
  I、鉄道操車場
  J、多くの航空機部品の工場

 広島が無傷であったことがそれを理想的な目標とした。このことは、原子爆弾が与える被害を正確に評価するために必要であった。この都市の大きさも、一つの重要な選定要因であった。事前のデータによれば、原子爆弾が及ぼす被害は半径7,500フィート[約2,3km]と信じられた。市の中心に照準点を置くことにより、予測される被害の円は南部のドック地域を除く広島のほとんど全域を覆った。


4、弾薬
    1発の原子爆弾

5、航法上の計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 6 1節をみよ)

6、爆撃手の計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 6 2節をみよ)

7、レーダー計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 7 3節をみよ)

8、航空機関士の計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 7 4節をみよ)

9、レーダー対策 [R.C.M.]
なし

10、戦闘機による援護
  なし   

11、空海救助


  通常この活動は航空団司令部によって手配される。しかしこの作戦が重要なものであるため、この任務に関しては第20航空軍司令部が手配した。いかなる不運な出来事も、すべての目撃者[参加者]の安全な帰還を妨げないように、完全な空海救助の便宜を与えるよう、あらゆる注意が払われた。

12、攻撃兵力
  3機 ─ 1機は爆撃、2機は観測

13、特別に計画した作戦行動
  A、全ての味方機の攻撃との混乱を避けるため、攻撃時に先立つ4時間の間は目標地区から少なくても50マイル[80.5km]だけ離れているように指示された。爆発の真上の空域におけるほとんど無限大量の放射能から味方機を守るために、味方機は攻撃後6時間のあいだは50マイル以内に入ることを禁じられた。爆発後の写真を撮影する機は、特別な命令を受けていたから、攻撃の4時間後に地域に入ることを許された。


  B、爆撃担当機に失敗があった場合にも、計画された日に攻撃が実行できるように、予備の攻撃機が1機硫黄島に待機した。そこには、原子爆弾を積み降したり積み直したりするためのピットも用意してあった。

  C、天候:それぞれの目標に1機ずつ、3機の気象観測機が、それぞれに割り当てられた目標から、06845K[060745J]から060915[060815J]までの間に、攻撃時の気象予報を中継放送できるような時刻に発進することになった。これによって攻撃機は、第1目標が雲に覆われていることが判ったときにも、第2か第3のどちらかの目標が選べるはずであった。それぞれの気象観測機には、第313航空団が提供した気象観測者が乗り込んだ

  D、攻撃後の写真: 第509群団の指揮官は、2機のFー13機に指示を与え発進させる責任を負う。これらの機は、投弾から4時間たたないうちは目標地域に入ることができない。攻撃部隊が硫黄島の予備機を使わなければならなかったか否かにかかわりなく、この予定が確実に守られるために、写真撮影機は硫黄島を通過するときに、ティニアンと硫黄島の両地上局に連絡をとって許可を得ることにした。もしも、これらの写真撮影機が、どの目標が爆撃されたか通知を受けなかった場合には、撮影機は3つの目標全部の写真をとることにした。

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「慰安婦」・日本軍に棄てられた少女たち-------------

 インドネシアのブル島は、パンダ海に浮かぶ東西約145キロ、南北約81キロ、面積およそ9600平方キロ(山形県よりやや広い面積)の島で、政治犯の流刑地として知られている。そこに日本軍の「慰安婦」にさせられ、日本軍に棄てられたジャワの少女たちがいた。偶然その事実を知り、聞き取り調査をもとに実態を調べ上げたのは、9・30クーデター未遂事件に連座したとしてブル島に流刑されていたプラムディヤ・アナンタ・トゥールを中心とするスハルト政権下の政治犯の人たちである。彼らは、1969年8月16日、第15アドゥリ号でインド洋に浮かぶ監獄島ヌサ・カンバンガンのソドン港からブル島に送られ、インドネシア政府が政治犯の定住区と定めた土地で生活を始めたのであるが、流刑地でジャワ人女性に出会い、『驚いたことに、ブル島に棄てられていたのは、私たち政治犯だけではありません。流刑にされた私たちより以前から、「棄てられた少女たち」がこの島に住んでいたのです』というわけである。

