-NO45~53-

---------------三光作戦・三光政策(燼滅・掃蕩作戦-------------

 「三光作戦」とは、日本軍が中国を侵略した際に行った軍事的・計画的残虐行為に対し中国人が命名したものであるという。「光」という字には「すっかり無くす」とか「徹底して行う」という意味があり、殺光=殺しつくす、焼光=焼きつくす、搶光=奪いつくすの三つを合わせ「三光」として、日本軍の軍事的・計画的な残虐行為を非難する意味を込めて三光作戦・三光政策と呼んだというのである。

 中国の華北一帯に抗日根拠地をもつ中国共産党八路軍のゲリラ活動に手を焼いた日本軍は、この広い地域を無人地帯(無住禁作地帯・
無人区)にし、この地域の住民は「集家併村」と称して一定の場所(集団部落)に囲い込むか、燼滅・掃蕩し、地域住民と密着してゲリラ活動を展開する八路軍を地域住民から切り離すとともに、八路軍とその抗日根拠地の存続を不可能ならしめようと意図したのである。

 集家併村(集団部落の設置)は、万里の長城線以北の関東軍側が主として先行し実行したようであるが、中国の人々はその集団部落を家畜同様に扱うところと言う意味で
「人圏」と呼んだとのことである。実際この集団部落で多くの人が餓死・凍死・病死したという。

 三光作戦は1940年8月、華北の八路軍が
「百団大戦」と名づけた攻勢に出て、日本軍の小拠点を占領し、鉄道や炭鉱、通信線などに大きな被害を与えたため、北支那方面軍の第一軍参謀長田中隆吉少将が「敵根拠地ヲ燼滅掃蕩シ敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」と命じて反撃に出たのが端緒であると考えられている。「燼滅目標及方法」として

1.敵及土民ヲ仮装スル敵 2.適性アリト認ムル住民中16才以上60才迄ノ男子(殺戮)
3.敵ノ秘匿シアル武器弾薬器具爆弾等 4.敵ノ集積セリト認ムル糧秣 5.敵ノ使用セル文書(押収携行止ムヲ得ザル時ハ焼却)
6.適性部落(焼却)


と命令しているのである。

 したがって、岡村寧次大将が北支那方面軍総司令官に就いた1941年7月には、すでに三光作戦は始まっていたといえるが、就任後ただちに
「晋察冀辺区粛正作戦」を発動し、八路軍を危機的状況に追い込んだため、中国側は日本軍・北支那方面軍兵団長会議において、北支那方面軍総司令官岡村寧次が三光作戦を画策したものであるとして、最高責任者は岡村寧次大将としているとのことである。

 国際法で禁じられている毒ガスの使用ももちろん大問題であるが、いわゆる「三光作戦」の最大の問題は、むしろ地域住民に密着してゲリラ活動を展開する八路軍に手を焼いた日本軍が、地域住民(一般民衆)そのものを敵視し、燼滅・掃蕩・剔抉の対象にしたということであろう。

 その犠牲者について、姫田光義氏は
「華北根拠地での被害を総計すると少なく見積もっても247万人以上という数字が出てくる。この中には強制連行された人びとのその後の運命はカウントされていない」という。(「三光作戦」とは何だったのかー中国人の見た日本の戦争ー姫田光義 岩波ブックレット)

 下記は、元日本軍の小林実氏の証言を
「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋したものである。
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 私の部隊は長城線におりまして、中国共産党の八路軍を敵として徹底的に戦った部隊でございます。長城線は万里の長城にありました。長城線の両側に住民の家があったり、人が住んでいると、抗日の民兵が「満州」から入ってきたり向こうに出たりして日本軍の作戦の邪魔になります。あるいは八路軍が入って来てそこに拠点を作る。それでは日本軍が統治するのに具合が悪いということで、無住地帯つまり「無人区」を日本軍が設けたのです。
 その地域にある中国人の部落は、15軒から20軒という小さな部落までも全部焼き払っちまったんです。証言にもありましたように、全部家を焼いてしまったうえで、日本軍の都合のよい所に、ある程度大きな集団部落を作りました。その無住地帯、無人区の状況から申し上げます。
 無住地帯は一つや二つ、三つじゃないんです。日本軍が無人区をつくるためにとった作戦は、徹底的に部落の人たちの家を焼いたり、あるいは壊したりすることです。ある地域のここからここまでと決めた区域は全部家を壊して焼いてしまうという作戦だったものですから、軍隊がみんな行ってただ家を壊すだけでなく、火をつけて焼いてしまいました。その結果住民たちが、自分の着物やら家財道具を持って別のところへ引っ越さざるを得ないんですが、日本軍はそんなことにはお構いなく、無住地帯にするため人が住んではいけない、家があってはいけないということにして、全部火をつけて焼いちゃったんです。
 黙っていればみんな無住地帯にされ、殺されたりするといことを察知した農民たちは、家や家財道具をそのままにして、どんどんと余所へ逃げ出しました。
 それを知った日本軍は、統治できないところに逃げられては困るからと軍隊を出して銃で農民たちを押さえ、全員を数珠つなぎに縛って部隊へ連れてきた。そして、その人たちをみんな殺したんです。そういう状況ですから、あちらでもこちらでも日本軍に抵抗した農民やご婦人がいましたが、捕まえてきて全員射殺しました。あるいは、中国には地下に掘った野菜貯蔵庫というのがあるんですが、その中へ捕らえて来た住民を全員手を縛って押し込めて、上から火を付けて、生きたまま焼き殺してしまったんです。
 それでもまだ農民たちは抵抗しました。そして抵抗しながら逃げまわるのを日本軍が捕まえてくると、穴を掘りまして、抵抗した若い農民をその前に座れせて、そして日本軍の初年兵に「人を突く練習だ」、あるいは「人を殺さなかったら戦争にならないんだ」と命令して銃剣で突かせ、その穴に農民を放り込んで、上から土をかけて埋めました。

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 さらに続けて、残虐この上ないことも証言している。
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 特に中国で犯した残虐行為として、中国の城壁がありますが、捕まえてきた中国の人たち、八路軍あるいは抵抗した農民の首を斬り落として、その生首を全部、城壁の上に20も30も並べておいたことがあります。
 その晒された首を見て、殺された人の両親や兄弟には、遠くからでも自分の息子や親戚の人たちの首がどれかわかるので、それを夜ひそかに取りに来るんです。そのことがわかっているから日本軍は銃を持って待ち伏せて、取り戻しに来た人達をみんなその場で射殺しました。・・・



