-NO365~371
---------原発事故 許容被曝線量 晩発性放射線障害 NO2---------

2013年5月25日の朝日新聞は、
「福島第1原発事故で避難した住民が自宅に戻ることのできる『年20ミリシーベルト以下』の帰還基準は、避難者を増やさないことにも配慮して作られていたと報じた。住民の被曝を減らすために、帰還基準を5ミリシーベルトにするべきだという意見もあったようであるが、そうすると、福島県の13%が原発避難区域に入り、人口流出や風評被害が広がること、また避難者が増えて、賠償額が膨らむことが懸念されたためであるという。そして、2011年11月の放射線量に基づき、(1)5年以上帰れない帰還困難区域(年50ミリシーベルト超)、(2)数年で帰還を目指す、居住制限区域(年20ミリ超~50ミリシ-ベルト)、(3)早期帰還を目指す、避難指示解除準備区域(年20ミリシーベルト以下)に再編、と伝えている。
 しかしながら、チェルノブイリ原発事故後のソ連での議論や、晩発放射線性障害の発生状況を考えると、その放射線量はあまりに高く、日本政府や関係者は被曝による晩発性放射線障害の問題をどのように考えているのかと疑問に思う。

 
チェルノブイリ事故後のソ連邦の対応は70年35レム説(生涯350ミリシーベルト概念)に基づいて進められたようであるが、それは、それまでの年間5ミリシーベルトの許容被曝線量を、事実上つり上げるための考え方であり、住民の命や健康を無視するものだ、と激しい反発の声が、下記のようにあちこちから上がったのである。そして、被曝による様々な晩発性放射線障害が、現在も問題となっている。 下記は「チェルノブイリ極秘」アラ・ヤロシンスカヤ著・和田あき子訳(平凡社)からの抜粋である。
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                      第1部 わが内なるチェルノブイリ

「子ども達の健康は心配ない」

 ・・・
 
 そのあとでもう一つ、世論に影響を与えようとする試みがあった。雑誌『放射線医学』と新聞『科学技術革命の論壇』に、事故後の状況と関連して放射能の安全性の分野や放射線医学機関で活動してきた学者グループの声明が発表されたのである。その趣旨はまたもやこうである。35レムの限度内なら、被爆しても安全だ。この被爆線量まで達しないうちは、何も心配はないというのだ。子どもたちの健康には何の心配もない、と。

 彼らは誰一人として、一度くらいは次のような単純な事例を考えつかなかったのだろうか。大人の私が20年間かかって、35レムの被爆を受けたとしよう。徐々に。これは一つの事例だ。ところがここに1歳の赤ちゃん、あるいは2歳の赤ちゃんがいたとする。この子が同じ線量を、例えば10年ではなく、1-2年で受けたとする。はたしてこの2つが比較可能だろうか。はたしてこれが安全性という観点から許容されるだろうか。私の肉体とその赤ん坊の肉体の反応は、同一だという観点に立つのか。こんな単純な、小さな事柄を理解するのに、アカデミー会員である必要も、放射線生物学者である必要も、医学者である必要もない。それは私の判断でもなんでもなく、私たちが自分の州で出会う生活の現実である。私たちのところには村があり、それらの村にはたった2年間のうちに20レムの被爆をした子どもたちがいる。この子たちにこの先、何が起こるのだろうか。弱い子どもの肉体にとってそれは、彼らの体調から判断しても、打撃である。すべてが秘密にされていたので、それを知らなかったことも加えれば、それが彼らの両親にとっていかに言語道断な打撃であったかは想像にかたくない。イリインの言い方を借りれば、「ただの人」にとっては


 とくにアカデミー会員イリインと彼の同調者たちのために、私は、チェルノブイリ原発の職員たちでない、子どもも含めた住民たちが黒い沈黙の最初の2年間に10レムから20レム、15レムまで被爆したナロヂチ地区の12の村の名を列挙しておきたい。
 それは、ルードゥニャ=オソシニャ村(権力に隠れて私が潜入した最初の村)ズヴェズダリ村
、…(以下村名は略)

 これらの村の住民の即時避難に関する政府決定が採択されたのは、ソ連邦第1回人民代議員大会の前夜のことであった。それからほぼ2年がたった。そしてどうなったか。今日にいたるも、まだすべてが避難していない。理由は、国家、地方行政機関に支払い能力がないからである。人々を移住させるところがない。住宅がない。資材がない。建てる者がいない。労働力がない。ない、ないづくしである。

 そしてまさにここに、連邦政府の側が、「支持グループ」に積極的に加担する中で、学者グループが「70年35レム」というテーゼに固執していることの本質と理由がある。彼らが念頭においているのは被爆した何百万の人々を守ることではなく、そのテーゼのモデルを借りて、わが政府に万事うまくいっている、人々の健康にはまったく心配はないという幻想をつくり出すことだったのである。どうやら、ただ単に物──つまり住宅や長椅子やガス設備のみならず、「学問的」予測もまた便利で快適なものであることが多いらしい。

 自分の政府の居心地よさのために国民は高い代価を払わされているのである。
 では、ソ連邦最高会議委員会の公聴会ではイリイン説に一体どんな評価が与えられているのか。
 生物学博士のA・G・ナザーロフは言った。
「ここでいつも言われている原則的な命題が一つ、それはいわゆる35レム説である。われわれはこの問題を多角的に、ただ医学的観点からだけでなく、社会心理学的からも、社会学や経済学の観点からも、また地形生態学の観点からさえ研究した。これらの観点からすると、つまり総合的アプローチからすれば、いわゆる35レム説は、概念の体をなしていない。なぜなら、もとより35レム説にせよ。40レム説にせよ30レム説にせよ、基準自体が数字的に厳密な根拠を欠いているので、われわれは、医学アカデミーや保健省が提出したすべての科学的資料を検討して、いまそれが出されているような形では、35レム説は、決定を下すための指導的コンセプトとはなりえないという結論に達したのである」


