-NO329~
---------「従軍慰安婦」問題 陸軍中尉「オハラ・セイダイ」ノ陳述---------

下記は、「東京裁判ー性暴力関係資料」吉見義明監修(現代史料出版)に収められている資料30、『陸軍中尉「オハラ・セイダイ」の陳述書(S・オハラ(日本軍中尉)陳述モア島における原住民殺戮および原住民婦人の強制売淫)Ex.1794』の全文である。
 現地女性を連行し、慰安所に入れて性交渉を強いた理由を「モア」島ノ指揮官であった陸軍中尉「オハラ・セイダイ」は「彼等ハ憲兵隊ヲ攻撃シタ者ノ娘達デアリマシタ」と語っている。
 当時は女性の人権そのものが否定されがちだったが、現地女性、特に敵方の女性の人権はこれを全く認めない、こうした考え方が、当時の日本軍にはあったということであろう。
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              資料30 陸軍中尉「オハラ・セイダイ」の陳述書
         (S・オハラ(日本軍中尉)陳述モア島における原住民殺戮および
          原住民婦人の強制売淫)Ex.1794

問 貴方ノ氏名ハ?
答 氏名ハ「オハラ・セイダイ」年齢27才
問 貴方ノ所属部隊ハ?
答 「タナカ」部隊「ハヤシ」隊
問 貴方ノ住所ハ?
答 熊本県「カモト」郡「イワノ」村2191
問 貴方ノ軍隊勤務ノ概要ヲ述ベナサイ
答 1940年/昭和15年/12月台湾歩兵第2聯隊
  1941年/昭和16年/10月久留米士官学校
  1942年/昭和17年/1月 瓜哇
  1942年/昭和17年/12月「チモール」
  1944年/昭和19年/6月「モア」島
問 1944年9月ニ於ケル「モア」島ノ指揮官ハ誰デシタカ
答 私デアリマシタ
問 1944年9月中ニ、「モア」島デ、土民ガ殺サレタコトガアリマスカ、又ソノ人数ハ?
答 「セルマタ」島及「ロエアン」島デ約40名ノ土民ガ捕虜トナリ且殺サレマシタ
問 何故ニ殺サレタノデスカ
答 土民達ガ「セルマタ」及「ロエアン」島ノ憲兵隊ヲ攻撃シタカラデス
問 誰ガソノ殺スコトヲ命令シタノデスカ
答 「タナカ」将軍ハ土民達ヲ司令部ヘ送ルヤウ命ジマシタ、然シ土民達ガ「モア」ヲ出発スル前ニ右命令ハ変更サレ、
   私ガ「モア」デ彼等ヲ殺シ、土民ノ指導者3、4名ヲ「タナカ」部隊ニ送ルヤウニト命ゼラレマシタ
問 貴方ガ自分デソノ土民達ヲ殺シマシタカ
答 イエ、私ハ唯ソノ殺スノヲ監督シタノデス
問 誰ガ貴方ヲ手助ヲシタノデスカ
答 「ウド」曹長、「トヨシゲ」軍曹、「マツザキ」軍曹及21名ノ他ノ兵卒達デス
問 ソレ等ノ者ハ、今何処ニ居リマスカ
答 「ウド」曹長及「マツザキ」軍曹ハ、台湾第2歩兵聯隊ト共ニ、「ロボク」ニ居リマス。「トヨシゲ」軍曹ハ1945年/
   昭和20年/7月中「ラウテム」ニ向ヒマシタガ、荷船ガ着イタ時ニハ空デシタ、ソレ故彼ハ溺死シタモノト推定サレマシタ
問 ドンナ風ニシテ土民達ハ殺サレタノデスカ
答 彼等ハ、三人宛テ途上縦隊ヲ作ツテ整列サセラレマシタ、ソレカラ前ニ述ベタ   21人ノ兵達ハ銃剣デ彼等ヲ突刺シ
   一度ニ、3人ヲ殺シマシタ。
問 或ル証人ハ貴方ガ婦女達ヲ強姦シ、ソノ婦人達ハ兵営ヘ連レテ行カレ、日本人達ノ用ニ供セラレタト言ヒマシタガソレハ
   本当デスカ
答 私ハ、兵隊達ノ為ニ娼家ヲ一軒設ケ私自身モ之ヲ利用シマシタ
問 婦女達ハソノ娼家ニ行クコトヲ快諾シマシタカ
答 或者ハ快諾シ或ル者ハ快諾シマセンデシタ
問 幾人女ガソコニ居リマシタカ
答 6人デス
問 ソノ女達ノ中、幾人ガ娼家ニ入ル様ニ強ヒラレマシタカ
答 5人デス
問 ドウシテ、ソレ等ノ婦女達ハ娼家ニ入ル様強ヒラレタノデスカ
答 彼等ハ憲兵隊ヲ攻撃シタ者ノ娘達デアリマシタ
問 デハ、ソノ婦女達ハ父親達ノシタ事ノ罰トシテ娼家ニ入ル様強ヒラレタノデスネ
答 左様デス
問 如何程ノ期間ソノ女達ハ娼家ニ入レラレテヰマシタカ
答 8ヶ月間デス
問 何人位コノ娼家ヲ利用シマシタカ
答 25人デス
問 土人ヲ殴ツタコトガアリマスカ
答 アリマス、私ハ自分達ニ協力シテヰタ土民兵達ヲ殴リマシタ
問 何故デスカ
答 「ダマル」島生マレノ土人デ、日本兵達ヲ殺シタ者ノ一人ガ「モア」ヘ逃ゲマシタ、彼ハ日本人ノ為メノ「スパイ」デアッタ
   一土民ノ家ニ隠レマシタ、ソコカラ又彼ハ逃亡シマシタガ、私ハ彼ガ何処ヘ行ツタノカ分カリマセンデシタ 彼ノ逃亡
   後、彼ガ、右ノ「スパイ」ノ 家ニ隠レテヰタコトガ分カリマシタ、ソコデ私ハ、ソノ「スパイ」ガ私ニ知ラセナカツタト言フ
   理由カラ拳固デソノ頭ヤ肩ノ辺ヲ殴リマシタ。
問 ソノ土民ハ非道ク傷ヲ受ケマシタカ
答 イイエ

                                   「オハラ・セイダイ」(署名) 
                               証人 「ジェイ・レンニー」陸軍大尉
                               1946年/昭和21年/1月13日
 以上ノ応答ハ、日本語ニテ「オハラ」ニ読ミ聞カセラレ「オハラ」ハ、右ガ彼ノ為シタ報告ノ真実ニシテ正確ナル記録ナル旨
陳述セリ

 
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戦後日本の占領軍慰安所とR・A・A----------------

 「敗戦秘史 占領軍慰安所 国家による売春施設」いのうえせつこ(新評論)によると、敗戦直後、軍部があおり立てていた「鬼畜米英」敵占領軍が上陸してくる、という不安と恐怖で、東京・神奈川方面では疎開騒ぎが発生し、混乱したという。横浜市では戦時中より敗戦後の疎開者の数の方が多かったと言われているそうである。
 そんな中、8月18日、各府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」という内務省警保局の通牒が発せられ、警察署長が性的慰安施設、飲食施設、娯楽場等の設置を働きかけるよう要請されている(下記、資料1)。どこに占領軍が駐屯するかは予想できなので、いまから内々にその手筈をしておくように、また、慰安所の設立は、日本女性を護る目的であることを理解させるように、というのである。

 また、同じ8月18日か19日のいずれかに「警察庁の高乗保安課長は、東京都の料理飲食業組合長・宮沢浜次郎と総務部長の渡辺政治氏を呼びつけ、占領軍に女を用意する仕事を申しつけた」という。さらに8月21日には、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京待合業組合連合会、東京都貸座敷組合(吉原、州崎などの公娼系)、東京都接待業組合(向島、小岩などの産業戦士慰安所)、東京都慰安所連合会、東京連技場組合連盟(麻雀)、東京都料飲食業組合の7団体を集め、高乗保安課長が「資金面では十分援助するから、皆さんの立場でやってほしいと話した」と明らかにしている。そして、8月23日には、上記7団体と警視庁から高乗保安課長他3名が参加し、後に「R・A・A」(Recreation Amusement Association)と改称される「特殊慰安施設協会」が結成されたのである。占領軍上陸以前に、戦地における軍慰安所設置の経験を生かし、政府と関係者によって、着々と占領軍のための慰安施設設置が進められていたということであろう。まさに「国家による売春施設」の設置である。

 「特殊慰安施設協会」の理事長は、宮沢浜次郎。副理事長には、料亭嵯峨の主人、野本源治郎と、成川敏(貸座敷連合会)、高松八百吉(芸者屋組合)の3氏。常任理事は15人であったという。資料2はその「設立趣意書」である。
 同書によると「R・A・A協会沿革誌」には

 「海に陸に赫々たる武勲をたてた進駐軍将兵にとって、なにより慰安すべき面はセックスの満足であった。そこでともあれ京浜地区で、”小町園”を皮切りに慰安所を設け、楽々、花月、仙楽、見晴、波満川、いく穂、やなぎ、乙女、清楽、日の家等を逐次開業する運びとなった。
 さてフタをあけてみると気の荒い面々、砂漠にオアシスをみつけたごとく欣々然と行列を作り彼女等に肉薄していったのは、けだし天下の壮観であった。
…」

