-NO346~351

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北方領土問題 米ソ取引 ヤルタ協定-----------------

 日露間の国境線は、さかのぼると1855年(安政元年)「日本国魯西亜国通好条約」(註:魯西亜国はロシアコク)によって、はじめて設定された。その第2条に、「今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島「ウルップ」島の間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし」とある。日本が北方領土の4島返還を求める根拠になるものである。樺太は「界を分かたす」、両国民混在の地としたのである。

 その後、明治時代に入って1875年両国は、「樺太千島交換条約」を締結する。その前書きに『全日本国皇帝陛下ト全魯西亜国皇帝陛下ハ今般樺太島(即薩哈嗹島)是迄両国雑領ノ地タルニ由リテ屡次其ノ間ニ起レル紛議ノ根ヲ断チ現下両国間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシマンカ為メ大日本国皇帝陛下ハ樺太島(即薩哈嗹島)上ニ存スル領地ノ権理 全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニスル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ハント欲シ…』とある。この樺太千島交換条約によって、混在の地で紛議の絶えない樺太はロシア領土に、全千島列島は日本の領土にしたのである。これによって、混在の地がなくなり日露間の境界線は明確になった。

 ところが、1905年ポーツマス条約(日露講和条約)によって、日露戦争に勝利した日本が、南樺太を獲得する。全千島列島と南樺太が日本の領土となったのである。

 さらに1945年、第2次世界大戦終戦前後に、再びその国境線が変化する。きっかけは、下記に抜粋した「ヤルタ協定」である。この「ヤルタ協定」が、現在に続く日本の「北方領土問題」の発端なのである。したがって、北方領土問題の解決について考えるとき、この「ヤルタ協定」の理解が不可欠であると思う。
 大戦末期の1945年2月、ソ連のクリミヤ半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳による会談があった。いわゆる「ヤルタ会談」である。この会談は、第2次世界大戦後の世界情勢を決定づける極めて重要な会談であったが、ヤルタ会談後半に、ルーズベルトとスターリンが極秘の会談を行い、ソ連の対日参戦を求めるルーズベルトが、スターリンの求める下記ヤルタ協定に合意したのである(イギリスは対日問題に口出しする立場にないとして、米ソの決定事項をただ承認してサインしたに過ぎかったという)。このルーズベルトの千島引き渡しの約束は、第2次世界大戦の犠牲を最小限におさえ、迅速に勝利を勝ち取るため、ソ連に日ソ中立条約を破棄させ、対日戦に参戦させることを目的とした見返りである。

 この時、歴史的経緯を重視する立場から、ヤルタ協定の合意に再考を促したハリマン大使に対し、ルーズベルト大統領は「ロシアが対日戦の助っ人になってくれるという大きな利益に比べれば、千島は小さな問題である」と言って、その進言を退けたという。対日戦で大きな犠牲を強いられてきたアメリカ大統領の大局的見地からの決断だったといえる。ところが、その後米ソ冷戦の激化とともに、アメリカの姿勢が変化していくのである。「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。
(註:露西亜・魯西亜・ロシアなどの表記はそのままにした)

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                        歴史を浮き彫りにする資料集

 ヤルタ協定
                  1945年2月の「ヤルタ」会議に於いて作成
                  1946年2月11日 米国 国務省より発表
三大国即ち「ソヴィエト」連邦、「アメリカ」合衆国及英国の指導者は「ドイツ」国が降伏し且「ヨーロッパ」に於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経て「ソヴィエト」連邦が左の条件に依り連合国に与して日本に対する戦争に参加するべきことを協定せり
1、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし
2、1904年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたる「ロシア」国の旧権利は左の如く回復せられるべし
 イ、樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼は「ソヴィエト」連邦に返還せらるべし
 ロ、大連商港に於ける「ソヴィエト」連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際化せらるべく又「ソヴィエト」社会主義共和国
   連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は回復せらるべし
 ハ、中東鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合併会社の設立により共同運営せらるべし但し「ソヴィエト」連邦
   の優先的利益は擁護せられ又中華民国は満州に於ける完全なる主権を保有するものとす
3、千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし
  前記の外蒙古並に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石元帥の同意を要するものとす 大統領は「スターリン」元帥よりの通
  知に依り 右同意を得る為措置を執るものとす三大国の首班は「ソヴィエト」連邦の右要求が日本国の敗北したる後に於て
  確実に満足せしめらるべきことに意見一致せり
   「ソヴィエト」連邦は中華民国の覇絆より解放する目的を以て自己の軍隊に依り之に援助を与ふる為「ソヴィエト」社会主
  義共和国連邦中華民国間友好同盟を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す
                     1945年2月11日
                                            イヴェ・スターリン
                                            フランクリン・ディ・ローズヴェルト
                                            ウインストン・エス・チャーチル

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北方領土問題と大西洋憲章・連合国共同宣言・カイロ宣---------

下記資料はいずれも北方領土問題に関わる国際的な「宣言」である。特に、「英米共同宣言(大西洋憲章)」(資料1)は、それまでの列強による帝国主義的・植民地主義的領土拡張を、問題視し、その1で「両国ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス」と格調高く宣言した画期的なものであった。また、それぞれの国の主権を尊重するのみならず、「一切ノ人類ガ恐怖及欠乏ヨリ解放セラレ其ノ生ヲ全ウスルヲ得ルコトヲ確実ナラシムヘキ平和」などの文面からも読み取れるように、人権に配慮した平和主義的な内容の宣言であった。

 「連合国共同宣言」(資料2)は、それを受け、ドイツの「ヒトラー主義」に勝利するため発せられた宣言である。また、「カイロ宣言」は日本の周辺国に対する侵略の阻止や日本が暴力的に窃取・略取した領土の返還を意図する宣言である。

 ところが、こうした宣言が発せられた後の、1945年2月、これらの宣言の趣旨に反する「ヤルタ協定」が締結された。ヤルタ協定の2、『1904年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたる「ロシア」国の旧権利は左の如く回復せられるべし』は、宣言の内容に沿うものであるが、その3、『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』は、宣言の趣旨に反するのである。特に北方4島は、日本固有の領土であり、日本が暴力的に窃取・略取した領土ではない。にもかかわらず、アメリカは、ソビエトの対日参戦を求めて、その見返りに『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』としたのである。まさに、帝国主義的・植民地主義的な領土の拡張を認める協定であった。ソビエトの対日参戦を条件に、アメリカが南樺太と千島列島をソビエトに譲り渡すことを認めたこのヤルタ協定があったが故に、日本はサンフランシスコ講和会議で、北方領土を「放棄」することになった経緯を忘れてはならないと思う。

 1956年になってアメリカ国務省が、「ヤルタ協定は三国(米英ソ)首脳の目標を述べたものに過ぎず、領土移転のような法律的効果を持つものでなく、北方4島が正当に日本の領土下にあるものとして認めるべきものである」との見解を公にしているが、日本が無条件降伏した後に、そのような主張をすることは、いかがなものかと思う。事実は、ソ連がアメリカの求めに応じて1945年8月9日対日宣戦布告をし、ヤルタ協定通り進んだのである。

 日本の外務省もアメリカと同じように、北方領土問題に関して「北方領土は、ロシアによる不法占拠が続いていますが、日本固有の領土であり、この点については例えば米国政府も一貫して日本の立場を支持しています。」との主張をくり返している。しかしながら、当時のヤルタ協定に関する関係者の理解や、トルーマンとスターリンの「一般命令第1号」をめぐるやり取りなど無視して、そのような主張をく り返すことには問題があるといわざるを得ない。