 日本軍に棄てられただけではなく、インドネシア政府からも何の支援も得られなかった彼女たちは、もし、プラムディヤとその仲間の聞き取り調査がなかったら、まさに歴史の闇に葬り去られる存在であった。下記は、「日本軍に棄てられた少女たち インドネシアの慰安婦悲話」プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・山田道隆訳(コモンズ)から、少女たちを連行すために語られた「留学話」を中心とした第1章 と第2章の一部、そして、第5章の「日本軍に棄てられた少女」の一人”スラストリ”の証言の抜粋である。著者は、若者たちに対する手紙の形で、この「日本軍に棄てられた少女たち」の記述を進めているが、第11回福岡アジア文化賞を受けたノーベル賞候補作家であるという。
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                               はじめに

 ・・・

 1942年  ドイツ軍の戦術にならい、日本軍は東南アジア地域に電撃攻撃をかける。この結果、西欧諸国が支配していた同地域内の全植民地が大日本帝国軍の手中に落ちた。3月には、ジャワ島が日本軍に占領される。インドネシア諸島は日本陸・海軍の軍政下に置かれ、このうちジャワ、スマトラの両島は陸軍の管轄となった。

 1943年  連合国側が東南アジア地域で大規模な反攻を開始したのに伴い、攻勢を続けていた日本軍は守勢にまわる。日本軍の対インドネシア民族主義運動への姿勢にも変化が生じ、その結果、民族主義者たちはジャワ、スマトラ両島で自らの宣伝活動を積極化させる機会を得た。東南アジアを占領していた日本軍と日本本土を結ぶ海路および空路の双方とも寸断されるなど、日本軍は困難に直面する。インドネシア国民はこの間、祖国防衛義勇軍(PETA)を通じて日本軍から軍事訓練を受けていた。PETAの兵士は連合国軍の攻撃から祖国を守るのが任務とされ、〔日本からの〕日本軍部隊が最前線へと送られていく。


 海・空の交通網が断たれたため、日本軍は日本本土および中国、朝鮮半島から「慰安婦」を連れて来ることが困難となる。代わってインドネシアの少女たちが「性の奴隷」として最前線へ送られた。
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                             第1章 甘い約束』

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 1942年3月から45年8月におよんだ日本の軍事占領時代に思春期を迎えたインドネシアの少女たちも、みなさんとちょうど同じでした。もし違いがあるとすれば、それは日常生活を取り巻く環境です。当時、生活は困難をきわめ、常に付きまとった頭痛の種は、着る物や食べ物をどうやって手に入れるかでした。わずか一皿分のご飯を得るために、一日中さまよい歩かねばなりませんでした。毎日、飢えで死んだ者が道端に、市場に、そして橋の下に放置されました。村々では農民が収穫期を迎えても農作業を許されず、村から離れた土地で強制労働に就かされます。こうした者のうち、75万人以上が二度と家族の元に戻りませんでした。故郷から遠く離れた地で、あるいは東南アジアの国や島々で、命を落としたからです。

 都会では、生徒たちが学校で勉強できなくなり、その代わりに「タイソー(体操)」「キョーレン(教練)」「キンローホーシ(勤労奉仕)」を強制されました。しかも、食べる物もなく、空腹状態でやらねばなりません。体力を失って失神し、倒れる生徒が出ましたが、日本人の教官や団長たちは繰り返しピンタを加え、意識を取り戻させようとしました。


 当時、薬局には薬はまったくなく、だれもが着のみ着のままの生活を送っていたことを忘れないでください。すべての階層の人たちが、物不足、空腹、貧困にあえぎ、手元にある物はすべて商人に売り尽くされました。貧困と飢餓のなかでは、商人だけがいい目をみたのです。そんなときに生まれた新しい言葉が「闇商売」。闇の商売で利益をむさぼった商人たちは、「闇商人」と呼ばれました。

 こうした困難の状況のなかで、当時ジャワ島を占領して最高権力機構、つまり日本軍政監部からの「ささやき声」が聞こえてきます。それは、軍政監部がインドネシアの若い男女生徒たちを東京や昭南島(現在のシンガポール)への「留学」機会を与える、というものでした。ささやき声と表現したのは、それが明瞭な形では伝えられなかったからです。


