-NO301~306
----------板倉憲兵大尉 組織の根幹に関わる内部告発------------

 「続 現代史資料(6)軍事警察ー憲兵と軍法会議ー」に板倉陸軍憲兵大尉の内部告発文書が収録されている。板倉孝憲兵大尉が、在職中に公務上知り得た機密情報を公然と暴露したものである。それも、最高幹部を含む軍司令部や憲兵組織そのものの不法行為(職権乱用や公文書偽造など)を告発しており、注目に値する。

 板倉孝憲兵大尉は宇都宮や豊橋、静岡などで憲兵分隊長を歴任した憲兵将校であったが、満州鉄嶺の憲兵分隊長の時、軍の御用商人に襲われ、正当防衛で相手を銃殺した「鉄嶺事件」が、無罪と認められたにもかかわらず、後にそのことで退職を命ぜられたため、それに大いに憤慨し、軍内部の情報を公然暴露するに至ったと思われる、ということを静岡憲兵分隊長の後任者が明かしている。

 下記は、「地頭に勝てぬ軍法会議の不備」と題して、無実の海軍出身の在郷軍人「白倉基治」を、軍関係者の不正な利益のために、罪に陥れた事実を明らかにして、板倉孝憲兵大尉が、直接陸軍大臣に非常上告を迫った一件の抜粋である。決定的な証拠が複数あり、関係者はみんな白倉基治が無実であることを知っているのに獄中生活を強いた。板倉孝は、軍人の非違を裁く軍法会議で、意図的に無実の人間を有罪にし、獄中生活を強いたことを告発していたのである。

 このほかに、板倉孝は「軍事司法権は下に徹底し 上にはご都合主義」「下士卒は泣く 上官御都合主義の弊」、「将兵忌避は やがて兵役忌避」、「時代思想に直面し やがては皇室に累を及さむ」、「現下軍部 裏面の大勢」「宇垣陸相の苦しい答弁」などと題して、軍や憲兵組織の堕落・不正・腐敗を糾弾している。軍事力を有する組織や、警察権を有し実力を行使できる組織が堕落・腐敗し、組織的に不正を行うようになったときの恐ろしさは、現在に通じるものであるだけに貴重であると思う。
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     地頭に勝てぬ
       軍法会議の不備
                                                 陸軍憲兵大尉 板倉 孝
   第1 在郷軍人に関する非常上告事件
 軍法会議法を繙きその関係法条を綜合するに、軍法会議の確定判決後其の判決法律に於て罰せざる所為に対し刑を言渡し、又は相当の刑より重き刑を言い渡したることを発見したる場合は陸軍大臣は検察官をして高等軍法会議に非常上告を為さしむることになって居る。故に大臣としてこれに該当することを知得した以上は、其手続を履行すべき職務上の義務があるのである(法第10条、法第468条)
と云ふことを前提として


  1、判決謄本 
                                   山梨県巨摩郡安都玉村字東井出4310番地戸主
                                   サガレン州北樺太亜港曙町89番地ノ2居住
                                                       料理店営業
                                                    勲八等七級 白倉基治 
                                                    明治17年2月10日生
右の者に対する詐欺被告事件審理を遂ぐる処
 被告は営業広告刷込亜港案内地図を発行する為め其の広告予約者を募集するものの如く装ひ金銭を騙取せむと企て亜港在住者数十名に対し大正10年4月末日迄に裏面に広告欄を設け広告料を1等より4等までに区別して予約者の住所職業氏名等を掲載し且其の所在を表面に示したる亜港案内地図を発行して配布するに依り広告の予約をせられたしと申し詐り大正9年11月より同10年4月頃迄の間に於て数十回に亘り亜港旭川町畑木商店外29名の在住日本人を欺き広告料名義の下に合計金760円を騙収したるものなり。
 右の事実は被告の供述、亜港憲兵分隊長の被告事件具申書類理事の被告人並証人高林権次郎同伏木松太郎事実参考人佐藤千代に対する各訊問調書に徴し其証憑十分なり、之を法律に照らすに被告が連続して数十回に人を欺罔し財物を騙取したるは刑法246条1項、第55条に該当す仍て判決すること左の如し
 被告ヲ懲役1年ニ処ス
  大正11年2月20日
                                   サガレン州派遣軍臨時陸軍軍法会議 
                                           判士長 陸軍工兵少佐    蠣 原 重 之
                                           判士 陸軍歩兵大尉    小河原 浦吉
                                           判士 陸軍工兵大尉    嶺川 藤 太
                                           理事              福 山 道 人
                                           録事              佐川雄五郎
 右謄本也

   大正11年8月23日於同庁
                                               陸軍録事       佐川 雄五郎
       
 これ即ち高等軍法会議に属する非常上告事件として、本論に引用する軍部代表的の一事例(項を遂ふて第2、第3と類似事件発表)であるが、此の形式的に完備せる判決文の裏面に、斯くの如き聖代の不祥事が潜んで居るとは恐らく何人も考へ及ばざる所であらう。
 併しながら覚醒子の1年有余に亘る調査の結果は、陸軍当局にして反証挙げ得ざる限り
    誤判又は捜査不備に基く過失的のものにあらずして全くの故意に出でたる  偽造行為であることが判明した。
 換言すれば詐欺罪は全然成立して居らぬと云ふことになるのである。その動かし可からざる証拠はいづれ法律論の時に発表するとして、茲に起る疑念は何が為に一在郷軍人に対して、斯くの如き職権乱用が公然と而も高級軍人多数共謀の上に敢行さるるに至ったのかと云ふことであるが、それは次に述ぶる白倉の陳述によって何人も成る程と首肯さるるであらう。


  2 受刑者の告白と境遇
 時は大正12年3月下旬頃である。覚醒子が静岡憲兵隊に在職中(静岡分隊長)のある日、彼は突然隊長に願の筋ありとて受付に刺を通じ哀訴した。その訴ふる所は要するに
 『自分は海軍出身の在郷軍人にして亜港曙町(アレクサンドロフスク)で同地料理屋組合の副会長をして居つたが、当時陸軍官憲から営業上の恨を受け、遂に身に何等の覚へなきに突然憲兵隊に拘引された。
     君は無実の罪だが天命さ、とは憲兵将校の言
 そこで極力其の無実なることを主張したけれども
 取調官 は『今回の行為が罪にならぬことは吾々も充分認めては居るが軍法官部(法務部)からの命令であるから、君には誠に気の毒ではあるけれども憲兵として如何ともすることは出来ぬ』と云ふ丈けで一向要領を得ずして軍法会議に送られた。軍法会議に於ても前同様に極力主張し、最後の判決法廷に於ては泣いて其の冤罪なることを訴へ、証拠を挙げて再調方を哀願したが更に採用されず、予定計画通りと見えてどしどし判決を言ひ渡され収禁場に送られて仕舞ふた。其の際
 収禁所長(憲兵大尉)からは『君には全く気の毒で皆同情せぬものはない位であるが、斯くなるも色々裏面に複雑な事情があったので今となっては天災と断念めるより外にあるまい』と慰められ、其の後間もなく内地への初航便で北海道の刑務所へ護送された。而してその服役間は
  軍人の暴虐と迫害が夢寝の間に往来して無念の涙咽びつつ世を呪うて1年を獄舎に暮らし
 漸く出獄をした様なものの(白倉の入獄中妻は先妻の子を残して情夫と駆け落)身に何等の覚えなくて永い獄中生活を余儀なくされた上に、嘗ては死生を賭して折角賜はつた金瑦勲章までも取り上げられ、あげ句の果は前科者として世間から爪はじきされ、唯一人として相談相手となってくれる者も無く、
  境遇上最もたよりとして居つた妻にまで愛想づかしをされた今日となつては
 何一つ此世に望みはないが、子女の前途を思ふにつけ出来得ることなれば、名誉恢復をして見たいとはかない希望から、僅かばかりであるが、父祖伝来の田畑を金にかへて運動費を作るべく帰国途中、二三陸軍官憲を訪れたが、更に取り合ってくれないので、事茲に至つては陸軍官憲に対して最後の手段に依る復讐あるのみと決心し、再びサガレンに引き返さうと上野駅にて待合せ中、ふと胸に浮んだのは被告事件当時、それとなく耳にして居つた憲兵界に於ける隊長(覚醒子)の噂である。そこで一面識も無いが最後の思ひ出に若しやとの希望を懐いて遙々哀願に及んだ』と云ふのである。

