-NO312~315
-----------関東大震災 朝鮮人虐殺に関わる流言蜚語の真相---------

 関東大震災直後、政府は内務省警保局長名で、下記船橋送信所関係文書(資料2)にあるような電文を各地方長官宛てに打電した。そして、それを受けるように、埼玉県は各市町村に自警団の組織化を促す通達(資料3)を発した。それらが、朝鮮人に関わる流言蜚語を日本全国に伝搬させ、自警団員による朝鮮人虐殺を随所で発生させる導火線となったことは疑いない。

 しかしながら一方で、9月1日内務省警保局は「人心に不安をあたえるごとき報道」は自粛するよう懇談書をだし、9月3日に「朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝に亘る事極めて多く非常の災害に依り人心昂奮の際如斯虚説の伝搬は徒に社会不安を増大するものなるを以て朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざる様御配慮相煩度尚今後如上の記事あるに於ては発売頒布を禁止せらるゝ趣に候条御注意相成度」という警告書を出して、言論統制に踏み切った。以後、新聞各社は官製資料をもらって記事にしたという。「正確なる事実を民衆に知らしめんが為毎日2回(午前10時・午後1時)検閲係に於て新聞記事材料を発表する事と為し即日之を各社に告示する」という方針に基づいたのである。その記事差し止めが解除されるのは、同年10月20日である。その間、船橋送信所から発せられた電文のような流言蜚語や、下記に見られるような新聞報道(資料4)の流言蜚語は、否定されることなく放置に近い状態だったようである。そこに民衆蜂起を恐れた官憲側関係者の作為が読み取れるという。

 考えてみれば、震災後の人心不安の中で、なぜ自然災害ではなく、「不逞鮮人の来襲」などというような流言蜚語が全国的に発生したのか不可解である。さらには、何故朝鮮人と社会主義者を結びつけるような流言蜚語が発生したのか。やはり、それらが一般民衆のなかから発生することは考えにくい。また、下記「流言状況」の中にも、作為を感じさせるものある。さらに、「流言者の検挙取締」の文書は発せられたが、それが現実に進められた気配がないことも気になるところである。「…流言はいづくまでも流言にして、事実の補足すべきものなかりし…」というのである。

 「信濃川水力発電所虐殺事件」以降、朝鮮人の労働運動と日本人の労働運動や社会主義者の運動等が、その結びつきを深めつつあった時期であることを踏まえれば、米騒動や三・一運動、五・四運動等を経験し、民衆蜂起を恐れていた官憲側の意図が透けて見えるのではないか、というわけである。下記は全て「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(みすず書房)からの抜粋である。

資料1------------------------------------------------

                      3 警視庁及び各警察署管内における流言状況
1 警視庁
 一、概 記 (略)
  
 二、流言の発生
 流言蜚語の、初めて管内に流布せられしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、最も甚だしく、その種類も亦多様なり。
 今本庁及び各署にて偵察聞知せる、流言蜚語の大要を、日時を逐ふて列挙すれば左の如し。
  (A)9月1日午後1時頃
 「富士山に大爆発ありて今尚噴火中なり」
 「東京湾沿岸に猛烈なる大海嘯来襲して人畜の死傷多かるべし」
 「更に大地震の来襲あるべし」
     同日午後3時頃 
 「社会主義者及び鮮人の放火多し」
  (B)2日午前10時頃
 「不逞鮮人の来襲あるべし」
 「昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものなり」
 「鮮人中の暴徒某神社に潜伏せり」
 「従来官憲の圧迫に不満を抱ける大本教は、其教書中に於て今回の大火災を予言せしが、今や其実現せられしを機として、
 密謀を企て、教徒数千名上京の途にあり。」
     同日午後2時頃 
 「市ヶ谷刑務所の解放囚人は、山の手及び郡部に潜在し、夜に入るを待ちて放火するの企てあり。」
 「鮮人約200名、神奈川県寺尾山方面の部落に於て、殺傷、掠奪、放火等を恣にし、漸次東京方面に来襲しつつあり」
 「鮮人約3000名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲し、今や住民と闘争中なり」

     同日2時5分頃
 「横浜の大火は、概ね鮮人の放火に原因せり、彼等は団結して到る所に掠奪を行ひ、婦女子を辱しめ、残存建物を焼毀せん
 とするなど、暴虐甚しきを以て、全市の青年団、在郷軍人団等は、県警察部と協力して、之が防止に努力せり」(横浜方面よ
 りの避難者の流言)
 「横浜方面に於ける鮮人の集団は、数十名乃至数百名にして、漸次上京の途に就けるを以て、神奈川、川崎、鶴見、各町村
 に於ては、全力を挙げて警戒を厳にせり」(横浜方面よりの避難者の流言)
 「横浜方面より来襲せる鮮人の数は、約2000名にして、鉄砲、刀剣等を携帯し、既に六郷の鉄橋を渡れり」
 「軍隊は六郷河畔に機関銃を備へて、鮮人の入京を遮断せんとし、在郷軍人、青年団員等亦出動して軍隊に応援せり」
 「横浜方面より東京に向へる鮮人は、六郷河畔に於て軍隊の阻止する所となりしより、転じて矢口方面に向へり」
     同日午後3時40分頃
 「高田町、雑司ヶ谷なる○○○○は、向原○○○○方へ放火せしむとし現場に於て民衆の逮捕する所となれり」

     同日午後4時頃
 「大塚火薬庫襲撃の目的を有する鮮人は、今や将に其附近に密集せんとす」
 「鮮人、原町田に来襲して、青年団と闘争中なり」
 「原町田を襲へる鮮人200名は、更に相原、片倉の両村を侵し、農家を掠め、婦女を殺害せり」
     同日午後4時30分頃
 「鮮人200~300名横浜方面より神奈川県の溝ノ口に入りて放火せる後、多摩川、二子の渡を越え、多摩河原に進撃
 中なり」
 「鮮人、目黒火薬庫を襲へり」
 「鮮人、鶴見方面に於て婦女を殺害せり」
     同日午後5時頃
 「鮮人百十余名、寺島署管内四ツ木橋附近に集り、海嘯来ると連呼しつゝ戎兇器を揮ひて暴行を為し、或は放火を敢て
 するものあり」
     同日午後5時30分頃
 「戸塚方面より多数民衆に追跡せられたる鮮人某は、大塚電車終点附近の井水に毒薬を投入せり」
     同日午後6時頃
 「鮮人等は予てより、或機会に乗じて、暴動を起すの計画ありしが、震火災の突発に鑑み、予定の行動を変じ、夙に其
 用意せる爆弾及び毒薬を流用して、帝都の全滅を期せんとす、井水を飲み、菓子を食するは危険なり」
 「上野精養軒前の、井水の変色せるは毒薬の為なり、上野公園下の井水にも異状あり、上野博物館の池水も亦変色し
 て金魚悉く死せり」
 「上野広小路松坂屋前へ爆弾2個を投じたる鮮人2名を逮捕せしが、其所持せる2枚の紙幣は、社会主義者より得たる
 ものなり」