 ソ連邦最高会議エコロジー委員会専門家E・M・ボロヴェツカヤは言った。
「生涯に35レムという数値は、『b』の範疇のひと、つまり核施設で働いていない、普通の住民にとっての被曝線量限度として、現在一般的に受け入れられている、1年0.5レムという線量を寿命を70年として単純に70倍して得られたものです。何のためにこれが必要であったかという問題が起こってきます。その目的はただ一つです。科学的アプローチと見せかけて、1年に0.5レムから35レムまで被曝しても、人間には害はないかのように線量限度値を恣意的につり上げたことを覆い隠すことです。実際に、曖昧な形での生涯許容線量というコンセプトは、数時間に取り込もうと、数ヶ月に取り込もうと、数十年に取り込もうと、それには関係なく同じように害はないと思わせます。ですから事実上これは、1年0.5レムという現在一般に受け入れられている線量限度を70倍も高いものにすり替えることを意味します。それだけ被曝するまで、ゾーンから外へ人びとを出すことはないかのように。しかし、そのような線量限度値のすり替えは、絶対に許されません……。生涯35レム説は、線量の時間的割り振りを無視しており、そのことによって35レムの急性被曝と、70年間にわたる同量の被曝を等価に置いています。ところが、それは学問的データの総体と矛盾しているのです。実際に、被曝が時間的に集中しているときには、その有害な作用は急激に増大します。生涯35レム説は、いろいろな年齢の人の放射線感受性の差を完全に無視しています……。子どもは成人、ましてや老年期の人よりはるかに被曝に感じやすいものですし、同一年齢の人でも放射線感受性は人によって数倍も違います。生涯35レム説は、急性あるいは慢性放射線障害のような作用しか考慮に入れておらず、ガンの誘発を含めたいろいろな病気の罹病率の上昇やいろいろな有害な作用に対する感受性の上昇といった、専門家にはよく知られているものの、まだ十分に研究されていない段階にある、免疫系の破壊に関連した影響を無視しています。35レムという線量は、人間にいろいろな遺伝子の異常の頻発を強める被曝線量に近い。それは、もし生殖期の終わりまでにそのような被曝を人間が受ければ、その人の子どもは先天的疾患を持って生まれてくる確率が高くなることを意味します」 
 E・M・ボロヴェツカヤが読み上げたテキストには400人の学者が署名していた。これは、雑誌『放射線医学』と新聞『科学技術革命の論壇』に発表された35レム論を信奉する学者グループの手紙に対する「チェルノブイリ原発事故による住民と生態系に対する放射線の影響の遺伝的価値」会議の参加者の名による集団的反論であった。


 ウクライナ共和国人民代議員、ナロヂチ地区執行委員会議長V・S・ブヂコは言った。
「この説は医学的なものというより経済的なものだ、とわれわれは理解している。これはその地域に住んでいる人びとへの背信行為である。なぜ私がそう言うのかといえば、それは1986年4-5月に現地で起こったことが何も考慮されていないからだ」


 ソ連邦最高会議エコロジー・資源有効利用委員会のメンバー、E・P・チホネンコは言った。
「チェルノブイリ大惨事の当初から中央省庁によって実施されたこれらの政策の基礎には、1987年末からは『生涯線量35レム』説が置かれていたが、この説の使命は、次のような課題を解決することだった。つまり一般世論を落ち着かせること、事故処理の責任を党と国家の機関や具体的個人から解除すること、多くの損害を被った被災者と汚染地区の住民への補償をできるだけ少なく済ますこと、それに人びとの生命と健康に対する危惧が根拠のないものであると思わせることである。
 その本質においてこの説は、反人道的なものである。そのことは、この説がいたるところで、決定的に拒否されていることを証明している。……それは破廉恥なものでさえある」


 医学博士のソ連邦人民代議員Y・N・シチェルバークは言った。
「われわれの学問と社会におおきな弊害をもたらしてきたのは、一般的に言って独占主義である。チェルノブイリの歴史にもまさしく同じものがあると私は考える。特にアカデミー会員イリインを先頭にした医学者グループの独占主義、これは私の深い確信であるが、この独占主義は最も深刻な弊害である。もし、ことが人の健康に関わるものでなければ、このような告発をしようとは思わない。心理的状態のことならば、このことはすでに明々白々だ。独占主義は35レム説の押しつけに表れている……。この説は、押しつけられ、さまざまな口実をつけてあらゆる公式文書に取り入れられている。5日前に私は、スイスから戻ってきたところだが、そこでは放射線防護の分野の大家たちに会ってきた。彼らはこの説に不審を抱いていた」

  

----------晩発性放射線障害 原子力村 国際組織 NO3----------

 
「チェルノブイリ事故による放射能災害-国際共同研究報告書」今中哲二編(技術と人間)を読むと、IAEAやWHOが、関係政府の意見を大筋で受け入れ、原発事故の被害を過小評価することによって、原発推進の役割を果していることが分かる。日本国内の「原子力ムラ」と同じように、国際的にも「国際原子力ムラ」が存在しているということである。「チェルノブイリ 極秘」(平凡社)の著者アラ・ヤロシンスカヤも、その事実を明確に指摘していた。”国際原子力共同体”は、国際的な「原子力村」というわけである。
 ベラルーシ科学アカデミー・物理化学放射線問題研究所のミハイル・V・マリコは、下記のようにベラルーシにおける甲状腺ガンの発生数を通して、その晩発的影響に関する事実を明らかにし ”国際原子力共同体”の過小評価を批判しているが、
「被災地住民の間に一般的な病気が有意に増加している」との指摘も見逃すことはできない。

  そうした指摘をふまえれば、今回
「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR)が、東京電力福島第一原子力発電所事故による住民への被曝影響の報告書で、「被曝による住民への健康影響はこれまでなく、将来的にも表れないだろう」と述べていることは、そのまま受け入れることはできない。チェルノブイリ事故後の状況と比較すると、福島でも晩発的影響が出てくる可能性は否定できないのではないかと思うのである。
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             チェルノブイリ原発事故:国際原子力共同体の危機
                 ミハイル・V・マリコ(ベラルーシ科学アカデミー・物理化学放射線問題研究所)
はじめに