 終戦当時アメリカは、千島列島がソ連の領有になることを認めていたのである。対日占領軍総司令部政治顧問のシーボルトは「千島列島の処分はカイロ、ヤルタ両会談で決められていた」と記しているという(『日本の国境問題 尖閣・竹島・北方領土』孫崎亨<ちくま新書>)。また、多くの外交関係者や日本の政治家も、そういう認識を持っていた。そうした認識があったから、当初、日本は歯舞・色丹は千島列島に含まれるものではないとして「2島返還」を条件として、「日ソ平和条約」を締結しようとしたのである。(ところが、その「2島返還」を条件とした日ソ平和条約は、「ダレスの脅し」として知られるアメリカの介入によって、「4島返還」に変更されたために、締結に至らなかった)。
 したがって、「米国政府も一貫して日本の立場を支持しています」というのは、米ソ関係が終戦当時と変化し、米ソ冷戦が深刻になってからのことであり、事実に反する主張だと思う。現実にソ連(現ロシア)はそうした主張を受け入れていない。

 したがって、日本は米ロの狭間でアメリカと同じ主張をくり返すのではなく、アメリカの世界戦略から離れて、堂々と「英米共同宣言(大西洋憲章)」や「連合国共同宣言」「カイロ宣言」などに反する「ヤルタ協定」締結の問題点を指摘すべきだと思う。そして、アメリカが認めたロシアによる北方領土の領有が、帝国主義的・植民地主義的な領土の拡張であり、不当に開始されたことを認めるよう迫るのが筋だと思うのである。そのために、ロシアの主張する条件について考慮する姿勢を示すとともに、アメリカに対しても、「4島返還」のための諸条件について考慮するよう要求すべきだと思う。そういう意味では、北方領土返還問題は、日ロ間の問題というよりむしろ「日・米・ロ」の3国の問題といえる。下記資料は「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。

資料1-------------------------------------------------
歴史を浮き彫りにする資料集

                       英米共同宣言(太平洋憲章)
(ママ)
                                           (1941年8月14日大西洋上ニ於テ署名)
アメリカ合衆国大統領及連合王国ニ於ケル皇帝陛下ノ政府ヲ代表スル「チャーチル」総理大臣ハ、会合ヲ為シタル後両国ガ世界ノ為一層良キ将来ヲ求メントスル其ノ希望ノ基礎ヲ成ス両国国策ノ共通原則ヲ公ニスルヲ以てテ正シト思考スルモノナリ。
1、両国ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス。
2、両国ハ関係国民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セサル領土的変更ノ行ハルルコトヲ欲セス。
3、両国ハ一切ノ国民カ其ノ生活セントスル政体ヲ選択スルノ権利ヲ尊重ス。両国ハ主権及自治ヲ強奪セラレタル者ニ主権
  及自治カ返還セラレルコトヲ希望ス。
4、両国ハ其ノ現存義務ヲ適法ニ尊重シ大国タルト小国タルト又戦勝国タルト敗戦国タルトヲ問ハス一切ノ国カ其ノ経済的繁
  栄ニ必要ナル世界ノ通商及原料ノ均等条件ニ於ケル利用ヲ享有スルコトヲ促進スルニ努ムヘシ。
5、両国ハ改善セラレタル労働基準、経済的向上及社会的安定ヲ一切ノ国ノ為ニ確保スル為、右一切ノ国ノ間ニ経済的分野
  ニ於テ完全ナル協力ヲ生ゼシメンコトヲ欲ス。
6,「ナチ」ノ暴虐ノ最終的破壊ノ後両国ハ一切ノ国民ニ対シ其ノ国境内ニ於テ安全ニ居住スルノ手段ヲ供与シ、且ツ一切ノ国
  ニ一切ノ人類ガ恐怖及欠乏ヨリ解放セラレ其ノ生ヲ全ウスルヲ得ルコトヲ確実ナラシムヘキ平和カ確立セラレルコトヲ希望
  ス
7、右平和ハ一切ノ人類ヲシテ妨害ヲ受クルコトナク公ノ海洋ヲ航行スルコトヲ得シムヘシ
8、両国ハ世界ノ一切ノ国民ハ実在論的理由ニ依ルト精神的利用ニ依ルトヲ問ハス強力ノ使用ヲ抛棄スルニ至ルコトヲ要スト
  信ス。陸、海又ハ空ノ軍備カ自国国境外ヘノ侵略ノ脅威ヲ与ヘ又ハ与フルコトアルヘキ国ニ依リ引続キ使用セラルルトキ
  ハ将来ノ平和ハ維持セラルルコトヲ得サルカ故ニ、両国ハ一層広汎ニシテ永久的ナル一般的安全保障制度ノ確立ニ至ル
  迄ハ斯ル国ノ武装解除ハ不可欠ノモノナリト信ス。両国ハ又平和ヲ愛好スル国民ノ為ニ圧倒的軍備負担ヲ軽減スヘキ他
  一切ノ実行可能ノ措置ヲ援助シ及助長スヘシ。
                                          フランクリン・ディー・ローズベルト
                                          ウィンストン・チャーチル


資料2------------------------------------------------
                            連合国共同宣言

〔アメリカ合衆国、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国、ソヴィエト社会主義共和国連邦、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタ・リカ、キューバ、チェコスロバキア、ドミニカ共和国、サルヴァドル、ギリシャ、グァテマラ、ハイティ、ホンジュラス、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュー・ジーランド、ニカラグァ、ノールウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ及びユーゴースラヴィアの共同宣言〕
                                          (1942年1月1日ワシントンで署名)

 この宣言の署名国政府は、
 大西洋憲章として知られる1941年8月14日付アメリカ合衆国大統領並びにグレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国総理大臣の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、
 これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に従事していることを確信し、次のとおり宣言する。
(1)各政府は三国条約の締結国及びその条約の加入国でその政府が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は
  経済的な全部の資源を使用することを誓約する。
(2)各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は講和を行わないことを誓約する。
  この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献をしている又はすることのある他の国
  が加入することができる。


資料3-------------------------------------------------
                               カイロ宣言

                    (1943年11月27日「カイロ」に於いて署名)
「ローズベルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣は各自の軍事顧問及外交顧問と共に北「アフリカ」に於いて会議を終了し左の一般的声明を発せられたり
 各軍事使節は日本国に対する将来の軍事行動を協定せり 三大同盟国は、海路、陸路及空路に依り其の野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加ふるの決意を表明せり 右弾圧は既に増大しつつあり 三大同盟国は日本国の侵略を制止し且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり 右同盟は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず
 又領土拡張の何等の念をも有するものに非ず
 右同盟国の目的は日本国より1914年の第1次世界戦争の開始以後に於いて日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より窃取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし
 前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且つ独立のものたらしむるの決意を有す
 右の目的を以て右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し日本国の無条件降伏を齋すに必要なる重大且長期の行動を続行すべし


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北方領土問題 米ソの本音 「ダレスの脅し」------------

「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)は、下記のように、その3章で、「クルクル変わる米国の北方領土政策」と題して、アメリカの北方領土問題に対する本音の部分を記述している。アメリカは、2島返還を条件に、日本がソ連と平和条約を締結しようとした時、沖縄返還の問題を持ち出し、それを認めなかった。「ダレス の脅し」である。米国の極東政策上、日本は「反ソ」でなければならず、対ソ政策で”一人歩き”することを許されなかったのである。

 「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)にも同じような記述があるが、さらに踏み込んで『米国政府が日本の「4島返還」を支持したのは、それがソ連には受け入れ不可能と解っていたからであり、4島が千島列島ではないと考えたからではなかった』とある。『日本は西側陣営に確保し、共産主義陣営との和解は阻止しなければならない。』というわけである。