 「上野駅の焼失は、鮮人2名が麦酒瓶に容れたる石油を注ぎて放火せる結果なり」
 「鮮人約200名、品川署管内仙台坂に襲来し、白刃を翳して掠奪を行ひ、自警団と闘争中なり」
 「鮮人約200名中野署管内雑色方面より代々幡に進撃中なり」
 「代々木上原方面に於て鮮人約60名、暴動を為しつゝあり」
     同日午後7時
 「鮮人数百名、亀戸署管内に闖入し暴行を為しつゝあり」
 「鮮人40名、八王子署管内七生村より大和田橋に来襲し、青年団と闘争中にて銃声頻りに聞ゆ」
   (C) 3日午前1時
 「鮮人約200名、本所向島方面より、大日本紡績株式会社及び隅田駅を襲撃せり」
       同日午前4時頃
 「鮮人数百名、本郷湯島方面より上野公園に来襲の状あるを以て、速に谷中方面に避難せよ、荷物等は持ち去るの要なし、
 後日富豪より分配する様取計ふべし」

       同日午前10時 
 「兵士約30名、鮮人暴動鎮圧の為、月島に赴きたり」
   (D) 4日午後30分頃
 「鮮人、警察署より解放せられたれば、速に之を捕へて殺戮すべし」
       同日午後6時30分頃
 「鮮人市内の井戸に毒薬を投入せり」
       同日午後9時頃
 「青年団員が取押へて、警察署に同行せる鮮人は、即時釈放せられたり」
 「上野公園及び焼残地域内には、警察官に変装せる鮮人あれば注意すべし」

資料2-------------------------------------------------
                          2 船橋送信所関係文書

○呉鎮副官宛打電  9月3日午前8時15分了解
  各 地 方 長 官 宛                   内務省警保局長 出
 東京附近の震災を利用し、朝鮮人は、各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火をせんとするものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳格なる取締を加へられたし。

○呉鎮副官宛   9月3日午後10時10分了解
  山 口 県 知 事 宛                   内務省警保局長 出
 東京附近震災を利用し、内地在留鮮人は不逞の行動を敢てせんとし、現に東京市内に於ては放火をなし、爆弾を投擲せんとし、頻に活動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、貴府に於ては内地渡来鮮人に付ては厳密なる視察を加へ、苟も容疑者たる以上は内地上陸を阻止し、殊に上海より渡来する仮装鮮人に付ては充分御警戒を加へられ、適宜の措置を採られ度。


○9月2日午後8時20分      船橋 発電
騎20名、7時半警戒の任につきつつあり、附近鮮人不穏の噂。

○9月2日午後8時28分
  海 軍 大 臣 宛 横 鎮 長 官 発
 本日午前11時横浜着警備艇の状況報告左の如し。
一、1日午前11時58分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海
   と化し、死傷数知れず。
二、(下略)

○9月3日午後4時30分
  船橋発電
 船橋送信所襲撃の虞あり至急応援頼む、騎兵1ヶ小隊応援に来る筈なるも未だらず。

○9月4日午前8時10分  同10時電
 本所爆撃の目的を以て襲来せる不逞団接近騎兵2(20ならん)青年団、消防隊にて警戒中の右の兵員にては到底防禦不可
能に付約150歩兵急派方取計ひ度当方面の陸軍には右以上出兵の余力なし。


資料3------------------------------------------------
                          10 流言の流布と自警団

  埼玉県通達文
 東京における震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微弱であるから町村当局者は在郷軍人分会、消防手、青年団員と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速かに適当の方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也。
                                      (福岡日々新聞 大正12・10・19)

資料4------------------------------------------------
                         11 全国主要地方紙流言記事

           4
  約三千人の不逞鮮人
     大森方面より東京へ
 (別紙)3日午後5時迄大森方面に約3千人の不逞鮮人横浜より東京に入り込み隊伍を組んで東京方面に向ひたりとの情報伝はりたるより歩兵一個小隊を出したるが同小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始されたるも一個小隊の総勢小勢なりしを以つて敵し難く全滅の恐れあるを以つて急を大崎方面警戒中の麻布三連隊に告げたるより同隊は歩兵一個中隊を自動車にて派遣したるがその後の報道詳ならず一説には鮮人の数は400人と称せらる(新潟経由東京電話)

  放火、強盗、強姦、掠奪
     驚くべき不逞鮮人暴行
 (3日午後1時土浦発)2日より上野附近にて不逞鮮人多数強盗強姦掠奪凄じく附近の井戸に毒を放ち各所に放火しつつあり日暮里に向ひ入京者を襲ふ為め人々は見つけ次第討殺しつつあり入京危険なり東京附近は今飢餓状態のため徴発令発せられん。

  爆弾と毒薬を有持する
     不逞鮮人の大集団
        2日夜暗にまぎれて市内に侵入
           警備隊を組織して掃蕩中
 不逞鮮人多数入り込み井戸に毒薬を投じて石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば住民は直に警備隊を組織して久堅町、大塚仲町養育院前等において約十数名の鮮人を引捕へ一々厳重なる身体検査をなして官憲の手にこれを引渡し或は昂憤したる警備隊自ら適当の膺懲を加へ専ら放火の厄を免れんと努力しつゝあるを発見したり因に警備隊は日本刀棍棒等の各武器を携へ相言葉を使用不逞鮮人を発見するや呼子の笛を以て警備隊員を召集しこれを逮捕する等その行動極めて敏活を極めつゝあり右方面には騎兵砲兵等乗馬にて出動し警戒怠りなく前日来の奮闘に困憊し居るを以つて宇都宮66聯隊高崎15の両聯隊の応援を求めている(宇都宮経由東京電話)
                                         (河北新報 大正12・9・4)

            9
  不逞鮮人凶暴を極め
     飲食物に毒薬や石油を注ぐ
        彼等は罐詰に似た爆弾を所持しつつあり
           警備隊は日本刀棍棒鉄棒等の武器を携帯
                (4日午前7時宇都宮経由)

  不逞鮮人の背後に主義者
          暴動言語に絶し風上に
            石油を注いで火を放つ

  鮮人十数名をを銃殺
     執れも爆弾の携帯者
         (3日午後10時40分函館運輸事務所着電)

 2日夜東京駅附近にて朝鮮人数十名警備隊の為せらる鮮人は爆弾携帯者ならん。   
                                     (北海道タイムス 大正12・9・5) 
    
            10
  不逞鮮人の陰謀に
     御盛典を期す
        携帯短銃は露国式
                 (5日午前11時宇都宮経由)
 鮮人の陰謀は今秋行はるる御盛典当時行ふ事に着々進めたるもものらしく然るに今回の変災に乗じ遽かに之を行ひたるものらしく彼等の携帯せるピストルは露国方面より手に入れたらしく爆弾は未だ不明而して彼等の系統は重に上海朝鮮より入り込みたるものならんと此の大体の目星附きたる為当局が之が捜査をなしつつありて各駅にて取り押さえたるもの多し

  鮮人の暗号が判明したと全市に
     伝えられ警戒の度は益々厳重になつたが
 丸にAの印は爆弾を投げる箇所
 ヤの字は暗殺強盗
 カの字は井戸に毒薬を投入
 菱形は放火だと云はれ夫々チョークで鮮人連が目標をするもので芝公園では避難民に対し貴重な水を呉れる者があつたが夫には硫酸が混入され其為死亡したものがあつた……

 殊に不逞鮮人の跋扈は言語道断で火災の半数以上は不逞鮮人の爆弾に遣られたのは事実である松阪屋前では手に爆弾を所持して居る鮮人が縛されて居たのを見受け帝大附近は火災に遣られたのより寧ろ爆弾に遣られたのが多い夫丈鮮人に対する市民の反感は頗る猛烈を極め鮮人と見ると一人も容赦せぬ気勢をみせ衝突は随所に行はれ浅草では鮮人一味が避難民の荷物を掠奪して行はれた者が多い2日夜は50人程の一隊が襲撃したが約20人程捕はれ鈴ヶ森には1500人の不逞鮮人が陣取つて居る附近の住民は在郷軍人警官等協力して警戒は物凄いと云はれて居るが真偽は判明せぬ。

