-NO377~382
------ウィンズケール・ファイヤー イギリスの事故と放射能汚染 NO2------

 「核燃サイクルの闇 イギリス・セラフィールドからの報告」秋元健治(現代書館)「Ⅵ」は、「繰り返される事故──とまらない放射能漏洩──」と題して、数々の事故や廃液の漏洩などによる放射能汚染問題を取り上げている。イギリスでも、日本と同じような事故が繰り返されていることがわかる。そして、そうした事故を隠蔽しようとし、過小評価しようとする組織的な動きが存在することも同じである。

 「四番目の恐怖」広瀬隆・広河隆一(講談社)の中の「ウィンズケール」に、ジャニー・スミスという女性の次のような証言が出ている。

「別の奇妙な話があります。ロングタワーの中学校に3人の寮母さんがいたのですが、それぞれ子供が一人ずつあって、3人とも同じ時期に白血病にかかってしまったのです。スティーブン(証言者の子供)の医師は、白血病に気づいても、すぐには知らせてくれませんでした。放射能の問題に深入りしたくなかったのでしょう。ここでは誰もがあの工場に関係しているため、話したがりません。政府側がニセの報告書を出してくるので、本当の患者の総数はつかめないほどです。」

 この地域は、小児の白血病が平均的な地域の10倍されているようであるが、実態はそれ以上にすさまじいようなのである。また、同書には食物連鎖に関わる下記のような文章がある。

 「ここウィンズケールでも、メルリン夫妻の飼っているアヒルの卵が孵化したとき、12羽のうち7羽は目が見えなかった。1983年夏のことだ。翌年4月に、夫妻は子供の健康のため引越したが、10羽孵化したうち、3羽は翼が異常に短く、2羽は目が見えなかった。この鳥たちは図(アメリカ・コロンビア川における再処理工場下流の濃縮サイクルの図-略)に示されるように、体内に放射性物質を濃縮してゆく。これはコロンビア川での実測データである。
 水→プランクトン→魚→アヒル、と進む生物の食物連鎖のなかで、それぞれの体内放射能は驚くほどの割合で濃縮度が高まってゆく。それがウィンズケールの再処理工場のまわりでは、家庭のなかで使っている掃除機の埃から、かなりのプルトニウムを検出する状態である。
 すべての国の政府当局が、この濃縮原理を隠し続けたまま原子力プラントを運転し、悲劇を招いてきた。
 わが国は大丈夫か。実は、問題のウィンズケールに向けて大量の死の灰を船で輸送してきた国こそ、わが日本なのである。」


 原発は、その建設費用や廃炉費用、事故発生の場合の補償費用、廃棄物の処理費用、半永久的に続けなければならない廃棄物の管理などを考えると、民間企業が独自に取り組めるものではなかった。軍事力増強のために原爆や水爆の開発を迫られた原子力先進国はもちろん、原子力の平和利用ということで、原子力政策を推進したわが国なども、それは国家主導であった。したがって、隠蔽や過小評価、住民無視なども国家的なようである。
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 繰り返される事故──とまらない放射能漏洩──

(ⅰ)B204での事故 ・・・略

(ⅱ)高レベル放射性廃液の漏洩 ・・・略

(ⅲ)アイリッシュ海に漂う黒い油膜

 セラフィールドから伸びる海洋放出管から、アイリッシュ海へ低レベル放射性廃液が日常的に流されていた。これは、マン島住民やアイルランド共和国政府の強い非難にもかかわらず、何十年間も続けられた。アイリッシュ海はそれを囲むような海岸線と海流の関係で、放出された廃棄物は、関係者の思惑と違ってあまり拡散せず海底に沈殿した。放射性物質は、潮流や嵐で陸に押し戻され沿岸を汚染した。アイリッシュ海で採れる海産物も、放射能を含んでいた。グリーンピースは長年、英国核燃料公社にたいしアイリッシュ海への放射性廃液の投棄の中止を求めていた。しかし成果はなかった。グリーンピースは実力行使を決意した。

 1983年11月、ヨークシャー・テレビが放送した”ウィンズケール・核の洗濯場”が世の関心を集めていた頃、グリーンピースは、放射性廃液をアイリッシュ海に流す海洋放出管を塞ぐことを宣言した。公社は、密かに海洋放出管の沈められた海底へダイバーを送り、パイプの排水口の形状を変えた。そのためグリーンピースが用意した蓋は合わず、海洋放出管を塞ぐことに失敗した。

 グリーンピースは、公社が高等裁判所に要請し交付された妨害行為の差し止め命令を無視していた。この違法行為の実行後、裁判所はグリーンピースに5万ポンドの罰金の支払いを命じた。しかしイギリス国民の多くは、誰が本当の意味の無法者であるか疑問に思った。なぜならグリーンピースの潜水チームのボートは、高い放射能で汚染されていたからだ。それはセラフィールドから放出が許されない非常に高い放射能レベルのだった

 ことの経緯は、次のようである。1983年11月14日、グリーンピースの船外機付ゴムボートは海洋放出管の先端がある海上へ到着した。そのとき彼らは、海面に浮遊する黒い油膜を発見した。ガイガーカウンターで放射線レベルを測定したら、針が振り切れてしまうほどだった。
 グリーンピースのデイビット・ロバーツは言う。
「マサチューセッツ大学で借りたガイガーカウンターを黒い油膜に近づけたら、針が目盛りを飛び越え作動しなくなった。しかし故障する前、1秒間500カウント以上の高い値を示した。私たちは被爆の危険性を考え潜水を中止した。そしてボートが強い放射能で汚染されたのか心配になった」
 グリーンピースは、港へ引き返した。そして国内放射線防護委員会にゴムボートの放射能汚染の検査を依頼した。やはりボートの底部から高い放射能が検出された。
 このことを知らされた英国燃料公社は、放出管の先端付近の海面を調査し始めた。公社の船で調査に向かった職員は、海面に溶剤の強い匂いがする油膜が漂っているのを発見した。油膜からは、50から100ミリレムの高いガンマ線が計測された。それは通常のバックグラウンド放射能レベルの5000倍から1万倍という異常なレベルだった。


 この件に関して核施設検査局が緊急に調査を始めた。その報告書が出てきたのは翌1984年2月で、放射性廃液の異常放出の原因として運転ミスを指摘し、再発防止に技術的な対策を講じることを英国核燃料公社に要求した。しかしその報告書に書かれていることだけが、異常放出のすべての真相ではなかった。

 グリーンピースのボートが海上にあったとき、セラフィールドでは海洋放出管へ流れていく放射性廃液を汲み上げていた。おそらくは一時的に廃液の放出を停止し保管しようとしていた。このとき作業員が廃液を誤ったタンクへ入れてしまった。いったんそこに入れてしまえば、構造的にもう取り除くことは不可能だった。そのためスタッフは、本来その容器に入れられるべき廃液と一緒に、やむなく海洋放出管から海へ排出した。海は高い放射能で汚染された。

 海岸に漂着した海藻などから高い放射能レベルが検出されたので、海岸線が25マイルも立入禁止となった。しかし禁止措置は、2日間だけだった。この公社の異常放出は、下院でも問題視され、ワルダーグレイプ環境大臣は、放射性廃液の異常放出の原因調査を開始すると飛べた。


 一方、英国核燃料公社は、グリーンピースの行動は無責任だと非難した。ウィンズケールの広報担当者は言う。「グリーンピースの妨害行為はとんでもない違法行為だが、一般の人びとやわれわれ労働者には、何の危険もなかったのは幸いだ。海洋放出管からの排出量と放射能レベルは、通常では、以前より減少している。これはセラフィールドで施設の改良がすすんでいる結果だ。グリーンピースによって干渉されたパイプ状況が調査され、安全が確認されるまで、排出は中止する。その間、廃液は施設内に貯蔵する。」

 1983年12月、農業、漁業、食料省は、海産物には事故前と比べて放射能量に異常は見られず、魚介類の放射能レベルは通常より高いが、急速に減少していると発表した。英国核燃料公社は、放出された放射能廃液はあくまでも規制内だと弁明した。しかし核施設検査局は、操業許可制限値を大幅に上回るレベルの放射性廃液の排出がなされたことで、公社を起訴した。