等と書かれているという。

 同書に掲載されているRAAの施設一覧表(鏑木清一著『秘録進駐軍慰安作戦』より)を見ると、キャバレーやダンスホール、ビヤホール、レストランとともに、「慰安所」と記されたものがあり、慰安婦の数も示されている。それを抜き出すと、

 成増慰安所(50名)、小町園(40名)、見晴し(44名)、やなぎ(20名)、波満川(54名)、悟空林(慰安婦45名・ダンサー6名)、乙女(22名)、楽々(20名)、調布園(54名)、福生(57名)、ニュー・キャッスル(慰安婦100名・ダンサー150名)、楽々ハウス(慰安婦65名・ダンサー25名)、立川パラダイス(慰安婦14名・ダンサー50名)、小町(慰安婦10名・ダンサー10名)、上官クラブ(将校用慰安所 慰安婦随時派遣)、キャバレー「東光園」(ダンサー30名・慰安婦10名)である。

 また、RAAは東京が中心であるが、横浜市や横須賀市における営業状況一覧表にも、その組合名と接客婦数が出ている。それを抜き出すと、

横浜市内
 真金町貸座敷42(86)、神奈川貸座敷2(11)、大丸谷チャプ屋10(35)、曙町私娼町42(114)、新天地私娼町19(30)、楽天地私娼町5(14)、本牧チャプ屋12(15)、日本橋芸妓組合14(20)入船私娼町28(30)
 営業者数計174、接客婦数355。


横須賀市内
 安浦保健組合88(190)、皆ヶ作保健組合45(97)、芸妓組合31(71)
 営業者数計164、接客婦数358、
である。

 「このほか、藤沢、平塚、高津、小田原、秦野、厚木方面にあっては、従来の施設を利用させて営業させたほか、一定地域を指定して新規営業も許可した」とあるので、大変な数であることが分かる。

 その「特殊慰安施設協会」改めRAAは、GHQの「廃娼」の指示(昭和21年1月7日)により、間もなく占領軍用慰安所をすべて閉鎖し、解散された。RAA等に組織された55,000人の売春婦(最盛時には7万人という)は、街娼や赤線に散り、また基地周辺のパンパンと呼ばれる女性に姿を変えたという。

 資料3は、内務省警保局から全都府県知事に
「廃娼実行に必要な準備手続きを5日以内に終えるように」という指示が出されたのを受けて、1月21日、GHQが発した「日本に於ける公娼廃止に関する件」の覚書である。
 
資料1-----------------------------------------------
             外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒

外国軍駐屯地における慰安施設に於ては別記要領に依り之が慰安施設等設備の要あるも本件取扱に付ては極めて慎重を要するに付特に左記事項留意の上遺憾なきを期せられ度。
                    記
1 外国軍の駐屯地区及時季は目下全く予想し得ざるところなれば必ず貴県に駐屯するが如き感を懐き一般に動揺を来さし
  む如きことなかるべきこと。
2 駐屯せる場合は急速に開設を要するものなるに付内部的には予め手筈を定め置くこととし外部には絶対に之を漏洩せ
  ざること
3 本件実施に当りて日本人の保護を趣旨とするものなることを理解せしめ地方民をして誤解を生ぜしめざること。
(別記)
             外国駐屯軍慰安施設等整備要領
1 外国駐屯軍に対する営業行為は一定の区域を限定して従来の取締標準にかかわらず之を許可するものとす。
2 前項の区域は警察署長に於て之を設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす。
3 警察署長は左の営業に付ては積極的に指導を行い設備の急速充実を図るものとする。
     性的慰安施設
     飲食施設
     娯楽場
4 営業に必要なる婦女は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之を充足するものとす
                                    (1945年8月18日)

資料2------------------------------------------------
                      特殊慰安施設協会設立趣意書

 畏しくも聖断を拝し、茲に連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純血を護り以て国体護持の大精神に則り、先に当局の命令をうけ東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会、東京都接待業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京都貸座敷組合、東京慰安所連合会、東京連技場組合連盟の所属組員を以て特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安施設を完備するため計画を進めて参りました。本協会を通じて彼我両国民の意思の疎通を図り、併せて国民外交の円滑なる発展に寄与致しますと共に平和世界建設の一助ともなれば本協会の本懐とするところであります。
 本協会は、右の趣旨に基き、直に運営を開始致します所存で御座居ます故、何卒御賛同の上大いに御出資を賜り、如上の使命達成に万全のご支援を御願い致します。
                                                    (特殊慰安施設協会)

資料3-----------------------------------------------
GHQ覚書
           日本に於ける公娼廃止に関する件                 連合国最高司令官総本部(昭21・1・21)
1 日本に於ける公娼の存続はデモクラシーの理想に反し、かつ全国民間に於ける個人の自由発達に相反するものなり。
2 日本政府は直ちに国内に於ける公娼の存続を直接乃至間接に認め、若くは許容せる一切の法律・法令及び其の他の
  法規を廃止し、かつ無効ならしめ、かつ該当法令の主旨の下に如何なる婦人も直接乃間接に売淫業務に契約し、若く
  は拘束せる一切の契約並びに合意を無効ならしむべし。
3 当覚書を遵守するために発令せらるる法規の最終準備完了と同時並びに其の公布前に諸法規の英訳2通を当司令部
  に提出すべし。

        日本に於ける公娼廃止に関する覚書実施に就て指示の件
1 前記覚書に関し、これが関係者すべてに対し左記の通り指示の通達を与える。
2 前記指令の根本趣旨は売淫に於いて婦人を奴隷扱いすることを近似(禁じ)、かつ防止する点にある。また同指令は
  単に売春婦と認められる婦女子のみに限らず、給仕女、芸妓、あるいはダンサー其の他本人の意志に反して売淫を
  強制されることのある婦女子に対し同様に適用される。
3 売淫は日本に置いては合法的な仕事乃至は商売とは認められない。また政府当局の許可を得てその活動を認められ
  るということは許されない。但し本指令は生計の資を得る目的をもって個人が自発的に売淫行為に従事するということ
  を禁ずるものではない。
4 如何なる婦女子も本人の意志に反し、また其の自由に表明したる承諾を得ないで売淫を強制されることはない。承諾
  をいったん与えた場合も、何時如何なる理由によっても撤回することが出来、また承諾を撤回したという廉でそのため
  に如何なる種類の刑罰も科せられることはない。
5 すべての現存する契約並びにその結果生じた負債にして、婦女子に売淫を強制するものは一切無効である。この点に
  関して今後に於いて結ばれる契約負債の一切は無効となる。
6 金銭支払いの義務若くは勤めをなす義務はすべて解消し、かつ完全に果たされたものと見做す。すべての債務は最初
  の負債であると、あるいは最初の負債後に衣料・食料・住宅の如き事物に対して生じた負債であるとの別なく、本条項
  により完全に支払われたものと見做す。右の根本の趣旨は負債の原因の如何を問わず、如何なる婦女子も売淫により
  負債を返却する義務がないということである。
7 各部隊司令官は、本覚書の条項実施に際し、右の諸点を考慮の上指導に当たり、かつ左記の処置をとること
 イ 本覚書の内容を関係者一切に通達するため、適当なる措置を講ずる。
 ロ 右に従って地方警察官を指導すること。
 ハ 本指令に違反する者を起訴すること。


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戦後の米軍基地売春と日本政府----------------

 敗戦直後、各府県長官宛てに、「外国軍駐屯地における慰安施設について」という内務省警保局の通牒が発せらた。占領軍上陸以前に、政府が、資金を準備し、全国各地の警察署長に特別の権限と責任を与えて、占領軍相手の「性的慰安施設」を大急ぎでつくらせたのである。問題は、政府が音頭をとって警察署長を手足に使い、占領軍相手の「性的慰安施設」の開業に乗り出したことであり、まさに「国家による売春施設」の設置であった。「決定版・神崎レポート 売春」(現代史出版会)の著者「神崎清」は、そこに至る経過を明らかにしつつ、「政府は道徳的犯罪者」というのである。戦時中の軍慰安所(「従軍慰安婦」)問題との深い関わりを感じざるを得ない。

 また、彼は、米軍将兵の性行動が戦後日本の風俗史に与えた影響などを考察しつつ、基地売春における米軍司令官と日本警察の緊密な関係を指摘している。そして、そうした関係者の事実隠蔽の姿勢も指弾しているのである。下記は同書からの抜粋である。文末に(中央公論 昭和28年6月)とあるが、「はしがき」を読むと「…時に応じ、求めに応じて書き散らした文章のうちで、今日的な観点に立って役立つものを一冊にまとめて、旧稿の旧仮名遣いをすべて新仮名遣いに改めて、現代史出版会から発行することにした。…」とあるので、「基地売春の実態 ー星条旗のもとにー」は独立した文章であったと考えられる。
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Ⅱ 米軍基地
                      基地売春の実態 ー星条旗のもとにー

 政府は道徳的犯罪者 
 アメリカ軍の日本本土占領をむかえて、東久邇内閣は、その準備にいそがしかった。当時の無任所大臣近衛文麿の秘書官細川護貞が、最近公表した「情報天皇に達せず」を読むと、昭和20年8月21日の記事に、閣議の模様がでている。マニラの米軍総司令部と打合せをしてかえってきた軍使から報告をきいて、風紀対策を論じていたのである。