  鮮人の陰謀は全国に亘る
     罹災の群衆は激昂して切捨御免の有様
 不逞鮮人の暴動はなかなか組織的根拠があるらしい本月2日朝鮮独立運動に関する大会を開催し御盛典の日に事を起す予定で既に横浜東京に参集して居つたが1日の変に遭会して幸ひとして活動を開始したのである。
 2日新宿に於て鮮人が巡査を殺して其被服帯劔を奪つて着用し自動車を操縦し群衆の間を馳駆して居たのもありました運転手を拳銃で脅迫し活動して居たものがあつたが皆群衆に捉へられ撲殺されて了つた。


 彼等はまた千住の陸軍製絨所深川の被服廠の一部に爆弾を匿蔵して置き之を運ばんとする処を発見した市内各所に爆音が聞え火の手の意外に早く広がつたのは彼等の所為と分つた小石川砲兵工廠の爆発も彼等の行為であつたされば民衆は激昂し今は鮮人と見れば切捨御免の状態である。

 彼等は巧みに変装して邦人間に混じ各方面に向はんとして居るが4日川口でも4人の鮮人が捕つた一人は殺され他は半殺しにされたが其一人の所持せる宣伝ビラでD上述の陰謀が判つた訳で尚ほ山形県赤湯に爆弾数百個及兇器が匿蔵して居ると自白したので直に憲兵は同道実地調査に向つた彼等の陰謀は各全国に亘り朝鮮人参其他行商人等間には脈絡相通じて居る筈で油断がならない。

  不逞鮮人を利根川にて銃殺
     死体今尚岸辺に横はる
 6日宇都宮特派員
 鮮人の警戒一層厳重となりたる為彼等は市中を逃出し遁走せんとした各所の警戒厳重の為殆んど捕へられ若しくは銃殺された然も4日の事8名の鮮人が在郷軍人青年団消防組の追撃を受け身体谷まり利根川にザンブとばかり飛込み泳いで逃げんとせし折丁度架橋中の工兵隊が之を見て直に銃殺した聞けば此地で約百名銃殺されたとのこと5日午後2時死体は未だ岸辺にあつた。
                                    (北海道タイムス 大正12年・9・6)


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「従軍慰安婦」国際法律家委員会(ICJ)の結論--------------

 国際法律家委員会(ICJ)は、世界における法の支配の確立や世界人権宣言の規定の完全な遵守を追及する世界三大NGO(非政府間国際組織)の一つであるという。世界の30人の著名な法律家によって構成され、国連経済社会理事会などと協議資格を有するとともに、75カ国に支部と加盟団体を持っており、日本では自由人権協会が加盟団体であるという。そのICJが、1993年4月から5ヶ月かけてフィリピン、日本、韓国、朝鮮民主主義共和国で、のべ40人以上の証言者からの聞き取りを行い、また、資料を収集し、報告書をまとめたのである。最終報告書をまとめるまでに1年以上を要したという。下記は、その最終報告書(10章からなる)の「結論と勧告」の結論部分である。ICJの法的判断には、世界の法曹界から深い信頼が寄せられてきたということを考えると、早急な日本の決断が望まれる。『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』国際法律家委員会(ICJ)著:自由人権協会(JCLU)・日本の戦争責任資料センター訳(明石書店)からの抜粋である。

 しかしながら、日本政府がそれに応えなかっただけではなく、逆に自民・民主両党の国会議員やジャーナリストらが、2007年6月24日「従軍慰安婦」の「強制連行はなかった」と主張する意見広告を米ワシントン・ポスト紙に出した。それは結果的に、2007年7月31日、アメリカ合衆国下院121号決議の採択をもたらすことになった。「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達の問題は、残虐性と規模において前例のない20世紀最大規模の人身売買のひとつである」と断定し、「日本軍が強制的に若い女性を”慰安婦”と呼ばれる性の奴隷にした事実を、明確な態度で公式に認めて謝罪し、歴史的な責任を負わなければならない」というのである。また、「現世代と未来世代を対象に、こうした残酷な犯罪について、教育をしなければならない」とも要求している。

 その後、アメリカにとどまらず、オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議、オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議、カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議などが続き、フィリピン下院外交委、韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択をし、さらに、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択したという。サンフランシスコ講和条約締結国が、次々に日本のみを対象とする決議を出すに至ったということである。

 それらの決議に対応しないため、2011年12月14日午前、ソウルの日本大使館前の路上に、韓国が主張する従軍慰安婦問題を連想させる少女のブロンズ像が設置された。ブロンズ像を設置したのは、韓国の民間団体「挺対協」(韓国挺身隊問題対策協議会)である。同会は元慰安婦への賠償と謝罪を求め、大使館前で毎週水曜日に集会を開いており、14日に集会が1000回となるのを記念し、寄付を募って制作したという。日本は1965年の日韓国交正常化の際、元慰安婦の賠償請求権問題は解決したとの立場をとり、「女性のためのアジア平和国民基金」という財団法人を設立して償いの事業を展開したが、受け入れられてはいないのである。かつて日本が、42対1で国際連盟を脱退したことを思い起こさずにはいられない。一日も早く、ICJの法的判断に従うべきではないか、と思うのである。
 少なくても、誠意をもってすべての関係者の聞き取りをしたり、指摘されている軍や警察の公文書の徹底した調査をすることなく、限られた一部の人の証言や都合のよい文書によって、「従軍慰安婦」の「強制連行はなかった」とすることは、許されないのではないか、ということである。
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                                 結論と勧告
結論

1 
 日本帝国陸海軍は、第二次世界大戦前と同大戦中に日本帝国陸海軍の「享楽」と専用のために、広範な慰安施設網の設立を開始した。日本軍部は、その部隊がどこに駐留しようとも、部隊用の慰安施設を作るよう計画し、かつ実行した。中国、朝鮮、台湾、フィリピン、マレーシア、インドネシアそしてオランダ人女性と少女たちがこれら慰安施設に入れられ、脅迫の下に性的サービスをさせられた。


 これら女性たちの連行は、最初は私人によって行われたところでも、日本軍部自身によって行われるようになった。日本軍部はあっせん業者を任命、彼らに軍事施設への特別な通行許可証を与えた。軍(憲兵隊)と地域警察は、これら女性や少女たちが「自発的に申し出た」かのようにするため、業者に積極的支援を与えた。
 これら女性たちが日本軍部に性的サービスを提供するよう、強制、欺罔、脅迫、誘拐されたことは議論の余地がない。


 慰安施設の設立、利用、運営、監督のための詳細な規則が日本軍部によって作られた。これらの規則は、細部にわたり、その結果、女性たちは単なる商品へとおとしめられた。


 これらの施設における生活は、女性たちにとって生ける地獄だった。女性たちは、2週間から8年間の期間にわたり、日々、日中は15、20、あるいは30人の兵士たちに、夜間は将校たちによって強姦され続けたうえに、殴打され、拷問を加えられた。生活状態は、閉鎖的でみすぼらしかった。前線から前線へと部隊につき従わされた者たちの生活は、日々、危険にさらされていた。食料は常に乏しく、量も少なかった。軍医による検診も、時に行われたが、女性の多くは性病にかかった。慰安施設に入れられた時、彼女たちは心身健康な処女だった。慰安施設を出た時、彼女たちは身体は病気に冒され、精神的にも癒しがたい傷を負っていた。