 「北方領土 軌跡と返還への助走」木村汎(時事通信社)には、反対にソ連の北方領土に対する「本音」といえる部分が取り上げられている。それは、クタコーフやスターリン、ミコヤン、フルシチョフなどの言葉に共通してみられる、北方領土の軍事戦略的価値重視の論調である。「クリール列島は、カムチャッカの南端から、北海道に至る連続的な鎖として伸びることによって、オホーツク海に鍵をかける。それは、ロシアの極東沿岸への接近を遮断する。クリール列島の地理的位置は、極東沿岸の前哨地点として最も重要な意義を与える」(クタコーフ)「南サハリンとクリール列島はソ連と大洋との直接の結びつきの手段、そして日本からのわが国への攻撃に対する防衛の基地として…」(スターリン)、 「エトロフやクナシリは、小さな島々ではあるが、カムチャッカへの門戸であり、放棄しえない」「日米が軍事同盟を結んでいる現状では返還を考える余裕がない」(ミコヤン)「これらの島々(=歯舞・色丹)は、われわれにとって経済的には大した意義はないが、戦略・国防的には重大な意味がある。われわれは、自己の安全保障を配慮するのだ」(フルシチョフ)などである。

 1960年の日米安保条約改定を機に出されたソ連の池田内閣宛「対日覚書」には、「歯舞・色丹の引き渡しに日本からの全外国軍隊の撤退」という新条件が加えられた。そうしたことは国際法上考えられないことだといわれるが、それは、北方領土に対するソ連の軍事戦略的価値を重視する姿勢のあらわれといえる。

 1990年秋の米ソ冷戦終結宣言によって、当時と情勢は大きく変わってきたとはいえ、北方領土問題に関する米ソの本音にどれほどの変化があるか定かではない。したがって、日本は、日米同盟を強化し、アメリカの主張に沿って北方領土の返還をもとめるのではなく、平和主義に徹し、北東アジアを含む東アジア全体の軍縮・非軍事化を主導することによって、北方領土返還を求めていくべきではないかと思う。
資料1------------------------------------------------
                     第3章 クルクル変わる米国の北方領土政策

ソ連の2島返還を邪魔したダレス

 サンフランシスコ平和条約締結後の米国は、積極的応援とは言えないものの、北方領土復帰運動を推進する日本をバックアップするかのように見えた。
 しかし、その後判明するが、米国の対「北方領土」政策はそう単純なものではなかった。米国は日本の思惑とは合致しない観点から北領土の戦略的位置づけをしていたのだ。


 スターリンの死(1953年3月)を契機に日ソ関係に修復のきざしが見え、北方領土問題にも波及するかに見えた。55年6月、ロンドンで開かれた日ソ交渉は松本俊一外交官(日本代表)とマリク元駐日大使の間で行われ、ソ連側は歯舞諸島と色丹島の返還を対日平和条約締結を条件に約束すると表明した。これを受けて日本側も2島返還論に傾きかけた矢先のことだった。
 これに対する米国の反応は予想以上に慌てふためいたものであって、即刻行った対抗策は沖縄がらみの対日圧力であった。即ち、日本が2島返還に応ずるならば、沖縄返還はあり得ないとするダレス発言である。
「ダレスは全くひどいことをいう。もし、日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカ領土にするということを言った」
 と、ダレス国務長官との会談を終えた重光外務大臣は、青ざめた顔で松本俊一全権大使に伝えている。2島返還に応ずるならば、沖縄返還はあり得ないとするダレス発言である。
 ダレスは、サンフランシスコ条約では、千島列島がソ連に帰属するとは定められておらず、日本が千島列島、特に択捉・国後両島をソ連領と認めてかかるなら、同条約の第26条により、アメリカは沖縄を併合するしかない、と重光外相に警告、アメリカの思惑から外れそうな日ソ交渉を牽制したのである。


 当時のアメリカにとって、日本がソ連との関係改善を急ぐあまり領土問題で”大譲歩”するのは米国の極東政策上傍観できなかったからであり、すでに日米、米ソ両関係を無視した日ソ関係はあり得ないことを暗に示したことと言えよう。
 この陰には、
「北方領土は反ソ感情の原点であり、早期返還は好ましくない」 
 との米政府の考えがある。日本の公安関係者も、米ソ冷戦下で、北方領土が長くソ連支配下に置かれている限り、日本が、反ソであり続けるとの読みが米国にある、と分析している。もし早期返還ともなれば日本が対ソ政策で”一人歩き”するきらいがあったからである。
 いずれにしろ、このダレスの牽制により、4島返還は崩さないものの、まずは2島返還を実現させておこうとした日本政府のもくろみは頓挫してしまった。以後日本は2島返還という段階的返還論は語らず、あくまでも4島一括・全面返還に固執するようになったあのである。
 それ以後今日もなお米国の北方領土全面返還要求には変化が見えず、たとえ当事国である日本の政策変更であっても米国の主張にそぐわないものなら受け入れないとの態度を崩していない。


資料2------------------------------------------------
                          「北方領土問題と平和条約交渉」
                                                               原貴美恵

3 日ソ交渉と4島返還論

 サンフランシスコ平和条約締結から4年後、大戦終了から10年を経た1955年、日本とソ連との間で平和条約交渉が開始された。この交渉の期間中に「4島返還」が日本政府の中核的方針となる。これと関係する主要な出来事には、米国の干渉と及び「1955年体制」の成立がある。
 日ソ交渉への米国の介入は、「ダレスの脅し」としてよく知られている。1956年8月、日本側全権であった重光葵外相が、ソ連の歯舞・色丹オファーを受諾し平和条約を締結しようとしたところ、当時米国務長官になっていたダレスが、もしソ連に譲歩して国後・択捉を諦めるなら、沖縄に対する日本の潜在主権は保障できないと警告したのである。[松本1966、114-117頁/久保田1983,133-137/FRUS.1955 -57.pp.202-203]。米国の介入には主として2つの理由があった。一つは米国の沖縄支配を確実にするため、もう一つは日ソの和解を阻止するためである

 米国務省の記録に残る「米国にとって琉球諸島(沖縄)は、ソ連にとっての千島列島よりも、価値がある」というダレス発言にみるように、沖縄の戦略的重要性は、アジア太平洋地域で冷戦が激化するにつれて増大していた(/FRUS.1955-57.p.43)。しかし、米国には沖縄を自国の管理下に留めておく強い根拠がなかった。もし日ソ間で北方領土問題が解決されたら、次は米国に沖縄を返還するよう圧力が掛かるであろう。それは、歯舞・色丹をオファーして領土問題の解決を図ったソ連の狙いでもあった。そこで、ダレスは、彼自身が平和条約に挿入しておいた「歯止め条項」第26条を使って、もし日本が北方領土でソ連に譲歩したならば、米国は沖縄を請求できるという議論を持ち出したのであった。
 米国政府が日本の「4島返還」を支持したのは、それがソ連には受け入れ不可能と解っていたからであり、4島が千島列島ではないと考えたからではなかった。日本は西側陣営に確保し、共産主義陣営との和解は阻止しなければならない。日ソ平和交渉は1950年代半ばの「雪解け」あるいは「平和的共存」という状況下で始まったものの、米国にとってこのデタントは一時的なもので、ソ連の「平和攻勢」はアジアにおけるナショナリズムや反植民地運動に呼応しながらその影響範囲を拡げ、戦略的にはソ連に有利に働いているにさえ認識されていた。日ソ平和条約の締結は、日本と中華人民共和国との間の国交正常化へと発展しかねない。これもまた米国には受け入れられなかった。
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資料3-----------------------------------------------
                         第3章 ソ連が返還に応じない理由