 「彼らの軍規は、きわめて厳正にして、沖縄にて強姦嫌疑の者が、げんに10年の刑に服役中なり、と。また欧州上陸軍の行方不明者中、半数は強姦せるため死刑となりたる者にて、家族の不名誉を思い、行方不明とせるものなりと。娯楽設備につき、仏当局が米軍に申し出たるところ、キッパリことわりたる例あれば、我が方もかくのごときことをなすべからず、等々語れり」

 敗北した日本の軍隊に対する反感が手つだって、アメリカ軍を美化しすぎたきらいはあるが、第一次世界大戦においてアメリカの援軍をむかえたフランス政府が、性的慰安施設の問題を持ちだしたときに、米軍の司令官が「ことアメリカ軍に関するかぎり、そのようなものは必要ない」と言下にしりぞけた有名な話がつたわっている。しかし、政府が実際にとった処置を見ると、8月21日の閣議では、「我が方もかくのごときことをなすべからず」といいながら、すでに3日前の8月18日、内務省警保局長から無線電信の秘密通牒でもって全国的に占領軍相手の性的慰安施設の設営を指令していたのであった。

 「警察署長は、左の営業については、積極的に指導をおこない、設備の急速充実をはかるものとす。
 性的慰安施設、飲食施設、娯楽場
 営業に必要なる婦女子は、芸妓・公私娼妓・女給・酌婦・常習密売淫犯罪等を優先的に之に充足するものとす」 
 
  
 この売春サービス計画は、警察官僚の考えだしそうなことだが、熱心な支持者はだれであったか。住本利男の『占領秘録』(毎日新聞社)をひらくと、当時の警視総監坂信弥の談として、長袖の政治家、近衛文麿の激励をうけていたことがわかった。

 「婦女子の問題は、内閣でも非常に心配した。私は内閣によばれ、近衛公から、『日本の娘を守ってくれ。この問題は一部長にまかせず、君が先になってやるように』といわれた。一般の婦女子を守るために、防波堤をきずくことを考えました」

 おおいがたい敗戦を支えるために、太平洋の防波堤と称して、絶望的な特攻隊をつぎこんだ日本の支配者は、降伏してからも、なだれこんでくるアメリカ軍の暴行を食い止めるために、「女の特攻隊」を投入した。一貫した非人間的感覚が、その特徴である。

 勧業銀行の融資をうけた資本金1億円のRAA(特殊慰安施設)をはじめ、全国いたるところで、進駐軍慰安株式会社の女郎屋がいっせいに店びらきをして、アメリカの兵隊を大々的に歓迎したのも、政府のうしろ盾があり、警察が売春業者の活動にあらゆる援助をあたえたからだった。世人は、アメリカ兵の腕にぶらさがった恥知らずのパンパンを、民族の裏切り者として非難したがるが、しかし、街頭に立つパンパンがまだ発生していなかった時期に、いち早く日本政府が組織的な手段をもってアメリカ軍に売春婦を提供していた事実を見落としてはなるまい。

 閣議では「かくのごときことをなすべからず」といいながら、米軍相手の女郎屋の開設を指令した東久邇内閣の自己背理と精神分裂は、支配階級の血統として、『再軍備はしない』ととなえながら、事実上の再軍備にのりだした吉田内閣の病的症状にひきつがれている。この売春内閣の閣僚は、無任所相が近衛のほかに緒方竹虎、内相が山崎巌、外相が重光葵、蔵相が津島寿一であった。米兵相手の売春体系をつくりだして、戦後の社会的腐敗をふかめることに貢献したこれらの政治家は一種の道徳的犯罪者といわなければならぬ。すくなくとも国民の前で「道義の頽廃」などといばった口のきけない人たちである。

 アメリカ軍の伝統が……
 RAAが急設した女郎屋の前で、ながいながい行列をつくった個々の兵隊は別だけれども、集団売春を拒否するアメリカ軍の光輝ある伝統は、司令官の方針としておおむねまもられていたようであった。各種の記録の示すところによれば、仙台、京都、大阪などの大都会を占領した大部隊の司令官は、性的慰安施設の提供をキッパリとはねつけている。だが、地方によっては、山梨県吉田保健所長志村至厚の手記『夜の女の実態』が描いているとおり、米軍の伝統に忠実で清潔な司令官ばかりではなかった。


 「吉田地区の業態者は、日本人対象の料理業兼パンパン業であったが、米軍がキャンプ・マクネアーに進駐しその数をますごとに、当番制でキャンプ・マクネアーに現地出張をなして、サービスをしたのである。当時の司令官およに軍医は、現吉田地区署を通じ、吉田保健所あてに、提供する女子についての検診を実施するよう命令した」

 売春婦の提供と利用について、米軍の司令官と日本警察のあいだに緊密な連絡があったばかりでなく、キャンプ内への出張サービスという大胆な取引がゆるされていたのであった。

 世界的にみれば、野蛮でだらしのない日本の旧軍隊であろうが、司令官の了解の下に、多数の売春婦を兵営内につれこんで、兵隊がかわるがわるもてあそんだというような軍規の頽廃は、まだきいたことがない。

 10月16日に、GHQから性病対策に関する覚書が出されているのは、売春地帯に進撃していくアメリカの兵隊を、性病感染の危険からまもるためであった。この要求に応じて、10月22日、東京都令第1号、警視庁令第1号をもって、性病予防規則がしかれている。つづいて11月22日、厚生省が全国的な花柳病予防法特例をだした。東京都と警視庁が、戦後に手をつけた第1号の仕事が、米軍相手の売春婦の消毒であったということ、完全に消毒された売春婦の提供であったということは、集団売春を必要としたアメリカ軍の性行動を端的に裏書きするものである。

 ラヴェット国防長官は、「日本の取締り法規は、売春禁止よりは性病予防を目的としている」というけれども、右の史実にあきらかなとおり、星条旗の下におこなわれたGHQの占領行政そのものが「売春禁止よりは、性病予防を目的としていた」ことが、大きな要因になっている。日本語では、このよな自己の立場を有利にするための事実に反する説明をゴマカシというのだが、英語いや米語ではなんと表現されているのであろうか。

 オハラ議員は、あるいは国防長官の答弁に満足したかもしれないが、星条旗のカーテンのこちらがわで真実を知る日本人としては絶対に承認できない。要するに、司令官が「性病にさえかからなければ何をしてもかまわぬ」と、部下の兵隊を野獣のように野放しにしている軍隊は、バイブルをわすれた軍隊である。酒と女は、戦争をいやがる兵隊の麻酔薬であろうか。

 しかし、問題のポイントは、アメリカの軍部が、昔の日本の軍部と同じように、都合のわるいことをかくして、国民をめくらにしようとしていることである。ほかのことは知らないが、集団売春を利用している事実のひたかくしのなかに、この危険な傾向がはっきりでてきている。(中央公論 昭和28年6月)

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占領軍慰安所 慰安婦集め と内務省・警察-------------

「占領軍慰安婦 国策売春の女たちの悲劇」山田盟子(光人社)には、読み捨てにできないことが書かれている。「江東区女性軍」を編成するため、動員されていた埼玉の第1中隊103人が、敗戦直後「特別挺身隊」として米兵との交接を強要されたというのである。そして、同様のことが他県でもあったという(資料1)。それが、「天皇のために捧げたてまつる」という血判を押した誓紙を逆手にとってのことであり、内務省の政策遂行の過程で行われたという事実に驚くほかない。こうした事実は、その政策を進めた関係者や、現場で関わった関係者にとっても、また、被害者となった女性にとっても、明らかにしてほしくない事実、言いかえれば隠しておきたい事実かも知れないが、後世に伝えるべき重要な歴史的事実であり、葬り去ってはいけない事実であると思う。難しいことかも知れないが、プライバシーに配慮しつつ、もう少し詳細を明らかにできないものか、と思う。

 日本にとって不都合な歴史的事実も、教訓として生かすべきだと考え、いろいろ調べ取り上げている「林俊嶺」名の私のブログやHPでさえも、気味の悪い出来事が時々あるが、私は「事実」を大事にしたいと思う。日本にはドイツの「反ナチス法」のようなものがない。したがって、日本は戦時中の何を受け継ぎ、何を否定しているのか曖昧であると思う。そのため事実を直視しないで、都合のよい部分にだけ着目し、排他的な主張をする人が多く、看過できない。過去の戦争犯罪や加害責任の事実をなかったことにしては、近隣諸国との関係改善はできないと思う。そうした意味で、上記や下記のような歴史的事実も、直視しなければならないと思うのである。

 「開港慰安婦と被差別部落 戦後RAA慰安婦への軌跡」川元祥一(三一書房)の著者は、第一部「進駐軍特殊慰安施設」の中で、戦勝国から求められたわけではないのに、内務省の指令で造った「進駐軍特殊慰安施設」は、戦中、アジア各国、各地に造った「軍慰安所」と同じ発想で造られたことを指摘し、その問題点を明らかにするために、『神奈川県警察史』の中から、大事な部分を引用している(A~I) 。下段の資料2は、その引用文をそのまま並べたものである。同書には、もちろん引用文毎に解釈があり、貴重な考察があるのであるが、長くなるのであえて引用文だけを孫引きさせていただくものである。「従軍慰安婦」問題と共通の考え方や取り組みが、引用文だけからでも読み取れるのではないかと思からである。
 
資料1----------------------------------------------
                         第1章 占領軍と慰安婦

