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関東大震災 朝鮮人虐殺数 その実態----------------

 前回、田辺禎之助の「江東昔ばなし」(菁柿堂)から抜粋した文章に「…その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。…」とあった(「関東大震災 仏文学者 朝鮮人虐殺死体目撃の記述」)。ところが 「政府による事件調査」(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(下記資料1)では、「鮮人」と誤認して殺傷された「内地人」や「支那人」の死者を合わせても、東京全体で「65人」である。この数の違いはどういうことなのか。

 それは、「政府による事件調査 第4章 第4 犯罪事実個別的調査表」をみると見当がつく。資料1に2、3例を抜粋しておいたが、起訴された者の「犯人名」はすべて個人名であり、その「犯罪事実」は、自警団など民間人による殺害であることを物語っている。朝鮮人虐殺の主体は軍であったにもかかわらず「政府による事件調査」は、軍や警察によって虐殺された人数を含んでいない。「政府による事件調査」は、下記概説のように「昂奮したる民心は其良否を弁別せず順良にして何等非行なき者に対して害を加えたもの尠しとせざるは寔に遺憾とする所なり」と民間人による朝鮮人殺害のみを問題としている。下記資料2の「習志野騎兵連隊見習士官越中谷利一の朝鮮人虐殺回想談」は、そうした「政府による事件調査」の問題点を浮き彫りにしているものである。

 下記に抜粋した回想談の中には「…どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかつていたが、その中にまじつている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして、直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていつた。日本人避難民の中からは嵐のように湧きおこる万歳歓呼の声──国賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。」とあるのである。軍によって多数の朝鮮人が虐殺されたこと、また「犯罪行為に因り殺傷せられたるもの」でないことも明らかであるといえる。
 「日本平和論体系8 戦争に対する戦争」日本左翼文芸家総連合編・越中谷利一(日本図書センター)の中の「一兵卒の震災手記」には伏せ字が多いが、戒厳令下、ありもしない流言蜚語による鮮人襲来に対して、自警団や村民とも連絡を取り合い、主力部隊が水も洩らさぬ警戒配備について、逃げ惑う朝鮮人を銃撃した事実が記述されている。(下記資料2は、その内容の概略を江口渙氏がまとめたものである)。朝鮮人虐殺の主体は軍であった。したがって、「政府による事件調査」は、調査になっていないことになる。

 また、資料3の「朝鮮問題に関する協定 極秘」は、真実を隠蔽するための打合せが行われていたことを示しているといえる。伏せ字部分に何が書かれていたのかも、正確に知りたいところである。

 「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」には、「政府による事件調査」の他に、「人民による事件調査」としていくつか取り上げられている。その中の李鉄氏談「語り尽くせぬ当時の惨状」には、「我が同胞の被殺者数をも調べてみたが、それによると、6千余名も殺されてゐることがわかった、しかし、これは我々が調べた東京、横浜、埼玉、千葉などの一部だけの数字が斯うなんだから、若しこれに他の地方でやられた虐殺者やそれに負傷者数などを加へるとすればその数何万何千になるか見当もつかない」とある。

 また、朝鮮総督府警務局によって「不穏冊子」と指摘された「虐殺」と題する冊子の中には、調査員一同(代表金健)の調査結果として、10月20日付で、被殺者数3680余人としている。さらに、独立新聞社特派員調査報告には、身体未発見者数と死体発見同胞数を合わせ11月28日の日付で、累計6661人とある。吉野作造は朝鮮罹災同胞慰問班から得た情報として10月末現在2613人と「朝鮮人虐殺事件」に書いている。いずれにしても、日本の政府が朝鮮人の自由な調査を許さず、遺骨の引き取りさえ拒絶した状況では、虐殺数を正確に確定することは不可能に近いが、日本政府の調査報告、「死亡233」という数字をはるかに超えていることは間違いないといえる。

資料1「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」より-------------------------------
                           19 政府による事件調査

                   「罹災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書」
 第4章 鮮人を殺傷したる事犯

 第1 概  説

1、未曾有の変災に際会して人心安んぜざるの時に当り鮮人の不逞行為喧伝せられたるが為鮮人に対する一般民衆の反感を激発し或は自衛の意を以て或は報復の目的に出で或は国患を除くの所以と為し鮮人を殺傷するの事犯を頻出するに至れり被害者中固より不逞の徒あり非行を為したるが為殺害せらるるに至りたるものなしとせずと雖昂奮したる民心は其良否を弁別せず順良にして何等非行なき者に対して害を加えたもの尠しとせざるは寔に遺憾とする所なり。
2、被害鮮人の数は巷間伝ふる所甚だ大なるものありと雖犯罪行為に因り殺傷せられたるものにして明確に認め得べきものは別表に示すが如くその数300を超えず加害者は捜査の結果概ね之を明にすることを得たるを以て其の情軽くして処罰の必要なきものの外は之を起訴し其の数実に400に垂んとす。


 第2 罪名及被告人員表(11月15日現在) 略

 第3 被害人員表
(創傷数略)
   庁名    死亡
   東京    39
   横浜     2
   千葉    74
   浦和    94
   前橋    18
   宇都宮    6
   計     233
 
        
 第4 犯罪事実個別的調査表(表形式を変更)
  ○庁名(東京) 日時(9月2日午後10時) 場所(府下吾嬬町亀戸275)  犯人氏名(田中金義外1名) 
            被害者氏名(鮮人-氏名不詳) 罪名(殺人) (犯罪事実 棍棒又は 割木にて乱打し殺害す)
  ○庁名(東京) 日時(9月2日午後3時) 場所(府下同町大畑509道路) 犯人氏名(森田吉右衛門)
            被害者氏名(鮮人-氏名不詳) 罪名(殺人) (犯罪事実 路傍に呻吟し居るを木棒を以て殴打し殺害す)
   1行略
  ○庁名(東京) 日時(9月3日午後11時) 場所(府下巣鴨町宮下1522)犯人氏名(小松原鋼二) 
            被害者氏名(閔麟植)       罪名(殺人) (犯罪事実 独逸製12番猟銃を以て射殺す)

 第5章鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯(創傷数略)
   庁名    死亡
   東京    25
   横浜     4
   千葉    20
   浦和     1
   前橋     4
   宇都宮    2
   福島     1
   水戸     1
   計      58

 第6章 支那人を殺傷したる事犯(創傷数略)
   庁名    死亡
   東京     1
   横浜     2
   宇都宮
   計       3

  
資料2「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」より-------------------------------
  資料解説
                        7近衛・第1師団の行動
                        8近衛・第1両師団勲功具状

 震災時に於て近衛・第1両師団の行動をしることは極めて重要である。なぜなら虐殺の主体は軍隊であり、しかもおもに虐殺の行われた9月2日、3日に戒厳配置についたのはこの両師団だからである。
 ・・・
 次に当時見習士官であった越中谷利一氏の回想談を掲げてみよう。

「関東大震災のときに、東京を中心に出動した軍隊の総数がどのくらいだったかははっきりしていない。しかしいま記憶にある連隊の名だけでも、麻布一連隊、同三連隊、騎兵一連隊、世田谷輜重兵連隊、中野通信隊、習志野騎兵二ケ旅団、騎兵学校、四ツ街道砲兵連隊、佐倉歩兵五十七連隊、津田沼鉄道連隊、その他地方から一、二の連隊、工兵、憲兵等をかぞえることができる。とにかく、市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺は、たいてい戒厳令勤務に服したのであつた。そして、「敵は帝都にあり」というわけで実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかつたわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し前頃であつたろうか。とにかく恐ろしく急であつた。人馬の戦時武装を整えて、営門に整列するまでに、所要時間僅かに30分しか与えられなかつた。


 2日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるからさながら戦争気分!そして何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵をあげてぶつ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのが午後の2時頃だつたが、罹災民でハンランする洪水のようであつた。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやつた。将校は、抜剣して列車の内外を調べ回つた。どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかつていたが、その中にまじつている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして、直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていつた。日本人避難民の中からは嵐のように湧きおこる万歳歓呼の声──国賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。」
〔日本と朝鮮 1963年9月1日号〕