2 軍事戦略的価値

 ソ連が北方領土返還を頑ななまでに拒否し続ける、もう一つの有力な背後理由として、同地域がもつ特殊な価値があげられる。日本人が北方領土返還要求を行っている主たる理由が、同地域がもつ軍事的価値に基づくとはとうてい考えられない。返還の暁には同地域を非軍事化して平和的管理下におくという条件を呑みさえすれば、返還が実現するというのならば、異論を唱える日本人は少ないだろうと推定される。漁業を主とする経済的利益も確かに返還要求の一つの有力な根拠ではあろうが、ただそれだけのものならば同要求が全国民的規模の運動にまで盛り上がりうるはずがない。やはり、日本人にとり北方領土の価値は、金銭には還元できぬ無形のものにあると見るべきであろう。この点で、仮に北方4島が日本に返ってくるとすると、「日本人一世帯当たり6万円以上の負担となる」と説かれる大前研一氏のご意見はあまりにも純経済的に焦点を絞った見解のように思われる(文献20)。そのようなお考えを延長すると、北海道や東北地方も、中央政府からの国庫補助金を頂戴して初めて平均的日本人に近い生活水準を維持していることを思い起こさせられ、北海道の住人の一人としての筆者は、多額納税者に違いない大前氏に申し訳なく思うと同時に、何か割り切れないものを感ずる。大前氏は、世の中には純経済的価値に還元できない価値の存在することを経済学ですら認めていることを、看過しておられるのではないか。北方領土返還は、「固有の領土」の返還をもってあの汚辱に満ちた敗戦にピリオドを打つという儀式上の象徴的意味をもつ。さらに、戦後の日本がとってきた全方位ないし平和的な話し合い外交路線がソ連にも通用することを確認したいという心理的な価値を担っている。


 このような日本側の事情とは異なり、ソ連にとって北方領土がもつ意義は、ひとえに軍事戦略的な価値にあると見て差し支えないだろう。北方領土地域は、幸か不幸か、ソ連にとり、オホーツク海を開かれた海にするか閉ざされた海にするかの要(カナメ)に位置している。クタコーフは、クリール列島一般の地政学的重要性を、次のように説明する。「クリール列島は、カムチャッカの南端から北海道に至る連続的な鎖として伸びることによって、オホーツク海に鍵をかける。それは、ロシアの極東沿岸への接近を遮断する。クリール列島の地理的位置は、極東沿岸の前哨地点として最も重要な意義を与える」(文献21)

 北方領土やクリール列島のもつ地政学的な価値を、歴代のソ連指導者たちは、十二分といえるまでに高く認識、評価している。スターリンは、第二次大戦終了時のソ連人民向け演説中において、とくに日露戦争以来閉ざされていた「大洋への出口」(ベレージン)(文献22)が再びソ連に開かれることとなった喜びと意義を、次のように叫んでいる。
 
 「日本は、ツアーリズム・ロシアの1904~5年戦争における敗北を利用し、ロシアから南サハリンを奪い、クリール列島に根をおろし、かくして、わが国にとり、極東の大洋へのすべての出口に鍵を固くかけ、閉ざしてしまった。…しかるに、第二次大戦によって、南サハリンとクリール列島はソ連のものとなり、今後は、ソ連を大洋から引き離す手段としてや、日本のわが極東への攻撃の基地としては、役立たないであろう。むしろ、ソ連と大洋との直接の結びつきの手段。そして日本からのわが国への攻撃に対する防衛の基地として役立つであろう」(文献23)


 1965年5月、訪日中のミコヤンは、池田首相に向かい、「エトロフやクナシリは、小さな島々ではあるが、カムチャッカへの門戸であり、放棄しえない」(『北海道新聞』64・5・27)と語り、藤山愛一郎、三木武夫氏らに向かっても、「島は小さくとも、その位置が重要」と述べた、と伝えられている(『朝日新聞』64・5・27)ほぼ同じ頃(同年7月9月)フルシチョフ首相は、二度にもわたり、日本人訪ソ団に向かい口をすべらし本音(?)を漏らした。「これらの島々(=歯舞・色丹)は、われわれにとって経済的には大した意義はないが、戦略・国防的には重大な意味がある。われわれは、自己の安全保障を配慮するのだ」(『朝日(夕刊)』64・7・15『プラウダ』64・9
・20)。

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北方領土問題と米国アジア戦略の問題--------------

北方領土のソ連領有が不当であることは明らかである。それは、大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などの領土不拡大の方針に反するものであった。カイロ宣言には「右同盟は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず、又領土拡張の何等の念をも有するものに非ず」とある。そして、そうした考え方を基に、日本に対して「…1914年の第1次世界戦争の開始以後に於いて日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より窃取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」と迫るものであった。

 にもかかわらず、アメリカは先の大戦末期に、ソ連に対日戦参戦を求め、その代償として『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』という内容を含んだ「ヤルタ協定」を締結した。だから、ソ連が敗戦間近の日本に宣戦を布告し、アメリカの求めに応じて参戦することによって、あっという間に千島列島を占拠した。アメリカがどんな言い訳をしようと、それが北方領土問題の始まりである。

 北方領土返還を求める日本の外務省は、北方領土がロシアによって不法占拠されていると主張しながら、ヤルタ協定やその後の日本の返還運動に対するアメリカの介入(「ダレスの脅し」などとして知られる)をほとんど問題とせず、アメリカのアジア戦略に沿う主張を展開しているようである。しかし、ヤルタ協定はもちろんのこと、その後の冷戦下における北方領土をめぐる米ソ取引も、大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などに反するものである。そういう意味で、北方領土問題は、ロシアだけの問題ではなく、アメリカの問題でもあり、両国に大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などの趣旨を踏まえ、法に則った対応を求める必要があると思う。

 下記は「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)の中の「北方領土問題と平和条約交渉」原貴美恵からの抜粋であるが、北方領土に関わるアメリカのアジア戦略を、様々な資料をもとに具体的にとらえている。たとえば、アメリカは、ミクロネシア信託統治の施政国となったが、国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう迫ったソ連の主張を受け入れなかった。千島をバーゲニング・カードとして、アメリカを唯一の施政国とすることをソ連に認めさせたというのである。まさに表向きの主張に反する裏取引といえる。

 また、アメリカが作成した平和条約案では、最終的に日本が放棄する領土の帰属先の記載を意図的に消し、処理領土について、帰属先は明記されなかったという。それは、中・ソを意識したアメリカの狡賢いともいえるアジア戦略によるものであろう。

 さらに、サンフランシスコ講和会議で、ソ連代表グロムイコは、『…領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である…』と演説したという。アメリカの強引なアジア戦略が、北方領土問題の解決を難しくしていることを痛感せざるを得ない。

 米ソ冷戦が終結したとはいえ、日本がアメリカとの同盟関係を強化し、北海道をはじめとして、様々な場所で日米共同軍事演習を実施し、時には日米韓合同軍事演習なども行う現状では、北方領土の返還交渉は進まないのではないかと思う。やはり、軍縮を進め、東アジア全体をできるだけ非軍事化することによって、緊張関係を緩和する方向で、日本が米ソをはじめ近隣諸国に働きかけることが、北方領土問題の解決につながるのではないかと考えさせられる。 
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                         「北方領土問題と平和条約交渉」
                                                                原貴美恵