 1983年11月の異常放出から3年後、1986年12月、再びセラフィールドの海洋放出管から、許されない高い放射能レベルの廃液が海に流された。施設周辺の住民は、海岸に近づかないよう警告された。セラフィールド周辺でのモニタリング結果について農業、漁業、食糧省のジョンマグレガーは言う。
 「人びとは、”必要のない海岸の使用を避けるべき”だ。海岸で放射能汚染の高い場所がある。人びとが汚染度の高い小石や砂を手に取ることは、ありそうもないが、もしそんなことをすれば皮膚から被爆するだろう」
 ”必要のない海岸の使用を避けるべき”という曖昧な表現は、危険であるのかどうかが明確でなく、事故の程度が軽いという印象を人びとに与えかねなかった。また”人びとが汚染度の高い小石や砂を手に取ることは、ありそうもない”というのもまったくおかしなものだった。高い放射能が海に放出されたならば、人びとの安全のため一定期間、海岸は立ち入り禁止にすべきだった。海岸には、人びとに警告する警官の姿どころか、立ち入り禁止の掲示板すらなく、立ち入り禁止はマスコミの報道で伝えられただけだった。


(ⅳ)”隠蔽する文化”・・・略

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ウィンズケール・ファイヤー イギリスの事故と放射能汚染 NO3--------

 下記は、「核燃サイクルの闇 イギリス・セラフィールドからの報告」秋元健治(現代書館)の中の「Ⅶ 不可解な死──ガンと白血病に苦しむ人びと──」から抜粋したものである。放射線被曝をガンや白血病の原因として断定することは困難のようであるが、たとえば、高速増殖炉とその専用の再処理工場のあるスコットランド北端のドーンレイ周辺における小児白血病での死亡率が、全国平均の10倍にも達するという事実は、その因果関係が否定できないものであることを示しているのではないかと思う。

 ウィンズケール・ファイヤーによって放出された放射性物質は、イギリス本土南部からヨーロッパ大陸の北部にまでおよび、最も健康に影響の心配されるヨウ素131は、幅およそ16キロ、南北方向におよそ50キロ、総面積518万平方キロの牧草地を汚染したため、事故の4日後に、牛乳の出荷が禁止されたとう。即刻禁止すべきだったことは、言うまでもない。

 「四番目の恐怖」広瀬隆・広河隆一(講談社)に、スリーマイル島の事故後、メアリー・オズボーンという女性が採集したという巨大なタンポポの葉のカラー写真が掲載されている。また、チェルノブイリ原発の事故後、ミュンヘン公園の庭師がミュンヘン放射能検査所長のエッカード・クリューゲル博士のもとに持ち込んだという、巨大なタンポポの葉のカラー写真もある。それらは、放射能の恐ろしさを物語る衝撃的なものである。
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                Ⅶ 不可解な死──ガンと白血病に苦しむ人びと──

(i)”ウィンズケール・ファイヤー”の犠牲者
 1957年10月の”ウィンズケール・ファイヤー”の際、大量の放射性ヨウ素131が大気中に放出された。この日、セラフィールドに2基ある軍用プルトニウム生産炉の1つが火災となり、鎮火のため原子炉に水が注入された。そのとき発生した強い放射能を帯びた水蒸気が高い煙突を通って大気中に拡がった。この事故の環境への影響を問われたとき、原子力関係機関の専門家は、フォールアウト(放射性降下物)は危険とされる範囲内で、事故に起因する健康被害を常に否定してきた。しかし、セラフィールド(ウィンズケール)周辺でガンを発症した肉親をもつ家族らは、彼らの娘や息子の死は1957年の事故か、そうでないとしてもこの核施設の放射能被害ではないかと疑ってきた。


 ウィンズケール周辺地域で、1957年の数年後、白血病などのガンで何人も死亡している。ここでは、若くして亡くなった3人の女性を、地方紙の記事から紹介する。
 グラハム夫妻は、32歳で胃ガンのため亡くなった娘バーブラの早すぎる死は、”ウィンズケール・ファイヤー”ろ関係があると信じて疑わない。バーブラとほぼ同年齢で彼女の2人の友だち、エリザベス・フォックスとブレンダ・プリットもまた早くに死亡している。3人の娘たちは、ウィンズケールから遠くないプートルの海岸にほど近いモンク・モーアス農場で暮らしていた。1957年10月のウィンズケール火災事故の当時、彼女たちは皆、まだ10歳くらいだった。エリザベスは17歳のとき白血病で亡くなり、またブレンダもホジキン病で25歳のとき死亡している。


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 過去、セラフィールド(ウィンズケール)では、労働被爆や事故による放射能漏洩が幾度も繰り返された(たとえば、1973年9月B204前処理施設発火事故、高濃度放射能溶液漏洩・揮発性ルテニウムによる汚染、1977年7月B38放射性廃棄物貯蔵タンクから推定2000ガロンの放射性廃液漏れ、1977年10月固体廃棄物貯蔵庫から大気中へ、セシウム137とストロンチウム90の漏れ、1979年B701からの高レベル放射性廃液漏洩ー計算では漏洩放射能は10万キュリー以上などなど)。またアイリッシュ海へ伸びる海洋放出管を通じて海中へ放射性廃液を流し、大気中へは高い煙突から日常的に放射能を排出してきた。人的ミスなどさまざまな原因での事故、あるいは施設の操業上の理由から計画的に環境を放射能で汚染してきた。
 イギリスでは核産業の軍事的性格とともに原発開発の先駆性、つまり核という未完の研究開発の環境を用意する必要性から、他国と比べるとかなり緩い放射能排出基準が1989年くらいまで維持された。その結果、現在ではアメリカやフランス、日本などではとうてい許されない”合法的な”環境への放射能排出が、長年続けられた。古い歴史を経たいくつもの老朽化した施設の並存するセラフィールドでは、過去、放射能漏洩や被爆をともなう事故はきわめて多い。

 セラフィールドで発生する事故は、すべてでないにしろ隠蔽される。しかしそれが隠せないほどの程度であるなら、その影響を可能な限り過小評価しようとされた。また放射線被曝と白血病の発症など、因果関係の立証がきわめて困難である元労働者やその遺族の訴えを核施設の責任者は一貫して否定する。放射能漏洩や被爆事故の度ごとに、事業者や国の原子力関係機関から発せられる常套句は次のようなものだった。

「環境へ漏洩した放射能は、きわめて微量で、安全上なんら問題はない。放射能は、国内放射線防護委員会の定める安全基準以下のわずかな程度だ。したがって健康への影響は無視できるほど小さい」
 しかしこうした権威ある専門家、政府機関の発表や宣言にもかかわらず、けっして人口の多くないセラフィールド(ウィンズケール)周辺の人びとは、彼らの近辺で過去、小児白血病や核労働者のガンによる死を目にし、その類の噂を耳にしてきた。

 
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(ii)放射能の大地と海
 セラフィールド(ウィンズケール)からの放射性廃液は、アイリッシュ海の沖合に伸びる海洋放出管から海に投棄されていた。廃液は通常、低レベル放射性廃液であったが、高いレベルの放射性廃液も海洋放出管から投棄されることがあった。軍事目的で始まったイギリスの核開発では、放射性廃液を海中に投棄、拡散希釈させる方法が当然のようにとられてきた。使用済み燃料の再処理過程に投入される溶媒抽出液は、濃縮減量後、ステンレス製タンクに貯蔵される。低レベル放射性廃液は、放射能を低減させてから海中に放流する。1980年代まで、中レベル廃液の海への放出も認められていた。また燃料貯蔵プール水などの低レベル廃液は特別処理せず、そのままアイリッシュ海に放出されていた。


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1979年10月、著名な医学者であるマンチェスター大学のコキン・ジェーリィー博士が、北ランカシャーでガンの危険性が高いことを明らかにした。ジェーリィー博士は、地域のガンの発症はウィンズケールからの放射能が原因という推測にたっている。調査は、ランカシャーとセント・アネスの2つの地区、ここでの血液のガンの患者数は全国平均の3倍である。そして5つの周辺の街で、2倍になっている。それらの街は、ブラックプール、ブラックバーリン、バーンレイ、ランカシャー、それとプレストンだった。1965年から12年間でそうした結果となっている。ジェーリィー博士の主張は明確だった。「これらの地域でガン患者数が増加していることが実証された。私たちは、環境要因の可能性を調査、分析した。そしてウィンズケールは、地域におけるガン患者数増加を説明できる唯一の原因とかんがえられる」