 同氏には(「ある一兵卒の震災手記」解放1927年9月号)という創作もあるが氏に言わせると、「僕の処女作となつた小説はこれらのことを忠実に描いたものである。その意味で関東大震災時に於ける朝鮮人虐殺についての『日本文学の証言』の一つとして取り上げられているようである」といつている。
 内容の概略は江口渙氏が次のようにまとめている。


 「ある晩大きな川(多摩川─編者のむこうで朝鮮人が暴動をおこしたというので出動命令が出る。一隊の騎兵が月夜の街のなかを馬をとばせて川のそばに行つてみるといつこうに敵はあらわれない。しばらくして霧のふかい川のなかを人がわたつてくる水音がきこえてまもなく人影があらわれる。そこで騎兵が一せいに発砲する。だが敵は何の抵抗もしない。ただ悲鳴とともに倒れるだけだ。そして生きのこつた『敵』もこつちの河原までようやくたどりつくと地に伏して無条件降伏する」

 というのである。これが越中谷氏の体験記である。戦時編成の軍隊が主力を結集して文字通りの戦陣を張つたとすれば集団的大虐殺が行われるのはあたりまえである。


資料3「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」---------------------------------
                          5 朝鮮人対策の推移
     3
   臨時震災救護事務局警備部打合せ
  大正12年9月5日午前10時決定事項
1、派出所及駐在所を復活し第2次検問所に当て自衛団に代わらしむること。
2、検問所は可成多数設置し警察官に依るの検問を実行し、必要あるときは軍隊の援助を仰ぐこと。
3、警察官及軍隊の警邏及巡察を充分なし、殊に軍隊に於ては喇叭を吹奏して軍力の充実を示すこと。
4、人民自衛団の取締を励行すること。
 イ、自衛団は警察及軍隊に於て適当に部署を定め総て之を其の指揮監督の下に確実に掌握すること。
 ロ、自衛団の行動は之を自家附近の盗難火災の警防等に限り通行人の推問、抑止其の他権力的行動は一切之を禁止し、
   勢に乗して徒らに軽挙盲動するが如きは厳に之を禁遏すること。
 ハ、自衛団の武器携帯は之を禁止し、危険無き場所に領置し置くこと。尚漸次棍棒その他兇器の携帯を禁止すること。
 ニ、自衛団を廃止せしむる様懇論し、可成急速に之を廃止せしめ便宜町内の火災盗難警戒の巡邏を許すに止むること。
5、鮮人の不穏行動に付きて殊更らに風説を為す者を厳重取締ること。
6、自衛団及一般民衆の武器、兇器の携帯を禁止し之を押収すること。


<参考>朝鮮問題に関する協定 極秘
                                                         警 備 部
 鮮人問題に関する協定
1、鮮人問題に関し外部に対する官憲の採るべき態度に付、9月5日関係各方面主任者事務局警備部に集合取敢へず
  左の打合を為したり。
 第1、内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相として宣伝に努め将来之を事実の真相と
    すること。
  従て、(イ)一般関係官憲にも事実の真相として此の趣旨を通達し、外部へ対しても此の態度を採らしめ、(ロ)新聞紙
  等に対して、調査の結果事実の真相として斯の如しと伝ふること。
左  記
   朝鮮人の暴行又は暴行せんとしたる事例は多少ありたるも、今日は全然危険なし、而して一般鮮人は皆極めて平穏
  順良なり。朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。
   皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対し故らに大なる迫害を加へたる事実なし。

 第2、朝鮮人の暴行又は暴行せんとしたる事実を極力捜査、肯定に努むること。
   尚、左記事項に努むること。
  イ、風説を徹底的に取調べ、之を事実として出来る限り肯定することに努むること。
  ロ、風説宣伝の根拠を充分に取調ぶること。

 第3、ゝゝゝゝゝ 
 第4、ゝゝゝゝゝ
 第5、ゝゝゝゝゝ
 第6、朝鮮人等にして、朝鮮、満州方面に悪宣伝を為すものは之を内地又は上陸地に於て適宜、確実阻止の方法を講ずる
    こと。
 第7、海外宣伝は特に赤化日本人及赤化朝鮮人が背後に暴行を扇動したる事実ありたることを宣伝するに努むること。

註、爾後鮮人問題に付各方面絶へず連絡を取り、協議を行ひ、応急の措置を進め居りたるが、尚今後の措置に付、9月16日
  別紙諸項に就き協議を遂げたり。 




----------関東大震災 中国人集団虐殺 中華新報と読売の社説----------

 関東大震災後、多数の朝鮮人が虐殺されたことはよく知られている。そして、そのとき朝鮮人と間違えられて殺された日本人も1人や2人ではなかった。政府による事件調査の「震災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書」(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」)では、第5章「鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯」に死亡58人とある。

 しかし、朝鮮人虐殺とはちょっと様子を異にした
中国人の集団虐殺があったことは余り知られていない。同調査書でも、軍や警察を主体とする中国人の集団虐殺には全く触れられておらず、第6章に「支那人を殺傷したる事犯」として死亡3人とあり、民間人による棍棒や槍による殺害行為が記載されているだけである。

 
「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」(青木書店)の著者「仁木ふみ子」は、日本側資料や中国側資料を徹底的に調べ上げ、重複を省き、たびたび中国の山奥のトイレのない村々にまで聞き取りに赴き、80数人の生存者や遺族から情報を得て確認し、その被害者総数が758名であるとしている(氏名不詳42名を含む)。死者は656名、行方不明(王希天を含む)11名。負傷 者91名。その負傷者も軽傷の2名を除いて、長くは生きられなかったというのである。

 著者は同書に「姓名、年齢、原籍、災前住所、被害時間、被害場所、加害情形、被害情形」等が記入された「
王兆澄調査 日本人惨殺華工の鉄証」や「駐日中国公使館 中華民国僑日被害者調査票」、「中国外交部調査 中華民国留日人民被害調査票」、「温州旅同郷会日人惨殺温州僑胞調査票」等を添付するとともに、1990年、著者自身の温州での現地調査によって判明した氏名を追加して、「中国人被害者名一覧」を載せている。多数の関係者の証言もあり、中国人集団虐殺の事実は否定しようがない。しかしながら、日本の政府は中国人虐殺の場合も、軍や警察による虐殺を完全に無視しているようである。

 集団虐殺の惨劇現場は、中国人労働者の宿舎が集中していた(60数軒あったという)大島町(8丁目や6丁目)で、その加害者は、軍や警察を主体とし、一部青年団や消防団などの民間人を含む日本人なのである。著者仁木ふみ子は、2年半その大島町に住んで、現場を歩いたという。そして「
この事件を追うことは、日本人および日本社会のもつ致命的欠陥を凝視することになるのだが、現代も全く変わっていたいのではないか」と投げかけているが、こうした事実が、隠蔽されたまま現在に至っているということに驚くとともに、こうした事実をなかったことにしてしまう歴史教育は許されないのではないかと思う。

 下記は、同書の中で取り上げられている「
中華新報の社説」と、「まぼろしの読売新聞社説」である。事件の概要と日本政府や軍及び警察の対応のあらましをつかむことができる。ただし、記事中の死亡者数はかなり少なく、その時点で把握できたおよその数であると思われる。(文中の読み仮名は、半角カタカナ括弧書きにした)
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                          V 事件の発覚と追及

 3 中国のマスコミと世論

『中華新報』の社説

 『中華新報』の社説の一節をかかげる。


 ……日本の震災の初めは大変な混乱で、警察力も不足し、青年団の暴行も烈しかった。中国の学生も非常な辱しめを受けた者がいる。しかし、中国人一般は、空前の変災中の事として深く理解し、これを責めるつもりはない。だが、200余人の華工が殺され、共済会長王希天が警察に捕らえられたまま行方不明であるとするならば、事は重大で不問に付するわけにはいかない。……日本の官庁が知らないわけはないし、知れば検挙しないわけにはいかないだろう。日本で未だにこのことが伝わらないのは、それが事実無根だからではなく、故意の隠蔽によるものである。……隠蔽は如何なる意図によるのか。……不可解である。共済会長王が捕らえられたのは、まぎれもない事実である。其人尚ありとするならば、どこに居るのか。すでに殺されたとするならば何の咎によるのか。……日本政府は即刻発表すべきである。