 日本軍部に支配された全地域において、交通輸送は厳しく統制されていたため、軍部は何千人もの朝鮮人女性が朝鮮の中で、さらに朝鮮半島から中国、ビルマ、フィリピン、南太平洋そして琉球諸島(沖縄)の各地へ輸送されたことを承知していたことは明白である。客船による移動が手配された時でも、移動は軍当局の許可を必要とした。彼女たちの多くは、実際には、軍用の船舶、列車、自動車に乗せられて移動させられたとの事実を証人たちは証言した。これら交通手段は、日本政府の統括下にあったことから、日本政府は、女性の移送(trafficking)に責任がある。


 1942年以降、日本は、フィリピンを占領し統治した。フィリピン女性が誘拐され、強制的に軍事施設に拘禁されたことは明白である。フィリピンにおいて、フィリピン女性が誘拐され、慰安施設に入れられていたことを軍当局が承知していたことを示す十分な証拠がある。


 ICJが入手した文書の中には、前線の将校が東京の司令官に彼らの地域へ慰安婦を徴集、移送するよう求めた特別の要請書も含まれている。同文書はまた、軍部高官たちが、慰安施設の存在を認識していたことを明白に示している。日本は、戦争を行っており、軍部に支配された地域、特に軍事施設は、厳しい治安規則下にあったことから、それ以外のことはありえなかった。



 証人の証言から、日本の兵士が敗戦を実感した際、いくつかの慰安施設にいた女性を殺害しようとしたことも明らかになった。


 これら女性の監禁は、きわめて悲劇的な結末をもたらしたのであるが、戦争の終結と共に、これらの女性の苦渋は終わらなかった。逃亡する日本軍兵士に捨て去られた後、数々の語ることのできないほどの困難に直面し、何人かの女性は帰郷したものの、その後の生活は、人目を避ける孤独なものでしかなかった。幾多の人権侵害を蒙った被害者の女性たちが、かえってその代価を支払うという試練を受けるのが普通だったのである。

10
 10万から20万の女性が慰安婦にさせられたという歴史家の推定は、アジア太平洋地域一帯に駐留した多数の日本軍の数と符合している。こうした残虐行為が行われたその規模の大きさは、まさにぞっとさせられるほどのものである。当時はその社会においても、女性は平等に扱われてはいなかったが、これほど大規模かつ長期間にわたって、これほどまでに侮辱されたことはかつてなかった。

11
 身を削るような貧しい環境や、社会的枠組みによって、これらの少女や女性たちは、暴力、詐欺、ペテン、強制そして誘拐に対してきわめて無力な存在になっていた。フィリピン人の場合には、女性たちは、日本軍の残虐行為と理不尽で乱暴な振る舞いによって、二重の犠牲を強いられ、相当数の女性たちは、ゲリラの成員あるいはそのシンパの疑いで逮捕され、拷問を受けた後、慰安婦として軍事施設に監禁された。その他には、身内の人びとが拷問されたり、殺害されるのを強制的に見せられた女性たちもいた。


12
 日本政府が、何人かの女性について「自発的に」慰安施設に行くと合意したことを証拠づけ得たとしても、彼女たちは、どういう境遇に入っていくのか想像さえもできていなかったであろう。さらに戦後に軍部が彼女たちを殺したり、殺そうとしたり、置き去りにすると知っていた女性は、皆無だった。

13
 当時の日本政府は、これら女性の身の上に起こったすべてにつき、直接的に、あるいは代位的に責任があった。その行為は、戦争犯罪、人道に対する罪、奴隷および婦人と児童の売買に関する国際法の慣習規範に違反した。これらの行為は、戦後に行われた(戦犯)裁判の一部として裁かれるべきだった。残念なことに、これらの裁判の焦点は、連合国国民に対して行われた行為に置かれた。日本は今、完全に責任を取り、被害者とその家族に適切な原状回復を行うべきである。

14
 日本政府によってなされた調査は、不十分であり、問題の解決に焦点を当てるよりも、いろいろな感情の沈静化をはかろうとする計算によるもののように思われる。日本は、より一層の完全な調査を行わなければばらない。


15
 日本政府による調査に関しては、できる限り多くの文書を発掘するとこも重要だが、証人の聞き取り調査を行うことも等しく重要である。日本軍の元将校は生存しており、この問題に関して彼らの聞き取り調査を行うべきである。

16
 政府が入手できる文書のすべてを公開しているかどうかについて日本国内で疑問が提出された。終戦に当たり、数多くの文書が焼却されたり、他の方法によって処分されたためゆえ、書類により完全な全体像が浮かび上がることはあり得ないと言われてきた。こう言ったからといって、われわれは、日本政府がこの問題に関連するすべての記録を捜す義務を軽減すると言っているのではない。朝鮮半島からの女性の「募集」に関連して、警察の資料が存在していない、と信じることは難しい。警察は、しばしば、特定地域から集められるべき女性の数に関して指令を受けており、これらの資料すべてが破棄されたと信じるのは、また困難である。警察庁は、労働省を除いて、唯一、この問題に関する資料がファイルされていないとする官庁である。これが、正確な宣言だとは信じられない。


17
 さらに、将兵の日記が発掘されるよう一層の努力がなされるべきである。こうした資料が公開された場合には、慰安施設の設立、運営を証拠によって明確にするのに有益だった実績がある。存在しているあらゆる日記がどこにあるかを探すべく、日本政府はさらに一層の努力をすべきである。

18
 連合国は、加害者を裁判にかけたり、犠牲者に補償を支払わせるようにするために何もしなかった。これら諸国は、このことについて説明する義務があり、またこの問題に関し、その持っている資料を公開する義務を果たすべきである。

19
 1965年の日韓協定も、1956年日比賠償条約も日本に対する女性たちの請求を妨害するものではない。前者は、人権被害に関する請求を包含すると意図されたものではないし、現に包含しもしなかった。後者も、国家にもたらされた破壊に関し、フィリピンの「人民」への賠償のためのものだった。個々人への補償問題は、交渉で提起されておらず、よれゆえ、同条約は、この問題を解決しようと意図されたものではなかったし、解決したとも解釈されてはならない。

20
 これまでに名乗り出た女性の個々のケースを判定するため、なんらかの機構を早急に設立すべきである。犠牲者の年齢を考慮すれば、彼女たちに対してなされた人権侵害の救済手段として、日本の裁判は十分ではない。

21
 第二次世界大戦の終結に際し、慰安婦の取扱いに関し、日本の責任を問う試みがなされなかったことから、国際社会、特に連合国のメンバーは、彼女たちに、人権と基本的自由の被害者の原状回復、補償およびリハビリテーションへの権利に関する研究のための特別報告者であるテオ・ファン・ボーベン教授の報告書が言うように、十分なリハビリテーションのための措置と完全な原状回復を与えるよう日本政府に圧力をかける義務を負っている。犠牲者の多くは、友人や親族の情けに頼って何とか生き延びてきた。彼女たちは、労働を求められる年齢を超えている。何人かは、ただ生きるためだけに、多額の借財をし、負債を抱えている。多くの者は、常に医療とケアを必要としている。それゆえ、彼女たちへのリハビリテーションは、十分な住居、医療補助と、適切な生活水準を保障するものでなければならない。長年無視されてきた年月を考慮すれば、4万米ドルを、暫定補償金としてただちに支払うことは十分に正当な理由のあることである。