     官舎に伴ひ其無謀を諫む

 さて其陳述中の心証は職務上の体験から大体に於て真相と認め得られたので、官舎に伴い夕食を共にしながら、
 『事件は過去であり、而も服役出獄の今日、一刻を争ふ問題でもあるまい。又事件の性質上普通上告と異り受刑者の立場としては軍刑事手続き上直接の手段方法はない、全く陸軍大臣の政務に属して居るのみならず任地の憲兵将校等事情を知りつつ口を緘して何等職務上の手続きを踏まぬことから考へても、判決確定後約一年を経過の今日
 大臣 をして其の手続きを為さしむるといふことは仲々容易なことではない。此種類似事件は裏面に於てはあまり珍しくもないが、常上告とまで実現をした例はまだ耳にしたことはない位で、其の結果は多くの現役将校を刑余の人たらしめ結局は軍部の耻を社会に曝すことになるので、所管大臣としては反証をつきつけられて余儀ない立場にならぬ限りは、先づ動くまい。仮に手続きに出たとするも
 官憲 と云ふものは、それぞれ弁解の口実に就いて頗る便宜の地位におかれてるから、余程慎重の態度を執らぬと万事を徒労に帰せねばならぬ。故に時期来る迄は軽率なる行為を断じてしてはならぬ』、と説諭を加へ、今日に及んだ次第である。

  3 無罪論
 前示判決文は要するに受刑者が亜港案内地図の発行に当たり、大正10年4月末に配布すると称して大正9年11月から翌10年4月間に亘りて予約募集をしながら、其の契約を履行せずと云ふので詐欺罪名の許に懲役1年に処すと云ふに止まり、其の理由の如きは極めて簡単なものである。従つて其の判決文面に依ると、受刑者は契約履行に関しては何等の着手とも見做すべき行為もせず全くの悪意に出たるもので況や予約地図の如きは影も形もないことになって居る。


 反証物件第1

 然し事実はそうではない。別紙第1号の如き縦2尺5寸横3尺5寸と云ふ立派な而も完全な地図が一千部も判決前に出来上がって居つたのである。この証拠丈でも裁判の
 裏面 に何かいはくがありそうであるとは何人も首肯さるるであらう。

 ・・・(以下略)
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 以下反証物件2、3,4、に基づき、受刑者「白倉基治」は無実であることを事細かに証しつつ、不当判決に至る理由(料理屋二葉亭を巡る問題や偕行社玉突場の傷害事件などによって、白倉基治が軍司令部から恨まれていた事実)も明らかにしている。 


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関東大震災 流言蜚語と朝鮮人虐殺---------------

 下記(資料1)の「船橋送信所関係文書」の「1」は、関東大震災直後の9月2日、当時の内務省警保局長後藤文夫が、船橋送信所に派遣した伝騎(伝令の任務を命じられた騎兵)に持たせた各地方長官宛ての電文である(当時、震災地と他地方を結ぶ通信は、海軍省船橋送信所か、横浜港内の船舶無線を利用する以外に方法がなく、中央政府の通信文はすてべ船橋を経由したという)。「1」の各地方長官宛も、「2」の朝鮮総督府警務局長宛も、「3」の山口県知事宛も、その内容は「朝鮮人が、放火や爆弾の投擲、井水に毒薬投入等、不逞の行動に出ているとの噂があるので注意せよ」というような注意喚起ではない。「流言蜚語」の事実確認をすることなく、民心の不安をかき立てる事実として打電したものであり、結果的に朝鮮人虐殺を多発させることとなった。流言蜚語の政府による煽り行為といえる(さらに言えば、流言蜚語の中には、政府の作為を感じさせるものもある)。

 また、「埼玉県通達文」(資料2)は、各市町村に自警団の組織化を呼びかけるものであり、埼玉県下でも凶器を手にした自警団員によって多くの朝鮮人が殺害されることとなった。

 ところが、海外から朝鮮人虐殺について非難をあびた政府は、一転、流言蜚語によって兇行におよんだ自警団員を検挙するのである。当然のことながら、その虐殺に至る責任の所在について、激しい抗議の声があがった。資料3は、警察や内相・法相に対する抗議文であり、詰問状である。「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」からの抜粋である。

資料1------------------------------------------------
                         2 船橋送信所関係文書

        1
 ○呉鎮副官宛打電  9月3日午前8時15分了解
   各 地 方 長 官 宛                               内務省警保局長 出   
 東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しは厳密なる取締を加へられたし。
 《此電報を伝騎に もたせやりしは2日の午後と記憶す。当時の衆人の印象は斯の如かりしなり。事後又は他地方の人には考へも及ばざるべし》


        2
 ○鎮海要副官宛  9月3日午前8時30分了解
   朝鮮総督府警務局長宛                            内務省警保局長 出
 東京附近の震災を利用し、在留鮮人は放火、投擲等、其他の不逞手段に出んとするものあり。既に東京府下には、一部戒厳令を施行せるを以て、此際朝鮮内、鮮人の動静に付ては厳重なる取締を加へられ、且内地渡来を阻止する様、御配慮相煩度。


        3
 ○呉鎮副官宛   9月3日午後10時10分了解
   山 口 県 知 事 宛                                内務省警保局長 出
 東京附近震災を利用し、内地在留鮮人は不逞の行動を敢てせんとし、現に東京市内に於ては放火をなし、爆弾を投擲せんとし、頻に活動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、貴府に於ては内地渡来鮮人に付ては厳密なる視察を加へ、苟も容疑者たる以上は内地上陸を阻止し、殊に上海より渡来する仮装鮮人に付ては充分御警戒を加へられ、適宜の措置を採られ度。


資料2------------------------------------------------
                         10 流言の流布と自警団

        1
  埼玉県通達文
 東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微弱であるから町村当局者は在郷軍人会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也。


資料3-------------------------------------------------
                          10 流言の流布と自警団
        7
  警察官憲の明答を求む
                                                法学博士 上 杉 慎 吉
 私は数百万市民の疑惑を代表して、簡単に左記の五箇条を挙げて、警察官憲の責任に関し明答を得たいと思ふ。

 1、9月2日から3日に亘り、震災地一帯に○○襲来放火暴行の訛伝謡言が伝播し、人心極度の不安に陥り、関東全体を挙
   げて動乱の情況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張に依る大袈裟なる宣伝に由
   れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うるべからざる事実である。然るに其の後右は全然事実に非ずして虚報であ
   ったと云ふことは、官憲の極力言明して打消して居る所である。然らば警察官憲が無根の流言蜚語を流布して民心を騒
   がせ、震災の惨禍を一層大ならしめたるに対して責任を負はなければなるまい。


 2、当時警察官憲は人民に向けて○○○○の検挙に積極的に助力すべく自衛自警すべきことを極力勧誘し、武器の携帯
   を容認したのであった。而して手に余らば殺しても差支なきものと、一般をして何となく信ぜしめたのである。而して之を
   信じて殴打撃殺を行った者は到る処に少なからぬのである。此れ等の自警団其の他の暴行者は素より検挙処罰するべ
   きこと当然であるが、さて之に対する官憲の責任如何。


 3、仮りに警察官憲が之を勧誘教唆したのではないとしても、彼の場合にあれだけの大騒擾大暴動を起して、之を予防も
   鎮圧も出来なかったと云ふ、職務を尽くさざりしの責任はどうする。