 ・・・
 今日、チェルノブイリ原発の核爆発が、生態学的、経済的、社会的そして心理学的にどのような影響を及ぼしたかについては議論の余地がない。一方、この事故が人びとの健康にどのような放射線影響を及ぼしたかについては、著しい評価の食い違いが存在している。チェルノブイリ事故直後に、被災した旧ソ連各共和国の科学者たちは、多くの病気の発生率が著しく増加していることを確認した。しかし”国際原子力共同体”は、そのような影響はまったくなかったと否定し、病気全般にわたる発生率の増加とチェルノブイリ事故との因果関係を否定した。そして、この増加を、純粋に心理学的な要因やストレスによって説明しようとした。”国際原子力共同体”がこうした立場に立っ た理由には、いくつかの政治的な理由がある。また、従来、放射線の晩発的影響として認められていたのは、白血病、ガン、先天性障害、
遺伝的影響だけだったこともある。同時に、”国際原子力共同体”自身が医学的な影響を認めた場合でも、たとえば彼らは、チェルノブイ リ事故によって引き起こされた甲状腺ガンや先天性障害の発生を正しく評価できなかった。こうしたことを見れば、”国際原子力共同体” が危機に直面していることが分かる。彼らは、チェルノブイリ事故の深刻さと放射線影響を評価できなかったのであった。彼らは、旧ソ連 の被災者たちを救うために客観的な立場をとるのではなく、事故直後から影響を過小評価しようとしてきたソ連政府の代弁者の役を演じた。本報告ではこうした問題をとりあげて論じる。


チェルノブイリ事故原因と影響についての公的な説明

 チェルノブイリ原発事故は、原子力平和利用史上最悪の事故として専門家に知られている。事故は1986年4月26日に発生した。そ の時、チェルノブイリ原発4号炉の運転員は、発電所が全所停電したときに、タービンの発電機を使って短時間だけ電力を供給するテストを行っていた。事故によって原子炉は完全に破壊され、大量の放射能が環境に放出された。当初、ソ連当局は事故そのものを隠蔽してしまおうとしたが、それが不可能だったため、次には事故の放射線影響を小さく見せるように動いた。


 ・・・(以下略)

チェルノブイリ事故被災者の医学的影響

「350ミリシーベルト概念」
 いわゆる350ミリシーベルト概念、すなわち、被災者の被曝限度を一生の間に350ミリシーベルトと定めた主な理由は、おそらくソ連の困難な経済状況であった。この概念は、1988年秋にソ連放射線防護委員会(NCRP)によって作られた。
 この350ミリシーベルト概念は、以下の仮定に基づいている。
・ソ連国内汚染地の大多数の住民にとって、外部被曝と内部被曝を合わせた、チェルノブイリ事故による個人被曝は、1986年4月26
日を起点とする70年間に350ミリシーベルトを越えない。
・汚染地で生活する人の全生涯に、事故によって上乗せされる被曝量が350ミリシーベルト程度か、それ以下であれば、住民への医学的な影響は問題にならない。
 こうした仮定により、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの全チェルノブイリ被災地において、移住を含めた何らの防護措置も実質的に行う必要がなくなった。この350ミリシーベルト概念は、1990年1月から実施されるはずであった。その実施によって、事故後汚染地でとられてきたすべての規則は解除されることになっていた。


 350ミリシーベルト概念は、1986年夏にソ連の専門家が行った医学的影響予測に基づいている。また、1988年末イリイン教授の監督のもとで行われた改訂版の評価にも基づいている。その改訂版の評価は、昔のものと非常によく一致していた。しかし、古い評価と同様、新しい評価も正しくない。そのことは、甲状腺ガンの評価からはっきりみてとれる。新しい評価によれば、チェルノブイリ事故によってベラルーシの子供たちに引き起こされる甲状腺ガンは、わずかに39件とされている。そして、その症例は5年の潜伏期の後、30年かけて現れるはずであった。つまり、ベラルーシの子供たちにはじめて甲状腺ガンが増えてくるのは1991年になってのことだと予測されていた。

 イリイン教授らの予測は完全に誤りであった。そのことは、表1に示すベラルーシにおける甲状腺ガンの発生件数のデータをみれば分かる。チェルノブイリ事故前9年間(1977-1985)においては、ベラルーシで登録された小児甲状腺ガンは、わずか7例であった。つまり、ベラルーシにおける自然発生の小児甲状腺ガンは、1年に1件だということである。ところが、1986年1990年の間に47例 の甲状腺ガンが確認され、それはイリインらによる予測に比べれば9倍以上に達する。
 
 チェルノブイリ事故後最初の10年、つまり1986年から1995年の間にベラルーシで確認された甲状腺ガンの総数は424例であった。この値は、事故後35年の間に全部で39件の小児甲状腺ガンしか生じないというイリインらの予測に比べ、すでに10倍を超えている。予測と実際とを比べてみれば、チェルノブイリ事故による小児甲状腺ガンの発生について、ソ連の専門家の予測はたいへんな過小評価をしていたことがわかる。同じことは、旧ソ連の汚染地域における先天性障害に関してもいえるであろう。ソ連の専門家の評価は、それがみつかる可能性すら実際否定していた。その結論の誤りがラジューク教授らによって示された。

 上述した事実は、チェルノブイリ事故による放射線影響に関してソ連の専門家が行った評価が、著しい過小評価であることをはっきりと 示している。そのことは、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染地域において、事故直後から被災者の間に健康状態の顕著な悪化を確認してきた多くの科学者たちにとっては自明のことであった。

 ところが、ソ連当局と国際原子力共同体は、イリイン教授らの評価結果と350ミリシーバルト概念が正しいと考えていた。国際原子力共同体が、チェルノブイリ事故の放射線影響に関するソ連の新しい評価や350ミリシーベルト概念の意味するものを十分承知していることに注意しておかねばならない。ソ連医学アカデミーの会議の後、イリイン教授らの報告は、世界保健機構(WHO)に提出され、後日それは、有名な国際雑誌に科学論文として掲載された。350ミリシーベルト概念についても同様である。350ミリシーバルト概念に関する報告は、1989年5月11日ー12日にウィーンで開かれた国際法車線影響科学委員会の第38回会議に提出された。この概念は、国際原子力機関(IAEA)事務局が1989年5月12日に開いた、チェルノブイリ事故に関する非公式会議にも提出された。

 このソ連の新しい評価は、国際原子力共同体の専門家からは何らの批判もうけなかった。そのことはイリイン教授らの論文の内容が、もとの報告と大きく変わっていなかったことからもわかるし、ソ連政府に350ミリシーベルト概念を実施させるために国際原子力共同体が多大な手助けをしたことからもわかる。