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三光作戦・三光政策(燼滅・掃蕩作戦)ー冀中作戦-------------

 北支那方面軍司令官岡村寧次の五一大掃蕩の一環として、聯隊を指揮し冀中作戦を展開した陸軍少将の証言と、その被害者の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋する 
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                           中国の戦犯管理所で書いた供述書
                                        陸軍第59師団歩兵第53旅団長 陸軍少将 上坂 勝

(一)「冀中侵略作戦」
  1942年5月下旬河北省安平県安平北方滹沱川及潴龍川中間地区おいて北支方面軍により計画され、大百十師団長中将飯沼守の指揮 命令に依り実施せられたものであります。
  師団命令の要旨「師団は安平北方滹沱川及潴龍川中間一帯の地区を掃蕩し、八路軍根拠地を覆滅せんとす。歩兵第163聯隊は一部を 以て定県より主力を以て保定ー徐水間の地区より前記の地区に向ひ進出すべし。進出日時はX+1日正午とす。本作戦間各部隊は努めて機 会を求め地下壕の戦闘に赤筒及緑筒を使用し、その用法を実験し作戦終了後所見を提出すべし。各聯隊に赤筒及緑筒○○個を交付す」

 以上の命令により私は聯隊長として本部、通信班、第一大隊、第二大隊、第三大隊、歩兵砲中隊約1500名を抽出し、この侵略作戦に参加しました。

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(1)第一大隊方面(北疃村事件 ── 編者)
 第一大隊は5月27日早朝定県を出発し、侵略前進中、同地東南方約22粁の地点に於いて八路軍と遭遇しました。大隊は直ちに主力を展開して之を包囲攻撃し、八路軍戦士に対し殲滅的打撃を与えたのみならず、多数の平和住民をも殺害いたしました。
 大隊は此の戦闘に於いて赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し、機関銃の掃射と相俟って八路軍のみならず、逃げ迷う住民をも射殺しました。又部落内を「掃蕩」し多数の住民が遁入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投入して窒息せしめ、或いは苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました。私は此の戦闘に於いて第一大隊をして八路軍戦士及住民を殺害すること約800人に上り、又多数の兵器や物資を掠奪さしました。以上は第一大隊長 大江少佐の報告によるものです。

(2)聯隊主力 
 聯隊は北たん村滹沱川北岸地区に進出し左の師団命令を受けました。
───「上坂部隊は某村より某村に亘る地区を粛正掃蕩し該地区に框舎を構築すべし」。之に基き私は聯隊長として以下の命令を下しました。──「各大隊は其の担任地区を粛正掃蕩し該地区内に框舎を構築すべし、各大隊担任地区の境界次の如し(略)」(但第一大隊は警備態勢に復帰しました)。此の掃蕩戦では地下壕内に赤筒、緑筒を使用しました。即ち地下壕内に遁入した住民や八路軍戦士に対し此の毒瓦斯を壕内に投げ込み両方の入り口を閉塞して中国人民に多大の災害を与えました。其の殺人は約300名で住民中には多くの八路軍が混入しありと推測して居ます。以上は各大隊及東軍医大尉の報告に依り推定いたしました。


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井戸の周りで沢山の人が死んでいた
                                                          李振忠(リチェンチョン)
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 虐殺事件の歴史的背景 
 1942年5月27日に日本軍が三光作戦の中で行った惨殺事件は、住民側に大きな被害を与えました。殺された人の名前と死体の確認ができた者だけで800人を超えています。北たん村というのは決しておおきな村ではありません。事件当時220世帯が住んでいましたが、事件後まだ地下道には掘り出されていない死体が多数ありました。虐殺によって38世帯の家族が一家全滅させられたのです。中国のごく普通の村になぜこれほどの被害が日本軍によって加えられたのか、その歴史的背景を述べさせていただきます。
 1937年7月7日に廬溝橋事件が勃発しますと、北たん村のすぐ近くある定県が日本軍に占領されましたが、国民党軍は抵抗しないで南へ撤退してしまいました。その後村の人々は共産党軍に加わり、ありったけの力で日本軍に抵抗しました。北たん村は見渡す限りの平野にあって、住民たちは日本軍から逃げようとしても隠れる所がありません。そこで村民は日本軍に対抗する手段としていろいろ工夫を凝らして地下道を掘る方法を編み出しました。その後地下道は改築され、当時の地下道は高さが2メートル、幅は二人の人が通れるくらいでした。村民はその地下道を利用して戦いました。
 日本の兵隊が多ければ地下道に入って身を隠し、反撃しませんでした。敵が少ない時は村民は銃とか地雷とか粗末な武器で抵抗し、大敗させました。また、隣の村の若者たちもゲリラを組織して抵抗したので、日本軍も新しい方法をとるようになりました。
 1942年5月、日本軍は抗日根拠地を殲滅するため新しい戦略を打ち出し、華北で食糧や資源の大規模な掠奪を始めました。

上坂部隊が村を襲う
 そして5月27日、北たん村は陸軍第百十師団第百六十三聯隊の上坂勝に率いられた部隊に襲われました。
 近くに迫っていた2~3000人の兵力が北たん村に動員されてやってきたのです。日本軍が攻撃してくるとの情報が届いた時、村に残っていた八路軍の兵士は、少数しかいませんでした。村民は地下道に逃げました。27日朝、村は日本軍に包囲され、戦闘が始まりました。粗末な銃や地雷で必死に戦いましたが、兵力でも武器でも日本軍の方が圧倒的に勝り、八路軍は弾丸が尽きて地下道へ入ってきました。日本軍は八路軍の兵士が見えなくなったので懸命に探し、午後から地下道の入り口が次々に発見され、結局地下道の出入り口のほとんどが発見されました。
 日本軍は携帯していた毒ガス弾を次々に地下道に投げ込み、毒ガスを外に出さないように出入り口の上を濡れた布団などで塞ぎました。地下道の中は大混乱状態になりました。子どもたちの泣き叫ぶ声があちこちであがりました。地下道の中にいた人々は唐辛子のような匂いと火薬の匂いが目にしみて、涙が出るし鼻水が出るし、非常に苦しみ始めましたが、地下道の出入り口がほとんど全部日本軍によって塞がれていたので外へ出られず、バタバタと沢山の人が死んでいきました。体の丈夫な者や若い人は必死に外へ出ようとしていました。地下道には八路軍の兵士もいましたが大部分は村民で、幸い脱出できても外に待ち構えていた日本兵に銃殺され、若い者は日本軍に捕まっても抵抗したため木に縛り付けられて銃剣で突き殺されました。日本兵は死んだ後も銃剣で何度も突き刺していました。