 私がこの留学話を最初に耳にしたのは、1943年、18歳のとき。ジャカルタのポス・ウタラ通りにあった同盟通信社でタイピストとして働き始めて、まだ1年も経たないころです。当時、私は午前中、ガルーダ通りにある成人学校で勉強しており、留学話は学校の友たちのあいだでも話題になりましたが、噂話にすぎないとして真剣に耳を傾ける者はいませんでした。しかし、日本軍政下にあっては、新聞などが活字の形で報じるニュースよりも、噂話のほうが真実味があったのです。

 留学に関する話を活字の形で読んだことはありませんでした。私は、同盟通信社の編集部からまわってくるニュースをタイプで打っていましたが、この件をタイプで打った記憶はありません。タイピストはほかにも男女合わせて8人いましたが、誰一人として留学話をタイプで打った者はいません。

 午前中は学校へ行き、夕方から仕事に就き、ときには夜遅くまで働いていたため、月刊誌さえ読む時間もなく、留学に関する噂話に関心を寄せる暇もありませんでした。実は、オランダ領東インド総督府が倒れたとき、私には日本で勉強してみたいという思いがありましたが、日本軍がインドネシアを軍事占領したことで、その思いは消え去ります。その後の占領下、日本軍の行為や態度を見るにつけ同調する気持ちは反抗心へと変わりました。このため、留学話には私だけでなく、学校の仲間たちも何の関心も示さないようになります。


 この手紙を書いているのは、1979年の半ばで、私が噂話を聞いた43年といえば、もう35年以上もむかしです。当時、日本軍政監部の約束や政策が新聞などで公表されることはありませんでした。それゆえ、多くの人たちの記憶に助けられながら、みなさんに向けたこの手紙を書いています。留学の約束が、1943年にあったのは本当だったのでしょうか。

 国営アンタラ通信スラバヤ支社の元責任者だったスリヨノ・ハディ氏(1929年生まれ)は、78年8月に行われた聞き取りに際して次のように話しています。
「兄が1943年に話してくれたところでは、日本軍政監部は娘をもつ両親に対して、娘の名前を、すみやかに登録するように命じました。娘たちを学校に入学させるため、というのが登録の理由だったそうです」
「(私が1943年から45年まで居住した中ジャワ州の)ウンガランでは、15歳から17歳までの少女5人が登録を終え、このうちの一人は兄の親友の娘さんでした。登録した5人はその後の手続きを進めるため、スマラン(中ジャワ州の中心都市)に連れていかれました」
「同盟通信社にほど近いジャカルタのパッサール・バルー地区にある女子実業学校では、「S・S・(シティ・スミナル)」という女子生徒が1943年に軍政監部に名前を登録し、同じ年にどこかへ連れて行かれたという話もあります。


 スラバヤ(東ジャワ州都)のタンジュン・ペラック港の元造船工イマム氏(1931年生まれ)によると、少年や少女たちを乗せた船での輸送が43年に始まったといいます(証言=78年8月7日、ブル島)。
「私の実兄ユスフは当時18歳で、溶接工をしていたときに日本軍政監部の留学話を受け、シンガポールへ船で連れて行かれました。兄によると、船には多くの少女たちも乗っていましたが、船名や少女たちの人数は覚えていません。シンガポールに近づいたころ、魚雷が命中し、船は大破したそうです。兄は漁船に助けられて無事でしたが、『少女たちは全員死亡しただろう』と話していました。兄は恐怖心もあってシンガポールにそのままとどまり、帰国したのはインドネシア独立後でした」


 日本軍の占領時代には、そうした事件が公表されることはありません。日本軍政監部は自らに都合の悪いニュースや失敗例などを知られるのを恐れていたからです。同盟通信社から150メートル離れたところにあった日本映画社が、火災に遭い、死者が出たときも、一行たりとも報じられませんでした。この火事では焼死者が出て、うち2人は私(プラムディヤ)の家の隣に住んでいた母子でした。

 留学話の件では、ほかにも何人かが1943年に聞いたと証言しています。ハルン・ロシディ氏はこの件で資料を集め、そのなかにカスミンテ、マリバ両氏から得た話も含まれています。(カスミンテ氏の証言=74年、ブル島)