 ……たとえ、ことごとく自警団の暴行であったとしても、日本当局は責任を負わなくてはならない。しかも王氏の報告の表(王兆澄の調査表「日本人惨殺華工の鉄証」のことであろう)によれば、軍隊、警察の手によったものがかなりある。震災の戒厳は暴民を取り締まるにある。もし被害華工たちが、殺人、放火をしたという事がなければ、軍禁を犯したことにはならないはずである。何故これを殺したのか。

……日本の新聞の最近の記事では、震災中の無数の暴行がだんだん暴露されてきた。その中、日本官吏の最も不名誉なものは往々にして殺人の後、これを隠蔽している。憲兵甘粕がほしいままに大杉栄夫妻及その7歳の甥を殺してその死体をかくしたように。……又、亀戸地方で、労働党14人を殺して軍警また死体をかくし、その家人に告げなかったのも同様である。青年団の種々の残虐、軍警の合法非合法の種々の拷問をみると、華僑の被害もあり得ることだと思われる。しかも日本軍警の度重なる隠蔽をみれば、華僑事件の隠蔽もうなずけるのである。吾人は誠意を以て日本国民に訴える。日本文明の名誉のために、中国国民の感情のために、人道と法規のために、世論の力を以て、東京当局を鞭撻し、速やかにこの事件を発表し、法によって責任者を追及し、以て寃魂を慰め、公道を明らかにされんことを。日本国民の令名が少数暴力者のために汚されることのないことをこいねがうのである。(『中華新報』10・17)


 上海にはじまるこの一連の報道は、中国各地へ飛火して世論をまきおこし、外交部への対日交渉要求となった。

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                             4 日本のマスコミと探索

 まぼろしの読売新聞社説

 11月7日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、2面の社説と5面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。政府に強烈なインパクトを与えたといわれる「まぼろしの読売社説」は復原すると次のようである。

    支那人惨害事件
       1
 朝鮮人虐殺及びこれに伴うて我が日本人まで殺傷を被るものがあった事件は、大杉其他の暴殺事件と共に、日本民族の歴史に一大汚点を印すべきものであることは、繰返して此に言うまでもない。然るに朝鮮人以外に多数の支那人が同様の惨害を被っている事実があることは、それよりも大なる遺憾事である。しかもその事件の発生以後二ヶ月を経る今日まで我が政府は何らこれに関する事実をも将(ハ)たこれに対する態度をも明かにしていない。吾人はなるべく我が政府が自発的に行動をとらん事を希望して今日に至ったが、国民の立場として何時(イツ)までもこれを黙止するわけにはゆかぬ。


       2
 大地震の当時及びその以後、京浜地方に於て日本人のために惨害を被った支那人は、総数300人くらいにのぼるであろうとの事である。就中(ナカンヅク)最も著大に最も残虐な事実は、9月5日府下南葛飾郡大島町の支那人労働者合宿所において多数の支那人が何者かに鏖殺(オウサツ)され、また同月9日右支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天氏も亀戸署に留置された以後生死不明となったという事実である。これらの事実は主として支那人側、就中我が政府の保護を受けて上海に送還された被害者中の生存者から漏泄(ロウセツ)されたものである。したがってその内、どの点までが事実であるかはなお明確ではないが、とにかく多数の支那人が惨害を被って生死不明である事は事実である。


       3
 しかして右大島町の惨事は9月5日から9日前後までの間に起り、今日に至るまで既に2ヶ月を経過している。右の事実はこれを人道上、国際上より観(ミ)、就中我れと善隣の誼(ヨシ)みある支那との関係であるだけ、重大なる外交問題であることは言を俟(マ)たぬ所であるが退いてこれを我が国内における司法警察の眼より観ても、同様に否むしろそれ以上に重大なる内政問題である。しかるに右重大な事件が先ず相手国の支那において問題とせられるまで、我が内務及び司法の官憲は果してその知識を有していたか否かをも疑われ、乃至既に支那において問題とされた今日までなおその真相をも態度を明かにしていないという事実のあるのは実に一大失態である。

       4
 本事件は内政関係は鮮人事件、甘粕事件と同一の原則に依り、あくまで厳正なる司法権の発動を待ち、もって我が国内の法律秩序を維持回復する意義に於て最も重大である。同時にその外交関係はその事実を事実と認めて男らしくこれに面して立ち、出来得るだけ、自ら進んで真相を明らかにし、その犯行に対してはあくまで法の厳正なる適用を行い、もって内自らその罪責を糾正し、それによって、対支那政府と国民とに謝するの外はない。幸いにも支那政府国民は今回の惨害が天変地異と相伴うて起った不幸の出来事であるに対し、多少の寛仮(カンカ)と諒恕(リョウジョ)とをば有し、就中心ある者はこれによって震災以後折角(セッカク)湧起した両国の好感を根本から破壊することのないようにと考えてくれるものすらあるようである。


       5 
 吾人は本事件のため内外に向って困難の間に立たしめられた内務司法並びに外務の当局に対し十分にその苦心を諒とする。蓋(ケダ)しおよそ国民の中に起った事柄は先ずその国民自身が根本の責任を負うべきものであるからである。さりながら政府当局者としては、もちろんその当面の責任をば免れぬ。しかして本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。何となれば、これらの事件は、すべて戒厳令下に起った事柄であるからである。もし陸軍にして司法内務並びに外務の当局者と十分なる協調を保ち、共同の事件調査と共同の責任分担をなさざる限り、司法内務は行きづまりとなり、外務は立往生となる外あるまい。しからばその結果、最後の全責任は我が国民自身が直接にこれを負担せねばならぬことになる。故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する。
 ※ 文中9月5日とあるのは3日の誤植である。


 戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。前述した『中華新報』の情誼ををつくした社説に呼応するものであり、一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ。これは「要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜」と墨書されて、外務省外交史料館にひっそりとしまわれていたのであった。
 この文章を書いた小村俊三郎(1872-1933)は寿太郎のいとこ。外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日々など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者である。丸山伝太郎(松翠学寮主、中国人留学生をおく。北京滞在の経験をもつ牧師)らと共に王希天・大島町事件の探索をつづける。松井慶四郎外相に提出された現地報告書の記録「支那人被害の実状踏査記事」はかれの筆になるものである。

 
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信濃川水力発電所虐殺事件と関東大震災 朝鮮人虐殺事件------------

信濃川水力発電所虐殺事件」は、関東大震災前年の出来事である。「不逞者」宮崎学(角川春樹事務所)によると、この事件後、在日本朝鮮人労働者状況調査会が結成され、「在日同胞」が置かれている状態についての調査活動が始まったという。そして、その調査活動は、東京朝鮮労働同盟会や大阪朝鮮労働同盟会の結成へと発展していった。そうした朝鮮人労働者の労働環境改革のための組織的活動は、当然のことながら日本の労働運動や社会主義者の活動と関わりを深めていく。

 その展開が、米騒動や三・一運動、五・四運動等のような民衆蜂起つながることを、日本政府や官憲が恐れていたことは、いろいろな局面で認められる。例えば、「信濃川水力発電所虐殺事件」の調査は、朝鮮の諸団体から派遣された調査員や在京朝鮮人の代表調査員に東亜日報の特派員なども加わって実施されたが、警察や暴力団がいろいろな手を使って妨害したようである。したがって、調査は極めて難しかったという。その他の朝鮮人労働者の日常状況調査でさえ難しく、やむを得ず自ら現場労働者となって飯場を渡り歩き、調査にあたった人間もあったというほどである。
 また、下記の「信濃川虐殺事件問題大演説会」での弁士中止ヲ命ズ」や「…次ニ白武カ登壇スルヤ又々不穏ノ言動アリ同9時2分直ニ解散ヲ命セラレ同時ニ騒擾ノ言動アリ検束セラレタルモノ白武、富岡誓、元九碵、鄭在旭、沈洪局、李鎬林、李海炯、姜大見ノ8名ニシテ目下取調中ナルカ…」などの文面の中にも、何とか運動の広がりを押さえ込もうとする姿勢が認められる。