  


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関東軍第731部隊(石井部隊)細菌戦部隊-------------

 関東軍第731部隊の部隊長
石井四郎は「1945年ー8ー15終戦当時メモ」に、東京から新京に駆けつけた軍司令官が731部隊の内実発覚を恐れ<徹底的爆破焼却>を命じたと記録しているようであるが、その軍司令官である当時の参謀本部作戦課朝枝繁春主任本人も、1997年テレビ朝日ザ・スクープの取材に対し、
「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」
と石井に告げたと答えたそうである。
 また、その朝枝は新京でソ連軍の捕虜となっているが、シベリアに連行される際、軟禁されているハルピンの副市長官舎で、ひそかに関東軍首脳を集め、口裏を合わせる会合を開いている。その時の合意内容は
「かねてソ連より睨まれている防疫給水部 ── 石井部隊のことは必ず調査を受けることになるでしょうし、内実が発覚すれば、国際問題になります。ひいては陛下に………でありますから、あの部隊は統帥系統のものでなく、軍政系のもので、陸軍省医務局の管轄下にあり、参謀本部や出先の関東軍司令部の知ったことではないということに………。ただ、全く知らないといえば、却って疑われる。間接的に聞いたことにして、誰かと訊問されたら、太平洋で死んだ者の名を出すことに……
ということである。この会合に顔を揃えたのは、
「731」青木冨貴子(新潮社)によると、終戦時の関東軍総司令官山田乙三大将、秦彦三郎総参謀長、瀬島龍三参謀ら20名ほどであったという。
 したがって、信じ難いことではあるが、下記のような被害者の証言は事実と認めないわけにはいかない。下記の証言は
「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)よりの一部抜粋である。同じような悲惨な体験の証言が多数あることを忘れてはならないと思う。

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                            私が目撃したペスト菌投下【寧波】
                                                    細菌戦被害者 何祺綏(ハーチスイ)

 1940年10月27日の午後、一機の日本軍機が寧波に飛んで来て、上空をぐるぐる旋回し、何か物を投下しました。その時の様子は、黄色のけむりが撒かれたような感じでしたが、はっきり見えました。投下した物はいったい何なのか、その時は全然分かりませんでした。地上に落ちた物をじっと見てやっと分かりました。それは小麦、小麦の粉、トウモロコシなどの穀物と、ノミがいっぱいでした。それがペスト菌に汚染されたノミだったのです。
 当時私の父は開明街に店を開いていました。元泰酒店という酒屋で、この辺りはお店ばかりでした。住居と店はちょっと離れていました。27日にノミが投下されて、29日に隣の豆乳の店の主人夫婦が発病しました。昔は車が無かったから、人力車に乗せて病院に運ばれました。29日にペストを発病して、まもなく亡くなったんです。その後の数日間、死者の数はだんだん増えていきました。・・・

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                         日本軍は家族を奪い、我が家を没落させた
                                                         細菌戦被害者 何英珍
 ・・・
 日本軍国主義者は中国の東北、華北、華中を占領しました。華中の湖南省は日本軍による被害が最も大きかった被災地区の一つです。日本軍は至る所で、強姦、略奪、殺人、放火といったあらゆる悪事をしました。
 常徳ではさらに非人間的な細菌戦を行いました。私の家は細菌戦の被害をこうむった多くの家庭の中のひとつです。平穏無事であった家庭で、20日も経たない内にペストのために6人の命を奪われてしまったのです。飼っていた犬までも難を逃れることはできませんでした。なんと悲惨だったことか。
 私の家で最初に日本軍の細菌戦によって殺害された人は兄の妻、つまり私の義理の姉の熊喜仔でした。幼い時から我が家で暮らしてきた彼女は、当時満30歳になろうとしており、三児の母親でした。彼女は毎日あれこれと忙しく働き、子どのの世話をしながら家族全員の生活を営む、良妻賢母の主婦でした。ある朝、朝食が済み後片付けを終えて便所に行こうとした彼女は突然倒れてしまいました。みんなで彼女を助け起こし寝台に寝かせましたが、もはや言葉が話せず、高熱で昏睡状態に陥りました。呼吸が困難になり、首のリンパ腺が腫れ上がったので、みんなはジフテリア(白喉病)に罹ったかと思い、漢方の薬を調合して喉に当てました。しかし、まもなく彼女の顔は紫色に変わり、体にも紫の斑点が現れ、気息奄々の状態になりました。そして、昼近い頃、息を引き取りました。みんなは非常に悲しみました。とくに頼り合って生きてきた兄は泣き潰れました。大人たちの話によると、義姉は二日前から寒気がし、熱があると言って体の不調を訴えていました。でも、体を休めるように勧められても立ち働いていたので、日本軍機が撒布したペスト菌に感染していたのだとは、最初は誰も思いませんでした。
 人が死ぬと、中国では普通遺体を棺に入れて土の中に埋葬します。今日のように火葬したら、遺体を焼却し跡を残さないといって、不幸者、大逆罪と思われます。けれど、当時の政府はペスト患者は一律に隔離し、遺体は全て野外に運んで火葬させました。ですから、私たちは火葬されるのを恐れて、義姉が亡くなるとすぐ門を閉ざしました。泣くことさえ大きな声ではできず、深夜になって、小さな舟を借りて家の後ろにある河からこっそり遺体を運び出し、河の向こうの徳山に埋葬しました。
 家で二番目に日本軍の細菌戦によって殺された人は義理の兄、二番目の姉の夫で、名前は朱根保と言い28歳でした。元々彼は私の家で仕事の手伝いをしていて二番目の姉と結婚し、男の子が生まれて我が家の一員となりました。義姉が亡くなってから、彼はその葬式を営んだりしており、体の丈夫な彼が義姉の後を追っていくとは思いもよりませんでした。義姉が亡くなって三日目、朝食が終わって、彼は袋詰めの唐辛子を粉にして販売するため、ベランダ(支柱で支え、水面に張り出して作られた部屋)に担ぎ上がって日干しをしようとしました。しかし、階段口まで行って、突然倒れました。症状は義姉の時とほぼ同じでした。私たちは気が気でなく、父が中心となって、どうすべきか相談しました。こんな病気だから治療に出してもその甲斐がない無いばかりか、出ていったら最後もう戻ってこれないでしょう。家で十分療養したら、体も丈夫だから、もしかしたら危険な状態から脱し、九死に一生を得ることができるかもしれない。私たちは万にひとつの希望にすがり、側で見守っていました。しかし、みんなの期待とは裏腹に義兄の病状は悪化し、その日の夜亡くなりました。翌日の夜、またこっそりと彼の遺体を運び出し、徳山に埋葬しました。