ミクロネシア信託統治と千島

 1947年4月、国際安全保障理事会は、旧国際連盟の日本委任統治領ミクロネシア(南洋)について、米国を唯一の施政国とする国連の戦略的信託統治下に置くこと、すなわち米国による独占支配を決定している。ここでも千島がカードとして巧みに利用された。
 先のヤルタ会談で米英ソ三首脳は、信託統治制度の基本条項を含んだ国連憲章の草案にも同意していた。そこでは、信託統治は、①従来の国際連盟委任統治地域、②敗戦国から分離される地域、③施政国が自発的にこの制度下に移行させる地域に適用することになっていた(FRUS:TheConferences at Malta and Yalta 1945.p.859、これはその年の10月24日に採択された国連憲章の第77条となる)。だが、米国にとってミクロネシアは戦時中から沖縄・小笠原と共に戦略的要所であり、特にミクロネシアは終戦の翌年から核実験場として使用されており、米軍部はその所有あるいは恒久的独占支配を求めていた。それゆえ、国務省では併合という形を避けてそれを信託統治制度の中で実施する案を模索した。そして、1946年11月、トルーマン大統領が次のような発表を行うに至った。


 米国は、旧日本委任統治諸島及び第2次大戦の結果としてその責任を負う如何なる日本の諸島も、施政国として信託統治領に置く準備をしている[FRUS.1946.I..p674]。
 ソ連は当然これに反発した。プラウダは、米国の試みは「将来の戦争準備と関連しかねない」、と太平洋を「アメリカの湖」に変えようとしていると報じ、「赤い艦隊」誌は米国の計画を「米帝の野望、防衛というには程遠い」と非難した[ibid.,pp679-682]。ソ連は、信託統治協定には米国だけでなく国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう何度も迫った。しかし米国は、平和条約での千島処理はこの件でのソ連の出方次第であるとして、千島をバーゲニング・カードとして再び持ち出したのである。ソ連の千島併合は既に合意済みであり「別問題」であるとするソ連に対し、米国はそれは平和会議での最終決定を待つ非公式合意であり、ソ連占領地を棚上げして米占領地だけが管轄と査察を受けるという「ダブル・スタンダード(二重基準)」には同意しない、と応酬した[ibid.,p691]。ソ連はそれなら両者とも平和条約の中で決定すべきだとしたが、米国は信託統治協定の適用範囲をミクロネシアに限って提出することにし、結局ソ連も国連安保理事会で米提案を支持するのである[原 2005.176ー182頁]。

 
 この交渉で中心的役割を果たしたのは、当時国連信託統治委員会の米国代表を務め、後に,、対日平和条約の起草でも活躍するジョン・フォスター・ダレスであった。交渉は1946年10月から始まった国連総会の舞台裏で行われたが、同時期に米国国務省内に対日講話委員会が作られ、平和条約草案の作成が始まっている事から、米政府内でも当初は信託統治協定と平和条約は近い時期に成立が予測されていたと思われる。ソ連が米国の信託統治案に合意したのも、平和条約での千島列島処理を近い時期に期待して取引したつもりいたのだろう。しかし、結論からいえば、信託統治協定は翌47年4月に可決されたものの、平和条約の調印はそれから4年5ヶ月も後のことであった。

米国主導の条約起草

 米国で作成された初期の平和条約草案は、連合国間の協調と日本に対する「厳格な平和」を特徴としていた。草案は長大で詳細なもので、領土条項では戦後日本の新しい国境線が緯度・経度を用いて克明に記載されており、それを示した地図も添付され、また「歯舞・色丹」や「竹島」といった個々の島名も帰属先も明記されていた。内容は連合国間の戦中合意を大まかに踏襲するものとなっており、全体として、初期草案は「将来に係争が残らない事」を特に配慮していた。

 しかし、冷戦の激化に伴い米国のアジア戦略における日本の重要性が増し、その防衛と「西側」確保が最重要課題の一つとなると、対日講和は「厳格」から「寛大」なものへと変容していく。米政府内や関係国との折衝を経て、ダレスの下で仕上げられた草案の内容は、初期のものとは随所で異なり、条文は「シンプル」になり、諸々の問題が曖昧にされた。締結された平和条約には、千島・南樺太のほか、台湾や朝鮮に対する日本の領土放棄が規定されているが、初期草案に見られたような処理領土の厳格な範囲や、戦後の新しい国境線についての規定はなくなっていた。
 千島・南樺太については、朝鮮戦争勃発後に一時「国連の決定を受諾する」という内容の案が一時浮上したが、これは朝鮮処理案が波及したものだった。結局、それが廃案となったのも、朝鮮戦争の展開が(米国に不利になり)その採用を難しくしたのに加えて、国連で領土を処理すると英国が中華人民共和国を承認したため台湾が中国に渡り共産化することが懸念された、すなわち台湾処理が影響したためでもあった。結局、千島・南樺太と台湾については、初期草案にあった「ソ連」や「中国」という帰属先の記載が消え、最終的には、すべての処理領土について帰属先は明記されなかった。


 千島については、平和条約が起草されていく過程で、その定義とその処理に関する問題が発生していた。大戦中から進められていた米政府内での対日領土処理検討では、大西洋憲章がその導きの星となっていたが、ヤルタ協定の存在が公表されると、その矛盾を解消するために様々な打開策が検討された。度重なる検討が行われ、日本への「零」「二島」「四島」返還を想定した様々な条約案が作成された。だが、結局、「シンプル」に仕上げられた条項では「千島」の定義もその帰属先も未定にされてしまう。

 この千島と南樺太の帰属先「ソ連」が消えたのは、講和会議の三ヶ月前に作成された1951年6月草案である。同年の5月案までは、ソ連は参加しさえすれば千島と南樺太を得ることが出来るようになっていた。帰属先を明記しないという案は、5月案が作成される前から中華民国やカナダ政府によって提案されていた。中華民国は、4月24日付覚書で、台湾とほうこ島については日本による放棄のみが記されているが、南樺太と千島列島についてはソ連という帰属先が記されている点を指摘し、整合性を持たせるために、これらも、放棄のみの表現に置き換えるよう要求した。カナダ政府も5月1日及び18日付の覚書で、領土処理における合意欠如という状況に鑑み、「個々の領土が差別的に処理されたと非難されることのないように」、全ての領土処理に一貫性をもたせることを提案した[FRUS.1946.I.pp1058-1062]


 当初、この点に関して米国の反応は否定的であった。6月1日に国務省が作成した見解では、この方式は各領土間の事情のちがいが考慮されていない、台湾処理について条約中で合意するのは無理だが、ソ連が条約当事国になれば、千島・南樺太に対する法的権利を問題にする根拠はないとしていた。しかし更なる検討が重ねられた末、先の提案は採用されることになる。6月5日ダレスはロンドンにて、日本の千島・南樺太の放棄のみを記し、台湾処理と整合性を持たせる旨提案している[ibid.,p1106-1107]。この理由として、前の草案では、ソ連に「直接利益」を与える形になっており、国内的に上院での批准が困難であることを挙げていた[FO371/92554;FJ1022/376.PRO]。当時は、ソ連の講和会議欠席が予想されていた。ソ連は条約を承認しなくても島の占領は続けるであろうから、これらの島の主権が日本に留まれば、日本と安保条約を結ぶ米国には不都合な状況が出てくる可能性がある[FO371/92547;FJ1022/376.PRO]。日ソの離反は望ましいが、それが米ソ直接武力衝突にエスカレートする事態は避けなければならない。それ故、日本にこれらを放棄させる一方、帰属先も故意に未定にしておいたのである。[和田、1999、213-214頁]米国はこの処理に心理的効果も見越していた。すなわち、日本の領土かも知れない島々をソ連が占領していることに対して、日本人は否定的な感情を持つ一方、米国は同情的態度を見せることで、日本人から好感を得るという効果である。
 平和条約の共同起草国である英国は、1951年初期までヤルタ協定遵守の姿勢を持っていた。しかし、米側の説得により米国案を受諾し、6月8日の米英会談ではソ連という帰属先の削除が決定された[FO371/92556.PRO]。千島・南樺太に関しては、この結果作成された6月14日付草案が講和会議で調印された最終草案となる。