 4、当時警察官憲は各種の人民を見界なく検挙して殴打した。遂に之を殺戮し、其死体は焼棄てたと云ふことは亀戸事件
   にも見えて居る。此の警察官憲の暴行には軍隊も協同したと云ふことであるが、警察官憲は無責任と云ふわけには行
   くまい。


 5、憲兵が大杉を殺した事件には警察官憲の諒解承認又は依頼勧誘があったものんと疑われて居る。
   既に疑いがあれば、憲兵方面では甘粕大尉が軍法会議に移されたと云ふだけで、大杉と野枝と子供と3人を殺したと
   云ふ事実はまだ疑わしいのに、断然司令官迄が責を引きたるが如く警察や政府の方面でも、即時罷免其他責任を明に
   する処置は執らねばならぬであろう。詳しく論ずれば論じ度きこと多くあるが、明瞭を期する為、右の5点の要領を述べ
   る。之を述べる所以は、これだけの事が、明にならぬと云ふと、数百万市民の胸が、治まらぬからである。(談)
                                              (国民新聞 大正12・10・13夕刊)



        8   
  今頃になって検挙とは何事ぞ
     関東自警団同盟から内相法相に詰問状
 新時代協会菊地義郎氏外32名、労働共済会中西雄洞氏外52名、自由法曹会野田季吉氏外12名、城南荘菊池良一氏外数名、満鉄調査課綾川武治氏外8名発起となり市内各区に設けられた自警団を傘下に集めてこんご関東自警団同盟を組織し昨今各方面に火の手をあげている自警団の検挙騒ぎに対する対抗策を講じた結果左の決議を可決しこれを内相法相に致すことになった。

 我等は当局に対して左の事項を訊す。

一、流言の出所に付 当局が其の責を負はず 之を民衆に転嫁せんとする理由如何。
一、当局が目のあたり自警団の暴行を放任し 後日に至りその罪を問はんとする理由如何。
一、自警団の罪悪のみ 独り之を天下にあばき、幾多警官の暴行は之を秘せんとする理由如何。

 我等は当局に対し左の事項を要求す。
一、過失により犯したる自警団の傷害罪は悉く之を免ずること。
一、過失により犯したる自警団員の殺人罪は悉く異例の恩典に浴せしめること
一、自警団員中の功労者を表彰し特に警備のため命を失ひたる者の遺族に対しては適当の慰藉の方法をとること。


  死を賭して汚名を雪ぐ
     流言者は果たして誰か
        幹部の恐ろしい鼻息
 なほこの外檄文三千枚を印刷して各方面に配布し、われわれは内相等に陳情するのではなくて抗議するのだと恐ろしい鼻息だが幹部の菊池義郎氏曰く
 「某々方面より鮮人襲来の惧あり、男子は武装せよ。女子は避難せよ、○○と見れば、○しても差し支えないとふれまはつたのは何者であったか、当局は、これを横浜に強盗を働いた某々等の宣伝であると云ふも直接我等に伝へたものは、明らかに他にあった。ところが今日になって自警団の功績は、ことごとく顧みられず全国七千万の同胞から兇器無頼の悪徒と見られ、事情を知らざる外人よりは血に飢えた蛮人のように誤解されている。尤も中には殺人強盗を働いたえせ団員もまじっていたけれどもこれ等はわれ等の仲間ではなく、われ等の責任を負うべきものではない。そこで名誉恢復の為に決議を当局に致すことになったのだが、汚名をそそがぬ以上は一同死すともやまぬ決心である。」          (東京日々新聞 大正12・10・23) 
 

        9
  角笛 事実三つ
 自警団の殺傷沙汰はまことに遺憾にたえない。
 無論法の命ずるところに従って、厳罰に処せられるべきであろうが、同時に自警団をしてこの過誤におちいらしめた責任者がいまだ一人も表面にあらわれないのは何事であろう。若しこのままで葬るならばでく人形に使われたる自警団員のうらみはとも角、国法の威信はどうなるであろう。私は三田警察署長に質問する。9月2日の夜××襲来の警報を、貴下の部下から受けた私どもが御注意によって自警団を組織した時「××と見たらば本署につれてこい、抵抗したらば○しても差し支えない」と親しく貴下からうけたまはった。あの一言は寝言であったのか、それとも証拠のないのをよいことに、覚えがないと否定さるるのか、如何(四国町自警団の一人)
 私は巣鴨の住人だが、巣鴨警察署は、警察用紙へ「井戸に毒を投ずるものあり各自注意せよ」と書いて各所へはり出した、次に「脱獄者数十名あり警戒を要す」その他(以下3行けずる)などつたへ、われわれが竹槍やピストルを持って辻を堅めてゐると、巡回の警官は 禁じもせずかえって「御苦労様」とあいさつしてあるいた。いまさら責任を自警団にのみ負はせるとは何事だ(渡辺清三)
 9月2日午前10時ごろの事だ。野宿の私どもの所へ官服着用の警官が来て「12時前後に昨日以上の大地震がある」とふれまはった。2時頃に前同様「3時に激震」ともふれた。無論虚説だった。
 附近の食品屋や酒屋は警官の徴発にあった。一杯気嫌の警官が行人に難癖をつけてこまらせている実情も私は見た。


  自警団の兇行
    普通犯罪と同視するのは何うか
      某法学博士談

 震災当時各所において演出された自警団の兇行は言語道断であるが、… 平素想像だも及ばぬ兇行を平気でやり甚だしきは凶行後直に警察署に出頭して恩賞を要請したものがあるなど……現に埼玉県下は郡村長にあてておだやかならぬ移牒文さへ発表されたではないか。
 これは独り埼玉県下にかぎった問題でなく、他の府県にもありそうに懸念さるるから余程考えてかからねばならぬ。下手をすると藪蛇になる。政府の藪蛇は問ふところでないとしても帝国の中外に対する信義如何せんやだ。
 次に亀戸事件について一言したい。政府は本件に対しては単に衛戍規則により殺害したとのみで具体的説明を避けているが、衛戍規則とて無暗に人を殺していいとは書いていない。
 多分、「多数集合して暴行をなすに当たり兵器を用ふるに非ざれば鎮圧の手段なきとき」の条項をあてはめていふのであろうが果たしてその程度のものであったかどうかは具体的説明をなさなければならぬ。 
                                                  (東京日々新聞 大正12・10・22) 
 

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関東大震災 違法違令の戒厳令施行---------------

 「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」には、大正12年10月13日付けの河北新聞の記事が収録されているが、そこに「現在布かている戒厳令は空前の震災に際し、臨機の処置として執られた手段で世間一般には已むを得ざるものと認めているが、発令当時の事情が明かとなるに従ひ違法違令の批難を免れぬこととなった。元来この戒厳令は前内閣の手に依って布かれたもので、政府は去月1日震災と同時に閣議を開き、既に一応戒厳必要を内定したが同日中に異論が現れたらしく、既に枢密院の諮詢を仰がんがため、内閣各顧問は二手に分かれて各顧問官の許に急使を派することになってゐたのを、一方の使は取止め他方内閣一書記官が廻った方では伊東伯を始め数名の顧問官が各別に首相官邸に参集し、その際内田臨時首相から戒厳令の方は止めたが取敢えず日ならず出兵することにしたといって、枢府側の諒解を求めたのに徴しても分る。…」とある。戒厳令は違法違令であるというのである。

 下記資料2、戒厳令第1条に「戒厳令は戦時若くは事変に際し兵備を以て全国若くは一地方を警戒するの法とす。」とあるが、関東大震災は自然災害であり、 戦争でも事変でもない。しかし、朝鮮人や社会主義者の反乱に対する恐怖心が強かったのか、あるいは、これを機に反乱の可能性のある人物や反体制的な人物、及びその組織を潰そうとしたのか、
戒厳令を発令する要件を備えていないにもかかわらず、戒厳令を施行したのである。戒厳令を公布するには緊急勅令を出すことが法律で定められていたが、勅令に不可欠だった枢密院の諮詢もなく、この戒厳令施行には手続き的にも問題があった。