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 家ではまた子ども二人がペストに感染しました。一人は私の可愛い弟・何毛で当時わずか二歳でした。もう一人は亡くなった義姉の次女・何仙桃で、同じくわずか二歳でした。二人は相次いでなくなり、厳家崗に住む母方の祖母の家の近くに埋葬されました。

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 父と兄は少しある家財道具を捨てきれず、常徳に残りました。また、江西の郷里に親戚を訪ねていった父の兄と弟に手紙を出し、家で起きた不幸を知らせたので、二人のおじさんは日に夜をついで家に向かいました。ある深夜、二人はこっそり常徳市内に潜り込み、不気味な家に戻りました。
 当時の二人の悲しい心境と疲れ切った様子は想像できることでしょう。伯父の何洪発は50歳近くで、叔父の何洪源は、40歳過ぎでした。二人は家に戻ると避難することを拒みました。そして、何日も経たない内に、二人はペストに罹り、相次いで亡くなりました。二人の遺体もこっそり運び出され、徳山に埋められました。
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 細菌戦被害地の調査は、日中国交正常化まではいろいろな意味で限界があった。1990年代に入ってやっと日中相互の情報を突き合わせた本格的な調査が実施され始めたようである。「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)によるとその被害状況は現時点で、およそ下記の通りである。

寧波では、1997年9月「侵華日軍細菌戦寧波調査委員会」が設立され、すでに判明しているペスト死亡者106名以外の調査活動が 始められている。コレラによると思われる死亡者が多数発生していることが判明している。

常徳では、1998年3月侵華日軍731部隊細菌戦受害調査委員会がつくられ、過去の調査を基に各村に入って調査がされ、ペスト感 染死亡者は11か村、2425人の名前が報告された。その後の調査では、5000人近くが死亡しているという。

義烏では、1998年2月「義烏市侵華日軍細菌戦調査委員会」が発足し、9月には義烏市周辺46か村1070人がペストで死んだと
 名簿を添えて発表した。調査は続行中であるという。

衢州では、1998年10月「侵華日軍細菌戦受害舎調査班」をつくり、12月までに161人のペスト死者名簿を作成した。この後も
 さらに大々的な調査を行う予定であるという。

江山では、1998年3月「江山細菌戦受害調査小組」が組織され、200人以上のコレラによる死者と90人のチフス死亡者が確認され ている。


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731部隊(参謀本部作戦課ー井本熊男業務日誌)---------------

「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)に、
日中戦争中最大規模の細菌戦が行われた浙贛作戦<セッカンサクセン>(1942年)を前に、関東軍軍医を集めて行われた講演(関東軍牧軍医「細菌戦ニ就イテ」満州帝国軍医団雑誌46号1942年)の一節が出ている。
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 ”細菌戦は、敵に決して気付かれないようにやらなければならない。できれば、自然流行のようい、もともとそこに、菌があったかのような状態で、撒かれるのがいちばんよい。そのために事前に入念に「兵要衛生地誌」を調べておく必要がある。”
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 こうした作戦が、戦後の細菌戦の実態調査を困難にさせた原因のひとつになったようである。

また、「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」には、加害者側の細菌戦実施の証拠と して、下記のようなことも取り上げられている。
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 1993年8月14日日本の朝日新聞は、一つの記事を掲載しました。日本防衛庁防衛研究所図書館が保存している日本陸軍軍官の業務日誌に次のようなことが書かれていました。1941年11月4日、一機の爆撃機は、中国湖南省の常徳で、ペスト菌を持つノミを36キロ散布した。二週間後、ペストの大流行という「戦果報告」云々と。
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 この日本陸軍軍官の業務日誌について
「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」には詳しいことは書かれていないが、「日本軍の細菌戦・毒ガス戦731部隊国際シンポジウム実行委員会編(明石書店)によると、それは参謀本部作戦課員であった井本熊男大佐の業務日誌のようで、その内容は下記の通りである。
(二)1941年の細菌戦
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 1941年11月の常徳に対するペスト菌攻撃も、大陸指に基づいて行われた。「井元日記」には「ホの大陸指発令」と記されているのである。(9月16日)。飛行機からの細菌撒布の模様は次のように記されている。

 4/11[11月4日]朝目的方向の天候良好の報に接し97軽一キ出発〔4字分抹消〕。0530出発、0650到着。霧深し。H〔高 度〕を落として捜索、H800附近に層雲ありし為、1000m以下にて実施す(増田〔美保〕少佐操縦、片方の開函不十分。洞庭湖上に 函を落す)。
 アワ36kg、其後島村参謀捜索しあり。
 6/11常徳附近に中毒流行〔中略〕
 20/11頃猛烈なる「ペスト」流行、各戦区より衛生材料を集収しあり。
  判決
 「命中すれば発病は確実」(「井元日記」11月25日)


 ペストノミ(「アワ」)が常徳に投下されたことは、日本側の資料によっても確証されたことになる。
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 なお天皇の命令は「大陸命」で「大陸指」は参謀総長の発令であるという。そして、「大陸指」の案文は天皇に提出することが慣例であったという。したがって、細菌戦は天皇を中心とする日本軍(陸軍中央)の作戦であるということなのである。ソ連の侵攻時その証拠隠滅が最重要課題であったわけがそこにあったといえる。


