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世界の核実験(2288回以上)と被曝被害------------ 

 広島・長崎に原爆が投下されたのは、アメリカがニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で1945年7月16日に世界最初の原爆実験を行ってから1ヶ月も経っていない8月6日と9日である。なぜ原爆投下を急いだのか。

 大戦末期の1945年2月、ソ連のクリミヤ半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳による会談があった。いわゆる「ヤルタ会談」である。このヤルタ会談後半に、ルーズベルトとスターリンが極秘の会談を行い、ソ連の対日参戦を求めるルーズベルトが、スターリンの求めるヤルタ協定に合意したため、ドイツ降伏後3ヶ月以内のソ連対日戦参戦が決定した。一日も早く日本を降伏させるためである。
 しかしながら、原爆実験に成功すると、ソ連の参戦を求めたアメリカの態度は一変し、日本の降伏にソ連参戦は不要であり、ソ連の参戦前に対日戦を決着させようと、原爆投下を急いだという。

ウラルの核惨事」で有名なジョレス・メドべージェフ博士は、このとき原爆に込められた「今やアメリカが最も強力な国であり、支配者である」という政治的メッセージに気づいたという。それは戦争の終わりではなく、新たな対立の始まりでしかない,、という認識である。
 
 ジョレス・メドべージェフ博士の予測通り、それ以後核軍拡競争に突入し、1994年までのおよそ50年間に、世界では2288回の核実験が行われた。これは、公表されたものとスウェーデンのストックホルム国際平和研究所が世界各地に設置した地震計で探知したものの合計である。探知されない実験も多数あると考えられている。

 世界の核汚染地域の調査にあたっているカナダ国際公衆衛生研究所長、ロザリ-・バ-テル博士は、「この半世紀の核実験と核事故による放射能で健康に何らかの障害を受けた人々、これから受けるであろう人々の数は、世界で最大2000万人にのぼる」と試算した。そして、原子力産業は好むと好まざるとに関わらず軍事と密接に関係しており、「核の平和利用はあり得ない」とも指摘している。

 また、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所長を務めたフランク・バーナビー博士は、「核エネルギーには核兵器がつきもので、双子のようなものということです。核の軍事利用と平和利用は切り離して考えることはできません。どちらか一方を持てば、必ずもう一方も持つことになるのです」と指摘している。日本の原子力平和利用も、疑って見る必要があるということになる。

 下記は、「蝕まれる星・地球 ひろがりゆく核汚染」豊崎博光著・平和博物館を創る会・編(平和のアトリエ)を中心として、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)から、核実験にかかわる部分で、記録しておきたいことを抜き書きしつつ、私なりに簡単にまとめたものである。(ただし、核実験の回数については、それぞれの著書の書かれた時期により多少の相違がある。その後インド、パキスタン、北朝鮮なども核実験を行っているが、それらは含んでいない)
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アメリカ

 アメリカは1945年から1992年までに、太平洋のマーシャル諸島、ジョンストン島、クリスマス島、(現キリバス共和国領)とアリューシャン列島、国内のカリフォルニア沖、ニューメキシコ州、アリゾナ州、コロラド州、ネバダ州などで1278回の核実験をおこなったとされる。特にマーシャル諸島で行われた水爆「ブラボー」実験は、広島型原爆の1000倍以上の威力といわれ、第5福竜丸の乗組員のみならず周辺地域に多くの被爆被害者を出した。また、マーシャル諸島では、1946年から1958年までに、67回の実験が行われ、その爆発威力は広島型原発7000発分に相当するということである。

 また、アメリカはネバダ州の核実験場で、1951年から1958年までに、100回の大気圏内核実験を行い、1962年から1992年までに、936回の地下核実験を行った。政府の配布した小冊子「ネバダ実験場周辺地域の原爆実験の影響」の中には「核実験は危険ではない」書かれていたというが、風下地域の住民にはさまざまな異常が発生し、納得できない人々が1979年政府に対して核実験による被爆被害の損害賠償訴訟を起こしたという。そして、1990年「核被爆者補償法」が成立したのである。その結果、ネバダ州のみならず、ユタ州南部、アリゾナ州北西部の風下地域に住む住民で、白血病など、13種類のガン患者、およびそれらの死者に対して5万ドルを支払うということになったのである。しかしながら、被爆被害者支援市民グループ『市民の声』代表のジェネット・ゴードンさんによると、補償を受けられるのはほんのひとにぎりの被害者で、被爆被害者はおよそ17万人に達するという。また、風下地域のネバダ州やユタ州に住む多くの先住民の被害調査は行われておらず、補償の対象になっていないということである。

 セント・ジョージに住み土壌調査を行っているボブ・スミス氏は、
「核実験で放出された猛毒のプルトニウムなどは、土や地下水に入り込んでいます。私たち風下住民は、埃からプルトニウムを吸い込んだり、地下水、動植物を通して体内に取り込む恐れは充分にあります。核実験停止後のこのような重要な問題はまったく放置されています」
といっている。核実験は停止しても、問題は深刻なのだと思う。
 太平洋の島々でも、今なお、様々な被曝被害があるのではないかと思われる。

旧ソ連

 アメリカと核軍拡競争を展開した旧ソ連は、アメリカに4年遅れて1949年8月29日に最初の原爆実験を成功させた。以来1990年までに714回の核実験を行ったという。主な実験場は、カザフ高原にある面積約1万8000平方キロ(四国ほどの広さ)のセミパラチンスクで、ここで124回の大気圏内実験と343回の地下核実験が繰り返された。

 セミパラチンスク放射線医学研究所のポリス・グシェフ所長によると
「被爆者は実験場から半径550キロに住み、推定で50万人にのぼる。このうち2万人を調査した結果、食道ガンは通常の約7倍、肝臓ガンと肺ガンは約3倍高い。また、半径550キロ以内の新生児の死亡率は、通常の1.5倍から2倍に達している」(1990年11月14日付毎日新聞夕刊)とのことである。

 また、1990年のNSM(ネバダ・セミパラチンスク運動)の「セミパラチンスク実験場概況」によると、広島・長崎の被爆者のガン罹患率および死亡率よりも、セミパラチンスクの被爆者のガン罹患率および死亡率が高く、悪性腫瘍で2倍、肺ガンで3倍、食道ガンで15倍であるという。さらにセミパラチンスク地域の1975年から85年の10年間の白血病の死亡者は、それ以前の10年間と比べるとおよそ7倍であるという。さらに、消化器官の悪性腫瘍の死亡も急激な増加を示しており、被爆後住民の食道ガンの罹患率は7~8倍に増加しているという。調査の対象や方法、統計の取り方や比較の仕方の詳細はわからないが、ここにも核実験による被爆被害者が多数存在することは間違いない。

 旧ソ連で、忘れてはならない核実験場のもう一つは、北極海に浮かぶノバヤ島とゼムリャ島の2つの島から成るノバヤゼムリャ島である。1955年に同島の近くで3回の実験を行った後、旧ソ連は、ノバヤゼムリャ島で、1957年9月から1990年10月までに、大気圏内核実験を90回、地下核実験を42回行った。

 核実験によって汚染された大陸側のツンドラ地帯には、北極トナカイを放牧して暮らすサーミ、ネネツ、コミなどの先住民がくらしているというが、アルハンゲリスク医療研究所の内科医シドロフ・イバノビッチ氏によると「トナカイの放牧で暮らす先住民ネネツの人々の体内に蓄積されたセシウム137は、他の地域の人に比べて、10倍から100倍も高く、食道ガンは他の北方地域の先住民に比べて約20倍多くみられるという。原因は、降り落ちた死の灰の中のセシウムがトナカイの餌のヤゲリと呼ばれるコケを汚染し、そのトナカイをネネツの人々は主食としているからである」という。

 そして、ノバヤゼムリャ島での核実験の死の灰は風に乗ってスカンジナビア半島にも流れ込んだという。1960年代初め、スカンジナビア半島地域の放射能レベルが急激に上がり、トナカイの食用が禁止されたことがあったとのことである。また、1987年8月2日、ノバヤゼムリャ島で地下核実験が行われた一週間後、スカンジナビア半島全域とくにスウェーデンで高いレベルのヨウ素131が検出され、スカンジナビア三国はソ連政府に核実験の停止を申し入れたこともあったという。