被災地における健康統計

ベラルーシの専門家が成し遂げたもう1つの重要な仕事は、被災地住民の間に一般的な病気が有意に増加していることを見つけたことである。多くの専門家は、一般的な病気が増加していることを疑っている。そのような疑いが根拠をもたないことは、本報告の表2,3に示したデータがはっきりと示している。
 これらのデータは、ブレスト州の汚染地域とその対照地域住民について、P・シドロフスキー博士が行ってきた疫学研究の結果である。


・・・(以下略)

      
 表1 ベラルーシにおける甲状腺ガン発生数
                (大人と子供)
事故前 事故後
大人 子供 大人 子供
1977 121 2 1986 162 2
1978 97 2 1987 202 4
1979 101 0 1988 207 5
1980 127 0 1989 226 7
1981 132 1 1990 289 29
1982 131 1 1991 340 59
1983 136 0 1992 416 66
1984 139 0 1993 512 79
1985 148 1 1994 553 82
合計 1131 7 合計 2907 333


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晩発性放射線障害 チェルノブイリと福島の事故後 NO4---------

 6月6日の朝日新聞に
、”福島県は5日、東京電力福島第1原発事故発生当時に18歳以下だった子ども約17万4千人分の甲状腺検査の結果を発表した。9人が新たに甲状腺がんと診断され、すでに診断された3人と合わせ、甲状腺がんの患者は累計12人になった。疑いのある人は16人になった。チェルノブイリの事故では、被曝から4~5年後に甲状腺がんが発生していることから、県は「被曝による影響の可能性はほとんどない」と説明している。・・・”との記事があった。まだ2年少々しか経過していない現在、なぜ「被曝による影響
の可能性はほとんどない」
というのか、その意味がよく分からない。

 下記は、
「チェルノブイリ事故による放射能災害-国際共同研究報告書」今中哲二編(技術と人間)の中の「ウクライナにおける事故影 響の概要」(ドミトロ・M・グロジンスキー:ウクライナ科学アカデミー・ウクライナ細胞生物学遺伝子工学研究所)の論文から抜粋したものであるが、その中に、「被曝からガンが発現するまでの潜伏期間は、平均約8年から10年の付近でばらついている」、という文章があり、表16からは、確かにそのことが読み取れる。そして、10年が経過しても「現在まだその発生率のピークに至っていない」というので
ある。

 それは、「晩発性放射線障害 原子力村 国際組織」で取り上げたベラルーシ科学アカデミー・物理化学放射線問題研究所のミハイル・V・マリコの論文に添付されていた
「ベラルーシにおける甲状腺ガン発生数(大人と子供)」の表を見ても分かる。1986年から199
5年まで一貫して増加を続けているのである。

 国際放射線防護委員会(ICRP)が、線量とがんや白血病などの発生確率は比例するとし、
「しきい値」はないとしている。その考え方に基づけば、たとえ低線量の放射線による被曝であっても、人体・生体への影響および健康被害の可能性はあると考えるべきであろう。低線量被曝ほど、潜伏期間が長いという。したがって、今の段階で「被曝による影響の可能性はほとんどない」と言う根拠は何なのか、と疑問に思う。

 東京電力福島第1原発の事故後の原発関連組織やそれらと一体となった関係者の対応が、グロジンスキーが指摘するチェルノブイリ事故後の一部の組織や関係者の動きと同じ、ということはないであろうか。 

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                    ウクライナにおける事故影響の概要
           ドミトロ・M・グロジンスキー(ウクライナ科学アカデミー・ウクライナ細胞生物学遺伝子工学研究所)
放射線影響評価

 事故の直後から、災害の規模についての情報は不当に見くびられ、また誤解されてきた。今日でさえ、世間一般の見方は、人類におよぼされた破局的大災害の実相からはるかにかけ離れている。放射線の専門家の間にはっきりと浮かび上がってきた論争は、今日に至っても、チェルノブイリ事故の医学的影響をめぐって続いている。チェルノブイリ事故後、ウクライナの人々の間に生じてきたおびただしい病気の真の原因が何なのか、意見が分かれているのである。事故後の罹病率が増加した原因は、心理的な要因にあるのであって、それ以外にはありえないとする見解を支持する人たちがたくさんいる。「放射能恐怖症」なる用語が、放射線関係の論文の中に現れるようになっている。しかしながら、罹病率は環境の放射能汚染と深く関連しているという見解もまた存在している。すでに、低線量被曝の効果、および甲状腺に対するヨウ素の影響について、信頼できるデータがある。


 チェルノブイリの事故の影響がなかったかのような嘘をついたり、それを忘れ去るべき過去のこととして記憶から消し去ってしまおうとさえするような恥ずべきまた非人間的な動きがあることを、私は注意しておきたい。チェルノブイリ原発事故によって原子力の権威は地に 落ちたが、多くの場合、上のような見方は原子力への偏向した支持者たちによってなされてきた。しかし私は、この事故は決して忘れ去られてはならない信じる。むしろそれどころか、私たちは、事故の影響を慎重に明らかにしなければならない。なぜなら、以下に述べるよう に、チェルノブイリ事故による放射線影響は、未曾有で大規模な生態学的な危険と関連しているからである。


 ・・・(以下略)

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子供たちの健康状態

 チェルノブイリ事故で被曝した子供では、1987年から1996年まで慢性疾患がたえず増加してきた。表14はチェルノブイリ被災地域の子供の発病率と罹病率の値である。
 この10年間で、罹病率は2.1倍に、発病率は2.5倍に増加した。罹病率の増加が最も激しいのは、腫瘍、先天的欠陥、血液、造血器系の病気であった。もっとも罹病率が高いのは、第3グループ(厳重な放射能管理下の住民)
-下記註参照-の子供たちである。同じ期間において、ウクライ
ナ全体の子供の罹病率、20,8パーセント減少していることを指摘しておく。

 このように、被災地域の子供たちの罹病率は、全ウクライナ平均での子供の罹病率をはるかに超えている。被災地域の子供たちの病気の構成表を表15に示す。
 同じ期間に、先天的欠陥の発生率は5.7倍に、循環器系および造血器系の罹病率は5.4倍に増加している。
 妊娠中と出産時の異常の増加に伴い、新生児の死亡率が増加している。また、1987年に1000人当たり0.5件であった0~14歳の子供の死亡率は1994年には、1.2件に増えている。
 神経系と感覚器官の病気(5倍に増加)、先天的欠陥(2.4倍に増加)、感染症・寄生虫起源の病気、循環器系の病気などによって、子供の死亡率は増加している。