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大量餓死者を出した戦場:ガダルカナルほか--------------

 日本人が目を背けてはいけない歴史的事実として、第二次世界大戦における日本軍の無謀な作戦によって、多くの人が尊い命を落とさざるを得なかったこと、特にほとんど全ての戦場で大量の「餓死者」を出したことがあると思う。そこで、
「餓死した英霊たち」藤原彰(青木書店)から一人の青年将校のガダルカナルにおける状況を記した文を抜粋するとともに、餓死者の概数を拾い出しておきたい。
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 12月27日(1942年)
 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。
どうやら俺たちは人間の肉体の限界まできたらしい。
 生き残ったものは、全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぽやぽやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変わったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛がボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充填物が外れてしまったのをみると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った。
 この頃アウステン山に不思議な生命判断が流行り出した。限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった。
 
 立つことの出来る人間は………寿命30日間
 身体を起こして坐れる人間は………3週間
 寝たきり起きられない人間は………1週間
 寝たまま小便をするものは………3日間
 もの言わなくなったものは………2日間
 またたきしなくなったものは………明日


 このようにガ島での第一線部隊の食糧欠乏がもたらした凄惨な状況が描かれている。
 こうした状況に陥っている第17軍にたいしても、大本営は11月16日、ガ島において持久戦をせよと命令した。この命令に接したときのことを、第17軍参謀長小沼治夫少将は次のように書いている。

 輸送、補給が続く状況に於いては持久戦が成立するが、輸送補給が杜絶し第一線将兵が飢え杖をついて辛うじて歩行して居る「ガダルカナル」の第17軍が持久任務を受けて何時迄持久し得るやの回答は単に「敵の大攻勢を受ける迄持久し得」というに止まる。………
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●ガダルカナル
 上陸人員 31,400名  途中離島 740名  撤収作戦で収容 9,800名  戦没者 20,860名
 戦死 5,000~6,000名  広義の餓死者15,000名 
 ブーゲンビル島、ニュージョージア、レンドバ、コロンバンガラなど中部ソロモン諸島を含めると
 ソロモン群島の死没者の4分の3に当たるおよそ66,000名が餓死と考えられる。
 また、ラバウルなどビスマルク諸島の餓死者はおよそ27,500名である。
 したがって、
この方面の餓死者は 93,500名を下らない数になるという。
 (広義の餓死とは、栄養失調がもとで病死した者も餓死に含めるということである。)

●ポートモレスビー
 作戦参加(南海支隊)人員 5,586名  補充人員 1,797名 損耗人員 5,432名 残人員 1,951名

 歩兵第41聯隊   戦死約2,000名余(3割が弾丸 7割が病死) 負傷病気で後送約300名  生存者約200名 
 堀井混成旅団(南海支隊) 15,000名 救出3,000名 
 
●ニューギニア
 第18軍及び海軍第9艦隊計148,000名  生還者13,000名
 第18軍司令官安達中将(自決)の遺書には
 「又作戦三載の間十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪い而して其の大部は栄養失調に起因する戦病死なることに想到する時御上に対し奉り何と御詫びの言葉も無之候……」
 
 厚生省によると、東ニューギニア(上記ポートモレスビーとニューギニア)の戦没者は127,600名で、関係者の回想や報告を基づい て計算すると
約114,840名が餓死と考えられる。

●インパール(ビルマ戦線)
 兵力 303,501名  戦没者 185,149名  帰還者 118,352名 
 烈兵団の村田中隊の割合で概算すると全体では、
戦病死(広義の餓死)約145,000名となる。

●孤島
 太平洋の孤島に置き去りにされて餓死した兵も多い。人数が示されているウェーク島では
 死没者陸軍 921名 栄養失調による病死者 834名 戦死者87名 で餓死が90%を上回る。
 死没者海軍 810名 栄養失調506名 戦死 204名
 厚生省調査では、中部太平洋の戦没者247,200名 
およそ123,500名が病死、餓死である。

●フィリピン 
 動員兵力 613,600名  戦没者 498,600名 
 第30師団の場合は、総員15,500名  戦死2,518名 病死2,137名 生死不明 5,593名 
 生存者 3,024名(生死不明者はほとんど戦病死であるという)
 全体では、戦没者498,600名のうち、
約400,000名が餓死とみることができるという。
   
●中国戦線
 戦没者総数 455,700名  帰還者数 1,528,883人(陸軍軍人軍属 1,050,000人)
 大陸打通作戦(湘桂作戦)の場合 戦死11,742名  戦傷22,764名  戦病66,543名
 第20軍の芷江作戦の場合 戦死695名  戦傷死 322名  戦病死 2184名  合計3201名
 中国戦線全体では、
227,800名が栄養失調を原因とする病死であると考えられている。

 その他の地域を含め全体としてみると、軍人軍属の戦没者230万名のうち
140万名を餓死とみることができるというのである。(戦没者は一般邦人30万、内地での戦災死者50万を加えると310万である)


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731部隊ー細菌攻撃開始はノモンハン---------------

 中国に於ける被害実態の調査研究の進展や日本軍関係者の業務日誌の発見、また、アメリカの調査記録や秘密裏に取得した資料、さらにはロシアのハバロフスク裁判の起訴準備書類や公判記録その他の発見・研究によって、日本軍細菌戦部隊の実態は少しずつ解明されつつある。しかし、まだ不明なことがいろいろあるという。そして、その不明な部分が日本政府による隠蔽と大きく関わっているというのである。そうだとすれば日本の将来は暗いと言わざるを得ない。アメリカから返還されたという資料の所在が分からないなどということは、常識では考えられないことだと思う。
 また、
「731」青木冨貴子(新潮社)には、信じられないような事実が報告されている。アメリカの人権団体から招かれ、アメリカ人とカナダ人の前で講演する予定であった篠塚良雄氏氏(少年隊として15歳で満州に渡り、平房の731部隊に所属、細菌培養の仕事を手伝わされ、ノモンハンの前線基地に細菌を運んだことがあるという)が「人道に反する残虐行為に加担した疑い」で入国を拒否され強制送還されたというのである。それが1998年6月25日のことであるというから驚く。しかも、戦犯として裁かれるべき当時の幹部は、過去に蓋をしたまま生き延び、要職に就き、追及もされず、アメリカへの入国も自由であるというから開いた口がふさがらない。日本政府の隠蔽体質や戦後処理の問題であると思う。補償の問題も含め、政府自らが一日も早い根本的解決に踏み出してほしいと願うものである。
 「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO389)から、ノモンハン事件での細菌攻撃の部分を抜粋したい。