イギリス

 第3の核保有国といわれるイギリスは、1952年10月オーストラリア北西部のモンテ・ペロ島で最初の核実験を行って以来、91年までに43回の核実験を行った。大気圏内核実験が21回で、オーストラリアで12回、南太平洋のクリスマス島とモルデン島(現キリバス共和国領)で9回である。1963年から91年まではアメリカのネバダ実験場をかりて22回の地下核実験を行い、合わせて43回の核実験を行ったという。
 イギリスの大気圏内核実験はすべてオーストラリアのグレートビクトリア砂漠内に建設したイミュー実験場マラリンガ実験場および太平洋上の島で行われた。マラリンガ実験場では、核兵器開発のための工程を試す目的で、「マイナー・トライアル」と呼ばれる放射性物質を火薬で吹き飛ばす実験も、550回行われたという。その結果実験場跡地には、20キログラムものプルトニウムが残されているとのことである。
 イミューやマラリンガは、もともと先住民ヤラタ部族アボリジニの人々の土地である。実験場には、立ち入り禁止や放射能の危険を知らせる看板が設置されたというが、聖地をめぐる旅をするアボリジニには、あまり効果のない設置だったようである。イギリスも米ソ同様、原爆製造優先だったのであろう、どこに何人のアボリジニが住んでいるかや、その生活実態を把握することなく実験を行い、アボリジニの被爆被害の調査もなされていないということである。ただ、実験直後に「アボリジニの死体を見た」という証言や「グランド・ゼロ付近にいたアボリジニを他の場所に移動させた」との、実験に参加した兵士の証言があるだけである。また実験にともなう被爆兵士が、3万2000人を超えるということであり、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス本土のそれぞれで、損害賠償を求める訴訟が行われているという。

フランス

 フランスの核実験は、アルジェリアのサハラ砂漠で1960年2月に行われたのが最初である。そして、その年に大気圏内核実験を4回行い、翌年の1961年からは地下核実験13回、合わせて17回の核実験を行った。アルジェリアの独立後は、南太平洋のモルロア環礁ファンガタファ環礁を実験場として、1966年から74年までに大気圏内核実験を46回、74年から91年5月までに150回の地下核実験を行ったとされている。
 アルジェリアでの核実験によるフォールアウトが、フランスに達したこともあったというが詳細はわからない。

 さらに、フランスは1995年9月にも、ムルロア環礁で地下核実験を行ったと発表し、96年5月までに計8回の実験計画があることを明らかにした。

 サハラ砂漠での被爆被害の実態はほとんど分からないが、実験場近くに住む遊牧の民トアレグの人々が、実験による山崩れで大勢死んだというような話がある。またトアレグの女性たちには死産や流産が多く、ガンで亡くなる人も増えているという。

 南太平洋で実験が始まって以来、周辺のサモア、フィジー、クック島、ニュージーランドなどが放射能のモニターをはじめ、空気中や雨水の中から多量の放射のを検出しているという。特に東側に多く拡散しており、遙か遠くの南米ペルーでも検出されているという。しかし、フレンチポリネシアと呼ばれる地域の環境放射能の観測データはほとんど公表されておらず、地域住民の健康調査や疫学調査も行われていないとのことである。また、核実験場で仕事をしている現地人労働者の病気の診断や治療は、すべてフランス人が行っているため、彼らの被爆被害の実態は分からないのである。そして、「毎年250人ほどのポリネシア人労働者やフランス人作業員が放射能被爆によるとされる病気の治療のためにフランスへ送られている」というような話がある。

中国

 朝鮮戦争のときに、核兵器の使用も辞さないとアメリカに恫喝された中国は、その後核兵器開発に乗り出す。最初の原爆実験は、1964年10月新彊省ウイグル自治区のロプノール実験場で行われた。そして、フランスよりも1年以上早く水爆実験も行い、世界で4番目の水爆保有国となったのである。

 中国は1980年10月までに23回の大気圏内核爆発実験と4回の地下核実験、合わせて27回の実験をロプノール実験場で行った。中国が大気圏内核実験を行うと、数日後にはジェット気流に運ばれたフォールアウトが、日本にも降り注いだ。1981年以降には16回の地下核実験を行っている。したがって、合わせて43回の核実験を行ったことになる。しかし、周辺住民の被爆被害の実態は不明である。ただ、イギリスの経済誌フィナンシャル・タイムが、中国の核実験による被爆被害を「実験場ロプ・ノール周辺地域では肝臓ガン、肺ガン、皮膚ガンが増えており、このうち数人は北京に送られている。また、最近、実験場から北西1200キロ離れたウルムチ市を訪れた西側外交官は、人々から、少なくとも実験場の一つの地域では果物がドロドロに腐って落ちる現象が起きていると聞かされた」などと伝えているだけである。

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原爆投下の真意 広島6日・長崎9日 --------------

アメリカが日本に原爆を投下する前、日本の降伏を引き出すために、”原爆の使用を天皇に警告すべきだ”、という声があったという。また、R・バード海軍次官は、”ポツダム会談のあと、日本の代表と会い、ソ連の参戦と原爆使用を警告するのがよい”という考えを文書で提案したという。そうすれば、日本が降伏する可能性は大いにあった。しかし、残念ながらこうした提案は生かされなかった。

 シカゴ大学の総長A・コンプトンが、同大学の関係者の意見集約を行い、それを陸軍に報告している。それによると、150名の学者のうち「原爆の直接使用賛成」は15%、「日本に対する軍事的デモンストレーションを先行させるべきだ」が46%「アメリカで日本人代表を招いて爆発実験を見せる」が26%、「使用反対」が11%であった。

 また、シカゴ大学の7名の科学者で構成された「社会的・政治的意義委員会」のメンバーであったシラードは、同僚69名の署名を添えて原爆使用反対の請願を提出している。彼は、原子力政策について政府は科学者たちと討議する必要があるとも主張していた。しかし、こうした科学者の意向も受け入れられなかった。なぜなのか。下記には、そのことに関わる重要な記述がある。

 ヤルタ会談で、8月8日ころのソ連の参戦が約束されていたし、アメリカ軍の日本本土上陸作戦は11月1日の計画であった。また、アメリカは、日本の和平派の動きを察知し、日本の降伏が近いことも知っていた。したがって、日本の降伏のために、原爆投下をそんなに急ぐ必要はなかったのである。にもかかわらず、ソ連参戦前の8月6日に原爆を投下した。

 そして、広島6日・長崎9日の原爆投下は、日本を降伏させるためというより、戦後をにらんだアメリカの戦略であったというのである。ヤルタ会談でソ連に対日参戦を求めていたアメリカが、ニューメキシコ州アラモゴルドにおける原爆実験成功をきっかけに、その戦略を一変させ、ソ連参戦の前に日本を降伏させようと動いたということである(下記1)。結果的に、それは多くの科学者の指摘した通り、ソ連には「脅し」(下記2)となり、無原則な核軍拡競争の時代に入る。 

「原子力の光と影 20世紀を演出した技術」川上幸一(電力新報社)---------------------

第2章 日本への原爆投下  冷戦の序曲

 原爆投下をめぐる諸説


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 原爆の使用を単純な戦争終結の手段とみること、つまり、戦後問題を抜きにして考えることは、当時の状況から見て明らかに無理があり、ためにする議論としか見られないが、アメリカ政府のそうした立場を含めて原爆使用をめぐるおびただしい議論がなされているので、本章ではとりあえずそれらの意見を整理したうえで、若干の考察を加えることにしたい。

 原爆の使用決定の経緯に関する最も詳細な資料は、R・G・ヒューレットとO・E・アンダーソンの The New World Vol.1(1962年)である。この本は、アメリカ原子力委員会(AEC)が生まれるまでの前史(1939ー46年)を、AECの歴史諮問委員会の意を体して書いたものでその意味では官製の歴史であるが、トルーマン大統領をはじめ、原爆使用問題の最高意思決定に参加した人々の行動および意見がきわめて詳細に記録されている。官製の歴史という意味は、この問題に対するアメリカ政府の立場、とくに国際関係および機密保持に対する配慮が、著者を制約したと考えられるからである。