 9月2日に内務省警保局長後藤文夫が発した各地方長官宛ての電文(「303 関東大震災 流言蜚語と朝鮮人虐殺」参照)から、戒厳令施行の根拠が、朝鮮人の不逞行為(放火、爆弾の投擲、井戸への毒物投入、略奪・暴行・強姦、組織的襲撃等の流言蜚語)であったことが読み取れるが、下記資料1の永野錬太郎(当時の内務大臣)の談話で、それが裏付けられている。したがって、
流言蜚語によって戒厳令が施行されたことになるが、もしかしたら、逆に戒厳令を施行するために流言蜚語を流し、軍を動かして朝鮮人や中国人、社会主義者などを虐殺したのではないか、と疑われる面もある。
資料1------------------------------------------------
                       
1 治安当局の所感と戒厳令の公布

   
 ・・・
 翌朝(2日ー編者)になると人心恟々たる裡に、どこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎ迄起つた。大木鉄相の如きも朝鮮人攻め来るの報を盛んに多摩川辺で噂して騒いでゐるといふ報告を齎らした。早速警視総監を喚んで聞いてみるとそういふ流言蜚語がどこからともなしに行われてゐるとの事であった。そんな風ではどう処置すべきか、場合が場合故種々考へても見たが、結局戒厳令を施行するの外はあるまいといふ事を決した。
 然るに徴発令にしても、戒厳令一部施行にしても、枢密院の議を経ねばならぬ、依て書記官長にも来て貰って、種々相談をかけたが、議長始め顧問官の所在も不明であり、又参集を乞ふにも通知の仕様もなく迎へにやる手段もないので途方に暮れた。さればとて、手続きが出来ないからといふて、放任しておく訳に行かぬので、総理以下議を凝らして内閣の責任を以て御裁可を仰がうといふ事に決した。
                              (東京市政調査会編)「密都復興秘録」永野錬太郎談話


資料2-----------------------------------------------
   7
 朕茲に緊急の必要ありと認め、帝国憲法第8条に依り、一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し、之を公布せしむ。
  御名御璽
  摂  政  名
   大正12年9月2日
                                            内閣総理大臣伯爵  内田 康哉
                                               外務大臣伯爵  内田 康哉
                                               鉄道大臣伯爵  大木 遠吉
                                               陸 軍  大 臣   山梨 半造
                                               司 法  大 臣   岡野敬次郎 
                                               内 務  大 臣   水野錬太郎
                                               農商務 大 臣   荒井賢太郎
                                               大 蔵  大 臣   市来 乙彦
                                               文 部 大 臣   鎌田 栄吉
                                               逓信大臣子爵  前田 利定
 勅令第398号
 一定の地域を限り別に勅令の定むる所に依り、戒厳令中必要の規定を適用することを得。
    附  則  
 本令は公布の日より之を施行す
 朕大正12年勅令第398号の施行に関する任を裁可し、茲に之を公布せしむ。
  御名御璽
  摂  政  名
   大正12年9月2日 
                         内閣総理大臣伯爵  内田 康哉
                           陸 軍 大 臣 山梨 半造 
 勅令第399号
 大正12年勅令第399号に依り、左の区域に戒厳令第9条及第14条の規定を適用す、但し同条中司令官の職務は東京衛戍司令官之を行ふ。
 東京市、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡、
    附則
 本令は、公布の日より之を施行す。〔震災関係法全集〕


 <参考> 戒 厳 令
 第1条 戒厳令は戦時若くは事変に際し兵備を以て全国若くは一地方を警戒するの法とす。
 第2条 戒厳は臨戦地境と合囲地境との2種に分つ
  第1 臨戦地境は戦時若くは事変に際し警戒す可き地方を区画して臨戦の区域と為す者なり
  第2 合囲地境は敵の合囲若くは攻撃其他の事変に際し警戒す可き地方を区画して合囲の区境と為す者なり
 第3条 戒厳は時機に応じ其要す可き地境を区画して之を布告す
 第4条 戦時に際し鎮台営所要塞海軍港鎮守府海軍造船所等遽かに合囲若くは攻撃を受くる時は其他の司令
      官臨時戒厳を宣告する事を得又戦略上臨機の処分を要する時は出征の司令官之を宣告する事を得
 第5条 平時土寇を鎮定する為臨時戒厳を要する場合に於ては其地の司令官速かに上奏して命を請ふ可し
      若し時機切迫して通信断絶し命を請ふの道なき時は直に戒厳を宣告する事を得
 第6条 軍団長師団長旅団長鎮台営所要塞司令官域は艦隊司令官鎮守府長官若くは特命司令官は戒厳を
      宣告し得るの権ある司令官とす 
 第7条 戒厳の宣告を為したる時は直ちに其状勢及び事由を具して之を太政官に上申す可但其隷属する所
      の長官には別に之を具申す可し
 第8条 戒厳の宣告は曩に布告したる所の臨戦若くは合囲地境の区画を改定する事を得
 第9条 臨戦地境内に於ては地方行政事務及び司法事務の軍事に関係ある事件を限り其他の司令官に管掌
      の権を委する者とす故に地方官方裁判官及び検察官は其戒厳の布告若くは宣告ある時は速かに該
      司令官就て其指揮を請ふ可し
 第10条 合囲地境内に於ては地方行政事務及び司法事務は其地の司令官に管掌の権を委する者とす故に
      地方官地方裁判所及び検察官は其戒厳の布告若くは宣告ある時は速かに該司令官に就て其指揮を
      請ふ可し
 第11条 合囲地境内に於ては軍事に係る民事及び左に開列する犯罪に係る者は総て軍衙に於ての裁判す

  刑法 
   第2編
  第1章 皇室に対する罪
  第2章 国事に関する罪
  第3章 静謐を害する罪
  第4章 信用を害する罪
  第5章 官吏瀆職の罪

   第3編
  第1章
  第1節 謀殺故殺の罪
  第2節 殴打創傷の罪
  第6節 擅に人を逮捕監禁する罪
  第7節 脅迫の罪
  第2章 
  第2節 強盗の罪
  第7節 放火失火の罪
  第8節 洪水の罪
  第9節 船舶を覆没する罪
  第10節 家屋物品を毀損し及び動植物を害する罪
 第12条 合囲地境内に裁判所なく又其管轄裁判所と通信断絶せし時は民事刑事の別なく総て軍衙の裁判に属す
 第13条 合囲地境内に於ける軍衙の裁判に対しては控訴上告を為すことを得ず。
 第14条 戒厳地境内に於ては司令官左に配列の 諸件を執行する権を有す但其執行より生ずる損害は要償する事を得ず
 第1 集会若くは新聞雑誌広告の時勢に妨害ありと認むる者を停止する事
 第2 軍需に供す可き民有の諸物品を調査し又時機に依り其輸出を禁止する事
 第3 銃砲弾薬兵器火具其他危険に渉る諸物品を所有する者ある時は之を検査し時機に依り押収する事
 第4 郵信電報を開緘し出入の船舶及び諸物品を検査し竝に陸海通路を停止する事
 第5 戦状に依り止むを得ざる場合に於ては人民の動産不動産を破壊燬焼する事
 第6 合囲地境内に於ては昼夜の別なく人民の家屋建造物船舶に立ち入り察する事
 第7 合囲地境内に寄宿する者ある時は時機に依り其地を退去せしむる事
 第15条 戒厳は平定の後と雖ども解止の布告若くは宣告を受くるの日迄は其効力を有する者とす
 第16条 戒厳解止の日より地元行政事務司法事務及び裁判権は総て其常例に復す
 ○第37号(8月5日輪郭付陸軍卿海軍卿連署)
  凡そ法律規則中戦時と称するは外患又は内乱あるに際し布告を以て定むるものとす