 他の地域の子供に比べ、問題の子供たちのガン発生率も明らかに大きい。被災地域の子供の腫瘍発生率は、1987年10年間で3.6倍に増加している。ガンの種類によって、その死亡率の増加傾向は、必ずしも一定していない。しかし、汚染地域の子供のガン死亡率は、他の地域の子供よりも大きくなっている。


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甲状腺ガン

 今日では、チェルノブイリ事故が甲状腺ガンを増加させたことに議論の余地はない。甲状腺の悪性腫瘍を引き起こした原因が、破壊された原子炉から放出されたヨウ素にあることもまた確定されている。事故前は甲状腺ガンはまれな病気であり、主に年長者に特徴的な病気であった。子供や青年においては、甲状腺ガンの年間発生率は100万人当たりおよそ0.2ないし0.4件であり、全腫瘍の約3%を占めたと推定されている。1981年から1985年にかけて、ウクライナの子供にみられる甲状腺ガンはわずか25例にすぎなかった。
 被曝からガンが発現するまでの潜伏期間は、平均約8年から10年の付近でばらついている。被曝量の大きさと潜伏期間の長さの間には関連がない。しかし、甲状腺ガン発生率の増加は予測されるよりもはるかに早く、すなわち事故後4年にして始まり、現在も増加中である。

 甲状腺ガンは、事故時年齢が3歳以下の子供で著しい増加を示している。この甲状腺ガンの特徴はたいへん攻撃性が強いことである。半数の症例では、ガンが甲状腺の外側に広がっていき、周辺の組織や器官までも冒している。子供の甲状腺ガン症例数を、表16に示す。
 小児甲状腺ガンの増加は、今後長い年月にわたって続くと考えるのが合理的である。現在まだその発生率のピークに至っていない。
 

第1グループ チェルノブイリ事故の事故処理作業従事者(リクビダートル)
         男性22万3908人 女性2万1679人 合計24万5587人
第2グループ 避難ゾーンからの強制避難者と移住義務ゾーンからの移住者 
         男性3万1365人 女性3万9128人 合計7万483人
第3グループ 厳重な放射線管理が行われる地域にいま現在も居住しているか、
         事故後数年間にわたって住み続けていた住民。
         このグループに属する人数はたいへん多く、209万6000人である(男性45.7%、女性54.3%)
第4グループ 上記のグループのいずれかに属する親から生まれた子供。
         1995年の時点で、31万7000人以上。

表14 被災地域の子供の発病率と罹病率
発病率 罹病率
1987 455.4 786.6
1994 1138.5 1651.9

表15 被災地域の子供の病気の構成

疾病の種類
呼吸器系の病気 6106
神経系の病気 6.2
消化器系の病気 5.7
血液・造血器系の病気 3.5
内分泌系の病気 1.2

表16 ウクライナにおけるチェルノブイリ事故後の小児甲状腺ガン症例数
(事故時年齢0歳から19歳)

症例数 10万人当たりの
件数
1986 15 0.12
1987 18 0.14
1988 22 0.17
1989 36 0.28
1990 59 0.45
1991 61 0.47
1992 108 0.83
1993 113 0.87
1994 134 1.00
1995 166 1.30

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原発事故 放射能汚染地域 対策 ウクライナと福島----------

 2013年5月25日の朝日新聞が、
「福島第1原発事故で避難した住民が自宅に戻ることのできる『年20ミリシーベルト以下』の帰還基準は、避難者を増やさないことにも配慮して作られていた」と報じたことはすでに取り上げた。住民の被曝を減らすために、帰還基準を5ミリシーベルトにするべきだという意見もあったという。しかし、そうすると福島県の13%が原発避難区域に入り、人口流出や風評被害が広がること、また避難者が増えて賠償額が膨らむことが懸念されたためであるという。そして、2011年11月の放射線量に基づき、下記のように再編された、と伝えている。

(1)5年以上帰れない帰還困難区域(年50ミリシーベルト超)
(2)数年で帰還を目指す居住制限区域(年20ミリ超~50ミリシ-ベルト)
(3)早期帰還を目指す避難指示解除準備区域(年20ミリシーベルト以下)
に再編


 しかしながら、この放射線量の数値は、1991年2月27日ウクライナSSR最高会議で採択された法制度の基本概念の数値と大きな 開きがある。福島では見送られて実現しなかった「
帰還基準の年間被曝線量5ミリシーベルト」は、下記表1を見ても分かるように、ウクライナでは、「健康にとって危険である」との理由で 「移住義務ゾーン」になっているのである。それは、「基本概念」によれば、「チェルノブイリ事故が人々の健康にもたらす影響を軽減するため」である。だとすれば、福島での早期帰還を目指す避難指示解除準備区域(年20ミリシーベルト以下)の対策は、様々な放射線障害その他の問題を考える時、どのように理解すればよいのであろう。年間被曝線量が20ミリシーベルト以下であれば帰還させようという日本、年間被曝線量が5ミリシーベルトを超える地域は移住義務ゾーンのウクライナ。
 下記は
、「チェルノブイリ事故による放射能災害-国際共同研究報告書」今中哲二編(技術と人間)からの抜粋である。
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ウクライナでの事故への法的取り組み
                     オレグ・ナスビット(ウクライナ科学アカデミー・水圏生物学研究所)
                     今中哲二(京都大学原子炉実験所)

1 チェルノブイリ事故に関する基本法

 基本概念

 チェルノブイリ事故がもたらした問題に関するウクライナの法制度の記述は、まず基本概念文書「チェルノブイリ原発事故によって放射能に汚染されたウクライナSSR(ソビエト社会主義共和国)の領内での人々の生活に関する概念」の引用から始めるのが適切であろう。この短い文書は、チェルノブイリ事故が人々の健康にもたらす影響を軽減するための基本概念として、1991年2月27日、ウクライナSSR最高会議によって採択された。