 ジェーリィー博士は、その当時、ある新聞報道に非常に興味をもった。その記事は、バロー・イン・ファーネスの開業医が6つの非常に珍しいガンの症例を取り扱ったことを伝えていた。その匿名の医者は、それらのガンの原因として放射能だと考えていた。
 白血病の分野で著名なジョン・ゴールドマン博士は、ジェーリィー博士の調査についてコメントしている。
「ジェーリィー博士の結論は、ウィンズケールからの放射能が地域の白血病のいくつかを引き起こしているという。彼の観察はきわめて重要である。白血病が、低レベルの放射線被曝によっても発症する可能性を示唆している。ジェーリィー博士の調査で、人口150万人において1年間25人の白血病患者の数は多い。それは確かに考慮されなくてはならない。ウィンズケールとガンとの関連性が、より現実的なものとなった。ジェーリィー博士は、地域のガン増加の原因はウィンズケールという可能性を示したが、私が思うに誰もそれに強く反論はできないだろう」

 ゴールドマン博士は、ランカシャーにおけるガン患者の高い増加率はクラスターだとする英国核燃料公社の主張を否定した。ゴールドマン博士は言う。
「クラスターでは、このことは説明できない。クラスターとは、地理的に非常に狭い地域で用いられる。おそらく10マイルほどの地域内での異常な増加をいう。したがってランカシャーのガンの増加を、クラスターと呼ぶことはできない。ただしガンの発症は、化学物質も関連している可能性がある。とくにベンゼンなどの関連性は否定できない。しかし私は、主要な原因は放射能だと思う。それが原因である可能性が最も大きいだろう」

 ジェーリィー博士の報告は、マンチェスター大学理学部のフィリップ・デイ博士が実施したウィンズケール沖、アイリッシュ海の甲殻類、貝の調査結果にも言及している。デイ博士は、アイリッシュ海の軟体動物における放射能汚染の調査と、海水と魚における政府の放射能モニタリング報告書から人びとの放射線被曝を推測した。その結果、北西イングランド、カンブリア地方の人びと放射線被曝は、過去10年から15年にかけて確実に上昇してきたという。デイ博士は、次のように警告している。
「イギリス核産業の労働者は、国際放射線防護委員会が設定した限度内で働いている。しかしその基準は、誰にとっても安全であるという保証はどこにもない。安全基準は安全ではないことだ」
 デイ博士の調査は、イギリス近海と北ヨーロッパの貝の比較分析もおこなった。それらの調査から、ウィンズケールが排出する放射能廃液は、潮流に乗って南方へ移動している。それを示す政府データも確認したとデイ博士は言う。
 「調査分析の結論として、放射能汚染は、ランカスター、チェシュアー、北海の北スコットランドの海岸に沿って発見された。人間の健康に関して、放射線被曝の境界、これ以下なら安全だとする”しきい値”を仮定することは危険である。”しきい値”を下回る放射線被曝は、安全を確実にするものではない。もし、”しきい値”を仮定するなら、現在よりもさらに厳しい基準が必要だろう」


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 1983年ヨークシャー・テレビは、カンブリア地方のガンの発生を調査した結果、セラフィールド周辺で、小児性白血病の多発を確認した。セラフィールドの南側、アイリッシュ海に面したシースケールでは、子供が白血病になり死亡する率が、国内平均の10倍だった。1983年11月1日、ヨークシャー・テレビは、地域の人びとのインタビューをなどをもとに、セラフィールドと白血病などガンとの関連性をテーマに、”ウィンズケール・核の洗濯場”というドキュメンタリー番組を放送した。セラフィールド周辺に生活する人びとに、衝撃が走った。このドキュメンタリーは、それ以前に発表された専門的報告書と異なり、人びとに放射能の身近な恐怖を実感させた。住民たちが、心の奥底にしまい込んでいた不安と怖れが噴出した。この番組の社会的反響は非常に大きく、放射能と白血病の因果関係をめぐる大論争がイギリス国内に沸き起こった。小児白血病での死亡率が、国内平均の10倍という地域はもう一つあった。それは高速増殖炉とその専用の再処理工場のあるスコットランド北端のドーンレイ周辺であった。

 ヨークシャー・テレビは、番組制作に1年を費やし地域の調査をおこなった。制作スタッフは、セラフィールド周辺のシースケール、ウェバース、ブードルでは、小児白血病の発生率が、全国平均発生率の5倍から10倍の高さなのを確認した。特に核施設の南側のアイリッシュ海に臨むシースケールでは、10歳以下の白血病発生率が平均の10倍にも達していた。人口2000人のシースケールでは、1983年までの30年間で、ガンを発病した子供が11人もおり、そのうち7人が白血病で、しかも10歳以下の子供が5人も含まれていた。またセラフィールドからシースケールのさらに南方、入江の美しい景観で知られるレイベングラスでは、クリストファー家の掃除機の埃にプルトニウムが検出された。

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スリーマイル島の原発メルトダウン アメリカの核事故----------

正確な数値や裏付けとなる科学的根拠がつかめないが、公式発表は、スリーマイル島の原発事故が、周辺住民の健康に有意な影響を与えた事実はないということのようである。でも、そうした公式発表は、アメリカの場合もそのまま信じることがでない。

 メアリー・オズボーンは、スリーマイル島の原子力発電所2号炉を中心とする地図上に、癌や白血病におかされた人を、黒やピンクの丸で記録していった。それは事故により放出された放射性希ガスの流れそのものを示すものではないか、と思われるような地図になっている。癌や白血病の原因が被曝であると証明することはできないのかも知れないが、この地図が意味することはあきらかであると思う。資料1は、そのメアリー・オズボーンの証言を中心とする部分を「四番目の恐怖」広瀬隆・広河隆一(講談社)から抜粋したものである。

 資料2は、そのスリーマイル島の事故に関する内容や状況、その対応についてまとめられた部分を「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から抜粋したものである。例に洩れず、スリーマイル島の事故も、その深刻な状況が年を経るにつれて次第に明らかになっていくようである。
資料1------------------------------------------------
スリーマイル島
                             潜伏期が過ぎた。
                             癌と白血病が
                             人々に襲いかかり
                             悲劇の幕が開いた。

「9歳の少女が失明しようとしています。
 この地図を見てください。私のまわりの人が次々と倒れてゆきます」

 メアリー・オズボーンは、おそろしい地図を前に語りはじめた。地図の上には、円を描いた中心点にスリーマイル島2号炉、9年前の1979年3月28日午前4時に大事故が発生した問題の原子炉がある。大量の放射能を含んだガスが噴出し、一帯に襲いかかった。
 この地図のほかに、さらに詳細な2枚の地図がある。黒とピンクの丸が、それぞれ癌と白血病に襲われた人を示している。”物言わぬ骸 ”となった人も含まれる。
「ベッキー・ミースには9歳になる女の子がいます。この子は、あの事故のあと激しい下痢を起こし、ベッキーが病院に連れてゆきました。その時ですよ。彼女の自動車にもハンドバックにも、ガイガー・カウンターが大きな音を立てたのです。今あの子は、白内障になって、失明しようとしています」
 その少女の胸のなかには、どのような感情が生まれているだろう。

 エド・ペティーは事故から6年後の1985年に突然倒れ、妻のバーバラが急いで病院に連れて行った。医師が彼女に告げた言葉は、”愛する夫が不治の白血病”というおそろしいものであった。
 それから270日のあいだ、バーバラは病室のエドの傍に付き添いながら、鳥や花の刺繍を続けた。

 ──泣かないで、笑いながら残りの日を数えるの……。
 バーバラが縫い取った文字の言葉である。しかしエドは3年前に帰らぬ人となった。メアリー・オズボーンの地図が示しているのは、このような無数の悲劇なのである。学者の統計によって処理されるような数値ではない。しかも、バーバラ・ペティの隣家では、息子が癌に襲われている。ほんの2ブロック先に住む彼女の友人夫婦は、妻が甲状腺障害のため、37歳の若さで3年前にこの世を去った。別の隣家では、夫が白血病で死亡し、また別の隣家でも、子供が癌に倒れた。