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 次に、戦後に出た批判的な意見の代表的なものは、P・M・S・ブラッケットとJ・S・アレンのそれである。ブラッケットはその著書Fear Warand the Bomb(1948年、田中慎次郎訳『恐怖・戦争・爆弾』1951年)のなかで、原子爆弾の投下は、第2次世界大戦最後の軍事行動であったというよりも、むしろソ連との冷戦の最初の主要作戦の一つであった、という見解を述べている。ブラッケットはイギリスの物理学者(ノーベル物理学賞受賞)で、著書の序文によると、戦後、イギリスの原子力諮問委員会のメンバーとなり、原子力問題の検討を行ううちに、米・英のとっている政策が非現実的で、悲惨を招く方向に進んでいるという確信を持つようになった。ブラッケットは、7月16日に最初の原爆実験に成功、7月26日にポツダム宣言、29日に宣言受諾を日本が拒絶、そして8月6日広島への原爆投下という、事態の展開の異常なスピードに疑問を投げている。アメリカ軍の日本本土上陸作戦は11月1日に予定されており、それまでには十分な時間があった。その間、人的損害の少ない海上封鎖と大空襲を続けることもっできたし、8月8日ころにはソ連の参戦が約束されていたのに、どうしてその結果を見届けることができなかったのか。8月8日に2日先立つ6日という日付は、ソ連が参戦しないうちに日本を降伏させようという意図を示すものとしか考えられない。

 このブラッケットの見解を受け継いだのが、アメリカの政治経済学者アレンのAtomic Imperialism1952年。世界経済研究所訳『原爆帝国主義』1953年)における立場である。その論旨は、主としてR・E・シャーウッドのヤルタ会談に関する著述に基礎を置いている。シャーウッドはアメリカ公式見解について、『ソ連を真夏までに──アメリカ軍主力の日本本土侵入以前に──何としても対日戦に参戦させることが、数えきれぬほどのアメリカ人の生命を救うことになり、またとどめの侵入を不要にするとさえ期待されていた』と書いているが、ソ連はその約束どおり、ドイツ降伏後正確に3ヶ月目の8月8日に対日参戦した。したがって、アメリカが8月6日と、その3日後の9日に原爆を投下したことは、軍事上の便法としてはどうしても説明することができない、というのがアレンの主張である。

米ソ関係の冷却

 ドイツが降伏したのち、連合軍の戦略目標は当然、日本をいかにして降伏させるかに絞られたが、当時有力な作戦として考えられたものが4つあった。すなわち、日本本土上陸作戦、ソ連の参戦、対日降伏勧告、原爆投下である。

 アメリカの最高指導部が苦慮したのは、これら4つの作戦を互いに関連づけてどのように有効に使うか、別の言葉で言えば、どの作戦にウエイトを置くかということであり、指導部の腹が最終的に固まったのは、7月15日から8月2日にわたった米・英・ソ三国首脳のポツダム会談の途中であった。

 この4つの”切り札”のうち、一番早く作戦計画に乗ったのは本土上陸作戦であった。1944年9月のハイドバーク会談で、アメリカが「日本を降伏させるためには、工業センターへの進攻が必要である」と主張し、イギリスがこれに同意したことによって、本土上陸は連合軍の作戦として決定された。


 このハイドバーク会談を機に、ソ連の参戦という考えが米・英首脳部のなかに浮かんできた。日本の頑強な抵抗から見て上陸作戦の死者はアメリカ軍だけで100万人という見積もりもあったほどで、ソ連軍の満州(中国東北部)進攻により関東軍を大陸に引きつけておくことは、次第に絶対的な要請と考えられた。

 この米・英側の要請がかなえられたのが、1945年2月のヤルタ会談である。このとき、日ソ中立条約は約2ヶ月後に期限切れを控えていた。ソ連のスターリン首相は、ドイツが降伏したのち3ヶ月以内対日参戦することを約束し、その交換条件として、南樺太の返還、千島の領有、大連、旅順、満州鉄道に関する利権など、日露戦争で日本が獲得したものにほぼ相当する要求を持ち出した。その一部については中国の同意が必要なため、文書による協定にはいたらなかったが、ルーズヴェルトはソ連の要求を受け入れた。このことは、戦争のこの段階でアメリカがソ連参戦の価値をいかに高く評価していたかを示している


 3月に入って、原爆実験の日取りが7月4日の独立記念日と決定された。この決定のいきさつは明らかでないが、原爆完成の目標がだいぶ前からこの年の夏に置かれていたことは事実であり、したがって日取りの決定は主として技術的な理由によったものと考えられる。しかし、この段階では開発上の技術的困難がまだ残っており、この予定日は一つの”努力目標”であった。このため、原爆完成の見通しが確実になった段階で(6月)実験日は7月13日に、そして最終的には7月16日に変更された。いずれにしても、この実験が成功をおさめるまでは、原爆はまだ一つの可能性の域を出ず、現実の作戦計画には入ってこなかった。

 この原爆実験日との密接な関連のもとに、アメリカ首脳部が考慮したのは、米・英・ソ三国首脳会談(ポツダム会談)の日程であった。それは7月1日に予定されていたが、スチムソン陸軍長官は原爆実験の結果を待たないで首脳会談を開けば、アメリカは切り札を持たないで賭をしなければならないと考え、アメリカ軍まだ数ヶ月は行動を起こさない(つまり本土作戦は始まらない)から、首脳会談を延期した方がよい(時間は十分にある!)と、トルーマン大統領に進言している。この結果、会談の日取りは7月15日からに変更された。


 スチムソンのいう賭けが、ソ連を意識したものであったのは言うまでもない。つまり、ポツダム会談の日取りの変更は、アメリカ指導部が対ソ交渉と原爆とを互いに関連づけて考慮した最初の例であった。6月の段階で、こういうソ連との対決意識が生まれるまでには、米ソ関係を急速に冷却させた諸事件があった。3月から5月にかけてが、そういう時期として特徴づけられる。

 米ソ関係が冷却に向かった発端は、ヤルタ会談でソ連が持ち出した前述の交換条件であった。ルーズヴェルトはこれを受け入れたが、その内容はやや過大な、あるいは不明確な要求として受け取られた。とくに、中国領土に関係する利権要求は、これを足掛かりにして、ソ連が中国に対する領土要求を持ち出すのではないか、という不安を抱かせた。しかも、アメリカ首脳部にとってこの不安を裏付けるような事件が起きた。


 ・・・以下略

ニューメキシコ実験の成功

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 一方アメリカの懸案であった原爆実験は7月16日未明、ニューメキシコ州アラモゴルドで大成功をおさめた。それは、すべての楽観的な予想を上回り、TNT火薬2万トン以上の威力を持つと推定された。成功の電報はその日の夕方、すでにポツダムに来ていたアメリカ首脳部のもとに届いた。

 この日スチムソンは対日降伏勧告を早期に、ポツダムの進行中にも行う方がよいという考えになっていた。スチムソンは、対日戦が続いている限り、アメリカは政治的、経済的に海外の安定状態の再建に寄与することがむずかしいと考えた。スチムソンの念頭には、続出しているヨーロッパの諸問題があったに違いない。このころ、日本の支配層の一部が戦争終結のためにソ連との接触を試みているという情報が入り、スチムソンはこの面からも、できるだけ速やかに降伏勧告を日本に伝達しなければならないと考えた。要するに、ソ連が間に入っては厄介なことになるし、対独戦から解放されたソ連が、ヨーロッパで勝手なことをするのを放置してはおけない。そのために早期終戦が、絶対に必要であるというのである。早期終戦が、少なくてもアメリカ兵の生命を救うという目的のためだけではなかったことは明らかである。
 原爆実験成功の報告が届いたとき、アメリカは絶対の切り札を手中にしたことは間違いなかった。その結果、ポツダム会談に臨むアメリカの態度は一変した。


ソ連の対日戦を阻止せよ

 アメリカの態度の変化、もっと正確にいえば米・ソの対決ムードは、7月19日ころから急速に強まった。


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 The New World によると、チャーチルは、アメリカの首脳部が、ソ連に対して断固たる態度に出ていることに気づいていた。トルーマンは、ポーランド軍による東ドイツ占領を拒否し、ルーマニア、ハンガリー、フィンランドにできた政府の承認を拒否した。いまやそれが、原爆実験の成功を背景にした立場の強化によるものであることをチャーチルは理解した。