 この概念の基本目標はつぎのようなものである。すなわち最も影響をうけやすい人々、つまり1986年に生まれた子供たちに対するチ ェルノブイリ事故による被曝量を、どのような環境のもとでも(自然放射線による被曝を除いて)年間1ミリシーベルト以下に、言い換えれば一生の被曝量を70ミリシーベルト以下に抑える、というものである。


 
基本概念文書によると、「放射能汚染地域の現状は、人々への健康影響を軽減するためにとられている対策の有効性が小さいことを示している。」それゆえ、「これらの汚染地域から人々を移住させることが最も重要である。」基本概念では(個々人の被曝量が決定されるまでは)土壌の汚染レベルが移住を決定するための暫定指標として採用されている。一度に大量の住民を移住させることは不可能なので、基本概念では、つぎのような”順次移住原則”が採用されている。

第1ステージ(強制・義務的移住の実施)
 セシウム137の土壌汚染レベルが555kBq/㎡(15Ci/㎢)以上、ストロンチウム90が111kBq/㎡(3Ci/㎢)以上、またはプルトニウムが 3.7kBq/㎡(0.1Ci/㎢)以上の地域。住民の被曝量は年間5ミリシーベルトを超えると想定され、健康にとって危険である。

第2ステージ(希望移住の実施)
 セシウム137の土壌汚染レベルが185~555kBq/㎡(5~15Ci/㎢)、ストロンチウム90が5.55~111kBq/㎡(0.15~3Ci/㎢)、またはプルト ニウムが0.37~3.7kBq/㎡(0.01~0.1Ci/㎢)の地域。年間被曝量は1ミリシーベルトを超えると想定され、健康にとって危険である。さらに、汚染地域で”クリーン”な作物の栽培が可能かどうかに関連して、移住に関する他の指標もいくつか定められている。
 
 基本概念の重要な記述の一つは、「チェルノブイリ事故後、放射線被曝と同時に、放射線以外の要因も加わった複合的な影響が生じている。この複合効果は、低レベル被曝にともなう人々の健康悪化を、とくに子供たちに対し増幅させる。こうした条件下では、放射能汚染対策を決定するにあたって、複合効果がその重要な指標となる。」
 セシウム137の汚染レベルが185kBq/㎡(5Ci/㎢)以下、ストロンチウム90が5.55kBq/㎡(0.15Ci/㎢)以下、プルトニウムが0.37kBq/㎡( 0.01Ci/㎢)以下の地域では、厳重な放射能汚染対策が実施され、事故にともなう被曝量が年間1ミリシーベルト以下という条件で居住が認められる。この条件が充たされなければ、住民に”クリーン”地域への移住の権利が認められる

 こうした基本概念の実施のため、つぎの2つのウクライナの法律、「チェルノブイリ事故による放射能汚染地域の法的扱いについて」および「チェルノブイリ原発事故被災者の定義と社会的保護について」が制定された。

                    表1  法に基づく放射能汚染ゾーンの定義
土壌汚染密度.kBq/㎡(Ci/㎢) (ミリシーベルト/年)
NO ゾーン名 セシウム137 ストロンチウム90 プルトニウム 年間被曝量
避難(特別規制ゾーン) n.d. n.d. n.d. .n.d.
移住義務ゾーン 555k以上
(15以上
111k以上
(3以上
3.7以上
(0.1以上
以上
移住権利ゾーン 185~555
(5~15)
5.55~111
(0.15~3)
0.37~3.7
(0.01~0.1)
以上
放射能管理強化ゾーン 37~185
(1~5)
0.74~5.55
0.02~0.15
0.185~0.37
0.005~0.01
0.5以上
(注)避難ゾーン:1986年に住民が避難した地域  n.d.:定義なし

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原発事故 汚染地域ウクライナからの報告NO5------------

 安倍自民党政権は、原発の再稼働だけではなく、原発の輸出を推進し、青森県六ヶ所村の再処理工場の操業、高速増殖炉「もんじゅ」の本格稼働によって、行き詰まっている核燃料サイクル政策を強引に押し進めようとしている。東電福島第1原発の事故などなかったかのよう、また、放射線障害の問題など眼中に無いかのように。
 私は、ウクライナと福島の汚染地域対策におけるの放射線量の数値の違いが気になる。晩発性放射線障害の問題と関わってである。 たとえば、下記の「
ガン患者の診断後の余命が、チェルノブイリ事故後毎年短縮しているのである」という文章や「表8 第3期-第4期の胃ガンと肺ガン患者の診断後余命(チェルノブイリ事故の前と後)」の表が意味することはどういうことであろうかと。また「チェルノブイリ事故前(1984年、1985年)のルギヌイ地区の平均寿命は75歳であったが、事故後(1990-1996年)は65歳になっている」というようなことにも驚く。
 下記は、「チェルノブイリ事故による放射能災害-国際共同研究報告書」今中哲二編(技術と人間)からの抜粋である。

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ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態
                      イワン・ゴドレフスキー、オレグ・ネスビット
                      ルギヌイ地区医療協議会、ウクライナ科学アカデミー・水圏生物学研究所

ルギヌイ地区住民の健康状態

 ソ連の崩壊にともない、その長所短所を含め、ウクライナは旧ソ連の医療システムを引き継いだ。そのシステムは、国立医療センターを頂点として州、地区、町(村)の病院へと底辺に向かって広がっていく。一種のヒエラルキーを構成している。それぞれの地区には中央病院が1つ設置されている。このレポートの著者の1人は、ルギヌイ地区医療協議会病院(ルギヌイ地区の中央病院)に勤務しており、したがって、地区住民の医療情報をすべて入手することができる。
 健康状態の指標として私たちは、免疫系の状態、内分泌系疾患、新生児罹病率、住民の精神神経的状態、老化の早まり、および死亡率に着目して分析する。

免疫系

 免疫系の状態は、健康状態を知るうえで最も重要な指標の1つである。ルギヌイ地区中央病院のデータによるち、事実上すべての患者の免疫力の低下がみられた。この免疫力の低下は、感染症の増加と長期化、急性進行型の結核の増加、疾病の再発、疾病にかかりやすい人々の増加、ガン患者の診断後余命の短縮、疾病の経過不良、病原体の毒性増加、アレルギー疾患の増加などとして臨床的に観察されている。