   8
 朕茲に緊急の必要ありと認め、帝国憲法第8条に依り、非常徴発令を裁可し、之を公布せしむ
  御名御璽
  摂  政  名
   大正12年9月2日
                                             内閣総理大臣伯爵  内田 康哉
                                                外務大臣伯爵  内田 康哉
                                                鉄道大臣伯爵  大木 遠吉
                                                 陸 軍  大 臣  山梨 半造
                                                 司 法  大 臣  岡野敬次郎
                                                 内 務  大 臣  水野錬太郎
                                                 農商務 大 臣  荒井賢太郎
                                                 大 蔵  大 臣   市来 乙彦
                                                 文 部  大 臣  鎌田 栄吉
                                                 逓信大臣子爵  前田 利定
                                                 海軍大臣子爵  財 部 彪
 勅令第396号
   
非常徴発令
 第1条 大正12年9月1日の地震に基く被害者の救済に必要なる食糧、建築材料、衛生材料、運搬具、其の他の
      物件、又は労務は内務大臣に於て必要と認むるときは、其の非常徴発を命ずることを得
 第2条 非常徴発は、地方長官の徴発書を以て之を行ふ
 第3条 非常徴発を命ぜられたるもの、徴発の命令を拒み、又は徴発物件を蔵匿したるときは、直に之を徴用することを得 
 第4条 徴発物件又は労務に対する賠償は、其の平均価格に依り難きものは、評価委員の評定する所に依る。
 第5条 非常徴発の命令を拒み、又は徴発物件を蔵匿したるものは3年以下の禁錮又は3千円以下の罰金に処す、徴発し
      得べき物品に関し、当該官吏員に対し、申告を拒み、又は虚偽の申告を為したるもの亦同じ
 第6条 徴発物件の種類、賠償の手続き、評価委員の組織、其の他本令の施行に必要なる規定は内務大臣之を定む
       附  則   
 本令は、公布の日より之を施行す     〔震災関係法全集〕


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亀戸事件の真相 軍・官憲側発表と関係者の証言と----------

 1923年関東大震災の戒厳令下で、憲兵や特高が「労働運動に関わる主義者」と見なしていた10人を検挙し、亀戸警察署構内で虐殺した。亀戸事件である。虐殺されたのは南葛労働組合の川合義虎、北島吉蔵、加藤高寿、近藤廣造、山岸実司、鈴木直一、吉村光治、佐藤欣治の8人、及び純労働組合の平沢計七と中筋宇八の2人の計10人であるが、検挙そのものが不当であった。直接の加害者は近衛師団習志野騎兵第13連隊の田村春吉少尉他3名であるという。
 軍や官憲側発表は、下記資料1「震災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書 (秘)」や資料2「近衛師団習志野騎兵第13連隊から戒厳地司令官宛ての報告書」のような内容である。彼ら社会主義者が鮮人来襲などの流言蜚語を流布し、不穏の言動をくり返しているとの申告があったので検挙し連行したが、署内でも革命歌を高唱し、収容中の多数の鮮人に対し扇動的行動を止めず混乱させた。多数の収容者がおり、不穏な空気が漲ったため殺害したというわけである。
(ここでは「川合義虎」は「河合義虎」となっている。) 

 資料3は、亀戸署に保護を願い出て虐殺のあった日に亀戸署にいた全虎岩(日本人名 立花春吉)の証言である。全虎岩の証言も、検挙当時、検挙された人たちのまわりにいた人物の証言も、また、知人・友人の証言も、軍の報告書や警察発表など官憲側の主張とは著しく異なる。全虎岩の証言は、「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」には「地獄の亀戸署」と題して「種播き雑記」から引用されているが、ここでは「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三(大月書店)「聴取書」から、その全文を抜粋した。

 資料4は松谷法律事務所において作成された正岡高一の「聴取書」であり、虐殺された平沢計七に関する重要証言の一つである。これらの証言によって、官憲側の虚言が否定できないものとなっている。これも「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三(大月書店)から抜粋する(同書には、この他にも官憲側発表が虚言であることを裏付ける、多数の証言が取り上げられている)。

 資料5は、「平澤計七刺殺」を知った菊池寛の言葉である。「評伝 平澤計七 亀戸事件で犠牲となった労働演劇・生協・労金の先駆者」 藤田富士男・大和田茂著(恒文社)からの抜粋である。
資料1-------------「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」より------------------
                              政府による事件調査
   5
 震災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書 秘

 第10章 軍隊の行為に就て

  第1 概 説 
1、震災後警備の任に膺れる軍隊に対して鮮人其の他を殺傷したりとの風評なきに非ず殊に江東方面に於ては軍隊に於て殺傷の行為逞しうしたるが為に衆之に倣ひて殺傷を敢てしたりとの巷説あり然れども調査の結果に依れば之に関する事実は大要左の如くにして軍隊の責に帰すべきものなきが如し

  第2 亀戸警察署構内に於ける社会主義者等殺害事件
1、9月2日午後7時頃より亀戸警察署管内一帯に「海嘯来る」と流布する者あり次で間もなく「海嘯は鮮人が虚報を伝へ
  其隙に乗じ掠奪を恣にせんとするものなり」との風評盛に行はれ更に「鮮人の集団襲来す」と伝えられし為青年団員、
  在郷軍人団員等互に相協力して鮮人を同警察署に連行し来たるもの頻々たり一方社会主義者河合義虎外8名は震
  災当日より盛に革命歌を高唱するのみならず故意に鮮人来襲の噂を流布し或は斯る際に井戸又は水道に毒薬を投
  下せり云々などと濫りに不穏の言動ある旨附近避難者よりの申告に接したるに依り、9月3日夜10時頃数名の警察
  官を派して同人等を同警察署に同行せり。

   先是9月2日夜以来亀戸警察署に収容せる内鮮人総計760~770名の多数を算するに至れり而して此多数収容
  人員に対し警備の任に当たるものは僅に兵卒数名と巡査14名とに過ぎず併かも被収容者等は終始喧囂を極め一人
  大声を発すれば直に是に付和雷同するの状態にて漸次不穏の空気収容所内に漲り此の儘にて推移せんか何時何如
  なる椿事を勃発するやも計り難き実況に立至れり。

   然るに4日夜鮮人中鮮語を以て何事か大声で怒号するものあるや前記社会主義者河合義虎外8名竝に中筋宇八が
  忽ち之に相呼応して騒ぎ立て一斉に革命歌を高唱し扇動的言動を為し為に場内響の応ずるが如く之に和し喧々囂々
  全く混乱に陥り到底制止すること能はざりしを以て軍隊の応援を求めて之と協力して右河合義虎8人の主義者を監房外
  に隔離したるも彼等は容易に鎮静せざるをのみならず甚しく抵抗を試み他の多数の収容者に波及するの状態を呈し
  兵器を用ふるの止むを得ざるに至りたる為軍隊は遂に彼等を死に致したり。

  (海嘯は津波のこと) (喧囂-ケンゴウ:喧しいこと)

資料2-------------「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」より-----------------
                           7 近衛・第1両師団の行動
  近衛師団
    
  9月4日
騎兵第13聯隊
 近衛師団司令部ヨリ戒厳地司令官宛
  9月5日通報
9月4日午後8時 亀戸ニ於テ4名ノ兇漢、警官ニ抵抗シ騎兵13聯隊之ヲ刺殺ス。内鮮人ノ区別ヲ調査中

    
  9月5日
騎兵第13聯隊
9月5日午前2時30分 亀戸警察署ニ検束中ノ内地人及鮮人6名、警官ニ暴行シ他ノ拘禁者ヲ扇動シ暴行セントセシ故、同聯隊之ヲ刺殺セリ。
 彼等ハ最後迄革命万歳ヲ叫ビ居タリ。


 ・・・
資料3------------「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三(大月書店)より-----------
                             第2章 亀戸事件の真相
4 殺害されたのはいつか