 事故発生から、5年後、7年後と歳月を重ねるに従って、メアリーがプラスティック・ボードに止めてゆく黒とピンクのチップは増え続け、9年後の現在では、ボードを20枚も重ねて細密に分類しなければ記録できなくなっている。遂に、潜伏期が過ぎたのである
 凄絶と言うほかはない。


 ・・・

人間の体は、最も信頼性の高いガイガー・カウンターである。
ガスが流れ、人々が吸い込こみ、悲劇が起こった。

 訴訟は現在2700件という厖大な数に達している。この”件数”は明白になりつつあるが、訴状の深刻な”病名”は、一個人の生涯を左右する重大な問題であるため、まだ氷山の一角が見えるばかりだ。公然と証言する人を探すことは、これまで容易でなかった。
 しかしベル研究所のマージョリー・アーモットと夫のノーマン、さらにコロラド大学のカ-ル・ジョンソン博士、ハーバーフォード大学のブルース・モーホルト博士らの数字を総合的に解析すると、10万人当たり1100人という驚くべき発生率がすでに確認されている。これは、ペンシルバニア州内にある同じような田園地帯と比べて、実に7倍から8.5倍という異常な高率になる。しかもその数字は、訴訟を起こしている人だけの分である。

 ・・・(以下略)

資料2-----------------------------------------------
                           第3部 もうひとつの核汚染

 商業用炉初の重大事故

 1979年3月28日、アメリカのペンシルバニア州スリーマイル島原子力発電所2号炉(TMI2)で炉心溶融の大事故が起きました。これまでにもウィンズケール1号炉SL1などで炉心が損傷する重大事故が起こりましたが、営業中の商業用炉で起きた重大事故は、これが世界で最初でした。
 スリーマイル原子力発電所は、ペンシルバニア州を流れるサスケハンナ川の中洲、州都ハリスバーグ市(人口7万人)の南東約16キロメートルのところにあります。1870年当時の周辺地域の人口は、半径8キロメートル以内に2万6000人、16キロメートル以内に14万人でした。
 
 TMI2の原子炉型式はバブコック・アンド・ウィルコックス社製の加圧水型軽水減速冷却炉(PWR)、電気出力は95.9万キロでした。事故の起こる3ヶ月前の1978年12月に運転を開始したばかりの、当時としては最新鋭の発電炉でした。


 加圧水型軽水減速冷却炉は、沸騰水型軽水減速冷却炉とともに世界の発電炉の主流になっている型式(軽水炉)で、改良型コーヅダーホル炉の東海1号炉を除くと、日本の商業用発電炉はすべてこの2つの型式のどちらかに含まれます。TMI2事故が起きた当時、日本で稼働していた商業用発電炉(軽水炉)は18基に達していました。

 すさまじい炉心の破壊

 事故の内容は、ただちにアメリカの核規制委員会(NRC)などによって精力的に調査されましたが、損傷したTMI2炉が強い放射線を出していたため、人の立ち入りができず、ロボットや遠隔装置を使って調査が現在まで続いています。現在までの調査結果によれば、炉心の破壊は、事故直後の推定をはるかに上回っていたことが、次第に明らかにされています。事故から3年4ヶ月後、炉心が大規模に破壊し、上部に空洞ができていることが確認されました。事故から6年近くたって、核燃料も大規模に溶融していることが確認され、また、事故から8年後には、溶融した炉心が外周部を貫通して原子炉容器の底部に落下したことも確認されました。さらに、原子炉底部にたまっていた核燃料の破砕片を取り除き、ビデオ観察で原子炉底部内壁にひび割れが発見されたのが、事故10年後の1989年8月でした。


 こうして現在までに炉心の45%、62トンが溶融し、その内約20トンが炉心周りの内槽を溶融・貫通して底部になまり、1200度C以上の高温で底部を加熱したことが明らかにされたのです。幸いにも原子炉内に冷却水が残っていたため、原子炉容器の貫通は免れました。もし原子炉底部のひび割れが拡大して溶融物がこれを貫通していたら、格納容器の壁を溶融して突き破り地下を突きすすむという、いわゆる”チャイナ・シンドローム”直前という危機的状態であったことが明らかにされたのです。

 何重もの安全装置がなぜ?
 ・・・(略)

 放出された大量の放射性希ガス

 事故発生からおよそ3時間後の午前7時少し前、「敷地内緊急事態」が宣言されました。まもなく発電所長の指揮下で、TMI2は緊急事態態勢がしかれました。事故は核規制委員会やペンシルバニア州当局に通知され、近隣の市町村および州警察は警戒態勢に入りました。
 午前7時20分には、格納容器の天井に取り付けられている放射線モニターが異常に高い値を示しました。この時点で、アメリカで決めている緊急事態態勢のなかで最悪の「一般緊急事態」が宣言されました。それまで、格納容器内にたまった水を補助建屋に移すなどの目的で、格納容器の隔離はされていなかったのですが、午前7時頃、やっと格納容器が隔離されました。これで格納容器内の放射能が周囲の環境に漏れ出なくなるはずでしおたが、どうしたことか運転員が補助建屋に通じている配管の閉鎖を解いてしまったため、放射性物質がここを通って格納容器から補助建屋に移り、その一部が補助建屋から環境に放出されてしまいました。

 関係し町村の多くは、TMI2事故の情報を州政府より報道機関から知るというのが当日の実情でした。ハリスバーグの市長もそのひとりでした。午前9時15分頃、ボストンのラジオ放送局から「原子炉事故に対してどうするか?」との質問を受けて、初めて事故の発生を知るという状況でした。


 午前11時、必要な人間以外をスリーマイル島から避難させることが指示されました。午後2時頃、発電所の排気筒の約4メートル上空で、ヘリコプターが1時間当たり30ミリシーベルト(自然放射線の約40万倍)の放射線レベルを検出し、核規制委員会に報告しましたが、ケメニー委員会の報告書の記述によれば、核規制委員会はあまり関心を示さなかったといいます。

 翌3月29日も混乱は続きましたが、省略します。30日の明け方、メイクアップ・タンクの圧力が高まり、ここから排ガス減衰タンクに放射性ガスを移す必要が生じました。この作業時に放射性ガスが補助建屋に放出され、その一部が環境に漏れ出しました。排気筒の上空39メートルヘリコプターが1時間当たり10ミリシーベルト以上を検出したため、核規制委員会は州知事に避難措置が必要であることを勧告しました。州知事は避難にともなう混乱やパニックを考え苦慮しましたが、午前11時15分、半径8キロメートル以内の妊婦や幼児に対して避難を勧告しました。その結果、実際には家族全員が避難する場合がほとんどで、3月31日の夕方までにスリーマイル島の所在地ゴールズボロの町では、住民の90%が家を離れました。


 一方連邦政府の手で、30日にはヨウ素剤の準備が手配されましたが、受注した製薬会社は、昼夜兼行で製造し、4月4日までに23万7013瓶が納入されましたが、これは使わずに済みました。

 事故により大気中に放出された放射性物質は、放射性希ガスが230~300万キュリー、ヨウ素131(半減期約8日)が17キュリーと報告されています。放射性希ガスの放出量は、日本の同規模原発の安全審査で仮想事故として検討されている事故の19倍(加圧水型軽水炉)~43倍(沸騰水型軽水炉)に相当します。住民の体外被曝線量は、最大で1ミリシーベルト程度と報告されています。

 
 最大の教訓は何か ・・・(略)

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ハンフォード 核汚染 核軍拡競争負の遺産 アメリカ-----------

 福島の原発事故による放射能汚染で、多くの人が職を失い、住居を追われ、今も苦しんでいる。
 もともと、原発は原爆製造の過程で開発されたのだという。だから、アメリカでも事故のあったスリーマイル島原発周辺地域以外にも、放射能汚染で苦しんでいる人たちが大勢いるのだ。
 ここでは、米ソを中心とする核軍拡競争の過程で、恐るべき”負の遺産”を残した「マンハッタン計画」の拠点ハンフォードを取り上げる。ここは、旧ソ連のマヤーク(チェリャビンスク)と同じように、核開発を優先し、当初は放射性廃棄物を地面に捨てたり、地中に注入したりしていたというところである。そうした核開発優先のずさんな放射性廃棄物管理が、下記の「デス・マイル」(死の1マイル四方)の話につながるのである。