「1955年、私はチルボン(西ジャワ州)の高校3年生で、21歳でした。アブドゥラという名の化学・生物担当の教師が授業中に、日本軍占領時代の体験を話してくれたのを、いまでも覚えています。先生によると、占領時代、チルボンに駐留していた日本兵たちは女子生徒を次々に乱暴し、なかには両親が知らぬあいだに、あるいは承諾もなしに連れ去られた者もいたそうです。日本兵の乱暴な行為は、43年以降、日本軍が連合軍に降伏するまで続きました。少女たちが連れ去られた場所や人数はわかっていません。先生の実の妹も43年に連れ去られた犠牲者の一人で、妹さんの消息はまったく不明のままだったそうです。先生が妹さんをどんなに愛していたか、その表情からわかりました。話をしながら、先生はときおり涙を流し、声をつまらせながら、こみ上げる悲しみに必死に耐えようとしていました。妹さんの行方不明事件がきっかけとなり、激しい怒りに燃えた先生は反ファシズムの地下抵抗運動に参加したそうです」
 同級生だったマリバ氏も、カスミンテ氏の話が間違いないことをロシディ氏に確認しました。


 ・・・

 みなさんに向けたこの手紙を書くに際して、(日本軍の行為を示す)確実な証拠となる資料や印刷物は手元にないので、書く内容はすべて第三者の記憶や体験をもとにしました。それでも、日本軍による「留学話」が1943年に出始め、少女たちの最初のグループがジャワ島を出発したのは、ほぼ間違いない事実だと考えています。

 そこで、次の疑問が出てきます。留学話が新聞や印刷物の形で告知されなかったとしたら、この話は住民のあいだにどのようにして広まったのでしょう。
 答は簡単、口コミ。それも、権力を伴う口コミです。担当したのは軍政監部の宣伝部。オランダ統治時代に権力をもっていた行政官に代わって、日本軍政下に強大な権力をもった部署でした。宣伝部は行政官に指示や提案を出し、その指示はさらに県長から郡長、村長、区長、そして最終的には、住民へと伝えられていきます。情報が村々に届くまでには時間差がありましたが、すべての口頭の伝達で、常に憲兵隊と軍政監部当局者の監視下で行われました。当時の行政機構は専制的で、日本の占領軍が完全に押さえていたのです。


 犠牲者の一人、スミヤティさんは聞き取り調査を行ったスカルノ・マルトディハルジョ氏に、留学話に関して次のように証言しています。(1978年)
「日本政府は将来のインドネシア独立という目標を掲げ、その準備のため、インドネシアの若者たちに自立達成へ向けた教育の機会を与えるという話でした。私がこの約束を聞いたのは1944年で、43年ではありません。掲示された教育の機会は土地によって分野が異なり、助産婦教育もあれば、看護婦教育のところもあります。対象にされたのは13~17歳の少女で、その多くは小学校を終えたばかりだったので、相違はあっても当然だと思いました」

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 少女たちはいったん日本の魔の手に落ちてしまうと、そこから抜け出すのは困難でした。ジャワ島上陸以来、日本軍政監部はオランダ領東インド時代にあった「通行・住民証明書」制度を復活させます。オランダ領時代にはこの証明書の適用対象者は中国系住民のみでしたが、日本の占領下では全住民に適用され、どの住民も所持しなければなりません。また、居住区外に出るときには、特別の証明書を必要としました。自宅以外で宿泊する際には、その土地の役人に届けでなければなりません。全村に「トナリグミ(隣組)」制度が設けられ、これが住民監視網になっていきます。

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 ジュキ氏(1929年生まれ)が78年7月、ハルン・ロシディ氏に語ったところによると、西ジャワ州インドラマユのハウルグリスで、近所に住んでいた理容師が日本軍の約束を信じ、美人だった娘の留学に同意しました。日本兵に連れて行かれた娘の消息はその後ぷっつり切れ、親が懸命に行方を捜しましたが、二度と会うことはできませんでした。

 別の例をあげましょう。以下は、スワディ・ハディスワルノ氏(1933年生まれ、ジョグジャカルタ・シガディウィナタン生まれ)が78年7月31日に、ロシディ氏に語った内容です。
 ハディスワルノ氏は、親が日本軍政下で村の「組長」を務めていたことから、村の少女3人が東京で勉強するため、出発したことを覚えていました。このうち1人は父親といっしょに村を出たそうです。父親は「ロームシャ(労務者)」としてビルマ(ミャンマー)に向かい、日本軍の降伏後46年に自力でボルネオ(現在のカリマンタン)島の東カリマンタン州サマリンダを経てジョグジャカルタに戻れましたが、娘の消息は不明のままでした。この父親は娘の東京行きを進んで認めたわけではありません。
 これまであげてきた例から、この時点で次のように要約できます