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 …ソ連参戦に対するアメリカの考えは、次のような順序で変化していった。
(1) 本土上陸作戦の犠牲を減らすためにソ連参戦は絶対の要請である。ヤルタ協定は受け入れなければならない。
(2) ヨーロッパにおけるソ連の行動はヤルタ協定の価値に疑問を投げた。しかし、ソ連参戦は必要であるから忍耐す
  べきである。
(3) 原爆の完成によって、アメリカの立場は強化され、ソ連の参戦は不必要になった。
(4) ソ連を遠くまで進出させてはならない。できればソ連参戦の前に、戦争を終わらせるべきである。
(5) そのために、対日降伏勧告と原爆投下を急ぐべきである。前者にはソ連を参加させない。また後者はソ連に知ら
  せない方がよい。 
(6) 早期降伏を確実にするため、原爆投下は一発より二発の方がよい。

  すべての外交的修辞を剥ぎ取れば、原爆使用に至るまでのアメリカ首脳部の本心は以上のようになる。それ以外にあり得ないというのが ”The New World ”の記録から引き出される結論である。


「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)-------------------

第4章 核にまみれた瀕死のロシア

 隠された世界最大の核汚染

”ヒロシマ”という脅迫状

 「私が広島、長崎への原爆投下にどのような衝撃を受けたかわかりますか。これはわれわれに対する脅しだ。われわれが原爆を作らなければ、アメリカは必ずわれわれにも原爆を使うだろう。アメリカに何としても追いつかなければならない。それはソビエトの国の意思であり、われわれ科学者の気持ちだったのです」
 ソビエト原爆の設計責任者ハリトン博士の言葉である。
 広島、長崎への原爆投下に対するソビエトの対応は素早かった。
 1945年8月20日、スターリンは「ウラン問題」(原爆開発計画はソビエトではそう名付けられていた)解決のために、特別の委員会を設立した。委員長にはソビエト治安機関の最高責任者で、スターリン時代の粛正・虐殺の直接の責任者であるベリヤが任命された。
 委員会のメンバーは、ペルブーヒン副首相、ボズネセンスキ国家計画委員会議長、マレンコフ中央委員会書記、そして原爆の父クルチャトフ博士という錚々たる面々を揃え、委員会には非常大権が与えられた。委員長がベリヤとなったことからもわかるように、原爆開発計画は非常なソビエトの治安機関の完全な監督下におかれた。


・・・(以下略)
----------------原爆投下の経緯・トルーマンの策略---------------

 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(草思社文庫)は、題名が衝撃的であるが、その内容も衝撃的であり、驚かざるをえない。原爆投下に関してトルーマンンが語ったこと、また、戦後、原爆投下の正当性と大統領の名誉を守るために書かれたという陸軍長官ヘンリー・スティムソンの論文は、事実に基づく論文ではなく、創作なのだという。

 トルーマンンは、広島・長崎への原爆投下について「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語った。1995年第2次世界大戦終結50周年を記念して、原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」や日本の被爆資料の展示を計画したアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館が、アメリカ国内で大変な抗議や批判を受け、その計画を変更せざるを得なかったのは、そうしたトルーマンンの言葉が、多くのアメリカ人に受け入れられてきたからであろう。

 しかしながら、同書によると、当時のアメリカ軍の首脳は、誰も、百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったという。百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後、原爆投下に対する批判や非難の声が高まってからの創作であり、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったというのである(スティムソン論文の百万人の数字が根拠のないものであったことは、この論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディにNHK取材班が確認をしている)。したがって、「百万人のアメリカ兵の生命を救うため…」という原爆投下の目的は虚偽説明だったのである。

 原爆投下の前に、「ソ連の参戦」、「天皇の地位の保全」、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告すれば、日本は必ず降伏する、と軍の関係者や政府関係者の多くは考え、トルーマンに進言していた。原爆投下の前に警告を発するべきだという声もあった。また、当時すでに日本が戦争終結に向けて動いているという情報を、トルーマンは得ていた。しかし、トルーマンンはそれらを考慮しなかった。チャーチルやスターリンさえも、日本の面子を認めて、実質的な無条件降伏の達成を助言したが退けたという。

 それは、トルーマンンに「4つの期日」を計算に入れた予定表があったからであるという。その4つの期日は、7月4日・原爆実験の予定日、7月15日・三国首脳会談の開幕日、8月1日・原爆投下の準備が整う日、8月8日・ソ連の参戦の日である。同書は、この4つの期日をにらみながら、トルーマンンが原爆投下のために、どのようなの策略をめぐらしたのか、を明らかにしている。トルーマンのねらいは、「日本の降伏」ではなく、「ソ連参戦前の原爆の投下」だったということである。

 トルーマンンは、チャーチルが何度も電報を打ち、早期開催を要求した三国首脳会談を延ばしに延ばし、対日戦早期終結ため、日本への通告あるいは警告を発するべきだ、という軍関係者や政府関係者のたび重なる進言を巧みにかわし、スティムソンの日本に対する通告の草案から、天皇の地位保全に関する部分を敢えて削除し、原爆については意図的に何もふれず、さらに、スティムソンの草案に入っていた共同署名国のソ連の名を消し、その宣言は、アメリカ国務省からではなく、日本が正式なものと受け止めにくいように宣伝と広報を担当する戦時情報局から日本に伝えさせた。それらは、すべて原爆を投下するまで、日本を降伏させないようにしておくためであったという。そして、ソ連参戦前に、原爆投下の準備が整ったので、その予定表通り、原爆を投下したのである。

 その原爆投下の経緯を比較的簡潔まとめている文章が「原爆はこうして開発された」山崎正勝・日野川静枝編著(青木書店)にあったので、それを抜粋する。原爆投下に関するこうした理解は、あまり知られていないが、歴史学者や原爆の研究者の間では「常識」となっているとのことである。
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                             第7章 核と科学者たち

3 ポツダム会談と原爆

ローズヴェルト大統領の死

 1945年4月12日、原爆開発を指令した大統領ローズヴェルトが心臓発作で急死した。かわって大統領になったH・S・トル-マンは、そのとき副大統領であったが、それまでまったく原爆開発計画の存在を知らされていなかった。そのため、大統領就任式の日に陸軍長官スティムソンが、トルーマン新大統領にはじめてその話をし、あらためて4月25日に詳しい説明をした。原爆の威力について、原爆投下の目標が日本となっていることについて、またさらに原爆が戦争の終結をはやめると確信されていることなどについて話した。とくにスティムソンは、原爆の扱いを誤れば、世界が最後にこのような兵器によって意のままにされることになるであろうと警告し、原爆の存在する戦後世界についてトルーマンの注意を喚起しようとした。この会談の結果、原爆に関するさまざまな政策を大統領に勧告する役割を持つ、暫定委員会設置されることになった。議長にはスティムソンがなり、7月には国務長官に就任する予定のJ・F・バーンズが、大統領代理として参加した。


 5月8日、ドイツは無条件降伏した。ヨーロッパでの戦争は終結し、残るはアジアでの対日戦のみとなった。そのころ、ソ連の進出に対抗するために、アメリカの政策決定者たちの間でアジア政策が根本的に見直されることになった。そうした過程で、ソ連の対日参戦の前提となっているヤルタ秘密協定の内容を、アメリカ有利に改訂する課題が生まれてきた。当然、その改訂はソ連の対日参戦前に実現しなければならないものであった。また、アメリカのアジア政策の柱に、中国ではなく日本を据えるという考え方も改めて主張された。それは、ソ連やアジアの革命勢力に対抗するために、日本をアメリカのパートナーとして残そうというものであり、そのためには、徹底的な破壊がなされる前に日本を終戦に追い込む必要があった。

引き延ばし戦術

 5月28日朝にトルーマンと会談した国務長官代理のJ・C・グルーは、対日戦の早期終結のために、大統領がただちに対日警告を出すようにと進言した。彼によれば、日本側で無条件降伏に対する最大の障害は、無条件降伏が天皇および天皇制の破壊または永久的除去を伴うであろうとする日本人の信念にあった。それゆえに、日本人自らが、自身の将来における政治形態を決定することを許されるであろうという何らかの指示を与えれば、早期終結が可能であろうというものであった。グルーは、日本が東京大空襲で大損害を被っている今こそ、そうした内容の対日警告が「最大の効果」を発揮するだろうと予測していた。