 「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)によると、「1995年4月3日、アメリカのエネルギー省(DOE)は、冷戦時代に核兵器級プルトニウムなどを生産してきた国内の核兵器関連施設の放射能汚染を除去するため、今後75年間で少なくとも2300億ドル(約23兆円)が必要であるとする報告を発表」したという。また、それは、処理技術が進歩しない場合は、その1.5倍の3500億ドル(約35兆円)になると推計されるという。

 驚くのはそればかりではない、2億4000万キュリーに達するという高レベル廃棄物がタンクに貯蔵され、8600万キュリーのストロンチウム90と、セシウム137が二重殻のカプセルに入れられ、冷却用プールに保管されているが、放射能漏出を繰り返し、下記のように、爆発の危険性があるというのである。「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)からの抜粋である。
 事故のリスク、日常的な原発労働者の被曝、安全な保管方法のない核廃棄物などを考慮すれば、原発の再稼働はあり得ないことだと思う。
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                     第3章 核超大国・アメリカの危機

  暴かれた核放出

 核開発の負の遺産にあえぐハンフォードの現在

 アメリカ北西部ワシントン州の荒野に広がる核兵器製造施設、ハンフォード。コロンビア川沿いの広さ1500平方キロの広大な大地に、プルトニウムの生産炉や再処理工場が点在している。ハンフォードはアメリカ原爆開発計画「マンハッタン計画」の拠点として、1943年に建設が始まった。そして、世界で最初の核実験トリニティと、長崎に投下された原爆に使われたプルトニウムを生産した。アメリカの核開発の原点となった施設である。


 ハンフォードは、その後もアメリカの核兵器開発の中心基地としてプルトニウムを生産しつづけた。ハンフォードに運び込まれたウランは生産炉で照射済み核燃料にされたあと、再処理工場で化学的にプルトニウムが取り出され、さらに工場で金属状のプルトニウム・メタルにされたあとハンフォードから出荷され、他の核兵器施設でピットにされて核弾頭に組み立てられていった。

 この半世紀近くの間、ハンフォードには世界初の実用原子炉のB炉をはじめ、合わせて9基の生産炉と5つの再処理工場が設けられ、核兵器に使われるプルトニウムを供給しつづけた。ハンフォードは冷戦下でのアメリカの核軍拡競争を最前線で担ってきたのである。

 しかし、プルトニウムの生産という任務は、80年代末に終わった。最後まで稼働していたプルトニウム生産と商業発電の両方に利用できる二重目的炉のN炉は、88年に炉心を抜かれコールド・スタンバイに入った。また、同じく最後まで運転されていた再処理工場のビューレックスも、90年以降は運転されていない。


 半世紀近くにわたったプルトニウムの生産が終わったいま、ハンフォードには再処理される前の照射済み燃料やプルトニウム、そして生産に伴って生まれた放射性廃棄物が大量に残された。それらはいずれも危険な状態であるうえ、これまでの生産優先のずさんな管理のため汚染が深刻になっており、西側世界で最悪の汚染地域といわれている。施設のいたるところで、これまで後回しにされてきた汚染の除去(クリーンアップ)が行われているが、膨大な時間とコストがかかり全くはかどっていない。また、ハンフォードは全米の核廃棄物のおよそ70%を抱えているが、適切な処理方法が見出せないままである。

 半世紀近くにわたって核開発製造を担ったハンフォードは、「生産の半世紀」が終わったいま、これまでの核開発がもたらした「負の遺産」の処理に苦悩しているのだ。

 ハンフォードのいま、そこにある危機 

 アメリカの核物質の生産や核兵器開発を進めてきたエネルギー省は、ハンフォードで最も深刻な問題は、照射済み核燃料を保管している貯蔵槽のK-BASINと爆発が懸念される高レベル廃棄物の貯蔵タンクだとしている。
 このうちK-BASINは原子炉で燃やした照射済み燃料を再処理する前に、一時的に貯蔵する施設として1951年に作られた。裏打ち補強処理をしていないコンクリート製のプールで、全米で最大の量の2300トンの照射済み燃料がプールの水の下に保管されている。核燃料は冷却するためと強い放射線から労働者の被爆を防ぐために水中に貯蔵されている。しかし、ここは貯蔵されている照射済み燃料のうち50%以上は、皮膜やラックの損傷と腐食が進んでおり、水中に放射性物質を放出しつづけている。そして、プールの水のフィルターの逆流事故がきっかけとなって、汚染された水が施設外の地下に洩れ出しているのである。施設のすぐ近くにはコロンビア川が流れており、放射性物質が外部に広く洩れ出す危険も指摘されている。


 さらに、この施設はもともと長期的な貯蔵を目的として設計されたものではなく、耐震構造にもなっていない。地震が起きた場合、ハンフォード周辺の人々の健康や環境にも影響が出るのではないかと懸念されている。施設の管理責任者は「ここは目茶苦茶だという人がいる。それどころか私にいわせれば、ここはまるで肥だめのようなところだ」と、苦渋に満ちた表情で話した。

 一方、放射性廃棄物は照射済み燃料を再処理して、プルトニウムを取り出す際に生まれる、プルトニウムの生産に伴って必ず生まれる厄介なものだ。ハンフォードでは、67万8000キュリーもの放射性廃棄物が地面に捨てられたり、土中に注入されたりしたほか、施設のタンクやフィルターなども放射性廃棄物で汚染されている。しかし、最も大量に、そして手に負えない状態で放射性廃棄物が溜まっているのが、高レベル放射性廃棄物の備蓄タンクである。


 全部で177基のタンクに貯蔵されている放射性廃棄物は、チェルノブイリ原発事故で放出された量の2倍以上の放射能を帯びている。ハンフォードではこの高レベル放射性廃棄物の液体を、当初、149基の一重殻のタンクに貯蔵したが、その後これらの多くで高レベル放射性廃棄物がタンクから洩れ出した。このため洩れ出しを防ごうと、今度は28基の二重殻のタンクに貯蔵した。しかし、やがてこれらのタンクでも高レベル放射性廃棄物の漏出が起きた。

 さらに、その後も核兵器の製造のためにプルトニウムを大量に生産しつづけたことから、この二重殻のタンクも容量が一杯になった。そして、タンク内の容量を減らすために蒸発処理を行ったりした。そうした結果、タンクの中では廃棄物に含まれる水や有機化合物が放射線によって分解し、水素ガスが発生するようになっている。水素は燃えやすく、一定の濃度に達すると大量の廃棄物ごと爆発することが心配されている。もし、タンクが爆発すれば大量の放射能を帯びた高レベル放射性廃棄物が、広い範囲に撒き散らされることが危惧されているのである。


 そもそも内蔵されている放射性廃棄物は何万年以上にもわたって放射能を持ち続けるものである。にもかかわらず、炭素鋼のタンクの耐久年数は20年程度にしか考えられていなかった。核兵器や核物質の生産にあたって必然的に生まれる放射性廃棄物の問題は、ほとんど考慮されていなかったのである。
 ハンフォードはいま、そうした生産優先の体制がもたらしたツケに苦しめられているのである。

 衝撃のエネルギー省報告
 ・・・略

 「デス・マイル」の恐怖

 ハンフォードで起きている深刻な核汚染は、サイト敷地内に留まらない。半世紀前、農民を強制的に移住させてサイトの建設が始まったことからもわかるように、ハンフォード周辺は人間の居住地域なのである。この半世紀、核施設は周辺の水と空気と大地を汚し、人々の健康を蝕んできた。

 ハンフォードの上空を飛ぶと、広大な大陸の光景が眼下に広がる。かなりの量の土を含んでいるのだろうか、濁ったコロンビア川がまず目につく。この川が茶色と緑、2つの景観を区切っている。西側に広がる荒野とそこに点在する施設群──ハンフォード・サイトである。東側には農業地帯が広がる。ここでは縦横碁盤の目のように走る道路と、巨大な緑の円が目につく。乾燥したこの地域ではコロンビア川を利用した灌漑が欠かせない。自走式の給水ポンプが、円を描いて水を撒き、牧草やトウモロコシ、野菜、リンゴやブドウなどの果樹を育んでいる