 ガン患者の医療記録を調べてみると、つぎのような深刻な傾向が明らかとなった。すなわち、ガン患者の診断後の余命が、チェルノブイリ事故後毎年短縮しているのである。事故前の1984ー1985には、第3期から第4期にある胃ガン患者診断後余命は約60ヶ月であり、第3期ー第4期の肺ガン患者では、約40ヶ月だった。1992年には第3期ー第4期の胃ガン患者の余命は15.5ヶ月となり、第3期ー第4期の肺ガン患者では8ヶ月となった。そして1996年それぞれ2.3ヶ月と2ヶ月となった。(!!!)(表8)。検査技術、診断方法、および治療方法は事故以前のレベルと変わっていない。

 そのような余命の差が生じたのはなぜだろうか?生命力を維持するための免疫機能の重要性は、チェルノブイリ事故後に特に顕著となっている。免疫機能は、生体組織の内部バランスを維持するのに重要な役割を果たしており、ガン防止の働きをしている。放射線の影響によって免疫機能は強度のストレスにさらされ、それに続いて免疫の働きが破壊される。そのことによってガンが進行すると同時に、治癒不能な感染症との合併症が起こるというのが、そういった患者の一般的な死亡経過である。

 医師たちはまた、新規結核患者において急性進行型の結核が増えていることを憂慮している
(表9略)。これもまた、免疫機能が低下していることのあらわれである。

 1990年、必要以上の医療放射線被曝から住民を守るという保健当局の指示によって、健康診断でのレントゲン検査は急激に減少した。1990年の新規結核患者数が前年に比べて落ち込んでいる理由はそのためである
(表9略)。1990年の落ち込みは結核患者が実際に減少したことを示しているのではない。その後、より近代的に設備を備えたレントゲン撮影室と施設の設置にともない、レントゲン検査の数も復活し最大限実施されている。

内分泌系の疾患

 内分泌系の疾患には、甲状腺腫、甲状腺結節、糖尿病、脂肪症その他がある。とくに憂慮されているのは、子供たちの内分泌系疾患の増加である。1990ー1991年以降、子供たちの内分泌系疾患が確実に増加している。(図5)。1986年以前は、内分泌系疾患の罹病率が1000人当たり10件を上回ることはなかった。甲状腺結節および甲状腺腫は地区内には皆無であった。甲状腺疾患の罹病率を分析すると、患者の大部分は1986年にヨウ素に被爆した子供たちだということがわかる。事故直後に放射能が到達したときにはいかなる予防策もとられなかった。事故から3週間たって予防のためのヨウ素剤が配られはじめた。甲状腺疾患は大人にも見られる。残念なことに、甲状腺について専門的な住民検診を実施するための医療施設や財政的措置は、事実上存在しない。

 甲状腺ガンは地区では記録されていない。しかしながら、甲状腺肥大の数が著しく増加していることは確実である
(図6略)。1986年以前には地区内で甲状腺肥大は記録されていないが、現在では半分近い子供たちに認められる。甲状腺肥大はそれ自体は特定の病気ではないが、外部からの影響に甲状腺組織が反応していることを示している。

新生児罹病率

 チェルノブイリ事故後の新生児(生後7日目まで)の罹病率の増加は、その形成障害の増加とともに目立っている
(図7略)。1983年以降の先天性形成障害(口唇裂、内部器官の閉塞など)の発生率を図8に示す。事故後の先天性形成障害発生率の変動は単純とはいいがたいが、1988年以降の発生率の平均値は事故前の数倍になっている。

精神神経的障害
 
 医師たちが突然直面するようになり、絶えず悩まされている最も重要な問題に、精神神経的障害がある。うつの症状やさまざまな恐怖症をかかえた患者がますます増えている。頻繁にみられるのは、不安、恐れ、情緒不安定などを訴える、神経症に似た症状、無気力、ヒポコンドリー(心気症、訳註:ちょっとした症状を自分勝手に判断して気にする病的症状)である。

 放射能と精神的なストレスが一緒になって諸器官に影響し、心身のバランスが崩れ、内因的な中毒症や精神神経的な症状を引き起こしているのであろう。また、低線量被曝が脳の機能変化をもたらすということもありえる。それは間脳の機能障害をともなう自律神経失調症の著しい増加にはっきりとあらわれている。事故前には、自律神経疾患の例はまったく記録されていない。現在では、この疾患は人々が医者にかかる最も大きな理由の1つとなっている。

 医師たちが精神神経障害の問題に直面するようになったのは、ほんの4年前からである。自殺や深刻な精神病が今後増加すると予想され、心身症あるいはそうした疾病に対処できるように今から考えておかなければならない。

老化の早まり 
 
 内部および外部被曝の影響によって、年齢を重ねて行くにつれてますます細胞の破壊が進んでいる。このことは、老化を早め、寿命の短縮につながっている。老化と関連する指標の検査結果から、若い世代で老化が進んでいる事実を確認することができる。これらの老化の目印は、体内のいろいろなシステムの機能に関する種々の検査によって明らかにされている。たとえば、心臓循環器系では、血圧、若者の速脈、若者の高血圧と虚血性心疾患の統計的に有意な増加である。また神経系では、身体的原因その他に起因する、うつや恐怖症的な症状の増加である。これらの症状はすべて、臨床的検査によって容易にチェックすることができる。

 老化とそれにともなう死期の早まりをもたらしているものは何だろう? 主な要因は、放射線レベルの上昇と永続的なストレスである。これらの要因による影響のメカニズムは、事実上同じものである。つまり、それらの要因は、生体のさまざまなシステムや器官に直接あるいは間接に影響を与え、代謝と血液循環の機能を低下させる。その結果、システムや器官にジストロフィー(異栄養症。訳註:組織の栄養欠乏から生じる進行性の変化)が生じ、老化と死期を早めるのである。チェルノブイリ事故前(1984年、1985年)のルギヌイ地区の平均寿命は75歳であったが、事故後(1990-1996年)は65歳になっている。



      
 表8 第3期-第4期の胃ガンと肺ガン患者の診断後余命
              (チェルノブイリ事故の前と後)
 診断後余命
胃ガン 肺ガン
1984 62 38
1985 57 42
1992 15.5 8.0
1983 5.6
1994 7.5 7.6
1995 7.2 5.2
1996 2.3 2.0

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「日本人捕虜尋問報告 第49号」の資料的価値が高い?---------