第1、日本軍政監部が約束した東京や昭南島への留学話は官報など公式な形で発表されず、悪行を追及されないよう、日本軍は意図的に「犯行」の跡を消していた。
第2、少女たちが故郷そして親元を離れ、危険の伴う航海を決意したのは、自分からそう望んだのでは決してなく、軍政の脅しを怖れた親がそうさせたためである。
第3、日本軍が成人前の少女を対象としたのは、兵士たちの欲望を満たすためのほか、少女であれば反抗する力もないと考えたからだった。
 さて、私がこの手紙を書いたのは、少女たちが日本軍政下で、厳しい運命に見舞われたことを、若いみなさんに知ってもらうためのほか、同じような悲運が少女たちと同年齢のみなさんにも降りかかる危険性があることをわかってもらうためです。この手紙はまだ終わりではありません。これからの章に、みなさんに知ってもらいたいことが記されています。

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                             第2章  公然の秘密

 これまで見てきたように、ジャワ島を支配した日本軍政監部は1943年、宣伝部を通じて、少女たちに東京や昭南島での留学機会を約束し、日本軍はこれに従った少女たちを船で運びました。しかし、船での輸送が何回あったのか、また、ジャワ島占領が終わりを告げた日本軍降伏までのあいだに、どれだけの人数の少女たちが船で運ばれたのか、知るものはいません。日本側がこうした数字を公表することは今後もないでしょう。日本軍政はこの行為の当初から、留学機会の公表を避けるなど、証拠を残さぬようにしていました。みなさんがくわしい資料を掘り起こすよう努力をしてください。


 先進諸国の人びとなら、人道に反する行為が起これば、たとえそれが何千キロ離れた土地や他国民のあいだであったとしても、わが身に起きたことのように感じるはずです。同様の行為が自国民の身に起きたならなおのこと、抗議運動があっても一向に不思議ではありません。さらに、同じ意見や考え方をもつ者たちと協力して組織をつくり、非人道的行為の停止を求めるのも当然です。少女たちの悲運からすでに数十年も経過しました。みなさんにあてたこの手紙は、少女たちのために何もなされていないことへの抗議の意味も含んでいます。
 私が集めた資料だけではまだまだ不充分ですが、将来、みなさんの努力で、より信憑性のある新たな資料が発掘され、日本軍の蛮行が白日の下に晒されるよう願っています。


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第5章 ブル島に棄てられた少女たち

 消えぬ望郷の念

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 以下は、スティクノ氏がブル島に住んでいた女性たちと、すなわち「棄てられた少女たち」の一人と思わぬ出会いをしたときの記述です。
 1973年のある朝、ワナスリヤ定住区の畑に、一人の女性が姿を見せました。背が高く痩せており、地元アルフル人の女性とは様子が違っています。肌は黄色で、皮膚病はなく、なめらかです。ジャワ語なまりのある上品なインドネシア語で、胸にある思いをすべて打ち明けようとしました。彼女はスマランのソンボク出身で、「スリ・スラストリ」と名乗りました。偶然にも、私もスマラン出身です。彼女は涙が流れ出るのを詫びながら、心情を吐露しました。
「あなたが(ジャワ島へ)お戻りの際には、どうぞこの私をごいっしょさせてください。あなたが私をここから連れ出してくれるよう、心から願っております。私は長いあいだ苦しみを受け続けてきました。この状況からどうすれば抜け出せるのか、私にはわかりません」