 トルーマンはグルーに、自分も同様な考えであるが、まず陸軍長官、海軍長官、参謀総長、そして海軍作戦部長と討議するようにと指示した。彼らは、翌29日にスティムソンの事務所で会合をもった。会議の結論は、グルーの進言した内容の対日警告を出すことには賛成であるが、今すぐ出すことについては異論があるというものだった。「全問題の核心は、タイミングの問題」とされ、結局、対日警告は今すぐ出さず先延ばしされることとなり、大統領はそれを諒承した。


 こうした見解の相違の根底には、何があったのだろう。それは、原爆開発計画の存在を知らされていないグルーと、それを知っている人びととの状況判断の違いであった。原爆開発計画を知っているスティムソンたちは、グルーのように対日警告と対日戦の早期終結を結びつけるだけでなく、対日警告、対日戦の終結、原爆の対日投下、そして極東における対ソ関係、それらを密接に関連づけて考えていた。それゆえに、対日警告の先延ばしも、原爆の完成を待つ「先延ばし戦術」の一環であった。

原爆外交のスタート

 原爆の対日投下についての暫定委員会の勧告を、トルーマンンにつたえた6月6日の会談の時、スティムソンは、大統領が原爆開発の進展にあわせて、巨頭会談を、7月はじめから7月15日まで延期したと聞かされた。これまた、「引き延ばし戦術」であったが、それは巨頭会談でヤルタ秘密協定の改訂をもくろむアメリカにとって、原爆の完成がいかに重要な意味をもっていたかということを示していよう。

 ポツダム会談は、7月17日からはじまった。陸軍長官スティムソンは代表団に加わらなかったが、重要な任務を帯びてポツダム近くのバーベルスクベルクにきていた。彼は刻々と送られてくる原爆実験の報告を、すぐさま大統領に伝える役目を担っていた。ポツダム会談のさなか、原爆実験の結果を知ったトルーマンンが、ソ連に対する交渉態度をいかに変えていったかをみるとき、それは明らかに脅迫外交ともいえる原爆外交のはじまりといえた。


 7月16日、スティムソンのもとに届いた実験結果の第一報は、それが「予想をこえた」成功であることを告げていた。翌朝、さっそく彼はトルーマンンに、実験成功の知らせをもたらした。この日、はじめてトルーマンンはスターリンと会った。彼はその日の日記にスターリンとのやりとりを記している。それによれば、トルーマンンが「ダイナマイト」と称したスターリンの積極姿勢がうかがえる。スターリンはスペインのフランコを首にしたがっているし、イタリアの植民地や、イギリスの委任統治領なども含めた他の委任統治領を分割したがっていた。しかし、トルーマンンも「私もまだ爆発させてはいないが、あるダイナマイトをもっている」として、原爆を力強い後盾と考えていることがわかる。

 しかし、この日(17日)の会談で、ソ連の対日参戦が8月15日になることを知らされトルーマンンは、日記に「それが起こったときには、日本は終わる」と記した。それは、対日戦の終結がソ連の参戦によってもたらされる、と考えていたことをあらわしている。


 7月18日、ハリソンから原爆実験の広範囲な細目のいくつかについて知らせる第二報が、スティムソンの手もとに届いた。トルーマンンは原爆の存在強い味方にして、スターリンに対してヤルタ秘密協定の改訂を迫ろうとしていた。また、その日の日記には、「ロシアが参加する前に、日本はつぶれるだろうと信じる。マンハッタンが日本本土のうえにあらわれるとき、彼らはそうなるだろうと私は確信している。私はスターリンに適当なとき、それについて知らせることになるだろう」と記している。その日の会談で、スターリンから日本の和平依頼の事実を知らされた。つまり、日記は、日本が終戦決意を示している現在、対日戦の終結はロシアの参戦によってではなく、それ以前になされるアメリカの原爆の対日投下によってもたらされるであろうという判断をあらわしていた。また、原爆が現実の存在となった今、チャーチルとの合意のうえで原爆の存在をスターリンにも知らせようというのである。

 7月21日、特使によって原爆実験の詳報がスティムソンに届けられた。長文のグローブスの覚書は、爆発で開放されたエネルギーが少なく見積もってもNTT火薬1万5千トンから2万トンに達するものであったことを示していた。それは予想以上の値であり、トルーマンンは原爆の威力にますます自信を深め、ついにはそれを、「過信」するようになったといえよう。22日チャーチルはスティムソンに、前日の会談でのトルーマンの変化をこう語っている。「昨日トルーマンンに何が起こったかを今や知った。私は理解できなかったが、この報告(グローブスの覚書)を読んだ後で会議に出たとき、彼(トルーマンン)は別人となった。彼は、ロシアにああしろこうしろと言い、会議全体を牛耳った」(荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、222ページ)しかし、こうして達成されたヤルタ秘密協定の改訂は、後にさまざまな禍根を残したと言われている。

 原爆投下作戦命令とポツダム宣言

 原爆実験を知った後、トルーマンンがいまかいまかと待ち望んでいた知らせが7月23日の夜に届いた。スティムソンは翌朝、そのハリソンからの電報をもって大統領を訪ねた。それは、8月1日以降ならば原爆の投下作戦がいつでも可能であることを告げていた。さっそくトルーマンンは、8月3日以降、目視爆撃ができる転向となり次第、最初のウラン爆弾を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下する命令を承認した。

 同時に彼は、こうした状態のなかで対日戦終結の方法として前から検討されてきた対日警告、すなわちポツダム宣言を出す準備に取りかかった。しかし、トルーマンンが出そうとしているポツダム宣言には、対日戦の早期終結のために必要と考えられていた天皇制を保証する条文が、それまでのものから変更されてあいまいにしか示されていなかった。その結果、トルーマンン自身が日本側の拒否を確信しているようなポツダム宣言となって、会談不参加の中国の蒋介石総統の承認を得て、7月26日に出されることになった。


 さらにもう一つ、チャーチルとすでに合意していたスターリンへの原爆告知が、この日まったく誠意のないやり方でおこなわれた。それもまた、7月4日にワシントンの国防省で行われた英米合同政策委員会の確認に反したやり方であった。トルーマンンは会談が終了する間際になって、何気なくスターリンに、前例のない破壊力をもつ新兵器をもっているとだけ告げた。それは、実際の原爆投下の衝撃をもっとも大きくするために、意図的になされたことであった。トルーマンン自身は、たぶんスターリンには何のことかわからなかったに違いないと推測した。しかし、スターリンは新兵器が原爆であることをしっかりと理解し、さっそくモロトフ外相といっしょに1942年以来停止していた原爆開発の再開について話し合ったのである。まさに、トルーマンンの誠意のない、あいまいな原爆告知が、この時点からの核兵器開発競争の引き金になったといえよう。

 こうした7月24日の一連のトルーマンの行動は、いったい何を意味しているのであろう。それは対日戦の終結を、ソ連の参戦によって実現するのでもなく、またポツダム宣言によって実現するのでもなく、まさにアメリカの原爆投下によって実現しようという考えであった。その根本には、ソ連の参戦前に日本が降伏すれば、ソ連の参戦の条件であるヤルタ秘密協定自体が空文化できる。それによって、アメリカの国益は守られるし、同時にヤルタ秘密協定の公開によってうまれるであろう、国内世論の批判から自分たちの身を守ることもできる。さらに重要なことに、実践使用することで原爆の威力は誰の目にもあきらかになろう。こうしたさまざまな目論見があったのだろう。

 8月6日、最初の原爆が広島に投下された。しかし、トルーマンたちの予測に反して日本は降伏しなかった。逆にこの原爆投下が引き金となって、ソ連は8月9日の未明、それまでの8月15日という予定を繰り上げて対日戦に参加してきた。日本の降伏については、ソ連参戦の衝撃を抜きにしては8月9日の終戦劇はありえなかった」と言われている。トルーマンたちの思惑、ソ連の参戦前に原爆の投下によって対日戦を終結するということは、みごとに裏切られたのである