 さらに、関東大震災直後、政府自ら「主義者と不逞鮮人」を常套句として「放火・略奪・強姦・爆弾投擲・井戸への毒薬投入」などの恐怖を煽る流言蜚語の伝搬に一役買い、震災は自然災害であるにもかかわらず、違法・違令の戒厳令や徴発令を発令し、戦時武装を整えた軍隊を動員して多くの朝鮮人や中国人を虐殺するとともに、社会主義者や無政府主義者を次々に検挙し中心的人物を虐殺した理由も民衆蜂起を恐れてのことであろう。
 
 「信濃川水力発電所虐殺事件」などを切っ掛けとして、虐殺事件の背景にある,
監獄部屋」に閉じこめられた朝鮮人労働者の労働実態が明らかにされ、それを打破しようとする組織が結成され、さらに、その組織の活動が、日本の労働運動や社会主義者の運動と結びつき発展して大きなうねりとなり、民衆蜂起にいたることを、日本政府や官憲が恐れていたが故に、震災を利用し先手を打って、そうした運動を潰そうと計画的に虐殺におよんだのではないか、というわけである。

 下記の読売新聞の記事と「信濃川虐殺事件問題大演説会開催ノ件」という「朝鮮総督府警務局資料」は、そうしたことを物語る資料の一つであると思う。下記は、「朝鮮人強制連行の記録」朴慶植著(未来社)からの抜粋である。
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 資料

                         (1) 信濃川水力発電所虐殺事件

 読売新聞(大正11年7月29日)

    信濃川を頻々流れ下る
     鮮人の虐殺死体
     「北越の地獄谷」と呼ばれて、
       附近の村民恐ぢ気を顫ふ
        信越電力大工事中の怪聞

 〔新潟特電〕 信越電力株式会社では昨年から向う8カ年計画で信濃川の水力を利用して、遠く関東地方まで送電し、東洋第一の発電所とする空前の大工事をその水源の新潟県下に起したが最近
工事に使用されている鮮人の溺死体が下流各所に発見され次第に工夫虐待致死という奇怪至極の風聞を伝えられて来た。然も命知らずの工夫頭の多い事とてうっかり口を滑らすと直ぐ襲撃を受ける恐れがあるため附近の町村民は悉く秘密裡に葬り去っているがこの人道を無視した虐殺問題は今や「北越の地獄谷」として喧伝され、所轄十日町警察署では工事地である大割野巡査出張所を駐在所と変更して警官の増派方を請い徹底的取締りをなすべく現に県警察本部に申請中である。

    逃げ出すと嬲り殺し
     山中にも腐爛した死体が転がって居る

       ……目撃した人の話
 〔新潟特電〕 一目撃者は恐れおののきながら今の世にあり得ない次の物語をした「地獄谷というのは妻育秋成村大字穴藤という作業地でここには1200名の工夫がいて内600名は鮮人です。始め雇い入れる時は朝鮮からのは1人40円位前貸し1ヶ月69円の決めですが、山に入ったが最後規定の8時間労働どころか、朝は4時から夜の8、9時頃まで風呂にも入れず牛や馬のように追い使う、仕事といえば食事を除けば1分間も休まずにトロッコを押し、土掘り、岩石破壊から土木、材木かつぎまでやるのだから心臓は悪くなる。体は極端に弱る、堪えきれないから罷めたいといっても承知して呉れない。冬は雪国だから丈余の雪中に埋もれてピョウピョウ北風に身を切られ、夏は四方の山に風が遮られて、蒸し殺されるよう、そこへこの苛酷な労働です。始めとはまるで約束違いの待遇に夜に入って逃げ出そうとする者の多いのは何の無理がありましょう。私は逃げようとして捉えられたものをもう十何度となく見ています。中にもなまけものといわれている朝鮮人が多いのです。逃走者に対する処罰、それは両手を後に縛り上げて3、4人の見張り番──見張り番は一名決死隊と呼んで七首や短銃を懐にしている、──が杉の樹に吊し上げて棍棒で打つ、なぐる、この月の始めでしたか県下東頸城郡松の山の尾身某というのがやはりこの伝でやられた。3日間絶食させられ、3度気絶した、その後どうなったか。


 地獄谷の後に当たる苗場山か岩菅山に逃げたというのですが、まだ生死不明です。そして恐ろしい事にはよくこの山中で逃げ出した鮮人の腐爛した残死体が発見される。私の聞いた丈でも川の下流だけでさえ死因不明の鮮人7、8名の死体が漂着しています。恐らく働かぬといって虐められ、逃げ出したといっては前のように嬲り殺しにされたのではあるまいか。」

    身体に大石を結び着け断崖から
     此儘には済まされぬと官吏語る
 〔新潟特電〕 更に同郡の一官吏は「2、3日前4、5名の土方が下穴藤の高さ1450尺の断崖から1名の鮮人に石を結び付けて投げ込んだのを見た村民が来て内々知らせて呉れたので、もうこの儘には済まされない」と記者に単なる噂でない事を裏書したのも恐ろしい

 
 東亜日報(1922年8月1日) 

 東亜日報(1922年8月20日)


 朝鮮総督府警務局資料
  鮮高秘乙第623号 大正11年9月5日


    信濃川虐殺事件問題大演説会開催ノ件
 来ル7日神田区美土代町基督教青年会館ニ於テ首題演説会開催ニ関シ既報ノ処其後左記ノ如ク弁士及宣伝文ノ幾分ヲ変更シ入場者ヨリ金20銭ノ徴収ヲ廃止スルコトト為シ宣伝文一万枚印刷方註文セルカ昨日印刷出来セルヲ以テ朴烈、金若水等ハ之ヲ同志ニ配布シ而シテ市内各所ノ電柱ニ貼付或ハ内鮮労働者等ノ多数集合セル場所ニ於テ撒布スル等ノ計画ナリシヲ以テ電柱ニ貼付云々ノ件ニ付テハ厳重注意ヲ与ヘ置キ彼等ノ行動警戒中ノ処彼等ハ基督教青年会館ヘ借間代金トシテ金60円ヲ支払ヒ残金ノ分及宣伝文印刷費其他ノ費用後日有志ノ寄附ヲ仰キ之レヲ支払フベキ計画ナリト

     左記   
  ◎信濃川虐殺事件問題大演説会
 文明国と云われて居る今の日本に土木工事のある所全国到る所に多くの兄弟共は生き乍らの地獄で痛い笞に鞭たれつつある愛があり血があるべき人々よ! 来れ来れ此の戦慄すべき殺人境打破の叫を聞きに!!


 弁士  鄭 雲 海    白   武    松本 淳三
      羅 景 錫    金 鐘 範    李 康 夏
      朴   烈     山道 襄一   金   燦
      中浜  哲    申   焰    堺  利彦
      小牧 近江    中野 正剛    大杉  栄
      鄭 泰 成    金 炯 斗

 時日   9月7日(木) 午後7時
 場所   神田美土代町青年会館
 主催   信濃川朝鮮労働者虐殺事件調査会


 右及申(通)報候也
   申(通)報先 
    内相  次官  局長  
    朝鮮警務局長殿 
    拓殖局長官
    新潟 長野  京畿道各知事



 鮮高秘乙第627号 大正11年9月7日

    信濃川虐殺事件問題演説会ニ関スル件


在京鮮人金若水、朴烈 申栄雨等ハ首題ノ演説会開催ニ関シ曩ニ宣伝ビラヲ印刷ニ附シ内鮮労働者其他同志等ニ配布シ頻リニ聴衆吸収策ニ奔走中ナルコトハ既報(法相、次官、局長ヘハ未報)ノ処本日午後7時ヨリ神田区美土代町基督教青年会館ニ於テ開会スルニ入場者一千名中内地人ハ約500名、鮮人約500名ノ割合ニシテ其主ナル者左記ノ通リニ司会者金若水ノ紹介ニテ鄭雲海開会ノ辞ヲ述ベタルニ亜テ羅景錫、朴烈、金鐘範、申栄雨、小牧近江 金炯斗順序ニ出演セルカ金炯斗ノ演説中不穏ノ点アリテ中止ヲ命セラルヤ次ニ白武カ登壇スルヤ又々不穏ノ言動アリ同9時2分直ニ解散ヲ命セラレ同時ニ騒擾ノ言動アリ検束セラレタルモノ白武、富岡誓、元九碵、鄭在旭、沈洪局、李鎬林、李海炯、姜大見ノ8名ニシテ目下取調中ナルカ演説ノ要旨左ノ如シ而シテ入場料金拾銭ヲ徴シタルカ総額金93円余アリタリ