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「従軍慰安婦」 政府・軍関係資料 NO1 ---------------

下記は、「従軍慰安婦」の問題に関わる政府や軍の文書である。「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)中から、いくつか抜粋した(ただし、様式を変更したり、読点を加えたり、空行を挿入したりしている。また、括弧内の半角片仮名は読み仮名である。一部省略もしている)。

 資料1は、「従軍慰安婦」に対する陸軍省の関与を示す重要文書である。吉見義明教授によると、この文書の公表によって政府見解が変わることになったという。

 資料2ー1も陸軍省から陸軍各部隊に送られた文書の一部である。日本軍が慰安所の設置に関与した理由がわかる。「志気の振興、軍紀の維持、犯罪及性病の予防等に影響する所大なるを思わざるべからず」というわけである。そのほかに、将兵が地元の売春宿に通うと、地元の売春婦を通じて軍事上の機密が漏れるおそれがあり、軍の機密保持・スパイ防止などの側面でも、軍慰安所が必要だったということが、資料2ー2の陣中日誌でわかる。強姦防止、性病予防、とともに「防諜」目的も重視されていたのである。
 
 資料3は、東南アジア各地に展開した陸軍部隊を指揮する南方軍司令部が、慰安婦50名をボルネオ島に派遣してほしいと要請したのを受けて、台湾軍が陸軍大臣に許可を求めて出した電報と「副官ヨリ台湾軍参謀長宛」の返電である。台湾軍は後に、「慰安婦20名増派」の許可を求める内容の電報も発しているが、すべて
「秘」と記されており、下記のような内容の暗号電報だったということである。

 資料4は、慰安婦や関係者などの渡航が、外務省ではなく、陸軍中央が管理することになったことがわかる電報のやり取りである。台湾総督府蜂谷外事部長の問い合わせと、問い合わせに対する東郷外務大臣名の返電である(返電の括弧内は、軍を刺激すると判断されたためか抹消された、という部分である)。

 資料5は、日本内地から海外に慰安婦を送る場合の制限に関する文書である。日本内地からの場合は、国際条約を意識していたことがわかる。

 資料6は、領事館が関与しない「陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所」があり、「陸海軍ノ直接経営監督スルモノ」の存在をしめす文書である。
 
資料1------------------------------------------------
 陸軍省兵務局兵務課起案
                                     1938年3月4日   起元庁(課名)兵務課
                      軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件

                 副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案

 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来
是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。

資料2ー1---------------------------------------------
陸密第1995号
                  教育指導参考資料送付ノ件関係陸軍部隊ヘ通牒
 昭和15年9月19日                                    陸軍省副官 川原直一
           「支那事変ノ経験ヨリ観(ミ)タル軍紀振作対策」教育指導ノ参考トシテ送付ス

                    支那事変ノ経験ヨリ観(ミ)タル軍紀振作対策

 第二  主トシテ事変地ニ於テ著意スヘキ事項

1、皇軍ノ本質並ニ今次聖戦ノ意義ヲ的確ニ把握シ其ノ行動ヲシテ之ニ即応セシムヲ要ス
事変勃発以来ノ実情ニ徴スルニ赫々(カクカク)タル武勲ノ反面ニ掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍タルノ本質ニ反スル幾多ノ犯行ヲ生ジ為ニ聖戦ニ対スル内外ノ嫌悪反感ヲ招来シ、聖戦目的ノ達成ヲ困難ナラシメアルハ遺憾トスル所ナリ、宜シク皇軍ノ本質並ニ今次聖戦ノ目的ハ抗日、排日、容共政権、及其ノ軍隊ヲ打倒シ、東洋永遠ノ平和ヲ確立シ、新秩序ノ建設ニ寄与スルニ在リ、決シテ一般民衆ヲ敵トスルモノニ非サル所以ヲ、一兵ニ至ルマテ徹底セシメ、行動ヲシテ即応セシムルコト肝要ナリ

2、事変地ニ於ケル軍紀ノ実相、特ニ犯罪非行ノ特色ヲ把握シ、其ノ因テ来ル所ヲ究メ指導取締上ノ要点ヲ逸セサル如ク留意スルヲ要ス

3、戦闘行動直後ニ於ケル軍紀風紀ニ関スル指導取締ニ就キ格別ナル留意ヲ必要トス
犯罪非行生起ノ状況ヲ観察スルニ、戦闘行動直後ニ多発スルヲ認ム、是戦闘間ニ於ケル殺伐タル心情ノ余派ヲ受ケアリト思料セラルヲ以テ、戦闘行動直後ノ指導取締ニハ特別ナル留意ヲ必要トス 

4、事変地ニ於テモ万難ヲ排シテ教育訓練ヲ励行スルヲ要ス
今次事変ニ於ケル部隊ノ編成、素質及ビ戦場ノ諸相ヨリ考フルニ「且教ヘ且戦フ」ハ最モ必要トスル所ニシテ、之ニ依リテ将兵ヲシテ常ニ軍紀ヲ厳正ニシ志気ヲ振起シ団結ヲ強化シ戦力ヲ発揮スルコトヲ得ヘシ、特ニ戦場ノ機微ノ間ニ実施セル精神教育ハ、深キ感銘ヲ与ヘ、発奮興起ノ基トナルハ想像外ニシテ、平時ニ於テ見ラレサル所ナリ、而シテ戦地ニ於テ最モ困難トスルハ資料ノ乏シキニアリ、特ニ現下軍隊下級幹部ノ精神教育能力ニ鑑ミ、之カ資料ヲ作成配布スルノ著意ヲ必要トス
又戦地ニ於ケル起居ハ不規則ニ亘リ易キヲ以テ、機会ヲ求メテ軍紀訓練ヲ実施スルハ価値大ナルモノアルヘシ
尚従来犯行者取調ノ結果ニ徴スルニ、陸軍刑法、同懲罰令ニ関スル必要事項ノ教育不十分ナルタメ不知ノ間ニ犯罪非行ヲナセルモノ寡カラサルヲ以テ、苟モ此等教育ノ不徹底ニ基キ勲功アル部下ヲシテ犯罪者タル汚名ヲ蒙ラシムルコトナキヲ要ス


5 事変地ニ於テハ特ニ環境ヲ整理シ、慰安施設ニ関シ周到ナル考慮ヲ払ヒ、殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意スルヲ要ス。環境ガ軍人ノ心理延イテハ軍紀ノ振作ニ影響アルハ贅言ヲ要セサル所ナリ、故ニ兵営(宿舎)ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス特ニ性的慰安所ヨリ受クル兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻ニシテ、之ガ指導監督ノ適否ハ、志気ノ振興、軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防等ニ影響スル所大ナルヲ思ハザルベカラス

 第三 以下略

資料2-2----------------------------------------------
                               陣中日誌
独立自動車第42大隊第1中隊 7月6日
 8、17,00左の軍会報受領ス
 (2) 軍会報

 風紀ノ粛正並ニ防諜及悪疾予防ノ為自今軍ニ於テ設置シタル特殊慰安所以外特ニ私娼窟等ニ於テ特殊慰安ヲ求ムル事ヲ禁ス


資料3-----------------------------------------------
   南方派遣渡航者ニ関スル件                         起元庁(課名) 台湾軍