 千歳に残る烈婦

 ・・・
 占領軍慰安所の慰安婦集めには、騙しの手が用いられたが、つぎにその例をあげてみよう。
 昭和20年には本土決戦ということで、「江東区女性軍」を編成するため、埼玉の第1中隊103人が動員されていた。
 終戦の8月15日をむかえても、103人は帰してもらえなかった。埼玉第1中隊は足留めされ、内務省治安当局の指定ということで、「特別挺身隊として、耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」
 と、都内4ヶ所の慰安所に連れ去られ、やみくもに米兵との交接を強要された。筆者は久しくこの人々を知りたいと努力してきた。
 そのような事実は都内だけでなく、他県にまで見られた。
 広島では戦中に動員した女子青年団を、もろに慰安婦にした例があった。
 原爆投下で肉親を亡くし、帰る家を失った娘たちが、呉市軍需工場に9名残っていた。工場長は彼女たちが、
 「天皇のために捧げたてまつる」
 と、いう血判を押した誓紙を逆手にとって、彼女たちを玉集めの女衒の前に座らせた。
「いよいよ君たちが奉仕するときが来た。私はかしこきあたりの御内意をうけ、大和なでしこの範となるべき婦人をさがすために、はるばる大阪からやって来た。このような血書をささげた君たちの忠誠を、天もみそなわしたもうたのであろう。君たちでなければ日本人の操を、進駐軍の魔手から守り通すことはできないであろう」
 女衒は名調子の演説をぶった。女たちはその女衒によって、呉の慰安所に連れ去られたのである。
 同じようなことが神奈川県川崎M軍需工場でもおきた。戦災で家と家族を亡くした女学生が、寮に十数人残っていた。
 そこへ、「新生社会事業観光部」の看板をつけたトラックが来ると、彼女たちを唆すように、よいことだらけをならべたてた。
「月給は高いし、人道愛に燃えたる当会社に、いますぐ就職してはどうだね」
 彼らは、とびっきり箔をつけた名刺をひとりずつに配った。名刺には内務省指定治安維持会・中国地方幹事・米山三郎、とあった。
 詐欺っぽいその名刺で、コロリと騙しを喰った女学生たちは、米軍慰安所へと運ばれていった。その女衒は
「君たちは誇りを持って、この特別挺身の任務を完遂し、かしこきあたりのシンキンを安んじ奉らねばならぬ。君らこそ日本帝国の歴史に、千歳に残る烈婦なのである」
 と、戦時中に耳慣れた言葉を聞かされた。
 彼女たちは「特別挺身」の仕事が、占領軍への肉体奉仕ということを、この時点ではわからなかった。
 夜になって、米兵がきて、おどろいて逃げた女学生は、ゴロツキ用心棒につかまり、リンチのさい眼玉をえぐりとられた女学生もいた。虚言で連行され、獣獄と知って抗えば暴力をふるわれ、仕方なく馴染ませられていく女たちもいた。
 京浜地区でも業者は、悪辣なあらゆる手を用いて、慰安婦狩りをした。
 戦災で家を失った姉妹が壊れた貨車に住んでいると、6人のMPに強姦された。そのことをかぎつけた業者が、姉妹に同情を見せて近づき、つぎに強迫の手でくどき落とし、彼女たちを慰安婦へとおとしめた。
 昭和20年11月まで、2万人からの慰安婦が仕立てられた裏には、無数のドラマがあったのである。


資料2------------------------------------------------
                   第一部 進駐軍特殊慰安施設──「RAA慰安婦」──

第1章 内務省警保局から全国へ

 戦争が終結し、多くの連合国将兵が日本に進駐することになったとき、もっとも大きな問題となったのは、いかにして善良な婦女子を守るか、ということであった。
 政府は清純な婦女子をこの危機から守るための具体策として、進駐軍専用の特殊慰安施設を設けることを決定し、8月18日「警保局長通達」(無電)をもって、全国都道府県に対し”進駐軍特殊慰安施設整備について用意されたし”と打電した。敗戦日本を象徴するかの如き屈辱的措置であったが、治安維持のためにやむを得ないことであった。政府はこの慰安施設設置のため1億円を拠出し、特殊慰安施設協会(RAA)を設けて具体的な活動をはじめた。(県警史引用A)



 本県(神奈川県)においてはRAA傘下の組織はなく、警察部保安課が全機能をあげてこの問題に取り組んだ。しかし、設置に与えられた時間は僅かで、その上、建物は焼かれ、肝心の従業員が四散していたため、この慰安所設置は容易ならぬ仕事であった。県下でも横須賀方面は戦災から免れていたため、比較的順調に設置がすすめられた。急遽集めた女は約400名、これが元海軍工廠工員宿舎ほか数カ所に分けられ、占領軍の上陸を待った。(県警史引用B)
 


第2章 神奈川県警の動き

 当時横須賀署長山本圀士(現・警察史編さん委員)の証言
「8月17日、私は次席の松尾久一さん(のち小田原署長)と安浦の慰安所に行き彼女らの前に立ちました。”昨日までアメリカと戦えと言っていた私が、いま皆さんの前に立ってこんなことを言うのは、全くたまらない気持ちです。戦争に負けたいま、ここに上陸してくる米兵の気持ちを皆さんの力でやわらげていただきたいのです。このことが敗戦後の日本の平和に寄与するものと考えていただき、そこに生甲斐を見出してもらいたいのです”── 私は話しているうちに胸がつまり、いくたびか言葉が切れました。」(県警史引用C)


 警官はいなかに出かけて、経験者の婦人80人をかき集め、中区山下町の古いアパート互楽荘で待機させた。警察部の考えでは、一般の婦女子を将兵の乱暴から守るための緩衝地帯としたわけだ。8月29日(第1次は28日。筆者註)に米軍が上陸、翌30日には互楽荘は何千人という兵が列をなした。ところが互楽荘は一週間で閉鎖となる。
 女の奪い合いで、兵隊同士のけんかが絶えず、無力な日本の警官の手では、とても収拾がつかなかったからだ。横須賀の海軍工廠あとに、この種の施設ができた。(県警史引用D)


 緩衝地帯の構想がくずれたうえ、翌21年2月のマ元帥の公娼廃止の覚え書き公布で、女たちは自由に、しかも堂々と町中で取り引きするようになった。(実際は1月21日のようだ。筆者註)(県警史引用E)


 マッカーサー覚書
1、日本の公娼存続はデモクラシーの理想に違背する。
2、日本政府は直ちに従軍公娼を許容したいっさいの法律および命令を廃棄して、その諸法律の下に売春を約束したいっさいを放棄せしめよ。(県警史引用F)
 


第4章 公務優先の実態

 慰安婦としては公・私娼や芸妓等を優先的にあてるよう考えられていたが、これらの婦女は戦災によって焼け出され、それぞれ郷里や縁故者をたよって四散していたため、横浜にはほとんどいなかった。そこで警察は離散防止措置として業者の関係組合長や、新規出願希望者に対して帰郷婦女子の募集方を指示した。
 しかしそのころ日本軍の撤去、復員軍人の輸送などのため列車が混雑し、乗車制限が行われていた。そこで鉄道各駅に連絡し、公務乗車証明書および募集人の身分証明書を発給して、優先的に婦女勧誘員の乗車ができるよう便宜をはかった。さらに住所の異動申告の手続きのすまないまま応募してきた者に対しては、手続き終了までの間、とりあえず警察の応急米を支給するなど、あらゆる便宜措置が講じられた。(県警史引用G)



 慰安所となすべき施設については、市内のほとんどの建物が戦災によって焼失していたため、この確保は困難をきわめた。また設営に必要な物資器材はいずれも統制品であり、しかも手持品は皆無の状態であった。しかしいずれにせよ慰安所設置は緊急課題であり、資材がないからできない、ではすまされない問題であった。そこで保安課は各関係課と緊密な連携をとり、その協力によって逐次各業者に配給するなどの措置をとることにした。
 営業用として必要なものは建築関係として補修用の木材、・セメント・釘などであり、営業用物資としてはまず布団・敷布・毛布・蚊帳・客用寝巻・足袋・タオル・テーブルクロース・ナプキン・椅子カバー、そのほか脱脂綿・リスリン・消毒薬・化粧品などであった。このうち特に集めるのに難儀したのは布団で、ほとんど他府県から購入したが、これを運搬する自動車が間に合わず、保安課において辛くも必要最小限の車両を確保し、課員がその引取り運搬の作業に従事する、という状態であった。(県警史引用H)



警察官の証言 (1945年8月30日互楽荘開設前後)
 警察はこの実情にかんがみ、先はの方針を変更し、各組合の現営業所(大半が戦災後の仮建築)を使用させることにした。そして新規出願者に対しては、従来の工員宿舎などの建物を斡旋し、早急に営業を開始させることにした。これらの状況について、当時の保安課長降旗節氏(現・警察史編さん委員会参与)は次の如く語っている。

「保安課は終戦直後に防空課ではなくなってそのまま保安課になったんです。仕事のすべてが進駐軍関係の慰安対策という実情でこれは閣議で決定したものらしい。内務省の方から警察部長の方へ、この進駐軍に対する慰安設備、慰安対策というものを根本的に考えてくれ、と言ってきたらしいんです。私も部長から呼ばれ、一晩中かかって説明をうけ、許可認可に基準を設けよ、どうしても利権のからむ問題だから注意してやるように言われた。進駐軍の娯楽施設をつくるのはもちろんだが、やはり日本人の娯楽のこともかんがえなくちゃならんわけで、県下にキャバレー何軒、カフェー、バーを何軒にする、慰安所はいったいどこにつくるか。そういうことを真剣に考えて検討し、野毛の方はまだ接収されていなかったのでそこに何をつくる。それから、たとえば本町方面とか伊勢佐木の方は焼け残りのビルなんかをこれにあてる。というようなわけで、知事の決裁もうけてスタートしたわけです。