サンフランシスコ講和会議

 ソ連は米国による対日平和条約の準備に大きな不満を持っていた。その具体的な問題点については、メディアを通して、あるいは再三にわたり公式覚書を送って米国政府に指摘していた。その立場は、領土処理はカイロ、ポツダム宣言及びヤルタ協定に基づきすでに決定済みである、というものであった、1951年6月10日のソ連の覚書には、「領土問題についてソ連が提案するのは唯一つ、すなわち上述した国際合意の公正な遂行を保障することだけであある」と記されていた。しかし、ダレス自身が9月3日のニューヨークタイムズ紙上で答えているように、最終草案はポツダム宣言のみに則したものであった(NewYork Times.1951.9.3)


 大方の予想に反してソ連は講和会議に出席した。朝鮮では7月10日に休戦に向けた話し合いが開始されていた。中国は講和会議に招待されなかったが、ソ連は講和会議を棄権するより代表を送り込んで米英草案を批判し、公の席で自国の立場を説明して条約案の修正を迫る道を選んだ。9月5日の第2総会で、ソ連代表グロムイコは長い演説をぶちまけている。そこでは、米英草案が、ヤルタ協定で保障されていたはずの千島・南樺太のソ連割譲について矛盾している点を指摘し、訂正案を提示した。領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である」として、米国草案を厳しく非難した[日本外務省・ロシア連邦外務省 1992、2001、121頁]

 ソ連の講和会議出席およびグロムイコの演説にもかかわらず、米英草案は修正されなかった。講和会議は結局、開催国である米国によって選ばれ招待された国々による調印式典でしかなかった。平和条約の内容に不満を持つソ連は調印を拒否した。よって日ソ間には平和条約は締結されることなく、領土問題はここで棚上げにされ、二国間の平和交渉は1955年にようやく始まることになる。

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北方領土問題 外務省見解に対する疑問と関係文書-----------

外務省のホームページで論じられている北方領土問題に関する記述(下記、資料1)には、いくつかの疑問がある。
 まず、大戦末期にソ連の対日参戦を求めたルーズベルトが、『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』とする「ヤルタ協定」 に合意したことが、北方領土問題のはじまりであったにもかかわらず、そのヤルタ協定に全く触れていないのはなぜか。

 また、「歴史的経緯」の項目を設けながら、サンフランシスコ講和条約締結後、日ソ平和条約に向けた日本の動きに介入して、『もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカ領土にする』として、ソ連の2島返還を受け入れさせなかったいわゆる「ダレスの脅し」などにも触れていないが、触れるべきではないか。

 さらに、日ソ中立条約を破棄して対日参戦を求めたのはアメリカであるにもかかわらず、そのことについても全く論じることなく、ソ連のみを非難し、米ソの駆け引きの中で発生した北方領土問題を、あたかもソ連の単独行為のように主張するのは、なぜか。

 ポツダム宣言の第8項には、『「カイロ」宣言ノ条項ハ施行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ』とある。また、サンフランシスコ講和条約第2章第2条(領土権の放棄)(c)には、「日本国は、千島列島並びに日本国が1095年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対する権利、権原及び請求権を放棄する」とある。サンフランシスコ講和条約を主導したアメリカは、ソ連が不法占領したという北方四島を含む千島列島を、なぜ日本に放棄させるようにしたのか。

 また、下記1945年9月2日の一般命令第一号(資料2)の(ロ)で、『満州、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東最高司令官ニ降伏スベシ』したのは、なぜか。なぜ、択捉や国後は別であることを明記しなかったのか。ヤルタ協定で千島全島をソ連に引き渡したからではなかったのか。

 ソ連が対日参戦する前に、日本がドイツの対ソ戦を援助し、さらにソ連の同盟国である米英と交戦中なので、日ソ中立条約の意義が失われているとする「日ソ中立条約破棄に関する覚書(1945年4月5日)」(資料3)を日本側に手渡していた。にもかかわらず、それを無視して、「当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は…」というような言い方で、一方的に非難することができるのか。条約が有効であたとしても、日本側の対応にも問題があったのではないか。

 千島列島の範囲についての記述にも疑問がある。「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。」とあるが、サンフランシスコ講和条約締結の2ヶ月後、条約批准のための平和条約及び日米安全保障条約特別委員会で、西村熊雄条約局長は「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むものと考えております。しかし、北千島と南千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説で明らかにされたとおりでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会で総理からご答弁があったとおりであります。
 なお歯舞と色丹が、千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました。
…」と発言しているのである。
 まちがいなく、講和条約締結前後の時期には、日米ともに、国後・択捉を南千島として、千島列島に含めてとらえていた。

 アメリカ国務相の「千島に関するブレークスリーメモ(極秘文書)」(資料4)にも、「千島列島は南部、中部、北部の3群に分けることができる。南部群は北海道から北上して約235マイルにわたって展開し、択捉島を含み千島列島総人口の90%を擁し、1800年頃以来明白に日本領だった。…」とある。この文書は、米国が、対日戦終結前から戦勝後の日本の処理を検討するために、「戦後外交政策諮問委員会」を結成し、その委員会で検討するために、1942年8月の時点で、国務省内に東アジア班をつくり、研究させていたものであり、同班主任で日本通のブレークスリー教授がまとめたものであるという。このメモが、どの程度関係者に共有されていたか分からないが、当時のアメリカの認識では、千島列島は(歯舞・色丹を除き)、明らかに北海道から国後・択捉を含むカムチャッカ半島に連なる島々であった。それを、日本も受け入れていたのである。にもかかわらず、米ソ冷戦の激化による政策の転換によって言説を変えたアメリカに追随し、「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。」と、かつての政府見解(西村熊雄条約局長発言)を変えた。その事実は、どのように考えればよいのか。

 以上のような点で、私は、北方領土問題に関する外務省見解は、問題があると思う。
 アメリカの世界戦略にしたがい、ソ連を屈伏させる方向で北方領土の返還を求めるのではなく、軍事的緊張を緩和・解消する形で、すなわち、大西洋憲章やカイロ宣言の領土不拡大の精神や日本国憲法の精神に基づいて、米ソに東アジアの非軍事化を求める方向で、返還運動を進めるべきでははないか、と思う。日本のあちこちに米軍基地があり、北海道で自衛隊と米軍の共同訓練が繰り返し行われている状況では、北方領土は返ってこないのではないかと思うのである。軍事的緊張を緩和・解消しつつ、経済的交流を深めれば、本来の国境線に戻すことは、そう難しいことではないと思う。

資料1(外務省のページより)----------------------------------------

北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)

 北方領土問題が発生するまでの歴史的経緯、概要は次のとおりです。

1.第2次世界大戦までの時期
(1)日魯通好条約(1855年)
 日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半
 には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯
 通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。

(2)樺太千島交換条約(1875年)
 日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島
 までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。

(3)ポーツマス条約(1905年)
 日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。

2.第二次世界大戦と領土問題の発生
(1)大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則
 1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって
 領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。また、1943年のカイロ宣言は、
 この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から、日本は追い出されなければならないと
 宣言しました。ただし、北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみても明
 白です。

(2)ポツダム宣言(1945年8月受諾)
 ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイ
 ロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する
 諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約(注)を無視して1945年8月9日に対日参戦
 したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同8月28日から9月5日までの間に、北方四島を不法占領しました(な
 お、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。

(注)日ソ中立条約(1941年4月)

 同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで有効)。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長さ
 れることを規定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告。