秘  電報訳              3月12日 
  台電 第602号
 陸密電第63号ニ関シ
「ボルネオ」行キ慰安土人50名、為シ得ル限リ派遣方、南方総軍ヨリ要求セルヲ以テ、陸密電第623号ニ基キ、憲兵調査選定セル左記経営者3名ヲ渡航認可アリ度(タク)、申請ス。
                      左記
 愛媛県越知郡 ─── 台北州基隆市日新町2ノ6 ── 42歳
 朝鮮全羅南道済州道 ─── 台北州基隆市義重町4ノ15 ─── 35歳
 高知県長岡郡 ─── 高雄州潮州郡潮州267 ─── 51歳


 
返電
  副官ヨリ台湾軍参謀長宛

 陸亜密電

 3月12日付
 台電602号ノ件認可セラル依
                    陸亜密電188 昭和17年3月26日

秘  電報訳
 副官宛
                            発信者 台湾軍参謀長
 台電935号

 本年3月台電第602号申請陸亜密電第188号認可ニ依ル「ポルネオ」ニ派遣セル特種慰安婦50名ニ関スル現地着後ノ実況人員不足シ、稼業ニ堪ヘザル者等ヲ生ズル為尚20名増加ノ要アリトシ左記引率岡部隊発給ノ呼寄認可証ヲ携行帰台セリ、事実上止ムヲ得ザルモノト認メラルルニ付、慰安婦20名増派諒承相成度
 尚将来此ノ種少数ノ補充交代増員等必要ヲ生ズル場合ニハ右ノ如ク適宜処理シ度予メ諒承アリ度

                         
左記
  台北州基隆市日新町2ノ6 ──



資料4-----------------------------------------------
秘    昭和17   964  略  台北  1月10日後発  本省10日後着
 東郷外務大臣                                    蜂谷外事部長
 第10号
              南洋方面占領地ニ於ケル慰安所開設ニ関スル件
 南洋方面占領地ニ於テ軍側ノ要求ニ依リ慰安所開設ノ為渡航セントスル者(従事者ヲ含ム)ノ取扱振リニ関シ 何分ノ御指示相煩度シ(了)

返電                  昭和17年1月14日午後5時35分発
 台湾総督府蜂谷外事部長                            外務大臣

          南洋方面占領地ニ対シ慰安婦渡航ノ件


 此の種渡航者ニ対テハ、(旅券ヲ発給スルコトハ面白カラザルニ付)軍ノ証明書ニ依リ(軍用船ニテ渡航セシメラレ度シ

資料5------------------------------------------------- 

 内務省発警第5号
 秘  昭和13年2月23日
                                                    内務省警保局長
 各庁府県長官宛(除東京府知事)                         

                      支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件

 最近支那各地ニ於ケル秩序ノ恢復ニ伴ヒ、渡航者著シク増加シツツアルモ、是等の中ニハ同地ニ於ケル料理店、飲食店ニ類似ノ営業者ト聯繋ヲ有シ、是等営業ニ従事スルコトヲ目的トスル婦女寡ナカラザルモノアリ、更ニ亦内地ニ於テ是等婦女ノ募集周旋ヲ為ス者ニシテ、恰モ軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄スル者モ最近各地ニ頻出シツツアル状況ニ在リ、婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ、実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルルモ、是等婦女ノ募集周旋等ノ取締リニシテ、適正ヲ欠カンカ帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フノミニ止マラズ、銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フルト共ニ、婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キヲ保シ難キヲ以テ、旁々現地ノ実情其ノ他各般ノ事情ヲ考慮シ爾今之ガ取扱ニ関シテハ左記各号ニ準拠スルコトト致度依命此段及通牒候

1、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ……外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト

3、醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女ハ、必ズ本人自ラ警察署ニ出頭シ、身分証明ノ発給ヲ申請スルコト

7、前号ノ目的ヲ以テ渡航スル婦女ノ募集周旋等ニ際シテ、広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重(ニ)之ヲ取締ルコト、又之ガ募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ、正規ノ許可又ハ在外公館等ノ発行スル証明書等ヲ有セズ、身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト

 
資料6-------------------------------------------------
                各種営業許可及び取締りに関する三省合同協議会議決事項
 
 昭和13年4月16日、南京総領事館ニ於テ陸海外三省関係者会同在留邦人ノ各種営業許可及取締ニ関シ、協議会ヲ開催シ、各項ニ付キ左ノ通リ決定セリ(南京警察署沿革誌ニ依ル)


                      記
1 期日   昭和13年4月16日午前10時開始 午後5時終了

2 出席者  陸軍側  兵站司令官千田大佐、第3師団参謀栗栖中佐、第3師団
               軍医部高原軍医中佐、南京特務機関大西少佐、南京憲
               兵隊小山中佐、 同堀川大尉、同北原中尉
         海軍側  海軍武官中原大佐、嵯峨艦長上野中佐
         領事館側 花輪総領事、田中領事、清水警察署長、佐々木警部補

3 議決事項

(6)軍以外ニモ利用セラルル酒保慰安所ノ問題
 陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所ハ、陸海軍ノ直接経営監督スルモノナルニ付、領事館ハ干与セザルベキモ一般ニ利用セラルル所謂酒保及慰安所ニ就テハ此限リニアラズ、此ノ場合業者ニ対スル一般ノ取締リハ領事館其ノ衝ニ当リ、之ニ出入スル軍人軍属ニ対スル取締リハ憲兵隊ニ於テ処理スルモノトス 尚憲兵隊ハ必要ノ場合随時臨検其ノ他ノ取締ヲ為スコトアルベシ

 要スルニ軍憲領事館ハ協力シテ軍及居留民ノ保健衛生ト、業者ノ健全ナル発展ヲ期セントスルモノナリ

 将来兵站部ノ指導ニ依リ所設セラルベキ軍専属ノ特殊慰安所ハ憲兵隊ノ取締ル処ニシテ、既設ノ慰安所ニ対シテハ兵站部ニ於テ一般居留民利便ヲモ考慮ニ入レ、其ノ一部ヲ特種慰安所ニ編入整理スルコトアルベシ

 右ハ追テ各機関協議ノ上決定スルモノトス


 軍専属ノ酒保及特種慰安所ヲ 陸海共(ママ)ニ於テ許可シタル場合ハ、領事館ノ事務処理ニ便タル為、当該軍憲ヨリ随時其ノ業態、営業者ノ本籍、住所氏名、年齢、出生、死亡其ノ他身分上ノ異動ヲ領事館ニ通報スルモノトス

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「従軍慰安婦」 関係資料 NO2-----------------

下記も、「従軍慰安婦」の問題に関わる重要文書である.。ただし、一部様式を変更したり、読点を加えたり、空行を挿入したりしている。また、括弧内の片仮名は読み仮名である。一部省略した部分もある。

 資料1は、陸軍病院付の精神科医師、早尾乕雄軍医中尉が、1939年軍軍医部と軍法務部の委嘱による成果を「戦場に於ける特殊現象と其対策」という論文にまとめたが、その中の「性欲と強姦」という部分である。軍医の眼を通してみた日本の軍人の実態が綴られている 。「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)中から抜粋した。