 しかし、実際に着手するには、どうしても各署の営業主任をたよる以外ないわけです。それで早速、主任会議を開いて指示し、協力をもとめて仕事を実施に移したんです。当時の保安課というのは深川さんが次席で、遠藤さんが慰安所、渡辺さんがキャバレー、須田さんがカフェー、古屋さんが理容・美容というような担当でした。


 はじめは内務省の塩谷事務官から電話があって、マッカーサー元帥のくる前に先遣隊というのが到着する。だから、100名前後の女を至急集めてもらいたい、ということだった。これには参った。それで本牧とか真金町とか、そういう業者の組合長に相談し骨折ってもらったんですが、その慰安所をどこにもっていくか、その場所の選定がまた大変で、たしか大和の草柳だったと思うが、ひとまずそこへ設置し
た。つづいて山下町警友病院近くの互楽荘、それから本牧・大丸谷なんかにもつくった。だんだん藤沢、横須賀、小田原の方にもできるようになったんですが、この営業の許可認可は一と月もたたないうちに飽和状態になりました。

 この私たち警察部保安課のやったことがよかったかわるかったかはともかくとして日本の一般の婦女子が進駐軍兵士の牙にかからずすんだというのは、これはこの時の女たちの献身のためとも言えようし、、また私たちも、あれはあの時としてやむを得なかったことだし、いま言ったような意味で最善をつくしたんだというふうに思っているわけです。

 
 私たちのやった風紀対策は各府県のいわばモデルみたいにみられたんでしょうか。各方面、各府県から来たりして、施設や実施状況というものをそれぞれ案内したり、説明したりしたこともあります。」(『警親』昭和47年第4号<座談会・終戦直後風俗対策>。(県警史引用I)


第5章 「お国の役にたつなら……」

 慰安所設営は、警保局長の通達(8月18日)から一週間内に完了、という破天荒の突貫作業であった。このため保安課員の業務は繁忙をきわめた。当時同課主任(警部補)として勤務していた渡辺一三氏(のち寿署次席)は「はじめの互楽荘は真金町や曙町の業者が共同経営の形でやりはじめたんですが、わずか一週間で閉鎖になりました。女たちを集めるためには本当に苦労した。ジャの道はヘビのたとえで、結局、業者に相談して集めてもらうことにしたんですが、募集のため地方へ出張する者には身分証明書や優先乗車証明書など発行し、便宜をはかってやりました。布団なども県内ではなかなか調達できなくて、埼玉県までとりにいったこともあります。三枚一組の銘仙が950円でした。ベッドは吉田家具店に骨折ってもらいましたが、こういう仕事もすべて保安課員が自動車でとりにいったりしてやったわけですから、まったく忙しく、実際、夜も昼もないという状況でした」と語っている。(県警史引用J)


 当時保安課主任(警部補)遠藤保(のち川和署長)
「真金町にいた女たちが、こういうよごれた体で国の役に立つのなら、よろこんでやりましょうと言って、白百合会というのをつくって本当によくやってくれました。最初の2ヶ月くらいは涙が出るほど献身的にやってくれました。ところがそのうち、もうかるからというのでだんだんパンパンというのが出てきた。それですっかり評判も悪くなりイメージがかわってしまったわけです。はじめの人たちの苦労や功績というものがすっかり忘れられてしまった、というのが実情でしょう。」(県警史引用K)


 横浜市内と横須賀市内におけるRAA施設一覧表(県警史引用L)略

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外交政策と遊郭「駒形屋」「港崎遊郭」NO1------------

先月 東京都の石原知事が定例記者会見で、旧日本軍の従軍慰安婦問題について「強制したことはない。ああいう貧しい時代には日本人だろうと韓国人だろうと売春は非常に利益のある商売で、貧しい人は決して嫌々でなしに、あの商売を選んだ」と述べたり、橋下大阪市長が従軍慰安婦問題に関し「河野談話は見直すしかない」と発言したりしたので、再び議論が活発化した。今後の日韓関係などへの影響が懸念される。
 しかし、こうした主張を繰り返す人たち同様、石原都知事も橋本市長も、河野談話がどういう経緯で、どのような調査に基づいて発表されたのか、には触れていない。また、河野談話と同時に発表された日本政府の慰安婦関係調査結果についての言及もない。さらに自身の主張を裏付ける根拠の提示などもされていないようである。したがって、巷に存在する河野談話批判の単なる繰り返しのように思われる。「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」として発表された河野談話を批判するのであれば、当然その時発表された調査結果についても言及すべきではないか、と思う。20歳に満たない処女であった少女たちが、ほんとうに「嫌々でなしに、あの商売を選んだ」のかどうか…。数多くの性交渉強要の証言を、全て「嘘」と断じてよいのかどうか…。「従軍慰安婦」問題を、強制連行に関する日本側証拠の存否の問題にのみ限定してよいのどうか…。

 参議院予算委員会で、本岡昭次議員(社会党)が、「慰安婦」問題の実態調査を政府に要求したのに対し、清水傳雄労働省職業安定局長は、「慰安婦」は「民間の業者が軍とともに連れ歩いた…」と、国の責任を回避をしつつ「調査はできかねる」と答弁したのは、1990年6月のことであった。以来、様々なやり取りの結果、政府が調査を約束することとなり、”まだ不充分だ”との指摘を受けつつも、関係者の「聞き取り」をはじめ、かなり広範囲で綿密な調査が実施された(関連資料-323「従軍慰安婦」問題 資料NO1 日本政府の発表)。その調査の結果、河野談話の発表に至ったのである。また、「従軍慰安婦」問題は、国際的には、すでに結論の出ている問題といっても過言ではない状況を知っておくべきだと思う。

 国連人権委員会ILO(国際労働機関)条約勧告適用専門家委員会国際法律家委員会(ICJ)などの国際組織が、それぞれの調査団の調査に基づいて、日本政府に対し、謝罪や補償、関係者の処罰、その他を勧告しているのである。
《313「従軍慰安婦」国際法律家委員会(ICJ)の結論・318「従軍慰安婦」とクマラスワミ報告書・319「従軍慰安婦」問題 マクドゥーガル報告書など参照》

 さらに、アメリカ合衆国下院121号決議にとどまらず、オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議、オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議、カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議などがあり、フィリピン下院外交委や韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択をしており、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議を全会一致で採択しているという。
 こうした勧告や決議を全て無視し、「従軍慰安婦」の証言を否定し続けることは、日本の孤立化を招き、近隣諸国との関係改善に様々な悪影響を与えるのではないか、したがって、目先の利益にとらわれず、歴史的事実を直視すべきではないか、と思うのである。

 そうした状況を踏まえつつ、「開港慰安婦と被差別部落ー戦後RAAへの軌跡」川元祥一(三一書房)を読むと、『外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える』との指摘は、意味深い。戦時中の軍の「慰安所」や戦後のRAAによる「占領軍慰安所」など、国策として、軍や政府主導で造られた「慰安所」の初期的形態であるというのである。著者がそう考える根拠の一部を、下に抜粋した。
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                         第二部 開港慰安婦

3 新港町横浜の最初の外国人遊郭──駒形屋

 それでは、新港町横浜の外国人遊郭がどのように出来てゆくか見てみよう。1854年(安政元)の日米和親条約によって下田を仮の開港地とした時、神奈川港開港はもう時間の問題だった。しかし幕府は神奈川港を開港するのを避けて横浜の入江を突貫工事し、そこを神奈川の港といつわり(実際幕末の地図に、今の横浜港を神奈川港と書いたものがある。幕府はここまでして神奈川港開港を避けた)開港したのである。それが1859年(安政6)5月28日である(『日本史年表』歴史学研究会・岩波書店)。が、この時は調印式が行われただけだ。横浜は、新港町として突貫工事がまだつづいており、新港町の形態はほとんどととのっていなかった。
 先に、横浜の駒形屋という仮設遊郭があったことを書いた。これができたのが同年6月10日なのである。だから横浜を本格的に開港するするための日米修好通商条約締結の話し合いがハリスのいる下田領事館などで話し合われているあいだ横浜の突貫工事がつづき、町の形態がととのはないうちに駒形屋を造った。同年8月、神奈川宿の旅籠屋の「飯盛女」を禁止したのも、先に駒形屋という仮設遊郭が出来たためであり、そこに──つまり新港町横浜に──外国人を集中させようとする幕府の意図があったわけである。


 そのあたりの幕府の意図について『横浜市史稿・風俗編』(前掲書)は次のように書いている。少し長い引用であるが、注意深くみてみよう。もちろん幕府が指令した遊郭であることはすぐわかる。一見、関係業者の出願であるかのような形をとりながら、幕府はこれをすすめた。