ノモンハン事件:細菌攻撃開始---------------------------------------

 平房で細菌などを使ったさまざまな攻撃方法が模索されているさなかの'39年3月26日、参謀本部作戦課と関東軍防疫部との間で会議がもたれた。出席者は、作戦課側が課長の稲田正純大佐と課員の井本熊男少佐・荒尾興功少佐、防疫部側が部長の石井四郎軍医大佐、北条円了軍医少佐、パイロットであり石井の娘婿でもある増田美保薬剤大尉、石井の右腕とも称される増田知貞軍医中佐などという顔ぶれであった。
 この会議で参謀本部側は「○○〔細菌〕作戦研究の結果」を石井部隊側から聴取したが、会議後井本は日誌に「さらに研究を重ね自身を得たる後実地試験に取りかかることが肝要なり」と記した(「井本日記」)。参謀本部内で細菌戦の試験的な実施が考慮され始めたのである。そしてまもなく開始されたノモンハン事件において関東軍防疫部による細菌攻撃が実施されたのである。
 '39年5月中旬「満州国」と「外蒙」(モンゴル)も国境線付近のノモンハンで日本軍とソ連・モンゴル人民共和国軍の衝突が起きた。この第一次ノモンハン事件は、日本側の敗北でまもなく終結したが、関東軍はソ連軍への報復を企図し、6月末に第二次ノモンハン事件を開始した。しかし8月20日に開始されたソ連軍の総攻撃の前に、関東軍諸部隊は総崩れとなった。日本側の敗北が決定的となったこの8月末に細菌攻撃が実施された。
 この攻撃に参加した石井部隊の元少年隊員は1989年に次のように証言している。攻撃部隊を率いたのは、関東軍参謀の山本吉郎中佐で、攻撃の目的は「日本軍の陣地に近いホルステン川(ハルハ川の支流)の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる。」ことにあった。8月末に二度の出撃がなされたが、菌液投入に成功したのは9月に入った三度目の出撃であった。この時15名ほどの攻撃隊は、22~23個の腸チフス菌入りの石油缶をを携行し、腸チフス菌を培養したゼリー状の液を川にぶちまけたのである。(『朝日新聞』1989年8月24日)
 この山本中佐の攻撃以外に、碇常重軍医少佐率いる決死隊による同様の決戦が行われたとの供述が戦後のハバロフスク裁判においてなされているが、詳細はいまだ不明である。
 ノモンハン事件での細菌攻撃は、効果がなかったようである。石井部隊長はチフス菌を川に撒いても効果がないことを知っていながら、作戦を実施したとさえいわれている。効果があるかどうかという問題よりも、細菌を兵器として使用してみせるというデモンストレーションが石井にとって必要だったのかもしれない。しかしとにかくこのノモンハン事件での使用は、現在のところ日本側での証言のある最初の細菌攻撃であることに間違いない。なおノモンハン事件自体は、日本の惨敗のまま終結へ向かった。

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日本軍関係者の細菌戦実施事実関係記録文書(業務日誌)とは、下記の四つである。


●参謀本部作戦課員 井本熊男大佐 業務日誌
●陸軍省医務局医事課長 金原節三軍医大佐 陸軍省業務日誌摘録
●陸軍省医務局医事課長 大塚文郎軍医大佐 備忘録
●参謀本部作戦課長 参謀本部第一部長 真田穣一郎少将 業務日誌

 
これらの日誌では、細菌戦攻撃作戦は「ホ号」「ほ号」「保号」「○ほ」などと暗号で呼ばれていたという。

 
                           
-------------旧日本軍 細菌戦部隊-生体解剖 軍医の証言-------------

 「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO.389)
によると、731部隊とは日本陸軍が細菌兵器の研究・開発のためにつくった中心部隊であり、731部隊だけにとどまらず、下記のように組織を拡大し、細菌戦を展開していったという。石井四郎軍医中将が中心であったことから、これらを総称して石井機関とか石井部隊というようである。こぢんまりと密かにやっていたのではないことがわかる。
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 ① 1932年 東京の軍医学校に防疫研究室設置。
 ② 1933年 背陰河に「統合部隊」設置。
 ③ 1936年 ハルピン市平房に関東軍防疫部(石井部隊〔のち731部隊〕)編成。
 ④ 1936年 長春に関東軍軍馬防疫廠(若松部隊〔のち100部隊〕)編成。
 ⑤ 1939年 ノモンハン事件で細菌戦実施。
 ⑥ 1939年 北京に甲第1855部隊編成。
 ⑦ 1939年 南京に栄第1644部隊編成。
 ⑧ 1939年 広州に波第8604部隊編成。
 ⑨ 1940年 浙江省で細菌戦実施。
 ⑩ 1940年 牡丹江・林口・孫呉・ハイラルに石井部隊の支部設置。
 ⑪ 1941年 湖南省常徳で細菌戦実施。
 ⑫ 1942年 浙贛(セッカン)作戦で細菌戦実施
 ⑬ 1942年 シンガポールに南方防疫給水部(9420部隊)編成。
 ⑭ 1943年 安達に実験場設置。
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 旧日本軍は細菌戦の他に生体解剖や人体実験をやったことでも知られているが、下記は元陸軍軍医の証言の一部である。「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より
 