 
・・
 
  聴 取 書
                             府下亀戸町3378番地
                             福島由太郎方
                                      立花春吉 22才
1、私ハ9月3日亀戸警察署ニ4時頃保護ヲ願出デ同署ニ6日午前5時頃迄居リマシタ。而シテ自分ハ奥2階ノ広キ間ニ居リマシタ。其2階ハ井戸ノ隣ニアリマシタ。自分ノ居タ部屋ニハイリタル時ハ20人位居リマシタ。ソシテ其20人ハ皆朝鮮人計リデシタ。入ツタ時ニハ自分ノ住所氏名年令職業等ノ取調ガアリ署長ヨリ「オトナシク」スレバ飽迄モ保護スルト云ハレマシタ。

2、食物ハ玄米ノ握リ飯1ツ、1日2食デアリマシタ。皆ガ腹ガ減ルダローガ鮮人ガ米ノ倉庫ニ爆弾ヲ投入シタカラ米ガナイ為メ少シシカ当ラヌト立番ノ巡査ガ云ヒマシタ。

3、私ガ入リタル3日ノ晩ハ別ニナニゴトモモナク寝入リマシタ。然ル処4日朝カラ鮮人ガ多数入レラレ116名位ニナリマシタ。夫レデ狭マクテ足ヲ伸スコトスラ出来マセンデシタ。

4、4日ノ朝6時頃便所ニ行キタル処便所ニ行ク道ノ入口ノ処ニ兵士ガ立番シ其処ニ7、8人ノ死骸ヤ半殺シノ鮮人ニ筵ヲ被セテアリマシタ。而シテ其横手ノ演武場ニハ縛セラレタル鮮人ガ血ダラケニナリテ300人位居リマシタ。而シテ演武場ノ外側ニハ支那人ガ一列ニナリ軒下ニ50~60人位座ツテ居リマシタ。

5、4日ノ晩暗クナツテカラ銃ノ音ガポンポン夜明迄キコヘマシタ。其ノ銃声ハ自分ノ居タ2階ノ下ノ方ニ聞ヘマシタ。即兵隊ガ立番シテ居テ7、8名ノ死骸ノアツタアタリデアリマス。其夜ハ只銃声計リデ人ガ騒グ音ナゾハ少シモ致シマセン。又1人丈泣キ叫ブ声ヲキキマシタガ其ニ9他ニハ泣声叫ビ声等ハ致シマセン。
 右ノ泣キ叫ブ声ハ鮮人ノ声デ夜明方デシタ。ソシテ其鮮人ハ自分ガ悪ルイコトヲセヌノニ殺サレルノハ国ニ妻子ヲ置イテ来タ罪ダロウカ貯金ハドウナツタロウト云フ様ナコトヲ云フテ泣キ叫ビマシタ。

7、其立番ノ巡査ハ又昨夜日本人7、8名鮮人共16名殺サレタ、夫レハ鮮人計リ殺スノデハナイ、日本人モ悪イコトヲスレバ殺サレルノダ、君等モ悪イコトヲスレバ殺サレルカラ従順ニセヨト云ヒマシタ。

8、此時巡査ガ3人デ立話ヲシテ居ルノヲ何心ナクキイテ居タ処南葛労働組合川合ト云フ言葉丈ケ漏レキコヘマシタ。自分ガ川合トハ知合デアツタタメ特ニキコヘマシタノデ自分ハ恐ロシクナリマシタ。

9、5日ノ昼頃自分等ノ居ル部屋ガ狭キ故自分等及階下ノ温順ナ鮮人ヲ連レテ安全ナ場所ヘ行クト云ヒ騎兵ニ守ラレ附近ノ自動車工場ヘ行キマシタガ、危険ダト云フノデ更ニ署ニ帰リマシタ。

10、夫レカラ暫ク便所ヘ行キマスト、便所ニ行ク道ニ日本人ラシキ35,6才ノ男ガ2人裸デ手ヲ縛リ立タセテアリマシタ。其男ハ創ガアリ半死半生ノ状態デアリマシタ。

11、其日ノ晩方3人ノ立番巡査ガ窓カラ覗イテ殺サレル処ヲ見テ1人ノ年寄ノ巡査ハ剣デ刺ス手附ヲシテ「アノ刺ス音ハズブート云フテ何ト云フ音ダロウ」トイヒ音ノ発音ノ「マネ」ヲシテ居マシタ。

12、其晩モ多数殺サレタ様子デス。夫レハ巡査ノ話ヤ便所ヘ行クコトヲ止メラレタコトヤ四隣ノ気配デ知レマシタ。
 自分ノ考デハ4日ノ晩迄ハ銃デ射殺シ5日ヨリハ剣デ刺殺シタモノト思ハレマス。

13、右ノ次第デ3日ノ晩ヨリ5日ノ夜明迄ハ静カデ騒グ様ナコトハアリマセン。夫レハ巡査ノ注意モアリ御互ニ注意シ合ヒ静カニシマシタ。

14、右ノ状況デアリマシタカラ隣室デ騒グ様ナコトガアレバ直チニ分ル筈デシタガ極メテ静カデ騒ギマセンデシタ。
 労働歌ヲ歌フ声ハ絶体(ママ)ニ聞キマセン。

15、6日ノ朝5時頃習志野ヘ500人位一緒ニ兵隊ニ送ラレテ行キマシタ。ソシテ習志野ニ26日迄居リ其后青山鮮人収容所ニ廻サレ29日自分ノ家ニ帰リマシタ。

16、右ノ通リ相違アリマセン。

   大正12年10月16日午后7時
         東京市芝区新桜田町19番地 松谷法律事務所ニ於テ
                                      立 花 春 吉 事
                                          金 虎 岩

資料4-----------「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三(大月書店)より-------------
                               聴 取 書
                                             府下大島町3丁目240番地
                                                        正 岡 高 一   30才
 1、自分ハ平沢計七君トハ近所デ親シク交際シテ居リマシタ。9月1日昼頃地震ガアリ、1時頃平沢君ハ自分宅ノ前ヲ出先ヨリ帰ル途中通リ掛リニ声ヲ掛ケテ行キマシタ。此時自分ノ家ハ地震デ倒潰シテ居タノヲ平沢君ハ一旦家ヘ帰リ私方ニ来リ3時頃迄自分ノ家ノ金品取出方ヲ手伝ツテ呉レマシタ。夫レカラ自分ノ義妹ガ浅草蔵前ノ煙草専売局ニ出テオルノデ、夫レヲ尋ネルタメ、荷物取出ヲ中止シ自分ハ出掛ケマシタ。其後妹ヲ尋ネタリ色々シテ、翌日2日ノ午前8時頃迄平沢君ニ逢ヒマセンデシタ。


 2、2日午前8時頃ニ自分ハ平沢君宅ヲ訪ネマシテ更ニ同氏同道錦糸町ヨリ両国ニ出テ浅草橋ヲ渡リ妹ヲ尋ネ浅草公園カラ12階裏ニ出テ上野ヘ廻リ方々妹ヲ尋ネタガ分ラズ上野公園西郷銅像前デ首藤敏雄君ニ逢ヒ妹ノコトナド聞合セタルモ分ラズ依テ元来タ道ヲ歩キ家ニ帰ツタノハ夕方デシタ。

 3、ソシテ平沢君方デ夕食ヲ喰ヒ同氏方ニ当分厄介ニナルコトニナリマシタ。

 4、ソシテ其晩ハ平沢君ハ家族ト共ニ私モ加ハリ平沢君宅前ノ城東電車ノ道デ畳布団ナド持出シテソコデ夜(野)宿シマシタ。ソコニハ隣家ノ浅野氏其他近所ノ人モ皆一緒ニ野宿シマシタ。ソー云フ訳デ平沢君ガ2日ニ演説ヲシタト云フコト等ハ絶対ニアリマセン。此等ノコトハ近所ノ人等モ十分承知シテ居リマス。