 開港条約の締結に因り都市建設に伴ふ必須条件であり、社会的施設の一要素であつた遊里の設置は、当然起こるべき事であったと同時に、其設置が条約面にあつた訳では無いが、幕府の当事者と某領事の間の非公式折衝に成つたものと伝へられてゐるのである。安政5年11月中、幕府は遊郭の設置を発表して、希望者の出願を促したところ、当時神奈川宿の旅籠屋41軒(飯盛宿屋と称した女郎屋兼業のものが多かった。)が協議の上当宿鈴木屋善二郎の名義を以て出願した。之と前後して品川宿の旅籠屋(飯盛宿屋)岩槻屋佐吉(岩亀楼佐七の通称・筆者註・以下同)は、同業五兵衛と共同出願した。又江戸橋本石町3丁目の金三郎、下香取郡下総国小川村の名主愛二郎の両人も、別箇に之を出願した。時の代官小林藤之助の役所では、何れに許可すべきやを決し難かつたので、願の趣を外国奉行永井玄蕃頭の手許に廻附して、其指図を仰いだ。外国奉行は2回出願人を召喚して取調べの末、翌6年3月5日、一同を戸部村の仮外国奉行役所へ招致し、調役成瀬善四郎をして、太田屋新田の内1万5千坪(現在横浜公園の地点)を遊郭地として下渡の命令を与えた。

 この遊郭は、日米修好通商条約など開港のための諸条約とともに、文章にはならなかったが、幕府と某領事(ハリスである)との約束であったことがわかる。幕府が関係業者に遊郭設置を発表し、関係業者が出願するという形をとっている。今日でいう公共事業の入札制度に似ている。
 何人かの関係業者が出願し、代官、外国奉行が取調べ、審査している。そして太田屋新田の内1万5千坪が遊郭地として指定される。これが今の横浜スタジアムの場所であり、スタジアムが出来る前は横浜公園だった。
 この土地が後に、本格的な遊郭・港崎(みよさき)遊郭になるのであるが、もともと海の浅瀬であり、軟弱な土質であるため埋立工事、施設建設が難行し、開設が遅れることがわかったので幕府は急遽、仮設遊郭をつくる。これが駒形町の駒形屋である。場所は今の神奈川県庁のあたりである。
 この駒形屋の建設、設営と神奈川宿の「飯盛女」禁止のいきさつなどについて、『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は次のように書いている。


 こうして当局は、いったん神奈川宿の飯盛女郎を全面的に禁止したが、その代替として横浜の新市街に外国人向け新遊郭を開設することは、かねてより外国使臣たちとの約束であったから、神奈川宿駅娼禁止の少し前、同年4月から、新門辰五郎の出願によって、太田屋敷の埋立案に着手させるとともに(但し、辰五郎は途中で手を引いた)、はやくもその6月、旧神奈川宿の駅娼50名を強制的に駒形町の仮設遊郭へ送らししめ、また品川、小田原間の宿駅遊女屋を誘引している。しかし、呼びかけられた遊女屋たちも、何分にも経験のない外人相手の営業を危惧して、あまり快く引き受ける亡人(くつわ・女郎屋)もいなかった。

 ここでも『外国使臣』(ハリス)との約束であったことがわかる。しかも神奈川宿の「駅娼」(「飯盛女」といわれていた人・筆者註)を、強制的に送っていることがわかる。また強制的でない誘引の場合は、こころよく引きうける女性はいなかった。
 ここには、外国人相手の娼妓になりたがらない日本の女性の姿があらわれている。このことは、本格的な遊郭・港崎遊郭を外国人専用として開設した時、大きな問題となって展開する。


 私はここにあらわれているような幕府の政策、ことに外国政策として造られた外国人遊郭を「開港慰安婦」と呼んでいる。その理由は先に言ったが詳細はこれから順次述べてゆく。
 しばらくのあいだ駒形遊郭の設営を通して外国人遊郭=「開港慰安婦」の初期の状態をみておきたい。同じ『洋娼史談』(前掲書)に次のような記述がある。当時ハリスや幕府要人の名も出ており、彼らが意図する政策の一端が具体的に見える。


  ハリス等外国の使臣たちは、長崎の《出島》のような隔離的取りあつかいを受けることをおそれて、極力反対するのみならず、あくまでも神奈川を主張して、英国は浄滝寺、米国は本覚寺、仏蘭西は慶雲寺と、いずれも神奈川の寺院に領事館を開設した。オランダのボルスブルック──この人は、後にいうように、ラシャメン史の上でも、なかなか活躍するのだが──この人だけが、ひどく幕府にたいして好意的で、はじめ神奈川の長延寺を仮領事館としていたのを、まっさきに横浜へ領事館をうつした。
 こうした反対があったにかかわらず、これを強引に押し切って、大いに土木の業を起し、道路をきずき、波止場をかため、運上書(税関)や町会所、役宅、お貸長屋(遊郭のこと・筆者註)等の設備をどんどん進行して、移住商人を招致し、土地を無償で貸しつけるなど、極力新市の建設につとめたのは、当時の外国奉行兼神奈川奉行、水野筑後守忠徳である。
 こんなわけで、横浜が新市として生まれ出るまでの1年間に、神奈川へ出入りする外人の数が、どんどんふえていった。幕府はまだ外国人の江戸居住を認めず、外人遊歩距離を神奈川を中心に5里四方と定め、東北は六郷川を限りとしたが、五里四方といえば甚しく狭隘。それでも当局は、《仮令(たと)へば5里に定め候にも、往返致し候へば10里に相成候間、10里無之とて遊歩差支へ候筋は之あるまじく候》と、屁理屈をこねている。


 ここに書いている「お貸長屋」は仮設遊郭としての駒形屋のことである。幕府が率先して建設していることがわかるとともに、運上所(今の税関にあたるところ)、町会所、役人宅と共に遊郭が建設されていることがわかる。
 実際は、横浜をつくる突貫工事が終わらないうちに、突貫工事一般をやっている建設労働者をすべて遊郭(ここでいう貸長屋)建設にあてて、急いでこれを造らせる。それだけでも幕府の指令で建設されていることがわかる。『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は駒形屋建設後のことを、さらに次のように書いている。あまりパッとしない姿が見えてくる。

 この駒形屋のお貸長屋というのは、当局が建築して2棟に移住商人を招致し、他の24棟を下級外人の宿舎に提供したものだが、(その位置は、後の山下町50、及び70番地の両側)、相当地位のある上流外人はそこに泊らないで、神奈川宿の寺院(仮領事館)のほうに泊る。また軍艦乗組兵などは、上陸すると、元町山手商館へんの畑地や、山林に、野営するほうが多く、しまいにはお貸長屋へは、さっぱり外人が泊まらなぬようになってしまったので、新遊郭設立完成までの暫定期間を、その明長屋のうち表通り3棟を仮設遊郭に指定し、そこへ前期神奈川宿からの50名の飯盛女郎を送りこませたのである。前に誘引されて、決心をグズつかせていた各宿場の遊女屋たちも、やっと腰を上げ、品川、川崎、戸塚、藤沢、神奈川から各一軒、前記鈴木屋にならって、駒形町に出張店を張ることになった。この仮宅での揚げ代は、横浜市史引用の「錦園随筆」に、《一昼夜ドルラル1ツ。日本金3分也》とある。

 ともあれこのようにして、下田を窓口にし、後では横浜を通って上陸する外国人のために──といってもこれは政治全般との強い関連をもつ外交政策なのだ。一つは攘夷論者への牽制。二つは鎖国政策の一環として江戸に外国人を入れないためなど──、横浜に、性的欲求をみたすための施設を集中する。何回もいうがこれは関連業者が勝手にそうしたのではないし、業者と契約した女性がその道を選んだのでもない。
 私はここに、政治的目的によって、為政者(幕府や政府)が自ら造りだしてゆく性的「慰安所」の初期的形態があると思う。しかも外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える。


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外交政策と「駒形屋」「港崎遊郭」NO2--------------

 先日(2012.9.23)NHKスペシャル「領土をめぐる対立の行方」という番組で、有名な女性ジャーナリストが「慰安婦」に強制連行の証拠はないと繰り返し主張していた。しかし、「従軍慰安婦」の問題は、連行方法だけの問題ではない。特に、植民地化された朝鮮から「慰安所」に送られた女性は、その証言から様々な形があったことが分かっている。そして、それらがいずれも欺瞞に満ちたものであったことを忘れてはならない。さらに、「慰安所」で自由を奪われ、性交渉を強要されたということで、「従軍慰安婦」は「性奴隷」という考え方が、国際的に認知されている事実も、知っておく必要がある。
 「開港慰安婦と被差別部落ー戦後RAAへの軌跡」川元祥一(三一書房)は、「従軍慰安婦」の問題を直接論じているわけではないが、国家による差別政策の歴史として、「従軍慰安婦」の問題に深く関わるものである。すなわち、幕府による「港崎遊廓」の建設と被差別部落から集められた「らしゃめん」は、戦時中の日本軍や政府によって設けられた「軍慰安所」と植民地下の「朝鮮」から集められた多くの慰安婦と同じ構図であり、さらには、戦後政府によるRAAの組織化や「占領軍慰安所」設置と「営業に必要なる婦女は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之を充足するものとす」との内務省警保局長通牒の指示よって集められたRAA慰安婦とも、同じ構図でなのである。したがって、「従軍慰安婦」の問題は、まさにそうした差別政策の歴史の一コマとして理解しなければならないということであり、有名女性ジャーナリストが主張するようなかたちで、言い逃れることの出来る問題ではないということであろう。下記は、幕府による「港崎遊廓」の建設と被差別部落から集められた「らしゃめん」に関する記述の一部を、同書から抜粋したものである。
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                           第2章 港崎遊郭