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原爆論争とスティムソン論文-----------------

 第2次世界大戦終結後しばらくして、アメリカ国民に原爆の破壊力の情報が伝わり、広島・長崎の惨状が明らかにされるにつれて、原爆投下に対しての批判や非難の声が渦巻いた。そんな中で、アメリカ国民に向けて、原爆投下の正当性を訴えるために書かれたのが、「スティムソン論文」である。以後、その内容が原爆投下に関するアメリカ政府の「公式解釈」をかたちづくり、今もアメリカ国民の間では広く受け入れられている。それは、「原爆投下は,戦争の終結を早め,予定されていた日本への上陸を無用にし,結果として100万の米兵の命を救った、ゆえに正当であった」というような内容である。

 ところが、このアメリカ国民の常識となっている「公式解釈」は、今では、原爆を研究する多くの歴史学者や研究者によって事実上否定されている。「スティムソン論文は、戦後創作された作文である」というわけである。もしアメリカ国民が、「原爆が戦争の終結を早め100万の米兵の命を救った」というスティムソンの論文が根拠のないものであると受け止めていたら、あるいは、アメリカ国民が、米兵の「死者1万5000ないし、2万を含む6万3000の損耗」を避けるために、多数の一般市民を含む20万以上の日本人を、原爆投下の年に無残な死に追いやり、その後も毎年被曝による死者を出している事実を知ったら、さらに、原爆を投下しなくても、日本を降伏させることは可能であったという事実を知ったら、原爆投下に対するアメリカ国民の批判や非難は、核廃絶に向かっていたかも知れないと残念に思う。

 下記は、そうした原爆投下に関わる戦後の論争の経緯を、「アメリカの中の原爆論争 戦後50年 スミソニアン展示の波紋」NHK取材班[編集・執筆](ダイヤモンド社)から抜粋したものである。
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                          第7章  作られた「100万人神話」

1 太平洋の苛酷な戦争

 日本への原爆投下の決断をアメリカの国民に説明するための動きは、1945年8月10日、国民に宛てたハリー・トルーマンン大統領のスピーチから始まった。
「世界は、初の原爆が軍事基地のある広島に投下されたことに注目するであろう。これは、この攻撃で、できるかぎり一般市民を犠牲にしたくない、と考えたからである。私たちは、戦争の苦しみを終わらせ、何千人もの若いアメリカ人の命を救うために原爆を使ったのである」
 この発表の中の「軍事基地のある広島」という言葉によって、これを聞いたアメリカ人は、命を落とした一般市民は少数であり、一方「何千人」もの若いアメリカ人の命が救われたと信じた。日本の本土への攻撃に備えて移動中だったり、九州沖の艦上で待機していたアメリカの兵士たちは、原爆によって自分たちの命が救われたと確信しただろう。国で待っている人々にとっても、いつ、どんな不幸が舞い込んできてもおかしくない太平洋の彼方の戦地から若者たちが帰ってくるというだけで、どのような兵器の使用も正当性のあるものとなった。終戦直後の8月末に行われた世論調査では、アメリカ人の85パーセントが原爆の使用に賛成であった。


 しかし、終戦の喜びが次第におさまり、この新兵器の破壊力に関する情報が広がるにつれて、一般市民が暮らす大都市に原爆を投下したことに対して、批判の声が上がるようになった。原発の開発に加わった科学者やジャーナリストたちが、アメリカの勝利がほぼ確定していた時期にそのような兵器を使ったことが、真に必要なことだったのかどうかを問い始めた。

 やがて、数人の宗教者たちがこれに加わり、1946年3月6日の『ニューヨーク・タイムズ』に、広島と長崎への原爆投下は「道義的に弁護の余地がない」と非難する投書が掲載された。これらの投書は、2つの都市を破壊したことによって戦争の終結を早めることができたかどうかにかかわらず、その行為によってアメリカは「神の法則に反すると同時に、日本の人々に対しても大きな罪を犯した」と主張している。


 1946年8月31日、ニューヨークの市民誌『ニューヨーカー』は特集を組んで、その号すべてをジョン・ハーシーというジャーナリストによる、荒廃した広島からのレポートに当てた。被爆者の目から見た現状、そして荒廃した町のようすを渾身の力を込めて描き出す感動的な記事は、読者に強い印象を与え大きな反響を呼んだ。ハーシーの記事はいくつかの新聞に紹介されたほか、ABCラジオを通じて全国民に放送され、公共の場での話題となった。

 トルーマンの発表によって「日本の軍事基地」とされた広島の破壊を、アメリカの人々は当然のように支持していた。しかし、原爆の犠牲になった人々の姿を知り、普通の人々が住む大都市が、まるごと破壊されてしまったことが明らかになったのである。こうして、原爆の投下に対する疑問や、原爆そのものの道徳性を問う想いがまたたく間に広がっていった。


 2 1946年のノーマン・カズンズの発言

 原爆の使用に対する疑いの世論が高まるなかで、1946年9月14日の『サタデー・レビュー・リテラチュア』は、原爆を承認したリーダーたちを正面から攻撃し、質問によって回答を要求する、編集長ノーマン・カズンズの記事を掲載した。
 「私たちは人間として、広島と長崎で犯した罪に責任を感じているだろうか」「事前の示威行動をせずにただちに原爆を使用することに反対した科学者たちの申し立てを、権力者たちはなぜ、聞こうとしなかったのだろうか」そして、「日本がヒロシマ以前にすでに降伏しようとしていたという主張を、どう考えればよいのだろうか」
 カズンズは、この問題をさらに追及するために、アメリカの人々に対して、原爆の使用は理想的なものだったと思うかと問い、「他の国が核をまったく持っていない時に、われわれが他に先がけてそれを使用し、これからの戦争では核使用が一般化してしまうことを承認してしまったようなものだ」とつけ加えている。


 このような質問や批判に、原爆投下の決定に関わった指導者たちの間にも動揺の色が見え始めた。
 
 ・・・

 コナント(マンハッタン計画に参加したハーバード大学学長)は、陸軍省の元同僚を通して、スティムソン(ルーズベルト・トルーマンン両大統領のもとで陸軍長官を務めた人物)に手紙を出し、原爆の使用を正当とする声明文を書いてほしいと説得した。スティムソンはこの計画に加わることに最初乗り気ではなかったが、数人の元同僚たちから要望を受けて、結局、声明文を書くことを承諾した。
 
 トルーマンン大統領も、この計画を知って、スティムソンの執筆に期待するという手紙を1946年12月31日に、スティムソンに送っている。トルーマンンも、広島への原爆投下は十分に検討されることなく性急に決断されすぎたのではないか、という疑問があがっていることに不安を感じていたのである。大統領はスティムソンに「投下決定に関する記録を早急に整理する」よう要請した。


3 1947年のスティムソン論文

 アメリカ国民に向けて原爆投下の正当性を表明するという役割を与えられたスティムソンは、マクジョージ・バンディという若いアシスタントの協力を得て論文の執筆作業を開始した。このバンディは、後にベトナム戦争の時代に国務次官補を務めることになる人物である。

 スティムソンに代わってほとんどの執筆をお行ったバンディは、どのようにすれば最も説得力のある声明文を書くことができるか、コナントをはじめ多くの官僚たちからアドバイスを受けながら作業を進めた
。…

 ・・・

 この論文は、あらゆる批判をすべて否定するために書かれるものであると同時に、その意図を、人々に感じとらせないような配慮が必要だった。
 論文の最終原稿を読み終えたコナントは、スティムソンに宛てた手紙に「いい調子に仕上がっていると思います。このおかげで十分な成果をあげられるでしょう」と書いている。
 ヘンリー・スティムソンによる「原爆使用の決断」(The Decision to Use the Atomic)と題する論文は、1947年の『ハーバーズ・マガジン』2月号に掲載されたが、その反響はコナントが初めに予想していたよりずっと大きなものになった。


 高まる原爆投下批判に対するジェームズ・コナントの対応策は、こうして、原爆に関する最も影響力の大きい声明へとつながったのである。この声明はすぐにヒロシマの決断についての「公式な」歴史として認められ、批判的だった人々をも含む多くの人々から絶賛されることになった。
 『ニューヨーク・タイムズ』はこれを一面で取り上げ、その記事は「公共への高い重要性」があるとして、無料で国内のさまざまな新聞に掲載されることになった。読者たちは、決断の背景にあった理由やそれまで知られていなかった事柄を力強く語るスティムソンに感動し、彼の厳格で、人間性に満ちた論文に感銘を受けた。