 資料2は「特秘」とされた警視庁の文書である。「資料 日本現代史2 敗戦直後の政治と社会(1)」粟屋憲太郎編集(大月書店)からの抜粋である。吉見義明教授によると、日本に上陸した連合国軍の関係者が、個別に慰安所の設置や慰安施設の割り振りについて要求したことはあったようであるが、日本側はその前に、資料にあるように、連合国軍兵士による「婦女子ニ対スル暴行凌辱」を恐れ、「大規模ナル慰安娯楽施設(特ニ接待婦)」ノ確立の要望を受けて、着々と準備を進めたのである。
 具体的には、橋本政実内務省警保局長から各府県知事宛に「外国軍駐屯地に於ける慰安施設について」という通牒が出され、連合国軍用慰安所が設置されていったということである。そして、営業に必要な婦女子は「芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に」あてるなどと指示されていたという。戦地で慰安所設置を主導したのは軍であったが、連合国軍用慰安所設置については、時の政府(内務省)が主導したといえるようである。
 東京ではいくつかの団体が、「当局の内命を受け」特殊慰安施設協会を設立し、動いたようであるが、1946年3月25日、アメリカ第8軍司令部が、軍将兵の「公娼、私娼、密淫売等凡そ売娼行為の行われる家」への立ち入りを禁止する布告を出したため、慰安所はなくなっていったという。

資料1---------------------------------------------
秘  
         「戦場ニ於ケル特殊現象ト其ノ対策」 国府台陸軍病院付 早尾乕雄軍医中尉

 17、性欲ト強姦

 出征者ニ対シテ性欲ヲ長ク抑制セシメルコトハ、自然ニ支那婦人ニ対シテ暴行スルコトトナロウト兵站(ヘイタン)ハ気ヲキカセ、中支ニモ早速ニ慰安所ヲ開設シタ、其ノ主要ナル目的ハ、性ノ満足ニヨリ将兵ノ気分ヲ和(ヤワラ)ゲ、皇軍ノ威厳ヲ傷ツケル強姦ヲ防グノニアツタ、慰安所ノ急設ハ確カニ其ノ目的ノ一部ハ達セラレタ、然シアノ多数ノ将兵ニ対シテ、慰安所ノ女ノ数ハ問題ニナラヌ、上海ヤ南京ナドニハ慰安所以外ニ其ノ道ハ開ケテルカラ慰安所ノ不足シタ地方ヘ、或ハ前線ヘト送リ出サレルノデアツタガ、ソレデモ地方的ニハ強姦ノ数ハ相当ニアリ、亦前線ニモ是ヲ多ク見ル、是ハ尚女ノ供給不足シテルコトニ因ルハ勿論ノコトダガ、ヤハリ留学生ガ西洋女ニ興味ヲ持ツト同様デ、支那女トイフ所ニ好奇心ガ湧クト共ニ内地デハ到底許サレヌコトガ、敵ノ女ダカラ自由ニナルトイフ考ヘガ、非常ニ働イテ居ルタメニ、支那娘ヲ見タラ憑(ツ)カレタ様ニヒキツケラレテ行ク、従ツテ検挙サレタ者コソ不幸ナンデ、蔭ニハドレ程アルカ解ラヌト思フ

憲兵ノ活躍ノナカツタ頃デ、而(シカ)モ支那兵ヨリ荒サレズ殆ンド抵抗モナク、日本兵ノ通過ニマカセタ市町村アタリハ、支那人モ逃ゲズニ多ク居ツタカラ相当ニ被害ガアツタトイフ、加之(シカノミナラズ)部隊長ハ兵ノ元気ヲツクルニ却ツテ必要トシ、見テ知ラヌ振リニ過シタノサエアツタ位デアル、然(シカ)ルガ故ニ支那土民ハ日本兵ヲ見ルト娘ハ何処カヘ隠サレテ了ウ、上海ニ残留シタ日本人ハ、支那人、西洋人ノ前ニ日本ノ軍人ハ非常ニ礼節ヲ重ンズルカラ支那婦人ヲ冒スナンテ事ハ断ジテナイト、予(アラカジ)メ吹聴シタモノダツタ、然ルニ事実ハ是ニ相違シタノデ、支那良民ノ日本兵ヲ怖ルルコト甚シク、若イ女ハ悉ク隠サレテ影モナイ様ニナツタト言ハレル……(以下6行略)

勝利者ナルガ故ニ金銀財宝ノ略奪ハ言フニ及バズ、敵国婦女子ノ身体迄(マデ)汚ストハ、誠ニ文明人ノナスベキ行為トハ考エラレナイ、東洋ノ礼節ノ国ヲ誇ル国民トシテ慚愧(ザンキ)ニタエヌ事デアル、昔和倭ハ上海ニ上陸シ南京ニ至ル迄、此ノ様ナ暴挙ニ出タ為メニ、非常ニ野蛮人トシテ卑メラレ嫌ハレタトイフガ、今ニ於テモ尚同ジ事ガ繰リ返サルルトハ、何トシタ恥辱デアロウ、憲兵ノ活躍ハ是ヲ一掃セントシ皇軍ノ名誉恢復ニ努力シツツアルコトハ感謝ニタヘヌ次ニ強姦事件ノ実例列挙スル

(一)或ル兵ハ兵站病院ヲ退院、原隊へ復帰ノ途次飲酒酩酊ノ上所属隊宿舎ノ附近ノ支那家屋ヘ侵入シ同家2階ニ居合セタ支那婦女(当21歳)ヲ強姦シタ
(二)二人(A・B)ノ兵ハ他ノ一人(C)ヲ誘ヒテ外出シタ、Aハ支那婦人(当20年)ヲ見ルト劣情ヲ起シ強姦ヲ志シCヲシテ同女ヲ附近ノ空家ヘ連レ行カシメ、Cヲシテ所携ノ小銃ヲ一発発射セシメ、更ニ着剱ノ上剱先ヲ同女ニ突付ケテ脅迫セシメ同女ガ恐怖スルヲ見ルト、附近ノ民家内ヘ引キ入レ強姦シタ、BハAノ目的ヲ達シタノヲ知ルト、Aノ立チ出タ後ヘ入リ込ンデ同女ヲ強姦シタ
(三)或ル兵ハ、或ル支那民家ヘ立チ寄ルト同家ノ娘(当16年)ガ兵ヲ見テ怖レ逃ゲ去ラウトスルト、是ヲ捕ヘテ強姦シタバカリデナク翌日モ到ツテ再ビ強姦シタ

(四)~(十)略

 以上述ベタ様ナ例ハ尚沢山ニ挙ゲル事ガ出来ル、強姦ヲヤツテモ容易ニ発覚シナイダロウト考ヘルコトハ大変ナ誤デコンナニ知レ易イ事柄ハナイノデアルト法務局当局ハ兵達ヲ戒メテ居ツタガ全ク其ノ通リデアル
 日本ノ軍人ハ何故ニ此ノ様ニ性欲ノ上ニ理性ガ保テナイカト、私ハ大陸上陸ト共ニ直(タダ)チニ痛嘆シ、戦場生活一ヶ年ヲ通ジテ終始痛感シタ、然シ、軍当局ハ敢(アエ)テ是ヲ不思議トセズ、更ニ此ノ方面ニ対スル訓戒ハ耳ニシタ事ガナイ、而モ軍経営ノ慰安所ヲ旺(サカ)ンニ設ケテ、軍人ノ為ニ賤業婦ヲ提供シタ、ソシテ娼婦カラ性病ヲ軍人間ニ蔓延セシメタ、
ソシテ遂ニ其レノミヲ収容スル兵站病院ヲ作ル必要ヲ生ジタ、尚性病アル間ハ帰還ヲ停止シタ、兵ニノミカク厳ニシナガラ将校間ニ却ツテ性病ガ多カツタ、若イ将校ドコロカ、上長官ノ間ニモ患者ハアリ、軍医ニ秘密治療ヲ受ケテ居ル、性病ヲ支那人カラ得ヌ様ニ慰安所ヲ設ケ内地、内鮮人ヲ娼妓トシテ使用シナガラ、皮肉ニモ彼女等ガ性病ヲ広ゲタ