 これまでの人生について、スラストリは「それは長い話になります」と前置きして、次のように話してくれました。
 1944年、彼女はまだ14歳のときのことです。勉強を続けるため東京に送ってやると日本軍が約束し、日本兵が彼女を親元から連れ去りました。両親は当初、この「甘い約束」を断り続けましたが、日本軍は、この拒否を「テンノーヘーカ(天皇陛下)に楯突くのと同じ行為だ」と言って両親を脅しました。反逆にも似たこの行為への罪は重く、恐ろしくなった両親は泣く泣く「留学」に同意、娘を日本軍に渡し、娘と両親は離ればなれとなります。
「1945年の初め、日本兵をもてなす軍酒場であらゆる下品な仕打ちと裏切りを受けた後、228人が船に乗せられ、ある島に連れて行かれました。その島がブル島と呼ばれていると知ったのはしばらくしてからです。22人がスマラン出身でした。
 日本軍が敗れると、少女たちは何の手当も与えられないまま、放り出されました。生活の糧は自分たちで見つけねばなりません。スラストリは地元の村に入り、村民と共に生活する道を選びます。青春時代は無残に過ぎ去りました。また、未開で、なかば放浪生活を送る狩猟民族のアルフル人のなかで暮らすうちに、いつしか文化を失ってしまいます。彼女は地元男性の所有物となり、同時にグヌン・ビルビル地区のある村の所有物ともなりました。


 この村を率いたのはタマ一族で、一帯は茂った樹木で被われた、昼なお暗い地域です。この地区にあるティナ・ダラ川へ行くのは生やさしいことではなく、細い道を歩き、いくつもの山や深い谷を越えねばなりません。その山々はブル島を南北に分ける境界をなしており、ティナ・ダラ川一帯に住む山岳民族は、まだ粗暴さを残していました。
「夫は私が見知らぬ者と話すのを、一度も許してくれませんでした。夫がわからぬ言葉を使うとなれば、なおさらです。夫は疑い深い性格で、ジャワ人がこの島に大勢来てからは、猜疑心がさらに強まり、私は自由に動くこともできません。ですから、あなたがジャワに帰るときが来たら、どうぞこの私をいっしょに連れて行ってください」

スラストリは両親の消息をまったく知らず、弟と妹がそれぞれ一人ずついると話しました。こうして話を続けていると、突然、手に槍を持ち、腰にナタを下げたアルフル人の男が現れました。ジャワ式に頭に布を被った男はスラストリの夫で、歯が黒光りしています。彼女は急に話を止め、足早に立ち去りましたが、その前に、次の日の昼もう一度ここに来ることを約束しました。


 翌日、約束どおりに姿を見せたときも、彼女は「自由に話すことができない」と訴えました。2回目に会って聞いた内容で、とくに注目すべきことはありません。夫がふたたび姿を見せたため、彼女は大あわてで、畑を離れていこうとします。
 この光景を見た私の仲間たちは、何とか夫を引きとめておこうと、立ち話をしていくよう誘いましたが、首を振って拒否の仕草を返されました。槍の鋭い先端を妻に向けるのが、答だったのです。とはいえ、仲間が袋から二箱のタバコを取り出し、空いているほうの手に差し出すと、夫は足を止めました。
「二箱ともあなたにあげます」
「タバコをくれるのか」
夫はそう言いながら何度もうなずいて、仲間に近づき、口元をゆるめ、黒光りする歯を見せました。
「ありがとう、失礼するよ」
この一件以来、スラストリは私たちの前に二度と姿を見せていません。


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安重根 「伊藤博文の罪状15ヶ条」----------------


 2013年6月、韓国の朴槿恵(パククネ)大統領が中国の習近平(シーチンピン)国家主席との首脳会談で、安重根が中国・ハルビン駅で伊藤博文を暗殺した現場に碑を設置することを提案した。そして、11月18日、それが「両国の協力でうまく進んでいる」と述べたことに関して、菅義偉官房長官が、19日の記者会見で、「我が国は”安重根は犯罪者”と韓国政府に伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と述べ、不快感を示したとの報道があった。また、安倍晋三首相もテレビ出演で、碑設置の動きについて「伊藤博文は初代の日本の総理大臣だ。(首相の地元の)長州にとっても尊敬されている偉大な人物だ。お互いにしっかりと尊重しあうべ きだ」と述べた、という。

 このことからも分かるように、安重根に対する日韓政府の評価は、現在も正反対である。この日韓政府の評価の溝を埋める努力なくして、共通の歴史認識は生まれないし、関係改善も難しい。そこで、再び安重根の裁判における公判記録から、彼の主張を抜粋するが、下記のような、日本人の存在にも考えさせられるものがある。