 スティムソンの論文の中の最も重要だった点は、原爆の使用に至った最大の理由は戦争を早く終わらせることだったとし、そのために救われたアメリカ人の人数として「100万人以上」という数字をあげたことである。

 ・・・

 やがて極秘となっていた資料が公開され、1980年代半ばにはこの死傷者の推定人数の確実性を問うための十分な証拠が、歴史家たちの手許に揃った。すべての調査の結果、本土進攻に動員されると予想された人数はすべて合わせても、スティムソンの言った「100万人」を下回っていた。…

 1995年4月、私たちはスティムソンの声明文執筆の協力者、つまり論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディに会うことができた。そして、彼自身の口からこの死傷者の推定は何の根拠もなかったことを確認することができたのである。

4 バートン・バーンステインの証言

「50年前の夏、トルーマンン大統領が運命の決断を下したとき、彼が得ていた情報は、原爆の投下によって、約6万3000人のアメリカ兵の命を救うことができることを語っていた」──バートン・バーステインがそう記す研究結果は、トルーマンン大統領が後に回顧録で記した「50万人」という数字を、そしてスティムソン論文以来、教科書にも堂々と記され続けた「100万人」という数字を、大きく書き替えるものだった。
 バーンステインの許には、そのことで非難の手紙が数え切れないほど寄せられた。
 沖縄戦の50周年記念式典も終わった1995年4月、スミソニアンの展示計画がすっかり姿をかえてしまったことに大きな失望の表情を見せるバーンステインに、私たちはスタンフォード大学の一室で会うことができた


 Q スティムソン論文について、どうお考えになりますか。
 A スティムソン論文は、1947年、原爆使用に反対の声が渦巻いていた時代に発表され、たとえて言えば、率先してこれらの波を大洋から締め出し、おし静めて基本的なコンセンサスを築き直しました。論文が存在しなくてもこの見方がおおかたのコンセンサスでもありえたかどうかは、何とも言えません。間違いなく、論文はコンセンサスを作るのに役立ちました。そして論文は1948年以後60年代中頃まで、ほぼ一世代にわたるアナリストにとって判断の基準となり、ほとんどのアナリストがこの論文を、なぜ原爆が使われたのかを説明するのに引用しました。
 この論文は、真実を伝えるためではなく、真実を利己的な目的で作文し、しかもそうした目的があったことを暗に否定するために思いついたものです。歴史は単に過去に起こった事柄ではなく、人々が、過去に起こったと考える事柄でもあるのです。時として、過去に起こった事柄について、ある特定の考え方を他人に押しつけようと目論むこともあります。これが、ヘンリー・スティムソンのなし遂げた仕事でした。
 Q この論文が作り上げた「事実」は、突き崩されるべきですか? あるいは崩すことができますか?

 
 ・・・
   歴史学者の中には、1945年の6月中旬の推定損耗兵員数は6万3000人であったこと、そしてこの数字は、トルーマンンに原爆投下を決断させるのに十分意味のあるものだったという見方も、けっしてありえないことではないという意見もあります。実際、私も、それがトルーマンンが原爆を使った最大の理由の一つであると考えています。死傷者数6万3000人は彼にとって許し難い数だったのです。
 ところが50年後の今日、全米退役軍人協会と空軍協会は、思うに、死者1万5000ないし、2万を含む6万3000の損耗という数は少なすぎると思ったのでしょう。そして、50万とか100万なら、どんな議論をも抑えられるだろうと

 Q あなたは、自分の考え方が少数派だと感じられたことがありますか。
 A 原爆の問題に関して、自分が少数派だとは思いません。実際、展示企画の担当者たちがスミソニアン展示を実現しようとしていた1992年、93年頃に、ほとんどの国民のコンセンサスを取りつけていた考え方は、原爆は必要ではなかったか、あるいはたぶん必要ではなかっただろうという考え方でした。わたしは「たぶん必要ではなかった」という立場を代表していました。今も、代表しています。原爆を研究している歴史学者はほとんどが、今でもその立場をとり、おそらくはほとんどの学者がその立場をとっているのではないかと思います。
… 
 …歴史学者のなかの多数派だろうと思います。
・・・

(以下略)

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「ポツダム宣言」発表前の原爆投下命令--------------

 日本の降伏にかかわるポツダム宣言の発表は1945年7月26日であった。ところが、下記の2つの文書で明らかなように、その前日の7月25日に原爆投下命令が下されている。俄には信じがたいこの公式文書は「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)に紹介されている。
 日本のポツダム宣言拒否が原爆投下につながったという理解が誤りであるとすれば、歴史は書き直される必要があると思う。

 当時のアメリカ大統領トルーマンは、チャーチルやスターリンの要請を巧に退け、ポツダム会談を、原爆実験の結果が判明する時期まで意図的に延ばした。そして、原爆の実験が成功し、投下の準備が整うと態度を一変させたという。トルーマン大統領は、ポツダム宣言発表直前に調印国からソ連を外し、強引に、ポツダム会談には参加していなかった中国(蒋介石政権)を加えた。また、草案にあった天皇の地位保全の条項を宣言からは削除している。さらに、原爆投下前に、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告するべきだという科学者等の進言も受け入れなかったし、ソ連の参戦についても何も触れなかった。当時、日本はすでに降伏に動いており、アメリカの日本本土上陸作戦の予定は、かなり後の1945年11月1日であった。にもかかわらず、ソ連の参戦直前に突然原爆を投下したのである。なぜなのか。

 それらを考え合わせると、アメリカ大統領トルーマンが
「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」という意図を持って動いていたという主張が、間違ってはいないように思う。トルーマン大統領を中心とする一部のアメリカ首脳部にとっては、「日本の降伏」ではなく、効果的な「原爆の投下」こそが課題であったということである。下記は、そうした意味で、世界中の歴史教科書の書き直しをせまる重要文書であると思う。

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                         第2章 ケイト教授からの質問状

ケイト教授からの質問状

 1952年(昭和27年)の初冬、12月6日。
 アメリカの首都ワシントンにある大統領官邸、ホワイトハウスに一通の手紙が届いた。中西部の大都市、シカゴにある名門シカゴ大学歴史学部の封筒に入っている。差出人は同学部のジェームズ・L・ケイト教授、宛名は「ハリー・トルーマンン大統領閣下」となっていた。
 もともと西洋中世史が専門ながら、その後戦史研究の道に転じたケイト教授は、この手紙の中で広島・長崎への史上初の原爆投下命令が出された正確な日時と状況を、アメリカ合衆国大統領に尋ねていた。とりわけ、この命令と、ポツダム宣言に対する日本政府の拒否──いわゆる「黙殺」──との正確な前後関係について戦争終盤の米国の最高責任者であったトルーマンから直接の”証言”を得たいと望んでいた。

 いうまでもないが、これは2つの事実の時間的な前後関係を確認するだけの意味合いではない。日本政府のポツダム宣言拒否という”事態を受けて”(以下の手紙の中で、ケイト教授はこれを”inthe face of〔事態に直面して〕”とわざわざ括弧を付けて強調している)、アメリカ政府最高責任者による日本への原爆投下が初めて決断されたのかどうかの因果関係を知りたいと望んでいるのである。


 その意味でこの手紙は、一民間学者からの学問的照会ではなかった。手紙を受け取った側のトルーマンンにとっても、合衆国元首であり、かつは憲法上の三軍最高司令官として、自分がとった歴史的決定の根拠を後世に示す絶好の機会であった。

 ケイト教授はこのとき、多忙な大統領の日程を長い手紙で邪魔することを丁重に詫びているが、そんな必要は実はほとんどなかった。
 というのも、トルーマン大統領は、45年4月から続いた7年9か月もの長い任期をあと1か月と2週間で終え、故郷のミズリー州インディペンデンスへ帰る日を心待ちにしていたからである。官邸のスタッフたちも、このころ、政権最後のクリスマスの飾り付けに余念がなかった。