 5、3日ハ朝カラ私方ノ倒潰家屋ノ荷物ノ取出シ等ヲ手伝ヒ夕方迄世話ヲシテ呉レマシタ。此事ハ八島京一君(ヤ)近所ノ人モ知ツテ居リマス。八島君ハ3日ノ午后4時頃ヨリ避難シテ平沢君宅ニ来タ人デス。

 6、夕食后平沢君ハ夜警ニ出テ9時半頃(多分)帰リマシタ。ソシテ暫ク休ンデ居ル所ヘ正服巡査ガ来テ平沢君ヲ連レテ行キマシタ。其時ハ平沢君モ警察官モ極メテ平穏デ平沢君モ温順ニ警察官ニ附イテ行キマシタ。


 7、コウ云フ次第デ自分ハ大抵平沢君ト共ニ居リマシタカラ只自分ガ妹ヲ捜ス為メ独リデ出テ行ツタ時丈ケ平沢君ノ行動ヲ知リマセンガ1日ノ午后3時頃カラ翌2日ノ午前8時頃迄ハ平沢ノ妻君ヤ浅野君等近所ノ人等ノ話ヲキケバ、自宅ニ居ツタソウデスカラ、演説ヲシタリ、騒廻ツタリシタコトハナイト思ヒマス。殊ニ南飾(ママ)労働組合トハ平沢君ハ意見ガ合ハズ、平常往復等ハシテ居リマセンカラ其組合本部ヘ行テ演説ヲシタコトハアル筈ハナイト思ヒマス。

 8、平沢君ハ極メテ要領ノ好イ人デスカラ警察署デ騒グ様ナコトハ絶対ニナイト思ヒマス。殊ニ労働歌ヤ革命歌ナドヲ唱フ人デハアリマセン。

       右ノ通リ相違アリマセン。
                                 大正12年10月16日午后9時
                                          東京市芝区新桜田町19番地
                                          松谷法律事務所ニ於テ
                                                             正岡 高一
                                                聴取任 弁護士   松谷与二郎
                                                立会人  〃     山崎今朝弥


資料5-「評伝 平澤計七 亀戸事件で犠牲となった労働演劇・生協・労金の先駆者 」藤田富士男・大和田茂著(恒文社)より-
                             第10章 追悼
  文化人の憤怒

 菊池寛は「平澤君の名が、刺殺者の筆頭にあるので、可なり駭いた。大杉氏の時よりも、その人を知っている丈に、私はショックを受けた。あんなに落ち着いている思慮あるひとが、ああした天災のとき、乱暴を働いたとは何うしても思われない。もっとも、人は不当に拘引すれば誰だって多少の抵抗はするだろう。それを理由にして殺すとすれば、あの場合誰だって殺し得る」(「文芸当座手帳」)
と怒りを隠さない。  

 ・・・   

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関東大震災後の朝鮮人等虐殺事件 吉野作造の対応----------

 関東大震災直後、多くの朝鮮人や中国人、社会主義者等が虐殺されたことに対し吉野作造は敏感に反応し、活発に動いた。下記の「決議」の提出やマスメディアへの意見発表は、その一端である。
 吉野作造は、埼玉県の「不逞鮮人暴動に関する件」の移牒文や、船橋送信所か ら各地方長官宛てに送られた内務省警保局長発の電文などを取り上げ、「当時、此の流言に対する官憲及び軍憲の処置が、当を得ざりし事は之を認めざるを得ない」と、流言蜚語に対する国家責任を厳しく追及しつつ、直接手を下した自警団員はもちろん、流言蜚語を信じた民衆もその責任から逃れることはできないと論じ、なすべき事を提起しているのである。
 「鮮人の陰謀並に鮮人と主義者との通謀」などによる組織的活動などなかったにもかかわらず、多くの朝鮮人や中国人、社会主義者を虐殺してしまった。したがって、先ず「犠牲者に対する救恤乃至賠償」を、と吉野作造は呼びかけたのである。しかし、民間の一部にそうした動きはあったようであるが、国は動かなかった。むしろ逆に、国は不祥事の隠蔽に動いたのである。
 吉野作造の取り組みは貴重であり、忘れられてはならないと思う。資料1は「関東大震災時の朝鮮人虐殺 その国家責任と民衆責任」山田昭次(創史社)から、資料2は「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」から抜粋した。

資料1-------------------------------------------------
                 第5章 日本国家と虐殺された朝鮮人をめぐる追悼・抗議運動

 1 日本人の抗議や反省をこめた追悼運動

 吉野作造ら学者とキリスト教徒の動き

 23年10月20日、「23日会」を代表して吉野作造と堀江帰一は、山本権兵衛首相、後藤新平内相、平沼騏一郎法相、岡田忠彦家警保局長に下記の決議を提出した。

 「決議
1、鮮人の陰謀並に鮮人と主義者との通謀の有無に関する調査事項を公表すべし
2、前記事実の如何に拘らず鮮人殺傷の不祥事を発生せしめたる流言に付て飽くまでその出所を糾し、その責任を明にす
  べし。
3、流言の横行を取締らず民情の激情に由る暴行を放任せるに対し当局はその責任の帰属を明にすべし。
4、朝鮮人死傷者数、被害の場所並に被害の状況を出来る丈詳細に公表すべし。
5、目下保護中の鮮人に対しては、成るたけその希望に応じ帰国の便を図る等便宜の処置を執るべし。特に負傷者に対し
  ては、相当の手当を加え遺憾なきを期すべし。
6、鮮人殺傷の犯罪に対しては法の厳正な適用を期すべし。
7、速に本件に関する言論自由の禁令を解くべし。」(中央新聞23・10・22)

 ・・・(以下略)

資料2-------------------------------------------------
                            18 人民による事件調査

 10
 
 1、朝鮮人虐殺事件について
                                                     法学博士  吉野作造

 ・・・
       ○ 
 殺された鮮人の大部分が無辜の良民であつたと云ふ事は当局でも断言して居るが流言の如き事実が鮮人の間になかつたかと云ふ事に就いては、久しく疑問とされて居つた。
 民衆の昂奮余りに軌を逸するを見てや、当局は瀕りに慰撫の警告を発して、鮮人の多数は無害の良民なり。妄りに之に危害を加ふる事なからんことを諭した。併し乍ら一度び誤り信じた民衆の感情は、容易に納まるべくもない。当局の戒告に拘わらず鮮人暴行を説くものは今日尚頗る多いではないか。斯くして鮮人の我々の間に於ける雑居は、今日尚充分安全ではない。当局にして之を矯めやうとするならば、実はもつともつと民衆に向かつて啓蒙的戒告に努むべきであつた。この点に於て我々は当局の態度の頗る冷淡であつたことを遺憾とする。単にそればかりではない。時々鮮人と社会主義者とが通謀して恐るべき不敵の企てをなせるものあり、などの記事を新聞に発表せしめて、却て民衆の感情をそそる様な事もあつた。兎に角事実は久しく曖昧模糊の中に隠されてゐた。従つて我々も当局の態度に対し種々の疑を持つたのであるが、此頃に至つて段々事実の発表を見て少なからず疑を解く事ができたのである。


 日本人と鮮人との××に関する報道は今尚公表を禁じられて居るから、今は説かない。併し之を以て大袈裟な組織的陰謀とみるべからざる事だけは疑ないらしい。若しそれ震災に乗ぜる鮮人の突発的暴動に至つては、先月下旬の公表に数十名の夫れを算ふると雖も、大部分皆殺されて居るのだから、冷静な判断としてはどれ丈けの暴行をしたのか分からぬと云ふの外はない。
 よしあつたところが、あの位の火事泥は内地人にも多い。普通あゝ云ふ場合にあり勝ちの出来事で、特に朝鮮人が朝鮮人たるの故を以て日本人に加へた暴行と云ふ訳には行かない。況や2、3の鮮人が暴行したからとて凡ての朝鮮人が同じ様な暴行をすると断ずる訳には行かぬではないか、泥棒が東に走つたら東へ行く奴は皆泥棒だと云ふやうな態度だつた。殊に鮮人の暴行に対する国民的復讐として、手当り次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺するに至つては、世界の舞台に顔向け出来ぬ程の大恥辱ではないか。