 伊藤博文殺害後に、獄中の安重根の看守を命ぜられた関東都督府陸軍憲兵上等兵「千葉十七」(ちばとうしち)は、当初、伊藤公を殺害した安重根に激しい怒りを感じていたという。しかしながら、取り調べや公判が進むにつれて、彼の主張には正しい部分もあると、自分でも思い当たることがあり、千葉は考えさせらていく。また、彼の行為が彼の主張通り、個人的な恨みによるものではないことが明らかなうえに、獄中の安の態度には、日本の元勲を殺した男とは思えない、素直で礼儀正しい不思議な雰囲気があったという。そして、いつしか「この男はただ者ではない」と思うようになり、しだいに心を通わせていく。

 彼の処刑が近づくと、千葉は「この人は、生き永らえたら、必ずや韓国を背負ってたつ人物なのであろうに──」と畏敬の念さえ抱き、「日本人はこの人にもっともっと学ばなければならない」と思いつめて、「安さん、日本があなたの国の独立をふみにじるようになったことは、何とも申しわけありません。日本人の一人として、心からお詫びしたい気持ちです」と頭を下げたというのである。

 また、下記抜粋文にあるように、検察官溝淵孝雄も、安重根の主張を聞いた当初は、日韓併合を進めようとする日本政府の対韓外交政策を知らず、安重根を「東洋の義士」と認め、「死刑はあるまい」と言っている。

 にもかかわらず、当時の外相小村寿太郎から、「日本政府においては、安重根の犯行はきわめて重大なるをもって、懲悪の精神により極刑に処せらるることを相当なりと思考す」との指示があり、安重根の裁判は、その指示に基づいて、日韓併合の外交政策上「極刑」しかない、ということで進められていくことになったのである。

 日本政府は、韓国民では英雄とされている安重根を凶漢と呼び、犯罪者であるという。しかし、当時、彼の裁判を担当した判官真鍋十蔵に、伊藤公および随行員殺傷について問われて安重根は

「それは、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです」

と答えている。判官真鍋十蔵はこの主張に耳を貸さず、伊藤殺害の事実だけを問いつめていったという。伊藤殺害の背景には踏み込まなかったのである。したがって、日韓の主張は、彼の裁判のスタート時点からかみ合っていないということであろう。安重根を裁くに当たって、殺害の背景が無視されてよいのかどうか、義兵の参謀中将としての彼の立場を考慮しなくてよいのかどうか、考えさせられる。 

 下記は、「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から、安重根の指摘した「伊藤博文の罪状15ヶ条」の部分を抜粋した。
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                                二人の出会い

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 10月30日、安重根に対する初の取り調べ(第1回尋問)が、検察官溝淵孝雄によってハルピン総領事館で行われた。書記は岸田愛文、通訳は嘱託の園木末喜であった。残されている公判記録は、すべて漢字とカタ仮名による翻訳日本語なので、安重根の答えた韓国語の内容をそのまま伝えるものではない。この安重根の正確な経歴と真意とは、のちに獄中で書かれた自伝の「安応七歴史」をも参照しなければならないのだが、ここではまず公判記録に沿って尋問のようすをのぞいてみる。初めに、冒頭部分をしるしてみると、

問 氏名年齢身分職業住所本籍出生地ハ如何
答 氏名ハ安応七
  年齢ハ31歳
  身分ハー
  住所ハ韓国平安道平壌城外
  本籍地ハ同所
  出生地ハ同所
問 其方ハ韓国臣民カ
答 左様デアリマス
問 韓国ノ兵籍ニ就イテ居ルカ
答 兵籍ニハ就イテ居リマセヌ
問 其方ノ宗教信仰ハ如何
答 私ハ天主教信仰者デス
問 其方ハ父母妻子アリヤ
答 アリマセヌ


 このように尋問の最初から、同族や同胞へ罪が波及するのを避け、一人でその責任を背負っていこうという安重根の決意が示されている。しかし、伊藤公をなぜ敵視したのか、という問に対しては毅然と答えた。記録や安の述懐によれば、その原因つまり殺害理由はとても多いので、それらを「伊藤博文の罪状15ヶ条」として列挙させてもらいたい、として次のように述べたという