 この大地に暮らす住民たちが、自分たちの健康に異変が起きていることに気づいたのは、10年あまり前のことである。異変は30余年前、飼育されている羊の畸形から始まっていた。何かがおかしい……。疑問を抱きはじめた農夫の一人がトム・ベイリーさん(49歳)である。トムさんは自宅周辺を「デス・マイル」つまり「死の1マイル四方」と呼んでいる。略図を前にトムさんは、なぜ「デス・マイル」と呼ぶかを説明した。

 「デス・マイルはウィーバー家から始まります。その隣のライリー家では、甲状腺障害の人がいて、頭蓋骨のない子供が生まれました。次がベイリー家、私の家です。母方・父方双方の祖父母はガンで亡くなりました。父の兄弟はみなガンで、うち一人はガンで死に、父の妹もガンで亡くなりました。私は生まれつき病弱で、兄は死産でした。そして、この家ではご主人がガンで亡くなっています。奥さんは畸形児を産み、その子をバスタブで溺死させ、自分は手首を切って自殺しました」


 トムさんは略図に×印で記した家々を数えた。26軒あった。
 「どの家にもガン患者がいるか、先天性異常児が生まれたいます。100%です」 健康異変や出産異常の原因は、ハンフォード以外に考えられないとトムさんはいう。そして、誇りに思ってきたハンフォードに裏切られた、騙されたという怒りを訴えた。
 「『ハンフォードはアメリカの安全を守っている。いつか君たちの農場を奪いにくる共産主義者の連中から守っている。だからハンフォードを支持しなさい。日本に落とされた原爆を作って戦争を終わらせたところなんだから』。そういう話を何度も聞かされて、ハンフォードを信じていたのに……」


 目のない羊と目のない娘

 「デス・マイル」の始まり、つまりトム・ベイリーさんの2軒隣に住んでいるブレンダ・ウィーバーさん(49歳)を訪ねた。小中学校ではずっとトムさんの同級生だった。現在は実家から車で3時間ほど離れたところに住んでいる。自宅を訪問すると、すぐに数冊のアルバムと数個の義眼を見せてくれた。長女ジェニーさんには生まれつき目がなかった。成長にしたがって眼窩も大きくなり、義眼は大きなものと取り替えなくてはならない。アルバムも義眼も愛娘ジェニーさんの大切な成長の記録なのである。
 「結婚して妊娠するまでハンフォードの近くに住んでいました。娘の目がないのは絶対にハンフォードのせいです」


 ・・・以下略

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核施設爆発事故 アメリカ 軍用炉SL1--------------

下記の小型軍用炉SL1の暴走事故では、敷地面積が広大であったため、周辺地域住民への影響は軽微なものであったという。放出された放射能の汚染による被害の詳細はわからない。そして、事故原因は運転員の自殺であるという。原子炉の欠陥が指摘されていたにもかかわらず、運転員の操作ミスとされたチェルノブイリ原発事故の発表を思い出す。

 話はハンフォードの放射能汚染の問題にもどるが、環境保護の市民団体による機密文書公開の取り組みなどに屈したのか、アメリカのエネルギー省はマンハッタン計画の拠点、ハンフォードの19000ページにもなる機密文書を公開した。この文書を読んだワシントン州政府保健省放射能防御部のアレン・コンクリン(10年間にわたりハンフォードで放射線防御を担当)は「長年働いてきた私は、ハンフォー ドのことはたいていわかっているつもりでした。しかし、放出された放射能の量には肝がつぶれました。文書からがエネルギー省の苦慮も読みとれます。もし、本当のことを知らせれば、労働者は逃げだし、人々はパニックを起こしていたでしょう。混乱を防ぐために、彼らは徹底して事実を隠しつづけてきたのでした。しかし、この秘密主義が、環境を汚染し、人々を傷つけ、また、人々がハンフォードに不信を抱くという、取り返しのつかない負の遺産を生んでしまったのです」「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)と言っている。

 公開された機密文書からわかったことは、大量の放射能がハンフォードから放出されたこと、特に放射性ヨウ素131は54万キュリーに達するというものであった。スリーマイル島原子力発電所事故で放出されたヨウ素131は、公式には15~24キュリーであったというから2万倍を超える驚くべき数字である。ところが、スリーマイル島原子力発電所周辺地域では、住民は避難し、汚染された牛乳は処分され
たというのに、ハンフォードでは、放射能放出は隠蔽され、周辺住民には何も知らされず、何の対応措置もとれらなかった。

 1990年8月21日夜、ハンフォードに近い町バスコで、被爆による健康障害を心配する住民のための初の公聴会が開かれたという。この公聴会に出席したという吉田文彦氏が、その著書「核解体──人類は恐怖から解放されるか──」(岩波新書)に、下記のように書いている。

 出席した約100人は、ほとんどが1940年代にハンフォード周辺で幼児、青年期を過ごした人たちだった。
 当時、核施設の風下にいたある女性は「私の妹は1946年1月生まれ。大きくなって甲状腺障害になった。幼児の時の被爆がいけなかったのではないでしょうか」と、くちびるをかんだ。
 自分自身、甲状腺異常を患ったという女性は「私の家族には甲状腺障害に悩んだ人が多い。遺伝的なものかと思っていたが、核施設のせいかも……」と、声をつまらせた。
 「40年前の科学者は私たちを犠牲にしても、平気だった。今日ここにいらっしゃる科学者たちは、当時の科学者とどこが違うのですか。 それを聞くまで、何を聞いても信じられません」
 白髪の婦人が、公聴会で説明にたったエネルギー省の科学者に不信感を爆発させた。沸き起こった拍手に押され、壇上の科学者は、返す言葉を失う一幕さえあった。
 

 小型軍用炉SL1暴走事故後、「原子炉建屋から約100メートル離れたところで放射線の強さが1時間あたり200レントゲンもありました」とある。その後、被害者は出ていないのか、と心配である。下記は、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から「第3部 もう一つの核汚染」の一部を抜粋したものである。
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                          第3部 もう一つの核汚染

 2 自殺の道連れにされた軍用炉=SL1

 特殊な小型軍用炉

 ウィンズケール1号炉の事故からおよそ4年後の、1961年1月、アメリカのアイダホ原子炉試験場の軍用炉SL1が暴走事故を起こしました。SL1は、陸軍の基地内の電力と暖房用の熱を供給する原子炉として設計され、58年に同原子炉試験場に建設された原子炉です。

 1958年以来、実用化に向けてアイダホ原子炉試験場ではSL1の各種試験を行なっていました。軍用炉であるため、SL1の運転員は職業軍人でした。暴走事故によって3人の運転員が全員死亡したため、事故の原因や事故にいたる詳しい経過はいまだによくわかっていません。幸いにして同原子炉試験場の敷地面積が非常に広大であったため、周辺地域住民への影響は軽微なもので済みました。まさに不幸中の幸いといえます。

 SL1は、自然循環式の沸騰水型軽水減速冷却炉という原子炉型式で、熱出力3000キロワットで、200キロワットの電力と電力換算400キロワットの暖房用熱源が取り出せるように設計されていました。東京電力(株)や中部電力(株)などの原子力発電所の原子炉型式も沸騰水型軽水減速冷却炉ですが、同じ原子炉型式といっても現在の原子力発電所の発電炉とはまったく異なる設計でした。燃料集合体は91%のウラン235を含む高濃縮ウランとアルミニウムの合金からなる九枚の燃料板で組み立てられていました。事故当時、炉心内にう装荷されていた40本の燃料集合体のウラン235の総量は14.7キログラムでした。


 突如暴走した原子炉

 SL1の運転は。交替制勤務で各直3人の軍人が作業にあたっていました。1960年12月23日に運転を停止し、正月明けの61年1月3日、翌4日の運転再開のための作業をしているとき事故が起きました。