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                       陸軍病院の軍医として
                                                         元陸軍軍医 湯浅 謙
手術演習
 二回目の手術演習は、その年の秋です。憲兵隊からもらい下げてきた二人の中国人を、生体解剖しました。演習の課題としては、腸管の切開と縫合、咽頭部の気管切開、睾丸の摘出などをやりました。日本の病院では経験できない手術なのに、「これらはすべて戦地で軍人が負傷したときに役立つ」と、生きている中国人を殺したのです。
 そのほかでは、病院長の特命を受けて、中国人の生体解剖の終わった人の脳の皮質をはぎとり、500ccのアルコール瓶10本に詰めたことがあります。これは日本の臓器製薬会社の研究・開発用として内地へ送られた、と聞きました。またある時は、衛生兵の初年次教育のおり、解剖学を一日も早く覚えさせるために、一人の中国人を生体解剖して皆に見せたことがあります。
 一九四三年(昭和18年)の12月には軍医の集団教育が行われました。弾丸摘出手術の練習のため太原監獄内で4人の中国人を看守が拳銃で射ち、その体に入った弾丸を摘出する手術にかかわりました。切開や縫合手術などの実地訓練を、より多く積むためです。その後1945年(昭和20年)、私が潞安(ロアン)陸軍病院の庶務主任であった時、北支那方面軍から機密命令が降りてきました。内容は「手術演習の実施計画を立てて提出するように」というものでした。そのため、私は1ヶ月おきに演習を行う計画を立てて提出しました。幸いに、当時は部隊の移動のため実施できませんでしたが。手術演習に人体が必要になると憲兵隊に電話し、トラックで衛生兵が犠牲となる中国人を取りに行きました。憲兵隊で受け取ると、病院側は領収書を憲兵隊に提出するといったかたちで手術演習は準備されました。こうして私は3年6ヶ月の間、7回にわたって14人の中国人を生体解剖し、殺害しました。 

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 下記は、731部隊看護婦の「石井四郎」に関する証言であるが、731部隊が何であるかをよく示していると思う。こういう人間が何の裁きも受けなかったことをどう考えたらよいのだろう。上記と同じ「細菌戦部隊」より一部抜粋である。
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                     731部隊の看護婦だった
                                                    元731部隊・看護婦赤間まさ子
箝口令
 新京に着いた日の夜、私たちは敗戦を伝えられたのです。停車していた列車の窓から、険しい形相の部隊長石井四郎が大声で怒鳴りました。
 これからお前たちを内地に帰す。しかし部隊で見たこと、聞いたこと、体験したことは、今後いっさい誰にもしゃべるな。もしもしゃべったことがわかったら、この俺が草の根わけてもどこまでも探すぞ!」
 まるでライオンのような声でした。
 暗闇の中でしたので、副官が太いろうそくを持っていたのですが、隊長の顔がろうそくで不気味に照らし出されていました。あのときの隊長の顔のこわかったことといったらありませんでした。恐ろしかった。恐くて体が震え上がってしまいました。
 私は帰国してからもその言葉が忘れられなくて、部隊でいっしょだった友達にはいっさい連絡をとらなかったため、そのときの友達を失ってしまいました。もしも、命令に背いたことがわかったら……そう考えるだけでこわくて……。あのときの隊長の声は、今も耳にこびりついています。


-----------------石井部隊-”マルタ”生体実験-----------------

 下記は、人間を単なる「物」として扱っていたとしか言いようのない残酷な生体実験とその人集めの証言であり、「細菌戦部隊」731 研究会編(晩聲社)より抜粋したものである。
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 終生の重荷
                                                  731部隊・教育部 千田 英男
地獄に通じる道
 中央廊下を過ぎる階段を下りる。ここは地獄に通じる道。靴音がコツ…コツ…コツ…と不気味に響く。私の足どりは重かった。鉄の扉を 押し開けると警備詰所があって、屈強な若者たちがモーゼル拳銃を肩にして屯している。
「ご苦労さん」
「ご苦労様です」
 挨拶の後、当然のことながら顔写真の貼ってある出入許可証を提示しなければならないのだが、顔馴染みの私にはそれは必要なかった。
「今日の”丸太”(マルタ)は何番…何番…何番…10本頼む」
「ハイ、承知しました」
 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付されていた。数人の警備員が棍棒を手にして先に立っていって施錠 をはずすと、頑丈そのものの鉄扉が開いて中庭にでる。その中央に二階建ての”丸太”の収容棟がある。四周は三層の鉄筋コンクリート造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。つまり逃亡を防ぐ構造である。屋上を仰ぐと、四つの角には万一備えて大きな投光器が下をにらむように居座っていて、これと同じ構造のものが反対側にもあって、通称七、八棟と称していた。

・・・

「何番…何番…何番…」
 この人たちにとっては、地獄からの招きにも似た呼び声とともに、分厚い鉄製の扉が開けられたくくり戸から、一人また一人と腰をかが めて出てくる。チョコチョコと小幅にしか歩けないほどの短い鉄鎖の音が、廊下にもの悲しく響く。両足にガッシリとはめられた足かせが 痛々しい。……

生体実験
 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与え られた職務は教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。 それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、その病因を究明するためのものだった。
 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていくあの凄まじい断末魔ともい える形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……

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”特移扱”で中国人を731へ送った
                                                               憲兵 三尾 豊
”特移扱”について
 ”特移扱”〔特殊移送扱い〕と申しますのは、憲兵が逮捕した人々を関東軍司令官の命令で731部隊に人体実験の材料として送る、そ の扱いを秘匿するための呼称です。”特移扱”の文書には、ソ連の諜報員と”反満抗日軍”、それから軍・国家に不利な者と書いてありました。その人たちのなかには、旧”満州国”政府に勤務する中国人もいました。中国人のことですから当然、日本政府に対して不満を持っている。そのような事実がわかれば軍・国家にとって不利であるということで、731部隊に送る対象になったわけです。 
 ご承知のように、”満州国”は傀儡政権で、”満州国”皇帝は関東軍司令官の指導のもとに動いていたわけでありますから、そこにいる、勤務している中国人は日本軍の支配に満足するはずはありません。
 さらにそこに浮浪者と書いてありますが、浮浪者はいったいなぜこのような対象になったのか。
 当時毒ガスをさかんに研究していたんです。731部隊で毒ガスを研究して、そして広島の大久野島で毒ガスの生産をしていました。毒ガスを空輸して、そして安達あるいはその先の孫呉、またハイラル、チチハルなどで毒ガス実験をさかんにやっておりました。一回の毒ガス実験で少なくとも30~40名の実験要員が必要です。ところがこのチチハルとか孫呉で実験する時にはもっと多い数が必要で、そうし ますと実験する材料が足りなくなる、そうすると憲兵が捕らえて送り込む”特移扱”だけでは足りないんです。そこで浮浪者(開拓団の入 植によって土地を収奪された農民は都市に流出し、浮浪者になる)が731部隊の材料にさせられるわけです。
 1943年(昭和18年)10月、新京警察長官三田正夫は新京憲兵隊長の依頼によって浮浪者80名を100部隊に送ったと言ってい ます。三田さんは横浜の方で最近亡くなられましたが、警察長というのは日本流にいいますと警視総監ですね。100部隊というのは731部隊の姉妹部隊で、もと新京の寛城子(かんじょうし)という所にありまして関東軍病馬廠のことです。そこでは731とまったく同じことをやっていました。そこに送って実験に使いました。1943年3月に牡丹江警察局警正原口一八が、25名を731部隊牡丹江支部に送ったと供述しています。このようにして”特移扱”とは、本来正規の司法手続きとって裁判にかけるべき人を何の手続きもなく、いつでもどこでも勝手に憲兵が捕らえ、そして憲兵の判断によって731部隊に送る、そしてあの非人道きわまる実験に供出したわけです。