(3)サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
 日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原
 及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平
 和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。


資料2-------------------------------------------------

一般命令第1号(陸・海軍)
                          1945年=昭和20年9月2日)
一  帝国大本営ハ茲ニ勅命ニ依リ且勅命ニ基ク一切ノ日本国軍隊ノ連合国最高司令官ニ対スル降伏ノ結果トシテ日本国
  国内及国外ニ在ル一切ノ指揮官ニ対シ其ノ指揮下ニ在ル日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル軍隊ヲシテ敵対行為
  ヲ直ニ終止シ其ノ武器ヲ措キ現位置ニ留リ且左ニ指示セラレ又ハ連合国最高司令官ニ依リ追テ指示セラルルコトアル
  ベキ合衆国、中華民国、連合王国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ名ニ於テ行動スル各指揮官ニ対シ無條件降伏
  ヲ為サシムベキコトヲ命ズ指示セラレタル指揮官又ハ其ノ指名シタル代表者ニ対シテハ即刻連絡スベキモノトス但シ細
  目ニ関シテハ連合国最高司令官ニ依リ変更ノ行ハルルコトアルベク右指揮官ノ命令ハ完全ニ且即時実行セラルベキモ
  ノトス
(イ)  支那(満洲ヲ除ク)、台湾及北緯16度以北ノ仏領印度支那ニ在ル日本国先
  任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ蒋介石総帥ニ降伏スベシ (ロ)  満洲、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太
  及千島諸島ニ在ル日本国先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東軍最高司令官ニ降伏
  スベシ
(ハ)略
(ニ)  「ボルネオ」、英領「ニユー・ギニア」、「ビスマルク」諸島及ビ「ソロモン」諸島ニ在ル日本国先任指揮官竝ニ一切ノ陸上
  海上、航空及補助部隊ハ濠州陸軍最高司令官ニ降伏スベシ
(ホ)日本国委任統治諸島、小笠原諸島及他ノ太平洋諸島ニ在ル日本国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助
  部隊ハ合衆国太平洋艦隊最高司令官ニ降伏スヘシ
(ヘ)日本国大本営並ニ日本国本土、之ニ隣接スル諸小島、北緯38度以南ノ朝鮮、琉球諸島及「フィリピン」諸島ニ在ル先任
  指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官ニ降伏スヘシ


 ・・・(以下略) 

資料3------------------------------------------------

 日ソ中立条約破棄にかんする覚書
                                         昭和20年4月5日ソ連邦外務部
                                         モロトフ委員ヨリ佐藤大使ニ手交

「日」ソ中立条約ハ独「ソ」戦争及日本ノ対米英戦争勃発前タル1941年4月13日調印セラレタルモノカ爾来事態ハ根本的ニ変化シ日本ハ其ノ同盟国タル独逸ノ対「ソ」戦争遂行ヲ援助シ且「ソ」連ノ同盟国タル米英ト交戦中ナリ斯ル状態ニ於テハ「ソ」日中立条約ハ其ノ意義ヲ喪失シ其ノ存続ハ不可能トナレリ依テ同条約第3条ノ規定ニ基キ「ソ」連政府ハ茲ニ日「ソ」中立条約ハ明年4月期限満了後延長セサル意向ナル旨宣言スルモノナリ


資料4------------------------------------------------

 千島に関するブレークスリー極秘文書
                                      1944年12月6日アメリカ国務省
                                      1972年6月20日同省が公表
1944年12月28日付、領土調査課の覚書。国務省及び地域委員会第302号。秘。(極東委員会文書)
  日本=領土問題=千島列島
 1 主題 千島列島の将来の処理
 2 基本的要因
 千島列島は、日本、ソヴィエト、アメリカにとって戦略的重要性を持つ。また日本にとっては相当な経済的価値を持っている。
 A 概観
 千島列島は日本の主要島嶼の最北端北海道から北東に向かい、ソヴィエトのカムチャッカに至る約600マイルにわたって点在し住民を有する47の火山島の連鎖を形作っている。全域はおよそ3,944平方マイルである。定住人口は17,550人(1940年)で、全部日本人であり、夏季は漁業に従事する季節労働者2万乃至3万人が増加する。日本は1800年頃から南部千島列島を所有していた。カムチャッカから北部諸島に進出しつつあったロシアは1855年、これら南部諸島の日本所有を承認した。1875年ロシアは日本が南部樺太から撤退する代りに、全千島から撤退した。千島列島は日本本土の一部に考えられ、行政区としては北海道庁のもとにおかれている。

・・・

 千島列島は、南部、中部、北部の三群に分けることができる。南部群は北海道から北上して約235マイルにわたって展開し、択捉島を含み、千島列島総人口の約90%を擁し、1800年頃以来明白に日本領土だった。この群の最も近接した地点は北海道から僅か12マイル程度である。住民は日本人であり、その生活は日本本土諸島のそれと同じである。これらの島の戦略的価値は1年のうち約半分、オホーツク海から千島列島の西方にわたる海域が大部分氷に満たされ、航行はほとんど不可能な事実によって制限されている。

 中央群は得撫島から北方約375マイルにわたって展開し、大部分は人口稀薄で、経済的価値はほとんどない。しかし戦略的には重要である。これらの島はオホーツク海の入り口に横たわっており、新知島は、長さ31マイル、幅5マイルをもち、ブロトン湾を抱き、これは開発すれば重要な基地とし得、艦隊の投錨も可能となる。海軍作戦本部が1945年11月(?)発行した「千島列島便覧」は、この湾について、湾口が改善されればブロトン湾は素晴らしい湾になると述べている。陸軍省諜報部が発行した「千島列島調査報告」には、「この湾は千島列島作戦にあたり、決定的原因の一つとなろう」と述べてある。湾口は6フィートの水深しかないが、これは明らかに浚渫して深くすることができる。入口をいかなる船舶にでも通過できるようにする工事は決して不可能ではない。湾一帯の地域は要塞化されていない。中央群に属する諸島は南方群に至る踏石を形成しているので、その意味での戦略的価値を持っている。

 北方群は幌筵島、占守、阿頼度の3つの主要な島からなり、漁業としても、空海軍基地としても重要である。北方及びその周辺の漁業及びその他の水産の価値は、1938年全千島列島の生産900万ドルのうち700万ドルを占めていた。地理的にはこの群はカムチャッカの継続であり、カムチャッカからへだてる海峡は僅か7マイルの幅しかない。

 千島列島の処理を決定するに当たっての重要な要因のうちには、①列島中のあるものに、一個乃至数個の基地を設けるべきであるとするアメリカ海軍の希望、②対日戦に参加、あるいは不参加の決意をするに当たって、北部群と中央群、あるいは全千島列島の獲得を要求することもあり得るソヴィエト政府の圧力、③戦争の結果として日本帝国から分離される全島嶼に、国際管理の原則を適用することが望ましいことなどがある


 ・・・(以下略)
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資料の3と4は、「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。

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北方領土問題 千島列島の範囲とSCAPIN677------------

日本の領土問題は、北方領土問題のみらず竹島の問題でも、連合国軍最高司令官(SCAP)から日本政府宛てに出された訓令-SCAPIN (SupremeCommand for Allied Powers Instruction Note、スキャッピン)-の内容に関わって論じられることが多いようである。
 大戦直後、行政権の行使に関する範囲に言及したSCAPIN第677号(下記)において、竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島が除かれているため、戦後竹島を占拠する韓国と、北方四島(択捉島・国後島・歯舞群島・色丹島)を占拠するロシアが、この文書を自国の領有根拠の一つとしているからであろう。このSCAPIN第677号が、領土を決定する文書ではない、という日米関係者の主張は正しいであろうが、様々な問題を孕んでいるといえる。