 3日早朝から点検補修作業の最終工程にあたる炉心中性子束分布測定用のフラックス・ワイヤーの取り付け作業が開始されました。この作業は、原子炉頂部の遮蔽ブロックを取りはずし、原子炉容器の上部まで水位を上げ、制御棒は1本を除き、すべて駆動機構を取りはずして手動で引き抜けるようにし、燃料集合体の指定された場所に44本のフラックス・ワイヤーを挿入するものでした。

 ここまでの作業が終わり、午後4時に3人の運転員は次の3人の勤務員に交替しました。それからの作業予定は、原子炉の状態を元のように運転が再開できるように復旧することでした。しかし、午後4時以降の運転日誌には復旧作業が途中までしか記載されておらず、事故原因の手がかりになるような記載はありませんでした。


 異常に気づいたのは1月3日午後9時1分で、原子炉試験場内の消防署など3ヶ所の火災報知器がけたたましく鳴りひびき、SL1原子炉室の火災発生を知らせたからでした。6人の消防士がただちに現場にかけつけましたが、原子炉建屋から約100メートル離れたところで放射線の強さが1時間あたり200レントゲンもありました。このため消防車を後退させました。

 午後9時15分、放射線測定器を持った緊急チームが危険をおかして建屋内に入り、制御室をのぞいたあと、ただちに引き返しました。制御室内には運転員の姿が見えず、原子炉建屋内の床上の放射線の強さは1時間あたり500レントゲンもありました。この場所に1時間いただけで、70~80%の人が1ヶ月以内に死んでしまうほどの強烈な強さでした。


 午後10時50分、5人の救出チームが原子炉室に突入し、運転員の一人の死体を発見しました。また、まだいきていた2人目を救出しましたが、この運転員はまもなく急性放射線障害で死亡しました。強い放射線のため、のちに見つけられた3人目を含め、死体の回収作業の準備に数時間かかり、数百人の人々が作業にあたりました。ここでは、短時間交替のリレー作業が行われたのですが、22人が30~270ミリシーベルトの被爆をしました。

 運び出された死体は汚染水をあび、燃料粒子が付着していたため、2メートル離れたところでさえ1時間あたり100~500レントゲンの強さの放射線を出していました。死んだ運転員の身につけていた宝石や金属などが中性子線をあびて強く放射化されていたため、原子炉が突如臨界超過状態になった暴走事故であると推定されました。

 被爆を小さくした敷地の広さ ・・・略

 事故の原因は恋愛問題?

 SL1の事故は、運転員全員が死亡してしまったため、事故原因がよくわかっていません。残された運転日誌をたどると、通常の手順を行った途中までの記載しかありません。おそらくひとりの運転員が運転日誌に作業記録を記載したあと、この運転員も原子炉室に入り、他の2人の運転員とともに制御棒駆動機構の起動準備にかかったものと想像されます。そしてこの作業中に事故が起きたのです。

 事故ののち、SL1の放射能汚染が低下するのを待って、原子炉の解体作業が行われました。解体作業が進むにつれて、この事故は中性子爆発をともなったきわめて劇烈な爆発であったことが明らかになりました。全重量13トンにもおよぶ原子炉構造材は、原子炉容器ごと、1メートル近くも飛び上がった形跡が認められました。このため原子炉容器に接続されていた蒸気配管、給水配管などすべての配管が引きちぎられており、2個の遮蔽ブロックは原子炉室の天井を突き破って吹き上げられていました。この天井の梁に3人目の運転員の死体が引っかかっていたのでした。


 SL1は、中央の制御棒を1本引き抜くだけで容易に臨界に達することのできる構造で、しかも事故当時の作業は駆動機構をはずして、運転員の手で制御棒を引き抜く作業が予定されていました。軍用炉とはいえ乱暴きわまりない作業だといえます。この作業中に運転員が中央の制御棒をどう取り扱っていたかが問題なのですが、3人目の運転員が死亡したため、残念ながら確定的なことはわかりません。なんらかの理由で、制御棒が人力で急速に引き抜かれ、中性子が急増したため出力が急上昇し、このため炉心の冷却水のなかに蒸気泡が発生し、これが制御棒をさらに押し上げるなかで爆発にいたったという筋書きが考えられます。

 SL1事故から18年後の1979年3月6日、アメリカ政府によって公開された事故当時の原子力委員会の調査報告書には、運転員のひとりが恋愛問題を苦にして自殺をはかり、制御棒を故意に引き抜いた、と記されていました。(79年3月8日付朝日新聞)。調査報告書のとおりであるとしても、いかに軍用炉とはいえ、一本の制御棒を引き抜くことによって簡単に暴走してしまうような原子炉の設計そのものに最大の問題があります。安全性を最優先させる設計思想のない原子力の軍事利用に、事故の根本原因があったことは明らかです


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核秘密都市 トムスク7 再処理工場爆発事故-------------

核軍拡競争の時代、旧ソ連の工業地帯、中部ロシア、ウラル、シベリアの工業都市の近くに、地図にはない核秘密都市が建設された。核兵器は総合的な工業製品であるため、それらは、工業都市に近く、シベリア鉄道などの幹線から曳かれた支線の終着駅に建設されたとのことである。そして、町全体が鉄条網で囲われ、厳重に警備され、管理された。その10の核秘密都市の町の名前と数字の番号をつけた暗号名が「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)に出ている。下記である。

・クレムリョフスク(アルザマス16)核兵器の設計、研究、解体
・スネジェンスク(チェリャビンスク70)核兵器の設計、研究、解体
・オジョルスク(チェリャビンスク40、後に65)プルトニウム生産
・セベルスク(トムスク7)プルトニウム製造、ウラン濃縮工場
・ジェレズノゴルスク(クラスノヤルスク26)プルトニウム生産
・ゼリョナゴルスク(クラスノヤルスク45)ウラン濃縮工場
・ザレチノイ(ベンザ19)核弾頭組立
・レースノイ(スベルドロフスク45)ウラン濃縮工場
・ノボウラリスク(スベルドロフスク44)核弾頭組立
・トリョフゴルスク(ズラトウスト36)潜水艦用戦略ロケット


 ここでは、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から、そのトムスク7の再処理工場爆発事故に関する部分を抜粋する。

 因みに、アメリカでも同じような核秘密都市があった。サイトXという暗号名のオークリッジ国立研究所やサイトYのロスアラモス国立研究所、そして、広大な敷地にプルトニウム生産炉や再処理工場など核兵器製造工場が点在するハンフォードは、サイトWとのことある。こうした核秘密都市周辺には、被曝による健康被害に気づかなかったり、訴えることができなかったりした住民が存在したこと、また、今なお苦しんでいる人たちが存在することを、忘れてはならないと思う。
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                    7 爆発した再処理工場=トムスク7
 
 軍参複合体の化学コンビナート

 西シベリアにあるロシアの古都トムスクは人口約60万人、シベリアのどまんなかに位置する交通と文化の中心地です。1604年に建設され、1880年には政治犯の流刑地となり、ロシア革命後は、一時、反革命軍の根拠地ともなりましたが、1919年にソビエト政権が樹立されました。ソ連崩壊後も、市の中心広場にはレーニンの像が残され、ビルの壁には革命家キーロフのレリーフが埋め込まれています。

 この平和で美しいトムスクの人々を驚かす事故が、1993年4月6日に発生しました。トムスク市の北方数キロメートルのところにあるトムスク7という核兵器開発のための秘密都市内のシベリア化学コンビナートで爆発が起こり、放射性物質が環境に放出されたのです。

 トムスク7は第2次大戦中にソ連が国内に分散してつくった核秘密都市のひとつで、その存在は最近まで知られていませんでした。もちろん地図にも載っていない町でした。町の中心的存在は軍産複合体のシベリア化学コンビナートで、このコンビナートはチェリャビンスク65のマヤーク工業コンビナートに匹敵する規模を誇っています。ここには核兵器級プルトニウム生産炉5基(現在3基が閉鎖し、残り2
基もチェルノムイルジン=ゴア協定にもとづき2000年に閉鎖の予定)、使用済み燃料の再処理工場、高濃縮ウラン生産工場、放射性廃液の地下処分工場などがあります。トムスク7にはシベリア化学コンビナートに働く科学者、労働者およびその家族など約10万人が居住しているといわれています。