1 外交で造った遊郭

 これまでみてきたとおり港崎遊郭とその前身の駒形屋遊郭は日米修好通商条約締結のおり、ハリスと幕府側との文章にならない約束として建設が進められた。この約束の場面を、ハリスの下田アメリカ領事館の下番頭役(給仕役)をしており談判所にも出入りしていた先の下岡蓮杖が見ている。ハリスとお吉の関係についても彼の証言は、ハリスの日記や当時の記録に符合するものであるが、談判所でのハリスと幕府の約束の場の回想が先と同じ『横浜どんたく』(前掲書)に書かれている。


 遊女屋設置の希望 これはもとより条約文にはないことで、談判書にも載せていないことですが、横浜開港の談判をする間に、ハルリスの希望として、奉行に内輪談をしたのは、遊女屋建設の一条でした。日本政府も早速ハルリスの希望を容れて横浜が開港になると早々、いろいろな普請作事(ふしんさくじ)の忙(せわ)しい中に、お貸長屋というものを政府の入費で建築して、宿場女郎みたような遊女を公許しました。ハルリスも、なかなかこの道にかけては訳のわかつた人だというでしょうが、ハルリスがかかる希望を述べたのも、ただ、自然の人情を知つて、自国の水兵達に肉慾の満足を与えようとしたのみでなく、日本の政府取締り上にも面倒の起らぬようにと注意したのです。その希望の理由というのは、第一、船乗りというものは、2ヶ月も3ヶ月も船中にばかり生活していて、その間は女というものを見ることも出来ない。人間は賢愚貴賎の差別なく、性慾ばかりは防ぎ難いもので、これがためには往々生命を棄てるものさえある。それであるから横浜が開港になった暁、双方気心の知れぬ間はこれらの水兵などが上陸して、女欲しさに、あるいは人の妻にもかまわず手を出すことがないとも限らぬ。そんなことがあつては、日本のためにも外国のためにも面白くない。もし金銭で女を自由にすることが出来る途があれば、まつたくその思いを絶つことが出来て、双方のために好都合であろうというので、我政府も早速これを聴容れたのです。

 この約束が、文書にされていない以上、下岡の証言が信憑性のあるものといえる。そしてここで言われているとおり「政府の入費で」「お貸長屋」(遊郭)を建設したことは、これまで見てきたことで証明されていると思う。

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 港崎遊郭の土地の設定が1859年(安政6)3月5日、建設開始が同年4月である。アメリカをはじめ、各国と修好通商条約を結んから約1年後である。横浜港の埋立工事そのものが遅れているために港崎遊郭の着工が遅れたのであるが、その代わりとして、仮設遊郭駒形屋を条約締結時の約束の実施として、1858年(安政5)6月10日開設したのである。
 幕府の外国人への配慮や用意周到さがここに見えるのであるが、これは本当のところは、諸外国の勢力、特にハリスに押しに押され、諸外国領事の政治的不満を女性を与えることでかわそうとする幕府の姑息な手段なのだ。また江戸に外国人を入れまいとする必死の防御でもあった。
 港崎遊郭の建設工事は、丸1年で終わる。翌年1860年(改元して万延元)4月だ。それから開業に向け再びさまざまな問題にぶつかるのであるが、まずはこの工事中1年の様子を見ておきたい。ここでも外国との条約の関係で幕府が強引に建設していることがわかる。1万5千坪の敷地はもともと海の浅瀬であって工事の途中さまざまな難工事がある。これらすべてをのりこえたのも、公権力であったがゆえである。


 『横浜市史稿・風俗編』(前掲書)では「らしゃめん」と「横浜遊郭」についてかなりのスペースをとっている。それは、幕末になって急拠、突貫埋立工事で造られた町であることと、他の港町、宿場町に較べて歴史性をもたない横浜が、今日のように大きく発展したのは「横浜遊郭」(港崎も含め、これは「らしゃめん」と一体不可分である)の存在と外国との貿易業務を行う交易場の開設、この2つに負うところが多いとする見解をもつからである。

 前掲書の第8章は、花街をあつかい「横浜遊郭」の変遷を詳しく書いている。この「横浜遊郭」とは、火災や都市の構成で遊郭が点々と移動し、そのたびに地名と共に遊郭の呼び名が変ってゆくのであるが、それらの総称である。その最初の本格的なものが港崎遊郭である。ちなみに「港崎(みよさき)」とは、船が出入りする土地、港のことである。


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 外国人遊郭とそこで働く「らしゃめん」そのものが最初から政治的・外交的な意図をもってつくられているのだ。だから幕府はこれを政治的に大いに利用した。それはさまざまな局面にあらわれるのであるが、その一端がやはり『横浜市史稿』(前掲書)にある。外国人遊郭の開設後、そこでは、「チョンキナ踊というのがはやった。これは今でいう「野球ケン」と同じで、ジャンケンに負けると着衣を一枚ずつ脱いでゆき、しまいに素裸になる。これが外国人遊郭で大はやりだったという。そしてこの流行に目をつけた幕府高官が、外交や親善に利用した。つまり、外国人遊郭で政治・外交が行われていた。最近さかんに批判されている日本政府官僚、政治家、財界の料亭談合政治はここに源流があるのではないか。その文章は次のとおり。

 異人女郎屋に於けるチョンキナ踊りは、実に横浜遊里情趣を遺憾なく発揮し、当時異国人招致の一策として数えられて居たのである。如之、貿易商人の外国人との商談には、此踊りは唯一の馳走であつて、為めに取引談判も円滑に解決し、自他の利益に資する事は多大であつた。殊に幕府の顕官は岩亀五十鈴に、時の領事館員を招き、チョンキナ踊りを利用して、問題交渉の談義を進め、策謀よろしきを得る事が多く、且つ親善振りも濃厚を加えたと言はれ、時代の渦中に斯かる外交政策も存して居た事と想像するに難くない。実に対外政略策動の伴侶としてらしゃめん女郎の存在とちょんきんん踊りの価値は大きなものであった。

2 開設を急ぐ幕府

 港崎遊郭の建設について、その関係業者や設計内容、あるいは運用に関する事項が『横浜沿革誌』(1893年<明治26>太田久好 1970年 有隣堂復刻)に簡略なものがあるが、載っているので、これを見て手がかりにしたい。

 《1、開港場ヘ遊郭地ハ既ニ条約内ノ赴ヲ以テ、大田屋新田ノ内沼地、今ノ公園地ニ当ル処1万5千坪、旧江戸鳶頭取、浅草ナル新門辰五郎、遊郭地トシテ埋立テ願済ノ所、同人力ニ不及。依テ品川宿遊女屋佐藤佐七ナル者(岩亀楼ナリ)、及ビ神奈川宿石洲楼(現今ノ富士見楼ナリ)当時之戸主吉兵衛ハ其頃召仕ナリ。右両人ニテ、同所1万5千坪ノ内7千5百坪余埋立、巾3間許ノ道路ヲ吉原土手ト唱ヘ、目下界町南側角辺吉原□□デ大門ヲ建設ス。今ノ界町南側角辺ナリ》 
                       
 《1、御貸長屋ニハ外国人長ク住居セズ。此所旧駒形町ト唱ヘ、外国人一時退去ノ後ハ遊女屋ヲ置ク。右営業者ハ品川、川崎、神奈川、戸塚、藤沢五ヵ宿ヨリ一軒宛国用トシテ五軒出張ス。其後追々増加シ、後遊郭地埋立出来ニ付(今ノ公園ナリ)、同所ニ引移リ、港崎町ト称ス。名主ハ佐藤佐七ニシテ(岩亀楼ナリ)外国人妾(ラシャメント唱)ニ雇候時ハ、岩亀楼佐七ニ乞ヒ、抱遊女ノ名義ニテ鑑札ヲ請ケ、其他ヨリ妾トナルモ何レモ岩亀楼ノ遊女名義トシ、其余ハ密売トス》

 この記述でもやはり「条約」によって遊郭が建設されていることに注目したい。建設については最初引受けた浅草の新門辰五郎なる人物が力およばず中断している。その後中心になるのは品川宿の遊郭経営者佐藤佐七と神奈川宿の遊郭経営者吉兵衛の2人である。2人は江戸の吉原遊郭を模範とし、それに劣らぬものを造ろうとしている。
 その間に仮設遊郭としての駒形遊郭が出来る過程が書かれているが、それは本格的な遊郭としての港崎の建設が遅れているためである。この事情は先にみてきたのである。そして港崎遊郭完成後、駒形からそこへすべての機能が引越す。
 最後のところに大切なことが書かれている。完成した港崎遊郭の名主役に佐七が任命されていること。佐七は港崎で岩亀楼という娼楼を経営するのであるが、名実ともにこの佐七と岩亀楼が港崎の中心的存在になる。つまり外国人遊郭がこの岩亀楼を中心にして、その元締めのような形で運営されてゆく。また、外国人がそこで働く娼妓(遊女)を個人的に妾にしようとする時は岩亀楼の許可を取らなくてはならない。また、外国人遊郭が出来てからだんだんと横浜や東京(江戸)の一般女性のあいだに外国人の妾(自由恋愛ではなくて金銭での契約)になる者が多くなるのであるが、その場合でも、その女性は形の上で一度岩亀楼の娼妓になったことにし「遊女名義トシ」(源氏名をもって)てから外人のところへ行く。「其余ハ密売トス」は、岩亀楼の名義をもたない者は外人の妾になることを禁ずるという意味である。
 岩亀楼の佐七が絶大なる権利を把握していることがわかる。同時にそのことは、港崎遊郭(外国人遊郭として)~の性格はっきりと規定されたことを意味する。