    左記
1 出席者ノ主ナル者
 李 如 星(甲)    黄 錫 禹(甲)    徐 相 一(要注意)    
 鄭 雲 海       羅 景 錫       朴   烈(甲)
 金 若 水(甲)    李 康 夏(甲)    朴 治 鎬(要注意)
 柳 震 杰(要注意) 張 祥 重(要注意) 申 栄 雨(申)
 卞 凞 瑢(申)    李 周 和(〃)    金 炯 斗(乙)
 高津 正道       中名生幸力      小池  薫
 浦田 武雄       望月  桂       渡辺 満三
 長島  新(埼玉編入)坂野 八郎       橋浦 時雄
 伊藤 逸郎       富岡  誓
                         (以上)

 申報通報先
 内相  次官  局長
 法相、 次官  局長
 検事総長 検事長 検事正
 朝鮮警務局長
 拓殖局長官
 京畿 新潟 長野 埼玉各知事


第一席  無題  鄭 雲 海
吾々朝鮮人ハ生命ノ糧ヲ得ル為メ遙々此ノ日本ニ渡来スルノテアルガ此等ノ人々ハ無産者デアルト共ニ鮮人ナルト云フ偏見ノモトニ幾多ノ暴虐敢テ受ケツツアルノテアル今回ノ信濃川事件ノ如キモ又其一例テアル斯ノ如キ問題ハ吾々朝鮮人ハ勿論又日本ノ無産者モ之ヲ対岸ノ火災視スル事ハ出来ヌト思フ而シテ
監獄部屋ノ如キ不平等ニシテ且ツ人道ヲ無視スル弊風ハ一時モ早ク吾々ハ此ノ血ト腕トヲ以テ解決セサル可ベカラス

第二席  無題  羅 景 錫  (略)
1、無題   第三席   朴  烈
監獄部屋組織ノ不完全ナル事其待遇ハ非人道的ナリト難シ斯如キ反人道的行為ハ常ニ親方連中ノ饗応ヲ受ケツツアル三名ノ巡査ニヨリ助長セラレツツアルノテアル斯カル無秩序ナル状態ニ対シ日本政府ハ何等ノ救済策ヲ講シナイノテアル此ノ悪制度ハ現在ノ資本家的社会組織ノ結果ナルカ故ニ此ノ社会制度ヲ根本的ニ破壊スル必要カアルト私ハ思フ云々


2、無題   第4席   金 鐘 範  (略)

1、無題   第5席   申 栄 雨  
(略)

1、無題   第6席   小牧 近江
朝鮮ノ文化ハ総督府ノ手ニ依リ破壊セラレントシツツアリ新潟県ノ監獄部屋取締ノ巡査ハ請負師ニ買収セラレ居ルノ状況ハ資本家並ニ特権階級ノ横暴ヲ遺憾ナク発揮セルモノト云フヘシ


1、無題   第7席   金 炯 斗
諸君ノ兄弟姉妹ノ血ヲススリ吾々同胞ヲ道傍ニ餓死セシメ居ルノハアノブルジョアト云フ悪魔テアル諸君ノ自由言論ノ自由ト称シナガラ健全ナル思想ヲ攪乱セントシテ居ル斯ノ革命的ナ宗教的ナ迷信的ナ倫理観ヲ以テ凡ユル利権ヲ得ントスルハブルジョア此ノ悪魔ノ奴テアル諸君此ノ狂暴ナル悪魔ノ奴カ諸君此ノ悪魔カ日韓合併ニ依ッテ日本ノ無産者ト朝鮮民衆
(弁士中止ヲ命ス) 

1、無産(ママ) 第8席   白   武
先般ノ弁士ハ到頭横暴ニモ中止ヲ喰ッタノテアリマス私ハ斯ウ云フ事ヲ前提トシテ置カウト思フ貴様等虐ケレハ虐ゲウ打タハ打テ最後ニ殺セト言ヒタイノダ(
弁士中止ヲ命ズ)殺シテコソ……反逆ハ(弁士中止ヲ命ズ)(更ニ解散ヲ命ズ
  
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関東大震災と「王希天」虐殺事件-----------------

 関東大震災直後、多数の朝鮮人が虐殺されたことはよく知られている。しかし、中国人の集団虐殺があったことは、あまり知られていない。また、無政府主義者大杉栄と内縁の妻伊藤野枝および甥の橘宗一(6歳)が、東京憲兵隊の甘粕大尉によって殺されたことはよく知られている(事実は、軍の組織的虐殺で、彼が軍の組織防衛のために、犯人となることを引き受けた事件のようである)。しかし、中国人「王希天」が虐殺されたことは、あまり知られていない。

 留日学生「王希天」は、当時中国人労働者のための僑日共済会長であり、中国人なら知らない者はなく、また、日本人にも広く知られた人望家であったという。そんな彼が、震災後の中国人労働者たちの様子を確かめに危険を承知で大島町へでかけたまま帰らなかった。王兆澄をはじめ、危険性を指摘していた友人たちが、彼の身を案じて探し回った。「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」仁木ふみ子(青木書店)には「14日以後は、日華学会、救世軍、および丸山伝太郎、佐藤定吉、服部マスらが、外務省や警視庁を訪ねた」とある。多くの日本人も、彼の身を案じたのである。しかし、日本の関係機関は一致して隠蔽方針をとり、真実を明らかにすることはなかった。
 
 「関東大震災と王希天事件 もうひとつの虐殺秘史」(三一書房)の著者「田原 洋」は、王希天を背後から斬ったという垣内中尉(当時)の証言を、事件後五十数年を経た1981年に、直接本人から得ている。しかしながら、当時の官憲は、その事実を隠蔽し「分隊本部に行く途中放還した云々」を繰り返したのである。そして、それは、陸軍のみならず、日本政府決定の隠蔽方針に基づくものであった。
 多くの人たちが、王希天が殺されたことを漏れ聞いていたにもかかわらず、である。
 「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」の著者仁木ふみ子は、中国の温州を訪ね、同郷の者6人を殺されたという温州沢雅県の88歳になる老人、陳国法(チェンクオファ)から「王希天はね、ころがっている死体をいちいち中国人かどうか調べて歩いたよ、だから自分が殺されてしまったのだと聞いているよ」との証言を得ている。

 下記は、隠蔽を決定した戒厳司令部の筋書きと、中国代理公使の照会・抗議文に対する日本政府の正式回答、および、上からの命令によって、隠蔽を主導した遠藤大尉(当時)と王希天を斬った垣内中尉(当時)の事件後59年を経ての証言である。「関東大震災と王希天事件 もうひとつの虐殺秘史」田原 洋著(三一書房)からの抜粋である。こうした事実を隠蔽したままの歴史教育について考えさせられる。

陸軍創作の王希天虐殺隠蔽の筋書き-----------------------------------
                            第1章 死地へ赴く
4 護送か抹殺か
 どうしても「王を斬る」


 ・・・
 まず、殺害から1ヶ月後、10月13日に戒厳司令部から外務大臣に提出された覚書(外務省文書「大島町事件其ノ他支那人殺傷事件」つづり所収──以下、単に「事件つづり」と称す)がある。殺害を隠蔽する方針を決めていた陸軍だったが、中国に帰った労働者、学生たちが「事件」を語り、それが中国紙のニュースとなり、日本の新聞も動き始めたため、ついに「事情説明」をせざるを得なくなったときの文書である。もちろん、事情説明といっても、政府部内での「口裏合わせ」用の資料の類にすぎない。

 王希天ノ件左記ノ通
佐々木大尉ハ亀戸税務署ニ中隊本部ヲ置キ鮮人及ビ支那人ヲ習志野ニ汽車輸送ヲナスニ当リ、其ノ受領及ビ運輸ノ業務ニ従事、9月11日午前11時ゴロ、巡査ガ王希天以下10名ノ支那人ヲ護送シ来リタルニヨリ之ヲ受ケ取リタルニ、巡査ノ一名ガ「王希天ハ排日支那人ノ巨頭ナレバ注意セラレタシ」ト、告ゲタルヲ以テ、口頭ニテハ判明セザルガ故ニ、書面ニテ通知セラレタシト求メ置キタルニ、