     
 鮮人虐殺事件に就き差当り善後策として、何よりも先に講ぜねばならぬのは、犠牲者に対する救恤乃至賠償であろう。若し之が外国人であつたら喧しい外交問題が惹き起されて居る筈だ。朝鮮は日本の版図だからと云つて不問に附することを得べき問題ではない。尤も殺された者の多数は労働者などであるから、氏名も判らず、遺族の明らかならぬも多かろう。かういふものに対しては、救恤賠償に代へるに、将来一般朝鮮人の利益幸福に資すべき設備の提供を以てするがいいかとも思ふ。

 要するに、僕は此際鮮人虐殺に対する内地人の、謂はば国民的悔恨若しくは謝意を表するが為めに、何等かの具体的方策を講ずるの必要を認むるものである。而して特に之を主張するは、只に日鮮融和の政略上よりするのではなく、寧ろ之を以て大国民としての我々の当然なる道徳的義務と信ずるからである。


       ○
 更に進んで、我々は自らの態度を深く反省して見るの必要を感ずる。我々は平素朝鮮人を弟分だといふ。お互いに相助けて東洋の文化開発の為めに尽さうではないかといふ。然るに一朝の流言に惑ふて無害の弟分に浴せるに暴虐なる民族的憎悪を以てするは、言語道断の一大恥辱ではないか、併し乍ら顧ればこれ皆在来の教育の罪だ。此所にも考察を要する問題が沢山あるが、これらは他日の論究にゆずり、只一言これを機会に、今後啓蒙的教育運動が民間に盛行競られん事を希望しておく。
                                             (中央公論 大正12年12月11日)


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関東大震災 朝鮮人虐殺死体目撃の記述 田辺貞之助----------

仏文学者田辺禎之助「江東昔ばなし」(菁柿堂)の中に、関東大震災関する記述がある。当時、彼は旧制第1高等学校の2年生であった。震災3日目に「朝鮮人が横浜のほうから押しかけてくるから、みんな警戒しろ。ことに、井戸に毒を投げこむそうだから、井戸を守れ」という指令が出たという。彼は、それがどこから出された指令か、ということには触れていないが、ここでも「流言蜚語が伝播した」事実が分かる。流言蜚語によって、みんながそれぞれ鉄棒や竹槍を用意し、武装して夜警を始めたのである。彼も連日番小屋につめたという。そして、隣の大島町に集められた多数の虐殺死体を、誘われて見に行っている。
 「…その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。…」とある。特に、その中のあまりにも残酷な女性の虐殺死体を見て、彼は、「日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない」と書いているのである。
 田辺禎之助の虐殺死体についての生々しい記述は、政府による事件調査の方法や内容に問題を感じさせる。「震災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書」の第4章「鮮人を殺傷したる事犯」第3「被害人員表」では、順良にして何等非行なき者の被害者は東京、横浜、千葉、浦和、前橋、宇都宮を合わせて233人であるというのである。吉野作造は、「朝鮮人虐殺事件」の中で、挑戦罹災同胞慰問班から得た情報として、大きく横浜方面、埼玉県方面、群馬県、千葉県、長野県、茨城県、栃木県、東京付近に分け、それを、さらに細かい地域に分けて記述し、合計2613人としている。そして、「此の調査は大正12年10月末日までのものあつて、其れ以後の分は含まれていないことを注意しなければならぬ」、と書いている。「独立新聞社金希山先生」宛ての特派調査員の詳細な報告には、6661人とある。(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」)
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                                  江東と異変

 2 関東大震災

 新巻の匂い

 物情騒然とは、あの時分のことをいうのだろう。どこそこでは何人殺された。誰それは朝鮮人と間違えられて半殺しの目にあった。山といわれたら、そくざに川といわないとやられる。そんな話ばかりだった。小名木川には、血だらけの死骸が、断末魔のもがきそのままの形で、腕を水のうえへ突きだしてながれていた。この死骸は引き潮で海まで行くと、また上げ潮でのぼってくると見えて、私は三度も見た。
 番小屋につめていたとき、隣の大島町の6丁目に、死体をたくさん並べてあるから見に行こうとさそわれた。そこで、夜があけ、役目がおわると、すぐに出掛けた。

 石炭殻で埋立てた4、5百坪の空地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と2つの頸動脈がしらじらと見えるのがあった。うしろから首筋を切られて、真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。首の落ちているのは一体だけだったが、無理にねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、円っこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、「こいつらは朝鮮じゃなくて、支那だよ」と、誰かが云っていた。
 ただひとつあわれだったのは、まだ若いらしい女が──女の死体はそれだけだったが──腹をさかれ、6、7ヶ月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中にころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあるのに気づいたとき、わたしは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、私はいいようのない怒りにかられた。日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない。

 石炭殻の空地のわきに、大島牧場とかいて、丸太のかこいのなかに雌牛が7、8頭いた。そこで、生牛乳を売っていた。東京が全滅して牛乳が出せないので、臨時に店売りをしていたらしい。こいつはありがたいというので、みんなではいっていった。1合2銭だった。上着のポケットをさぐると10銭玉がひとつあったので、私は5合たのんで、ぐいぐい飲んだ。徹夜の夜番のあとの冷たい牛乳は、まさに甘露の味だった。1週間にわたる栄養の不足も、これで取りかえせるかと思った。
 だが、いい気分になって外へ出た途端に、血の匂いがむっと鼻をついた。と同時に、5合の牛乳をガッと吐いてしまった。さっきは、飲まず食わずの夜警で、鼻の粘膜がからからにかわいていたので、血の匂いがわからなかったのだろう。それ牛乳でうるおしたので、敏感に感じとったにちがいない。惜しいことをした。
 

 その翌朝だった。私はやはり風呂屋につめていた。毎日、玄米の小さなおむすびと梅干だけだったので、腹がすききっていた。そこへ、明け方の4時頃だったろうか、脂っこい、新鮭をやくような匂いがながれこんできた。いままで、あんなにうまそうな匂いをかいだことがない。豊潤といおうか、濃厚といおうか。女の肌でいえば、きめのこまかい、小麦色の、ねっとりとした年増女の餅肌にたとえたいような匂いだった。それでいて、相当塩気がきいた感じで、その匂いだけで茶漬けがさらさらくえそうだった。私は思わず生唾をのんだ。腹がぐうぐう鳴った。だが、その音は私の腹だけから出たものではなかったらしい。
「うまそうな匂いだね」と、私は思わずいった。
「まったくだ。新巻の鮭だ!」
「誰がいまごろ焼いてやがるんだろう。いまいましい奴だ。押しかけていこうか」と、誰かが真剣な口調でいった。
 私たちはたまりかねて、みんな外へ出た。まるで九十九里浜へよせる高波のように、例の匂いがひたひたと町じゅうをつつんでいた。しかも、風呂屋のなかでかいだより数倍もつよく、むっと胸にこたえるような匂いだった。
「こりゃ、鮭じゃないぞ」と誰かがいった。「鮭にしちゃ匂いがつよすぎるし、一匹まるごと焼いたって、こんなに匂いがひろがるはずはない」
 私たちはしばらく棒立ちになって、いまは不気味な気持ちで、その匂いをかいでいた。
 1人が急に叫んだ。
「分かった! あの匂いだ!」
「何の匂いだ?」
「ほら、きのう見にいった、あの死骸をやいているんだ!」
 その途端に、私はむっとなにかが胸にこみあげてきて、腰の手拭で口をおさえながら、風呂屋のうしろへ駆けこんだ。 



 一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 


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