第1、10年ほど前、伊藤さんの指揮で、韓国王妃を殺害しました。
  (注)これは明治28年(1895)10月の閔妃殺害事件をさす

  ※この件に関しては、「閔妃暗殺の首謀者はソウル駐在日本公使(三浦梧楼)?」(195)の項目参照
第2、5年前に伊藤さんは兵力をもって、韓国にとっては非常に不利益な、5ヶ条の  条約を締結させました。
  (注)これは明治38年(1905)11月17日、伊藤全権大使のもとに調印された第2次日韓協約をさす。日本は韓国の
  外交権を全面委譲させ、ソウルに韓国統監府を置いて保護政治を強化していった。韓国併合への実質的な第一歩と
  なった条約

  ※条約関係は「日韓議定書と日韓協約(第1次~第3次)全条文」(180)の項目参照
第3、3年前、伊藤さんが締結した12ヶ条の条約は、韓国の軍隊にとって、非常に不利益なものとなりました。 
  (注)これは明治40年(1907)7月24日、伊藤初代韓国統監のもとに調印された第3次日韓協約をさす。全文7ヶ条
  であるが、安重根は第2次協約の5ヶ条と合わせ12ヶ条としている。この第3次協約で、韓国の内政は統監指導下に
  完全掌握され、翌8月には韓国軍も解散させられたことをさす。

  ※この韓国軍解散の件も含め、安重根があげた15ヵ条の問題点の大部分は(177)~(204)の項目で、すでに取り上
  げている。
第4、伊藤さんは、強要して韓国皇帝を退位させました。
  (注)これは明治39年(1906)6月、ハーグ密使事件が発覚し、韓国皇帝高宗が伊藤統監によって退位させられたこと
  をさす。このあと第3次日韓協約が結ばれた。
第5、韓国の軍隊は、伊藤さんによって解散させられました。
  (注)前述の「第3」と同じ。
第6、条約締結に韓国民が憤り、義兵が起こると、伊藤さんはこれに絡んで韓国の良民を多数殺させました。
第7、韓国の政治、その他の権利を奪いました。
第8、韓国の学校で用いた良好な教科書を、伊藤さんの指揮で焼却させました。
第9、韓国人民に、新聞の購読を禁止しました。
第10、充当させる財政もないのに、性質のよくない韓国の官吏に金を与え、韓国民には何も知らせず、しまいには第一銀
  行券を発行させています。
第11、韓国民に負担させる国債2300万円を募り、官吏が勝手に分配し、また韓国民の土地を奪いました。これは韓国民
  にとって、非常に不利益な事です。
第12、伊藤さんは、東洋の平和を攪乱しました。すなわち日露戦争当時から「東洋平和を維持するため」と言いながら、
  韓国皇帝を退位させるなど、当初の宣言とはことごとく反対の結果を見るに至り、韓国人2千万はみな憤慨しております。 
第13、韓国が望まないのに、伊藤さんは韓国保護に名を借り、韓国政府の一部の者と意志を通じ、韓国に不利益な施政
  をいたしております。
  (注)第6からこの第13までは、韓国統監としての伊藤の「内政改革」を非難したものである。
第14、伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しました。そのことはみな、韓国民が知って
  おります。
  (注)これは慶応2年(1866)12月の孝明天皇死没に、弑殺のうわさが流れたことにふれたもの。が、当時の伊藤は
  まだ宮中に出入りできる身分ではなく、また郷里で病臥中だったので、この項目だけは安重根の間違いであるとされ
  ている。
第15、伊藤さんは、韓国民が憤慨しているにもかかわらず、日本皇帝や世界各国に対して「韓国は無事なり」と言って、
  欺いております。


 検察官溝淵孝雄は、この「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって驚いた。これは、取り調べの冒頭で答えた「人物」が語る内容ではないと内心舌をまいたのである。一つ一つが、溝淵にとっても手厳しい指摘であった。今日の現状を、的確にとらえているとも思った。

 溝淵は、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまった。が、これに対し安は「私の死生について論じないでください。ただ、私の思っていることを、ただちに日本の天皇に上奏してください。すぐにでも伊藤さんのよからぬ政略を改め、東洋危急の大勢を救ってくださることを切望いたします」と答えた。


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(一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、空行を挿入したりしています。青字が書名や抜粋部分です。)

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