午後2時過ギニ至ルモ、書面ヲ送付セザルニヨリ、鉛筆書ニテ亀戸警察署ニ「支那人王希天ニ関スル調査ノ件、至急御送付相ナリタシ云々」ナル書面ヲ差出シタルニ、亀戸警察署長ヨリ半紙全罫紙一枚ノ王希天ノ素行ニ関スル事ヲ認(シタタ)メタル書面ヲ、同日午後3時40分送付シ来リタリ。
ヨッテ王希天ハ直ニ習志野ヘ送付スルハ危険ナリト思惟シ、翌朝早ク野戦重砲兵第三旅団司令部ニ同行スルヲ適当ト認(ミト)メ、其ノ事ヲ亀戸警察署ニ告ゲテ王希天ヲ預ケ置キ其ノ旨ヲ上記旅団司令部ニ報告シタリ。

シカシテ翌12日午前3時、亀戸警察署ヨリ王希天受領シ、亀戸町東洋モスリン株式会社ニ在リタル右旅団司令部ニ同行ノ途中、種々取調ベヲナシタルトコロ、王希天ハ相当ノ教育モアリ、元支那ノ名望家ニテ在京ノ支那人中ニ知ラレオリ、何等危険ナキ者ト認メタルニヨリ、旅団司令部ニ連レ行キ厳重ナル手続キヲナスヨリハ、此ノママ放置スルヲ可ナリト考エ、本人ニ対シ「習志野ニ行クコトヲ嫌ッテイル様デアリ又教育モアルノデアルカラ十分注意ヲシテ間違イヲセヌ様ニセヨ、自分ガ責任ヲ負イ逃ガシテヤル」ト告ゲタレバ本人モ非常ニ悦ビタリ。ヨッテ同日午前4時30分ゴロ前記会社西北方約千米ノ電車線路付近ニ於テ同人ヲ放置シタルニ、東方小松川町方面ニ向カイ立去リタリ。


 ウソばかりの釈明に含まれた事実
 言うまでもなく、内容はウソで固められている。ところがウソとしてもお粗末なものである。第一に9、10日のことが何も書かれていない。第二に、いったん習志野へ護送と決まった人物を、巡査がそそのかしただけで保留したのはスジが通らない。警察に突き返せばいいはずだ。第三に、さんざん催促して入手した”罪状書”をもとに、旅団司令部で厳重取調べの方針を決め(連絡もした)たのに、一転、道中の会話だけで「自分の責任」で逃がすなどあり得ない。一大尉にできることではない。第四に、進行の時間が不自然。第五に、都心(西方)に向かうべき人物が、東方向の小松川に向かうわけがない。

 ・・・

中国代理公使の照会・抗議文に対する日本政府の正式回答--------------------------
(責任追及を逃れるために、上記より更に曖昧な内容となっている)

                         第6章 日中間の大問題に発展

 「大島町・王希天」に触れない回答

 ・・・
 以書翰致啓上候、陳者(ノブレバ)今回ノ震災ニ際シ危害ヲ被リタル貴国人ノ件ニ関シ……当該官憲ヲシテ厳密調査ヲ遂ゲシメタル結果、今日マデニ判明セル事実大要左記ノ通リニ有之(コレアリ)候。
一、中華僑日共済会長、吉林学生王希天ハ9月10日東京市外大島町ヲ徘徊中、亀戸警察署ニ於テ万一ノ危険ヲ慮(オモンバカ)リ、一時同署ニ収容保護ヲ加エ、12日早朝、習志野救護所ニ送致スルタメ、同方面警備ノ任ニ当リ居タル軍隊ニ引継タルニ、同軍隊係員ハ、王ガ一見普通労働者ト挙措(キョソ)ヲ異ニスル点アルヲ発見シ、念ノタメ取調ベタルニ、相当ノ教育アル者ニシテ、マタ日本語ニモ熟達シオリ、習志野ニ送致スルノ必要ナシト認メタル折リ柄、同人モマタソノ寓所タル早稲田ニ帰還シタシト申シ述ベタルヲモッテ、同係員ニ於テ直ニソノ希望ヲ容(イ)レ、コレヲ放還セリ。シカルニソノ後同人ハソノ寓所ニ帰還セザル趣ニ付、帝国官憲ニ於テ目下極力ソノ行衛捜査中ナリ。

……(続きあり)

59年後の関係者の証言-----------------------------------------
                          序章 59年目の新証言

 
元陸軍中将の爆弾証言
 ・・・
 1981年春、私は遠藤三郎・元陸軍中将(陸士26期、1893年1月生まれ)を訪ねる機会があった。遠藤は旧陸軍のエリート軍人(敗戦時、閣僚級の航空兵器総局長官)である。米寿に達していたが記憶は確かだった。2人の対話が、関東大震災のことに触れたとき、遠藤は、当時「第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長・大尉として、東京・江東地区警備の第一線にいたと語った。
「大杉が殺されましたね」私が会話のつなぎのつもりで、何気なく応じると、遠藤は
大杉どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだと言いだした。
オーキテンという支那人労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。朝鮮人とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(インペイ)したんだ」
 ・・・

 その結果(1)オーキテンは王希天(2)労働運動家ではなく、学生兼社会事業家(YMCA幹事)(3)中国人虐殺は、朝鮮人虐殺のカゲに隠れているが、決して少数ではない(4)すでに一部研究者の間で「中国人虐殺・王希天殺害事件」を、先の3大事件(朝鮮人大虐殺、亀戸事件、大杉栄殺害事件)と並べ「大震災下の不当(思想弾圧)虐殺四大事件の一」として位置づける試みが行われている(5)しかし、いぜんとしてナゾが多く、一般の歴史常識とはなっていない──などがわかった。
 右の中間報告をたずさえて、遠藤を再訪した。私は(1)王希天に関する遠藤証言は、歴史的にきわめて重要である。(2)角田房子は追加取材せず、遠藤のミスリードのまま文章化している──の2点を、とくに指摘した。頭脳明晰で知られる遠藤の表情が、引きしまっていくのが見てとれた。
「へえ
、王希天は社会主義者じゃなかったのか主義者だから殺していいというわけじゃないが、正直なところ隠蔽工作にたずさわったことを、今日まで深刻に反省したことはない。(しばらく沈黙して)いや実は斬殺した犯人も知っておる……おそらく、まだ生きておるだろう……うーん、田原さん、オレはいま心の整理がついた。これは、事実をきちんと書き残すべき(事件)だな。知っていることはすべて話すから、あなたも、もっと調べてほしい」

 真犯人をさがし当てた
 遠藤は、斬殺犯人の姓しかおぼえていなかったが、陸軍士官学校卒業生である。その男の名は、容易に知れた。
垣内八洲夫、陸士31期、1897年5月生まれ。A県A市……に健在。
 初夏の太陽が照りつける昼下がり、私はA市郊外の垣内家をさがしあてた。……