責任のタライ回しを止める ・・・略

てんやわんやのホワイトハウス ・・・略

「黙殺」と原爆の前後関係

 ケイト教授の手紙と、ホワイトハウスのあたふたとした対応を示す内部メモ、大統領の返書の草案、スタッフの入れ知恵で修正された最終回答などは今日、ミズリー州インディペンデンス市のトルーマンン記念図書館で、大統領秘書所蔵のファイルの一部として公開されている。大統領スタッフによると思われる書き込みや横線も入った手紙の写真も残っている。

 まずは騒ぎの発端となったケイト教授の質問状の全文からご紹介しよう。マル括弧の中は、日時や指名を明確にするために筆者が挿入した(以下同じ)。原注の場合はそう断っておいた。
 念を押す必要もないと思われるが、トルーマン記念図書館を含む全米9か所(フランクリン・ローズベルトからレーガンまでの各大統領の名を冠している)の大統領記念図書館の文書や資料は、国立公文書館(NARA)の管轄下にあり、すべて米政府の公式文書の扱いを受けている。


大統領閣下
ワシントンDC                                               シカゴ大学  
                                                        イリノイ州シカゴ市37
                                                        歴史学部   
                                                        東59丁目1126番地
謹啓
 この数年間というもの、『第2次世界大戦における陸軍航空隊』の編集者および執筆者の一人として奉職することは、私に与えられた特権でした。この本は、米空軍とシカゴ大学が共同スポンサーとなって、非営利を原則に公刊されている歴史書です。現在はこの第5巻の刊行作業中で、この巻での私の仕事は広島、長崎に対する原爆攻撃の説明を書くことにあります。原爆を使用するとの決定に関して、私は証拠の食い違いと思われるものに直面しており、これを解決することが私にはできません。そこで、大統領閣下の時間に食い込むのは、気乗りしないのですが、(この問題の)最良かつ恐らくは唯一の権威である閣下に情報をいただくようお願いする次第です。


 閣下ご自身が出された声明──1945年8月6日(の広島原爆投下直後)にだされたものと、1946年12月16日付でカール・T・コンプトン博士に出され、1947年2月号の、アトランティック・マンスリー誌に掲載された手紙──を、私は非常な関心を持って読みました。また、故スティムソン(終戦時の陸軍長官)が、さらに詳しく説明し、1947年2月号のハーバーズ誌に掲載された論文も読みましたが、これも閣下の声明に完全に一致しています。こちらの要旨はこうでした。閣下が勇気を持って責任を遂行されたあの恐るべき(原爆投下の)決断は、(1945年)7月26日のポツダム宣言に盛られた警告を、鈴木首相が拒否したのを”受けて”ポツダムで下されたものであること、その(原爆使用の)動機は、(1945年)11月に予定されていた九州進攻作戦に伴うはずの大量の人命の損失を避けるためであること、がそれです。最近になって私は、予定された4つの(原爆投下)目標のうちのひとつに対し、最初の原爆を投下するよう、カール・スパーツ陸軍大将(原爆投下作戦を担当する陸軍戦略航空隊司令官)に命じた命令書の写真コピーを目にしました。この指令書は機密を解除されているので、(コピーを)同封しておきます。命令書は、1945年7月25日の日付でワシントンで出されたもので、マーシャル陸軍参謀総長のポツダム出張中、参謀総長代理をつとめたトマス・T・ハンディ陸軍大将(参謀次長)のサインがあります。アーノルド将軍(戦時中の陸軍航空隊総司令官、元帥)が別のところで述べているところによると(原注、H・A・アーノルド『グローバル・ミッション』589ページ、1949年ハーバー社刊)、この指令は、(1945年)7月22日に、アーノルド自身とスティムソン陸軍長官、それにマーシャル元帥が協議したのち、ワシントンに使者を出して送達した覚書に基づいたものとされています。

 この指令は”1945年8月3日ごろからのち、天候が有視界爆撃を可能とするようになり次第”、(日本への原爆)攻撃を開始するように、との無条件の命令を含んでいます。この翌日(7月26日)に出される予定になっているポツダム宣言への言及はなく、8月3日以前に日本が降伏を申し出た場合にどうすべきかも述べていません。文書によるこの指令に、口頭による指示という条件が付いていたことは考えられますし、もしも日本がポツダム宣言を受諾した場合は、(原爆投下への)無線のメッセージによって指令を取り消すよう意図されていた可能性もあります。(原爆投下)指令が、スティムソン陸軍長官の意図を誤って伝えたものであったことも考えられます。

 にもかかわらず、この指令自体は、ポツダム宣言の発出の少なくとも1日前、さらには、東京時間では7月28日の鈴木(首相)によるポツダム宣言の拒否の2日前に、原爆を使用することの決定が下されていたことを示唆するように思われます。このような解釈は、公表されているもろもろの(米政府)声明にそれとなく含まれている説明、つまり、(原爆投下の)最終決断は、日本がポツダム宣言を拒否したのちに初めて下されたという説明と真っ向から矛盾します。


 この問題が、とてつもない重要性を帯びていることから、閣下が(原爆投下の)最終決断に到達された日時と状況についてより完全な情報を提供していただくこと、閣下の回答を私が担当する前記の本に引用する許可をいただけるようお願いします。閣下が歴史に関心を抱いておられるのはよく知られており、これに勇気づけられて私は、歴史家がそうであるべきであるように、源泉から情報を求めることにしました。ただ一つのお詫びは、問題を正確に述べようと望むあまり、過度に長くなった手紙をお送りすることで、閣下のご多忙な日程を妨害したことです。
                                                    ジュームズ・ケイト(署名)
                                                    中世史担当教授



 ケイト教授の質問状の焦点は、すでに触れたように、ポツダム宣言発表前日の日付を持った原爆投下の命令書が出された状況である。教授の質問状をよりよく理解するため、問題の命令書の全文を掲げておこう。括弧の中は、筆者の注である。


 米陸軍省
 参謀長局
 ワシントン25 DC
                                                    1945年7月25日
 あて名       カール・スパーツ陸軍大将
            米陸軍戦略航空隊司令官
1、第20空軍第509混成群団は、1945年8月3日ころ以降、天候が有視界爆撃を可能にするようになり次第、
  最初の特殊爆弾(原爆)を、次の目標のうちの一つに投下すること。広島、小倉、新潟、長崎。爆弾の爆発効
  果を観測、記録すべく、陸軍省から武官および文官の科学担当者を搭乗させるため、(原子)爆弾搭載機に
  は別の飛行機一機を随伴させること。観測にあたる飛行機(複数)は、爆発点 から数マイル(1マイル約1.6
  キロ)の距離を置くこと。


2、(原爆開発のマンハッタン)計画のスタッフによって、準備が完了次第、追加の(原子)爆弾(複数)を、前記の
  目標に投下すること。以上のリスト以外の目標(複数)に関しては、追って指示する。

3、日本に対する(原子)兵器の使用について、いかなるものかを問わず、すべての情報の公表は(スティムソン)
  陸軍長官と、(トルーマンン)アメリカ合衆国大統領の手に留保される。具体的な事前の承認のない限り、現地
  司令官(複数)らによるこの件についてのコミュニケや情報の公表はおこなわないものとする。どのような(報道)
  記事であっても、特別の許可を得るため、陸軍省に送付のこと。


4、以上の指令は、陸軍長官と(マーシャル)参謀総長の命により、かつその承認のもとに、貴官に出されたもので
  ある。貴官がこの指令の写し各一部を(西南太平洋軍総司令官の)マッカーサー陸軍元帥と、(米太平洋艦隊
  司令長官の)ニミッツ海軍元帥に対し、情報として自身で手交されるのが望ましい。

                                                    トマス・ハンディ(署名)
                                                    陸軍大将、陸軍参謀総長局
                                                    陸軍参謀総長代理

 この有名なハンディ参謀総長代理の命令書の日付は、7月25日とタイプされているが、トルーマンンは、回顧録の中で、これを7月24日の指令と書いている。実際にはハンディが24日に書いて同日中に、「25日発効」としてスパーツ将軍に手渡したと伝えられているが、米政府の文書では「7月25日」で統一されている。



(一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、空行を挿入したりしています。青字が書名や抜粋部分です。)

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