 トムスク7にはこれらの人々の生活に必要なあらゆる施設がつくられており、商品の種類も豊富にあるといわれています。しかし、町全体がフェンスで囲まれており、軍隊の管理下にあります。犬を連れた兵士がフェンスに沿って巡回し、外部からの侵入をつねに監視しています。唯一のゲートは日本の高速道路の料金所をもっと厳重にしたような構造で、住民の出入りも身分証明書の提示を必要とし、自動車のトランクの中まで調べられます。外部からの訪問は特別の許可証がなければなりません。外国人の立ち入りはモスクワにある原子力省と内務省(旧KGB)の許可が必要です。ソ連崩壊後の現在でもそうなのですから、崩壊以前は高度な機密を要する閉鎖都市だったのでしょう。このような核秘密都市は旧ソ連に限らず、アメリカでもアルゴンヌやオークリッジなどが知られています。

 爆発した再処理工場

 1993年6月、某テレビ局の取材に同行して市川富士夫(元日本原子力研究所、現明治大学)は、トムスク7周辺の実情を調査してきました。また、事故原因などについて、シベリア化学コンビナートの責任者と話をする機会も得ました。市川の入手した情報をもとに、事故当時の状況を見ていきましょう。

 爆発はシベリア化学コンビナートの再処理工場で起こりました。再処理工場では原子炉の使用済燃料を化学的に溶かして、いろいろな薬品を加えて処理します。その結果、燃料のなかに含まれている燃え残りのウランと新たに生成したプルトニウムと高レベル廃液とに分離します。目的のプルトニウムはさらに精製してから他の核秘密都市に輸送して核弾頭に加工するようです。

 事故が起こったのは分離後のウラン溶液をさらに精製するための調整タンクでした。調整タンクは約34立方メートルの容量を持ち、建屋内の地下につくられた厚さ1.2メートルのコンクリート製のセルに入っています。タンク内の溶液に濃硝酸を注入したところ、2時間半後爆発してタンクが破裂し、さらに可燃性ガスが爆発して再処理工場の建屋の壁や屋根が破壊されました。爆発と同時に火災が発生しましたが、およそ10分以内に消火したといいます。


 爆発のとき、隣の建屋で仕事をしていた技術者カタベンコは、イスから飛び上がるような衝撃をうけたといっています。しばらくのあいだ何が起こったのかわかりませんでしたが、避難するように言われたのは爆発から30分くらい経ってからだといいます。爆発したのは昼過ぎ午後零時58分、工場の技術長に報告されたのが午後1時20分ですから、避難はその指示によるものでしょう。このあいだにも、爆発で吹き飛ばされた放射性溶液は、霧のようになって周辺環境に広がっていきました。

 カタベンコの働いていた部屋の中にも放射性ミストが侵入し、室内のあらゆるものを汚染させました。もちろん、その場で仕事をしていた人々は放射性ミストを吸い込んでしまったはずです。放射線下で働く労働者が被曝線量を測定するため、作業服の胸につけているフィルムバッジがあります。カタベンコの中性子線用フィルムバッジは外側がはなはだしく放射性物質(ネプツニウム237とプルトアクチニウム233)で汚染されていました。その放射能の強さは、日本の法律なら放射性物質として管理の対象にされるほどの強さでした。こんなものを知らずに身につけていたら、無用な被爆をしてしまいます。


 放射性物質の一部は、高さ150メートルの排気筒からフィルターの隙間を通って大気中に吹き出しました。そのとき、風は北東に向かって吹いていました。再処理工場はトムスク7内の北の方に位置していたので、放射性物質はフェンスを超えて北東の農村の方向に広がったのです。そのため、幸いにもトムスク7の市街地とトムスク市の放射能汚染はほとんどなかったといいます。もし風が反対だったら大変なことになっていたと、トムスク7の核施設全体を管理しているシベリア化学コンビナートの責任者ハンドリンは語っていました。

 寒村を襲った放射能 

 排気筒から放出された放射性物質は森林地帯を越えてゲオルギエフカ村一帯に広がり、折からの降雪とともに地表に降下したとみられます。幅5~7キロメートル、長さ数十キロメートルの帯状に汚染地帯が分布しているのはそのためです。放射性物質は微粒子になって飛んだらしく、ガンマ線用放射能測定器の針が振り切れるほど強い放射能を示す地点が無数に分布していました。地表から1メートルの高さでの線量率が自然放射線の数倍になっている畑がありました。このような畑は耕作禁止の措置が採られていました。


 フェンスから1キロメートル、爆発地点から約8キロメートル離れたところをトムスク市からサムン市へ通ずる道路には高濃度の汚染が認められました。そのため、この道路沿いに自動車のタイヤを洗浄し放射能検査をするチェック・ポイントが何カ所か設けられていました。道路の雪は除かれましたが放射能レベルは下がりませんでした。路肩には「危険」「車外に出るな」との新しい標識が立てられていました。舗装道路の表面は削り取られ、新しいアスファルトを敷き直しました。それでも自動車でこの道路を走ると測定器の針が放射能の増加を示します。徐染したのは道路上だけで、周辺の雑草地や森林はまったく手をつけていないのですから、地域全体の放射能レベルが下がらないのは当然のことです。

 ゲオルギエフカ村は人口わずか200人ほどの貧しい農村です。牧畜をやっている人もいます。事故後、子どもたちは一時的に避難させられました。若者達は出稼ぎにいっていて、終末になると戻ってきます。「トムスクからはときどき放射能を測りにくるけれども、心配ないというだけで何も説明してくれない。うちの畑でとれたジャガイモは食べても大丈夫なのかね?」と、年の頃60歳はとうに過ぎていると思われる女性グリコバが心配して話しかけてきました。グリコバの畑も放射能で汚染されていましたが、トムスク7の人は、畑を耕せば放射能はなくなる、と教えたそうです。確かに、畑の土を天地返しすれば、表面にあった放射性物質は地中に入るので、地表で測った放射能レベルは少なくなります。しかし、放射性物質がなくなったわけではありません。地中で成長するジャガイモにとっては、根から放射性物質を吸収する機会は確実に増えるでしょう。


 なぜ国際的な関心を呼んだのか

 環境から検出された放射性物質はジルコニウム95(半減期64日)、ニオブ95(同35日)、ルテニウム106(同367日)、セシウム137(同30年)などでした。ロシア原子力省の発表によれば、ベータ・ガンマ放射性物質が40キュリー、プルトニウムが1キュリーとなっています。しかし、これは排気塔から周辺環境に放出された量であり、タンクの破裂で再処理工場のまわりに飛散した量は含まれていません。放射能の量は後者の方がずっと多く、成分も異なります。

 先に紹介したカタベンコのフィルムバッジの汚染からわかるように、爆発現場付近で検出されたのはネプツニウム237(同214万年)とその壊変生成物のプロトアクチニウム233(同27日)でした。なお、ここに示した放射性物質はガンマ線分析装置により確認されたものなので、ガンマ線を放出しないストロンチウム90、プルトニウム239やウランは直接検出できません。

 爆発現場の復旧作業は何よりも優先され、突貫作業で行われました。飛散した溶液の回収、建屋内外の徐染、タンクの交換、建屋の修理などを済ませ、1993年9月頃には操業を再開したということです。最高度の核軍事施設ならではの早業といえます


 今回の爆発事故は再処理工場で発生し、環境の放射能汚染を引き起こしたという点でロシア内以外で関心をもたれました。事故発生の1時間半後にモスクワに第1報が入り、同日中にウィーンの国際原子力機関(IAEA)に通報されました。環境影響把握のためのロシア緊急国家委員会の調査団、原因究明のためのロシア原子力省の調査団が現地に派遣されました。IAEAもロシア政府の招聘により3人の専門家を現地に派遣しました。アメリカは、今回の事故と同様の施設や廃液貯蔵施設を有するところから、この事故を重視し、6月に調査団をトムスク7に派遣し、9月にはロシア原子力省の専門家をアメリカに招いて情報交換と今後の協力計画を協議しました。

 情報もないまま安全PR
 ・・・(略)


一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したり、空行を挿入したりしています。青字が書名や抜粋部分です。

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