 ・・・
 以下、そのやりとりをできるだけ忠実に再現してみる。

 ──関東大震災のとき江東区の警備部隊に属しておられましたね。
 垣内 はい(一瞬、緊張の色が横切(ヨギ)る)。
 ── 王希天という名の中国人留学生が殺されたことをおぼえておられますか。
 垣内 (ドキッとした表情、次いで質問の意図をはかりかねる呆然たる表情、さらに開き直ったようなうす笑いと、めまぐるし
   く表情を変えたあと、横をむいて)……そんなこともありましたね。
 ── 王希天の名をよくおぼえておられましたね。
 垣内 (あわてて)いや、それは、後で新聞を見たから……
 ── 初対面の方に言いにくいのですが、王希天を殺したのはあなただという証言があるのですが、当時のことを話してい
   ただけませんか。
 垣内(鋭い表情でにらむ)……誰ですか、証言なんて、いまごろ。
 ──少なくとも2人います(遠藤証言の内容と、歴史上の事実を明らかにしておきたいとする遠藤の義務感を説明。また、
   久保野日記=後述=についても説明)。余計なことですが、私はあなたの刑事責任をいまさら追及しようというつもりは
   ありません。事実、できもしません。しかし、王希天の短い一生(ほとんど、あなたと同年輩です)を知るにつけ、その無
   念を晴らしてあげたいという気持は強くなっています。戦前の不幸な日中関係に、この事件は濃いカゲを落としている
   ようにも思います。当時の日本人あるいは陸軍は、なぜあんなに朝鮮人や中国人を虐殺したのか、若い将校だったあ
   なたは、上官の命令でやったのか、自発的にやったのか、そのへんの事実関係を教えてください。
 垣内 (横を向いて沈黙しているが、最初のショック状態は去ったらしい。むしろ私には、彼が長年の心のつかえをおろす
   機会を得て、安堵感にひたり始めているようにさえ見えた)……
あのね、私は後ろから一刀浴びせただけです。そのま
   ま(隊に)帰りましたから、王希天が死んだかどうか確認はしとらんです。
 ──どうして斬りつけたんです? 相手が誰か処刑する理由は何か知っていたんですか。
 垣内 知りません! 佐々木中隊(後述)が、あの日、1人殺(ヤ)ると言っておったので、私は見に行っただけです。……
   いや、そのつもりだった……
佐々木(兵吉)中隊長は、上から命令を受けておったと思います。……後で、王希天が人望
   家であったと聞いて……驚きました。可哀そうなことをしたと……。中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ。


  こうして、私は、”忘れられた”王希天虐殺犯人の自供と反省の弁を聞くことができた。ふりかえってみると、1923年は、大正デモクラシーの息の根が止められた年である。3月1日普通選挙法案否決、6月5日=第1次共産党員(根こそぎ)検挙、9月大震災と引き続く不当弾圧・虐殺諸事件、12月難波大助による摂政宮暗殺未遂事件……こう並べたうえで、9月の虐殺諸事件の中に、大島町事件・王希天事件の2つを加えると、大正12年の全体図が、より明確に浮かびあがってくるようだ。 

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関東大震災 流言蜚語と警察・軍隊-----------------

 関東大震災の混乱の中で虐殺された朝鮮人は、独立新聞社特派員調査報告によると6661人であるという。また、「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」仁木ふみ子(青木書店)には、虐殺された中国人の死者は、656名、行方不明(王希天を含む)11名とある(徹底した調査の結果である)。また、亀戸では社会主義者10人も殺されている。亀戸事件である。流言蜚語の結果である、と言い切るには無理があるのではないかと思われる。

 「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)には、下記のように石井光二郎(当時朝日新聞経営部長)の使いの者に、正力松太郎(当時警視庁官房主事)が「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と、流言蜚語の伝搬に協力を依頼した事実が記されている。また、正力松太郎は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」と、自ら「虚報」の扱いに失敗したことを、下記のように講演会で話している(「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」日本図書センター)。しかし、不思議なことに被害者や遺族に対するお詫び、謝罪、さらには救済や賠償について全く触れていない。そのことに、流言蜚語の内容(虚報)や伝搬の仕方、政府による虐殺事件の報道禁止措置とその解除のタイミング等を考え合わせると、流言蜚語(虚報)は公権力によって、意図的に流された疑いをぬぐい去ることができないのである。

 「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」の資料は、国会で「吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである」と、朝鮮人虐殺に対する謝罪や救済措置を時の政府に迫った田淵豊吉の演説の抜粋である。それを受けて永井柳太郎がさらに踏み込んで、「鮮人事件の全責任は、唯々自警団にのみ存するが如き観があることは、本員の頗る怪訝に堪えない所であります」とその責任問題を取り上げ追及した。しかし、隠蔽方針は覆らなかった。その結果、2003年8月25日、日弁連が、関係者の人権救済申し立てを受け、内閣総理大臣に対し、①虐殺事件の被害者、遺族に対し、国の責任を認めて謝罪すること、②虐殺事件の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすることを勧告する、という事態が発生しているのである。

「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)------------------------------
                          Ⅴ 朝日新聞社時代

 関東大震災に遭遇


 ・・・
 さっそく、大阪に通信を出さなくてはいけない。しかし、交通機関がどうなっているか、不明である。警視庁や内務省などに聞いてみても、どこまでどう行けるのか、全然わからない。とにかく、あらゆる機関を臨機応変につかまえて、大阪本社へ連絡員を出そうということになった。ところが、金がない。
 いつも、銀行にお昼ごろ取りに行っていたので、当日も、会計の者が出かけたのだが、その矢先に、地震にあったわけである。

 だれか金を持ってないかと聞くと、米田実外報部長が、いくらか持っていた。一人が、ポケットから出したぐらいでは、とても足りない。どうしようもないので、下村さん(下村海南、台湾総督府民生長官辞任後、朝日新聞専務)が、旧藩主の紀州の殿様の家に行って、借りてきてくれた。そこで、東海道、中山道、東北の三道を、それぞれ二人ずつ組んで、大阪本社へ向かわせるようにし、それまでの震災の様子を書いた原稿と、金を持たせて、出発させた


 まっさきに成功したのは、東海道を行った組であった。その組が、横浜まで行って、ふと気が付いたのは、陸上の通信は皆壊れてしまっているが船の無線は使えるだろうということだ。港には、大きな船があるだろうということで、そこへ行き、船から通信を出した。これが、大阪へのくわしい第一報になった。他の組も、時間は遅れたが、なんとかして、大阪本社へ連絡することができた。

 次の仕事は、朝日の臨時本部を作ることだ。夜中の十二時ごろ、私は社屋がどうなったか、伴(トモ)をつれて見に出かけた。並木通りなどは、みんな焼けている。どういうわけか、水道の水は出ていた。落ちていた布団を拾い、水をいっぱいかけて、伴の者と二人で、それを頭から被った。並木通りは、両側からの火気で、そうしないと通れなかった。息がつまりそうになると、しばらくかがみこみ、息ができるようになると、また進むというふうにして、とうとう、社屋の所までたどりついた。

 窓からのぞくと、火がチラチラしていて、熱くてたまらない。さっと引き下がり、またしばらくしてのぞきこむ。なかでは、新聞の巻取紙がブスブス燃えており、機械は燃えて、たれ下がっていた。これはとてもいかん、巻取紙は、ほかから持ってくるとしても、機械の手配から始めなければならぬ、大変なことになったと思った。

 帝国ホテルが焼けなかったので、一室を、早く借りたいと思った。夜中に、アサヒグラフの編集長、鈴木文四郎君を、使いにやって交渉させたところ、一番先に頼みに行った組だから、幸いに、大きい部屋を二つ借りることができた。そこに、編集、営業、庶務をいれることにきめ、その晩は、宮城前で夜を明かすことにした。

 記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎君が官房主事だった。
「正力君のところに行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけ、もらって来い。帝国ホテルからも、食い物と飲み物を、できるだけもらって来い」といいつけた。

 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰ってきた者の報告では、正力君から「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった。
 そこにちょうど、下村さんが居合わせた。「その話はどこから出たんだ」「警視庁の正力さんがいったのです」「それはおかしい」

 下村さんは、そんなことは絶対にあり得ないと断言した。「地震が九月一日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」こういって、下村さんはみんなを制止した。

 私たちは、警視庁がそういうなら、なにかあるのかなと思っていたけれども、下村さんは、断固としてそういわれた。これは下村さんの大きな見識であった。ふだんから、朝鮮問題や台湾問題を勉強し、経験をつんできているから、そんなことはありうるはずがないという信念があったのだと思う。だから、他の新聞社の連中は触れて回ったが、朝日新聞は、それをしなかった。

 しかし、食い物だけはいろいろもらってきたので、私がそれを箱に入れておいた。「どこどこを視察して記事を書け」と命じ、それをちゃんとやって来た者には、ごほうびにサイダーとパンをやって、激励するというようなことをしながら、一晩テントの中で過ごした。
 その晩、政友会の森恪氏が自動車でやって来て、「震災見舞いです」といって、スイカを二つ持ってきた。余裕綽々(シャクシャク)だなと思って、私は感心した。しかも和服だった。まるで別世界から来たような感じで、強く印象に残っている。