 「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」については、すでに『検証「従軍慰安婦」と「 日本人捕虜尋問報告 第49号」』や『「従軍慰安婦」問題 秦郁彦教授の論述に対する疑問』の中で、これを「従軍慰安婦」の証言として利用することにはとても問題があるということを、具体的にその形式や内容と関連づけて指摘した。

 秦郁彦氏は、「慰安婦」を「性奴隷」などと表現するのは間違いで、「慰安婦」は、「合法的存在だった公娼制の慣行にならったものだった」と指摘し、「慰安婦」には「相手を拒否する自由」「廃業の自由」「外出の自由」があった証拠資料として、これをあげている。また、多くの人たちが同じようなかたちでこの資料を利用し、「慰安婦は公娼だった」「慰安婦は商行為を行っていたのである」「従軍慰安婦など存在しない」などと主張し、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」などという活動を展開してきた。しかし、この資料を、そうしたかたちで利用することはできない、と考える。

 なぜなら、この資料には情報提供者不明という 大きな欠陥があるからである。尋問を受けたのは20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人であるが、この報告書のすべての項目が、朝鮮人「慰安婦」の証言か、日本の民間人(業者)の証言か、不明なのである。そして、その大部分が、その内容からして日本の民間人(業者)の証言ではないかと考えられるのである。したがって、これを「従軍慰安婦」の証言として、利用することは間違いであると考えるのである。

 朝鮮人「慰安婦」の生活や労働条件等について、日本の民間人(業者)が、詳しく正確なことを話すとは考えにくい。軍の監督下にあり従属的であったとはいえ、朝鮮人「慰安婦」の立場からみれば、日本の民間人(業者)も加害者側といえる。性交渉を強要された朝鮮人「慰安婦」の証言の中には、軍人はもちろん、「経営者にぶたれるのではないかといつも身をちぢこませて」いなければならなかった(李容洙)というような証言(「従軍慰安婦」吉見義明<岩波新書>)があるのである。

 さらに、人身売買により、女性を「慰安婦」として拘束し、「相手を拒否する自由」、「廃業の自由」、「外出の自由」などを認めないことは、国際法違反で罰せられる可能性がある。日本の民間人(業者)が、そうした事実を自ら認めるとは考えにくい。日本の民間人(業者)が、尋問官に対し、責任逃れの証言をした可能性が高いのである。したがって、報告の内容が「朝鮮人慰安婦」の証言に基づくものか、それとも日本の民間人(業者)の証言に基づくものかが分からないこの資料を、「朝鮮人慰安婦」の証言に基づくものと勝手に判断し、秦郁彦氏のように「第3者の立場で観察した唯一の公文書であるだけに、その資料的価値は高く…」など言って利用することは、許されないのではないかと思う。

 「日本人捕虜尋問報告 第49号」の次に『従軍慰安婦資料集』吉見義明(大月書店)に収められている、「東南アジア翻訳センター 心理戦 尋問報告 第2号」では、「それぞれの項目に対して付された整理番号は情報提供者を示す」とある。センターの尋問官、アメリカ陸軍歩兵大佐アレンダー・スウィフトは、だれが話したかを明らかにしているのである。また「正確を期すために十全の努力が払われているが、この報告のなかの情報は、他の諸情報によって確証されるまでは控え目に評価されるべきである」とも記している。ところが、「第49号」の報告は、そうした配慮や慎重さがない。

 また、この報告書には何の記述もないが、「日本人捕虜尋問報告 第49号」の内容に関わって、尋問が何語でなされたか、ということも重要な問題だと考えられる。
 なぜなら、あのビルマで、韓国人慰安婦を捕虜とした米軍部隊の指揮をしていた中国系米人、Won.Loy Chan 大尉の“Burma: The Untold Story”には、朝鮮人慰安婦は、日本語がカタコトで、「尋問報告第49号」作成者の日本人二世(通訳・軍曹)「アレックス・ヨリチ」氏と直接話すことは、ほとんどできなかった可能性を示唆する、下記のような記述があるからである。
 「慰安婦」に対しての尋問は、朝鮮語を話せた日本の民間人(業者)、ママさん(Mama-san)を介して行うしかなかったため、報告書全体が、罰せられることを恐れる日本の民間人(業者)の責任逃れの内容となっているのではないかということである。
 また、「慰安婦」に直接尋問できなかった報告者は、日本の民間人(業者)が話すことを、自分なりにまとめるしかなかったために、情報提供者を明示できなかった、と考えられるのである。したがって、「第3者の立場で観察した唯一の公文書であるだけに、その資料的価値は高く…」などと言えるものではない、と考えるのである。
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                   Won-loy Chan "Burma: The Untold Story
                (http://ianhu.g.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080514/p1)

・・・
Each platoon-sized group was commanded by Mama-san, usually a middle-aged Japanese woman who spoke Korean. When the girls weren't engaged in their primary occupational specialty or were ill, they acted as the washerwomen and barracks maids in the troop rest areas.

・・・

I had with me a number of photographs of Japanese officers who were supposed to be commanders of units of the 18th and 56th divisions that I showed to the girls, which Grant asked them to identify in his fluent Japanese. The girls (Koreans all) spoke some Japanese, but it was of the bedroom and kitchen variety and extremely limited. When you added that to their confusion, fear, and general lack of education, the answers they gave weren't worth much. They mumbled in mish-mash of Korean and Japanese in answer to the questions, but one of them did finally identify a photo of Colonel Maruyama as commander of the 114th Regiment. (I got the impression that the young woman who made the identification had known the good Colonel Maruyama very well indeed!)

Aside from that we got nothing of value. We had reached an impasse with the girls looking at us and us looking at them. After some hesitation, one of the girls spoke to the Mama-san and the next thing we knew all the girls were chattering hysterically. The old Mama-san listened and then told the girls to be quiet. She looked at all four of us and then approached me. (She also obviously recognized rank when she saw it.) She looked around again, and this time included Grant in her look. (She also obviously recognized who spoke the best Japanese in the group.) Then, looking at me she spoke to Grant. She asked if the girls could be permitted to know their fate. I instructed Grant to tell her that confinement was only temporary. That just as soon as possibly they would be sent to India (I doubted if any of them knew where India was) and eventually back to Korea. Grant spoke in his best Japanese. The Mama-san translated to Korean.






一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。

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