 千島列島の範囲の問題を意識してこの文書を読むと、外務省の「日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません」という主張は、ひっかかる。
 外務省のいう通りなら、下記,、SCAPIN第677号の(c)「千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島」という表現は、どのように受け止めるべきか。歯舞群島と色丹島は、千島列島に含まれていないから、「千島列島」に続けて、「歯舞群島」と「色丹島」をわざわざ並べて記しているのではないのか。したがって、国後や択捉は、千島列島に含めてとらえていたと考えるべきではないのか。

 もし、国後や択捉が千島列島に含まれないというのであれば、このSCAPIN第677号では、国後と択捉はどういうことになるのか。歯舞群島と色丹島は日本の地域から除かれるが、国後と択捉は飛び地のように日本の地域として残された、というのか。そうした記述が全くないのに、そのように解釈できるとは思えない。

 北方領土の返還を、北方四島が千島列島に含まれていないという理由づけで主張することは、問題を複雑にし混乱させるだけであると思う。返還を求める根拠は、北方領土が、カイロ宣言でいうところの「暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域」には入らないからであり、日本固有の領土だからだ。したがって、領土不拡大の精神に反するヤルタ協定が問題なのだと思う。

 「北方領土を考える」和田春樹著(岩波書店)によると、日本がポツダム宣言受諾を通告した翌日、1945年8月15日、アメリカのトルーマン大統領は、日本軍の降伏に関する指示、「一般命令第1号」の案をソ連のスターリンに送った。その案では、ソ連軍に対して日本軍が降伏すべき地域として、「満州、北緯38度以北の朝鮮、サハリン」が挙げられていて、千島列島は含められていなかった。そこで、スターリンはすぐトルーマンに返書を送り、「日本軍がソ連軍に明け渡す区域に、クリミアでの三大国の決定によってソ連邦の領有に移されるべき全千島列島」を含める事を要求するとともに、北海道の北部(北海道東岸の釧路から西岸の留萌に至る一線で2分し両市を含む北側)をソ連軍の占領地域に入れるようにとの提案も行った。そこで、トルーマンは北海道の分割占領を拒絶し、千島列島に対するソ連の要求はのむことに合意する回答をしたというのである。その後(8月22日)、スターリンはトルーマンに手紙を送り、北海道北部占領が拒否されたのは「意外だ」としながら、千島に「恒常的な空軍基地」をもちたいという米国の要求は拒否すると述べたという。したがって、外務省の主張は、当時の米ソの認識とは明らかに異なるものである。

 ヤルタ協定やSCAPIN第677号に関わる米ソのやり取りを踏まえて、下記「日ソ交渉に対する米国覚書」を読むと、冷戦が深刻化するのにともなって、アメリカの主張が変化したと言わざるを得ない。サンフランシスコ講和条約でも、アメリカは日本に、南樺太とともに千島列島を範囲を明確にすることなく放棄させた。それは、領土不拡大の宣言に反するヤルタ協定があったからであろう。

 しかしながら、この米国覚書が発せられた頃には、米ソの対立は深刻化しつつあり、アメリカは日本の「西側」確保のため、日ソ交渉に介入した。いわゆる「ダレスの脅し」として知られているが、二島返還によって日ソ平和条約を締結しようとした日本に、二島返還で日ソ平和条約を締結するならば、「沖縄返還はあり得ない」、と「脅し」、四島返還の方針に転換させたのである。以後、外務省は「北方四島は千島列島の中に含まれません」と主張することになったのであろう。
 
 したがって、覚書の中で、「領土問題に関しては、さきに日本政府に通報したとおり、米国はいわゆるヤルタ協定なるものは単にその当事国の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め、その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでもなく、また領土移転のいかなる法律的効果も持つものでもないと認めるものである」などと、言い逃れともいえる主張をするアメリカに追随することな く、日本は、ヤルタ協定そのものの問題を指摘し、太平洋憲章やカイロ宣言の領土不拡大の精神に基づいた対応を米ソに求めるべきだと考える。ヤルタ協定が単なる「当事国首脳者の共通の目標」であったかどうかが問題ではなく、領土不拡大の精神に反するヤルタ協定によって、現実にロシアが対日戦に参戦し、北方領土の不法占拠が始まったことが問題なのである。

 ロシアの北方領土不法占拠は、アメリカの戦略によってもたらされたと言っても過言ではない現実を踏まえて、領土不拡大の精神に基づいた対処を米ソに促しつつ、日本だけではなく、東アジア全体の非軍事化の方向で問題解決を目指すべきだと思うのである。

 下記の「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」「日ソ交渉に対する米国覚書」「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)から抜粋した。
資料1-------------------------------------------------
              若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書
                                                      (1946年1月29日)

1 日本国外の総ての地域に対し、又その地域にある政府役人、雇用員その他総ての者に対して、政治上又は行政上
  の権力を行使すること、及、行使しようと企てることは総て停止するよう日本帝国政府に指令する

3 この指令の目的から日本という場合は次の定義による。日本の範囲に含まれる地域として、日本の4主要島嶼(北海
  道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯30度以北の琉球(南西)諸島(ロ之島を除く)含む約1千の隣接小島嶼
  日本から除かれる地域として  
(a)うつ陵島、竹島、済州島 
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、
  中ノ鳥島、を含むその他の外郭太平洋全諸島
(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島

4 更に、日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域は次の通りである。
(a)1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島 
(b)満州、台湾、澎湖列島 
(c)朝鮮及び  
(d)樺太


5 この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外、今後当司令部から発せられるすべての指令、覚書又は命令
  に適用せられる。

6、この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すもの
  と解釈してはならない。


資料2------------------------------------------------

日ソ交渉に対する米国覚書

 米国覚書 最近ロンドンにおけるダレス国務長官との会談に際し、重光外相からなされた要請に応じて、国務省は今回の日ソ平和条約交渉に提起された諸問題につき、とくにサンフランシスコ平和条約の署名国としての米国の利害関係に照らして、検討を行った国務省は、この検討に基づいて、次のとおり意見を開陳するものである。

 米国政府は、日ソ間の戦争状態は正式に終了せしめられるべきものであると信ずる。元来この戦争状態は、ソ連邦がサンフランシスコ平和条約の署名を拒否した1951年当時から、つとに終了せしめられていなければならなかったものである。日本はまた日本が加盟の資格を完全に有する国際連合に、久しい以前から加盟することを認められていなければならなかった。さらにまた、ソ連邦の手中にある日本人捕虜は、条約条項に従って久しい以前に送還されていなければならなかったのである。

 領土問題に関しては、さきに日本政府に通報したとおり、米国はいわゆるヤルタ協定なるものは単にその当事国の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め、その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでもなく、また領土移転のいかなる法律的効果も持つものでもないと認めるものである。

 サンフランシスコ平和条約ーこの条約はソ連邦が署名を拒否したから同国に対してはなんらの権利を付与するものではないがーは、日本によって放棄された領土の主権帰属を決定しておらず、この問題は、サンフランシスコ会議で米国代表が述べたとおり、同条約とは別個の国際的解決手段付せられるべきものとして残されている。いずれにしても日本は、同条約で放棄した領土に対する主権を他に引渡す権利は持ってはいないのである。このような性質のいかなる行為がなされたとしてもそれは、米国の見解によれば、サンフランシスコ条約の署名国を拘束しうるものではなく、また同条約署名国は、かかる行為に対しては、おそらく同条約によって与えられた一切の権利を留保するものと推測される。

 米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞諸島および色丹島とともに)常に日本の領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した。米国は、このことにソ連邦が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。(1956年9月7日ワシントン国務省)




一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。

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