軍当局ハ軍人ノ性欲ヲ抑エル事ハ不可能ダトシテ、支那婦人ヲ強姦セヌ様ニト慰安所ヲ設ケタ、然シ強姦ハ甚ダ旺(サカ)ンニ行ワレテ、支那良民ハ日本軍人ヲ見レバ必ズ是ヲ怖レタ将校ハ率先シテ慰安所ヘ行キ兵ニモ是ヲススメ、慰安所ハ公用ト定メラレタ。心アル兵ハ慰安所ノ内容ヲを知ツテ軍当局ヲ冷笑シテ居ツタ位デアル。然ルニ、慰安所ヘ行ケヌ位ノ兵ハ気違イダト罵(ノノシ)ツタ将校モアツタ
要之戦場生活ハ殺風景ダカラ気ガ荒クナル、是ヲ抑ヘル為ニハ兵ニ女ヲ抱カセルヨリ善イ策ハナイトシタノハ尤モデアル、然シ日本軍人ガ戦場ニ来テ、大キナ顔ヲシテ慰安所ヘ暇サヘアレバ通フ姿ヲ見テ、支那人ハ笑ツテ居ツタ、上海ヘ上陸シタ其ノ日ニ何処ヘ行ツタラ女ガ買ヘルカト在留邦人ニ聞クト言フノデ、日本ノ兵隊サンハ戦争ニ来タノヂャナイノカト反問シテイルノヲ聞イタ
(・・・以下9行略)

資料2-----------------------------------------------
特秘
  昭和20年8月20日                                     (警視庁)

                 当面ノ問題ニ対スル庶民層ノ動向(第1報)

 大詔渙発(タイショウカンパツ)ヲ契機ニ、都民ハ当面セル諸問題ヲ各種各様ニ拙摩憶測シ、一部ニ於テ楽観視スルモノアルノ外、何レモ極端ニ事態ノ急速悪化ヲ想像シ、人心ノ不安動揺ハ時ノ経過ニ随ヒ急角度ニ進展シ、悪質ナル流言蜚語漸次瀰漫(ビマン)ノ傾向ニアル状態ナルガ、之レニ関シ街ノ指導層、一般庶民層ノ要望ヲ聴取スルニ、異口同音最モ懸念シ居レルハ、
婦女子ニ対スル暴行凌辱云々ノ恐怖感ニシテ、次ニ食糧問題、産業戦士ノ帰趨問題等ナルガ、就中婦女子ニ関スル問題ハ深刻ヲ極メ、速ニ疎開ノ方針若ハ敵上陸兵ニ対スル完全且大規模ナル慰安娯楽施設(特ニ接待婦)ノ確立等ヲ要望スル者多キ状況ニ在ルガ、各個人ノ意嚮(イコウ)左ノ通リナリ。

                             記

     日本橋区茅場町 某工場長
 今迄政府ハ、米英人ハ野獣ダ、若シ負ケタラ国民特ニ婦女子ハドンナ辱カシメヲ受ケルカ解ラナイト宣伝シテ来テ、一億国民ハ此ノ事ヲ信ジ切ツテ居ル。
 之ガ為、各家庭
特ニ婦女子ヲ持ツ家庭ニ於テハ、不安ト恐怖ニ戦イテ居ル。ダカラ敵ガ上陸シテモ決シテ治安ハ乱サナイト言フ事ヲ明確ニ国民ニ指示シテ貰ヒタイト思フ。
 尚軍需管理官ハ、直グ民需産業ニ切換ヘル様指示ハサレタガ、而シ国家ハ差シ当リドンナ民需品ガ必要ナルカ、切換ヘルニシテモ之ニ対スル明確ナ指示ガナイノデ困ツテ居ル。


     日本橋区本町4丁目町会長
 敵ガ本土ニ上陸シテモ治安ノ方ハ絶対ニ大丈夫ダカラ、国民ハ安心シテ其ノ生業ニ邁進シ、敵ニ乗ゼラレヌ様ニト明確ニ国民ニ指示シテ貰ヒ度(タ)イ事ダ。
 
今婦女子ヲ持ツ家庭デハ、女ヲ田舎ニヤルトカ、又ハ二階カラ絶対ニ下サヌ様ニスルトカ、心配シ切ツテ早ク山奥ヘト話シテ居ル位ダ

     王子区工業統制会支部長(隣組長)
 敵ハ何時頃上陸シテ来ルカ全判カリマセンガ、恐ラク一週間位ノ間ニ来ルノデハナイカト思ハレマス。私等ハコノ問題ヲ注意シテ居リマスガ、一寸(チョット)モ之ノ方面ニ就テ指導ガナイノデ今後ノ方針モ立タズ、五里霧中デス。
婦女子丈ケデモ田舎ヘ帰ソウカト思ツテ居リマスガ、20~30万ノ兵隊ナラ大シタ事モ無カラウト思ヒマス。而シ敵ノヤル事デ否ト言ヘナイ丈ニ、例ヘ何ンナ事ニナラウトモ従ハネ
バナラヌデセウ。
 第1問題ニナルノハ食糧デセウ。今デサエ足リナイ足リナイデ皆豆ヲ食ベテ我慢シテ居ルノニ、此ノ上敵部隊ヲ賄(マカナ)フ事ニナレバ深刻ナ様相トナリ、生キテ居ル事ガ精一杯トイ云フ時代ニナルデセウ。
 今色々ノデマガ飛ンデ居ルガ、婦女子ハ益々心配シテ混乱ニ陥ル。之レヲ何トカ当局ガ対策ヲ講ジナケレバ収拾出来ナクナルノデハナイカ。此ノ辺ハ焼ケ残ツタ上、戦災者ガ沢山入オ込ンデ居ルノデ尚深刻デアル。


     目黒区某町会長・警防団副団長(元市議)
 町内デモ色々取沙汰サレテ、
婦女子等ガ外人ノ侵害ヲ受ケル事ヲ極度ニ怖レテ居ルガ、之等ノ点ニ付テハ当局ハ新聞ヤ「ラヂオ」又ハ区役所等ヲ通ジテ適切ナル御指示ヲ賜リ度イ(タマワリタイ)。其ノ外ハ大シタ変ツタ事モ有リマセンガ、「乾パン」米等ヲ急ニ配給シタノデ、或ハ配給ガ止ルノデハナイカ等ト憶測ヲ逞シクシテ騒グ者モ居ル様ダガ、之等ノ点モ何等カノ方法デ意ノアル所ヲ知ラシメル必要ガアルト思ヒマス。
 此ノ際ハ人心ノ安定ト云フ事ガ一番大切デ、軍隊ガ武装ヲ解カレタ後ニ治安ヲ保ツモノハ警察ノミデス。何卒(ナニトゾ)、国民ノ為ニ最大ノ御健闘ヲ御願ヒシマス。
 
 

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