 ・・・

 私は、内藤君から、ここまでの報告を聞いてから、社の者が二重橋前を引き上げ、帝国ホテルに移ったのを見とどけて、九月二日の夕方家へ帰った。
 家に着くと、「朝鮮人が、六郷川のほうに集結していて、今晩中に押しよせて来るから、みんな小学校に集まれ」ということだった。私は、ちょっと様子を見て、また社に引っ返すつもりであったのに、大変なことになったと思った。家族を見殺しにするわけにもいかないから、社には秘書を使いにやって、「こういうわけだから、今晩は帰社できない」といっておいた。
 下村さんのはなしを聞いていたから、そんなことはありえないとは思っていたが、とにかくみんなを連れて、小学校に行った。小学校は、いっぱいの人であった。日が暮れてから、演説を始めた者がいた。「自分は陸軍中佐であります。戦いは、守るより攻めるほうが勝ちです。敵は六郷川にあつまっているというから、われわれは義勇隊を組織して、突撃する体制をとりましょう」と叫んでいる。
 バカなことをいうやつだと思ったが、そこに集まった人びとも、特に動く気配もなかったから、私も黙っていた。

 そのうち「、「井戸に毒を投げ込む朝鮮人がいる。そういう井戸には印がしてある」などという流言が入ってきた。あとで考えると、ウソッパチばかりだった。私は、趣旨としては下村さんのいうとおりだと思うけれど、警視庁もそういっているし、騎虎(キコ)の勢いで、どうなるかわからないと懸念していた。夜明けまで小学校にいたが何事もなく、いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった。

 ・・・(以下略)

「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」(日本図書センター)--------------------------
                          正力松太郎  悪戦苦闘

米騒動や大震災の思い出

 このたび総監閣下から何か皆さんに話してくれというご依頼がありましたので私は甚だ僭越ながらここに参った次第であります。
 只今お話しがありました如く私は役人生活の大部分を警視庁で奉職しておりましたからここへ来て皆さんにお目にかかることは自分の郷里に帰って昔の友達か後進の者に話をするような感じがするのであります。従って、固苦しい話よりも、昔の思い出話をした方が宜しいかと存じます。
 私は大正2年6月から大正13年1月まで11年間引続き警視庁におりました。この間、警視庁として種々なる大問題に直面しました。即ち同盟罷業が頻々起こり大衆の力を頼んで政府を倒そうとするいわゆる倒閣運動も度々行われ、また共産党の検挙もこの時始まり、なおまた有名なる全国米騒動や関東大震災も起こったのであります。当時私共の経験した事をお話しするのは幾分か皆さんのご参考にもなり、有意義かとも思います。

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 警視庁庁舎焼失の非難

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 次に朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして、一日夜ごろから朝鮮人が不穏計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し二,三時間後には何れも確証なしと報告しましたが、二日午後ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるにいたりました。私は直ちに警戒打合せのため司令部に赴き寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高司令官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森警察署や品川警察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろにに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが、私共の失敗に鑑み、大空襲に際してはこの点特に注意せられんことを切望するものであります。

「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」----------------------------------
                          20 国会による事件調査

 1 
  大正12年12月14日(金)
   国務大臣による演説に対する質疑
 田淵豊吉君
 -前略- 第6には私は内閣諸侯が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も此神聖なる議会に報告しないで、又神聖なるべき筈の諸君が一言半句も此点に付て述べられないのは非常なる憤慨と悲しみを有するものであります。それは何であるかと言へば朝鮮人殺傷問題であります。諸君は何が為に朝鮮を合併を致したか、合併を致して国防上、外交上、或は文明の上、産業の上に於て、互に相通じて 殆ど同じ民族が相共に提携して往くと云ふことが、此合併の根本的のものでないかと私は固く信ずる一人である、然るにも拘らず噂に依りますと殆ど千とか千以上に上る所の朝鮮人が殺されたと云ふことに向つて、一言半句も吾々の眼は新聞紙などを通じて視ることができないで、唯々噂に依つて之を聴くと云ふことは、非常に怪訝の念を挟まざるを得ない状態であります。諸君、吾々は皇民に非ざるなき所の朝鮮人、辺土に在って代議士を出して居ない所の無告の民の為に何が為に諸君の肺肝を貫く言葉を以て弾劾しないのであるか、或は小事末節に捉はれて、千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜しいのであるか、朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか、吾々は悪いことをした場合には謝罪すると云ふことは、人間の礼儀でなければならぬと思ふ、日本人は正義の上に立って居って、侵略主義でない、吾々は正義の上に立って、比較的文明ならざる国民を文明の域に進めんが為に、人類の福祉を増進するが為に、吾々は日本帝国を形造つて居るのではないか、然るに、諸君は更に一言半句も此事に付て述べられないのは如何、又新聞紙上にも之を掲載することを禁じ、演説にも、之を禁じ、之を言ふ者を罰すると云ふのはどう云ふ訳であるか、之を私は内閣諸公に聴きたいのであります、人或は言ふのであります、朝鮮人の中にも悪い者があるから、流言蜚語が多く起つたので、そうしたのである、又其時は群集心理が働いて、10日間は竹槍を持って家に蟄伏して居つたような状態であつて実に無政府のやうな状態を呈出して居つたのである、そこは今日の者と違って居る、故に如何なる人がさう云ふ事をやつたか知らぬが、今日或は冷静なる眼を以て斯く斯くであるからいけないと云ふことを速断することは出来ない、其間に十分考慮の余地がある。吾々日本国民も東京市民も、其時は恐怖の念に打たれた為に、流言蜚語に惑わされ、或行動を執り、或は自家防衛を行つたかも知らぬというのである。併しながら其防衛の範囲を超えて居つたならば、吾々は朝鮮人に対して、殊に被害者の朝鮮人に対して、大なる謝罪をしなければならぬ、それを単に速断に依つて、東京に住んで居る人、横浜に住んで居る人と云ふのではない、吾々の国民性が生んだ所の一の結果であると私は信ずる、吾々決して悪意はない筈である、併しながら恐怖の結果、斯の如き事をしたのであるから、日本国民として吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである(拍手)諸君足を踏んでも失礼でありましたと云へば怒る気がしない、知らぬ顔をして居れば、千人殺したときは十万人の者が殺された虐殺された、火焙りにされたと云ふことを誤つて伝へられぬとも限りませぬ。


 故に吾々は既往の吾々の過を決して言ひ抜け扱ふことをしないで、赤裸々に告白して悪いことは悪い、併し斯く斯くの状態であるから(ママ)此点は諒承を願ひたいと云ふことを朝鮮人に向つて告げ被害者の遺族の救済と云ふことも講じなければならぬ、各国に向つて謝電を送り、外国に向つて先日吾々議院が謝意を表明する前に、先づ朝鮮人に謝するのが順序ではなかろうか、之を隠して置くと云ふことは、秘密主義であって、今日は取らない、又実際上通らない所の議論であると思ふ、それから第二には王正延と云ふ人が是はどう云ふ使命を持つて来つたか公には知りませぬけれども、矢張支那人が数百人殺されたと云ふ事に付て研究に来つたと云ふことでございます、吾々は此隣邦の国民永き歴史に於て修好のある所の国民が、我が日本の領土に住んで居つたが為に斯の如き災害を被つたと云ふことに向つては此非常なる罪を謝さなければならぬと私自身は思ふ、尤も彼等と雖も矢張り日本に在つたので、当時の状態は能く知つて居るのであるから、十分に之を調査して日本に誤りある所は謝するが宜い。過のなきものなら謝せんで宜い、過のあるものならば相当の謝意を表すると云ふことが隣邦に対する所の誼ではなかろうかと思ふ、故に是は秘密主義を執つて居らないで、赤裸々に我が状態を告白したならば、必ずや彼れの心も解けるであろう。

 日本国民に悪意があるのでない、自警団に悪意があるのではない唯々其時の状態が然らしめて斯く斯くであると云ふことを明に陳述する必要があると信ずる、内閣諸公は之に対して如何なる考を持つて居るかと云ふことを聞きたい、更に進んで彼の主義者を惨殺したと云ふこと、是は私が多くを語らないでも諸君は知つて居るでせう、…以下略 

 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 


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