-- -----------------”特移扱”ー731部隊へ移送----------------

 前に、憲兵として牡丹江、チチハル、大連の各憲兵隊に所属していた三尾豊氏の
「”特移扱”で中国人を731へ送った」と題された文の一部を「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より抜粋したが、今度は、その被害者の文の一部を、「日本軍の細菌戦・毒ガス戦(日本の中国侵略と戦争犯罪)」731部隊国際シンポジウム実行委員会・編(明石書店)より抜粋する。
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                         三 1941年の「牡丹江事件」の顛末
                                                                  張 可偉
                                                                  張 可達
 1937年日本は長期にわたって計画を練っていた中国侵略戦争を発動した。全民族を指導し団結して抗日戦を呼び掛けた中国共産党は、世界の反ファッショ闘争に呼応して、一団の優秀な党員をソ連が指導する極東軍事情報組織と協力合作して、無形戦線の闘争を展開した。中国東北部で日本軍が居座った主要な重鎮である。牡丹江、ハルピン、チチハル、長春、瀋陽、大連に秘密の電信基地を設立し、敵の動向を監督し、政治的、軍事的情報を集めて随時上級に報告した。

 …張維福は送信・発信を受け持ち、妻の龍柱潔は暗号の解読を分担した。 …

 1941年6月22日、ドイツファシズムは信義に反して、突然ソ連に対して大規模な侵攻を開始した。既に中国の武漢、広州及び主要都市を略奪していた日本侵略者は喜んだ。彼らは張鼓峰やノモンハンの教訓を受け入れず、ナチスドイツと呼応してソ連の極東地域の領土を奪おうと画策したのだ。日本の外相松岡は、天皇に上奏して「今こそ、千載一遇の機会だ」と進言した。7月上旬、日本の大本営は『関東軍特別大演習』を命じて、演習の名目で大挙して増兵し、7月の下旬になると関東軍の総兵力は70万人に達した。もし、大本営の命令があれば日本はソ連の背後から一撃を加える用意を整えていた。中国の軍事当局は日本陸軍の絶大部分の兵力を牽制する必要があり、ドイツ軍に対して力をそがれていたソ連軍は、前後に敵を受けるかたちになり牡丹江からの重要情報に注目した。日本軍はいよいよ活発になった地下の電信機におそれと怒りを抱き、一分でも一秒でも早くこれを除去しようと躍起になった。関東軍は1939年に優秀な憲兵を選んで、特別に批准して彼らのいう『ソ連諜報活動』の調査に、特別憲兵隊「86部隊」を組織し、研究を重ねて、二種類の電波探知機を作り出した。日本軍は先ず「ソ連の情報活動が最も活発な牡丹江地区」でこれを使うことに決定した。…

 日本の特設憲兵隊「雨宮班」は特に長春から牡丹江に派遣されて来て、作られたばかりの電波探知機を使って、夜を日に継いで頻繁に発信される「怪電波」の発信基地を探した。
 7月16日の朝、ようやく夜が明けはじめた頃、一晩中電信機で交信した張維福夫婦は、電信機や暗号表などを片付けると、仕事を始めるまでの間少し休息をとろうとしていたが、この時すでに、牡丹江憲兵隊と長春から来た応援の「捜査班」は、張維福の家を取り囲み、飛び込んだ彼らはその場で張維福を逮捕し、庭を接している近隣の家々も捜査し、外の馬の飼料桶の中から電信機を見つけ出した。日本憲兵は張維福、龍柱潔を激しく殴りつけ、さらに彼らの幼子たち(わずか二歳の兄と生後何ヶ月かの弟)をも床に投げつけて……写真を撮り、査問した。そして全員を牡丹江憲兵隊に連行した。張維福一家といささかでも繋がりがある者たちを一斉に憲兵隊に連行して拷問し、尋問を繰り返した。次の日に朱之盈夫婦と孫朝山、呉殿興などが相次いで捕らえられ、二年後には林口県の五河林鎮に隠れていた敬恩瑞も捕らえられた。彼らは非人間的な厳しい拷問を受けた後に、五名の地下工作者全員がハルピン憲兵隊の「特移扱い」によって平房の「731部隊」に送られ殺害された。…

 1945年以後に、牡丹江地下組織の破壊に参加した日本憲兵隊の内山軍曹、川口中尉、山村中佐は日本に逃げ帰って、アメリカの「GHQ」に行き、「牡丹江事件」の材料を米側に渡した。これはアメリカの第二次世界大戦以後の冷戦のために資料提供したことになり、アメリカ軍から代償として戦犯を免れた。
 1943年には、日本憲兵隊は牡丹江電信基地の破壊と同じような手口で瀋陽、大連などの地下電信基地を破壊した。この二つの電信基地の破壊によって逮捕された、趙福元、史順臣、王耀軒、沈徳龍、李忠善、王学年などの愛国志士たちは「731部隊」に連行されて殺害された。

 注 筆者は、文中の張維福、龍柱潔夫婦の遺児。兄、張可偉。弟、張可達。

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