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 そしてここで重視すべきは、そこには確実に、幕府の政策・外交のために利用された女性がいることだ。それが港崎遊郭の外国人遊郭(港崎には日本人遊郭も併設されるが、建設の目的からすると、これは付属施設だ)で働く女性「らしゃめん」だ。この「らしゃめん」がどのように集められるかは次の章でみてゆく。一般的に外国人への親しみがなく、しかも攘夷論が根深い世相で、外国人遊郭へくる女性はほとんどいなかったのであるそれは外国人向けの仮設遊郭である駒形遊郭でもその片鱗をみた。しかもそこはまだ仮設だった。本格的な遊郭としての娼妓は、基本的に江戸の吉原、品川の遊郭から送るよていだった。ところがその娼妓が集まらなかった。
 
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 …証言者は佐七の子孫である。
(1)港崎遊郭の建設  幕府は開港場の重要な構成部分として、港崎遊郭(今の横浜公園)の建設をすすめた。このときの事情は、品川宿の旅籠屋で後に港崎町名主、遊女屋岩亀楼の経営者となった佐七の子孫が言っているように「徳川氏ガ市街新計ノ好手段トシテ遊女屋建設ヲ極力勧遊シ、之ニ由テ土地埋立ヲ速成セシメントシテ、連日吏員ヲ派遣シテ工事ヲ督シ、或ハ罰シ、其成功ニ汲々」としていた。「其表コソ佐吉等ノ願ヒニ依テ免許ヲ受ケタル事業ノ如クナルモ、其裏面ヲ窺ヘバ、所謂御用事業ニシテ、勧誘、奨励、褒賞 讉責 強制等ノ種々手段ヲ尽シテ成功セシメタル事業」であった。この御用事業で「他ノ同志ガ遂ニ此強制ニ耐ヘズシテ、或ハ除名ヲ被ムリ然ラザルモ資金支出差控ヘ 漸ク其事業ヲ抛棄シ」たのに最後まで事業を継続し、完成させた佐吉が幕府からこの遊郭での特権的地位を与えられた。


3 娼妓と攘夷論 ── 略

4 らしゃめんへの偏見 

 さていよいよ港崎遊郭の開設当時の様子を見てみよう。建設工事完成は1860年4月だった。それから女性を集め、外国人、日本人両遊郭とも5月5日の開設を定め、準備をすすめた。ところが、5月5日になっても、日本人遊郭には女性がいるのに、外国人遊郭にはほとんど女性がいなかった。
 その原因を知るために喜遊をはじめ、社会的・政治的状況を見てきたのである。そのことからして攘夷論者の影響があったことは否定できない。こうした情況を見たうえで、港崎遊郭、ことに外国人遊郭をとりまく女性の動きを見ておこう。

 ・・・以下略

5 被差別部落から集めた

 開設日を延期して女性を集めようとするのだったが、特別良策はなかった。幕府としては条約との関係で各国と約束していることであり、焦りに焦って港崎の佐七へ矢の催促を行ったという。佐七たち港崎の関係業者も困りはて、各地の遊郭に使いを走らせ、金銭的な優遇をもちだして交渉するのだったが、各地でもやはり攘夷論的気風が強くて応じる者はほとんどいなかった。この時期の様子を『幕末開港綿洋娘情史』(前掲書)が非常にうまく表現していると思うので引用してみよう。

 内地人相手の遊郭は揃ふた、吉原や、品川から住み替へた娼妓もあつたが、素人娘の頗る美しいのが抱えられ、妖艶婀娜で本場の江戸吉原を圧せんばかりの勢ひであつた。これに引きかへ、異人相手の娼妓は前記の次第で、4月まで1人も得られなかつた。佐吉も久作も遊女でさへ斯くまで、攘夷の思想に滲透してゐるのをわれながら、びっくり胆をつぶしたのであつた。さればとて素人の婦女を色物しても駄目である。元来港崎吉原は異人を歓迎するのが主であつて、5月5日が開業の予定になつて居ても、異人客を迎ふる事が出来ぬ以上は、一時延期のほかない。そこで5日の開業式を延期したわけであるが、娼妓問題が前途暗澹の有様であるから、何時開業の運びとなるものか遊廓一同唯々当惑の雲に閉ざされてゐたのであつた。


 ・・・

 この文章で言う「内地人相手の遊女」とは、日本人遊廓の女性であるが、この中に、2ヶ月後自害した喜遊(説得されたが、外国人肌を許すのは最大の屈辱と考え自害した遊女)がいたのである。この日本人遊廓は江戸の吉原を圧倒せんばかりの賑わいであったという。反対に外国人遊廓の女性は1人もいないというから、その対比は目に見えるようだ。港崎遊廓は本来外国人相手にするのが主なる目的だったことも書いている。だから日本人遊廓だけを開設するわけにいかず、一緒に開設を延期したままいつ開設するかわからない状態なのだ。『横浜市史稿』(前掲書)は歴史書らしくもう少し細かいことを書いている。

 始めらしゃめん女郎抱え入れに際し、当時夷狄視した外国人に関係する事を前提としたらしゃめん女郎に、好んで我から身を投ずるやうな女子は無論皆無であつた。対外関係上、幕府の要求も頻りであり、且つ横浜へ遊廓設置の一つの条件としてのらしゃめん女郎でもあるので、廓としては此重責もありて、此抱え入れには少なからぬ努力を払つたものである。厚顔無恥の宿場女郎を稼ぐ少数の女達以外には、納得する女は無かつた。そこで各地の遊廓に人を派し、利を以て喰はすの手段を取つたりして、僅に要求に応じて居た。果ては遠く長崎地方に求めて、多少異国味に馴れた遊女や、其他の女達を抱へ入れんとしたとも云はれが、結果は良好ではなく、何れも要求数に満たぬ有様であつた。

 ・・・

 私が横浜の屠畜場史を調べた直後の1985年には『近世神奈川の被差別部落』(荒井貢次郎・藤野豊編・明石書店)が出ている。この中に、荒井・藤野・かわむら善次郎による座談会があり、そこで藤野が「らしゃめん」に触れている。それより少し前に原田伴彦も何かの本に「らしゃめん」が被差別部落から集められたことを書いていた。しかし、その記述は、史料などはあげてなくてごく簡単なものでだった。
 藤野が語っている部分もそう詳しくはないが。が、原史料が存在するかどうかわからないが、彼がよりどころとしたある程度史料的根拠が紹介されている。だからまず藤野が語っていることをここに紹介する。私はこれも手がかりにして、あらためて10年前に読んだ本を探すことになる。


 近世の身分制が、そのまま近代の身分制につながるかというと必ずしもそうではないんですね。特に神奈川の場合には、やっぱり横浜開港というのがたいへん大きな影響を与えているんじゃないかと考えるんですね。このことについては亡くなった斎藤保好さんが「横浜における『部落』の歴史」(神奈川県歴史教育者協議会編『神奈川の近現代史資料集』1973年)という短いものをお書きになってまして、その中で横浜開港と部落の関係について論述されているんですが、その中で、開港によって遊廓が造られたこと、屠場が作られたこと、開港場の警備、つまり攘夷派の志士から外国人を警備することになったことというような3つの点をあげられてます。特に第3番目の開港場の警備のために横浜近郊の部落、当時の穢多、非人を動員したということについては、これは小松修さんの論文や、この本に所収はしなかったんですけれども、横山伊徳さんの、「横浜十里四方遊歩問題と改革組合村」(『日本近世史論叢』下巻、1984年、吉川弘文館)という論文で論じられているわけです。
 それを参照して戴くといたしまして、それ以外の問題としましては、今言った遊廓の問題ですね。これは斎藤さんの論によれば、現在横浜スタジアムがあります、昔は港崎遊廓と言われていた遊廓だったわけですが、その港崎遊廓を幕府が幕末に建設すると、そのとき、部落出身の女性をですね、遊廓に集めてきたということが史料的にあるわけです。それから1865(慶応元)年には、居留地の外国人のための屠場を作るというので横浜の港のそばに屠場を作る。そのときやはり部落から屠場の労働者を集めていると言われているんです。


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 ところで、本当にこの時、被差別部落の女性が集められたのだろうか。
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 …『横浜市史稿』(前掲書)の「第7章 第2節らしゃめん」の項の中の「15 らしゃめんの変遷」にその関係が書かれている。…

 そこで各地の遊廓に人を派し、利を以て喰はすの手段を取つたりして、僅に要求に応じて居た。果ては遠く長崎地方に求めて、多少異国味に馴れた遊女や、其他の女達を抱へ入れんとしたとも云はれるが、結果は良好ではなく、何れも要求数に満たぬ有様であつたから、特種(ママ)部落出の遊女又は婦女に目を著け、其方面の応募者を相当多く拉し来つたやうである。而してらしゃめん女郎は次第に此種部落出のものに依つて形造られた型となつて来た。彼等は横浜と云ふ土地の状況に多少とも理解を有するものが多かつた関係から、横浜界隈若くは武・相2州の細民階級のものが多数を占めたと云ふ事である。


 ・・・以下略


 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。

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